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7566
/* 第1期U4C委員選挙の投票について */ 新しい節
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{{井戸端}}
== ブロック依頼:[[User:P9iKC7B1SaKk]]氏 ==
[[Wikisource:削除依頼/アーカイブ/2023年#(*)「セルブ・クロアート・スロヴェーヌ」王国建国史_-_ノート]]、[[利用者・トーク:JOT_news#カテゴリへの追加について]]、[[#機械翻訳の濫用?]]などにおいて、針小棒大な発言を繰返し、コミュニティを疲弊させています。[[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk#言葉遣いについて]]において抑制をお願いしましたが、聞き入れないばかりか、[[#管理者権限の停止依頼]]を提出し、噛み合わない議論を続けるばかりです。コミュニケーションへの姿勢を改めていただければこの依頼は不要となりますが、他プロジェクトの文書ではありますが、[[w:Wikipedia:礼儀を忘れない]]などをご熟読いただき、お考えを改めていただくまで、1か月程度のブロックを提起します。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月11日 (土) 13:04 (UTC)
:{{コメント}} 私としては針小棒大ではなくむしろ意味のある書き込みをしているという自負があります。ましてや他人をからかったことなど一度もありません。改めるべきはどちらなのか、冷静になって考えていただければと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月11日 (土) 13:54 (UTC)
:[[:w:Wikipedia:礼儀を忘れない]]を確認させていただきました。Kzhrさんのこの投稿は'''深刻な事例'''に相当する「追放や投稿ブロックを不当に要求すること」に該当する可能性があります。追放や投稿ブロックは、私が提案しているKzhrさんへの管理者権限停止よりも明らかに重いものです。針小棒大な発言をしているのもKzhrさんのほうです。取り消し編集に「バンダリズム」とログ要約欄に書き込んだ件ではJOT Newsさんと編集合戦が起きたわけでもなく穏便に話し合いで解決しつつあったのです。トラブルの当事者でないKzhrさんが他人の感情を勝手に決めつけて私を批判し続けていることが問題の本質なのです。バンダリズムという単語にKzhrさんが強い拒否反応を示されているのはおかしいと思います。私を含め誰もが悪意なくバンダリズムをやってしまう恐れがあり、悪意の有無に関係なくバンダリズムをバンダリズムと冷静に指摘しつつ取り消し編集するのは正しいことです。さもなければバンダリズム編集がし放題になってしまいます。「バンダリズム」との指摘をログ要約欄に書き込まれただけで怒る短絡的な人こそ追放や投稿ブロックにふさわしいのではないでしょうか。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 05:11 (UTC)
::JOT Newsさんとの間だけのことのように議論をずらすのはやめていただけますか。また、百歩譲って穏便に解決したのだとしても、過剰に批判的な言辞をものしていいことにもなりませんし、また、バンダリズムの自己流解釈についても指摘を受け止められないという証拠を強化はしても、P9iKC7B1SaKkさんにとって有利になるとはとても思えません。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 14:09 (UTC)
:::{{コメント}} 「[[:w:Wikipedia:荒らし]]」によると、荒らしとは「百科事典の品質を故意に低下させようとするあらゆる編集のこと」でありつつも、「百科事典を改良しようとなされた善意の努力は、間違いや見当違いや不適切なものでも、荒らしとは捉えない」とあります。
:::「金融」と「革命」というかなり抽象的なカテゴリにお気に入りブックマークのように小説などの作品を追加していくのは、Kzhrさんには善意の努力に見えたのかもしれませんが、私には善意の努力には見えませんでした。よって、私はこれを荒らしと判断し、取り消し編集を行いました。あれこれと要約欄に書き込むのも不自然なので感情が入らないよう淡々とバンダリズムと書いたのは今でも最も適切な対応だったと思っています。実際、それを見たであろうJOT Newsさんから説明を求める問い合わせはありましたが、感情的で否定的な反応は来ていません。納得してくれたと思います。Kzhrさんが荒らしでないと思うのであれば、JOT Newsさんの「金融」と「革命」へのカテゴリへの作品追加を復元なさってください。復元しないのであればその理由を明確に説明してください。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 14:27 (UTC)
:::{{コメント}} 過剰に批判的な言辞かどうかの判断をKzhrさんの主観だけで決めようとするのは良くありません。JOT Newsさんによるカテゴリ追加が客観的に善意の編集であることをKzhrさんに説明して頂く必要があります。善意を説明できないなら荒らしということになります。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 14:48 (UTC)
:::{{コメント}} 一般論の「善意」ではわかりにくいでしょうから、法律用語としての「善意」、具体的には「ユーザーページのページを以外を私的な用途に使ってはいけない」という事実をJOT Newsさんが知らなかったかどうかを論点にして頂くと良いかと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 15:19 (UTC)
:::{{コメント}} 訂正します。「ユーザーページのページを以外を私的な用途に使ってはいけない」→「自分のユーザー名前空間以外のページを私的な用途に使ってはいけない」--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 15:23 (UTC)
:::{{コメント}} 改めて、整理しますと、JOT Newsさんが「ユーザーページ以外のページを私的な用途に使ってはいけない」という事実を知らなかったと証明された場合は「善意による編集」であって荒らしではないので私のバンダリズムとの記述は過剰に批判的な言辞である、ということになります。Kzhrさん、以上の点をふまえて、説明をお願いします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 15:34 (UTC)
:::{{コメント}} Kzhrさんは「JOT Newsさんによるカテゴリ追加はそもそも私的な用途ではなく公的な用途である」という論駁も可能です。その場合は、私的な用途ではないのですからJOT Newsさんによるカテゴリ追加を復元すべきと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 16:00 (UTC)
:{{コメント}} 相手と話し合うことなしに「ログ要約欄にバンダリズム(あるいはrvvも)を書き込んではいけない」という独自ルールを作って他人に押し付けようしているのが、客観的なKzhrさんの状態です。私がKzhrさんの管理者権限の停止を求めている一番の理由もここにあります。規則のどこを読んでもそのような解釈はできないので話がかみ合わないのです。私は、他のユーザーさんが荒らしと対話してから取り消し作業をするところをまだ一度も見たことがありません。Kzhrさんは経験があるでしょうから、その時のログを提示できるかと思います。ログのご提示をお願いいたします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 16:49 (UTC)
* {{賛成}} このセクションだけを見ても、数時間のうちに何度もコメントを残しておられますので、思いついた反駁を都度記載されているように見受けます。議論をするには、冷静に内容を読み直し、自身の意見をまとめる時間が必要かと思います。よってブロックに賛成票を投じます。期間については対処者に一任します。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 17:04 (UTC)
*:{{コ}}'''追記''' 会話を試みた結果、「[[w:ja:Wikipedia:児童・生徒の方々へ|Wikipedia:児童・生徒の方々へ]]」の対象者かもしれないと感じました。期間は一任の意見は変わりませんが、実年齢の推測が私には出来ないため、無期限にも反対しません。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月19日 (日) 07:26 (UTC)<small>linkを失敗していました。失礼しました。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 05:40 (UTC)</small>
:{{反対}} 連続投稿を不快に思われたかたがたに、お詫びします。以後連投しないよう気を付けます。ブロックは困るので自分自身への反対票を投じさせてください。もしブロックと決まった場合はどうか来週まで猶予期間を下さい。現在、わりと大物を作っている最中で今週中に入力完成の見込みです。それをまとめてWikisourceに書き込む時間とWikisourceでの実動作確認をして調節する時間をどうしても頂きたいのです。ご理解のほどお願いいたします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 17:36 (UTC)
::ご自身のブロック依頼へ票を投じることはできません([[w:Wikipedia:投稿ブロック依頼#依頼・コメント資格について]])。ルールを把握してください。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 11:48 (UTC)
* {{賛成}} しばらく被依頼者を様子見していましたが、初対面の人に対していきなり「バンダリズム」呼ばわり、バンダリズムと言ったことに説明を求められても具体的な回答は無し、言動を注意されても俺は悪くないの一点張りと呆れるばかりでした。様々な議論を引っ搔き回し他の利用者を振り回した挙句、自分が投稿ブロックされる可能性が出てくれば猶予をくれとは随分と虫が良すぎませんか。以上から被依頼者の投稿ブロックに賛成します。<del>期間は今のところは一任しますが、期間を定めないことも反対しません。</del>--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 12:17 (UTC) {{small|票を修正。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月17日 (金) 17:16 (UTC)}}
** {{コ}} 票を賛成(期間:一任)から賛成(期間:無期限)に変更します。[[特別:差分/213876|こちらの編集]]ですが、対立した方に対してああすればよかったなどと言うのは、正直反省してから出る言動とは思えません。諫められたのは単語の選び方だけでなく、無礼な態度・姿勢も含まれていることにまだ気付かないのでしょうか。一定期間が経過しても状況は変わらないと判断し、投稿ブロックの期間は定めない票に変更します。「私は今後、一切自治活動をしません」とのことですが、いわゆる管理系以外のページでも軋轢を生むことは目に見えていますから、あまり意味のない宣言だと私は思います。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月17日 (金) 17:16 (UTC)
*:{{コメント}} @[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]]さん、バンダリズムと言ったことへの具体的な回答は十分に行いました。ログをお読みになってください。初対面かどうかは関係ありません。年季が長かろうが荒らしは荒らしなのです。JOT Newsさんの編集が荒らしではないと思うのであれば、金融カテゴリへの作品追加を復元してさしあげてください。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 12:37 (UTC)
*:{{コメント}} 私が広義のバンダリズムと判断して取り消し処理で[[:カテゴリ:金融]]を除去した作品を以下に列挙します。
*:* [[R.U.R./第2幕]] ※ただしログにバンダリズムとの記載なし
*:* [[クルアーン/雌牛章]]
*:* [[魔術]]
*:* [[カシノの昂奮]]
*:* [[二十世紀の巴里/第十三章]]
*:* [[新聞評]]
*:* [[国際社会主義者評論 (1900-1918)/第1巻/第1号/イギリスと国際社会主義]]
*:* [[MIVILUDES2004年度報告書]]
*:* [[国際社会主義者評論 (1900-1918)/第1巻/第1号/金権政治か民主主義か? ]]
*:* [[ブラジルの金融情勢]]
*:JOT Newsさんによる上記作品の金融カテゴリ追加が荒らしでないと思う方は、JOT Newsさんの名誉のために上記作品を金融カテゴリに復元してあげてください。復元しない場合はしない理由を教えてください。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 12:49 (UTC)
*::バンダリズムではないなら復元すべきだというのは論理破綻です。一般的なバンダリズムの解釈には当たらないと言っているだけで、そのカテゴリが妥当かどうかについては述べていません。他の参加者を荒しだと呼ぶということは、共同作業の拒否を意味するわけで、だからこそ妥当ではないと考えたとしても敬意をもって接するよう努めてきたわけです。共同作業を大事にしないと仰るのであれば、いっしょにやっていくことは難しいので、それを改めていただきたいというのがこのブロック依頼の趣旨です。重要なコンテンツを投稿したいといったことは考慮に値しません。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 13:50 (UTC)
*:::{{コメント}} 返信ありがとうございます。「荒らし」や「バンダリズム」はあくまでも特定の行為でありその人の人格否定や侮辱を伴うものではないと思っていました。時にだれでもうっかりや出来心でやってしまうものだと思っていました。たとえ話で恐縮ですが、サッカーにハンドやオフサイドやファールというルール違反があります。あなたの今のプレイはファールだと指摘したからと言って敬意の欠如にならないのと同様に、バンダリズムとの指摘ももっと軽いものと思っていました。バンダリズムとは違う正しい名称があるのであれば以後はそれを使いますのでお教えください。あともう一点、「[[利用者・トーク:JOT_news#カテゴリへの追加について]]」でのJOT Newsさんに対する私の書き込みで敬意を欠いている部分についてご指摘ください。改善します。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 14:24 (UTC)
*:::{{コメント}} 連投になって申し訳ありません。私は相手の行いを事細かにあげつらって批判するのをさけるためのわざとふんわりしたあいまいな表現をしたくて「バンダリズム」や「他の人が迷惑です」と書き込んだつもりでした。英語の辞書の定義のままの行為としてのvandalismと思い込んでいました。「バンダリズム」や「他の人が迷惑です」がふさわしくないようですので、適切な表現をご教示ください。そのカテゴリが妥当でない理由を教えていただければ、以後その表現を使います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 15:16 (UTC)
*::{{コメント}} 今後は、身勝手な判断で自治行為まがいのことをしませんのでお許しください。落書きなどの明らかな荒らしではない編集への介入は一切しないようにします。私はウィキソースの文化をよくわかっていませんでした。反省しています。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 16:31 (UTC)
:{{提案}} 私なりに穏便な取り消しログ文言を考えてみました。「持続困難」です。判断基準があいまいなので他の人が作業を引き取れない、他の作品に同じことを適用する労力が大きすぎる、などの意味です。今どきよく聞く「持続可能」の反対である「持続不可能」だと強すぎるので、控え目に「持続困難」にしてあります。
:こんなことを提案してみましたが、私は今後、一切自治活動をしませんので、どうかご安心を。改めて謝罪いたします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月14日 (火) 02:58 (UTC)
:{{コメント}} 「持続困難」といったログ文面を提案するなどのことは、被依頼者が問題を十分に理解したとはあまり思えないのですが(適切な表現を教えてほしいとありますが、世の中のマナーの本・敬語の本など読まれればよいと思います)、さしあたって被依頼者が軋轢を生むような投稿を止めたため、この依頼の緊急性はひとまず失われたかに思われますので、依頼者としては取り下げてもよいかと思いますがいかがでしょうか。ただし、ご賛同の声も強かったことは銘記すべきで、被依頼者は今後原典の投稿に専念なさるべきことを強く申し添えたく思います。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 01:04 (UTC)
::{{返信}} 今後、コミュニティを消耗させることはないだろうという判断であれば、依頼の取り下げ、あるいは今回は対処せずの終了にも、異議を唱えるものではありません。ただ、今のところ賛成票の撤回をするには至っていないと、私は考えています。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 05:23 (UTC)
:: {{コメント}} 正直ウィキソース内での活動場所を少し狭めたのみで、被依頼者が問題を理解しているとは私も思えません。利用者ページで不穏なことを投稿しているところを見るに、利用者ページを介して問題を引き起こすことは目に見えています(そもそも利用者ページを日記のように使うのってどうなの?と思うのですが一旦置いておきます)。投稿ブロックの建前は「問題発生の予防」「被害発生の回避」な訳ですが、[[w:ja:Wikipedia:投稿ブロックの方針#コミュニティを消耗させる利用者|コニュニティを消耗させた]]実績がある以上は、投稿ブロックはそれら建前とも反しないと思います。依頼取り下げに反対するとまでは言いませんが、少なくとも私の賛成票は撤回せずそのままにしておきます。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 05:33 (UTC)
::{{コメント}}ご返信どうもありがとうございます。利用者ページのほう確認しましたが、ブロックをちら付かせているという繰返しの発言がありましたので、文書を読んであらたまる類いのものではないのだろうという結論に傾きつつあります。利用者ページであれば他者への自由な発言をしていいわけではありません。無期限のブロックもやむなしと考えますが、自身で提起したブロック依頼ですので、他の管理者の方にご結論をまとめていただきたいと思っています。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年12月1日 (金) 07:01 (UTC)
:管理者のかたにお願いです。攻撃的な言動で他者の書き込みに対する脅迫や言論統制を行おうとしているのはどちらなのか、公正な判断をお願いいたします。ウィキペディアの議論は発達障害などさまざまな障害を抱えた人でも平等に参加できる開かれた仕組みは大切だと思います。ですが、少人数による形ばかりの多数決が常に正しい結論を導き出せるとは限らないと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年12月23日 (土) 00:46 (UTC)
:私がウィキソースからいなくなるか、@[[利用者:Kzhr|Kzhr]]・@[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]]・@[[利用者:安東大將軍倭國王|安東大將軍倭國王]]・@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]の4人がウィキソースからいなくならない限り、この問題は解決しません。和解は不可能です。決断をお願いします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 07:31 (UTC)
:{{賛成}} (ただし期限付き)賛成されている方々のご意見は十分理解できます。私も何度か意見の衝突を経験しました。ただ、P9iKC7B1SaKkさんの[[User:P9iKC7B1SaKk|利用者ページ]]冒頭の投稿作品一覧からも分かる通り、フォーマットに関する意見の違いはあるものの、わずかの間に膨大な貢献をされました。この点を併せて考慮いただければ幸いです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年2月10日 (土) 06:23 (UTC)
::{{返信}} 無期限は「期限をさだめ無い」を意味するものだと考えます。被依頼者が自身の問題点を把握し、改善できるのならば、ブロック解除もできるでしょう。私見ながら、機械翻訳に関するものでもありますが、「わずかの間に膨大な貢献」をされるのは困ります。P9iKC7B1SaKk さんが[[利用者:P9iKC7B1SaKk|利用者ページ]]で仰ることに頷ける部分もありますが、「自分は校正をしたくないけれど、したい人がすればいい」ということでは、先が思いやられます。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月10日 (土) 08:59 (UTC)
** {{コ}}Wikisourceではメーリングリストが整備されていないことから無期限は事実上の永久になってしまう可能性があります。私自身はほぼ交渉がないためどのような活動をしていたかは把握しておりませんが、もしブロックとなる場合ですが、まずは期限を定めたブロックを行い、解除後問題が発生する場合、無期限を検討すべきと考えます。なおあくまでも立場としては中立ですが、無期限には反対よりです。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 01:02 (UTC)
*** {{コメント}} 今のところは会話ページを塞ぐことにはなっていませんので、投稿ブロック解除の申請は自身の会話ページで可能です(もっとも目的外な利用をすれば塞ぐことになりますが)。ブロック解除の方針は日本語版ウィキソースにはありませんが、[[w:ja:Wikipedia:投稿ブロック解除依頼作成の手引き|日本語版ウィキペディア]]に準拠する形になるでしょうか。この辺りは別トピックで議論が必要ですね。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 05:33 (UTC)
**:{{コ}} @[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さん、私を期限付きブロックしたとしても問題解決はしないので、多数決と集合知によって私を無期限ブロックすべきです。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 07:02 (UTC)
**:{{コ}}私が書き込んだ直後にIPユーザーが何かを書き込んだようですが、そのIPユーザーは私のなりすましではなく赤の他人です。私は無期限ブロックされてもIPユーザーや別アカウントで書き込んだりしないので、心配せず無期限ブロックしてください。最後にお願いです。特に@[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さんにお願いです。[[Wikisource:管理者権限依頼#利用者:Kzhr]]にも書き込みましたが、Kzhrさんに対する管理者権限除去依頼を削除せずそのまま維持してください。管理者ユーザーとしてのKzhrさんを見張り続けるために除去依頼の維持が必要です。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 07:34 (UTC)
**:{{コメント}} 私の読み違えでしたら申し訳ないのですが、P9iKC7B1SaKk さんが Hideokun さんに今求めているのは、<u>「[[ja:w:泣いて馬謖を斬る]]」</u>ことではないでしょうか。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 15:39 (UTC) <small>下線部を誤字修正+Link --[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 16:38 (UTC)</small>
**::成程、泣いて馬謖を斬る、か。つまりあんたらにとっては規律を守ることが最大限に大事なのね。そのために一日中このサイトを監視して、問題人物を見つけたらブロックだ方針だ、合意だコミュニティだ騒ぎ立てて、正義の味方の学級委員長をきどるわけだ。別に我々戦争しているわけでも、そんな大したプロジェクトに身を投じているわけでもないのにね。結局一番重要なのは、規律を盾に目を吊り上げて他人を糾弾する事なんだね。--[[特別:投稿記録/82.221.137.162|82.221.137.162]] 2024年2月11日 (日) 16:51 (UTC)
**::規律と多数決。確かに一見民主主義が施行されているようにも見える。--[[特別:投稿記録/82.221.137.162|82.221.137.162]] 2024年2月11日 (日) 16:58 (UTC)
:私は一か月ブロックされましたが、私がKzhrさんに対する管理者権限停止の要請を取り下げることもなく、機械翻訳ページ削除の仕組みもできあがらないままです。次はどうされますか。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月7日 (日) 12:06 (UTC)
{{Reply to|Sakoppi|Hideokun}} 依頼提出から1か月以上、最終コメントから20日が経過しました。これ以上はコメントや票が出ないかと思いますので、議論の終結をお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年12月21日 (木) 09:34 (UTC)
{{Reply to|Sakoppi|Hideokun}} すみません、私のコメントから1か月経過しましたのでもう一度通知いたします。こちらの議論の終結をお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年1月21日 (日) 11:13 (UTC)
:@[[利用者:Sakoppi|Sakoppi]]さん、@[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さん、 [[Wikisource:管理者権限依頼#除去依頼]]で提起したKzhrさんに対する管理者権限除去依頼についても、裁決をお願いいたします。一旦取り下げたのですが、Kzhrさんから攻撃的な書き込みがありましたので考え直して、除去依頼を再度提起させていただきました。また、@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]さんから未成年者と揶揄する侮辱やこのブロック依頼の話題が進行中であることに便乗した脅迫的な書き込みを受けているため、この議論を終わらせていただけますと、幸いです。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年1月21日 (日) 11:46 (UTC)
{{Reply to|Syunsyunminmin|Infinite0694}} グローバル管理者で日本語話者の方(Ja-N)にも通知いたします。こちらの議論の終結をお願いいたします。ご不明な点があればコメントをください。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 07:41 (UTC)
: {{コメント}} 勘違いされているようなので、すみませんが少しだけ。ウィキメディア財団の運営する各プロジェクトにおいて、障がいであることを理由に排除されることはありません(すべてのプロジェクトの方針を見た訳ではありませんが恐らくはそうでしょう)。が、それは投稿ブロックの方針に反しない限りでの話です。方針に反している状態であれば、障がいがあろうとなかろうと投稿ブロックがかかることになります。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 07:41 (UTC)
:: {{コメント}} 今回の件につきましてですが、過去にKzhr氏から「[https://ja.wikisource.org/w/index.php?title=Wikisource:%E4%BA%95%E6%88%B8%E7%AB%AF&diff=prev&oldid=150296 すくなくともHideokunさんみたいにプロジェクトの私物化はしてないですね。]」等の暴言をいただいており、また、作品を投稿せず管理行為のみを行っている行動に対して疑問を抱いております。そのため、私の活動頻度が著しく低下したわけで、私が関わるとプロジェクトの私物化ととられかねませんので申し訳ありませんが、対処いたしかねます。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 10:55 (UTC)
:::このリンク先をよく読んで、悪意のある切り取りでないと分らないひとはいないと思うのですね。コミュニティの合意形成を妨げて私意を優先したことを指して私物化と言っているわけで、確かに何もしなければ私物化にはなりませんが、それで管理者としての務めを果たせているのかよくお考えいただければと思います。管理行為のみを行うことが疑問だというのは、趣味の問題なので、コメントはしません。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 02:31 (UTC)
::::何を言われているのかよくわかりませんが、リンク先は色々と参照できるようにするために設定しております。切り取りではありません。よく考えてから物はいいましょう。また、私物化というレッテル張りはおやめください。ある一点だけを切り取り私物化しているというのは木を見て森を見ずという小さいところしか見れないあなたの見識の低さを顕著に示しています。また、そのようなレッテル張りに私は深く傷ついたのでWikipediaにありますが「個人攻撃はしない」を行っているということです。また、あなたの攻撃的な言動、つまりは高圧的に上から目線で何事にも対応するためにいろいろと軋轢を生んでいることはWikipediaの履歴も参照すればよくわかります。あなたこそ管理者としての務めを果たせているのでしょうか。また、管理行為を趣味の問題と申すのはよくわかりません。ようするに作品は投稿しないけど管理だけさせろということになり、草取りのような行為でさえほとんどされていないようです。つまりはWikisorceの充実には貢献しません、利用者の監視のみしますと宣言しているようなものです。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2024年2月4日 (日) 09:51 (UTC)
::::: {{Reply to|Kzhr|Hideokun}} お二方ともどうかご冷静に。こちらはP9iKC7B1SaKkさんの投稿ブロック依頼ですので、直接関係の無い話題は別のトピックでお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月4日 (日) 15:31 (UTC)
: グローバル管理者の建前上、ローカルの管理者ではない私が日本語版ウィキソース内部の問題に対して判定/裁定するのは躊躇います。コミュニティでの合意事項を明示して依頼してもらえると助かります。 [[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]] ([[利用者・トーク:Syunsyunminmin|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 13:02 (UTC)
:: @[[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]]さん、迅速な返信ありがとうございます。この投稿ブロック依頼では賛成票は入ってはいるものの、合意に至っているとは言い難い状態ですので、合意事項は現時点ではありません。ただ、素性を知らないはずの利用者に対して発達障害者と断定して発言する行為([[特別:差分/216045|こちら]]や[[特別:差分/216047|こちら]])があっても、暫定的に投稿ブロックをかけることは難しいのでしょうか。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 16:22 (UTC)
:: @[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さん、対処しない旨、承知いたしました。ただKzhrさんの管理系における行為については、こちらでは無関係ですので、ご意見があれば[[Wikisource:管理者権限依頼#利用者:Kzhr]]でお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 16:22 (UTC)
:: {{コメント}} 私は賛成票を投じているので中立的なコメントとは言えませんが、この議論を終わらせたいと思っているのは合意できる部分ではないでしょうか。また、多数決で決めることではないとはいえ、反対票が入っていないことは、依頼に対処することを妨げないものと思います。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 06:05 (UTC)
: 無期限票と一任票がそれぞれ一つですので、無期限としてラフコンセンサスが出来ていると判断します。あまりにも目に余るものがあれば前倒しにしますが、念のため1週間程の予告期間をおいて、皆様がよろしいのであれば無期限ブロックを実施します。 [[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]] ([[利用者・トーク:Syunsyunminmin|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 12:15 (UTC)
:: お手数をおかけします。Syunsyunminminさんの対処に賛成いたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月4日 (日) 09:48 (UTC)
:::思うんだけど、とりあえず困った人をブロックして解決しようとするより、もうちょっと話し合ったら? 自分が衆愚の多数派に属しているから自分、自分たちが圧倒的に正しいと思い込むのが、ウィキメディアの典型的な馬鹿の発想だね。ブロックは懲罰でないってどこかに書いてなかった? じゃあ何でブロックせよと言い出すの? ブロックして痛めつけて自分たちの都合のいい考えを持つようにしたいんでしょ? 馬鹿馬鹿しいせこい考えで生きてる奴だけで、ウィキメディアを構成したい訳かね?ラフコンセサスなんて馬鹿げた言葉が出ているけど、馬鹿のコンセサスなんてあまり意味ないだろ? 本当に目に余る愚行をしているのは誰か? 考え直してみな。--[[特別:投稿記録/169.61.84.132|169.61.84.132]] 2024年2月4日 (日) 20:39 (UTC)
::::この長い議論の末に突然現れて話し合ったらと言い出せるのには首をひねりますが、[[User:P9iKC7B1SaKk]]における罵詈雑言のかずかずを見て、議論の成立する余地があるとどこのだれが言えるのでしょうか。もうすこし常識的に考えていただければと思います。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 08:46 (UTC)
:::::長い議論の末に突然現れて話し合ったらと云いだせるのが、なぜおかしいのですか? 私の見るところあなた達は今までの十倍は話し合うべきですね。大体ウィキメディアは話し合いが少なすぎますよ。基本的に馬鹿な多数派が暴力で自分たちの欲望をごり押ししているだけ。P9さんの罵詈雑言と言うけど、私の見た限りでは、多少は暴論に近いけど、基本的には正しいこと言っている。むしろ鉄の時代とか、温故知新さんだってかなり酷いこと言っていると思うけど…。大体いい大人を捕まえて子ども扱い、犯罪者扱い、ダメ人間扱いするのは最大級の侮辱ですよ。それこそあなた達大好物の礼儀と善意、個人攻撃をしないに反する言及でしょう。まあ議論の成立する余地は確かに少ない。ただそれは、P9さんが悪いのではなく、あなた達が悪いんだよ。貴方達が愚か者過ぎるの。正しい事と正しい行為を知らないのでしょう。常識って何かね? あなたも仏教と親鸞に心を寄せるなら、そんなもの何の価値も無いって知っているはずでは?--[[特別:投稿記録/169.61.84.147|169.61.84.147]] 2024年2月5日 (月) 09:23 (UTC)
::::::オープンプロクシからの議論参加は正規の手段ではありませんのでこれ以上止まないようであればブロックの対象となり得ます。ご注意ください。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 10:26 (UTC)
:::::::何だ、結局話し合いする気ゼロか。ブロックしたいならいつでもどこでも好きなだけしろよ。ただし俺はそこそこ別のIP 用意できるぜ。ただまあやっぱり関わらない方が良かったね。あんたらみたいな馬鹿見るとついつい文句言いたくなるんだが、やはり書かないのが正解だったようだね。卑怯者につける薬無し。木枯し紋次郎は、「あっしには関りのねえことでござんす」と云いつつ、あんたみたいな悪党を見るとついつい、立場の弱い人に助太刀しちゃうんだ。で、その結果ボロボロにやられるんだけどね(^^;;;)。合意、コミュニティ、コミュニティに疲弊をもたらす、お前は子供、しでかしたな、目に余る問題行為、問題利用者は監視しましょう、全て衆愚のファシストに都合のいい、言葉尻の欺瞞だね。(by--169.61.84.1**)--[[特別:投稿記録/158.85.23.146|158.85.23.146]] 2024年2月5日 (月) 10:43 (UTC)
:::::{{コメント}} 機械翻訳の件でもそうですが、品質が低いからという理由だけでページを削除する仕組みを作ろうとするのは入力担当者に対して失礼です。入力担当者の労力に対してもっと敬意を払ってください。気に入らない作品を削除する口実を無理に探す短絡性が、そのまま私をブロックする口実を無理に探す短絡性につながっています。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 09:24 (UTC)
: {{コメント}} オープンプロクシのIP利用者は[[w:ja:Wikipedia:進行中の荒らし行為#Honooo|この方かその模倣]]ですので無視してください。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 12:08 (UTC) {{small|修正。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 12:09 (UTC)}}
::Wikimedia 用語辞典。方針=気に入らない奴をブロック、追放していい理由。合意=多数決。コミュニティ=衆愚の多数派。管理者=いざという時に衆愚の友達の為に暴力を振るってくれる、権力者。スチュワード=衆愚の暴力者の親玉、衆愚の言う事は全て聞いてくれる。--[[特別:投稿記録/82.221.137.167|82.221.137.167]] 2024年2月11日 (日) 18:25 (UTC)
:::議論=自分たちの欲望を満たすための謀議、水戸黄門の越後屋と悪代官のようなものか?(^^;;)。--[[特別:投稿記録/82.221.137.178|82.221.137.178]] 2024年2月11日 (日) 19:31 (UTC)
::うーん、俺も最初はウィキメディアの管理者とかスチュワードは人格者で、常に大岡越前のような公平公正な判断、取り扱いをすると思っていたんだ。しかし実際には違った。常に衆愚の友達の為によきに計らって、権威的な言説をしつつ暴力と権力を振るうだけだったんだよね。そろそろこのサイトも終焉が近いのではないかね。終焉してリードオンリーにした方がいいと思うな。知識と知恵と情報のためには、新たな形態のサイトが必要だと思う。終焉しないにしても、何らかの改革と改善は必要だろう。--[[特別:投稿記録/82.221.137.186|82.221.137.186]] 2024年2月11日 (日) 20:28 (UTC)
* {{コメント}} IPの方は Honooo さんですよね? 改革と改善は必要だとしても、個々のコミュニティが単独でできることではないので、この依頼の議論では控えて下さると幸いです。また、このままではこの議論を終了することが出来ず、管理者の方も対処を躊躇うばかりかと思います。期限付きを考える方は、期間の提示をしてくださる方が裁定しやすいものと考えます。私の意見は、ブロックに{{賛成}}期間は対処者に一任(無期限にも反対しない)に変更ありません。被依頼者には、コミュニティを疲弊させない姿勢で帰ってきていただければと思います。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 23:32 (UTC)
*:いやー、確かに私がHonooo です(^^;;)。確かに私はここで余計な口出さない方がいいようですね。色々鬱屈が溜まっていた時にここのサイトを見て、この議論を見て、納得いかない言説と展開があったのでついつい口出ししてしまいましたが、もともと私が深く関わっていたプロジェクトでもないですし、口出しする権利はあまりないようです。只一点だけ、コミュニティを疲弊させるという表現は、欺瞞が多いと思います。多数決の多数派がそう主張しますが、こんな事態になったら誰しも疲弊するんでね。コミュニティってお前らのこと?、俺は含まれていないの?、なんて疑問を持つこともあると思います。そもそも多少の疲弊はするべきだろう。コミュニケーションなんて疲弊するものだし、疲弊してこそのコミュニティであり、議論であり、話し合いじゃあない?都合のいい時に疲弊と云い、都合のいい時に共同作業と云い、都合のいい時に負担という。やはりこのサイトには根源的な欺瞞がはびこっていると思う。--[[特別:投稿記録/82.221.137.187|82.221.137.187]] 2024年2月12日 (月) 00:53 (UTC)
*:{{返信}} ご提案ありがとうございます。冷却期間が必要かと思うのですが、当初のご提案通り1か月とさせていただければ幸いです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年2月12日 (月) 04:33 (UTC)
@[[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]]さん、予告より1週間以上経ちましたが、対処はされないのでしょうか。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月22日 (木) 15:53 (UTC)
: 予告後に[[#c-CES1596-20240210062300-Kzhr-20231111130400|期限付き票]]と[[#c-Hideokun-20240211010200-CES1596-20240210062300|無期限に反対の意見]]が入ったため様子を見ていました。無期限・1ヶ月・一任がそれぞれ1票ずつであり、この状態で無期限ブロックするのは難しいです。そのため今回は1ヶ月のブロックとして対処します。必要に応じて延長/再ブロック依頼をお願いします。 [[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]] ([[利用者・トーク:Syunsyunminmin|トーク]]) 2024年2月23日 (金) 12:04 (UTC)
:: {{コメント}} ありがとうございます。お手数をおかけしました。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月23日 (金) 14:30 (UTC)
== リネーム依頼 ==
新しくindexのページを作った際に、File:の接頭辞を削除するのを忘れてしまい[[Index:File:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvu]]を誤って作成してしまいました。つきましては、管理者権限をお持ちの方、Index:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvuへリネームしていただきたく。--[[利用者:HinokisOfRoma|HinokisOfRoma]] ([[利用者・トーク:HinokisOfRoma|トーク]]) 2024年1月3日 (水) 05:06 (UTC)
: {{コメント}} 私は管理者ではありませんが、移動(改名)は一般利用者でも対処可能でしたので、[[Index:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvu]]に移動しました。移動元の[[Index:File:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvu]]は{{tl|即時削除}}の貼り付けがエラーで出来なかったので、[[Wikisource:管理者伝言板]]にて管理者にお知らせしています。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年1月3日 (水) 06:28 (UTC)
::ありがとうございました。--[[利用者:HinokisOfRoma|HinokisOfRoma]] ([[利用者・トーク:HinokisOfRoma|トーク]]) 2024年1月5日 (金) 14:04 (UTC)
== Do you use Wikidata in Wikimedia sibling projects? Tell us about your experiences ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
''Note: Apologies for cross-posting and sending in English.''
Hello, the '''[[m:WD4WMP|Wikidata for Wikimedia Projects]]''' team at Wikimedia Deutschland would like to hear about your experiences using Wikidata in the sibling projects. If you are interested in sharing your opinion and insights, please consider signing up for an interview with us in this '''[https://wikimedia.sslsurvey.de/Wikidata-for-Wikimedia-Interviews Registration form]'''.<br>
''Currently, we are only able to conduct interviews in English.''
The front page of the form has more details about what the conversation will be like, including how we would '''compensate''' you for your time.
For more information, visit our ''[[m:WD4WMP/AddIssue|project issue page]]'' where you can also share your experiences in written form, without an interview.<br>We look forward to speaking with you, [[m:User:Danny Benjafield (WMDE)|Danny Benjafield (WMDE)]] ([[m:User talk:Danny Benjafield (WMDE)|talk]]) 08:53, 5 January 2024 (UTC)
</div>
<!-- User:Danny Benjafield (WMDE)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Global_message_delivery/Targets/WD4WMP/ScreenerInvite&oldid=26027495 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Reusing references: Can we look over your shoulder? ==
''Apologies for writing in English.''
The Technical Wishes team at Wikimedia Deutschland is planning to [[m:WMDE Technical Wishes/Reusing references|make reusing references easier]]. For our research, we are looking for wiki contributors willing to show us how they are interacting with references.
* The format will be a 1-hour video call, where you would share your screen. [https://wikimedia.sslsurvey.de/User-research-into-Reusing-References-Sign-up-Form-2024/en/ More information here].
* Interviews can be conducted in English, German or Dutch.
* [[mw:WMDE_Engineering/Participate_in_UX_Activities#Compensation|Compensation is available]].
* Sessions will be held in January and February.
* [https://wikimedia.sslsurvey.de/User-research-into-Reusing-References-Sign-up-Form-2024/en/ Sign up here if you are interested.]
* Please note that we probably won’t be able to have sessions with everyone who is interested. Our UX researcher will try to create a good balance of wiki contributors, e.g. in terms of wiki experience, tech experience, editing preferences, gender, disability and more. If you’re a fit, she will reach out to you to schedule an appointment.
We’re looking forward to seeing you, [[m:User:Thereza Mengs (WMDE)| Thereza Mengs (WMDE)]]
<!-- User:Thereza Mengs (WMDE)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=WMDE_Technical_Wishes/Technical_Wishes_News_list_all_village_pumps&oldid=25956752 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Invitation to join January Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We are the hosting this month’s [[:m:Wikisource Community meetings|Wikisource Community meeting]] on '''27 January 2024, 3 PM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1706367600 check your local time]).
As we gear up for our upcoming Wikisource Community meeting, we are excited to share some additional information with you.
The meetings will now be held on the last Saturday of each month. We understand the importance of accommodating different time zones, so to better cater to our global community, we've decided to alternate meeting times. The meeting will take place at 3 pm UTC this month, and next month it will be scheduled for 7 am UTC on the last Saturday. This rotation will continue, allowing for a balanced representation of different time zones.
As always, the meeting agenda will be divided into two halves. The first half of the meeting will focus on non-technical updates, including discussions about events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. The second half will delve into technical updates and conversations, addressing major challenges faced by Wikisource communities, similar to our previous Community meetings.
If you are interested in joining the meeting, kindly leave a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org''' and we will add you to the calendar invite.
Meanwhile, feel free to check out [[:m:Wikisource Community meetings|the page on Meta-wiki]] and suggest any other topics for the agenda.
Regards
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<small> Sent using [[利用者:MediaWiki message delivery|MediaWiki message delivery]] ([[利用者・トーク:MediaWiki message delivery|トーク]]) 2024年1月18日 (木) 10:54 (UTC)</small>
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ユニバーサル行動規範調整委員会の憲章の批准投票 ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting opens|当お知らせの多言語版はメタウィキをご参照ください。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting opens}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは
本日はお知らせがあり、お邪魔しました。実は[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee|ユニバーサル行動規範調整委員会]](U4C)の憲章<sup>※1</sup>の批准投票を受付中です。期限は'''2024年2月2日'''ですので、コミュニティの皆さんには[[m:Special:MyLanguage/Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Charter/Voter_information|投票と憲章に関するコメント投稿をセキュアポル(SecurePoll)]]経由でお願いします。すでにこの[[foundation:Special:MyLanguage/Policy:Universal_Code_of_Conduct/Enforcement_guidelines|行動規範施行ガイドライン]]<sup>※2</sup>の策定段階でご意見を寄せてくださった皆さんには、ほぼ同じ手順です。(※:1=U4C、Universal Code of Conduct Coordinating Committee。2=UCoC Enforcement Guidelines。)
[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|ユニバーサル行動規範調整委員会による現在の版]]をメタウィキに公開してありますので、翻訳版をご覧いただけます。
まず憲章をご一読いただき、賛否の投票をしてから、この文面を皆さんのコミュニティで共有いただけましたら誠に幸いです。U4C設立委員会としましては、皆さんの投票ご参加を心から願っています。
UCoC プロジェクトチーム代表<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年1月19日 (金) 18:09 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=25853527 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Wikimedians of Japan User Group 2024-01 ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
*'''全体ニュース'''
**
*'''「Wikimedians of Japan User Group」 からのお知らせ'''
**Wikimedians of Japan User Groupは、昨年2023年10月から11月にかけてJawpログインユーザーの皆様を対象にアンケートを行いました。1月に、結果報告を[https://diff.wikimedia.org/ja/ ウィキメディア財団公式ブログDiff]に掲載していただきました。調査に協力してくださった皆様に深く感謝いたします。
***[https://diff.wikimedia.org/ja/2024/01/10/%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%82%ad%e3%83%9a%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2%e7%b7%a8%e9%9b%86%e8%80%85%e3%81%ae%e3%83%a2%e3%83%81%e3%83%99%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%81%a8%e4%b8%8d%e6%ba%80%e3%80%80/ ウィキペディア編集者のモチベーションと不満 前半]
*** [https://diff.wikimedia.org/ja/2024/01/10/%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%82%ad%e3%83%9a%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2%e7%b7%a8%e9%9b%86%e8%80%85%e3%81%ae%e3%83%a2%e3%83%81%e3%83%99%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%81%a8%e4%b8%8d%e6%ba%80%e3%80%80-2/ ウィキペディア編集者のモチベーションと不満 後半]
<div style="-moz-column-count:2; -webkit-column-count:2; column-count:2; -webkit-column-width: 400px; -moz-column-width: 400px; column-width: 400px;">
'''[[ja:メインページ|日本語版ウィキペディア]]'''
*ニュース
**
*[[:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考|秀逸な記事の選考]]
**現在選考中の記事はありません。
*[[:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考|良質な記事の選考]]
**[[:w:ja:鰊場作業唄|鰊場作業唄]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/鰊場作業唄 20231220|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:間人ガニ|間人ガニ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/間人ガニ 20231223|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:パンロン会議|パンロン会議]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/パンロン会議 20231223|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:PlayStation 5のゲームタイトル一覧 (2020年-2021年)|PlayStation 5のゲームタイトル一覧 (2020年-2021年)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/PlayStation 5のゲームタイトル一覧 (2020年-2021年) 20231225|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:満奇洞|満奇洞]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/満奇洞 20231230|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:くど造|くど造]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/くど造 20231230|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:心停止|心停止]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/心停止 20231229|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:新潟電力|新潟電力]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/新潟電力 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:新潟電気|新潟電気]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/新潟電気 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:家屋文鏡|家屋文鏡]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/家屋文鏡 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:カラブリュエの戦い|カラブリュエの戦い]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/カラブリュエの戦い 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:さんかく座|さんかく座]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/さんかく座 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:マダガスカルにおける蚕|マダガスカルにおける蚕]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/マダガスカルにおける蚕 20240115|選考中]](2024年1月29日 (月) 03:11 (UTC)まで)
**[[:w:ja:大塚陽子|大塚陽子]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/大塚陽子 20240121|選考中]](2024年2月4日 (日) 08:52 (UTC)まで)
**[[:w:ja:全身麻酔の歴史|全身麻酔の歴史]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/全身麻酔の歴史 20240111|選考中]](2024年2月7日 (水) 16:27 (UTC)まで)
**[[:w:ja:狩野派|狩野派]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/狩野派 20240111|選考中]](2024年2月8日 (木) 00:08 (UTC)まで)
*[[:ja:Wikipedia:月間新記事賞|月間新記事賞]]
**[[:w:ja:新潟電力|新潟電力]]
**[[:w:ja:新潟電気|新潟電気]]
**[[:w:ja:家屋文鏡|家屋文鏡]]
**[[:w:ja:全身麻酔の歴史|全身麻酔の歴史]]
**[[:w:ja:カラブリュエの戦い|カラブリュエの戦い]]
*[[:ja:Wikipedia:珍項目/選考|珍項目の選考]]
**[[:w:ja:シャグマアミガサタケ|シャグマアミガサタケ]]
*[[:ja:Wikipedia:秀逸な一覧の選考|秀逸な一覧の選考]]
**現在選考中の記事はありません。
'''[[voy:ja:メインページ|日本語版ウィキボヤージュ]]'''
* [[voy:ja:Wikivoyage:国執筆コンテスト|国執筆コンテスト]]
**国執筆コンテストが開催中です。奮ってご参加ください!
'''[[m:Main_Page/ja|メタウィキ]]'''
* 日本語話者向けニュース
** メタウィキでは翻訳者を常時募集しています。気になる方は[[m:Meta:Babylon/ja|翻訳ポータル]]をご確認下さい。
</div>
<hr />
*'''前回配信:2023年12月31日'''
</div>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
配信元: '''[[m:Wikimedians of Japan User Group|Wikimedians of Japan User Group]]''' <br />
<small>[[m:Talk:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン|フィードバック]]。[[m:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン/targets list|購読登録・削除]]。</small>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
<!-- User:Sai10ukazuki@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedians_of_Japan_User_Group/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3/targets_list&oldid=25924865 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== あと数日で憲章の批准投票と、ユニバーサル行動規範調整委員の投票が終了 ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting reminder|当お知らせの多言語版はメタウィキをご参照ください。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting reminder}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは
本日はお知らせがあり、お邪魔しました。実は[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee|ユニバーサル行動規範調整委員会]](U4C)<sup>※1</sup>の投票受付が間もなく'''2024年2月2日'''に終わります。コミュニティの皆さんには[[m:Special:MyLanguage/Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Charter/Voter_information|セキュアポル(SecurePoll)にて憲章への投票とご意見の投稿をご検討ください]]。すでにこの[[foundation:Special:MyLanguage/Policy:Universal_Code_of_Conduct/Enforcement_guidelines|行動規範施行ガイドライン]]<sup>※2</sup>の策定段階でご意見を寄せてくださった皆さんには、ほぼ同じ手順です。(※:1=U4C、Universal Code of Conduct Coordinating Committee。2=UCoC Enforcement Guidelines。)
[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|ユニバーサル行動規範調整委員会による現在の版]]をメタウィキに公開してありますので、翻訳版をご覧いただけます。
まず憲章をご一読いただき、賛否の投票をしてから、この文面を皆さんのコミュニティで共有いただけましたら誠に幸いです。U4C設立委員会としましては、皆さんの投票ご参加を心からお待ちしております。
UCoC プロジェクトチーム一同になり代わり、よろしくお願いいたします。<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年1月31日 (水) 17:01 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=25853527 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== UCoC 調整委員会憲章について批准投票結果のお知らせ ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - results|このメッセージはメタウィキ(Meta-wiki)で他の言語に翻訳されています。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - results}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは。
ユニバーサル行動規範<!-- UCoC -->に関して、引き続き読んでくださりありがとうございます。本日は、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|ユニバーサル行動規範調整委員会の憲章]]<!-- UCoC 調整委員会の憲章 / U4Cの憲章 -->に関する[[m:Special:MyLanguage/Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Charter/Voter_information|批准投票]]の結果についてお知らせします。この批准投票では投票者総数は 1746 名、賛成 1249 票に対して反対 420 票でした。この批准投票では投票者の皆さんから、憲章<sup>※</sup>についてコメントを寄せてもらえるようにしました。("※"=Charter)
投票者のコメントのまとめと票の分析はメタウィキに数週間ほどで公表の予定です。
次の段階についても近々お知らせしますのでお待ちくだされば幸いです。
UCoC プロジェクトチーム一同になり代わり、よろしくお願いいたします。<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年2月12日 (月) 18:24 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26160150 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Invitation to join February Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We are the hosting this month’s [[:m:Wikisource Community meetings|Wikisource Community meeting]] on '''24 February 2024, 7 AM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1708758000 check your local time]).
The meeting agenda will be divided into two halves. The first half of the meeting will focus on non-technical updates, including discussions about events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. The second half will delve into technical updates and conversations, addressing major challenges faced by Wikisource communities, similar to our previous Community meetings.
If you are interested in joining the meeting, kindly leave a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org''' and we will add you to the calendar invite.
Meanwhile, feel free to check out [[:m:Wikisource Community meetings|the page on Meta-wiki]] and suggest any other topics for the agenda.
Regards
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<small> Sent using [[利用者:MediaWiki message delivery|MediaWiki message delivery]] ([[利用者・トーク:MediaWiki message delivery|トーク]]) 2024年2月20日 (火) 11:11 (UTC)</small>
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Wikimedians of Japan User Group 2024-02 ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
*'''全体ニュース'''
**
*'''「Wikimedians of Japan User Group」 からのお知らせ'''
<div style="-moz-column-count:2; -webkit-column-count:2; column-count:2; -webkit-column-width: 400px; -moz-column-width: 400px; column-width: 400px;">
'''[[:w:ja:メインページ|日本語版ウィキペディア]]'''
*ニュース
**
*[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考|秀逸な記事の選考]]
**[[:w:ja:アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)|アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)]]が[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考/アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵) 20240127|選考中]](2024年4月27日 (土) 14:49 (JST)まで)
*[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考|良質な記事の選考]]
**[[:w:ja:ウチキパン|ウチキパン]]が[[Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ウチキパン 20240129|選考]]を通過
**[[:w:ja:広島県産業奨励館|広島県産業奨励館]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/広島県産業奨励館 20240129|選考]]を通過
**[[:w:ja:ナムコ|ナムコ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ナムコ 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:鵲尾形柄香炉 (国宝)|鵲尾形柄香炉 (国宝)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/鵲尾形柄香炉 (国宝) 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:廻廊にて|廻廊にて]]を[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/廻廊にて 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:球果|球果]]を[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/球果 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:鮭 (高橋由一)|鮭 (高橋由一)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/鮭 (高橋由一) 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:外郎売|外郎売]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/外郎売 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:北斎漫画|北斎漫画]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/北斎漫画_20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:清水澄子 (さゝやき)|清水澄子 (さゝやき)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/清水澄子 (さゝやき)_20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:大阪南港事件|大阪南港事件]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/大阪南港事件 20240216|選考]]を通過
**[[:w:ja:PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2016年)|PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2016年)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2016年) 20240204|選考]]を通過
**[[:w:ja:プライス山 (ブリティッシュコロンビア州)|プライス山 (ブリティッシュコロンビア州)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/プライス山 (ブリティッシュコロンビア州) 20240215|選考]]を通過
**[[:w:ja:バブルネット・フィーディング|バブルネット・フィーディング]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/バブルネット・フィーディング 20240219|選考]]を通過
**[[:w:ja:スギ|スギ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/スギ 20240219|選考]]を通過
**[[:w:ja:ウィッチャー3_ワイルドハント|ウィッチャー3_ワイルドハント]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ウィッチャー3_ワイルドハント_20240224|選考中]](2024年3月9日 (土) 15:24 (UTC)まで)
**[[:w:ja:舟橋蒔絵硯箱|舟橋蒔絵硯箱]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/舟橋蒔絵硯箱 20240226|選考中]](2024年3月11日 (月) 02:58 (UTC)まで)
**[[:w:ja:羽田孜|羽田孜]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/羽田孜 20240226|選考中]](2024年3月11日 (月) 12:26 (UTC)まで)
*[[:w:ja:Wikipedia:月間新記事賞|月間新記事賞]]
**[[:w:ja:鵲尾形柄香炉 (国宝)|鵲尾形柄香炉 (国宝)]]
**[[:w:ja:ナムコ|ナムコ]]
**[[:w:ja:廻廊にて|廻廊にて]]
**[[:w:ja:球果|球果]]
**[[:w:ja:鮭 (高橋由一)|鮭 (高橋由一)]]
*[[:w:ja:Wikipedia:珍項目/選考|珍項目の選考]]
**現在選考中の項目はありません。
*[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な一覧の選考|秀逸な一覧の選考]]
**現在選考中の記事はありません。
'''[[:m:Main_Page/ja|メタウィキ]]'''
* 日本語話者向けニュース
** メタウィキでは翻訳者を常時募集しています。気になる方は[[:m:Meta:Babylon/ja|翻訳ポータル]]をご確認下さい。
</div>
<hr />
*'''前回配信:2024年1月26日'''
</div>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
配信元: '''[[:m:Wikimedians of Japan User Group|Wikimedians of Japan User Group]]''' <br />
<small>[[:m:Talk:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン|フィードバック]]。[[:m:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン/targets list|購読登録・削除]]。</small>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
<!-- User:Chqaz@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedians_of_Japan_User_Group/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3/targets_list&oldid=26262302 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== U4C 憲章の批准投票の結果報告、U4C 委員候補募集のお知らせ ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – call for candidates| このメッセージはMeta-wikiで他の言語に翻訳されています。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – call for candidates}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
各位
本日は重要な情報2件に関して、お伝えしたいと思います。第一に、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Vote results|ユニバーサル行動規範調整委員会憲章(U4C)の批准投票に添えられたコメント]]は、集計結果がまとまりました。第二に、U4C の委員立候補の受付が始まり、〆切は2024年4月1日です。
[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee|ユニバーサル行動規範調整委員会]](U4C)<sup>※</sup>とはグローバルな専門グループとして、UCoC が公平かつ一貫して実施されるように図ります。広くコミュニティ参加者の皆さんに、U4C への自薦を呼び掛けています。詳細と U4C の責務は、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|U4C 憲章を通読してください]]。(※=Universal Code of Conduct Coordinating Committee。)
憲章に準拠し、U4Cの定員は16名です。内訳はコミュニティ全般の代表8席、地域代表8席であり、ウィキメディア運動の多様性を反映するよう配慮してあります。
詳細の確認、立候補の届けは[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024|メタウィキ]]でお願いします。
UCoC プロジェクトチーム一同代表<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年3月5日 (火) 16:25 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26276337 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ウィキメディア財団理事会の2024年改選 ==
<section begin="announcement-content" />
: ''[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024/Announcement/Selection announcement| このメッセージの多言語版翻訳は、メタウィキで閲覧してください。]]''
: ''<div class="plainlinks">[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024/Announcement/Selection announcement|{{int:interlanguage-link-mul}}]] • [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:Wikimedia Foundation elections/2024/Announcement/Selection announcement}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]</div>''
各位
本年は、ウィキメディア財団理事会において任期満了を迎える理事はコミュニティ代表と提携団体代表の合計4名です[1]。理事会よりウィキメディア運動全域を招集し、当年の改選手続きに参加して投票されるようお願いします。
[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections committee|選挙管理委員会]]はこの手順を監督するにあたり、財団職員の補佐を受けます[2]。理事会組織統治委員会<sup>※1</sup>は2024改選の立候補資格のないコミュニティ代表と提携団体代表の理事から理事改選作業グループ<sup>※2</sup>を指名し、すなわち、Dariusz Jemielniak、Nataliia Tymkiv、Esra'a Al Shafei、Kathy Collins、Shani Evenstein Sigalov の皆さんです[3]。当グループに委任される役割とは、2024年理事改選の手順において理事会の監督、同会に継続して情報を提供することです。選挙管理委員会、理事会、財団職員の役割の詳細は、こちらをご一読願います[4]。(※:1=The Board Governance Committee。2=Board Selection Working Group。)
以下に節目となる日付を示します。
* 2024年5月:立候補受付と候補者に聞きたい質問の募集
* 2024年6月:提携団体の担当者は候補者12名の名簿を作成(立候補者が15名以下の場合は行わない)[5]
* 2024年6月-8月:選挙活動の期間
* 2024年8月末/9月初旬:コミュニティの投票期間は2週間
* 2024年10月–11月:候補者名簿の 身元調査
* 2024年12月の理事会ミーティング:新しい理事が着任
2024改選の手順の段取りを見てみましょう - 詳しい日程表、立候補の手順、選挙運動のルール、有権者の要件 - これらは[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024|メタウィキのこちらのページ]]を参照してご自分のプランを立ててください。
'''選挙ボランティア'''
この2024理事改選に関与するもう一つの方法とは、'''選挙ボランティア'''をすることです。選挙ボランティアとは、選挙管理委員会とその対応するコミュニティを結ぶ橋渡しをします。自分のコミュニティが代表権(訳注:間接民主制)を駆使するように、コミュニティを投票に向かわせる存在です。当プログラムとその一員になる方法の詳細は、この[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024/Election Volunteers|メタウィキのページ]]をご一読ください。
草々
[[m:Special:MyLanguage/User:Pundit|Dariusz Jemielniak]](組織統治委員長、理事会改選作業グループ)
[1] https://meta.wikimedia.org/wiki/Special:MyLanguage/Wikimedia_Foundation_elections/2021/Results#Elected
[2] https://foundation.wikimedia.org/wiki/Committee:Elections_Committee_Charter
[3] https://foundation.wikimedia.org/wiki/Minutes:2023-08-15#Governance_Committee
[4] https://meta.wikimedia.org/wiki/Wikimedia_Foundation_elections_committee/Roles
[5] 改選議席4席に対する候補者数の理想は12名ですが、候補者が15名を超えると最終候補者名簿づくりが自動処理で始まり、これは提携団体の担当者に選外の候補者を決めてもらうと、漏れた1-3人の候補者に疎外されたと感じさせるかもしれず、担当者に過重な負担を押し付けないように人力で最終候補者名簿を組まないようにしてあります。<section end="announcement-content" />
[[User:MPossoupe_(WMF)|MPossoupe_(WMF)]]2024年3月12日 (火) 19:57 (UTC)
<!-- User:MPossoupe (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26349432 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ご利用のウィキは間もなく読み取り専用に切り替わります ==
<section begin="server-switch"/><div class="plainlinks">
[[:m:Special:MyLanguage/Tech/Server switch|他の言語で読む]] • [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-Tech%2FServer+switch&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]
<span class="mw-translate-fuzzy">[[foundation:|ウィキメディア財団]]ではメインと予備のデータセンターの切り替えテストを行います。</span> 災害が起こった場合でも、ウィキペディアとその他のウィキメディア・ウィキが確実にオンラインとなるようにするための措置です。
全トラフィックの切り替えは'''{{#time:n月j日|2024-03-20|ja}}'''に行います。 テストは '''[https://zonestamp.toolforge.org/{{#time:U|2024-03-20T14:00|en}} {{#time:H:i e|2024-03-20T14:00}}]''' に開始されます。
残念ながら [[mw:Special:MyLanguage/Manual:What is MediaWiki?|MediaWiki]] の技術的制約により、切り替え作業中はすべての編集を停止する必要があります。 ご不便をおかけすることをお詫びするとともに、将来的にはそれが最小限にとどめられるよう努めます。
'''閲覧は可能ですが、すべてのウィキにおいて編集ができないタイミングが短時間あります。'''
*{{#time:Y年n月j日(l)|2024-03-20|ja}}には、最大1時間ほど編集できない時間が発生します。
*この間に編集や保存を行おうとした場合、エラーメッセージが表示されます。 その間に行われた編集が失われないようには努めますが、保証することはできません。 エラーメッセージが表示された場合、通常状態に復帰するまでお待ちください。 その後、編集の保存が可能となっているはずです。 しかし念のため、保存ボタンを押す前に、行った変更のコピーをとっておくことをお勧めします。
''その他の影響'':
*バックグラウンドジョブが遅くなり、場合によっては失われることもあります。 赤リンクの更新が通常時よりも遅くなる場合があります。 特に他のページからリンクされているページを作成した場合、そのページは通常よりも「赤リンク」状態が長くなる場合があります。 長時間にわたって実行されるスクリプトは、停止しなければなりません。
* コードの実装は通常の週と同様に行う見込みです。 しかしながら、作業上の必要性に合わせ、ケースバイケースでいずれかのコードフリーズが計画時間に発生することもあります。
* [[mw:Special:MyLanguage/GitLab|GitLab]]は90分ほどの間に利用不可になります。
必要に応じてこの計画は延期されることがあります。 [[wikitech:Switch_Datacenter|wikitech.wikimedia.org で工程表を見る]]ことができます。 変更はすべて工程表で発表しますので、ご参照ください。 この件に関しては今後、さらにお知らせを掲示するかもしれません。 作業開始の30分前から、すべてのウィキで画面にバナーを表示する予定です。 '''この情報を皆さんのコミュニティで共有してください。'''</div><section end="server-switch"/>
[[user:Trizek (WMF)|Trizek (WMF)]], 2024年3月15日 (金) 00:01 (UTC)
<!-- User:Trizek (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Non-Technical_Village_Pumps_distribution_list&oldid=25636619 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Switching to the Vector 2022 skin ==
[[File:Vector 2022 video-en.webm|thumb]]
''[[mw:Special:MyLanguage/Reading/Web/Desktop Improvements/Updates/2024-03 for Wikisource|Read this in your language]] • <span class=plainlinks>[https://mediawiki.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-Reading%2FWeb%2FDesktop+Improvements%2FUpdates%2F2024-03+for+Wikisource&language=&action=page&filter= {{Int:please-translate}}]</span> • Please tell other users about these changes''
皆さんこんにちは。私たちはウィキメディア財団ウェブチームです。以前の投稿をお読みいただいたかもしれませんが、この一年間、私たちはすべてのウィキ上での新しいデフォルトとしてベクター2022年版(Vector 2022 skin)に切り替えるにために準備を進めてきました。以前のウィキソースコミュニティとの対話により、スキンの切り替えを妨げるIndex名前空間の問題をご指摘いただいたため、この問題を解決いたしました。
3月25日にウィキソースのウィキ上で展開する予定です。
ベクター2022年版の詳細と改善点については、[https://www.mediawiki.org/wiki/Reading/Web/Desktop_Improvements/ja ドキュメント]をご覧ください。変更後、問題がある場合(ガジェットが動作しない、バグに気づいた等)は、恐れ入りますが、以下にコメントをお願いいたします。また、ご希望に応じて[[metawiki:Wikisource_Community_meetings|ウィキソースのコミュニティミーティング]]のようなイベントに私たちが参加させていただき、皆さんと直接お話しすることも可能です。いつもご協力いただき有難うございます。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。(Translation by [[利用者:JNakayama-WMF|JNakayama-WMF]])
English: Hi everyone. We are the [[mw:Special:MyLanguage/Reading/Web|Wikimedia Foundation Web team]]. As you may have read in our previous message, over the past year, we have been getting closer to switching every wiki to the Vector 2022 skin as the new default. In our previous conversations with Wikisource communities, we had identified an issue with the Index namespace that prevented switching the skin on. [[phab:T352162|This issue is now resolved]].
We are now ready to continue and will be deploying on Wikisource wikis on '''March 25th'''.
To learn more about the new skin and what improvements it introduces, please [[mw:Reading/Web/Desktop Improvements|see our documentation]]. If you have any issues with the skin after the change, if you spot any gadgets not working, or notice any bugs – please comment below! We are also open to joining events like the [[m:Wikisource Community meetings|Wikisource Community meetings]] to talk to you directly. Thank you! [[User:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]] ([[User talk:SGrabarczuk (WMF)|<span class="signature-talk">トーク</span>]]) 2024年3月18日 (月) 20:50 (UTC)
<!-- User:SGrabarczuk (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGrabarczuk_(WMF)/sandbox/MM/Varia&oldid=26416927 のリストを使用して送信したメッセージ -->
:Hello Mr.[[利用者:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]]. I speak japanese, sorry.
:JST ではすでに March 25th なので、すでに今更な気もしますが、本当に変更されるのでしょうか。返信が付かないのは、メッセージが英語だからかもしれません。すでにvecter 2022 になっている、日本語版のウィキクォート・ウィキブックスなどがありますが、フォントがすこし小さくなっていませんか。もちろんブラウザ側でズームはできますが、ウィキペディアほどには人が集まっていないウィキソースで、既定のスキンになるのは心配です。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年3月24日 (日) 18:30 (UTC)
::[[File:Accessibility for reading first iteration prod unpinned.png|thumb]]
::日本語が話せないため、機械翻訳にて失礼いたします。
::@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]さん、
::コメントありがとう。その通りだと思う。Vector 2022」のフォントサイズは少し小さめです。もっと大きくできないかチームに聞いてみます。
::それに加えて、新しい[[特別:個人設定#mw-prefsection-betafeatures|ベータ機能]]があります: "Accessibility for Reading (Vector 2022) "です。これは、3つのフォントサイズを選択できるメニューを追加するものだ:小、標準、大。小は現在のデフォルトと同じでなければならない。そうでない場合はエラーとなり、チームに修正を求めることになる。StandardとLargeは現在のデフォルトより大きくする。最終的には、標準が新しいデフォルトになるはずです。このベータ機能の目的は、ウィキ上のテキストを読みやすくすることです。
::この機能を使って「標準」のフォントサイズを選択することをお勧めしたい。どう思いますか?
::Thank you for your comment. I think you are correct. The font size in "Vector 2022" is a bit smaller. I’ll ask the team if we can increase it.
::In addition to that, there’s a new beta feature: "Accessibility for Reading (Vector 2022)”. It adds a menu with three font sizes to choose between: small, standard, and large. Small should be equal to the current default. If it’s not, then it's an error and I’ll ask the team to fix it. Standard and large should be bigger than the current default. Eventually, standard would become the new default. The goal for this beta feature is to make it easier for people to read text on wiki.
::I would like to recommend using this feature and choosing the „standard" font size. What do you think?--[[利用者:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]] ([[利用者・トーク:SGrabarczuk (WMF)|トーク]]) 2024年3月25日 (月) 13:39 (UTC)
:::いえ、申し訳ありませんが、この問題を再現することはできません。つまり、異なるスキンを比較した場合、フォントサイズは同じなのです。URLに?safemode=1を追加して([https://ja.wikisource.org/wiki/Wikisource:%E4%BA%95%E6%88%B8%E7%AB%AF?safemode=1 例])、それでも違いがあるかどうか確認していただけますか?safemode=1はカスタマイズを無効にし、問題が私たちの側にあることを確認する方法です。ありがとう!
:::No, my apologies, I’m not able to replicate the issue. I mean when I compare different skins, the font sizes are the same. Could you add ?safemode=1 to the URL (example) and check if you still see a difference? ?safemode=1 disables your customization and is the method to make sure that the problem is on our side. Thank you!--[[利用者:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]] ([[利用者・トーク:SGrabarczuk (WMF)|トーク]]) 2024年3月25日 (月) 15:22 (UTC)
::::Thank you for reply.
::::技術面に詳しくないので、確認してもよく解りません。ごめんなさい。ですが、おそらく技術ニュース:2024-13 に関することだと思っています。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年3月26日 (火) 03:15 (UTC)
== Invitation to join March Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We're excited to announce our upcoming Wikisource Community meeting, scheduled for '''30 March 2024, 3 PM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1711810800 check your local time]). As always, your participation is crucial to the success of our community discussions.
Similar to previous meetings, the agenda will be split into two segments. The first half will cover non-technical updates, such as events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. In the second half, we'll dive into technical updates and discussions, addressing key challenges faced by Wikisource communities.
'''New Feature: Event Registration!''' <br />
Exciting news! We're switching to a new event registration feature for our meetings. You can now register for the event through our dedicated page on Meta-wiki. Simply follow the link below to secure your spot and engage with fellow Wikisource enthusiasts:
[[:m:Event:Wikisource Community Meeting March 2024|Event Registration Page]]
'''Agenda Suggestions:''' <br />
Your input matters! Feel free to suggest any additional topics you'd like to see included in the agenda.
If you have any suggestions or would just prefer being added to the meeting the old way,
simply drop a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org'''.
Thank you for your continued dedication to Wikisource. We look forward to your active participation in our upcoming meeting.
Best regards, <br />
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ダークモード対応 night-mode-unaware-background-color ==
* 2024年3月時点、日本語版ウィキソースではまだダークモードが実装されていないが、Lintエラーのページで「[[特別:LintErrors/night-mode-unaware-background-color]]」を確認可能。
* night-mode-unaware-background-colorエラーの抑止方法は「[[:mw:Help:Lint_errors/night-mode-unaware-background-color|night-mode-unaware-background-color]]」にあるように、背景色と文字色の同時指定。
* 2024年3月時点、テンプレートがエラー原因のものについては、暫定的にbackground指定の後に続けてcolor:inherit;を追加してエラー出力を抑止済。
* 将来ダークモードが実装されてテキスト表示に問題が起きた場合は、「insource:/back[^;]+; *color *: *inherit/」[https://ja.wikisource.org/w/index.php?search=insource%3A%2Fback%5B%5E%3B%5D%2B%3B+%2Acolor+%2A%3A+%2Ainherit%2F&title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%A4%9C%E7%B4%A2&profile=advanced&fulltext=1&ns10=1]で検索ヒットするテンプレートや「[[モジュール:Documentation/styles.css]]」のなかの文字色指定をinheritから固定色に変える必要あり。
--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年3月28日 (木) 16:53 (UTC)
== Wikimedians of Japan User Group 2024-03 ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
*'''全体ニュース'''
**[[:m:Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Election/2024/ja|ユニバーサル行動規範調整委員会の選挙]]の立候補が受付中です。(2024年4月1日(月)(UTC)まで)
*'''「Wikimedians of Japan User Group」 からのお知らせ'''
**
<div style="-moz-column-count:2; -webkit-column-count:2; column-count:2; -webkit-column-width: 400px; -moz-column-width: 400px; column-width: 400px;">
'''[[:w:ja:メインページ|日本語版ウィキペディア]]'''
*ニュース
**
*[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考|秀逸な記事の選考]]
**[[:w:ja:アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)|アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)]]が[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考/アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵) 20240127|選考]]を通過
*[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考|良質な記事の選考]]
**[[:w:ja:伏見天皇|伏見天皇]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/伏見天皇 20240308|選考]]を通過
**[[:w:ja:トコジラミ|トコジラミ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/トコジラミ 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:山崎蒸溜所|山崎蒸溜所]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/山崎蒸溜所 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:胞子嚢穂|胞子嚢穂]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/胞子嚢穂 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:一姫二太郎|一姫二太郎]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/一姫二太郎 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:ヴァージナルの前に座る若い女|ヴァージナルの前に座る若い女]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ヴァージナルの前に座る若い女 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:南満洲鉄道ケハ7型気動車|南満洲鉄道ケハ7型気動車]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/南満洲鉄道ケハ7型気動車 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:石狩町女子高生誘拐事件|石狩町女子高生誘拐事件]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/石狩町女子高生誘拐事件 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:天狗草紙|天狗草紙]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/天狗草紙 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:生命|生命]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/生命 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:フェンタニル|フェンタニル]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/フェンタニル 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:根拠に基づく医療|根拠に基づく医療]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/根拠に基づく医療 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)|PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)]]が[[:w:ja:PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)|PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)]](2024年4月6日 (土) 07:52 (UTC)まで)
**[[:w:ja:ワリード1世|ワリード1世]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ワリード1世_20240323|選考中]](2024年4月6日 (土) 23:59 (UTC)まで)
**[[:w:ja:ラーメンズ|ラーメンズ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ラーメンズ 20240324|選考中]](2024年4月7日 (日) 01:13 (UTC)まで)
**[[:w:ja:狩野安信|狩野安信]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/狩野安信 20240327|選考中]](2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC)まで)
**[[:w:ja:チャールズ・ルイス・ティファニー|チャールズ・ルイス・ティファニー]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/チャールズ・ルイス・ティファニー 20240327|選考中]](2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC))
**[[:w:ja:シュチェパン・マリ|シュチェパン・マリ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/シュチェパン・マリ 20240327|選考中]](2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC))
*[[:w:ja:Wikipedia:月間新記事賞|月間新記事賞]]
**[[:w:ja:一姫二太郎|一姫二太郎]]
**[[:w:ja:指月布袋画賛|指月布袋画賛]]
**[[:w:ja:胞子嚢穂|胞子嚢穂]]
**[[:w:ja:ヴァージナルの前に座る若い女|ヴァージナルの前に座る若い女]]
**[[:w:ja:南満洲鉄道ケハ7型気動車|南満洲鉄道ケハ7型気動車]]
**[[:w:ja:ペプシ海軍|ペプシ海軍]]
**[[:w:ja:天狗草紙|天狗草紙]]
**[[:w:ja:石狩町女子高生誘拐事件|石狩町女子高生誘拐事件]]
</div>
<hr />
*'''前回配信:2024年2月27日'''
</div>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
配信元: '''[[:m:Wikimedians of Japan User Group|Wikimedians of Japan User Group]]''' <br />
<small>[[:m:Talk:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン|フィードバック]]。[[:m:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン/targets list|購読登録・削除]]。</small>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
<!-- User:Chqaz@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedians_of_Japan_User_Group/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3/targets_list&oldid=26436809 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== 全集の収録方法について ==
[[:カテゴリ:史籍集覧]]に収録されている作品のうち、「[[武家諸法度 (元和令)]]」などはIndexファイル([[Index:Shisekisyūran17.pdf]]など)を底本としていますが、「[[太閤記]]」などは独自のテンプレートに原文のみを収録する形になっています。後者の場合、例えば今たまたま開いた「[https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E4%BA%8C#c-2 太閤記巻二 ○因幡国取鳥落城之事]」3ページ目冒頭の一文「福光樽行器看を広間にすへ並へしかは…」([https://dl.ndl.go.jp/pid/3431173/1/244 『史籍集覧』第6冊244ページ冒頭])の誤字「看」を「肴」に訂正したいと考えても、どこを訂正すればよいのかを知ることは簡単ではありません。「[[ヘルプ:Indexページ#雑誌の掲載記事と書籍の部分掲載について]]」では、「djvuファイルまたはpdfファイルを作成する場合、その号から数ページだけ公開する予定であっても、書籍や雑誌の号全体のdjvuファイルやpdfファイルを作成するよう」求めており、校訂作業の必要性を考慮しても、前者の方式に統一した方がよいと思われます。ご意見をいただければ幸いです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月20日 (土) 12:22 (UTC)
:「統一」の定義があいまい。強制性を伴う罰則規定がなければ効果は乏しい。簡単がどうかは個々人の主観に属することなので、規則変更の理由にすべきではない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 03:12 (UTC)
::前者の方法では、訂正すべき箇所を見つけた場合には、該当するページへのリンクをたどれば修正できるようになっているのに対して、後者の方法では画像を参照することしかできません。この点に問題があると思われます。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 06:06 (UTC)
:{{コ}}主観を述べると、Wikisource校正システムは中東・欧州系言語などで使う表音文字での編集が前提になっており、日本語などで使う表意文字はWebブラウザ上の編集作業にあまり向いていない。よって、日本語Wikitextは出版業界と同じように高性能なテキスト編集ソフトを使って編集作業するのが自然。公文書を除けば旧字・異体字の多い戦前の出版物しか入力できない日本語Wikisourceは、現代日本の出版業界の標準よりも難易度が高いという事実をふまえておく必要がある。Wikisource校正システムは、ただの道具・手段であって目的ではない。作業効率を下げてまで使う価値はない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 07:05 (UTC)
:{{コ}}最近行われた文字の小さなVector2022への既定外装変更から察するに、Wikisourceの開発者は日本語利用者の利便性をあまり考えていないのではないか。Wikisource校正システムも同じ病根がある。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 07:26 (UTC)
::日本語利用者の利便性は、きちんと主張しないと伝わりにくいのは確かです。しかし、だからといって校正のことは考えなくてよいということにはならないと思います。校正は、Wikisourceの信頼性を確保する上で不可欠の要素です。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 08:24 (UTC)
:::{{提案}}日本語ウィキソースには提案を書き込むと敵対や衝突とみなす文化があるので少ししか書かないが、ページ単位の校正レベルの管理は非効率なのでやめるべき。道路標識の速度制限と同じように編集者の自由裁量で校正レベルの開始位置を設定できたほうが良い。テキストは上から下への単純な一方通行なのだから、保守はさほど面倒ではない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 10:15 (UTC)
::::英語での議論になりますが、技術的な提案は https://phabricator.wikimedia.org/ で行うことができます。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 12:38 (UTC)
::::「Phabricator」での議論することに臆してしまったりするのであれば、この井戸端にも連絡してくださっている「Wikisource Community meeting」などの選択肢もあるかと思います。いずれにしろ進行は英語主体になるかと思われますが、技術的なことを話したいのであれば、直接伝えるのが良いと考えます。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 14:02 (UTC)
:{{コ}} 前者の方式を使用することに{{賛成}}します。後者となる独自のテンプレートは、[[ja:カテゴリ:特定作品のためのテンプレート|特定作品のためのテンプレート]] に含まれるものかと思われますが、内容は作品の本文にあたるものが大部分であるため、テンプレート(ひな形)として使うには汎用的ではないと考えます。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 04:37 (UTC)
:{{コ}}前者に統一するからには、「[[あたらしい憲法のはなし]]」のようにIndexを使っていない国会図書館デジタルコレクションを底本とする作品をすべてIndexを使うよう置き換えなければならないが、皆にその労力を払う覚悟があるのか。以前、機械翻訳の作品削除に関する議論の時にも感じたが、ある決定をした結果、何が起きるか、何をしなければならなくなるかについて、もっと想像力を働かせたほうが良い。入力や校正をあまりせずなぜか井戸端での議論で張り切る人に特にその辺もふまえて考えてもらいたい。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 09:28 (UTC)
:{{コ}}前者に統一すると決めた場合、決めるだけでおそらくだれもやらないので、私が既存作品のIndex利用への置き換えを拒否した場合は、作品が削除されたり私がブロックされることになるだろう。編集方法がわからないなら質問すれば良いだろうに、なぜこのような攻撃的な議論を開始したのか理解できない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 10:29 (UTC)
::コメントありがとうございます。今回取り上げさせていただいたのは、「全集の収録方法」についてのみです。これは、複数の人が編集に関わる可能性が高いことからも、ご理解いただけるものと思います。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 11:08 (UTC)
:::{{コ}}複数の人が編集に関わる競合の危険性は全集に限ったことではなく、通常の巨大サイズ作品でも同じことです。テンプレート名前空間ページにも標準名前空間ページと同じく最大2048KBのWikitextサイズ制約があるのでさほど心配しなくて良いはず。テキスト本体をテンプレート化したのは他ページでのプレビュー機能を使うためであり、Page名前空間ページ編集作業にはない機能。これがテンプレートの優位性。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 12:28 (UTC)
::::ご指摘のように競合の問題もあるかもしれませんが、差し当たっての問題は、既に述べたように、史籍集覧で複数の方式による作品が混在していること、一方の方式に校正方法に関する問題が存在することです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 14:02 (UTC)
:::::複数の方式が混在することや校正システムを使っていないことのなにが問題なのかよくわからない。私は今後も同じ入力方法を続ける。私は有期限ブロックされたぐらいで自分の考えが変わったりはしないので、Wikisourceコミュニティが私の入力方法と共存できないのであれば、私を無期限ブロックするほかない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月25日 (木) 09:29 (UTC)
== ja ==
重要なことなので、表現を変えてもう一度指摘しておきます。べつに[[m:削除主義|削除主義者]]の片棒を担ぐ気はさらさらありません。ウィキソース日本語版(ja ws)は「日本語(ja)の」コンテンツを扱うプロジェクトです。欧文のみコンテンツが投稿されていれば、日本語でないため、すぐに out of scope であると気づくはずです。しかし、日本国内にある日本語(ja)以外の言語には鈍感ではありませんか。ja以外の言語コンテンツは、対応する言語版に掲載します。対応する言語版が存在しなければ、[[oldwikisource:|オールドウィキソース]](ウィキメディア・インキュベータに相当するプロジェクト)に投稿します。jaの原文を収録するのが「日本語版」であって、「日本版」ではありません。tkn(徳之島語版)、ryu(琉球語版)、zh-classical(漢文版)、ja-classical(古典日本語版)、yoi(与那国語版)、xug(国頭語版)、mvi(宮古語版)などのja(日本語版)以外の言語が紛れていないか点検をお願いします。--[[利用者:Charidri|Charidri]] ([[利用者・トーク:Charidri|トーク]]) 2024年4月20日 (土) 12:58 (UTC)
:返り点は日本語独自のものであり他の言語に存在しない。他人に負担の大きい移植作業をやらさせるのではなく、自ら率先して移植作業を行い手本を示せ。隗より始めよ。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 03:05 (UTC)
== Invitation to join April Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We are the hosting this month’s Wikisource Community meeting on '''27 April 2024, 7 AM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1714201200 check your local time]).
Similar to previous meetings, the agenda will be split into two segments. The first half will cover non-technical updates, such as events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. In the second half, we'll dive into technical updates and discussions, addressing key challenges faced by Wikisource communities.
Simply follow the link below to secure your spot and engage with fellow Wikisource enthusiasts:
[[:m:Event:Wikisource Community Meeting April 2024|Event Registration Page]]
If you have any suggestions or would just prefer being added to the meeting the old way,
simply drop a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org'''.
Thank you for your continued dedication to Wikisource. We look forward to your active participation in our upcoming meeting.
Regards
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<small> Sent using [[利用者:MediaWiki message delivery|MediaWiki message delivery]] ([[利用者・トーク:MediaWiki message delivery|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 12:21 (UTC)</small>
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== 第1期U4C委員選挙の投票について ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – vote opens|このメッセージはメタウィキで他の言語に翻訳されています。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – vote opens}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは、
本日のお知らせは、現在、ユニバーサル行動規範調整委員会(U4C<sup>※</sup>)の選挙期間中であり、2024年5月9日が最終日である点を述べます(訳注:期日を延長)。選挙の詳細はぜひ[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024|メタウィキの選挙特設ページ]]を開いて、有権者の要件と選挙の手順をご参照ください。(※=Universal Code of Conduct Coordinating Committee。)
U4C(当委員会)はグローバルなグループとして、UCoCの公平で一貫した施行を促そうとしています。コミュニティ参加者の皆さんには過日、当委員会委員への立候補を呼びかけるお知らせを差し上げました。当委員会の詳細情報とその責務の詳細は、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|U4C 憲章]]をご一読願います。
本メッセージをご参加のコミュニティの皆さんにも共有してくだされば幸いです。
UCoC プロジェクトチーム一同になり代わり、よろしくお願いいたします。<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年4月25日 (木) 20:20 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26390244 のリストを使用して送信したメッセージ -->
483wgfbeko15vjhj0wz451002yb0yx5
219103
219100
2024-04-26T08:07:46Z
温厚知新
35206
/* 全集の収録方法について */ 返信
wikitext
text/x-wiki
{{井戸端}}
== ブロック依頼:[[User:P9iKC7B1SaKk]]氏 ==
[[Wikisource:削除依頼/アーカイブ/2023年#(*)「セルブ・クロアート・スロヴェーヌ」王国建国史_-_ノート]]、[[利用者・トーク:JOT_news#カテゴリへの追加について]]、[[#機械翻訳の濫用?]]などにおいて、針小棒大な発言を繰返し、コミュニティを疲弊させています。[[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk#言葉遣いについて]]において抑制をお願いしましたが、聞き入れないばかりか、[[#管理者権限の停止依頼]]を提出し、噛み合わない議論を続けるばかりです。コミュニケーションへの姿勢を改めていただければこの依頼は不要となりますが、他プロジェクトの文書ではありますが、[[w:Wikipedia:礼儀を忘れない]]などをご熟読いただき、お考えを改めていただくまで、1か月程度のブロックを提起します。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月11日 (土) 13:04 (UTC)
:{{コメント}} 私としては針小棒大ではなくむしろ意味のある書き込みをしているという自負があります。ましてや他人をからかったことなど一度もありません。改めるべきはどちらなのか、冷静になって考えていただければと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月11日 (土) 13:54 (UTC)
:[[:w:Wikipedia:礼儀を忘れない]]を確認させていただきました。Kzhrさんのこの投稿は'''深刻な事例'''に相当する「追放や投稿ブロックを不当に要求すること」に該当する可能性があります。追放や投稿ブロックは、私が提案しているKzhrさんへの管理者権限停止よりも明らかに重いものです。針小棒大な発言をしているのもKzhrさんのほうです。取り消し編集に「バンダリズム」とログ要約欄に書き込んだ件ではJOT Newsさんと編集合戦が起きたわけでもなく穏便に話し合いで解決しつつあったのです。トラブルの当事者でないKzhrさんが他人の感情を勝手に決めつけて私を批判し続けていることが問題の本質なのです。バンダリズムという単語にKzhrさんが強い拒否反応を示されているのはおかしいと思います。私を含め誰もが悪意なくバンダリズムをやってしまう恐れがあり、悪意の有無に関係なくバンダリズムをバンダリズムと冷静に指摘しつつ取り消し編集するのは正しいことです。さもなければバンダリズム編集がし放題になってしまいます。「バンダリズム」との指摘をログ要約欄に書き込まれただけで怒る短絡的な人こそ追放や投稿ブロックにふさわしいのではないでしょうか。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 05:11 (UTC)
::JOT Newsさんとの間だけのことのように議論をずらすのはやめていただけますか。また、百歩譲って穏便に解決したのだとしても、過剰に批判的な言辞をものしていいことにもなりませんし、また、バンダリズムの自己流解釈についても指摘を受け止められないという証拠を強化はしても、P9iKC7B1SaKkさんにとって有利になるとはとても思えません。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 14:09 (UTC)
:::{{コメント}} 「[[:w:Wikipedia:荒らし]]」によると、荒らしとは「百科事典の品質を故意に低下させようとするあらゆる編集のこと」でありつつも、「百科事典を改良しようとなされた善意の努力は、間違いや見当違いや不適切なものでも、荒らしとは捉えない」とあります。
:::「金融」と「革命」というかなり抽象的なカテゴリにお気に入りブックマークのように小説などの作品を追加していくのは、Kzhrさんには善意の努力に見えたのかもしれませんが、私には善意の努力には見えませんでした。よって、私はこれを荒らしと判断し、取り消し編集を行いました。あれこれと要約欄に書き込むのも不自然なので感情が入らないよう淡々とバンダリズムと書いたのは今でも最も適切な対応だったと思っています。実際、それを見たであろうJOT Newsさんから説明を求める問い合わせはありましたが、感情的で否定的な反応は来ていません。納得してくれたと思います。Kzhrさんが荒らしでないと思うのであれば、JOT Newsさんの「金融」と「革命」へのカテゴリへの作品追加を復元なさってください。復元しないのであればその理由を明確に説明してください。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 14:27 (UTC)
:::{{コメント}} 過剰に批判的な言辞かどうかの判断をKzhrさんの主観だけで決めようとするのは良くありません。JOT Newsさんによるカテゴリ追加が客観的に善意の編集であることをKzhrさんに説明して頂く必要があります。善意を説明できないなら荒らしということになります。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 14:48 (UTC)
:::{{コメント}} 一般論の「善意」ではわかりにくいでしょうから、法律用語としての「善意」、具体的には「ユーザーページのページを以外を私的な用途に使ってはいけない」という事実をJOT Newsさんが知らなかったかどうかを論点にして頂くと良いかと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 15:19 (UTC)
:::{{コメント}} 訂正します。「ユーザーページのページを以外を私的な用途に使ってはいけない」→「自分のユーザー名前空間以外のページを私的な用途に使ってはいけない」--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 15:23 (UTC)
:::{{コメント}} 改めて、整理しますと、JOT Newsさんが「ユーザーページ以外のページを私的な用途に使ってはいけない」という事実を知らなかったと証明された場合は「善意による編集」であって荒らしではないので私のバンダリズムとの記述は過剰に批判的な言辞である、ということになります。Kzhrさん、以上の点をふまえて、説明をお願いします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 15:34 (UTC)
:::{{コメント}} Kzhrさんは「JOT Newsさんによるカテゴリ追加はそもそも私的な用途ではなく公的な用途である」という論駁も可能です。その場合は、私的な用途ではないのですからJOT Newsさんによるカテゴリ追加を復元すべきと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 16:00 (UTC)
:{{コメント}} 相手と話し合うことなしに「ログ要約欄にバンダリズム(あるいはrvvも)を書き込んではいけない」という独自ルールを作って他人に押し付けようしているのが、客観的なKzhrさんの状態です。私がKzhrさんの管理者権限の停止を求めている一番の理由もここにあります。規則のどこを読んでもそのような解釈はできないので話がかみ合わないのです。私は、他のユーザーさんが荒らしと対話してから取り消し作業をするところをまだ一度も見たことがありません。Kzhrさんは経験があるでしょうから、その時のログを提示できるかと思います。ログのご提示をお願いいたします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 16:49 (UTC)
* {{賛成}} このセクションだけを見ても、数時間のうちに何度もコメントを残しておられますので、思いついた反駁を都度記載されているように見受けます。議論をするには、冷静に内容を読み直し、自身の意見をまとめる時間が必要かと思います。よってブロックに賛成票を投じます。期間については対処者に一任します。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 17:04 (UTC)
*:{{コ}}'''追記''' 会話を試みた結果、「[[w:ja:Wikipedia:児童・生徒の方々へ|Wikipedia:児童・生徒の方々へ]]」の対象者かもしれないと感じました。期間は一任の意見は変わりませんが、実年齢の推測が私には出来ないため、無期限にも反対しません。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月19日 (日) 07:26 (UTC)<small>linkを失敗していました。失礼しました。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 05:40 (UTC)</small>
:{{反対}} 連続投稿を不快に思われたかたがたに、お詫びします。以後連投しないよう気を付けます。ブロックは困るので自分自身への反対票を投じさせてください。もしブロックと決まった場合はどうか来週まで猶予期間を下さい。現在、わりと大物を作っている最中で今週中に入力完成の見込みです。それをまとめてWikisourceに書き込む時間とWikisourceでの実動作確認をして調節する時間をどうしても頂きたいのです。ご理解のほどお願いいたします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 17:36 (UTC)
::ご自身のブロック依頼へ票を投じることはできません([[w:Wikipedia:投稿ブロック依頼#依頼・コメント資格について]])。ルールを把握してください。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 11:48 (UTC)
* {{賛成}} しばらく被依頼者を様子見していましたが、初対面の人に対していきなり「バンダリズム」呼ばわり、バンダリズムと言ったことに説明を求められても具体的な回答は無し、言動を注意されても俺は悪くないの一点張りと呆れるばかりでした。様々な議論を引っ搔き回し他の利用者を振り回した挙句、自分が投稿ブロックされる可能性が出てくれば猶予をくれとは随分と虫が良すぎませんか。以上から被依頼者の投稿ブロックに賛成します。<del>期間は今のところは一任しますが、期間を定めないことも反対しません。</del>--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 12:17 (UTC) {{small|票を修正。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月17日 (金) 17:16 (UTC)}}
** {{コ}} 票を賛成(期間:一任)から賛成(期間:無期限)に変更します。[[特別:差分/213876|こちらの編集]]ですが、対立した方に対してああすればよかったなどと言うのは、正直反省してから出る言動とは思えません。諫められたのは単語の選び方だけでなく、無礼な態度・姿勢も含まれていることにまだ気付かないのでしょうか。一定期間が経過しても状況は変わらないと判断し、投稿ブロックの期間は定めない票に変更します。「私は今後、一切自治活動をしません」とのことですが、いわゆる管理系以外のページでも軋轢を生むことは目に見えていますから、あまり意味のない宣言だと私は思います。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月17日 (金) 17:16 (UTC)
*:{{コメント}} @[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]]さん、バンダリズムと言ったことへの具体的な回答は十分に行いました。ログをお読みになってください。初対面かどうかは関係ありません。年季が長かろうが荒らしは荒らしなのです。JOT Newsさんの編集が荒らしではないと思うのであれば、金融カテゴリへの作品追加を復元してさしあげてください。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 12:37 (UTC)
*:{{コメント}} 私が広義のバンダリズムと判断して取り消し処理で[[:カテゴリ:金融]]を除去した作品を以下に列挙します。
*:* [[R.U.R./第2幕]] ※ただしログにバンダリズムとの記載なし
*:* [[クルアーン/雌牛章]]
*:* [[魔術]]
*:* [[カシノの昂奮]]
*:* [[二十世紀の巴里/第十三章]]
*:* [[新聞評]]
*:* [[国際社会主義者評論 (1900-1918)/第1巻/第1号/イギリスと国際社会主義]]
*:* [[MIVILUDES2004年度報告書]]
*:* [[国際社会主義者評論 (1900-1918)/第1巻/第1号/金権政治か民主主義か? ]]
*:* [[ブラジルの金融情勢]]
*:JOT Newsさんによる上記作品の金融カテゴリ追加が荒らしでないと思う方は、JOT Newsさんの名誉のために上記作品を金融カテゴリに復元してあげてください。復元しない場合はしない理由を教えてください。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 12:49 (UTC)
*::バンダリズムではないなら復元すべきだというのは論理破綻です。一般的なバンダリズムの解釈には当たらないと言っているだけで、そのカテゴリが妥当かどうかについては述べていません。他の参加者を荒しだと呼ぶということは、共同作業の拒否を意味するわけで、だからこそ妥当ではないと考えたとしても敬意をもって接するよう努めてきたわけです。共同作業を大事にしないと仰るのであれば、いっしょにやっていくことは難しいので、それを改めていただきたいというのがこのブロック依頼の趣旨です。重要なコンテンツを投稿したいといったことは考慮に値しません。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 13:50 (UTC)
*:::{{コメント}} 返信ありがとうございます。「荒らし」や「バンダリズム」はあくまでも特定の行為でありその人の人格否定や侮辱を伴うものではないと思っていました。時にだれでもうっかりや出来心でやってしまうものだと思っていました。たとえ話で恐縮ですが、サッカーにハンドやオフサイドやファールというルール違反があります。あなたの今のプレイはファールだと指摘したからと言って敬意の欠如にならないのと同様に、バンダリズムとの指摘ももっと軽いものと思っていました。バンダリズムとは違う正しい名称があるのであれば以後はそれを使いますのでお教えください。あともう一点、「[[利用者・トーク:JOT_news#カテゴリへの追加について]]」でのJOT Newsさんに対する私の書き込みで敬意を欠いている部分についてご指摘ください。改善します。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 14:24 (UTC)
*:::{{コメント}} 連投になって申し訳ありません。私は相手の行いを事細かにあげつらって批判するのをさけるためのわざとふんわりしたあいまいな表現をしたくて「バンダリズム」や「他の人が迷惑です」と書き込んだつもりでした。英語の辞書の定義のままの行為としてのvandalismと思い込んでいました。「バンダリズム」や「他の人が迷惑です」がふさわしくないようですので、適切な表現をご教示ください。そのカテゴリが妥当でない理由を教えていただければ、以後その表現を使います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 15:16 (UTC)
*::{{コメント}} 今後は、身勝手な判断で自治行為まがいのことをしませんのでお許しください。落書きなどの明らかな荒らしではない編集への介入は一切しないようにします。私はウィキソースの文化をよくわかっていませんでした。反省しています。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 16:31 (UTC)
:{{提案}} 私なりに穏便な取り消しログ文言を考えてみました。「持続困難」です。判断基準があいまいなので他の人が作業を引き取れない、他の作品に同じことを適用する労力が大きすぎる、などの意味です。今どきよく聞く「持続可能」の反対である「持続不可能」だと強すぎるので、控え目に「持続困難」にしてあります。
:こんなことを提案してみましたが、私は今後、一切自治活動をしませんので、どうかご安心を。改めて謝罪いたします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月14日 (火) 02:58 (UTC)
:{{コメント}} 「持続困難」といったログ文面を提案するなどのことは、被依頼者が問題を十分に理解したとはあまり思えないのですが(適切な表現を教えてほしいとありますが、世の中のマナーの本・敬語の本など読まれればよいと思います)、さしあたって被依頼者が軋轢を生むような投稿を止めたため、この依頼の緊急性はひとまず失われたかに思われますので、依頼者としては取り下げてもよいかと思いますがいかがでしょうか。ただし、ご賛同の声も強かったことは銘記すべきで、被依頼者は今後原典の投稿に専念なさるべきことを強く申し添えたく思います。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 01:04 (UTC)
::{{返信}} 今後、コミュニティを消耗させることはないだろうという判断であれば、依頼の取り下げ、あるいは今回は対処せずの終了にも、異議を唱えるものではありません。ただ、今のところ賛成票の撤回をするには至っていないと、私は考えています。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 05:23 (UTC)
:: {{コメント}} 正直ウィキソース内での活動場所を少し狭めたのみで、被依頼者が問題を理解しているとは私も思えません。利用者ページで不穏なことを投稿しているところを見るに、利用者ページを介して問題を引き起こすことは目に見えています(そもそも利用者ページを日記のように使うのってどうなの?と思うのですが一旦置いておきます)。投稿ブロックの建前は「問題発生の予防」「被害発生の回避」な訳ですが、[[w:ja:Wikipedia:投稿ブロックの方針#コミュニティを消耗させる利用者|コニュニティを消耗させた]]実績がある以上は、投稿ブロックはそれら建前とも反しないと思います。依頼取り下げに反対するとまでは言いませんが、少なくとも私の賛成票は撤回せずそのままにしておきます。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 05:33 (UTC)
::{{コメント}}ご返信どうもありがとうございます。利用者ページのほう確認しましたが、ブロックをちら付かせているという繰返しの発言がありましたので、文書を読んであらたまる類いのものではないのだろうという結論に傾きつつあります。利用者ページであれば他者への自由な発言をしていいわけではありません。無期限のブロックもやむなしと考えますが、自身で提起したブロック依頼ですので、他の管理者の方にご結論をまとめていただきたいと思っています。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年12月1日 (金) 07:01 (UTC)
:管理者のかたにお願いです。攻撃的な言動で他者の書き込みに対する脅迫や言論統制を行おうとしているのはどちらなのか、公正な判断をお願いいたします。ウィキペディアの議論は発達障害などさまざまな障害を抱えた人でも平等に参加できる開かれた仕組みは大切だと思います。ですが、少人数による形ばかりの多数決が常に正しい結論を導き出せるとは限らないと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年12月23日 (土) 00:46 (UTC)
:私がウィキソースからいなくなるか、@[[利用者:Kzhr|Kzhr]]・@[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]]・@[[利用者:安東大將軍倭國王|安東大將軍倭國王]]・@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]の4人がウィキソースからいなくならない限り、この問題は解決しません。和解は不可能です。決断をお願いします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 07:31 (UTC)
:{{賛成}} (ただし期限付き)賛成されている方々のご意見は十分理解できます。私も何度か意見の衝突を経験しました。ただ、P9iKC7B1SaKkさんの[[User:P9iKC7B1SaKk|利用者ページ]]冒頭の投稿作品一覧からも分かる通り、フォーマットに関する意見の違いはあるものの、わずかの間に膨大な貢献をされました。この点を併せて考慮いただければ幸いです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年2月10日 (土) 06:23 (UTC)
::{{返信}} 無期限は「期限をさだめ無い」を意味するものだと考えます。被依頼者が自身の問題点を把握し、改善できるのならば、ブロック解除もできるでしょう。私見ながら、機械翻訳に関するものでもありますが、「わずかの間に膨大な貢献」をされるのは困ります。P9iKC7B1SaKk さんが[[利用者:P9iKC7B1SaKk|利用者ページ]]で仰ることに頷ける部分もありますが、「自分は校正をしたくないけれど、したい人がすればいい」ということでは、先が思いやられます。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月10日 (土) 08:59 (UTC)
** {{コ}}Wikisourceではメーリングリストが整備されていないことから無期限は事実上の永久になってしまう可能性があります。私自身はほぼ交渉がないためどのような活動をしていたかは把握しておりませんが、もしブロックとなる場合ですが、まずは期限を定めたブロックを行い、解除後問題が発生する場合、無期限を検討すべきと考えます。なおあくまでも立場としては中立ですが、無期限には反対よりです。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 01:02 (UTC)
*** {{コメント}} 今のところは会話ページを塞ぐことにはなっていませんので、投稿ブロック解除の申請は自身の会話ページで可能です(もっとも目的外な利用をすれば塞ぐことになりますが)。ブロック解除の方針は日本語版ウィキソースにはありませんが、[[w:ja:Wikipedia:投稿ブロック解除依頼作成の手引き|日本語版ウィキペディア]]に準拠する形になるでしょうか。この辺りは別トピックで議論が必要ですね。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 05:33 (UTC)
**:{{コ}} @[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さん、私を期限付きブロックしたとしても問題解決はしないので、多数決と集合知によって私を無期限ブロックすべきです。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 07:02 (UTC)
**:{{コ}}私が書き込んだ直後にIPユーザーが何かを書き込んだようですが、そのIPユーザーは私のなりすましではなく赤の他人です。私は無期限ブロックされてもIPユーザーや別アカウントで書き込んだりしないので、心配せず無期限ブロックしてください。最後にお願いです。特に@[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さんにお願いです。[[Wikisource:管理者権限依頼#利用者:Kzhr]]にも書き込みましたが、Kzhrさんに対する管理者権限除去依頼を削除せずそのまま維持してください。管理者ユーザーとしてのKzhrさんを見張り続けるために除去依頼の維持が必要です。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 07:34 (UTC)
**:{{コメント}} 私の読み違えでしたら申し訳ないのですが、P9iKC7B1SaKk さんが Hideokun さんに今求めているのは、<u>「[[ja:w:泣いて馬謖を斬る]]」</u>ことではないでしょうか。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 15:39 (UTC) <small>下線部を誤字修正+Link --[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 16:38 (UTC)</small>
**::成程、泣いて馬謖を斬る、か。つまりあんたらにとっては規律を守ることが最大限に大事なのね。そのために一日中このサイトを監視して、問題人物を見つけたらブロックだ方針だ、合意だコミュニティだ騒ぎ立てて、正義の味方の学級委員長をきどるわけだ。別に我々戦争しているわけでも、そんな大したプロジェクトに身を投じているわけでもないのにね。結局一番重要なのは、規律を盾に目を吊り上げて他人を糾弾する事なんだね。--[[特別:投稿記録/82.221.137.162|82.221.137.162]] 2024年2月11日 (日) 16:51 (UTC)
**::規律と多数決。確かに一見民主主義が施行されているようにも見える。--[[特別:投稿記録/82.221.137.162|82.221.137.162]] 2024年2月11日 (日) 16:58 (UTC)
:私は一か月ブロックされましたが、私がKzhrさんに対する管理者権限停止の要請を取り下げることもなく、機械翻訳ページ削除の仕組みもできあがらないままです。次はどうされますか。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月7日 (日) 12:06 (UTC)
{{Reply to|Sakoppi|Hideokun}} 依頼提出から1か月以上、最終コメントから20日が経過しました。これ以上はコメントや票が出ないかと思いますので、議論の終結をお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年12月21日 (木) 09:34 (UTC)
{{Reply to|Sakoppi|Hideokun}} すみません、私のコメントから1か月経過しましたのでもう一度通知いたします。こちらの議論の終結をお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年1月21日 (日) 11:13 (UTC)
:@[[利用者:Sakoppi|Sakoppi]]さん、@[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さん、 [[Wikisource:管理者権限依頼#除去依頼]]で提起したKzhrさんに対する管理者権限除去依頼についても、裁決をお願いいたします。一旦取り下げたのですが、Kzhrさんから攻撃的な書き込みがありましたので考え直して、除去依頼を再度提起させていただきました。また、@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]さんから未成年者と揶揄する侮辱やこのブロック依頼の話題が進行中であることに便乗した脅迫的な書き込みを受けているため、この議論を終わらせていただけますと、幸いです。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年1月21日 (日) 11:46 (UTC)
{{Reply to|Syunsyunminmin|Infinite0694}} グローバル管理者で日本語話者の方(Ja-N)にも通知いたします。こちらの議論の終結をお願いいたします。ご不明な点があればコメントをください。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 07:41 (UTC)
: {{コメント}} 勘違いされているようなので、すみませんが少しだけ。ウィキメディア財団の運営する各プロジェクトにおいて、障がいであることを理由に排除されることはありません(すべてのプロジェクトの方針を見た訳ではありませんが恐らくはそうでしょう)。が、それは投稿ブロックの方針に反しない限りでの話です。方針に反している状態であれば、障がいがあろうとなかろうと投稿ブロックがかかることになります。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 07:41 (UTC)
:: {{コメント}} 今回の件につきましてですが、過去にKzhr氏から「[https://ja.wikisource.org/w/index.php?title=Wikisource:%E4%BA%95%E6%88%B8%E7%AB%AF&diff=prev&oldid=150296 すくなくともHideokunさんみたいにプロジェクトの私物化はしてないですね。]」等の暴言をいただいており、また、作品を投稿せず管理行為のみを行っている行動に対して疑問を抱いております。そのため、私の活動頻度が著しく低下したわけで、私が関わるとプロジェクトの私物化ととられかねませんので申し訳ありませんが、対処いたしかねます。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 10:55 (UTC)
:::このリンク先をよく読んで、悪意のある切り取りでないと分らないひとはいないと思うのですね。コミュニティの合意形成を妨げて私意を優先したことを指して私物化と言っているわけで、確かに何もしなければ私物化にはなりませんが、それで管理者としての務めを果たせているのかよくお考えいただければと思います。管理行為のみを行うことが疑問だというのは、趣味の問題なので、コメントはしません。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 02:31 (UTC)
::::何を言われているのかよくわかりませんが、リンク先は色々と参照できるようにするために設定しております。切り取りではありません。よく考えてから物はいいましょう。また、私物化というレッテル張りはおやめください。ある一点だけを切り取り私物化しているというのは木を見て森を見ずという小さいところしか見れないあなたの見識の低さを顕著に示しています。また、そのようなレッテル張りに私は深く傷ついたのでWikipediaにありますが「個人攻撃はしない」を行っているということです。また、あなたの攻撃的な言動、つまりは高圧的に上から目線で何事にも対応するためにいろいろと軋轢を生んでいることはWikipediaの履歴も参照すればよくわかります。あなたこそ管理者としての務めを果たせているのでしょうか。また、管理行為を趣味の問題と申すのはよくわかりません。ようするに作品は投稿しないけど管理だけさせろということになり、草取りのような行為でさえほとんどされていないようです。つまりはWikisorceの充実には貢献しません、利用者の監視のみしますと宣言しているようなものです。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2024年2月4日 (日) 09:51 (UTC)
::::: {{Reply to|Kzhr|Hideokun}} お二方ともどうかご冷静に。こちらはP9iKC7B1SaKkさんの投稿ブロック依頼ですので、直接関係の無い話題は別のトピックでお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月4日 (日) 15:31 (UTC)
: グローバル管理者の建前上、ローカルの管理者ではない私が日本語版ウィキソース内部の問題に対して判定/裁定するのは躊躇います。コミュニティでの合意事項を明示して依頼してもらえると助かります。 [[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]] ([[利用者・トーク:Syunsyunminmin|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 13:02 (UTC)
:: @[[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]]さん、迅速な返信ありがとうございます。この投稿ブロック依頼では賛成票は入ってはいるものの、合意に至っているとは言い難い状態ですので、合意事項は現時点ではありません。ただ、素性を知らないはずの利用者に対して発達障害者と断定して発言する行為([[特別:差分/216045|こちら]]や[[特別:差分/216047|こちら]])があっても、暫定的に投稿ブロックをかけることは難しいのでしょうか。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 16:22 (UTC)
:: @[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さん、対処しない旨、承知いたしました。ただKzhrさんの管理系における行為については、こちらでは無関係ですので、ご意見があれば[[Wikisource:管理者権限依頼#利用者:Kzhr]]でお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 16:22 (UTC)
:: {{コメント}} 私は賛成票を投じているので中立的なコメントとは言えませんが、この議論を終わらせたいと思っているのは合意できる部分ではないでしょうか。また、多数決で決めることではないとはいえ、反対票が入っていないことは、依頼に対処することを妨げないものと思います。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 06:05 (UTC)
: 無期限票と一任票がそれぞれ一つですので、無期限としてラフコンセンサスが出来ていると判断します。あまりにも目に余るものがあれば前倒しにしますが、念のため1週間程の予告期間をおいて、皆様がよろしいのであれば無期限ブロックを実施します。 [[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]] ([[利用者・トーク:Syunsyunminmin|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 12:15 (UTC)
:: お手数をおかけします。Syunsyunminminさんの対処に賛成いたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月4日 (日) 09:48 (UTC)
:::思うんだけど、とりあえず困った人をブロックして解決しようとするより、もうちょっと話し合ったら? 自分が衆愚の多数派に属しているから自分、自分たちが圧倒的に正しいと思い込むのが、ウィキメディアの典型的な馬鹿の発想だね。ブロックは懲罰でないってどこかに書いてなかった? じゃあ何でブロックせよと言い出すの? ブロックして痛めつけて自分たちの都合のいい考えを持つようにしたいんでしょ? 馬鹿馬鹿しいせこい考えで生きてる奴だけで、ウィキメディアを構成したい訳かね?ラフコンセサスなんて馬鹿げた言葉が出ているけど、馬鹿のコンセサスなんてあまり意味ないだろ? 本当に目に余る愚行をしているのは誰か? 考え直してみな。--[[特別:投稿記録/169.61.84.132|169.61.84.132]] 2024年2月4日 (日) 20:39 (UTC)
::::この長い議論の末に突然現れて話し合ったらと言い出せるのには首をひねりますが、[[User:P9iKC7B1SaKk]]における罵詈雑言のかずかずを見て、議論の成立する余地があるとどこのだれが言えるのでしょうか。もうすこし常識的に考えていただければと思います。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 08:46 (UTC)
:::::長い議論の末に突然現れて話し合ったらと云いだせるのが、なぜおかしいのですか? 私の見るところあなた達は今までの十倍は話し合うべきですね。大体ウィキメディアは話し合いが少なすぎますよ。基本的に馬鹿な多数派が暴力で自分たちの欲望をごり押ししているだけ。P9さんの罵詈雑言と言うけど、私の見た限りでは、多少は暴論に近いけど、基本的には正しいこと言っている。むしろ鉄の時代とか、温故知新さんだってかなり酷いこと言っていると思うけど…。大体いい大人を捕まえて子ども扱い、犯罪者扱い、ダメ人間扱いするのは最大級の侮辱ですよ。それこそあなた達大好物の礼儀と善意、個人攻撃をしないに反する言及でしょう。まあ議論の成立する余地は確かに少ない。ただそれは、P9さんが悪いのではなく、あなた達が悪いんだよ。貴方達が愚か者過ぎるの。正しい事と正しい行為を知らないのでしょう。常識って何かね? あなたも仏教と親鸞に心を寄せるなら、そんなもの何の価値も無いって知っているはずでは?--[[特別:投稿記録/169.61.84.147|169.61.84.147]] 2024年2月5日 (月) 09:23 (UTC)
::::::オープンプロクシからの議論参加は正規の手段ではありませんのでこれ以上止まないようであればブロックの対象となり得ます。ご注意ください。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 10:26 (UTC)
:::::::何だ、結局話し合いする気ゼロか。ブロックしたいならいつでもどこでも好きなだけしろよ。ただし俺はそこそこ別のIP 用意できるぜ。ただまあやっぱり関わらない方が良かったね。あんたらみたいな馬鹿見るとついつい文句言いたくなるんだが、やはり書かないのが正解だったようだね。卑怯者につける薬無し。木枯し紋次郎は、「あっしには関りのねえことでござんす」と云いつつ、あんたみたいな悪党を見るとついつい、立場の弱い人に助太刀しちゃうんだ。で、その結果ボロボロにやられるんだけどね(^^;;;)。合意、コミュニティ、コミュニティに疲弊をもたらす、お前は子供、しでかしたな、目に余る問題行為、問題利用者は監視しましょう、全て衆愚のファシストに都合のいい、言葉尻の欺瞞だね。(by--169.61.84.1**)--[[特別:投稿記録/158.85.23.146|158.85.23.146]] 2024年2月5日 (月) 10:43 (UTC)
:::::{{コメント}} 機械翻訳の件でもそうですが、品質が低いからという理由だけでページを削除する仕組みを作ろうとするのは入力担当者に対して失礼です。入力担当者の労力に対してもっと敬意を払ってください。気に入らない作品を削除する口実を無理に探す短絡性が、そのまま私をブロックする口実を無理に探す短絡性につながっています。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 09:24 (UTC)
: {{コメント}} オープンプロクシのIP利用者は[[w:ja:Wikipedia:進行中の荒らし行為#Honooo|この方かその模倣]]ですので無視してください。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 12:08 (UTC) {{small|修正。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 12:09 (UTC)}}
::Wikimedia 用語辞典。方針=気に入らない奴をブロック、追放していい理由。合意=多数決。コミュニティ=衆愚の多数派。管理者=いざという時に衆愚の友達の為に暴力を振るってくれる、権力者。スチュワード=衆愚の暴力者の親玉、衆愚の言う事は全て聞いてくれる。--[[特別:投稿記録/82.221.137.167|82.221.137.167]] 2024年2月11日 (日) 18:25 (UTC)
:::議論=自分たちの欲望を満たすための謀議、水戸黄門の越後屋と悪代官のようなものか?(^^;;)。--[[特別:投稿記録/82.221.137.178|82.221.137.178]] 2024年2月11日 (日) 19:31 (UTC)
::うーん、俺も最初はウィキメディアの管理者とかスチュワードは人格者で、常に大岡越前のような公平公正な判断、取り扱いをすると思っていたんだ。しかし実際には違った。常に衆愚の友達の為によきに計らって、権威的な言説をしつつ暴力と権力を振るうだけだったんだよね。そろそろこのサイトも終焉が近いのではないかね。終焉してリードオンリーにした方がいいと思うな。知識と知恵と情報のためには、新たな形態のサイトが必要だと思う。終焉しないにしても、何らかの改革と改善は必要だろう。--[[特別:投稿記録/82.221.137.186|82.221.137.186]] 2024年2月11日 (日) 20:28 (UTC)
* {{コメント}} IPの方は Honooo さんですよね? 改革と改善は必要だとしても、個々のコミュニティが単独でできることではないので、この依頼の議論では控えて下さると幸いです。また、このままではこの議論を終了することが出来ず、管理者の方も対処を躊躇うばかりかと思います。期限付きを考える方は、期間の提示をしてくださる方が裁定しやすいものと考えます。私の意見は、ブロックに{{賛成}}期間は対処者に一任(無期限にも反対しない)に変更ありません。被依頼者には、コミュニティを疲弊させない姿勢で帰ってきていただければと思います。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 23:32 (UTC)
*:いやー、確かに私がHonooo です(^^;;)。確かに私はここで余計な口出さない方がいいようですね。色々鬱屈が溜まっていた時にここのサイトを見て、この議論を見て、納得いかない言説と展開があったのでついつい口出ししてしまいましたが、もともと私が深く関わっていたプロジェクトでもないですし、口出しする権利はあまりないようです。只一点だけ、コミュニティを疲弊させるという表現は、欺瞞が多いと思います。多数決の多数派がそう主張しますが、こんな事態になったら誰しも疲弊するんでね。コミュニティってお前らのこと?、俺は含まれていないの?、なんて疑問を持つこともあると思います。そもそも多少の疲弊はするべきだろう。コミュニケーションなんて疲弊するものだし、疲弊してこそのコミュニティであり、議論であり、話し合いじゃあない?都合のいい時に疲弊と云い、都合のいい時に共同作業と云い、都合のいい時に負担という。やはりこのサイトには根源的な欺瞞がはびこっていると思う。--[[特別:投稿記録/82.221.137.187|82.221.137.187]] 2024年2月12日 (月) 00:53 (UTC)
*:{{返信}} ご提案ありがとうございます。冷却期間が必要かと思うのですが、当初のご提案通り1か月とさせていただければ幸いです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年2月12日 (月) 04:33 (UTC)
@[[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]]さん、予告より1週間以上経ちましたが、対処はされないのでしょうか。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月22日 (木) 15:53 (UTC)
: 予告後に[[#c-CES1596-20240210062300-Kzhr-20231111130400|期限付き票]]と[[#c-Hideokun-20240211010200-CES1596-20240210062300|無期限に反対の意見]]が入ったため様子を見ていました。無期限・1ヶ月・一任がそれぞれ1票ずつであり、この状態で無期限ブロックするのは難しいです。そのため今回は1ヶ月のブロックとして対処します。必要に応じて延長/再ブロック依頼をお願いします。 [[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]] ([[利用者・トーク:Syunsyunminmin|トーク]]) 2024年2月23日 (金) 12:04 (UTC)
:: {{コメント}} ありがとうございます。お手数をおかけしました。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月23日 (金) 14:30 (UTC)
== リネーム依頼 ==
新しくindexのページを作った際に、File:の接頭辞を削除するのを忘れてしまい[[Index:File:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvu]]を誤って作成してしまいました。つきましては、管理者権限をお持ちの方、Index:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvuへリネームしていただきたく。--[[利用者:HinokisOfRoma|HinokisOfRoma]] ([[利用者・トーク:HinokisOfRoma|トーク]]) 2024年1月3日 (水) 05:06 (UTC)
: {{コメント}} 私は管理者ではありませんが、移動(改名)は一般利用者でも対処可能でしたので、[[Index:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvu]]に移動しました。移動元の[[Index:File:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvu]]は{{tl|即時削除}}の貼り付けがエラーで出来なかったので、[[Wikisource:管理者伝言板]]にて管理者にお知らせしています。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年1月3日 (水) 06:28 (UTC)
::ありがとうございました。--[[利用者:HinokisOfRoma|HinokisOfRoma]] ([[利用者・トーク:HinokisOfRoma|トーク]]) 2024年1月5日 (金) 14:04 (UTC)
== Do you use Wikidata in Wikimedia sibling projects? Tell us about your experiences ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
''Note: Apologies for cross-posting and sending in English.''
Hello, the '''[[m:WD4WMP|Wikidata for Wikimedia Projects]]''' team at Wikimedia Deutschland would like to hear about your experiences using Wikidata in the sibling projects. If you are interested in sharing your opinion and insights, please consider signing up for an interview with us in this '''[https://wikimedia.sslsurvey.de/Wikidata-for-Wikimedia-Interviews Registration form]'''.<br>
''Currently, we are only able to conduct interviews in English.''
The front page of the form has more details about what the conversation will be like, including how we would '''compensate''' you for your time.
For more information, visit our ''[[m:WD4WMP/AddIssue|project issue page]]'' where you can also share your experiences in written form, without an interview.<br>We look forward to speaking with you, [[m:User:Danny Benjafield (WMDE)|Danny Benjafield (WMDE)]] ([[m:User talk:Danny Benjafield (WMDE)|talk]]) 08:53, 5 January 2024 (UTC)
</div>
<!-- User:Danny Benjafield (WMDE)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Global_message_delivery/Targets/WD4WMP/ScreenerInvite&oldid=26027495 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Reusing references: Can we look over your shoulder? ==
''Apologies for writing in English.''
The Technical Wishes team at Wikimedia Deutschland is planning to [[m:WMDE Technical Wishes/Reusing references|make reusing references easier]]. For our research, we are looking for wiki contributors willing to show us how they are interacting with references.
* The format will be a 1-hour video call, where you would share your screen. [https://wikimedia.sslsurvey.de/User-research-into-Reusing-References-Sign-up-Form-2024/en/ More information here].
* Interviews can be conducted in English, German or Dutch.
* [[mw:WMDE_Engineering/Participate_in_UX_Activities#Compensation|Compensation is available]].
* Sessions will be held in January and February.
* [https://wikimedia.sslsurvey.de/User-research-into-Reusing-References-Sign-up-Form-2024/en/ Sign up here if you are interested.]
* Please note that we probably won’t be able to have sessions with everyone who is interested. Our UX researcher will try to create a good balance of wiki contributors, e.g. in terms of wiki experience, tech experience, editing preferences, gender, disability and more. If you’re a fit, she will reach out to you to schedule an appointment.
We’re looking forward to seeing you, [[m:User:Thereza Mengs (WMDE)| Thereza Mengs (WMDE)]]
<!-- User:Thereza Mengs (WMDE)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=WMDE_Technical_Wishes/Technical_Wishes_News_list_all_village_pumps&oldid=25956752 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Invitation to join January Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We are the hosting this month’s [[:m:Wikisource Community meetings|Wikisource Community meeting]] on '''27 January 2024, 3 PM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1706367600 check your local time]).
As we gear up for our upcoming Wikisource Community meeting, we are excited to share some additional information with you.
The meetings will now be held on the last Saturday of each month. We understand the importance of accommodating different time zones, so to better cater to our global community, we've decided to alternate meeting times. The meeting will take place at 3 pm UTC this month, and next month it will be scheduled for 7 am UTC on the last Saturday. This rotation will continue, allowing for a balanced representation of different time zones.
As always, the meeting agenda will be divided into two halves. The first half of the meeting will focus on non-technical updates, including discussions about events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. The second half will delve into technical updates and conversations, addressing major challenges faced by Wikisource communities, similar to our previous Community meetings.
If you are interested in joining the meeting, kindly leave a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org''' and we will add you to the calendar invite.
Meanwhile, feel free to check out [[:m:Wikisource Community meetings|the page on Meta-wiki]] and suggest any other topics for the agenda.
Regards
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<small> Sent using [[利用者:MediaWiki message delivery|MediaWiki message delivery]] ([[利用者・トーク:MediaWiki message delivery|トーク]]) 2024年1月18日 (木) 10:54 (UTC)</small>
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ユニバーサル行動規範調整委員会の憲章の批准投票 ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting opens|当お知らせの多言語版はメタウィキをご参照ください。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting opens}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは
本日はお知らせがあり、お邪魔しました。実は[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee|ユニバーサル行動規範調整委員会]](U4C)の憲章<sup>※1</sup>の批准投票を受付中です。期限は'''2024年2月2日'''ですので、コミュニティの皆さんには[[m:Special:MyLanguage/Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Charter/Voter_information|投票と憲章に関するコメント投稿をセキュアポル(SecurePoll)]]経由でお願いします。すでにこの[[foundation:Special:MyLanguage/Policy:Universal_Code_of_Conduct/Enforcement_guidelines|行動規範施行ガイドライン]]<sup>※2</sup>の策定段階でご意見を寄せてくださった皆さんには、ほぼ同じ手順です。(※:1=U4C、Universal Code of Conduct Coordinating Committee。2=UCoC Enforcement Guidelines。)
[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|ユニバーサル行動規範調整委員会による現在の版]]をメタウィキに公開してありますので、翻訳版をご覧いただけます。
まず憲章をご一読いただき、賛否の投票をしてから、この文面を皆さんのコミュニティで共有いただけましたら誠に幸いです。U4C設立委員会としましては、皆さんの投票ご参加を心から願っています。
UCoC プロジェクトチーム代表<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年1月19日 (金) 18:09 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=25853527 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Wikimedians of Japan User Group 2024-01 ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
*'''全体ニュース'''
**
*'''「Wikimedians of Japan User Group」 からのお知らせ'''
**Wikimedians of Japan User Groupは、昨年2023年10月から11月にかけてJawpログインユーザーの皆様を対象にアンケートを行いました。1月に、結果報告を[https://diff.wikimedia.org/ja/ ウィキメディア財団公式ブログDiff]に掲載していただきました。調査に協力してくださった皆様に深く感謝いたします。
***[https://diff.wikimedia.org/ja/2024/01/10/%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%82%ad%e3%83%9a%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2%e7%b7%a8%e9%9b%86%e8%80%85%e3%81%ae%e3%83%a2%e3%83%81%e3%83%99%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%81%a8%e4%b8%8d%e6%ba%80%e3%80%80/ ウィキペディア編集者のモチベーションと不満 前半]
*** [https://diff.wikimedia.org/ja/2024/01/10/%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%82%ad%e3%83%9a%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2%e7%b7%a8%e9%9b%86%e8%80%85%e3%81%ae%e3%83%a2%e3%83%81%e3%83%99%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%81%a8%e4%b8%8d%e6%ba%80%e3%80%80-2/ ウィキペディア編集者のモチベーションと不満 後半]
<div style="-moz-column-count:2; -webkit-column-count:2; column-count:2; -webkit-column-width: 400px; -moz-column-width: 400px; column-width: 400px;">
'''[[ja:メインページ|日本語版ウィキペディア]]'''
*ニュース
**
*[[:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考|秀逸な記事の選考]]
**現在選考中の記事はありません。
*[[:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考|良質な記事の選考]]
**[[:w:ja:鰊場作業唄|鰊場作業唄]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/鰊場作業唄 20231220|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:間人ガニ|間人ガニ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/間人ガニ 20231223|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:パンロン会議|パンロン会議]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/パンロン会議 20231223|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:PlayStation 5のゲームタイトル一覧 (2020年-2021年)|PlayStation 5のゲームタイトル一覧 (2020年-2021年)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/PlayStation 5のゲームタイトル一覧 (2020年-2021年) 20231225|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:満奇洞|満奇洞]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/満奇洞 20231230|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:くど造|くど造]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/くど造 20231230|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:心停止|心停止]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/心停止 20231229|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:新潟電力|新潟電力]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/新潟電力 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:新潟電気|新潟電気]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/新潟電気 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:家屋文鏡|家屋文鏡]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/家屋文鏡 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:カラブリュエの戦い|カラブリュエの戦い]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/カラブリュエの戦い 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:さんかく座|さんかく座]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/さんかく座 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:マダガスカルにおける蚕|マダガスカルにおける蚕]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/マダガスカルにおける蚕 20240115|選考中]](2024年1月29日 (月) 03:11 (UTC)まで)
**[[:w:ja:大塚陽子|大塚陽子]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/大塚陽子 20240121|選考中]](2024年2月4日 (日) 08:52 (UTC)まで)
**[[:w:ja:全身麻酔の歴史|全身麻酔の歴史]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/全身麻酔の歴史 20240111|選考中]](2024年2月7日 (水) 16:27 (UTC)まで)
**[[:w:ja:狩野派|狩野派]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/狩野派 20240111|選考中]](2024年2月8日 (木) 00:08 (UTC)まで)
*[[:ja:Wikipedia:月間新記事賞|月間新記事賞]]
**[[:w:ja:新潟電力|新潟電力]]
**[[:w:ja:新潟電気|新潟電気]]
**[[:w:ja:家屋文鏡|家屋文鏡]]
**[[:w:ja:全身麻酔の歴史|全身麻酔の歴史]]
**[[:w:ja:カラブリュエの戦い|カラブリュエの戦い]]
*[[:ja:Wikipedia:珍項目/選考|珍項目の選考]]
**[[:w:ja:シャグマアミガサタケ|シャグマアミガサタケ]]
*[[:ja:Wikipedia:秀逸な一覧の選考|秀逸な一覧の選考]]
**現在選考中の記事はありません。
'''[[voy:ja:メインページ|日本語版ウィキボヤージュ]]'''
* [[voy:ja:Wikivoyage:国執筆コンテスト|国執筆コンテスト]]
**国執筆コンテストが開催中です。奮ってご参加ください!
'''[[m:Main_Page/ja|メタウィキ]]'''
* 日本語話者向けニュース
** メタウィキでは翻訳者を常時募集しています。気になる方は[[m:Meta:Babylon/ja|翻訳ポータル]]をご確認下さい。
</div>
<hr />
*'''前回配信:2023年12月31日'''
</div>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
配信元: '''[[m:Wikimedians of Japan User Group|Wikimedians of Japan User Group]]''' <br />
<small>[[m:Talk:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン|フィードバック]]。[[m:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン/targets list|購読登録・削除]]。</small>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
<!-- User:Sai10ukazuki@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedians_of_Japan_User_Group/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3/targets_list&oldid=25924865 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== あと数日で憲章の批准投票と、ユニバーサル行動規範調整委員の投票が終了 ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting reminder|当お知らせの多言語版はメタウィキをご参照ください。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting reminder}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは
本日はお知らせがあり、お邪魔しました。実は[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee|ユニバーサル行動規範調整委員会]](U4C)<sup>※1</sup>の投票受付が間もなく'''2024年2月2日'''に終わります。コミュニティの皆さんには[[m:Special:MyLanguage/Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Charter/Voter_information|セキュアポル(SecurePoll)にて憲章への投票とご意見の投稿をご検討ください]]。すでにこの[[foundation:Special:MyLanguage/Policy:Universal_Code_of_Conduct/Enforcement_guidelines|行動規範施行ガイドライン]]<sup>※2</sup>の策定段階でご意見を寄せてくださった皆さんには、ほぼ同じ手順です。(※:1=U4C、Universal Code of Conduct Coordinating Committee。2=UCoC Enforcement Guidelines。)
[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|ユニバーサル行動規範調整委員会による現在の版]]をメタウィキに公開してありますので、翻訳版をご覧いただけます。
まず憲章をご一読いただき、賛否の投票をしてから、この文面を皆さんのコミュニティで共有いただけましたら誠に幸いです。U4C設立委員会としましては、皆さんの投票ご参加を心からお待ちしております。
UCoC プロジェクトチーム一同になり代わり、よろしくお願いいたします。<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年1月31日 (水) 17:01 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=25853527 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== UCoC 調整委員会憲章について批准投票結果のお知らせ ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - results|このメッセージはメタウィキ(Meta-wiki)で他の言語に翻訳されています。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - results}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは。
ユニバーサル行動規範<!-- UCoC -->に関して、引き続き読んでくださりありがとうございます。本日は、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|ユニバーサル行動規範調整委員会の憲章]]<!-- UCoC 調整委員会の憲章 / U4Cの憲章 -->に関する[[m:Special:MyLanguage/Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Charter/Voter_information|批准投票]]の結果についてお知らせします。この批准投票では投票者総数は 1746 名、賛成 1249 票に対して反対 420 票でした。この批准投票では投票者の皆さんから、憲章<sup>※</sup>についてコメントを寄せてもらえるようにしました。("※"=Charter)
投票者のコメントのまとめと票の分析はメタウィキに数週間ほどで公表の予定です。
次の段階についても近々お知らせしますのでお待ちくだされば幸いです。
UCoC プロジェクトチーム一同になり代わり、よろしくお願いいたします。<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年2月12日 (月) 18:24 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26160150 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Invitation to join February Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We are the hosting this month’s [[:m:Wikisource Community meetings|Wikisource Community meeting]] on '''24 February 2024, 7 AM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1708758000 check your local time]).
The meeting agenda will be divided into two halves. The first half of the meeting will focus on non-technical updates, including discussions about events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. The second half will delve into technical updates and conversations, addressing major challenges faced by Wikisource communities, similar to our previous Community meetings.
If you are interested in joining the meeting, kindly leave a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org''' and we will add you to the calendar invite.
Meanwhile, feel free to check out [[:m:Wikisource Community meetings|the page on Meta-wiki]] and suggest any other topics for the agenda.
Regards
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<small> Sent using [[利用者:MediaWiki message delivery|MediaWiki message delivery]] ([[利用者・トーク:MediaWiki message delivery|トーク]]) 2024年2月20日 (火) 11:11 (UTC)</small>
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Wikimedians of Japan User Group 2024-02 ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
*'''全体ニュース'''
**
*'''「Wikimedians of Japan User Group」 からのお知らせ'''
<div style="-moz-column-count:2; -webkit-column-count:2; column-count:2; -webkit-column-width: 400px; -moz-column-width: 400px; column-width: 400px;">
'''[[:w:ja:メインページ|日本語版ウィキペディア]]'''
*ニュース
**
*[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考|秀逸な記事の選考]]
**[[:w:ja:アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)|アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)]]が[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考/アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵) 20240127|選考中]](2024年4月27日 (土) 14:49 (JST)まで)
*[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考|良質な記事の選考]]
**[[:w:ja:ウチキパン|ウチキパン]]が[[Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ウチキパン 20240129|選考]]を通過
**[[:w:ja:広島県産業奨励館|広島県産業奨励館]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/広島県産業奨励館 20240129|選考]]を通過
**[[:w:ja:ナムコ|ナムコ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ナムコ 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:鵲尾形柄香炉 (国宝)|鵲尾形柄香炉 (国宝)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/鵲尾形柄香炉 (国宝) 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:廻廊にて|廻廊にて]]を[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/廻廊にて 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:球果|球果]]を[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/球果 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:鮭 (高橋由一)|鮭 (高橋由一)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/鮭 (高橋由一) 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:外郎売|外郎売]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/外郎売 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:北斎漫画|北斎漫画]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/北斎漫画_20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:清水澄子 (さゝやき)|清水澄子 (さゝやき)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/清水澄子 (さゝやき)_20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:大阪南港事件|大阪南港事件]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/大阪南港事件 20240216|選考]]を通過
**[[:w:ja:PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2016年)|PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2016年)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2016年) 20240204|選考]]を通過
**[[:w:ja:プライス山 (ブリティッシュコロンビア州)|プライス山 (ブリティッシュコロンビア州)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/プライス山 (ブリティッシュコロンビア州) 20240215|選考]]を通過
**[[:w:ja:バブルネット・フィーディング|バブルネット・フィーディング]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/バブルネット・フィーディング 20240219|選考]]を通過
**[[:w:ja:スギ|スギ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/スギ 20240219|選考]]を通過
**[[:w:ja:ウィッチャー3_ワイルドハント|ウィッチャー3_ワイルドハント]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ウィッチャー3_ワイルドハント_20240224|選考中]](2024年3月9日 (土) 15:24 (UTC)まで)
**[[:w:ja:舟橋蒔絵硯箱|舟橋蒔絵硯箱]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/舟橋蒔絵硯箱 20240226|選考中]](2024年3月11日 (月) 02:58 (UTC)まで)
**[[:w:ja:羽田孜|羽田孜]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/羽田孜 20240226|選考中]](2024年3月11日 (月) 12:26 (UTC)まで)
*[[:w:ja:Wikipedia:月間新記事賞|月間新記事賞]]
**[[:w:ja:鵲尾形柄香炉 (国宝)|鵲尾形柄香炉 (国宝)]]
**[[:w:ja:ナムコ|ナムコ]]
**[[:w:ja:廻廊にて|廻廊にて]]
**[[:w:ja:球果|球果]]
**[[:w:ja:鮭 (高橋由一)|鮭 (高橋由一)]]
*[[:w:ja:Wikipedia:珍項目/選考|珍項目の選考]]
**現在選考中の項目はありません。
*[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な一覧の選考|秀逸な一覧の選考]]
**現在選考中の記事はありません。
'''[[:m:Main_Page/ja|メタウィキ]]'''
* 日本語話者向けニュース
** メタウィキでは翻訳者を常時募集しています。気になる方は[[:m:Meta:Babylon/ja|翻訳ポータル]]をご確認下さい。
</div>
<hr />
*'''前回配信:2024年1月26日'''
</div>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
配信元: '''[[:m:Wikimedians of Japan User Group|Wikimedians of Japan User Group]]''' <br />
<small>[[:m:Talk:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン|フィードバック]]。[[:m:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン/targets list|購読登録・削除]]。</small>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
<!-- User:Chqaz@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedians_of_Japan_User_Group/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3/targets_list&oldid=26262302 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== U4C 憲章の批准投票の結果報告、U4C 委員候補募集のお知らせ ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – call for candidates| このメッセージはMeta-wikiで他の言語に翻訳されています。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – call for candidates}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
各位
本日は重要な情報2件に関して、お伝えしたいと思います。第一に、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Vote results|ユニバーサル行動規範調整委員会憲章(U4C)の批准投票に添えられたコメント]]は、集計結果がまとまりました。第二に、U4C の委員立候補の受付が始まり、〆切は2024年4月1日です。
[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee|ユニバーサル行動規範調整委員会]](U4C)<sup>※</sup>とはグローバルな専門グループとして、UCoC が公平かつ一貫して実施されるように図ります。広くコミュニティ参加者の皆さんに、U4C への自薦を呼び掛けています。詳細と U4C の責務は、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|U4C 憲章を通読してください]]。(※=Universal Code of Conduct Coordinating Committee。)
憲章に準拠し、U4Cの定員は16名です。内訳はコミュニティ全般の代表8席、地域代表8席であり、ウィキメディア運動の多様性を反映するよう配慮してあります。
詳細の確認、立候補の届けは[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024|メタウィキ]]でお願いします。
UCoC プロジェクトチーム一同代表<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年3月5日 (火) 16:25 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26276337 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ウィキメディア財団理事会の2024年改選 ==
<section begin="announcement-content" />
: ''[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024/Announcement/Selection announcement| このメッセージの多言語版翻訳は、メタウィキで閲覧してください。]]''
: ''<div class="plainlinks">[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024/Announcement/Selection announcement|{{int:interlanguage-link-mul}}]] • [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:Wikimedia Foundation elections/2024/Announcement/Selection announcement}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]</div>''
各位
本年は、ウィキメディア財団理事会において任期満了を迎える理事はコミュニティ代表と提携団体代表の合計4名です[1]。理事会よりウィキメディア運動全域を招集し、当年の改選手続きに参加して投票されるようお願いします。
[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections committee|選挙管理委員会]]はこの手順を監督するにあたり、財団職員の補佐を受けます[2]。理事会組織統治委員会<sup>※1</sup>は2024改選の立候補資格のないコミュニティ代表と提携団体代表の理事から理事改選作業グループ<sup>※2</sup>を指名し、すなわち、Dariusz Jemielniak、Nataliia Tymkiv、Esra'a Al Shafei、Kathy Collins、Shani Evenstein Sigalov の皆さんです[3]。当グループに委任される役割とは、2024年理事改選の手順において理事会の監督、同会に継続して情報を提供することです。選挙管理委員会、理事会、財団職員の役割の詳細は、こちらをご一読願います[4]。(※:1=The Board Governance Committee。2=Board Selection Working Group。)
以下に節目となる日付を示します。
* 2024年5月:立候補受付と候補者に聞きたい質問の募集
* 2024年6月:提携団体の担当者は候補者12名の名簿を作成(立候補者が15名以下の場合は行わない)[5]
* 2024年6月-8月:選挙活動の期間
* 2024年8月末/9月初旬:コミュニティの投票期間は2週間
* 2024年10月–11月:候補者名簿の 身元調査
* 2024年12月の理事会ミーティング:新しい理事が着任
2024改選の手順の段取りを見てみましょう - 詳しい日程表、立候補の手順、選挙運動のルール、有権者の要件 - これらは[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024|メタウィキのこちらのページ]]を参照してご自分のプランを立ててください。
'''選挙ボランティア'''
この2024理事改選に関与するもう一つの方法とは、'''選挙ボランティア'''をすることです。選挙ボランティアとは、選挙管理委員会とその対応するコミュニティを結ぶ橋渡しをします。自分のコミュニティが代表権(訳注:間接民主制)を駆使するように、コミュニティを投票に向かわせる存在です。当プログラムとその一員になる方法の詳細は、この[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024/Election Volunteers|メタウィキのページ]]をご一読ください。
草々
[[m:Special:MyLanguage/User:Pundit|Dariusz Jemielniak]](組織統治委員長、理事会改選作業グループ)
[1] https://meta.wikimedia.org/wiki/Special:MyLanguage/Wikimedia_Foundation_elections/2021/Results#Elected
[2] https://foundation.wikimedia.org/wiki/Committee:Elections_Committee_Charter
[3] https://foundation.wikimedia.org/wiki/Minutes:2023-08-15#Governance_Committee
[4] https://meta.wikimedia.org/wiki/Wikimedia_Foundation_elections_committee/Roles
[5] 改選議席4席に対する候補者数の理想は12名ですが、候補者が15名を超えると最終候補者名簿づくりが自動処理で始まり、これは提携団体の担当者に選外の候補者を決めてもらうと、漏れた1-3人の候補者に疎外されたと感じさせるかもしれず、担当者に過重な負担を押し付けないように人力で最終候補者名簿を組まないようにしてあります。<section end="announcement-content" />
[[User:MPossoupe_(WMF)|MPossoupe_(WMF)]]2024年3月12日 (火) 19:57 (UTC)
<!-- User:MPossoupe (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26349432 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ご利用のウィキは間もなく読み取り専用に切り替わります ==
<section begin="server-switch"/><div class="plainlinks">
[[:m:Special:MyLanguage/Tech/Server switch|他の言語で読む]] • [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-Tech%2FServer+switch&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]
<span class="mw-translate-fuzzy">[[foundation:|ウィキメディア財団]]ではメインと予備のデータセンターの切り替えテストを行います。</span> 災害が起こった場合でも、ウィキペディアとその他のウィキメディア・ウィキが確実にオンラインとなるようにするための措置です。
全トラフィックの切り替えは'''{{#time:n月j日|2024-03-20|ja}}'''に行います。 テストは '''[https://zonestamp.toolforge.org/{{#time:U|2024-03-20T14:00|en}} {{#time:H:i e|2024-03-20T14:00}}]''' に開始されます。
残念ながら [[mw:Special:MyLanguage/Manual:What is MediaWiki?|MediaWiki]] の技術的制約により、切り替え作業中はすべての編集を停止する必要があります。 ご不便をおかけすることをお詫びするとともに、将来的にはそれが最小限にとどめられるよう努めます。
'''閲覧は可能ですが、すべてのウィキにおいて編集ができないタイミングが短時間あります。'''
*{{#time:Y年n月j日(l)|2024-03-20|ja}}には、最大1時間ほど編集できない時間が発生します。
*この間に編集や保存を行おうとした場合、エラーメッセージが表示されます。 その間に行われた編集が失われないようには努めますが、保証することはできません。 エラーメッセージが表示された場合、通常状態に復帰するまでお待ちください。 その後、編集の保存が可能となっているはずです。 しかし念のため、保存ボタンを押す前に、行った変更のコピーをとっておくことをお勧めします。
''その他の影響'':
*バックグラウンドジョブが遅くなり、場合によっては失われることもあります。 赤リンクの更新が通常時よりも遅くなる場合があります。 特に他のページからリンクされているページを作成した場合、そのページは通常よりも「赤リンク」状態が長くなる場合があります。 長時間にわたって実行されるスクリプトは、停止しなければなりません。
* コードの実装は通常の週と同様に行う見込みです。 しかしながら、作業上の必要性に合わせ、ケースバイケースでいずれかのコードフリーズが計画時間に発生することもあります。
* [[mw:Special:MyLanguage/GitLab|GitLab]]は90分ほどの間に利用不可になります。
必要に応じてこの計画は延期されることがあります。 [[wikitech:Switch_Datacenter|wikitech.wikimedia.org で工程表を見る]]ことができます。 変更はすべて工程表で発表しますので、ご参照ください。 この件に関しては今後、さらにお知らせを掲示するかもしれません。 作業開始の30分前から、すべてのウィキで画面にバナーを表示する予定です。 '''この情報を皆さんのコミュニティで共有してください。'''</div><section end="server-switch"/>
[[user:Trizek (WMF)|Trizek (WMF)]], 2024年3月15日 (金) 00:01 (UTC)
<!-- User:Trizek (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Non-Technical_Village_Pumps_distribution_list&oldid=25636619 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Switching to the Vector 2022 skin ==
[[File:Vector 2022 video-en.webm|thumb]]
''[[mw:Special:MyLanguage/Reading/Web/Desktop Improvements/Updates/2024-03 for Wikisource|Read this in your language]] • <span class=plainlinks>[https://mediawiki.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-Reading%2FWeb%2FDesktop+Improvements%2FUpdates%2F2024-03+for+Wikisource&language=&action=page&filter= {{Int:please-translate}}]</span> • Please tell other users about these changes''
皆さんこんにちは。私たちはウィキメディア財団ウェブチームです。以前の投稿をお読みいただいたかもしれませんが、この一年間、私たちはすべてのウィキ上での新しいデフォルトとしてベクター2022年版(Vector 2022 skin)に切り替えるにために準備を進めてきました。以前のウィキソースコミュニティとの対話により、スキンの切り替えを妨げるIndex名前空間の問題をご指摘いただいたため、この問題を解決いたしました。
3月25日にウィキソースのウィキ上で展開する予定です。
ベクター2022年版の詳細と改善点については、[https://www.mediawiki.org/wiki/Reading/Web/Desktop_Improvements/ja ドキュメント]をご覧ください。変更後、問題がある場合(ガジェットが動作しない、バグに気づいた等)は、恐れ入りますが、以下にコメントをお願いいたします。また、ご希望に応じて[[metawiki:Wikisource_Community_meetings|ウィキソースのコミュニティミーティング]]のようなイベントに私たちが参加させていただき、皆さんと直接お話しすることも可能です。いつもご協力いただき有難うございます。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。(Translation by [[利用者:JNakayama-WMF|JNakayama-WMF]])
English: Hi everyone. We are the [[mw:Special:MyLanguage/Reading/Web|Wikimedia Foundation Web team]]. As you may have read in our previous message, over the past year, we have been getting closer to switching every wiki to the Vector 2022 skin as the new default. In our previous conversations with Wikisource communities, we had identified an issue with the Index namespace that prevented switching the skin on. [[phab:T352162|This issue is now resolved]].
We are now ready to continue and will be deploying on Wikisource wikis on '''March 25th'''.
To learn more about the new skin and what improvements it introduces, please [[mw:Reading/Web/Desktop Improvements|see our documentation]]. If you have any issues with the skin after the change, if you spot any gadgets not working, or notice any bugs – please comment below! We are also open to joining events like the [[m:Wikisource Community meetings|Wikisource Community meetings]] to talk to you directly. Thank you! [[User:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]] ([[User talk:SGrabarczuk (WMF)|<span class="signature-talk">トーク</span>]]) 2024年3月18日 (月) 20:50 (UTC)
<!-- User:SGrabarczuk (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGrabarczuk_(WMF)/sandbox/MM/Varia&oldid=26416927 のリストを使用して送信したメッセージ -->
:Hello Mr.[[利用者:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]]. I speak japanese, sorry.
:JST ではすでに March 25th なので、すでに今更な気もしますが、本当に変更されるのでしょうか。返信が付かないのは、メッセージが英語だからかもしれません。すでにvecter 2022 になっている、日本語版のウィキクォート・ウィキブックスなどがありますが、フォントがすこし小さくなっていませんか。もちろんブラウザ側でズームはできますが、ウィキペディアほどには人が集まっていないウィキソースで、既定のスキンになるのは心配です。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年3月24日 (日) 18:30 (UTC)
::[[File:Accessibility for reading first iteration prod unpinned.png|thumb]]
::日本語が話せないため、機械翻訳にて失礼いたします。
::@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]さん、
::コメントありがとう。その通りだと思う。Vector 2022」のフォントサイズは少し小さめです。もっと大きくできないかチームに聞いてみます。
::それに加えて、新しい[[特別:個人設定#mw-prefsection-betafeatures|ベータ機能]]があります: "Accessibility for Reading (Vector 2022) "です。これは、3つのフォントサイズを選択できるメニューを追加するものだ:小、標準、大。小は現在のデフォルトと同じでなければならない。そうでない場合はエラーとなり、チームに修正を求めることになる。StandardとLargeは現在のデフォルトより大きくする。最終的には、標準が新しいデフォルトになるはずです。このベータ機能の目的は、ウィキ上のテキストを読みやすくすることです。
::この機能を使って「標準」のフォントサイズを選択することをお勧めしたい。どう思いますか?
::Thank you for your comment. I think you are correct. The font size in "Vector 2022" is a bit smaller. I’ll ask the team if we can increase it.
::In addition to that, there’s a new beta feature: "Accessibility for Reading (Vector 2022)”. It adds a menu with three font sizes to choose between: small, standard, and large. Small should be equal to the current default. If it’s not, then it's an error and I’ll ask the team to fix it. Standard and large should be bigger than the current default. Eventually, standard would become the new default. The goal for this beta feature is to make it easier for people to read text on wiki.
::I would like to recommend using this feature and choosing the „standard" font size. What do you think?--[[利用者:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]] ([[利用者・トーク:SGrabarczuk (WMF)|トーク]]) 2024年3月25日 (月) 13:39 (UTC)
:::いえ、申し訳ありませんが、この問題を再現することはできません。つまり、異なるスキンを比較した場合、フォントサイズは同じなのです。URLに?safemode=1を追加して([https://ja.wikisource.org/wiki/Wikisource:%E4%BA%95%E6%88%B8%E7%AB%AF?safemode=1 例])、それでも違いがあるかどうか確認していただけますか?safemode=1はカスタマイズを無効にし、問題が私たちの側にあることを確認する方法です。ありがとう!
:::No, my apologies, I’m not able to replicate the issue. I mean when I compare different skins, the font sizes are the same. Could you add ?safemode=1 to the URL (example) and check if you still see a difference? ?safemode=1 disables your customization and is the method to make sure that the problem is on our side. Thank you!--[[利用者:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]] ([[利用者・トーク:SGrabarczuk (WMF)|トーク]]) 2024年3月25日 (月) 15:22 (UTC)
::::Thank you for reply.
::::技術面に詳しくないので、確認してもよく解りません。ごめんなさい。ですが、おそらく技術ニュース:2024-13 に関することだと思っています。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年3月26日 (火) 03:15 (UTC)
== Invitation to join March Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We're excited to announce our upcoming Wikisource Community meeting, scheduled for '''30 March 2024, 3 PM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1711810800 check your local time]). As always, your participation is crucial to the success of our community discussions.
Similar to previous meetings, the agenda will be split into two segments. The first half will cover non-technical updates, such as events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. In the second half, we'll dive into technical updates and discussions, addressing key challenges faced by Wikisource communities.
'''New Feature: Event Registration!''' <br />
Exciting news! We're switching to a new event registration feature for our meetings. You can now register for the event through our dedicated page on Meta-wiki. Simply follow the link below to secure your spot and engage with fellow Wikisource enthusiasts:
[[:m:Event:Wikisource Community Meeting March 2024|Event Registration Page]]
'''Agenda Suggestions:''' <br />
Your input matters! Feel free to suggest any additional topics you'd like to see included in the agenda.
If you have any suggestions or would just prefer being added to the meeting the old way,
simply drop a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org'''.
Thank you for your continued dedication to Wikisource. We look forward to your active participation in our upcoming meeting.
Best regards, <br />
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ダークモード対応 night-mode-unaware-background-color ==
* 2024年3月時点、日本語版ウィキソースではまだダークモードが実装されていないが、Lintエラーのページで「[[特別:LintErrors/night-mode-unaware-background-color]]」を確認可能。
* night-mode-unaware-background-colorエラーの抑止方法は「[[:mw:Help:Lint_errors/night-mode-unaware-background-color|night-mode-unaware-background-color]]」にあるように、背景色と文字色の同時指定。
* 2024年3月時点、テンプレートがエラー原因のものについては、暫定的にbackground指定の後に続けてcolor:inherit;を追加してエラー出力を抑止済。
* 将来ダークモードが実装されてテキスト表示に問題が起きた場合は、「insource:/back[^;]+; *color *: *inherit/」[https://ja.wikisource.org/w/index.php?search=insource%3A%2Fback%5B%5E%3B%5D%2B%3B+%2Acolor+%2A%3A+%2Ainherit%2F&title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%A4%9C%E7%B4%A2&profile=advanced&fulltext=1&ns10=1]で検索ヒットするテンプレートや「[[モジュール:Documentation/styles.css]]」のなかの文字色指定をinheritから固定色に変える必要あり。
--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年3月28日 (木) 16:53 (UTC)
== Wikimedians of Japan User Group 2024-03 ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
*'''全体ニュース'''
**[[:m:Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Election/2024/ja|ユニバーサル行動規範調整委員会の選挙]]の立候補が受付中です。(2024年4月1日(月)(UTC)まで)
*'''「Wikimedians of Japan User Group」 からのお知らせ'''
**
<div style="-moz-column-count:2; -webkit-column-count:2; column-count:2; -webkit-column-width: 400px; -moz-column-width: 400px; column-width: 400px;">
'''[[:w:ja:メインページ|日本語版ウィキペディア]]'''
*ニュース
**
*[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考|秀逸な記事の選考]]
**[[:w:ja:アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)|アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)]]が[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考/アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵) 20240127|選考]]を通過
*[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考|良質な記事の選考]]
**[[:w:ja:伏見天皇|伏見天皇]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/伏見天皇 20240308|選考]]を通過
**[[:w:ja:トコジラミ|トコジラミ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/トコジラミ 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:山崎蒸溜所|山崎蒸溜所]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/山崎蒸溜所 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:胞子嚢穂|胞子嚢穂]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/胞子嚢穂 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:一姫二太郎|一姫二太郎]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/一姫二太郎 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:ヴァージナルの前に座る若い女|ヴァージナルの前に座る若い女]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ヴァージナルの前に座る若い女 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:南満洲鉄道ケハ7型気動車|南満洲鉄道ケハ7型気動車]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/南満洲鉄道ケハ7型気動車 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:石狩町女子高生誘拐事件|石狩町女子高生誘拐事件]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/石狩町女子高生誘拐事件 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:天狗草紙|天狗草紙]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/天狗草紙 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:生命|生命]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/生命 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:フェンタニル|フェンタニル]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/フェンタニル 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:根拠に基づく医療|根拠に基づく医療]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/根拠に基づく医療 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)|PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)]]が[[:w:ja:PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)|PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)]](2024年4月6日 (土) 07:52 (UTC)まで)
**[[:w:ja:ワリード1世|ワリード1世]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ワリード1世_20240323|選考中]](2024年4月6日 (土) 23:59 (UTC)まで)
**[[:w:ja:ラーメンズ|ラーメンズ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ラーメンズ 20240324|選考中]](2024年4月7日 (日) 01:13 (UTC)まで)
**[[:w:ja:狩野安信|狩野安信]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/狩野安信 20240327|選考中]](2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC)まで)
**[[:w:ja:チャールズ・ルイス・ティファニー|チャールズ・ルイス・ティファニー]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/チャールズ・ルイス・ティファニー 20240327|選考中]](2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC))
**[[:w:ja:シュチェパン・マリ|シュチェパン・マリ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/シュチェパン・マリ 20240327|選考中]](2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC))
*[[:w:ja:Wikipedia:月間新記事賞|月間新記事賞]]
**[[:w:ja:一姫二太郎|一姫二太郎]]
**[[:w:ja:指月布袋画賛|指月布袋画賛]]
**[[:w:ja:胞子嚢穂|胞子嚢穂]]
**[[:w:ja:ヴァージナルの前に座る若い女|ヴァージナルの前に座る若い女]]
**[[:w:ja:南満洲鉄道ケハ7型気動車|南満洲鉄道ケハ7型気動車]]
**[[:w:ja:ペプシ海軍|ペプシ海軍]]
**[[:w:ja:天狗草紙|天狗草紙]]
**[[:w:ja:石狩町女子高生誘拐事件|石狩町女子高生誘拐事件]]
</div>
<hr />
*'''前回配信:2024年2月27日'''
</div>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
配信元: '''[[:m:Wikimedians of Japan User Group|Wikimedians of Japan User Group]]''' <br />
<small>[[:m:Talk:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン|フィードバック]]。[[:m:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン/targets list|購読登録・削除]]。</small>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
<!-- User:Chqaz@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedians_of_Japan_User_Group/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3/targets_list&oldid=26436809 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== 全集の収録方法について ==
[[:カテゴリ:史籍集覧]]に収録されている作品のうち、「[[武家諸法度 (元和令)]]」などはIndexファイル([[Index:Shisekisyūran17.pdf]]など)を底本としていますが、「[[太閤記]]」などは独自のテンプレートに原文のみを収録する形になっています。後者の場合、例えば今たまたま開いた「[https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E4%BA%8C#c-2 太閤記巻二 ○因幡国取鳥落城之事]」3ページ目冒頭の一文「福光樽行器看を広間にすへ並へしかは…」([https://dl.ndl.go.jp/pid/3431173/1/244 『史籍集覧』第6冊244ページ冒頭])の誤字「看」を「肴」に訂正したいと考えても、どこを訂正すればよいのかを知ることは簡単ではありません。「[[ヘルプ:Indexページ#雑誌の掲載記事と書籍の部分掲載について]]」では、「djvuファイルまたはpdfファイルを作成する場合、その号から数ページだけ公開する予定であっても、書籍や雑誌の号全体のdjvuファイルやpdfファイルを作成するよう」求めており、校訂作業の必要性を考慮しても、前者の方式に統一した方がよいと思われます。ご意見をいただければ幸いです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月20日 (土) 12:22 (UTC)
:「統一」の定義があいまい。強制性を伴う罰則規定がなければ効果は乏しい。簡単がどうかは個々人の主観に属することなので、規則変更の理由にすべきではない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 03:12 (UTC)
::前者の方法では、訂正すべき箇所を見つけた場合には、該当するページへのリンクをたどれば修正できるようになっているのに対して、後者の方法では画像を参照することしかできません。この点に問題があると思われます。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 06:06 (UTC)
:{{コ}}主観を述べると、Wikisource校正システムは中東・欧州系言語などで使う表音文字での編集が前提になっており、日本語などで使う表意文字はWebブラウザ上の編集作業にあまり向いていない。よって、日本語Wikitextは出版業界と同じように高性能なテキスト編集ソフトを使って編集作業するのが自然。公文書を除けば旧字・異体字の多い戦前の出版物しか入力できない日本語Wikisourceは、現代日本の出版業界の標準よりも難易度が高いという事実をふまえておく必要がある。Wikisource校正システムは、ただの道具・手段であって目的ではない。作業効率を下げてまで使う価値はない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 07:05 (UTC)
:{{コ}}最近行われた文字の小さなVector2022への既定外装変更から察するに、Wikisourceの開発者は日本語利用者の利便性をあまり考えていないのではないか。Wikisource校正システムも同じ病根がある。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 07:26 (UTC)
::日本語利用者の利便性は、きちんと主張しないと伝わりにくいのは確かです。しかし、だからといって校正のことは考えなくてよいということにはならないと思います。校正は、Wikisourceの信頼性を確保する上で不可欠の要素です。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 08:24 (UTC)
:::{{提案}}日本語ウィキソースには提案を書き込むと敵対や衝突とみなす文化があるので少ししか書かないが、ページ単位の校正レベルの管理は非効率なのでやめるべき。道路標識の速度制限と同じように編集者の自由裁量で校正レベルの開始位置を設定できたほうが良い。テキストは上から下への単純な一方通行なのだから、保守はさほど面倒ではない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 10:15 (UTC)
::::英語での議論になりますが、技術的な提案は https://phabricator.wikimedia.org/ で行うことができます。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 12:38 (UTC)
::::「Phabricator」での議論することに臆してしまったりするのであれば、この井戸端にも連絡してくださっている「Wikisource Community meeting」などの選択肢もあるかと思います。いずれにしろ進行は英語主体になるかと思われますが、技術的なことを話したいのであれば、直接伝えるのが良いと考えます。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 14:02 (UTC)
:{{コ}} 前者の方式を使用することに{{賛成}}します。後者となる独自のテンプレートは、[[ja:カテゴリ:特定作品のためのテンプレート|特定作品のためのテンプレート]] に含まれるものかと思われますが、内容は作品の本文にあたるものが大部分であるため、テンプレート(ひな形)として使うには汎用的ではないと考えます。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 04:37 (UTC)
:{{コ}}前者に統一するからには、「[[あたらしい憲法のはなし]]」のようにIndexを使っていない国会図書館デジタルコレクションを底本とする作品をすべてIndexを使うよう置き換えなければならないが、皆にその労力を払う覚悟があるのか。以前、機械翻訳の作品削除に関する議論の時にも感じたが、ある決定をした結果、何が起きるか、何をしなければならなくなるかについて、もっと想像力を働かせたほうが良い。入力や校正をあまりせずなぜか井戸端での議論で張り切る人に特にその辺もふまえて考えてもらいたい。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 09:28 (UTC)
:{{コ}}前者に統一すると決めた場合、決めるだけでおそらくだれもやらないので、私が既存作品のIndex利用への置き換えを拒否した場合は、作品が削除されたり私がブロックされることになるだろう。編集方法がわからないなら質問すれば良いだろうに、なぜこのような攻撃的な議論を開始したのか理解できない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 10:29 (UTC)
::コメントありがとうございます。今回取り上げさせていただいたのは、「全集の収録方法」についてのみです。これは、複数の人が編集に関わる可能性が高いことからも、ご理解いただけるものと思います。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 11:08 (UTC)
:::{{コ}}複数の人が編集に関わる競合の危険性は全集に限ったことではなく、通常の巨大サイズ作品でも同じことです。テンプレート名前空間ページにも標準名前空間ページと同じく最大2048KBのWikitextサイズ制約があるのでさほど心配しなくて良いはず。テキスト本体をテンプレート化したのは他ページでのプレビュー機能を使うためであり、Page名前空間ページ編集作業にはない機能。これがテンプレートの優位性。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 12:28 (UTC)
::::ご指摘のように競合の問題もあるかもしれませんが、差し当たっての問題は、既に述べたように、史籍集覧で複数の方式による作品が混在していること、一方の方式に校正方法に関する問題が存在することです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 14:02 (UTC)
:::::複数の方式が混在することや校正システムを使っていないことのなにが問題なのかよくわからない。私は今後も同じ入力方法を続ける。私は有期限ブロックされたぐらいで自分の考えが変わったりはしないので、Wikisourceコミュニティが私の入力方法と共存できないのであれば、私を無期限ブロックするほかない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月25日 (木) 09:29 (UTC)
::::::{{返}} 私が問題と思うのは、P9iKC7B1SaKk さんが入力方法に、自己流を押し通そうとしていることです。「編集方法がわからないなら質問すれば良い」と仰っていますが、[[w:ja:Wikipedia:Lua#Luaについて]]で、「第三者が誰も理解できない、ということがないように」と書かれているように、校正者が作業しやすい方式にして頂きたいというものです。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年4月26日 (金) 08:07 (UTC)
== ja ==
重要なことなので、表現を変えてもう一度指摘しておきます。べつに[[m:削除主義|削除主義者]]の片棒を担ぐ気はさらさらありません。ウィキソース日本語版(ja ws)は「日本語(ja)の」コンテンツを扱うプロジェクトです。欧文のみコンテンツが投稿されていれば、日本語でないため、すぐに out of scope であると気づくはずです。しかし、日本国内にある日本語(ja)以外の言語には鈍感ではありませんか。ja以外の言語コンテンツは、対応する言語版に掲載します。対応する言語版が存在しなければ、[[oldwikisource:|オールドウィキソース]](ウィキメディア・インキュベータに相当するプロジェクト)に投稿します。jaの原文を収録するのが「日本語版」であって、「日本版」ではありません。tkn(徳之島語版)、ryu(琉球語版)、zh-classical(漢文版)、ja-classical(古典日本語版)、yoi(与那国語版)、xug(国頭語版)、mvi(宮古語版)などのja(日本語版)以外の言語が紛れていないか点検をお願いします。--[[利用者:Charidri|Charidri]] ([[利用者・トーク:Charidri|トーク]]) 2024年4月20日 (土) 12:58 (UTC)
:返り点は日本語独自のものであり他の言語に存在しない。他人に負担の大きい移植作業をやらさせるのではなく、自ら率先して移植作業を行い手本を示せ。隗より始めよ。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 03:05 (UTC)
== Invitation to join April Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We are the hosting this month’s Wikisource Community meeting on '''27 April 2024, 7 AM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1714201200 check your local time]).
Similar to previous meetings, the agenda will be split into two segments. The first half will cover non-technical updates, such as events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. In the second half, we'll dive into technical updates and discussions, addressing key challenges faced by Wikisource communities.
Simply follow the link below to secure your spot and engage with fellow Wikisource enthusiasts:
[[:m:Event:Wikisource Community Meeting April 2024|Event Registration Page]]
If you have any suggestions or would just prefer being added to the meeting the old way,
simply drop a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org'''.
Thank you for your continued dedication to Wikisource. We look forward to your active participation in our upcoming meeting.
Regards
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<small> Sent using [[利用者:MediaWiki message delivery|MediaWiki message delivery]] ([[利用者・トーク:MediaWiki message delivery|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 12:21 (UTC)</small>
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== 第1期U4C委員選挙の投票について ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – vote opens|このメッセージはメタウィキで他の言語に翻訳されています。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – vote opens}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは、
本日のお知らせは、現在、ユニバーサル行動規範調整委員会(U4C<sup>※</sup>)の選挙期間中であり、2024年5月9日が最終日である点を述べます(訳注:期日を延長)。選挙の詳細はぜひ[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024|メタウィキの選挙特設ページ]]を開いて、有権者の要件と選挙の手順をご参照ください。(※=Universal Code of Conduct Coordinating Committee。)
U4C(当委員会)はグローバルなグループとして、UCoCの公平で一貫した施行を促そうとしています。コミュニティ参加者の皆さんには過日、当委員会委員への立候補を呼びかけるお知らせを差し上げました。当委員会の詳細情報とその責務の詳細は、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|U4C 憲章]]をご一読願います。
本メッセージをご参加のコミュニティの皆さんにも共有してくだされば幸いです。
UCoC プロジェクトチーム一同になり代わり、よろしくお願いいたします。<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年4月25日 (木) 20:20 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26390244 のリストを使用して送信したメッセージ -->
87tx9o0maj3dmnstnezv9za4cdfg5o4
219108
219103
2024-04-26T08:46:36Z
P9iKC7B1SaKk
37322
/* 全集の収録方法について */ 返信
wikitext
text/x-wiki
{{井戸端}}
== ブロック依頼:[[User:P9iKC7B1SaKk]]氏 ==
[[Wikisource:削除依頼/アーカイブ/2023年#(*)「セルブ・クロアート・スロヴェーヌ」王国建国史_-_ノート]]、[[利用者・トーク:JOT_news#カテゴリへの追加について]]、[[#機械翻訳の濫用?]]などにおいて、針小棒大な発言を繰返し、コミュニティを疲弊させています。[[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk#言葉遣いについて]]において抑制をお願いしましたが、聞き入れないばかりか、[[#管理者権限の停止依頼]]を提出し、噛み合わない議論を続けるばかりです。コミュニケーションへの姿勢を改めていただければこの依頼は不要となりますが、他プロジェクトの文書ではありますが、[[w:Wikipedia:礼儀を忘れない]]などをご熟読いただき、お考えを改めていただくまで、1か月程度のブロックを提起します。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月11日 (土) 13:04 (UTC)
:{{コメント}} 私としては針小棒大ではなくむしろ意味のある書き込みをしているという自負があります。ましてや他人をからかったことなど一度もありません。改めるべきはどちらなのか、冷静になって考えていただければと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月11日 (土) 13:54 (UTC)
:[[:w:Wikipedia:礼儀を忘れない]]を確認させていただきました。Kzhrさんのこの投稿は'''深刻な事例'''に相当する「追放や投稿ブロックを不当に要求すること」に該当する可能性があります。追放や投稿ブロックは、私が提案しているKzhrさんへの管理者権限停止よりも明らかに重いものです。針小棒大な発言をしているのもKzhrさんのほうです。取り消し編集に「バンダリズム」とログ要約欄に書き込んだ件ではJOT Newsさんと編集合戦が起きたわけでもなく穏便に話し合いで解決しつつあったのです。トラブルの当事者でないKzhrさんが他人の感情を勝手に決めつけて私を批判し続けていることが問題の本質なのです。バンダリズムという単語にKzhrさんが強い拒否反応を示されているのはおかしいと思います。私を含め誰もが悪意なくバンダリズムをやってしまう恐れがあり、悪意の有無に関係なくバンダリズムをバンダリズムと冷静に指摘しつつ取り消し編集するのは正しいことです。さもなければバンダリズム編集がし放題になってしまいます。「バンダリズム」との指摘をログ要約欄に書き込まれただけで怒る短絡的な人こそ追放や投稿ブロックにふさわしいのではないでしょうか。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 05:11 (UTC)
::JOT Newsさんとの間だけのことのように議論をずらすのはやめていただけますか。また、百歩譲って穏便に解決したのだとしても、過剰に批判的な言辞をものしていいことにもなりませんし、また、バンダリズムの自己流解釈についても指摘を受け止められないという証拠を強化はしても、P9iKC7B1SaKkさんにとって有利になるとはとても思えません。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 14:09 (UTC)
:::{{コメント}} 「[[:w:Wikipedia:荒らし]]」によると、荒らしとは「百科事典の品質を故意に低下させようとするあらゆる編集のこと」でありつつも、「百科事典を改良しようとなされた善意の努力は、間違いや見当違いや不適切なものでも、荒らしとは捉えない」とあります。
:::「金融」と「革命」というかなり抽象的なカテゴリにお気に入りブックマークのように小説などの作品を追加していくのは、Kzhrさんには善意の努力に見えたのかもしれませんが、私には善意の努力には見えませんでした。よって、私はこれを荒らしと判断し、取り消し編集を行いました。あれこれと要約欄に書き込むのも不自然なので感情が入らないよう淡々とバンダリズムと書いたのは今でも最も適切な対応だったと思っています。実際、それを見たであろうJOT Newsさんから説明を求める問い合わせはありましたが、感情的で否定的な反応は来ていません。納得してくれたと思います。Kzhrさんが荒らしでないと思うのであれば、JOT Newsさんの「金融」と「革命」へのカテゴリへの作品追加を復元なさってください。復元しないのであればその理由を明確に説明してください。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 14:27 (UTC)
:::{{コメント}} 過剰に批判的な言辞かどうかの判断をKzhrさんの主観だけで決めようとするのは良くありません。JOT Newsさんによるカテゴリ追加が客観的に善意の編集であることをKzhrさんに説明して頂く必要があります。善意を説明できないなら荒らしということになります。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 14:48 (UTC)
:::{{コメント}} 一般論の「善意」ではわかりにくいでしょうから、法律用語としての「善意」、具体的には「ユーザーページのページを以外を私的な用途に使ってはいけない」という事実をJOT Newsさんが知らなかったかどうかを論点にして頂くと良いかと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 15:19 (UTC)
:::{{コメント}} 訂正します。「ユーザーページのページを以外を私的な用途に使ってはいけない」→「自分のユーザー名前空間以外のページを私的な用途に使ってはいけない」--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 15:23 (UTC)
:::{{コメント}} 改めて、整理しますと、JOT Newsさんが「ユーザーページ以外のページを私的な用途に使ってはいけない」という事実を知らなかったと証明された場合は「善意による編集」であって荒らしではないので私のバンダリズムとの記述は過剰に批判的な言辞である、ということになります。Kzhrさん、以上の点をふまえて、説明をお願いします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 15:34 (UTC)
:::{{コメント}} Kzhrさんは「JOT Newsさんによるカテゴリ追加はそもそも私的な用途ではなく公的な用途である」という論駁も可能です。その場合は、私的な用途ではないのですからJOT Newsさんによるカテゴリ追加を復元すべきと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 16:00 (UTC)
:{{コメント}} 相手と話し合うことなしに「ログ要約欄にバンダリズム(あるいはrvvも)を書き込んではいけない」という独自ルールを作って他人に押し付けようしているのが、客観的なKzhrさんの状態です。私がKzhrさんの管理者権限の停止を求めている一番の理由もここにあります。規則のどこを読んでもそのような解釈はできないので話がかみ合わないのです。私は、他のユーザーさんが荒らしと対話してから取り消し作業をするところをまだ一度も見たことがありません。Kzhrさんは経験があるでしょうから、その時のログを提示できるかと思います。ログのご提示をお願いいたします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 16:49 (UTC)
* {{賛成}} このセクションだけを見ても、数時間のうちに何度もコメントを残しておられますので、思いついた反駁を都度記載されているように見受けます。議論をするには、冷静に内容を読み直し、自身の意見をまとめる時間が必要かと思います。よってブロックに賛成票を投じます。期間については対処者に一任します。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 17:04 (UTC)
*:{{コ}}'''追記''' 会話を試みた結果、「[[w:ja:Wikipedia:児童・生徒の方々へ|Wikipedia:児童・生徒の方々へ]]」の対象者かもしれないと感じました。期間は一任の意見は変わりませんが、実年齢の推測が私には出来ないため、無期限にも反対しません。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月19日 (日) 07:26 (UTC)<small>linkを失敗していました。失礼しました。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 05:40 (UTC)</small>
:{{反対}} 連続投稿を不快に思われたかたがたに、お詫びします。以後連投しないよう気を付けます。ブロックは困るので自分自身への反対票を投じさせてください。もしブロックと決まった場合はどうか来週まで猶予期間を下さい。現在、わりと大物を作っている最中で今週中に入力完成の見込みです。それをまとめてWikisourceに書き込む時間とWikisourceでの実動作確認をして調節する時間をどうしても頂きたいのです。ご理解のほどお願いいたします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 17:36 (UTC)
::ご自身のブロック依頼へ票を投じることはできません([[w:Wikipedia:投稿ブロック依頼#依頼・コメント資格について]])。ルールを把握してください。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 11:48 (UTC)
* {{賛成}} しばらく被依頼者を様子見していましたが、初対面の人に対していきなり「バンダリズム」呼ばわり、バンダリズムと言ったことに説明を求められても具体的な回答は無し、言動を注意されても俺は悪くないの一点張りと呆れるばかりでした。様々な議論を引っ搔き回し他の利用者を振り回した挙句、自分が投稿ブロックされる可能性が出てくれば猶予をくれとは随分と虫が良すぎませんか。以上から被依頼者の投稿ブロックに賛成します。<del>期間は今のところは一任しますが、期間を定めないことも反対しません。</del>--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 12:17 (UTC) {{small|票を修正。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月17日 (金) 17:16 (UTC)}}
** {{コ}} 票を賛成(期間:一任)から賛成(期間:無期限)に変更します。[[特別:差分/213876|こちらの編集]]ですが、対立した方に対してああすればよかったなどと言うのは、正直反省してから出る言動とは思えません。諫められたのは単語の選び方だけでなく、無礼な態度・姿勢も含まれていることにまだ気付かないのでしょうか。一定期間が経過しても状況は変わらないと判断し、投稿ブロックの期間は定めない票に変更します。「私は今後、一切自治活動をしません」とのことですが、いわゆる管理系以外のページでも軋轢を生むことは目に見えていますから、あまり意味のない宣言だと私は思います。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月17日 (金) 17:16 (UTC)
*:{{コメント}} @[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]]さん、バンダリズムと言ったことへの具体的な回答は十分に行いました。ログをお読みになってください。初対面かどうかは関係ありません。年季が長かろうが荒らしは荒らしなのです。JOT Newsさんの編集が荒らしではないと思うのであれば、金融カテゴリへの作品追加を復元してさしあげてください。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 12:37 (UTC)
*:{{コメント}} 私が広義のバンダリズムと判断して取り消し処理で[[:カテゴリ:金融]]を除去した作品を以下に列挙します。
*:* [[R.U.R./第2幕]] ※ただしログにバンダリズムとの記載なし
*:* [[クルアーン/雌牛章]]
*:* [[魔術]]
*:* [[カシノの昂奮]]
*:* [[二十世紀の巴里/第十三章]]
*:* [[新聞評]]
*:* [[国際社会主義者評論 (1900-1918)/第1巻/第1号/イギリスと国際社会主義]]
*:* [[MIVILUDES2004年度報告書]]
*:* [[国際社会主義者評論 (1900-1918)/第1巻/第1号/金権政治か民主主義か? ]]
*:* [[ブラジルの金融情勢]]
*:JOT Newsさんによる上記作品の金融カテゴリ追加が荒らしでないと思う方は、JOT Newsさんの名誉のために上記作品を金融カテゴリに復元してあげてください。復元しない場合はしない理由を教えてください。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 12:49 (UTC)
*::バンダリズムではないなら復元すべきだというのは論理破綻です。一般的なバンダリズムの解釈には当たらないと言っているだけで、そのカテゴリが妥当かどうかについては述べていません。他の参加者を荒しだと呼ぶということは、共同作業の拒否を意味するわけで、だからこそ妥当ではないと考えたとしても敬意をもって接するよう努めてきたわけです。共同作業を大事にしないと仰るのであれば、いっしょにやっていくことは難しいので、それを改めていただきたいというのがこのブロック依頼の趣旨です。重要なコンテンツを投稿したいといったことは考慮に値しません。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 13:50 (UTC)
*:::{{コメント}} 返信ありがとうございます。「荒らし」や「バンダリズム」はあくまでも特定の行為でありその人の人格否定や侮辱を伴うものではないと思っていました。時にだれでもうっかりや出来心でやってしまうものだと思っていました。たとえ話で恐縮ですが、サッカーにハンドやオフサイドやファールというルール違反があります。あなたの今のプレイはファールだと指摘したからと言って敬意の欠如にならないのと同様に、バンダリズムとの指摘ももっと軽いものと思っていました。バンダリズムとは違う正しい名称があるのであれば以後はそれを使いますのでお教えください。あともう一点、「[[利用者・トーク:JOT_news#カテゴリへの追加について]]」でのJOT Newsさんに対する私の書き込みで敬意を欠いている部分についてご指摘ください。改善します。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 14:24 (UTC)
*:::{{コメント}} 連投になって申し訳ありません。私は相手の行いを事細かにあげつらって批判するのをさけるためのわざとふんわりしたあいまいな表現をしたくて「バンダリズム」や「他の人が迷惑です」と書き込んだつもりでした。英語の辞書の定義のままの行為としてのvandalismと思い込んでいました。「バンダリズム」や「他の人が迷惑です」がふさわしくないようですので、適切な表現をご教示ください。そのカテゴリが妥当でない理由を教えていただければ、以後その表現を使います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 15:16 (UTC)
*::{{コメント}} 今後は、身勝手な判断で自治行為まがいのことをしませんのでお許しください。落書きなどの明らかな荒らしではない編集への介入は一切しないようにします。私はウィキソースの文化をよくわかっていませんでした。反省しています。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 16:31 (UTC)
:{{提案}} 私なりに穏便な取り消しログ文言を考えてみました。「持続困難」です。判断基準があいまいなので他の人が作業を引き取れない、他の作品に同じことを適用する労力が大きすぎる、などの意味です。今どきよく聞く「持続可能」の反対である「持続不可能」だと強すぎるので、控え目に「持続困難」にしてあります。
:こんなことを提案してみましたが、私は今後、一切自治活動をしませんので、どうかご安心を。改めて謝罪いたします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月14日 (火) 02:58 (UTC)
:{{コメント}} 「持続困難」といったログ文面を提案するなどのことは、被依頼者が問題を十分に理解したとはあまり思えないのですが(適切な表現を教えてほしいとありますが、世の中のマナーの本・敬語の本など読まれればよいと思います)、さしあたって被依頼者が軋轢を生むような投稿を止めたため、この依頼の緊急性はひとまず失われたかに思われますので、依頼者としては取り下げてもよいかと思いますがいかがでしょうか。ただし、ご賛同の声も強かったことは銘記すべきで、被依頼者は今後原典の投稿に専念なさるべきことを強く申し添えたく思います。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 01:04 (UTC)
::{{返信}} 今後、コミュニティを消耗させることはないだろうという判断であれば、依頼の取り下げ、あるいは今回は対処せずの終了にも、異議を唱えるものではありません。ただ、今のところ賛成票の撤回をするには至っていないと、私は考えています。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 05:23 (UTC)
:: {{コメント}} 正直ウィキソース内での活動場所を少し狭めたのみで、被依頼者が問題を理解しているとは私も思えません。利用者ページで不穏なことを投稿しているところを見るに、利用者ページを介して問題を引き起こすことは目に見えています(そもそも利用者ページを日記のように使うのってどうなの?と思うのですが一旦置いておきます)。投稿ブロックの建前は「問題発生の予防」「被害発生の回避」な訳ですが、[[w:ja:Wikipedia:投稿ブロックの方針#コミュニティを消耗させる利用者|コニュニティを消耗させた]]実績がある以上は、投稿ブロックはそれら建前とも反しないと思います。依頼取り下げに反対するとまでは言いませんが、少なくとも私の賛成票は撤回せずそのままにしておきます。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 05:33 (UTC)
::{{コメント}}ご返信どうもありがとうございます。利用者ページのほう確認しましたが、ブロックをちら付かせているという繰返しの発言がありましたので、文書を読んであらたまる類いのものではないのだろうという結論に傾きつつあります。利用者ページであれば他者への自由な発言をしていいわけではありません。無期限のブロックもやむなしと考えますが、自身で提起したブロック依頼ですので、他の管理者の方にご結論をまとめていただきたいと思っています。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年12月1日 (金) 07:01 (UTC)
:管理者のかたにお願いです。攻撃的な言動で他者の書き込みに対する脅迫や言論統制を行おうとしているのはどちらなのか、公正な判断をお願いいたします。ウィキペディアの議論は発達障害などさまざまな障害を抱えた人でも平等に参加できる開かれた仕組みは大切だと思います。ですが、少人数による形ばかりの多数決が常に正しい結論を導き出せるとは限らないと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年12月23日 (土) 00:46 (UTC)
:私がウィキソースからいなくなるか、@[[利用者:Kzhr|Kzhr]]・@[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]]・@[[利用者:安東大將軍倭國王|安東大將軍倭國王]]・@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]の4人がウィキソースからいなくならない限り、この問題は解決しません。和解は不可能です。決断をお願いします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 07:31 (UTC)
:{{賛成}} (ただし期限付き)賛成されている方々のご意見は十分理解できます。私も何度か意見の衝突を経験しました。ただ、P9iKC7B1SaKkさんの[[User:P9iKC7B1SaKk|利用者ページ]]冒頭の投稿作品一覧からも分かる通り、フォーマットに関する意見の違いはあるものの、わずかの間に膨大な貢献をされました。この点を併せて考慮いただければ幸いです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年2月10日 (土) 06:23 (UTC)
::{{返信}} 無期限は「期限をさだめ無い」を意味するものだと考えます。被依頼者が自身の問題点を把握し、改善できるのならば、ブロック解除もできるでしょう。私見ながら、機械翻訳に関するものでもありますが、「わずかの間に膨大な貢献」をされるのは困ります。P9iKC7B1SaKk さんが[[利用者:P9iKC7B1SaKk|利用者ページ]]で仰ることに頷ける部分もありますが、「自分は校正をしたくないけれど、したい人がすればいい」ということでは、先が思いやられます。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月10日 (土) 08:59 (UTC)
** {{コ}}Wikisourceではメーリングリストが整備されていないことから無期限は事実上の永久になってしまう可能性があります。私自身はほぼ交渉がないためどのような活動をしていたかは把握しておりませんが、もしブロックとなる場合ですが、まずは期限を定めたブロックを行い、解除後問題が発生する場合、無期限を検討すべきと考えます。なおあくまでも立場としては中立ですが、無期限には反対よりです。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 01:02 (UTC)
*** {{コメント}} 今のところは会話ページを塞ぐことにはなっていませんので、投稿ブロック解除の申請は自身の会話ページで可能です(もっとも目的外な利用をすれば塞ぐことになりますが)。ブロック解除の方針は日本語版ウィキソースにはありませんが、[[w:ja:Wikipedia:投稿ブロック解除依頼作成の手引き|日本語版ウィキペディア]]に準拠する形になるでしょうか。この辺りは別トピックで議論が必要ですね。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 05:33 (UTC)
**:{{コ}} @[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さん、私を期限付きブロックしたとしても問題解決はしないので、多数決と集合知によって私を無期限ブロックすべきです。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 07:02 (UTC)
**:{{コ}}私が書き込んだ直後にIPユーザーが何かを書き込んだようですが、そのIPユーザーは私のなりすましではなく赤の他人です。私は無期限ブロックされてもIPユーザーや別アカウントで書き込んだりしないので、心配せず無期限ブロックしてください。最後にお願いです。特に@[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さんにお願いです。[[Wikisource:管理者権限依頼#利用者:Kzhr]]にも書き込みましたが、Kzhrさんに対する管理者権限除去依頼を削除せずそのまま維持してください。管理者ユーザーとしてのKzhrさんを見張り続けるために除去依頼の維持が必要です。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 07:34 (UTC)
**:{{コメント}} 私の読み違えでしたら申し訳ないのですが、P9iKC7B1SaKk さんが Hideokun さんに今求めているのは、<u>「[[ja:w:泣いて馬謖を斬る]]」</u>ことではないでしょうか。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 15:39 (UTC) <small>下線部を誤字修正+Link --[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 16:38 (UTC)</small>
**::成程、泣いて馬謖を斬る、か。つまりあんたらにとっては規律を守ることが最大限に大事なのね。そのために一日中このサイトを監視して、問題人物を見つけたらブロックだ方針だ、合意だコミュニティだ騒ぎ立てて、正義の味方の学級委員長をきどるわけだ。別に我々戦争しているわけでも、そんな大したプロジェクトに身を投じているわけでもないのにね。結局一番重要なのは、規律を盾に目を吊り上げて他人を糾弾する事なんだね。--[[特別:投稿記録/82.221.137.162|82.221.137.162]] 2024年2月11日 (日) 16:51 (UTC)
**::規律と多数決。確かに一見民主主義が施行されているようにも見える。--[[特別:投稿記録/82.221.137.162|82.221.137.162]] 2024年2月11日 (日) 16:58 (UTC)
:私は一か月ブロックされましたが、私がKzhrさんに対する管理者権限停止の要請を取り下げることもなく、機械翻訳ページ削除の仕組みもできあがらないままです。次はどうされますか。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月7日 (日) 12:06 (UTC)
{{Reply to|Sakoppi|Hideokun}} 依頼提出から1か月以上、最終コメントから20日が経過しました。これ以上はコメントや票が出ないかと思いますので、議論の終結をお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年12月21日 (木) 09:34 (UTC)
{{Reply to|Sakoppi|Hideokun}} すみません、私のコメントから1か月経過しましたのでもう一度通知いたします。こちらの議論の終結をお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年1月21日 (日) 11:13 (UTC)
:@[[利用者:Sakoppi|Sakoppi]]さん、@[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さん、 [[Wikisource:管理者権限依頼#除去依頼]]で提起したKzhrさんに対する管理者権限除去依頼についても、裁決をお願いいたします。一旦取り下げたのですが、Kzhrさんから攻撃的な書き込みがありましたので考え直して、除去依頼を再度提起させていただきました。また、@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]さんから未成年者と揶揄する侮辱やこのブロック依頼の話題が進行中であることに便乗した脅迫的な書き込みを受けているため、この議論を終わらせていただけますと、幸いです。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年1月21日 (日) 11:46 (UTC)
{{Reply to|Syunsyunminmin|Infinite0694}} グローバル管理者で日本語話者の方(Ja-N)にも通知いたします。こちらの議論の終結をお願いいたします。ご不明な点があればコメントをください。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 07:41 (UTC)
: {{コメント}} 勘違いされているようなので、すみませんが少しだけ。ウィキメディア財団の運営する各プロジェクトにおいて、障がいであることを理由に排除されることはありません(すべてのプロジェクトの方針を見た訳ではありませんが恐らくはそうでしょう)。が、それは投稿ブロックの方針に反しない限りでの話です。方針に反している状態であれば、障がいがあろうとなかろうと投稿ブロックがかかることになります。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 07:41 (UTC)
:: {{コメント}} 今回の件につきましてですが、過去にKzhr氏から「[https://ja.wikisource.org/w/index.php?title=Wikisource:%E4%BA%95%E6%88%B8%E7%AB%AF&diff=prev&oldid=150296 すくなくともHideokunさんみたいにプロジェクトの私物化はしてないですね。]」等の暴言をいただいており、また、作品を投稿せず管理行為のみを行っている行動に対して疑問を抱いております。そのため、私の活動頻度が著しく低下したわけで、私が関わるとプロジェクトの私物化ととられかねませんので申し訳ありませんが、対処いたしかねます。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 10:55 (UTC)
:::このリンク先をよく読んで、悪意のある切り取りでないと分らないひとはいないと思うのですね。コミュニティの合意形成を妨げて私意を優先したことを指して私物化と言っているわけで、確かに何もしなければ私物化にはなりませんが、それで管理者としての務めを果たせているのかよくお考えいただければと思います。管理行為のみを行うことが疑問だというのは、趣味の問題なので、コメントはしません。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 02:31 (UTC)
::::何を言われているのかよくわかりませんが、リンク先は色々と参照できるようにするために設定しております。切り取りではありません。よく考えてから物はいいましょう。また、私物化というレッテル張りはおやめください。ある一点だけを切り取り私物化しているというのは木を見て森を見ずという小さいところしか見れないあなたの見識の低さを顕著に示しています。また、そのようなレッテル張りに私は深く傷ついたのでWikipediaにありますが「個人攻撃はしない」を行っているということです。また、あなたの攻撃的な言動、つまりは高圧的に上から目線で何事にも対応するためにいろいろと軋轢を生んでいることはWikipediaの履歴も参照すればよくわかります。あなたこそ管理者としての務めを果たせているのでしょうか。また、管理行為を趣味の問題と申すのはよくわかりません。ようするに作品は投稿しないけど管理だけさせろということになり、草取りのような行為でさえほとんどされていないようです。つまりはWikisorceの充実には貢献しません、利用者の監視のみしますと宣言しているようなものです。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2024年2月4日 (日) 09:51 (UTC)
::::: {{Reply to|Kzhr|Hideokun}} お二方ともどうかご冷静に。こちらはP9iKC7B1SaKkさんの投稿ブロック依頼ですので、直接関係の無い話題は別のトピックでお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月4日 (日) 15:31 (UTC)
: グローバル管理者の建前上、ローカルの管理者ではない私が日本語版ウィキソース内部の問題に対して判定/裁定するのは躊躇います。コミュニティでの合意事項を明示して依頼してもらえると助かります。 [[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]] ([[利用者・トーク:Syunsyunminmin|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 13:02 (UTC)
:: @[[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]]さん、迅速な返信ありがとうございます。この投稿ブロック依頼では賛成票は入ってはいるものの、合意に至っているとは言い難い状態ですので、合意事項は現時点ではありません。ただ、素性を知らないはずの利用者に対して発達障害者と断定して発言する行為([[特別:差分/216045|こちら]]や[[特別:差分/216047|こちら]])があっても、暫定的に投稿ブロックをかけることは難しいのでしょうか。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 16:22 (UTC)
:: @[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さん、対処しない旨、承知いたしました。ただKzhrさんの管理系における行為については、こちらでは無関係ですので、ご意見があれば[[Wikisource:管理者権限依頼#利用者:Kzhr]]でお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 16:22 (UTC)
:: {{コメント}} 私は賛成票を投じているので中立的なコメントとは言えませんが、この議論を終わらせたいと思っているのは合意できる部分ではないでしょうか。また、多数決で決めることではないとはいえ、反対票が入っていないことは、依頼に対処することを妨げないものと思います。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 06:05 (UTC)
: 無期限票と一任票がそれぞれ一つですので、無期限としてラフコンセンサスが出来ていると判断します。あまりにも目に余るものがあれば前倒しにしますが、念のため1週間程の予告期間をおいて、皆様がよろしいのであれば無期限ブロックを実施します。 [[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]] ([[利用者・トーク:Syunsyunminmin|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 12:15 (UTC)
:: お手数をおかけします。Syunsyunminminさんの対処に賛成いたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月4日 (日) 09:48 (UTC)
:::思うんだけど、とりあえず困った人をブロックして解決しようとするより、もうちょっと話し合ったら? 自分が衆愚の多数派に属しているから自分、自分たちが圧倒的に正しいと思い込むのが、ウィキメディアの典型的な馬鹿の発想だね。ブロックは懲罰でないってどこかに書いてなかった? じゃあ何でブロックせよと言い出すの? ブロックして痛めつけて自分たちの都合のいい考えを持つようにしたいんでしょ? 馬鹿馬鹿しいせこい考えで生きてる奴だけで、ウィキメディアを構成したい訳かね?ラフコンセサスなんて馬鹿げた言葉が出ているけど、馬鹿のコンセサスなんてあまり意味ないだろ? 本当に目に余る愚行をしているのは誰か? 考え直してみな。--[[特別:投稿記録/169.61.84.132|169.61.84.132]] 2024年2月4日 (日) 20:39 (UTC)
::::この長い議論の末に突然現れて話し合ったらと言い出せるのには首をひねりますが、[[User:P9iKC7B1SaKk]]における罵詈雑言のかずかずを見て、議論の成立する余地があるとどこのだれが言えるのでしょうか。もうすこし常識的に考えていただければと思います。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 08:46 (UTC)
:::::長い議論の末に突然現れて話し合ったらと云いだせるのが、なぜおかしいのですか? 私の見るところあなた達は今までの十倍は話し合うべきですね。大体ウィキメディアは話し合いが少なすぎますよ。基本的に馬鹿な多数派が暴力で自分たちの欲望をごり押ししているだけ。P9さんの罵詈雑言と言うけど、私の見た限りでは、多少は暴論に近いけど、基本的には正しいこと言っている。むしろ鉄の時代とか、温故知新さんだってかなり酷いこと言っていると思うけど…。大体いい大人を捕まえて子ども扱い、犯罪者扱い、ダメ人間扱いするのは最大級の侮辱ですよ。それこそあなた達大好物の礼儀と善意、個人攻撃をしないに反する言及でしょう。まあ議論の成立する余地は確かに少ない。ただそれは、P9さんが悪いのではなく、あなた達が悪いんだよ。貴方達が愚か者過ぎるの。正しい事と正しい行為を知らないのでしょう。常識って何かね? あなたも仏教と親鸞に心を寄せるなら、そんなもの何の価値も無いって知っているはずでは?--[[特別:投稿記録/169.61.84.147|169.61.84.147]] 2024年2月5日 (月) 09:23 (UTC)
::::::オープンプロクシからの議論参加は正規の手段ではありませんのでこれ以上止まないようであればブロックの対象となり得ます。ご注意ください。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 10:26 (UTC)
:::::::何だ、結局話し合いする気ゼロか。ブロックしたいならいつでもどこでも好きなだけしろよ。ただし俺はそこそこ別のIP 用意できるぜ。ただまあやっぱり関わらない方が良かったね。あんたらみたいな馬鹿見るとついつい文句言いたくなるんだが、やはり書かないのが正解だったようだね。卑怯者につける薬無し。木枯し紋次郎は、「あっしには関りのねえことでござんす」と云いつつ、あんたみたいな悪党を見るとついつい、立場の弱い人に助太刀しちゃうんだ。で、その結果ボロボロにやられるんだけどね(^^;;;)。合意、コミュニティ、コミュニティに疲弊をもたらす、お前は子供、しでかしたな、目に余る問題行為、問題利用者は監視しましょう、全て衆愚のファシストに都合のいい、言葉尻の欺瞞だね。(by--169.61.84.1**)--[[特別:投稿記録/158.85.23.146|158.85.23.146]] 2024年2月5日 (月) 10:43 (UTC)
:::::{{コメント}} 機械翻訳の件でもそうですが、品質が低いからという理由だけでページを削除する仕組みを作ろうとするのは入力担当者に対して失礼です。入力担当者の労力に対してもっと敬意を払ってください。気に入らない作品を削除する口実を無理に探す短絡性が、そのまま私をブロックする口実を無理に探す短絡性につながっています。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 09:24 (UTC)
: {{コメント}} オープンプロクシのIP利用者は[[w:ja:Wikipedia:進行中の荒らし行為#Honooo|この方かその模倣]]ですので無視してください。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 12:08 (UTC) {{small|修正。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 12:09 (UTC)}}
::Wikimedia 用語辞典。方針=気に入らない奴をブロック、追放していい理由。合意=多数決。コミュニティ=衆愚の多数派。管理者=いざという時に衆愚の友達の為に暴力を振るってくれる、権力者。スチュワード=衆愚の暴力者の親玉、衆愚の言う事は全て聞いてくれる。--[[特別:投稿記録/82.221.137.167|82.221.137.167]] 2024年2月11日 (日) 18:25 (UTC)
:::議論=自分たちの欲望を満たすための謀議、水戸黄門の越後屋と悪代官のようなものか?(^^;;)。--[[特別:投稿記録/82.221.137.178|82.221.137.178]] 2024年2月11日 (日) 19:31 (UTC)
::うーん、俺も最初はウィキメディアの管理者とかスチュワードは人格者で、常に大岡越前のような公平公正な判断、取り扱いをすると思っていたんだ。しかし実際には違った。常に衆愚の友達の為によきに計らって、権威的な言説をしつつ暴力と権力を振るうだけだったんだよね。そろそろこのサイトも終焉が近いのではないかね。終焉してリードオンリーにした方がいいと思うな。知識と知恵と情報のためには、新たな形態のサイトが必要だと思う。終焉しないにしても、何らかの改革と改善は必要だろう。--[[特別:投稿記録/82.221.137.186|82.221.137.186]] 2024年2月11日 (日) 20:28 (UTC)
* {{コメント}} IPの方は Honooo さんですよね? 改革と改善は必要だとしても、個々のコミュニティが単独でできることではないので、この依頼の議論では控えて下さると幸いです。また、このままではこの議論を終了することが出来ず、管理者の方も対処を躊躇うばかりかと思います。期限付きを考える方は、期間の提示をしてくださる方が裁定しやすいものと考えます。私の意見は、ブロックに{{賛成}}期間は対処者に一任(無期限にも反対しない)に変更ありません。被依頼者には、コミュニティを疲弊させない姿勢で帰ってきていただければと思います。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 23:32 (UTC)
*:いやー、確かに私がHonooo です(^^;;)。確かに私はここで余計な口出さない方がいいようですね。色々鬱屈が溜まっていた時にここのサイトを見て、この議論を見て、納得いかない言説と展開があったのでついつい口出ししてしまいましたが、もともと私が深く関わっていたプロジェクトでもないですし、口出しする権利はあまりないようです。只一点だけ、コミュニティを疲弊させるという表現は、欺瞞が多いと思います。多数決の多数派がそう主張しますが、こんな事態になったら誰しも疲弊するんでね。コミュニティってお前らのこと?、俺は含まれていないの?、なんて疑問を持つこともあると思います。そもそも多少の疲弊はするべきだろう。コミュニケーションなんて疲弊するものだし、疲弊してこそのコミュニティであり、議論であり、話し合いじゃあない?都合のいい時に疲弊と云い、都合のいい時に共同作業と云い、都合のいい時に負担という。やはりこのサイトには根源的な欺瞞がはびこっていると思う。--[[特別:投稿記録/82.221.137.187|82.221.137.187]] 2024年2月12日 (月) 00:53 (UTC)
*:{{返信}} ご提案ありがとうございます。冷却期間が必要かと思うのですが、当初のご提案通り1か月とさせていただければ幸いです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年2月12日 (月) 04:33 (UTC)
@[[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]]さん、予告より1週間以上経ちましたが、対処はされないのでしょうか。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月22日 (木) 15:53 (UTC)
: 予告後に[[#c-CES1596-20240210062300-Kzhr-20231111130400|期限付き票]]と[[#c-Hideokun-20240211010200-CES1596-20240210062300|無期限に反対の意見]]が入ったため様子を見ていました。無期限・1ヶ月・一任がそれぞれ1票ずつであり、この状態で無期限ブロックするのは難しいです。そのため今回は1ヶ月のブロックとして対処します。必要に応じて延長/再ブロック依頼をお願いします。 [[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]] ([[利用者・トーク:Syunsyunminmin|トーク]]) 2024年2月23日 (金) 12:04 (UTC)
:: {{コメント}} ありがとうございます。お手数をおかけしました。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月23日 (金) 14:30 (UTC)
== リネーム依頼 ==
新しくindexのページを作った際に、File:の接頭辞を削除するのを忘れてしまい[[Index:File:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvu]]を誤って作成してしまいました。つきましては、管理者権限をお持ちの方、Index:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvuへリネームしていただきたく。--[[利用者:HinokisOfRoma|HinokisOfRoma]] ([[利用者・トーク:HinokisOfRoma|トーク]]) 2024年1月3日 (水) 05:06 (UTC)
: {{コメント}} 私は管理者ではありませんが、移動(改名)は一般利用者でも対処可能でしたので、[[Index:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvu]]に移動しました。移動元の[[Index:File:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvu]]は{{tl|即時削除}}の貼り付けがエラーで出来なかったので、[[Wikisource:管理者伝言板]]にて管理者にお知らせしています。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年1月3日 (水) 06:28 (UTC)
::ありがとうございました。--[[利用者:HinokisOfRoma|HinokisOfRoma]] ([[利用者・トーク:HinokisOfRoma|トーク]]) 2024年1月5日 (金) 14:04 (UTC)
== Do you use Wikidata in Wikimedia sibling projects? Tell us about your experiences ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
''Note: Apologies for cross-posting and sending in English.''
Hello, the '''[[m:WD4WMP|Wikidata for Wikimedia Projects]]''' team at Wikimedia Deutschland would like to hear about your experiences using Wikidata in the sibling projects. If you are interested in sharing your opinion and insights, please consider signing up for an interview with us in this '''[https://wikimedia.sslsurvey.de/Wikidata-for-Wikimedia-Interviews Registration form]'''.<br>
''Currently, we are only able to conduct interviews in English.''
The front page of the form has more details about what the conversation will be like, including how we would '''compensate''' you for your time.
For more information, visit our ''[[m:WD4WMP/AddIssue|project issue page]]'' where you can also share your experiences in written form, without an interview.<br>We look forward to speaking with you, [[m:User:Danny Benjafield (WMDE)|Danny Benjafield (WMDE)]] ([[m:User talk:Danny Benjafield (WMDE)|talk]]) 08:53, 5 January 2024 (UTC)
</div>
<!-- User:Danny Benjafield (WMDE)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Global_message_delivery/Targets/WD4WMP/ScreenerInvite&oldid=26027495 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Reusing references: Can we look over your shoulder? ==
''Apologies for writing in English.''
The Technical Wishes team at Wikimedia Deutschland is planning to [[m:WMDE Technical Wishes/Reusing references|make reusing references easier]]. For our research, we are looking for wiki contributors willing to show us how they are interacting with references.
* The format will be a 1-hour video call, where you would share your screen. [https://wikimedia.sslsurvey.de/User-research-into-Reusing-References-Sign-up-Form-2024/en/ More information here].
* Interviews can be conducted in English, German or Dutch.
* [[mw:WMDE_Engineering/Participate_in_UX_Activities#Compensation|Compensation is available]].
* Sessions will be held in January and February.
* [https://wikimedia.sslsurvey.de/User-research-into-Reusing-References-Sign-up-Form-2024/en/ Sign up here if you are interested.]
* Please note that we probably won’t be able to have sessions with everyone who is interested. Our UX researcher will try to create a good balance of wiki contributors, e.g. in terms of wiki experience, tech experience, editing preferences, gender, disability and more. If you’re a fit, she will reach out to you to schedule an appointment.
We’re looking forward to seeing you, [[m:User:Thereza Mengs (WMDE)| Thereza Mengs (WMDE)]]
<!-- User:Thereza Mengs (WMDE)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=WMDE_Technical_Wishes/Technical_Wishes_News_list_all_village_pumps&oldid=25956752 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Invitation to join January Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We are the hosting this month’s [[:m:Wikisource Community meetings|Wikisource Community meeting]] on '''27 January 2024, 3 PM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1706367600 check your local time]).
As we gear up for our upcoming Wikisource Community meeting, we are excited to share some additional information with you.
The meetings will now be held on the last Saturday of each month. We understand the importance of accommodating different time zones, so to better cater to our global community, we've decided to alternate meeting times. The meeting will take place at 3 pm UTC this month, and next month it will be scheduled for 7 am UTC on the last Saturday. This rotation will continue, allowing for a balanced representation of different time zones.
As always, the meeting agenda will be divided into two halves. The first half of the meeting will focus on non-technical updates, including discussions about events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. The second half will delve into technical updates and conversations, addressing major challenges faced by Wikisource communities, similar to our previous Community meetings.
If you are interested in joining the meeting, kindly leave a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org''' and we will add you to the calendar invite.
Meanwhile, feel free to check out [[:m:Wikisource Community meetings|the page on Meta-wiki]] and suggest any other topics for the agenda.
Regards
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<small> Sent using [[利用者:MediaWiki message delivery|MediaWiki message delivery]] ([[利用者・トーク:MediaWiki message delivery|トーク]]) 2024年1月18日 (木) 10:54 (UTC)</small>
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ユニバーサル行動規範調整委員会の憲章の批准投票 ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting opens|当お知らせの多言語版はメタウィキをご参照ください。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting opens}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは
本日はお知らせがあり、お邪魔しました。実は[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee|ユニバーサル行動規範調整委員会]](U4C)の憲章<sup>※1</sup>の批准投票を受付中です。期限は'''2024年2月2日'''ですので、コミュニティの皆さんには[[m:Special:MyLanguage/Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Charter/Voter_information|投票と憲章に関するコメント投稿をセキュアポル(SecurePoll)]]経由でお願いします。すでにこの[[foundation:Special:MyLanguage/Policy:Universal_Code_of_Conduct/Enforcement_guidelines|行動規範施行ガイドライン]]<sup>※2</sup>の策定段階でご意見を寄せてくださった皆さんには、ほぼ同じ手順です。(※:1=U4C、Universal Code of Conduct Coordinating Committee。2=UCoC Enforcement Guidelines。)
[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|ユニバーサル行動規範調整委員会による現在の版]]をメタウィキに公開してありますので、翻訳版をご覧いただけます。
まず憲章をご一読いただき、賛否の投票をしてから、この文面を皆さんのコミュニティで共有いただけましたら誠に幸いです。U4C設立委員会としましては、皆さんの投票ご参加を心から願っています。
UCoC プロジェクトチーム代表<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年1月19日 (金) 18:09 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=25853527 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Wikimedians of Japan User Group 2024-01 ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
*'''全体ニュース'''
**
*'''「Wikimedians of Japan User Group」 からのお知らせ'''
**Wikimedians of Japan User Groupは、昨年2023年10月から11月にかけてJawpログインユーザーの皆様を対象にアンケートを行いました。1月に、結果報告を[https://diff.wikimedia.org/ja/ ウィキメディア財団公式ブログDiff]に掲載していただきました。調査に協力してくださった皆様に深く感謝いたします。
***[https://diff.wikimedia.org/ja/2024/01/10/%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%82%ad%e3%83%9a%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2%e7%b7%a8%e9%9b%86%e8%80%85%e3%81%ae%e3%83%a2%e3%83%81%e3%83%99%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%81%a8%e4%b8%8d%e6%ba%80%e3%80%80/ ウィキペディア編集者のモチベーションと不満 前半]
*** [https://diff.wikimedia.org/ja/2024/01/10/%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%82%ad%e3%83%9a%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2%e7%b7%a8%e9%9b%86%e8%80%85%e3%81%ae%e3%83%a2%e3%83%81%e3%83%99%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%81%a8%e4%b8%8d%e6%ba%80%e3%80%80-2/ ウィキペディア編集者のモチベーションと不満 後半]
<div style="-moz-column-count:2; -webkit-column-count:2; column-count:2; -webkit-column-width: 400px; -moz-column-width: 400px; column-width: 400px;">
'''[[ja:メインページ|日本語版ウィキペディア]]'''
*ニュース
**
*[[:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考|秀逸な記事の選考]]
**現在選考中の記事はありません。
*[[:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考|良質な記事の選考]]
**[[:w:ja:鰊場作業唄|鰊場作業唄]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/鰊場作業唄 20231220|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:間人ガニ|間人ガニ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/間人ガニ 20231223|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:パンロン会議|パンロン会議]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/パンロン会議 20231223|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:PlayStation 5のゲームタイトル一覧 (2020年-2021年)|PlayStation 5のゲームタイトル一覧 (2020年-2021年)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/PlayStation 5のゲームタイトル一覧 (2020年-2021年) 20231225|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:満奇洞|満奇洞]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/満奇洞 20231230|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:くど造|くど造]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/くど造 20231230|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:心停止|心停止]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/心停止 20231229|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:新潟電力|新潟電力]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/新潟電力 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:新潟電気|新潟電気]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/新潟電気 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:家屋文鏡|家屋文鏡]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/家屋文鏡 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:カラブリュエの戦い|カラブリュエの戦い]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/カラブリュエの戦い 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:さんかく座|さんかく座]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/さんかく座 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:マダガスカルにおける蚕|マダガスカルにおける蚕]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/マダガスカルにおける蚕 20240115|選考中]](2024年1月29日 (月) 03:11 (UTC)まで)
**[[:w:ja:大塚陽子|大塚陽子]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/大塚陽子 20240121|選考中]](2024年2月4日 (日) 08:52 (UTC)まで)
**[[:w:ja:全身麻酔の歴史|全身麻酔の歴史]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/全身麻酔の歴史 20240111|選考中]](2024年2月7日 (水) 16:27 (UTC)まで)
**[[:w:ja:狩野派|狩野派]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/狩野派 20240111|選考中]](2024年2月8日 (木) 00:08 (UTC)まで)
*[[:ja:Wikipedia:月間新記事賞|月間新記事賞]]
**[[:w:ja:新潟電力|新潟電力]]
**[[:w:ja:新潟電気|新潟電気]]
**[[:w:ja:家屋文鏡|家屋文鏡]]
**[[:w:ja:全身麻酔の歴史|全身麻酔の歴史]]
**[[:w:ja:カラブリュエの戦い|カラブリュエの戦い]]
*[[:ja:Wikipedia:珍項目/選考|珍項目の選考]]
**[[:w:ja:シャグマアミガサタケ|シャグマアミガサタケ]]
*[[:ja:Wikipedia:秀逸な一覧の選考|秀逸な一覧の選考]]
**現在選考中の記事はありません。
'''[[voy:ja:メインページ|日本語版ウィキボヤージュ]]'''
* [[voy:ja:Wikivoyage:国執筆コンテスト|国執筆コンテスト]]
**国執筆コンテストが開催中です。奮ってご参加ください!
'''[[m:Main_Page/ja|メタウィキ]]'''
* 日本語話者向けニュース
** メタウィキでは翻訳者を常時募集しています。気になる方は[[m:Meta:Babylon/ja|翻訳ポータル]]をご確認下さい。
</div>
<hr />
*'''前回配信:2023年12月31日'''
</div>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
配信元: '''[[m:Wikimedians of Japan User Group|Wikimedians of Japan User Group]]''' <br />
<small>[[m:Talk:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン|フィードバック]]。[[m:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン/targets list|購読登録・削除]]。</small>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
<!-- User:Sai10ukazuki@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedians_of_Japan_User_Group/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3/targets_list&oldid=25924865 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== あと数日で憲章の批准投票と、ユニバーサル行動規範調整委員の投票が終了 ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting reminder|当お知らせの多言語版はメタウィキをご参照ください。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting reminder}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは
本日はお知らせがあり、お邪魔しました。実は[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee|ユニバーサル行動規範調整委員会]](U4C)<sup>※1</sup>の投票受付が間もなく'''2024年2月2日'''に終わります。コミュニティの皆さんには[[m:Special:MyLanguage/Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Charter/Voter_information|セキュアポル(SecurePoll)にて憲章への投票とご意見の投稿をご検討ください]]。すでにこの[[foundation:Special:MyLanguage/Policy:Universal_Code_of_Conduct/Enforcement_guidelines|行動規範施行ガイドライン]]<sup>※2</sup>の策定段階でご意見を寄せてくださった皆さんには、ほぼ同じ手順です。(※:1=U4C、Universal Code of Conduct Coordinating Committee。2=UCoC Enforcement Guidelines。)
[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|ユニバーサル行動規範調整委員会による現在の版]]をメタウィキに公開してありますので、翻訳版をご覧いただけます。
まず憲章をご一読いただき、賛否の投票をしてから、この文面を皆さんのコミュニティで共有いただけましたら誠に幸いです。U4C設立委員会としましては、皆さんの投票ご参加を心からお待ちしております。
UCoC プロジェクトチーム一同になり代わり、よろしくお願いいたします。<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年1月31日 (水) 17:01 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=25853527 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== UCoC 調整委員会憲章について批准投票結果のお知らせ ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - results|このメッセージはメタウィキ(Meta-wiki)で他の言語に翻訳されています。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - results}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは。
ユニバーサル行動規範<!-- UCoC -->に関して、引き続き読んでくださりありがとうございます。本日は、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|ユニバーサル行動規範調整委員会の憲章]]<!-- UCoC 調整委員会の憲章 / U4Cの憲章 -->に関する[[m:Special:MyLanguage/Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Charter/Voter_information|批准投票]]の結果についてお知らせします。この批准投票では投票者総数は 1746 名、賛成 1249 票に対して反対 420 票でした。この批准投票では投票者の皆さんから、憲章<sup>※</sup>についてコメントを寄せてもらえるようにしました。("※"=Charter)
投票者のコメントのまとめと票の分析はメタウィキに数週間ほどで公表の予定です。
次の段階についても近々お知らせしますのでお待ちくだされば幸いです。
UCoC プロジェクトチーム一同になり代わり、よろしくお願いいたします。<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年2月12日 (月) 18:24 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26160150 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Invitation to join February Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We are the hosting this month’s [[:m:Wikisource Community meetings|Wikisource Community meeting]] on '''24 February 2024, 7 AM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1708758000 check your local time]).
The meeting agenda will be divided into two halves. The first half of the meeting will focus on non-technical updates, including discussions about events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. The second half will delve into technical updates and conversations, addressing major challenges faced by Wikisource communities, similar to our previous Community meetings.
If you are interested in joining the meeting, kindly leave a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org''' and we will add you to the calendar invite.
Meanwhile, feel free to check out [[:m:Wikisource Community meetings|the page on Meta-wiki]] and suggest any other topics for the agenda.
Regards
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<small> Sent using [[利用者:MediaWiki message delivery|MediaWiki message delivery]] ([[利用者・トーク:MediaWiki message delivery|トーク]]) 2024年2月20日 (火) 11:11 (UTC)</small>
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Wikimedians of Japan User Group 2024-02 ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
*'''全体ニュース'''
**
*'''「Wikimedians of Japan User Group」 からのお知らせ'''
<div style="-moz-column-count:2; -webkit-column-count:2; column-count:2; -webkit-column-width: 400px; -moz-column-width: 400px; column-width: 400px;">
'''[[:w:ja:メインページ|日本語版ウィキペディア]]'''
*ニュース
**
*[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考|秀逸な記事の選考]]
**[[:w:ja:アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)|アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)]]が[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考/アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵) 20240127|選考中]](2024年4月27日 (土) 14:49 (JST)まで)
*[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考|良質な記事の選考]]
**[[:w:ja:ウチキパン|ウチキパン]]が[[Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ウチキパン 20240129|選考]]を通過
**[[:w:ja:広島県産業奨励館|広島県産業奨励館]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/広島県産業奨励館 20240129|選考]]を通過
**[[:w:ja:ナムコ|ナムコ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ナムコ 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:鵲尾形柄香炉 (国宝)|鵲尾形柄香炉 (国宝)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/鵲尾形柄香炉 (国宝) 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:廻廊にて|廻廊にて]]を[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/廻廊にて 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:球果|球果]]を[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/球果 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:鮭 (高橋由一)|鮭 (高橋由一)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/鮭 (高橋由一) 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:外郎売|外郎売]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/外郎売 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:北斎漫画|北斎漫画]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/北斎漫画_20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:清水澄子 (さゝやき)|清水澄子 (さゝやき)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/清水澄子 (さゝやき)_20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:大阪南港事件|大阪南港事件]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/大阪南港事件 20240216|選考]]を通過
**[[:w:ja:PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2016年)|PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2016年)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2016年) 20240204|選考]]を通過
**[[:w:ja:プライス山 (ブリティッシュコロンビア州)|プライス山 (ブリティッシュコロンビア州)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/プライス山 (ブリティッシュコロンビア州) 20240215|選考]]を通過
**[[:w:ja:バブルネット・フィーディング|バブルネット・フィーディング]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/バブルネット・フィーディング 20240219|選考]]を通過
**[[:w:ja:スギ|スギ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/スギ 20240219|選考]]を通過
**[[:w:ja:ウィッチャー3_ワイルドハント|ウィッチャー3_ワイルドハント]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ウィッチャー3_ワイルドハント_20240224|選考中]](2024年3月9日 (土) 15:24 (UTC)まで)
**[[:w:ja:舟橋蒔絵硯箱|舟橋蒔絵硯箱]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/舟橋蒔絵硯箱 20240226|選考中]](2024年3月11日 (月) 02:58 (UTC)まで)
**[[:w:ja:羽田孜|羽田孜]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/羽田孜 20240226|選考中]](2024年3月11日 (月) 12:26 (UTC)まで)
*[[:w:ja:Wikipedia:月間新記事賞|月間新記事賞]]
**[[:w:ja:鵲尾形柄香炉 (国宝)|鵲尾形柄香炉 (国宝)]]
**[[:w:ja:ナムコ|ナムコ]]
**[[:w:ja:廻廊にて|廻廊にて]]
**[[:w:ja:球果|球果]]
**[[:w:ja:鮭 (高橋由一)|鮭 (高橋由一)]]
*[[:w:ja:Wikipedia:珍項目/選考|珍項目の選考]]
**現在選考中の項目はありません。
*[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な一覧の選考|秀逸な一覧の選考]]
**現在選考中の記事はありません。
'''[[:m:Main_Page/ja|メタウィキ]]'''
* 日本語話者向けニュース
** メタウィキでは翻訳者を常時募集しています。気になる方は[[:m:Meta:Babylon/ja|翻訳ポータル]]をご確認下さい。
</div>
<hr />
*'''前回配信:2024年1月26日'''
</div>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
配信元: '''[[:m:Wikimedians of Japan User Group|Wikimedians of Japan User Group]]''' <br />
<small>[[:m:Talk:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン|フィードバック]]。[[:m:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン/targets list|購読登録・削除]]。</small>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
<!-- User:Chqaz@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedians_of_Japan_User_Group/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3/targets_list&oldid=26262302 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== U4C 憲章の批准投票の結果報告、U4C 委員候補募集のお知らせ ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – call for candidates| このメッセージはMeta-wikiで他の言語に翻訳されています。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – call for candidates}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
各位
本日は重要な情報2件に関して、お伝えしたいと思います。第一に、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Vote results|ユニバーサル行動規範調整委員会憲章(U4C)の批准投票に添えられたコメント]]は、集計結果がまとまりました。第二に、U4C の委員立候補の受付が始まり、〆切は2024年4月1日です。
[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee|ユニバーサル行動規範調整委員会]](U4C)<sup>※</sup>とはグローバルな専門グループとして、UCoC が公平かつ一貫して実施されるように図ります。広くコミュニティ参加者の皆さんに、U4C への自薦を呼び掛けています。詳細と U4C の責務は、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|U4C 憲章を通読してください]]。(※=Universal Code of Conduct Coordinating Committee。)
憲章に準拠し、U4Cの定員は16名です。内訳はコミュニティ全般の代表8席、地域代表8席であり、ウィキメディア運動の多様性を反映するよう配慮してあります。
詳細の確認、立候補の届けは[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024|メタウィキ]]でお願いします。
UCoC プロジェクトチーム一同代表<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年3月5日 (火) 16:25 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26276337 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ウィキメディア財団理事会の2024年改選 ==
<section begin="announcement-content" />
: ''[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024/Announcement/Selection announcement| このメッセージの多言語版翻訳は、メタウィキで閲覧してください。]]''
: ''<div class="plainlinks">[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024/Announcement/Selection announcement|{{int:interlanguage-link-mul}}]] • [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:Wikimedia Foundation elections/2024/Announcement/Selection announcement}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]</div>''
各位
本年は、ウィキメディア財団理事会において任期満了を迎える理事はコミュニティ代表と提携団体代表の合計4名です[1]。理事会よりウィキメディア運動全域を招集し、当年の改選手続きに参加して投票されるようお願いします。
[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections committee|選挙管理委員会]]はこの手順を監督するにあたり、財団職員の補佐を受けます[2]。理事会組織統治委員会<sup>※1</sup>は2024改選の立候補資格のないコミュニティ代表と提携団体代表の理事から理事改選作業グループ<sup>※2</sup>を指名し、すなわち、Dariusz Jemielniak、Nataliia Tymkiv、Esra'a Al Shafei、Kathy Collins、Shani Evenstein Sigalov の皆さんです[3]。当グループに委任される役割とは、2024年理事改選の手順において理事会の監督、同会に継続して情報を提供することです。選挙管理委員会、理事会、財団職員の役割の詳細は、こちらをご一読願います[4]。(※:1=The Board Governance Committee。2=Board Selection Working Group。)
以下に節目となる日付を示します。
* 2024年5月:立候補受付と候補者に聞きたい質問の募集
* 2024年6月:提携団体の担当者は候補者12名の名簿を作成(立候補者が15名以下の場合は行わない)[5]
* 2024年6月-8月:選挙活動の期間
* 2024年8月末/9月初旬:コミュニティの投票期間は2週間
* 2024年10月–11月:候補者名簿の 身元調査
* 2024年12月の理事会ミーティング:新しい理事が着任
2024改選の手順の段取りを見てみましょう - 詳しい日程表、立候補の手順、選挙運動のルール、有権者の要件 - これらは[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024|メタウィキのこちらのページ]]を参照してご自分のプランを立ててください。
'''選挙ボランティア'''
この2024理事改選に関与するもう一つの方法とは、'''選挙ボランティア'''をすることです。選挙ボランティアとは、選挙管理委員会とその対応するコミュニティを結ぶ橋渡しをします。自分のコミュニティが代表権(訳注:間接民主制)を駆使するように、コミュニティを投票に向かわせる存在です。当プログラムとその一員になる方法の詳細は、この[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024/Election Volunteers|メタウィキのページ]]をご一読ください。
草々
[[m:Special:MyLanguage/User:Pundit|Dariusz Jemielniak]](組織統治委員長、理事会改選作業グループ)
[1] https://meta.wikimedia.org/wiki/Special:MyLanguage/Wikimedia_Foundation_elections/2021/Results#Elected
[2] https://foundation.wikimedia.org/wiki/Committee:Elections_Committee_Charter
[3] https://foundation.wikimedia.org/wiki/Minutes:2023-08-15#Governance_Committee
[4] https://meta.wikimedia.org/wiki/Wikimedia_Foundation_elections_committee/Roles
[5] 改選議席4席に対する候補者数の理想は12名ですが、候補者が15名を超えると最終候補者名簿づくりが自動処理で始まり、これは提携団体の担当者に選外の候補者を決めてもらうと、漏れた1-3人の候補者に疎外されたと感じさせるかもしれず、担当者に過重な負担を押し付けないように人力で最終候補者名簿を組まないようにしてあります。<section end="announcement-content" />
[[User:MPossoupe_(WMF)|MPossoupe_(WMF)]]2024年3月12日 (火) 19:57 (UTC)
<!-- User:MPossoupe (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26349432 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ご利用のウィキは間もなく読み取り専用に切り替わります ==
<section begin="server-switch"/><div class="plainlinks">
[[:m:Special:MyLanguage/Tech/Server switch|他の言語で読む]] • [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-Tech%2FServer+switch&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]
<span class="mw-translate-fuzzy">[[foundation:|ウィキメディア財団]]ではメインと予備のデータセンターの切り替えテストを行います。</span> 災害が起こった場合でも、ウィキペディアとその他のウィキメディア・ウィキが確実にオンラインとなるようにするための措置です。
全トラフィックの切り替えは'''{{#time:n月j日|2024-03-20|ja}}'''に行います。 テストは '''[https://zonestamp.toolforge.org/{{#time:U|2024-03-20T14:00|en}} {{#time:H:i e|2024-03-20T14:00}}]''' に開始されます。
残念ながら [[mw:Special:MyLanguage/Manual:What is MediaWiki?|MediaWiki]] の技術的制約により、切り替え作業中はすべての編集を停止する必要があります。 ご不便をおかけすることをお詫びするとともに、将来的にはそれが最小限にとどめられるよう努めます。
'''閲覧は可能ですが、すべてのウィキにおいて編集ができないタイミングが短時間あります。'''
*{{#time:Y年n月j日(l)|2024-03-20|ja}}には、最大1時間ほど編集できない時間が発生します。
*この間に編集や保存を行おうとした場合、エラーメッセージが表示されます。 その間に行われた編集が失われないようには努めますが、保証することはできません。 エラーメッセージが表示された場合、通常状態に復帰するまでお待ちください。 その後、編集の保存が可能となっているはずです。 しかし念のため、保存ボタンを押す前に、行った変更のコピーをとっておくことをお勧めします。
''その他の影響'':
*バックグラウンドジョブが遅くなり、場合によっては失われることもあります。 赤リンクの更新が通常時よりも遅くなる場合があります。 特に他のページからリンクされているページを作成した場合、そのページは通常よりも「赤リンク」状態が長くなる場合があります。 長時間にわたって実行されるスクリプトは、停止しなければなりません。
* コードの実装は通常の週と同様に行う見込みです。 しかしながら、作業上の必要性に合わせ、ケースバイケースでいずれかのコードフリーズが計画時間に発生することもあります。
* [[mw:Special:MyLanguage/GitLab|GitLab]]は90分ほどの間に利用不可になります。
必要に応じてこの計画は延期されることがあります。 [[wikitech:Switch_Datacenter|wikitech.wikimedia.org で工程表を見る]]ことができます。 変更はすべて工程表で発表しますので、ご参照ください。 この件に関しては今後、さらにお知らせを掲示するかもしれません。 作業開始の30分前から、すべてのウィキで画面にバナーを表示する予定です。 '''この情報を皆さんのコミュニティで共有してください。'''</div><section end="server-switch"/>
[[user:Trizek (WMF)|Trizek (WMF)]], 2024年3月15日 (金) 00:01 (UTC)
<!-- User:Trizek (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Non-Technical_Village_Pumps_distribution_list&oldid=25636619 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Switching to the Vector 2022 skin ==
[[File:Vector 2022 video-en.webm|thumb]]
''[[mw:Special:MyLanguage/Reading/Web/Desktop Improvements/Updates/2024-03 for Wikisource|Read this in your language]] • <span class=plainlinks>[https://mediawiki.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-Reading%2FWeb%2FDesktop+Improvements%2FUpdates%2F2024-03+for+Wikisource&language=&action=page&filter= {{Int:please-translate}}]</span> • Please tell other users about these changes''
皆さんこんにちは。私たちはウィキメディア財団ウェブチームです。以前の投稿をお読みいただいたかもしれませんが、この一年間、私たちはすべてのウィキ上での新しいデフォルトとしてベクター2022年版(Vector 2022 skin)に切り替えるにために準備を進めてきました。以前のウィキソースコミュニティとの対話により、スキンの切り替えを妨げるIndex名前空間の問題をご指摘いただいたため、この問題を解決いたしました。
3月25日にウィキソースのウィキ上で展開する予定です。
ベクター2022年版の詳細と改善点については、[https://www.mediawiki.org/wiki/Reading/Web/Desktop_Improvements/ja ドキュメント]をご覧ください。変更後、問題がある場合(ガジェットが動作しない、バグに気づいた等)は、恐れ入りますが、以下にコメントをお願いいたします。また、ご希望に応じて[[metawiki:Wikisource_Community_meetings|ウィキソースのコミュニティミーティング]]のようなイベントに私たちが参加させていただき、皆さんと直接お話しすることも可能です。いつもご協力いただき有難うございます。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。(Translation by [[利用者:JNakayama-WMF|JNakayama-WMF]])
English: Hi everyone. We are the [[mw:Special:MyLanguage/Reading/Web|Wikimedia Foundation Web team]]. As you may have read in our previous message, over the past year, we have been getting closer to switching every wiki to the Vector 2022 skin as the new default. In our previous conversations with Wikisource communities, we had identified an issue with the Index namespace that prevented switching the skin on. [[phab:T352162|This issue is now resolved]].
We are now ready to continue and will be deploying on Wikisource wikis on '''March 25th'''.
To learn more about the new skin and what improvements it introduces, please [[mw:Reading/Web/Desktop Improvements|see our documentation]]. If you have any issues with the skin after the change, if you spot any gadgets not working, or notice any bugs – please comment below! We are also open to joining events like the [[m:Wikisource Community meetings|Wikisource Community meetings]] to talk to you directly. Thank you! [[User:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]] ([[User talk:SGrabarczuk (WMF)|<span class="signature-talk">トーク</span>]]) 2024年3月18日 (月) 20:50 (UTC)
<!-- User:SGrabarczuk (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGrabarczuk_(WMF)/sandbox/MM/Varia&oldid=26416927 のリストを使用して送信したメッセージ -->
:Hello Mr.[[利用者:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]]. I speak japanese, sorry.
:JST ではすでに March 25th なので、すでに今更な気もしますが、本当に変更されるのでしょうか。返信が付かないのは、メッセージが英語だからかもしれません。すでにvecter 2022 になっている、日本語版のウィキクォート・ウィキブックスなどがありますが、フォントがすこし小さくなっていませんか。もちろんブラウザ側でズームはできますが、ウィキペディアほどには人が集まっていないウィキソースで、既定のスキンになるのは心配です。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年3月24日 (日) 18:30 (UTC)
::[[File:Accessibility for reading first iteration prod unpinned.png|thumb]]
::日本語が話せないため、機械翻訳にて失礼いたします。
::@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]さん、
::コメントありがとう。その通りだと思う。Vector 2022」のフォントサイズは少し小さめです。もっと大きくできないかチームに聞いてみます。
::それに加えて、新しい[[特別:個人設定#mw-prefsection-betafeatures|ベータ機能]]があります: "Accessibility for Reading (Vector 2022) "です。これは、3つのフォントサイズを選択できるメニューを追加するものだ:小、標準、大。小は現在のデフォルトと同じでなければならない。そうでない場合はエラーとなり、チームに修正を求めることになる。StandardとLargeは現在のデフォルトより大きくする。最終的には、標準が新しいデフォルトになるはずです。このベータ機能の目的は、ウィキ上のテキストを読みやすくすることです。
::この機能を使って「標準」のフォントサイズを選択することをお勧めしたい。どう思いますか?
::Thank you for your comment. I think you are correct. The font size in "Vector 2022" is a bit smaller. I’ll ask the team if we can increase it.
::In addition to that, there’s a new beta feature: "Accessibility for Reading (Vector 2022)”. It adds a menu with three font sizes to choose between: small, standard, and large. Small should be equal to the current default. If it’s not, then it's an error and I’ll ask the team to fix it. Standard and large should be bigger than the current default. Eventually, standard would become the new default. The goal for this beta feature is to make it easier for people to read text on wiki.
::I would like to recommend using this feature and choosing the „standard" font size. What do you think?--[[利用者:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]] ([[利用者・トーク:SGrabarczuk (WMF)|トーク]]) 2024年3月25日 (月) 13:39 (UTC)
:::いえ、申し訳ありませんが、この問題を再現することはできません。つまり、異なるスキンを比較した場合、フォントサイズは同じなのです。URLに?safemode=1を追加して([https://ja.wikisource.org/wiki/Wikisource:%E4%BA%95%E6%88%B8%E7%AB%AF?safemode=1 例])、それでも違いがあるかどうか確認していただけますか?safemode=1はカスタマイズを無効にし、問題が私たちの側にあることを確認する方法です。ありがとう!
:::No, my apologies, I’m not able to replicate the issue. I mean when I compare different skins, the font sizes are the same. Could you add ?safemode=1 to the URL (example) and check if you still see a difference? ?safemode=1 disables your customization and is the method to make sure that the problem is on our side. Thank you!--[[利用者:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]] ([[利用者・トーク:SGrabarczuk (WMF)|トーク]]) 2024年3月25日 (月) 15:22 (UTC)
::::Thank you for reply.
::::技術面に詳しくないので、確認してもよく解りません。ごめんなさい。ですが、おそらく技術ニュース:2024-13 に関することだと思っています。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年3月26日 (火) 03:15 (UTC)
== Invitation to join March Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We're excited to announce our upcoming Wikisource Community meeting, scheduled for '''30 March 2024, 3 PM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1711810800 check your local time]). As always, your participation is crucial to the success of our community discussions.
Similar to previous meetings, the agenda will be split into two segments. The first half will cover non-technical updates, such as events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. In the second half, we'll dive into technical updates and discussions, addressing key challenges faced by Wikisource communities.
'''New Feature: Event Registration!''' <br />
Exciting news! We're switching to a new event registration feature for our meetings. You can now register for the event through our dedicated page on Meta-wiki. Simply follow the link below to secure your spot and engage with fellow Wikisource enthusiasts:
[[:m:Event:Wikisource Community Meeting March 2024|Event Registration Page]]
'''Agenda Suggestions:''' <br />
Your input matters! Feel free to suggest any additional topics you'd like to see included in the agenda.
If you have any suggestions or would just prefer being added to the meeting the old way,
simply drop a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org'''.
Thank you for your continued dedication to Wikisource. We look forward to your active participation in our upcoming meeting.
Best regards, <br />
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ダークモード対応 night-mode-unaware-background-color ==
* 2024年3月時点、日本語版ウィキソースではまだダークモードが実装されていないが、Lintエラーのページで「[[特別:LintErrors/night-mode-unaware-background-color]]」を確認可能。
* night-mode-unaware-background-colorエラーの抑止方法は「[[:mw:Help:Lint_errors/night-mode-unaware-background-color|night-mode-unaware-background-color]]」にあるように、背景色と文字色の同時指定。
* 2024年3月時点、テンプレートがエラー原因のものについては、暫定的にbackground指定の後に続けてcolor:inherit;を追加してエラー出力を抑止済。
* 将来ダークモードが実装されてテキスト表示に問題が起きた場合は、「insource:/back[^;]+; *color *: *inherit/」[https://ja.wikisource.org/w/index.php?search=insource%3A%2Fback%5B%5E%3B%5D%2B%3B+%2Acolor+%2A%3A+%2Ainherit%2F&title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%A4%9C%E7%B4%A2&profile=advanced&fulltext=1&ns10=1]で検索ヒットするテンプレートや「[[モジュール:Documentation/styles.css]]」のなかの文字色指定をinheritから固定色に変える必要あり。
--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年3月28日 (木) 16:53 (UTC)
== Wikimedians of Japan User Group 2024-03 ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
*'''全体ニュース'''
**[[:m:Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Election/2024/ja|ユニバーサル行動規範調整委員会の選挙]]の立候補が受付中です。(2024年4月1日(月)(UTC)まで)
*'''「Wikimedians of Japan User Group」 からのお知らせ'''
**
<div style="-moz-column-count:2; -webkit-column-count:2; column-count:2; -webkit-column-width: 400px; -moz-column-width: 400px; column-width: 400px;">
'''[[:w:ja:メインページ|日本語版ウィキペディア]]'''
*ニュース
**
*[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考|秀逸な記事の選考]]
**[[:w:ja:アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)|アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)]]が[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考/アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵) 20240127|選考]]を通過
*[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考|良質な記事の選考]]
**[[:w:ja:伏見天皇|伏見天皇]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/伏見天皇 20240308|選考]]を通過
**[[:w:ja:トコジラミ|トコジラミ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/トコジラミ 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:山崎蒸溜所|山崎蒸溜所]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/山崎蒸溜所 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:胞子嚢穂|胞子嚢穂]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/胞子嚢穂 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:一姫二太郎|一姫二太郎]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/一姫二太郎 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:ヴァージナルの前に座る若い女|ヴァージナルの前に座る若い女]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ヴァージナルの前に座る若い女 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:南満洲鉄道ケハ7型気動車|南満洲鉄道ケハ7型気動車]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/南満洲鉄道ケハ7型気動車 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:石狩町女子高生誘拐事件|石狩町女子高生誘拐事件]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/石狩町女子高生誘拐事件 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:天狗草紙|天狗草紙]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/天狗草紙 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:生命|生命]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/生命 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:フェンタニル|フェンタニル]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/フェンタニル 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:根拠に基づく医療|根拠に基づく医療]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/根拠に基づく医療 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)|PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)]]が[[:w:ja:PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)|PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)]](2024年4月6日 (土) 07:52 (UTC)まで)
**[[:w:ja:ワリード1世|ワリード1世]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ワリード1世_20240323|選考中]](2024年4月6日 (土) 23:59 (UTC)まで)
**[[:w:ja:ラーメンズ|ラーメンズ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ラーメンズ 20240324|選考中]](2024年4月7日 (日) 01:13 (UTC)まで)
**[[:w:ja:狩野安信|狩野安信]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/狩野安信 20240327|選考中]](2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC)まで)
**[[:w:ja:チャールズ・ルイス・ティファニー|チャールズ・ルイス・ティファニー]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/チャールズ・ルイス・ティファニー 20240327|選考中]](2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC))
**[[:w:ja:シュチェパン・マリ|シュチェパン・マリ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/シュチェパン・マリ 20240327|選考中]](2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC))
*[[:w:ja:Wikipedia:月間新記事賞|月間新記事賞]]
**[[:w:ja:一姫二太郎|一姫二太郎]]
**[[:w:ja:指月布袋画賛|指月布袋画賛]]
**[[:w:ja:胞子嚢穂|胞子嚢穂]]
**[[:w:ja:ヴァージナルの前に座る若い女|ヴァージナルの前に座る若い女]]
**[[:w:ja:南満洲鉄道ケハ7型気動車|南満洲鉄道ケハ7型気動車]]
**[[:w:ja:ペプシ海軍|ペプシ海軍]]
**[[:w:ja:天狗草紙|天狗草紙]]
**[[:w:ja:石狩町女子高生誘拐事件|石狩町女子高生誘拐事件]]
</div>
<hr />
*'''前回配信:2024年2月27日'''
</div>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
配信元: '''[[:m:Wikimedians of Japan User Group|Wikimedians of Japan User Group]]''' <br />
<small>[[:m:Talk:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン|フィードバック]]。[[:m:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン/targets list|購読登録・削除]]。</small>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
<!-- User:Chqaz@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedians_of_Japan_User_Group/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3/targets_list&oldid=26436809 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== 全集の収録方法について ==
[[:カテゴリ:史籍集覧]]に収録されている作品のうち、「[[武家諸法度 (元和令)]]」などはIndexファイル([[Index:Shisekisyūran17.pdf]]など)を底本としていますが、「[[太閤記]]」などは独自のテンプレートに原文のみを収録する形になっています。後者の場合、例えば今たまたま開いた「[https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E4%BA%8C#c-2 太閤記巻二 ○因幡国取鳥落城之事]」3ページ目冒頭の一文「福光樽行器看を広間にすへ並へしかは…」([https://dl.ndl.go.jp/pid/3431173/1/244 『史籍集覧』第6冊244ページ冒頭])の誤字「看」を「肴」に訂正したいと考えても、どこを訂正すればよいのかを知ることは簡単ではありません。「[[ヘルプ:Indexページ#雑誌の掲載記事と書籍の部分掲載について]]」では、「djvuファイルまたはpdfファイルを作成する場合、その号から数ページだけ公開する予定であっても、書籍や雑誌の号全体のdjvuファイルやpdfファイルを作成するよう」求めており、校訂作業の必要性を考慮しても、前者の方式に統一した方がよいと思われます。ご意見をいただければ幸いです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月20日 (土) 12:22 (UTC)
:「統一」の定義があいまい。強制性を伴う罰則規定がなければ効果は乏しい。簡単がどうかは個々人の主観に属することなので、規則変更の理由にすべきではない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 03:12 (UTC)
::前者の方法では、訂正すべき箇所を見つけた場合には、該当するページへのリンクをたどれば修正できるようになっているのに対して、後者の方法では画像を参照することしかできません。この点に問題があると思われます。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 06:06 (UTC)
:{{コ}}主観を述べると、Wikisource校正システムは中東・欧州系言語などで使う表音文字での編集が前提になっており、日本語などで使う表意文字はWebブラウザ上の編集作業にあまり向いていない。よって、日本語Wikitextは出版業界と同じように高性能なテキスト編集ソフトを使って編集作業するのが自然。公文書を除けば旧字・異体字の多い戦前の出版物しか入力できない日本語Wikisourceは、現代日本の出版業界の標準よりも難易度が高いという事実をふまえておく必要がある。Wikisource校正システムは、ただの道具・手段であって目的ではない。作業効率を下げてまで使う価値はない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 07:05 (UTC)
:{{コ}}最近行われた文字の小さなVector2022への既定外装変更から察するに、Wikisourceの開発者は日本語利用者の利便性をあまり考えていないのではないか。Wikisource校正システムも同じ病根がある。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 07:26 (UTC)
::日本語利用者の利便性は、きちんと主張しないと伝わりにくいのは確かです。しかし、だからといって校正のことは考えなくてよいということにはならないと思います。校正は、Wikisourceの信頼性を確保する上で不可欠の要素です。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 08:24 (UTC)
:::{{提案}}日本語ウィキソースには提案を書き込むと敵対や衝突とみなす文化があるので少ししか書かないが、ページ単位の校正レベルの管理は非効率なのでやめるべき。道路標識の速度制限と同じように編集者の自由裁量で校正レベルの開始位置を設定できたほうが良い。テキストは上から下への単純な一方通行なのだから、保守はさほど面倒ではない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 10:15 (UTC)
::::英語での議論になりますが、技術的な提案は https://phabricator.wikimedia.org/ で行うことができます。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 12:38 (UTC)
::::「Phabricator」での議論することに臆してしまったりするのであれば、この井戸端にも連絡してくださっている「Wikisource Community meeting」などの選択肢もあるかと思います。いずれにしろ進行は英語主体になるかと思われますが、技術的なことを話したいのであれば、直接伝えるのが良いと考えます。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 14:02 (UTC)
:{{コ}} 前者の方式を使用することに{{賛成}}します。後者となる独自のテンプレートは、[[ja:カテゴリ:特定作品のためのテンプレート|特定作品のためのテンプレート]] に含まれるものかと思われますが、内容は作品の本文にあたるものが大部分であるため、テンプレート(ひな形)として使うには汎用的ではないと考えます。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 04:37 (UTC)
:{{コ}}前者に統一するからには、「[[あたらしい憲法のはなし]]」のようにIndexを使っていない国会図書館デジタルコレクションを底本とする作品をすべてIndexを使うよう置き換えなければならないが、皆にその労力を払う覚悟があるのか。以前、機械翻訳の作品削除に関する議論の時にも感じたが、ある決定をした結果、何が起きるか、何をしなければならなくなるかについて、もっと想像力を働かせたほうが良い。入力や校正をあまりせずなぜか井戸端での議論で張り切る人に特にその辺もふまえて考えてもらいたい。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 09:28 (UTC)
:{{コ}}前者に統一すると決めた場合、決めるだけでおそらくだれもやらないので、私が既存作品のIndex利用への置き換えを拒否した場合は、作品が削除されたり私がブロックされることになるだろう。編集方法がわからないなら質問すれば良いだろうに、なぜこのような攻撃的な議論を開始したのか理解できない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 10:29 (UTC)
::コメントありがとうございます。今回取り上げさせていただいたのは、「全集の収録方法」についてのみです。これは、複数の人が編集に関わる可能性が高いことからも、ご理解いただけるものと思います。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 11:08 (UTC)
:::{{コ}}複数の人が編集に関わる競合の危険性は全集に限ったことではなく、通常の巨大サイズ作品でも同じことです。テンプレート名前空間ページにも標準名前空間ページと同じく最大2048KBのWikitextサイズ制約があるのでさほど心配しなくて良いはず。テキスト本体をテンプレート化したのは他ページでのプレビュー機能を使うためであり、Page名前空間ページ編集作業にはない機能。これがテンプレートの優位性。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 12:28 (UTC)
::::ご指摘のように競合の問題もあるかもしれませんが、差し当たっての問題は、既に述べたように、史籍集覧で複数の方式による作品が混在していること、一方の方式に校正方法に関する問題が存在することです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 14:02 (UTC)
:::::複数の方式が混在することや校正システムを使っていないことのなにが問題なのかよくわからない。私は今後も同じ入力方法を続ける。私は有期限ブロックされたぐらいで自分の考えが変わったりはしないので、Wikisourceコミュニティが私の入力方法と共存できないのであれば、私を無期限ブロックするほかない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月25日 (木) 09:29 (UTC)
::::::{{返}} 私が問題と思うのは、P9iKC7B1SaKk さんが入力方法に、自己流を押し通そうとしていることです。「編集方法がわからないなら質問すれば良い」と仰っていますが、[[w:ja:Wikipedia:Lua#Luaについて]]で、「第三者が誰も理解できない、ということがないように」と書かれているように、校正者が作業しやすい方式にして頂きたいというものです。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年4月26日 (金) 08:07 (UTC)
:::::::{{コ}}編集方法がわからないなら、修正要求箇所をトークなどで連絡すればよいだけのこと。そういった改善努力や話し合いをせずに一方敵に他人の編集を制限しようとするWikisourceコミュニティ住民の価値観は間違っており社会人としての常識やマナーにも反している。機械翻訳ページ削除の議論と同様、入力者と交渉することなく事務的・機械的に削除できる仕組みをつくりたがる排他的で非生産的な人は、井戸端に自分の意見を書き込むべきでない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月26日 (金) 08:46 (UTC)
== ja ==
重要なことなので、表現を変えてもう一度指摘しておきます。べつに[[m:削除主義|削除主義者]]の片棒を担ぐ気はさらさらありません。ウィキソース日本語版(ja ws)は「日本語(ja)の」コンテンツを扱うプロジェクトです。欧文のみコンテンツが投稿されていれば、日本語でないため、すぐに out of scope であると気づくはずです。しかし、日本国内にある日本語(ja)以外の言語には鈍感ではありませんか。ja以外の言語コンテンツは、対応する言語版に掲載します。対応する言語版が存在しなければ、[[oldwikisource:|オールドウィキソース]](ウィキメディア・インキュベータに相当するプロジェクト)に投稿します。jaの原文を収録するのが「日本語版」であって、「日本版」ではありません。tkn(徳之島語版)、ryu(琉球語版)、zh-classical(漢文版)、ja-classical(古典日本語版)、yoi(与那国語版)、xug(国頭語版)、mvi(宮古語版)などのja(日本語版)以外の言語が紛れていないか点検をお願いします。--[[利用者:Charidri|Charidri]] ([[利用者・トーク:Charidri|トーク]]) 2024年4月20日 (土) 12:58 (UTC)
:返り点は日本語独自のものであり他の言語に存在しない。他人に負担の大きい移植作業をやらさせるのではなく、自ら率先して移植作業を行い手本を示せ。隗より始めよ。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 03:05 (UTC)
== Invitation to join April Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We are the hosting this month’s Wikisource Community meeting on '''27 April 2024, 7 AM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1714201200 check your local time]).
Similar to previous meetings, the agenda will be split into two segments. The first half will cover non-technical updates, such as events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. In the second half, we'll dive into technical updates and discussions, addressing key challenges faced by Wikisource communities.
Simply follow the link below to secure your spot and engage with fellow Wikisource enthusiasts:
[[:m:Event:Wikisource Community Meeting April 2024|Event Registration Page]]
If you have any suggestions or would just prefer being added to the meeting the old way,
simply drop a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org'''.
Thank you for your continued dedication to Wikisource. We look forward to your active participation in our upcoming meeting.
Regards
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<small> Sent using [[利用者:MediaWiki message delivery|MediaWiki message delivery]] ([[利用者・トーク:MediaWiki message delivery|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 12:21 (UTC)</small>
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== 第1期U4C委員選挙の投票について ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – vote opens|このメッセージはメタウィキで他の言語に翻訳されています。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – vote opens}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは、
本日のお知らせは、現在、ユニバーサル行動規範調整委員会(U4C<sup>※</sup>)の選挙期間中であり、2024年5月9日が最終日である点を述べます(訳注:期日を延長)。選挙の詳細はぜひ[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024|メタウィキの選挙特設ページ]]を開いて、有権者の要件と選挙の手順をご参照ください。(※=Universal Code of Conduct Coordinating Committee。)
U4C(当委員会)はグローバルなグループとして、UCoCの公平で一貫した施行を促そうとしています。コミュニティ参加者の皆さんには過日、当委員会委員への立候補を呼びかけるお知らせを差し上げました。当委員会の詳細情報とその責務の詳細は、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|U4C 憲章]]をご一読願います。
本メッセージをご参加のコミュニティの皆さんにも共有してくだされば幸いです。
UCoC プロジェクトチーム一同になり代わり、よろしくお願いいたします。<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年4月25日 (木) 20:20 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26390244 のリストを使用して送信したメッセージ -->
6q226iruhts3fsmoyrsamo5xay6b4h7
219109
219108
2024-04-26T09:10:01Z
P9iKC7B1SaKk
37322
/* 全集の収録方法について */ 返信
wikitext
text/x-wiki
{{井戸端}}
== ブロック依頼:[[User:P9iKC7B1SaKk]]氏 ==
[[Wikisource:削除依頼/アーカイブ/2023年#(*)「セルブ・クロアート・スロヴェーヌ」王国建国史_-_ノート]]、[[利用者・トーク:JOT_news#カテゴリへの追加について]]、[[#機械翻訳の濫用?]]などにおいて、針小棒大な発言を繰返し、コミュニティを疲弊させています。[[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk#言葉遣いについて]]において抑制をお願いしましたが、聞き入れないばかりか、[[#管理者権限の停止依頼]]を提出し、噛み合わない議論を続けるばかりです。コミュニケーションへの姿勢を改めていただければこの依頼は不要となりますが、他プロジェクトの文書ではありますが、[[w:Wikipedia:礼儀を忘れない]]などをご熟読いただき、お考えを改めていただくまで、1か月程度のブロックを提起します。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月11日 (土) 13:04 (UTC)
:{{コメント}} 私としては針小棒大ではなくむしろ意味のある書き込みをしているという自負があります。ましてや他人をからかったことなど一度もありません。改めるべきはどちらなのか、冷静になって考えていただければと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月11日 (土) 13:54 (UTC)
:[[:w:Wikipedia:礼儀を忘れない]]を確認させていただきました。Kzhrさんのこの投稿は'''深刻な事例'''に相当する「追放や投稿ブロックを不当に要求すること」に該当する可能性があります。追放や投稿ブロックは、私が提案しているKzhrさんへの管理者権限停止よりも明らかに重いものです。針小棒大な発言をしているのもKzhrさんのほうです。取り消し編集に「バンダリズム」とログ要約欄に書き込んだ件ではJOT Newsさんと編集合戦が起きたわけでもなく穏便に話し合いで解決しつつあったのです。トラブルの当事者でないKzhrさんが他人の感情を勝手に決めつけて私を批判し続けていることが問題の本質なのです。バンダリズムという単語にKzhrさんが強い拒否反応を示されているのはおかしいと思います。私を含め誰もが悪意なくバンダリズムをやってしまう恐れがあり、悪意の有無に関係なくバンダリズムをバンダリズムと冷静に指摘しつつ取り消し編集するのは正しいことです。さもなければバンダリズム編集がし放題になってしまいます。「バンダリズム」との指摘をログ要約欄に書き込まれただけで怒る短絡的な人こそ追放や投稿ブロックにふさわしいのではないでしょうか。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 05:11 (UTC)
::JOT Newsさんとの間だけのことのように議論をずらすのはやめていただけますか。また、百歩譲って穏便に解決したのだとしても、過剰に批判的な言辞をものしていいことにもなりませんし、また、バンダリズムの自己流解釈についても指摘を受け止められないという証拠を強化はしても、P9iKC7B1SaKkさんにとって有利になるとはとても思えません。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 14:09 (UTC)
:::{{コメント}} 「[[:w:Wikipedia:荒らし]]」によると、荒らしとは「百科事典の品質を故意に低下させようとするあらゆる編集のこと」でありつつも、「百科事典を改良しようとなされた善意の努力は、間違いや見当違いや不適切なものでも、荒らしとは捉えない」とあります。
:::「金融」と「革命」というかなり抽象的なカテゴリにお気に入りブックマークのように小説などの作品を追加していくのは、Kzhrさんには善意の努力に見えたのかもしれませんが、私には善意の努力には見えませんでした。よって、私はこれを荒らしと判断し、取り消し編集を行いました。あれこれと要約欄に書き込むのも不自然なので感情が入らないよう淡々とバンダリズムと書いたのは今でも最も適切な対応だったと思っています。実際、それを見たであろうJOT Newsさんから説明を求める問い合わせはありましたが、感情的で否定的な反応は来ていません。納得してくれたと思います。Kzhrさんが荒らしでないと思うのであれば、JOT Newsさんの「金融」と「革命」へのカテゴリへの作品追加を復元なさってください。復元しないのであればその理由を明確に説明してください。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 14:27 (UTC)
:::{{コメント}} 過剰に批判的な言辞かどうかの判断をKzhrさんの主観だけで決めようとするのは良くありません。JOT Newsさんによるカテゴリ追加が客観的に善意の編集であることをKzhrさんに説明して頂く必要があります。善意を説明できないなら荒らしということになります。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 14:48 (UTC)
:::{{コメント}} 一般論の「善意」ではわかりにくいでしょうから、法律用語としての「善意」、具体的には「ユーザーページのページを以外を私的な用途に使ってはいけない」という事実をJOT Newsさんが知らなかったかどうかを論点にして頂くと良いかと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 15:19 (UTC)
:::{{コメント}} 訂正します。「ユーザーページのページを以外を私的な用途に使ってはいけない」→「自分のユーザー名前空間以外のページを私的な用途に使ってはいけない」--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 15:23 (UTC)
:::{{コメント}} 改めて、整理しますと、JOT Newsさんが「ユーザーページ以外のページを私的な用途に使ってはいけない」という事実を知らなかったと証明された場合は「善意による編集」であって荒らしではないので私のバンダリズムとの記述は過剰に批判的な言辞である、ということになります。Kzhrさん、以上の点をふまえて、説明をお願いします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 15:34 (UTC)
:::{{コメント}} Kzhrさんは「JOT Newsさんによるカテゴリ追加はそもそも私的な用途ではなく公的な用途である」という論駁も可能です。その場合は、私的な用途ではないのですからJOT Newsさんによるカテゴリ追加を復元すべきと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 16:00 (UTC)
:{{コメント}} 相手と話し合うことなしに「ログ要約欄にバンダリズム(あるいはrvvも)を書き込んではいけない」という独自ルールを作って他人に押し付けようしているのが、客観的なKzhrさんの状態です。私がKzhrさんの管理者権限の停止を求めている一番の理由もここにあります。規則のどこを読んでもそのような解釈はできないので話がかみ合わないのです。私は、他のユーザーさんが荒らしと対話してから取り消し作業をするところをまだ一度も見たことがありません。Kzhrさんは経験があるでしょうから、その時のログを提示できるかと思います。ログのご提示をお願いいたします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 16:49 (UTC)
* {{賛成}} このセクションだけを見ても、数時間のうちに何度もコメントを残しておられますので、思いついた反駁を都度記載されているように見受けます。議論をするには、冷静に内容を読み直し、自身の意見をまとめる時間が必要かと思います。よってブロックに賛成票を投じます。期間については対処者に一任します。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 17:04 (UTC)
*:{{コ}}'''追記''' 会話を試みた結果、「[[w:ja:Wikipedia:児童・生徒の方々へ|Wikipedia:児童・生徒の方々へ]]」の対象者かもしれないと感じました。期間は一任の意見は変わりませんが、実年齢の推測が私には出来ないため、無期限にも反対しません。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月19日 (日) 07:26 (UTC)<small>linkを失敗していました。失礼しました。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 05:40 (UTC)</small>
:{{反対}} 連続投稿を不快に思われたかたがたに、お詫びします。以後連投しないよう気を付けます。ブロックは困るので自分自身への反対票を投じさせてください。もしブロックと決まった場合はどうか来週まで猶予期間を下さい。現在、わりと大物を作っている最中で今週中に入力完成の見込みです。それをまとめてWikisourceに書き込む時間とWikisourceでの実動作確認をして調節する時間をどうしても頂きたいのです。ご理解のほどお願いいたします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 17:36 (UTC)
::ご自身のブロック依頼へ票を投じることはできません([[w:Wikipedia:投稿ブロック依頼#依頼・コメント資格について]])。ルールを把握してください。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 11:48 (UTC)
* {{賛成}} しばらく被依頼者を様子見していましたが、初対面の人に対していきなり「バンダリズム」呼ばわり、バンダリズムと言ったことに説明を求められても具体的な回答は無し、言動を注意されても俺は悪くないの一点張りと呆れるばかりでした。様々な議論を引っ搔き回し他の利用者を振り回した挙句、自分が投稿ブロックされる可能性が出てくれば猶予をくれとは随分と虫が良すぎませんか。以上から被依頼者の投稿ブロックに賛成します。<del>期間は今のところは一任しますが、期間を定めないことも反対しません。</del>--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 12:17 (UTC) {{small|票を修正。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月17日 (金) 17:16 (UTC)}}
** {{コ}} 票を賛成(期間:一任)から賛成(期間:無期限)に変更します。[[特別:差分/213876|こちらの編集]]ですが、対立した方に対してああすればよかったなどと言うのは、正直反省してから出る言動とは思えません。諫められたのは単語の選び方だけでなく、無礼な態度・姿勢も含まれていることにまだ気付かないのでしょうか。一定期間が経過しても状況は変わらないと判断し、投稿ブロックの期間は定めない票に変更します。「私は今後、一切自治活動をしません」とのことですが、いわゆる管理系以外のページでも軋轢を生むことは目に見えていますから、あまり意味のない宣言だと私は思います。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月17日 (金) 17:16 (UTC)
*:{{コメント}} @[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]]さん、バンダリズムと言ったことへの具体的な回答は十分に行いました。ログをお読みになってください。初対面かどうかは関係ありません。年季が長かろうが荒らしは荒らしなのです。JOT Newsさんの編集が荒らしではないと思うのであれば、金融カテゴリへの作品追加を復元してさしあげてください。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 12:37 (UTC)
*:{{コメント}} 私が広義のバンダリズムと判断して取り消し処理で[[:カテゴリ:金融]]を除去した作品を以下に列挙します。
*:* [[R.U.R./第2幕]] ※ただしログにバンダリズムとの記載なし
*:* [[クルアーン/雌牛章]]
*:* [[魔術]]
*:* [[カシノの昂奮]]
*:* [[二十世紀の巴里/第十三章]]
*:* [[新聞評]]
*:* [[国際社会主義者評論 (1900-1918)/第1巻/第1号/イギリスと国際社会主義]]
*:* [[MIVILUDES2004年度報告書]]
*:* [[国際社会主義者評論 (1900-1918)/第1巻/第1号/金権政治か民主主義か? ]]
*:* [[ブラジルの金融情勢]]
*:JOT Newsさんによる上記作品の金融カテゴリ追加が荒らしでないと思う方は、JOT Newsさんの名誉のために上記作品を金融カテゴリに復元してあげてください。復元しない場合はしない理由を教えてください。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 12:49 (UTC)
*::バンダリズムではないなら復元すべきだというのは論理破綻です。一般的なバンダリズムの解釈には当たらないと言っているだけで、そのカテゴリが妥当かどうかについては述べていません。他の参加者を荒しだと呼ぶということは、共同作業の拒否を意味するわけで、だからこそ妥当ではないと考えたとしても敬意をもって接するよう努めてきたわけです。共同作業を大事にしないと仰るのであれば、いっしょにやっていくことは難しいので、それを改めていただきたいというのがこのブロック依頼の趣旨です。重要なコンテンツを投稿したいといったことは考慮に値しません。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 13:50 (UTC)
*:::{{コメント}} 返信ありがとうございます。「荒らし」や「バンダリズム」はあくまでも特定の行為でありその人の人格否定や侮辱を伴うものではないと思っていました。時にだれでもうっかりや出来心でやってしまうものだと思っていました。たとえ話で恐縮ですが、サッカーにハンドやオフサイドやファールというルール違反があります。あなたの今のプレイはファールだと指摘したからと言って敬意の欠如にならないのと同様に、バンダリズムとの指摘ももっと軽いものと思っていました。バンダリズムとは違う正しい名称があるのであれば以後はそれを使いますのでお教えください。あともう一点、「[[利用者・トーク:JOT_news#カテゴリへの追加について]]」でのJOT Newsさんに対する私の書き込みで敬意を欠いている部分についてご指摘ください。改善します。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 14:24 (UTC)
*:::{{コメント}} 連投になって申し訳ありません。私は相手の行いを事細かにあげつらって批判するのをさけるためのわざとふんわりしたあいまいな表現をしたくて「バンダリズム」や「他の人が迷惑です」と書き込んだつもりでした。英語の辞書の定義のままの行為としてのvandalismと思い込んでいました。「バンダリズム」や「他の人が迷惑です」がふさわしくないようですので、適切な表現をご教示ください。そのカテゴリが妥当でない理由を教えていただければ、以後その表現を使います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 15:16 (UTC)
*::{{コメント}} 今後は、身勝手な判断で自治行為まがいのことをしませんのでお許しください。落書きなどの明らかな荒らしではない編集への介入は一切しないようにします。私はウィキソースの文化をよくわかっていませんでした。反省しています。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 16:31 (UTC)
:{{提案}} 私なりに穏便な取り消しログ文言を考えてみました。「持続困難」です。判断基準があいまいなので他の人が作業を引き取れない、他の作品に同じことを適用する労力が大きすぎる、などの意味です。今どきよく聞く「持続可能」の反対である「持続不可能」だと強すぎるので、控え目に「持続困難」にしてあります。
:こんなことを提案してみましたが、私は今後、一切自治活動をしませんので、どうかご安心を。改めて謝罪いたします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月14日 (火) 02:58 (UTC)
:{{コメント}} 「持続困難」といったログ文面を提案するなどのことは、被依頼者が問題を十分に理解したとはあまり思えないのですが(適切な表現を教えてほしいとありますが、世の中のマナーの本・敬語の本など読まれればよいと思います)、さしあたって被依頼者が軋轢を生むような投稿を止めたため、この依頼の緊急性はひとまず失われたかに思われますので、依頼者としては取り下げてもよいかと思いますがいかがでしょうか。ただし、ご賛同の声も強かったことは銘記すべきで、被依頼者は今後原典の投稿に専念なさるべきことを強く申し添えたく思います。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 01:04 (UTC)
::{{返信}} 今後、コミュニティを消耗させることはないだろうという判断であれば、依頼の取り下げ、あるいは今回は対処せずの終了にも、異議を唱えるものではありません。ただ、今のところ賛成票の撤回をするには至っていないと、私は考えています。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 05:23 (UTC)
:: {{コメント}} 正直ウィキソース内での活動場所を少し狭めたのみで、被依頼者が問題を理解しているとは私も思えません。利用者ページで不穏なことを投稿しているところを見るに、利用者ページを介して問題を引き起こすことは目に見えています(そもそも利用者ページを日記のように使うのってどうなの?と思うのですが一旦置いておきます)。投稿ブロックの建前は「問題発生の予防」「被害発生の回避」な訳ですが、[[w:ja:Wikipedia:投稿ブロックの方針#コミュニティを消耗させる利用者|コニュニティを消耗させた]]実績がある以上は、投稿ブロックはそれら建前とも反しないと思います。依頼取り下げに反対するとまでは言いませんが、少なくとも私の賛成票は撤回せずそのままにしておきます。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 05:33 (UTC)
::{{コメント}}ご返信どうもありがとうございます。利用者ページのほう確認しましたが、ブロックをちら付かせているという繰返しの発言がありましたので、文書を読んであらたまる類いのものではないのだろうという結論に傾きつつあります。利用者ページであれば他者への自由な発言をしていいわけではありません。無期限のブロックもやむなしと考えますが、自身で提起したブロック依頼ですので、他の管理者の方にご結論をまとめていただきたいと思っています。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年12月1日 (金) 07:01 (UTC)
:管理者のかたにお願いです。攻撃的な言動で他者の書き込みに対する脅迫や言論統制を行おうとしているのはどちらなのか、公正な判断をお願いいたします。ウィキペディアの議論は発達障害などさまざまな障害を抱えた人でも平等に参加できる開かれた仕組みは大切だと思います。ですが、少人数による形ばかりの多数決が常に正しい結論を導き出せるとは限らないと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年12月23日 (土) 00:46 (UTC)
:私がウィキソースからいなくなるか、@[[利用者:Kzhr|Kzhr]]・@[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]]・@[[利用者:安東大將軍倭國王|安東大將軍倭國王]]・@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]の4人がウィキソースからいなくならない限り、この問題は解決しません。和解は不可能です。決断をお願いします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 07:31 (UTC)
:{{賛成}} (ただし期限付き)賛成されている方々のご意見は十分理解できます。私も何度か意見の衝突を経験しました。ただ、P9iKC7B1SaKkさんの[[User:P9iKC7B1SaKk|利用者ページ]]冒頭の投稿作品一覧からも分かる通り、フォーマットに関する意見の違いはあるものの、わずかの間に膨大な貢献をされました。この点を併せて考慮いただければ幸いです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年2月10日 (土) 06:23 (UTC)
::{{返信}} 無期限は「期限をさだめ無い」を意味するものだと考えます。被依頼者が自身の問題点を把握し、改善できるのならば、ブロック解除もできるでしょう。私見ながら、機械翻訳に関するものでもありますが、「わずかの間に膨大な貢献」をされるのは困ります。P9iKC7B1SaKk さんが[[利用者:P9iKC7B1SaKk|利用者ページ]]で仰ることに頷ける部分もありますが、「自分は校正をしたくないけれど、したい人がすればいい」ということでは、先が思いやられます。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月10日 (土) 08:59 (UTC)
** {{コ}}Wikisourceではメーリングリストが整備されていないことから無期限は事実上の永久になってしまう可能性があります。私自身はほぼ交渉がないためどのような活動をしていたかは把握しておりませんが、もしブロックとなる場合ですが、まずは期限を定めたブロックを行い、解除後問題が発生する場合、無期限を検討すべきと考えます。なおあくまでも立場としては中立ですが、無期限には反対よりです。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 01:02 (UTC)
*** {{コメント}} 今のところは会話ページを塞ぐことにはなっていませんので、投稿ブロック解除の申請は自身の会話ページで可能です(もっとも目的外な利用をすれば塞ぐことになりますが)。ブロック解除の方針は日本語版ウィキソースにはありませんが、[[w:ja:Wikipedia:投稿ブロック解除依頼作成の手引き|日本語版ウィキペディア]]に準拠する形になるでしょうか。この辺りは別トピックで議論が必要ですね。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 05:33 (UTC)
**:{{コ}} @[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さん、私を期限付きブロックしたとしても問題解決はしないので、多数決と集合知によって私を無期限ブロックすべきです。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 07:02 (UTC)
**:{{コ}}私が書き込んだ直後にIPユーザーが何かを書き込んだようですが、そのIPユーザーは私のなりすましではなく赤の他人です。私は無期限ブロックされてもIPユーザーや別アカウントで書き込んだりしないので、心配せず無期限ブロックしてください。最後にお願いです。特に@[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さんにお願いです。[[Wikisource:管理者権限依頼#利用者:Kzhr]]にも書き込みましたが、Kzhrさんに対する管理者権限除去依頼を削除せずそのまま維持してください。管理者ユーザーとしてのKzhrさんを見張り続けるために除去依頼の維持が必要です。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 07:34 (UTC)
**:{{コメント}} 私の読み違えでしたら申し訳ないのですが、P9iKC7B1SaKk さんが Hideokun さんに今求めているのは、<u>「[[ja:w:泣いて馬謖を斬る]]」</u>ことではないでしょうか。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 15:39 (UTC) <small>下線部を誤字修正+Link --[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 16:38 (UTC)</small>
**::成程、泣いて馬謖を斬る、か。つまりあんたらにとっては規律を守ることが最大限に大事なのね。そのために一日中このサイトを監視して、問題人物を見つけたらブロックだ方針だ、合意だコミュニティだ騒ぎ立てて、正義の味方の学級委員長をきどるわけだ。別に我々戦争しているわけでも、そんな大したプロジェクトに身を投じているわけでもないのにね。結局一番重要なのは、規律を盾に目を吊り上げて他人を糾弾する事なんだね。--[[特別:投稿記録/82.221.137.162|82.221.137.162]] 2024年2月11日 (日) 16:51 (UTC)
**::規律と多数決。確かに一見民主主義が施行されているようにも見える。--[[特別:投稿記録/82.221.137.162|82.221.137.162]] 2024年2月11日 (日) 16:58 (UTC)
:私は一か月ブロックされましたが、私がKzhrさんに対する管理者権限停止の要請を取り下げることもなく、機械翻訳ページ削除の仕組みもできあがらないままです。次はどうされますか。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月7日 (日) 12:06 (UTC)
{{Reply to|Sakoppi|Hideokun}} 依頼提出から1か月以上、最終コメントから20日が経過しました。これ以上はコメントや票が出ないかと思いますので、議論の終結をお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年12月21日 (木) 09:34 (UTC)
{{Reply to|Sakoppi|Hideokun}} すみません、私のコメントから1か月経過しましたのでもう一度通知いたします。こちらの議論の終結をお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年1月21日 (日) 11:13 (UTC)
:@[[利用者:Sakoppi|Sakoppi]]さん、@[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さん、 [[Wikisource:管理者権限依頼#除去依頼]]で提起したKzhrさんに対する管理者権限除去依頼についても、裁決をお願いいたします。一旦取り下げたのですが、Kzhrさんから攻撃的な書き込みがありましたので考え直して、除去依頼を再度提起させていただきました。また、@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]さんから未成年者と揶揄する侮辱やこのブロック依頼の話題が進行中であることに便乗した脅迫的な書き込みを受けているため、この議論を終わらせていただけますと、幸いです。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年1月21日 (日) 11:46 (UTC)
{{Reply to|Syunsyunminmin|Infinite0694}} グローバル管理者で日本語話者の方(Ja-N)にも通知いたします。こちらの議論の終結をお願いいたします。ご不明な点があればコメントをください。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 07:41 (UTC)
: {{コメント}} 勘違いされているようなので、すみませんが少しだけ。ウィキメディア財団の運営する各プロジェクトにおいて、障がいであることを理由に排除されることはありません(すべてのプロジェクトの方針を見た訳ではありませんが恐らくはそうでしょう)。が、それは投稿ブロックの方針に反しない限りでの話です。方針に反している状態であれば、障がいがあろうとなかろうと投稿ブロックがかかることになります。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 07:41 (UTC)
:: {{コメント}} 今回の件につきましてですが、過去にKzhr氏から「[https://ja.wikisource.org/w/index.php?title=Wikisource:%E4%BA%95%E6%88%B8%E7%AB%AF&diff=prev&oldid=150296 すくなくともHideokunさんみたいにプロジェクトの私物化はしてないですね。]」等の暴言をいただいており、また、作品を投稿せず管理行為のみを行っている行動に対して疑問を抱いております。そのため、私の活動頻度が著しく低下したわけで、私が関わるとプロジェクトの私物化ととられかねませんので申し訳ありませんが、対処いたしかねます。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 10:55 (UTC)
:::このリンク先をよく読んで、悪意のある切り取りでないと分らないひとはいないと思うのですね。コミュニティの合意形成を妨げて私意を優先したことを指して私物化と言っているわけで、確かに何もしなければ私物化にはなりませんが、それで管理者としての務めを果たせているのかよくお考えいただければと思います。管理行為のみを行うことが疑問だというのは、趣味の問題なので、コメントはしません。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 02:31 (UTC)
::::何を言われているのかよくわかりませんが、リンク先は色々と参照できるようにするために設定しております。切り取りではありません。よく考えてから物はいいましょう。また、私物化というレッテル張りはおやめください。ある一点だけを切り取り私物化しているというのは木を見て森を見ずという小さいところしか見れないあなたの見識の低さを顕著に示しています。また、そのようなレッテル張りに私は深く傷ついたのでWikipediaにありますが「個人攻撃はしない」を行っているということです。また、あなたの攻撃的な言動、つまりは高圧的に上から目線で何事にも対応するためにいろいろと軋轢を生んでいることはWikipediaの履歴も参照すればよくわかります。あなたこそ管理者としての務めを果たせているのでしょうか。また、管理行為を趣味の問題と申すのはよくわかりません。ようするに作品は投稿しないけど管理だけさせろということになり、草取りのような行為でさえほとんどされていないようです。つまりはWikisorceの充実には貢献しません、利用者の監視のみしますと宣言しているようなものです。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2024年2月4日 (日) 09:51 (UTC)
::::: {{Reply to|Kzhr|Hideokun}} お二方ともどうかご冷静に。こちらはP9iKC7B1SaKkさんの投稿ブロック依頼ですので、直接関係の無い話題は別のトピックでお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月4日 (日) 15:31 (UTC)
: グローバル管理者の建前上、ローカルの管理者ではない私が日本語版ウィキソース内部の問題に対して判定/裁定するのは躊躇います。コミュニティでの合意事項を明示して依頼してもらえると助かります。 [[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]] ([[利用者・トーク:Syunsyunminmin|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 13:02 (UTC)
:: @[[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]]さん、迅速な返信ありがとうございます。この投稿ブロック依頼では賛成票は入ってはいるものの、合意に至っているとは言い難い状態ですので、合意事項は現時点ではありません。ただ、素性を知らないはずの利用者に対して発達障害者と断定して発言する行為([[特別:差分/216045|こちら]]や[[特別:差分/216047|こちら]])があっても、暫定的に投稿ブロックをかけることは難しいのでしょうか。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 16:22 (UTC)
:: @[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さん、対処しない旨、承知いたしました。ただKzhrさんの管理系における行為については、こちらでは無関係ですので、ご意見があれば[[Wikisource:管理者権限依頼#利用者:Kzhr]]でお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 16:22 (UTC)
:: {{コメント}} 私は賛成票を投じているので中立的なコメントとは言えませんが、この議論を終わらせたいと思っているのは合意できる部分ではないでしょうか。また、多数決で決めることではないとはいえ、反対票が入っていないことは、依頼に対処することを妨げないものと思います。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 06:05 (UTC)
: 無期限票と一任票がそれぞれ一つですので、無期限としてラフコンセンサスが出来ていると判断します。あまりにも目に余るものがあれば前倒しにしますが、念のため1週間程の予告期間をおいて、皆様がよろしいのであれば無期限ブロックを実施します。 [[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]] ([[利用者・トーク:Syunsyunminmin|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 12:15 (UTC)
:: お手数をおかけします。Syunsyunminminさんの対処に賛成いたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月4日 (日) 09:48 (UTC)
:::思うんだけど、とりあえず困った人をブロックして解決しようとするより、もうちょっと話し合ったら? 自分が衆愚の多数派に属しているから自分、自分たちが圧倒的に正しいと思い込むのが、ウィキメディアの典型的な馬鹿の発想だね。ブロックは懲罰でないってどこかに書いてなかった? じゃあ何でブロックせよと言い出すの? ブロックして痛めつけて自分たちの都合のいい考えを持つようにしたいんでしょ? 馬鹿馬鹿しいせこい考えで生きてる奴だけで、ウィキメディアを構成したい訳かね?ラフコンセサスなんて馬鹿げた言葉が出ているけど、馬鹿のコンセサスなんてあまり意味ないだろ? 本当に目に余る愚行をしているのは誰か? 考え直してみな。--[[特別:投稿記録/169.61.84.132|169.61.84.132]] 2024年2月4日 (日) 20:39 (UTC)
::::この長い議論の末に突然現れて話し合ったらと言い出せるのには首をひねりますが、[[User:P9iKC7B1SaKk]]における罵詈雑言のかずかずを見て、議論の成立する余地があるとどこのだれが言えるのでしょうか。もうすこし常識的に考えていただければと思います。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 08:46 (UTC)
:::::長い議論の末に突然現れて話し合ったらと云いだせるのが、なぜおかしいのですか? 私の見るところあなた達は今までの十倍は話し合うべきですね。大体ウィキメディアは話し合いが少なすぎますよ。基本的に馬鹿な多数派が暴力で自分たちの欲望をごり押ししているだけ。P9さんの罵詈雑言と言うけど、私の見た限りでは、多少は暴論に近いけど、基本的には正しいこと言っている。むしろ鉄の時代とか、温故知新さんだってかなり酷いこと言っていると思うけど…。大体いい大人を捕まえて子ども扱い、犯罪者扱い、ダメ人間扱いするのは最大級の侮辱ですよ。それこそあなた達大好物の礼儀と善意、個人攻撃をしないに反する言及でしょう。まあ議論の成立する余地は確かに少ない。ただそれは、P9さんが悪いのではなく、あなた達が悪いんだよ。貴方達が愚か者過ぎるの。正しい事と正しい行為を知らないのでしょう。常識って何かね? あなたも仏教と親鸞に心を寄せるなら、そんなもの何の価値も無いって知っているはずでは?--[[特別:投稿記録/169.61.84.147|169.61.84.147]] 2024年2月5日 (月) 09:23 (UTC)
::::::オープンプロクシからの議論参加は正規の手段ではありませんのでこれ以上止まないようであればブロックの対象となり得ます。ご注意ください。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 10:26 (UTC)
:::::::何だ、結局話し合いする気ゼロか。ブロックしたいならいつでもどこでも好きなだけしろよ。ただし俺はそこそこ別のIP 用意できるぜ。ただまあやっぱり関わらない方が良かったね。あんたらみたいな馬鹿見るとついつい文句言いたくなるんだが、やはり書かないのが正解だったようだね。卑怯者につける薬無し。木枯し紋次郎は、「あっしには関りのねえことでござんす」と云いつつ、あんたみたいな悪党を見るとついつい、立場の弱い人に助太刀しちゃうんだ。で、その結果ボロボロにやられるんだけどね(^^;;;)。合意、コミュニティ、コミュニティに疲弊をもたらす、お前は子供、しでかしたな、目に余る問題行為、問題利用者は監視しましょう、全て衆愚のファシストに都合のいい、言葉尻の欺瞞だね。(by--169.61.84.1**)--[[特別:投稿記録/158.85.23.146|158.85.23.146]] 2024年2月5日 (月) 10:43 (UTC)
:::::{{コメント}} 機械翻訳の件でもそうですが、品質が低いからという理由だけでページを削除する仕組みを作ろうとするのは入力担当者に対して失礼です。入力担当者の労力に対してもっと敬意を払ってください。気に入らない作品を削除する口実を無理に探す短絡性が、そのまま私をブロックする口実を無理に探す短絡性につながっています。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 09:24 (UTC)
: {{コメント}} オープンプロクシのIP利用者は[[w:ja:Wikipedia:進行中の荒らし行為#Honooo|この方かその模倣]]ですので無視してください。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 12:08 (UTC) {{small|修正。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 12:09 (UTC)}}
::Wikimedia 用語辞典。方針=気に入らない奴をブロック、追放していい理由。合意=多数決。コミュニティ=衆愚の多数派。管理者=いざという時に衆愚の友達の為に暴力を振るってくれる、権力者。スチュワード=衆愚の暴力者の親玉、衆愚の言う事は全て聞いてくれる。--[[特別:投稿記録/82.221.137.167|82.221.137.167]] 2024年2月11日 (日) 18:25 (UTC)
:::議論=自分たちの欲望を満たすための謀議、水戸黄門の越後屋と悪代官のようなものか?(^^;;)。--[[特別:投稿記録/82.221.137.178|82.221.137.178]] 2024年2月11日 (日) 19:31 (UTC)
::うーん、俺も最初はウィキメディアの管理者とかスチュワードは人格者で、常に大岡越前のような公平公正な判断、取り扱いをすると思っていたんだ。しかし実際には違った。常に衆愚の友達の為によきに計らって、権威的な言説をしつつ暴力と権力を振るうだけだったんだよね。そろそろこのサイトも終焉が近いのではないかね。終焉してリードオンリーにした方がいいと思うな。知識と知恵と情報のためには、新たな形態のサイトが必要だと思う。終焉しないにしても、何らかの改革と改善は必要だろう。--[[特別:投稿記録/82.221.137.186|82.221.137.186]] 2024年2月11日 (日) 20:28 (UTC)
* {{コメント}} IPの方は Honooo さんですよね? 改革と改善は必要だとしても、個々のコミュニティが単独でできることではないので、この依頼の議論では控えて下さると幸いです。また、このままではこの議論を終了することが出来ず、管理者の方も対処を躊躇うばかりかと思います。期限付きを考える方は、期間の提示をしてくださる方が裁定しやすいものと考えます。私の意見は、ブロックに{{賛成}}期間は対処者に一任(無期限にも反対しない)に変更ありません。被依頼者には、コミュニティを疲弊させない姿勢で帰ってきていただければと思います。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 23:32 (UTC)
*:いやー、確かに私がHonooo です(^^;;)。確かに私はここで余計な口出さない方がいいようですね。色々鬱屈が溜まっていた時にここのサイトを見て、この議論を見て、納得いかない言説と展開があったのでついつい口出ししてしまいましたが、もともと私が深く関わっていたプロジェクトでもないですし、口出しする権利はあまりないようです。只一点だけ、コミュニティを疲弊させるという表現は、欺瞞が多いと思います。多数決の多数派がそう主張しますが、こんな事態になったら誰しも疲弊するんでね。コミュニティってお前らのこと?、俺は含まれていないの?、なんて疑問を持つこともあると思います。そもそも多少の疲弊はするべきだろう。コミュニケーションなんて疲弊するものだし、疲弊してこそのコミュニティであり、議論であり、話し合いじゃあない?都合のいい時に疲弊と云い、都合のいい時に共同作業と云い、都合のいい時に負担という。やはりこのサイトには根源的な欺瞞がはびこっていると思う。--[[特別:投稿記録/82.221.137.187|82.221.137.187]] 2024年2月12日 (月) 00:53 (UTC)
*:{{返信}} ご提案ありがとうございます。冷却期間が必要かと思うのですが、当初のご提案通り1か月とさせていただければ幸いです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年2月12日 (月) 04:33 (UTC)
@[[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]]さん、予告より1週間以上経ちましたが、対処はされないのでしょうか。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月22日 (木) 15:53 (UTC)
: 予告後に[[#c-CES1596-20240210062300-Kzhr-20231111130400|期限付き票]]と[[#c-Hideokun-20240211010200-CES1596-20240210062300|無期限に反対の意見]]が入ったため様子を見ていました。無期限・1ヶ月・一任がそれぞれ1票ずつであり、この状態で無期限ブロックするのは難しいです。そのため今回は1ヶ月のブロックとして対処します。必要に応じて延長/再ブロック依頼をお願いします。 [[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]] ([[利用者・トーク:Syunsyunminmin|トーク]]) 2024年2月23日 (金) 12:04 (UTC)
:: {{コメント}} ありがとうございます。お手数をおかけしました。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月23日 (金) 14:30 (UTC)
== リネーム依頼 ==
新しくindexのページを作った際に、File:の接頭辞を削除するのを忘れてしまい[[Index:File:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvu]]を誤って作成してしまいました。つきましては、管理者権限をお持ちの方、Index:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvuへリネームしていただきたく。--[[利用者:HinokisOfRoma|HinokisOfRoma]] ([[利用者・トーク:HinokisOfRoma|トーク]]) 2024年1月3日 (水) 05:06 (UTC)
: {{コメント}} 私は管理者ではありませんが、移動(改名)は一般利用者でも対処可能でしたので、[[Index:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvu]]に移動しました。移動元の[[Index:File:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvu]]は{{tl|即時削除}}の貼り付けがエラーで出来なかったので、[[Wikisource:管理者伝言板]]にて管理者にお知らせしています。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年1月3日 (水) 06:28 (UTC)
::ありがとうございました。--[[利用者:HinokisOfRoma|HinokisOfRoma]] ([[利用者・トーク:HinokisOfRoma|トーク]]) 2024年1月5日 (金) 14:04 (UTC)
== Do you use Wikidata in Wikimedia sibling projects? Tell us about your experiences ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
''Note: Apologies for cross-posting and sending in English.''
Hello, the '''[[m:WD4WMP|Wikidata for Wikimedia Projects]]''' team at Wikimedia Deutschland would like to hear about your experiences using Wikidata in the sibling projects. If you are interested in sharing your opinion and insights, please consider signing up for an interview with us in this '''[https://wikimedia.sslsurvey.de/Wikidata-for-Wikimedia-Interviews Registration form]'''.<br>
''Currently, we are only able to conduct interviews in English.''
The front page of the form has more details about what the conversation will be like, including how we would '''compensate''' you for your time.
For more information, visit our ''[[m:WD4WMP/AddIssue|project issue page]]'' where you can also share your experiences in written form, without an interview.<br>We look forward to speaking with you, [[m:User:Danny Benjafield (WMDE)|Danny Benjafield (WMDE)]] ([[m:User talk:Danny Benjafield (WMDE)|talk]]) 08:53, 5 January 2024 (UTC)
</div>
<!-- User:Danny Benjafield (WMDE)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Global_message_delivery/Targets/WD4WMP/ScreenerInvite&oldid=26027495 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Reusing references: Can we look over your shoulder? ==
''Apologies for writing in English.''
The Technical Wishes team at Wikimedia Deutschland is planning to [[m:WMDE Technical Wishes/Reusing references|make reusing references easier]]. For our research, we are looking for wiki contributors willing to show us how they are interacting with references.
* The format will be a 1-hour video call, where you would share your screen. [https://wikimedia.sslsurvey.de/User-research-into-Reusing-References-Sign-up-Form-2024/en/ More information here].
* Interviews can be conducted in English, German or Dutch.
* [[mw:WMDE_Engineering/Participate_in_UX_Activities#Compensation|Compensation is available]].
* Sessions will be held in January and February.
* [https://wikimedia.sslsurvey.de/User-research-into-Reusing-References-Sign-up-Form-2024/en/ Sign up here if you are interested.]
* Please note that we probably won’t be able to have sessions with everyone who is interested. Our UX researcher will try to create a good balance of wiki contributors, e.g. in terms of wiki experience, tech experience, editing preferences, gender, disability and more. If you’re a fit, she will reach out to you to schedule an appointment.
We’re looking forward to seeing you, [[m:User:Thereza Mengs (WMDE)| Thereza Mengs (WMDE)]]
<!-- User:Thereza Mengs (WMDE)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=WMDE_Technical_Wishes/Technical_Wishes_News_list_all_village_pumps&oldid=25956752 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Invitation to join January Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We are the hosting this month’s [[:m:Wikisource Community meetings|Wikisource Community meeting]] on '''27 January 2024, 3 PM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1706367600 check your local time]).
As we gear up for our upcoming Wikisource Community meeting, we are excited to share some additional information with you.
The meetings will now be held on the last Saturday of each month. We understand the importance of accommodating different time zones, so to better cater to our global community, we've decided to alternate meeting times. The meeting will take place at 3 pm UTC this month, and next month it will be scheduled for 7 am UTC on the last Saturday. This rotation will continue, allowing for a balanced representation of different time zones.
As always, the meeting agenda will be divided into two halves. The first half of the meeting will focus on non-technical updates, including discussions about events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. The second half will delve into technical updates and conversations, addressing major challenges faced by Wikisource communities, similar to our previous Community meetings.
If you are interested in joining the meeting, kindly leave a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org''' and we will add you to the calendar invite.
Meanwhile, feel free to check out [[:m:Wikisource Community meetings|the page on Meta-wiki]] and suggest any other topics for the agenda.
Regards
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<small> Sent using [[利用者:MediaWiki message delivery|MediaWiki message delivery]] ([[利用者・トーク:MediaWiki message delivery|トーク]]) 2024年1月18日 (木) 10:54 (UTC)</small>
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ユニバーサル行動規範調整委員会の憲章の批准投票 ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting opens|当お知らせの多言語版はメタウィキをご参照ください。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting opens}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは
本日はお知らせがあり、お邪魔しました。実は[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee|ユニバーサル行動規範調整委員会]](U4C)の憲章<sup>※1</sup>の批准投票を受付中です。期限は'''2024年2月2日'''ですので、コミュニティの皆さんには[[m:Special:MyLanguage/Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Charter/Voter_information|投票と憲章に関するコメント投稿をセキュアポル(SecurePoll)]]経由でお願いします。すでにこの[[foundation:Special:MyLanguage/Policy:Universal_Code_of_Conduct/Enforcement_guidelines|行動規範施行ガイドライン]]<sup>※2</sup>の策定段階でご意見を寄せてくださった皆さんには、ほぼ同じ手順です。(※:1=U4C、Universal Code of Conduct Coordinating Committee。2=UCoC Enforcement Guidelines。)
[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|ユニバーサル行動規範調整委員会による現在の版]]をメタウィキに公開してありますので、翻訳版をご覧いただけます。
まず憲章をご一読いただき、賛否の投票をしてから、この文面を皆さんのコミュニティで共有いただけましたら誠に幸いです。U4C設立委員会としましては、皆さんの投票ご参加を心から願っています。
UCoC プロジェクトチーム代表<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年1月19日 (金) 18:09 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=25853527 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Wikimedians of Japan User Group 2024-01 ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
*'''全体ニュース'''
**
*'''「Wikimedians of Japan User Group」 からのお知らせ'''
**Wikimedians of Japan User Groupは、昨年2023年10月から11月にかけてJawpログインユーザーの皆様を対象にアンケートを行いました。1月に、結果報告を[https://diff.wikimedia.org/ja/ ウィキメディア財団公式ブログDiff]に掲載していただきました。調査に協力してくださった皆様に深く感謝いたします。
***[https://diff.wikimedia.org/ja/2024/01/10/%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%82%ad%e3%83%9a%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2%e7%b7%a8%e9%9b%86%e8%80%85%e3%81%ae%e3%83%a2%e3%83%81%e3%83%99%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%81%a8%e4%b8%8d%e6%ba%80%e3%80%80/ ウィキペディア編集者のモチベーションと不満 前半]
*** [https://diff.wikimedia.org/ja/2024/01/10/%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%82%ad%e3%83%9a%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2%e7%b7%a8%e9%9b%86%e8%80%85%e3%81%ae%e3%83%a2%e3%83%81%e3%83%99%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%81%a8%e4%b8%8d%e6%ba%80%e3%80%80-2/ ウィキペディア編集者のモチベーションと不満 後半]
<div style="-moz-column-count:2; -webkit-column-count:2; column-count:2; -webkit-column-width: 400px; -moz-column-width: 400px; column-width: 400px;">
'''[[ja:メインページ|日本語版ウィキペディア]]'''
*ニュース
**
*[[:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考|秀逸な記事の選考]]
**現在選考中の記事はありません。
*[[:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考|良質な記事の選考]]
**[[:w:ja:鰊場作業唄|鰊場作業唄]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/鰊場作業唄 20231220|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:間人ガニ|間人ガニ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/間人ガニ 20231223|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:パンロン会議|パンロン会議]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/パンロン会議 20231223|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:PlayStation 5のゲームタイトル一覧 (2020年-2021年)|PlayStation 5のゲームタイトル一覧 (2020年-2021年)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/PlayStation 5のゲームタイトル一覧 (2020年-2021年) 20231225|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:満奇洞|満奇洞]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/満奇洞 20231230|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:くど造|くど造]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/くど造 20231230|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:心停止|心停止]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/心停止 20231229|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:新潟電力|新潟電力]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/新潟電力 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:新潟電気|新潟電気]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/新潟電気 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:家屋文鏡|家屋文鏡]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/家屋文鏡 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:カラブリュエの戦い|カラブリュエの戦い]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/カラブリュエの戦い 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:さんかく座|さんかく座]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/さんかく座 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:マダガスカルにおける蚕|マダガスカルにおける蚕]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/マダガスカルにおける蚕 20240115|選考中]](2024年1月29日 (月) 03:11 (UTC)まで)
**[[:w:ja:大塚陽子|大塚陽子]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/大塚陽子 20240121|選考中]](2024年2月4日 (日) 08:52 (UTC)まで)
**[[:w:ja:全身麻酔の歴史|全身麻酔の歴史]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/全身麻酔の歴史 20240111|選考中]](2024年2月7日 (水) 16:27 (UTC)まで)
**[[:w:ja:狩野派|狩野派]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/狩野派 20240111|選考中]](2024年2月8日 (木) 00:08 (UTC)まで)
*[[:ja:Wikipedia:月間新記事賞|月間新記事賞]]
**[[:w:ja:新潟電力|新潟電力]]
**[[:w:ja:新潟電気|新潟電気]]
**[[:w:ja:家屋文鏡|家屋文鏡]]
**[[:w:ja:全身麻酔の歴史|全身麻酔の歴史]]
**[[:w:ja:カラブリュエの戦い|カラブリュエの戦い]]
*[[:ja:Wikipedia:珍項目/選考|珍項目の選考]]
**[[:w:ja:シャグマアミガサタケ|シャグマアミガサタケ]]
*[[:ja:Wikipedia:秀逸な一覧の選考|秀逸な一覧の選考]]
**現在選考中の記事はありません。
'''[[voy:ja:メインページ|日本語版ウィキボヤージュ]]'''
* [[voy:ja:Wikivoyage:国執筆コンテスト|国執筆コンテスト]]
**国執筆コンテストが開催中です。奮ってご参加ください!
'''[[m:Main_Page/ja|メタウィキ]]'''
* 日本語話者向けニュース
** メタウィキでは翻訳者を常時募集しています。気になる方は[[m:Meta:Babylon/ja|翻訳ポータル]]をご確認下さい。
</div>
<hr />
*'''前回配信:2023年12月31日'''
</div>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
配信元: '''[[m:Wikimedians of Japan User Group|Wikimedians of Japan User Group]]''' <br />
<small>[[m:Talk:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン|フィードバック]]。[[m:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン/targets list|購読登録・削除]]。</small>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
<!-- User:Sai10ukazuki@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedians_of_Japan_User_Group/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3/targets_list&oldid=25924865 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== あと数日で憲章の批准投票と、ユニバーサル行動規範調整委員の投票が終了 ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting reminder|当お知らせの多言語版はメタウィキをご参照ください。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting reminder}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは
本日はお知らせがあり、お邪魔しました。実は[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee|ユニバーサル行動規範調整委員会]](U4C)<sup>※1</sup>の投票受付が間もなく'''2024年2月2日'''に終わります。コミュニティの皆さんには[[m:Special:MyLanguage/Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Charter/Voter_information|セキュアポル(SecurePoll)にて憲章への投票とご意見の投稿をご検討ください]]。すでにこの[[foundation:Special:MyLanguage/Policy:Universal_Code_of_Conduct/Enforcement_guidelines|行動規範施行ガイドライン]]<sup>※2</sup>の策定段階でご意見を寄せてくださった皆さんには、ほぼ同じ手順です。(※:1=U4C、Universal Code of Conduct Coordinating Committee。2=UCoC Enforcement Guidelines。)
[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|ユニバーサル行動規範調整委員会による現在の版]]をメタウィキに公開してありますので、翻訳版をご覧いただけます。
まず憲章をご一読いただき、賛否の投票をしてから、この文面を皆さんのコミュニティで共有いただけましたら誠に幸いです。U4C設立委員会としましては、皆さんの投票ご参加を心からお待ちしております。
UCoC プロジェクトチーム一同になり代わり、よろしくお願いいたします。<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年1月31日 (水) 17:01 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=25853527 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== UCoC 調整委員会憲章について批准投票結果のお知らせ ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - results|このメッセージはメタウィキ(Meta-wiki)で他の言語に翻訳されています。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - results}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは。
ユニバーサル行動規範<!-- UCoC -->に関して、引き続き読んでくださりありがとうございます。本日は、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|ユニバーサル行動規範調整委員会の憲章]]<!-- UCoC 調整委員会の憲章 / U4Cの憲章 -->に関する[[m:Special:MyLanguage/Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Charter/Voter_information|批准投票]]の結果についてお知らせします。この批准投票では投票者総数は 1746 名、賛成 1249 票に対して反対 420 票でした。この批准投票では投票者の皆さんから、憲章<sup>※</sup>についてコメントを寄せてもらえるようにしました。("※"=Charter)
投票者のコメントのまとめと票の分析はメタウィキに数週間ほどで公表の予定です。
次の段階についても近々お知らせしますのでお待ちくだされば幸いです。
UCoC プロジェクトチーム一同になり代わり、よろしくお願いいたします。<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年2月12日 (月) 18:24 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26160150 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Invitation to join February Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We are the hosting this month’s [[:m:Wikisource Community meetings|Wikisource Community meeting]] on '''24 February 2024, 7 AM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1708758000 check your local time]).
The meeting agenda will be divided into two halves. The first half of the meeting will focus on non-technical updates, including discussions about events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. The second half will delve into technical updates and conversations, addressing major challenges faced by Wikisource communities, similar to our previous Community meetings.
If you are interested in joining the meeting, kindly leave a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org''' and we will add you to the calendar invite.
Meanwhile, feel free to check out [[:m:Wikisource Community meetings|the page on Meta-wiki]] and suggest any other topics for the agenda.
Regards
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<small> Sent using [[利用者:MediaWiki message delivery|MediaWiki message delivery]] ([[利用者・トーク:MediaWiki message delivery|トーク]]) 2024年2月20日 (火) 11:11 (UTC)</small>
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Wikimedians of Japan User Group 2024-02 ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
*'''全体ニュース'''
**
*'''「Wikimedians of Japan User Group」 からのお知らせ'''
<div style="-moz-column-count:2; -webkit-column-count:2; column-count:2; -webkit-column-width: 400px; -moz-column-width: 400px; column-width: 400px;">
'''[[:w:ja:メインページ|日本語版ウィキペディア]]'''
*ニュース
**
*[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考|秀逸な記事の選考]]
**[[:w:ja:アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)|アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)]]が[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考/アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵) 20240127|選考中]](2024年4月27日 (土) 14:49 (JST)まで)
*[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考|良質な記事の選考]]
**[[:w:ja:ウチキパン|ウチキパン]]が[[Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ウチキパン 20240129|選考]]を通過
**[[:w:ja:広島県産業奨励館|広島県産業奨励館]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/広島県産業奨励館 20240129|選考]]を通過
**[[:w:ja:ナムコ|ナムコ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ナムコ 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:鵲尾形柄香炉 (国宝)|鵲尾形柄香炉 (国宝)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/鵲尾形柄香炉 (国宝) 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:廻廊にて|廻廊にて]]を[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/廻廊にて 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:球果|球果]]を[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/球果 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:鮭 (高橋由一)|鮭 (高橋由一)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/鮭 (高橋由一) 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:外郎売|外郎売]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/外郎売 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:北斎漫画|北斎漫画]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/北斎漫画_20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:清水澄子 (さゝやき)|清水澄子 (さゝやき)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/清水澄子 (さゝやき)_20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:大阪南港事件|大阪南港事件]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/大阪南港事件 20240216|選考]]を通過
**[[:w:ja:PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2016年)|PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2016年)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2016年) 20240204|選考]]を通過
**[[:w:ja:プライス山 (ブリティッシュコロンビア州)|プライス山 (ブリティッシュコロンビア州)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/プライス山 (ブリティッシュコロンビア州) 20240215|選考]]を通過
**[[:w:ja:バブルネット・フィーディング|バブルネット・フィーディング]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/バブルネット・フィーディング 20240219|選考]]を通過
**[[:w:ja:スギ|スギ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/スギ 20240219|選考]]を通過
**[[:w:ja:ウィッチャー3_ワイルドハント|ウィッチャー3_ワイルドハント]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ウィッチャー3_ワイルドハント_20240224|選考中]](2024年3月9日 (土) 15:24 (UTC)まで)
**[[:w:ja:舟橋蒔絵硯箱|舟橋蒔絵硯箱]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/舟橋蒔絵硯箱 20240226|選考中]](2024年3月11日 (月) 02:58 (UTC)まで)
**[[:w:ja:羽田孜|羽田孜]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/羽田孜 20240226|選考中]](2024年3月11日 (月) 12:26 (UTC)まで)
*[[:w:ja:Wikipedia:月間新記事賞|月間新記事賞]]
**[[:w:ja:鵲尾形柄香炉 (国宝)|鵲尾形柄香炉 (国宝)]]
**[[:w:ja:ナムコ|ナムコ]]
**[[:w:ja:廻廊にて|廻廊にて]]
**[[:w:ja:球果|球果]]
**[[:w:ja:鮭 (高橋由一)|鮭 (高橋由一)]]
*[[:w:ja:Wikipedia:珍項目/選考|珍項目の選考]]
**現在選考中の項目はありません。
*[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な一覧の選考|秀逸な一覧の選考]]
**現在選考中の記事はありません。
'''[[:m:Main_Page/ja|メタウィキ]]'''
* 日本語話者向けニュース
** メタウィキでは翻訳者を常時募集しています。気になる方は[[:m:Meta:Babylon/ja|翻訳ポータル]]をご確認下さい。
</div>
<hr />
*'''前回配信:2024年1月26日'''
</div>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
配信元: '''[[:m:Wikimedians of Japan User Group|Wikimedians of Japan User Group]]''' <br />
<small>[[:m:Talk:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン|フィードバック]]。[[:m:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン/targets list|購読登録・削除]]。</small>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
<!-- User:Chqaz@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedians_of_Japan_User_Group/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3/targets_list&oldid=26262302 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== U4C 憲章の批准投票の結果報告、U4C 委員候補募集のお知らせ ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – call for candidates| このメッセージはMeta-wikiで他の言語に翻訳されています。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – call for candidates}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
各位
本日は重要な情報2件に関して、お伝えしたいと思います。第一に、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Vote results|ユニバーサル行動規範調整委員会憲章(U4C)の批准投票に添えられたコメント]]は、集計結果がまとまりました。第二に、U4C の委員立候補の受付が始まり、〆切は2024年4月1日です。
[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee|ユニバーサル行動規範調整委員会]](U4C)<sup>※</sup>とはグローバルな専門グループとして、UCoC が公平かつ一貫して実施されるように図ります。広くコミュニティ参加者の皆さんに、U4C への自薦を呼び掛けています。詳細と U4C の責務は、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|U4C 憲章を通読してください]]。(※=Universal Code of Conduct Coordinating Committee。)
憲章に準拠し、U4Cの定員は16名です。内訳はコミュニティ全般の代表8席、地域代表8席であり、ウィキメディア運動の多様性を反映するよう配慮してあります。
詳細の確認、立候補の届けは[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024|メタウィキ]]でお願いします。
UCoC プロジェクトチーム一同代表<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年3月5日 (火) 16:25 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26276337 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ウィキメディア財団理事会の2024年改選 ==
<section begin="announcement-content" />
: ''[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024/Announcement/Selection announcement| このメッセージの多言語版翻訳は、メタウィキで閲覧してください。]]''
: ''<div class="plainlinks">[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024/Announcement/Selection announcement|{{int:interlanguage-link-mul}}]] • [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:Wikimedia Foundation elections/2024/Announcement/Selection announcement}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]</div>''
各位
本年は、ウィキメディア財団理事会において任期満了を迎える理事はコミュニティ代表と提携団体代表の合計4名です[1]。理事会よりウィキメディア運動全域を招集し、当年の改選手続きに参加して投票されるようお願いします。
[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections committee|選挙管理委員会]]はこの手順を監督するにあたり、財団職員の補佐を受けます[2]。理事会組織統治委員会<sup>※1</sup>は2024改選の立候補資格のないコミュニティ代表と提携団体代表の理事から理事改選作業グループ<sup>※2</sup>を指名し、すなわち、Dariusz Jemielniak、Nataliia Tymkiv、Esra'a Al Shafei、Kathy Collins、Shani Evenstein Sigalov の皆さんです[3]。当グループに委任される役割とは、2024年理事改選の手順において理事会の監督、同会に継続して情報を提供することです。選挙管理委員会、理事会、財団職員の役割の詳細は、こちらをご一読願います[4]。(※:1=The Board Governance Committee。2=Board Selection Working Group。)
以下に節目となる日付を示します。
* 2024年5月:立候補受付と候補者に聞きたい質問の募集
* 2024年6月:提携団体の担当者は候補者12名の名簿を作成(立候補者が15名以下の場合は行わない)[5]
* 2024年6月-8月:選挙活動の期間
* 2024年8月末/9月初旬:コミュニティの投票期間は2週間
* 2024年10月–11月:候補者名簿の 身元調査
* 2024年12月の理事会ミーティング:新しい理事が着任
2024改選の手順の段取りを見てみましょう - 詳しい日程表、立候補の手順、選挙運動のルール、有権者の要件 - これらは[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024|メタウィキのこちらのページ]]を参照してご自分のプランを立ててください。
'''選挙ボランティア'''
この2024理事改選に関与するもう一つの方法とは、'''選挙ボランティア'''をすることです。選挙ボランティアとは、選挙管理委員会とその対応するコミュニティを結ぶ橋渡しをします。自分のコミュニティが代表権(訳注:間接民主制)を駆使するように、コミュニティを投票に向かわせる存在です。当プログラムとその一員になる方法の詳細は、この[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024/Election Volunteers|メタウィキのページ]]をご一読ください。
草々
[[m:Special:MyLanguage/User:Pundit|Dariusz Jemielniak]](組織統治委員長、理事会改選作業グループ)
[1] https://meta.wikimedia.org/wiki/Special:MyLanguage/Wikimedia_Foundation_elections/2021/Results#Elected
[2] https://foundation.wikimedia.org/wiki/Committee:Elections_Committee_Charter
[3] https://foundation.wikimedia.org/wiki/Minutes:2023-08-15#Governance_Committee
[4] https://meta.wikimedia.org/wiki/Wikimedia_Foundation_elections_committee/Roles
[5] 改選議席4席に対する候補者数の理想は12名ですが、候補者が15名を超えると最終候補者名簿づくりが自動処理で始まり、これは提携団体の担当者に選外の候補者を決めてもらうと、漏れた1-3人の候補者に疎外されたと感じさせるかもしれず、担当者に過重な負担を押し付けないように人力で最終候補者名簿を組まないようにしてあります。<section end="announcement-content" />
[[User:MPossoupe_(WMF)|MPossoupe_(WMF)]]2024年3月12日 (火) 19:57 (UTC)
<!-- User:MPossoupe (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26349432 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ご利用のウィキは間もなく読み取り専用に切り替わります ==
<section begin="server-switch"/><div class="plainlinks">
[[:m:Special:MyLanguage/Tech/Server switch|他の言語で読む]] • [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-Tech%2FServer+switch&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]
<span class="mw-translate-fuzzy">[[foundation:|ウィキメディア財団]]ではメインと予備のデータセンターの切り替えテストを行います。</span> 災害が起こった場合でも、ウィキペディアとその他のウィキメディア・ウィキが確実にオンラインとなるようにするための措置です。
全トラフィックの切り替えは'''{{#time:n月j日|2024-03-20|ja}}'''に行います。 テストは '''[https://zonestamp.toolforge.org/{{#time:U|2024-03-20T14:00|en}} {{#time:H:i e|2024-03-20T14:00}}]''' に開始されます。
残念ながら [[mw:Special:MyLanguage/Manual:What is MediaWiki?|MediaWiki]] の技術的制約により、切り替え作業中はすべての編集を停止する必要があります。 ご不便をおかけすることをお詫びするとともに、将来的にはそれが最小限にとどめられるよう努めます。
'''閲覧は可能ですが、すべてのウィキにおいて編集ができないタイミングが短時間あります。'''
*{{#time:Y年n月j日(l)|2024-03-20|ja}}には、最大1時間ほど編集できない時間が発生します。
*この間に編集や保存を行おうとした場合、エラーメッセージが表示されます。 その間に行われた編集が失われないようには努めますが、保証することはできません。 エラーメッセージが表示された場合、通常状態に復帰するまでお待ちください。 その後、編集の保存が可能となっているはずです。 しかし念のため、保存ボタンを押す前に、行った変更のコピーをとっておくことをお勧めします。
''その他の影響'':
*バックグラウンドジョブが遅くなり、場合によっては失われることもあります。 赤リンクの更新が通常時よりも遅くなる場合があります。 特に他のページからリンクされているページを作成した場合、そのページは通常よりも「赤リンク」状態が長くなる場合があります。 長時間にわたって実行されるスクリプトは、停止しなければなりません。
* コードの実装は通常の週と同様に行う見込みです。 しかしながら、作業上の必要性に合わせ、ケースバイケースでいずれかのコードフリーズが計画時間に発生することもあります。
* [[mw:Special:MyLanguage/GitLab|GitLab]]は90分ほどの間に利用不可になります。
必要に応じてこの計画は延期されることがあります。 [[wikitech:Switch_Datacenter|wikitech.wikimedia.org で工程表を見る]]ことができます。 変更はすべて工程表で発表しますので、ご参照ください。 この件に関しては今後、さらにお知らせを掲示するかもしれません。 作業開始の30分前から、すべてのウィキで画面にバナーを表示する予定です。 '''この情報を皆さんのコミュニティで共有してください。'''</div><section end="server-switch"/>
[[user:Trizek (WMF)|Trizek (WMF)]], 2024年3月15日 (金) 00:01 (UTC)
<!-- User:Trizek (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Non-Technical_Village_Pumps_distribution_list&oldid=25636619 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Switching to the Vector 2022 skin ==
[[File:Vector 2022 video-en.webm|thumb]]
''[[mw:Special:MyLanguage/Reading/Web/Desktop Improvements/Updates/2024-03 for Wikisource|Read this in your language]] • <span class=plainlinks>[https://mediawiki.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-Reading%2FWeb%2FDesktop+Improvements%2FUpdates%2F2024-03+for+Wikisource&language=&action=page&filter= {{Int:please-translate}}]</span> • Please tell other users about these changes''
皆さんこんにちは。私たちはウィキメディア財団ウェブチームです。以前の投稿をお読みいただいたかもしれませんが、この一年間、私たちはすべてのウィキ上での新しいデフォルトとしてベクター2022年版(Vector 2022 skin)に切り替えるにために準備を進めてきました。以前のウィキソースコミュニティとの対話により、スキンの切り替えを妨げるIndex名前空間の問題をご指摘いただいたため、この問題を解決いたしました。
3月25日にウィキソースのウィキ上で展開する予定です。
ベクター2022年版の詳細と改善点については、[https://www.mediawiki.org/wiki/Reading/Web/Desktop_Improvements/ja ドキュメント]をご覧ください。変更後、問題がある場合(ガジェットが動作しない、バグに気づいた等)は、恐れ入りますが、以下にコメントをお願いいたします。また、ご希望に応じて[[metawiki:Wikisource_Community_meetings|ウィキソースのコミュニティミーティング]]のようなイベントに私たちが参加させていただき、皆さんと直接お話しすることも可能です。いつもご協力いただき有難うございます。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。(Translation by [[利用者:JNakayama-WMF|JNakayama-WMF]])
English: Hi everyone. We are the [[mw:Special:MyLanguage/Reading/Web|Wikimedia Foundation Web team]]. As you may have read in our previous message, over the past year, we have been getting closer to switching every wiki to the Vector 2022 skin as the new default. In our previous conversations with Wikisource communities, we had identified an issue with the Index namespace that prevented switching the skin on. [[phab:T352162|This issue is now resolved]].
We are now ready to continue and will be deploying on Wikisource wikis on '''March 25th'''.
To learn more about the new skin and what improvements it introduces, please [[mw:Reading/Web/Desktop Improvements|see our documentation]]. If you have any issues with the skin after the change, if you spot any gadgets not working, or notice any bugs – please comment below! We are also open to joining events like the [[m:Wikisource Community meetings|Wikisource Community meetings]] to talk to you directly. Thank you! [[User:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]] ([[User talk:SGrabarczuk (WMF)|<span class="signature-talk">トーク</span>]]) 2024年3月18日 (月) 20:50 (UTC)
<!-- User:SGrabarczuk (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGrabarczuk_(WMF)/sandbox/MM/Varia&oldid=26416927 のリストを使用して送信したメッセージ -->
:Hello Mr.[[利用者:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]]. I speak japanese, sorry.
:JST ではすでに March 25th なので、すでに今更な気もしますが、本当に変更されるのでしょうか。返信が付かないのは、メッセージが英語だからかもしれません。すでにvecter 2022 になっている、日本語版のウィキクォート・ウィキブックスなどがありますが、フォントがすこし小さくなっていませんか。もちろんブラウザ側でズームはできますが、ウィキペディアほどには人が集まっていないウィキソースで、既定のスキンになるのは心配です。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年3月24日 (日) 18:30 (UTC)
::[[File:Accessibility for reading first iteration prod unpinned.png|thumb]]
::日本語が話せないため、機械翻訳にて失礼いたします。
::@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]さん、
::コメントありがとう。その通りだと思う。Vector 2022」のフォントサイズは少し小さめです。もっと大きくできないかチームに聞いてみます。
::それに加えて、新しい[[特別:個人設定#mw-prefsection-betafeatures|ベータ機能]]があります: "Accessibility for Reading (Vector 2022) "です。これは、3つのフォントサイズを選択できるメニューを追加するものだ:小、標準、大。小は現在のデフォルトと同じでなければならない。そうでない場合はエラーとなり、チームに修正を求めることになる。StandardとLargeは現在のデフォルトより大きくする。最終的には、標準が新しいデフォルトになるはずです。このベータ機能の目的は、ウィキ上のテキストを読みやすくすることです。
::この機能を使って「標準」のフォントサイズを選択することをお勧めしたい。どう思いますか?
::Thank you for your comment. I think you are correct. The font size in "Vector 2022" is a bit smaller. I’ll ask the team if we can increase it.
::In addition to that, there’s a new beta feature: "Accessibility for Reading (Vector 2022)”. It adds a menu with three font sizes to choose between: small, standard, and large. Small should be equal to the current default. If it’s not, then it's an error and I’ll ask the team to fix it. Standard and large should be bigger than the current default. Eventually, standard would become the new default. The goal for this beta feature is to make it easier for people to read text on wiki.
::I would like to recommend using this feature and choosing the „standard" font size. What do you think?--[[利用者:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]] ([[利用者・トーク:SGrabarczuk (WMF)|トーク]]) 2024年3月25日 (月) 13:39 (UTC)
:::いえ、申し訳ありませんが、この問題を再現することはできません。つまり、異なるスキンを比較した場合、フォントサイズは同じなのです。URLに?safemode=1を追加して([https://ja.wikisource.org/wiki/Wikisource:%E4%BA%95%E6%88%B8%E7%AB%AF?safemode=1 例])、それでも違いがあるかどうか確認していただけますか?safemode=1はカスタマイズを無効にし、問題が私たちの側にあることを確認する方法です。ありがとう!
:::No, my apologies, I’m not able to replicate the issue. I mean when I compare different skins, the font sizes are the same. Could you add ?safemode=1 to the URL (example) and check if you still see a difference? ?safemode=1 disables your customization and is the method to make sure that the problem is on our side. Thank you!--[[利用者:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]] ([[利用者・トーク:SGrabarczuk (WMF)|トーク]]) 2024年3月25日 (月) 15:22 (UTC)
::::Thank you for reply.
::::技術面に詳しくないので、確認してもよく解りません。ごめんなさい。ですが、おそらく技術ニュース:2024-13 に関することだと思っています。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年3月26日 (火) 03:15 (UTC)
== Invitation to join March Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We're excited to announce our upcoming Wikisource Community meeting, scheduled for '''30 March 2024, 3 PM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1711810800 check your local time]). As always, your participation is crucial to the success of our community discussions.
Similar to previous meetings, the agenda will be split into two segments. The first half will cover non-technical updates, such as events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. In the second half, we'll dive into technical updates and discussions, addressing key challenges faced by Wikisource communities.
'''New Feature: Event Registration!''' <br />
Exciting news! We're switching to a new event registration feature for our meetings. You can now register for the event through our dedicated page on Meta-wiki. Simply follow the link below to secure your spot and engage with fellow Wikisource enthusiasts:
[[:m:Event:Wikisource Community Meeting March 2024|Event Registration Page]]
'''Agenda Suggestions:''' <br />
Your input matters! Feel free to suggest any additional topics you'd like to see included in the agenda.
If you have any suggestions or would just prefer being added to the meeting the old way,
simply drop a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org'''.
Thank you for your continued dedication to Wikisource. We look forward to your active participation in our upcoming meeting.
Best regards, <br />
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ダークモード対応 night-mode-unaware-background-color ==
* 2024年3月時点、日本語版ウィキソースではまだダークモードが実装されていないが、Lintエラーのページで「[[特別:LintErrors/night-mode-unaware-background-color]]」を確認可能。
* night-mode-unaware-background-colorエラーの抑止方法は「[[:mw:Help:Lint_errors/night-mode-unaware-background-color|night-mode-unaware-background-color]]」にあるように、背景色と文字色の同時指定。
* 2024年3月時点、テンプレートがエラー原因のものについては、暫定的にbackground指定の後に続けてcolor:inherit;を追加してエラー出力を抑止済。
* 将来ダークモードが実装されてテキスト表示に問題が起きた場合は、「insource:/back[^;]+; *color *: *inherit/」[https://ja.wikisource.org/w/index.php?search=insource%3A%2Fback%5B%5E%3B%5D%2B%3B+%2Acolor+%2A%3A+%2Ainherit%2F&title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%A4%9C%E7%B4%A2&profile=advanced&fulltext=1&ns10=1]で検索ヒットするテンプレートや「[[モジュール:Documentation/styles.css]]」のなかの文字色指定をinheritから固定色に変える必要あり。
--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年3月28日 (木) 16:53 (UTC)
== Wikimedians of Japan User Group 2024-03 ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
*'''全体ニュース'''
**[[:m:Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Election/2024/ja|ユニバーサル行動規範調整委員会の選挙]]の立候補が受付中です。(2024年4月1日(月)(UTC)まで)
*'''「Wikimedians of Japan User Group」 からのお知らせ'''
**
<div style="-moz-column-count:2; -webkit-column-count:2; column-count:2; -webkit-column-width: 400px; -moz-column-width: 400px; column-width: 400px;">
'''[[:w:ja:メインページ|日本語版ウィキペディア]]'''
*ニュース
**
*[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考|秀逸な記事の選考]]
**[[:w:ja:アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)|アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)]]が[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考/アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵) 20240127|選考]]を通過
*[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考|良質な記事の選考]]
**[[:w:ja:伏見天皇|伏見天皇]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/伏見天皇 20240308|選考]]を通過
**[[:w:ja:トコジラミ|トコジラミ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/トコジラミ 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:山崎蒸溜所|山崎蒸溜所]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/山崎蒸溜所 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:胞子嚢穂|胞子嚢穂]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/胞子嚢穂 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:一姫二太郎|一姫二太郎]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/一姫二太郎 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:ヴァージナルの前に座る若い女|ヴァージナルの前に座る若い女]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ヴァージナルの前に座る若い女 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:南満洲鉄道ケハ7型気動車|南満洲鉄道ケハ7型気動車]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/南満洲鉄道ケハ7型気動車 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:石狩町女子高生誘拐事件|石狩町女子高生誘拐事件]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/石狩町女子高生誘拐事件 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:天狗草紙|天狗草紙]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/天狗草紙 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:生命|生命]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/生命 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:フェンタニル|フェンタニル]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/フェンタニル 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:根拠に基づく医療|根拠に基づく医療]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/根拠に基づく医療 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)|PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)]]が[[:w:ja:PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)|PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)]](2024年4月6日 (土) 07:52 (UTC)まで)
**[[:w:ja:ワリード1世|ワリード1世]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ワリード1世_20240323|選考中]](2024年4月6日 (土) 23:59 (UTC)まで)
**[[:w:ja:ラーメンズ|ラーメンズ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ラーメンズ 20240324|選考中]](2024年4月7日 (日) 01:13 (UTC)まで)
**[[:w:ja:狩野安信|狩野安信]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/狩野安信 20240327|選考中]](2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC)まで)
**[[:w:ja:チャールズ・ルイス・ティファニー|チャールズ・ルイス・ティファニー]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/チャールズ・ルイス・ティファニー 20240327|選考中]](2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC))
**[[:w:ja:シュチェパン・マリ|シュチェパン・マリ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/シュチェパン・マリ 20240327|選考中]](2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC))
*[[:w:ja:Wikipedia:月間新記事賞|月間新記事賞]]
**[[:w:ja:一姫二太郎|一姫二太郎]]
**[[:w:ja:指月布袋画賛|指月布袋画賛]]
**[[:w:ja:胞子嚢穂|胞子嚢穂]]
**[[:w:ja:ヴァージナルの前に座る若い女|ヴァージナルの前に座る若い女]]
**[[:w:ja:南満洲鉄道ケハ7型気動車|南満洲鉄道ケハ7型気動車]]
**[[:w:ja:ペプシ海軍|ペプシ海軍]]
**[[:w:ja:天狗草紙|天狗草紙]]
**[[:w:ja:石狩町女子高生誘拐事件|石狩町女子高生誘拐事件]]
</div>
<hr />
*'''前回配信:2024年2月27日'''
</div>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
配信元: '''[[:m:Wikimedians of Japan User Group|Wikimedians of Japan User Group]]''' <br />
<small>[[:m:Talk:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン|フィードバック]]。[[:m:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン/targets list|購読登録・削除]]。</small>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
<!-- User:Chqaz@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedians_of_Japan_User_Group/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3/targets_list&oldid=26436809 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== 全集の収録方法について ==
[[:カテゴリ:史籍集覧]]に収録されている作品のうち、「[[武家諸法度 (元和令)]]」などはIndexファイル([[Index:Shisekisyūran17.pdf]]など)を底本としていますが、「[[太閤記]]」などは独自のテンプレートに原文のみを収録する形になっています。後者の場合、例えば今たまたま開いた「[https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E4%BA%8C#c-2 太閤記巻二 ○因幡国取鳥落城之事]」3ページ目冒頭の一文「福光樽行器看を広間にすへ並へしかは…」([https://dl.ndl.go.jp/pid/3431173/1/244 『史籍集覧』第6冊244ページ冒頭])の誤字「看」を「肴」に訂正したいと考えても、どこを訂正すればよいのかを知ることは簡単ではありません。「[[ヘルプ:Indexページ#雑誌の掲載記事と書籍の部分掲載について]]」では、「djvuファイルまたはpdfファイルを作成する場合、その号から数ページだけ公開する予定であっても、書籍や雑誌の号全体のdjvuファイルやpdfファイルを作成するよう」求めており、校訂作業の必要性を考慮しても、前者の方式に統一した方がよいと思われます。ご意見をいただければ幸いです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月20日 (土) 12:22 (UTC)
:「統一」の定義があいまい。強制性を伴う罰則規定がなければ効果は乏しい。簡単がどうかは個々人の主観に属することなので、規則変更の理由にすべきではない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 03:12 (UTC)
::前者の方法では、訂正すべき箇所を見つけた場合には、該当するページへのリンクをたどれば修正できるようになっているのに対して、後者の方法では画像を参照することしかできません。この点に問題があると思われます。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 06:06 (UTC)
:{{コ}}主観を述べると、Wikisource校正システムは中東・欧州系言語などで使う表音文字での編集が前提になっており、日本語などで使う表意文字はWebブラウザ上の編集作業にあまり向いていない。よって、日本語Wikitextは出版業界と同じように高性能なテキスト編集ソフトを使って編集作業するのが自然。公文書を除けば旧字・異体字の多い戦前の出版物しか入力できない日本語Wikisourceは、現代日本の出版業界の標準よりも難易度が高いという事実をふまえておく必要がある。Wikisource校正システムは、ただの道具・手段であって目的ではない。作業効率を下げてまで使う価値はない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 07:05 (UTC)
:{{コ}}最近行われた文字の小さなVector2022への既定外装変更から察するに、Wikisourceの開発者は日本語利用者の利便性をあまり考えていないのではないか。Wikisource校正システムも同じ病根がある。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 07:26 (UTC)
::日本語利用者の利便性は、きちんと主張しないと伝わりにくいのは確かです。しかし、だからといって校正のことは考えなくてよいということにはならないと思います。校正は、Wikisourceの信頼性を確保する上で不可欠の要素です。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 08:24 (UTC)
:::{{提案}}日本語ウィキソースには提案を書き込むと敵対や衝突とみなす文化があるので少ししか書かないが、ページ単位の校正レベルの管理は非効率なのでやめるべき。道路標識の速度制限と同じように編集者の自由裁量で校正レベルの開始位置を設定できたほうが良い。テキストは上から下への単純な一方通行なのだから、保守はさほど面倒ではない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 10:15 (UTC)
::::英語での議論になりますが、技術的な提案は https://phabricator.wikimedia.org/ で行うことができます。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 12:38 (UTC)
::::「Phabricator」での議論することに臆してしまったりするのであれば、この井戸端にも連絡してくださっている「Wikisource Community meeting」などの選択肢もあるかと思います。いずれにしろ進行は英語主体になるかと思われますが、技術的なことを話したいのであれば、直接伝えるのが良いと考えます。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 14:02 (UTC)
:{{コ}} 前者の方式を使用することに{{賛成}}します。後者となる独自のテンプレートは、[[ja:カテゴリ:特定作品のためのテンプレート|特定作品のためのテンプレート]] に含まれるものかと思われますが、内容は作品の本文にあたるものが大部分であるため、テンプレート(ひな形)として使うには汎用的ではないと考えます。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 04:37 (UTC)
:{{コ}}前者に統一するからには、「[[あたらしい憲法のはなし]]」のようにIndexを使っていない国会図書館デジタルコレクションを底本とする作品をすべてIndexを使うよう置き換えなければならないが、皆にその労力を払う覚悟があるのか。以前、機械翻訳の作品削除に関する議論の時にも感じたが、ある決定をした結果、何が起きるか、何をしなければならなくなるかについて、もっと想像力を働かせたほうが良い。入力や校正をあまりせずなぜか井戸端での議論で張り切る人に特にその辺もふまえて考えてもらいたい。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 09:28 (UTC)
:{{コ}}前者に統一すると決めた場合、決めるだけでおそらくだれもやらないので、私が既存作品のIndex利用への置き換えを拒否した場合は、作品が削除されたり私がブロックされることになるだろう。編集方法がわからないなら質問すれば良いだろうに、なぜこのような攻撃的な議論を開始したのか理解できない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 10:29 (UTC)
::コメントありがとうございます。今回取り上げさせていただいたのは、「全集の収録方法」についてのみです。これは、複数の人が編集に関わる可能性が高いことからも、ご理解いただけるものと思います。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 11:08 (UTC)
:::{{コ}}複数の人が編集に関わる競合の危険性は全集に限ったことではなく、通常の巨大サイズ作品でも同じことです。テンプレート名前空間ページにも標準名前空間ページと同じく最大2048KBのWikitextサイズ制約があるのでさほど心配しなくて良いはず。テキスト本体をテンプレート化したのは他ページでのプレビュー機能を使うためであり、Page名前空間ページ編集作業にはない機能。これがテンプレートの優位性。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 12:28 (UTC)
::::ご指摘のように競合の問題もあるかもしれませんが、差し当たっての問題は、既に述べたように、史籍集覧で複数の方式による作品が混在していること、一方の方式に校正方法に関する問題が存在することです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 14:02 (UTC)
:::::複数の方式が混在することや校正システムを使っていないことのなにが問題なのかよくわからない。私は今後も同じ入力方法を続ける。私は有期限ブロックされたぐらいで自分の考えが変わったりはしないので、Wikisourceコミュニティが私の入力方法と共存できないのであれば、私を無期限ブロックするほかない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月25日 (木) 09:29 (UTC)
::::::{{返}} 私が問題と思うのは、P9iKC7B1SaKk さんが入力方法に、自己流を押し通そうとしていることです。「編集方法がわからないなら質問すれば良い」と仰っていますが、[[w:ja:Wikipedia:Lua#Luaについて]]で、「第三者が誰も理解できない、ということがないように」と書かれているように、校正者が作業しやすい方式にして頂きたいというものです。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年4月26日 (金) 08:07 (UTC)
:::::::{{コ}}編集方法がわからないなら、修正要求箇所をトークなどで連絡すればよいだけのこと。そういった改善努力や話し合いをせずに一方敵に他人の編集を制限しようとするWikisourceコミュニティ住民の価値観は間違っており社会人としての常識やマナーにも反している。機械翻訳ページ削除の議論と同様、入力者と交渉することなく事務的・機械的に削除できる仕組みをつくりたがる排他的で非生産的な人は、井戸端に自分の意見を書き込むべきでない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月26日 (金) 08:46 (UTC)
:自分流を押し通そうとしているのは@[[利用者:CES1596|CES1596]]、@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]のほうであり、また、針小棒大な論点のずらし方をしており、これ以上、議論を続けるべきではない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月26日 (金) 09:10 (UTC)
== ja ==
重要なことなので、表現を変えてもう一度指摘しておきます。べつに[[m:削除主義|削除主義者]]の片棒を担ぐ気はさらさらありません。ウィキソース日本語版(ja ws)は「日本語(ja)の」コンテンツを扱うプロジェクトです。欧文のみコンテンツが投稿されていれば、日本語でないため、すぐに out of scope であると気づくはずです。しかし、日本国内にある日本語(ja)以外の言語には鈍感ではありませんか。ja以外の言語コンテンツは、対応する言語版に掲載します。対応する言語版が存在しなければ、[[oldwikisource:|オールドウィキソース]](ウィキメディア・インキュベータに相当するプロジェクト)に投稿します。jaの原文を収録するのが「日本語版」であって、「日本版」ではありません。tkn(徳之島語版)、ryu(琉球語版)、zh-classical(漢文版)、ja-classical(古典日本語版)、yoi(与那国語版)、xug(国頭語版)、mvi(宮古語版)などのja(日本語版)以外の言語が紛れていないか点検をお願いします。--[[利用者:Charidri|Charidri]] ([[利用者・トーク:Charidri|トーク]]) 2024年4月20日 (土) 12:58 (UTC)
:返り点は日本語独自のものであり他の言語に存在しない。他人に負担の大きい移植作業をやらさせるのではなく、自ら率先して移植作業を行い手本を示せ。隗より始めよ。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 03:05 (UTC)
== Invitation to join April Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We are the hosting this month’s Wikisource Community meeting on '''27 April 2024, 7 AM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1714201200 check your local time]).
Similar to previous meetings, the agenda will be split into two segments. The first half will cover non-technical updates, such as events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. In the second half, we'll dive into technical updates and discussions, addressing key challenges faced by Wikisource communities.
Simply follow the link below to secure your spot and engage with fellow Wikisource enthusiasts:
[[:m:Event:Wikisource Community Meeting April 2024|Event Registration Page]]
If you have any suggestions or would just prefer being added to the meeting the old way,
simply drop a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org'''.
Thank you for your continued dedication to Wikisource. We look forward to your active participation in our upcoming meeting.
Regards
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<small> Sent using [[利用者:MediaWiki message delivery|MediaWiki message delivery]] ([[利用者・トーク:MediaWiki message delivery|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 12:21 (UTC)</small>
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== 第1期U4C委員選挙の投票について ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – vote opens|このメッセージはメタウィキで他の言語に翻訳されています。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – vote opens}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは、
本日のお知らせは、現在、ユニバーサル行動規範調整委員会(U4C<sup>※</sup>)の選挙期間中であり、2024年5月9日が最終日である点を述べます(訳注:期日を延長)。選挙の詳細はぜひ[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024|メタウィキの選挙特設ページ]]を開いて、有権者の要件と選挙の手順をご参照ください。(※=Universal Code of Conduct Coordinating Committee。)
U4C(当委員会)はグローバルなグループとして、UCoCの公平で一貫した施行を促そうとしています。コミュニティ参加者の皆さんには過日、当委員会委員への立候補を呼びかけるお知らせを差し上げました。当委員会の詳細情報とその責務の詳細は、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|U4C 憲章]]をご一読願います。
本メッセージをご参加のコミュニティの皆さんにも共有してくだされば幸いです。
UCoC プロジェクトチーム一同になり代わり、よろしくお願いいたします。<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年4月25日 (木) 20:20 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26390244 のリストを使用して送信したメッセージ -->
h0tnr92oim2d8cusa2bgatbmons756k
219110
219109
2024-04-26T09:54:33Z
P9iKC7B1SaKk
37322
/* 全集の収録方法について */ 発言修正
wikitext
text/x-wiki
{{井戸端}}
== ブロック依頼:[[User:P9iKC7B1SaKk]]氏 ==
[[Wikisource:削除依頼/アーカイブ/2023年#(*)「セルブ・クロアート・スロヴェーヌ」王国建国史_-_ノート]]、[[利用者・トーク:JOT_news#カテゴリへの追加について]]、[[#機械翻訳の濫用?]]などにおいて、針小棒大な発言を繰返し、コミュニティを疲弊させています。[[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk#言葉遣いについて]]において抑制をお願いしましたが、聞き入れないばかりか、[[#管理者権限の停止依頼]]を提出し、噛み合わない議論を続けるばかりです。コミュニケーションへの姿勢を改めていただければこの依頼は不要となりますが、他プロジェクトの文書ではありますが、[[w:Wikipedia:礼儀を忘れない]]などをご熟読いただき、お考えを改めていただくまで、1か月程度のブロックを提起します。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月11日 (土) 13:04 (UTC)
:{{コメント}} 私としては針小棒大ではなくむしろ意味のある書き込みをしているという自負があります。ましてや他人をからかったことなど一度もありません。改めるべきはどちらなのか、冷静になって考えていただければと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月11日 (土) 13:54 (UTC)
:[[:w:Wikipedia:礼儀を忘れない]]を確認させていただきました。Kzhrさんのこの投稿は'''深刻な事例'''に相当する「追放や投稿ブロックを不当に要求すること」に該当する可能性があります。追放や投稿ブロックは、私が提案しているKzhrさんへの管理者権限停止よりも明らかに重いものです。針小棒大な発言をしているのもKzhrさんのほうです。取り消し編集に「バンダリズム」とログ要約欄に書き込んだ件ではJOT Newsさんと編集合戦が起きたわけでもなく穏便に話し合いで解決しつつあったのです。トラブルの当事者でないKzhrさんが他人の感情を勝手に決めつけて私を批判し続けていることが問題の本質なのです。バンダリズムという単語にKzhrさんが強い拒否反応を示されているのはおかしいと思います。私を含め誰もが悪意なくバンダリズムをやってしまう恐れがあり、悪意の有無に関係なくバンダリズムをバンダリズムと冷静に指摘しつつ取り消し編集するのは正しいことです。さもなければバンダリズム編集がし放題になってしまいます。「バンダリズム」との指摘をログ要約欄に書き込まれただけで怒る短絡的な人こそ追放や投稿ブロックにふさわしいのではないでしょうか。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 05:11 (UTC)
::JOT Newsさんとの間だけのことのように議論をずらすのはやめていただけますか。また、百歩譲って穏便に解決したのだとしても、過剰に批判的な言辞をものしていいことにもなりませんし、また、バンダリズムの自己流解釈についても指摘を受け止められないという証拠を強化はしても、P9iKC7B1SaKkさんにとって有利になるとはとても思えません。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 14:09 (UTC)
:::{{コメント}} 「[[:w:Wikipedia:荒らし]]」によると、荒らしとは「百科事典の品質を故意に低下させようとするあらゆる編集のこと」でありつつも、「百科事典を改良しようとなされた善意の努力は、間違いや見当違いや不適切なものでも、荒らしとは捉えない」とあります。
:::「金融」と「革命」というかなり抽象的なカテゴリにお気に入りブックマークのように小説などの作品を追加していくのは、Kzhrさんには善意の努力に見えたのかもしれませんが、私には善意の努力には見えませんでした。よって、私はこれを荒らしと判断し、取り消し編集を行いました。あれこれと要約欄に書き込むのも不自然なので感情が入らないよう淡々とバンダリズムと書いたのは今でも最も適切な対応だったと思っています。実際、それを見たであろうJOT Newsさんから説明を求める問い合わせはありましたが、感情的で否定的な反応は来ていません。納得してくれたと思います。Kzhrさんが荒らしでないと思うのであれば、JOT Newsさんの「金融」と「革命」へのカテゴリへの作品追加を復元なさってください。復元しないのであればその理由を明確に説明してください。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 14:27 (UTC)
:::{{コメント}} 過剰に批判的な言辞かどうかの判断をKzhrさんの主観だけで決めようとするのは良くありません。JOT Newsさんによるカテゴリ追加が客観的に善意の編集であることをKzhrさんに説明して頂く必要があります。善意を説明できないなら荒らしということになります。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 14:48 (UTC)
:::{{コメント}} 一般論の「善意」ではわかりにくいでしょうから、法律用語としての「善意」、具体的には「ユーザーページのページを以外を私的な用途に使ってはいけない」という事実をJOT Newsさんが知らなかったかどうかを論点にして頂くと良いかと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 15:19 (UTC)
:::{{コメント}} 訂正します。「ユーザーページのページを以外を私的な用途に使ってはいけない」→「自分のユーザー名前空間以外のページを私的な用途に使ってはいけない」--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 15:23 (UTC)
:::{{コメント}} 改めて、整理しますと、JOT Newsさんが「ユーザーページ以外のページを私的な用途に使ってはいけない」という事実を知らなかったと証明された場合は「善意による編集」であって荒らしではないので私のバンダリズムとの記述は過剰に批判的な言辞である、ということになります。Kzhrさん、以上の点をふまえて、説明をお願いします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 15:34 (UTC)
:::{{コメント}} Kzhrさんは「JOT Newsさんによるカテゴリ追加はそもそも私的な用途ではなく公的な用途である」という論駁も可能です。その場合は、私的な用途ではないのですからJOT Newsさんによるカテゴリ追加を復元すべきと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 16:00 (UTC)
:{{コメント}} 相手と話し合うことなしに「ログ要約欄にバンダリズム(あるいはrvvも)を書き込んではいけない」という独自ルールを作って他人に押し付けようしているのが、客観的なKzhrさんの状態です。私がKzhrさんの管理者権限の停止を求めている一番の理由もここにあります。規則のどこを読んでもそのような解釈はできないので話がかみ合わないのです。私は、他のユーザーさんが荒らしと対話してから取り消し作業をするところをまだ一度も見たことがありません。Kzhrさんは経験があるでしょうから、その時のログを提示できるかと思います。ログのご提示をお願いいたします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 16:49 (UTC)
* {{賛成}} このセクションだけを見ても、数時間のうちに何度もコメントを残しておられますので、思いついた反駁を都度記載されているように見受けます。議論をするには、冷静に内容を読み直し、自身の意見をまとめる時間が必要かと思います。よってブロックに賛成票を投じます。期間については対処者に一任します。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 17:04 (UTC)
*:{{コ}}'''追記''' 会話を試みた結果、「[[w:ja:Wikipedia:児童・生徒の方々へ|Wikipedia:児童・生徒の方々へ]]」の対象者かもしれないと感じました。期間は一任の意見は変わりませんが、実年齢の推測が私には出来ないため、無期限にも反対しません。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月19日 (日) 07:26 (UTC)<small>linkを失敗していました。失礼しました。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 05:40 (UTC)</small>
:{{反対}} 連続投稿を不快に思われたかたがたに、お詫びします。以後連投しないよう気を付けます。ブロックは困るので自分自身への反対票を投じさせてください。もしブロックと決まった場合はどうか来週まで猶予期間を下さい。現在、わりと大物を作っている最中で今週中に入力完成の見込みです。それをまとめてWikisourceに書き込む時間とWikisourceでの実動作確認をして調節する時間をどうしても頂きたいのです。ご理解のほどお願いいたします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月12日 (日) 17:36 (UTC)
::ご自身のブロック依頼へ票を投じることはできません([[w:Wikipedia:投稿ブロック依頼#依頼・コメント資格について]])。ルールを把握してください。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 11:48 (UTC)
* {{賛成}} しばらく被依頼者を様子見していましたが、初対面の人に対していきなり「バンダリズム」呼ばわり、バンダリズムと言ったことに説明を求められても具体的な回答は無し、言動を注意されても俺は悪くないの一点張りと呆れるばかりでした。様々な議論を引っ搔き回し他の利用者を振り回した挙句、自分が投稿ブロックされる可能性が出てくれば猶予をくれとは随分と虫が良すぎませんか。以上から被依頼者の投稿ブロックに賛成します。<del>期間は今のところは一任しますが、期間を定めないことも反対しません。</del>--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 12:17 (UTC) {{small|票を修正。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月17日 (金) 17:16 (UTC)}}
** {{コ}} 票を賛成(期間:一任)から賛成(期間:無期限)に変更します。[[特別:差分/213876|こちらの編集]]ですが、対立した方に対してああすればよかったなどと言うのは、正直反省してから出る言動とは思えません。諫められたのは単語の選び方だけでなく、無礼な態度・姿勢も含まれていることにまだ気付かないのでしょうか。一定期間が経過しても状況は変わらないと判断し、投稿ブロックの期間は定めない票に変更します。「私は今後、一切自治活動をしません」とのことですが、いわゆる管理系以外のページでも軋轢を生むことは目に見えていますから、あまり意味のない宣言だと私は思います。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月17日 (金) 17:16 (UTC)
*:{{コメント}} @[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]]さん、バンダリズムと言ったことへの具体的な回答は十分に行いました。ログをお読みになってください。初対面かどうかは関係ありません。年季が長かろうが荒らしは荒らしなのです。JOT Newsさんの編集が荒らしではないと思うのであれば、金融カテゴリへの作品追加を復元してさしあげてください。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 12:37 (UTC)
*:{{コメント}} 私が広義のバンダリズムと判断して取り消し処理で[[:カテゴリ:金融]]を除去した作品を以下に列挙します。
*:* [[R.U.R./第2幕]] ※ただしログにバンダリズムとの記載なし
*:* [[クルアーン/雌牛章]]
*:* [[魔術]]
*:* [[カシノの昂奮]]
*:* [[二十世紀の巴里/第十三章]]
*:* [[新聞評]]
*:* [[国際社会主義者評論 (1900-1918)/第1巻/第1号/イギリスと国際社会主義]]
*:* [[MIVILUDES2004年度報告書]]
*:* [[国際社会主義者評論 (1900-1918)/第1巻/第1号/金権政治か民主主義か? ]]
*:* [[ブラジルの金融情勢]]
*:JOT Newsさんによる上記作品の金融カテゴリ追加が荒らしでないと思う方は、JOT Newsさんの名誉のために上記作品を金融カテゴリに復元してあげてください。復元しない場合はしない理由を教えてください。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 12:49 (UTC)
*::バンダリズムではないなら復元すべきだというのは論理破綻です。一般的なバンダリズムの解釈には当たらないと言っているだけで、そのカテゴリが妥当かどうかについては述べていません。他の参加者を荒しだと呼ぶということは、共同作業の拒否を意味するわけで、だからこそ妥当ではないと考えたとしても敬意をもって接するよう努めてきたわけです。共同作業を大事にしないと仰るのであれば、いっしょにやっていくことは難しいので、それを改めていただきたいというのがこのブロック依頼の趣旨です。重要なコンテンツを投稿したいといったことは考慮に値しません。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 13:50 (UTC)
*:::{{コメント}} 返信ありがとうございます。「荒らし」や「バンダリズム」はあくまでも特定の行為でありその人の人格否定や侮辱を伴うものではないと思っていました。時にだれでもうっかりや出来心でやってしまうものだと思っていました。たとえ話で恐縮ですが、サッカーにハンドやオフサイドやファールというルール違反があります。あなたの今のプレイはファールだと指摘したからと言って敬意の欠如にならないのと同様に、バンダリズムとの指摘ももっと軽いものと思っていました。バンダリズムとは違う正しい名称があるのであれば以後はそれを使いますのでお教えください。あともう一点、「[[利用者・トーク:JOT_news#カテゴリへの追加について]]」でのJOT Newsさんに対する私の書き込みで敬意を欠いている部分についてご指摘ください。改善します。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 14:24 (UTC)
*:::{{コメント}} 連投になって申し訳ありません。私は相手の行いを事細かにあげつらって批判するのをさけるためのわざとふんわりしたあいまいな表現をしたくて「バンダリズム」や「他の人が迷惑です」と書き込んだつもりでした。英語の辞書の定義のままの行為としてのvandalismと思い込んでいました。「バンダリズム」や「他の人が迷惑です」がふさわしくないようですので、適切な表現をご教示ください。そのカテゴリが妥当でない理由を教えていただければ、以後その表現を使います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 15:16 (UTC)
*::{{コメント}} 今後は、身勝手な判断で自治行為まがいのことをしませんのでお許しください。落書きなどの明らかな荒らしではない編集への介入は一切しないようにします。私はウィキソースの文化をよくわかっていませんでした。反省しています。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月13日 (月) 16:31 (UTC)
:{{提案}} 私なりに穏便な取り消しログ文言を考えてみました。「持続困難」です。判断基準があいまいなので他の人が作業を引き取れない、他の作品に同じことを適用する労力が大きすぎる、などの意味です。今どきよく聞く「持続可能」の反対である「持続不可能」だと強すぎるので、控え目に「持続困難」にしてあります。
:こんなことを提案してみましたが、私は今後、一切自治活動をしませんので、どうかご安心を。改めて謝罪いたします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年11月14日 (火) 02:58 (UTC)
:{{コメント}} 「持続困難」といったログ文面を提案するなどのことは、被依頼者が問題を十分に理解したとはあまり思えないのですが(適切な表現を教えてほしいとありますが、世の中のマナーの本・敬語の本など読まれればよいと思います)、さしあたって被依頼者が軋轢を生むような投稿を止めたため、この依頼の緊急性はひとまず失われたかに思われますので、依頼者としては取り下げてもよいかと思いますがいかがでしょうか。ただし、ご賛同の声も強かったことは銘記すべきで、被依頼者は今後原典の投稿に専念なさるべきことを強く申し添えたく思います。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 01:04 (UTC)
::{{返信}} 今後、コミュニティを消耗させることはないだろうという判断であれば、依頼の取り下げ、あるいは今回は対処せずの終了にも、異議を唱えるものではありません。ただ、今のところ賛成票の撤回をするには至っていないと、私は考えています。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 05:23 (UTC)
:: {{コメント}} 正直ウィキソース内での活動場所を少し狭めたのみで、被依頼者が問題を理解しているとは私も思えません。利用者ページで不穏なことを投稿しているところを見るに、利用者ページを介して問題を引き起こすことは目に見えています(そもそも利用者ページを日記のように使うのってどうなの?と思うのですが一旦置いておきます)。投稿ブロックの建前は「問題発生の予防」「被害発生の回避」な訳ですが、[[w:ja:Wikipedia:投稿ブロックの方針#コミュニティを消耗させる利用者|コニュニティを消耗させた]]実績がある以上は、投稿ブロックはそれら建前とも反しないと思います。依頼取り下げに反対するとまでは言いませんが、少なくとも私の賛成票は撤回せずそのままにしておきます。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年11月23日 (木) 05:33 (UTC)
::{{コメント}}ご返信どうもありがとうございます。利用者ページのほう確認しましたが、ブロックをちら付かせているという繰返しの発言がありましたので、文書を読んであらたまる類いのものではないのだろうという結論に傾きつつあります。利用者ページであれば他者への自由な発言をしていいわけではありません。無期限のブロックもやむなしと考えますが、自身で提起したブロック依頼ですので、他の管理者の方にご結論をまとめていただきたいと思っています。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2023年12月1日 (金) 07:01 (UTC)
:管理者のかたにお願いです。攻撃的な言動で他者の書き込みに対する脅迫や言論統制を行おうとしているのはどちらなのか、公正な判断をお願いいたします。ウィキペディアの議論は発達障害などさまざまな障害を抱えた人でも平等に参加できる開かれた仕組みは大切だと思います。ですが、少人数による形ばかりの多数決が常に正しい結論を導き出せるとは限らないと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年12月23日 (土) 00:46 (UTC)
:私がウィキソースからいなくなるか、@[[利用者:Kzhr|Kzhr]]・@[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]]・@[[利用者:安東大將軍倭國王|安東大將軍倭國王]]・@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]の4人がウィキソースからいなくならない限り、この問題は解決しません。和解は不可能です。決断をお願いします。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 07:31 (UTC)
:{{賛成}} (ただし期限付き)賛成されている方々のご意見は十分理解できます。私も何度か意見の衝突を経験しました。ただ、P9iKC7B1SaKkさんの[[User:P9iKC7B1SaKk|利用者ページ]]冒頭の投稿作品一覧からも分かる通り、フォーマットに関する意見の違いはあるものの、わずかの間に膨大な貢献をされました。この点を併せて考慮いただければ幸いです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年2月10日 (土) 06:23 (UTC)
::{{返信}} 無期限は「期限をさだめ無い」を意味するものだと考えます。被依頼者が自身の問題点を把握し、改善できるのならば、ブロック解除もできるでしょう。私見ながら、機械翻訳に関するものでもありますが、「わずかの間に膨大な貢献」をされるのは困ります。P9iKC7B1SaKk さんが[[利用者:P9iKC7B1SaKk|利用者ページ]]で仰ることに頷ける部分もありますが、「自分は校正をしたくないけれど、したい人がすればいい」ということでは、先が思いやられます。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月10日 (土) 08:59 (UTC)
** {{コ}}Wikisourceではメーリングリストが整備されていないことから無期限は事実上の永久になってしまう可能性があります。私自身はほぼ交渉がないためどのような活動をしていたかは把握しておりませんが、もしブロックとなる場合ですが、まずは期限を定めたブロックを行い、解除後問題が発生する場合、無期限を検討すべきと考えます。なおあくまでも立場としては中立ですが、無期限には反対よりです。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 01:02 (UTC)
*** {{コメント}} 今のところは会話ページを塞ぐことにはなっていませんので、投稿ブロック解除の申請は自身の会話ページで可能です(もっとも目的外な利用をすれば塞ぐことになりますが)。ブロック解除の方針は日本語版ウィキソースにはありませんが、[[w:ja:Wikipedia:投稿ブロック解除依頼作成の手引き|日本語版ウィキペディア]]に準拠する形になるでしょうか。この辺りは別トピックで議論が必要ですね。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 05:33 (UTC)
**:{{コ}} @[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さん、私を期限付きブロックしたとしても問題解決はしないので、多数決と集合知によって私を無期限ブロックすべきです。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 07:02 (UTC)
**:{{コ}}私が書き込んだ直後にIPユーザーが何かを書き込んだようですが、そのIPユーザーは私のなりすましではなく赤の他人です。私は無期限ブロックされてもIPユーザーや別アカウントで書き込んだりしないので、心配せず無期限ブロックしてください。最後にお願いです。特に@[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さんにお願いです。[[Wikisource:管理者権限依頼#利用者:Kzhr]]にも書き込みましたが、Kzhrさんに対する管理者権限除去依頼を削除せずそのまま維持してください。管理者ユーザーとしてのKzhrさんを見張り続けるために除去依頼の維持が必要です。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 07:34 (UTC)
**:{{コメント}} 私の読み違えでしたら申し訳ないのですが、P9iKC7B1SaKk さんが Hideokun さんに今求めているのは、<u>「[[ja:w:泣いて馬謖を斬る]]」</u>ことではないでしょうか。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 15:39 (UTC) <small>下線部を誤字修正+Link --[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 16:38 (UTC)</small>
**::成程、泣いて馬謖を斬る、か。つまりあんたらにとっては規律を守ることが最大限に大事なのね。そのために一日中このサイトを監視して、問題人物を見つけたらブロックだ方針だ、合意だコミュニティだ騒ぎ立てて、正義の味方の学級委員長をきどるわけだ。別に我々戦争しているわけでも、そんな大したプロジェクトに身を投じているわけでもないのにね。結局一番重要なのは、規律を盾に目を吊り上げて他人を糾弾する事なんだね。--[[特別:投稿記録/82.221.137.162|82.221.137.162]] 2024年2月11日 (日) 16:51 (UTC)
**::規律と多数決。確かに一見民主主義が施行されているようにも見える。--[[特別:投稿記録/82.221.137.162|82.221.137.162]] 2024年2月11日 (日) 16:58 (UTC)
:私は一か月ブロックされましたが、私がKzhrさんに対する管理者権限停止の要請を取り下げることもなく、機械翻訳ページ削除の仕組みもできあがらないままです。次はどうされますか。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月7日 (日) 12:06 (UTC)
{{Reply to|Sakoppi|Hideokun}} 依頼提出から1か月以上、最終コメントから20日が経過しました。これ以上はコメントや票が出ないかと思いますので、議論の終結をお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年12月21日 (木) 09:34 (UTC)
{{Reply to|Sakoppi|Hideokun}} すみません、私のコメントから1か月経過しましたのでもう一度通知いたします。こちらの議論の終結をお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年1月21日 (日) 11:13 (UTC)
:@[[利用者:Sakoppi|Sakoppi]]さん、@[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さん、 [[Wikisource:管理者権限依頼#除去依頼]]で提起したKzhrさんに対する管理者権限除去依頼についても、裁決をお願いいたします。一旦取り下げたのですが、Kzhrさんから攻撃的な書き込みがありましたので考え直して、除去依頼を再度提起させていただきました。また、@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]さんから未成年者と揶揄する侮辱やこのブロック依頼の話題が進行中であることに便乗した脅迫的な書き込みを受けているため、この議論を終わらせていただけますと、幸いです。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年1月21日 (日) 11:46 (UTC)
{{Reply to|Syunsyunminmin|Infinite0694}} グローバル管理者で日本語話者の方(Ja-N)にも通知いたします。こちらの議論の終結をお願いいたします。ご不明な点があればコメントをください。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 07:41 (UTC)
: {{コメント}} 勘違いされているようなので、すみませんが少しだけ。ウィキメディア財団の運営する各プロジェクトにおいて、障がいであることを理由に排除されることはありません(すべてのプロジェクトの方針を見た訳ではありませんが恐らくはそうでしょう)。が、それは投稿ブロックの方針に反しない限りでの話です。方針に反している状態であれば、障がいがあろうとなかろうと投稿ブロックがかかることになります。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 07:41 (UTC)
:: {{コメント}} 今回の件につきましてですが、過去にKzhr氏から「[https://ja.wikisource.org/w/index.php?title=Wikisource:%E4%BA%95%E6%88%B8%E7%AB%AF&diff=prev&oldid=150296 すくなくともHideokunさんみたいにプロジェクトの私物化はしてないですね。]」等の暴言をいただいており、また、作品を投稿せず管理行為のみを行っている行動に対して疑問を抱いております。そのため、私の活動頻度が著しく低下したわけで、私が関わるとプロジェクトの私物化ととられかねませんので申し訳ありませんが、対処いたしかねます。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 10:55 (UTC)
:::このリンク先をよく読んで、悪意のある切り取りでないと分らないひとはいないと思うのですね。コミュニティの合意形成を妨げて私意を優先したことを指して私物化と言っているわけで、確かに何もしなければ私物化にはなりませんが、それで管理者としての務めを果たせているのかよくお考えいただければと思います。管理行為のみを行うことが疑問だというのは、趣味の問題なので、コメントはしません。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 02:31 (UTC)
::::何を言われているのかよくわかりませんが、リンク先は色々と参照できるようにするために設定しております。切り取りではありません。よく考えてから物はいいましょう。また、私物化というレッテル張りはおやめください。ある一点だけを切り取り私物化しているというのは木を見て森を見ずという小さいところしか見れないあなたの見識の低さを顕著に示しています。また、そのようなレッテル張りに私は深く傷ついたのでWikipediaにありますが「個人攻撃はしない」を行っているということです。また、あなたの攻撃的な言動、つまりは高圧的に上から目線で何事にも対応するためにいろいろと軋轢を生んでいることはWikipediaの履歴も参照すればよくわかります。あなたこそ管理者としての務めを果たせているのでしょうか。また、管理行為を趣味の問題と申すのはよくわかりません。ようするに作品は投稿しないけど管理だけさせろということになり、草取りのような行為でさえほとんどされていないようです。つまりはWikisorceの充実には貢献しません、利用者の監視のみしますと宣言しているようなものです。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2024年2月4日 (日) 09:51 (UTC)
::::: {{Reply to|Kzhr|Hideokun}} お二方ともどうかご冷静に。こちらはP9iKC7B1SaKkさんの投稿ブロック依頼ですので、直接関係の無い話題は別のトピックでお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月4日 (日) 15:31 (UTC)
: グローバル管理者の建前上、ローカルの管理者ではない私が日本語版ウィキソース内部の問題に対して判定/裁定するのは躊躇います。コミュニティでの合意事項を明示して依頼してもらえると助かります。 [[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]] ([[利用者・トーク:Syunsyunminmin|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 13:02 (UTC)
:: @[[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]]さん、迅速な返信ありがとうございます。この投稿ブロック依頼では賛成票は入ってはいるものの、合意に至っているとは言い難い状態ですので、合意事項は現時点ではありません。ただ、素性を知らないはずの利用者に対して発達障害者と断定して発言する行為([[特別:差分/216045|こちら]]や[[特別:差分/216047|こちら]])があっても、暫定的に投稿ブロックをかけることは難しいのでしょうか。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 16:22 (UTC)
:: @[[利用者:Hideokun|Hideokun]]さん、対処しない旨、承知いたしました。ただKzhrさんの管理系における行為については、こちらでは無関係ですので、ご意見があれば[[Wikisource:管理者権限依頼#利用者:Kzhr]]でお願いいたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月2日 (金) 16:22 (UTC)
:: {{コメント}} 私は賛成票を投じているので中立的なコメントとは言えませんが、この議論を終わらせたいと思っているのは合意できる部分ではないでしょうか。また、多数決で決めることではないとはいえ、反対票が入っていないことは、依頼に対処することを妨げないものと思います。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 06:05 (UTC)
: 無期限票と一任票がそれぞれ一つですので、無期限としてラフコンセンサスが出来ていると判断します。あまりにも目に余るものがあれば前倒しにしますが、念のため1週間程の予告期間をおいて、皆様がよろしいのであれば無期限ブロックを実施します。 [[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]] ([[利用者・トーク:Syunsyunminmin|トーク]]) 2024年2月3日 (土) 12:15 (UTC)
:: お手数をおかけします。Syunsyunminminさんの対処に賛成いたします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月4日 (日) 09:48 (UTC)
:::思うんだけど、とりあえず困った人をブロックして解決しようとするより、もうちょっと話し合ったら? 自分が衆愚の多数派に属しているから自分、自分たちが圧倒的に正しいと思い込むのが、ウィキメディアの典型的な馬鹿の発想だね。ブロックは懲罰でないってどこかに書いてなかった? じゃあ何でブロックせよと言い出すの? ブロックして痛めつけて自分たちの都合のいい考えを持つようにしたいんでしょ? 馬鹿馬鹿しいせこい考えで生きてる奴だけで、ウィキメディアを構成したい訳かね?ラフコンセサスなんて馬鹿げた言葉が出ているけど、馬鹿のコンセサスなんてあまり意味ないだろ? 本当に目に余る愚行をしているのは誰か? 考え直してみな。--[[特別:投稿記録/169.61.84.132|169.61.84.132]] 2024年2月4日 (日) 20:39 (UTC)
::::この長い議論の末に突然現れて話し合ったらと言い出せるのには首をひねりますが、[[User:P9iKC7B1SaKk]]における罵詈雑言のかずかずを見て、議論の成立する余地があるとどこのだれが言えるのでしょうか。もうすこし常識的に考えていただければと思います。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 08:46 (UTC)
:::::長い議論の末に突然現れて話し合ったらと云いだせるのが、なぜおかしいのですか? 私の見るところあなた達は今までの十倍は話し合うべきですね。大体ウィキメディアは話し合いが少なすぎますよ。基本的に馬鹿な多数派が暴力で自分たちの欲望をごり押ししているだけ。P9さんの罵詈雑言と言うけど、私の見た限りでは、多少は暴論に近いけど、基本的には正しいこと言っている。むしろ鉄の時代とか、温故知新さんだってかなり酷いこと言っていると思うけど…。大体いい大人を捕まえて子ども扱い、犯罪者扱い、ダメ人間扱いするのは最大級の侮辱ですよ。それこそあなた達大好物の礼儀と善意、個人攻撃をしないに反する言及でしょう。まあ議論の成立する余地は確かに少ない。ただそれは、P9さんが悪いのではなく、あなた達が悪いんだよ。貴方達が愚か者過ぎるの。正しい事と正しい行為を知らないのでしょう。常識って何かね? あなたも仏教と親鸞に心を寄せるなら、そんなもの何の価値も無いって知っているはずでは?--[[特別:投稿記録/169.61.84.147|169.61.84.147]] 2024年2月5日 (月) 09:23 (UTC)
::::::オープンプロクシからの議論参加は正規の手段ではありませんのでこれ以上止まないようであればブロックの対象となり得ます。ご注意ください。--[[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 10:26 (UTC)
:::::::何だ、結局話し合いする気ゼロか。ブロックしたいならいつでもどこでも好きなだけしろよ。ただし俺はそこそこ別のIP 用意できるぜ。ただまあやっぱり関わらない方が良かったね。あんたらみたいな馬鹿見るとついつい文句言いたくなるんだが、やはり書かないのが正解だったようだね。卑怯者につける薬無し。木枯し紋次郎は、「あっしには関りのねえことでござんす」と云いつつ、あんたみたいな悪党を見るとついつい、立場の弱い人に助太刀しちゃうんだ。で、その結果ボロボロにやられるんだけどね(^^;;;)。合意、コミュニティ、コミュニティに疲弊をもたらす、お前は子供、しでかしたな、目に余る問題行為、問題利用者は監視しましょう、全て衆愚のファシストに都合のいい、言葉尻の欺瞞だね。(by--169.61.84.1**)--[[特別:投稿記録/158.85.23.146|158.85.23.146]] 2024年2月5日 (月) 10:43 (UTC)
:::::{{コメント}} 機械翻訳の件でもそうですが、品質が低いからという理由だけでページを削除する仕組みを作ろうとするのは入力担当者に対して失礼です。入力担当者の労力に対してもっと敬意を払ってください。気に入らない作品を削除する口実を無理に探す短絡性が、そのまま私をブロックする口実を無理に探す短絡性につながっています。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 09:24 (UTC)
: {{コメント}} オープンプロクシのIP利用者は[[w:ja:Wikipedia:進行中の荒らし行為#Honooo|この方かその模倣]]ですので無視してください。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 12:08 (UTC) {{small|修正。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月5日 (月) 12:09 (UTC)}}
::Wikimedia 用語辞典。方針=気に入らない奴をブロック、追放していい理由。合意=多数決。コミュニティ=衆愚の多数派。管理者=いざという時に衆愚の友達の為に暴力を振るってくれる、権力者。スチュワード=衆愚の暴力者の親玉、衆愚の言う事は全て聞いてくれる。--[[特別:投稿記録/82.221.137.167|82.221.137.167]] 2024年2月11日 (日) 18:25 (UTC)
:::議論=自分たちの欲望を満たすための謀議、水戸黄門の越後屋と悪代官のようなものか?(^^;;)。--[[特別:投稿記録/82.221.137.178|82.221.137.178]] 2024年2月11日 (日) 19:31 (UTC)
::うーん、俺も最初はウィキメディアの管理者とかスチュワードは人格者で、常に大岡越前のような公平公正な判断、取り扱いをすると思っていたんだ。しかし実際には違った。常に衆愚の友達の為によきに計らって、権威的な言説をしつつ暴力と権力を振るうだけだったんだよね。そろそろこのサイトも終焉が近いのではないかね。終焉してリードオンリーにした方がいいと思うな。知識と知恵と情報のためには、新たな形態のサイトが必要だと思う。終焉しないにしても、何らかの改革と改善は必要だろう。--[[特別:投稿記録/82.221.137.186|82.221.137.186]] 2024年2月11日 (日) 20:28 (UTC)
* {{コメント}} IPの方は Honooo さんですよね? 改革と改善は必要だとしても、個々のコミュニティが単独でできることではないので、この依頼の議論では控えて下さると幸いです。また、このままではこの議論を終了することが出来ず、管理者の方も対処を躊躇うばかりかと思います。期限付きを考える方は、期間の提示をしてくださる方が裁定しやすいものと考えます。私の意見は、ブロックに{{賛成}}期間は対処者に一任(無期限にも反対しない)に変更ありません。被依頼者には、コミュニティを疲弊させない姿勢で帰ってきていただければと思います。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年2月11日 (日) 23:32 (UTC)
*:いやー、確かに私がHonooo です(^^;;)。確かに私はここで余計な口出さない方がいいようですね。色々鬱屈が溜まっていた時にここのサイトを見て、この議論を見て、納得いかない言説と展開があったのでついつい口出ししてしまいましたが、もともと私が深く関わっていたプロジェクトでもないですし、口出しする権利はあまりないようです。只一点だけ、コミュニティを疲弊させるという表現は、欺瞞が多いと思います。多数決の多数派がそう主張しますが、こんな事態になったら誰しも疲弊するんでね。コミュニティってお前らのこと?、俺は含まれていないの?、なんて疑問を持つこともあると思います。そもそも多少の疲弊はするべきだろう。コミュニケーションなんて疲弊するものだし、疲弊してこそのコミュニティであり、議論であり、話し合いじゃあない?都合のいい時に疲弊と云い、都合のいい時に共同作業と云い、都合のいい時に負担という。やはりこのサイトには根源的な欺瞞がはびこっていると思う。--[[特別:投稿記録/82.221.137.187|82.221.137.187]] 2024年2月12日 (月) 00:53 (UTC)
*:{{返信}} ご提案ありがとうございます。冷却期間が必要かと思うのですが、当初のご提案通り1か月とさせていただければ幸いです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年2月12日 (月) 04:33 (UTC)
@[[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]]さん、予告より1週間以上経ちましたが、対処はされないのでしょうか。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月22日 (木) 15:53 (UTC)
: 予告後に[[#c-CES1596-20240210062300-Kzhr-20231111130400|期限付き票]]と[[#c-Hideokun-20240211010200-CES1596-20240210062300|無期限に反対の意見]]が入ったため様子を見ていました。無期限・1ヶ月・一任がそれぞれ1票ずつであり、この状態で無期限ブロックするのは難しいです。そのため今回は1ヶ月のブロックとして対処します。必要に応じて延長/再ブロック依頼をお願いします。 [[利用者:Syunsyunminmin|Syunsyunminmin]] ([[利用者・トーク:Syunsyunminmin|トーク]]) 2024年2月23日 (金) 12:04 (UTC)
:: {{コメント}} ありがとうございます。お手数をおかけしました。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年2月23日 (金) 14:30 (UTC)
== リネーム依頼 ==
新しくindexのページを作った際に、File:の接頭辞を削除するのを忘れてしまい[[Index:File:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvu]]を誤って作成してしまいました。つきましては、管理者権限をお持ちの方、Index:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvuへリネームしていただきたく。--[[利用者:HinokisOfRoma|HinokisOfRoma]] ([[利用者・トーク:HinokisOfRoma|トーク]]) 2024年1月3日 (水) 05:06 (UTC)
: {{コメント}} 私は管理者ではありませんが、移動(改名)は一般利用者でも対処可能でしたので、[[Index:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvu]]に移動しました。移動元の[[Index:File:TōjōKōichi-JapanesePersimmon.djvu]]は{{tl|即時削除}}の貼り付けがエラーで出来なかったので、[[Wikisource:管理者伝言板]]にて管理者にお知らせしています。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年1月3日 (水) 06:28 (UTC)
::ありがとうございました。--[[利用者:HinokisOfRoma|HinokisOfRoma]] ([[利用者・トーク:HinokisOfRoma|トーク]]) 2024年1月5日 (金) 14:04 (UTC)
== Do you use Wikidata in Wikimedia sibling projects? Tell us about your experiences ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
''Note: Apologies for cross-posting and sending in English.''
Hello, the '''[[m:WD4WMP|Wikidata for Wikimedia Projects]]''' team at Wikimedia Deutschland would like to hear about your experiences using Wikidata in the sibling projects. If you are interested in sharing your opinion and insights, please consider signing up for an interview with us in this '''[https://wikimedia.sslsurvey.de/Wikidata-for-Wikimedia-Interviews Registration form]'''.<br>
''Currently, we are only able to conduct interviews in English.''
The front page of the form has more details about what the conversation will be like, including how we would '''compensate''' you for your time.
For more information, visit our ''[[m:WD4WMP/AddIssue|project issue page]]'' where you can also share your experiences in written form, without an interview.<br>We look forward to speaking with you, [[m:User:Danny Benjafield (WMDE)|Danny Benjafield (WMDE)]] ([[m:User talk:Danny Benjafield (WMDE)|talk]]) 08:53, 5 January 2024 (UTC)
</div>
<!-- User:Danny Benjafield (WMDE)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Global_message_delivery/Targets/WD4WMP/ScreenerInvite&oldid=26027495 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Reusing references: Can we look over your shoulder? ==
''Apologies for writing in English.''
The Technical Wishes team at Wikimedia Deutschland is planning to [[m:WMDE Technical Wishes/Reusing references|make reusing references easier]]. For our research, we are looking for wiki contributors willing to show us how they are interacting with references.
* The format will be a 1-hour video call, where you would share your screen. [https://wikimedia.sslsurvey.de/User-research-into-Reusing-References-Sign-up-Form-2024/en/ More information here].
* Interviews can be conducted in English, German or Dutch.
* [[mw:WMDE_Engineering/Participate_in_UX_Activities#Compensation|Compensation is available]].
* Sessions will be held in January and February.
* [https://wikimedia.sslsurvey.de/User-research-into-Reusing-References-Sign-up-Form-2024/en/ Sign up here if you are interested.]
* Please note that we probably won’t be able to have sessions with everyone who is interested. Our UX researcher will try to create a good balance of wiki contributors, e.g. in terms of wiki experience, tech experience, editing preferences, gender, disability and more. If you’re a fit, she will reach out to you to schedule an appointment.
We’re looking forward to seeing you, [[m:User:Thereza Mengs (WMDE)| Thereza Mengs (WMDE)]]
<!-- User:Thereza Mengs (WMDE)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=WMDE_Technical_Wishes/Technical_Wishes_News_list_all_village_pumps&oldid=25956752 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Invitation to join January Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We are the hosting this month’s [[:m:Wikisource Community meetings|Wikisource Community meeting]] on '''27 January 2024, 3 PM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1706367600 check your local time]).
As we gear up for our upcoming Wikisource Community meeting, we are excited to share some additional information with you.
The meetings will now be held on the last Saturday of each month. We understand the importance of accommodating different time zones, so to better cater to our global community, we've decided to alternate meeting times. The meeting will take place at 3 pm UTC this month, and next month it will be scheduled for 7 am UTC on the last Saturday. This rotation will continue, allowing for a balanced representation of different time zones.
As always, the meeting agenda will be divided into two halves. The first half of the meeting will focus on non-technical updates, including discussions about events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. The second half will delve into technical updates and conversations, addressing major challenges faced by Wikisource communities, similar to our previous Community meetings.
If you are interested in joining the meeting, kindly leave a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org''' and we will add you to the calendar invite.
Meanwhile, feel free to check out [[:m:Wikisource Community meetings|the page on Meta-wiki]] and suggest any other topics for the agenda.
Regards
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<small> Sent using [[利用者:MediaWiki message delivery|MediaWiki message delivery]] ([[利用者・トーク:MediaWiki message delivery|トーク]]) 2024年1月18日 (木) 10:54 (UTC)</small>
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ユニバーサル行動規範調整委員会の憲章の批准投票 ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting opens|当お知らせの多言語版はメタウィキをご参照ください。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting opens}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは
本日はお知らせがあり、お邪魔しました。実は[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee|ユニバーサル行動規範調整委員会]](U4C)の憲章<sup>※1</sup>の批准投票を受付中です。期限は'''2024年2月2日'''ですので、コミュニティの皆さんには[[m:Special:MyLanguage/Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Charter/Voter_information|投票と憲章に関するコメント投稿をセキュアポル(SecurePoll)]]経由でお願いします。すでにこの[[foundation:Special:MyLanguage/Policy:Universal_Code_of_Conduct/Enforcement_guidelines|行動規範施行ガイドライン]]<sup>※2</sup>の策定段階でご意見を寄せてくださった皆さんには、ほぼ同じ手順です。(※:1=U4C、Universal Code of Conduct Coordinating Committee。2=UCoC Enforcement Guidelines。)
[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|ユニバーサル行動規範調整委員会による現在の版]]をメタウィキに公開してありますので、翻訳版をご覧いただけます。
まず憲章をご一読いただき、賛否の投票をしてから、この文面を皆さんのコミュニティで共有いただけましたら誠に幸いです。U4C設立委員会としましては、皆さんの投票ご参加を心から願っています。
UCoC プロジェクトチーム代表<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年1月19日 (金) 18:09 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=25853527 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Wikimedians of Japan User Group 2024-01 ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
*'''全体ニュース'''
**
*'''「Wikimedians of Japan User Group」 からのお知らせ'''
**Wikimedians of Japan User Groupは、昨年2023年10月から11月にかけてJawpログインユーザーの皆様を対象にアンケートを行いました。1月に、結果報告を[https://diff.wikimedia.org/ja/ ウィキメディア財団公式ブログDiff]に掲載していただきました。調査に協力してくださった皆様に深く感謝いたします。
***[https://diff.wikimedia.org/ja/2024/01/10/%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%82%ad%e3%83%9a%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2%e7%b7%a8%e9%9b%86%e8%80%85%e3%81%ae%e3%83%a2%e3%83%81%e3%83%99%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%81%a8%e4%b8%8d%e6%ba%80%e3%80%80/ ウィキペディア編集者のモチベーションと不満 前半]
*** [https://diff.wikimedia.org/ja/2024/01/10/%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%82%ad%e3%83%9a%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2%e7%b7%a8%e9%9b%86%e8%80%85%e3%81%ae%e3%83%a2%e3%83%81%e3%83%99%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%81%a8%e4%b8%8d%e6%ba%80%e3%80%80-2/ ウィキペディア編集者のモチベーションと不満 後半]
<div style="-moz-column-count:2; -webkit-column-count:2; column-count:2; -webkit-column-width: 400px; -moz-column-width: 400px; column-width: 400px;">
'''[[ja:メインページ|日本語版ウィキペディア]]'''
*ニュース
**
*[[:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考|秀逸な記事の選考]]
**現在選考中の記事はありません。
*[[:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考|良質な記事の選考]]
**[[:w:ja:鰊場作業唄|鰊場作業唄]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/鰊場作業唄 20231220|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:間人ガニ|間人ガニ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/間人ガニ 20231223|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:パンロン会議|パンロン会議]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/パンロン会議 20231223|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:PlayStation 5のゲームタイトル一覧 (2020年-2021年)|PlayStation 5のゲームタイトル一覧 (2020年-2021年)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/PlayStation 5のゲームタイトル一覧 (2020年-2021年) 20231225|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:満奇洞|満奇洞]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/満奇洞 20231230|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:くど造|くど造]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/くど造 20231230|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:心停止|心停止]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/心停止 20231229|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:新潟電力|新潟電力]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/新潟電力 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:新潟電気|新潟電気]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/新潟電気 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:家屋文鏡|家屋文鏡]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/家屋文鏡 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:カラブリュエの戦い|カラブリュエの戦い]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/カラブリュエの戦い 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:さんかく座|さんかく座]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/さんかく座 20240111|選考]]を通過しました。
**[[:w:ja:マダガスカルにおける蚕|マダガスカルにおける蚕]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/マダガスカルにおける蚕 20240115|選考中]](2024年1月29日 (月) 03:11 (UTC)まで)
**[[:w:ja:大塚陽子|大塚陽子]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/大塚陽子 20240121|選考中]](2024年2月4日 (日) 08:52 (UTC)まで)
**[[:w:ja:全身麻酔の歴史|全身麻酔の歴史]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/全身麻酔の歴史 20240111|選考中]](2024年2月7日 (水) 16:27 (UTC)まで)
**[[:w:ja:狩野派|狩野派]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/狩野派 20240111|選考中]](2024年2月8日 (木) 00:08 (UTC)まで)
*[[:ja:Wikipedia:月間新記事賞|月間新記事賞]]
**[[:w:ja:新潟電力|新潟電力]]
**[[:w:ja:新潟電気|新潟電気]]
**[[:w:ja:家屋文鏡|家屋文鏡]]
**[[:w:ja:全身麻酔の歴史|全身麻酔の歴史]]
**[[:w:ja:カラブリュエの戦い|カラブリュエの戦い]]
*[[:ja:Wikipedia:珍項目/選考|珍項目の選考]]
**[[:w:ja:シャグマアミガサタケ|シャグマアミガサタケ]]
*[[:ja:Wikipedia:秀逸な一覧の選考|秀逸な一覧の選考]]
**現在選考中の記事はありません。
'''[[voy:ja:メインページ|日本語版ウィキボヤージュ]]'''
* [[voy:ja:Wikivoyage:国執筆コンテスト|国執筆コンテスト]]
**国執筆コンテストが開催中です。奮ってご参加ください!
'''[[m:Main_Page/ja|メタウィキ]]'''
* 日本語話者向けニュース
** メタウィキでは翻訳者を常時募集しています。気になる方は[[m:Meta:Babylon/ja|翻訳ポータル]]をご確認下さい。
</div>
<hr />
*'''前回配信:2023年12月31日'''
</div>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
配信元: '''[[m:Wikimedians of Japan User Group|Wikimedians of Japan User Group]]''' <br />
<small>[[m:Talk:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン|フィードバック]]。[[m:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン/targets list|購読登録・削除]]。</small>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
<!-- User:Sai10ukazuki@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedians_of_Japan_User_Group/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3/targets_list&oldid=25924865 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== あと数日で憲章の批准投票と、ユニバーサル行動規範調整委員の投票が終了 ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting reminder|当お知らせの多言語版はメタウィキをご参照ください。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - voting reminder}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは
本日はお知らせがあり、お邪魔しました。実は[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee|ユニバーサル行動規範調整委員会]](U4C)<sup>※1</sup>の投票受付が間もなく'''2024年2月2日'''に終わります。コミュニティの皆さんには[[m:Special:MyLanguage/Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Charter/Voter_information|セキュアポル(SecurePoll)にて憲章への投票とご意見の投稿をご検討ください]]。すでにこの[[foundation:Special:MyLanguage/Policy:Universal_Code_of_Conduct/Enforcement_guidelines|行動規範施行ガイドライン]]<sup>※2</sup>の策定段階でご意見を寄せてくださった皆さんには、ほぼ同じ手順です。(※:1=U4C、Universal Code of Conduct Coordinating Committee。2=UCoC Enforcement Guidelines。)
[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|ユニバーサル行動規範調整委員会による現在の版]]をメタウィキに公開してありますので、翻訳版をご覧いただけます。
まず憲章をご一読いただき、賛否の投票をしてから、この文面を皆さんのコミュニティで共有いただけましたら誠に幸いです。U4C設立委員会としましては、皆さんの投票ご参加を心からお待ちしております。
UCoC プロジェクトチーム一同になり代わり、よろしくお願いいたします。<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年1月31日 (水) 17:01 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=25853527 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== UCoC 調整委員会憲章について批准投票結果のお知らせ ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - results|このメッセージはメタウィキ(Meta-wiki)で他の言語に翻訳されています。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:wiki/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Announcement - results}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは。
ユニバーサル行動規範<!-- UCoC -->に関して、引き続き読んでくださりありがとうございます。本日は、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|ユニバーサル行動規範調整委員会の憲章]]<!-- UCoC 調整委員会の憲章 / U4Cの憲章 -->に関する[[m:Special:MyLanguage/Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Charter/Voter_information|批准投票]]の結果についてお知らせします。この批准投票では投票者総数は 1746 名、賛成 1249 票に対して反対 420 票でした。この批准投票では投票者の皆さんから、憲章<sup>※</sup>についてコメントを寄せてもらえるようにしました。("※"=Charter)
投票者のコメントのまとめと票の分析はメタウィキに数週間ほどで公表の予定です。
次の段階についても近々お知らせしますのでお待ちくだされば幸いです。
UCoC プロジェクトチーム一同になり代わり、よろしくお願いいたします。<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年2月12日 (月) 18:24 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26160150 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Invitation to join February Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We are the hosting this month’s [[:m:Wikisource Community meetings|Wikisource Community meeting]] on '''24 February 2024, 7 AM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1708758000 check your local time]).
The meeting agenda will be divided into two halves. The first half of the meeting will focus on non-technical updates, including discussions about events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. The second half will delve into technical updates and conversations, addressing major challenges faced by Wikisource communities, similar to our previous Community meetings.
If you are interested in joining the meeting, kindly leave a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org''' and we will add you to the calendar invite.
Meanwhile, feel free to check out [[:m:Wikisource Community meetings|the page on Meta-wiki]] and suggest any other topics for the agenda.
Regards
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<small> Sent using [[利用者:MediaWiki message delivery|MediaWiki message delivery]] ([[利用者・トーク:MediaWiki message delivery|トーク]]) 2024年2月20日 (火) 11:11 (UTC)</small>
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Wikimedians of Japan User Group 2024-02 ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
*'''全体ニュース'''
**
*'''「Wikimedians of Japan User Group」 からのお知らせ'''
<div style="-moz-column-count:2; -webkit-column-count:2; column-count:2; -webkit-column-width: 400px; -moz-column-width: 400px; column-width: 400px;">
'''[[:w:ja:メインページ|日本語版ウィキペディア]]'''
*ニュース
**
*[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考|秀逸な記事の選考]]
**[[:w:ja:アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)|アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)]]が[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考/アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵) 20240127|選考中]](2024年4月27日 (土) 14:49 (JST)まで)
*[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考|良質な記事の選考]]
**[[:w:ja:ウチキパン|ウチキパン]]が[[Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ウチキパン 20240129|選考]]を通過
**[[:w:ja:広島県産業奨励館|広島県産業奨励館]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/広島県産業奨励館 20240129|選考]]を通過
**[[:w:ja:ナムコ|ナムコ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ナムコ 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:鵲尾形柄香炉 (国宝)|鵲尾形柄香炉 (国宝)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/鵲尾形柄香炉 (国宝) 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:廻廊にて|廻廊にて]]を[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/廻廊にて 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:球果|球果]]を[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/球果 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:鮭 (高橋由一)|鮭 (高橋由一)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/鮭 (高橋由一) 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:外郎売|外郎売]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/外郎売 20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:北斎漫画|北斎漫画]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/北斎漫画_20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:清水澄子 (さゝやき)|清水澄子 (さゝやき)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/清水澄子 (さゝやき)_20240211|選考]]を通過
**[[:w:ja:大阪南港事件|大阪南港事件]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/大阪南港事件 20240216|選考]]を通過
**[[:w:ja:PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2016年)|PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2016年)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2016年) 20240204|選考]]を通過
**[[:w:ja:プライス山 (ブリティッシュコロンビア州)|プライス山 (ブリティッシュコロンビア州)]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/プライス山 (ブリティッシュコロンビア州) 20240215|選考]]を通過
**[[:w:ja:バブルネット・フィーディング|バブルネット・フィーディング]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/バブルネット・フィーディング 20240219|選考]]を通過
**[[:w:ja:スギ|スギ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/スギ 20240219|選考]]を通過
**[[:w:ja:ウィッチャー3_ワイルドハント|ウィッチャー3_ワイルドハント]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ウィッチャー3_ワイルドハント_20240224|選考中]](2024年3月9日 (土) 15:24 (UTC)まで)
**[[:w:ja:舟橋蒔絵硯箱|舟橋蒔絵硯箱]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/舟橋蒔絵硯箱 20240226|選考中]](2024年3月11日 (月) 02:58 (UTC)まで)
**[[:w:ja:羽田孜|羽田孜]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/羽田孜 20240226|選考中]](2024年3月11日 (月) 12:26 (UTC)まで)
*[[:w:ja:Wikipedia:月間新記事賞|月間新記事賞]]
**[[:w:ja:鵲尾形柄香炉 (国宝)|鵲尾形柄香炉 (国宝)]]
**[[:w:ja:ナムコ|ナムコ]]
**[[:w:ja:廻廊にて|廻廊にて]]
**[[:w:ja:球果|球果]]
**[[:w:ja:鮭 (高橋由一)|鮭 (高橋由一)]]
*[[:w:ja:Wikipedia:珍項目/選考|珍項目の選考]]
**現在選考中の項目はありません。
*[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な一覧の選考|秀逸な一覧の選考]]
**現在選考中の記事はありません。
'''[[:m:Main_Page/ja|メタウィキ]]'''
* 日本語話者向けニュース
** メタウィキでは翻訳者を常時募集しています。気になる方は[[:m:Meta:Babylon/ja|翻訳ポータル]]をご確認下さい。
</div>
<hr />
*'''前回配信:2024年1月26日'''
</div>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
配信元: '''[[:m:Wikimedians of Japan User Group|Wikimedians of Japan User Group]]''' <br />
<small>[[:m:Talk:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン|フィードバック]]。[[:m:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン/targets list|購読登録・削除]]。</small>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
<!-- User:Chqaz@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedians_of_Japan_User_Group/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3/targets_list&oldid=26262302 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== U4C 憲章の批准投票の結果報告、U4C 委員候補募集のお知らせ ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – call for candidates| このメッセージはMeta-wikiで他の言語に翻訳されています。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – call for candidates}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
各位
本日は重要な情報2件に関して、お伝えしたいと思います。第一に、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter/Vote results|ユニバーサル行動規範調整委員会憲章(U4C)の批准投票に添えられたコメント]]は、集計結果がまとまりました。第二に、U4C の委員立候補の受付が始まり、〆切は2024年4月1日です。
[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee|ユニバーサル行動規範調整委員会]](U4C)<sup>※</sup>とはグローバルな専門グループとして、UCoC が公平かつ一貫して実施されるように図ります。広くコミュニティ参加者の皆さんに、U4C への自薦を呼び掛けています。詳細と U4C の責務は、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|U4C 憲章を通読してください]]。(※=Universal Code of Conduct Coordinating Committee。)
憲章に準拠し、U4Cの定員は16名です。内訳はコミュニティ全般の代表8席、地域代表8席であり、ウィキメディア運動の多様性を反映するよう配慮してあります。
詳細の確認、立候補の届けは[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024|メタウィキ]]でお願いします。
UCoC プロジェクトチーム一同代表<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年3月5日 (火) 16:25 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26276337 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ウィキメディア財団理事会の2024年改選 ==
<section begin="announcement-content" />
: ''[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024/Announcement/Selection announcement| このメッセージの多言語版翻訳は、メタウィキで閲覧してください。]]''
: ''<div class="plainlinks">[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024/Announcement/Selection announcement|{{int:interlanguage-link-mul}}]] • [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:Wikimedia Foundation elections/2024/Announcement/Selection announcement}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]</div>''
各位
本年は、ウィキメディア財団理事会において任期満了を迎える理事はコミュニティ代表と提携団体代表の合計4名です[1]。理事会よりウィキメディア運動全域を招集し、当年の改選手続きに参加して投票されるようお願いします。
[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections committee|選挙管理委員会]]はこの手順を監督するにあたり、財団職員の補佐を受けます[2]。理事会組織統治委員会<sup>※1</sup>は2024改選の立候補資格のないコミュニティ代表と提携団体代表の理事から理事改選作業グループ<sup>※2</sup>を指名し、すなわち、Dariusz Jemielniak、Nataliia Tymkiv、Esra'a Al Shafei、Kathy Collins、Shani Evenstein Sigalov の皆さんです[3]。当グループに委任される役割とは、2024年理事改選の手順において理事会の監督、同会に継続して情報を提供することです。選挙管理委員会、理事会、財団職員の役割の詳細は、こちらをご一読願います[4]。(※:1=The Board Governance Committee。2=Board Selection Working Group。)
以下に節目となる日付を示します。
* 2024年5月:立候補受付と候補者に聞きたい質問の募集
* 2024年6月:提携団体の担当者は候補者12名の名簿を作成(立候補者が15名以下の場合は行わない)[5]
* 2024年6月-8月:選挙活動の期間
* 2024年8月末/9月初旬:コミュニティの投票期間は2週間
* 2024年10月–11月:候補者名簿の 身元調査
* 2024年12月の理事会ミーティング:新しい理事が着任
2024改選の手順の段取りを見てみましょう - 詳しい日程表、立候補の手順、選挙運動のルール、有権者の要件 - これらは[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024|メタウィキのこちらのページ]]を参照してご自分のプランを立ててください。
'''選挙ボランティア'''
この2024理事改選に関与するもう一つの方法とは、'''選挙ボランティア'''をすることです。選挙ボランティアとは、選挙管理委員会とその対応するコミュニティを結ぶ橋渡しをします。自分のコミュニティが代表権(訳注:間接民主制)を駆使するように、コミュニティを投票に向かわせる存在です。当プログラムとその一員になる方法の詳細は、この[[m:Special:MyLanguage/Wikimedia Foundation elections/2024/Election Volunteers|メタウィキのページ]]をご一読ください。
草々
[[m:Special:MyLanguage/User:Pundit|Dariusz Jemielniak]](組織統治委員長、理事会改選作業グループ)
[1] https://meta.wikimedia.org/wiki/Special:MyLanguage/Wikimedia_Foundation_elections/2021/Results#Elected
[2] https://foundation.wikimedia.org/wiki/Committee:Elections_Committee_Charter
[3] https://foundation.wikimedia.org/wiki/Minutes:2023-08-15#Governance_Committee
[4] https://meta.wikimedia.org/wiki/Wikimedia_Foundation_elections_committee/Roles
[5] 改選議席4席に対する候補者数の理想は12名ですが、候補者が15名を超えると最終候補者名簿づくりが自動処理で始まり、これは提携団体の担当者に選外の候補者を決めてもらうと、漏れた1-3人の候補者に疎外されたと感じさせるかもしれず、担当者に過重な負担を押し付けないように人力で最終候補者名簿を組まないようにしてあります。<section end="announcement-content" />
[[User:MPossoupe_(WMF)|MPossoupe_(WMF)]]2024年3月12日 (火) 19:57 (UTC)
<!-- User:MPossoupe (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26349432 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ご利用のウィキは間もなく読み取り専用に切り替わります ==
<section begin="server-switch"/><div class="plainlinks">
[[:m:Special:MyLanguage/Tech/Server switch|他の言語で読む]] • [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-Tech%2FServer+switch&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]
<span class="mw-translate-fuzzy">[[foundation:|ウィキメディア財団]]ではメインと予備のデータセンターの切り替えテストを行います。</span> 災害が起こった場合でも、ウィキペディアとその他のウィキメディア・ウィキが確実にオンラインとなるようにするための措置です。
全トラフィックの切り替えは'''{{#time:n月j日|2024-03-20|ja}}'''に行います。 テストは '''[https://zonestamp.toolforge.org/{{#time:U|2024-03-20T14:00|en}} {{#time:H:i e|2024-03-20T14:00}}]''' に開始されます。
残念ながら [[mw:Special:MyLanguage/Manual:What is MediaWiki?|MediaWiki]] の技術的制約により、切り替え作業中はすべての編集を停止する必要があります。 ご不便をおかけすることをお詫びするとともに、将来的にはそれが最小限にとどめられるよう努めます。
'''閲覧は可能ですが、すべてのウィキにおいて編集ができないタイミングが短時間あります。'''
*{{#time:Y年n月j日(l)|2024-03-20|ja}}には、最大1時間ほど編集できない時間が発生します。
*この間に編集や保存を行おうとした場合、エラーメッセージが表示されます。 その間に行われた編集が失われないようには努めますが、保証することはできません。 エラーメッセージが表示された場合、通常状態に復帰するまでお待ちください。 その後、編集の保存が可能となっているはずです。 しかし念のため、保存ボタンを押す前に、行った変更のコピーをとっておくことをお勧めします。
''その他の影響'':
*バックグラウンドジョブが遅くなり、場合によっては失われることもあります。 赤リンクの更新が通常時よりも遅くなる場合があります。 特に他のページからリンクされているページを作成した場合、そのページは通常よりも「赤リンク」状態が長くなる場合があります。 長時間にわたって実行されるスクリプトは、停止しなければなりません。
* コードの実装は通常の週と同様に行う見込みです。 しかしながら、作業上の必要性に合わせ、ケースバイケースでいずれかのコードフリーズが計画時間に発生することもあります。
* [[mw:Special:MyLanguage/GitLab|GitLab]]は90分ほどの間に利用不可になります。
必要に応じてこの計画は延期されることがあります。 [[wikitech:Switch_Datacenter|wikitech.wikimedia.org で工程表を見る]]ことができます。 変更はすべて工程表で発表しますので、ご参照ください。 この件に関しては今後、さらにお知らせを掲示するかもしれません。 作業開始の30分前から、すべてのウィキで画面にバナーを表示する予定です。 '''この情報を皆さんのコミュニティで共有してください。'''</div><section end="server-switch"/>
[[user:Trizek (WMF)|Trizek (WMF)]], 2024年3月15日 (金) 00:01 (UTC)
<!-- User:Trizek (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Non-Technical_Village_Pumps_distribution_list&oldid=25636619 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== Switching to the Vector 2022 skin ==
[[File:Vector 2022 video-en.webm|thumb]]
''[[mw:Special:MyLanguage/Reading/Web/Desktop Improvements/Updates/2024-03 for Wikisource|Read this in your language]] • <span class=plainlinks>[https://mediawiki.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-Reading%2FWeb%2FDesktop+Improvements%2FUpdates%2F2024-03+for+Wikisource&language=&action=page&filter= {{Int:please-translate}}]</span> • Please tell other users about these changes''
皆さんこんにちは。私たちはウィキメディア財団ウェブチームです。以前の投稿をお読みいただいたかもしれませんが、この一年間、私たちはすべてのウィキ上での新しいデフォルトとしてベクター2022年版(Vector 2022 skin)に切り替えるにために準備を進めてきました。以前のウィキソースコミュニティとの対話により、スキンの切り替えを妨げるIndex名前空間の問題をご指摘いただいたため、この問題を解決いたしました。
3月25日にウィキソースのウィキ上で展開する予定です。
ベクター2022年版の詳細と改善点については、[https://www.mediawiki.org/wiki/Reading/Web/Desktop_Improvements/ja ドキュメント]をご覧ください。変更後、問題がある場合(ガジェットが動作しない、バグに気づいた等)は、恐れ入りますが、以下にコメントをお願いいたします。また、ご希望に応じて[[metawiki:Wikisource_Community_meetings|ウィキソースのコミュニティミーティング]]のようなイベントに私たちが参加させていただき、皆さんと直接お話しすることも可能です。いつもご協力いただき有難うございます。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。(Translation by [[利用者:JNakayama-WMF|JNakayama-WMF]])
English: Hi everyone. We are the [[mw:Special:MyLanguage/Reading/Web|Wikimedia Foundation Web team]]. As you may have read in our previous message, over the past year, we have been getting closer to switching every wiki to the Vector 2022 skin as the new default. In our previous conversations with Wikisource communities, we had identified an issue with the Index namespace that prevented switching the skin on. [[phab:T352162|This issue is now resolved]].
We are now ready to continue and will be deploying on Wikisource wikis on '''March 25th'''.
To learn more about the new skin and what improvements it introduces, please [[mw:Reading/Web/Desktop Improvements|see our documentation]]. If you have any issues with the skin after the change, if you spot any gadgets not working, or notice any bugs – please comment below! We are also open to joining events like the [[m:Wikisource Community meetings|Wikisource Community meetings]] to talk to you directly. Thank you! [[User:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]] ([[User talk:SGrabarczuk (WMF)|<span class="signature-talk">トーク</span>]]) 2024年3月18日 (月) 20:50 (UTC)
<!-- User:SGrabarczuk (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGrabarczuk_(WMF)/sandbox/MM/Varia&oldid=26416927 のリストを使用して送信したメッセージ -->
:Hello Mr.[[利用者:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]]. I speak japanese, sorry.
:JST ではすでに March 25th なので、すでに今更な気もしますが、本当に変更されるのでしょうか。返信が付かないのは、メッセージが英語だからかもしれません。すでにvecter 2022 になっている、日本語版のウィキクォート・ウィキブックスなどがありますが、フォントがすこし小さくなっていませんか。もちろんブラウザ側でズームはできますが、ウィキペディアほどには人が集まっていないウィキソースで、既定のスキンになるのは心配です。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年3月24日 (日) 18:30 (UTC)
::[[File:Accessibility for reading first iteration prod unpinned.png|thumb]]
::日本語が話せないため、機械翻訳にて失礼いたします。
::@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]さん、
::コメントありがとう。その通りだと思う。Vector 2022」のフォントサイズは少し小さめです。もっと大きくできないかチームに聞いてみます。
::それに加えて、新しい[[特別:個人設定#mw-prefsection-betafeatures|ベータ機能]]があります: "Accessibility for Reading (Vector 2022) "です。これは、3つのフォントサイズを選択できるメニューを追加するものだ:小、標準、大。小は現在のデフォルトと同じでなければならない。そうでない場合はエラーとなり、チームに修正を求めることになる。StandardとLargeは現在のデフォルトより大きくする。最終的には、標準が新しいデフォルトになるはずです。このベータ機能の目的は、ウィキ上のテキストを読みやすくすることです。
::この機能を使って「標準」のフォントサイズを選択することをお勧めしたい。どう思いますか?
::Thank you for your comment. I think you are correct. The font size in "Vector 2022" is a bit smaller. I’ll ask the team if we can increase it.
::In addition to that, there’s a new beta feature: "Accessibility for Reading (Vector 2022)”. It adds a menu with three font sizes to choose between: small, standard, and large. Small should be equal to the current default. If it’s not, then it's an error and I’ll ask the team to fix it. Standard and large should be bigger than the current default. Eventually, standard would become the new default. The goal for this beta feature is to make it easier for people to read text on wiki.
::I would like to recommend using this feature and choosing the „standard" font size. What do you think?--[[利用者:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]] ([[利用者・トーク:SGrabarczuk (WMF)|トーク]]) 2024年3月25日 (月) 13:39 (UTC)
:::いえ、申し訳ありませんが、この問題を再現することはできません。つまり、異なるスキンを比較した場合、フォントサイズは同じなのです。URLに?safemode=1を追加して([https://ja.wikisource.org/wiki/Wikisource:%E4%BA%95%E6%88%B8%E7%AB%AF?safemode=1 例])、それでも違いがあるかどうか確認していただけますか?safemode=1はカスタマイズを無効にし、問題が私たちの側にあることを確認する方法です。ありがとう!
:::No, my apologies, I’m not able to replicate the issue. I mean when I compare different skins, the font sizes are the same. Could you add ?safemode=1 to the URL (example) and check if you still see a difference? ?safemode=1 disables your customization and is the method to make sure that the problem is on our side. Thank you!--[[利用者:SGrabarczuk (WMF)|SGrabarczuk (WMF)]] ([[利用者・トーク:SGrabarczuk (WMF)|トーク]]) 2024年3月25日 (月) 15:22 (UTC)
::::Thank you for reply.
::::技術面に詳しくないので、確認してもよく解りません。ごめんなさい。ですが、おそらく技術ニュース:2024-13 に関することだと思っています。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年3月26日 (火) 03:15 (UTC)
== Invitation to join March Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We're excited to announce our upcoming Wikisource Community meeting, scheduled for '''30 March 2024, 3 PM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1711810800 check your local time]). As always, your participation is crucial to the success of our community discussions.
Similar to previous meetings, the agenda will be split into two segments. The first half will cover non-technical updates, such as events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. In the second half, we'll dive into technical updates and discussions, addressing key challenges faced by Wikisource communities.
'''New Feature: Event Registration!''' <br />
Exciting news! We're switching to a new event registration feature for our meetings. You can now register for the event through our dedicated page on Meta-wiki. Simply follow the link below to secure your spot and engage with fellow Wikisource enthusiasts:
[[:m:Event:Wikisource Community Meeting March 2024|Event Registration Page]]
'''Agenda Suggestions:''' <br />
Your input matters! Feel free to suggest any additional topics you'd like to see included in the agenda.
If you have any suggestions or would just prefer being added to the meeting the old way,
simply drop a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org'''.
Thank you for your continued dedication to Wikisource. We look forward to your active participation in our upcoming meeting.
Best regards, <br />
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== ダークモード対応 night-mode-unaware-background-color ==
* 2024年3月時点、日本語版ウィキソースではまだダークモードが実装されていないが、Lintエラーのページで「[[特別:LintErrors/night-mode-unaware-background-color]]」を確認可能。
* night-mode-unaware-background-colorエラーの抑止方法は「[[:mw:Help:Lint_errors/night-mode-unaware-background-color|night-mode-unaware-background-color]]」にあるように、背景色と文字色の同時指定。
* 2024年3月時点、テンプレートがエラー原因のものについては、暫定的にbackground指定の後に続けてcolor:inherit;を追加してエラー出力を抑止済。
* 将来ダークモードが実装されてテキスト表示に問題が起きた場合は、「insource:/back[^;]+; *color *: *inherit/」[https://ja.wikisource.org/w/index.php?search=insource%3A%2Fback%5B%5E%3B%5D%2B%3B+%2Acolor+%2A%3A+%2Ainherit%2F&title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%A4%9C%E7%B4%A2&profile=advanced&fulltext=1&ns10=1]で検索ヒットするテンプレートや「[[モジュール:Documentation/styles.css]]」のなかの文字色指定をinheritから固定色に変える必要あり。
--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年3月28日 (木) 16:53 (UTC)
== Wikimedians of Japan User Group 2024-03 ==
<div lang="en" dir="ltr" class="mw-content-ltr">
*'''全体ニュース'''
**[[:m:Universal_Code_of_Conduct/Coordinating_Committee/Election/2024/ja|ユニバーサル行動規範調整委員会の選挙]]の立候補が受付中です。(2024年4月1日(月)(UTC)まで)
*'''「Wikimedians of Japan User Group」 からのお知らせ'''
**
<div style="-moz-column-count:2; -webkit-column-count:2; column-count:2; -webkit-column-width: 400px; -moz-column-width: 400px; column-width: 400px;">
'''[[:w:ja:メインページ|日本語版ウィキペディア]]'''
*ニュース
**
*[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考|秀逸な記事の選考]]
**[[:w:ja:アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)|アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)]]が[[:w:ja:Wikipedia:秀逸な記事の選考/アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵) 20240127|選考]]を通過
*[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考|良質な記事の選考]]
**[[:w:ja:伏見天皇|伏見天皇]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/伏見天皇 20240308|選考]]を通過
**[[:w:ja:トコジラミ|トコジラミ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/トコジラミ 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:山崎蒸溜所|山崎蒸溜所]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/山崎蒸溜所 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:胞子嚢穂|胞子嚢穂]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/胞子嚢穂 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:一姫二太郎|一姫二太郎]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/一姫二太郎 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:ヴァージナルの前に座る若い女|ヴァージナルの前に座る若い女]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ヴァージナルの前に座る若い女 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:南満洲鉄道ケハ7型気動車|南満洲鉄道ケハ7型気動車]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/南満洲鉄道ケハ7型気動車 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:石狩町女子高生誘拐事件|石狩町女子高生誘拐事件]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/石狩町女子高生誘拐事件 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:天狗草紙|天狗草紙]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/天狗草紙 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:生命|生命]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/生命 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:フェンタニル|フェンタニル]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/フェンタニル 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:根拠に基づく医療|根拠に基づく医療]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/根拠に基づく医療 20240311|選考]]を通過
**[[:w:ja:PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)|PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)]]が[[:w:ja:PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)|PlayStation 4のゲームタイトル一覧 (2014年-2015年)]](2024年4月6日 (土) 07:52 (UTC)まで)
**[[:w:ja:ワリード1世|ワリード1世]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ワリード1世_20240323|選考中]](2024年4月6日 (土) 23:59 (UTC)まで)
**[[:w:ja:ラーメンズ|ラーメンズ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ラーメンズ 20240324|選考中]](2024年4月7日 (日) 01:13 (UTC)まで)
**[[:w:ja:狩野安信|狩野安信]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/狩野安信 20240327|選考中]](2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC)まで)
**[[:w:ja:チャールズ・ルイス・ティファニー|チャールズ・ルイス・ティファニー]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/チャールズ・ルイス・ティファニー 20240327|選考中]](2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC))
**[[:w:ja:シュチェパン・マリ|シュチェパン・マリ]]が[[:w:ja:Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/シュチェパン・マリ 20240327|選考中]](2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC))
*[[:w:ja:Wikipedia:月間新記事賞|月間新記事賞]]
**[[:w:ja:一姫二太郎|一姫二太郎]]
**[[:w:ja:指月布袋画賛|指月布袋画賛]]
**[[:w:ja:胞子嚢穂|胞子嚢穂]]
**[[:w:ja:ヴァージナルの前に座る若い女|ヴァージナルの前に座る若い女]]
**[[:w:ja:南満洲鉄道ケハ7型気動車|南満洲鉄道ケハ7型気動車]]
**[[:w:ja:ペプシ海軍|ペプシ海軍]]
**[[:w:ja:天狗草紙|天狗草紙]]
**[[:w:ja:石狩町女子高生誘拐事件|石狩町女子高生誘拐事件]]
</div>
<hr />
*'''前回配信:2024年2月27日'''
</div>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
配信元: '''[[:m:Wikimedians of Japan User Group|Wikimedians of Japan User Group]]''' <br />
<small>[[:m:Talk:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン|フィードバック]]。[[:m:Wikimedians of Japan User Group/メールマガジン/targets list|購読登録・削除]]。</small>
<hr style="border-top: 2px dashed #7F9AEB; border-bottom: none;">
<!-- User:Chqaz@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Wikimedians_of_Japan_User_Group/%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3/targets_list&oldid=26436809 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== 全集の収録方法について ==
[[:カテゴリ:史籍集覧]]に収録されている作品のうち、「[[武家諸法度 (元和令)]]」などはIndexファイル([[Index:Shisekisyūran17.pdf]]など)を底本としていますが、「[[太閤記]]」などは独自のテンプレートに原文のみを収録する形になっています。後者の場合、例えば今たまたま開いた「[https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E4%BA%8C#c-2 太閤記巻二 ○因幡国取鳥落城之事]」3ページ目冒頭の一文「福光樽行器看を広間にすへ並へしかは…」([https://dl.ndl.go.jp/pid/3431173/1/244 『史籍集覧』第6冊244ページ冒頭])の誤字「看」を「肴」に訂正したいと考えても、どこを訂正すればよいのかを知ることは簡単ではありません。「[[ヘルプ:Indexページ#雑誌の掲載記事と書籍の部分掲載について]]」では、「djvuファイルまたはpdfファイルを作成する場合、その号から数ページだけ公開する予定であっても、書籍や雑誌の号全体のdjvuファイルやpdfファイルを作成するよう」求めており、校訂作業の必要性を考慮しても、前者の方式に統一した方がよいと思われます。ご意見をいただければ幸いです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月20日 (土) 12:22 (UTC)
:「統一」の定義があいまい。強制性を伴う罰則規定がなければ効果は乏しい。簡単がどうかは個々人の主観に属することなので、規則変更の理由にすべきではない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 03:12 (UTC)
::前者の方法では、訂正すべき箇所を見つけた場合には、該当するページへのリンクをたどれば修正できるようになっているのに対して、後者の方法では画像を参照することしかできません。この点に問題があると思われます。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 06:06 (UTC)
:{{コ}}主観を述べると、Wikisource校正システムは中東・欧州系言語などで使う表音文字での編集が前提になっており、日本語などで使う表意文字はWebブラウザ上の編集作業にあまり向いていない。よって、日本語Wikitextは出版業界と同じように高性能なテキスト編集ソフトを使って編集作業するのが自然。公文書を除けば旧字・異体字の多い戦前の出版物しか入力できない日本語Wikisourceは、現代日本の出版業界の標準よりも難易度が高いという事実をふまえておく必要がある。Wikisource校正システムは、ただの道具・手段であって目的ではない。作業効率を下げてまで使う価値はない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 07:05 (UTC)
:{{コ}}最近行われた文字の小さなVector2022への既定外装変更から察するに、Wikisourceの開発者は日本語利用者の利便性をあまり考えていないのではないか。Wikisource校正システムも同じ病根がある。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 07:26 (UTC)
::日本語利用者の利便性は、きちんと主張しないと伝わりにくいのは確かです。しかし、だからといって校正のことは考えなくてよいということにはならないと思います。校正は、Wikisourceの信頼性を確保する上で不可欠の要素です。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 08:24 (UTC)
:::{{提案}}日本語ウィキソースには提案を書き込むと敵対や衝突とみなす文化があるので少ししか書かないが、ページ単位の校正レベルの管理は非効率なのでやめるべき。道路標識の速度制限と同じように編集者の自由裁量で校正レベルの開始位置を設定できたほうが良い。テキストは上から下への単純な一方通行なのだから、保守はさほど面倒ではない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 10:15 (UTC)
::::英語での議論になりますが、技術的な提案は https://phabricator.wikimedia.org/ で行うことができます。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 12:38 (UTC)
::::「Phabricator」での議論することに臆してしまったりするのであれば、この井戸端にも連絡してくださっている「Wikisource Community meeting」などの選択肢もあるかと思います。いずれにしろ進行は英語主体になるかと思われますが、技術的なことを話したいのであれば、直接伝えるのが良いと考えます。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 14:02 (UTC)
:{{コ}} 前者の方式を使用することに{{賛成}}します。後者となる独自のテンプレートは、[[ja:カテゴリ:特定作品のためのテンプレート|特定作品のためのテンプレート]] に含まれるものかと思われますが、内容は作品の本文にあたるものが大部分であるため、テンプレート(ひな形)として使うには汎用的ではないと考えます。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 04:37 (UTC)
:{{コ}}前者に統一するからには、「[[あたらしい憲法のはなし]]」のようにIndexを使っていない国会図書館デジタルコレクションを底本とする作品をすべてIndexを使うよう置き換えなければならないが、皆にその労力を払う覚悟があるのか。以前、機械翻訳の作品削除に関する議論の時にも感じたが、ある決定をした結果、何が起きるか、何をしなければならなくなるかについて、もっと想像力を働かせたほうが良い。入力や校正をあまりせずなぜか井戸端での議論で張り切る人に特にその辺もふまえて考えてもらいたい。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 09:28 (UTC)
:{{コ}}前者に統一すると決めた場合、決めるだけでおそらくだれもやらないので、私が既存作品のIndex利用への置き換えを拒否した場合は、作品が削除されたり私がブロックされることになるだろう。編集方法がわからないなら質問すれば良いだろうに、なぜこのような攻撃的な議論を開始したのか理解できない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 10:29 (UTC)
::コメントありがとうございます。今回取り上げさせていただいたのは、「全集の収録方法」についてのみです。これは、複数の人が編集に関わる可能性が高いことからも、ご理解いただけるものと思います。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 11:08 (UTC)
:::{{コ}}複数の人が編集に関わる競合の危険性は全集に限ったことではなく、通常の巨大サイズ作品でも同じことです。テンプレート名前空間ページにも標準名前空間ページと同じく最大2048KBのWikitextサイズ制約があるのでさほど心配しなくて良いはず。テキスト本体をテンプレート化したのは他ページでのプレビュー機能を使うためであり、Page名前空間ページ編集作業にはない機能。これがテンプレートの優位性。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 12:28 (UTC)
::::ご指摘のように競合の問題もあるかもしれませんが、差し当たっての問題は、既に述べたように、史籍集覧で複数の方式による作品が混在していること、一方の方式に校正方法に関する問題が存在することです。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 14:02 (UTC)
:::::複数の方式が混在することや校正システムを使っていないことのなにが問題なのかよくわからない。私は今後も同じ入力方法を続ける。私は有期限ブロックされたぐらいで自分の考えが変わったりはしないので、Wikisourceコミュニティが私の入力方法と共存できないのであれば、私を無期限ブロックするほかない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月25日 (木) 09:29 (UTC)
::::::{{返}} 私が問題と思うのは、P9iKC7B1SaKk さんが入力方法に、自己流を押し通そうとしていることです。「編集方法がわからないなら質問すれば良い」と仰っていますが、[[w:ja:Wikipedia:Lua#Luaについて]]で、「第三者が誰も理解できない、ということがないように」と書かれているように、校正者が作業しやすい方式にして頂きたいというものです。--[[利用者:温厚知新|温厚知新]] ([[利用者・トーク:温厚知新|トーク]]) 2024年4月26日 (金) 08:07 (UTC)
:::::::{{コ}}編集方法がわからないなら、修正要求箇所をトークなどで連絡すればよいだけのこと。そういった改善努力や話し合いをせずに一方敵に他人の編集を制限しようとするWikisourceコミュニティ住民の価値観は間違っており社会人としての常識やマナーにも反している。機械翻訳ページ削除の議論と同様、入力者と交渉することなく事務的・機械的に削除できる仕組みをつくりたがる排他的で非生産的な人は、井戸端に自分の意見を書き込むべきでない。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月26日 (金) 08:46 (UTC)
:自分流を押し通そうとしているのは@[[利用者:CES1596|CES1596]]、@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]のほうであり、また、針小棒大な論点のずらし方をしており、現在ほぼ唯一のアクティブな編集者である私を攻撃することはコミュニティそのものを疲弊させる行為であり、これ以上、議論を続けるべきではない。また、@[[利用者:温厚知新|温厚知新]]のような編集や校正をやらない無責任な外野は、井戸端に意見を書き込むのを控えるべき。 --[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月26日 (金) 09:10 (UTC)
== ja ==
重要なことなので、表現を変えてもう一度指摘しておきます。べつに[[m:削除主義|削除主義者]]の片棒を担ぐ気はさらさらありません。ウィキソース日本語版(ja ws)は「日本語(ja)の」コンテンツを扱うプロジェクトです。欧文のみコンテンツが投稿されていれば、日本語でないため、すぐに out of scope であると気づくはずです。しかし、日本国内にある日本語(ja)以外の言語には鈍感ではありませんか。ja以外の言語コンテンツは、対応する言語版に掲載します。対応する言語版が存在しなければ、[[oldwikisource:|オールドウィキソース]](ウィキメディア・インキュベータに相当するプロジェクト)に投稿します。jaの原文を収録するのが「日本語版」であって、「日本版」ではありません。tkn(徳之島語版)、ryu(琉球語版)、zh-classical(漢文版)、ja-classical(古典日本語版)、yoi(与那国語版)、xug(国頭語版)、mvi(宮古語版)などのja(日本語版)以外の言語が紛れていないか点検をお願いします。--[[利用者:Charidri|Charidri]] ([[利用者・トーク:Charidri|トーク]]) 2024年4月20日 (土) 12:58 (UTC)
:返り点は日本語独自のものであり他の言語に存在しない。他人に負担の大きい移植作業をやらさせるのではなく、自ら率先して移植作業を行い手本を示せ。隗より始めよ。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2024年4月21日 (日) 03:05 (UTC)
== Invitation to join April Wikisource Community Meeting ==
Hello fellow Wikisource enthusiasts!
We are the hosting this month’s Wikisource Community meeting on '''27 April 2024, 7 AM UTC''' ([https://zonestamp.toolforge.org/1714201200 check your local time]).
Similar to previous meetings, the agenda will be split into two segments. The first half will cover non-technical updates, such as events, conferences, proofread-a-thons, and collaborations. In the second half, we'll dive into technical updates and discussions, addressing key challenges faced by Wikisource communities.
Simply follow the link below to secure your spot and engage with fellow Wikisource enthusiasts:
[[:m:Event:Wikisource Community Meeting April 2024|Event Registration Page]]
If you have any suggestions or would just prefer being added to the meeting the old way,
simply drop a message on '''klawal-ctr@wikimedia.org'''.
Thank you for your continued dedication to Wikisource. We look forward to your active participation in our upcoming meeting.
Regards
[[:m:User:KLawal-WMF|KLawal-WMF]], [[:m:User:SWilson (WMF)|Sam Wilson (WMF)]], and [[:m:User:SGill (WMF)|Satdeep Gill (WMF)]]
<small> Sent using [[利用者:MediaWiki message delivery|MediaWiki message delivery]] ([[利用者・トーク:MediaWiki message delivery|トーク]]) 2024年4月22日 (月) 12:21 (UTC)</small>
<!-- User:KLawal-WMF@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=User:SGill_(WMF)/lists/WS_VPs&oldid=25768507 のリストを使用して送信したメッセージ -->
== 第1期U4C委員選挙の投票について ==
<section begin="announcement-content" />
:''[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – vote opens|このメッセージはメタウィキで他の言語に翻訳されています。]] [https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Translate&group=page-{{urlencode:Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024/Announcement – vote opens}}&language=&action=page&filter= {{int:please-translate}}]''
皆さん、こんにちは、
本日のお知らせは、現在、ユニバーサル行動規範調整委員会(U4C<sup>※</sup>)の選挙期間中であり、2024年5月9日が最終日である点を述べます(訳注:期日を延長)。選挙の詳細はぜひ[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Election/2024|メタウィキの選挙特設ページ]]を開いて、有権者の要件と選挙の手順をご参照ください。(※=Universal Code of Conduct Coordinating Committee。)
U4C(当委員会)はグローバルなグループとして、UCoCの公平で一貫した施行を促そうとしています。コミュニティ参加者の皆さんには過日、当委員会委員への立候補を呼びかけるお知らせを差し上げました。当委員会の詳細情報とその責務の詳細は、[[m:Special:MyLanguage/Universal Code of Conduct/Coordinating Committee/Charter|U4C 憲章]]をご一読願います。
本メッセージをご参加のコミュニティの皆さんにも共有してくだされば幸いです。
UCoC プロジェクトチーム一同になり代わり、よろしくお願いいたします。<section end="announcement-content" />
[[m:User:RamzyM (WMF)|RamzyM (WMF)]] 2024年4月25日 (木) 20:20 (UTC)
<!-- User:RamzyM (WMF)@metawiki が https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Distribution_list/Global_message_delivery&oldid=26390244 のリストを使用して送信したメッセージ -->
f5e45dujbd1atlli2p4hwyn61tbh0c9
Wikisource:GUS2Wiki
4
41693
219099
218896
2024-04-25T19:32:15Z
Alexis Jazz
28691
Updating gadget usage statistics from [[Special:GadgetUsage]] ([[phab:T121049]])
wikitext
text/x-wiki
{{#ifexist:Project:GUS2Wiki/top|{{/top}}|This page provides a historical record of [[Special:GadgetUsage]] through its page history. To get the data in CSV format, see wikitext. To customize this message or add categories, create [[/top]].}}
以下のデータはキャッシュされており、最終更新日時は 2024-04-25T09:37:53Z です。最大 {{PLURAL:5000|1|5000}} 件の結果がキャッシュされます。
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命期集/国史研究会
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| override_editor = 国史研究会(監修:[[:w:萩野由之|萩野由之]]、共編:[http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/13366.html 堀田璋左右]、[[:w:川上多助|川上多助]])
| year = 1916
| 年 = 大正五
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| edition = {{{edition|}}}
| notes = 『命期集』(めいごしゅう)は、[[:w:仙台藩|仙台藩]]祖・[[:w:伊達政宗|伊達政宗]]の晩年の言行録である。貞山公行状とも言う。著者は不明だが政宗に近侍して子・[[:w:伊達忠宗|忠宗]]に仕えた人物と考えられている。ここでは大正期に国史研究会が『命期集』の漢文を読み下しに改め仮名に漢字をあてた刊行物を底本とする。
* 底本: 『利家夜話 : 三巻,微妙公御夜話,命期集 : 一名・貞山公行状』,国史研究会,大正5. {{NDLJP|953320}}
* 目次の小見出しは底本本編の傍注から生成している。
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{{DEFAULTSORT:めいこしゆう{{{ソート識別子|}}}}}
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[[カテゴリ:日本の近世文学]]
[[カテゴリ:随筆]]
[[カテゴリ:江戸時代]]
}}<!--
{{仮題|ここから=命期集}}
{{仮題|頁=117}}
{{仮題|投錨=命期集序}}
文治五己酉の年、花山院兵衞、山蔭中納言政朝の御子藤原の朝宗公、陸奧伊達郡
に御下向なされ、夫より御當家始まり、今十七代に及ばせられ給ふ、名將の御代
に至りて、絕えて久しき御官位蒙らせ給ひ、御位三位行權中納言兼陸奧守藤原朝
臣政宗公と申し奉り、御先祖︀迄の御名を揚げさせ給ふ、武道は四方に隱なく、敵
攻むるに降り、向ふに靡き、近國の城郭悉く攻隨へさせ給ひて、其後、太閤へ御出
仕遊ばされ、御心の儘に榮え給ふ、御一世の其間、萬づ御言葉の末、常々の御容
體、折節︀には拜し奉ると雖も、賤しき身の數ならぬ心なれば、連々取失ふ事も、口
惜しく候を思ひ出し、折柄又人傳に聞きし事など少々、一書とはなしぬ、本より
鄙の住居にて、言葉の賤しき、理ふつゝかに、文字の續き、終始慥ならず、秋の月
の曉の雲に隱るゝ如く、あらまほしきは昔の代、戀しきまゝに筆を染めぬ、之を
人に見せんにこそ、言葉を玉にもなしたからん、深く隱して、古の我と親しき人
もあらば、かくありといはん、夜語の媒ともなりなん爲め計りに、書集め侍りぬ、{{nop}}
{{仮題|頁=118}}
{{仮題|投錨=命期集}}
{{仮題|投錨=政宗の武名國外に及ぶ}}
一、或時、皇寬と申す唐人の咄に曰く、某國にありし時、{{r|爰彼|こゝかしこ}}にて物心付きたる小
忰などは、誰敎ふるともなく、政宗公と聞きては、物事に恐をなし申し候、未だ幼
き子供、其母の懷に抱かれなげくを、何と慰めても、止む事なき時は、母怒りて、日
本の政宗、只今此國へ來ると云ふぞ、なげきを止めよ、泣きて取らるゝなと、制す
れば、其子則ち泣を止め、流るゝ淚を止めて、結句母に取附き、面を隱し、恐れ申
すと、古今御座なき御事かなと感じ奉る、
{{仮題|投錨=若年以来不覺の戰争は行わず}}
一、或時、貞山樣御咄に、若き年より方々合戰に、心懸けたる所へ押寄せ、存分叶
はず、引取りたる事、大方覺なし、無理なる所へも、其時の見合により押寄せ、人
數を討たせ、或は敵を出し、降參するもあり、樣々筋能き事多し、尤も自身乘𢌞
し、采配の切落つる程、かせぐ所もありと雖も、何として御身計りにて、なる事で
なし、歷々親類︀衆、其家中々々能き者︀多くあれば、我等旗本の如く、萬事を敎へら
るゝ故、是一つの賴なり、尤も諸︀侍衆の事は申すに及ばず、家中に纒立つる程の
衆下々も、我等が下知なくて、一つの樣に常々申含め、敎ふる故なり、さるに付き
て、高下共に、其心ばせを勵まぬ者︀、一人もなし、されども能き者︀稀なり、惜しき者︀
次第に失するは、我命一つ宛取除くに同じ、鐵の鎻にても、繋ぎ留めたきは、能き
武士の命なり、せめて若き者︀共に、昔の者︀の名計りも附けて遣りたきかなとて、
はら{{く}}と御落淚なされ候、其上仰には、人數を心の儘に遣ふ事、言葉に述べ難︀
し、併し善惡に構はず、我馬次第に押し𢌞し、懸開する樣に、遺ひ敎ふること肝要
なり、唯人は何事に寄らず、常々の心持に高下あり、先づ第一は二六時中、油斷の
二字を用心强く仕たるがよしと、御咄なされ候事、
{{仮題|投錨=愚鈍の者︀も亦遣ふべし}}
一、或時の御咄には、世上にて人々の召仕に、是は利根者︀、是は愚なる者︀とて分
けて、譬へば當座の牢人者︀たりといふとも、物事其主人の氣に入れば、是は利根
者︀とて遣ひ、代々の譜代たりと雖も、是は鈍なる者︀とて、退けて遣はず、尤も召
仕と雖も、品々多し、假初の口上を言付くるにも、長き事なりとも、右の利根なる
者︀には、一通り言聞かせ遣す、愚なりとて、短き事をも繰返して、間を取り敎へ遣
{{仮題|頁=119}}
ふ、實にも尤も是は面白く聞ゆれども、能く分別して見るに、一國をも持つ大將に
有る心には能き事か、下中の爲めよからんや、當座氣に合はぬ、見苦しきとて、代
代の者︀、品もなきに、押除くる事、是れ謂なし、人多くば、其身々々似合はしき心付
こそならずとも、親しき言葉をも懸け、祕藏せぬは勿體なし、或は當座の事たり
といふとも、其主人命に對する程の儀あるに、利根なる者︀計り用立ち、愚なりと目
利する者︀、用に立つまじくや、如何に愚なりとて、代々替らぬ侍が、さうまでも愚
なりと目利せんや、利根と祕藏せらるゝ者︀、臆しれて詰りては、愚になるは、疑あ
るまじくと思ひ候、身の厚くなる程、心持替るべし、能々ためして見よ、愚なりと
て、目利知らるゝ者︀は、代々を思ひなば、義理にてするも有るべし、當世にても、
何とも分り難︀きは、人によつて、日頃の意地出づるあるべし、斯樣の事、我等は下
手なり、刀・脇差、其外諸︀道具の目利とは格別なり、人を分けての目利は、無類︀の事
かな、如何に當座働すとも、代々の侍は、働く所別に有るべし、縱ひ押掠めて置
くとも、揚る所は多からん、磯に住む千鳥、浪荒しとて、山に住む事なし、如何に
手當惡しきとて、代々の侍が、主を脇にはなすまじきなり、先づ人を鈍・利根と言
ひて、分くべき者︀一人もなし、勝れたる利根者︀・勝れたる愚なる迚、今此年まで一人
も見ず、譬へば利根者︀を遣ひ付けて、其者︀なき時は、愚なりとて、遣はであるべき
か、人に餘るといふ事、あるまじき事なり、只人は其身々々の得物を能く見分け
て、言付けて見よ、何も{{仮題|左線=ゑしよく}}は、こざかしく致さん、然れば一人として、恨す
る者︀あるまじきなれば、主人の爲め、大きなる德なり、德あれば主も名を取りたる
者︀ぞ、只人を捨つるは惡しきなり、尤も是非叶はぬ事は、格別の事なり、我等など
は、心には、當座の口上云付くるにも、我等が言葉の言ひ果てぬに、返事心ある者︀
には、二度も三度も閑に返事する者︀には、一言づゝ云付くる樣に、一通り申付く
る、是にも品々多し、譬へば言葉の下より返事する者︀は、方々へ心を通はして、或
は餘さぬ樣にと思ひ、彼方此方とはづみ𢌞る故に、先へ計り行き、長き短きには
寄らず、早跡を取失ふ、さる程に二度も三度も言付くる、閑に聞く者︀は、とくと合
點する樣に言付け遣し候へば、永き事を二度申付けても、合點能くする故、其身
の分程、取𢌞すなり、まして外樣の衆など、餘り此方を恐れ過ぎ候故、形の如く言
付けたりと思へども、猶以て床しきまゝ、其人へ傳へ侍らん者︀を以て、今の品々
{{仮題|頁=120}}
は此の如きなりと、又言聞かせる、我身當座六ケしきとも、麁相に事を云ひ聞かせ
ては、其身うか{{く}}しき故、先にて用も働かず、第一は其身の爲めなり、其言付に
聞きわづらひか、又其身不合點なる事あらば、幾度も押返して、能く聞きて合點
せよ、押返し聞く程、此方は嬉しきぞ、夫を氣遣するは、此方を敬ふにもなきぞ、
恐れて惡しきなり、只人に怪我なき樣に、用も叶ふ樣に計りと、御咄なされ候、
一、或時の御咄に、人は只慇懃を絕さず、弛みなき樣に、拍子ぬけぬ樣に、何事
によらず、信にとすれば、見たる所よし、何と引出し能くとも、がさつで淺き振
舞、物事無拍子なるは、中々言葉に言ひ難︀し、若き者︀などは、火に入り水に入ると
{{仮題|投錨=若き者︀の分別立}}
云ふに、其儘受けて走り懸るを、先にて止めさする程のかんは、氣味能きぞ、若き
者︀などが分別立して、物事に佞人を遣ひ、輕き事嫌ふは、沙汰の限りなり、分別
も工夫も、用ひて所定りて有るぞ、譬へば行先に仕合など有るに、輕き者︀は其儘
走り懸るに、分別する者︀が、死所へ分別して行くべくや、それなれば主の用にも
立たず、若き者︀などは殊の外なり、或は朝夕友附合にも、一二度はよからん、三度
とならば、厭がる者︀多かるべし、只何事に寄らず、主人の好く者︀には成り難︀くと
も、心を附けよ、第一は其身の爲めなり、我等七十に及ぶけれども、何事も若き者︀
に負けじと思ふ、又年かさの入る事は別にあり、朝夕眞中計り行きては、
ものぞ、我若年の時の心、未だに失せず、人さへ許さば、今にも出たけれども、其
押は年なり、只若き者︀などは、何ぞ人に替りたる事せんと、心を持つ尤なり、若き
時は、惡事しても、許す事多し、夫故召仕小姓などに、前髮早く落したがるなど云
ふは、譬へば召仕ふにも、年行きたれども、前髮まだありと思へば、忰よりの心地
離れずして氣遣なし、同じ心にても、前髮なければ、おとなしやかに思ふにより、
早や其心持違ふぞ、第一には其身の爲めよきことには、年行きても前髮あれば、
如何なる惡事をも、若輩故ぞと許す所多し、尤もよきことすれば、未だ若輩なる
が、奇特なりと、人も譽め、取成多し、前髮なければ、夫もなし、何事に付けても、
能き事には、入り兼ぬるものなりと、御咄なされ候事、
{{仮題|投錨=武士は性質に似合はしき風儀をすべし}}
一、或時の御咄には、當世とて、老若共に髮をふた{{く}}と伊達に結ひ、帶を引下
げて、身にも合はぬ{{r|裄|ゆき}}を長く、袴はね、きすぐに刀を差し、濕り道をも草履にて行
く、是れ一つとして羨む事なし、先づ年寄りたる者︀は、似合はぬと唱へば、何とよ
{{仮題|頁=121}}
き人も、淺くなるぞ、若き者︀は、猶以て淺き事なり、まして總じて人は高下共に、
其生付の姿にて、嗜みたるこそ、一入見られたる、總別人は髮を結ひ、大小差し、
小者︀を連れ、馬に乘りたるは、皆よき人を眞似たき願なるに、よき人が步・若黨の
眞似をするは倒なり、侍の公儀所と云ふは、如何なる惡しき物にても、能く襟を
重ね、{{r|裄|ゆき}}長身に恰好して、前高々と引締め、上下著︀類︀共に、其所に違はぬ樣に、引
揚げ締めて結ひたるは見物なり、身近く仕ふる者︀などは、不斷結構なる物計りは
ならぬなれば、何なりとも、似合はしきものを、主物數寄して、襟元能く著︀たるは、
見て氣味よし、其身も淸からん、物數寄の心、少しすげなきは、きたなき心なり、日
に幾度も髮毛のそゝげたるを直し、襟元を直して奉公する者︀は、心奧深くして賴
もしきものぞ、小姓上下まても、其所猥にむさと著︀たるは、心持知れて見苦しく、
只侍は生付の姿にて、心を深くしたる事、本意ならん、似合はぬ事する人は、遊女
などの妻には能からん、侍の道はなし、生付かぬ姿に、何と取附けても、よしとは
申し難︀し、譬へば鼻なしに作鼻附けて、見よからんや、其儘にてこそ一種なり、定
めて我家中を東者︀と、世上にて笑ふべきが、此方は笑はれても眞似ぬがよしと、
仰せられし、
{{仮題|投錨=奉公人は手を淸むべし}}
一、奉公人は上下共に、手を淸むるといふ心持肝要なり、近き事には、不斷召仕
ふ小姓共、我前へ出づる時、手を淸め出づれば、髭を拔け髮を撫でよ、肩を持てと
いふに、あやぶまず、心安く用立つべし、手水を遣はざれば行當り、譬ひ爲ると雖
も、氣遣多し、何事によらず、是れ萬事に渡る儀なり、手を淸むる如くに、常に心
懸せば、何事も行當る事あるまじく、諸︀人に此心持絕えず持たせたしと、仰せら
れ候事、
{{仮題|投錨=歸宅する時の心得}}
一、或時の御咄には、人は只高下共に、萬事氣を附くる事、第一の儀なり、譬へ主
若しくは自身の用にても、外より宿へ歸る時は、供の者︀一人もあらば、屋敷前よ
り先に遺し、只今歸ると言はせよ、供なくば表に立ちて、聲にて聞かしむる樣に、
音をして入るべし、子細は、何としても、召仕ふ者︀は、其主人留守の間に、油斷し
て不行儀もあり、色々樣々多かるべき、音をして入らば、皆油斷なし、油斷なけれ
ば、內に怪我なきぞ、如何に身の上叶はぬ者︀なりとも、音なしに入りて、惡しき事
度々重りし時は如何、先づ一通りは、身の上叶はぬと聞きたる人、口にも許すべ
{{仮題|頁=122}}
し、猶ほ重る時は、曲事言はでは叶はず、さあれば我身迷惑ながらも、制せでは叶
はず、少しの事の重るに、人を失はん事、何より以て迷惑なり、我身少しの心持に、
大きなる損出づるぞ、斯樣の品々、彼方の科にてはなし、此方の仕懸にあるぞ、此
方のさするにあらずや、能く心得よと、御意なされ候事、
{{仮題|投錨=脇差の長短}}
常に仰には、脇差は是非下緖を帶に挾みたる事よきなり、昔より數度覺え
候、下緖挾まぬは、鞘まゝ脫けて、怪我したる事、幾度もあり、鞘留め能々して、下
緖帶に挾むべし、常には小脇差・中脇差の外、差すべからず、大脇差は野山にては
よし、兎角大きなる脇差は、立𢌞り候に、戶や柱に打當りて候へば、第一其身無骨
に見えて惡し、尤も何ぞ用の時も、脇差の長き短きに、不便はなきぞ、只心を永く
大きく持ち、脇差は短くして、常に見て能き樣にしたるがまし、尤も刀も其身恰
好に過ぎて、覺なくば無用、但し面々諸︀道具は、得物次第なりと、仰せられし、
{{仮題|投錨=男の命は脇差なり}}
一、或時の仰には、男の命は脇差なる間、鞘を能くして、ねた刃を附け、刃のひけ
ぬ樣に、鞘留めをして差すべきなり、主の爲めにも、我爲めにも、油斷勿體なし、さ
いさい手折などする時も常に念を入れ、能くして差せども、兎角其時は、{{r|爰彼|こゝかしこ}}に床
しきことあるものなり、されども常に念入よければ子細なし、常に無嗜ならば、
用に立ち劣るべし、總別若き者︀などの心持は、何時も一刀にて納むべしと思ふべ
からず、一刀打附け切れずば、叩き殺︀すべしと、覺悟持つべし、又當世は見てよき
流行物とて、知るも知らぬも、柄を太く長く、色々の絲卷にして差す、皆手に覺え
ぬ人眞似なり、結句若き者︀共、昔樣は柄細く、革にて卷き、見苦しと云ふげに候、
昔は物事表は構はず、朴の木柄を欺き、樫柄を好み、革よりよしとて、絲などを好
み、用立ての所計りに物好きあり、誠に當世は革の細柄にても、其身の程は結構
なり、革柄に增したる絲の柄にては、さのみ聞かず、流行物とて、手に覺えぬ人眞
似は如何、尤も絲柄にて仕合よき者︀の差したるを、眞似る事もあらん、兎角斯樣
の道具は、人眞似はせずして、面々勝手次第がまし、何事も覺ある古き者︀を、手本
と仰せられし、
一、或時の仰には、總別刀・脇差は晝夜に限らず、まして天氣などの惡しき時は、
幾度も拭ひなど、手に當てなどして、差したるが筋能きなり、人の刀に役の能しと
聞きては羨み、我刀・脇差の內、役の能き物は、身を離し難︀くして、差すべきなり、
{{仮題|頁=123}}
男の命なれば、祕藏する事尤なり、常に嗜みなきは油斷なり、{{仮題|投錨=奉公人の脇差を見る}}扨又諸︀奉公人の刀・
脇差、善惡の心懸、常に見たき物なれども、序なきにはと思ひ、外より歸る時など
は、酒心をかづけにして、諸︀人の刀・脇差見るは、嗜・無嗜を改めんなり、下々にて
は、酒の上には、例の曲事と申すべけれども、さはなきぞ、尤も似合の身上などあ
りし衆は、其役々にも拵へ差すべきが、無足なる衆・步の者︀などは道理なり、さあ
れば第一我爲めなり、夫々に拵へ取らせ、又人により褒美するが、過ぎたるは猶
以てなり、譬ひ上向は見苦しくとも、刃を嗜み持ちたるは、志深く賴もしきなり、
身に似合はぬ嗜は、曲事いふに及ばず、身近き者︀、又步者︀などは、我差刀と同前な
り、斯樣に節︀々見る事、我爲めと云ひながら、第一其身々々の爲めなり、嗜む者︀に
つれては、自ら嗜みなき者︀も、結句嗜めば、底は臆病にても、上へは見えず、一樣
なり、其心懸朝夕あれば、人もすねて、彼方此方一段と能き事多し、萬事仕懸に有
りて、只々威し掠めするは、物の仕置にてはなし、主なれば無理に恐れよ、法度を
破るな{{く}}と、押掠めする人は、後には下々癖になり、結句主なき家中の樣にな
るぞ、{{仮題|投錨=恐れらるるも主人の心懸次第}}恐れらるゝも法度を聞かするも、此方の仕懸にあり、第一手の內詰りては、
十に九つ聞くまじくと仰せられし、
一、或時の御意には、假初にも能などは、安からざる儀なり、太夫翁を懸け、總役
者︀は烏帽子著︀る事、只常の事になし、第一は我祈︀禱なれば、身を淸め行儀よくし
て、棧敷中高聲をせぬ樣に、三番・四番めまでも、能く閑にして見物せよ、其後は氣
退屈せぬやうにせよ、見る內は面白きに懸り、身の草臥も知らぬなり、能過ぎて
は、何事にても云ひ笑ひして、又草臥を忘るゝやうにせよ、總別見物可事も、草臥
直さぬ故に、重ねてある能を望まぬ心、下手なりと仰せられし、
{{仮題|投錨=饗應招請の客の心得}}
一、或時の仰には、總別人の所へ振舞などに行く事、慰と云ひながら氣遣多し、
其品樣々有り、他の人は知らず、家中にて色々有り、譬へば親類︀衆、其外一通りの
者︀の所にては、能・亂舞、其外種々慰の事多し、物事行儀正しくて、自ら座敷も終
日暮す、寺方抔にては、或は詩・連句・佛法沙汰させて聞くか、又垂示・舌戰に御し
つ論議・法文文字・梵字、其外寺の宗旨々々により、終日の慰、又<span style="display: inline-block; border: solid 1px"> </span>者︀などの所に
ては、能・亂舞などは恰好せぬなれば、我は其日の慰を企て、心安くして遊び、或は
亭主上戶ならば、早く沈醉させ、其後、一座どつと云ひて立つか、又下戶ならば、
{{仮題|頁=124}}
相伴衆の者︀、さては供の內にて、早く醉はせ、座興を持たせ、終日暮し、又別して
取立の者︀などの所にては、相伴衆・供の衆まて、心安さ者︀ども召連れ、打解けて內
外の氣遣はぬ爲めなり、下よりも上を進め、其日の暮るゝも知らぬ樣に、我心次
第に慰む事、誠に以ての儀なり、所詮人の所にて、座敷の仕舞はぬ間の苦勞、中々
譬ふべき事なし、兎角人に約束しては、三日は氣遣あり、先づ前の日は、明日の振
舞には、如何樣の事あらん、座敷は何としてかよからんや、亭主心懸の心底聞屆
け、其如くにせんと思ひ、其日になれば、右の品々に氣遣多し、尤も座敷計りにな
きぞ、供の諸︀侍、下々小者︀までも、亭主の方にも、怪我なきやうにと思ひ、節︀々心
を附け、一日を暮し、上下滯なく、我も機嫌能くして城へ歸りたる時こそ、目出た
しと思へ、されども其夜より次の日迄は、此程打續き、亭主方皆々草臥れ候に、隙
明くとて油斷して、火事などもあやうく氣遣はし、尤も油斷なきやうにと、人を
遣し、又其人に傳へ遣す者︀を以て申付け、三日は色々氣遣多し、三日過ぎて心安
堵すと、仰せられしなり、
{{仮題|投錨=鷹狩を行ふ趣意}}
一、或時の御意に、我等在國の時、鷹野・川狩に節︀々出で候事、定めて下々にては、
色々取沙汰能く申すまじく、去り乍ら分別して見よ、左樣に申す人を引詰め召仕
ひ、其上休息の爲め、暇取らせ、心のまゝにせよと云はゞ、朝夕內に居、寢て計り
あるべきか、隨身の慰はせん、其如く、我等も上より大國を拜領申し、國の主人と
仰がれても、憂き事は多し、されども世上にある習なれば、在江戶して狭き屋敷
に氣詰して一年を暮し、重ねて國へ下りては、一日も內に居まじくと思へども、
夫は叶はぬ事、又節︀々出づるに品々多し、國の仕置抔する程の者︀が、城に計り居
るならば、諸︀奉公人高下共に、奉公の善惡も知れまじく、結句迷惑する者︀多かる
べし、直に出でゝ、人の善惡、其所々の習はし、民百姓の樣子見ん爲め、又明日にも
何事ともいはんには、我馬の𢌞り侍中、少しは習はしにも聊かならん、我が出度
しと云はゞ、一年江戶京の年詰の所を思ひ出し、こはしとも供をもせよ、次には、
早や我七十に及びぬれば先近し、彼是能く思合せて、奉公も能くし、時々の供を
もして、慰めて吳れよ、我年寄なれば、明日をも知らず、亡き跡にて思ひ出でゝ、
斯くはあるまじきものを、斯うはすまじきものと、語り出しても、用に立たぬぞ
かし、心を我年に早く引合せ思へと、仰せられしなり、{{nop}}
{{仮題|頁=125}}
{{仮題|投錨=具足小旗に對する昔年の追想}}
一、二月初卯、御具足御飾なされ御覽じて、御咄には、我等若きより、具足に取育
てられしが、今頃日は弓を袋に、劒を箱に納むる御代なれば、たま{{く}}斯樣に見
るに、一入珍しく、其面影は昔戀しきなり、願はくは馬にも未だ捧げ乘せぬ時、之
を肩に懸け、老の思出に一軍望むなり、未だ君も御若く候へば、甲斐々々しくは
なくとも、君をも取替へ奉り、我子をも取替へ見たき事、是のみ願なり、徒に年月
の積る事口惜しけり、最早此具足も、此儘にてこそと仰せられ、はら{{く}}と御淚を
流させ給ふ、暫しありて、御小旗を御覽じ、仰せられしは、此日の丸に付いて物語
あり、昔さる所にて合戰の折節︀に、敵は西の方に夥しき人數にて陣を備へ、大將
の小旗も日の丸なり、我等は俄の儀なれば、方々押に人數を遣す、僅か旗本計り
にて向ひ、東の原に馬を休めけるに、家老ども我等が馬を取𢌞し申しけるは、今
日は敵の人數に御味方を見合せ申すに、誠に十人・一人も、猶ほ足り申すまじく候、
あの松原に見え申す谷、夥しく御座候、況や山の蔭・森の內には、如何程人數の御
座候も、計り難︀く存じ候間、先づ今日は、此近所の然るべき所へ、御馬を入れられ、
御味方の隙明き次第、駈付け申す御人數を以て、勝軍なされ候方と、口を揃へ申
す時、我等挨拶には、尤なり、去乍ら、我れ今日まで馬を出して、敵大勢とて恐れ
て引きたる事なし、されば小勢を侮︀らざれと云へり、俄の儀なれば、旗本計りに
て出でたるなり、されば爰を{{r|除|の}}きなば、敵に氣を取られなん、兎角の事、我等乘
𢌞し、敵の樣子一見すべし、皆々鷹を遣ふ如くに、味方の人數を敵に見せて、入ら
ざる樣に云ひて、馬乘出し、敵近く乘り寄せ、懇に見て、本の陣へ歸り、家老ども
を呼び集め、鷹の如くに、味方を隱したるはと云ひければ、隨分鷹の如く隱した
り、只今に押懸け申し候はゞ、小頭をばはづし申すまじと云ひて、どつと笑ふ、我
等が曰く、皆々聞き候へ、一段と能き吉左右あり、敵は大將も日の丸の小旗なる
が、西の山に立ちたるは早や入日なり、我日の丸は、出づる日にてはなきか、今日
勝利疑なしと云ひければ、皆尤と云ふより、馬を敵に引向け、出づる日に附けと
て、乘出しければ、諸︀人殊に勇み懸りける程に、思ひの外なる敵を追崩し、多くの
人數を討取りけると仰せられし、
{{仮題|投錨=物數寄の本意}}
一、或時の仰に、總別人每に皆々物數寄をする事多し、其物數寄を見るに、さの
み恨むる事なし、人に勝れたしとするにより、當座は能き樣にして、頓て主も飽
{{仮題|頁=126}}
き、人も二度と見ず、只人のする中にて、面白くするぞ、物數寄の本意なり、所詮
人に勝れたしと致すは、心下手故と、仰せられし、
{{仮題|投錨=諸︀人料理の心得あるを要す}}
一、或時の仰には、人は只朝夕高下に寄らず、獻立は是非好みたる事よし、心に
も時にも相違の食物して、よかるべきか、不斷の養生心懸なきは、沙汰の限りな
り、少し又料理の心なきは、高下に寄らず、賤しき者︀と御笑ひなされ候、總じて客
を呼ぶに、何ぞ一色、成程念を入るれば、今日の振舞、是れ計り御馳走にて御座候
と申すは、亭主第一の料理の心得なり、名物珍らしき物にても、沙汰もなく出せ
ば、出す物なりと、ひた出しに出したるにてもなきぞ、是は高下共に、此心持去れ
ば不料理、又詰り取合惡しくして、時により、客蟲とも言はゞ、氣遣如何せんと、
仰せられし、
{{仮題|投錨=伏見城數寄屋の饗應}}
一、或時の仰に、太閤伏見に御座なされ候時、御城の內に、御學文所と御名附、御
座敷相建てられ、其御殿の四方の角々に、御數寄屋を御附け、東西の諸︀大名衆へ
御茶下され候時、亭主四人、所謂太閤・家康公・加賀利家・我等なり、太閤も、尤も殘
る三人も、能き葛籠一つ宛持たせて、手づから床など取り、四人枕を竝べ、夜もす
がら種々樣々昔物語などなされ慰み申す、扨四つの御數寄をも、四人圖取になさ
れ請取々々の所、掃除以下、尤も勝手料理の間も、其所々々に相附けられし故、料
理なども互に隱し合ひ候て、樣々に仕り候、客は誰々とも、一圓知り申さず候所に、
其あした俄に佐竹義信・淺野彈正・加藤故肥後・上杉彈正大夫にて、中違の衆中計
り、客に仰付けられし間、何とか手替りなる事致し度くと思ひ候へども、俄なれば
成り兼ね候、折節︀摘菜の時分にて候間、御汁摘菜計り仕り、成程々々沸し返し沸し
返し、熱くして出し候故、暫し置きて汁冷めず、迷惑する所へ、早く御汁を替に出し
候故、何れも中々一口もならで出し候を、又右の如くして相出す、間もなく盃酒出
し候故、始より終まで、迷惑致され候、扨四箇所の角過ぎて、御學文所へ四人の亭
主寄合ひ申し、面々其日の亭主の仕方、段々咄し候に、我等が咄に、今日の客、皆々
一段の日頃の知音故、何をがな馳走申し候はむと存じ候へども、罷成らず、折節︀摘
菜御汁に致し、成程熱く仕出し候へば、初口に怪我仕り候哉、暫しは箸唇を抱へ、舌
打を仕り罷在り候と、御物語申上げ候へば、太閤、扨も{{く}}したり{{く}}と、[{{仮題|分注=1|其ノ一|字脫カ}}]
日の亭主の內、是れ古參なりとて、二三度躍上り、御腹を抱へさせ候故、伺候の諸︀
{{仮題|頁=127}}
人、御座敷に居兼ね、腹を抱へ、共に大笑申し候、扨其末に、明日の客の御相談申し
候、斯樣に太閤の遊したる事、天下の諸︀大名、組合せ{{く}}相加へられしは、中絕の
者︀を、自ら御直し候はむとの奧意とは、後に存じ知られしと、仰せられし、
{{仮題|投錨=政宗家康互に鷹場を犯す}}
一、或時の仰には、家康公天下の御時、上の御鷹場と、我等鷹場の境まで、鷹遣ひ
𢌞し出で候へども、勝負思ふ樣になく、上の御鷹場へ皆々逃げ行き候間、御鷹場へ
暮に入りて、鳥三つ・四つ合せて、其上、鶴︀を合せ取飼︀ひ候時、我等鷹場の方より、
大勢にて鷹遣見え候間、不審に思ひ候所に、上樣にて御座候間、あわて驚き、鷹の
鳥を隱し、逃げ候へども、家康公も御馬を早め、から堀の中へ召入り、馬人共に御
下知にて、皆々堀の中へ御呼入れなされ、堀にかゞまり、急ぎて除かせられし、我
等思ふは、御出の先に、鳥こそ有りて、御隱れあるらん、彌〻竹林にかゞまり、隱れ
逃げて、其後江戶へ御歸の上、出仕申し候へば、家康公御咄には、貴所の鷹場へ、
去る頃、盜に入り候へども、貴所の姿を見付け、一代になきから堀にかゞまり逃げ
候、斯く降參の上は、許し給へと、御咄なされ候間、我等申上げ候は、扨は左樣に
御座候や、早く見付け申し候はゞ捕へ申し、是非々々曲事に申上ぐべきものを、
去り乍ら其日は、拙者︀も御鷹場へ盜に入り申し候て、御通りを見付け申し、あわ
て逃げ除き申し候へば、家康公大きに御笑なされ、扨は左樣の事ありしや、今思
ひ候へば、貴所も竹林の蔭に隱れ居られし間、氣を附けてこそ隱れたるらんと思
ひ、猶々急ぎ息をもつき合せず、逃げたり、其時、互に知合ひたらば、逃げながら
も息をばつかんものをとて、此事兩方に科ありとて、どつと御笑ひなされ候故、
御前伺候の衆、皆々腹を抱へ申し候と仰せられし、
{{仮題|投錨=長命の術}}
一、或時の仰には、昔長命なるもの二人ありしを召出し、何事も覺あるやと尋ね
ければ、一人が云ひしは、某是かと存ずる儀は、先づ朝に似合はしき飯︀を、心の儘
に下され、其上に湯を呑加減に仕り、澤山給はり、晩までも何をも給べ申さず居
り候へば、心一段と能く御座候、尤も晩も右の如くに致し、臥し候へば、長夜も辨
へず、以してよく御座候由申す、又一人は、別して覺御座なく候、されども食物に
は晝夜に限らず、幾度も下され度しと存じ候時、少し宛も下され、いやと存じ候
時は、取向き候ても下されず差置き、心の儘に食仕り候て、長命にも候やと申し
候由、御咄申上げ候、{{nop}}
{{仮題|頁=128}}
一、或時の仰には、我れ野山川狩、下々へ振舞、萬事に寄らず、他へ出で候時、自
身曆にて其日を定め、供の衆をば日記にて點懸け、四五日前より觸れさする事、
夫に至らぬ者︀共は、何ぞ六つかしき事するや、番に定めて連れぬと、申しはんべ
らん、其儀にあらず、同じ召連れらるゝにも、番とあれば子細なし、點など懸け、
其時々に召連れてこそ、諸︀人への情なれ、召連れらるゝ者︀共も、番にして供する
よりは嬉しからん、四五日前より觸さする事、是れ以て心附あり、似合々々に用
のなき事はなきものなれば、觸の日內に居合せずとも、居たるやうにもてなし、
其日間に合ひ、供の日用立つ者︀は、其前後にするなれば、一人として怪我なし、尤
も煩の者︀など多ければ、差替るに日前あればよし、萬事に怪我なき樣に、我も事
の闕けぬ樣にと計り、朝夕の心持なりと仰せられし、
{{仮題|投錨=言葉の使ひ樣}}
一、或時の仰に、人は假初にも高下分くる事なかれ、一座の內に二人あらば、能
き人をば其通りに、さがりの者︀をもてなせ、是れ萬事に渡る心持なり、次に又人
人の口癖に、面白き言葉仕ふ、此以前、跡に斯樣の事御座候などと言ふ事、右に斯樣
の事御座候などといふ事、是れ以て謂なし、右と云ふ事は、譬へば札其外書物な
どに、何々と書立て、其末に右條々と書くものなり、言葉に右といふ事、謂なし、
所詮人は申すとも、我下中にて、右といふ言葉と、冥加もなきと、御念の御使とい
ふ事は、益なき事なり、冥加なくんば能からんや、御念の御使と云ふ事、御念を入
れられたるがよし、唯御念の御使とは、聞えぬ言葉なり、此通りの言葉、申すに於
ては、誰によらず、曲事申付けんと仰せられ、御腹立ち遊ばされ候事、
{{仮題|投錨=目付横目の無用}}
一、或時の仰には、今の世上にて、目付・横目と名附け、諸︀侍に迷惑させ、然も能
き事は少く、惡しきは多し、我れ若年より、目付・橫目といふ事、今に附くべしと
も思はず、物事の仕置、目付・橫目を附けて威し、法度を聞かせんとする、きたな
き心なり、目付・横目を附くる事は、能き事・惡しき事も聞きて、法度せん爲めなる
べし、能き事見立て聞立て、いはん{{く}}とするに、惡しき事多し、吿ぐる程にて
は、沙汰なしにはあらず、惡しき者︀も、左樣にする所にては、其者︀の前をば凌ぎ、
蔭々にては、如何程惡事する者︀なり、能き事は百に一つも取上ぐまじく、さあら
ば惡しき者︀失する事なし、如何に目付・橫目附け候ても、思寄らざる者︀、夫にて思
寄る事あるまじく、法度聞け{{く}}と云ふとも、無理には聞くまじく、目付・橫目も
{{仮題|頁=129}}
皆々此方の心にあり、代々限らぬ者︀共は、何よりも祕藏なるに、左樣に心を置い
て、無慈悲なる事、我等はいやなり、橫目をば附けねど、今まで事を闕きたる事な
し、見事に善惡も知りて、能く居ると仰せられし、
一、或時、若林の御城南の方川缺、御普請過ぎて、御咄に、此程年月の水に橋を痛
め、無益の所に思ひ、普請せばやと思へども、人民の費と思ひ煩ひありしに、さる
事ありと思ひ、總侍を賴むべし、尤も我普請場へ、小人の者︀少々差置き、先づ一日
出て、總侍にも精︀を出させよと申付け、致させ見候へども、頃は八月末、世の中一
入寒くして、若き者︀共暫くも居る事成り兼ね候程、水冷え候折節︀なれば、普請、中
中五日・十日の內に出來すべしとも見えず候まゝ、次の日普請と相定め、其日は
日高に各宿所へ歸し、明日は思々に出立ち罷出てよと云ひければ、皆々其意に任
せて、其日朝より人を附けて、普請は如何と問へば、大川の水先を𢌞す事なれば、
中々成り兼ね候樣申し候間、則ち出でゝ、普請場にて貝を吹かせ、諸︀人を勇め候
へども、寒さは寒し、水は堰き留むるに隨ひ騒ぐ、中々諸︀人勇み兼ね候間、詮ずる
所、爰にありと思ひ出し、南次郞吉と云ふ小姓を相手にして、いかにも、むさと{{r|畚|もつこ}}
{{仮題|投錨=政宗自ら土砂を運びて工事を督勵}}
に土を入れ、各、勇めや{{く}}、我等も自身に土を持つ、此有樣を見よとて、六七度
かたげ候へば、下々は申すに及ばず、諸︀侍、其外普請場見物の町人、在々の者︀、川
邊に居る者︀共までも、自ら立ち、一度に喚き叫んで精︀を出し、上を下へと返し、土
砂樽何に寄らず、手に當るを幸と持寄り{{く}}、水を堰き留め候故、左計りの川を、
只暫時が內に築留め、普請極り候、是れ然し乍ら、我等一人の謀にあり、斯樣の事
に付いても、昔なつかしきなり、扨々我家中ながら、諸︀人の心持も一同し、氣味能
きなりと仰せられし、
{{仮題|投錨=奉公人に對する態度}}
一、第一諸︀人に御慈悲深く渡らせられ、物事に怪我致さぬ樣に、御奉公も自ら進
み候樣にと計りの御仕懸に御座候、他家などにては、鬼神︀抔の如く存ずる樣に候
へども、終に御面體惡しき事も御座なく、幼き者︀の如く、面々を不便に思召せば、
晝夜御奉公申すにも、露計りも退屈申す事もなく、御用足し申すにも、恐しきと
存知候事、聊かもなし、如何樣にがなと、御奉公仕らんと、諸︀人の心一つにして、
父母につるゝ如く、心緩かに勇しく候、御前に何れも詰め居り候へども、面々夫
夫に御座仰せられ、興を催し遊され、又は夫々の奉公人善惡を御沙汰おはしまし
{{仮題|頁=130}}
て、知行・御扶持方・御切米・金銀・諸︀道具によらず、分限似合に、其時々に下され、御
褒美なされ候へば、我も{{く}}と勇み進み申す事限なし、或は御前に、人より久し
く詰め候へども、最早氣詰り候はむ間、次へ立ち心慰め、又參りて詰めよと仰せ
らる、又多き中に、一人も御奉公如在申し、御前を遠かる者︀をば、其親類︀方へ其
身品々仰下され、異見をも云ひて、奉公致させよ、其身々々の爲めなるぞ、我は
人に事闕くことなしと仰せらる、又當座の煩はしき體にて詰め候へば、養生致せ
とか、休息致せとか、殊に役人抔は、彌〻氣詰るものなればとて、夫々に煩はぬや
うに、氣をも取延ぶるやうにと、鳥類︀・畜類︀に限らず、時々に仰下され、前廉に養
生致せと仰せらる、何としても、奉公人の煩は、其身の爲めに大きなる敵なりと、
御勞り至つて强く遊され、若しくは强く煩ふ體なれば、則ち醫師衆仰付けられ、
其煩の品々、何者︀にても、直々聞召屆けられ、如何樣にも{{く}}と、末々の者︀まで
御念を入れさせられ候故、如何なる御用がなと、火の中・水の底にもと、各一心に
存じ入り、御奉公仕り、御意にも入り、外樣は御近くも成らんと、朝夕小者︀まで
も、勇み悅ぶ事計りなり、されば其如く能き者︀はよく、惡しき者︀をも御引立て、萬
人を御直に御沙汰なし下され候、聊かも下より贔屓無理なる取立を聞召入れら
れず、賤しき賤山がつにも、扨々と存じ候程の有難︀き御言葉下され、高きを以て、
よしとなされず、賤しきを捨て給はず、人を以て御目利なされ候へば、諸︀人の心
二つなく仰ぎ奉る事少からず、扨又何ぞ御心に障り、御氣色など惡しき時は、殿
中庭上の者︀迄も、手に汗を握り、息も荒くつき得ず、震ひわなゝき、寒中の如し、御
前なる人は彌〻恐れ、疊の內へも入りたき思ひ、上下手足も身に附かず、誰知らす
ともなく、諸︀奉公人衆の宿へも、其儘聞かす、其引き{{く}}に見舞床しくとて、宿所
の妻子より使立つ、斯樣の御機嫌の時、何ぞ御用に寄らず、御前の立𢌞りする人、
自らうろつき申し候へば、其にて御諚には、我れ機嫌惡しきとて、科なきに、何と
て腹を立てやせん、恐しとてうろつき候へば、自ら仕損じ出づるぞ、さあらば汝
等も叱られ、我腹立もやむ事なし、心を靜め、科なきと思ひ、心安く怪我せぬやう
に、奉公致させよと有りて、何にても、やゝ暫し人の心も靜まる程、昔今の御物語
遊され、自ら御機嫌も直り、諸︀人も又心を直し、御身と御身の御機嫌御直しなさ
れ候故、又新しき諸︀人御奉公仕り、右の御叱受け申す者︀、兼ねて油斷なく御奉公
{{仮題|頁=131}}
仕る者︀なれば、日頃の御奉公仕り候、依りて此度の違は御免︀なされ候ぞ、以後は
嗜み候へと、仰付けられ候か、又其身、左程御奉公仕らざる者︀に候へば、親兄弟{{r|好|いしみ}}
の者︀、能く御奉公仕たる者︀、夫へ此度は、御免︀なされ候とあり、又牢人衆なれば、
新規の衆に御免︀なされ候ぞと、品を御立て御免︀なされ候、尤も召出され候へど
も、御前を恐れ、則ち御目見申す樣に仕り候へば、何ぞ御序に其品々御尋ね、其者︀
御前に召出され、此通り{{く}}惡しき儀なりと、又仰せられ、以來嗜み御奉公仕候
へと、仰出され候て、次の日抔より、先づ忰業の御用、一二度も御試めさせ、夫よ
り何となく、本の如くに召仕はれ、御免︀なされ候間、譬ひ如何なる儀にても、{{r|縦|つひ}}に
重ねて繰返し仰出さるゝ事なく、其儘跡をもさつと御忘れなされ候故、萬事の善
惡、正しくおはします故、諸︀侍上下共に、如何なる事もあれかし、御用にも立ち、
御奉公申したしと、我れ勝に身を惜まぬ氣色、類︀稀なる御仕懸と、紅の淚を押へ、
有難︀しと存じ奉り候御事、
一、御座の間へは、御身近き衆外參らず、諸︀人の申唱には、奧方へ召出され候は、
十二三四の子供、善し惡しき、御目利なされ、召仕はれ候、如何なる六かしき事、
之あり候とも、色々穿鑿仕り、首尾を合せ申し候、或時御意には、昔より今に至る
まで、忰を絕えず取立て召仕ひ候が、初めは六かしけれども、心附いては能き者︀な
り、第一正直を祕藏するなり、尤もわやく者︀は殊の外なり、總じて忰の方は、罪な
るは、理もなき所にて、すね𢌞り、多きはわやくなり、次第に上方へ行く程、忰惡
く利發にて、小遣にならぬなり、又奧方は名の附かぬ所、重寶なりと、御笑ひなさ
れ候事、
一、諸︀人に御用仰付けられ候に、如何樣なる衆にも、夫々に慇懃に遊し候、尤も
御返事申上げ候にも、誰人申上げ候とも、夫々に御挨拶遊され候、世間の主從と
は格別なり、終に仰付けられ候にも、申上げ候にも、聊かも賤しげなく仰付けられ
候、忰まで御慇懃を肝要と遊し、又下々より申上げ候言葉の內に、賤しげに御聞え
{{仮題|投錨=總別おの字を附けて申すものぞ}}
惡しき事抔は、則ち其品御敎へ、左樣には申さぬ物ぞと、柔かに御敎へ、總じて物
事におの字を附けて申すものなりと、常々仰付けられ、忘れてもおの字を附け申
さず候へば、御叱り、苟且のもの申すとも、尋常を本となしたるぞよけれ、おの字
を附くる事、主從高下の差別を知らせん爲めなり、主人の物をも、何々にといひ、
{{仮題|頁=132}}
自分の事にも、何々というては、上下の隔はなし、唯一字なれども、肝要の言葉
ぞ、能々嗜み候へ{{仮題|編注=1|は|衍カ}}は心さへ知れて淺ましき事なりと、御諚なされ候事、
一、外より御歸城の刻は、御廣間より段々に奧まで、御番所々々々に御休み、當
番の面々一人宛、苗字を相尋ねられ候、面を聢と御存知なき者︀は召出され、委し
く樣子をも、直々尋ねさせられ候、其上一人宛面々に、御諚なされ候は、皆々生れ
替り、又は大勢なれば、苗字を見覺えて、見忘れし事多し、皆々親・祖︀父代には、世
間物騒しき折柄なれば、陣中の働に、何れ勝劣もなかりしぞと仰せられ、何方に
{{仮題|投錨=子弟の奮勵を鼓舞す}}
て討死したる誰某は、斯樣なる手柄致し、又何方にて討死、或は病死したり抔と、
面々の親・祖︀父の事御くどき、此者︀共の子孫なれば、何れも賴もしく、用にも立つ
べき面々なり、明日に不慮の儀出で、我等世に有る內ならば、昔の覺には、方々に
力を附け、一手柄致させ、父祖︀の名を彌〻揚げさせ、我等も老後の思出、面々親共
の名をよごさせぬやうに、若者︀共心懸けよ、今世穩かなれば、汝等が心中は知ら
ねども、昔の者︀共を思出せば、何れも愚なきぞ、されば其折は、身近き者︀は云ふに
及ばず、親類︀中、其外又者︀の分にも、誰が家中には誰々と、大方知らぬはなかりし
なり、定めて其者︀共の孫や子抔あらんとは思へば、是れ以て家中々々も賴もしく
思ふ、今袴の上にての奉公は、安き事なり、只侍は奉公肝要なり、朝夕忠孝の道を
勵せば、天道に叶ひ、名をも揚ぐるものぞと仰せられ、御入りなされて、定めて遠
路に屋敷持ちたる者︀あらんとて、寒き折は、寒夜一入大儀とありて、時の御小姓
頭を代官として、御酒を暖め下さる、又暑︀氣の折柄は、酒を冷し、御番中に一度宛
必ず下され候故、皆思付き申し、如何樣の御奉公かなと、命を{{r|塵芥|ちりあくた}}とも存ぜず、我
劣らじと、忠義を勵し候事ども、有難︀き御仕懸なり、
{{仮題|投錨=旅中の作法}}
一、御作法いつも替らせられず、譬へば江戶・京御登は申すに及ばず、假初の御
野山、假にも御{{r|草鞋|わらんぢ}}召され、細繩に中結を聢と遊さる、御業物の內にて、脫か
せられず、何事も昔を御忘れなきが習はしと、感じ奉り候御事なり、御馬に召さ
せられては、御笠を脫かせられぬものと、思召し候か、晝夜・夏冬迚も、御笠召させ
られ候、又第一の御嗜には、御乘物にても御馬にても、路次の折𢌞し、或は山の
上・坂の下にても、終に御跡を御覽なされ候事御座なく候、長旅行又假初の御出
馬にも、二十騎、其下に際限なき御供衆にて、朝より晩までの御道すがらにも、御
{{仮題|頁=133}}
若き時より、御跡御覽なされ候事、御座なく候、さりとは御名譽の御事なり、誠に
名大將は、斯樣に替らせらるゝ物かなと、申唱へ候、又何方へ御出の砌、道中に
ても、雪・雨は勿論、炎天の時分抔は、御供衆御馬𢌞・御步衆迄に、笠御免︀なされ候
て、御國・他國にても、町入々々には、笠脫ぎ候へと仰せられ、町離れ路次の間御
免︀なり、其故は、町々には、諸︀國の者︀も有るなれば、人口も如何との御事なり、又
日に幾度も水を召上られ候に、よき水御座候時は、御徒衆を以て、御供中仰下さ
れ、能き水に候間、何れも下され、下々にも給べさせ、馬の口をも洗はせ候へと仰
せらる、如何なる御急ぎの路次にも、其所に御馬を立てさせられ、下々小者︀まで、
水を下され、息を御つかせなされ候て、御馬を召させられ候、總じて幾度御馬に
召させ候ても、年德の方へ、御馬の頭を向けさせられ候樣になされ、御自身御手
綱を御結び、細き御手綱にで、御馬を召させられ候、是迚も、軍陣の御作法を、思
召し遊され候、皆人有難︀く存じ奉り候、
一、第一御心まめやかにおはしまし候故、聊かの間も、むさと御入りなされ候事
も御座なく、朝より夕に及ぶまで、入替り{{く}}御用申上げ、御自らも仰付けられ、
其間には御硯を離させられず、色々遊し、或は御書物を御覽なされ、詩歌文字の
御穿鑿か、又春雨のしづやかなるより、五月雨の哀を催し、秋の時雨に音さびし
{{仮題|投錨=竹を割るを好む}}
く、御徒然のつれ{{ぐ}}には、竹を伐り寄せ給ひ、御自身御割り、御前にて色々に御
削りなされ、御心慰み遊され候、扨御意にも、雨中の折柄、心を晴︀れやらず、まし
て用もなき時は、竹を割りたる程の事なし、如何なる名醫の藥にも增したり、唐
の白樂天・晋の七賢が竹を愛したるには事替り、割りたる心地、能きなり、世間に
勞療など云ふ病者︀には、竹を割らせば、取直すべきとて、御笑なされ候、總じて人
に替らせられ、御若き時より、終に横にならせらるゝ事、假初にも御座なく候、此
頃は我も拜し申し候が、稀に御晝寢遊され候にも、夜の如く、御床取らせられ、夜
の御行儀に、御寢遊され候、若しくは柱や壁抔に御寄懸り遊され候外、覺え申さ
ず候、御膳抔も朝夕の外、御菓子の類︀にても、晝程抔召上られ候例{{r|之|ためし}}なく候、夏は
申すに及ばず、冬も水を幾度も召上られ候、如何程寒き折柄も、御小袖三つ程、召
させられ候事、御座なく候、尤も御頭巾、終に召したる事、之なく候、御炬燵なさ
れ候も、御向をば御蒲團御明けさせ、御手計り御暖めなされ、冬も御裸に節︀々御
{{仮題|頁=134}}
成り、夏はひたすら水の內にて、御暮しなされ候程御座候、或時御意には、我れ若
かりし時より、夏抔の病氣の折柄は、川狩をして、水遊にて快氣する事度々なり、
誠にいつもと言ひながら、取分夏の慰は、水邊程面白き事なし、されば鵜飼︀の謠
にも、島巢をおろし、あら鵜共、皆々魚を被き揚げ、すくひ揚げ、隙なく魚を喰ふ
時は、罪も報も後の世も忘れ果て、面白やとは、實にもさあらんと覺ゆるとて、御
笑ひなされ候、殊に釣は他念なきものなり、太公望や其外昔賢人と言はれし者︀、
多くは海︀川の邊にて、約せしと言ふも、理なり、心の{{r|澆淇|にごりす}}み渡も、一入面白からん
と仰せられし、
一、第一には御用仰付けられ、又下々の申上ぐる事は、申すに及ばず、御國・他家
の人によらず、御目見得申上げ、一度顏を御覽遊され候へば、御忘れ遊され候事
は、十に一つのことにて、慥に名字御覺なされ候、御名譽の御事と感じ奉り候、又
は下々にて、歷然の越度御座候に、定めて嚴しく御穿鑿にて、糺明進退にも及ぶ
べしと、存ずる儀をも、誰ぞ御取成し、又誰を以て陳じ申せば、則ち其儀に任せら
れ、御疑の御心、少しも御座なく候樣に見え申し候、是とても、人々怪我なき樣に
{{仮題|投錨=諸︀氏の處罰を熟慮す}}
と、思召しての事なり、譬へば土民百姓等に至るまで、御自身仰付けられず、叶は
ざる御用なれば、諸︀奉行衆其座に差置かれ、御閑所へ入らせられ、はる{{ぐ}}御獨
言を仰せられ、以ての外に御苦勞の御樣子にて、御分別遊され、御自筆にて諸︀奉
行衆へ、何れの道宜しからんと存ずる、吟味仕り候へと、仰下され候、其座にて御
落居なく、御閑所へ入らせられ、御分別遊され候て、如何樣にも申分立てさせら、
れ、苦しからざる事と、諸︀人も存ずる儀は、身命相助けられ、科代に牢舍とあり、
如何樣にも憐を思召し、手をかざさせられ、能く大義なる事より外は、命抔御取
りなされ候事御座なく候、何事にても、物の相濟み申し候は、御閑所にて善惡落
居仕り候事、
一、御在江戶は申すに及ばず、御國元にても、御下の衆に御茶下され候時も、前
日より御掃除、萬事御道具以下仰付けられ、夜の內より御寢所を出でさせられ、
{{仮題|投錨=饗應の法}}
御身の御裝束なされ、御料理御直に仰付けらる、何れをも少しつゝ御試み遊され
候、或時の御諚には、假初にも人に振舞候は、料理第一の事なり、何にても、其主
の勝手に入らず、惡しき料理など出して、差當り蟲氣抔あらば、氣遣千萬ならん、
{{仮題|頁=135}}
さもあらば、呼ばぬには劣りなり、古誰人を呼ぶにも、其人の好みける物を聞き、
嫌なる物を去りてするにより、心安く候ひし、頃日左樣の事取失ひ候故、一入心
元なし、人は高下によらず、客馳走の爲め、色々道具あまた出すは、無用の事な
り、一種・二種調へ、夫に何ぞ品を附け、目の前の料理か、又は亭主自身料理して、
盛物ならば、其儘座敷へ持出し、是れ一種の取成と申してこそよし、珍しき物、
色々出したるより、遙々增なり、第一すゞやかに、物事綺麗にするは馳走なり、種
種樣々の百種・千種の取揃ひ、引立三度振舞ふより、さしともなき物、一種・二種宛
にて、節︀々が增なり、五倫の道も、成程親しきものなり、引立一度にするは、わり
なく思ひての儀なれば、多くは等閑の基なり、是れ萬事心附くる儀なり、理もな
き所に强み入れ、人每に理を立てんといふつるも、皆奧義は別儀なく、臆病の致
す所なりと仰せられし、
{{仮題|投錨=幕府政宗に吉光の名刀を獻ぜしめんとす}}
一、或時、相國樣御成の時、酒井雅樂頭殿・土井大炊頭殿・酒井讚岐守殿を始めとし
て、御年寄衆殘なく御出で候て、萬事御相談なされ候、內藤外記殿・柳生但馬守殿
御取持分の衆故、御相談過ぎ候て、外記殿仰せられしは、此度御祝︀儀として御進上
物は、如何樣物に御座候哉、迚も各々へ見せ御申し、御相談然るべき由、御申し候
に付、內々支度申し候迚、貞宗の御腰物・來國俊の御脇差、袋の儘見せ御申し候へ
ば、外記殿、是は此度の御進上には如何、尤も始めての御成にては御座なく候へ
ども、是よりも一際能き物になされ、如何と御申し候へば、夫こそ安き事なれ、如
何程も御覽候て、似合はしきを進上申したしとて、名物の御道具共、其外、種々樣
樣大中小百餘、見せ御申し候へども、是も如何あらんと御斷故、貞山樣御諚には、
此度始めての御成にも之なく、譬ひ始めての御成と申すとも、此道具の內に、我
等進上に似合はぬ物なからんや、扨如何あるべしと、仰せられ候へば、そこにて
外記殿、御老中の顏を御覽じて、仰せられ候は、尤も此度、始めての御成にも、御座
なく候へども、日取相定めてより此方、公方樣今や{{く}}と待たせられ、御機嫌其
感もなく候間、迚もの御饗應に、貴樣には天下に隱なき名作のしのき藤四郞吉光
の小脇差、持たせられ候間、夫を御進上候て然るべき由、外記殿進み出で、仰せ
られ候へば、貞山樣、俄に御氣色以ての外に替らせられ、やあ外記、扨も{{く}}其方
の意地に、似合ひたる御申分かな、能々案じて見給へ、大御所樣より以來、御三代
{{仮題|頁=136}}
の御主人、二つなき命をだに、露程も惜み奉らず、上ぐべしと存ずる身にて、道具
の惜しきとて、上ぐまじき謂れやある、今にてもあれ、天下に御大事あらば、先づ
我ならで、城の埋草に誰かあらん、餘人に先をせさせんとは、日本國中の佛神︀も
上覽あれ、命は塵芥よりも輕く思ふ我等、夫に其方の意地に較べては、差出でた
るきたなき申分かな、尤もあの脇差、首尾なくば、今まで上樣へ進上せで置くべ
くや、此藤四郞は、太閤樣より至つての首尾にて、拜領の物なり、其品は天下に隱
なし、二つなき命は上ぐるとも、いかに事過ぎ代替り、追從を思ふとも、一言の御
恩、申合せ候事は云ひ難︀く、今飜す事、ゆめ{{く}}なし、此儀に以て、今に至つて、公
方樣へも進上致さず、祕藏申し候、譬ひ明日に我等果て候とも、是までは進上申
す物に、ゆめ{{く}}之なく候、子供にさへ、其事包みて申聞かせざる脇差にて候、い
かに外記殿、明日の御祝︀儀に、是程百餘の內に、上ぐべき道具之なきにや、下作裏
折れたる道具にても、百餘の道具、各の御腰に差されたる脇差にも、餘り劣る物は
あるまじ、上ぐべき道具なくば、上ぐまじきまで、斯樣の祝︀儀、彼是慾得は入るま
じ、武士の存寄りたる儀こそ、千金にも替ふまじき儀なり、外記日頃の懇意、今日
見下げたり、左樣の意地にては、公方の御用にも立ち兼ぬべし、各御老中も、今日
は萬事御相談申入れ候に、此儀外記に手を𢌞し、御言はせなされ候は、譬ひ公方
樣御內意なりとも、不出來なり、我等家の苗字ある內は、進上申すまじく候、御相
談も大方濟み申し候間、我等は座敷罷立ち候、各明日の御供あれとて、御座の間へ
御入りなされ、以ての外の御腹立にて候、外記殿は申すに及ばず、御年寄中、御尤
至極に候、何しに我など心得にての事、外記に言はせ申すべくや、如何樣にも御腹
入る樣にと、種々仰分けられ、御機嫌直らぬ內は、歸るも成るまじきとて、彼方此
方御掃除抔、御馳走以下の儀、各走り𢌞り、暮に及ぶまて御座候て、漸く御申し宥
められ、各にも御會ひ、色々御咄し候て、何れにても、御腰物・御脇差御上げ候へ
と仰せられ、各御歸りなされ候、諸︀人汗を握り申し候、後に傳へ承れば、御內意の
由、申唱ひ申し候事、
{{仮題|投錨=秀忠正宗の邸に臨む}}
一、次の日、早々御成、御數寄屋へ入らせられ候、御相伴衆は道三法印・立花飛驒
守殿・丹羽︀五郞左衞門なり、旣に御膳を貞山樣御上げなされ候時、內藤外記殿、土
器︀に箸を一膳持ちて、貞山樣へ追懸け御申し、御前のをにをなされ御上げ候へと、
{{仮題|頁=137}}
御申し候、貞山樣、其儘御數寄屋口に置かせられ、外記いはれぬ事を御申し候、政
宗程の者︀が御成申し、自身御膳を上ぐる上、おに所にてはなきぞ、御膳に毒を入
るゝは、十年前の事なり、十年前にも、日本の神︀祖︀、毒抔にて殺︀し奉るべしとは、
曾て思はぬぞ、一度乘寄せてこそとは思ひ候と、仰せられ候所へ、御數寄屋の內
より、通り口を明けて、立花飛驒守殿御出で、一段似合ひたる御挨拶かな、上樣に
ても御感にて候、御膳遲くなり申し候、早々と申され候時、御膳を御上げ候へば、
扨々賴もしき御挨拶と、公方樣夫々の御禮にて、御落淚遊され候由にて、諸︀人扨
も扨もと感じ奉り候、御數寄屋過ぎ候て、御書院へ出御なされ、御能御見物、暮に
及びて、還御遊ばされ候事、
一、相國樣五十三の御年の、前の年より御病氣にて、次第に重らせ給ふ、正月半
末には、今を限りと思召され候御時、貞山樣を呼び御申し仰せられ候は、年の內よ
り、病氣次第に重く覺え候、兎角快氣成り難︀く覺え候、少しも本心のある內に、貴
所へ御目に懸り申し度き事は、昔より今日に至るまで、御志一つとして忘るゝ事
なし先つ長き事ながら、大御所樣駿河の御殿にて、御病氣重き折柄、惡しき者︀の
申入れ候て、已に貴所{{r|謀叛|むほん}}の、其聞え候間、我も御病気に構はず、奧州へ下る心
懸候折節︀、駿河より奧州へ早打立ちて、貴所走り登られ、駿河の江尻に逗留の時、
謀叛にあらざる事を知り、國々の大名・小名をば、皆々歸され、貴所をば內々にて
駿河の御殿へ呼ばせられ、互に御存分仰を遂げられ、其上我等儀、貴所へ御頼み、
{{仮題|投錨=秀忠家光の事を政宗に託す}}
如何樣にも天下の主と取立て給はれと、御末期の御言葉を違はず、今日に至るま
で、天下物いふ事もなく治り、今將軍へ天下を讓り候はむと存ずるなり、大御所
樣より貴所へ、我等を御頼みなされ候が、今將軍の御事、貴所へ賴み申す事、皆
同じなり、若き者︀の儀なれば、萬事將軍は貴所を親と存ぜられ、古事を聞かせて、
差出でたる抔と遠慮なく、見苦しき儀、之あるに於ては、異見御申し、安穩に御持
たせ、賴み入り候、又貴所も年寄られ候へば、目出度き跡にては、越前守の儀は、
將軍に預け候へ、少しも如在は致すまじ、我等五十三まで、天下安穩の基、偏に貴
所の蔭なりとて、互に心を合せられ候へば、尤に思召され、諸︀共御落淚の由、御言
葉の末、書留め侍りし、
{{仮題|投錨=紀州賴宣の招請に赴く}}
一、或時紀伊大納言樣へ、御振舞に御出でなされ候、御相伴衆御相客には、板倉
{{仮題|頁=138}}
內膳殿・柳生但馬守殿・內藤外記殿、其外數多御座候、形の如く御酒過ぎ候て、御歸
の時、紀州樣、御玄關迄送り御申し候に、御廣間の事なれば、老少ひしと膝を組み、
歷々伺候申され候、御覽じて、扨も{{く}}申すは愚なれども、歷々の御家中衆、目
を驚し申し候、是程の御內衆持たせられ、唯今の若上樣へ、少しも御如在あるま
じく候、此人數にては、譬ひ大國へ御取懸け候ても、御手柄の御勝利、疑あるま
じく候、御序にて御座候間申上げ候、若し紀州に於て、御國の境論抔御座候に付
いては、早々我等に御聞かせなさるべく候、手勢二千も三千も召連れ罷越し、少
しも費公樣には、懸け申すまじく候、年寄參り候て、如何樣にも扱ひ申し候はむ、
斯樣申す內、若し上樣へ御等閑遊され候に於ては、斯樣に申す年寄、日頃國許に
祕藏仕り、差置き候郞等共召連れ、眞先に紀州へ參るべく候間、左樣に御心得候へ
と、仰せられ候、諸︀人承り、恐れ感じ奉り候、板倉殿、其後上樣御前にて、御夜咄の
御序に、上聞に達し奉りければ、殊の外將軍樣御機嫌能く、後に板倉殿御咄なさ
れ候事、
一、或年御上洛時分、近衞樣・八條之宮樣、御申請けられ候事あり、御裝束の儀
御座候故に、御辭退遊され候へども叶はず、ならせられ候、終日、御能御座候に、京
童貴賤群集をなし、御庭前に畏る、御酒次第々々に𢌞り、近衞樣御同座に御座な
され、{{仮題|投錨=公家程ぬるき者︀はなし}}後は御烏帽子御取らせ、公家程ぬるき者︀はなきとて、彼方此方振𢌞しなさ
れ候を、諸︀人拜見奉りて、膽を潰し、有難︀き事かなと、感じ奉るとなり、
{{仮題|投錨=政宗祕藏の名刀}}
一、每年元日に、白き綾の御小袖、桐菊の御紋の御座候を召させられ、御長袴の
上に、かのしのき藤四郞の御小脇差、名作の御腰の物差させられ候、或年の元日、
御座の間にて、越前守樣御一禮仰上げられ、御本座の時、何の御序もなきに、御意
なされ候には、此吉光の脇差は、元日に計り差し候、綾小袖は、御代相渡され候
て、著︀させ御申しなさるべく候、所詮人は死後に計り、讓ると申すげに候、我は元
日幸に候間、讓り進じ申すべく候、先は此藤四郞を相渡し申し候、是は天下に隱
れなき名作、太閤樣より、分けて御首尾を以て拜領申す事、諸︀人隱なきぞ、公方樣
より內々御望あれども、是までは進上申す物に之なく候間、伊達の家あらん限り
は、段々讓り祕藏、返す{{ぐ}}他に渡す事なかれ、其外多き中にも、此年まで身を離
れぬやうに、祕藏の物は、亘理來の刀・景秀・はゞき國行、是三腰なり、我命なれば、
{{仮題|頁=139}}
死後に能く祕藏せらるべし、亘理來は亘理代々の刀、大役疑なし、又はゞき國行
は、昔共はゞきなり、本阿彌心にてたいこん仕り候、是とても勝る刀はなし、景秀
は高麗御陣の時、日本の諸︀大名共出で候て、ためし物する時、牛程の男、總人數切
餘し、捨て置き候を、此刀にて切るべき由申し候へば、加藤肥後・淺野但馬、兼ね
て中惡しき故、何れも餘し申し候に付、いよ{{く}}と思ひ、此刀を拔いて肥後に渡
し、是は我等小姓の刀なり、是にて切り給へと言ひければ、肥後斟酌の樣子に見
え候間、以前の異見には似合はぬと思ひ、無理に切れとて、切らせけるに、一の胴
を切落し、上段より下へ五六寸打込む、流石の肥後も膽を潰し、中々只は拔かれ
申すまじく、鍬にて掘出させらるべき由にて、鍬にて掘出し候、斯樣の手柄、夫の
みならず、手前にて數度試み候間、彌〻祕藏尤なり、只今渡し候はむが、先々死後
迄は、今日よりして預り分と仰せられ候事、
一、假初の野山狩にも、御出てなされ候ても、諸︀人召出され、御酒下され、心進み
御供申す樣にと、仰せらるゝ儀にて、尤も御鷹野・御山追にも、少し心能く仕る者︀
には、御自身金子を夫々に下され候、仕合能き者︀は、一日に二度も三度も拜領仕り
候、諸︀人猶以て火水の中へも辨へず、御奉公と心懸け申し候、何事に寄らず、其時
を延べず、御心附け遊され候、外樣衆抔、知行も取る人にも成らせられ候へば、少
しなりとも、御加增下され候、御前近き衆は、連々御取立て遊され候、或時の御意
に、目近き衆取立て候は、言ふに及ばず、朝夕少し宛なりとも、外樣衆に夫々に奉
公を言附け、心付する事本意なり、外樣程身の及びなければ、直目安より外の便
りなし、然らば代々の者︀、不便至極なり、主從の思ふ儘には、拜領の地少ければな
らず、少分の物にても、節︀々心付肝要なりと、仰せられし事、
{{仮題|投錨=政宗裁判に與かる}}
一、或時御座の間に於て、朝より諸︀奉行衆・出頭衆・穿鑿の御使申さるゝ衆、餘多
召出され、終日御前御さばき御座候處、少しもくつろがせ給はず、種々樣々の仰
付けられ、御さばき最中に、諸︀奉行衆へ仰出され候は、我等に少し暇を吳れよ、皆
皆今の間休息して參られ候へと有りて、次の御座敷へ立たせられ、四方の御障子
抔立てさせられ、十二三計りの奧小姓・御{{r|禿|かむろ}}抔、七八人呼ばせられ候間、何事と存
じ候へば、右の忰共に、色々昔物語抔御させ、御一人御腹を抱へさせられ、御笑
ひ遊され候、諸︀人終に覺え申さずと申唱へ候、やゝ暫く過ぎて、元の如くに御出
{{仮題|頁=140}}
でなされ、夫より暮に及ぶまで、種々樣々尋ねられ、後に御咄には、氣草臥れて不
慮なる儀あるべし、さあらば沙汰の理合に惑ひて、罪なきを科とせば、不便なる
事なり、此の如きの心持、國の爲め、身の爲めと、御意なされ候、諸︀人有難︀き事に
感じ奉り候事、
一、或時御親類︀衆、御一家御一族衆、其外大身衆、御西曲輪にて御振舞下され、一
日御能御見物遊ばされ候、尤も御前にて、御長袴御召し候故、諸︀人も長袴にて伺候
申され候、ほの{{ぐ}}明けに、御座へ御出で遊され候とひとしく、年寄衆一人、御座
敷より舞臺へ參り、片手を突︀き、御能始め候へと申され候、則ち幕を揚げさせ、太
夫罷出で、{{仮題|投錨=實盛の能を觀て感泣す}}其日二番目の御能、實盛を仕り候に、師手語りの內に、實盛常に申せし
は、六十に餘り、軍せば、若殿原に爭ひて、人々に先を懸けんも、おとなげなし、又
老武者︀とて、人々に侮︀られんも口惜かるべし、髮・髭を墨︀に染め、若やぎ討死せんず
る由、常々申し候ひしが、誠に染めて候ひけると、さも勇々しく謠ひし時、御聲を揚
げさせ、ひたすら御落淚遊され候、左の御脇に、伊達安房殿御座候が、是も御同前
に、御座敷にたまられぬ程、落淚なされ候、諸︀人御樣子を拜し奉り、落淚仕らざる
者︀は、御座なく候、誠に實盛に年增の御人樣達、御身の程へ思召合せられ候事と、
皆々感じ奉り、落淚仕り候、總別人に替らせ給ひて、人は哀なる事には、落淚大方
仕り候が、左樣の事には、さのみ御落淚遊されず、何にても義理の深き事には、御
聲を立てさせられ、御落淚遊され候、或時の御能に、定家を仰付けられ候に、是は
{{仮題|投錨=時雨の陣に哀を催す}}
時雨の陣とて、由ある所なり、都︀の內とは申しながら、心すごく時雨物哀なれば
とて、此陣を立て置き、年々歌ども詠じさせ給ひしとなり、古跡といひ、折柄とい
ひ、逆緣の法をも說き給ひて、御菩提をも御弔あれと、太夫謠ひ申す時抔は、何れ
の御心にて、御落淚遊さるとは知らねども、御座敷にたまらせられぬ御有樣に
て、御聲を揚げ、御鼻紙にて御顏を押へさせられ候、物の味存じたるも存ぜざる
も、感じ奉り候は、歌道に付いて、聞召合せられ候事あらんと、存じ奉り候、誠に
善にも惡にも、御强き御事かなと、皆々取沙汰仕り候事、
一、されば詠歌の道に長じ給ひ、花鳥風月の方、いとかしこく渡らせ給ひ、折に
ふれたる御口ずさみ、中々申すも愚かなり、或時仰せられし古歌に、
{{left|武藏野は月の入るべき山もなし草より出でゝ草にこそ入れ|3em}}
{{仮題|頁=141}}
とある、尤も武藏野を何程大きに取成したる言葉に聞えけれども、月の爲めには
如何なり、草より出でて、草にこそ入れとあれば、月の出入り遙かならず、心を便
として、我等が歌に、
{{仮題|投錨=武藏野の歌}}{{left|いづるより入る山の端はいづくぞと月にとはまし武藏野の月|3em}}
と詠みて、近衞院へ參らせしに、限りなく御譽め候て、月雪を事として、花の下に
住む歌人、面を掩ふ由仰せられ候、又或時近衞院へ、さぐり題の歌餘多、點取りに
遣し候へば、大方ならぬ褒美なされ、御自筆にて近代あるまじき由にて、中にも
富士の歌に、
{{仮題|投錨=富士山の歌}}
{{left|いつみても始めてむかふ心かなたび{{く}}かはる富士の景色は|3em}}
と詠みし歌をこそ、類︀なく思召せと、御褒美斜ならざりしと、御意なされ候事、
一、或時伊達安房殿、悉く作事出來し、日柄を以て、貞山樣入御申す朝は、御數寄
屋、扨夫よりは御書院に、何れも御利親来夫方小具音々長裙なり、御主樣も御長
襠召させられ、萬事御作法正しく見えさせられ、御能御見物、終日遊せられ、其日
兵部大夫殿鶴︀をなされ候、總別御咄御挨拶の爲めとて、御相伴衆をも御座敷緣側
{{仮題|投錨=相伴衆宗壁を斬る}}
へ差置かれ候、御相伴衆の內、宗壁とて、京方の者︀にて御座候へども、別して御取
立て、知行百貫、役なしになし下され、年も寄りたる者︀なれば、彌〻不便の事に思
召す事斜ならず候、其日も宗壁御相伴仕り、御書院にても、御親類︀衆內に連り、御
緣側御座近く差置かれ候、兵部大夫殿、御能なされ候に、諸︀人感を催しけり、誠に
いたいけなる御事にて、音曲拍子に叶ふ樣に見え給へば、御前にても、御機嫌一
入に見えさせ、見物の上下、感淚膽に銘じけり、折節︀彼の宗壁、感に絕えて、異狂
の心やきざしけん、又は御機嫌に入らんとや存じけん、御座近く踊り出し、{{r|頭|かうべ}}を
さすり立上り、物の音も聞えぬ程に、浮氣に立振舞ひ申す、貞山樣にても、憎︀しと
思召し候へども、御座敷の興にも思召し、夫々に御扱ひ、差置かれし所に、忽ち御
罰や當りけん、猶ほ鎭らで、御膝近く振寄り、やあ殿や{{く}}、あの御子の能を御覽
じて、歎かせられぬは岩木なり、殿よ{{く}}能く見給へ、如何なる夷・鬼神︀なりと
も、聊か歎かで有るべきとて、聲を揚げて歎き叫ぶ、俄に御氣色替らせ、御側なる
御腰物拔打に、しとゝ討たせらるゝ、されども命をば不便とや思召しけん、薄手に
負はせ、御腰物を引かせらる、件の宗壁、黑衣忽ち赤く染め替る、扨御座敷立たせ
{{仮題|頁=142}}
られ、脇の座敷へ御入りなされ、御奉行衆を以て、御亭主安房殿始め、各へ仰分け
らるゝは、只今の樣子、皆々慮外と思召し候はん事、痛入り恥入り申し候、御亭主
へは、今日如何樣の事ありとも、腹立つ事ゆめ{{く}}あらじと、兼ねてより思ひ候
處、不慮の事、是非に及ばず、去り乍ら能く物を分別して、各も御覽候へ、此宗壁
事は、別して取立の者︀なれば、如何なる事ありとも許して、朝夕不便を加へ、今日
迄候ひしぞかし、其上今日の事も、內々抔ならば、如何程申すとも、結句時の興と
愛し置き申すべきが、今日の能見物とて、庭上に數百人取入り候、內々ならば、襠
なしにも見物せまく候へども、斯樣に貴賤行儀正しく執行ふ事も、我等を重んず
る故ならずや、國の者︀共をも恥ぢて、我さへ猥のなきやうにと心遣ひ、尤も誓は
で叶はぬ身なり、又今日の芝居中には、一國の者︀、一人宛はあるべし、斯樣の儀、
其儘にして置くならば、國々へ歸りて、何んぞや、奧州へ下りし時、政宗の親類︀、
安房といふ人の所にて、能ありしに、萬事の行儀正しき樣に振舞ひけれども、側
に年頃の相伴坊主ありけるが、子息兵部大夫殿能の時、殿や{{く}}、あの子供の能
を見て歎かずば、餘り抔と、如何にも心安く云ひけれども、其通りにて有りける、
人は聞きたると見たるは、格別違ふものよ、官も中納言ぞかし、似合はぬ抔と、取
取云はれん事、口惜しき次第なり、只今の腹立は、爰を以ての儀なり、亭主へ何も
障る事なし、さあらば我機嫌の惡しき事も有るまじく、各も心を施し、氣を置く
事なく、能をも御覽候へと、御使を以て、何れもへ仰分けられ候故、何れも有難︀き
御事と感じ上げ、御諚御尤と申され候、其後、御本座へ御出で遊ばされ、愈々御機
嫌よく、終日御能御覽じ、夜に入りて御歸城遊され候、希代不思議に諸︀人存じ奉
り候御事は、日暮れ候と否、御前衆或は御小姓衆抔召寄せられ、何とやらん、今宵
{{仮題|投錨=失火の豫感}}
は火事出來せんと、心中に絕えず、亭主方の者︀、皆々草臥れ候はむに、此方より申
付け、用心强くさせよと、ひたすら仰付けられ、御立ち遊され候節︀、御自身くさり
の間の爐の內御取らせ、水などを御懸けさせ、態と數寄屋へ御出でならせ、爐の
中を御覽じ、其上佐々若狭を召させられ、如何樣今夜火事出でんと思ふなり、其
方此處に留り、爐中々々に水を懸けさせ、罷歸れと、仰付けられ、御歸城遊され候
諸︀人も心付き、火の用心仕り、少しも溫かなる所へは、水を懸け申す樣に仕り候
へども、其曉、水を能く懸け申し候置爐より火餘り、房州御屋敷殘りなく火事致
{{仮題|頁=143}}
し、竝びたる御町數多燒失申し候、諸︀人膽を消し、安からぬ御事と、舌を振ひ申し
候、次の日御自身御差圖を以て、御作事悉くなされ遺され候、扨又彼の宗壁をば、
諸︀奉行衆に仰付けられ、日頃の御取立、不便に思召され候間、身命相助けられ候、
里離れたる島へ流し候へ、去り乍ら扶持など迷惑致さぬ樣にと仰付けられ、又成
人の子供をば、其島近所の城代に預け置くべし、女房以下をば、親類︀に預け候へ
と、仰付けられ候、斯樣に事濟み候て、三十餘日越さぬに、不慮の事有りて、宗壁
父子御成敗なされ候、天命の程、諸︀人身の毛を立て、恐れ申さぬはなく候事、
一、或時江戶淺草に於て、金剛太夫、天下の御諚を以て、勸進能仕り候、折節︀西國・
東國の諸︀大名、大身衆の分まて、在江戶の御事なれば、何れもへ公儀より御座敷
渡り、御見物なされ候、尤も貞山樣御棧敷は、正面に御座候故、一入物事きら{{く}}
しく遊され候、御右の方は島津殿、御左は毛利殿、其續段々大身・小身殘らず御出
て候へば、棧敷の結構、花龍の翠簾、理珞・錦繡・幔幕、珍の食事飽滿ちて、見物の諸︀
人、目を驚かす、大名・小名より太夫の方へ下され物は、金銀の類︀・綾・錦・金襴・緞子・
太刀・刀、我も{{く}}と引出す、七寶の寶物、山の如く積重ね、夥しき事、譬ひ樣もな
し、さる程に、每日の能打續き、太夫も草臥れたるやらん、五日目の能は、朝より
七番仕り候が、不出來致し候故に、見物の諸︀人も、心にしまぬ有樣なり、太夫も何
とやらん、心進みなきやうに御座候故、祝︀言仕り候前に、貞山樣より一番御所望
{{仮題|投錨=政宗金剛太夫の能一番を所望す}}
遊され候、諸︀大名衆は申すに及ばず、棧敷中の者︀共、立ち顏に御座候を、御自身翠
簾御揚げ、仰せられ候は、今日の能、何とやらん殘念に存じ候故、一番所望申し候
問、各々立騒がぬ樣に、見物然るべしと、仰せられ候へば、皆々ひしと罷り在り
ぬ、斯くて太夫御返事には、冥加に叶ひたる仕合に御座候へども、罷成るまじき
由、御返事仕り候故に、いとゞ御立腹、抑〻今日我等所望、成るまじくとや、推參中
中口惜しき事なり、ならぬ事といへば、無理にもならず、是非成らぬと云へば、足
輕共に樂屋を取卷かせ、太夫を始め、一々切殺︀させよ、返事の惡しきに、たゞな殺︀
しそ、成程痛しめ殺︀させむ、政宗程の者︀が、望をなして叶へずして、除くべくや、
一々に首を切り、其後言上申すべし、上樣にても、聊か兆なりと思召さん、政宗よ
きとこそあらんとて、折懸け{{く}}御使立つ、御家中の上下、御言葉を聞き、襠の括
り高く取り、すはといはゞ、我先に討つて入らんと思へる氣色にて、勇み進みて
{{仮題|頁=144}}
控へし有樣、あはや事こそ出でたると、皆々色めいて見えにけり、時に天下の御
町奉行申され候は、陸奧守殿の御意至極せり、今日の內にて、誰やの者︀が、御心に
背くべき者︀、一人も有るまじく、それに太夫御返事、言語道斷、曲事なり、御所望
違背申すならば、御前へは懸け申すまじく、某共計らひ申すべし、町同心の者︀ど
も、其旨心得よと、物騷がしく下知をなす、然るに太夫申上ぐるは、罷成るまじく
と申上ぐる儀は、勸進能は、其身々々の役さへ勤め申し候へば、役者︀共罷歸り候、
皆々罷歸り、祝︀言謠ひ申す者︀計り罷在り候間、罷成るまじき由、申上げ候へば、其
儀ならば、始めより申さぬ、くせ事なり、又役者︀共惡しき事なり、上樣より似合は
せ知行下され、差置かれ候事も、斯樣の爲めなり、我等も未だ歸らぬ先に、手前の
役過ぎたるとて、歸る事奇怪なり、其者︀共引返せ、道にて追附かずば、宿よりも引
出せとて、馬乘・步衆、我先にと大勢にて追懸くる、此時能の間延びて、總芝居の者︀
共、少し退屈して見えしを御覽じて、御自身仰せ出されけるは、所望の能、少し支
度に暇を取り候へば、待遠に有りとも、今少し待ち候へと有りて、小姓頭を召さ
せられ、總芝居の者︀共に酒振舞度きが、俄の事なれば、なるまじけれども、成り次
第に出せと、仰付けられ候、何事に寄らず、思召の闕けぬやうに、兼ねて仰付け置
かれ候故、諸︀人其志二六時中、油斷申さず候故、御諚にて有るぞ、振舞へと申渡す
程こそあれ、南都︀の大樽共、數も知らず、芝居中へ取出し、大桶半切取出し、樽の
蓋を此處彼處にて打碎き、樽のまゝかたげ行くもあり、桶半切の酒引{{r|被|かぶ}}り、濡れ
て萎るゝ者︀もあり、種々樣々の肴あり、さしも廣き東西の大名の寄合、江戶中の
貴賤擧りし芝居も、所なく見えし、盃は土器︀二三千出しけれども、中々足らぬ事
なれば、酒さへ汲めさうなるものなれば、皆出せと仰せらるれば、梨子地蒔繪し
たる角ども、金銀を鏤めたる重食籠・皿・鉢・錫の類︀まで、當るを幸に抱へ出し{{く}}
する程に、棧敷中は上を下へと勇をなし、色ある物をてんでに持ち、酒や看に飽
き歸るは、紅葉流るゝ立田川、吉野・初瀨の花盛を、嵐の誘ふに異ならず、幔幕を
揚げさせて、あら夥しき事どもやと、暫しは鳴も靜らず、やゝありて、翠簾御揚
げさせ、仰には、面々酒飮んで面白や、上戶も下戶も、斯樣の慰は、酒に若くはな
し、互に友を勸めて、呑めや{{く}}と仰せられ、時を移して御覽ずるに、旣に酒過ぎ
んとする時、如何に芝居中の者︀共、只今芝居中へ出したる程の物共、皆々取らす
{{仮題|頁=145}}
るなり、思ひ{{く}}に取れと、仰せらるゝ程こそあれ、金銀砂子の敷きたる數々の
道具共、面々取持ち、悅び勇む事、限りなく、誠に數少くてこそ、我人と奪ひ候事
もあれ、棧敷流石靜かなれば、諸︀人目を驚かしける、酒に目懸くる者︀共は、大樽抔
を打かたげ、是に過ぎたる事あらじと、悅び歸る者︀もあり、上下萬民勇み進んで、
皆宿々へ歸りける、次の日、さしもに廣き江戶中、何かは道具一色、持たざる者︀は
なし、則ち御橫目衆、上聞に達し奉りしに、大きに御感斜ならず、比類︀なき事か
な、斯樣の事、學びてならぬ事よと、上つ方の取沙汰の由、傳々に承り候、假初の
御事なれども、國々に隱なし、扨も{{く}}と感じ奉らざるはなし、彌〻其役々には、
一旦の仕樣、賴もしく思召すと、似合々々に御褒美下し置かれ、以後何時にても、
あの心持肝要なり、猶々油斷申すなと、仰せられ候へば、諸︀人承り、有難︀き御意
と、悅び申さぬ者︀はなし、
{{仮題|投錨=將軍家光の饗應}}
一、寬永十二年正月廿八日、上樣へ御二の丸に於て、御膳上げさせられ候、尤も
朝は御數寄屋にて、
{{left/s|2em}}
{{仮題|御膳=1|御國の土器︀|一酒ひて|鯛、金柑、|眞鰹、栗}}{{Gap|10em}}{{仮題|御膳=1|御杉木具淺き御椀|一御汁|だん{{く}}|すし}}<br/>
{{仮題|御膳=1|靑竹のこつゝ皿に|一このわた| | }}{{Gap|10em}}一御飯︀<br/>
{{仮題|御膳=1| |御二|杉にて枝折桃を曲げ候木具、| }}<br/>
{{仮題|御膳=1|かく皿に|一石鰈|御燒盛| }}<br/>
{{仮題|御膳=1|染付皿に|一酒すし|生薑細く|切りて}}{{Gap|10em}}一御汁<br/>
{{仮題|御膳=1| |一香の物|瓜漬 茄子漬 大根漬| }}<br/>
{{仮題|御膳=1|杉にて澤潟曲の重箱|一御引さい|鹽鱒燒物 鰤燒きて 鰈・蒲鉾| }}<br/>
{{left/e}}
御肴<br/>
{{Gap|0em}}一、鳥ひしほ 一小鮒吸物 一たいらき小串 一{{r|海︀松食|みるくい}}吸物<br/>
御引肴二種<br/>
{{仮題|御膳=1| |御茶漬|唐團扇 曲げたる重箱に| }}<br/>
{{Gap|0em}}一、枝柹 一慈姑より三つ 一豆の子砂糖{{nop}}
{{仮題|投錨=能樂を催す}}
御膳過ぎ、常の如く、御飾り遊され、御茶立てさせられ、進上御申しなされ候、御
數寄屋に於て、上樣仰立を以て、わびすけと申す、天下に名物の御茶入、御拜領な
され、則ち其茶入にて、御茶立てさせられ候、御數寄屋過ぎ、一御書院に於て、上樣
{{仮題|頁=146}}
へ久國の御小脇差・長光の御腰物、御獻上なされ候、御慰とて御能御付けられ候、
今日の御亭主にも、一番と御諚にて、實盛の大鼓仰付けられ候、上樣御裝束は、下
には白小袖、薄柿底紋の染物、染の御紋所、赤裏・黑き緞子の御袴・肩衣にて、御中
脇差、御腰物は御床に差置かれ候、大名・小名思ひ{{く}}に出立ち、或は金銀箔の小
袖・肩衣に、色々の縫箔召され候、土井大炊殿、大夜著︀の如くなる練︀地大紋の染物
赤裏、上下には蔦を摺箔になされ、三尺程の金鞘張の大脇差橫たへ、御行きなさ
れ候、御舞臺正面より御左の御白砂に氈を敷き、大名・小名ひしと伺候御申し、御
酒など上げられ候爲め、御土器︀・御銚子・御肴など差置かれ候、御右の方に酒井讚
岐守殿、熨斗目・長上下・小さ刀にて、器︀量さもゆゝしくして、石の上に跪きなさ
れ候、其日色々樣々の御慰の爲め、右の通りにて御座候、大身・小身に寄らず、其日
の御能仰付けられ候、
御能組
{{left/s|1em}}
翁 內田平左衞門 {{仮題|御能=1|千歲|三番叟}} 東田太左衞門 小畑勘兵衞<br/>
高砂 柳生但馬守殿 伊藤 {{仮題|御能=1|大 三助|小 淸次郞}} {{仮題|御能=1|大 惣右衞門|笛 市右衞門}}<br/>
實盛 櫻井八右衞門 權右門 {{仮題|御能=1|大 三右衞門|小 十兵衞}} {{仮題|御能=1|大 政宗公|笛 三四郞}}<br/>
江口 毛利甲斐守殿 九郞右門 {{仮題|御能=1|大 三助|小 淸次郞}} {{仮題|御能=1|笛| }}市右衞門<br/>
玉葛 加藤式部殿 近藤 {{仮題|御能=1|大 三助|小 五右衞門}} {{仮題|御能=1|笛| }}長治郞<br/>
道成寺 高安 {{仮題|御能=1|大 三右衞門|小 長右衞門}} {{仮題|御能=1|大 佐吉|笛 市右衞門}}<br/>
東岸居士 春藤 {{仮題|御能=1|大 六右衞門|小 多ケ谷左近殿}} {{仮題|御能=1|笛| }}勘七<br/>
大會 作間將監殿 近藤 {{仮題|御能=1|大 三助|小 淸次郞}} {{仮題|御能=1|大 新助|笛 勘七}}<br/>
善知鳥 童慶 權右衞門 {{仮題|御能=1|大 六右衞門|小 正右衞門}} {{仮題|御能=1|笛| }}又三郞<br/>
鵜飼︀ 春藤 {{仮題|御能=1|大 三右衞門|小 十兵衞}} {{仮題|御能=1|大 左吉|笛 勘七}}<br/>
羅生門 觀世太夫 保々石見殿 {{仮題|御能=1|大 樋口|小 長右衞門}} {{仮題|御能=1|大 彥九郞|笛 三四郞}}
{{left/e}}
{{仮題|投錨=政宗太鼓の役に就く}}
御前に於て、各遊され候中に、貞山樣へ御大鼓の御役と有る儀故、實盛の能拍子
申す、役者︀同前に御出でなされ候、御大鼓は觀世左吉に御持たせ、先に御立ち、其
次に立たせられ、役者︀御禮申上げ候如くに、遊され候へば、上樣御聲として、いや
いやと御譽めなされ候故、伺候の大身・小身、先づは暫く御譽之あり候、御衣裝は
御襠に淺黃地金紋の緞子、御小袖に赤裏、上に{{r|檜皮|ひはだ}}鹿の子の御小袖に、金砂五色
{{仮題|頁=147}}
の絲にて、𢌞り七寸四方の雪の內に薄、五所紋御附け、淺黃裏、御肩衣戾子、後に
大きなる唐團、前にも同じく蔦唐草、金を以て摺箔置かせられ、御襠は{{r|檜皮|ひはだ}}地に
色々の菱など、金紋に織附けたるを、常より少し長めに召させられ、舞臺へ御出
でなされ候ひても、中入より前、遙々御座候故、觀世左吉御相手になされ候を、各
御覽じ、前後斯樣の役者︀は、御座有るまじとて、御笑なり、上樣も高く御口を置か
せられず、御譽め、諸︀大名衆、各譽められ候へと御說故、我も{{く}}と譽め申され候、
扨大鼓遊し濟し、御撥を舞臺へからりと御投げ、太夫と脇との間を、舞臺の內、直
ぐに御前へ御出でなされ候、諸︀人扨も{{く}}氣味よき役者︀かなと仰せられ候、上樣
御座所半間程も隔て、御直り候とひとしく、上樣御說には、扨も{{く}}大鼓は聞及び
申したるより、今日見申し候て、膽に銘じ候、今よりは能き役者︀見附け申し候と、
から{{く}}と御笑ひなされ候なり、貞山樣仰せられ候は、大鼓の內、ひたすら御褒
美の御言葉、有難︀き御事に存じ奉り候と、仰上げられ候へば、中々の事、彌〻其程
感じ入り候と、御諚なされ候、夫より色々樣々御咄にて、互に御腹を抱へさせら
れ候、御相伴衆は右の御方にて、間を一間程隔て、毛利甲斐守殿・丹羽︀五郞左衞門
殿、御左の方には、道三法印・爐庵法印・立花飛驒守殿にて御座候、御座敷に誰も御
座なく、御棧敷へ參り候口には、若年寄衆、長袴にて伺候御申し候、我式の賤しき
心中には、是程の御慰御酒宴に御座候間、定めて色々御座候はんと存じ候へば、
御棧敷の內には、けづり鯛二つ三つ、三方に上げ、御重箱三つ、上樣の御膝の左に
は、九寸に作花二本立て、木の本には、おこし炭三つ四つ置き、{{r|鱲|からすみ}}と{{r|杏仁|あんにん}}を盛り交
ぜ、白箸添へて置かせられ、御銚子の衆も、御酒召上られ候ては、時々に御次一除
け申さると見え、御前に御小姓衆など一人も見え申さず、斯樣に輕々しき御事か
なと存ずべし、御膳上り申す時は、御老衆・御小姓衆、彼方此方に御座候て、取揃
ひたる氣色もなく、上々程輕き事遊され候に、下々の物を存ぜず、右樣言ふに及
ばず、天地の如し、扨御能過ぎ候て、御手前の御小姓に、踊を御舞臺にて踊らせ、
御目に懸けさせられ候、役者︀・踊子の次第、
{{left/s|1em}}
笛 平岩勘七 {{仮題|編注=1|靑木|春日イ}}又三郞 長命長次郞<br/>
小鼓 大{{仮題|編注=1|窪|倉イ}}長右衞門 幸淸三郞 大森九右衞門<br/>
大鼓 觀世左吉 桑名作右衞門<br/>
{{仮題|頁=148}}
鐘打 上村吉左衞門 {{resize|75%|新發意}}大窪彌右衞門 森村茂三郞<br/>
鷺 傳右衞門<br/>
踊子 二十人<br/>
鈴木九十郞 庄子作十郞 遠藤市十郞 平田權作<br/>
橋本左太夫 木村百助 柳生權右衞門 多川半四郞<br/>
鴇田門彌 野田藏人之丞 島津大藏 橫田與平次<br/>
熊田小平治 菅野八十郞 富澤大吉 橫尾金次<br/>
蘆澤傳七 高野彌太郞 木村源太 只野長十郞<br/>
{{left/e}}
先づ一番目の衣裝、色々伊達なる染物赤裏繻子、金扇{{仮題|分注=1|脫字ア|ルカ}}・鞘黑塗・金蛭卷した
るにて舟躍り、三番に地白綸子、枝垂柳に桐の葉、金摺箔帶・白繻子白鉢卷・金銀丸
の團扇、四番に、下に白地に銀にて、菊水摺りたるに赤裏、上には黄地に金にて菊
水、五番黑繻子、金ののたりの小袖紅裏、銀にて扇流の小袖二色なり、金扇流にて
入亂れ立ち申し候、上樣にても斜ならず譽めさせらる、斯樣の踊、近代には聞く
も稀なりと仰せられ、御機嫌能く、踊過ぎ候て、皆々召出され、御小袖一重づゝ拜
領、酒井讚岐守殿承りにて引渡す、扨又、御咄以後、御酒召上られ、御立ちなされ
候事、
一、右の御茶上らせられ候御祝︀儀、又踊など打揃ひ、正月廿五日に遊され候、上
下さゝめき渡り、目出たしと申す所へ、上樣より御內書を、福︀阿彌と申す御坊主
衆御使に遣され、總別心安き御方へは、御內々にて、同朋衆遣さるゝ由にて候、其
御書には、此廿八日の御茶御待ち兼ねなされ、竝に名物の伽羅餘多、御滿足の由
にて、內々御祝︀の御座敷半なれば、彌〻御祝︀ひなされ候、御使の福︀阿彌にも御酒下
され、其日は殊更風もなく、空晴︀渡り長閑なるに、御前の庭へ、四尺餘りの鯉の魚
飛落ち、御庭中刎ね躍り申し候、伺候の面々、周章飛下り、其鯉を捕へ、折柄と云
ひ、扨も斯樣の目出たき事、あるべからずと、勇み合へり、則ち御前にて、御料理
仰付けられ、彌〻御祝︀斜ならず、是程目出たき鯉を、相詰め候程の諸︀侍に、振舞へ
と仰出され、誠に末々の者︀まで御酒下され、彼福︀阿彌には御引出物下され、罷歸
るなり、扨御咄に、斯樣の目出たき座敷などには、折柄魚などの來ると見えたり、
漢︀朝にも、遊の舟に魚飛入る事有りと云ひ、又我朝にも、餘多{{r|例|ためし}}もあり、童吟魚屋
{{仮題|頁=149}}
への樂あれば、祝︀の座敷へは、魚も感に乘じでや來るらん、さあらば夫を食する
は、無下なりと、御笑ひなされ候、
{{仮題|投錨=新邸の類︀燒}}
一、其年の春も過ぎて、夏の初めに、御暇出て、御國へ御下りなされ候、其年、江戶
御屋敷の大廣間を始め、誠に金銀を鏤め、或は泉水色々の名木の數々、大小の屋形
數を盡し、{{r|爰彼|こゝかしこ}}の景を護して、御物數寄なされ、向ふ春にもなれば、近代、世上に退
轉申す式常の御成を申請け、御代をも越前守樣へ御遜り御申し候はんと、內々其
聞えす、御老衆、上樣へ上聞に達し、一入宜しき思召故、御成御門・御車寄、萬事殘
る所なく仰付けられ、半ば出來申す時分に、七月始め、島津中納言殿より火事出
來して、御父子樣御屋敷、殘らず燒失申し候、苦々しき事いはん方なし、早飛脚に
て御國へ申來る、折節︀夕御膳の所へ申上ぐる否、御下々御城へ馳登り、定めて御
機嫌も宜しく御座あるまじくと、諸︀人犇々と仕り候へば、樣子委しく御聞き遊さ
れ、仰出され候は、笑止千萬なれども、是非に及ばず、是れ天のなせる災なり、人
力の及ぶ所にあらず、悔︀ゆべからず、幾度とても仕兼ぬる身にてなし、間々に古
き家ありて、惡しかりしに、中々よきぞ、物事新しくして、代をも讓らん、明日よ
り上方へ人を登せ、大きなる木ども、先づ賦らせよと仰付けられ、御酒召上らる、
次の日は御川狩に御出で、御機嫌一入能く、終日御慰みなされ候、諸︀人も思の外
なる事に存じ、皆々勇みをなし申し候、爰にて存出せば、鯉など落ち申す事も、斯
樣の奇瑞を示し申すやと、不思議に諸︀人申せしなり、
{{仮題|投錨=政宗醫術に熟す}}
一、奧方などにて、召仕はれ候衆など、病氣なれば、御自身脈御試し、御書付を以
て、醫者︀衆へ、脈體是の如きの心持と思ひ候、分別して藥加減候へと仰せられ、則
ち調合して上げ申し候、惡しき事、終には御座なく候、安からぬ事と、醫者︀衆感じ
申し候、扨醫者︀衆呼ばせられ、品々御尋ね心持をも聞かせられ、御挨拶には、流
石に一段と面白き加減なり、宜しからん、彌〻嗜まれなば、第一我が爲め、諸︀人の
命を助くれば、天道の道にもよからんと、譽めさせられ、御立なされ候、然る故
に、御身の御養生、常々御油斷なく、御自身御脈御取り、寒熱の內、御心に合はぬ
御脈出で候へば、醫者︀衆御集め、昨日今日御取立の、しどけなき{{r|藥師|くすし}}まで、御脈御
取らせ、樣子をも聞かせられ、御療治なされ候、脇よりは、御六かしき事に遊さる
る者︀と、存ずる者︀あるに付、仰せられ候は、面々に斯く脈取らせ候事、第一は心樣
{{仮題|頁=150}}
を尋ねん爲めなり、{{仮題|投錨=醫道の奬勵}}又は相伴する程の為者︀をは昨日今日の初心醫者︀をも、御{{r|藥師|くすし}}
とこそいはん、其藥こそ呑まずとも、脈をば押竝べて見させて、吟味するにこそ、
功者︀ともならん、其身々々油斷させぬ事にもなるなり、我等が相伴させ、又似合
しき扶持をも取らすれば、醫道の事は差置き、無穿鑿にならんは必定なり、又昨
日今日の醫者︀とて、輕々しく思ふ事謂なし、年寄りたる久しき醫者︀に、手の附か
ぬ下手なるも、世上に際限なし、人は久しくて年寄ると、見懸樣子物々しきにも
よらぬぞ、昨日今日の若き醫者︀、上手なる者︀も世に多し、老若に脈を見させ、其心
に目の前にて聞けば、其身々々嗜の爲め、又常々地脈を取覺えずして、病氣の時、
役に立ち兼ぬべし、詰り役に一箇年に一度も、脈取らせざれば、抱へ置く詮なし、
家職ぞと、醫道朝夕忘るゝ間なく心懸くべし、又醫者︀は萬事の心持、優しく持ち
たるぞ能からん、詩・連句・連歌、其外善惡は嫌ふまじく、心懸けたる事能からん、
人の優しき物語などせむに、無骨にてすねくすみたるは惡しく、とても、我等手
前より知りたるとて、物知り顏するは、知らぬにも劣りなん、大名役に夫々の者︀を
抱へ置けばとて、我道知らぬ者︀、何の役にせん、朝夕我前にて、挨拶速に、物事優
しうせん事肝要なり、又如何に醫者︀といはれて、法體したりとも、男の道の意地
は、如在あるべからず、形は圓く、心に斯くあらんこそ、第一の醫者︀の配才ならん
と仰せられし、
{{仮題|投錨=狩獵の殊功を賞す}}
一、假初の野山狩にも、其日御供に參る物頭衆・諸︀侍衆・御鷹匠衆まてに、御酒下
され、高下心勇み、御供仕り候、尤も何にても、御勝負なされ候に、手柄の事致し
候へば、金子御直に、達者︀致したるとか、手柄致したるとか有りて、御勝負の御祝︀
儀とか、御譽めなされ、御金下され、仕合能き者︀は、過分の仕合に、妻子をも心安
く扶持仕り、有難︀く存じ奉り候、能き事など仕り候へば、其場に於て、則ち御褒美
下され候故、幾度も抽で御奉公仕らんと存ず、其折しも手を空しくせし者︀は、重
ねては人に先はせじものをと、{{r|挊|かせ}}ぎ𢌞り候故、俄の御供にも、大小百四十人餘よ
り內は、御座なく候ひしが、押竝べて、今日は我は、斯樣の忝き御意、何某は御褒
美下され候抔と、申さぬ者︀は之なく候、斯樣に御仕懸なされ候故、御野川にても、
御言葉の下より、勇み進む有樣、いみじかりし、
{{仮題|投錨=一日中の起居}}
一、常の御行儀、見申し聞き申し仕り候通りは、先づ宵に明朝御晝なり候時差先づ宵に明朝御晝なり候時差
{{仮題|頁=151}}
を、御寢ず仕る坊主衆へ仰付けられ、六つと仰出され候夜、八つ七つ時抔、御目覺
御座候ても、明六つと申上げず候へば、起きさせられず、御床に待たせられ、御時
差申上げ候時、漸く明六つを待付けたりと仰せられて、御晝なり遊され候、又七つ
時と御時差仰付けられ候を申上げ候へば、百夜に一度も、御睡く思召し候折柄は、
餘り睡きに、今半時過ぎて、申し來り候へと、相返され、其時も御睡き時は、明六つ
まで寢せよとか、明六つ半に參れと、御時差遣され候、扨は御晝なりては、御床の
上にて、御髮を御手自ら鼻紙引裂き、一束に遊され、御手水所へ立たせられ、御手
水遊し、例もの御床へ御直り、御長命草呼ばせられ候、御長命草附き申す者︀、奧表
定り申し候、尤も御前御疊の上に、唐革を一枚數き、其上に御長命草入・灰吹入・御
火取置き申し候、御長命草は三ぶく、時により五ふくか、數定りて召上られ候、扨
御烟管は、內外御掃除遊され、右の御道具共、御仕𢌞はせ、夫より御小袖召し、御脇
差差させられ、御腰物は御持たせ、表へ御出しなされ置き、直に御閑所へ御入りな
され、御閑所は二疊敷、如何にも綺麗になされ、御棚三楷に釣り申し候て、御硯・
御料紙、色々の御書物に、御手本・御腰物縣・御かんばん・御{{r|刺刀|さすが}}、色々の御道具、ひ
しと置かせられ、冬は火を置き、夏の末より秋迄は、蠅や蚊など入り申さゞる樣
に、御障子の{{r|狹間|さま}}抔、{{r|戾子|もじ}}にて御張らせ、召したる物を脫かせられ、御入れなさ
れ候、冬は御帶計り御解きなされ御座候故、御騎馬には、奧小姓衆・表小姓衆相詰
め申し候、御獻立上げ申し候を御覽なされ、御心に入らぬ所をば御直し、御物書
衆へ遣され候、御物書衆書直し、御臺所へ渡す、御狀・書附・日記など上げ申し候
は、戶に四方八寸の狹間御座候、表奧方への御用、一日の御用は、朝の御閑所にて
調へ申し候故、御閑所に一時も半時も御座なされ候、扨御出で、御行水屋へ入ら
せられ、御廣蓋に御帶・御脇差・御鼻紙・御下の帶、差置かれ候、其外、色々御道具共
置き申し候所、定り申し候、御行水も、大方定り申し候樣に遊され候、御衣裝召し
て、表の御寢所へ入らせられ、朝、奧より召させられ候御小袖御召替へ、御座の間
へ御出で、御髮遊され候、其時、出頭衆入替り{{く}}、御用足し申し候、御衣裝召され
し時は、御小姓衆御後へ罷在り候、差出でたる五節︀句には、御上下と一樣の御紋
なり、常の朔日十五日廿八日には、朝御膳の間は、御{{r|襠|はかま}}計りとに御羽︀織を召す時も
あり、其日に限らず、常は御襠召させられぬ替りにや、御衣裝きらびやかなり、朝
{{仮題|頁=152}}
の御衣裝の儘にて、御膳召上られ候例御座なく候、御膳過ぎ、御座敷へ御出て、
上座の眞中に御毛氈敷き、御左に御腰物・御鼻紙入箱・御料紙箱・字林集・三重いん
こくへん抔の御書物箱、置所違はず、御座敷脇に御茶湯あり、御膳の時、御相伴衆
の次第は、御小姓頭衆か誰ぞ、御奉行衆中座仕り、一人づゝ呼懸にて、衣體衆は十
德、俗は上下にて罷出で、左右の座は、下知にて差置かる、御前にても御膝つかせ
られ、扨緩々御咄なされ候、不斷御相伴衆、衣體衆は法橋より次第々々に、俗は如
何なる出頭に候とも、其身々々座敷次第に差置かれ、御膳見合せ、能き時分に、御
目の前にて、御料理仕り候、御臺所衆罷出で、鹽梅︀仕り、御膳の參る時、御膝御直
し、御箸取らせられ候、御相伴衆、箸に取附き候時、御椀を取らせらる、御膳も彼方
此方と召上られず、一色々々の品、御手を附けさせられ、御前御相伴衆迄に、御座
敷へ出す物をば、御騎馬に御小姓頭衆附き居り申して御前見合せ{{く}}、下知仕り
候、御酒抔は御氣根に上られ候、譬ひ御前にて御酒上られぬ時も、御主樣仰せら
れ候は、御相伴衆抔は、たべよと御下知故、酒具し仕り、御酒永引き申し候にも、何
時までも御待ち、扨御湯召上られ申し候、此時御主樣、湯早く召上られ、御相伴衆
の方御覽なされ、皆の給べ仕𢌞ふ迄、御椀を持たせられ候、扨御膳番衆罷出て、御
膳取り申すと、御茶菓子各戴き、御相伴衆手水に立ち申し候、御前にても御手水
なされ、御身の御仕𢌞遊され候、扨御飯︀と御酒の間にも、定りて御嗽ひなされ候、
扨一人づゝ、本座へ召出され候時、御茶道衆罷出て御茶立て申し候て、御前にて
召上られ、次第々々に頂戴仕り、御茶椀など見申して、薄茶も右の次第に候、御茶
道仕𢌞ひ候て、御釜の蓋仕り、柄扚{{仮題|commend=扚はママ。通常は杓}}・{{r|水飜|みづこぼし}}持入り候と、御相伴衆、御前を立ち申され
候、其後、御長命草呼ばせられ、三ぶくか五ふく召上られ、兼ねての如く御預け、御
閑所へ御入り遊され候て、又少々御用も仰付けられ、御出で遊され、御手水遊さ
れ、又は寢所へ入らせられ、朝の御衣裝を召替へ、其後御座の間へ御出で、御腰物・
色々御道具置所、前の如し、夫より色々御用共、御奉行衆を始め、樣々の事仰付け
られ、八つ時よりそろ{{く}}御用差置かれ、御閑所へ御入りなされ候て、晩の御獻立
遊され遺さる、晩には定りて、奧方にて御膳召上られ候、夫に就き御咄には、晩は
定りて奧方にて認する事、皆々女房共の面をも見ん爲めに入るかと、取沙汰せん、
見度くば表へ呼びて見るとも、安き事なり、奧にては、一日の休息を延べん爲めな
{{仮題|頁=153}}
り、奧にて不行儀せんとにはあらず、表よりは、何としても安しと仰せられ、奧へ
其日々々の御相伴誰々と、御書立を以て、奧方の老衆へ遣され、各へ觸れ申し候、
扨御閑所より御出で、御行水なされ候て、御髮遊され、表の諸︀侍・當番の衆計り相
詰め、其外は宿々へ罷歸り候、奧方、表の御法に替らず、御女房衆も表の如く、夫
夫の御奉公にて、旣に御膳の時は、表の如く、老衆中座にて、御相伴衆段々差置か
れ、御膳中・御酒・御茶の時まで、替る事なく、奧方にても、御小姓衆・御相伴衆・おと
な衆・二三の間・御末御中居の衆番替り仕り、非番の時は、宿々に罷在り候、御用の
時は、御觸にて面々罷出て候、御屋形も數々多く御座候、御上﨟衆の內に、君達出
でさせ給ふ御方は、別に夫々に局の名附け置かれ候、其外大局とて、六十間に一通
り、又七間局とて四十餘間、新長局とて五十餘間に一通り、其外彼方此方に二十
間・三十間、軒を竝べ數多く建て申し候、何れも中一通り杉緣になされ、兩方にひ
しと口を明け、思ひ{{く}}の座敷の住居、所々に火燒く所を附け、口々には金欄︀・緞
子・綸子・縮緬の類︀にて、思ひ{{く}}に幕と暖簾下げければ、其內を通れば、沈・茶の
匂燒物滿ち{{く}}て、心も空に揚る如くなり、御茶過ぎて後、御相伴衆立ち候へば、
御寢所へ入らせられ、御自筆を以て、明朝の御相伴衆誰々と、御物書衆へ仰付け
られ、御時差は何時と、不寢の坊主衆に御使有りて、御床に差置かれ、御髮を解か
せられて、御長命草召上られ、御自身御掃除なされ候、一日の內に、御長命草二三
度、數は三ぶくか五ふく、御枕元に毛氈橫に敷き、御腰物・御脇差、御枕近く御自
身置かせられ、御帶は二重になされ、御枕と御脇差の間に置かせられ、御小袖一
つ、御襟を御取り、引立ち召し候樣に、御脇に置かせられ、御左の方には鼻紙入れ
差置かれ、御脇に志津の御長刀御立て差置かれ候、右の次第、朝夕の御作法此の
如く、寒の內にも、御行水二度は遁れ申さず候、斯樣の御嗜、世上にも稀なる御事
と、下々まで申し候事、
{{仮題|投錨=政宗の風流}}
一、折に觸れたる優しき御慰には、春は花の遲きを待佗びさせ給ひ、御花壇に御
殿を立てさせられ、鳥の聲々の春めきたるに、御心を伸べ給ひ、漸々花盛になり
ぬれば、{{r|爰彼|こゝかしこ}}の山々寺々にて、花の會緣に長き日を忘れさせ給ふ、莊子は、夢中に
小蝶となりて、百年を花園に遊んで、實に面白き夢にや有らんと興じ給ひ、夏は
又聲古くして、鶯も一入春の名殘になつかしきと有り、時鳥の一聲おとづれ行く
{{仮題|頁=154}}
時抔は、まだ聞合はざりし音一聲と仰せらる、或時は、御花壇へ時鳥聞きにと有
りて、夜の內、出でさせらるゝ時も有り、北山邊など𢌞らせられ、其外色々花を御
覽じては、春は只梅︀櫻の色と香の類︀なきのみなり、猶ほ夏の花こそ咲き亂れ、一入
面白けれと、御花壇にて、御酒宴樣々なり、夏も半にてゆるがぬ草を照す日抔は、
涼の御殿を建て置かれ、御出で遊され、淸水に酒を浸し、涼々たる山風に暑︀さを
御忘れ、又は御川狩とて、御領中の在々迄も出でさせられ、川勝負に逍遙し給ふ
に、時の移るを知り給はず、秋にもなれば、殘る暑︀さの御慰、漸々秋闌けて、草葉の
露も物哀れに、木々の梢も色附けば、紅葉を眺め、盛の時もありしものをと、生者︀
必滅の理、此氣色にうつろふ抔、物事に興を催し、妻戀ふ鹿も折知れば、御ねらひ
狩に歸るさを忘れさせ給ひ、又名に負ふ獵屋の度々には、松島へ御出でなされ、
月諸︀共に詩歌の御慰、彼の瀟湘の夜の月も、此島の景にいかで勝りしとなり、彼
方此方にて御山追など有りて、御勝負の鹿かせぎ、御賦りなされ、諸︀人に慈悲を
加へ給ふ、冬は物事替り果て、木々の葉落つる木枯の、音も身にしむ折節︀は、時雨
の音も物悲しく、又消え殘る蟲の聲々、物弱々と鳴くを聞召しては、御心を痛め
させ、何となくとも、今日明日の日數ぞ限りなるべきと、哀れ催し、一年の掟を、昔
より人間の生死に譬ひしも、理なりと仰せらる、日數積りて雪積り、谷の小川も
池水も、氷と成りて音もなく、木樵の通ふ道も絕え、行歸る人も稀なるを御覽じ
ては、国離れたる山家々々に住む者︀は、如何にぞやと思召し、又賤{{r|山賤|やまがつ}}の經營たら
ん者︀は、膚への衣薄くして、さぞ悲かるらんと、物哀れなる御有樣にて、昔の延喜
の帝の、寒き夜に御衣を脫がせられ、民の苦みを悲ませ給ひしとなり、誠に有難︀き
御志、凡夫の及ぶ所にあらずと、御意遊さる、寒き折の御慰は、寺々へ御成、詩・連
句の御遊、又は御城にても、其道得たる者︀を召されし夜は、一入世間閑かにて面
白しとて、御慰み給ふ、何れに付けても、能く興を催し給ふ御事、比類︀なき御事に
候、又或時、御庭の泰山木、何時の春より色能く盛なる頃、廣綠にて御酒宴始り、
御意に梅︀は花の上の、又かうふんぼくとも名附けて翫び、世間の言葉にも、梅︀櫻
と云ふは、梅︀は先に咲くを以てならん、歌道には、花と詠めば、櫻のことを云ふ、
然れば櫻は花の總名なり、實にや類︀ひても、誰か此花の色を捨てん、此花に梅︀が
香を移して、柳の枝に咲かせんと、昔いひけんも、及ばぬ願なり、斯く有りたきも
{{仮題|頁=155}}
のと、御笑ひなされ、花の本に歸らん事を忘れんと、御盃を傾けさせられ、御短册
を御自ら持たせられ、花の少き枝に御懸け、心あらん者︀は、思ひ{{く}}に懸けよと、
御諚有りければ、御身近き上﨟衆、手に{{く}}短册持出で懸けければ、之を始めとし
て、流井の末の者︀まても、輕きは常の事、斯樣の時の數に入らんと、我劣らじと懸
くる程に、枝茂き花の間に、短册の所せき間なくぞ見えにける、之を御覽じて、御
感斜ならず、我れ持扱ひ遊べばとて、さはなき物なるに、斯樣に心を寄するこそ、
返す{{く}}もやさしけれ、賴もしきかなと、御悅の眉を傾け給ふ、折節︀西より山風
はつと吹來り吹返し、未だ盛の花も莟も短册も、一度にさつと吹散し吹落し、す
くひ揚げ、暫しは中に吹𢌞し、其儘風は鎭りしは、面白の有樣や、吉野・立田や初
瀨山、花吹き散す山風も、是にはいかで勝るべき、御庭はさながら、時ならぬ雪白
砂に異ならず、御前を始め奉り、上下一同に、是は{{く}}とて、興に乘じ、暫しは鳴も
鎭らず、風は不思議の物ぞかし、扨此花を散せしは、能しとやせん、惡しきとやせ
ん、一興を催すと雖も、詠むるに後物憂し、然れば風は憂き物よ、情なの風情と仰
せらる、大空にふる程の袖もがなと云ひしも、實に思はるゝと惜ませ給ふは、何
れも又興ぜし心を引替へて、花の別を悲み、御酒宴過ぐれば、皆局々に歸られし、
{{仮題|投錨=山野の御膳場}}
一、御野山川狩にて、朝の御膳場は、宵より何方々々と仰付けられ、晩の御膳場
は、朝より御定め、御幕奉行衆役にて、御殿の御相伴衆罷在り候所より取置く御
假屋を、人馬に附け、何方にても相建て、雨雪には上に桐油を懸け、間々仕切を附
け、御膳の時は、御相伴衆、常の如く、一人宛罷出づ、十德・肩衣は、野山にては御免︀
しなされ候、御膳は御內外共に、御膳番の外、構ひ申さず候、御茶の時も、坊主一
人宛罷出でられ候、御臺所にも、年の寄りたる御譜代衆、御膳所に罷在り、おにを
仕り、御膳番衆總べて野山にても、誰申渡あるとも見えぬに、出頭衆・小姓衆・諸︀侍
衆・御徒衆・御鷹匠衆・小人下々迄、一所々々に罷在り、高聲も仕らず、馬を一度蹈
合せたる事も御座なく候、
{{仮題|投錨=文武の嗜}}
一、第一の御心懸は武具なり、朝夕珍しきを相添へられ、古きを捨て給はず、御
家中も上を學ぶ習なれば、叶はぬ迄も、武具・馬具の嗜仕り候、能々叶はぬ者︀には、
仕立て下さる、男の道晝夜心懸けよ、忠孝油斷すれば、天道に背くものぞ、又老若
共に、成らざる迄も、文を心懸けよ、文は理を明かにし、忠孝の道なれば、人々學
{{仮題|頁=156}}
び候はで叶はぬ道なり、文武の道は、總べて專ら嗜むべしと仰せられ候、御前に
て不斷の御翫には、御物書衆・儒者︀衆を召しては、其道々を御尋ね、佛法・王法に
は、僧︀・儒も言葉を失ひ、詩・連句を遊しては、名を得たる和尙達へ遣さるゝに、一
字の直しもなし、御手跡又宜しくして、他家の方にても、懸物にするなり、歌の道
も達し給ひ、折節︀の御詠を集め、近衞院へ遣され候へば、たま{{く}}一字・二字御直
しなり、公家方にも多くあらじと御感有り、御馬は申すも愚なり、御鐵炮は一夢
が、祕事を相傳奉り、下げ針・懸け鳥も難︀からず、其外御物數寄の道、亂舞は世間
の上手、表を馳す、花を立て香を焚き、茶の會・揚弓の道・料理の道も暗からず、御
細工も又比類︀なし、されば野山村老の翫ぶ事、一つとして御存なき事なし、明暮文
字を嗜み、占の方の道は、軍法の用たりとて、諸︀人舌を振ひ申す程なり、雨の夜雪
の朝には、御{{r|宿直|とのゐ}}の人召集め、詩・連句・國中の御政事のみにて、日を暮し夜を明し
給ふ、或は松島・鹽釜・木の下・宮城野・名取川、名取りたる所へは、御假屋御殿を建
て置かれ、年に一度二度も御出でなされ、御酒宴の御遊、樣々記すに遑あらず、只
折節︀承り、耳にとまりし事のみ、十に一つ二つ書殘し侍りし、假初の御咄にも、唐
天竺・震旦の御引懸、聖人・賢人の言葉を交へ、仰せられしかども、我身數ならぬ者︀
なれば、一つとして覺えず、有の儘、我口に出づるのみ書置く、心あらん人覺え侍
らん、
{{仮題|投錨=十五濱の鹿狩}}
一、寬永十三年正月十九日に、若林御城を立たせられ、牡鹿郡十五濱へ、御鹿狩
に御出馬遊され、御供の大身・小身・勢子以下數萬人、山より嶺、谷より澤、いやが
上に取𢌞し、たま{{く}}の御遊、如何樣にもして、鹿の一つも留めて、御機嫌能く、御
感にも預らんと、諸︀人勇をなし、岩・巖石をも嫌はず、{{r|喚|をめ}}き叫んで駈けり𢌞り、御紋
纒の所へ押寄せ、御勝負も有る樣にと、上下の稼ぎ、中々申すも及ばぬ次第なり、
其時の御諚には、此度諸︀人精︀を入れて、我機嫌も能き樣にと勇む氣色、何時より
も勝りたりとて、御喜悅限りなし、此島へ出づるも、此度名殘と思ふなり、其故は、
何時の山よりも、此度の心は、物哀れにて、蒙氣晴︀れやらず、鹿にも望なし、今度
は此方を氣遣ひ申さず、諸︀人も此島の思出に慰め勇めと計り、山每に仰せられ、
たま{{く}}鹿をも遊し、御身近き衆に討たせられ候、或時、御船にて小野崎山へ御
出で遊され候、御船場にて、御乘物より下りさせられ候へば、浦の者︀共數千人、水
{{仮題|頁=157}}
衆・梶取數百人、頭を地に付け罷在り候を御覽じて、此程の骨折、大儀千萬なり、
去り乍ら此島へは、大方是れ計りなるべきぞ、其身共も、名殘の奉公と思ひ、逗留
中精︀を出すべし、又今より後は、若殿、節︀々此島へ出でらるべし、奉公如在夢々な
かれ、我等代の如く稼ぐべしとて、御聲も立つ計りに、はら{{く}}と御落淚遊され候
へば、伺候の者︀共、前後を忘るゝ計りに萎れ果て、袖を絞る計りなり、御供の諸︀人
咡くは、此度は何とやらん、御心進みもなき事、忌々しき御樣子、よからぬ事にや
と、しほ{{く}}と見えし、暫く有りて仰せられ候は、斯樣に申すとて、心細く思ふべ
からず、又來年の春は、出こそせめ、命は知れぬものぞ、皆々無事を祈︀れと仰せら
る、夫より御船に召させられ、水主・梶取達竝に棹の歌・舟踊、船中さゞめきて、小
野崎山へ御著︀、其日は逗留の山なれば、我も{{く}}と身をも惜まず、曳聲を出して
狩暮す、其日不思議なりしは、朝、卷込めしまでは、見えぬ白き鹿三つまで出で
候を御覽じて、珍しき事かな、手柄次第に生捕り參れと仰付けらる、御前衆打乘
り打乘り、勢子を取重ね、爰に追詰め、彼處に追込め、馳𢌞る有樣は、前代未聞の狩
倉なり、されども此鹿、三間・四間飛越えて、劒の樣なる岩・巖石をも、自由自在に駈
けり𢌞るは、中々留むべきやうもなくして、二つの鹿をば打漏す、殘る一つも、中
中{{r|蜒|かげろふ}}・{{r|霆|いなづま}}の如くにて、漏すべう見えしを、御自身御馬を召懸け、大音揚げて駈𢌞
し、八方に{{r|隙|すき}}をあらせず、揉立て給へば、此鹿、御威勢にや恐れけん、終に駈けり、
倒れ、留め給ふ、扨御山過ぎ、其日御入馬と定りし日雨降り、御逗留遊され、朝夕
の御膳、何時よりも早く過ぎ候て、其上御意に、皆々最期の時、辭世とて歌を誦し
詩を作るげに候、我等年傾き、形の如くなれば、死期も近からんと思ひ、辭世とも
ならんかと連ねたり、聞き候へとて、
{{仮題|投錨=辭世の歌}}
{{left|曇りなき心の月を先だてゝ浮世の闇を晴︀れてこそ行け|3em}}
斯くの如きは、如何あるべきと仰せられし時、御相伴衆の內にて、病の先に藥を用
ふと申せば、兼ねて斯樣の御心懸は、御長久の至と存じ奉り候、何事も千年の後
の御言葉と、祝︀し申されければ、一段面白し、去り乍ら命は限り有るものぞ、何に
{{仮題|投錨=老の思出}}
付けても、徒に年を重ねて、無下に死せんは、口惜しき事なり、今に死すとも、殘
多き事少しも之なし、老の思出に一合戰、若樣をも習し申し、若き子供や孫共に、
至るまで、軍の樣子をも取飼︀ひ、死せんものをと、是れのみ心に懸るなり、天下皆
{{仮題|頁=158}}
生れ替り、年の寄りたる者︀は、高下皆死失する、譬へば明日に、如何樣の事出來る
とも、敵・味方若ければ、死ぬまじき處にて、あたら武士共死せん事、無下なる事な
り、天下泰平にて、御爲には目出たく能く、年寄には、こざかしき若者︀共、弟子に
なりて、聞かせたしとて、實に思召入りたる御樣子にて、御淚を浮べさせ給ふ、扨
其次の日、御歸城遊ばされ候が、後に存合すれば、白き鹿などの事、不思議なる
由、各申合へり、
一、同年二三月の頃より、何とやらん、御氣も重々と、御慰みも興ぜさせ給はず、
何はに付けて、御心も進まぬ御樣子、怪み奉るに、萬の事、此夏計り{{く}}と、絕え
ず仰せらる、或は當座の儀に寄らず、忠宗公御爲めと計り、御意遊され候へば、下
下も勇む心なくなりぬ、去に付、方々御作事をなされ、御取立の者︀にも、作事なし
下され、後は知れぬ事なれども、今度計りと思ひ、供をも致さずとありて、御遊山
のみ計りに、朝夕懸らせられ候、或時俄に、袋原へ御出で遊され、能き所御見立
て、繩張など遊され、爰に蓮池を掘らせ、大崎名物の鮒を放し、若し命あらば、來
年は小船に棹さし、老の慰せん、若し又此度登りて下らずば、忠宗公の慰にも然
るべしとて、繩張遊され候へども、餘日なき故、池は御掘らせ之なく候、古川へ御泊
り、野に御出で遊され候が、夫より御御氣色勝れ遊されず候とて、日夜御藥師衆に御
{{仮題|投錨=養生の心懸}}
脈を御見せ、御藥召上られ候、常々御養生深く遊され候故、御自身御脈御覽遊さ
れ、少しの御氣色にも、藥など召上られ候、或時の御意には、病など少しとて、油
斷する事、不覺悟なり、物事小事より大事は起る物なるに、少しの時、養生第一な
り、養生せぬとて、時節︀來らずば、死はせじなどいはんが、身を捨て有らんは、天道
に背く事ならん、然れば少しの煩重くて惡しからん、我抔は若き時より、風抔引
き、煩はしき事、餘り覺えず、少し風の心地抔有る時も、具足著︀て馬に打乘り出づれ
ば、則ち本復せし、醫者︀の藥にも勝りしなり、頃日の若き者︀共を見るに、代に隨ふ
と云ひながら、小袖幾つとなく重ね著︀て、其上朝より晩まで、焚火や炬燵を離れ
ず、薄膚に具足著︀て、野山の住居せば、敵に會はずとも、凍え死ぬべしとて、御笑ひ
遊され候、中一日の御逗留有りて、四月十四日に御歸城遊され候、彼方此方と御
慰み遊され候へども、御氣の晴︀るゝ御氣色なく、一圓御心の御進みなし、藥師衆
も彼方此方御出の時、御酒抔の續ぐにてもやと計り申し候、朝夕の御膳も、御心能
{{仮題|頁=159}}
く召上られず、尤も御酒抔も召上られず、總べて斯樣の御煩出づべくにや、一兩
年前より、時々御膳召上られ候に、御むせ遊され候事御座候を、常々仰せられ候
は、此膳の上にむせる事、以ての外惡しき事なり、然りと雖も、之を取立つる養生
の元なし、されども油斷する儀なしとて、御藥抔御用ひ遊され候、さる程に日に隨
ひて、何とやらん、御氣色重らせて、總別江戶登りの事、五月始めに發足しても、常
なれば苦しからず候へども、何とやらん、次第に不快重く覺ゆるなれば、少しも氣
色衰へざる內、江戶へも登り、御目見をも申し、諸︀大名衆へも寄合ひたく思ふと有
りて、二十日に御發駕と仰せ出さる、其頃、世間流行り皮癬にても候や、御身に少
少出で申し候を、秋保より湯を御汲寄せ、日夜御行水遊され候、又思召立ち、若林
の前の池狹くして、後々も見苦しかるべしとて、御掘らせ遊され候、其外、樣々物
車に御念を入れさせられ、{{r|爰彼|こゝかしこ}}御掃除暇なく仰付けられ其上御食には、總べて武
士は仕合能き時、領中家屋敷に至るまで、事闕かざる樣に仕たるがよし、何事に
ても有れ、仕合惡しき事か、又は國替・屋敷替抔あらんには、蔭々迄も、{{r|塵芥|ちりあくた}}取ら
せ、作事・形の如きの分領の沙汰をも、能く云付けて、破れた所を繕ひ抔して、出
づる物なり、夫は跡の批判遁れん爲めなり、武士の名を惜まぬは、沙汰の限り、父
子兄弟の中にても、移り替りの時は、他人より恥しとて、是程御心を盡されしと
なり、
{{仮題|投錨=上府の途に就く}}
一、程なく四月二十日になれば、御供の衆は、夜の中より御城へ相詰め申し候、朝
の御膳は、岩沼にて召上る筈にて、夜明けなば、御立と仰付けらる、七つ時より
御晝成り、旅の御出立遊され、御座の間に御出で遊され候へどもつく{{ぐ}}と遊さ
るゝ御意もなく、脇より申上ぐる事もなく、御座敷冴え返り、其事兎角物佗しき御
樣子に、見えさせ候故、伺候の衆も、如何樣に今朝の御氣色惡しくと覺えたりと、
諸︀人心進みもなく、旣に夜明けぬれば、御座敷立たせられ候が、彼方此方に御目
留る御有樣にて、懇に御覽遊され、御名殘惜しげにおはしまし候、後に思合すれ
ば、斯樣にあらせらるべき御前表にてやあらん、扨御乘物に召されし度に、御騎
馬の御供・御步衆・御見送りの衆續きたり、常々江戶御登り、又近きあたりの御出
の御供にも、勇み進みてさゞめきしが、此度は上一人より下々迄、ひそめきたる有
樣にて、御供する心もなく、假初にて今歸る心持にて、冴え返りたる看樣にて、物
{{仮題|頁=160}}
すご{{く}}と見えし、御供の我人寄合ひて、一つ心に語りしこそ不思議なれ、總じ
て時鳥を、御閑所にて聞かせらるゝ事を、忌はしく思召せば、年每に其節︀には、時
鳥音信るゝ由申せば、彼方此方に人を附け、所々へ御出で聞かせられ候ては、目
出度し{{く}}と、御悅び遊され候、頃日彼方此方にて、{{仮題|投錨=途に杜鵑を聞く}}時鳥承り候由聞召して、
まで、山邊にて御膳抔召上られ、聞かせられたく思召しけれども、終に御聞なく候
が、二十日の朝、御乘物增田と申す在家を過ぎさせ給ふに、いづくとなく、時鳥一
つ飛來り、路次の柳に近々と羽︀を休め、聲のを止まず啼き御乘物の先に隨ひ、一町
計りが間啼續き、東を指して飛び去りぬ、諸︀人之を見て、此程待たせられしが、御
門出目出度しと悅びけり、扨岩沼の御殿にて御諚には、今朝の時鳥聞かぬ者︀はあ
るまじ、我れ今七旬迄、今朝のやうなる儀覺えずぞ、始め一聲聞くだに珍しかりし
に、乘物の內より、鳥の姿、而も一町程見えたる事、終になし、江戶への門出よし、
江戶にての仕合、思ふ樣なるべし、但し身の爲めは惡しき事もあらんと、御意遊
{{仮題|投錨=片倉小十郞の居城白石に入る}}
され候、諸︀人も是れ不思議なりと申合へりぬ、其夜は、白石に御寓遊され候へば、
片倉小十郞居城へ御成申す、種々の珍物調へ御馳走、申すも愚なり、然るに惡し
き者︀の有りて、小十郞が惡を言立て、目安に調ひ上ぐる、色々忍の御穿鑿なされ
候へども、皆僞なれば、却て讒人の心をさげしみ、國に讒人有れば、其國治り難︀き
事を、深く御悲み遊され候、次の日小十郞御膳を上げ申され、御機嫌一入よく、御
酒聞召し、彼是御盃下さるゝ時に、小十郞孫を子に致し、三之助と申せしが、御目
見得仕り度く、御騎馬に畏りしを、南次郞吉、御機嫌を伺ひて、冥加の爲めに、御盃
三之助に下し置かれ候へかしと申上ぐるを、聞かせられぬ樣にて、四方の御咄遊
され候、やゝ有りて、御序を見合せ、三之助には如何と、又申上げ候へば、其時御諚
には、以前云ひ又云ふ、左樣には申さぬ物ぞ、其身抔に、氣を附けらるゝ我等にて
はなきぞ、さらばとくにも呑まする筈なれども、態と控へる子細有りて、差さぬ
ぞ、子細は、小十郞、子は持たず、あの孫を取立て、實に如何樣にやと、不便に思ひ、
下々の者︀迄も、掌の上の玉の如く、勞はり育つと見えたり、四つ五つなれば道理
なり、以前我前にて、{{r|欠見|あくび}}えしぞ、其時は小十郞も、常に不便がる心を引替へて、
俄に淺ましき痛き思ならん、其子を座敷へ呼出し、盃の取𢌞し、忰なれば、小十
郞如何計り難︀儀に思ひ、又脇よりは見苦しき有樣、流石の小十郞が子には、似合
{{仮題|頁=161}}
はぬ抔と云ふ者︀も有るべし、夫ならば小十郞爲め惡しく、恥を與へるに似たりと
仰せらる、扨御立の時、御乘物の前に召寄せられ、差させられし御小脇差を、三
之助に下され、御手自ら御差し、扨も{{く}}小十郞果報者︀かな、是程能き子を、能
き者︀に預け、育てさせよと仰せらる、扨又小十郞を御乘物の內へ御引入れ、其方
事を、馬鹿者︀有りて、十度に餘り、種々目安を以て、我に讒す、されども僞なれば、
{{仮題|投錨=小十郞を戒む}}
疑ふにも及ばず、打捨てぬ、譬ひ惡しみにて如何樣に云ふとも、我等あらん限り
は、何事も心安かれ、只讒者︀の國に有るのみうたてけれ、我とても何年をか經べ
き、我がなからん後は、萬づ身を愼み、怒を押へて、國の正に久しからん事を心懸
け、偏に計らひ奢る事は、身命を失ふ根本ぞ、明日に何事有るとも、其方が名を揚
げさせんものをと、仰せられしかば、小十郞も泪を袂に浮べ、君も御淚に咽ばせ
給ひて、白石を立たせられしとなり、
一、廿二日は、郡山へ著︀かせられしが、御病氣以ての外惡しくならせられ、御藥の
外、朝の御膳も召上られず、晩方少し召上られ候へば、御供上下驚き、共に力を落
し、夢の如くに成行くとなり、されども御脈は、惡しき御事と御座なき由、醫師衆申
されし、廿三日は矢吹と申す所の原にて、御心も慰むと、鶉鷹御遣ひ遊され候に、
もろなる鶉を總馬上衆取𢌞し追立て、旣に御合せ遊され候へば、其內より烏二羽︀
出て、御鷹を摺立て、雲井遥かに{{r|逸︀|そら}}しぬ、上下手を揚げて空を眺め、是は{{く}}と
計りなり、之を御覽じて、緣こそなき鷹ならんとて、御通りなされ候、俄に東南に雲
覆ひ、西北に風凄じく、空の氣色以ての外替り、鳴神︀夥しく鳴り候て、ひらめき渡
り、落縣る如くに、{{r|電光|いなびかり}}切に光り渡り、大雨しきらなれば、取る物も取敢ず、人心
地なく、漸く白川に御著︀き遊され候へば、御供の衆も濡れたる物を絞り干して、
宿々に今日の草臥を休めんと、或は語り合ひ、或は臥して、鳥諸︀共に起き渡りて、
御供の支度して出でぬ、
{{仮題|投錨=日光社︀參}}
一、廿五日に、日光御社︀參遊され候、權現樣御年忌も御座候故、古よりの堂塔、殘
らず御建立遊され候に付、諸︀大名衆も御參詣なされ候、又公家衆御下り、其日社︀
參、殊更御佛前に於て、猿樂御法樂の能仕り候故、大僧︀正へ入らせられ候、事終つ
て御參りなされ候、僧︀正は御佛前に御座候、日光總奉行伊丹播磨殿、御案內なさ
れ候、御登山遊され候へば、宮つ子は神︀樂を奏して、きねが鈴振る袖の音、物淋し
{{仮題|頁=162}}
く、貴さも膽に命じ、目を驚かす計りなり、御拜殿にして、神︀子再拜の禮を遊され
候へば、宮人御幣を持參し、御髮の上にて、三度禮し奉る、其後、{{r|供饗|くぎやう}}に土器︀三つ重
ね、持參申し候、三々九度の御拜獻過ぎて、御下向のきそく催し給ふ、堂塔の結構、
中々言に述べ難︀し、金銀珠玉を鏤め、唐木の柱色々に、又有るべしとも思はれず、
然れども御氣色衰へ給へば、早々御下向ならんと思召しけるに、播磨殿仰せられ
しは、日本國中に、斯樣の儀、向後御座あるまじく候、私此總奉行仰付けられ、冥
加に叶ひたる儀にて候、上樣にても、御機嫌一段にて御座なされ候、迚も御大儀
惶入り候へども、取々御覽、御前に於て、上樣の思召立てられ候程をも感じ、御申
次には、御取成をも賴み申上げ候、貴公樣御一言にて、上樣もさこそ御機嫌、夫に
{{仮題|投錨=奧の院に詣る}}
付、我々式も猶以てなりとて、奧の院までと、御案內有り、此奧の院へは、御本堂
の脇より、一尺計り宛の石段五十餘り宛にて四段、又三十七八宛の石段三段御
座候、御氣色聢と御座なく候へども、わりなく思召し、御登りなされ候、奧の院の
御堂の前、石段一つになられ、御足立たせられ候と等しく、前へ御倒れ遊され候、
卽ち起し奉り、御堂の前に立たせられて、播磨殿へ仰せられ候は、心閑に能々拜
見申し、下向申し候はむまゝ、御手前にては、御下向候へと、仰せられ候故、播磨殿
は則ち御下り候、其後、御堂の前に立たせられ候が、是より早や下向すべし、心に
懸る事有り、倒るまじき所にて倒るゝは、日光も生れての參詣、是迄と有るを示
させ給ふと見えたり、死しても性の有るべくば、參らんものをと仰せらる、御名
殘惜しげに見返り給ひ、御雙眼に泪を添へ給ふ、御倒れ遊され候時、如何遊され
けん、御右の大指の脇、少し切れて、血を注ぎしを、紙にて御結はせ、御見物事過
ぎ、神︀馬の立ち候御馬屋へ御入り、御衣裝なされ候、夫より今市へ御歸り遊され
候、其日引替に、鹿栗毛とて、御祕藏の名馬立て候時、俄に倒れ、北に向ひて二つ
三つ祝︀ひ則ち死す、藥など飼︀ひて、樣々取扱ひ、少し息出で、其夜に入り、本心出
で、今市に歸るには、本の如く機嫌よげにて歸りぬ、不思議の事に云合へり、扨今
市へ御著︀き遊され、御行水抔遊され、御髮御結はせ、御{{r|外居|とのゐ}}には、南次郞吉・加藤
十三郞罷在り候、御座敷の前に、樅の木御座候に、御後の方より、鳩の如くなる鳥
一つ飛出で、かの木に留りけり、兩人疑ひ見るに、色々毛色いつくしさ、繪に畫く
とも、筆に及ぶべきとも覺えず、餘りに不思議に思ひ、申上げ候へば、御覽じて、あ
{{仮題|頁=163}}
れは山鳩とて、容易く里近くなき物ぞと、仰せられ候ひしが、此鳥飛立ちて、日光
の方へ行く、其跡を見るに、煙の如くなる物、樅の木より、鳥の飛行く跡に見ゆる、
不思議と見れば、御後より樅の木迄、冴え入る月影の如く引はへて、暫し消えざ
りし、兩人流石云ふべき事あらず、興を醒し、御他界以後にぞ、斯く有りしと云
ひし、
{{仮題|投錨=殉死の風を非とす}}
一、同廿六日に、梅︀の宮と申す所にて、朝の御膳召上らる、何の御序もなきに、追
腹の御咄遊され、夫より古へ今まで、國々方々の追腹仕たる由、惡しくのみ、しみ
じみと御意遊され候、同廿八日に江戶へ御著︀、御屋敷は前の年皆火事致し、御新
宅なれば、其日を御移りと遊され候故、忠宗樣、御屋敷に於て、御膳御振舞遊さ
れ、上下御供の者︀迄下され候、皆々旅の休息に宿々へ歸れば、知りたる人は見舞
に來り、打寄り{{く}}さゞめき合へり、翌廿九日には、松平伊豆守殿、上使として御
{{仮題|投錨=家光松平信綱を以て病を訪ふ}}
諚には、炎天の時分と云ひ、殊更國元より常ならぬ病氣の由、吳々心元なく思召
され候、緩々御休息の上、御登城御尤に候、病氣の體を、伊豆に能く見て參れとの
御事なり、御請には久しく御面顏を拜し奉らず、國元に有る心地もなく候に依つ
て、罷登り候、明日は朔日と申し、御目見申上ぐべく候、御取合へぬ御上使、面目是
に過ぎざる由仰上げらる、次の日御登城遊され、晝時迄に御歸り遊され候へば、押
付御鷹の鳥を、阿部豐後守殿上使にて御拜領、御諚には、東西の諸︀大名衆、每年四
月替りと仰出され候儀を違へず、夫程の病氣を押して御登り、驚入り思召す、去り
乍ら會はせられて、御滿足の儀、盡くるに之なく、御氣色以ての外宜しからず見
え申し候間、油斷なく養生なされ候へ、{{仮題|編注=1|爐庵|きやうあんイ、下同}}法印に直々申付け候、明日脈見せ、取
詰め養生專一の由、御上使なり、さるに依つて、五月二日より爐庵法印の御藥上ら
れ候、御脈は替らぬに、御食物抔は、朝に御{{r|蓋|かさ}}にて、少し計り召上られ候て、次の
日迄も上られざれば、日に隨ひて衰へさせ給ふ、御腹少々づゝ張出し申し候由、
御下々騒ぎ合へりぬ、諸︀大名衆は申すに及ばず、日々夜々の御上使に御座候、さ
れば御他界の二三日前まで、{{仮題|投錨=病中努めて上使に應接す}}御見舞衆、上使と有れば、御上下にて御出會なされ
候に、御子樣達、其外御年寄衆抔、大炊殿を始め申し、斯樣の御氣色にて御出會、
御引立ち候事、御無用の由、制し御申し候へば、足の叶ふまでは仕るべし、思定め
たる病氣なれば、驚くに非ずとあり、諸︀人御苦しげなる御樣子見奉り、詮方なく
{{仮題|頁=164}}
見えし、方々の御音信、御禮の儀、常の如くに遊され候、御氣色は同じにて、御腹
日に添ひて張り申し候、六日朝より、俄に御脈惡しくならせられ候由にて、各膽
を潰し、驚き合へりぬ、御主樣も御脈御覽、今朝より脈替りたり、驚くべきにあら
ず、總じて七旬と云ひ、煩大病なりと、御咄し遊さる、是程に成行く煩に、療治成
り難︀くなれども、第一は上樣より日々夜々の御念、忝き上意もだし難︀し、又は妻
子又家中の者︀共、嘸心元なく思はん爲め、萬一仕合能く快氣せば、夫に增したる
事なし、旁〻養生捨つべきにはあらず、我命鐵の鎻にて繋ぐとも、助かり難︀しとな
り、日に增し時に替り候て、御草臥れなされ、御腹張出し申す事、以ての外なり、
上樣にも大きに驚き思召し、土井大炊頭殿・酒井讚岐守殿兩使を以て、江戶中諸︀大
名家の家中々々は、申すに及ばず、町々にあらゆる程の醫師、尤も御典藥衆は申す
に及ばず、御屋敷へ同道有りて、上意には、今日斯樣に藥師衆集め越し申し候間、
面々に脈をも取らせ、兩使見え申す所にて、入札を以て吟味し、藥御用ひなされ
候へ、最早京方・西國・遠國へ、藥師尋に遣し候、參著︀次第に、段々脈見させられ候へ
と、其日參り候醫師衆、御座敷二行に列り、緣側・廣緣まで充滿して、御脈取りぬ、
扨道三法印・爐庵法印座上より始め、末々の衆迄、一々入札取り、所存の通り、聞
え給ひけれども、是れぞと思ふ手立もなし、道三法印御見立の替りて面白しと
て、滿座一同して、道三に落居し、御藥御用ひ遊され候、斯樣に藥師衆寄合ひ申さ
れし事、上意とは云ひながら、夥しき事、古今聞及ばずと、諸︀人申合へり、
一、上樣より江戶中諸︀寺・諸︀社︀へ仰付けられ候て、御祈︀念中々夥しく、此人失せな
ば、日本の武威も絕えなんと、思を惱まし給へば、貴僧︀高僧︀も肝膽を碎き、本尊を
攻伏せ{{く}}祈︀る聲は、如何なる閻魔の使、無常の敵も近付き難︀く、鈴の聲雲に響︀
きて、如何なる惡靈も死靈も立去りぬらんと、夥しき御領の寺々にも、御祈︀仰付
けられければ、有驗の尊僧︀、大法祕法の壇を飾り、香の煙ふすぼり返つて、一度は
怒り、一度は恨み、本尊に向ひて、敬白の鐘を鳴し、汗をも拭はずに、息をも亂さ
ず、揉に揉うで祈︀る有樣は、天神︀・地祇もなどか納受なからんと、賴もしくこそ覺
えけれ、其外名有る者︀は、申すに及ばず、町人・百姓に至る迄、心を惑はし、神︀社︀・佛
閣・山野の祠にも、夜籠・日詣、引きも切らず、懸けぬ立願もなし、御國の騒動斜な
らず、されば及ばぬ者︀迄も、御守札調へて、我も{{く}}と差上ぐるを、御苦しげなる
{{仮題|頁=165}}
御氣色にて、諸︀人の存寄こそやさしけれ、此度の病氣若し取直し、國に置きし者︀共
に、二度會うて、此悅を報ぜんものをとて、御自身一つ宛戴き給ひければ、諸︀人も
彌〻有難︀き感淚を流さぬはなかりけり、是はせめての御家中なれば、さもあらん、
國々所々にも、御祈︀念遊されけるにや、御守札限りなく、參通すること有難︀し、
一、御病氣日に隨ひて、重らせ給ふと聞えぬれば、御國中より、忍び{{く}}に馳登
り、町屋々々に隙もなく宿を借り、其外、飛脚晝夜行通うて、道中・江戶中、手足を空
にする事、以ての外なり、或時內藤外記殿・柳生但馬守殿御出で、家老衆中へ仰せ
られ候は、此度御煩に、御國元より諸︀侍中馳登り候由、尤もなれども、上樣を始め
奉り、江戶中ひし{{く}}と仕るに、多人數走り集り騒しく、又多き中にて、物云抔も
出來なんは、穩便ならぬ事なり、今よりは此由御國元へ申下し候へとて、扨利根川
に人留を差置かれ、走登る衆を御留め候へども、忍び{{く}}に集りぬ、されば少し
も御心持能く、御食・御藥も御心能く召上らると有れば、上樣にも御悅、御家中は
申すに及ばず、江戶中色を直し申せしとなり、
一、東西の諸︀大名衆中、朝は寅の刻より御出て、又は御使者︀は子の刻まで御座候
て御歸り、入替り{{く}}御入り候へば、馬乘物共、御門前より四五町は行續きて、行
通ふ人も通り得ず、御家の老衆・下々は、晝夜まどろむ事もなく、如何せむと、呆
れたる有樣にて、夢現とも分は兼ねたり、御病氣彌〻御强くして、二三人にて押へ
て、御衣裝・御襠召させ申し候へども、或は上使又御見舞衆と申せば、一度も闕か
せ給はず、常の如くに、御出會なされ候、扨御意遊され候は、誠に我等年にも不足
なき身なるを、色々有難︀き上意共、生々世々忘れ難︀く覺え候、今に死しても、思置
く事之なきなり、誠にいんしをば咎めずと云ふ、未練︀とやらん、人は思ふべき、
只一世の內に、若殿の御用にも立たぬこそ口惜しけれと、御淚ぐませ給ひて、又
斯樣に大名・小名に至る迄、晝夜の御出こそ、返す{{ぐ}}も忝き事なり、斯くまで老
い衰へたる者︀に、何時のよしみ深く有るやと、膽に銘じ候、是れ然し乍ら、上樣よ
りの御願故なり、成るべき程は、皆々へ御目に懸り、幾許ならぬ命の內に、直に御
禮申し、又使札の所も有るべし、國元より軍用の爲め、飼︀ひ置きたる馬共、見苦し
くとも、思ふ方々へ進ずべしとて、御自身夫々に遣さる、其後、御花壇御路地御覽
じ、御成を申上げんと思ひしに、最早成るまじく、命程無念なる物はなしとて、奧
{{仮題|頁=166}}
へ御成なされ候、
一、十八日、御名殘とや思召しけん、朝の御膳、御自ら御獻立遊され、御相伴衆、
常の如く差置かる、如何にも緩々と、皆々御酒下され候、
{{仮題|投錨=病中の政宗}}
一、御腹を押へ申すに、指立ち兼ね、彼方此方へ滑り申す計りに張り申し候、御
肩より上、御腰より下は、肉落ち衰へさせ給ひ、御座敷に御座遊され候事、御成
り兼ね、蒲團厚く遊され、其上に御座なされ候、是程强き御病氣にも、一日に二度
の御行水・御髮、外れ申さず候、御寢所より御晝なり候て、橫に成らせられ候事
は御他界迄も、一度も御座なく候、御蒲團の上にも、御膝付かせられ、若し休息と
て、御片膝立てさせられ候外、御行儀常の如くなり、御藥抔召上られ候にも、御口
へは、思ふ樣に召上られ候樣なれども、御喉へ入り兼ね申す故、夫より蘆の{{r|髓|ずゐ}}に
て少し宛召上られ候、其時仰せられ候は、死病とて是程迄はあらじと思ひしに、
總身草臥れ不自由にて、力業にもならぬなり、心計りは替らねども、湯水さへ呑ま
れぬ事の口惜しさ、身ながらも、蘆の髓を力にする事、哀れなり、身は段々に死し
て、後は心と口は死ぬ物ならんと、から{{く}}と御笑ひ遊され候處に、快庵法橋、水
に寒漬の米の粉を少し入れ候て、持參申し候を、御覧遊され、是は如何と御尋ね
候へば、寒晒に御座候、若し御食にも成らるべきかと、支度仕り候と申上げられ
候へば、一段の氣轉なり、人の命を養ふには米なり、如何なる名醫の藥にも增なり
と、云へりとて、蘆の髓にて召上られ候へども、聊か御喉へ入らず、御苦しげなる
御有樣を、御側衆見奉り、堪へ兼ねたる有樣にて、深く淚を流しければ、御目を怒
らかし、如何側近き者︀共は左樣にはせぬ物ぞ、心弱き事かな、思ひもうけし病人
も、左樣の未練︀に心臆れて、苦しきと仰せられしが、又御言葉を替へて、道理な
り、皆側近き子供が、幼き時より召仕へば、我より後には、如何計り便なからん、
其上死ぬ程の病人、終に見る事有るまじく、定めて我等を死やせんとて、左樣に
思ふか、死病といふは、斯樣にはなき物ぞ、心安く思ひ、頓て本復せば、汝等が此
程の苦勞をして取扱ひし、思をも報ぜんぞと、皆々に力を御添へ遊され候、承り
て、あれ程の御氣色にても、斯樣の御意は有難︀しと、思ひ合せて、一同に聲をも立
つる計りうめきて、已に御手足にも取付く計りに存じ候へども、猶々力御付け遊
され候御氣色なれば、忍び{{く}}に落淚暫し有りて、又仰せられ候は、氣色すきと
{{仮題|頁=167}}
本復せば、御暇申請け、江戶近き在所へ、鷹野に出で、夫より漸く川狩の折なれば、
川へも出で、我等も慰み、皆々久しき苦勞を、緩々氣延べさせんとて、所々方々御
慰所御數へ、御一人御笑ひ遊され候、
{{仮題|投錨=家光其邸に往いて政宗の病を問ふ}}
一、二十日夜に入り、土井大炊殿・酒井讚岐殿御出で、忠宗樣へ御內意有り、如何
なる事やらんと、皆々不審立て申す所に、次の日、御兩人御出て、柳生但馬殿・內
藤外記殿も御出でなされ、御隱密に上樣御成なされ候間、御家中衆も、一圓誰や
らんと存じ候樣にと、有る事にて候、此事夕より聞召し、一段御機嫌能く、其夜は
夜と共に御待ち明し、其朝早々表へ御出で遊され、御行水・御月髮遊され、御苦し
げなる御有樣、目も當てられず、されば今や{{く}}と、夕より御待ち兼ね候へば、
彌〻御草臥强く御座候、八つ時御成と、御內意故、晝時又御行水遊され候が、御這
ひ遊され候樣にて御入り、御行水遊され候、斯樣の御病中に、勿體なき御事と、醫
師衆申し候へば、尤も其程は御用ひなきにはあらねども、是程の病氣、見極めての
事なりとて、御髮抔一入能く仕れと有りて、御衣裝は御肌に御袷、上に御帷子、御
上下召し候、程なく上樣成らせられ候て、御座の間へ御通り、常の疊の上に御座
なされ候、御寢所より御前まで、右の御手を土井大炊殿、左の御手をば、柳生但馬
殿御引きなされ候、御後より酒井讚岐殿、御腰を抱き立て御出で候て、御座敷へ
御直り遊され候と、上意には、御病體音に聞き候よりは、今見申して滿足に候、一
段能く候、能々只今が、養生の第一の時にて候間、如在有るまじく仰せらる、家中
の者︀ども召せ、小十郞はなきかと、御諚なされ候により、小十郞を始め、石母田大
膳・石田監物・佐々若狭など、御前へ罷出で候へば、陸奧守病體、只今養生の時、夢
夢々油斷無く、養生仕るべしと、御諚なされ、皆々御前罷立ち候、其後何やらん、
良久しく御物語遊され候へども、低く物遠にて、誰も聞き得ず、扨又御諚には、色
色養生肝要なり、定めて押付快氣あるべし、すきと本復の砌、目出度く、頓て參
り、一ぷく給はるべし、何にても、用あらば承るべしとて、立たせられ候、遙かの
緣側にて御座なされ候、忠宗樣へ御諚には、政宗の病氣、聞きしより、見參らせ、
膽を潰し候、あの分ならば、近日たるべし、今政宗へは力を添へ候ひしが、最早養
生成るまじく、何とも{{く}}其方心中察入り候、是非に及ばず、歎くにあらず、早や
政宗は、なき人と思はれ候へ、夫に付いては、明日に果てられ候とも、我等あらん內
{{仮題|頁=168}}
は、其方の事、疎畧に存ぜず、其程は心安かるべし、餘りは延ぶまじとて、御歸城
遊され候、扨柳生但馬守殿・內藤外記殿、御座の間へ御出て候て、古今稀なる御仕
合、目出度く存じ候、斯樣の御仕合にては、押付御本復疑なしと、祝︀し申され候へ
ば、御手を合せ、有難︀き次第なりとて、御心には、御聲をも立てさせらるゝ程の御氣
色なれども、御淚さへ出でず、斯樣の御樣子拜し申す人々の、歎かぬはなし、さる
程に、夕よりの御草臥とて、奧へ御入り遊され、表奧兩御寢所の間は、杉緣の御廊︀下
五十餘間の所を、御竹杖突︀かせられ、御手を引かれ、日々に御行き遊され候內、幾
度も御休み遊され、御苦しげなる御有樣、目も當てられず、皆々申上ぐるは、斯樣
の御草臥增し候砌なれば、御乘物御車にて然るべき由、申上げ候へば、死ぬとて
も、人に弱げ見する事、口惜しき次第なり、足叶はざれば是非なしとて、御行き遊
され候ひしかども、廿二日より表へ御使立ちて、最早表に御用無く、草臥も增し
候間、表へは出づまじく、時々は醫師衆は、奧へ召すべしとて、御出なければ、皆人
人力を落して歎き合へり、されば始より御他界迄、御大病の御事なれども、終に
弱氣を見せ給はず、たま{{く}}の仰には、昨日より今日、今朝より今は、草臥增す計
りなりと、仰せられし、
一、廿二日朝より、御手前の御藥師衆奧へ召し、御脈抔御見せなされ、御腹の張、
聢と張詰め申す時、御乳より少し下を、紙の捻にて𢌞し、御覽なされ候へば、三尺
八寸五分𢌞り申し候、引き申すとても、三分四分ならではなし、御食事とては少
しもなさせられず、御藥さへ蘆の髓にて上られ候へば、何はに付けても賴少し、
今はの時を待つ計り、詮方なき御有樣なり、
一、されば日に添へ時に增りて、五更の燈火、光を失ふ如くに、弱らせ給ふと聞
召し、二世迄と誓ひし人々、面々に狀を認め、上げ申し候へば、之を御覽じ、御目
に當て、暫し御落淚の御樣子見えさせ、扨筆叶はねばとて、御口上有るは、存入の
段、神︀妙の至有難︀く、いつか本復の上、方々へ禮をいはんと、面々御使下され、彼
狀共御側に置かせられ候て、幾度も{{く}}御覽候て、御落淚の御風情見奉り、扨御
供と志す人々は、本より思ひ切り、未來とても離れ奉るべきにあらず、暫しの別
を爭か歎くべきとて、寄合ひ{{く}}語り慰むるも有りて、上下總べて悲しき有樣
なり、{{nop}}
{{仮題|頁=169}}
一、廿二日、夜に入り、御氣色以ての外惡しきとて、諸︀人魂を冷す、斯かる折節︀、
日光にて死狂せし鹿栗毛の御馬二つ三つ{{r|嘶|いば}}えて、諸︀膝折り、俄に死し去りぬ、後
に思ひ合せて、諸︀人不思議をさんしける、
{{仮題|投錨=夫人の對面を許さず}}
一、廿三日、一段と御氣色能く成らせられ給ふとて、諸︀人少し色を直し申し候、
さても奧樣の御歎、申すに絕えたり、御病氣の內、一度も會はせられず、最早御命
も危く見えさせ給ふと聞召し、色々に御申し候へども、叶はず、御思の餘りに、廿
三日に、御使して申させ給ふには、御病氣の善惡、人傳にのみ承りて、誠の色を見
奉らねば、女の身にて、如何計り悲しく、堪へ忍ぶべき樣も候はず、餘り御心許な
き折柄は、御目を忍び、物の隙より見奉るに、日に添へて變らせ給ふに付いて、い
とゞ詮方もなう存じ候、境を隔て、住家遠くば力なし、御姿を見、御聲を聞きなが
ら、生を隔てたる如くなるこそ悲しけれ、何か苦しく候ふべき、御許されを蒙り
て、見もし見え申して、我等が心晴︀し候はんとこそ、二世迄の御恩たるべけれと、
申させ給ふにこそ、彌〻御心地迷ふ計りなり、暫し御顏に御袖を御翳し、やゝあり
て仰せられしは、病氣少しもよく候はゞ、それへ參りて、御目に懸け候はんと存
じ候へども、昨日に今日、以前に今は、草臥增し、此有樣にては、如何にも叶ひ候ま
じ、やがて本復申し候てこそ、御目に懸り候はん、然れば斯かる見苦しき所、曾て
御對面あるまじくと、御返事なさる、扨仰には、恩愛夫婦の中にこそ、未練︀も有れ
ば、且つは人聞然るべからず、譬ひ此儘にて會はずとも、是非なしと有りければ、
此由奧へ申上ぐるに、奧樣にも、此上は力及ばず、實にや親しき中にこそ、名の立
つ事もあらん、御尤の御返事かな、哀れ貴きも賤しきも、女程口惜しき事はなしと、
打萎れさせ給ふにこそ、實に理と覺えて、御前御末の女房達、袂を絞らぬはなし、
一、其夜は宵より明くるまで、御寢所の屋根に、烏幾つともなく、數知れず飛來
りて、ばつと立ちては、中にて組合ひ{{く}}、御寢所へ落懸り{{く}}仕り候を聞召し
て、烏は奇特の物かな、去り乍ら今宵と、烏飛來るべきは、今宵にてはなきぞ、汝
等には劣るまじき物をと、幾度も仰せられし、不思議なる次第なり、
一、廿三日、御機嫌能く候て、年寄りたる上﨟衆抔、召寄せられ、色々當座の御
咄、遊されながら、奧に差置かれし御祕藏の箱とて、御取寄せ御覽じて、苦しから
ざる物は差置かれ、其中にて拔出し、御引裂かせ、火中なされ、物事綺麗に拭はせ
{{仮題|頁=170}}
抔、仰付けられ候、其時侍從殿と申す年寄女房衆あり、此人御前よく候まゝ、申上
げられ候は、何とやらん、申上げ兼ね候へども、人は高きも賤しきも、斯樣の御病
中には、思召す事、御心を殘さず、仰せらるゝ物とこそ、承り候へ、今日は御機嫌
もよく見えさせられ候、左樣に御心深きも罪深く候、仰せ置かれ候事も候はゞ、
仰せられ候へ、斯樣に申せばとて、君の御病氣危くて、申上ぐるには御座なく候、
且は御祈︀念ともなる物とぞ申し候由、淚を押へ申上ぐれば、いしうもよく申した
るかな、先づは聞き候へ、一昨日、上樣へ御暇乞は能く申上ぐる、越前殿と云ふ子
{{仮題|投錨=後事は總べて忠宗次第}}
は持ちて、跡に何思ひ置く事あらん、何事も皆忠宗殿次第なり、去り乍ら、一つ其
方に聞かせ置き度き事有り、我數多召仕ひ候女房共の儀は、我より後は、親類︀・{{r|好|よしみ}}
の者︀共に、慥に屆け、暇を取らせ、行衞なき者︀には、渴命に及ばざる程の扶持を、
取らせ度く候、されども是も忠宗殿次第と、仰せられしかば、御前に有りし女房
達、皆々伏沈みて見えし、
一、廿三日八つ時、京極山城守殿に御座す御姫樣より、御文遣され候、是は大
坂牢人村上と申す者︀の姊の腹に、御座候姫君なり、今年十歲に成らせられ候が、
御煩御强く御座候由御聞き、詮方もなく、悲み思召し、遙々會ひ奉らず候へば、
如何計り見參らせ度く、御病氣御大切と申せば、君の如何にも成らせられ給は
ば、さこそ便なく候はん、されば親子は一世と承り候へば、此世の中に會ひ奉り
度く候、若しさも候はゞ、夫へ參り候はんと、遊され候を御覽じ、未だ幼なけれど
も、文章のよき事よ、心の程思ひやられて、一入不便なり、月日に隨ひ、おとなし
やかに成るを聞きても、如何程嬉しく思ひ、取分け末の子なれば、なつかしさ限
りなし、されども是程になりて、會ふ事はあらじ、いで返事せん、御硯と召さる、
如何にも御苦しげなる御有樣にて、御側まり抱き立てられ、御筆を取らせらる、
御料紙は常の如く押疊み、上げよと仰せらる、御請取り、御文忝しと遊ざれ、又御
筆を御染め遊されしが、御筆を捨てさせられて、如何思へども書かれぬ、草臥れ
{{仮題|投錨=末女への返事}}
果て、一字さへ漸くに覺ゆる、無念なり、如何見苦しき筆の跡に侍らんずれども、
今の折柄は一入なり、父が返事是なりとて、其儘、くる{{く}}と卷かれながら、後の
形見とも思ふべし、幼子の如何計り悲しく、會ひ度く思ふらん、幾度云ふとも、會
はぬは子細有り、妻子も恨むべからずと仰せられて、又心をよそに移させられ、
{{仮題|頁=171}}
色々の御物語遊されければ、何れも哀れを催さぬはなかりし、
一、同日も御命の內、暮れ果てゝ、夜も更方に、御行水と仰せられて、何時より
も、緩々と遊され、御仕舞ひ、御靜かに御寢所へ入らせられて、御側近き女房衆を
ば、皆々局へ御返し、蔭々にも、若き衆一人も、今宵は無用なりとて、年頃の御女房
衆、名差にて差置かれ、仰せられ候は、一段と心も長閑に覺えたり、皆々永々しき
病中に、嘸や苦勞なしつらん、我病氣も、天明けば、すきと本復すべし、夜の內計
りぞ、間近く附添ひて、看病せよ、明日よりは、皆々苦勞止むべしとて、如何にも
ゆるやかに、御寢遊され、御目を覺させられ、夜は何時ぞ、常々の百夜を明すよ
り、今宵は永く覺ゆるぞ、されば若き時、具足を肩に懸け、野に臥し、山を家とし、
敵陣間近く攻寄せては、敵をたばかりて、夜討にせんと、心を盡し、まどろむ間も
なき折節︀は、五月の短夜も、明くるを待ち兼ね、晝は終日心遣ひして、片時の命も
あれば危き樣にて明し暮し、戰場に骸を晒さんとのみ思ひしに、其期來らねば、
今迄延びぬ、徒に月日を送り、病に冒され、床の上にて、死なん命の口惜し、今頃
世間無事なりとも、禍︀は時を知らず、今に一騒も發り、天下<span style="display: inline-block; border: solid 1px"> </span>をも起りなば、誰
か之を鎭むべき、君をも子をも取替へて、能き軍の作法をも見させ申し、其後死
すならば、如何計り嬉しかるべし、思へば力叶はぬ命なりと、御腰の物に御手を
懸けさせられ、御落淚の色見えて、又とろ{{く}}と御寢なさる、暫くして御目を覺
させられ、何時と御尋あるに、明方近しと申上げ候に、夏の夜の短きを、漸々待ち
明しぬると、仰せらる、さらば押立て申せと仰せられ、一一人に御手を引かれ、如何
にも御機嫌よく、御小便所へ御出で、遊さる、其間十餘間有りし、扨御歸りに御脇
に立ちたる者︀に仰せらるゝは、睡きか、此程は骨折なりとて、少し御步み遊され
候ひしが、御膝より下は{{r|萎|な}}えて、立ち兼ねさせらるゝ御足を御引かれ、仰せらる
るは、早ならぬと見えて、足弱りたるは足より早く弱る物かな、如何にもして、御
床の上迄、具し奉れと、御脇の女房達に、足は立たぬに、只引けや{{く}}と仰せられ
て、無理に御足を運ばせられ、漸く御床際まで御供申して、旣に御床へ移し申さ
んとするに、最早成らぬに置けと、御意遊さる、兼ねての西は、此方かと仰せら
れ、兩の御手を御喉の下にて御合せ、御倒れ遊され候、あわて騒ぎ、表へ走り、奧
へふためき、快庵を呼び、忠宗公も急ぎ御出でなされ候、快庵來りて、御髮を膝の
{{仮題|頁=172}}
上に搔乘せ奉り、如何に、御心違はせ給ふか、如何に{{く}}と、御耳へ口を附けて、
申上げられ候へば、御顏動き、御息通りけるに、御目を見開き、高々と、やつと一
{{仮題|投錨=政宗卒去}}
聲仰せられ、頓て御息絕えぬ、法橋其儘抱き奉り、御床の上に置き奉り、御衣を
引懸け、忠宗公を供奉し、表へ罷出でられければ、奧表の上下、一同に歎き喚き
ぬ、されば大世尊の入滅に、羅漢︀達悲み、或は眠るが如く成るもありしとかや、ま
のあたりの人身の有樣、是に不{{仮題|編注=1|□|異カ}}、我人を知らず、取付き倒れ臥し、足を空にして
迷ふ事、闇夜に燈を失ひし如くなり、爰に御他界と等しく、御殿の上に時鳥一つ
來りて飛𢌞り{{く}}、離れもやらず、聲も惜しまず啼きにけり、心なき鳥獸迄、御別
を慕ふにや、是さへ悲の中立なり、酒井讚岐守殿を以て、上樣より御諚には、廿四
日を待たるゝよと、思召に違はず、今朝曉の遠行、台德院樣の御別よりも、猶ほ餘
りて歎き入るとの上使なり、扨も有るべきにあらねば、御死骸を取置き奉り、暮れ
なば江戶を御立ち、國元へとの上意にて、御行水抔奉り、御死骸を取納め、其日の
{{仮題|投錨=遺骸江戶を發す}}
暮をぞ待ちにけり、御供と申上げし石田將監事、上意として、讃岐守殿色々御留
め候へども、成らずして、御供衆引連れて罷下りけり、斯くて今日の日も、浮事共
に暮れて入日方、御死骸御乘物しつらひ、萬づの御作法・御行儀、御繁昌の時の如
く替らぬに、御供の諸︀人高下、皆々髮剃り落し、替り果てたる姿にて、空も淚に暮
れ果てヽ、歎く{{く}}江戶を立出づる、斯かる所に、江戶中の町人、其外然るべき御
人達も、御別を慕ひ、今一度御死骸の御通り計りも拜まんと、男女童迄も、道の
ちまた、町中に相詰め、色を失ひ、御乘物を見奉りて、淚を流さぬ者︀ぞなき、御死
骸京橋の四つ辻を通らせ給ふ時、大地夥しく、虛空にどめく音して、諸︀人膽を潰
し大地に割れ入りやせんと、上下騷ぎし事、後まで不思議と申合へり、御供の人
人の便なき有樣こそ、譬へん方なけれ、江戶の地をも立離れても、之を限りと思へ
ば、皆々跡を振り返り見て、さるにても浮世には、神︀や佛も御座さぬか、さりとも
とこそ思ひしに、斯樣に見なし奉り、身は海︀士小船舵絕えて、今は寄る邊を如何
せんと、馬なるは轉び落ち、步なるは路次の邊の竹木に取付き{{く}}、天にあこが
れ、地に俯したる有樣こそうたてけれ、頃は五月の末つ方、闇さは闇し、燈火の影
をも、淚にかき暮れて、道も定かに見え分かず、本より急がぬ道なれば、步けど道
の捗行かず、夜の更くるに隨ひて、いとゞ哀れぞ增りける、常だにも路次の螢は
{{仮題|頁=173}}
淋しきに、猶ほ折柄の飛ぶ螢、思ひ消えにし君の別、胸に何れも焦るらむ、本より
夏の夜を、寢ぬに明くると云ふ人は、物を思はぬ人ならんと云ひしも、誠と覺え
けり、行きては倒れ、語りては歎き、夢路を辿る心地して、夜を重ね{{仮題|編注=1|て|衍カ}}たる道なら
ん、遙々と來るらんと、ほの{{ぐ}}と明けて見れば、漸う三十餘里、步み疲れて、さ
ながら泥に息つく魚の如し、御乘物昇ぎ奉る者︀も、淚と共に昇ぎ奉れば、身も漸
漸に草臥れて、步み兼ねてぞ見えにければ、暫しとて、路次の傍、杉一村の木の本
に、御乘物を卸し置く、御乘物に取付き{{く}}、歎き悲む事限りなし、夫より前後御
供して、其日の暮方に、久喜の御殿に入り申す、是は日頃御鷹場にて、折々の御慰
所なり、扨夕の御膳とて、上げ奉るを見るに、御燈火二箇所に立て、盛物仕たる御
膳にて、御給仕は墨︀染著︀たる法師なり、御乘物の前に居ゑ、讀誦の聲と諸︀共に、諸︀
人も聲を立て、暫しあこがれ悲みけり、夜更けければ、皆々宿に下りて臥しぬ、さ
れども寢られぬ夜と共に、同じ宿の友々は、御最期の御時は、とあり斯くありと
語り合ふ、今更の心地して、盡せぬ物は淚なり、斯くて夜も明けぬれば、嬉しから
ざる旅立して、御亡骸を御供して、久喜の御殿を出づるにも、是や限りと思へば、
日頃は何とも思はざりしに、是も別の數となり、なつかしく名殘惜しくぞ覺えけ
り、扨道すがら御鷹の場なれば、眺めやり{{く}}て、爰にては如何樣に御意ありし、
此所に御馬を立てられし、彼處にては御鷹御覽じ、有難︀き仕合に遭ひし抔、心の行
く行く語り出して、路次々々泊々を、歎き{{く}}明し暮しける程に、白川の關をも、
昨日今日の樣に越えて、御登ありしが、早くも下る物かなと、いとゞ心ぞ悲しけ
る、日數積りて、御國近くなる程に、御迎の人々、御繁昌の時ならば、如何計り勇
み進みて出づべきが、しほ{{く}}として、彼方此方に佇みて、御乘物を見付け、俄の
樣にあわて、臥し轉び、途方に暮れたる有樣、譬へて云はん方ぞなし、出づるも入
るも、皆々頭髮をおろし、世に疎みたる姿なれば、見馴れし形も替り果て、我人を
見忘れければ、人又我を疑ひて、是は{{く}}と計りにて、足腰も萎えて、ぼう{{く}}た
{{仮題|投錨=覺範寺に入る}}
る有樣なり、さる程に御乘物をば、直に覺範寺へ入れ奉り、御忌中諸︀侍上下にて、
入替り{{く}}御燒香、覺範寺を始め、御領中、手足を庵に置き兼ねて、歎き悲みける
にや、月日の立つも定かならず、國々の諸︀大名衆より、御使者︀引きも切らず、御香
奠の金銀、其外寺社︀の有驗達、日々のふきん御孝養の御法事は、筆にも暇あらじ、
{{仮題|頁=174}}
悲しかりける次第なり、
一、御死骸江戶を立たせられ候迄は、十人計りにして御乘物を舁ぎ奉りしが、日
に隨ひて重くなり、後は三十餘人にて、漸く昇ぎ奉りしなり、夫に何より不思議
なりしは、御死骸の御先に、御鷹拳を强くしがみ付き、羽︀を少し出すよと見えて、
其儘、拳より轉び落ちて死にけり、是はと云ひて、先なる御鷹匠衆、跡を見るに、跡
なる御鷹も、少しも違はず、先なる鷹の如くにして轉び落ち、二居共に死にけり、
不思議なりし事共なり、
{{仮題|投錨=遺骸の埋葬}}
一、さる程に、御死骸覺範寺にて御忌中、三十餘日なり、是は松島所狹く候故な
り、其內高野、其外國々の出家衆も、ふきんの爲め參られけり、扨御死骸著︀かせら
れ、三日過ぎて、束帶の裝束、御冠召され、革緖の太刀御帶かせ申し、本の御乘物
に入れ奉り、御側に御具足・甲・御太刀・御腰物・御脇差入れ、人靜りて後、御城より
南、愛宕の脇に、堅固の地を見立て、御乘物を石の{{r|唐櫃|からうと}}に入れ、一丈餘尺掘沈め、
御靈屋を忠宗公より御建立遊さる、御作善申すも中々愚なり、又爰に御死骸沈む
とて、土を掘るに、物の蓋のやうなる大石を掘出す、古人の申せしは、是れこそ昔
滿海︀上人、此所に沈められ給ひし、其蓋石なりと申しき、誠にや此殿は、滿海︀と
云はれし仙人の御再誕と承りしが、有難︀き御機緣かなとぞ、人々申しけり、卽ち
御靈屋をば瑞鳳殿と名附け、保春院御導師申上げ、寺をば金藏主と云ひし僧︀に渡
す、保春院は、卽ち御靈屋の下に新寺を建て、政宗山瑞鳳寺とぞ申しける、扨又御
葬禮場は、北山覺範寺より西、八幡の脇に開けたる地有りしを改め、有るべき程
の御追善なり、
{{仮題|投錨=葬禮の執行}}
御供申上ぐる衆下りしが、御妻子・親類︀歎き悲む事哀れなり、御葬禮三日前に、
宿にて腹切る人も有り、寺にて腹切るも有り、皆々死骸は烟となしぬ、御葬禮の
御時は、諸︀侍上下色を著︀し、其數を知らず、前後に御供せんの綱に取付きぬ、覺範
寺を御棺出し申す時は、八十餘人にてかたげ申せしが、門前より俄に重く成り
て、百餘人にて漸く替る{{ぐ}}昇ぎ申しぬ、一町餘御棺舁ぎ出して、其後に御供衆、
又供の者︀共の棺引續く、唐は知らず、我朝に於ては、未だ聞かずと、他家の人も膽
を潰しけり、御位牌は石田民部大夫殿、御代官として持ち給ふ、其外の行列、筆に
も及び難︀し、御棺かせん堂に入る、棺の佛事は東昌寺、夫より御棺火屋に入れ申
{{仮題|頁=175}}
す、保春院松明取りて、下火の砌、機に風烈しく吹出て、空の氣色替り、未の方よ
り{{?|文字が帯で隠れており判読できない}}{{?}}の如く渦卷いて、黑雲一村立出で、風に隨ひて、見る內に、以ての外掻曇
り、雨はら{{く}}と降りければ、皆人の氣色も替り、すはや如何なる事やらんと、膽
を消し魂を失ひ、汗を握るに、黑雲一村御棺の上に舞下り舞上り、辻風渦卷き、我
人の顏{{仮題|編注=1|愼に|慥カ}}ならず、御領內の諸︀宗、御棺に近付き、祕術の勤樣々にて、爰を大事と
ぞ見えし、暫く有りて、此雲風と共に西へ靡きぬ、天も綠になり、人々色を直し、
是は偏に天の憐み給ふと有難︀き餘りに、手を合せ拜み合へり、斯くて御導師過ぎ
しかば、御棺に火を懸け、無常の風に任せて、一片の煙と天上す、諸︀人是にも名殘
を惜みて、今一入の淚なり、誠にや遠からぬ卯月末つ方、假初の御風氣例ならで、
御登り遊され候へば、左大臣公深く御勞はり、國々の名醫數を盡し、此人失せな
ば、鳥の片羽︀の如く、一輪車にあらめと、大切の事に思召し、諸︀太將も執し給ひ、天
下の騷と成り、如何にもして此度と、萬民までも惜み申せども、生者︀必滅の諚を
ば、神︀佛も救ひ給ふ事叶はず、御齡七旬と申す、寬永十三年五月廿四日の曉、終に
黃泉の旅に赴かせ給ふに、忠臣の面々、義を重んじ恩を感じして、御靈魂の御跡を
{{仮題|投錨=殉死者︀廿四人}}
慕ふ武士共廿四人、腹搔切つて失せしこそ、比類︀なき例なり、是も何故、若君の恩
情、類︀なかりし故、受け難︀き身を請け、百年の命をあやまりしこそ悲しけれ、
{{仮題|投錨=政宗の法名及辭世}}
{{left/s|1em}}
從三位行權中納言兼陸奧守藤原朝臣政宗新捐館︀瑞嚴寺殿前黃門貞山利公大居
士神︀儀
{{left/e}}
御辭世
{|
|-
| style="width:28em;" | 照{{二}}一眼{{一}}迎{{二}}閻王{{一}} 我是陸奧守 ||
|-
| 曇なき心の月を先立てゝうき世の闇を晴︀れてこそ行け || 石田將監
|-
| {{仮題|投錨=殉死者︀の辭世}}くもりなき月のあととふ山の端の道も涼しき松風の音 || 茂庭采女
|-
| つひに行く旅に道立つ武士の照さずもあれ彌陀の光は || 佐藤內膳
|-
| 地水火風己々に返し果て有無の中道ひよつと拔けけり || 靑木忠五郞
|-
| よしさらば曇らば曇れ曇るとも心の月や道しるべせん || 南次郞吉
|-
| おそくとも心は早く法の駒鞭打つたちは彌陀の光りぞ || 菅野正左衞門
|-
| 出づより行衞も知らぬ旅の道てらし給へや彌陀の來光 || 加藤十三郞
|-
| 曇なき月の入るさをしたひつゝ影諸︀共に西へこそ行け || 矢目伊兵衞{{nop}}
|-
| {{仮題|頁=176}} 晴︀れて行く月影慕ふ道なれば迷はぬ末ぞ思ひ知らるゝ || 入間田三右衞門
|-
| 古鄕へかへると見れば霧晴︀れて君諸︀共に行くもとの道 || 桑折豐後
|-
| 情にはつゆの命も惜しからじ君もろともに雲の上まで || 小野仁左衞門
|-
| 影高き松に嵐の吹きあれて散りそふつゆは小野の下草 || 小平次郞左衞門
|-
| 數ふれば六十餘の夢覺めてまよはでぞ行く本の住家に || 渡邊權之丞
|-
| 皆人は暮るゝ月日と思ふらん光あまねき末知らずして || 大槻喜右衞門
|-
| style="text-align:right" | {{仮題|御能=1|將監家中 | }} || 靑柳傳右衞門
|-
| style="text-align:right" | {{仮題|御能=1|同 | }} || 加藤三右衞門
|-
| style="text-align:right" | {{仮題|御能=1|采女家中 | }} || 庄子茂傳治
|-
| style="text-align:right" | {{仮題|御能=1|同 | }} || 橫山覺兵衞
|-
| style="text-align:right" | {{仮題|御能=1|同 | }} || 杉山理兵衞
|-
| 扨又御死骸に付添ひ下る時、那須の原にて ||
|-
| 身をつゆになすのゝ原の草枕夢をむすばぬ夏の夜の月<br/> 白川にて松川と云ふも近し || 茂庭采女
|-
| 白川の旅もいまはた限りとて關の戶ざしを明けて松川<br/> 國見峠にて || 同人
|-
| 國見ぞと聞けど心もとゞまらず歎もあらじ明日の別は<br/> 淺香山にて || 佐藤內膳
|-
| おもかげも今日ばかりぞと陸奧の淺香の山の波を淚に<br/> 白川にて || 茂庭采女
|-
| つひに行く浮世の中の旅の道とめぬものかは白川の關<br/> 國見峠にて || 靑木忠五郞
|-
| 思ひきや五十日の內に國見坂下るべしとは夢の世の中<br/> 同所にて || 同人
|-
| 朽ちんとはかねて思ひし若草の露の命も近付きにけり<br/> 白川にて || 南次郞吉
|-
| 限りぞと我白川の關の戶を浮世と共に明けてこそ行け<br/> 淺香山にて || 加藤十三郞
|-
| {{仮題|頁=177}} 今日計り淺香の山を陸奧の面影うつる山の井の水 || 菅野正左衞門
|}
此外所々にての口ずさみ、數々記すに及ばず、皆々朝露と消え、身を灰になすと
雖も、名は殘りて朽ちもせず、類︀なき忠義なれば、命を露塵とも思はず、君が一日
の恩を感じて、唯一筋に思ひ切り、此世の妄想を切拂つて死し、行先は曇なく佛
の國へ生るらん、
一、卯月十日餘りの頃、御暇乞ありて、奧方にて、御西館︀樣、朝より御振舞、終日
の御酒宴にて、七つ時御寢所へ御入有りて、御轉寢遊され候へば、年の頃十三計
りの、さもいつくしやかなる童子、御前の御枕元に畏り、時能く御座候、急ぎ御出
て候へと申上ぐる、貞山樣にては、御西館︀樣召仕はれ候忰なるか、御座敷へ御出
で候へと申すぞと思召し、心得たるぞ、只今御出あるべし、先づ御先へ參れと、仰
せられ候へども、御枕元に畏る道や忘れけんと思召し、御手を打たせられ候へ
ば、おとなしき女房衆二三人參り候、其れなる忰、其方へ道しるべして、連れて參
れと、仰せられけれども、女房達見付け申さず候、夫々と仰せられ候へども、如何
なる事とも知らず、不思議の思をなすに、此忰御枕の脇より、明り障子の方に行
くと、見えしが失せぬ、其時、見付け兼ねたるこそ理よ、今の者︀は、聞ゆるいたづ
ら者︀なり、夫と知らで、逃しぬる、無念や、重ねて來らば捕へて、二度は返すまじ
き物をとて、さらぬ體にて、御寢遊され候、後に御咄遊され候となり、
一、輪王寺の咄に、四月二十日、江戶へ御立遊され候、宵更けて、子の刻計りに、俄
に家騒ぎ打驚く、何とやらん、四方物凄くなりし故、床の內より起きて有りし所
に、門あら{{く}}と打ちぬ、出合ひて尋ねければ、御步衆提燈高く差上げ、只今是へ
御成と申す、間もなく客殿の前に、御馬を立てさせられ、此寺に大事の卷物有りと
聞く、望の爲め參りたり、密に傳へ給へと、御意有りしを、是は御意に御座候へど
も、此寺の卷物、卒爾になるまじと申上げ候へば、一段夫こそ殊勝なれ、志有難︀し、
さらば罷歸るとて、夫れよりも覺範寺へ御馬入れ、御供衆・馬上衆・步侍、際限なし、
其人も皆長旅の出立なり、不思議に思ひ、小僧︀共を起し、覺範寺にての樣子、聞き
て來れと遣せば、早や覺範寺をも御出て、西へ御通り候と申す、其時輪王寺小僧︀、
其外出家衆同道して、門前迄出で見れば、御供衆夥しく、二行に步み列ねたり、是
は宵に御花壇へ、時鳥聞召に御出で遊され候由聞きしが、そこにて聞かせられず
{{仮題|頁=178}}
して、北山邊へ聞くに出でさせられ候やと、思ひ見しに、田の中・畑の中に、總御供
衆ひし{{く}}と並居候て、燈したる提燈共、御前の提燈と覺しき所へ持寄りぬ、何
事やらんと思ひしに、提燈共段々に重ねたる如くになりて、一度にはつと燃え立
ち、跡もなくなりぬ、御供衆多かりしと見えしも失せぬ、是は不思議なりと、膽を
潰し、口を堅め、沙汰致さず候、御他界の後こそ、斯くとは申されし、提燈の所、則
ち此度御葬禮場となりしと云はれしぞ、
一、二十日朝、江戶へ御立ち遊され候、今は岩沼邊まで御出遊さるべしと思ひし
に、折節︀奧の御寢所にて、高々と御一人事、暫しが程、正しく御聲したり、女房達
は如何と不思議に思ひ、忍び寄りて見しかども、何の行衞もなかりしと、後に聞
きし、
一、同曉、御座の間、御床の上に、御長命草常に召上られ候程、五ふく捻りて、五
所に有りし御長命草入は、暮に服紗にて能く包み、御床の上に置きしが、少しも
亂さず、いつもの如く有り、不審に思ひ、あたりを見るに、其近所いくらも小き足
跡有り、是も互に其折は隱しぬとぞ、
一、江戶にて御病中の御祈︀念夥しき內に、不思議なる事は、御屋敷にて、愛宕圓
福︀寺、大般若を行はせらる、僧︀衆、經を一同に讀誦し、聲さながら歎き立てしと、皆
人膽を消し、あわて騷ぐ程に御座候、誠に斯かる折柄には、何はの事も思合せら
れ、彼是心に懸かる事多かりし、
一、又わうよくと申す唐人、祭り事仕り候に、長刀にて白き犬を切る事有りし
に、少しも切れずして、長刀忽ち太刀打より折れたり、餘りの長刀にて、切つて祭
り事せり、皆人氣味惡しき事に思ひし、
一、御位牌は、松島瑞巖寺に建て、雲居和尙下りて住持す、高野山にも御石塔、御
供衆迄建てぬ、誠に開闢より此方、二十餘人の御供、聞かざる事と申合へり、
一、五月廿四日、夜に入り、忠宗公へ御跡式進ぜられ候により、次の日頓て御屋
敷へ御移り遊され候、方々目出度き由、祝︀し合へり、誠に歎の中の祝︀とや、是れな
らん、
{{仮題|投錨=敕諚に依りて京都︀市中謹愼を表す}}
一、同日卯の刻の御他界に、江戶より京へ早馬にて、同廿八日未の刻上著︀し、奏
聞有りければ、其時の諸︀司代板倉殿へ敕諚有り、今日より三日、都︀の內、魚類︀の店
{{仮題|頁=179}}
停止、見物の事、高聲賣買の儀も、三日の內は、密々に仕るべき由、仰付けられ候、
政宗の他界、日本の武士道もなきが如しと、公家・諸︀門跡達も、三日は表の門を閉
ぢて、裏の門より出入ありし由、有難︀く思ひ、膽に銘じしとなり、
一、上樣へ御形見には、しのき藤四郞吉光の御小脇差・政宗の御腰物・山の井の御
茶入・きとう三幅一對、差上げられ候事、
一、奧樣にも御髮下させ給ひ、瑞鳳寺より陽德院樣と御法名を進じ奉り、御隱居
所にて、朝夕の御佛供を供へ、御燒香なされ、類︀なき御志かなと、みな人威じ奉
りき、
一、さる程に、彼是の騷しき怪しには、皆人左程になかりしが、御佛事、事故なく
過行くまゝに、何となく世間閑やかに、大火を打消したる如く、隙明けたる樣に、
又あらぬ家騒して、如何成行く身の果ぞと、日に隨ひ夜に增して、御悲しさは、君
の御面影、古の友達一人・二人、寄合ひて語り暮し、歎さ明しぬ、普天の下、王土に
あらずと云ふ事なし、御領中の者︀、何れか忠宗公の者︀ならざるや、然れども御小座
より御奉公の衆とて、肱を立て、目を大きにするを見ては、いつとなく物悲しく、
哀れ此心までは、斯くはなかりし物と思ひ出し、君の御惠普くして、悅身に過ぎ、
樂心に餘り、我人御奉公忠をなし行けば、御思賞にも預り、似合はぬ身の榮華をも
せんと、心を勇めし、或時は、野山狩に家を忘れ、又は花の盛咲散り、秋は木々の
葉落つる、夕は歌を連ね詩を吟じて、年の樂も、時移り世替りし習、樂盡きて悲來
り、諸︀人新參となり、いつしか引替へて、時の出頭人の草の露・水の泡、消え殘るを
見ながらも、秋の野の女郞花の、一時をくねる心ぞ甲斐なきぞ、昨日は榮え、今日
は衰へ、世を過す有樣なれば、親しきも疎く成り行く身は、吳竹のうきふしを人に
語り、蘆の葉を引きて、世の中を惜み、人の交りもたまさかなれば、身すはりて見
苦しき人々、後は賤めり、是に付け彼に付けても、御跡悲み奉る事は限りなし、夢
にも君を見奉りては、楚國の湯日山にて、邯鄲の枕の榮華覺えて、明し暮し、扨又
古へ住み馴れ給ふ若林の有樣、見るに御物數寄世に越えて、作り琢かせ給ふ御屋
形も、一年の內に荒れ果てゝ、庭には草茫々と、露しげく成行くも、誰打拂ふ者︀も
なく、日頃水を樂みし思召ありて、水の便面白き所々に懸入れ給ふも流絕え、池に
は眞菰生ひ茂り、拂ふ人も之なく、島の𢌞りも崩れ果て、うるくづも住みうく、水
{{仮題|頁=180}}
鳥も羽︀を休め得ず、折に觸れ時に叶ひ、四季の御殿も彼方此方崩れ果て、虎狼・野
干の住家と成るこそうたてけれ、其外、夫々の奉行・頭人・侍の屋敷々々も、形計り
に荒れ果て、草深き野邊とぞなりぬ、一人世を去り給ひ、萬人の歎となり、目も當
てられぬ次第なり、年月遠く立行くも、露忘れぬ御面影なり、忠宗公御恩も淺から
ず、大慈大悲の君にて御座せば、押並べて忝き御志、昔に替らぬ事なれども、身の
衰は月に增し、萬づ心に任せねば、今更驚く計りなり、我は斯樣の愚痴無知事の
はかなき心に、神︀や佛を怨み妬みて、つれなき命を召されよと、有增事を申すに
ぞ、思の程は知られたり、誠に取集めたる筆の跡、賤しき我身に似合せ書きて、前
後も更にふつゝかに、口に任せて書付くれば、物狂はしき心やと、見る人は覺す
らん、是れ全く人の爲めならず、君の御別悲みて、せん方なく候まゝにこそ、昔語
も程を經ば、忘れやせんと、秋の夜の長き寢覺の獨言、春の夕の暮方に、つれづ
れ慰む便にもと、正しく見聞きし事なれば、所々を書き置きて、言葉の足らぬ所
をば、我心にて差加へ、氣をも延べん爲め計りにて、一々に書き集めぬ、筆も及ば
ぬ事なれば、心に有りても、口に出す言葉續き、片言にして、わからぬ事どもなれ
ば、終に書き止みぬ、誠に君の御言葉の種、我身筋なき故、却て書きよごし侍り
ぬ、あなかしこ、
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『支那正統論考』(しなせいとうろんこう)は、那珂通世が明治30年(1897年)に東亜学会雑誌第2号で著した中国歴代王朝の正統論に関する考察である。
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<div style="text-align:left; display: inline-block; border: solid 1px; padding: 1em;">
本篇は明治三十年三月發行の東亞學會雜誌第二號に
揭載せられ、易姓革命の國にして、又分裂僭僞の朝廷も
少からざりし支那には自然興るべき正統と閏位の說
を評論せられたるものにして、和洋の事にも論及せら
れたれば、世の國體を論ずるものゝ必讀すべき卓說な
り。
</div>
{{center/e}}
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|支那正統論考}}
支那の正統の論は、漢︀代に始まり、宋代に至りて喧くなれり。唐堯の虞舜に讓り、虞舜の夏后禹に讓り、
商王成湯の夏后桀を放ち、周の武王の商王紂を滅ぼしゝが如きは、皆前代終りて、後代之に繼ぎ、其の間に
兩朝並び立ちて、國を爭ひし事なければ、正統論の興るべき由なし、支那には古くより、五德終始の說と云
へる說ありて、「五行更る{{く}}旺し、終始して相生ず。王者︀は五行の德に法り、其の革易は、必ず五行相生の
序に從ふ」と云ひ、又齊の騶衍は、王者︀の革易は、五行相生には非ずして、五行相勝の序に從ふ者︀なりと云
へり。五行相生の序は、木火土金水なりと云ひ、五行相勝の序は、木金火水土なりと云ひ、何れも取るに足
らざる說なり。されども秦始皇は、五行相勝の說に依り、周を以て火德とし、水は火に勝つが故に、秦を水
德と定め、漢︀の武帝も、此の說に從ひ土は水に勝つが故に、漢︀を土德と定めたりき。然るに「漢︀の高祖︀は赤
帝の子なり」と云へる傳說あるが上に、劉氏は、堯の苗裔にして、堯は、五行相生の說に於ては、火德なり
と云へるが故に、漢︀人は、遂に漢︀を火德と改め、木は火を生ずと云ふに依りて、直に周の木德を繼げりと爲
せり。是に於て、秦は、木火の間にありて、五德の運に入らずとて、之を閏位として黜けたりき。これ、帝
統の正閏ありと云へる始めなり。
劉氏亡ぶるに及びて、漢︀土分れて三帝國と爲り、其の君各〻至尊と稱して相下らざりしが、晋の陳壽、三國
志を作り、魏帝を以て正統の君と爲して本紀に列し、吳蜀を黜けて、其の君を列傳に下したり。其の後東晋
の習鑿齒、漢︀晋春秋を著︀し、蜀漢︀を以て漢︀の正統を承けたる者︀と爲し、魏を黜けて、吳と同じく僭僞の國と
爲したれども、其の說未だ大に世に行はれざりき。{{nop}}
{{仮題|頁=562}}
南北朝の際、支那又分れて二帝國となれり。兩朝皆國史ありて。宋書齊書は、後魏を黜けて、索虜︀魏虜︀と
爲し、魏書は、宋齊を貶して島夷を爲したるが如きは、宋の司爲光の謂へる如く、「此皆私己之偏辭、非大公
之通論也。」唐の太宗の時、南朝の梁書陳書、北朝の北齊書周書隋書を撰したるに、南朝の史に於ては、南を
正として北を僞とし、北朝の史に於ては之に反し、恰も各朝の史官、自ら之を撰したるが如し。正ならば、
正とすべし。僞ならば、僞とすべし。旣に正として、又之を僞とし、褒貶定らず、唐人にして、或は梁陳人
となり、或は北齊周隋人と爲り、更に唐人たる定見なし。これ皆宋齊魏書の舊習に沿ひ、誤りて尊內卑外を
以て紀傳の體と心得たるなり。然れども兩朝を帝として、敢て輕重を其の間に加へざるは、陳壽習鑿齒の偏
論に愈れり、李延壽は、一人にて南史北史を撰したれば、兩朝の史官に代りて筆を執れるが如き書法を廢す
べき筈なるに、これ又南北八部の舊史に依りて、之を增損したるのみにて、尊內卑外の書法を用ひたること、
舊史に異らず、而して兩朝を帝として、敢て輕重せざることも、亦舊史に同じ。
然れども唐人は、大抵三國に於ては、魏を正統とし、南北朝に於ては、北朝を正統として、敢て異議を挾
む者︀なし。葢唐は隋に代り、隋は周に代り、周は後魏に代り、唐の高祖︀の父祖︀は、世々魏周に仕へたれば、
魏周を正統とするは、勢然らざるを得ず。南北朝に於て北朝を正統とすれば、三國に於て魏を正統とするも、
亦勢然らざることを得ざるなり。
又五德終始の說は、漢︀魏以來諸︀儒の深く迷信したる說にして、魏と吳とは土德を以て漢︀の火德を承けたり
と云ひ晋は、金德を以て魏の土德を承けたりと云ひ、南朝の宋齊梁陳は、五行相生の序に於て、各々水木
火土なりと云へり。後魏の道武帝の時、群臣の奏に「國家承黃帝之後、宜爲土德」と有て、一たび土德と定
めたりしが、孝文帝太和十六年に羣臣に命じて、五行の次を議せしめたるに、中書監高閭は、「晋承魏爲金、
趙承晋爲水、燕承趙爲木、秦承燕爲火、秦之旣亡、魏乃稱制玄朔、且魏之得姓、出於軒轅、臣愚以爲宜爲土
德」と云ひ、祕書監李彪著︀作郞崔光等は「神︀元與晋武、往來通好、至于桓穆、志輔晋室、是則司馬祚終於郲
䣅、而拓跋受命於雲代、昔秦幷天下、漢︀猶比之共工、卒繼周爲火德、況劉石苻氏、地福︀世促、魏承其弊、豈
可捨晋而爲土邪」と云ひ、司空穆亮等は、皆李彪等の議に從はんと請ひしに由りて、遂に改めて晋を承けて
水德と定めたりき。其の後北齊と周とは、皆魏を受けて木德なりと云ひ、隋は、周を承けて火德なりと云ひ
しに由りて、唐の運歴を論ずる者︀は、皆唐は隋を承けて土德なりと云へり。されば唐人は、魏周を以て正統
と爲すに非ずば、自ら正統の後を承けたりと稱することを得ざるなり。今歴代の五德相承の序を、諸︀儒の說
に依りて列記すれば、左の表の如し。
木德木生火 火德火生土 土德土生金 金德金生水 水德水生木
{{Wide|begin=1}}
<div style="line-height:1em;">
大皡───炎帝───黃帝───少皡───顓頊───帝嚳───唐堯───虞舜───夏───商┐<br/>
┌─────────────────────────────────────────────┘<br/>
│ ┌─前後趙───燕────秦────後魏{{分註|size=75%|道武帝|所定}}<br/>
└周{{分註|size=75%|以上後魏|所追定}}──漢︀───┬魏────晋┼後魏{{分註|size=75%|孝文帝 |所改定}}─┬周────隋────唐───┬後梁<br/>
└吳 └─宋┐ └北齊 └後唐───┐<br/>
└南齊──梁────陳 │<br/>
┌─────────────────────────────────────────────┘<br/>
└後晋────後漢︀───後周───宋
</div>
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{{仮題|頁=563}}
かくて魏と北朝とを正統とするは、唐人普通の說なれども、史學に精︀通せる劉知幾の如きは、世の五行家
輩とは異にして、敢て一偏の論に局せず。其の史通稱謂篇に「論王道、則曹逆而劉順、語國祚、則魏促而吳
長、但以地處凾夏、人傳正朔、度長絜短、魏實居多、二方之於上國、亦猶秦繆楚莊、與文襄而並霸、逮作者︀
之書事也、乃沒吳蜀號諡、呼權備姓名、方於魏邦、懸隔頓爾、懲︀惡勸善、其義安歸」と云へるは、魏の正統
を黜けたるには非ざれども、史家の偏私にして、稱謂の不敬なるを咎め、又其の探賾篇に陳壽が曹公文帝の
罪惡を貶せざるを咎めて、さて「劉主地居漢︀宗伏順而起、夷險不撓、終始無瑕、方諸︀帝王、可比少康光武、
譬以侯伯、宜輩秦繆楚莊、而壽評抑其所長、攻其所短、是則以魏爲正朔之國、典午攸承、蜀乃僭僞之君、
中朝所嫉、故曲稱曹美、而虛說劉非」と云ひ、「習鑿齒之撰漢︀晋春秋、不以劉爲僞國者︀、此葢定邪正之途、明
順逆之理耳」と云へるを見れば、陳壽の蜀を僞國としたるには、甚不服なりしなり。
梁の太祖︀、盜賊より興りて、唐の位を簒ひたれば、後唐の莊宗は、大盜と看做して、朱溫と斥言し、梁帝
などゝは云ふも更なり、梁主とすらも呼びしこと無し。梁を滅して帝位に陞るに及びては、自ら唐に繼ぎた
りと稱し、梁をば有窮氏の夏を簒ひ、王莽の漢︀を簒ひしに比して、之を帝王には數へざりき。然るに宋の薛
居正等、五代史を撰し、歐陽修、又新五代史を撰し、皆梁を帝として五代に列したり。修の論に「欲著︀其罪
於後世、在乎不沒其實、其實嘗爲君矣、其實簒也、書其篡、各傳其實、而使後世信之、則其罪不可得而掩爾、
使爲君者︀不得掩其惡、然後人知惡名不可逃、則爲惡者︀庶乎其息矣」と云へり。時に章望之、明統論を著︀して、
修の說を駁し「魏は、天下を一にすること能はず、晋と朱梁とは簒奪を以て國を得たれば、何れも正統とす
べからず」と云ひ、蘇軾、又正統論を著︀し、歐陽修に與して、章望之を駁し、「秦漢︀魏晋隋唐五代、皆正統な
り」と論じ是よりして正統の論甚喧しくなれり。
司馬光の資治通鑑を撰する時、其の僚佐劉恕、嘗て蜀を以て東晋に比し、漢︀の正統を紹がしめんと欲し、
司馬光と力爭したれども從はざりし事、劉恕の子義仲の裒錄したる通鑑間擬に見ゆ。かくて通鑑魏紀漢︀中王
即皇帝位の條の史論に「竊以爲苟不能使九州合爲一統、皆有天子之名、而無其實者︀也、雖華夷仁暴大小强弱、
或時不同、要皆與古之列國無異、豈得獨尊奬一國、謂之正統、其餘皆爲僭僞哉云々、周秦漢︀晋隋唐、皆嘗混
壹九州傳祚於後、子孫雖微弱播遷、猶承祖︀宗之業、有紹復之望、四方與之爭衡者︀、皆其故臣也、故全用天子
之制以臨之、其餘地醜德齊、莫能相壹、名號不異、本非君臣者︀皆以列國之制處之、彼此均敵、無所抑揚、庶
幾不誣事實、近於至公、然天下離析之際、不可無歲時月日、以識事之先後、據漢︀傳於魏、而晋受之、晋傳於
宋、以至於陳、而隋取之、唐傳於梁、以至於周、而大宋承之、故不得不取魏宋齊梁陳後梁後唐後晋後漢︀後周
年號、以紀諸︀國之事、非尊此而卑彼、有正閏之辨也、昭烈之於漢︀、雖云中山靖︀王之後、而族屬踈遠、不能紀
其世數名位、亦猶宋高祖︀稱楚元王後、南唐烈祖︀稱吳王恪後、是非難︀辨、故不敢以光武及晋元帝爲比、使得紹
漢︀氏之遺統也」と云ひて、正統に關する論難︀の衝を避けたり。此の論頗る公平なるが如し。然るに通鑑の本文
を觀るに、三國南北朝五代の際、魏南朝五代は、啻に其の年號を用ひたるのみならず、其の君を帝と云ひ、
吳蜀北朝の君及び五代列國の帝と稱するものは、皆某主と稱し、其の交戰の如さも、前者︀には征といひ、後
者︀には冠といひ、初より正閏の別を立てたるが如き筆法を用ひたり。いかでか之を「彼此均敵、無所抑揚」
と云ふべけん。
朱熹は、春秋の義に本づき、舊史の書法を正して、前代君臣の事蹟を褒貶せんと欲し、資治通鑑に依りて、
綱目を作れり。其の凡例に「凡正統、謂周{{仮題|分注=1|起篇首威烈王二十三|年、盡赧王五十九年、}}秦{{仮題|分注=1|起始二十六年、|盡二世三年、}}漢︀{{仮題|分注=1|起高祖︀五年、盡炎興元年、此用習鑿齒及程子說、自建安二十五年、以後、黜魏年、而繫漢︀統、與司馬氏異、}}
晋{{仮題|分注=1|起太康元年、|盡元熈二年、}}隋{{仮題|分注=1|起開皇九年、|盡大業十三年、}}唐{{仮題|分注=1|起武德六年|盡天祐︀四年}}」「僭國、謂乘亂簒位、或據土者︀、{{仮題|分注=1|如漢︀之魏吳晋之漢︀趙諸︀燕二魏二秦成漢︀代諸︀凉西秦夏之屬內二秦以上爲大國、成瀬以下爲小國}}」、
{{仮題|頁=564}}
「無統、謂周秦之間。{{仮題|分注=1|秦楚燕魏韓趙齊代|八大國凡二十四年、}}秦漢︀之間、{{仮題|分注=1|楚西楚漢︀三大國、雍|以下爲小國、凡四年}}、漢︀晋之間、{{仮題|分注=1|魏吳晋三大國、|凡十六年、}}晋隋
之間、{{仮題|分注=1|宋魏齋梁北齊後周陳隋爲大國、西秦|夏涼北燕後涼爲小國、凡一百七十年}}隋唐之間、{{仮題|分注=1|隋唐魏夏梁凉秦定楊吳楚|鄭北梁漢︀東以上、凡五年、}}五代、{{仮題|分注=1|梁唐晋漢︀周爲大國、二蜀晋岐呉南漢︀吳越|楚荊閩南唐殷北漢︀爲小國、凡五十三年}}」と
云ひて、漢︀の魏吳二大國は、晋の五胡諸︀國と共に僭國と名づけ、南北八朝及五代は、皆當時割據の諸︀小國と
共に、無統と名づけ、凡一百七十年、年號は、唯正統のみ、歲干支の下に大書し、僭國無統の世は兩行に細書
し、帝と云ひ崩と云ふは、正統の君に限り、僭國無統の君をば、某主と云ひ、其の死は、僭國なれば卒とい
ひ、無統なれば殂と云ひ、其の他義例極めて詳細にして、十九門百三十七條に至れり。故にその書法の嚴密
なることは從來の諸︀史と、大に其の面目を異にし、朱熹の學を講ずる者︀は、之を以て深く春秋の法に合へり
とし、綱目を重んずること、經典の如し。
朱熹と同時に張栻、經世紀年を作り、朱熹の後、黃震、古今紀要を作り、皆魏を黜けて、蜀を帝とし、
李杞は、三國志の魏を帝とするを嫌ひて、改修三國志を作り、蕭常は、更に續後漢︀書を作り、元の都︀經も、
宋人に拘留せられたる間に、續後漢︀書を作り、明の吳尙儉謝陛は、季漢︀書を作り、何れも昭烈を尊びて正統
の君と爲せり。
朱熹の學盛に行はれてより、蜀を正統とし、南北朝五代を無統の世とすること、學者︀の通論と爲り、唯元
の胡一桂が古今通要に、通鑑の魏を帝とするを可として、綱目の蜀を帝とするを否としたる、明の王褘が大
事記續編に、蜀の年號を、魏吳と同じく分註に書きて、所謂無統の例を用ひたる、明の方孝孺張自勳等の秦
晋隋にも正統を與へざる如きは、僅に例外の事にして、史を作る者︀も、史を論ずる者︀も、大抵綱目の義例を
以て金科玉條と爲せり。
然れども朱熹の所謂正統なる者︀は、支那を混一したる者︀を云へるにて漢︀唐の盛世と雖も、其の未だ混一せ
ざる間は、無統の世に屬せり。故に周秦漢︀晋隋唐宋七代の間、其の兩代の間には、必ず多少の無統の世あり
て、前代と後代と隔絕し一も接續する者︀なければ正閏の論は、さて置き、系統なる者︀更に存せざるなり。さ
れば、綱目の正統は、其の實は、正統に非ずして、一統の世なり。其は猶後段に云ふべし。
元の世祖︀、史臣に命じて、宋遼金三史を纂修せしめ、仁宗文宗の世、又屢詔して修撰せしめたりしが、義
例定まらざるが爲に、其の書久しく成らざりき。或は宋を以て世紀となし、遼金を以て載記と爲さんと欲し、
或は遼の國を立つるは宋の先に在るが故に、遼金を北史と爲し、宋の太祖︀より欽宗までを宋史と爲し、高宗
以後を南宋史と爲さんと欲し、各々論を持して決せざりしが、順定の時に至り、丞相脫々等に命じて、宋遼
金三朝を各一史と爲さしめ、其の書始めて成れり。葢遼金を載記と爲さんとしたるは、晋書の十六國載記の
例に依り、遼金を北史となさんとしたるは、李延壽が北史の例に依り、三朝を各々一史と爲したるは、唐の
梁陳北齊周隋書の例に依れるなり。晋書の載記は善からざるに非ざれども、遼金は皆堂々なる大國にして、
五胡諸︀國の匹儔に非ざれば、之を載記に黜くるは、固より其の當を得ず。三朝を各々一史として、皆其の帝
國たる實を全ふせしむるは、公平の見なり。但此の三史は、皆三朝の舊史に據りて、刪訂の十分ならざる書
なれば、其の互に詆排することは、唐人の南北五史にも過ぎて殆んど北人の自ら撰したる宋齊魏書の偏辭に
似たり。
明は、漢︀人を以て、蒙古を逐ひて、國を建てしが故に、遼金元を貶黜すること殊に甚しくして、唐人の北
朝を重んずるとは全く反對なり。陳經通鑑續編を著︀し、宋を以て正統と爲し、遼金を以て僭國と爲し、劉石
慕容符姚の徒に比せり。又宋史本紀は、德祐︀帝に終りて、景炎祥︀興二帝を錄せざりしが、陳桎は朱熹が蜀漢︀
を帝としたる例に倣ひて、二帝を正統の天子と爲し、至元十七年前なる蒙古諸︀帝は、其の名を指斥して、
{{仮題|頁=565}}
蒙古主某と云ひ、其の帝たることを許さず。其の商輅等の通鑑綱目續編、薛應旂の元資通治鑑、皆陳桎の書
法に從へり。
陳桱等の書は、何れも編年史なれども、柯維騏に至りては、紀傳の史までも遼金の獨立を嫌ひ宋遼金を合
せて一史と爲し、宋史新編と名づけ、宋を以て主と爲し、遼金の事を附錄し、且宋末二帝を以て本紀に列し
たり。明史柯維騏傳には、此の書を評して、「褒貶去取、義例頗嚴」と云へれども、四庫全書總目は、元史の
「本紀終瀛國公而不錄二王、及遼金兩朝、各自爲史、而不用島夷索虜︀互相附錄之例」を以て最も理ある者︀と
爲し、維騏の之に從はざるを譏りて、其の書を存目に貶したり。其の論に云く「至於元破臨安、宋統己絶、
二王崎嶇海︀島、建號於斷檣壞之間、偸息於魚鼈重置之窟、此而以帝統歸之、則淳維遠遁以後、武庚構亂之初、
彼獨非夏商嫡家、神︀明之冑乎、何以三代以來序正統者︀不及也、他如遼起滑鹽、金興肅愼、並受天明命、跨有
中原、必似元經帝魏、盡點南朝固屬一偏、若夫南北分史、則李延壽之例、雖朱子生於南宋、其作通鑑綱目、
亦沿其舊軌、未以爲非、元人三史竝修、誠定論也、而維騏强援蜀漢︀增以景炎祥︀興、又以遼金二朝、置之外國、
與西夏高麗同列、又豈公論乎、大綱之繆如是、則區々補苴之功、其亦不足道也己」と云へり。此論大に謬れ
り。淳維武庚は、未だ嘗て帝王の位に陞らず。いかんぞ宋末二帝に比すべけん。二帝は、微弱にして播遷す
と雖、宋の羣臣奉戴して主とせる間は、宋帝に非ずと云ふべき理なし。遼金二朝は、宋と對等匹敵の國なれ
ば、二朝の事蹟を宋史の附錄とすべからざるは、さる事ながら「受天明命」と云へる事はいかゞ。遼金皆天
の明命を受けたらば、宋は所謂僭僞の國なるか。若又宋も遼金も皆天の明命を受けたりと云はゞ、天に代
りて民に臨む者︀、同時に二人あることと爲りて、從來諸︀儒の主張せる正統の說は、根底より仆るべし。又朱
熹の綱目は、李延壽の舊軌に沿へるに非ず、延壽は南北兩朝を皆帝としたりしに、朱熹は、之を列國と看做
して、決して帝號を與へざりき。宋の隆︀盛なりしことは、漢︀唐に似たりと雖、國初より北朝と並び立ちて實
に混一したることなければ、綱目の義例にては、所謂無統の世にて宋も遼金も、皆列國となるべし。若遼の
占領せる燕雲十餘州は、彈丸黑子の地にして、宋の正統たるを妨げずと云はゞ、遼は、夷狄の例に入りて、
高麗交趾と異ならず、南宋は、蜀漢︀東晋と同じく、微弱なれども、猶正統を紹ぎ、金と蒙古とは、强大なり
と雖魏吳劉石慕容符姚と同じく、僭國たるを免︀れざらん。いづれにしても、綱目の義例に據れば、遼金皆天
の明命を受けたりなどと稱すべき由なし。
按ふに淸人の此の論をなすは實に已むことを得ざるに出でたるなり。淸の明に代りたるは、恰も元の宋に
代りたるに似たり。其の人種を考ふれば、滿洲なる淸人は、女眞なる金人と、同種なり。契丹なる遼人は人
種に於ては女眞蒙古の間にありて其の國を建てしは、金元二代の先驅を爲せり。契丹女眞を夷狄とすれば、
滿洲も夷狄と爲り、金と元初とを僭國とすれば、淸の太祖︀太宗も、僭國の君と爲る。故續三通、各省通志の
如き官撰の書を初として、之を尊崇すること、唐宋の諸︀帝に異ならず。これ皆本朝の祖︀宗を尊ばんが爲めに、
前代に及ぼせるなり。
然れども支那の學者︀は、古來の正統論に拘束せられ、綱目の義例を壞りて、兩帝並立を明言する勇なけれ
ば、編年史を作るに當りては、又遼金蒙古の諸︀帝を帝とすること能はず、高宗御批の通鑑輯覽、徐乾學の通
鑑後編、畢阮の續通鑑の類︀何れも遼主某、金主集、蒙古主某と書きて、宋滅ぶるに及びて、始めて元の世祖︀
を帝とせり。此の義列に據れば、淸の祖︀宗と雖、明統の存する間は僭君たるを免︀れず。故に明史に、淸の世
祖︀順治元年明の毅宗の崩を以て明亡びたりとし、安宗紹宗永曆三帝は、其の帝號を除きて、福︀王唐王桂王と
し、明統を十六年減縮せり。通鑑輯覽、通鑑綱目三編の類︀、皆然り。宋末二帝の情況は、恰も明末三帝に似
{{仮題|頁=566}}
たり。明末三帝を黜くれば、宋末二帝も黜けざることを得ず、遂に淳維武庚の譬を設けて、詭辯曲說を爲す
に至れり。これ又明淸革易の年を早めんが爲に、其の論を宋元革易の際に及ぼせるなり。
四庫全書總目に、陳壽の三國志を評して、「其書以魏爲正統、至習鑿齒作漢︀晋春秋、始立異議、自朱子以來、
無不是鑿齒而非壽、然以理而論、壽之謬、萬々無辭、以勢而論、則鑿齒帝漢︀、順而易、壽欲帝漢︀、逆而難︀、
葢鑿齒時、晋己南渡、其事有類︀乎蜀、爲偏安者︀爭正統、此孚於當代之論者︀也、壽則身爲晋武之臣、而晋武承
魏之統、僞魏是僞晋矣、其能行於當代哉、此猶宋太祖︀纂立、近於魏、而北漢︀南唐、蹟近於蜀、故北宋、諸︀儒
皆有所避、而不僞魏、高宗以後偏安江左、近於蜀、而中原魏地、全入於金、故南宋諸︀儒、乃紛々起面帝蜀、此
皆當論其世、未可以一格繩也」と云へり。此の論、誠に妙なり。凡て古今の史論は、道理に基づくよりも、
時勢に制せらるゝこと多し、其は晋宋の史家のみならず、かく論ずる總目の撰者︀も、時勢に制せらるゝ一人た
ることを免︀れず。明人の遼金元を抑ふるは、漢︀人を以て胡人に代りたるが故に、胡人を警敵視︀するなり。淸人
の遼金元を揚ぐるは、胡人を以て漢︀人に代りたるが故に同類︀として贔負するなり。かゝる偏私の心を去りて
公平に考察することは、外國人に非ざれば能はず。これ豈正統に關する論のみならんや。
抑正統とは、何をか云ふ。統系の眞直に連續する事なり。朱熹の所謂正統は、正統に非ずして、一統の世
なり。正統の統は、時間に關する語にして縱の連續なり。一統の統は、空間に關する語にして、橫の合一な
り。朱熹の義例に從ふ者︀は、一統を以て正統と爲すが故に、兩國對立の世、兩代革易の際に於て、常に正統
の所在を定むるに苦しむなり。我が皇國は、天祖︀より今上天皇まで百二十餘代、一系相承けて、亂賊の神︀
器︀を覬覦せし者︀すら有らず、此の後千萬世と雖、亦此の如くなるべければ、これ正統の最も長くして世界に
例なき者︀なり。其の間、不幸にして皇統二つに分れたる時は、正閏の別は起りたれども、嘗て統系の中絕し
たること無し。支那の如き革易頻︀繁の國にては、正統の絕ゆること屢なり。先づ唐虞夏商周は或は禪讓に由
り、或は放伐に由り、國號は屢變じたれども、正統は長く連續したりしが、周亡びて、正統始めて絕えたり。
秦の正統は、新に創まれる者︀にして前代の統を紹ぎたるには非ず。漢︀の秦に於けるも、亦然り。漢︀衰へて
魏之に代りてより、陳に至るまで、姦雄代る{{く}}起り簒奪相踵ぎ國の廣狹も屢變じたれども、其の國の繼續
する間は、正統も絕えざるなり。正統は仁義の國に限らず。姦雄{{仮題|分注=1|魏晋宋齊梁|陳の如き、}}盜賊{{仮題|分注=1|梁太祖︀明太|祖︀の如き}}夷狄{{仮題|分注=1|拓拔、宇文、耶|律、完顏の如き}}孰
れか正統たらざらん。我が正統の尊きは、正統の尊きに非ず、國體の尊きなり。國體尊からざれば、正統も
尊ぶに足らず。昭烈は漢︀の中山靖︀王の後なりと云へども、國は新造にして、二世にして亡び、前に受くる所
なく、後に傳ふる所なく、統なきに近し。然れども君子の無統は、姦雄の正統より尊し。
支那の史家は、魏を帝とすれば、吳蜀を僞とし、蜀を帝とすれば魏呉を僞とし、同時に二帝あることを許
さず。南北朝の世に於ても、五代及宋と遼金蒙古との間に於ても、皆然り。何故に二帝あるべからざるかと
云ふに、支那人の意にては、天子は、支那一國の君主に非ず、天の明命を受けて、四海︀に君臨する者︀なれば、
廣き世界に一人より外あらずと思へり。古語に「天無二日、土無二王」と云ひ、「溥天之下、莫非王土、率土
之濱、莫非王臣」と云へるも、此の意なり。不幸にして天下分崩し、帝と稱する者︀二人以上ある時は、支那
の史家は、其の中一人を以て、天命を受けたる者︀とし、又は一人も天命を受けたる者︀なくして、正統絕えた
りと考ふるなり。然れども支那一統の時にても、其の天子は、固より一國の主にして世界の主にあらざるを、
兩朝分立又は三國鼎峙の如き場合に其の一人を尊びて、天命の歸したる世界の主とするは、甚だ無理なる事な
り。且三國の主は、本より君臣に非ず、各其國に帝として、勢力相敵したれば、統の有無に拘らず、後世よ
りも又は他國よりも、之を僭僞と名づけて、其の帝號を貶黜すべき理なし。{{nop}}
{{仮題|頁=567}}
劉石慕容苻姚の徒は、本皆晋國の臣にして、亂に乘じて、其の土に竊據したる者︀なれば、僭僞の國たるこ
と論なし。拓跋氏に至りては、北方より起りて、中原に據り、禍︀亂を戡定して、大國を開きたれば、支那を
一統せずと雖、自ら正統の例に入るべし。周隋之に繼ぎて、南朝と對峙すること二百年、南北各々統ありて
繼承し、軒軽すべきなければ、いかでか之を無統と名づけて、其の帝號を除くべけん。遼金元淸は皆塞外に
國を建てて、後に中原に入り、其の形勢、稍後魏に同じく、本皆前代の叛臣に非ざれば、誰を憚りてか、之
を僭國に貶すべけん。然るを屑々然として、宋を揚げて遼金元を抑へんと欲するは明人の偏見なり。元淸の
祖︀宗は、宋明の諸︀帝と同時に帝號を享くることを得べしとすれば、彼の淸人の、筆を極めて宋末二帝明末三
帝を貶するは、殆ど無益の勞にあらずや。
然らば宋元の改革は、何れの年に在るか。宋元の際は、夏亡びて商興り、商亡びて周興りしとは異なり。
元の太祖︀は、宋の孝宗の時に興り、寧宗開禧二年に帝位に陞り、宋の祥︀興帝は、元の世祖︀至元十六年に崩じ
て、宋亡び元の太祖︀の即位より宋の亡ぶるまで七十三年を歷たり。宋亡ぶる前に、元の祖︀宗は旣に金夏回々
欽察諸︀國を平げて、古今無比の大國となりたれば、元朝は始より自立の帝國にして、宋の統を承けたる者︀に
非ず。何ぞ宋元革易の年といふべき年あらんや。然るを明人は、區々たる江南又は嶺南の降附せざるに由り
て、元の諸︀帝の帝號を貶せんとするは偏見も亦甚し。明淸の際は、殆ど宋元の際に同じ。元の宋統を受けざ
るを知らば、淸の明統を受けざるも知るべし。明淸の際に統の連續なければ、淸の世祖︀順治元年を以て明淸
改易の年と定めんとする淸人の議論は、全く無用の辨なり。
支那歷代の中、正統の朝即ち獨立帝國と稱すべきもの左の如し。秦蜀吳遼金元明淸の八代は、皆前後に連
續せず。此等は、各其の一代の中に於て正統の繼承ありしのみにして、前に受くる所なく、後に傳ふる所な
き者︀なり。細字を以て書きたる者︀は、正統の朝より分れたる支派なり。正統の外には、周末列國、秦末列國、
晋の五胡十六國、隋末諸︀僭國、五代列國、元末諸︀僧︀國等あれども、皆略せり。
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┌─{{resize|75%|後梁}}<br/>
唐━━━虞━━━夏━━━商━━周 秦 漢︀━━━魏━━━晋━━━宋━━━齊━━━梁━┻━陳<br/>
蜀漢︀ 後魏━┳━西魏━━━周━━━隋<br/>
吳 └東魏───{{resize|75%|北齊}}<br/>
┌─{{resize|75%|北漢︀}}<br/>
唐━後梁 後唐━━━後晋 後漢︀━┻━後周━━━宋<br/>
遼 金 元 明 淸<br/>
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因に云ふ、近世の人、支那の帝王を記するに、正統僭國の別なく、凡て其の廟號諡號を黜けて、某主某と
其の姓名を稱する者︀あり。こは大日本史の書法に基きたるなり。支那人は、古より「士無{{二}}二王{{一}}」即ち世界
に二人の天子なしと云へる妄想を懷きて、外國をば凡て夷狄と賤め、外國の君主に皇帝と稱する者︀ありとも、
決して之を認めざる習慣なりしかば、皇國のことを記するにも、天皇の御事を倭王と云ひ、崩御を死と云ひ、
いかにも無禮なる書方なれども、皇國の人は、其等の事に頓着せず、上下擧りて漢︀風を喜べる時代には、彼
の國を華夏中國と崇び、其の國號を呼ぶには、大唐大明など云ひ習はしゝが、本居宣長氏は、戎國の王を天
子など云ふまじきことを痛論し、水戶の大日本史は、務めて內外の分を正し 唐の太宗を唐主李世民、元の
世祖︀を元主忽必烈など書き、其の崩をば殂と改め、日本外史も、之に傚ひ、明の神︀宗を明主朱翊鈞、朝鮮の
宣祖︀を韓王李昭と云へり。これより內外を顚倒する弊風全く已みて、外國の君主を貶黜することを皇國に忠
{{仮題|頁=568}}
義なるが如く心得るに至れり。然しながら今日より考ふるれば、彼より無禮を加へたるに由りて、我よりも
其の報復として、彼の天下を呼下しにせんと云ふは、いかにも大人げなき爲方なり。且報復ならば被害の度
に相應せざるべからず。彼は我を夷狄として、天皇の崩を死と云ひたるに、我は、殂を以て之に報ひては、
割の合はぬ咄なり。通鑑の書法にては、四海︀を奄有する者︀には崩と書き、分治する者︀には殂と書き、綱目の
凡例崩葬の條には「正統曰崩、僭國之君稱帝者︀、曰某主姓某卒、無統之君稱帝者︀曰某主某殂、蠻夷君長曰死、
盜賊會帥曰死」とあり。大日本史は、支那の天子を何と見たるか。僭國之君ならば、卒と云ふべし、無統之
君ならば、上に天子なきなり。通鑑の分治者︀も、義同じ。天皇儼然として上にましませるに、分治無統の例
を用ひば、支那の天子を帝とせざるのみならず、天皇をも認めざる事とならん。
方今各國の交際益々親密になり、外國の君主の事を記するに、キングも、ロハも、シヤーも、スルタンも
皆皇帝と譯して、天皇の御事を記するが如き尊敬の語を用ふる事となりたるに、支那の前代の帝王を記する
にのみ、大日本史の筆法を用ふるはいかゞ。前代の帝王に關しては、何方よりも不足を訴へらるゝ氣遣なけ
れども、死人の屍を鞭うつが如きは、勇者︀の事に非ず、朝鮮國の先王の事も、日本外史の韓王李昖などは已
めて、宣祖︀とか昭敬王とか云ふべきなり。これらは、今の王室の祖︀宗なれば李昭など云ひては今の王室に對
して不敬なり。
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*[[浅井物語]]
*[[浅井日記]]
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*底本: 国史研究会 編『国史叢書』越後軍記 昔日北花錄︀ 淺井物語 淺井日記,国史研究会,大正4. {{NDLJP|3441726}}
*Webブラウザ上でキーワード検索しやすくするために、「龍」を除く旧字を新字に変換し、いくつかの異体字を常用漢字に変換している。
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{{仮題|投錨=越後軍記|見出=中|節=|副題=十二卷|錨}}
本書は、上杉謙信一代の武功を記したるものなり。謙信名は景虎。長尾氏なり。
關東管領上杉憲政の讓を受けて上杉氏を稱す。內容は謙信の素性より筆を起し、
謙信幼少時代に於ける擧動、或は家臣の成敗、或は軍中に於ける作法、或は甲州・
信州等に於ける合戰、關東管領上杉憲政より管領職幷に上杉氏を讓らるゝ事、剃
髮して謙信と稱する事、武田信玄と合戰、將軍義輝の使來る事、小田原北條氏に
間者︀を遣す事、信州河中島出馬、小田原北條攻、永祿四年上洛、其の他軍法評議、
河中島合戰幷軍法決談、同勝負論、山根城攻、長尾彈正入道成敗、さては領國の政
道諸︀士休息の事、將軍義輝の凶報來る事、信玄・氏康數度の合戰、謙信北條氏と和
睦、氏康の七男三郞を養子とする事、信玄病死、謙信病死、養子景勝家を續ぎ武田
{{仮題|頁=5}}
勝賴の妹を妻として兩家懇親を結ぶ事、景勝、豐臣秀吉の命により奧州會津に移
り百二十萬石を領する事、是より更に門葉繁榮すといふに筆をさしおきたり。
本書作者︀詳ならず。元祿十五年白雲子といふ者︀の序文あり。其の文によれば、上
杉氏の遺臣の手に成れるを、更に不足を補ひて完成したる由を記せり。然して所
所に作者︀が評論を加へ、讀者︀をして本文の意を了解せしめたり。
本書元祿十五年版を採收す。
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{{仮題|投錨=昔日北花錄|見出=中|節=|副題=五卷|錨}}
本書內容は、一條天皇御代瀧口の候人富樫次郞家國といふ者︀、加賀介に任ぜられ
治績あり。後其の國の住人となり、子孫相續ぎて富樫介泰俊に至る。然るに泰俊、
天正二年一揆の爲に滅亡され、茲に富樫家永く斷絕の悲運に至る事蹟と、能州畠
山氏の滅亡、信長加州一揆退治、石動山破却、加越能城跡の事、最終には前田家の
事蹟を記し、元和の役に利光上洛云々。寬永十八年には、富山へ淡路君、大聖寺
へ飛驒君入城、小松へは微妙公隱居せられ、所々の砦城は廢せられ、それより治世
太平無窮と筆をさしおきたり。要するに本書は、富樫家を專ら記し、然して後他
家に及び、終に前田家に筆を止めたるなり。
本書作者︀の名を記さず。又卷首に漢︀文の序を揭げたれども、年月を記さず。たゞ
藤周民識とのみあり。大日本人名辭書に云、『堀田麥水は加賀の俳人なり。希因
の門に學び、暮柳舍と號す。天明二年十月十四日歿す。年六十三。慶長中外傳・
越の白浪・三州奇談・琉球屬和錄・昔日北花錄の著︀あり』と見えたり。學友尾佐
竹猛氏の談に、堀田麥水は、金澤堅町池田屋與右衞門の二男にして、樗庵と號す。
麥水は其の俳名なり。慶長中外傳を著︀し、德川幕府時代に於て石田三成を推賞
し、家康・秀吉と相並んで三傑と稱したる大膽なる著︀述を敢てし、其の他慶安太平
記・南島變亂記・昔日北花錄・三州奇談・博伽雜談等、其の他著︀書多し。又將棊に巧
にして、金谷御殿(現今兼六公園なり藩主の別莊)に、藩主の相手に召され、扶持を
{{仮題|頁=6}}
受けたり。天明三年十月十五日、六十三歲にて歿す。但序文の藤周民は、麥水の
別號なるや否や、未だ知るによしなし云々{{仮題|ignore=『}}』。以上の事蹟を考へ合すれば、また以
て作者︀の事蹟をも知ることを得べし。玆に尾佐竹氏に謝意を表す。
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{{仮題|ここまで=昔日北花録/解題}}
{{仮題|ここから=浅井物語/解題}}
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{{仮題|投錨=解題|見出=大|節=|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=淺井物語|見出=中|節=|副題=六卷|錨}}
本書は、江州淺井氏の祖︀先淺井新三郞重政より筆を起し、其の子忠政に至り、父
に續ぎて武功を彰し、主家京極氏と對抗するに至るまでの事蹟を記したるもの
なり。
內容、最初淺井氏の祖︀新三郞重政、京極氏の旗下に屬し、追々信用せられ、京極
氏の重臣上坂治部大夫に重用せらるゝに至るまでの事蹟と、當時上坂治部大夫
は、京極氏の重臣として武威を振ひし事蹟とを記し、治部大夫死去に及びて、重
政の子新三郞忠政に至り、遂に上坂氏を追ひ拂ひ、玆に淺井氏勢力を振ふことゝ
なりたり。上坂氏之を京極氏に訟へしも、其の效無く、忠政、上坂氏の據るところ
の今濱の城を攻め落し、小谷山に城を構ふ。是に於て京極氏、兵を以て攻むとい
へども克つ能はず。淺井氏武威益振ふ。京極氏止むを得ず之と和睦するに至る。
淺井氏是より繁榮すと筆をさしおきたり。
因云、忠政の子新三郞堅政、堅政の子新三郞助政といふ。助政の子新九郞久政、久
政の子新九郞長政といふ。長政に至り、織田氏の爲に滅されたり。されば本書は、
淺井長政の祖︀先二代の物語にして、然も淺井氏に於ける全盛時代の事蹟を記し
たるものなり。
本書寬文二年版を採收す。
{{仮題|編者識=1}}
{{仮題|ここまで=浅井物語/解題}}
{{仮題|ここから=浅井日記/解題}}
{{仮題|頁=6}}
{{仮題|投錨=解題|見出=大|節=|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=淺井日記|見出=中|節=|副題=二卷|錨}}
本書は、江州淺井氏の代々を年序を追ひて記したるものにして、淺井氏の事蹟は
詳細に記し、之と關係せる他氏の事蹟までを、其編年の條々に記入したるものな
り。其の他公武の出來事は、關係なしといへども、其の年の事實として記したり。
{{仮題|頁=7}}
內容は、最初に淺井氏の系圖を揭げ、嘉吉三年淺井氏の祖︀先三條大納言公綱敕勘
を蒙り、江州に謫せられしより筆を起し、公綱の子淺井新三郞重政、國主政賴に仕
へ、追々子孫繁榮せる事蹟と、長政の代に至り、天正元年織田信長の爲に攻められ、
軍利あらずして滅亡せらるゝ迄、淺井家の興亡を委しく記したり。
本書作者︀詳ならず。黑川藏本寫本を採收す。
{{仮題|編者識=1}}
{{仮題|ここまで=浅井日記/解題}}
{{仮題|ここから=越後軍記/序}}
{{仮題|頁=12}}
{{仮題|投錨=越後軍記|見出=大|節=|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=序|見出=中|節=e-jo-1|副題=|錨}}
范蠡曰、兵者︀凶器︀也、戰者︀逆德也。雖{{レ}}然、當{{二}}大亂之世{{一}}、而刑以防{{レ}}姦者︀、不{{レ}}可{{レ}}有{{レ}}無{{二}}斯
器︀{{一}}者︀也。本朝戰國之熾也。甲府有{{二}}武田信玄{{一}}、越國有{{二}}上杉謙信{{一}}、相州有{{二}}北條氏康{{一}}、尾
陽有{{二}}織田信長{{一}}。是謂{{二}}戰國之四大將{{一}}矣。紀{{二}}其氏系戰鬪{{一}}者︀、有{{二}}甲軍鑑・五代記・信長記
等若干卷{{一}}、行{{二}}於世{{一}}也。獨闕{{二}}然於上杉氏{{一}}者︀、予恒憾{{レ}}焉。于{{レ}}玆去歲之秋、於{{二}}京洛{{一}}得{{レ}}遇{{二}}
一牢士{{一}}。其祖︀先嘗仕{{二}}上杉氏{{一}}勵{{二}}勇功{{一}}、而出{{二}}其深祕之軍記{{一}}。予一閱{{レ}}之、則上杉氏一世
之鬪記也。至矣盡矣。强索膽{{二}}寫之{{一}}、猶正{{二}}其餘{{一}}、補{{レ}}不{{レ}}足、聚爲{{二}}十二卷{{一}}、名曰{{二}}越後軍記{{一}}
矣。剞劂氏累乞{{レ}}刊{{レ}}梓。不{{レ}}得{{レ}}已應{{二}}其需{{一}}而已。
元祿十五次壬午春三月上浣{{sgap|12em}}旅客 白雲子書
{{仮題|ここまで=越後軍記/序}}
{{仮題|ここから=越後軍記/巻之一}}
{{仮題|頁=13}}
{{仮題|投錨=越後軍記|見出=大|節=e-1|副題=卷之一|錨}}
{{仮題|投錨=上杉景虎入道謙信素性の事|見出=中|節=e-1-1|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=上杉謙信|見出=傍|節=e-1-1-1|副題=|錨}}謙信、初めは長尾彈正少弼景虎、後上杉輝虎と改め、剃髮して謙信と號す。父は長尾
六郞爲景、後剃髮して道七と稱す。北越後の國主たり。博學秀才にして七道に通達
す。仍つて道七と稱すとかや。就中敷島の道に長じて、數々褒貶の詠歌を作れり。
或時、百首の和歌を詠じて、之を禁裡に奉る。卷頭の歌に曰、
蒼海︀のありとはしらで苗代の水の底にも蛙鳴くなり
と、名歌の聞えあり。況や武道に於てをや。其兵を用ふるときんば、孫吳にも劣ら
ざるべし。{{仮題|投錨=長尾爲景上杉房義を討つ|見出=傍|節=e-1-1-2|副題=|錨}}誠に文武兼備へたる良將と謂つべし。永正丙寅の年、管領上杉房義、行
跡不義にして、政道正しからざるに依つて、爲景之を討亡せり。是に依つて、武威
益〻盛にぞなりにける。
{{left/s|1em}}
傳に曰、{{仮題|投錨=謙信の世系|見出=傍|節=e-1-1-3|副題=|錨}}謙信、先祖︀は平氏にて、桓武天皇の苗裔、鎭守府の將軍平良兼の後胤、長尾
信濃守爲景の次男なり。{{仮題|投錨=坂東の八平氏|見出=傍|節=e-1-1-4|副題=|錨}}先祖︀良兼、子孫多くして、分れて八流となる。所謂坂東
の八平氏是なり。鎌倉權五郞景政は、其の嫡流なり。同帝八代の後胤、大剛の勇
士にて、十六歲の時、源の義家に屬して奧州に發向し、武衡・家衡兄弟の朝敵を攻
め、拔群の働し、天下に其の高名隱れなし。武衡は、天武天皇の後胤、淸原武則が
嫡子なり。永保年中、陸奧守義家、奧州へ入部す。武衡異儀に及ばず、相從ふと雖
も、其の弟家衡、出羽︀國にありて出仕せず、我意を振ふ。義家、出羽︀へ入らんとし
けるに、家衡堅く防ぎて入れず。義家是非なくして、一先づ奧州に歸る。時に武
衡、之を聞きて、奧州より羽︀州に赴き、家衡と一手になりて、金澤の城に楯籠る。
義家、大に怒つて、金澤の城を七重八疊に取圍んで攻め動かす。此の戰に、鎌倉權
五郞景政、粉骨を盡す。寬治五年十一月十四日の夜、武衡・家衡、遂に叶はずして、
本城に火を放つて落行く。武衡は水練︀に達して、池中に隱れしを捜し出し、生捕
{{仮題|頁=14}}
にして首を切る。家衡は人夫に交り、紛れ落ちけるを、追懸け討つてけり。是れ
偏に、景政軍功に依つてなり。源賴朝卿の寵臣景時も、八平氏の一流にて、桓武
天皇の後胤、平良兼の末孫、梶原平三と號す。治承年中、石橋山の合戰の時、賴朝
に忠義あり。依つて近臣となる。壽永三年、攝州一谷の戰場に進んで高名す。加
之歌人にて秀歌多し。然りと雖も、賴朝の寵臣たる權威に誇つて、源義經と軍法
の諍論し、忽ち不快となり、其の遺恨を含んで讒言し、終に判官を亡せり。建久
二年正月十五日、景時所司となる。此の時和田義盛、侍所の別當に補せらる。景
時內々此の職を羨み望みしかば、同じく三年、義盛{{r|服暇|ふくか}}の次を窺ひ、梶原、只一日
其の職を借りて、永く返さず。和田義盛、大に憤ると雖も、權威の强を恐れて、敢
ていはずして、空しく年月を送りける。景時、押して侍所の別當と稱し、非禮奢
侈の行跡を、大名・御家人等之を惡んで、諸︀大名六十三人、一同に連署︀を奉りて、景
時が無罪の諸︀士を讒し失ひし暴逆を訴ふ。仍つて不日に、梶原一家鎌倉を追放
せられ、正治元年、相州一宮の館︀に引退き、同じく二年、景時京都︀を志し、一家主從
三十餘騎にて、駿州淸見が關に至る。其の折柄、諸︀士的矢射ける其中を、馬上にて
馳せ通る。的場の侍等怒つて、切つて蒐りしかば、景時運盡き、嫡子源太景季・次
男平次景高父子三人、一所に逃げ、山中に入りて自殺︀す。梶原が事、諸︀書に載せ、
滅期も樣々の說ありと雖も、事繁き故に略し、其の大槪を記するは、謙信先祖︀なれ
ばなり。正統は權五郞景政が孫景弘、始めて長尾と稱す。其の子定景、鎌倉の管
領に仕へて、子孫代々相州に住す。就中定景、爲景より其の威高く、鎌倉の長臣と
なつて、天文十一年、爲景越中にて討死の後、次男平三景虎、其の後を相續す。時
に十四歲なり。景虎、武勇智謀萬人に超え、本領越後の外、上野及び佐渡國を手に
入れ、越中・能登・加賀を討從へけり。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=上杉の家系<sup>幷</sup>上杉氏謙信續ぐ事|見出=中|節=e-1-2|副題=|錨}}
上杉氏は藤原なり。{{仮題|投錨=上杉氏の來由|見出=傍|節=e-1-2-1|副題=|錨}}大織冠十八代の後胤、修理大夫重房領知、丹波國上杉庄なり。
依つて氏とす。後嵯峨院第一皇子宗尊親王を、征夷將軍に任じ給ひ、建長四年三月、
{{仮題|頁=15}}
鎌倉へ下向まします御時、勸修寺修理大夫重房、供奉の臣なり。重房、已に足利治部
大輔賴之を婿として、足利尊氏卿の緣類︀たりしが、相州に留り、終に東國の住人とな
り、上杉左衞門尉と稱す。{{仮題|投錨=關東上杉氏の始祖︀|見出=傍|節=e-1-2-2|副題=|錨}}之を關東上杉氏の始祖︀とす。重房嫡男掃部頭賴重・其嫡
子兵庫頭憲房・其子安房守憲顯相續いで、伊豆・上野・越後三箇國を領して、武威榮な
り。此時、關東の管領職に補任せらる。其嫡男兵庫頭憲將・舍弟兵部少輔能憲に管
領職を讓れり。能憲、弟安房守憲方に、又管領職を繼がしめ、鎌倉山の內に住せり。
其嫡安房守憲定・其次大全長基・其次右衞門佐氏憲・其次安房守憲實繼ぎて、右京亮憲
忠・其次民部大輔顯定・從四位下式部大輔、{{仮題|分注=1|上杉朝定子、實は|古河政氏子なり}}之を山の內殿と號す。上杉
ふ。朝定の子從五位下修理大夫定正、鎌倉{{r|扇子谷|あふぎがやつ}}に住す。此兩上杉中絕して、數年相
戰顯定は、永正七年二月、越後に於て滅亡す。定正の男子憲正代に至りて、北條氏康
と數〻相戰ひ、勝利を失ひ越後へ敗北し、力なく、長尾平三景虎{{仮題|分注=1|謙信|なり}}を頼み、上杉の名
字幷に管領職を讓りて、北條家退治の約を誓ふと雖も、素意を達せず。是に依つて、
上杉の正統斷絕したりけり。
{{仮題|投錨=長尾氏繁榮來由の事<sup>附</sup>謙信本卦|見出=中|節=e-1-3|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=長尾氏の祖︀|見出=傍|節=e-1-3-1|副題=|錨}}長尾氏は、人皇五十代桓武天皇三代、高望王五世、村岡小五郞忠通鎭守府將軍{{仮題|分注=1|平致經|が子}}
四代、大庭景宗弟長尾次郞景弘を、長尾氏の祖︀とす、大庭三郞景親が伯父なり。景親
は、大庭景宗が子にして、素は左馬頭源義朝の郞等なりけるが、平治の一亂に、源氏
滅亡の後、平家に屬して、治承年中に賴朝義兵を擧げられし時、敵となつて大に戰
ひ、景親終に打負け誅せらる。此の時、一族武威旣に衰へて、三代將軍の後、北條九
代を過ぎ、足利尊氏公の治世に當つて、關東の管領職を、基氏に補任す。
{{left/s|1em}}
傳に曰、基氏は、淸和源氏足利尊氏卿の三男從三位左馬頭を、左兵衞督に任ず、義
詮將軍の舍弟なり。然るに觀應年中、義詮鎌倉より上洛の以後、尊氏の下知とし
て、基氏鎌倉の管領となる。時に高播磨守師冬・上杉民部大輔憲顯兩士を、其執事
となす。斯くて尊氏と直義{{仮題|分注=1|尊氏の舍|弟なり}}不快なり。是は高師直より事起りけるに依つ
て、基氏之を憤り、師冬を誅せんと思ひ給ひ、憲顯と密談あつて、憲顯が子上杉左
{{仮題|頁=16}}
衞門に內通し、上野に於て謀叛を起さしめ、高師冬を討手に命ぜらる。是は師
冬を途中にて、討たん爲めの方便なり。然りと雖も、師冬堅く辭退して曰、某憲
顯へ對し、其の子を討つことなり難︀し。憲顯向ひなば、親の事なれば、自ら歸伏す
べしといつて、敢て進まず。基氏計策相違してければ、案じ煩ひ、憲顯と又計つて、
師冬がいふに任せて、討手を憲顯に命ぜらる。上杉畏つて、軍粧華やかに出立ち、
鎌倉を打立つて、上野に下りしが、兼ての計略なりしかば、頓て左衞門と一味し城
に入りて、要害嚴しく構へて楯籠り、事むづかしくぞ見せにける。基氏僞つて大
に驚き、延引せば大事ならんと、基氏自ら進發して、高師冬を先手とし、途中に至
つて相圖の狼烟を上げければ、上杉父子、城より出でて急ぎ馳せ來り、降參と呼ば
はりけり。時に基氏、師冬が一族三戶七郞といふ者︀を、傍近く召寄せ、忽ち殺︀害し、
師冬が方へ使を以て、汝年來の逆心、其の罪許し難︀し。三戶七郞は只今誅せり。
汝も早く生害すべし。然らずば、急度討手を差遣すべきなりと、師冬畏り候と返
事して、其夜落行きけるを追懸け、路次にて討殺︀しける。其の後、新田の一族兵を
起し、武藏野に於て尊氏と相戰ひ、新田義興・義治、鎌倉へ攻入りける時、基氏防ぎ
戰ふと雖も、多勢に無勢叶はずして、鎌倉を退去す。義興・義治、相州河村の城に
楯籠りける時に、基氏軍兵を差遣し、之を攻むると雖も、義興武勇の將にて、勝利
を得ざりしかば、基氏晝夜に謀を運らし、畠山道誓と相議して、遂に義興を殺︀す。
然りと雖も、義宗・義治等東國にありて、蜂起する事數多度なり。之に依つて、多
年挑み戰ふ。其の後、新田の一族次第に衰へ、義宗・義治越後へ蟄居せり。斯くて
前の北條高時が次男時行、此方彼方と流浪しけるを基氏呼出し、伊豆國に於て所
領を給ふ。時行大に悅び、其の後、度々の軍に忠功を勵しけり。執事畠山道誓は、
南方退治の爲め、東國の諸︀勢を引具して上洛せし所に、在陣長々にて、諸︀士困窮に
及び、本國へ歸去する者︀多し。道誓怒つて歸陣の後、彼の歸國せし軍士の所領を、
悉く沒收す。各歎き訴へしかども、畠山更に聞入れず。之に依つて、管領基氏へ
各愁訴して曰、向後道誓鎌倉の執事たるに於ては、御下知に從ふまじと、大勢一
同に言上す。基氏聞屆け、道誓へ使者︀を以て、汝、先頃南方退治の發向、事の素意
{{仮題|頁=17}}
は、仁木義長を討たんとの巧なり。其の隱謀已に露顯す。其の上關東の諸︀士、罪
なき輩の所知を押領する條、基氏に對して逆心不忠の至なり。速に此地を立去る
べし。さなきに於ては、討手を差遣し誅伐あらんとなり。是に依つて、道誓是非
なく鎌倉を退き去つて、伊豆の修禪寺に楯籠りしかば、基氏軍兵を差向け、攻め動
かすと雖も、寄手討負けて引退く。基氏大に怒り、東八箇國の勢を催し、再び大軍
を以つて攻めければ、道誓叶はずして逃去つて、山城・大和の邊に至り病死す。芳
賀の入道禪可は、宇都︀宮が長臣たりしが、基氏の執事上杉憲顯と不和にして、私に
合戰し、加之基氏にも背きければ、基氏憤り、宇都︀宮へ出馬せらる。禪可が子伊
賀守・駿河守等が軍兵、武藏野に出張して大に戰ふ。基氏勇み進んで駈破り、駿河
守を自身に切殺︀し給へば、其勢に恐れ、芳賀が兵大に敗れて、右往左往に逃げ散ず。
基氏直に宇都︀宮を退治せんと發向の所に、氏綱急ぎ馳せ來つて、某、全く禪可に同
意仕らず候旨、神︀に誓うて謝しければ、基氏鎌倉へ歸陣す。貞治六年四月、左馬
頭基氏卒す。行年廿八歲。法名瑞泉寺と稱す。
{{left/e}}
管領基氏の執事上杉安房守憲顯より、上杉家、威を振ふ。此の時長尾氏を、上杉家
の長臣とす。是に依つて、長尾左衞門入道賢昌、上杉家の執權として、其の威關八州
に{{r|榮|さかん}}なり。其の頃關東の管領家斷絕す。賢昌之を歎き、京都︀先の公方持氏朝臣の末
子永壽王成氏、故あつて信濃國に隱蟄し給ふと聞きて、賢昌急ぎ京都︀に上り、今關
東に管領絕えて、八州治まり難︀く候條、願はくは成氏公の過失御免︀を蒙り申したき
旨、言上しければ、公方恩免︀の御判を給はり、則ち成氏公を招請して、絕えたるを繼
ぎ、廢れたるを興さしむ。斯る仁政の德に依つて、長尾氏威勢重く士民崇敬す。是
より相繼ぎて後、{{仮題|投錨=上杉氏兩家に分る|見出=傍|節=e-1-3-2|副題=|錨}}上杉氏關八州に武威を振ひ、繁榮して旣に兩家に分れけり。長尾
氏は其權職として、關東靜謐に治まる所に、{{r|扇谷|あふぎがやつ}}の定正家臣、長尾左近將監嫡子左
衞門尉と、次男尾張守確執の遺恨起り、二裂になつて、兄弟の軍止む時なし。此の故
に、山內の顯定・扇谷の定正の兩上杉も、亦合戰に及び、關東旣に擾亂の世とぞなり
にける。斯る所に、山內顯定の家臣、長尾左衞門尉子息四郞右衞門尉謀叛を企て、
扇谷の定正を討たんと欲して、多勢を以て攻め戰ふ。定正叶はずして敗走し、武州
{{仮題|頁=18}}
鉢形の城に引籠り、屢〻合戰す。時に越後國の土民等、一揆蜂起して國亂る。越州は、
山內顯定の分國なりければ、長尾左衞門尉定景嫡子爲景父子發向して、逆徒を討つ
て平均に治めけり。翌年山內顯定、越後に赴き給ふ所に、正良等再び蜂起し、{{r|雨溝|あまみぞ}}と
いふ所に於て、顯定討たれ給ふ。是に依つて、長尾氏越後を討ち治め、一國の太守と
なり。{{仮題|投錨=景虎の武勇|見出=傍|節=e-1-3-3|副題=|錨}}定景・爲景より威光日に益し、武勇近國に振ふ。殊に以て、三代の景虎、智謀
豪傑の大將にて、終に{{r|殿|おく}}るゝことなし。是より上杉家の武威衰へり。長尾兄弟の確
執より事起り、上杉兩家の廢衰とぞなりける。此の潰に乘じて、北條氏綱・同氏康、上
杉の領國武藏・相模を攻め傾く。天文十五年四月廿日、上杉憲正、武州川越に於て、
北條氏康と相戰ひ、大に打負けて越後に敗北し、上杉家は斷えて、長尾家の繁榮とぞ
なりにける。
{{left/s|1em}}
傳に曰、享祿三庚寅上杉謙信公誕生。{{仮題|分注=1|初めは長尾景虎、後公方義輝公より、輝|の字を給はりて、上杉輝虎と號す。}}本卦{{?}}{{?}}履、<sup>六
三</sup>、易に曰、履の心は禮なり。人常に履む所なり。小畜より出でたり。物蓄ふる時
は、禮を以て和順す。故に次に履を以てす。其の禮に叶ふ時は吉なり。背く時は危
く、虎の尾を履むが如し。兌を下とし、乾を上とし、上下尊卑の義正しき故に、
履むといふ、禮といはんが爲めなり。○六三の辭に云、眇能視︀、跛能履。履{{二}}虎尾{{一}}
咥{{レ}}人凶。武人爲{{二}}于大君{{一}}。是れ其の愼みの深きをいふ。見る事明かならず、故に
{{r|眇|すがめ}}といひ、其の履む所正しからず、故に{{r|跛|あしなへ}}といふ。心は其才、旣に不足にして、居
事も亦宜しからず、故に虎の尾を履むといふ。不義を以て不禮を行ふ。故に虎
に咥はるゝが如し。是れ凶なり。武暴の人にして、人の上に立ちて、其の心を恣
にする儀なり。此の如き時は、必ず其の家を失ひ、其の身を傷る。深く愼むの儀
なり。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=長尾爲景、戰場に於て卒去の事|見出=中|節=e-1-4|副題=|錨}}
永正三年丙寅、管領上杉房義、越中の國に在住し、行跡不義にして、政道正しからざ
るに依つて、爲景之を討亡せり。故に舍兄上杉顯定、之を憤り、永正六年己巳七月
廿八日、軍兵を引率して武州を打立ち、越中に發向し、爲景を攻め動かす事頻︀なり。
{{仮題|頁=19}}
爲景勝利なくして、越中の內西濱といふ所へ引退き、要害を構へ陣營を堅うして、暫
く時節︀を窺へり。是に於て顯定、先づ國府に打入りて、房義の政法を改めて、賞罰を
行ふと雖も、國人更に順服せずして、翌年庚午の四月に、國中一揆蜂起し、大に亂れし
かば、顯定防ぐに堪へで、終に信州と越中の境に退き去つて、長桑原に屯す。然るに
同六月廿日、高梨攝津守戰死せり。長尾爲景は、常に忍の者︀を出し置き、窺ひ見せし
めけるが、追々に歸り來つて、斯くと吿げたりける。爲景聞きて、旣に今時を得たり
と大に喜び、軍勢を催し打つて出でければ、越中一揆の士大將共、過半打ち從へ、或
は降參して味方に屬し、武威日に盛に大に興り、信州へ打つて入らんとす。其の鋒
先比類︀なし。爰に信濃國の猛將賴平打つて出で、屢〻相戰ふと雖も、每度打負け引退
きけり。時に上杉房義の子相模守房正、父の怨敵なりければ、越中に起り、鬱憤の旗
を揚げ大に戰ふ。爲景防戰して、是れ亦勝利を得たりき。然るに爲景、此の軍に流
矢中り痛手なりしかば終に卒す。{{仮題|投錨=爲景戰死|見出=傍|節=e-1-4-1|副題=|錨}}長男家を續ぐと雖も、愚將にして、國郡の政道も
叶はず、且つ敵に對して軍すべき器︀量もあらざれば、老臣・大臣等驕つて、上を{{r|蔑|ないがしろ}}に
し、君臣の禮儀も疎に、剩へ逆心を含み、國家を傾けんと謀る族もありけり。況や隣
國より幕下に屬する諸︀士に於てをや。各心を變じて敵となり、誠に長尾の家、危急
存亡の端なり。{{仮題|投錨=景虎の幼時|見出=傍|節=e-1-4-2|副題=|錨}}次男は享祿三年庚寅に生れたり。幼名猿松と稱す。{{仮題|分注=1|是れ謙|信なり。}}兒たりし
時の遊戲、假初の{{r|翫|あそび}}も、異樣なる事を好み、{{r|長|ひとゝ}}なるに及んでは、短氣にして情剛く、大
膽にして何事にも恐れず、家臣等の諫言などは、曾て用ひ給はず。其の行跡{{r|直人|たゞびと}}に
あらねば、舊臣等皆之を惡み疎んじて、主人の君達の如くには敬はざりけり。
{{仮題|投錨=景虎八歲の時、家臣等誹り出す事|見出=中|節=e-1-5|副題=|錨}}
天正六年、景虎八歲になり給ひ、彌〻强暴にして、益〻氣隨なりければ、國の大臣等諫言
を加ふと雖も、敢て許容せられざりけり。仍つて諸︀臣相議して、關の山といふ所に
移しけり。{{仮題|分注=1|從者數十|人なり。}}景虎遂に拒み出され、其所に住居し、或時米山の虛空藏へ參詣、
菩薩を拜し了つて、山上より四方を見下し、我れ再び國に歸つて、逆臣等を討亡さん
時、陣を設くるの地、必ず此山にあらんといへり。從士舌を振つて肝を消す。翌年
{{仮題|頁=20}}
景虎九歲にして、大臣等を欺き計つて、遂に國に歸る事を得たり。
{{left/s|1em}}
傳に曰、少年の時、持餘したる兒、成人して良將となりし例、異國・本朝に是れ多し。
近くは織田信長公、十三の歲、寺へ上せしに、中々手をば習はずして、萬づ行儀惡
しく、手習朋友の食を奪ひ取つて、我れ食はじなど、種々の惡事を日にせられけり。
師匠も手に餘り、傍の人も見て、是れ何の用に立つまじ。彈正忠の子にてはある
まじなんど、いひ合へりしが、終に天下の主將となり給へり。
{{left/e}}
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|越後軍記}}{{resize|150%|卷之一<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=越後軍記/巻之一}}
{{仮題|ここから=越後軍記/巻之二}}
{{仮題|頁=20}}
{{仮題|投錨=越後軍記|見出=大|節=e-2|副題=卷之二|錨}}
{{仮題|投錨=景虎廻國修行<sup>附</sup>國を治むる道の事|見出=中|節=e-2-1|副題=|錨}}
天文十一壬寅年、景虎十三歲になり給ふ。性質天性と發明にして、智勇萬人に超過
せり。是に依つて、父早く逝去したりし事を歎き、且つ國の大臣等、逆心を懷き貪
欲のみにて、不義無道の有様なりければ、程なく國家を失はん事を愁ひて、我何とぞ
し、逆臣等を誅罰し、先祖︀の國を持ち家名を興さんは、是れ第一の孝ならんと、晝夜
工夫を巡らし給ふ。或時宣ひけるは、我れ、父爲景公に早く離るゝと雖も、父の恩に
依つて安座せり。凡そ一州を治むる者︀、一代の中に、仕出の武士はさもあるまじ。
親に國郡を讓り得る者︀は、一切の苦を知らざる故に、萬事の善惡を知るまじ、善惡を
知らざれば、何事も惡しかるべしとて、頓て大臣等にいへらく、予、父の恩澤に依つ
{{仮題|頁=21}}
て、保養豐饒に暮せり。故に苦勞といふ事を知らず。されば今我れ思立ち、亡父菩
提の爲めに出家の志あつて、廻國修行せんとするなり。{{仮題|投錨=景虎の廻國修業|見出=傍|節=e-2-1-1|副題=|錨}}汝等宜しく兄君を輔佐し
て、國家を安寧に治め保つべし。舍兄若し不才にして、國を治むる器︀量なく、輔翼し
難︀きに於ては、汝等の中にして、國の主となるべしと、僞つて宣へば、大臣等聞きて、
內には之を悅ぶと雖も、外には先づ相留めける。然れども景虎、敢て聞き入れずし
て、遂に國を出去り給ひけり。大臣等心中に謂へらく、實に此の人を國の大守とせ
ば、我等が身の上に於て、其の罪遁れ難︀き所に、是れ幸なるかな、自己に國を去り給
ふ事、我々武運の强き所なりと、大に悅びつゝ、强ひて之を諫言せざりき。斯くて景
虎は、行脚の僧︀を{{r|倡|いざな}}ひて、奧州・出羽︀を經歷し、關東及び諸︀方を廻國し、人情を探り知
り、國々の風俗を見聞し、嶮難︀の地、或は城取の要害を巡見して圖し給へり。景虎從
者︀に示していはく、吾れ一世の間に、武名を天下に顯し、上洛せずんばあるべからず。
然る時は、先づ北陸道を討ち從へ、能登・加賀・越中・越前を以て、吾に忠ある剛臣等の
領國となし、全く京都︀の路を融通して障碍なからしめ、畿內の擾亂を服從させ、平均
に治め、公方を守護し奉り、秋津洲の外までも、掌握に歸せしめんと欲す。故に越中・
加賀・能登を一見して、今、朝倉左衞門尉義景
{{仮題|分注=1|義景は、孝德天皇四十六代の後胤、朝倉孝景が子越前の太守左衞門佐と號す。天正元年八月、織田信長と合戰し打負け、一乘が谷に逃げ隱る。家臣朝倉式部景鏡、回忠して義景を弑し降參す}}が城府を、委しく{{r|覘|うかゞ}}ひ見ん爲めに、越前に赴くなり
とて、{{r|阿波賀|あはか}}といふ所に至りぬ。朝倉義景、何とかして聞きたりけん、老臣朝倉次郞
左衞門尉を以て、使者︀として差遣し、景虎にいはしめて曰、當地へ御來儀の由承り
及び候、明朝予が茅屋に御入りあつて、麁茶召上がらるゝに於ては、本望の至り、何事
か是に如かんといへり。景虎聞きて、{{r|良|やゝ}}思惟し、從士に謂つていはく、思ふに是れ朝
倉が忍の者︀、越後にありて、我れ國を出去る事を、吿げ知らすものならん。然る上は、
當國に來つて、地形を知るの謀益なし。明朝早旦に此所を立ち去らんには如かじと、
頓て使者︀に對面し、義景公明朝召寄せられ、御茶給はるべき段、喜悅斜ならず候。必
ず參候致し、禮謝を述ぶべき旨、宜しく賴み存ずると宣ふ。使者︀立歸つて、返事を吿
げけるを、朝倉{{r|一々|つく{{ぐ}}}}と聞きて、此の人翌の未明に、此の地を立去らんと欲す。正に是
れ詐計の返答なり。我れ則ち此の人に先立ちて、途中に出向はんとて、翌日曉天よ
{{仮題|頁=22}}
り出で、道筋の村里に至り相待ちてけり。案の如く、景虎其所に來れり。義景卽ち
立迎へ、相遇して其の志を宣ぶ。景虎いはく、予が愚意甚だ恥づるに堪へたり。公
の智慮淺からざりし事、感心猶餘りありと宣ふ。義景旅席を設け、{{r|乃|いまし}}酒肴を進めて
以て饗應せらる。景虎辭するに能はずして、是迄御出で、芳志謝するに詞なしと、酒
盃獻酬の禮終れば、{{仮題|投錨=景虎叡山に登る|見出=傍|節=e-2-1-2|副題=|錨}}別を乞ひて立去り給ひぬ。夫より近江路を經て比叡山に登り、
景虎暫く玆に止住す。時に{{r|高良神︀|かうらしん}}の遠苗、{{r|宇佐神︀|うさじ}}駿河守良勝といふ英士、久しく關
東の管領に仕へしが、闇將たる故に、豫め{{r|危亂|きらん}}あらん事を察して、身を退け生命を
全うし、良將の寄遇を待つて、其の本意を達せんと欲し、是も亦天台山に登り、所緣
の坊に姑く蟄居す。{{仮題|投錨=景虎、宇佐神︀良勝に文武の大道を聞く|見出=傍|節=e-2-1-3|副題=|錨}}景虎之を聞きて、三顧して良勝に因み、常に相遇して、當世治亂
の事、及び武將たる身の心胸・行跡等を問ひ給ふ。時に良勝、景虎の智勇ある性質を
觀察して、良勝が家に相傳せる神︀武の大道を授け、且つ演說して曰、夫れ文武兩道
の根元は、仁と義との二つより出でたり。天下國家を保つ者︀は、文武を專にすべし。
文道を以て天下を治むるは王道なり。武道を以て國家を治むるは覇道なり。故に
君臣共に練︀れる時は、是れ泰平の基なり。上下共に文武に暗くして驕を極め、人欲
恣にして貨財を貪り、衣服冠帶美にして、以て身を飾り、淫亂を樂む者︀は、是れ亡國
の{{r|徵|しるし}}なり。故に曰、兵は武を以て{{r|植|うゑき}}とし、文を以て{{r|種|たね}}とし、武を以て表とし、文を以
て裏とす。上天の時を知り、下地の利を知り、中人の和を知り、君臣の禮を謹︀み、上
下の義を節︀にし、俗を順へ民に敎へ、士を綏んずるに道を以てし、之を理するに義を
以てし、之を動かすに禮を以てし、之を撫するに仁を以てするは文なり。命を受け
ては親を忘れ、陣に臨んでは身を忘れ、進み死するを榮とし、退き生くるを{{r|辱|はぢ}}とし、
賞罰を信にし智謀を廣くし、法令を明にして威を天下に振ふは武なり。文を以て利
害を明かにして、安危を辨ふる所なり。武は以て强敵を犯し、攻守を勤むる所なり。
此の二つのものを審にすれば、能く勝敗を知る。故に孔子曰、有{{二}}文事{{一}}者︀必有{{二}}武
備{{一}}。有{{二}}武事{{一}}者︀必有{{二}}文備{{一}}と、誠に文と武と、其の名異なりと雖も、其の理一つなり。
世を治むるに、政の正しきを文とし、亂世に征罰の正しきを武とす。將たるはいふ
に及ばず、士としては、文武の本を正すべし。其の本を正さんと欲せば、能く仁義を
{{仮題|頁=23}}
守り、忠孝を先とし、弓馬の道を習練︀して、合戰兵術の利を心に懸け、二六時中に軍
事を習ひ、心を勵して、父祖︀の名を汚すべからず。此の如くに心得て、衆惡を戒め、
小善をも勸め、功ある者︀を賞し、敵する者︀を罰するを武士といふ。武道に志す者︀、勇
なくんばあるべからず。上は義信を以て能く備へ、下は勇忠を以て仕ふべし。君と
して、能く德を明かにすれば、天下の人歸服す。能く歸服する時は、四海︀の內敵なく
して、治めざるに自然と無爲なり。古の聖君、國家を治め給ふ事此の如し。將たる
人、之を守りて、暫くの間も、心を妄に置くべからず。能く心上に敬を守り是非を正
し、士卒を愛して善惡を知るべし。然れば、人には一つの理といふものあり。是れ
中和の道なり。又軍術の骨髓なり。此理といふは、己が天に得る所の性善なり。天
にありては{{仮題|添文=1|元亨利貞|春夏秋冬}}、人にありては仁義禮智、聖愚ともに分たずと雖も、聖人は私欲
に覆はれずして、其の性のまゝにす。故に堯舜を稱して、性善の證迹とす。五常の
道正しき時は、邪路に入る事なし。弓馬の家に生れ來つて、合戰兵術の理忘るべか
らず。强ひて亂世ばかりに限るべからず。治まれる世に手練︀あるべし。天下に政
を行ひ、國郡に命令を下す主君良將はいふに及ばず。一家を齊ふる士たる者︀まで、
奇虛實の道理を會得し、臨機應變の妙意を考へ、心をして盡くることなきの境に置
かずんば、何ぞ未戰の機に勝つことあらんや。古今の軍法、和漢︀共に品々變れりと
雖も、內には敵味方の虛實を考へ、外には奇正の備を明かにして、其の臨機應變に
隨つて、雌雄を決するより宜しきはなし。軍を起すに、始・中・終の心持あり。味方の
人和を以て始とし、地利を考ふるを以て中とし、天の時節︀を量るを以て終とす。君
として仁德あれば、國人死生を一つにして、危きにも變せず。險阻なる城地堅固な
る要害は、敵攻むる事能はず。寒暑︀・時制・孤虛・旺相の宜しきに叶ふ時は、天の{{r|妖|わざはひ}}あ
る事なし。凡そ戰の道は、上古よりなくんばあるべからず。天竺佛在世に於て、波
斯匿王と釋氏との軍あり。漢︀土にては、三皇五帝の時、兵器︀起り、日本神︀代には、日
神︀・素盞鳴尊御兄弟の合戰、度々に及べり。況や人皇に於てをや。聖君ましまさず、
仁政民に施す事なければ、兵亂なきこと能はず。主將たる人、身を終るまで、此道を
忘るゝ事なかれ。されば易にも、君子安而不{{レ}}忘{{レ}}危、存而不{{レ}}忘{{レ}}亡、治而不{{レ}}忘{{レ}}亂。是
{{仮題|頁=24}}
以身安而國家可保といへり。人は死生命ある事を知るべし。最も死と生とは、天
より賦して命の定まれる所なり。唯理に依つて行ふべし。理といふは、近くは當然
の是非を分つ所なり。喩へば禍︀を見て避けずして、是に中るは己が愚なり。天より
賦するにあらず。又禍︀を見て行はざるも又愚あり。命ありといつて、天に任すべか
らず。聖人己に、知{{レ}}命者︀、不{{レ}}立{{二}}于巖牆之下{{一}}と宣へり。且つ又戰場に向ひ、戰ふべき
理に當らば速に戰ひ、戰ふまじき理に當らば暫く止むべし、勝つべき利を見て、却つ
て負くるは、謀の足らざるなり。負くべきに於て、却つて勝利を得るは、敵の過な
り。天運は極まれりと雖も、敵味方の謀、足ると足らざるとに依つて、幸と不幸とあ
り。是に依つて、運と機との心得あるべし。運といふは五運なり。木・火・土・金・水の
五行、一年・一日・一夜の中、次第して運動するなり。天地陰陽の運より、萬物皆運に
順ふ。機といふは六氣なり。寒・暑︀・燥・濕・風・火は、三陰・三陽に應じ、かはる{{ぐ}}移る
こと、自然の氣なり。春・夏・秋・冬は天地の運なり。寒・暑︀・暖・冷の自然に替るは、造化
の機なり。天地の運は、定まれりと雖も、戰の道には、機を貴しとすべし。運は天に
ありといへば、戰を愼むの義とし、凡そ兵道は戰ふべき利に當つて、全く利を得る事
は、定まれる運なり。謀不足にして、勝利を失ふ事は、兵機の變なり。勝つべからざ
るに、却つて勝利を得る事は、謀の幸に當るなり。人なすべき事をせずして、勝敗を
天運に任するは、愚將の所爲なり。是の故に、孔子、子路を戒むるに、謀を好んでな
さん者︀なりといへり。されば古今ともに、强敵を亡し國を治むる事は、唯勇力のみ
にあらず、兼て智謀あつて、未戰の機を知るにあるべし。然りと雖も、天の運、却つて
人の運に如かざる事あり。假令ば古の聖君、天下を治むるに、厚く仁政を施し、義を
專にして民服し、樂み上下に及んで正しき時も、天災ありて洪水起り、旱魃して諸︀人
苦しむ事あり。又惡王世に出でて、天下を治むるに、威あつて位を得、壽命も長穩な
る事あり。是れ天運と人運と、相{{r|遂|かな}}はざるなり。されども聖王の時運に應じて、天
下を治むる事は多く、惡王の運に乘じて、天下を保つ事は稀なりき。古今稀なるを
以て、常に當つる事なかれ。{{r|假|たとひ}}使天災ありといふとも、聖君天下を治めて、仁政を厚
くし、德澤民を潤さば、至善の德士ならん。仍つて後世に殘り、子孫を傳ふる事、人
{{仮題|頁=25}}
運の全き所なり。惡王の世を治むるに、天災なきことあれども、國家治まらず、逆政
民に及ぼし、衆之を恨み、後世に惡名を殘し、卑俗之を唱ふ。人運の全からざるなり。
武略を思ふ士、天運を恃まず、能く人運を恃むべきものなり。是等の理を考へ、疑惑
を起さず、正路に入る事專要なり。凡そ兵書の多き事、漢︀の張良より以來、百八十家
中にも、三略・六韜を以て、王者︀の師として、皆是れ太公が兵法なり。然るを黃石公
三略といふ事は、前漢︀の張子房、下邳の地上にして、老翁黃石公に授りたるを以て、
黃石公三略といへり。黃石公は、周の史官なり。石公、此の三略を記錄したるにあ
らず。六韜は漢︀書の藝文志に、太公が書二百三十七篇ありといへり。今の六韜は、二
百三十七篇の中より、肝要とする所を拔萃して、六韜六卷六十篇とするものならん。
然るに七署の次第、孫子・吳子・司馬法の後に{{r|序|つい}}づる事は、孫吳の後に、此書を得て、唐
の李靖︀より始めて事起れり。兵は凶器︀と雖も、聖人文武並び用ふ。孔子夾谷の會を
思ふべし。我れ戰へば勝つと宣へり。本朝傳來の兵法多しといへども、大江家に用
ふる所の訓閱集、武智麿の家記、聖德太子の軍旅本紀、義經軍歌、尊氏十卷書、正成智
命抄、義貞・正成七書を論じたる知本抄、赤松家の探淵抄・武鏡錄等、是れ皆本朝の兵
法・軍術、肝要を論じたる書なり。見ずんばあるべからず。然りと雖も、太公は兵者︀
の一なりといふ呂東來兵を論じて曰、三代の天下を得ることは、仁の一字に過ぐべ
からず。是れ祕法なりといへり。是を以て悟入すべしと、申しければ、景虎大に悅
んで曰、願はくは予が軍師として、相共に事を謀らんと請ふ。良勝感激して辭して
曰、公の性質を見奉るに、誠に天の縱にせる雄武なり。何を以てか敎ふることあら
ん。{{仮題|投錨=宇佐神︀良勝、景虎の臣となる|見出=傍|節=e-2-1-4|副題=|錨}}我れ豈師たるに當らんや。自今以後、相從つて以て臣たらんのみと謂つて、始
めて君臣の義を結び、何卒越後の國主と爲さんと思へり。爾來忠謀を盡し軍事を勤
めて、夙夜に怠ることなし。斯くて越後の國には、大臣等彌〻主君を蔑にし、縱に國
政を執行ふと雖も、愚將にて之を亂す事を知らずましませば、臣互に威を爭ひ、群
臣和せずして二裂になり、國旣に亂れんとす。是に依つて、憤を含む諸︀臣等相談じ、
此上は景虎公を迎へ奉り、{{仮題|投錨=長尾の忠臣、景虎に歸國を乞ふ|見出=傍|節=e-2-1-5|副題=|錨}}主君と仰いで、國家の擾亂を鎭めんと欲する者︀、一味同心
す。就中忠義を存ずる武士四五輩、上洛して叡山に登り、景虎に拜謁︀して曰、冀は
{{仮題|頁=26}}
くは御出家の御志を止められ、早く御歸國あつて、御先祖︀の國を治め、家名を續ぎ給
はんこそ、遠くは先祖︀、近くは亡父公への孝行、御出家には百倍なるべし、御國今已
に亂れんとして、士民薄氷を履める思をなせり。御歸國に於ては、某等無二の忠節︀
を盡し候はん。且つ御歸國を願ふ諸︀士、二心なく忠義を勵すべき旨、一味同心の連
判仕候なりとて、證狀を差出し、再三言上しければ、景虎、兼てより斯くあるべしと、
思量せられしに違はざりければ、諸︀臣に對面して曰、各申す所至極せり。然らば我
れ國に歸つて後、假令非道を行ふとも、其の命に違背すべからざるの旨、靈社︀の神︀文
を以て、いふに於ては、國に歸るべしといへり。參謁︀の臣共承りて、甚だ悅び、急ぎ
神︀文を捧げて、其の命を承りたり。{{仮題|投錨=景虎歸國|見出=傍|節=e-2-1-6|副題=|錨}}是に依つて、景虎駿河守良勝を相具し、本國に歸
り給ひけり。
{{仮題|投錨=景虎逆臣退治の事|見出=中|節=e-2-2|副題=|錨}}
天文十二癸卯年、景虎十四歲になり給ふ。{{仮題|投錨=景虎逆臣を退治す|見出=傍|節=e-2-2-1|副題=|錨}}或る時良勝を召して曰、國家を擾亂する
者︀に於ては、假令兄一族たりといへども追出すべし。況んや舊臣として、逆心を企
つる者︀、豈之を誅伐せざらんやと宣ひ、卽ち神︀文を捧ぐる郞從に命じて、軍兵を相催
しければ、逆臣を惡む義士等馳集り、一千餘の士卒を相從へ、米山に登り、虛空藏堂を
本陣とし、戰兵は箭鏃を揃へ、岩石・大木を楯とし、旌旗を山嵐に飜して、寄する敵を
待ち居たり。逆臣等之を聞きて、一所に會合し、勢の屬かぬ其の先に、討果さんと
相議して、軍兵を聚め都︀合二千餘人を引率し、米山に押寄せ、大將の少年なるを侮︀つ
て、何の軍法思惟もなく、我先にと攻め登り、功名せんとぞ進みける。景虎の從卒山
の案內を能く知りたり。坂の難︀所へ懸る所を見澄し、散々に射たりければ、寄手し
どろになりて見えけるを、究竟の兵數十人、鋒先を竝べ突︀いてかゝりければ、一同に
崩れ落ちて、先陣已に敗軍し、一戰に利を失ふ。景虎の軍兵勝に乘つて追擊たんと
す。景虎制して曰、我れ今睡り來れりと、暫時晝寢せられ、旣に目覺めて、合を下して
宣はく、時刻今なり、敵を追討つべしと、下知頻︀りなり。斯くて逆臣等の士卒、先登一
戰に打負けたるを無念に思ひつゝ、二陣進んで前の恥を雪がんと、曳々聲を出し、坂
{{仮題|頁=27}}
中まで登りし所に、良勝を先として、猛勇の武者︀山のかさより切つて懸り、突︀き伏せ
薙ぎ倒しければ寄手の軍兵、嶮岨なる細路に懸つて、進退自由ならざれば、反し合せ
て戰ふべき手段もなく、千丈の谷へ突︀き落され、生死のさかひ知らずして、{{r|幾許|そくばく}}討た
れにけり。元來不義の軍なりければ、殘兵蹈止まる者︀もなく、四角八方へ迯げ失せ
にけり。
{{left/s|1em}}
評に曰、合戰の最中に、大將の{{r|晝睡|ひるね}}は、不沙汰油斷の樣に思ひける所に、景虎能く
地形を知り給ふが故に、敵の嶮岨なる所へ押登り、谷底へ追落さるべき時刻を待
つて、晝寢し給ふ事、誠に淺からざりし智慮なりと、後に感心して、士卒皆行末賴
もしく思ひつゝ、其後は彌〻下知を守り、忠戰を勵ましければ、敵方の從士、我も我
もと降參して、味方次第に多勢になりければ、夫より逆臣等の城郭を取詰め討果
し、或は山野に戰うて誅戮し、始終五年の間に、{{r|感|こと{{ぐ}}}}く逆臣を討滅しけら十四歲の
初陣に、勝利を得てより諸︀人恐をなし、國家平均に治まり、先祖︀の國、旣に絕えな
んとせしを興し給ふ。兒童の身として、斯くの如き大義をなす事、古今未曾有の
良將、是れ天より與ふる英武雄功なるべし。
{{left/e}}
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|越後軍記}}{{resize|150%|卷之二<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=越後軍記/巻之二}}
{{仮題|ここから=越後軍記/巻之三}}
{{仮題|頁=28}}
{{仮題|投錨=越後軍記|見出=大|節=e-3|副題=卷之三|錨}}
{{仮題|投錨=景虎、頸實檢の法式を問ふ事|見出=中|節=e-3-1|副題=|錨}}
斯くて景虎、米山の初陣に打勝つて、良勝を召され、頸實檢を執行ひ、諸︀士の戰功を
賞すべし。然るに、吾れ幼稚にて父に離れ、且つ逆臣等に妨げられて、流浪の身とな
りしかば、未だ頸實檢を見聞せず、宜しく執行ふべしと宣へば、良勝畏つて、古代より
の法式を演說したりけり。
{{left/s|1em}}
{{仮題|投錨=頸實檢の作法|見出=傍|節=e-3-1-1|副題=|錨}}
{{仮題|箇条=一}}、頸對面と申すは、敵の大將貴人高位の頸を見給ふ。之を對面といへり。其の時の
禮式は、眞の禮なり。大將の出立ちは、下に大口、且つ直垂・甲冑を帶し、征矢を負
ひ、弓に鋒矢を持ち添へ、太刀・刀を佩き、床机に腰を懸け、幕の內に居給ふなり。但
し此時に限りて、幕を鋒矢形に打つなり。大將の左の方に弓矢、但し弓は勝軍木、
矢は眞鳥羽︀なり。右の方に{{r|麾|はた}}、大鼓は左なり。能き武士撥を取つて、二三度打つべ
し。一番二つ、次に三つ、三度目に四つなり。螺は右の方聲を出さず、手に持ちて
居るべし。或は送貝を吹くなり。旗は御旗奉行、{{r|旗指|はたさし}}を引付けて、御旗に手を懸け
伺候す。其の外前後左右に、諸︀の物頭・物奉行、御一族諸︀士、鎧鉢卷し、大童になり
て、太刀を二三寸拔きくつろげ、鎗を直し、左の膝を折しき、右の膝を立て、唯今一
戰に及ぶ時の體にて列居すべし。
{{仮題|箇条=一}}、實檢とは、諸︀の物頭奉行等、總じて甲冑を帶する騎兵の頸を見給ふをいふなり。
步立の士・葉武者︀の頸を雙べ置き、見給ふを{{r|見知|けんち}}といふなり。{{仮題|分注=1|頸實檢とは、總|名と知るべし。}}
{{仮題|箇条=一}}、大將實檢の作法は、南天の御手水太布の御手拭、床机に腰を懸け、右の手を太刀の
柄に懸け、少し拔きくつろげ、敵に對する心持にして御覽あるべし。大將旄を持
ち、旄の間より、左の眼尻にて、頸を片顏を白眼むやうに見給ふべし。扨酒を呑み
終りて、勝鬨を執行ふなり。
{{仮題|箇条=一}}、頸披露人の作法は、鎧を着し小手を差し、甲を着せず、其の頸を洗ひ髮を水引かぬ
{{仮題|頁=29}}
{{r|髻|もとゆひ}}にて結び、其の結目を後ろにす。扨{{r|生絹|すゞし}}の絹二幅四方にして、頸を包み兩の鬢
より合せ、頂にて結ぶなり。扨供饗にすゑ、持ちて出で、左の膝をつき、右の足を
蹈みながし、右の手にて頸の髮を取り、左の手にて供饗を持ち差上げ、右の片顏を
見參に入れ奉り、名字・官名を申上げ、暫くあつて、頸を取つて、右の方へ退き退散
すべし。但し大將は南面、頸は西面なり。
{{仮題|箇条=一}}、披露の時、敵將の頸ならば、頸の名字・官名をいひ、討捕る者︀の名字名を後に申
上ぐる、其外の頸實檢は、討捕る者︀の名字名を名乘り、後に頸の名字を申上ぐる、
其の頸の名字を知らずんば、何となりとも、名字を付けて披露あるべし。名字な
き頸は、實檢に入れぬ者︀なり。坊主首は下輩たりとも、頸の法名を先へ名乘りて、
討ちたる者︀の名字を、後に申上ぐべし。坊主頸は紙を四つ折にして居ゑ、左右の
耳に大指を差入れ、切口と居物とを手に持抱へて、實檢に入れ奉るなり。總じて
居物之れなき時は、何れの頸をも疊紙に居うべきなり。又討取る頸を、自身披露
する時は、頸の名字を名乘り、我が名は申上げざるなり。然れども外の頸をも、披
露する事あらば、我が名字をも名乘る事なり。
{{仮題|箇条=一}}、居頸居物、上輩は供饗、中輩は足付、下輩はかしなげ或は山折敷なり。但し切目の
方ふちを放し、頸の面を角の方へ向くべきなり。
{{仮題|箇条=一}}、大將の頸對面の時は、味方の大將と敵將の頸の間に、五行の文字・{{r|叶|かなふ}}の文字を、紙
に大文字に書きて、竹柱を二本立て、繩を張りて挾むべし。
{{仮題|箇条=一}}、實檢の前、頸の左の方に我が手を當て、三度{{r|摩|な}}づるを、頸を化粧するといふなり。
{{仮題|箇条=一}}、頸を洗ふには、首を北向にして、酒を以て洗ひ、ゑふ油を面に塗る事あり。梟首す
る時も斯の如くする事あり。
{{仮題|箇条=一}}、戰場にて直に頸披露する事あり。其の時は、冑の{{r|𩋙|しころ}}を疊み揚げ、左にて持ちて、左
の膝を立て、右の膝を突︀き、右の手にて冑の吹返を抱へ、左の膝に載せて、主君に
右の片顏を見せ奉るなり。
{{仮題|箇条=一}}、頸實檢は中輩なり。大將の御出立ち、甲冑を帶し、刀・脇差常の如し。太刀は持た
すべし。床机に腰を懸け、左右の武士、諸︀具等の作法は、對面の式法と相同じ。{{nop}}
{{仮題|頁=30}}
{{仮題|箇条=一}}、披露人出立ちの作法は、大將甲冑を帶し、六具をなしたる時は、披露人、鎧に弓・小
手・鉢卷なり。大將小具足ばかりの時は素肌なり。披露の次第、對面と同前、右の
片顏を實檢に入れ奉る。頸の名字を申上げ、愼んで大將の御顏を見る事なかれ。
頸を久しく置かず、早く取つて頸に目を附けて、逃ぐるやうに足早に、左へ廻りて
退くべし。
{{仮題|箇条=一}}、實檢の時、午の歲の人を、大將と頸との間に立てしめ、村重籐の弓を持たせ、頸の
左右に山鳥羽︀の鳴鏑箭を二筋立て、夫より四尺程去つて張弓を置き、弓より一丈
去つて大將居給ふなり。城中門內にては敷居越、野中にて右の如く張弓を置く
か、或は幕越に御覽あるべし。幕の物見より御覽ある時は、{{r|破軍星|はぐんじやう}}の物見より御
覽あるなり。
{{仮題|箇条=一}}、頸數十以上は七つ、百以上は十五實檢あるべし。殘る頸は竝べ置いて見知たる
べし。然といへども、物頭・物奉行、其の外名高き士の頸は、幾つなりとも實檢ある
事なり。時宜に依るべし。
{{仮題|箇条=一}}、{{r|見知|けんち}}といふは、下輩の頸なり。頸數多き時は、幕の外に西向に頸を並べ置き、北よ
り南へ馬にて三度乘廻し、馬上より御覽あるなり。或は又、幕越に御覽の事もあ
るべし。
{{仮題|箇条=一}}、見知の時は、大將小具足ばかりにて、{{r|麾|さい}}を持つべし。披露人は素肌にて幕際に居
す。其の外諸︀士列座、諸︀具、見知終るまで、備を亂るべからず。右對面・實檢・見知
相濟み、勝鬨を執行ふなり。
{{仮題|箇条=一}}、勝鬨執行ふ次第、先づ戰ひ勝ちたる先備を後へくり、左右の脇備を前へくり、後備
を左右へ配り備を堅め、方圓何れにても、八行の陣を作り、大將中央に握奇陣を堅
め、陣後に於て、頸帳を調へ、其の後、床机に座し、左の方太刀・團扇、右の方に弓・矢、
弓は勝軍木にて之を作り矢は眞鳥羽︀の常の矢なり。弓も時により、常の弓を用ふ
る例あり。其の外の次第、前に記す。御酌兩人{{仮題|分注=1|銚子・提|子なり}}割紙・{{r|髻|もとゆひ}}にて髮を結ふなり。
是れ故實なり。四度入りの土器︀にて、四度づゝ加へて十六度なり。肴は討ちて勝
ち悅ぶと食す。{{仮題|分注=1|{{r|搗栗|かちぐり}}・|昆布。}}其の後、大將{{r|榮々|えい{{く}}}}と三度唱ふ。諸︀軍士王と聲を揚ぐるなり。
{{仮題|頁=31}}
勝鬨揚ぐる前、軍監鼓の{{r|枹|ばち}}を取つて三度打つ、二三四なり。貝の役人貝を吹立つ
る事あり。是れ軍神︀を送る貝なり。時に大將南天の手水太布の手拭なり。何れも
名ある武士の役なり。
{{仮題|箇条=一}}、實檢の時、軍門に人を改むる役人を置くべし。頸對面の時は、尙以て相改め、猥に
人を入るゝ事なかれ。猥に人を入れて禍︀ありし例、古來多きことなり。堅く愼む
べし。
{{仮題|箇条=一}}、頸實檢に、內外の替りあり。內とは本丸と二の丸の間に、物見矢倉を建つ。是
は四方を{{r|隔|かう}}子にして、何方をも見はらし、人衆くばりををす知する所なり。大將
爰に於て、實檢し給ふなり。外とは、野原にて實檢ある事なり。人數の備樣・儀式
等內外相同じ。
{{仮題|箇条=一}}、母衣武者︀を討取りては、母衣の第二幅を取つて四つに折り、三重を頸に敷き、一重
を頸に懸け、帝釋の緖を以つて結ぶなり。實檢に入るゝ時は、頸を右の方に置き取
出し、面に懸けたる母衣絹を下し、扨常の如く實檢に入るべし。居物は供饗なり。
其者︀の母衣は、子孫に傳ふべきなり。古へは右の母衣絹に、大將感狀を書き、名判
を居ゑ給はりたる例あり。若し又討ちたる者︀、母衣武者︀なれば、其母衣に大將、其
の軍功を記して給はる事もあり。何れにても大きなる武士の規模なり。
{{仮題|箇条=一}}、初頸にて吉凶を考ふる事、五眼の習ひあり。右眼・左眼・天眼・地眼・中眼なり。右眼
といふは、玉右へ附く、是れ退くなり。左眼は左へ附く、進むなり。天眼は上へ
附く、恐るゝなり。地眼は下へ附く、味方を手下に見下すなり。中眼は上下左右な
し。是は敵味方等分、後は{{r|噯|あつか}}ひになるべし。右の通りを能く見て、勝負を考ふべ
きなり。
{{仮題|箇条=一}}、一日の戰に、首一つ取りたるを一つ首といつて不吉なり。實檢に入るべからず。
其頸をば、直に祭つて納むべし。若し又、實檢に入れずして叶はざる時は、實檢の
次第あり。先づ髮を二取に結び、逆にわけて{{r|蕣|あさがほ}}の楊枝を削りて二つのわげに差
し、扨て衣にて面を包み、{{r|電反|てんへん}}にて結び、弓矢を隔てゝ實檢に入るゝなり。大將は
扇を三間か四間開いて、其間より卒度見給ふなり。{{nop}}
{{仮題|頁=32}}
{{仮題|箇条=一}}、野心の頸といふ事あり。目を開き口をあき、舌を出し面赤く、すさまじき體ある
を、野心頸といふなり。左樣の頸は實檢に入れず。此の如き頸をも、一つ首同前に
して祭るべし。若し已むを得ず、其頸實檢に入るゝ時は、頸の相を作り直して、實
檢に入るべし。
{{仮題|箇条=一}}、頸塚︀は一尺二寸四方、高さも同前なり。野陣にて三品の居物なき時は、幕の外に
頸塚︀をつき、披露する事なり。
{{仮題|箇条=一}}、頸臺八寸四方なり。高さも同前、是れ又三品の居物なき時は用ふるなり。之を頸
机ともいふなり。
{{仮題|箇条=一}}、首桶の事、高さ不定なり。大方一尺二三寸ばかり然るべし。又わたりの廣さ八九
寸たるべし。輪は二所なり。古流には桶の木を四十八本にしたる由、當流は數不
定。蓋は押込蓋なり。上に綴目あり。若し曲物ならば左前に合すべし。右の桶に
書附する事、蓋の上に、眞中に卐字を書き、右の方に誰の頸、誰討ち取る、鎗下或は
太刀下と書き、左の方に月日を書くべし。桶に入れ頸に札附くべからず。蓋の板、
立板になるやうに書附をすべし。頸の面、蓋のとぢ目の方へ向はすべし。白布
を二幅四方にして、桶の上を包み、射捨の木ほうを一筋上にさして送るべし。是
は頸送る時の事なり。桶に入れても動かざるやうに、下に輪をすゑて入るべし。
{{仮題|箇条=一}}、遠路より桶に入れ送る時、夏ならば別して念を入れ、朱を以て能く詰め、酒を以て
漬すべし。此時は、桶も少し大きにすべし。頸損ぜざるやうにして送るべし。若
し頸損じたれば、何れの頸とも見分けがたき者︀なり。源義經の首、高館︀より酒に
漬して、鎌倉へ送りけるに、{{r|少|ちと}}御顏損じければ、御前の衆中色々僉議ありける由、
鎌倉の日記に見えたり。
{{仮題|箇条=一}}、頸札の事、大將の頸札は桑なり。其外は何木にても苦しからず。長さ五寸に橫二
寸、是は大將分の首札なり。諸︀士の頸札は四寸に横一寸八分、步者︀素肌者︀の頸に
は、三寸六分にして附くべし。札の頸は劔先、下は片そぎなり。苧繩にて附くる。
{{仮題|箇条=一}}、桶に入れたる頸渡しやうの事、右の如く認めたる頸を持參し、奏者︀に對して蓋を
開き、何某の頸何某討取ると名乘り、又元の如く蓋をして、左の手を上にして、面を
{{仮題|頁=33}}
我が前になして相渡すべし。但し桶に名書ある時は、名書の字頭を向になして
下に置き口上をいひ、蓋を取つて首を見せて、又蓋をして前の如く相渡すなり。
{{仮題|箇条=一}}、同請取やう、先づ竹の幕串を{{r|扱|こしら}}へ幕を打ち、天の幅に物見をあけ、此より持來るを
見て、幕より出で、一禮して請取り、桶の上に差來る矢を、中より切折つて捨つべ
し。請取る者︀も相渡す者︀と同じく、左の手を上にし、面を我が前になす。返事は
時の樣子に依るべし。敵軍へ送るも同前、但し少しは心持替るべし。
{{仮題|箇条=一}}、桶に入れざる頭、請取渡の事、頸を疊紙にすゑ持ち出で、左の{{r|鬂|びん}}を請取る者︀の方に
なして右に置き、一禮して口上をいひ、扨左にて髻を取り、右にて頤を持ち、頸の
面を我が前になして相渡すなり。請取る者︀も一禮して、口上を聞き屆け、左の手
を上にし、面を我が前になして請取り、下に置きて一禮するなり。
{{仮題|箇条=一}}、頸を梟首せる事、俗に之を獄門にかくるといふ。上輩・中輩・下輩の三段あり。或
は公家將軍總べて上輩の頸を懸くるとき、柱は栗。橫木はねぶの木、高さ地より九
尺三重、中輩は七尺二重、下輩は六尺一重、頸臺に居うる時は、眞中に五寸の釘を打
ちて首を差す、見前三尺ばかり、上輩の時は上の一重に、大將の頸をかけ、下二重に
は相共に討死したる士の首を、段々に懸くるなり。
{{仮題|箇条=一}}、中輩の頸は、梨の木首臺、五寸四方なり。下輩の頸は實檢に入れず、竹柱、橫木は栴
檀なり、臺なし。
{{仮題|箇条=一}}、敵の大將を討取りては、其所に埋め或は墓をつき、標石を建てゝ祭る事軍禮なり。
墓をつくには三段につくべし。下段は六尺四方、高さ二尺五寸、中段は五尺、高さ
二尺、上段は四尺四方、高さ一尺五寸、三段以上六尺なり。上に標石を建つべし。
{{仮題|箇条=一}}、頸供養する事は、三十三取る時は、供養をして塚︀を築くべし。
{{仮題|箇条=一}}、敵の死骸を敵方へ送る事あり。大將の頸など持ち來る時、行逢ふ事あらば下馬す
べし。妻手を通さず、我が弓手を通すべし。
{{仮題|箇条=一}}、敵の頸を取りて、からげる事あらば、其敵、箙を負ひたらば、箙の上帶を以てから
げ、取附に附くべきなり。箙負はずんば、鎧のくりじめの緖にて、からげ附くべき
なり。{{nop}}
{{仮題|頁=34}}
御尋に依つて、大旨申上候。然りと雖も、家に依り時に隨つて、其の品種々ありと
見えたり。右の法式を以つて、時の宜しきに隨ふべきなり。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=村上義淸、景虎を賴む事|見出=中|節=e-3-2|副題=|錨}}
天文十六年丁未、景虎十八歲になり給ふ。十四の夏より以來五年の間に、逆臣等を
悉く討滅し、國中平均に治りぬ。其の年八月廿八日、信州更科の城主村上義淸、武田
大膳大夫晴︀信{{仮題|分注=1|甲斐|信玄}}と數度の戰に打負け、武力竭き牢落の身となつて、{{仮題|投錨=村上義淸景虎の幕下となる|見出=傍|節=e-3-2-1|副題=|錨}}越後に來り景
虎に對して曰、我が父祖︀より以來、公の父祖︀と互に武威を爭ふ事年久し。然るに
今其恥辱を顧みず、降參を請ふこと別事にあらず。某、十箇年以前より、武田大膳大
夫晴︀信と合戰を取結び、屢〻戰ふといへども、未だ勝負を決せざる所に、同月二日信
玄大軍を率して、信州佐久郡志賀城主笠原新三郞を退治せんと押寄せ、稻麻竹葦の
如く取詰め、一揉に攻め崩さんとす。城中防ぎ戰ふといへども、勇銳に碎かれて叶
ひがたく見えければ、忽ち使者︀を出し降參を請ひしかば、信玄其の意に任せ軍を止
む。新三郞同日降禮を勤め、信玄直に甲府に引入るの由聞きしかば、此の勞に乘つ
て押寄せ、十死一生の苦戰を勵し、村上・武田の家運を決せんと相議して、譜代の家從
及び鄕民等引具し、同月廿四日、信州上田原まで出陣せし所に、信玄遮つて、早く其所
に押來り、合戰を挑まんとす。味方案に相違して、軍卒大いに驚き、猶豫を凝らす所
に、信玄が先手板垣駿河守信形、ひた{{く}}と打寄せ、弓・鐵炮を交へ、曳々聲を出し攻
め戰ふ。之に依つて、味方旣に揉崩されんと見えしかば、某一陣に蒐出で、采配おつ
取り、士卒に下知して曰、今日の合戰十死一生と、兼ねて思ひ定むる事なれば、敵假令
百萬の勢を以つて、攻め働くといへども、此場を去つて、再び誰に面を向くべきぞ。
夫古語にも、生而自{{レ}}於{{レ}}捕{{二}}一期榮{{一}}、死而不{{レ}}如{{レ}}留{{二}}萬代名{{一}}といへり。如之弓矢取る身の
慣ひ、軍に出づる日、其の妻を忘れ、境を越えて其親を離れ、刃を取つて、其身を忘る
るは、武士たる者︀の本意なりと、大音聲に訇りければ、此一言に義を守り勇を勵し、又
備を立て直し、面も振らず一同に突︀いて懸る。其中に、尾張國の住人上條織部と名
乘つて、黑革緘の鎧を着、白綾たゝんで鉢卷し、鹿毛の馬に白鞍置きたるに、ゆらりと
{{仮題|頁=35}}
乘り、一番に進み出で、敵の先手の大將板垣駿河守信形、太く逞しき馬に金覆輪の鞍
置かせ、其の身輕げに打乘り、一陣に控へたりしを目に懸け、無二無三に駈入り、信形
に渡し合ひ、互に鎗おつ取り延べ突︀いて懸る。織部は其頃、天下無雙の鎗の達人なり
しかば、透さず馬上より突︀き落し、續いて飛下り、{{r|起|おこし}}も立てず、首搔切つて味方の陣に
引返す。然る所に、信玄旗本の荒手を入れ替へ、鼓・貝を鳴し、急に押寄せ、某が馬印を
目に懸け切つて懸る、是こそ望む所なれと、千變萬化に馳廻り、鋒先より火を散らし、
相戰ふといへども、大軍に揉立てられ、敗軍の旗を絞り、無念ながらも引立てられ、進
退此に究り、行方定めぬ海︀士小船、梶なきまゝに{{r|折足|ほだ}}されて、何れ寄る邊の樹下もな
し。今足下の軍門に來降し、公の庇蔭を憑むなり。願はくは公の武威を以つて、再び
更科葛尾の城に歸住せしめば、一生の厚恩何事か之に如かんといへり。景虎{{r|一々|つく{{ぐ}}}}と
聞きて曰、{{仮題|投錨=景虎の素志|見出=傍|節=e-3-2-2|副題=|錨}}義淸の憤り察するに、言語の外に餘あるべし。故に予が所存を談ずる
なり。然れば我が父爲景、越中に於て戰死す。其の後逆臣等あつて國家を傾けんと
す。之に依つて、國旣に危亡に及べり。幸に某、漸く{{r|長|ひとゝ}}なつて五年の間にして、咸く討
滅し、國家を{{r|保|やすん}}じ{{r|有|たも}}てり。今是よりは、亡父孝養の爲に、先づ越中を討ち從へ、能登・
加賀・越前を手に入れ、其の後、關東八州・海︀東七州を幕下に服せしめ、京師に上つて、
公方に謁︀見して、一度天下の權柄を取つて、武名を四海︀に顯さんと欲す。是れ我が素
意なり。然れども義淸の心底を察するに、敢て之を默止がたし。姑く北陸道への發
軍を止めて、武田晴︀信に對して一戰を遂ぐべしといへり。義淸之を聞いて、喜悅の
餘り感淚を催せり。景虎曰、我れ多年甲州に限らず、諸︀國に間者︀を入れ置き、國政
治亂・軍の勝負を聞けり。義淸は晴︀信と累年合戰ありければ、晴︀信が戰術・軍法詳に
見聞あらん。悉しく演說し給へ。義淸答へて曰、凡そ晴︀信が軍術は、譬へば漏船に
乘つて、風波を凌ぐが如し。大に愼みあつて、以つて卒爾に戰はずといへり。景虎の
曰、彼は正兵なり。我が奇兵を以つて、偏强に進み馳せて、之を討たんに如くはなし
といへり。斯くて群臣を召して、議して曰、吾れ亡父の爲に、越中を征伐せんと欲す
るの所に、村上義淸幕下に降り、吾を賴む事切にして敢て默止がたし。仍つて越州
の出陣を{{r|擱|さしお}}き、晴︀信に對し、一戰を勵まさんと思ふなり。然れば越中征伐の儀を、暫
{{仮題|頁=36}}
く止むる事、不孝に似たりといへども、我れ熟々慮るに、義淸は智謀足らざれども、勇
强人に超えければ、彼を葛尾に歸城せしめば、其の後吾が先鋒として、美濃・尾張・參
河・遠江の諸︀將を旗下に屬せしめん事、開國の基{{r|是|こゝ}}にあり。{{r|然則|しかるとき}}んば、子孫の父祖︀に
孝ある事、是より大なる者︀あらんやといへり。群臣等承つて對ふる事なく、唯謹︀ん
で感ずるばかりなり。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|越後軍記}}{{resize|150%|卷之三<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=越後軍記/巻之三}}
{{仮題|ここから=越後軍記/巻之四}}
{{仮題|頁=36}}
{{仮題|投錨=越後軍記|見出=大|節=e-4|副題=卷之四|錨}}
{{仮題|投錨=景虎、甲州發向軍令の事<sup>幷</sup>{{r|海︀平|うんのたひら}}對陣の事|見出=中|節=e-4-1|副題=|錨}}
斯くて景虎、老臣及び物頭奉行等を召集め、合戰の評議せらる。各其の命を承る。群
臣退去の後、良勝を召して軍法を決定せしめ、令を下して曰、當十月八日・九日・十日、
此三日の中、信州海︀平に出陣すべし。家中の將士、其の用意致すべき旨、陣觸ある。
此の時戰兵八千、雜兵是に應ず。今度始めて軍令を出せる條に曰、
一、推{{二}}行于他邦{{一}}、則雖{{二}}山野之一宿{{一}}、不{{レ}}可{{レ}}不{{レ}}陣者︀也。故荷{{レ}}糧負{{レ}}鍋、而可{{レ}}專{{二}}要軍食不{{一レ}}乏。
竝熟食設雖{{レ}}赴{{二}}歸陣{{一}}、上下共不{{レ}}可{{レ}}絕{{レ}}之事。
一、入{{二}}敵地之中{{一}}非{{レ}}下{{レ}}令、則不{{レ}}可{{二}}妄放火亂妨{{一}}。於{{二}}何地{{一}}亦可{{レ}}待{{二}}令下{{一}}。採薪芻牧亦同
前之事。{{nop}}
{{仮題|頁=37}}
一、行{{二}}逢嶮難︀之地{{一}}、則暫止{{二}}立前後之備{{一}}、令{{レ}}作{{レ}}道、而後可{{二}}推行{{一}}也。於{{二}}船渡與{{一レ}}橋者︀、不
{{レ}}可{{二}}亂{{レ}}列妄渡{{一}}之事。
此外法令者︀、皆如{{二}}常定{{一}}可{{二}}相守{{一}}者︀也。
陣觸の通り、旣に十月八日に至つて、先備出陣す。九日に景虎出馬なり。十日雜兵小
荷駄發足せり。直に信州の境內に入りて、晴︀信に相從ふ諸︀將の領地をば、悉く放火
し亂妨す。未だ從服せざる武士の領內をば、異儀なく味方となさしめて、同十九日
信州海︀平に着陣し給ひ、{{仮題|投錨=景虎、海︀平に着陣|見出=傍|節=e-4-1-1|副題=|錨}}諸︀將物頭を召集めて、軍の備立を評議して、其の後宇佐神︀良
勝に密事を談じ、軍令決定す。今度の駄馬奉行は、本城越前守・同息淸七郞とに命じ
て曰、駄馬の備は、旗本より五六町退いて立て、陣氣を揚ぐべしといへり。一番備
は、長尾正景{{仮題|分注=1|景虎の姊|婿なり}}と土倉兩人相勤むべし。且つ命じて曰、一手限の合戰は、我が家
の法なり。進むとも退くとも、他の列士が力を合すべからず。二番の備は、柹崎和
泉守・直江山城守兼續・大關飛驒守・柴田道壽・芋川播磨守・安田上總介等なり。此の六
人に命じて曰、先備の戰士軍を敗りて後、一同に進み懸りて亂戰すべし。我れ其の
時、晴︀信が旗本に驅入りて、急に進んで討たん。三番備は旗本なり。甘糟近江守と
上田とに命じて曰、我れ旣に進み懸るとも、汝等共に聊も進むべからず、唯備を堅
め敵の進み來るを待つて、速かに戰ふべしといへり。四番備は村上義淸、其の手勢
に、高梨・淸野・窪田等と合せて百五十餘騎、其の外梶右馬允・色部一學、是等に命じて
曰、敵若し{{r|横間|よこあひ}}より襲ひ來らば、汝等奇道より之を擊つべし。今度の{{r|殿後|しんがり}}は長尾正
景に命ぜらる。正景若し討死せば柹崎代るべし。柹崎も亦討死せば、柴田之を勤
むべしと、嚴重に下知し給ひけり。斯くて武田大膳大夫入道信玄の忍の者︀、密に聞
きて、早速吿知らせければ、信玄曰、抑我が祖︀父陸奧守信綱、父左京大夫信虎より以
來、累世當國の守護として、今川五郞修理大夫氏親・北條相模守氏綱・越前朝倉左金
吾孝景・信川小笠原大膳長時、隣國にあり。
{{left/s|1em}}
斷に曰、今川氏親は源義家の後胤、今川伊豫守貞世入道して了俊と號す。文武の
達者︀、尊氏・義詮・義滿三代の將軍に歷仕して、忠功を勵し、應安四年九州の探題職
となり、其の威高し。了俊より八代の末孫、今川五郞修理大夫氏親と號す。歌人
{{仮題|頁=38}}
なり。了俊より以來、駿河の國主にて、武威昌なり。又北條氏綱は、小松內大臣重盛
公十七代の後胤、北條早雲子正五位下左京大夫相模守と稱す。武道の達者︀なり。
小田原に城郭を構へ、隣國を斬從へ、關八州をも猶打靡けんとして、武威を振へり、
又朝倉孝景は、孝德天皇四十六代の後胤、朝倉左衞門尉と號す。斯波家累代の家
臣日下氏なり。武功數あり。越前を領す。義景が父なり。又小笠原長時は、新羅
義光十四代の後、胤、小笠原長基子大膳大夫長時、武道の達者︀、信州の人なり。
{{left/e}}
武勇を爭ふといへども、每度此方より取懸り、敵に致すことはあり。未だ吾を犯す
强敵は之れなし。然るに彼の景虎は、若年より軍道に心を寄せ、旦夕七書に眼を晒
し、加之上杉の家臣、竹內宿禰の苗流、宇佐神︀駿河守良勝に因んで、元朝傳來の軍傳を
授り、千變萬化の兵術を練︀磨し、近くは河內の中將楠先生正成の軍配を尋ね、凡そ兵
道に於ては、摩利支尊天の再誕かと恐るゝ由、傳へ聞けり。然りといへども、今度甲
斐信濃の兩國、予が分國をも恐れず、押來る敵を見ながら、爭でか怺ふべき。{{r|今頃|このごろ}}威
を本朝に震ひ、勢海︀外に響︀く信玄が强猛を以つて、渠が血氣の鋒先を碎かん事、手
裡にありと訇り勇んで、舎弟仁科五郞・內藤修理進・秋山伯耆・駒井右京進を先備とし
て打立ち、各門出の祝︀儀を刷ひ、一勢々々引分け、備を堅固にし列伍を亂さず、軍令
を守りつゝ、{{仮題|投錨=信玄海︀平に着陣|見出=傍|節=e-4-1-2|副題=|錨}}勇み進んで押す程に、同十八日には海︀平に馳着きぬ。暫く人馬の息を
休め、遠見・野中の番を居ゑ置き、篝を焚き屯し、夜の明るを待ちたりける。頃しも陽
月の事なれば、夜寒になりて、冬の夜の萩吹きすさむ枯端の月、夜半の嵐に霜おきて、
五更の天も白々と、鷄鳴曉を吿げしかば、軍食を設け、卯の刻より人數を繰出しける。
景虎旅陣にも、曉天より軍粧を調へ、是も亦卯の刻より諸︀勢を出し、兩陣互に巳の時
より矢軍始れり。{{仮題|投錨=上杉、武田合戰|見出=傍|節=e-4-1-3|副題=|錨}}{{r|少時|しばらく}}して先備の軍長共、手に手に鉛を提げ、而も振らず頭を傾け
て、捜々聲を揚げ一足も退かず、次第々々に進み懸る。是に依つて、敵軍戰はずして
二町半餘引退きぬ。時に正景勝に乘り勇み進んで、大采配を振擧げ、馬に鞭打つて
旣に之を駈敗らんとす。景虎此の形勢を見て、良勝を引具し、早速先陣へ馳行き、鐘
を鳴らし下知して、急に人數を引取り給ふ。正景怒つて曰、勝軍に臨んで引取り給
ふは心得ね。良勝答へて曰、敵の前備は負色ありといへども、後陣を見るに、各備
{{仮題|頁=39}}
を守りて堅固にせり。今日の合戰黃昏に及ばずんば、勝負を決すべからず。然るに
今、北雲を見るに雨を{{r|粘|ねや}}せり。且つ宵闇なり。是を以つて、早く引取つて、陣營を結
ばんには如かじといふ。是に依つて、正景怒氣を止めて、殿後となつて、徐々と引取
りけり。此合戰、午の下刻に始まり申の上刻に終つて、各陣營に入りにける。其の夜、
景虎諸︀將を集め、軍評議ありける所に、正景・柹崎進み出でゝ曰、明日一戰を遂げらる
るに於ては、必定勝利を得んといふ。景虎、宇佐神︀に問ひ給ふ。良勝答へて曰、熟〻
晴︀信の備立を見るに、公の勇驍當る所、必ず破るゝ事を知つて、專ら不敗の備を爲し
て、當り戰はん事を欲せず。故に一旦之を討破るとも、全く勝利を得べからず。唯
幾度も對陣あつて、彼が守る所を失ひ、其の怠る所を見て、急に擊つて一戰にして、全
勝を取らんには如かじ。{{仮題|投錨=景虎歸國|見出=傍|節=e-4-1-4|副題=|錨}}故に先づ小戰して、後を謀るの手段を知るべしといへり。
景虎之を聞きて、尤可なりとして、同廿三日に歸國せり。
{{仮題|投錨=信州小縣對陣の事|見出=中|節=e-4-2|副題=|錨}}
天文十七年戊申、景虎十九歲、信州表に發向せんといつて、先づ諸︀將老臣を召集めて、
軍評定あつて、{{仮題|投錨=景虎再び出陣|見出=傍|節=e-4-2-1|副題=|錨}}然る後良勝と密事を謀り、軍事を決定し、五月十四日先備出陣し、十五
日景虎發馬にて、十六日雜兵後勢發足す。戰兵八千餘騎、雜兵是に應ず。斯くて同
月廿三日着陣す。先備は甘糟近江守・安田上總介・春日竝に千本鎗の强卒なり。千本
鎗とは越後の鄕士なり。此等に命じて曰、陣を結んで陣を張る事なかれ。敵進み來
らば、唯退き戰うて、先陣の後陣となる術を守るべし。二の備は旗本なり。川田豐
前守・上田等に命じて曰、先備の旣に戰はんとするを見ば、脇道より進み馳せて、先
陣となるべし。三の備は盡く散亂して、一手限に合戰を勵むべし。又長尾小四郞
に命じて曰、汝は中の備の間より四五町引退いて、備を立て、始終進まず退かずし
て、遠陣の勢を張るべし。又村上義淸に命じて曰、其の手勢{{r|一與|ひとくみ}}の遊軍となつて、催
促の下知を待つて加勢せらるべしと、諸︀將の手分法令を定め、總軍龍行の陣を作つ
て戰を待つ。時に村上義淸進み出でゝ曰、武田晴︀信が陣形を一々窺ひ見るに、其の
形勢、公の鋒先・太刀風に甚だ恐れて、當り戰はん力量無きこと、疑ふ所なく相見え
{{仮題|頁=40}}
たり。然る{{r|則|とき}}んば、向後信州表の發馬御無用なり。唯願くは此度、某に先驅を許容あ
らば、敵陣に蒐入り、晴︀信と組打し、勝負を一戰に決し、日來の無念を散ぜんといふ。
景虎聞いて、此の事如何と、宇佐神︀に問ひ給ふ。良勝が曰、去年より以來武田家の
軍粧を計り見るに、尋常の人にあらず、最も義淸の智慮及ぶ所にあらずといふ。是
に依つて、景虎も亦義淸の所望を許し給はず。只戰を挑んで待つといへども、晴︀信
も亦陣營を堅く守りて敢て戰はず。徒に對陣して數日を送る。{{仮題|投錨=景虎歸城|見出=傍|節=e-4-2-2|副題=|錨}}仍つて景虎は七月
五日歸城し給ひける。
{{left/s|1em}}
傳に曰、天文十七年戊申五月七日、晴︀信甲府を立ち、信州伊奈へ發向し、保科持の
砦を二三郭打破り、高任が城へ攻詰め相働くの由、景虎の忍の者︀、吿知らせければ、
景虎頓て、軍勢を率して小縣郡へ發馬し、戶石に陣取り給ふを、武田の物見註進に
依つて、晴︀信早々和田峠打越え、長窪より內山へ出で、是の所に陣し、景虎、晴︀信と
十三日對陣あり。一日二日に一度づゝ筑摩川を渡り、敵の先勢進み來る。味方の
先手足輕を出し、互に攻合ひけるが、景虎思慮して、十六日辰の刻に、陣を引拂ひ給
ふ。是は敵兵退くと見て、勝に乘り追懸けなば、定めて備{{仮題|編注=1|さだち}}亂れん。其の旗
色を見て取つて返し、一戰すべき爲めなり。晴︀信、此の形勢を見て流石の名將な
りければ、敵の引くは方便なりと覺つて、味方に下知して追はせず、備を堅固にし
て控へたり。是に依つて、大合戰はなかりけり。信州小縣對陣といふは是なり。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=景虎、越中の國境迄發軍の事<sup>附</sup>戰はずして歸陣の事|見出=中|節=e-4-3|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=景虎、越中の國境に出陣|見出=傍|節=e-4-3-1|副題=|錨}}天文十七年八月廿一日、景虎、越中表へ攻入らんと欲して、軍粧頻︀りなり。斯くて
越中の諸︀大將、此の軍立を聞きて、各約盟を堅く結んで、景虎國へ入りなば、四方よ
り一同に打出で、引裹んで一人も漏さず討取らんと、己々が居城に楯籠り、要害稠
しくして、景虎遲しと待居たり。越後の先陣、越中の國境へ入りて、後陣を待揃へ居
て、敵の軍謀を聞き、急ぎ大將景虎へ註進したりける。景虎、敵國の籌策を{{r|悉|くは}}しく聞
きて、群臣を集め、軍談ありし所に、臣等曰、越中に於ては、先づ神︀保安藝守・椎名肥
前守大敵なり。此の兩人が城郭へ押詰め攻取るべし。然る時は、其の勢に恐れつ
{{仮題|頁=41}}
つ、外の小敵は戰はずして、皆降參すべしと、{{r|僉言|せんげん}}したりけり。時に景虎聞きて、是
れ甚だ不可なり。假令小敵たりとも、四方より蜂起して、牒じ合せ襲來る時は、吾れ
又兵士を分けて、之を支へ防がずんばあるべからず。然らば我が戰兵八千ありとい
へども、四方に分散する時は、殘兵僅に四五千ならんのみ。之を兵法に、大手の小手
といつて、大に惡めり、我れ暫く思惟するに、今度は一先づ、彼等に弱氣を示し、敵の
心を驕らせて、其の驕怠の機を察し、以つて之を擊たん事、案の內なりといつて、九月
三日に、{{仮題|投錨=景虎歸國|見出=傍|節=e-4-3-2|副題=|錨}}早速引拂つて歸國し給へり。同年十月五日、近習の者︀七人に{{r|聞者︀役|もんしやゝく}}を言附
け、三人は甲州へ遣し、四人は越中・能登・加賀に往かしむ。聞者︀役は忍の者︀、或は目
附・橫目といへる類︀なり。是に依つて、國主の政道、群臣の行跡、庶民の風俗に至るま
で、日々に註進せしかば、國々の善惡を具に知り給へり。
{{left/s|1em}}
傳に曰、景虎、越中へ出陣すといへども、戰はずして引退きしは、思慮深きが故な
り。武田晴︀信も信州河中島へ出馬にて、村上義淸旗下の諸︀士・降參の衆の采地・在
鄕を、大方放火し、又は苅田などさせ、此方へ出向はずして、十月十日甲府へ打入れ
ける。景虎も寒國なれば歸陣せられけり。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=信州海︀平へ再び出張の事|見出=中|節=e-4-4|副題=|錨}}
天文十八年己酉、景虎二十歲なり。當春漸く雪も消えしかば、信州表に發向あらん
と、{{仮題|投錨=景虎再び海︀平に出陣|見出=傍|節=e-4-4-1|副題=|錨}}軍議評定一決して、四月廿一日・廿二日に、諸︀軍勢段々出馬して、五月朔日に海︀平
に着陣せり。軍兵・備等、法令去年の如し。武田晴︀信も、四月廿五日に諏訪を打立ち、
小室へ押着き、海︀平にて互に出向ひ、五月朔日より五日對陣なり。翌日六日景虎、使
者︀を武田晴︀信陣所へ差遣して曰、我れ村上義淸の爲に、度々信州へ出張して、數〻對
陣すといへども、未だ一戰の勝負を決せられず候ひき。願はくは他國の諸︀將に向
つて、武威を振るはるゝ如く、吾に對しても亦勇戰を勵さるべし。吾が武勇といふ
とも、他の諸︀將に異ならんや。明日は是非一戰の勝負を期す。必ず常を守る事なか
れとなり。又一說に、我等信州へ罷出づる事は、自身の欲を以ては、罷出でず候。村
上義淸を本地に返し申たしとの儀にて候。是れ御同心なく候はゞ、我等と有無の一
{{仮題|頁=42}}
戰なさるべし。勝利は互の手柄次第と云々。晴︀信返事に曰、其の方村上義淸に賴ま
れ、本地へ村上を仕付けらるべき爲の信州へ出陣は、一入{{r|心操|こゝろばせ}}{{r|艶|やさ}}しく、晴︀信も存知
候。我も人も敵味方となり、勝負終つて牢々いたす事、昔が今に至るまで、ある習に
て候。景虎の志は、是れ尤に候へども、村上本意の事、晴︀信在世の內はなるまじく候。
左なくば有無の合戰とある事、是も尤に候へども、晴︀信は村上を本地へ返さぬを、我
等の働に仕候。左あつて合戰と思はれば、其の方より一戰を始めらるべく候。若し
又日本國中に於て、誰人にてもあれ、我等が本國甲州の內へ、手を入れらるゝに於て
は、其の時晴︀信懸つて、有無の合戰仕るなりとの返事を、六日に聞きて、七日・八日ま
で、景虎八千の軍勢を以て備を立て、一戰を待ちたる形勢に見せ、又十日の朝、使者︀
を以つて、兎角御一戰なさるまじと相見え候の間、某は越中か能登の國を心がけて
候といつて、{{仮題|投錨=景虎歸國|見出=傍|節=e-4-4-2|副題=|錨}}其の日の午の刻に陣を引拂ひ、夫より越中に赴き給ひ、六七月の間、越中
境に屯し、少々合戰して弱氣を出し、佯つて逃げ、敵に驕らしめつゝ、早々歸國なり。
{{仮題|投錨=景虎、信州佐久郡に於て合戰の事<sup>附</sup>對陣の時黑雲出づる事|見出=中|節=e-4-5|副題=|錨}}
天文十九年庚戌、景虎廿一歲、例年の如く、信州表へ進發し給ふ。戰兵七千雜兵是に
應ず。五月朔日先備出陣す。二日景虎出馬なり。次に駄馬・雜兵發足して、同じき十
日佐久郡に陣を取りける。晴︀信は同三月十一日午の刻に、甲府を打立ち、上野松井田
の城へ押寄せられし所に、小笠原長時、木曾と組合ひ、下諏訪より打出で、所々に放火
し、諏訪こぢやうの要害を打破らんと、相議するの由、晴︀信聞きて、上野表を引取り、
三月廿一日に諏訪へ發向せらるゝを、木曾・小笠原聞きて、頓て引退きけり。晴︀信は
四月六日、桔梗原へ出張の所に、松本・木曾兩方より、敵の勢兵出で向ふ。是に依つて、
木曾を能く{{r|壓|おさ}}へおき、小笠原と勝負を決せんと議定せらるゝ所に、目附の者︀馳來つ
て吿げて曰、越州の景虎、五月朔日に出馬し、今度は地藏峠を越し、佐久の郡までも
襲ひ入るべき陣觸の由、沙汰致すなりと、晴︀信聞くよりも〔{{仮題|分注=1|脫ア|ルカ}}〕木曾・松本の兩敵を
{{仮題|頁=43}}
打捨て、佐久の郡へ軍を移し、景虎に向はれける。斯くて五月十日申の刻に、景虎使
者︀を以つて、明十一日一戰に及び候なりと、晴︀信最も心得申すと返答にて、備を定
め、十一日卯の刻に打出でらる。右の手は飯︀富、左は小山田備中、中は眞田彈正、何れ
も信州先方衆を組合せ、三手ながら鋒矢の備なり。旗本の前は典厩・穴山等、此の備
立は{{r|井|せい}}と見えたり。右は淺利・馬場・內藤・日向大和、左は諸︀住・甘利・勝沼・小曾等の
八頭を鴈行に備へたり。後備は郡內の小山田・栗原、此二頭は旗本と、一手の如く組
合せ、{{r|方{{?|「向」の「口」に代えて「山」}}|はうやう}}に、原加賀守、是もはうやうに立てゝ、遙の跡に控へたり、扨て景虎は、
萬の人數を一手の如くに組合せ、一の先の二の手に旗本を立てゝ進み、旣に合戰始
りけり。{{仮題|投錨=景虎、信玄と合戰|見出=傍|節=e-4-5-1|副題=|錨}}時に丸き樣なる黑雲、晴︀信の旗本の上より、景虎の旗本の上へ{{r|覆|おほ}}ひ懸り、
然も景虎の總人數の上にて、彼の雲吹き散りたり。景虎、之を見て、釆配を取りて、早
早、勢を引揚げ、旗本の備を一番に引入れ給ひけり。天文十六未の秋より、戌の五月
まで四年の間に、晴︀信と對陣に及ぶといへども、此時初めて合戰ありけり。晴︀信の
總軍勢は、其日の未の刻まで備を立て、合戰を{{仮題|編注=1|持つて}}、申の刻に陣屋へ引入れらる。
景虎十二日の曉天に、陣を拂つて越中に赴き給ひける。陣所を立つ時、晴︀信へ使者︀
を以つて、越中が能愛へ發問仕るの旨、{{r|立文|たてふみ}}を差遣し、早々景虎追き其返事に
も村上殿を本地へ歸し入れらるべしとの儀、思ひ止まり給へ。然る時は、其方と晴︀
信と合戰はなきものをとの、返札なりとかや。
{{left/s|1em}}
傳に曰、景虎未だ長沼邊に居給ふ時、晴︀信の目附の者︀、註進せしに依つて、直に是
へ押向ひ、猿が馬場へ着陣し、ふかしの通を取切つて、旗本を定めらる。景虎は善
光寺山へ押上り對陣せらる。武田勢桑原より押出し、段々に備を立つるを見て、
景虎も犀川を打渡り備を立て、旣に合戰に及ぶに、景虎衆人の機を轉じ、又は武田
の備の色を見ん爲め、黑雲にことよせ、人數を引揚げ給ふ。誠に奇妙の良將なり。
夫より越中に赴き給ふ所に、國中諸︀將の內、二三頭も景虎へ志を通じ、隨順の士あ
り。然るに敵方一味の諸︀將相議して、景虎へ一味の輩を、先づ打取らんと{{r|鬩|ひしめ}}きけ
る。是に依つて、右內通の諸︀士より、後詰を賴み越しければ、景虎一言の返事にも
及ばず、早速堺川を引退き給ふと齊しく、越中の諸︀士共、此方へ一味の武士の館︀へ
{{仮題|頁=44}}
押寄せ。剩へ堺川{{r|壓|おさへ}}の勢まで引取り、彼の城々を攻め動かす事頻︀り景虎此
の旨を聞き給ふと、則ち一騎がけして馳せ給ふに、幸堺川に壓はなし。心易く打
渡り、思の儘に、後詰あつて、寄手等追散らし、勝利を得給ふ。誠に景虎一言の返
事なく、早々堺川を引取り給ふは、智慮深き故なり。若し敵方へ後詰の返事聞え
なば、路を遮り或は伏兵などを置き、後詰の妨とならんと、敵の心を察し、或は重
く或は輕く、轉變し給ふ智謀の程を感心し、恐れぬものはなかりけり。
{{left/e}}
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|越後軍記}}{{resize|150%|卷之四<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=越後軍記/巻之四}}
{{仮題|ここから=越後軍記/巻之五}}
{{仮題|頁=44}}
{{仮題|投錨=越後軍記|見出=大|節=e-5|副題=卷之五|錨}}
{{仮題|投錨=景虎、川田豐前守を越中へ差遣す事|見出=中|節=e-5-1|副題=|錨}}
天文十九年七月、越中より目附の者︀歸り來つて、{{r|頃彼|このごろ}}の國にて、取沙汰致すを承はる
に、神︀保安藝守・椎名、其の外の諸︀將等、先月の軍に小利を得るに奢つて、皆謂へら
く、景虎重ねて、此の表へ出勢せば、全く勝利を得んこと、掌を握るが如しといへり。
然れども土肥・土屋・游佐等は、相共に謂へらく、景虎の智勇近世稀なる名將なり。
近年當國へ出張の形勢を見るに、誠に尋常ならず、弱きに似て弱からず、强きに似て
强からず、是れ皆良將の用ふる所なり。早く密事を以つて、降參せば可ならんとい
ふの風聞なり。景虎之を聞いて、則ち川田豊前守に命じて、汝は急ぎ越中に赴き、
諸︀將の吾が旗下に屬せんと欲する輩をば、潛に語らひ、堅く盟誓して來るべしと、川
{{仮題|頁=45}}
田畏つて、早々越中へ行きたりける。斯くて景虎の目附、甲府より飛札を以つて、晴︀
信九月十四日の未の刻に陣觸あつて、次の十五日巳の刻に甲府を打立ち、小笠原長
時を退治の爲め、出陣の由、沙汰せりと吿げたり。景虎聞きて、又信州海︀平へ出張な
り。晴︀信之を聞きて、長時退治の軍勢を引返し、法福︀寺口を打捨て、景虎に向ひ、九
月廿八日より十月十日迄對陣ありしが、翌十一日卯の刻に、景虎軍勢引入れ、寒國な
れば歸國せられける。
{{left/s|1em}}
傳に曰、武田晴︀信、小笠原長時を退治の爲め、信州佐久へ進發し、それより浦野峠
を打越え、法福︀寺迄取詰めける。長時も早々ひな倉峠を打越し、自身采配を取つ
て、無二無三に戰ふ。是に依つて、武田の先手二三町退きける。甘利左衞門、此の
形勢を見て、備を詰めけるが、崩るゝ味方に入り替つて、斬つて懸り押返す。敗軍の
先衆も之を見て、備々を押直し、甘利が左右より、入れ違へ討つて懸りける。是に
依つて、長時敗北す。然る所に、景虎海︀平へ出張の旨、斥候の者︀吿げ來りけるに依
つて、晴︀信は鼠宿邊に支へたり。又景虎は榊へ引取り、旗本を定め對陣せり。先手
の戰士少々{{r|攻合|せりあひ}}あつて後、敵の旗本と景虎の旗本と、押合せ合戰と議して、景虎の
先衆は、北條柴田・柹崎和泉・甘糟近江守等なり。武田にも老功の勇士、一の手にて
ありしが、景虎の樣子を見て、三の手の小備の、然も若き衆を一の手になし、初めの
一の手を二三となしけるを、景虎見て、敵の心を察し給ひ、早々旗本を引入れらる。
景虎の先衆に、村上義淸・長尾正景加はり、以上八頭跡に殘り、榊の切所にて後殿
し、些敗軍の樣にして引取りける。景虎・晴︀信兩將の軍術、龍吟ずれば雲起り、虎
嘯けば風生ずるの意氣、誠に機に隨ひ受用し、手に任せて拈じ來るの威風あり。謂
つべし良將なりと云々。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=關東の管領上杉憲政越後に來る事<sup>幷</sup>景虎に管領職を讓らるゝ事|見出=中|節=e-5-2|副題=|錨}}
天文二十辛亥年景虎廿二歲、二月中旬川田豐前守、越中より歸り來りて、言上して曰、
土肥・土屋・游佐以下の諸︀將、味方に隨順して、二心あるべからざるの旨、堅く誓諾せ
{{仮題|頁=46}}
り。此の上は急ぎ御出馬あるべし。然らば神︀保・椎名等も定めて、降參致すべし。
若し又然らずんば、土肥・土屋・游佐等に仰付けられ、之を退治あるべきかといへり。
此の外に密事どもあり。同年三月上旬、甲斐國より景虎の目附の者︀歸り來りて、言
上して曰、吾れ潛に聞く、晴︀信は公に對して、合戰を挑む事を一大事とせられ、老
臣の軍功ある諸︀將、及び軍に狎れたる者︀共を集めて、夜軍の評議區々なりといふ。
又紀州高野山より妙法坊心陽といへる僧︀、甲府に來つて、近習の寵臣市川七郞右衞
門尉といふ者︀を憑んで、晴︀信に謁︀し、虎の卷といふ軍配の書を獻ず。晴︀信卽ち、之を
傳授して祕藏とせられ、{{r|乃|いまし}}心陽に信濃の中に於て、二箇所寺領を寄附せらるといへ
り。景虎之を聞きて笑つて宣はく、夫れ虎の卷は、劒術の日取・方取の書なり。軍術に
於て、用ふるに足らずと謂つて、乃ち宇野を召して問うて曰、汝が天官軍配の書の中
に、虎の卷ありや、其理は如何。宇野答へて曰、虎の卷は劒術の要たりといへども、是
れ又愚者︀を使はんが爲めに用ひたり。事に達したる者︀の信ずる事にあらず。總じ
て天官の事、軍術に於て無益なり。良將は時に當つて宜しきを用ふ。愚將は常に是
に拘はつて、人和時宜を要とする事を知らず。實に察せずんばあるべからずとい
へり。景虎之を聞きて、此の理最も可なりと、感心し給ひき。同年關東の管領上杉山
內憲政、越後に來り入りて、景虎に對謁︀して謂つて曰、我れ積年、逆徒北條氏康を征
伐せんと欲して、屢〻合戰に及べり。然るに今、却つて利を失ひ、勇力旣に竭き、十計且
つ絕えたり。{{仮題|投錨=上杉憲政管領を景虎に讓る|見出=傍|節=e-5-2-1|副題=|錨}}今より我が姓名及び管領職を、永く貴方に讓り與へ、吾は上野に隱居
すべし。速に北條を退治して、關八州を平均せしめ、管領職を繼がるべしとなり。景
虎答へて曰、貴命最も據なし。敢て奉承せざらんや。然れば則ち來陽よりは、他事を
差置きて、小田原表に進發し、北條氏康・氏政を追討し、公の憤激を散ずべしと諾盟
す。是に於て、北條丹後守に命じて、汝は竊に上州平井に往いて、暫く其の地に居止
せしめ、氏康が政道・行跡、且つ國風を見聞して、委細に註進すべしといへり。北條、命
を蒙り、卽ち上州に赴きける。同年越中の士に降參の者︀あり。彼に密議して、同四月
三日越中境に出馬して少々{{r|攻合|せりあひ}}の働あつて、六月に歸國なり。{{nop}}
{{仮題|頁=47}}
{{仮題|投錨=景虎剃髮の事<sup>附</sup>沙沙門天信仰の事|見出=中|節=e-5-3|副題=|錨}}
天文廿一年壬子正月十五日、景虎諸︀臣を召集めて謂へらく、我れ剃髮の志あり。如
何すべき。群臣承つて、敢て答ふる者︀なし。景虎の奧意を知らざれば、各々敬んで默
止す。{{仮題|投錨=景虎剃髮して謙信と號す|見出=傍|節=e-5-3-1|副題=|錨}}乃ち剃髮あつて謙信と號し給ふ。廿三歲なり。武田晴︀信も去年二月十二日、
法體にて大僧︀正信玄と稱す。卅一歲なり。名將は何れも風儀相同じ。其の後、春
日山の艮に當つて、昆沙門天を安置して、朝夕に丹誠を抽んで、祈︀誓に曰、吾一度天
下の亂逆を鎭め、四海︀一統に平均せしめんと欲す。若し此の願望叶ふべからずん
ば、頓に死を賜はれと、精︀心に祈︀り給ふ。是よりして魚肉を禁ず。況や女色に於て
をや。色欲は若年より犯す事なしとかや。
{{仮題|投錨=上杉謙信、武田信玄と合戰の事<sup>幷</sup>謙信東上野へ出張の事|見出=中|節=e-5-4|副題=|錨}}
天文廿一年暮春に、謙信又信州表に發向し給ふ。軍令は前年海︀平へ出張の備に、相
同じ。先備は長尾正景なり。手勢一千餘騎及び與力の戰兵二百有餘引率し、三月
十二日地藏峠を打越え、武田勢に向つて一戰す。{{仮題|投錨=謙信信玄合戰|見出=傍|節=e-5-4-1|副題=|錨}}時に謙信下知して曰、正景が軍勢
を、峠の半腹迄引退け、武田勢を誘うて僞り引登せ、峠近く引寄せて後、高き所より
逆落しに追崩すべしとなり。然るを正景、下知に從はずして、肯て退かず。故に謙信
怒つて、正景を捨てゝ、峠より五六町退き去つて、遙に其の形勢を窺へり。武田勢是
に氣を得て、進み來り急に攻懸る。正景萬死一生の勇猛を勵し、力戰すといへども、
遂に利を失うて敗北せり。一說に此軍は、謙信地藏峠を越しかね、此時の先手謙信
の姊婿長尾正景三千の備を跡に置き、謙信八千の人數を引越し、正景へ軍使を以つ
て、一戰致され退かれ候への由なり。正景怒つて、若き人に訓へらるゝに及ばずと
いつて、退く所へ、武田方の侍大將飯︀富兵部・小山田備中、郡內の小山田左兵衞・眞田
一德齋・葦田下野・栗原左衞門佐等、正景の跡に附いて進み來る。正景、地藏峠に懸る
體にして、三千の人數を一手に作り、大返といふ物に取つて返し、切つて懸り、武田
{{仮題|頁=48}}
勢を追立て斬崩し、競ひ懸つて散々に討取る。甲州の小山田古備中討死す。武田方
此の形勢を見て、旗本の前備甘利左衞門尉・馬場民部・內藤修理、此の三手驅來つて、
追返し相戰ふ。此の時、正景の手勢幾許討死す。甲府の先手の中、眞田一德齋取つて
返し、正景控へられし眞中へ一文字に討つて蒐り、正景の前の備を斬崩しける。是
に依つて、大勢討たれしかば、正景終に敗軍し、二三騎にて漸々峠を越し退かれけ
る。正景は姊婿といへども、討死もあれかしと思はるゝ故か、右の如し。甲州勢雜兵
共に三百七十一人討取り、味方雜兵共に七百十三人討死せり。信州常田合戰是な
り。一場にて二度の合戰の內信玄先手は負け、旗本は勝ちたり。
{{left/s|1em}}
傳に曰、前亥の霜月、武田持へ謙信働き給ふ事、小笠原長時より、賴み給ふに依つ
て、前の年より其の試みあつて、當子の三月二日、謙信出陣にて、同じき八日の早
朝に、常田邊の在々を燒き給ふ。然るに六日の辰の刻に、越後境より目附の者︀馳
せ來て、謙信、國境へ出張の旨吿げにける。信玄、此の働あるべき事を、已に前の
年より積りつゝ、越後境へ段々に、斥候・目附を付置きし故、追々の註進に依つて、
其の日に甲府を打立ち、長澤通を一騎驅にて押來られし所に、謙信、小室の押を
先刻引取り候との註進を、野澤のあなたにて、信玄聞きて、扨は謙信退散疑ひな
しと思慮あり。一人急ぎ、八日の子の刻に、常田邊へ押着き、本文の如きの合戰
あり。謙信兼ねての積より、信玄一兩日も早かりしかば、其の拍子違ひ、事急にし
て、其の夜寅の上刻に、城伊庵を以つて、正景へ本文の如きの使を立て、早々峠を
引越し、須坂まで凡そ十里ばかりの道を、引取り給ふ。一戰して後人數を集め、引
退きがたき地形を、謙信能く辨へ、正景に怒氣を附けて、早々引き入り給ふ。誠に
賢き大將なり。如何なる剛强の將といふとも、自然に積り違ひにて、斯く難︀所に
懸り、敵の名將にくひ留められ、大事の退口には、右の如きの法を用ひずんば、中
中なりがたき儀なり。正景も亦諸︀士を捨てゝ引退く意味、君臣同風、强將の下に
溺兵なしとかや。
{{left/e}}
謙信、翌日又一戰を勵まさんと欲して、宇佐神︀良勝及び長臣等と、相共に議して曰、
昨日の合戰は、君臣和合せざるが故に、殆んど危難︀に遇へり。無事に引取りしは是
{{仮題|頁=49}}
れ幸なり。然るに今日又、一戰に及ばゝ、必定正景、昨日の敗走を怒つて、令を犯し
法を破つて、軍法亂れ、大に利を失はん事、掌を指すが如し。只明一日對陣し、同十
五日に引取りて、此地より直に東上野に出張すべしと、ありし時、北條丹後守進み出
でゝ言上して曰、去年より某、平井{{r|牧|まい}}〔厩イ〕{{r|橋|ばし}}にありて、關東の風聞を承はるに、上野箕
輪城主長野信濃守以下の諸︀將、君の爲めに忠心を傾け、節︀義を盡さんと欲する輩過
半あり。其の外、管領憲政家來の士共は、{{r|大小|なに}}となく君の譜代の士の如く、皆一統
して君の入御を相待つといへり。加之武州岩附の城主太田美濃守入道三樂、無二
の志を以て、旣に其情を內通せられたりと、巨細に申しける。謙信之を聞きて宣ふ
は、其の如くに之れあらば、一兩年の內には、關八州を服從せしめ、北條氏康を退治
せんこと、掌握の內にありと謂つて、喜悅斜ならず。是より又五月中旬に、越中表へ
發向し、神︀保・椎名等に對し、足輕軍少々して輕く引取り、六月廿八日歸國し、同九月
下旬に、能登の國主畠山修理大夫義則へ、使者︀を以つて吿げて謂へらく、予が亡父爲
景在世の時は、幕下に屬せらるゝ事歷然たり。今も亦先例の如く服從あるべし。若
し又然らずんば、越中を平治の後、速に一戰を遂げんと言ひ送りける。
{{left/s|1em}}
傳に曰、義則は八幡太郞義家十三代の後胤、畠山滿慶の長男、修理大夫義忠の嫡
子、二郞治部大輔義有の息男、二郞修理大夫義統、始めて能登の國を領す。其の
子修理大夫義則と號す。終には謙信の幕下に屬す。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=公方義輝公より兩使越後に下向の事|見出=中|節=e-5-5|副題=|錨}}
天文廿二年癸巳、謙信廿四歲なり。姊婿長尾七郞藏人義景、正景と改む。謙信父爲
景と四從弟なり。然るに逆心を企つる由風聞あり。謙信之を聞いて、實否を糺さん
がため、姑く他國へ出陣を止められける。扨居城春日山の要害を修造し、堀を深く
し、四壁を堅く繕はせなどし、先づ奧越・庄內・佐渡の一揆等{{r|押|おさへ}}のためとして、甘糟近
江守・本城山城守重長・大關・隅田・春日・黑金等に命じて將たらしむ。各命を蒙り、士
卒を率ゐて、{{仮題|投錨=義輝、使を謙信に遣す|見出=傍|節=e-5-5-1|副題=|錨}}三月十三日發向す。斯くて將軍家義輝公より、一色淡路守・杉原兵庫頭、
兩使として越後に下向ある。謙信辱なく拜謁︀せらる。上使公方の鈞命を宣べて曰、
{{仮題|頁=50}}
相州小田原の氏康、近來猥りに武威を振ひ、北條氏を自ら稱して、關東の管領上杉
憲政を襲ひ侵し、終に國を追ひ失ひ、旣に今浪落の身とならしむる事、罪積甚だ輕
からず。誠に御沙汰あるべしと、思召し立たせ給ひしかども、當時亂世に及んで、諸︀
國の御家人等召に應ぜず。只面々の分國を掠められざるの謀に屈するのみ。且つ
又、永享年中關東の公方左兵衞督持氏、敕命に背いて誅戮せらる。然るを其の子
孫あつて、左典厩晴︀氏といふ者︀を取立て、己が女を以て娶はせ、之を公方と號し仰ぐ
の由、王上に住んで天威をも憚らず、上を蔑にし、雅意に任せて、答なき國人を追放
し、無道の政道天何ぞ之を容さゞらんや。然るを優恕し置かば、坂東の擾亂止むべ
からず。今謙信に非んば、誰か之を誅罰せん、委曲兩使口上に演說すべしとの、上
意なりといへり。謙信謹︀んで承り、兩使に對して曰、管領上杉憲政、北條氏康が爲
めに戰敗れて、旣に國家を失へり。其の家臣會我兵庫助、憲政を諫めて曰、此上は
謙信を賴みて、上杉家の重代天國の太刀竝に系圖等を讓り、憲政は上野一國を、領
地として隱居し、餘國は悉く謙信が支配として、氏康を退治し鬱憤を散じ給へとい
へり。憲政、之を聞いて、最も可なりとし、則ち予に因んで、其旨趣を懇に伸べぬ。
然りと雖も、我れ將軍家の公命を承らずして、爭でか私に之を受くべけんや。先づ
氏康を追討して後、上洛を遂げ、嚴命を賜はつて然る後、管領職たるべしと、內々覺
悟仕る所に、幸に今關八州の諸︀將、なにとなく過半隨順せり。然れば二三年の中に、
北條一家を退治して上洛仕り、公方を拜し奉らんと欲するのみ。此の趣宜しく上
聞に達し給ふべし。兼ねて又、鎌倉の公方廢絕してより、關八州の諸︀士等、上を畏れ
憚る所なき故に、法度を守らずして、放埓の輩、多く地迫合絕えずして、是より事大
に起り、擾亂に及び候ひき。冀はくは、將軍家より寬仁大度の器︀量を擇び給ひて、鎌
倉に下し、廢跡を繼がしめ給はゞ、關東平治すべきか。是誠に謙信が欲する所なり。
此の旨、兩御使相心得られ、御序を以つて、御前宜しく奏達に預り候はゞ、本望たるべ
しとなり。饗應善盡し美盡せり。兩使三日逗留あつて歸京せられける。義輝公へ
御馬二疋、竝に越後布三百端、兩使へ白銀五十枚宛、越後布二十端宛贈︀られけり。
{{left/s|1em}}
傳に曰、關東の公方は、源尊氏公九代の後胤、正四位下足利左馬頭晴︀氏と號す。下
{{仮題|頁=51}}
野國古河の城に住居せり。上杉憲政と一味して、北條氏康と合戰し、天文年中に
晴︀氏終に滅亡す。按ずるに、尊氏の次男左馬頭基氏朝臣、始めて鎌倉の管領とな
り、{{仮題|投錨=關東公方滅亡|見出=傍|節=e-5-5-2|副題=|錨}}左兵衞督持氏まで四代相續して相州に住し、管領或は公方と稱す。然るに持
氏、永享年中滅亡す。其の末子足利右少將成氏、下野國古河に住す。成氏の長子
左馬頭政氏、其嫡子高基朝臣、之を熊野御堂殿といふ。高基の嫡子は則ち晴︀氏な
り。此の四代を古河の公方と號す。四代の後、鎌倉には公方なし。依つて家臣上
杉兵部少輔房顯、押して關東の總管領となる。其の子相模守顯定、相續して政務
を行ふ。上杉の嫡流は、代々鎌倉の山の內へ住居す。憲實が流是なり。其の庶流
は同所扇谷に住す。之を兩上杉といふ。此の外、諸︀國の間に上杉家繁流す。鎌倉
の公方家は、持氏にて斷絕し。古河の公方は、晴︀氏に至つて絕えたり。末々に喜
連川と稱するは、古河の御所成行の末流なり。
{{left/e}}
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|越後軍記}}{{resize|150%|卷之五<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=越後軍記/巻之五}}
{{仮題|ここから=越後軍記/巻之六}}
{{仮題|頁=51}}
{{仮題|投錨=越後軍記|見出=大|節=e-6|副題=卷之六|錨}}
{{仮題|投錨=長尾正景隱謀<sup>附</sup>溺死の事|見出=中|節=e-6-1|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=正景謀叛|見出=傍|節=e-6-1-1|副題=|錨}}天文廿二年長尾正景が隱謀彌〻露顯す。是に依つて、誅せんと欲して、謙信召すと
いへども、正景之を曉りて病と稱して、敢て參候せざりける。彼が館︀へ押寄せ打果
すは、易き事なりといへども、國家騒亂せん事を厭ひ、且つ又、他國の聞えを憚り、
何卒穩便にして失はんと、謙信深く智謀を運らし、正景が常に好む所を、尋ね問ひ
給ふに、正景は暑︀夏極熱の節︀、船を池水に泛べて、納涼の興を相催すことを樂むの由
傳へ聞きて、竊に水練︀に達したる水主を召して、汝は予が命を背き出でたりと僞り
て、急ぎ正景が館︀に往き、我れ正景を誅戮せんと計るの由を、吿知らすべし。然る時
は、返忠の者︀なりと賞美して、汝を彼が船頭に爲すべし。其の時船底に穴を穿つて、
{{仮題|頁=52}}
正景が船遊びせん時、必ず池水に沈むべしと、言附けられける。船頭畏つて領掌し、
急ぎ正景が屋敷に往いて、件の計を誠しやかに演べて、辯舌に任せて{{r|儻偶|たばか}}りける。
正景聞きて大に喜び、謙信思慮の通りに、船頭にぞしたりける。其の後、正景病中鬱
氣を散ぜん爲なりと披露して、美女數多誘引し、船遊に出でゝ、夜陰に及んで國を立
退かんと、心中に思ひしが、件の船頭返忠の者︀なれば、賴もしく思ひて、夜に入りて
首尾を見計らひ、小舟に乘移るべし。其の時汝心得て、我乘りし舟に在りて、人知ら
ざるやうに、早く渚︀の方に押着くべしと囁きける。水主多き某の中に、件の者︀に知
らせける武運の程こそ拙けれ。彼の船頭承りて、心底には是れ天の與へと、悅んで
謹︀んで領掌す。{{仮題|投錨=正景溺死|見出=傍|節=e-6-1-2|副題=|錨}}是に依つて、船頭思の儘に計り、正景、終に水中に溺死せり。
{{仮題|投錨=謙信、小田原へ間者︀を入れ置かるゝ事<sup>附</sup>北條家より諸︀寺の鐘を押取る事|見出=中|節=e-6-2|副題=|錨}}
同年五月中旬に、謙信近習の士の發明なる者︀を擇んで、相州小田原へ差遣し、國風・
政道、且つ大將氏康が心底・行跡、諸︀臣等の風儀、城郭の要害、諸︀事の形勢を、委しく見
聞し、兩人の中、一人歸つて吿知らすべしと命ぜらる。是に依つて、兩人の者︀小田
原に赴き、在宿の間、樣々に身を宴して聞屆け、九月下旬に越後に歸り、主君に謂つ
て曰、北條家に忠勇武功の臣等數輩之れあり。就中松田尾張守といふ臣は、輔翼と
して民を撫で政を正しうし、軍德厚く智謀深く、忠義衆に超えしかば、軍用等常に貯
へて、敢て懈る事なく、軍卒を練︀調して忠健の志、暫くも忘るゝ事なければ、氏康も
萬事の評議、松田と決談し、群臣の第一として、氏康の長臣たり。{{r|頃|このごろ}}松田、諸︀方の寺
庵より、鐘を取寄せて、朝暮に之を鑄鎔して、鐵炮の玉にしたりける。然る所に、鎌
倉の內にありける或小寺の鐘を取らんとす。住僧︀甚だ之を歎き悲み、色々に詫びけ
れども叶わず、力に及ばざれば、彼の僧︀、別を悲み鐘を抱き、人に{{r|言|ものい}}ふ如く、淚を流し
て曰、我れ年來二六時中、手を觸れずといふ事なし。自今以後、手を觸るゝ事あるべ
からず。我れ此の鐘に於ては、殘念盡きずと聲を揚げ、是が永き別れなりと、喚き
叫んで、泣く{{く}}立分れぬ。怪しいかな此の鐘、旣に小田原に至つて、鑄鎔さんとせ
{{仮題|頁=53}}
し所に、鐘より水烟を吹出して、炭火消滅し敢て鎔けざりけり。猶數箇度に及ぶと
雖も、度每に水烟出で、終に鎔けざりき。人皆、僧︀の執心怨懷なりと、奇異の思をな
す所に、老いたる鑄物師が曰、斯の如き事、古例益々多し。牛馬の糞を。炭火中に入
るゝ時は、水烟止んで鍛涌くものなりといふに任せて、其通りに糞を入れければ、炭
火熾にして鐘忽ち湯になりけり。斯る事もあることにこそ。扨又、城下の盲人に、
情の强き意地を立て、異相なる者︀あり。氏康、之を聞きて喜び呼出し、咄の者︀にぞ
せられける。然るに其の盲人、常の者︀よりも柔和にして、意地を立て情强なる事更
になし。氏康の曰、汝意地强き異相なる者︀と聞きて召出せり。然るに尋常の人より
も、猶和順なる事不審なり。時に盲目對へて曰、君意地强き性あつて、之を好めり。
然るを好心に叶ひ意地强きは、却つて和順といふものなり。意地强きを嫌ふに、意
地弱きも亦和順に非ずやといへり。氏康、甚だ興を催せりと承り候といへり。謙
信之を聞きて曰、氏康は奇兵を好めり。我れ亦、正兵を以て戰はんといへり。
{{left/s|1em}}
傳に曰、氏康は平重盛十八代の後胤、北條氏綱が嫡子、左京大夫正五位下相模守
と號す。長氏入道早雲が孫なり。享祿元年鎌倉扇が谷の上杉朝興、武州小澤原へ
出張して、小田原へ押寄せんと議す。氏綱之を聞きて、其の身は小田原の城に、
要害稠しく楯籠り居て、嫡男氏康を大將として發向せしむ。時に氏康十六歲な
り。朝興と數〻戰ひ、北條家勝利を得たり。其の後、天文六年四月上杉朝興、武州
川越の城に於て病んで死す。其の子朝定、父の遺言に依つて、軍勢を催し、北條家
を亡さんと謀る由、{{仮題|投錨=上杉朝興病死|見出=傍|節=e-6-2-1|副題=|錨}}小田原へ聞えければ、氏綱・氏康父子、早速川越へ出陣し、頻︀に
攻懸け、透間をあらせず揉立て{{く}}しかば、朝定怺へずして松山の城へ引退く。
此の戰に、朝定が叔父朝成生捕られ、軍利を失ふ。氏康直に松山を攻屠る。朝定
又敗北す。北條家、川越の城を乘取つて、家の子北條綱成を城代とせり。翌年七
月、山の內上杉憲政と扇が谷上杉朝定と和睦し、兩將大軍を催し、川越の城へ押
寄する。{{仮題|投錨=扇谷の上杉家斷絕|見出=傍|節=e-6-2-2|副題=|錨}}氏綱・氏康之を聞きて精︀兵八千をすぐつて馳向ひ、兩上杉の陣へ夜戰し
大に攻破る。其の時朝定終に討死して、扇が谷の上杉家是より斷絕せり。憲政
は敗走して、上野國平井の城へ引退きけり。川越の夜軍といふは是なり。其の
{{仮題|頁=54}}
頃、古河の御所晴︀氏の一族源義明、房州の里見義弘を語らひ、大勢を催し、下總の
國府の臺へ出張す。氏綱・氏康二萬餘騎にて馳向ひ、合戰に打勝ちければ、義明は
討死しけり。{{仮題|投錨=氏綱卒去|見出=傍|節=e-6-2-3|副題=|錨}}義弘力及ばずして引退く。同十年氏綱卒去す。氏康相續して、伊豆・
相模・武藏を領す。同じき十四年、上杉憲政武州へ發向す、其の時も川越には、北
條綱成籠城せり。憲政は關東八州の軍兵を催し、其の勢八萬餘騎にて押寄せ、城
外を十重・二十重に取卷き攻めけれども、綱成些も騷がず、防ぎければ城堅固なり。
北條氏康、之を聞いて明年四月、後詰の爲め川越に出張して、憲政が軍中へ駈入
り力戰す。{{仮題|投錨=川越の夜軍|見出=傍|節=e-6-2-4|副題=|錨}}憲政大きに敗軍し、上野國へ引退く。之を川越の夜軍ともいへり。同
二十年氏康、上州平井に發陣し、憲政の居城を攻落す。是に依つて、越後へ逃げ
行き、長尾景虎を賴んで、北條を退治せんと欲して、上杉の氏姓・管領職を景虎に
讓れり。{{仮題|投錨=關八州北條の手に歸す|見出=傍|節=e-6-2-5|副題=|錨}}是より關東の兩上杉歿落して、八州悉く氏康の手に屬す。斯くて永祿三
年三月、長尾景虎關東の管領職と名乘つて、八箇國の諸︀將を語らひ大軍を起し、
相州小田原近くまで發向すといへども、城を攻むるに及ばず。氏康も出張せざれ
ば合戰はなかりけり。景虎圍を解いて歸國す。然りと雖も、此の後北條家と和睦
し、氏康の末子三郞を、景虎の養子とす。此の故に氏康と信玄彌〻不快なり。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=信州在々所々放火の事|見出=中|節=e-6-3|副題=|錨}}
天文廿三年甲寅謙信廿五歲、群臣を召して相議して曰、數年信州表に發陣すといへ
ども、未だ放火亂妨せず。是に依つて、信州の敵將等敢て苦難︀に及ばず。今度は多
勢を以て、國中に入り亂れ、燒き働き驚かさば、難︀儀に及び、返忠の輩出で來らんと
いへり。諸︀臣御最と同じて、戰兵一萬三千餘騎、雜兵是に應ず。卽ち五月廿七日先
備出陣し、同廿八日謙信出馬にて、後陣雜兵發足し、同六月十日河中島淸野に着陣
あつて、諸︀卒を手分し、在々所々馳入り、放火亂妨して、同十二日に虛空藏山に取登
つて、鼠宿・布下・和田を放火しける。案の如く、敵方の諸︀士難︀儀して、味方へ心を通ず
る輩多かりぬ。此所に五日滯留して、同十八日に東上野に出張し、夫より越中に押
往き、椎名・神︀保等と對陣し、少々挑み戰うて、八月二日歸城なり。{{nop}}
{{仮題|頁=55}}
{{仮題|投錨=信州河中島へ出馬の事|見出=中|節=e-6-4|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=謙信河中島出陣|見出=傍|節=e-6-4-1|副題=|錨}}天文廿四年乙卯謙信廿六歲四月五日、信州河中島に出馬す。信玄、此の由を聞きて、
屋子原の捕出には、栗原左兵衞に足輕大將多田淡路を差副へて、木曾義昌を抑へ、信
玄は同六日に、屋子原を立ちて謙信に向ふ。謙信五日對陣ありて引取り、同十日關
東上野の國へ發向し、北條氏康の領內に入りて、氏康と對陣し、日々夜々足輕攻合し、
數月に及んで引取り、又是より越中表に出張して、椎名・神︀保・遊佐・土肥・土屋等と合
戰し武威を振ひ、九月十日に歸國せり。此の年改元あつて、弘治元年になる。翌年丙
辰謙信廿七歲、弘治二年四月十日、信州表に發向し、夫より六月三日關東に出張して、
氏康と對陣して歸城し、同年十月三日、太田備中守入道三樂を先鋒として、上州表に
出馬す。北條氏康も亦出でゝ對陣し、時々挑み戰ふ。時に天寒く冬風烈しく、寒風肌
に徹り、雪吹{{r|尖|するど}}に吿げ來れば、越後勢北道の雪を熟れつゝ、早々引入りけり。
{{仮題|投錨=謙信、信玄と和睦調はざる事|見出=中|節=e-6-5|副題=|錨}}
弘治三年丁巳、謙信廿八歲なり。其の年の四月三日、信州表に出張し、同十二日河中
島に着陣す。{{仮題|投錨=信玄和平の使を謙信に遺す|見出=傍|節=e-6-5-1|副題=|錨}}時に信玄對陣あつて、兩使を以て、和睦あるべき旨を吿げ來る。謙信
返答に曰、我れ信玄公に對し遺恨更になし。唯村上義淸が爲めに、累年信州表に出
張すといへども、未だ雌雄を決せず、衆を苦しめ兵を勞するのみ、是れ義淸が爲めに
する所なり。近年又上杉憲政の爲め、小田原表に出張して、北條氏康と一戰の勝負
を決せんと欲す。且つ亡父の舊敵たるに依つて、越中表に發馬して、椎名・神︀保を斬
戮せんと欲す。故に從兵諸︀士の疲勞勝げていふべからず。然るに今、公と和平の儀
素より予が願ふ所なり。今年は互に引取つて、來陽必ず信越の境に臨んで、一度對
顏せん事を期すといつて、同五月廿三日に、雙方旅陣を引拂つて、甲越へこそ打入り
ける。同年七月下旬に、甲府に忍び居たる間者︀、越後に歸つて言上して曰、今度信玄
和平を乞はるゝの意趣は、去臘將軍家より兩使として、北條氏康を退治せしむべし
{{仮題|頁=56}}
との嚴命を蒙れり。是に依つて、先づ氏康を退治せんと欲して、姑く和平を請ふと
いへり。又一說には、君の武威日々に盛に、猛勇夜々に振ひ給ふに依つて、武田家
行末衰敗せん事を、豫め慮つての和睦ならんと沙汰せりと、謙信熟々聞きて、暫く
思惟して曰、兩說分明ならず、油斷すべからずといへり。同年上州沼田へ發向して、
北條氏康に對陣す。兩陣の間嶮難︀の地なる故に、雙方只矢軍・足輕{{r|攻合|せりあひ}}のみにして、
數日を送れり。同九月上旬に歸城なり。此年改元あり。
{{仮題|投錨=謙信、信州表へ出馬<sup>附</sup>西川の渡に於て雜兵溺死の事|見出=中|節=e-6-6|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=再び河中島出陣|見出=傍|節=e-6-6-1|副題=|錨}}永祿元年戊午謙信廿九歲、三月中旬信州表に出馬あり。時に西川の渡、雪水にて甚
だ漲り來つて、雜兵百六七十餘人溺死す。是に依つて、早々越國へ引取り給ふ。同
年四月二日、信州表に又出張して、今回は武田信玄と和平あるべしとの風聞あり。
人民之を聞きて甚だ悅喜す。然れども其儀なく、筑摩川の邊に百餘日對陣して、七
月上旬に歸國し給へり。
{{left/s|1em}}
上杉謙信、武田信玄と和平の儀兩說あり。{{仮題|投錨=上杉武田和平に就いての兩說|見出=傍|節=e-6-6-2|副題=|錨}}謙信より和を乞はれたりと、信玄方に
はいふなり。旣に甲陽軍記等に見えたり。然れども上杉家の記錄には、信玄より
和平を乞はれ、則ち甲府に忍びてありし間者︀、信玄の和睦を請はれたる意趣を聞
きて立歸り、謙信へ註進したりと、右に記する如くなり。故に信玄方の儀を左に
記するなり。
永祿元戊午年二月、越後景虎入道謙信より、信玄へ手を入れられ、景虎、信玄に對し
少しも仔細は之なく候。村上義淸に賴まれての儀これまでなり。所詮信玄と面
談申し無事に仕り、我等は越中・能登・加賀を討取り、父爲景への奉公に致し、扨は
上杉憲政を東上野平井へ歸參なさるゝ樣にと存ずるに、信玄と取合候へば、何事
も成就致さず候間、筑摩川を隔てゝ諸︀禮仕り、以來は兎も角もと申越さるゝに付、
其年五月十五日に、信玄、景虎と無事の儀、越後・信濃各悅び候事限なし。扨五月十
五日に、兩大將對面の時、筑摩川を隔てゝ、兩方の川のはたに牀机を置き、兩大將
ながら馬に乘り、牀机の際にて馬より下り、互に供の者︀五人づゝにて、あたりに
{{仮題|頁=57}}
人を拂つてと定め、其の如くにて兩大將、旣に川端まで乘寄せ、兩將下りんとし
給ふ時、景虎は手輕き大將なれば、信玄に手遲く見られじとや思はれけん、早速
馬より下りて、牀机に腰を懸け給ふ。信玄。そこにて{{r|馬氈|ばせん}}を直すふりをして、馬の
上に於て苦しからぬ。景虎馬に乘られよと、申されける間、景虎、大いに腹を立て、
頓て馬に乘戾り、信玄へ使を立て、我等の家は、桓武天皇の後胤、鎌倉次郞景弘よ
り以來、代々鎌倉の御所に御身近く仕へ、夫より數十代續き來て、今爲景・景虎と
申候。旣に我等一家の流れ梶原平三景時は、是も鎌倉の權五郞景政より、代々
續き來る故か、右大將賴朝公富士の卷狩の時分も、梶原は御所の次、其次に武田
といふ事歷然たり。其の上八年以來は、上杉になり管領職を請取つて候と、謙信
申し越さる。信玄使者︀の口上を聞きて、卽ち返事に曰、梶原は賴朝の取立の被官
なり。武田は公方の御相伴なり。時に至りて出頭なれば、何樣の賤しき者︀も、君
邊へ近附く事、昔が今に至る迄珍しからず候。それが家の系圖にはなりがたき
儀なり。又管領職の事、上杉憲政侍の忠不忠も知らず、譜代・舊功・新參・本參の
穿鑿もなく、民百姓の困窮も知らず、むたと所領を取り{{仮題|編注=1|せたげ}}、物ごと逆に執行
ふ。人罰を以て天道に放たれ、氏康に負けて、嫡子龍若まで捨てゝ、越後へ逃入
る。名利の盡きたる管領を讓られて、景虎の管領と申さるゝは、一段若氣なり。
殊更信玄に慮外せられたりと、腹を立てらるゝ、是れ亦景虎無分別なり。信玄は
緩怠するとは努々思はず候。只有樣の會釋なれば、堪忍の二字を分別せられよと
の返事に附き、謙信大方ならず無興して、又取合を起し、五月より閏六月半迄、七十
餘日對陣なり。其の後は景虎退散故、信玄も七月十一日甲府へ歸陣なり。
傳に曰、右の如くにて無事調はずして後、謙信は川田山に陣を張り、信玄は高畑
山に陣を取つて、以上七十日餘對陣し、先手筑摩川を渡つて、折々一手切の攻合
あり。斯くて謙信より使を以て、兎角長陣詮なき事なり。勝負を付けられ候へ。
左あらば、其の方より川を越され候はんや。又此の方より越し申すべくやとの儀
なり。信玄返事に、合戰望みならば、明日其の方より川を越され候へとあつて、夜
中より前の渡に備を立て待ち給ふ。謙信も夜中に打立ち、彼の渡をば越さずし
{{仮題|頁=58}}
て、東道十五里下長沼村山の渡を打越し、山根の村々武田方へなりたるを、燒き
給ふといへども、武田の備堅固なるを見屆け、猶二十里ばかり押込み、小市の先ま
で燒立てさせ、早々引入り給ふとなり。右兩將和平の時、出合の地は牛島の渡り
四五町大室の方なりといへり。然れども此の川の流數十里なれば、兩將對陣の場
所知る人稀なり。
{{left/e}}
永祿二己未年謙信三十歲、三月十一日信州に出馬あつて、同廿一日に河中島へ着陣
し、之に旅陣を結んで、四月三日直に越中國に出張して、椎名・神︀保と和平せられ、
同六月九日に歸國なり。是は北條氏康を攻亡すべきが故なり。北條は大敵なり。
大敵前にあり。されば小敵を事とすべからずと思はるゝ故なり。同じき七月上旬
に、關東より間者︀歸り來て言上して曰、關八州の諸︀將大小となく、君の御馬を出され
んを相待ちて、氏康を退治すべしといへる由、風聞ありといふ。謙信之を聞いて、時
旣に至れり。來春は速に小田原表に發馬して、氏康を退治すべしといへり。折節︀
其の頃客星現ず。謙信、宇佐神︀良勝を召して、客星出現の奇怪を問へり。良勝答へ
て曰、凡そ客星の變氣は、出現の方角に就いて、其の吉凶を占へり。然るに今此星、
越國の方に出でゝ相州に當れり。是れ北條氏の凶事なりといふ。謙信聞きて曰、大
槪占家は我が吉をいふ事を好んで、凶をいふ事を惡めり。天時不{{レ}}如{{二}}地利{{一}}、且不{{レ}}如{{二}}
人和{{一}}と宣へり。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|越後軍記}}{{resize|150%|卷之六<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=越後軍記/巻之六}}
{{仮題|ここから=越後軍記/巻之七}}
{{仮題|頁=59}}
{{仮題|投錨=越後軍記|見出=大|節=e-7|副題=卷之七|錨}}
{{仮題|投錨=相州小田原攻<sup>附</sup>關八州の諸︀將相從ふ事<sup>幷</sup>鶴︀岡八幡宮社︀參の事|見出=中|節=e-7-1|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=謙信小田原を攻む|見出=傍|節=e-7-1-1|副題=|錨}}永祿三年庚申謙信卅一歲、三月中旬相州小田原表へ發向なり。軍兵八千餘騎雜兵是
に應ぜり。{{仮題|投錨=關八州の諸︀將謙信に從ふ|見出=傍|節=e-7-1-2|副題=|錨}}時に關八州の諸︀將、謙信の大量英機の勇德に畏れて、草の風に偃すが如
し。且つ八州の外に、管領憲政に志を通ずる諸︀邦の侍數輩、馳加はりける。是に依
つて、一箭をも發せず、一刃をも{{r|接|まじ}}へずして、謙信の旗下に屬する軍兵、凡そ八九萬
餘騎に及べり。斯くて先備、旣に相州大磯の邊に着陣すれば、後陣は藤澤・田村・大鏡・
八幡の間に支へたり。總大將謙信は高麗山の麓に、陣營を結び給ふ。先鋒一番備、太
田備中入道三樂は、小磯に陣せり。時に謙信常に所持の朱采配を捨てゝ、大根の折
懸じるしを操つて、諸︀陣に馳廻り、下知せられけるは、皆一同に鯨波を揚げて、先づ
敵の氣を奪ひ、而して後に、螺の音を聞きて進み驅くべしと、合を下せり。是に依つ
て、諸︀軍一同に鬨を作つて、旣に攻討たんとす。小田原の軍卒、此の勢を見て、一戰
にも及ばずして皆敗北す。先備の步卒等、弓・鐵炮を相交へ逃ぐるを追つて、小田原
の城下蓮池の邊迄、追討にしたりけり。此時謙信の武德勇猛なる事、四夷八荒に盈
ちて、日本國中の諸︀大將を以て戰ふとも、謙信一人の鋒先に、聊も當るべからずと
ぞ見えにける。其の後鎌倉山內に在住して、京都︀より近衞殿下の公達を迎へ下し
て、公方と稱し、之を仰ぎ、謙信は管領職にありて國柄を執り、非道橫惡の暴逆を糺
明して、中直の政道をぞ行ひける。
{{left/s|1em}}
傳に曰、北條氏康、謙信の出馬大軍の企を聞きて、永祿三年二月朔日に、甲府へ使
者︀を遣して曰、越後の謙信、去冬上野の平井へ罷出で、太田三樂が辯舌を以て、關
八州の諸︀大將を語らひ、悉く謙信の旗下に屬せしむるの由、聞え候に付、氏康も
古河の公方と申合せ候へども、更に止めず、實やらん、都︀より近衞殿を申下し、公
{{仮題|頁=60}}
方と名付け、氏康を亡さんと、計るの由に候。{{仮題|投錨=氏康、信玄に援を求む|見出=傍|節=e-7-1-3|副題=|錨}}此の儀實に募り申さば、公の加勢を
賴み入るの由なり。信玄、聞いて如何にも心得申すとの返事なり。同二月十三
日に、又使札を以つて、謙信近日小田原表へ攻入り申す由に候。兼ねて御約束申
す通り、彌〻御加勢下され候はゞ、千萬忝く存ずべく候となり。是に依つて、甲
府より足輕大將初鹿源五郞、竝に靑沼助兵衞を加勢として、小田原へ來れり。初
鹿源五郞、其の年廿七歲なりといへども、十六歲より武邊度々の譽ありて、感狀六
つ迄取つたる、弓箭に一入かしこければ、步足輕三十人の大將なり。靑沼助兵衞
も馬乘り十六騎・步足輕三十人持ちたる大將なり。扨謙信は、關八州の總大將、大
小合せて七十六備、此の人數九萬六千人、謙信譜代衆一萬七千と、都︀合十一萬三千
の着到にて、氏康の居城へ押詰め、先手の備は大磯・小磯に屯し、後備・脇備は藤澤・
八幡、或は田村・大上・厚木なんどといふ所に、旅陣を張り、尺寸の地も軍兵ならず
といふ事なし。謙信は古今に稀なる强將にてありければ、先備の次に何時も陣し
給ふ。故に此の度も、高麗寺山の麓、山下といふ所に陣を居ゑ給ふ。一番の先鋒太
田三樂陣所小磯より、旗本の陣場山下まで、僅十八町あり。此の時謙信の威勢、關
東はいふに及ばず、奧北國・海︀道七箇國までも須臾に聞え、謙信の武勇、實に日本
に雙ぶ方なき譽と、上下共に讚めざるはなかりけり。武田信玄は、北條氏康の爲
に、永祿三年二月十八日に甲府を立つて、信州と上野の境、笛吹峠の此方に出張
せられけり。斯くて謙信は、同三月中旬に、小田原へ押詰め、旣に蓮池まで亂入り
しに、心も知らぬ關東士大將衆に、少も氣遣ひなく甲を脫ぎ、白き布の手巾を以
つて、{{r|柱包|かづらづゝみ}}といふのに頭を包み、朱采配を執つて、諸︀手へ乘入れと上知し給ふは、
人を、生きたる蟲ほどにも思ひ給はぬ謙信の形勢を見て、關東の大將等舌を振つ
て恐れけり。其の後謙信、鎌倉の鶴︀岡八幡宮へ社︀參ありし時、近衞殿を都︀より申
下し、公方に作立て、謙信は山の內より、大石・小幡・長尾・白倉四輩の侍大將を、手近
く召連れけり。中にも上野國鷹巢の城主小幡三河守に、太刀を持たせ、謙信管領
職となりて、東廿三箇國に威勢を振ふ。今肩を雙ぶる人更になし。斯の如くにて
は、往々都︀までも渴仰あつて、四海︀掌握に歸せんとぞいひあへる。其の仔細は、先
{{仮題|頁=61}}
づ歲は卅一にて血氣盛んなり。家は代々長尾氏にて、大國の越後一國を持來り、
近年は東上野を添へて知行し、殊に武勇の家なれば戰術に功ある家臣等、謙信を
もどく程なる千騎・二百騎の侍大將三十餘ありければ、謙信關東の管領になつて
諸︀將を隨へ、十萬騎の總大將たらば、三箇年の內には、日本の主將と仰がれ給ふ
べき事疑なし。天晴︀果報なる大將かなと、諸︀人思ひ居たる所に、社︀參の歸りに、忍
の城主成田下總守といふ五百騎の大將畏り居たりしが、他の衆中より頭{{r|些|ちと}}高き
とて、謙信大に嗔り、持ちたる扇にて、成田が顏を二つまで打ち給ふ。成田赤面し
て旅宿に戾り、熟々思ひけるは、我も五百騎の大將にて、{{r|地攻合|ぢぜりあひ}}の戰などには、千
騎の士を下知する身として、謙信、取立の士・足輕同意の仕方致す事、口惜しき次
第、無念といふも猶餘りありとて、謙信に暇乞なく居城に歸りける。上杉家に屬
せられし幕下の諸︀將、此の體を見て、悉く引拂つて退きしかば、謙信の手勢一萬七
千の人數さへ猥りになり、小荷駄を地の百姓にとられ、或は小者︀・中間を打殺︀し、大
に敗軍にて上野の平井まで、やう{{く}}引取り給ふ。流石の謙信なればこそ恙なか
りけり。平井に八日まで逗留あつて、鎌倉にて背きたる上杉家の諸︀將を、太田三
樂及び憲政公、就中近衞殿御取持にて、右の衆中過半謙信へ引付けられ、大方其
の才覺首尾調つて、則ち公方を供奉して、八月上旬に謙信越後へ歸陣なり。
{{left/e}}
同年四月十五日、謙信、鶴︀岡八幡宮に社︀參せらる。其時上杉憲政の老臣大石・白倉・長
尾因幡守・小幡等從仕し、八州の諸︀將を率ゐて神︀前に伺候す。越後譜代の士は皆甲
冑を帶して、辻小路を警固す。{{仮題|投錨=鶴︀岡八幡宮勸請|見出=傍|節=e-7-1-4|副題=|錨}}抑此の八幡宮と申し奉るは、後冷泉院の御宇、鎭守府
將軍兼伊豫守源朝臣賴義、敕を承はつて、安倍の貞任征伐の爲に、東國に下向ありし
時、懇祈︀の旨あつて、康平六年秋八月、密に石淸水の八幡宮を勸請し、宮所を鎌倉の
由井の鄕に建立あり。其の後賴義の長男陸奧守源朝臣義家修理を加へ、治承三年小
林の鄕に遷宮して、右大將源賴朝崇敬淺からず、平氏の凶惡を退治し、國衞垂跡の
惠は、近く軍士の勝利を施與し給ふ、有難︀かりし神︀慮なり。斯りける所に、如何は
したりけん、武州忍の城主成田下總守氏長、神︀前に於て警固の武士と口論せり。謙
信之を聞いて、大に怒つて我れ{{r|適|たま{{く}}}}諸︀方の積惡を鎭めて、社︀參せしむる所に狼籍の至
{{仮題|頁=62}}
り、其の罪甚だ輕からずと宣ふ。成田下總守{{仮題|分注=1|成田刑部少輔|氏國が長子なり}}大に畏れて虛病し、己が館︀
に歸りぬ。謙信之を誅せんと欲すと雖も、今度初めて八幡宮社︀參なるが故に、宥免︀
して罪せず。是に依つて、關東の諸︀將離散する者︀多かりける。謙信翌日上州平井に
歸つて、暫く逗留し本國に歸陣なり。
{{仮題|投錨=謙信上洛の事|見出=中|節=e-7-2|副題=|錨}}
永祿四年、謙信上洛せんと欲して、先づ二月上旬に、武田信玄へ使者︀を遣して曰、謙
信都︀へ上り、公方義輝公へ御禮申上候。但し某留主の內、此方の持分へ働き給はゞ、
上洛を思ひとゞまり申すべきなり。公方への儀私事にあらず候へば、信玄も公方
へ對し奉られ、我が留守へ働きなされざるは、本意なりとの口上なり。信玄聞き
て、尤も其方上洛の留主中は、持分の領地へ手遣ひ申すまじとの返事なり。謙信、
此の堅約し給ふ奧意は、堅約を以つて信玄を壓へ、太田三樂齋を小田原へ心易く働
かせ、北條氏康を鎭めん爲めの智謀なり。扨三月に至つて上洛備の人數定めあり。
先に五百二つ合せて千人、旗本三十六備、跡五百二つ合せて千、以上五千人率ゐて上
洛せられ、{{仮題|投錨=謙信、公方義輝に謁︀す|見出=傍|節=e-7-2-1|副題=|錨}}同六月廿八日京着し、七月七日に公方義輝公へ對謁︀す。奏者︀細川兵部大
輔源朝臣藤孝なり、獻上物御太刀一腰・{{仮題|分注=1|吉|光}}御馬一疋馬代金三十枚、母公慶壽院殿へ、
{{r|有明|いうめい}}の蠟燭五百挺・白絹三百端・白銀百枚、一乘院殿鹿苑院殿へ進物同前なり。公方上
意に、北條氏康退治の爲め粉骨を盡され、未だ其休暇の{{r|間|ひま}}あるまじくの所、早速の上
洛感悅の至淺からず。自今以後、關東の管領職にあつて、有道順理の政を施し、權柄
を執つて、非義邪欲の族を懲︀して、廉直の徳政を專と致すべしと、辱くも御諱の輝
の字を給はつて、管領上杉彈正少輔藤原朝臣輝虎と稱せられ、且つ網代の輿を免︀許
あり、竝に文の裏書御許しありければ、輝虎謹︀んで拜戴し奉つて曰、某、一生の中に
無道の國を攻め傾け、天下の諸︀侯をして京師に參觀させしめ、尊氏卿の御治世の如
く、四海︀七道悉く一統に、主將の掌握の中にあらしめんと欲す。是れ我が素懷な
りといへり。公方聞召され御感斜ならざりけり。當時亂世たるに依つて、早々御暇
を給はりけり。時に輝虎、細川兵部大輔藤孝朝臣を以つて、密々に言上せられける
{{仮題|頁=63}}
は、唯今三好修理大夫長慶が行跡を察するに、逆心の企ある事顯然たり。某、幸、上洛
せり。願はくは嚴命を蒙つて、速に三好長慶・同筑前守義賢・同左京大夫義繼・同彥次
郞長治等を討亡さんと云へり。公方聞召され、三好長慶一族等が逆意未だ露顯せ
ず。糺明の上發覺するに於ては、重ねて命ぜらるべしと宣へり。輝虎、今に災害{{r|發|おこ}}
らんと思ひしかども、强ひて言上せば、彼を讒するに似たる故に、重ねて諫め奉らず、
同月廿五日、北陸道を經て歸國し給へり。
{{left/s|1em}}
三好修理大夫源朝臣長慶は、新羅三郞義光の後胤三好長基入道海︀雲子、正五位上
筑前守修理大夫と號す。三好長輝入道希雲が孫なり。父長基入道泉州に於て、管
領細川晴︀元が爲めに殺︀害せらる。是に依つて、長慶阿波國より上り京都︀を攻む。
天文十八年三月、長慶が一族三好宗三と、長慶攝州の領地に付き靜論に及ぶ。管
領晴︀元、宗三を贔屓す。依つて長慶怒つて宗三を討たんと、攝州中島の居城を圍
み攻めけるに、宗三敗軍して攝州江波の城へ引退く。管領晴︀元は三宅の城に籠つ
て宗三に加勢す。江州佐々木義賢は、管領晴︀元に加勢の爲め、三萬餘騎を率ゐて
洛中に陣を取る。宗三是に力を得て、江波の城を出で江口に陣を張る。長慶事
ともせず、急に攻立てければ、忽ち戰ひ負け、宗三遂に討死す。長慶進んで三宅の
城を攻めけるに、晴︀元防ぎかね京へ逃げ上る。佐々木義賢も長慶が武威に恐れ、
江州へ歸陣す。將軍家も晴︀元と同じく、江州坂本へ落ち給ふ。長慶入洛して京中
を巡見し、其の身は攝州に歸つて、家臣松永彈正久秀を京都︀の留守居とす。同十
九年晴︀元、江州坂本の近邊に、城を構へて防戰の備をなす。同十一月長慶、攝州よ
り上洛し、軍勢を大津松本に進めて、晴︀元が家人を討破る。翌年七月晴︀元が家人、
相國寺を城に構へ居る。長慶押寄せて又討破る。斯の如く數度の軍に、長慶勝
利を得しかば、武威益〻高し。同廿一年正月、將軍義輝卿坂本より歸洛し給ふ。
細川晴︀元は剃髮して洛外に隱蟄す。時に長慶、前の管領細川高國が子氏綱を、取
立てゝ管領とす。明年義輝卿の仰に依つて、晴︀元赦免︀せられて歸京す。長慶之
を怒つて、攝州より二萬の軍勢を引率して入洛しければ、義輝も晴︀元も丹波へ落
行き、日數を經て和睦調ひ、義輝卿・晴︀元又歸京せり。永祿元年晴︀元、又長慶及び
{{仮題|頁=64}}
其臣松永彈正久秀と不快にして、義輝卿竝に晴︀元江州に沒落せられ、佐々木が軍
兵を借りて、程なく坂本より打立ち、京北の白河にして、松永と合戰に及びしが、又
和平の儀あつて義輝歸洛し給ふ。晴︀元をば長慶が方へ囚へて、攝州芥川に押籠め
置きけるが、年を經て病死す。斯くて長慶河州飯︀盛山に城を構へて居住し、畿內・
南海︀の武權を執る。永祿七年長慶が子義長、松永彈正久秀が爲めに、密に毒害せ
らる。故に長慶含弟{{r|十河一存|そがうかづまさ}}が子を養子として、左京大夫義繼と號す。其の後長
慶病死して、義繼家督を受く。是より松永久秀縱に逆威を振ひ、義繼を勸めて謀
叛を起さしめ、五月十九日松永久秀先手として、不意に御所へ押寄せ、火を放ち
しかば、防ぐに堪へで、將軍自殺︀し給ふ。其の後天下を奪はんとせしが、信長公の
爲めに滅亡す。同豐前守義賢は、三好入道希雲が子、法名實休と號す。三好長慶伯
父なり。泉州に於て、天文元年細川晴︀元が爲めに、父筑前守長基入道海︀雲討死す。
義賢入道實休も亦、永祿三年三月五日泉州に於て討死す。三好彥次郞は、三好義
長が孫河內守長治と號す。天文五年泉州の境に於て死す。右の如く、三好氏奧意
に逆心ありしを、輝虎未發に察して、公方へ諫め奉りけれども、許容ましまさずし
て、義輝公、三好氏が爲めに遂に自殺︀し給ふなり。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=謙信軍法評議の事|見出=中|節=e-7-3|副題=|錨}}
永祿四年辛酉輝虎三十二歲、正月十五日諸︀老臣を召して宣はく、吾れ多年信州表に
出陣すといへども、信玄我と戰はん事を欲せず。其の陣形を堅くして、唯守る事を
專用とし、更に變ずる事なし。如何してか彼と戰ひ勝利を得る事あらんや。例年の
如く、其の謀計を紙面に記して、日を追つて捧ぐべしとなり。群臣命を奉りて、皆退
出しけり。其の後、甲府に附置きける間者︀、歸つて言上して曰、信州先方の士の內
に、信玄に對して逆意を含める者︀あり。故に糺明せんと欲せられ、河中島に至つて、
露顯の輩、先づ悉く誅戮せられけり。是に依つて、先鋒の士等狐疑を生じ、或は罪
せられし者︀の一族、又は懇意なりつる傍輩等、二心を懷く者︀多くして、信州の中不
和なりと聞えり。加之去る六月、信玄和利が嶽に發向して、小城を攻むるに、多く
{{仮題|頁=65}}
士卒を亡し、力戰して漸く攻拔くの由、風聞ありと云へり。謙信聞き給ひて、翌日諸︀
臣を召して宣はく、三軍の禍︀は人の狐疑するに過ぎたるはなし。是れ一つなり。兵
法に曰、乘勞と云へり。是れ二つなり。急に信州表へ出馬すべし。諸︀臣の計策を記
し、呈進すべしと命ぜられけり。
{{left/s|1em}}
傳に曰、謙信上洛のあとにて、太田三樂齋、上杉憲政公を大將とし、前申の年、謙
信へ和談の諸︀將を語らひ、凡そ二萬の軍兵を以て、相州坂匂まで押寄する。安房
の里見・正木大膳は、北條方佐倉の城主千葉を押詰めける。又里見の家老板倉に、
正木左近差添ひて、相州金澤を乘捕る。或は武州の忍・川越へは、上野衆に越後衆
少々相副ひ押詰めける。是に依つて、北條氏康大に難︀儀に及び、今川氏眞を以つ
て、武田信玄へ賴み越さるゝは、信玄、此節︀越後表へ働き給はれとなり。然といへ
ども、謙信と旁の約束を、今更變じがたしとありて、二度までは承引なかりけり。
三度目にわりなく賴み給ふにより、此の上は是非に及ばずといつて、先立つて
武藤甚右衞門を高坂方へ差遣し、陣觸をなさしめ、信玄も三月十七日に、河中島
へ出馬にて、國境まで打つて出で、夫より高坂に命じて、越後太田切まで手遣ひあ
り。其の後、信州先方に、仁科・海︀野・高坂三人成敗し、{{仮題|分注=1|此の高坂に、春日彈正に|名字をくれたる高坂なり、}}六月信州
和利が嶽の城を攻落し、近邊巡見して河中島に在陣なり。是に依つて、方々の上
杉方悉く退散して、小田原堅固なり。北條父子喜悅斜ならずとぞ聞えし。
{{left/e}}
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|越後軍記}}{{resize|150%|卷之七<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=越後軍記/巻之七}}
{{仮題|ここから=越後軍記/巻之八}}
{{仮題|頁=66}}
{{仮題|投錨=越後軍記|見出=大|節=e-8|副題=卷之八|錨}}
{{仮題|投錨=河中島合戰<sup>幷</sup>軍法決談の事|見出=中|節=e-8-1|副題=|錨}}
斯くて越後の老臣等、軍法の計策を差上げける。謙信披覽あつて、宇佐神︀良勝に命
じて、策の上・中・下を分たしむ。其の後、謙信三等の軍策を見て、此の度は、吾れ下等
の計を用ひん。其の故は、上等の策は、信玄旣に知つて設けて待つ所なり。其の知
つて相待つに出合せば、豈何ぞ勝利を得んや。中等の策は年々の手段なり。下等の
策は信玄が不意に當つて、萬死一生の合戰なり。今我れ之を用ひて勝負を決せん
のみ。然れば則ち、先づ高坂彈正が在住しける海︀津の城を蹈越えて、西條山に陣
を張り、城を圍むが如くにして之を攻めず、信玄が後詰を待つべし。深く敵地に攻
入る事なれば、縱ひ我が軍敗亂に及ぶといへども、散走すべからず。又越後へ引取
るとも、敗北と思ふべからず。兵法に曰、歸師勿遏といへり。又信玄、西條山へ寄
來りて攻むるに於ては、彼が陣形常々の守を失ふべし。其の時、我れ無二の一戰を
遂げて、勝負を決すべし。又は信玄、海︀津の城へ入りなば、我れ急に攻詰め、力戰し
て、無二に討入り乘取るべし。或は信玄河中島に陣を張り、越後の通路を遮る時は、
我れ雨の宮の渡を越さずして、直に西條山より海︀津の城へ取懸け、一時攻にして是
非城へ乘入り、信玄が寄來たるを相待つて、勝負を決せん。兎角此の度の行は、信玄
我れと一戰を遂ぐる樣にとのみ。是れ吾願なりと宣ひて、八月下旬に、西條山に陣
を取り給ふ。是に依つて、信州河中島より飛脚を遣し、謙信、海︀津の向ひなる妻女
山に陣を取つて候なり。是非に海︀津の城を攻落さんとあつて、其の勢一萬三千計
なりと、吿げければ、信玄後詰として、同月十八日に甲府を立つて、同廿四日に河
中島に着陣し、{{仮題|投錨=河中島の合戰|見出=傍|節=e-8-1-1|副題=|錨}}謙信の陣所妻女山の此方、雨の宮の渡を取切り、陣を取つて、越後
の通路を塞ぎ止められける。越後の軍兵は、喩へば袋へ入れて口を縮めたるが如
くなる樣に思ひて、愁ふるといへども、大將謙信は、少しも驚きたる氣色もなく、六
{{仮題|頁=67}}
日對陣なり。時に信玄、廿九日に廣瀨の渡を渉つて、海︀津の城へ入られける。謙
信此の體を見て、九月九日の晩景に及んで、諸︀將を召して曰、信玄は明日必ず一戰
を遂げんと欲すと見えたり。今夜子の刻以前に、雨の宮の渡を越えて、河中島に陣
を取つて、信玄が諸︀軍勢妻女山へ馳向ふを見て、脇より速に信玄が旗本へ突︀き懸り、
其の不意を討つべし。諸︀卒潜に押渡り、敵に覺られざるやうに計らふべしと、命
ぜられしかば、宇佐神︀良勝承はつて下知して曰、早く熟食を調へて、各陣屋の火を
減じ捨て、篝火を殘し、人々に枚を啣ませ{{仮題|入力者注=[#「啣」は底本では「口+缷」(U+2F844)]}}、{{r|言|ものいは}}せずして{{r|寂々|しづ{{く}}}}と、子の上刻より繰出し、
子の下刻に河中島に到着す。雜兵に至るまで、其の下知を守つて靜まりつゝ、轡の
鳴るにまで氣を付け、一人も殘らず來着す。則ち寅の時に至つて備を立つ。戰兵
八千餘騎、前備の大將は柹崎和泉守二千餘騎七手組、次は總大將謙信一千餘騎五手
組、內近習衆四百餘騎、後備の大將は甘糟近江守二千五百餘騎六手組、直江山城守一
千五百餘騎八手組、次は小荷駄奉行雜兵駄馬なり。備を立替へて、{{r|一手限|ひとてぎり}}の陣法に
て、明くれば九月十日{{仮題|分注=1|或は九日とある|書もあり、誤れり}}卯の上刻に、謙信察し給ふ如く、信玄海︀津の城を
出で、筑摩川の邊に陣を取り、善光寺の道筋を遮り、越後の往還を塞げり。然るに
謙信の諸︀軍勢不意に出で、信玄の旗本へ懸りける。信玄の先鋒は、猶西條山に懸つ
て之を知らず。時に日出霧晴︀るれば、謙信忽然として、信玄の近邊に軍列を備へて、
徐々と進めり。信玄の旗本、之を見て驚きあへり。信玄、浦野といふ弓箭功者︀の士
に命じて{{r|候|うかゞ}}はしむ。浦野急ぎ看得して立歸り、馬前に跪いて曰、謙信は退き候なり
と、信玄流石の名將なりければ、頓て察し。謙信程の者︀が宵より川を越して、其所に
て夜を明し、何とて空しく引取るべくや、其の退きやうは如何にと問ひ給ふ。浦野
答へて、謙信我が味方の備を廻りてたてきり、幾度も此の如く候て、犀川の方へ赴
き候といふ。{{仮題|投錨=車懸の軍法|見出=傍|節=e-8-1-2|副題=|錨}}信玄聞きて鳴呼浦野とも覺えぬ事を申す者︀かな。それは車懸といつ
て、幾まはり目に旗本と、敵の旗本と打合ひて一戰する時の軍法なり。謙信は今日
を限りと見えたりとあつて、急に備を立て直し、旣に兩陣の先備進みける。互に勝
劣を爭ひ力戰す。時に謙信、大根の折懸印を伏せて、竊に脇路より信玄の旗本へ驅
入り、敵將義信が旗本五十騎雜兵四百餘の備を追散し、信玄の旗本へ無二無三に切
{{仮題|頁=68}}
つて懸り、敵味方三千六七百の人數入り亂れ、突︀いつ突︀かれつ、切っつ切られつ、互
に具足の綿嚙を取合ひ、組んで落つるもあり。頸を取つて立上れば、其の頸は我が
主なり。遁すまじと名乘つて、鎗を以つて突︀き伏せるを見ては、又其の者︀を切倒
し、主を助くる間もなく、親の討たるゝも知らず、苦戰しける所に、信玄牀机に腰
を懇け、下知して居られけるを、謙信馬上なれば見付け給ひ、一文字に乘寄せ三刀
切る。信玄は牀机より立つて、軍配團扇にて受けながしける所へ、大剛の兵二十騎
ばかり驅けふさがり、敵味方の知らざる樣に、信玄を引包み、近付く者︀を切拂ふ。
其の中に原大隅といふ信玄の中間頭、靑貝の柄の持鎗を以つて、信玄に切付けたる
月毛の馬に乘り、萠黃の段子の胴肩衣着たる武者︀を突︀き外しければ、具足の綿嚙か
けて打付けけり。馬のさんづをしたゝかに打つ。打たれて馬驚き立つて驅出しけ
り。胴肩衣に白き手拭にて、頭を包みたる武者︀は、謙信なりとぞ。後に見れば、信玄
の團扇に、八刀きず跡ありとかや。謙信斯くの如く烈しき軍し、左右七八町の間を
突︀崩し、究竟の士大將を數多討取り給ふ所に、西條山へ向ひし甲州先手の諸︀將、旗本
に軍ありと、聞きて引返し、追々に馳加はりける。是に依つて、甲州勢、力を得て、信
玄の旗本暫く蹈止まれり。此の戰、謙信豫めより計り給ふ如く、信玄に會して、一度
太刀打し、勝負を決し馳通るべしとの軍術なり。故に甘糟近江守が備を以つて、大
將の本陣と定め、謙信は後陣を先陣となして、敵の不意を討つの兵術なり。合戰以
後謙信、味方の諸︀將に語つて曰、敵の旗本の內に、笠の如くなる甲を着、手に團扇を持
ち、牀机に踞する武者︀あり。是れ信玄ならんと驅寄せて、馬上より三刀つゞけて打
ちければ、牀机より立上らんとする所を、又二刀續け打ちし時、笠の甲の端に當つて
牀机の上に落つる。其時我が乘りたる馬、太刀音に驚いて驅出でたり。時に後を顧
れば、信玄が旗本の勢、味方の甘糟近江守・直江山城守が備に向つて入亂れて相戰ひ、
廣瀨川へ引退きけり。後に彼の牀机に居たる武者︀を問へば、其れ信玄なりと云へり。
實に運つよき武將かな。其の時、鎗を持ちたらば、只一突︀に打果すべきに、馬上よ
り太刀にて打ちたる故、思ふ儘ならざりき。初めは甲州勢、越後路の通路を塞いで、
味方を討取らんと謀りしかども、却つて甲州の老臣・武功の名士九の頭悉く敗軍し、
{{仮題|頁=69}}
筑摩廣瀨の渡まで追懸け、追打に過半討取り、太郞義信を打退け、典厩の備に稠し
く亂入り突︀崩し、忽ち典旣を討取る。諸︀住豐後守、敵の旗本足輕大將山本勘介入道
道鬼・初鹿源五郞を討取る。其外或は討たれ、或は痛手を負ひ敗走す、信玄も腕に
二箇所、太郞義信も二箇所疵を蒙り、此の軍甲州の負けといへり。されども信玄は、
始め牀机を立てたる場を、少しも退かず、是程の大崩に、其場所に居られしは流石の
名將なればこそと、敵ながらも感じける。味方は名高き士一人も討たれず。唯途に
迷へる雜兵共少々討たれたる計なり。此の時、甘糟近江守、西川の邊に三日陣を張
つて、雜卒を集め勢を揃へて歸る。謙信も三日善光寺に逗留あつて、使者︀を信玄へ
遣して曰、今度の合戰に於ては、有無の勝負を決せんと欲する所に、其志を果さず。
是に依つて、此の地に在陣して、本國に歸らず、近日再會して一戰を決せんとなり。
信玄返答に曰、先づ今度は互に引去つて、軍士の勞を休め、明年に及んで對陣すべ
しと云へり。斯くて謙信は善光寺にあつて、卽ち戰士の軍功を論じ、時刻過さず功
狀賞祿を與へられ、靜に歸國し給ひけり。
{{left/s|1em}}
傳に曰、當春謙信上洛の前、信玄へ使者︀を以つて、留守の間、甲州より働き給は
ざるに於ては、京都︀公方の御機嫌伺の爲め、上洛致すべしと存候。然れども斷を
承引之なくば、上洛を思ひ止まるべしと、是に依つて、信玄返事に、働くまじと
云へり。然るに堅約を變じ、高坂が方へ武藤甚右衞門を遣し、先立つて陣觸をさ
せ、信玄も三月中旬に河中島へ出馬し、國境まで打出で、夫より高坂彈正に命じ、
越後の太田切まで手遣させ、殊に和利が嶽を攻落すなど、旁以つて、謙信怒つて
京都︀より下着せば、人馬の足を休め、定めて此度は、有無の合戰と究め出馬すべ
しとありて、備の試み軍法評議の上、八月中旬より出陣あり。同十四日に、海︀津を
巡見し直に押通り、妻女山へ押登り陣取り給ひ、如何樣にも、謙信無二の働きすべ
しと思慮あつて、孫子の旌と名附けつゝ、孫子の四句を書きたる小馬印を持たせ、
謙信出馬の註進、八月十六日河中島よりの一左右に依つて、同十八日卯の刻に、
甲府を發馬にて、小室通りより上田へ着き、越後勢の樣子を彌〻聞合せ、夫より
浦野へ押出し、廿四日に猿が馬場の北{{r|茶磨|ちやうす}}山へ押上り、二里計ありし雨の宮の渡
{{仮題|頁=70}}
を、目の下に見下して陣を取り、備の位を見せしめ、又は敵の情を窺ひ察し、海︀
津へ入りて、朔日より九日まで對陣し、敵を討つべき軍議の外他事なし。然るに
謙信名將なりければ、海︀津の人氣を見て、甲州戰兵の働を察して、不意に攻詰め合
戰すべき軍策をなし給ふ。斯くて信玄は山本勘介に命じて曰、馬場民部と兩人軍
談して、明日の合戰備を定めよといへり。時に山本畏つて申しけるは、味方二萬
の人數を一萬二千、謙信の陣所妻女山へ押懸け、明日卯の刻に合戰を始め、越後勢
勝つても負けても、川を越し退き候はん。其の時、御旗本組二の勢兵を以て、跡先
より押はさみて討取り申す樣にと、決談し備定り、妻女山へ馳向ふ諸︀將は、高坂彈
正・飯︀富兵部・馬場民部・小山田備中・甘利左衞門・眞田一德齋・相木・葦田・下野郡內小
山田彌三郞・小幡尾張守、此十頭なり。旗本組の諸︀將は、中備へ飯︀富三郞兵衞、左は
典厩・穴山、右は內藤修理・諸︀住豐後、旗本の脇備、左は原隼人佐・逍遙軒、右は太郞
義信・望月、{{仮題|分注=1|義信の|右なり}}旗本の後備は、跡部大炊・今福︀善九郞・淺利式部、以上十二備にて、旗
本共に都︀合八千なり。其夜七寅の刻に打立ち、廣瀨を越して備を立て、敵の退く
を見て、一戰を始めよとの軍法なれば、先手旗本の戰士兵糧のしたゝめせる人氣
を、妻女山に於て謙信見給ひ、老臣・諸︀大將・物頭殘らず召寄せて曰、十五年以前
より信玄と合戰を始めたり。其の年信玄二十七歲、我れ十八歲の時より、數度の
取合に、信玄が備へ違ふ事なくして、終には信玄に軍場を取られ、皆是れ後れの樣
なり。明日は是非の合戰と覺えたり。然るに今度、敵の武略には、人數を二手に
分け、此の陣場へ押懸けて戰を始め、我が旗本川を越し、引退く所を、半分の人數
を以つて討取るべしとの軍議は、鏡に寫つる如くに見えたり。然れば某も、其
の上の手を計つて、今宵潜に川を打渡り、其所にて夜をあかし、日出でば卽時に、懸
つて合戰を始め、敵の先手引返さゞる前に、武田勢を切崩し、信玄旗本と我旗本と
合戰を始め、互に入亂れ戰の最中に、橫合に懸つて、信玄と組んで落ち、刺違ふるか
首尾により無事にするか何れに明日は、二つに一つの合戰なりといつて、重代の
物具・名劒を{{r|帶|は}}いて、九月九日亥の刻の末に、妻女山を打立つて、雨の宮の渡を越
し、向へ陣を移さるゝに、一萬三千の人數なりといへども、音もせざるは、軍勢一人
{{仮題|頁=71}}
に三人前の食事を調へさせ置きたる軍策故に、人馬のはみ物を調へざれば、火を
燒く色見えず、殊更其の曉天霧深うして、武田の斥候知る事なし。加之。地形の樣
子見切りにくき所なり。妻女山といふは、北西向東の方は急なりと雖も、人數自
由に登り安く、峠に細道あつて、越後の軍勢晝夜廻り番しげくして、斥候近付き
がたければ、信玄の先手一萬餘の戰兵寅の刻に妻女山へ向けられ、旗本も八千の
人數同時に廣瀨の渡を越し、十四五町押出し、備を定むる時に至つて、川端に附置
きし斥候の士、一里餘の跡を馳來て吿げければ、早や寅の下刻なりけり。素より
敵千變萬化ありといふとも、皆山本勘介が積りの內を出でざれば、由〔{{仮題|分注=1|山|カ}}〕本乘廻
つて、彌〻備々の法を定むる所に、其次の物見室賀大和入道が詞に依つて、猶々敵
の備を悟り、信繁・穴山信連諫言を入れ、勝軍等の旌を義信の馬前に立て、信玄の前
には孫子の旗一流立つるなり。打込の合戰大事の時、良將必ず用ふる祕法なり。
是は旌を入替ふるといふなり。謙信は强將なりしかば、對揚の人數の時だに危き
合戰なるに、此の度は味方八千に、謙信一萬三千の勢兵なりと聞ゆれば、縱ひ軍
に勝つといふとも、討死數多之れあるべしと、思はぬ者︀は無かりけり。旣に卯の下
刻に、謙信の先備一手切に合戰を始む。信玄の先手內藤・山縣渡合ひ、火花を散し
て相戰ふ。村上・須田・安田三備合せて二千の人數を以て、八百の人數にて備へ居
られし典厩の陣へ、無體に打つて蒐り、切れども突︀けども事ともせず乘入れ乘入
れ懸りければ、典厩を始めとして一足も退かず、苦戰して討死を遂げたり。典厩
の從卒、主の討死を見て過半義死せり。扨二の備の謙信は、武田の旗本の右備に、
信玄の旗見えければ、無二無三に斬崩し、太郞義信と大刀打し、{{仮題|分注=1|此時義信手|疵を負ふ、}}信玄にて
之なしと思ひつゝ、取つて返し、信玄の備へ打つて懸り、旣に信玄に切懸り三刀ま
で切り給ふといへども、終に恙なくして討たれ給はず、謙信の馬驚いて退かれけ
る。信玄の腕に薄手二箇所負ひ危き働なり。最も信玄の持鎗奉行今福︀・安西等、能
く鎗を配つて守護す。其の外目附・使番の二十人衆、持鑓を取つて防ぎける。就中
土屋平八・眞田源五・曾根孫次郞・加藤彌五郞・三枝善八等の小姓、手鎗をおつ取り
て働きけり。殊に隱居の老臣七八人、一樣の出立にて、色々の紋盡の羽︀織に腰差
{{仮題|頁=72}}
の軍配團を拔き、皆手々に持ち、信玄と共に牀机に腰を懸け竝び居られ、信玄も緋
緘の鎧白地に、金銀の桐の紋わり菱繁く付けたる羽︀織に、皆鎻の上へ白綾のかづ
ら包みなれば、七八人一樣にて、何れを信玄と見分けがたかりき。是に依つて、謙
信も卒爾の働きならざりける。信玄とだに知りたらば、飛び懸つて刺違へんもの
をといはれける。其の內に謙信の馬、太刀音に驚き走り出で、落馬し給ひ、乘替に
乘り、廣瀨の渡際にて、又義信と大刀打あり。夫より右へ川に付きて、乘行き給ひ
し時は、三騎にて牛島の渡を乘越し、高梨へかゝり退き給ふ。甲州の臣釣閑齋、放
生月毛を拾ふ事、此時なりとかや。{{仮題|分注=1|謙信の名|馬なり。}}
{{left/e}}
{{仮題|投錨=河中島合戰勝負評論の事|見出=中|節=e-8-2|副題=|錨}}
信州河中島の軍、古より評論ある事なり。武田方には信玄の勝といひ、上杉方には
謙信の勝と云ふ。{{仮題|投錨=河中島戰の評論|見出=傍|節=e-8-2-1|副題=|錨}}先づ信玄勝つといふは、謙信は戰場を引去り、和田喜兵衞といふ
者︀、彼是主從三騎にて、高梨山に懸つて、越後へ敗北なりと沙汰せり。信玄は戰地を
去らず、場をふまへたるは是れ勝ちなり。昔日源九郞義經、平家と對陣し、合戰の時、
矢島に於て、僅に七騎になりしに、戰場を去らず、日暮れて{{r|雲|かゞり}}火を燒きて夜を明す。
平家は二百餘騎にて、其の場を去り、船に取乘り引きければ、軍は源氏の勝と稱す。
古今負軍に戰場をふまゆる事、之れなき故に勝なりといへり。加之越後の軍勢を
雜兵共に討取り、其の數三千百十七の頸帳を以つて、其の日申の刻に、勝鬨を執行ひ
軍神︀に獻ず。第一堅固の地を見立て、前後へ備を配り、物見・遠見を段々にかけ、敵
方を能く見切つて幕打廻し、大將牀机に座し、團扇か采配を持つて、天地の妙體にな
りて、頸を見給ふ軍禮なり。此の時太刀をば馬場民部、弓箭をば信州先方の侍室賀
持つなり。其の外規式法の如し。頸實檢の法式、一々第三の卷に、祕事委細記す。
故に爰に略す。此の外甲州方のいへらく、勝の證據には、信玄此の合戰前に、信州
伊奈の成就院と云ふ祈︀願寺へ、此の合戰勝利の祈︀念を賴み給ふ。是に依つて、此の
合戰の次の月十月の末に、成就院より信玄へ使僧︀あり。仍つて信玄、其の返書を遣
されける。本書所持の人あり。則ち書寫して左に記す。{{nop}}
{{仮題|頁=73}}
{{left/s|1em}}
追而有{{二}}立願之旨{{一}}、黃金三兩別而令{{二}}奉納{{一}}候。
如{{二}}恒例{{一}}預{{二}}使僧︀{{一}}候。殊本尊像卷數・扇子・松原等、幷綾一端送給候。祝︀着に候。仍
今度越後衆至{{二}}于信州{{一}}出張之處、乘向遂{{二}}一戰{{一}}得{{二}}勝利{{一}}、敵三千餘人討捕候。誠衆怨
悉退散眼前に候歟。仍當年奉{{二}}寄附{{一}}伊奈郡面木鄕御入部珍重候。此外萬疋之地、
只今雖{{下}}可{{二}}渡進{{一}}候{{上}}、于{{レ}}今市川・野尻兩城殘黨楯籠樣に候。定雪消者︀、可{{レ}}致{{二}}退散{{一}}候
歟。其砌名所書立、態可{{二}}進入{{一}}候。恐々謹︀言。
十月晦日 信玄<sup>黑書</sup>
成就院
{{left/e}}
又上杉方に勝といふは、信玄は魚鱗に備へて、中・左・右三備、次に旗本の先備、信玄の
左右に脇備あり。都︀合六備なりしを悉く切崩し、信玄の旗本へ討入りたるは大に
勝なり。加之信玄に打つてかゝり、手疵を負はせ、太郞義信と太刀打し、是も亦手を
負はせ、其の外典厩を討捕り、及び武田の諸︀臣歷々を多く討ちけり。就中天下に
隱れなき山本勘介といふ武功の名臣討死したるが負の證據なり。昔より軍配者︀の
{{r|立派|たては}}に、軍負なる時は、討死するが法なり。永祿十二年、筑前國にて大友義統と毛利
元就、立花に於て相戰ふ。時に大友敗軍す。其の軍配士那須野軍兵衞、取つて返し
一騎討死せり。謙信は一備も敗られず。其の上武田勢敗軍を追討に、五千人餘討取
りける。凡そ勝軍に、大將討死なきものなり。然れば全く謙信の勝なり。謙信戰場
を去つて、高梨山に懸るは、勝ちて甲の緖を{{r|縮|し}}むるといへる譬の心なり。家臣松本
大學佐へ贈︀られける感狀に曰、
{{left/s|1em}}
去十日於{{二}}信州河中島{{一}}、武田晴︀信遂{{二}}一戰{{一}}之刻、粉骨無{{二}}比類︀{{一}}候。殊親類︀被官等牛飼︀
者︀、數多爲{{レ}}勵{{レ}}働數千騎討捕得{{二}}大利{{一}}畢。年來達{{二}}本望{{一}}、是亦名譽之至、此忠節︀輝虎世
世中不{{レ}}可{{二}}忘却{{一}}。彌〻相{{二}}嗜忠信{{一}}事簡要候。謹︀言。
九月十三日 輝虎<sup>書判</sup>
松本大學佐殿
去月信州河中島合戰之砌、敵方板垣三郞一千餘手痛相働候處、長尾修理亮其方、
以{{二}}兩備{{一}}卽時斬崩悉討{{二}}捕之{{一}}、誠抽{{二}}諸︀手{{一}}拔群之軍功不{{レ}}淺者︀也。彌〻不{{レ}}忘{{二}}忠義{{一}}可
{{仮題|頁=74}}
{{レ}}勵{{二}}功名{{一}}狀、仍如{{レ}}件。
永祿辛酉十一月二日 輝虎<sup>書判</sup>
靑河十郞殿
{{left/e}}
右感狀の本書、所持の方之あるに依つて、證據の爲め之を記す。此の外數通之れあ
るべし。此の感狀を以つて、辨察する時は、全く上杉家の勝なり。然りと雖も、前に
記する信玄の返書を{{r|閱|み}}る時は、又武田家の勝なり。故に太閤秀吉公、此の勝負を評
して曰、卯の刻より辰の下刻までは謙信勝ち、巳の刻よりは信玄勝なり。然れば雙
方に勝負共にあり。始終を評論せば、畢竟互角の合戰といふものなりと宣ふ書あ
り。宜なるかな。世上流布の書には之なきなり。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|越後軍記}}{{resize|150%|卷之八<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=越後軍記/巻之八}}
{{仮題|ここから=越後軍記/巻之九}}
{{仮題|頁=74}}
{{仮題|投錨=越後軍記|見出=大|節=e-9|副題=卷之九|錨}}
{{仮題|投錨=謙信松山へ後詰<sup>幷</sup>山根城攻取る事|見出=中|節=e-9-1|副題=|錨}}
斯くて河中島より歸國の後、同年十月、謙信近習の勇士四百五十騎引具して、信州
越後の境に出馬し、路を作らせ橋など修理を加へ、田畠耕作等の仕置あつて、歸城し
給ふ。翌永祿五年壬戌の三月上旬に、太田三樂支配の城主、上杉憲政の庶子上杉憲
勝、{{仮題|分注=1|後友貞|と改む、}}武州松山の城を守りし所に、{{仮題|投錨=北條上杉合戰|見出=傍|節=e-9-1-1|副題=|錨}}北條氏康・氏政父子、之を攻取らんといつて、
同年正月上旬に、相州小田原より甲州武田信玄へ使者︀を以つて曰、當春松山の城を
攻討たんと欲するの所に、太田三樂定めて後詰すべし。夫に就いて、上杉謙信を
賴み候はゞ、大軍たるべく候條、信玄公御出馬を仰ぎ奉ると、餘儀なく賴み越さる
るに依つて、信玄是非なく、同年二月廿八日に、甲府を發馬せられける。北條父子
{{仮題|頁=75}}
大に喜んで、三月上旬に武田・北條兩家の勢、都︀合四萬六千餘騎にて、武州松山の城
を七重八疊に打圍み、晝夜の際もなく攻動かす。是に依つて、太田三樂齋後詰も
叶はず、急ぎ越後へ飛札を以つて、右の趣註進し、援兵を乞ひけり。謙信之を聞き
て、則ち軍兵八千餘騎を引率し、越後を打立ち、上野國厩橋に着陣せられける所に、
松山の城、謙信の發馬二日以前に、城を開いて去る。謙信大に怒つて、太田備中入
道三樂を召寄せ、甚だ責めて、旣に手打にもすべき氣色にて、刀の柄に手を懸け、斯く
某を後詰とありて呼出し、斯程に臆病なる士に、城を預け置き、謙信に恥辱を蒙ら
せんとの事ならば、只今其の方を打果し候はんと、大の眼に角を立て礑と睨んで申
されしは、身の毛もよだつばかりなり。三樂も兼て斯くあるべしと覺悟して、憲勝
が子同弟二人を引出し、是等を人質に取置き候。其の上に城に籠置く人數・兵糧・玉
藥・弓箭・鐵炮・新まで、悉く書き記し差上げて曰、憲勝儀、不甲斐なき怯弱の者︀と存
ぜずして、城代と致せし事、偏に是れ某が過にてこそ候へと、謹︀んで恐謝せられけ
る。時に謙信、兩人の人質の頭の髮を、左の手にて一つに握り引寄せ、右の手に刀
を拔き、けさがけに切つて、二人を四つに討ちはなし捨て、三樂も旣に{{r|危|あぶな}}く見えし
が、少時あつて問うて曰、北條氏康が支配の山の根の城へは、是より行程何里あり
や、三樂對へて曰、一日に往還仕る地にて候といへり。其の時謙信、機嫌をなほし
盃を出し、一つひかへて三樂を呼出し、盃をさして向後中を直り候といつて、是よ
り直に山の根の城を攻取るべし。扨今度氏康と信玄が戰兵何程かある。兩旗なら
ば、凡そ五萬か四萬はあるべしといへり。三樂承つて曰、氏康・氏政父子信玄も嫡
子太郞義信を相具し、大將と見えし分、五人か六人にて大軍に候と申上げらる。謙
信嘲笑つて曰、信玄・氏康はさもあれ。二人の子共づれは、義信にもせよ、氏政とて
も、謙信が刀のむねうちにし、一刀にも足らぬ輩なり。內々某が覺悟には、大軍に味
方も多勢にて、合戰しては勝つて、さのみ手柄になりがたし。負けても恥ならず。
是に依りて、此度も人數を殘し、僅か八千ばかり引率せりといひて、則ち刀根川二本
木の渡を越し、船橋に至つて、先づ使者︀を以つて、北條・武田の兩將へいひ遣されし
は、今度松山の後詰の爲め出馬致す所に、未だ厩橋に至らざる以前、兩旗の大軍を以
{{仮題|頁=76}}
て攻圍まれ、憲勝叶はず落城せしめ、殘念の至心外に候。然れば落城の以後、厩橋へ
着陣いたす事、後れたる後詰と思召さるべしと、面目なく候。去乍ら謙信、是まで
出馬いたし、空しく退かん事、氏康公・信玄公に對し、却つて武道の慮外に相似たり。
然れば是より明日、氏康公の領分山の根の城を攻崩し、今度の殘心を散ぜんと欲
す。無用と思召さば、北條・武田兩家として妨げられ候へ。其の時城を{{r|卷解|まきほ}}ぐして
駈向ひ、謙信有無の勝負を決すべし。恐らくは、北條・武田の大軍を以ても、支へ留
められん事、思も寄らずと、{{r|惡體|にくてい}}なる口上にて、明卯の刻に罷立つと、使者︀に命じて、
翌朝に刀根川二本木の船橋を渡り、橋の綱を悉く斬流して渡を{{r|斷|たや}}し、氏康・信玄陣所の
の前を近く蹈越えて、山の根の城へ猛虎の山を𦐂けるが如く、堂々と押詰めけり。
船橋を斬流せしは、韓信が背水の術計に相同じ。{{仮題|投錨=謙信の軍術|見出=傍|節=e-9-1-2|副題=|錨}}謙信は天性武道に賢き性質なる
に、少年より軍道に心を寄せ、和漢︀の軍書に眼を晒し、殊には上杉の家臣、竹內宿禰
の苗流宇佐神︀駿河守良勝に因んで、元朝傳來の軍術を授り、千變萬化の兵術を練︀磨
し、近くは吾が朝河內の中將楠先生正成の軍配を尋ね探り、凡そ兵道に於ては、摩利
支尊天の再誕ならん。斯くて山の根の城下へ着陣し、此時の軍大將荻田主馬丞を
召して曰、此の城攻は、先陣・後陣一同に攻登り、一刻に乘取るべし。少しも猶豫
する事なかれ。主馬丞承つて諸︀卒に下知して、四方八面より押寄せ、射れども打て
ども事ともせず、討たれて倒るゝ者︀を足傳にして、一枚楯を脇にはさんで、逆茂木を
引き退け{{く}}、晝夜の差別もなく、曳々聲を出し攻上る。其の聲天に響︀き地を震
つて夥しく、九天も碎けて地に落ち、坤軸は裂けて海︀となり、只今天地滅却せるかと
{{r|荒涼|すさま}}じかりし形勢なり。去る程に、城中にも、迚も遁れぬ所なりと、弓・鐵炮を以て
爰を先途と防ぎければ、雨の芭蕉を打つに異ならず。身命を惜まず防戰すといへど
も、寄手は大勢にて、荒手を入替へ息をもつがせず揉み破り、一日半夜に攻崩し、老
若男女籠りたる程の者︀、殘さず三千餘、なで斬にし、心地よしと勝鬨を揚げ、次の日
はもとの路を歸り又敵の兩將へ使者︀を以て、山の根の要害卽時に蹈崩し、今明日
中に凱陣せしむるなり。遺恨に思はれば一戰を遂ぐべしとなり。時に信玄の陣に、
押大鼓を打つて進み來る體なり。味方の諸︀勢、之を見て物具堅め馳向はんとす。謙
{{仮題|頁=77}}
信令して曰、是れ信玄が進み來るには非ず、退き去るなり。聊か騒亂すべからず、甲
冑を脫ぎ馬の鞍をおろし、人馬共に心靜に休息すべしといへり。言葉の如く五六町
進み來て、果して退き去りぬ。其の時、味方の諸︀軍士はいふに及ばず。老臣等に至る
まで大に感心して曰、是れ何を以て察し給ふや、奇なるかな妙なるかな。良將の敵を
計ること、其の情鏡にうつるが如く違ふこと更になしと、各恐歎して舌をふるふ。
謙信聞きて曰、是れ別に奇妙なる事にあらず、當然の理なり。眼前に山の根の城を
攻動すを見て、後卷すること能はず。然るに今何ぞ進み來らんや。只是れ退口の懸
色といふものなり。諸︀將之を辨察せざらんやと宣ひて、徐々と歸國せられける。
誠に古今に稀なる名將なり。
{{left/s|1em}}
傳に曰、松山落城せしは、甲府勢の先手甘利左衞門が同心頭に、米倉丹後守とい
ふ合戰に、度々場を蹈み功者︀なる武士、天文廿一年、信州苅屋原の城攻の時、寄
口にて、能き工夫を仕出し、竹を束ねて立置き、城近く攻寄りては、又跡の竹を崩
して、くりよりにしたりける。是に依つて、城の塀・矢倉より放ちかくる鐵炮、矢先
を防ぎしかば、諸︀手に勝れて功名せり。此の松山の城攻の時、米倉が仕出したる
武略を、甲州勢悉く學び、竹ばかりにも限らず、杙・柱までもからげ束ねて、城近く
付寄せけり。夫より竹束と名付けたり。此の時まで、世上に竹束といふことを、知
らざりけり。鐵炮は永正七年より始まれり。此の竹束にて、寄手の人數手負少く、
是に依つて城弱り、是非なく城を明けて敗走し、松山の城、早速北條の手に入り、
謙信の後詰、後手になりて怒られけるなり。夫より直に、山の根の城へ向はれし
時、氏康・信玄陣所の前を、徐々と押通り給ふ器︀量、天晴︀健勝なる武將なり。且つ勇
力のみにもあらず、智力も勝れたる大將なり。此の時、謙信切懸り給はゞ、先づ
本敵は北條氏康なれば合戰あらん。然らば謙信か氏康か、何れ勝負あるべし。其
の勞れたる所へ、信玄の荒手切つてかゝり給はゞ、謙信の敗軍疑ひなし。此の理
を辨察して、兩將へは懸り給はざるなり。然りといへども、流石の謙信遙々出馬
し、何の手にもあはずし空しく引退かんも、氏康・信玄を恐れたるに似たり。依
{{レ}}是北條持の要害を、一刻に屠り捨て、北條・武田の兩家へ、使者︀に廣言吐いて遣
{{仮題|頁=78}}
し、何のあぶなげもなく、心靜に歸陣せられける。謙信退かれて後、氏康・信玄に向
ひて、一合戰あるべきものをといつて、信玄の心を引見られける。信玄は其の理
明らかなる故に、頓作の答話に、北條・武田兩家を以つて、若き謙信に勝つて、恥な
りといへり。實意にはあらざるなり。此の時謙信は三十二歲、信玄は四十二、氏
康は四十八歲なり。扨山の根の城攻め、急に揉崩し給ひしは、延引に及ばゞ、氏
康・信玄後卷もあらんかとの遠慮なりとかや。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=長尾彈正入道成敗の事|見出=中|節=e-9-2|副題=|錨}}
斯くて謙信、心の儘に働き、歸陣の節︀、厩橋の城主長尾彈正入道謙忠、今度山の根の
城攻に案內者︀として、三樂同前に參陣せざる儀は、罪科輕からずと、大に怒つて、謙
忠を召出し、刀を拔いて詞をかけ、放ち打に成敗あつて、其の家中の者︀共迄、雜兵か
けて二千ばかりを殺︀されし形勢は、鬼か謙信かと、萬人恐伏せざるはなかりけり。
扨城の跡には、北城丹後守を以て城代とし、政令堅く命じつゝ守らしめ、太田三樂
齋には、暇を給はつて、武州へかへされ、謙信歸國せられける。
{{仮題|投錨=謙信領國の政道<sup>幷</sup>諸︀士休息の事|見出=中|節=e-9-3|副題=|錨}}
永祿六癸亥年、新王に立歸れば、軒端の梅︀も雪間に綻び、谷の鶯聲珍らかに、春立つ
今日といふ折しも、都︀鄙・遠境・上下・萬民浮立ちて、目出たき有樣なり。然りといへ
ども、天下穩かならず。四國・中國には、尼子修理大夫晴︀久・毛利右馬頭元就、九州に
大內多々良義隆︀・大友新太郞義統・島津修理大夫義久等、互に境目を爭ひ、郡鄕を攻
取らんと欲して、弓箭の隙もなし。東海︀・北陸には、織田上總介信長・今川駿河守義
元・武田大膳大夫晴︀信・淺井備前守長政・土岐美濃守藝賴・齋藤山城守秀龍入道道三・
畠山修理大夫義則・里見左馬頭義高・得川家・北條左京大夫氏政等、分國に威を振つて、
合戰止む時なし。五畿內とても、管領等、將軍家を輕んじ、我が威を立てんと欲し
て、三好・細川、輒もすれば鋒楯に及び、一日も安き心中なく、貴賤薄氷を履むが如く
思へり。其の頃、越後の國主上杉輝虎入道謙信三十四歲なり。英雄の名將にて、若年
{{仮題|頁=79}}
より數度の軍に、一度も不覺をとらず。{{仮題|投錨=謙信政道に心を傾く|見出=傍|節=e-9-3-1|副題=|錨}}春日山に在城して武威盛んなり。今年正月
十五日、諸︀老臣を召して、今明年は暫く、他國の出陣を止め、士卒を休息せしめ、且つ
領國の政道を專らにし、萬民を撫育して、軍用に乏しからざらん事を、要とすべしと
思へり。其の故は、今天下戰國の世となつて、東西南北擾亂す。然れば民は國の本
なり。先づ持國を豊にすべしといへり。老臣、各貴命を承つて、是れ誠に國家武運長
久の基なりと、恐感して退出せり。
{{left/s|1em}}
斷に曰、雲州尼子修理大夫晴︀久は、鹽治判官高貞の末孫、尼子左衞門尉高久より、
故あつて尼子と號す。修理大夫晴︀久迄、代々武勇の將なり。○毛利右馬頭元就は、
平城天皇の後胤、因幡守大江の廣元が末葉、正四位下右馬頭陸奧守右少將等に轉
任す。安藝國高田郡吉田の領地は、先祖︀毛利修理亮時親、軍功に依つて、始めて地
頭職となり、父備中守弘元に至るまで、九代連續して保てり。然るに弘元の嫡男、
備中守興元早世して、二男少輔太郞元就將に家督たらんとす。時に舍弟少輔次郞
元綱・同上總介就勝等、家督を論爭し、家中已に三分に裂けて擾亂せんとす。依{{レ}}是
高千貫の領地を配分して、元就は僅に、田治比村七十五貫の地を領して、猿掛山に
城郭を築き、是に住せり。元來元就、智德英勇自然と備り、竹田元繁・山名宮內少輔
等を追落し、同國吉田郡山を居城として、三千貫の地を領す。安藝に武田の一族
ありて、吉田郡山へ押寄せけるに則ち元就出向ひ、一戰に追散らし、武田敗北す。
是より武威昌にして、隣郡近里の武士、多く元就に屬す。雲州の國主尼子伊豫守
義久は、元就と親み交りしが、義久の家督尼子修理大夫晴︀久の代に至つて、元就と
不快になり、攻滅さんと企て、人數を催す由、聞えければ、元就頓て大內義隆︀に因
んで志を通ず。尼子晴︀久之を聞き、數萬の兵士を引率して、吉田郡山へ押寄せ、
急に攻討たんと勇み進む。元就度々相戰ひ勝利を得たり。天文二十年九月、大
內義隆︀の家臣陶尾張入道全姜、逆心して主人義隆︀を攻む。遂に叶はずして、自害
の節︀、義隆︀遺狀を認め、元就へ送り、偏に陶全姜を討亡し、我が無念をはらし給は
れとなり。依{{レ}}是元就其の遺狀を、禁裡に捧げければ、卽時に逆臣誅伐の綸旨下り
しかば、陶全姜を討亡しけり。其の賞として、中國七箇國の國司職になし下され、
{{仮題|頁=80}}
正四位の少將に敍任せらる。永祿三年正月廿八日、二條の御所に於て、錦の直衣
を下さる。前代未聞の事共なり。依是周防長門も平均しければ、備中・備後の武
士も、其威に恐れて歸服す。其後元就は、尼子退治のため、出雲へ發向しければ、
嫡男隆︀元を周防に殘し置き、豐後大友が押とする所に、將軍家より和睦すべきの
旨ありて、毛利・大友の兩家無事になりければ、元就は出雲に至つて、尼子が居城
富田を攻め、其外諸︀方の合戰に、每度利を得たり。次男吉川元春・三男隆︀景も、粉
骨を盡し、前後七年の合戰に、尼子勢衰へて、晴︀久兄弟遂に降參し、出雲國元就の
手に入りければ、因幡・伯耆・石見・隱岐の國士も隨順し、播州の武士も少々附從ふ。
四國に於て、河野と宇都︀宮と合戰の時、元就は河野に加勢し打崩し、宇都︀宮降參
す。且つ又、大內輝廣豐後より來つて毛利と戰ひけるが、每度勝利を失ひ終に自
害す。依是元就の威勢、次第に强くなりて、安藝・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・
出雲・隱岐・石見十箇國の大守たり。されば善人の榮ゆるは、春園の草木にたとへ、
惡人の減ずるは刀をとぐ石の如し。日々に虧くると故人のいへるが如し。次に
大內多々良義隆︀は、琳聖太子の後胤、大內從三位多々良義興が長男、太宰大貳と
號す。當家代々武威昌にして、七箇國を領し、別に唐船八十餘艘の貢物を受くる
事、年々闕くる事なし。義隆︀の代に至つて、家門益々榮えけり。然るに、其の執權
陶尾張守晴︀賢入道全姜、逆心に依つて、義隆︀叶はず、天文二十年九月一日自害す。
從二位權大納言行年六十五。○大友義統は、藤原の後胤實は源賴朝の苗裔、從三
位大友左衞門督入道宗麟の嫡子、大友新太郞義統といへり。宰相に任ず。故あり
て、慶長五年流罪なり。○島津義久は、右大將源賴朝卿の後裔、修理大夫義久、法名
龍伯と號す。年來武威九州に振ひ、其の名高く連續して家門繁榮せり。○織田信
長は、桓武天皇三十代、平相國淸盛公より廿一世の末孫、尾州の住織田彈正忠信
秀の次男なり。天文三年誕生す。小名吉法師といふ、同十五年元服し、自ら信長
と名乘り、同十八年父信秀卒す。信長其の家督を續ぐ。時に廿六歲上總介と自稱
す。若年より四十九歲迄、諸︀方に於て合戰し、皆勝利を得て軍功莫大なり。仍つ
て天正三年內大臣に任ず。同十年六月二日、家臣明智謀叛し不意に討つ。故に自
{{仮題|頁=81}}
殺︀す。諸︀書に詳かなるに依つて省略す。○今川義元は、淸和天皇の後胤、源義家
の苗裔、今川伊豫守貞世法名了俊と號す。文武の達人なり。今川氏の祖︀とす。
代々駿河國を領し、駿河守義元に至つて、信長と戰負け、夫より次第に武威衰へ、
義元子上總介氏眞、信田信玄の爲めに自害す。○武田晴︀信は、新羅三郞義光廿七
代の後胤、源信虎の嫡子、武田大膳大夫晴︀信、法名信玄と號す。先祖︀義光、甲州に
住居せしより數代當國に住す。義光の曾孫太郞信義、始めて武田と稱す。之を
甲斐源氏といふ。信玄は智謀古今類︀なき名將なり。故に軍功傳記等諸︀書に顯は
せり。仍て焉に略す。○淺井備前守長政は、大織冠の後胤、江州淺井下野守久政
の男新九郞といふ。後備前守に任ず。淺井氏の元祖︀政重より、六代の末孫なり。
長政武勇勝れ、江北に威を振ふ。天正元年小谷山の戰に於て、信長の爲めに生害
す。○土岐藝賴は、淸和天皇の後胤土岐と稱す。濃州の住人なり。天正年中に屢
軍功あり。○齋藤道三は、藤原利仁の後胤、齋藤山城守秀龍と號す。後剃髮して
道三と稱す。天正の頃、武功の譽あり。○畠山義則は、桓武天皇の後胤なり。先
祖︀畠山重忠、源賴朝卿に從ひ、每度先手を承はり、永く源家に忠を盡し、關八州に比
類︀なき勇士なり。就中壽永三年木曾義仲追討の時、義經に屬して攻上り、宇治川
を渡す中流にして馬倒る。重忠弓杖をつき、下り立たんとするに、水深く逆浪高
し、然れども事ともせず、水中を凌いで、向ふの岸に近づく。時に大串次郞後より
來りしが、水に溺れんとしければ、重忠の佩ける大刀の小尻に取付きしを、重忠か
い摑み、岸の上へ投上げ、重忠續いて陸に上り、敵の侍大將長瀨の判官代を討取り、
高名を顯しけり。時に十九歲、同年三月義經に從ひ、一の谷鵯越を落す。諸︀士皆
馬より下りて難︀所を凌ぐ。重忠馬の勞れん事を思ひ、物具の上に馬を負ひて、岩
上を傳下る。其の勇力、殆んど凡人の及ぶ所に非ず。其の後數度の高名、天下に
隱なし。義則は畠山遠江守義純を祖︀とす。義純の母は、右の重忠の後家なり。
本名足利、母方の姓を繼いで源氏となる。其末孫繁榮して關東の執事となり。或
は奧州の探題となるもあり。殊に畠山基國入道德元は、應永の頃、京都︀の三管領
の其一なり。其孫持國{{仮題|分注=1|入道|德本}}管領職にありて、威風萬國に振ふ。依{{レ}}是、一族所々に分
{{仮題|頁=82}}
れて、末流合戰に及び、家衰へり。○里見義高は、源姓なり。新田大炊介義重の三
男里見太郞義俊を祖︀とす。一家門葉戰功多し。義高は八代の孫なり。○得川、德
川ともあり。姓名具に記するに恐あり。○北條氏政は、北條早雲四代の後胤、平
氏康が嫡子正五位下左京大夫と號す。關八州は氏政に從ひ、武威益々高し。天
正十八年太閤秀吉の爲に自害す。
{{left/e}}
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|越後軍記}}{{resize|150%|卷之九<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=越後軍記/巻之九}}
{{仮題|ここから=越後軍記/巻之十}}
{{仮題|頁=82}}
{{仮題|投錨=越後軍記|見出=大|節=e-10|副題=卷之十|錨}}
{{仮題|投錨=宇佐神︀駿河守病死の事<sup>附</sup>賞罰を行ふ事|見出=中|節=e-10-1|副題=|錨}}
同年十月下旬、宇佐神︀駿河守病床に臥して、醫療更に驗なく、次第に重りしかば、謙信
驚き給ひ、諸︀社︀に祈︀り、諸︀寺の貴僧︀大法・祕法を修せられしかども、命運の期來つて、同
十一月廿日行年六十一歲にして終に卒去せり。{{仮題|投錨=宇佐神︀良勝病死|見出=傍|節=e-10-1-1|副題=|錨}}謙信未だ童形の時より、軍師となり
忠臣となつて、暫も君邊を離れず。內には慈悲深く、外には智勇を勵まし、諸︀士及び
國民を憐み、人心廉直に邪慾を戒め、軍場に臨んでは、當機の變術・智謀・計略の深き
こと、恐らくは楠先生にも劣らざりければ、謙信水魚の思をなし、萬事密議を評談あ
りしかば、謙信の歎はいふに及ばず。諸︀臣上下に至るまで力を落し、惜まざるは無
かりけり。斯くて其の翌年、謙信三十五歲なり。此の年諸︀士の戰功を論じて、其の甲
{{仮題|頁=83}}
乙を決定し賞罰を行ひ、以つて國家平治の德要を下し、諸︀士・步卒等に至るまで撫助
し、人和の法を以つて、國家を堅固に治め給へり。
{{仮題|投錨=三好氏逆心に依つて、義輝公を弑し奉るの旨、京都︀より吿げ來る事|見出=中|節=e-10-2|副題=|錨}}
永祿八年乙丑五月廿二日、京都︀より飛札到來す。謙信何事やあらんと、恠しく思ひ、
急ぎ披閱し給ふ所に、細川兵部大輔藤孝・上野中務少輔淸宣兩臣より、當月十九日三
好義繼{{仮題|分注=1|長慶が養|子なり}}・同筑前守義賢、竝に三好家の臣松永彈正少弼久秀・岩成主稅助等逆心
して、{{仮題|投錨=三好松永義輝を弑す|見出=傍|節=e-10-2-1|副題=|錨}}將軍義輝公を弑し奉る。依{{レ}}是京師及び五畿內、大に騷亂して兵革起り、貴賤
尊卑東に走り西に迷ひ、近邊の山林溪谷に{{r|北|に}}げ隱れ、洛中・洛外鬪諍の{{r|岐|ちまた}}となりける
由を吿ぐるとなり。謙信手を拍ちて驚歎して曰、さればこそ先年上洛して拜謁︀せし
時、兵部大輔藤孝を以つて、密に言上する所是なり。悔︀しいかな、我が諫議を用ひ
給はず、今不道暴虐の臣三好家・松永等が爲に、害に遭ひ給ふことよと、歎淚を催せ
り。其の後諸︀臣を召して、當時叛逆三好一族、及び黨類︀を、誰か誅伐すべけんや。汝
等が所存を聞かんと宣ふ。列座の老臣口を噤んで、對ふる事なければ、滿座の臣等
猶以て閉口し、首を垂れて居たりけり。時に謙信宣はく、熟々思ふに、武田信玄と我
とにあるのみ。然りといへども、兩人共に遠國に住し、行程數百步ありければ、其の
退治延引に及ぶべし。只是れ京師近き勇將等追討せしむるならん。其の中にも織
田信長、之を滅さんのみ。
{{left/s|1em}}
傳に曰、義輝卿は、源尊氏公八代の後胤、公方義晴︀卿の嫡子、母は近衞關白藤原尙
通公の娘慶壽院といへり。天文五年三月十日義輝誕生、始めは義藤と號す。同十
五年從五位下に敍す。同十二月十九日元服して、征夷大將軍に任ず。同廿二年八
月三好長慶大軍を率して上洛す。將軍都︀を落ち去る。永祿元年公方勝軍山の城
に移る。同三年五月長尾景虎上洛して、公方に拜謁︀す。義輝公御諱の字を給はつ
て、景虎を輝虎と改む。同八年三好義繼逆心し、松永・岩成等、同五月十九日俄に
御所を取圍み急に攻む。義輝公自ら長刀を取つて、逆敵を防ぎ給ふといへども、
{{仮題|頁=84}}
寄手御館︀に火を放つて、揉立てければ、御所の兵小勢といひ、不意に起りし敵なり
しかば、防ぐに堪へで終に自殺︀し給ふ。從一位左近衞大將源義輝卿、春秋三十歲、
贈︀左大臣光源院殿と號す。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=信玄方の砦石倉を攻落す事|見出=中|節=e-10-3|副題=|錨}}
同年六月信玄、越中へ發向の旨、甲府に忍び居ける間者︀吿げければ、謙信聞屆け、頓て
二萬餘の勢を以て、同六月下旬に上野國へ打出で、{{仮題|投錨=謙信石倉の砦を陷る|見出=傍|節=e-10-3-1|副題=|錨}}武田の砦石倉へ押寄せ、打圍んで
急に攻め給ふ。城兵防ぎ戰ふといへども、寄手は多勢、殊に强將の聞えありつる謙
信、自ら向ひ給ふなり。城中は小勢といひ、其の上信玄留守にて、後詰の賴もなけれ
ば、守禦の力盡きて、大戶・長根城を開いて、箕輪の城へ引退く。謙信勝鬨を揚げ、城
外所々巡見して、北條丹後守が甥荒尾甚六郞を城代として入置き、歸陣し給へり。
{{left/s|1em}}
傳に曰、謙信、石倉の砦を攻取り給ふは、深き心入ありてなり。一つには飛驒・越中
半國づゝ越後につゞきてある所を、信玄取切り給ふに依つて、此の働を妨げん爲
めなり。二つには謙信持の厩橋の城の押に、川を一つ隔て、信玄持の和田の城よ
り構へたる砦にて、厩橋より程近ければなり。三には來年は、和田の城を攻崩す
べき下心ありてなり。四には信玄留守の內なれば、後詰の氣遣もなく、急に乘取
り給ふといへり。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=謙信上州和田の城を圍まるゝ事<sup>附</sup>國國の逆心に依つて歸國の事|見出=中|節=e-10-4|副題=|錨}}
永祿九年丙寅謙信卅七歲、七月下旬に上州へ發馬し、和田の城を攻崩さんと、多勢を
以て四方より討圍み、玉箭を兩籠の如く打懸け、軍を棚際へ押詰め、道茂木を引退け
一揉み揉んで、塀下迄攻寄せける。城中の兵共爰を破られじと、互に言葉を懸合は
せ防ぎ戰ふと雖も、寄手荒手を入替へ、透間なく攻立てければ、城兵精︀力已に盡果て、
危き所に、越後より早馬來つて、家臣長尾帶刀、逆心を起し隱謀を企つる事、甚だ以
つて急なりと註進す。謙信聞いて驚き、和田の城を卷解ぐし、早々歸國し給へり。
{{仮題|頁=85}}
依{{レ}}之和田の城兵は、萬死を出でゝ一生を得るの思をなし、城の要害を修補し、彌〻堅
固に守りける。信玄飛驒にありて此由を聞き、上野の石倉へ直に取懸けられけれ
ば、上州の諸︀士相從ひ、先手となつて押寄する。時に信玄曰、今度謙信和田の城を卷
解ぐし、歸國すといへば、何の氣遣も之れなし。然れども思ふ仔細之れありといひ
て、一時攻と定め、總乘の法を用ひ、唯二時計りに乘破り、城代荒尾甚六を始め、千餘
人討取り、和田の諸︀士を入置かれける。此の城攻急に攻落せしは、謙信方の後詰や
あらん。又は謙信謀計のため、和田を引取りし事もやとの遠慮なり。或は武威を振
はんため、且つ和田攻の返報、彼是を以て、此の働きありといへり。
{{left/s|1em}}
傳に曰、和田を早々引取り給ふこと奧意あり。謙信、日頃の格を違へ、{{r|虛|そら}}働きし
て、弱々と引退き、信玄に{{r|夸|をごり}}を附置き、不圖河中島へ出馬して、有無の一戰すべき方
便に、逆心の註進に事寄せて、弱氣を見せ給ふ。甲府方の諸︀士沙汰せるは、謙信、和
田の城を攻詰め、旣に落城と見ゆる所に、信玄の旗本橫山十郞兵衞といふ足輕大
將を、加勢として籠置きしに、此十郞兵衞、我が同心の足輕はいふに及ばず、城內の
士卒等を、能く下知し、城の役所々々の手配り宜しくして、我が身は櫓に上り、日來
に習ひ得たる鐵炮の上手が、謙信の旗本を見定め、美き武者︀を多く打落す。中に
も謙信の御座をなほす侍を打殺︀し、其の外腹臣・寵臣等痛手を負ひ、謙信も度々危
く見えし故、早々城を卷解ぐしつゝ、退散せられけるといふとも、信玄は明將なれ
ば、謙信の奧儀を悟りて、和田の合戰終るや否や、馬場氏に繩張させて、普請ありし
は、今度の働振を察しての事なり。謙信は深き謀あつて、敵に知られじと、外の事
に思はせ、弱々と引退き給へば、信玄は其の意旨を悟りて、彌〻要害を堅固にせり。
龍吟ずれば雲起り、虎嘯けば風生ず。明將は千里同風にして、愚將の及ぶ所にあ
らざるなり。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=北條氏康上州厩橋城へ寄せらるゝ事<sup>幷</sup>謙信防戰の軍令觸知らす事|見出=中|節=e-10-5|副題=|錨}}
永祿十年丁卯、謙信暫く上州の厩橋の城に居して、軍慮を運らし給ふ時に、北條氏
{{仮題|頁=86}}
康・同氏政父子、竝に從臣松田尾張入道・同左馬助大道寺駿河守・遠山豐前守・波賀伊
豫守・山角上野守・福︀島伊賀守・山角紀伊守・依田大膳亮・南條山城守等、{{仮題|投錨=北條上杉合戰|見出=傍|節=e-10-5-1|副題=|錨}}都︀合三萬餘騎
とぞ聞えける。次に加勢として、武田信玄出馬せらる。相伴ふ輩には、馬場美濃守・
內藤修理亮・土屋右衞門尉・橫山備中守・金丸伊賀守等二萬餘騎、兩旗の軍勢合せて五
萬六千餘騎、大旗・小旗數十流、家々の馬印小嵐に{{r|霏|ひらめか}}し、思々の甲冑、朝日に{{r|暉|かゞやか}}し押寄
せ、同十月八日より稻麻竹葦の如くに打圍んで、大手・搦手揉合せ攻轟かす事、雷霆に
異ならず。然りといへども、城中少しも{{r|痿痺|ひる}}まず。大將は剛强の謙信なり。相從ふ
士卒、大將に劣らざる兵共多く籠りければ、命を塵芥よりも輕く、名を金石よりも重
くし、我れ劣らじと防ぎ戰ひければ、寄手多勢なりといへども、攻倦んでぞ見えにけ
る。{{仮題|投錨=謙信の智謀|見出=傍|節=e-10-5-2|副題=|錨}}旣に十一日に至つて、勝負決せざれば、同月中旬に引退かんとせしを、城兵見て
跡を慕ひ、追討にして功名を勵さんといふ儘に、勇み進んで、已に城外へ打つて出で
んとす。此の時に、謙信堅く制止して曰、必ず之を慕ひ追ふべからず。今敵の情察
しがたし。若し伏兵の設け、之れあらば、味方却つて軍利を失ふべし。只城中より一
同に、{{r|凱歌聲|ときのこゑ}}を揭げ、貝を吹き鐘を鳴らし押夫蒙を打つて、只今迄為う、出づるが
如くの勢を爲すべし。然る時は、大軍驚き騒いで、利根川の渡に臨まば、水底に溺死
する者︀多からん。是れ誠に戰はずして、敵を屈するの軍術なり。堅く城戶を閉して、
兵を出すことなかれと、役所の頭奉行へ下知し給へば、畏つて制令の如く行ひける。
案の如く、寄せ手の軍兵等引しほの事なれば、城中の鼓・貝・{{r|鬨|ときのこゑ}}に驚きて、只今後より大
勢追來るぞと、心得て足を亂し、我れ先にと引取りける所に、折節︀利根川の邊にては、
後より土風烈しく吹いて、目口も開かざれば、後を顧みる事能はずして、偏に敵の追
來るとばかり思ひしかば、利根川へ我れ劣らじと懸込み、大勢の武者︀共、淵瀨の考
もなく、川中にて揉合ひける程に、水心も知らざる士卒、或は流れ又は味方の鋒刀
に貫かれ、手を負ひて流に溺死する者︀、幾千といふ數を知らず。されば城兵は手を
下さず、骨を碎かずして、多くの敵を亡すこと、大將の軍術・武德の厚き故なりと、各
感悅せり。
{{left/s|1em}}
傳に曰、同年暮秋の{{r|頃|ころほ}}ひ、北條氏康・氏政父子、謙信を滅さんと、軍慮を運らして、
{{仮題|頁=87}}
九月九日先づ、甲府へ使者︀を差遣し、信玄を賴み申さるゝ口上に曰、越後の謙信、和
田を引取りし以後、上州厩橋の城に住して、此方より關東の仕置致すを妨げ、其の
上、方々へ{{r|行|てだて}}あるべしとの風聞せり。依{{レ}}是諸︀方の勢の歸伏せざる以前に、追討せ
んと欲す。然れば、貴公の御出馬を希ひ、兩旗を以て、謙信を退治致度候、御點頭
仰ぐ所なりと、信玄委細聞き屆け、一々思慮あつて、其の意に任すべしとの返事な
りければ、北條父子大に喜びて、彌〻軍粧頻︀なり。斯くて諸︀勢牒じ合せ、同九月十八
日辰の刻に、信玄甲府を打立ち、上野へ發向あつて、同廿八日に北條父子に對面あ
り。六七日軍談の上、氏康三萬五千、信玄二萬合せて五萬五千餘の人數を以て、謙
信の假に入城せられし厩橋の城へ、同十月六日の卯の刻より、前に押寄せ、城下の
町を燒拂ひ、其の勢に、城の門際まで押込み、直に其の場を引退かれしに、其の時
に限り、から風いたく吹いて、利根川を渡す時は、諸︀人の目口もあかれず、前後更
に辨へず。此の形勢を、謙信の士大將・物頭等、武功ある人々見て、五六千一同に軍
兵を出し、氏康も信玄も討取るべきは、此の時にて候と、諫めけれども、謙信如何思
はれけん。城兵一人も出さゞる事、謙信十四歲より合戰しそめ、其の年卅八歲迄、
數度の戰、廿五年の間に、此時程、愼まれたる事はなしと、信玄の侍大將衆評判に、
其の時利根川半分渡る節︀、謙信の人數三千ばかり追懸けなば、甲州勢は大半討た
れ、惡くしなし申さば、信玄公も討死なされ候はん。其の故は、大風敵の方より
吹きかゝり、殊に放火の烟に、土風まじりにて、手本・足本更に見え分かざるなり。
敵出でざる故に、恙なく引取りたると、甲州の諸︀卒上下共に取沙汰なり。謙信方に
も弓箭に功者︀なる勇士、數多ありしかば、右の如くに諫めけれども、謙信更に用ひ
られざるは、大に下心ありての事、凡人の量りがたき所なり。果して翌年、北條家
と和睦なれば、之にて心胸を辨察すべし。且つ又、軍兵を出したらんには、北條當
敵なれば、返し合せて合戰あるべし。其の時一旦勝ちたりとも、荒手の甲州勢へ
替り、味方の勞れたるに乘じて、勇戰の働疑なし。然る時は、一生の大望も、無に
ならん事を慮り給ふなり。又信玄は、北條父子に賴まれ、據なく加勢とし、出馬せ
られしかば戰を好まず。年來信玄は、謙信方より仕懸けての合戰の時も、防戰の
{{仮題|頁=88}}
備全うして、進み戰ふ事を好まず。謙信と數度出合ありといへども、{{r|何|いつ}}も對陣の
みなり。況んや此の度は、加勢の事なれば對陣し、北條と謙信との勢力を見て、頓
て引退かれける。唯賴まれたる義理一通の出陣なり。扨北條家は、謙信籠城の近
邊を燒拂ひ、旣に城門際迄押込みたるは、八年以前庚申の年、氏康の居城小田原
の蓮池まで、謙信に押込まれたる返報なりといひて、再び押寄せ勝負を決せんと
もせず、退散して大合戰はなかりけり。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=謙信、北條氏康と和睦內談の事<sup>附</sup>養子方便の事|見出=中|節=e-10-6|副題=|錨}}
永祿十一年戊辰、謙信卅九歲の春、熟〻思ひ給ふは、數國を平治せしめん事、先づ北條
氏康と和議を調へずんば、佐渡・庄內、或は加賀・越中能登などへ、發向の儀心許なし。
左ありとても、此方より手を入れなば、降參同意にて無念の至なりと、老臣等に密談
ありければ、近臣・寵臣承つて、謹︀んで申しけるは、仰せ御尤に候。內々臣等も存候
は、村上殿・上杉殿の兩家に賴まれ給ひて、手前の事を差置かれ、剛敵の信玄・大敵の
氏康と取合ひ給ふ。君旣に當年卅九歲にならせ給ふ間、今よりは北條・武田と和睦
の儀、御一段の御才慮と存候。{{仮題|投錨=上杉北條和睦の內談|見出=傍|節=e-10-6-1|副題=|錨}}其に就き北條は、幸なる內緣之れあり。此方の弱み
なき樣にはからせ見候はんと、言上しければ、謙信喜悅限なし。仍つて內緣の者︀
に、宜しく相談じ、賄賂して賴みける。其の後、北條氏康の七男、三郞殿の母儀松の
局方へいはせけるは、北條殿の御家督は、氏政公總領にて御座せば、繼がせ候ふべ
し。然れば三郞殿は、舍兄氏政公の幕下とならせ、家臣とひとしく、氏政公の下知に
從ひ給ふべし。其に就いて、實に目出度事の候は、越後の國主謙信公、當年卅九に
ならせ給ひしが、御家督を繼がせ給ふ御子息なし。依是三郞殿を御養子に望み給
ふといふとも、近年まで武威を爭ひ給ふなれば、今更に和議の便、之れなしとあつ
て、君臣共に歎き給ふのみ、何卒此方より御平和の儀は、なりがたき事にて候やらん
と、四方山の咄まじりに語りける。松の局つく{{ぐ}}聞きて、其の方の申さるゝ通り、
三郞殿の爲めには、立身といふものなり。且つ又、君の御爲めにも、惡しき事にて侍
らねば、何卒御機嫌を伺ひ申上ぐべし。それまでは必ず、隱密に致されよと、種々の
{{仮題|頁=89}}
饗應どもして歸されける。內緣の女房、嬉しくて急ぎ立歸り、右の件々委細に言上
しければ、謙信大に喜び給ひ、褒美として金子竝吳服等給はり、重ねて他言無用と堅
く申付けられける。斯くて松の局は、氏康の前に出で、謙信和睦あらば、則ち三郞殿
を養子に望まれ候旨、具に吿聞かせける。氏康手を拍つて曰、時節︀到來せり。我れ
亦謙信と和睦の望あり。其の故は武田信玄は、織田信長嫡子城之介が內室に、信玄
の息女七歲になりしを所望して、綠結已に相調ひ、織田・武田緣者︀の因深く、別けて
入魂致すの由を聞けり。然れば當家の儀、行末覺束なき所あり。依是謙信と和睦
せんと欲すといへども、謙信の胸奧計りがたく延引に及べり。此の上は、近日和平
の取結を催すべしとあつて、嫡子氏政を始め、老臣等を召して內談ありしに、何れも
承り、是れ御當家長穩の基なりと、賀し申しける。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|越後軍記}}{{resize|150%|卷之十<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=越後軍記/巻之十}}
{{仮題|ここから=越後軍記/巻之十一}}
{{仮題|頁=89}}
{{仮題|投錨=越後軍記|見出=大|節=e-11|副題=卷之十一|錨}}
{{仮題|投錨=謙信・氏康和睦相調ふ事前氏康の七男三郞越後に來る事|見出=中|節=e-11-1|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=上杉北條和議調ふ|見出=傍|節=e-11-1-1|副題=|錨}}同年六月、氏康、謙信と和議相調ひ、氏康の七男三郞と申すを、人質の爲に越後に越
さるべしとありければ、謙信聞き給ひ、御心底感悅致候。それまでもなし。則ち某、
養子仕るべしとあつて、申請け、北條三郞十七歲にて、謙信の養子となりて、越後に
來らる。家士遠山左衞門尉・山中民部大輔兩人輔佐の臣として、其の外諸︀士從僕等
百人ばかり相供して、越州に入來す。謙信喜んで迎へ取り、則ち謙信の幼年の實名
を讓りて景虎と號す。後政虎と改む。斯くの如く、兩家急に無事相調ふる事は、北條
氏康駿河國を押領すべき下心ある故なり。如何となれば、駿府へ取懸けられば信玄
{{仮題|頁=90}}
妨げられん事必せり。其の時、謙信を賴んで、{{r|厭|おさ}}へさせんとの儀、又謙信は上方上
洛の大望叶はざればなり。依{{レ}}是其後武田信玄とも和平せしめんと、甲府の長遠寺
を招き寄せ、謙信對謁︀あつて、種々の饗應數獻の上、謙信いはく、貴僧︀の國主信玄公
と數年合戰に及ぶといへども、我身に對し更に遺恨なし。村上義淸に賴まれ、武士
の道遁れがたく、對陣に及んでは互に武威を振へり。向後は交を結び、無事たらん
と欲す。此の旨、宜しく國主へ達せられなば、本懷の至、他事なしと、時に長遠寺委
細承り屆け候。立歸り御演說の通り、慇に相達し候はんと、甲府に歸り、國主の前に
出で、謙信の口上始終の次第、具に披露せられける。信玄つく{{く}}聞きて、其の返事
を申渡されける。謙信若氣の故か、分別今まで遲はれり。去ながら、此の上とても、
少き事を氣にかけられ、無事破れなば、世上の笑草となりて、如何に候間、和睦致して
よりは、信玄は違ふ事候はず。謙信公よく分別を究められ、信玄は年もよりたると
思はれ、人質など差越し、二心なく入魂せらるゝに付ては、信玄も、亦疎意あるまじと
の口上にて、長遠寺に差添へ、信州岩村田の法興和尙とて、禪宗洞家の智識と、兩僧︀
を以つて返事なり。謙信之を聞き給ひ、無興なる體にて、信玄は無事調はざる以前
よりも、謙信を幕下の者︀同前に申さるゝ事に、口惜しき次第なりといつて、和議の挨
拶きれ果て、僧︀達は不首尾にて、すご{{く}}と歸られけり。
{{left/s|1em}}
評に曰、武田・北條と無事なければ、謙信上方の望み叶はざるに依つて、信玄と和議
を望み給ふ。信玄其の奧意を察して、無事調はざるやうに、返事之れあり、是れ又
信玄の下心ありてなり。其の故は、信玄も一兩年の內に、上洛あるべしとの望に
て、兼ねてより諸︀方の要害・砦を丈夫に普請あり。密々に上方發向の備定め、{{r|內試|ないならし}}
ありしとかや。故に織田信長と信玄水魚の因なりと、諸︀人の取沙汰に及ぶ程にあ
りけれども、內心より出でたる入魂なきに依り、終には申の極月和睦破れて、其の
後は、合戰數度に及び、信玄逝去後、武田家亡びたり。信長も實の慇にては更にな
し、公方義昭公を供奉し都︀へ上り、其の威を借つて、後には義昭公を追倒し、京五
畿內を手に入れ、終には天下の主將たらんと欲すといへども、信玄に妨げられん
事を思惟して、豫めより信玄を重んじ禮を厚くし、其の上、重緣を結び、是に事寄
{{仮題|頁=91}}
せ、夥しき音物際限もなく送りつゝ、他念なくこそ見えにけれ。就中永祿十三午
三月、信玄、駿州田中に逗留の間に、佐々權左衞門といふ士を使者︀として、唐のか
しら二十毛氈三百枚・猩々皮の笠、是は四年以前、公方義昭公を都︀へ御供申し、征夷
將軍に備へ奉りたる目出たき吉緣のよき笠にて候間、送り進じ候なりと披露す。
信玄口上の趣を聞きて、信長の使者︀罷居る所にて、土屋平八郞といふ士に、件の笠
をとらせて曰、信長の武邊にあやかれとなり。使者︀不首尾にて當惑せり。唐の
かしらは、奧近習衆に鬮取にせよと、言付けられける。信長、斯樣の有樣を聞き
ても、氣の付かざる體にて、威勢の付く迄、暫く時を待たれけり。謙信、氏康との和
睦も、互に奧意ありてなり。其の節︀の武將達、何れも下心ありて、當分の因にて、皆
僞りなりければ、頓て敵味方となりて、鬪諍止む時なかりけり。氏康の七男三郞、
謙信養子の前、今川氏眞の取扱にて、武田義信の養弟となり。其の時は、武田三
郞といへり。駿河へも一年人質に行かれしとかや。其の頃の養子、又は緣結も、內
意は人質の爲めなり。實儀はなかりけり。此の養子の事、或說に曰、永祿十三年
午三月、謙信持の富田大中寺に於て、北條氏康一家謙信へ禮を致さる。兼ねての
約束の通り、七番目十七歲の三郞といふを、人質として渡されしに謙信の曰、爭
でか氏康の御子息を、人質とは憚りなれば、養子に申請け、我れ死後には、跡を二つ
に分け、喜平次と三郞へ讓り申すべしとあつて、謙信の若名景虎と{{r|號|なづ}}けられける。
此の人大方ならざる美男にて、時世の人、歌に作りて歌うたるなり。謙信悅べり
とかや。
{{left/e}}
斯くて能州の住畠山修理大夫義則の末子、八歲の時、越後に來れり。謙信も亦養子
とす。謙信姊婿の子にて甥なり。童名喜平次と號す。長じて後、上杉彈正大弼藤原
朝臣景勝と稱す。百萬石の大守會津中納言といふは是なり。
{{仮題|投錨=北條氏康・氏政より加勢を越後に賴まるゝ事<sup>附</sup>謙信出馬なき事|見出=中|節=e-11-2|副題=|錨}}
永祿十二年己巳七月中旬に、小田原より兩使到來して、氏康・氏政父子の口上を宣べ
{{仮題|頁=92}}
て曰、武田信玄旣に和平を破つて、小田原表へ働き入るの由、專ら沙汰せり。依{{レ}}是
忍の者︀を差遣し、樣子を伺はしむる所に、決然たるに依つて、去る四月中旬に、武田
持の深澤へ、氏政三萬八千の士卒を以て、城の近邊迄押込み、田畠を蹈荒し、所々放
火して武田と手切す。此の故に信玄怒つて、近日出馬すといへり。然る間、公發向
し給ひて、厩橋の城に屯あるべきか、然らずんば、信州表へ出陣あつて、信玄が出軍
を妨げ給はんや。{{仮題|投錨=北條氏康加勢を謙信に求む|見出=傍|節=e-11-2-1|副題=|錨}}兩樣何れにても賴み存ずる段、謹︀んで申上げけり。謙信、兩使に對
謁︀して宣ふは、未だ北條・武田の鋒先勝劣如何か知らざる所なり。一戰の勝負を見
ずんば、加勢すべからず。假令加勢すといふとも、公の指揮に從はゞ、信玄が思ふ所
も無念なりといへり。其の砌、北條家の武威、關東に振へる故、此の如く返答せられ
ける。
{{仮題|投錨=北條氏康・氏政再び加勢を賴まるゝ事<sup>幷</sup>謙信出馬の事|見出=中|節=e-11-3|副題=|錨}}
永祿十三年六月中旬に、氏康・氏政より、使者︀兩人來つて言上して日、武田信玄當年
は、上州箕輪へ大軍にて出張あるの由、間者︀吿知せり。衆口同音に言觸す如くな
り。{{仮題|投錨=北條再び加勢を上杉に乞ふ|見出=傍|節=e-11-3-1|副題=|錨}}然る間、今度は是非に於て、御加勢賴入るの由を演ぶ。依{{レ}}是謙信固辭する事能
はずして、謙信、沼田へ出馬にて、又長沼へ陣替し給ふ。信玄は河中島へ出陣にて、五
月末より六月の上旬まで在陣なり。謙信も亦厩橋へ出陣なり。依是信玄、上野の
箕輪へ出馬せらる。謙信は東上野の勢を相添へ二萬餘人、北條氏政三萬八千、合せ
て六萬に及びける大軍なり。北條の先陣松山へ押出す。時に信玄の勢二萬五千に
て打つて出でらる。謙信の先手厩橋より打つて出で、足輕迫合あり。旣に對陣に及
び合戰始まるべき所に、謙信謂へらく、氏政公と某兩旗を以て、信玄に勝ちて手柄
にあらず、負けては末代までの恥辱なりとて、早々歸國し給ふ故、氏政も引取りけ
り。謙信、武田・北條の色を見積り、宜き作意を以て、北條の前を繕ひ、兩將引入り給へ
ば、大合戰はなかりけり。此の時、氏康は病中にて出馬なく、氏政計り武藏の秩父迄
出馬にて、先手の軍兵松山へ押懸りしが、前の如くの首尾にて引退きけり。斯くて
今年十一月、改元あつて元龜元年になる。{{nop}}
{{仮題|頁=93}}
傳に曰、永祿十三年八月、信玄、伊豆の韮山へ出陣あり。在々所々へ亂入り放火
せらる。仍つて、北修家の諸︀將打つて出で、先手は三島の上迄つゞき、箱根に陣
を備へ、三島より上の山は、陣所ならずといふ事なし。此の時も、氏康病中にて出
馬なく、子息氏政三萬八千の人數を以て、山中に陣を居ゑ、樣子見合せられけり。
信玄は總軍兵を韮山筋へ出し、苅田働させ、其身は旗本ばかりにて、小田原の軍
勢押の爲め、三島に陣を取り、先手小山田兵衞尉・馬場美濃二頭は、北條家の總人數
を左に見、はつねを登りて、箱根の宿へ押込みけるを、北條家の先手打つて出で、合
戰數刻にて互に功名し、日も西山に傾けば、難︀所の場所たるに依つて、早々引取り
ける。其の後信玄、甲府へ歸陣ありて、夫より直に九月下旬に、三萬八千の勢を
引率して、越後の太田切まで、出馬にて燒働し、卽時に河中島へ引入られける。
斯くて謙信は、同十月に厩橋へ出張し給ふ。信玄之を聞きて、河中島より直に上
野の箕輪へ陣替あつて、上野原といふ所にて、謙信の先手と信玄の先手と合戰あ
り。一兩度迫合ひける所に、北條氏康の病氣重き旨聞いて、謙信早々歸國し給ふ
なり。
{{仮題|投錨=公方義昭公より上使の事|見出=中|節=e-11-4|副題=|錨}}
元龜二辛未年九月上旬、公方義昭公より上使として、松原道友・尼子兵庫頭、越後に
下向あつて、上意の旨を演べて曰、近年織田上總介信長、己が英勇に{{r|傲|ほこ}}りて、公命を
畏れず、放逸︀の行跡、甚だ法に過ぎたり。前代未聞の暴逆なり。謙信にあらずして、
誰か能く路厭せん。速に逆臣信長を追討せらるゝに於ては、本懷の至是に過ぎざる
ものなりと、謙信卽ち兩使に對謁︀して曰、尾州織田信長を刑戮致すべきの嚴旨、謹︀ん
で之を奉承す。委曲兩使送達あるべきなり。此の事深く隱密なるが故に、翌日上使
上洛し給ふなり。
{{仮題|投錨=北條氏康の逝去、越後へ吿げ來る事<sup>附</sup>謙信養子三郞景虎小田原に往く事|見出=中|節=e-11-5|副題=|錨}}
{{仮題|頁=94}}
{{仮題|投錨=氏政父氏康の死を謙信に吿ぐ|見出=傍|節=e-11-5-1|副題=|錨}}元龜元年十月三日、北條氏政より急使越後に來つて氏氏の口上を演べて曰、父氏康
十月三日卒去、愁傷不過是候となり。謙信歎息し給ひて、急ぎ養子三郞景虎を小田
原へ差遣さる。數日を經て歸國せり。斯くて北條氏政は、謙信と內意を通じて、武田
信玄へ霜月上旬の頃より和を乞ひ、無事ならんと種々賴みける。時に信玄の家臣老
若ともに申しけるは、北條家と和睦の儀は、必らず御無用にてこそ候へ。其の故は、
氏政の領國大國共を御手に入れられば、御領國を合せて十箇國に及び候。小田原
を押潰し候事は、あまり隙入り申すまじく候。當冬より御出陣にて候はゞ、手間を
取る分にて來春までには落着致すべく覺え候。其の上にて、北條家持分の城々等御
仕置、又は多賀谷・宇都︀宮・安房の諸︀將は、氏康に仕詰められ、內々より御當家へ御音
信之ありければ、異儀なく御旗下に參らるべし。佐竹は唯今御不通なれども、御書
の日付と名書の爭にて、小事の儀なれば、北條家御退治の上は、是れ亦別儀あるま
じく候。若し又、楯をつかるゝといふとも、三年の內には御從へあるべく候。さりな
がら佐竹事は、以後の儀と思召され、小田原近邊へ御働き、北條家の領分御仕置の
儀、來未の三月頃には、大方隙を明けられ候べし。然る上は、越後の謙信とても、手を
差し申さるまじく候間、氏政と和議の段御止まり、手切の御返答あつて、急に小田原
へ勢を向けられ、只管北條退治の御軍慮候へかしと、一同に諫め申しける。信玄一
一聞きて曰、各が異見尤も至極せり。然りと雖も、三年以前辰の年、板坂法印我が脈
を診て、大事の煩ひ出づべしといへり。誠に申せし如く、次第に氣力衰へ、心地よき
事稀なり。斯樣に之れあらば、信玄が在世も十年はあるまじく覺ゆるなり。然れば
人は一代名は末代なり。勿論北條家を押潰すこと手間どるまじ。其の仔細は、去年
小田原へ押詰め、近邊を燒拂ひ、其の外みませ合戰に打勝ち、數箇所の城を攻取り
しに、氏康存生の時だにも防ぐ事能はず。況や今死去なれば、何の苦勞もあるまじ。
然りといへども、仕置等に來年中はかゝるべし。其の外に又、人數あてがひ、萬事の
吟味それ{{く}}に見繕ひなどする間に、氣色惡くなりては、何の望も叶ふべからず。
未だ健かなる內に、遠州・參河・美濃・尾張へ發向して、存命の間に、天下の主將となつ
て、都︀に旗を立て、佛法・王法・神︀道を專らにし、且つ諸︀侍の作法を定め、政務を正し
{{仮題|頁=95}}
くして、萬民を撫育せんと欲するの願望なり。然る時に、小田原に押の人數を置か
ず。却つて氏政より人質を取り、少々人數を出ださせて、甲州勢の三萬餘を率し、都︀
を心がけ打つて出でば、定めて參州勢支へ止めんとすべし。其の時、無二無三に打
つてかゝり、押崩し追失ひなば、都︀までの間に我に手ざす者︀一人もあるまじ。其仔
細は、織田信長先年江州箕作の城を攻落せし故に、公方義昭公を都︀へ供奉し、再び
征夷大將軍と稱す。彼の箕作の合戰に、信長勝利を得たるは、自力にて更になし。參
州大守の家臣松平伊豆守といふ勇將、拔群の働を以つて攻落すといへり。又金ヶ崎
より北近江淺井備前守に氣遣し、退口みだりに岐阜へ、味方を捨てゝ歸りたる時、參
河太守若狹國へ働き、胴勢の信長に捨てられしに、參河勢五千の人數を以て、{{r|些|ちつと}}もあ
ぶなげなく引取りける時、參州の旗本に、內藤四郞左衞門といふ士、三手の矢を以て、
後を慕ひ來る若狭のよき武者︀を、六人射殺︀したりと聞く。又去る六月廿八日に、江
州姊川に於て、合戰の時、淺井備前守が三千の軍勢に、信長三萬五千の士卒切立てら
れ、十五町程逃げたるに、參河勢五千にて、淺井備前が胴勢一萬五千の越前朝倉義景
を切崩せしに依つて、備前が勢も崩れたり。然れば信長、勝利を得たるは、參州勢
働の强き故なり。左なくしては、信長の軍勢立直す事なりがたくして、姊川合戰は
織田家の負なるべしと、美濃・近江の侍共書付を以つて吿知らせり。且つ又信長、
我と緣者︀になり、我を馳走致す事も、皆以つて僞なり。我と無事をつくり、年中には
定つて七度の使を越し、其の外に三度・四度・十度にあまりて、過分の音信し、他事な
き入魂の體は、信濃より出で、美濃・尾張を取らるまじき爲ぞかし。我には老功の
敵、或は東國育ちの强敵と戰はせ、其の手間の入る內に、我が身は、上方の柔弱なる
諸︀將を追討し、五畿內を手に入れ、信玄が歲のよるを待つ內にも、參河・遠州、信玄
が國にならぬやうにと思慮して、關東筋一番の武道强き參州の大守に入魂し、常に
信玄を倒す旨の內談致し、何時にても加勢せしめんと諫め勸むといふ儀を、信長へ
降參の士共より、神︀文を以つて、申越し候間、是非に於て信長と、一兩年の內に、手切
をせんとあつて、{{仮題|投錨=信玄氏政と和平|見出=傍|節=e-11-5-2|副題=|錨}}小宰相を小田原へ差遣し、氏政と和議せらる。北條家の悅大方な
らず。明る五月、彌〻上方發向の軍粧頻︀にて、上下勇みあへり。氏政之を聞きて、舍
{{仮題|頁=96}}
弟北條助五郞・同助四郞兩人を、甲州郡內まで差越し、和睦の禮謝を相演べ、次に上
方御出馬の砌は御供仕り、一方の御役承り候はんとぞ申されける。斯くて此の催を
越後の間者︀早々吿知らせけり。謙信聞きて、我れ他年の願望を空しくし、信玄に先
を越されては、生きたる甲斐更になし。人力の及ばざるをば、佛神︀に祈︀る事、古今其
の{{r|驗|しるし}}ありとて、常に信仰し給ひし毘沙門堂へ參籠あり。一七日斷食し給ひ、祈︀願に
曰、我れ一生の間に都︀へ上り、五幾內を治め、天下に旗を立てんと欲する所に、甲斐
の信玄、我に先立つて、上方發向の催頻︀なりと聞ゆ。仰願はくは、信玄が上洛叶は
ざる樣にとのみ他事なし。此の祈︀願相叶はずば、謙信が命を縮め給へと、肝膽をく
だき、丹誠に祈︀り給へば、不思議や七日滿ずる曉天に、眞前の庭樹折るゝ音しけり。
謙信聞きて怪しく思ひ、立出でゝ見給へば、樒の木風も吹かざるに、甲州の方へ指し
たる枝折れて、其枝の葉は皆落ちてあり。謙信之を見て、祈︀願成就なりと、益々歡喜
し、敬んで拜謝し、下向の節︀彼の檣の木の下へ立寄り、徘徊し給ふ所に、又樒の葉三
枚零ちて、謙信の肩に止まりける。時に謙信心中に謂へらく是れ不吉の{{r|詔|つげ}}なり。且
つ某が上洛も達せざるなりと、悟り給へば、甚だ愁ふる色あつて、歸城し給ふ。近習
の諸︀士、其の意を知らざれば、かく大儀の行法、何の障碍もなく、滿散の所に、斯く不
快の御有樣、心許なき事なりと咡きあへり。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|越後軍記}}{{resize|150%|卷之十一<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=越後軍記/巻之十一}}
{{仮題|ここから=越後軍記/巻之十二}}
{{仮題|頁=97}}
{{仮題|投錨=越後軍記|見出=大|節=e-12|副題=卷之十二|錨}}
{{仮題|投錨=參州岡崎城主より使者︀到來の事|見出=中|節=e-12-1|副題=|錨}}
元龜三年壬申閏正月廿八日、參州岡崎の城主より、兩使を以て、以來入魂致すべきの
旨、誓紙を持參し、賴み入るの口上、慇懃に演ぶ。進物に太刀一腰・馬代として黃金
十枚・唐の頭二頭なり。謙信對謁︀して曰、來示の如く、疎意に存ずまじく候。自今以
後は、互に固く親昵の因をなすべき儀、歸りて申さるべしと、返礼竝に{{r|鴇|つきげ}}の馬一疋送
られける。謙信、家臣に謂へらく、程遠き謙信を賴むとある事、我が武威の强き故な
りと、大に悅び給ひけり。
{{仮題|投錨=謙信信州へ出陣の事|見出=中|節=e-12-2|副題=|錨}}
同年四月廿八日、謙信、信州河中島へ馬を出し給ふといぶとも、在々を此度は、燒き給
はざりき。時に伊奈の四郞勝賴、之を聞きて、夜を日に繼いで馳せつき、謙信一萬餘
の人數に、千人に足らざる人數にて備を立て、對陣に及びし所に、謙信之を見て、無
類︀の若者︀かなと、其志をやさしといつて、早々引きて歸城なり。同年十月に信玄、越
後の明光山といふ所まで、出陣なりといふとも、謙信構はずして、出馬なかりしか
ば、信玄父子も引去りける。
{{left/s|1em}}
傳に曰、四郞勝賴と見て、やさしの若者︀と譽めて、引退き給ひしは、軍の習。萬一
少しにても、{{r|後|おくれ}}をとりなば、若輩の勝賴といひ、我よりも少人數なれば、謙信今迄
の高名、虛しくなるのみかは。以來の軍、仕惡くきものなるを、思慮し給ひて、子
共連を相手にしては、大人氣なしといふ心を含ませ、譽めて引取り給ひしは、厚
き軍智なりとかや。之を詞の采配といふなり。一說に、勝賴大軍なりし故、若し軍
勝利なく、負色になり引去らば、大に恥辱なりと、軍慮をめぐらし、辯舌を以て、詞
の采配をつかひ、合戰し給はず。其後、信玄越後の太田切明光山まで、押來りし時、
{{仮題|頁=98}}
謙信出陣し給はざりしは、十月の事なる故に、次第に雪深くなるに依つてなり。
若し敵勝に乘つて、奧深く入りなば、雪に會うて、進退途を失はん事を慮りて防戰
し給はざりけり。信玄も流石の明將なれば、寒國より出でがたき事を、察しての
働きならん。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=武田信玄病死の旨越後へ吿ぐる事|見出=中|節=e-12-3|副題=|錨}}
天正元年癸酉四月の下旬に、越後の間者︀、甲府より急ぎ歸つて、言上して曰、{{仮題|投錨=信玄病死|見出=傍|節=e-12-3-1|副題=|錨}}當四月
十二日信玄病死せらる。然れども、深く隱密なるに依つて、甲府の上下共に、靜謐に
候なり。其の節︀、謙信朝飯︀を食し居給ひしが、之を聞きて、箸を抛つて落淚し、暫く愁
歎の色ありといへり。其後、諸︀臣を召して、今年は他國への出陣を止め、軍卒の身
勞休めしむべしと、各承はつて退出せり。同年柹崎和泉守誅せらる。人其の罪を知
る事なし。
{{left/s|1em}}
傳に曰、信玄の先祖︀は、新羅三郞義光甲州に住せしより、累世當國に居住す。義
光の曾孫太郞信義、始めて武田と稱號す。是より世々、甲斐源氏といへり。信義の
子孫分流して、諸︀國に住すといへども、嫡流は本國甲斐に住せり。其の後裔武田
大膳大夫信虎の嫡子、武田大膳大夫晴︀信、法名信玄德榮軒法性院と稱す。十六歲
の初陣に、平賀源心を討取りしより、一生の戰功、智謀、天下に隱なく、千英萬雄の
みかは、弘才にして歌道にも長じ、秀逸︀の詠數多あり。誠に文武兼備の良將なり
しに、{{仮題|投錨=信玄の遺言|見出=傍|節=e-12-3-2|副題=|錨}}命期來つて天正元癸酉四月十二日に、病氣重りければ、一家の衆中、竝に譜
代の侍大將衆、其の外、要害を持ちたる諸︀士、悉く召寄せられ、死後の軍法、樣々の
掟共遺言あり。命終らば具足を着せ、諏訪の海︀に沈め、今より三年目、亥の四月十
二日に弔の儀式執行ふべし。それ迄は病氣と披露し、深く隱密すべし。此儀を思
ふに依つて、五年以前より、此煩大事と思ひ、白紙八百枚餘に判をすゑ置きたりと、
厚長櫃より出させ各へ渡し、諸︀方より書札到來せば、返書此の紙に書くべし。信
玄煩なれども、未だ存生と聞きたらば、他國より當家の持分へ、手を懸くる者︀ある
まじ。其の國取るべしとは思寄らず。自國を信玄に取られぬ樣に、用心致すばか
{{仮題|頁=99}}
りならん。我れ死したるを隱して、三年の間に國家を鎭め候へ。跡の儀は、四郞が
子信勝十六歲の時、家督に究むるなり。其間は、陣代を四郞勝賴務むべし。但し
當家の旗は持たすべからず。我が孫子の旗・將軍地藏の旅・八幡大菩薩の{{r|據旗|こはた}}、何
れも出す事一切無用なり。太郞信勝家督の上、初陣の時より、孫子の旗ばかり殘
し、何れも家の旗を出すべきなり。勝賴はいつもの如く、大文字の據旗にて出づ
べし。勝賴が指物法華經の母衣をば、典厩に讓るべし。諏訪法性の甲は、勝賴着
して後、信勝に讓り候へ。典厩・穴山兩人を賴入り候間、四郞を屋形の如く敬ひて
吳れられよ。勝賴が子信勝、當年七歲にて幼少たりといへども、信玄が如くに思
はれ、成長致候やうに賴むなり。次に勝賴軍配の取樣は、謙信と和議を調へ、其上
にて賴むとだにいはゞ、引く武士にて之れなし。殊更四郞若き者︀なれば、猛き謙
信なる故に、大人氣なく思ひて、敵對はすまじきぞ。却つて此方の扶となるべし。
必ず勝賴は、謙信を執して賴むと申すべし。左樣に致して、少しも苦しからざる
謙信なり。其外今の武士共は、皆表裡を專らとして、弱きを捨て、强きに從ふなり。
我れ死したりと聞かば、氏政も定めて、人質を捨てぶり致すべし。各其の心得仕
り候へ。當代に武士道を立つる大將は、謙信一人なり。是と一味せば、北條・織
田・參州勢、三將一度に襲ひ來るとも、此方勝利疑ひなし。勝賴、他國へ出で、卒爾の
働き致すべからず。萬づ思案・工夫・遠慮、信玄が十雙倍氣遣致すべし。斯く愼む
上に、敵其方を侮︀づり、無理なる働を仕るとも、暫く堪忍し、甲斐の國までも入立
てゝ後合戰を遂ぐると存ぜば、大きなる勝になるべく候間、三年の間、深く愼みた
候へといひて。行年五十三にして、朝の露と消えられけるとかや。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=越後より武田勝賴へ使者︀の事|見出=中|節=e-12-4|副題=|錨}}
天正二年甲戌正月下旬に謙信兩使を以て、武田四郞勝賴へ言遣されしは、我れ信玄
と十五六箇年、屢對陣に及び、雌雄を爭ふといへども、終に勝負を決せざる所に、去
冬逝去なりとも、又は大病なりとも聞けり。惜むべきかな英雄の將、今より勇武を
爭ふ者︀なし。故に甲冑を脫ぎ、弓矢を裹み、以て軍事を絕たんと欲すといふとも、近
{{仮題|頁=100}}
來尾州織田信長、暴惡にして武强に傲り、公方義昭公を蔑にして、畿內に武威を振ひ、
洛外を襲ふの由、制せずんばあるべからず。來陽は我れ越前表より、速に討つて上り
候はん間、貴所又、東海︀道より押上られ、尾州に至つて、兩旗を合せ、平信長を退治せ
んと云々。一說に甲州の住、長遠寺といふ一向宗の僧︀を招き寄せ謙信謂へらく、來
春に至らば、遠州・參州・美濃へ勝賴公出馬候べし。謙信は越前を經て尾州に至り、兩
旗を以つて、信長を裏表より、攻滅し申すべしとなり。彼の僧︀、委細承つて立歸り、勝
賴へ言上す。勝賴聞いて曰、近き頃まで、當家の大敵なる謙信と申合せ、信長を攻
めん事、當家の鋒先衰へたるに似たり。且つ又、隣國の諸︀將、我を侮︀り笑はんのみ
といつて、返答にも及ばざりけり。{{仮題|投錨=謙信の任俠|見出=傍|節=e-12-4-1|副題=|錨}}是に依つて、謙信立腹して曰、我れ何ぞ勝賴が
武威を借りて、上洛せんと欲せんや。信玄死後なるに、信長を敵にうけ、便なく思
はんと哀憐の心を以つて、いひ送りしなり。謙信、他の武將の如き者︀ならば、年來
武威を爭ふ信玄死したりと聞かば、是れ幸と悅んで、卽時に押懸け、蹈潰すべけれ
ども、我は然らず。却つて勞りて、武田が領地へ出馬する事なし。然るに其の志情
を感せざるは、人を知らざる勝賴闇將なり。後必ず、織田信長が爲に、國家を亡さ
れんと宣ひしが、{{仮題|投錨=勝賴滅亡|見出=傍|節=e-12-4-2|副題=|錨}}果して天正十年三月十一日、信長の爲に、勝賴卅七歲、法曹司十六
歲にて討死なり。相供の軍には、小山田式部丞・米山內膳正・安部加賀守・溫井常陸
守・小原丹後守・土屋右衞門尉・安西平左衞門尉等四十三人、一同に切腹して、名を後
世に留めり。
{{left/s|1em}}
傳に曰、謙信、勝賴に上洛を勸められしは、奧意ありての事なり。本文の趣は、謙
信詞に出し給へる一通なり。心胸の一通は謀計なり。勝賴、謙信の差圖に任せ、
東海︀道を上洛あらば、邊州・參州の間にて、參州勢支へ留めんとして、合戰あるべ
し。然らば加勢として、織田信長必ず出馬たらん。其の間に謙信、北國路より上
洛し、洛外五畿內の弱將等を追討し、參內を遂げて、公方義昭公の先手として、信
長を追伐せんとの儀なり。然りといへども、勝賴承引なかりしかば、此望も達せ
ざりき。勝賴、謙信の心意を慮つて、承引せざるには非ず。若き血氣の勇に任せ、
父信玄の遺言をも打捨て、謙信と一味せざる故、早く亡べり。惜いかな。時節︀と
{{仮題|頁=101}}
はいひながら、武田信玄まで廿七代の居住、甲府の屋形、勝賴の代に至つて、永く
滅却せり。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=能登國の武士等逆心の事<sup>附</sup>國主畠山義則討死の事|見出=中|節=e-12-5|副題=|錨}}
同年能州の守護、畠山修理大夫源朝臣義則の幕下の諸︀將、神︀保安藝守・長九郞左衞門
尉・溫井備前守・三宅備後守・平式部丞以下、逆心を企て、己々が城郭に楯籠りければ、
在々の野武士等馳集つて、義則急難︀の旨、飛脚を以て、越後へ援兵を乞はれける。此
義則は、謙信の姊婿なれば其子喜平次景勝は、謙信の甥なるに依つて、越後に來り居
れり。謙信卽ち喜平次を大將として、軍兵一千餘騎を相添へ、兵船百餘艘に取乘せ
て、能州指して急ぎける所に、俄に大風吹き落ちて、波浪山の崩るゝが如く、水主・揖取
膽を消し、周章てふためくと雖も、猶風しづまらざれば、漸々巖間に碇を懸けて、暫く
波難︀を凌ぎける。時移りければ、海︀上{{r|些|ちと}}穩かになりにけり。さらば船を出せとて、
爰を先途と急ぎけれども、着岸三日以前に、義則軍敗れて、逆走の爲に終に討たれけ
り。加勢の大將喜平次景勝、獅子奮迅の怒をなし、直に城下に押詰め、實父の敵な
れば一人も漏すなと、自ら鑓を提げ、突︀けども切れども事ともせず、無二無三に攻寄
せ、逆徒等悉く討平げしかば、{{仮題|投錨=能州上杉の領國となる|見出=傍|節=e-12-5-1|副題=|錨}}能州自ら謙信の領國となり、卽ち上杉喜平次景勝を
して、當國を守らしむ。
{{仮題|投錨=出軍の評議<sup>幷</sup>謙信出馬なき事|見出=中|節=e-12-6|副題=|錨}}
天正三年乙亥、謙信四十六歲正月五日、群臣と相共に、當春の軍事評議し給ふ所に、
老臣{{r|僉|みな}}曰、信玄逝去の以後、勝賴所々の合戰に勝利を得られしに依つて、其武勇を恐
れ、甲府持の城へは、手を懸けざるなど、諸︀將の批判せん所もあれば、先づ武田四郞
勝賴が領分信濃國を平治し給ひて、夫より飛驒・越中の內、武田が幕下に屬する郡縣
の諸︀士を、討從へ給ふべしと諫めける。謙信聞きて、{{r|言|まう}}す所尤なり。然りといへど
も、勝賴最前は軍に利ありしが、去年より織田信長、參州勢に對陣して、今年は是非
に、勝負の一戰を遂ぐべきの由を聞けり。然れば我れ、今彼が領地へ出勢せば、弱き
{{仮題|頁=102}}
時を窺ひて、働くに似て、大人氣なしと宣ひて、暫く出陣を止められける。
{{仮題|投錨=越後より飛驒國を攻取る事<sup>附</sup>越中表出馬の事|見出=中|節=e-12-7|副題=|錨}}
天正四丙子年、飛驒半國程の將、ひらゆ越前守{{仮題|分注=1|一說に、白屋|越前といふ}}嫡子監物は、謙信の幕下た
りしが、越後へ使者︀を以て、吿げて曰、同國江馬常陸守・同息右馬允は、甲州武田の
旗下にて、輒もすれば、國中を亂さんとするの間、御退治あるべく候か。然らば御先
手として、某馳向ひ追討せしむべし。御勢を給はり候へと乞ふ。謙信聞きて宣はく、
信玄死後、武田の分國を討取らんと欲せば、假令甲州たりとも、豈是れ難︀からんや。
然れども我敢て、出馬せざる意旨は、若輩なる勝賴を、侮︀るに似たる事を、恥づればな
り。殊更長篠の合戰に打負け、武威の衰へたるを見て、信玄の時はならねども、打果
したるなど、世上の沙汰に乘りては、今迄の武勇皆無になり、合戰に勝ちたる甲斐
なければ、信濃・上野へは構ふまじ。飛驒・越中の儀は、勝賴唯今の形勢にては、捨つ
るにて是あらん。次第に遠州口へ出づる事もなりがたからん。遠州・參州・濃州の
城共、大方信長參河の大守に攻取りたりと聞えり。斯くては飛驒・越中も、終には信
長に服從すべし。然れば今、此方へ取候はんとて、卽ち柴田・色部兩人に命じて、三千
餘人の大將たらしめ、越前守に加勢として差遣し、江馬常陸を討取り、{{仮題|投錨=謙信、飛驒を征服|見出=傍|節=e-12-7-1|副題=|錨}}飛州を平治し
て、今度の忠功に、越前守をして守護たらしむ。同年謙信、越中表に出馬し給ひ、椎名
等を退治して、川田豐前守に命じて、國の政を正さしめ、之を守らしむ。夫より直に
加賀國に、陣を移して、一揆の張本少々討取り、亂入燒働して歸國し給へり。
{{仮題|投錨=賀州長野落城の事<sup>附</sup>信長の後詰退散の事|見出=中|節=e-12-8|副題=|錨}}
天正五丁丑年三月下旬に、謙信、加賀國松任表に發向して、長野が城郭を七重八疊
に取卷いて、弓・鐵炮を以て、絕間もなく攻詰めければ、城兵防ぎかねて見えけるを、
謙信下知して、此の時猶豫する事なかれ。皆一同に乘れと、宣へば、早雄の若武者︀共、
我れ先にと進み、討たれし者︀を足傳にし、曳々聲を出し、逆茂木引崩し、塀下に着き
にける。城中爰を破られじと、防ぎしかども、寄手は大勢を、入替へ{{く}}攻めければ、
{{仮題|頁=103}}
甲の丸にぞつぼみける。時に織田信長、四萬八千の軍兵を引率して、後詰の爲に出
陣せらる。謙信の斥候歸つて、之を吿げける故、其夜總攻にし給ひければ、信長未
だ着陣せざる前に落城す。{{仮題|投錨=長野城陷る|見出=傍|節=e-12-8-1|副題=|錨}}長野を始め從兵の首級を、城外に獄門に梟け給ひけり。
翌日信長後詰の先陣來着し、落城の有樣を見て、一戰に及ばず引退かんとす。越後
勢、後を慕ひ支へ止めんと欲し、一里先の林の陰に、伏兵を三所に置き、相待つ所に、
後詰の軍兵、其夜に引退きけるを、追蒐け討ちとめんと、鬨を作りかけ{{く}}、慕ひ行
きける所に、件の伏兵、三方より起つて、遮り止めんとす。後詰の軍兵、驚いて敗北す、
越後勢思の儘に、敵を欺いて數多討取りけり。謙信の武威、朝日の如く輝き、近年
益〻盛なり。同年九月中旬、謙信、使者︀を織田信長へ遣して、來年三月中旬、越後を打
立ち、越前表に於て、一戰の勝負を以て、其の雌雄を決せんと云々。信長返答に曰、
此の方聊も相敵する事を欲せず、唯降和の意なるのみと、無事をつくろへり。
{{left/s|1em}}
傳に曰、甲府の高坂彈正、{{r|頃|このごろ}}の形勢を見て、當家斯の次第に衰へては、滅亡遠から
ずと工夫して、勝賴に諫言せしは、上杉謙信へ降和を乞ひ、偏に賴入るの旨、宣ひ
なば、謙信否とは申さるまじ。則ち信玄公の御遺言といひ、旁以て御尤かと存候。
然るべき人に命ぜられ、是非共に謙信の旗下として、降禮を勤め給へかし。是れ
家治まるべきの方便なり。其{{r|謂|いはれ}}は、只今の謙信、武威高大にして、信玄公御在世
の時と等しく、謙信向ひ給ふ先々、疫病はやり、士卒等大半物の役に立たず。只
生きたる摩利支天かと存ぜられ候。是に依つて信長も、信玄公御他界の年より、
謙信を執して、一年に七度づゝ禮儀を正し、當家へ致されたる如く、夥しき贈︀物に
て、使者︀を遣し、其の上、信長の家士佐々權左衞門を、越後に詰めさせ、謙信の機嫌
を伺はしめ、敬ひ申さるゝと聞え候。然れば御家長久の術、是に過ぎたる事あら
じと、譬を引き理を盡して演說しけれども、運の竭きたる驗にや、勝賴承引なか
りけり。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=京都︀出勢の陣觸<sup>幷</sup>珍怪の事|見出=中|節=e-12-9|副題=|錨}}
同年十月中旬、謙信、老臣・寵臣・物頭・諸︀奉行を召して、來年越前表へ、發向の軍評定あ
{{仮題|頁=104}}
つて、陣法・軍令決定あり。幕下の諸︀將の國々、佐渡・飛驛・越中・加賀・能登・羽︀州庄內・上
州東郡・在國の越後、以下八箇國の諸︀將等、殘らず來年三月に、一左右次第出勢仕るべ
き旨、觸れ知らしめ、我れ越前路より押登り、信長を追却して上洛せしめ、天下に旗
を立てんと欲すと、軍裝頻︀なりき。斯くて明年正月に至つて、謙信の姊君善道院殿
に、奇異の珍怪ありけり。其の長、纔に四五寸に足らざる程の人形、小き馬に打乘つ
て、每夜爐中より出現して、彼方此方と徘徊す。人近寄つて、之を見んとすれば、忽ち
失せ去りぬ。又春日山毘沙門堂の邊に、頭髮逆に生ひたる人、髮を以て顏を掩ひ、夜
な夜な出でゝ、人を追腦す。是に行逢ふ者︀、膽を消し氣を失ふ者︀多し。是れ柹崎和
泉守が亡魂なりといへり。
{{仮題|投錨=謙信病死の事|見出=中|節=e-12-10|副題=|錨}}
天正六戊寅年三月九日、謙信厠に往いて、俄に腹痛起り、日を追つて病重りければ、兄
弟の養子及び、一家門葉・諸︀老臣・近臣はいふに及ばず。城中・城外の諸︀士寄集つて、湯
藥・鍼石・灸治の醫療を、盡すといふとも、耆婆・扁鵠が醫術の傳も徒らに、諸︀寺・諸︀社︀の
祈︀願空しく、殊に謙信は、眞言宗に歸依し給ひて、常に密法を修し、肉食・女色を斷じ、
行法疎ならざりし人なれば、祈︀願寺の高僧︀・貴僧︀、大法を修し、晝夜怠らず、護摩の煙
は堂外に横はり、肝膽を摧き、丹誠に祈︀り給ひけれども、驗は更になかりけり。其の
上謙信、若年より信心ありし毘沙門の守本尊へ、備へ奉りし供物の內、洗米黑色に變
じければ、僧︀俗共に、是れ不吉の奇瑞なるべしと、力を落しける所に、{{仮題|投錨=謙信病死|見出=傍|節=e-12-10-1|副題=|錨}}果して同十三日
に身心惱亂して、元氣次第に衰へ、天運の極所四十九歲の春秋を一期として、遂に薨
逝し給ふ。人間の一生は、實に風前の孤燈、榮耀も亦草頭の露消えやすき世の習、惜
むべし歎くべし。存生にては如何なる剛强の敵も、挫ぐに難︀しとせざりしかども、
無常の殺︀鬼は遁るゝに據なし。末世類︀なき賢將なれば、一度天下國家の政道たら
んとのみ。晝夜其志を碎き、朝昏其思を費し給ふ。是れ乃武將たる者︀の龜鑑なり。
其仁惠は、廣く四海︀に覆ひ、其廉讓は、普く一天に涉りて、武德を施し、萬民非道の積
惡を戒め、好曲邪智の族を退け、文武兼備の臣を招き、聖賢の示敎を慕ひ、大量英機
{{仮題|頁=105}}
の明德、八荒に輝き、遠近の勇士、其家風を仰ぎ、招かざるに來りし親疎の大臣・諸︀
士、永き別離の悲み淚に沈みつゝ、{{r|泪々|なく{{く}}}}尊骸を春日山の艮に、松栢茂りたる岡の淸
地に納め奉り、孤墳一堆の主とぞなりにける。行年四十九。上杉輝虎{{仮題|分注=1|法|名}}不識院謙
信と號す。辭世に曰く、
四十九年夢中醉 一生榮耀一盃酒
{{仮題|投錨=謙信死去に就きての一說|見出=傍|節=e-12-10-2|副題=|錨}}一說に、織田信長を追討あるべしとあつて、前年より評定なれば、大軍を引率し、旣に
越後を發馬し給ひしが、三月十三日の夜、旅館︀に於て、頓死せられけるとなり。故に
遺言なかりしかば、養子兄弟、家督を論諍して合戰ありと云々。
{{仮題|投錨=謙信の養子兄弟鋒楯の事|見出=中|節=e-12-11|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=養子兄弟合戰|見出=傍|節=e-12-11-1|副題=|錨}}去る程に、北條家よりの養子上杉三郞景虎、後政虎と改む。越州春日山の城の二の
郭に居り、又謙信の甥上杉喜平次景勝をも猶子として、同三の丸にあり。然るに景
勝、謙信の卒去と等しく、本丸に{{r|𦐂|かけ}}登り、二の郭に居られし三郞政虎を、目の下に見
下し、鐵炮を打ちかけ急に攻めければ、防ぐに堪へで、大場口へ走り出で、合戰に及び
しが、不意に起りし事なれば、少勢といひ、其上大半生肌にて、弓・鐵炮に射{{r|麻木|すく}}めら
れ、一戰に打負け敗走す。上杉の家臣北條丹後守・荻田主馬助等、政虎を援けて、信州
善光寺に楯籠るといへども、是も亦叶はず討死す。政虎終に、甲府に落往きて、武田
勝賴を賴み、姊婿なれば暫く蟄居せられける。斯くて景勝は謀を運し、勝賴の近臣
長坂長閑・跡部大炊介に賄賂し、謙信上洛の用意として、貯へ置かれし數萬兩の黃金
を贈︀り賴まれける。素より此兩人は、非道不義の者︀なりしかば、邪欲に耽り、密に景
勝に一味し、勝賴へ內々申しけるは、上杉景勝公、御當家を御賴み候は、政虎公を失
ひ給はらば、以來御一味たるべしと、神︀文を以て仰越され候。只今の節︀に、政虎公を
御贔屓候はゞ、信長へ一味あつて、忽ち當家の敵となり給はん事疑なし。然らば由
由しき御大事なるべし。賴まるゝこそ幸なれ。御承引候はゞ、其以後は、御入魂に
なり給ふべきぞ。然らば信長も、聊爾に取懸け申すまじなど諫めける。勝賴は何事
も、此兩人の申す事を、宜しく思はれければ、綠族の因も忘れ、其れ如何樣とも、計ら
{{仮題|頁=106}}
ひ候へと、{{仮題|投錨=政虎殺︀さる|見出=傍|節=e-12-11-2|副題=|錨}}あるに依つて、長坂長閑・跡部大炊介兩人が才覺にて、政虎を密に殺︀害した
りけり。不便なりし有樣なり。其の頃、落書に曰、
無常やな國を寂滅する事は越後のかねの諸︀行なりけり
狂歌の如く、武田の家も程なく滅びけり。
{{仮題|投錨=景勝國家を治む<sup>附</sup>武田勝賴妹入輿の事|見出=中|節=e-12-12|副題=|錨}}
天正七年己卯三月迄に、政虎へ志を通じ、又は去年一戰の時一味し、當家へ敵對せ
し士共、在々所々に、隱れ忍びて居たりしを搜出し、悉く誅戮し、其の外親族等糺明
を遂げ、罪の輕きは、其品に依つて、領國を追放し給ひけり。景勝に從伏せし諸︀臣、
及び下僕等に至るまで、戰功忠義に依つて、其の品々を糺し、感狀且つ加祿を與へ、不
識院謙信の制法を亂らず、中直の德行を施し、城外の町人・領國の百姓等を慈憐し、政
道正しければ、舊臣・上下共に、入道謙信公の再來し給ふかと、甚だ悅び、景勝の命を
承伏して、私曲橫惡を致さず、偏に水魚の思をなしにける。同八月景勝、上杉彈正少
弼と稱す。此の時廿五歲なり。英勇・智謀人に越えしかば、武威近國に振ひ、春日山
に在城し、國境に要害を構へ、堅く守禦の備をなし、軍慮聊も由斷なかりける。斯
くて、甲府の弓箭ぞ次第に衰へければ、舊臣相議して、勝賴の妹姬を、上杉景勝に嫁せ
しめ、緣結の交之れある時は、當家行末然るべしと、決談の上、越後へ取組みける。
景勝も、去年大切の無心賴まれし事なれば、異議なくして相調ひ、同九月入輿なりけ
り。其後大閤秀吉公の命に依つて、景勝奧州の會津に移り、百二十萬石を領し、門葉
繁榮せり。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|越後軍記}}{{resize|150%|卷之十二<sup>大尾</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=越後軍記/巻之十二}}
{{仮題|ここから=昔日北花録/序}}
{{仮題|頁=107}}
{{仮題|投錨=昔日北花錄|見出=大|節=|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=序|見出=中|節=s-jo|副題=|錨}}
讀{{レ}}史君子、爲{{レ}}國觀{{二}}之上古{{一}}、驗{{二}}之當世{{一}}、參以{{二}}人事{{一}}。誠哉。上古攷{{四}}所{{三}}以爲{{二}}此國{{一}}、古昔北
方之利浪山・安計呂山・安羅地之越{{二}}於三嶺{{一}}赴、曰{{二}}東國{{一}}焉。於{{レ}}是乎、號{{二}}三越路{{一}}{{仮題|分注=1|前中後|分{{二}}三國{{一}}}}
矣。昔在{{二}}日本武尊東征之時{{一}}乎、京洛之後兵、經{{二}}北地{{一}}向{{レ}}東、至{{二}}利浪山之麓{{一}}者︀、武尊歸
路而後逢{{二}}於玆{{一}}、所{{二}}以加賀{{一}}、而名{{二}}加賀郡{{一}}。{{仮題|分注=1|今河北郡|加賀諸︀邑。}}北越有{{二}}四大河{{一}}。貢參之民苦{{レ}}玆、是以{{二}}
廳之遠{{一}}故也。元正之養老二年、越前國割置{{二}}能登國{{一}}、嵯峨之弘仁癸卯之春、又置{{二}}加賀
國{{一}}也。此國也者︀、西、滄海︀漫々、遙隣{{二}}契丹女眞{{一}}、東、白山聳{{レ}}天、雲常帶{{二}}廻峯腰{{一}}。國々中{{二}}
四時節︀{{一}}、五穀︀豐熟、而人情知{{二}}一已之足事{{一}}、而無{{二}}求{{レ}}他心{{一}}。農夫水便宜而末稻積{{レ}}棟、樵
夫山近而有{{レ}}便、漁太晴︀湖邑間湛、婦女以{{二}}釣竿羅網{{一}}爲{{レ}}業。寔國富民豐而可{{レ}}謂{{二}}天府
國{{一}}也。干{{レ}}茲上自{{二}}皇朝{{一}}使{{二}}王子{{一}}爲{{二}}國司{{一}}、以{{二}}國士{{一}}爲{{二}}政助{{一}}。其興廢雖{{三}}人之所{{二}}能識{{一}}也、
只爲{{二}}幼童之睡之慰{{一}}、事跡詳審記焉。語拙筆劣、不{{レ}}可{{レ}}無{{二}}雕蟲之嘲篆刻哢{{一}}、惟俟{{二}}後之
{{仮題|頁=108}}
君子點竄是正{{一}}耳。
{{sgap|16em}}藤周民識
{{dhr|4em}}
{{仮題|ここまで=昔日北花録/序}}
{{仮題|ここから=昔日北花録/巻之一}}
{{仮題|頁=108}}
{{仮題|投錨=昔日北花錄|見出=大|節=s-1|副題=卷之一|錨}}
{{仮題|投錨=富樫氏加賀介に任ぜらるゝ事|見出=中|節=s-1-1|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=富樫氏略系|見出=傍|節=s-1-1-1|副題=|錨}}抑富樫氏は、天兒屋禰尊二十代の孫大織冠鎌足より九世、藤原の利仁より出でゝ、利
仁に三子あり。嫡子有家、下野守鎭守府將軍、二男從五位上敍用、三男從五位上有
賴なり。嫡子は越前守に任じ、二男は加賀國に任ぜられ、三男は越中に任ぜられ、井
口三郞といへり。此次郞敍用の子を、次郞吉信といひ、其子加賀介忠賴・其子次郞吉
宗・其子次郞宗助・其子富樫次郞家國なり。{{仮題|投錨=富樫家國の仁政|見出=傍|節=s-1-1-2|副題=|錨}}然るに人皇六十一代一條の院の御宇、加
賀國は親王家の任國たれば、同國の武士も、介に成下さるべしとて、瀧口の候人富樫
次郞家國といふ者︀を選み出され、加賀之介に任ぜらる。在位三年に國に在りて、轉
任の節︀に至りければ、國民共帝都︀へ訴へて、再び任を賴みければ、敕許ありて、六年
{{仮題|頁=109}}
を勤めける。國政溫和になりて、土民談じ合せ、猶永任をぞ願ひける。忝くも天聽
に達し、家國の政道類︀なき事、偏に都︀家の慶事なりとて、則ち永任の敕ありて、永く
加賀之介とぞなりにけり。則ち富安の庄野々市に館︀を壯觀にし、國家の政道私な
く、國民共彌〻悅びける。
{{left/s|1em}}
鎌倉實記に、凡そ日本を八道に分ちて、國々へ任國司を遣さる。一道に三年宛勤
めて、廿五年の後上卿となり、上卿又八省あり。然るに親王家は、任國の下向なし。
帝都︀にありて、國の守に任ぜらる。所謂唐の關內候の如し。故に其國へは、介を
一人差下して、政をなさしむ。此任國八箇國あり。所謂周防・加賀・遠江・上總・上
野・下野・常陸・出羽︀是なり。此國々の介に任ぜられ、下向する事、武士の規模とす
る故に、周防に大內介、加賀に富樫之介、遠江に井伊之介、或は上下野州に狩野之
介・三浦之介、秋田に城之介等などとて、永任に處せらる。又是等は、武功に其名
殘りたる輩なり。然るに京都︀將軍尊氏の末義滿時代より、武家高官になりて、被
官の輩等に至るまで、國受領の號を附けければ、彼國々の八介も、嘗て名譽とは
思はざりけり。近世は、親王三家になりて、常陸・上野・上總に御任國ある故、今此
三介を以て、國守に准ぜらる。
{{left/e}}
思ふに、富樫次郞家國卒し、一子信家相續して、政道猶更正直に行はれ、國民仁恩を
悅びける。其次富樫介家近、家督を續ぎて、狩野氏・布施氏の兩家司も敍位に爵す。
{{仮題|投錨=家近の武勇|見出=傍|節=s-1-1-3|副題=|錨}}此家近といふ者︀、身の長六尺餘、力量普通に越え、胸の厚さ一尺五寸、眼は鷹の如く、
髭は金針に似たりければ、飛鳥翅を落し、猛獸伏し隱るゝの威勢あり。常に鬼神︀と
交はりて、能く末龍の氣を知れり。平生食するに、一器︀に三升を盛りて食す。若し
餘あれば、川へ捨てさせける。或時狩野・布施の兩士、其餘を乞ひければ、家近曰、汝
等、我食を一所に喰はんとならば、我が敎ふる如く修行すべしとて、別火を燒き不
淨を拂ひ、百五十日の間、每朝垢離をかきて、其法を敎へけるに、兩人法の如くに修
行し終り、卒に三人、一器︀の肉を食しけるに、家司も能く、天地造化の氣を察し、吉凶
を言違へず。人皆奇異の思をなせり。
{{left/s|1em}}
大乘寺の記に曰、寬治三年の春の頃、家近睡眠の夢に、白衣の老人示して云、我は
{{仮題|頁=110}}
是れ當國黑津舟の神︀なり。此頃庭前の湖水に、神︀龍顯はれ、社︀壇へ害をなす。汝
勇士の聞えありて、此國の郡司たれば、急ぎ惡龍を退治すべしと、明かに宣ひて、
夢覺めにける。家近急ぎ白き馬に乘り、濱道を一駈に、黑津舟の社︀へ詣で、今夜
の示現、謹︀んで承るといへども、夫れ帝都︀の檢非違使等は、皆堅甲・良刀を所持しけ
れども、我れ未だ此の如きの惡魔退治の鎧を持たず。又鬼神︀を制するの寶劒な
し。願はくは神︀力を以て、この兩器︀を與へ下され給へと、深く祈︀誓して歸りける
が、其夜夢想ありて、白山の末社︀甲劒宮へ祈︀るべしとある故、未明に打立ちて、甲
劒宮へ詣でければ、社︀壇に白き臺を置き、其上に、一領の寶劒と鎧と載せ置きた
り。社︀司に問へば、夜前の神︀託に、此二品を今日乞ひ請くる者︀あらば、與ふべしと、
正しく神︀託に任せ、什物ながら此の如しと、語るに付、此間、黑津舟の神︀託を咄し
けるに、人々奇異の思をなし、二品の什物を與へける。富樫限なく悅び、急ぎ家に
歸り、六具をしめ、寶劒を帶し、馬に乘り、早く黑津舟の濱に至り、終夜窺ひ居たる
に、半夜の頃、海︀中より大龍顯はれ、家近に向ひ懸る。無手と組んで龍頭に跨り、
劒を以て刺すと雖も、大龍怯まず、旣に危く見えし折節︀、社︀壇より明神︀顯はれ給ひ、
汝が勇氣を試さん爲め、倶利伽羅の明王斯く顯れ、四方へ英名を耀し、國中無爲
の化をなさしめんとするものなり。授くる所の兵具を以て、國民を守護すべしと
宣ひて、神︀龍も明神︀も、昇天し給ふと云々。
{{left/e}}
是より家近が名譽四方に聞え、國中の惡徒陰を隱し、百姓無爲の樂みをぞなしにけ
る。又堀川院寬治の頃、帝都︀の傍鳥羽︀の里に、御所を造られ、城南の離宮と號す。
此造營に付、加賀國へも役步あたりて、富樫之介家近、人夫を引連れ上洛しける。途
中にして、怪しき夫婦の者︀、家近に立寄りて願ひけるは、我々夫婦は、洛外鳥羽︀の里
に、年久しく住む者︀なるが、此頃離宮造營の地に、愛子を育し居たりけるに、早くも
石垣を積みて、取出す事叶はず。露命危き時なり。君此度、造營の役に御上洛なれ
ば、願はくは彼普請の地に於て、愛子が危き命を救ひ給ふに於ては、我等生々世々
の高恩、忘るべからず。偏に御助け給はれと、搔口說き歎きければ、家近領掌して、
彼所に至り、石垣を取崩しけるに、穴の內より、狐の子三つ出でけり。則ち之を野
{{仮題|頁=111}}
外に放ちける。其後稻荷明神︀の託宣あつて、此度白狐の命を助けぬる其報として、
永く汝が家運を守るべしとなり。家近、神︀託を信じ國に歸り、稻荷明神︀の社︀を建て、
永く子孫の家運を祈︀りける。{{仮題|分注=1|今加賀の大乘寺高安軒に|祭る□の稻荷是なり。}}此頃奧州にて、鎭守府將軍淸原の
武則が子供武衡・家衡といふ者︀あつて、王化に背く故に、義家をして、之を討たしむ
と雖も、未だ落去せず。爰に又同國に、淸原の淸衡といふ者︀ありて、將軍義家を助
{{仮題|編注=1|けて|くカ}}、此淸衡は、俵藤太秀鄕が後胤として、共に藤原の同姓たれば、淸衡に加勢せ
ずんばあるべからずと、富樫介家近、羽︀州へ赴かん事を訴へけれども、朝廷之を許
し給はず。奧州の合戰落去せざる故、東北の國靜ならざれば、國中を空しくして、加
勢する事然るべからず。早く國に歸り守るべしとの敕諚により、家近、加賀の國に
歸り、專ら國政を守りける。此富樫介、殊に長壽して、保元元年、百十七歲にて卒す。
一子家經は、父に先立ち早世し、孫の家直、今年十一歲にて、家を繼ぎけれども、幼
少にて、暫く朝參の勤はせざりける。
{{仮題|投錨=富樫、加賀介を除かるゝ事|見出=中|節=s-1-2|副題=|錨}}
七十八代の帝二條院は、保元三年、御卽位まし{{く}}けれども、天下の政務は、上皇後
白河院御沙汰まし{{く}}ける。中納言信西、君邊に仕へて、院の叡慮に叶ひしをば、中
納言右衞門督藤原信賴、之を妬み、源義朝と語らひ、信西を討亡し、猶上皇を腦まし
奉る。是に依つて、平淸盛、嫡子重盛をして、信賴・義朝を討たしめらる。淸盛、源氏
の類︀葉殘らず尋ね出し、討取りけるが、漸々義朝の三子ばかり、仔細ありて、死罪を
免︀されける。又信西が長臣にてありし者︀の、僧︀となり、西光法師とて、上皇の御側に
仕へ奉るが、{{仮題|投錨=藤原師高加賀國司となり師經目代となる|見出=傍|節=s-1-2-1|副題=|錨}}次第に君寵を得、其子故、藤原師高、加賀の國司となる。故に弟師經を
目代として、加州へ差下し在國政道を行ひける。是に依つて、富樫次郞家直、漸々成
長に及びぬれば、國司に補せらるべき沙汰もなくて打過ぎけるが、安元二年の七月、
加賀國白山の麓なる鵜川湯泉寺の衆從、目代師經と爭論の事有{{レ}}之、旣に合戰に及ぶ。
其故は、師經入國して、檢見の爲めに、國中を巡見しけるに、此國、昔より此の如く、都︀
{{仮題|頁=112}}
人を國司に得たる事なければ、土民寺庵に至る迄、其馳走頗る物足らず。依{{レ}}之師經
之を憤り、在國の武士を供に召され、巡見してぞ步き行きける。湯泉寺は、白山の別
當として、越前の平泉寺と共に、叡山の末寺故、當時衆徒の威も盛なりしが、國司寺中
へ入りて、放埓の體を甚だ怒りて口論に及び、國司の僕を打擲しけるに、師高大に腹
を立て、衆徒の坊舎に火を懸け、燒立てしかば、大勢立出で、旣に合戰にぞ及びける。
其後衆徒大勢語らひ、白山の神︀輿を振上げて、本寺叡山へ訴へければ、{{仮題|投錨=叡山の衆徒師高を訴ふ|見出=傍|節=s-1-2-2|副題=|錨}}山門より公
廳へ申して、國司師高を流刑し、目代を禁獄せん事を乞ひける。然れども兩人が父
の西光法師、法皇の御氣色に叶ふが故、山門の訴訟は拘はらず、其年も止みにけり。
此鵜河合戰の時、國司富樫次郞家直、目代に從ひ巡見しける故、衆徒と戰ひけれど
も、一旦の事故、早く野々市へ引返しける。
{{left/s|1em}}
或說に曰、富樫次郞、此時菅生の庄磯部の神︀社︀にて、我が乘る所の馬を切つて敵に
向ひ、再び歸らざる事を、衆に示す事あり。此地、今敷地の天神︀といふ。富樫の馬
場とて殘れり。然るに其地の土俗、傳へていひけるは、家直上洛の歸路、雪大きに
降り、難︀儀の事あり。乘る所の馬飛去りて、糧を含み來りて、主に與ふ。馬は寒馬は寒
氣に堪へず、其所にて命を落す。家直、塚︀を築きて今に傳ふると云々。
{{left/e}}
其後山門の衆徒、彌〻怒り止まず。治承二年の春、衆徒大勢にて、日吉の神︀輿を振立
て、兩人が罪を嗷訴しければ、源賴政・平重盛をして、之を防がしむ。山徒神︀輿を禁
門にすゑてぞ歸りける。公卿僉議の上、平大納言時忠を敕使として、衆徒を宥め、只
二人を罪し給はんとなり。依{{レ}}之師經は、加州より召返され禁獄し、師高は四國の土
佐へ流されける。然りと雖も、法皇、山門の嗷訴を御憤りまし{{く}}ける上、西光、君
邊にありて、讒奏を構へけるにより、終に此年五月、座主明雲僧︀正を、伊豆國へ遠流
せしめ給ふ。是れ偏に西光の所爲なりと、衆徒半途に打向ひ、僧︀正を奪取りて、叡山
へぞ歸りける。此頃安藝守淸盛、王威恣にして、惡逆の振舞のみなりしかば、法皇後
白河院、潜に憤り給ひ、院の別當新大納言成親等に命じて、平家追討の御企ありし
に、多田藏人心變じて、淸盛に此事を吿げしより、平氏の輩等大きに怒り、治承二年
六月、新大納言成親を捕へて、備前國に流罪し、西光法師幷其子師高・師經も、死罪に
{{仮題|頁=113}}
行ひける。成親の子成經・康賴・俊寬僧︀都︀は、鬼界が島へ流し、法皇を鳥羽︀の御所へ押
籠め奉る。{{仮題|投錨=平敎盛加賀の國守となる|見出=傍|節=s-1-2-3|副題=|錨}}是より平氏威勢益ゝ募り、淸盛の弟參議敎盛を、加賀の國守に任ぜられ、
其弟は都︀にありて、家臣桂田右近を郡司として加州へ下し、成敗をなさしむ。然れ
ども諸︀國の源氏、法皇の院宣を請ひて、蜂起しける故、木曾義仲は信濃に起りて、越
後・越中を打從へ、京都︀へ攻登らんと企つる故、越後の國の資長を、越後守にして、木
曾を防がしむ。資長陣中に死し、舍弟長茂、是に代りて防ぎしが、長茂打負け、逃亡
しければ、義仲大に威を强くし、越中へ押渡り、射水郡に陣を取り、國中を語らひけ
る。折節︀炎暑︀にて、陣中水乏しければ、義仲弓を以て地を刺して、南無や八幡と祈︀願
しければ、忽ち淸水涌き出づる。{{仮題|分注=1|今中田の三戶田海︀道に、|弓淸水とて古跡あり}}軍勢力を得て、礪波郡へ打越え、
植生の八幡宮へ願書を籠め、蓮沼の町より、株莄の森に屯し、終に越中を打從へけ
る。爰に富樫次郞家直早世して、舍弟泰家、相續してありける。兼て法皇よりの院
宣ありし故、義仲に隨つて、篠原の合戰に高名し、名を顯しける。
{{left/s|1em}}
木曾義仲は、爲義が孫帶刀先生義賢が子、二歲にて父に別れ、久しく信濃に住し、
此度京都︀へ攻上り、平家を攻落し、自分をして朝日將軍と號し、王位を輕んぜらる
る故、賴朝、義經をして之を討たしめ、江州粟津が原にて討たる。某妾巴といへる
は、後加賀の國にて卒しけるとぞ。{{仮題|分注=1|加州倶利加羅|に古墳あり。}}
{{left/e}}
八十二代後鳥羽︀院文治元年、源賴朝、平氏を討亡し、四海︀靜謐に治まりしかば、諸︀國
總追捕使を召され、國々に守護を置きて、又庄園には地頭をすゑ、六十餘州、皆武家
の成敗となる。富樫家も鎌倉へ召され、左衞門尉に敍せられ、御家人とぞなりける。
{{仮題|投錨=富樫泰家加賀の守護職となる|見出=傍|節=s-1-2-4|副題=|錨}}此時泰家、加賀一國の守護職とぞなりける。
{{left/s|1em}}
鎌倉實記に、朝廷より國々へ下さるゝ國司を、受領とも號し、一國の政務を司ら
しめ給ふ。貢物を奉る役なり。其下に介・椽、其次に目・使生・使部・國掌抔いふ下司
ありて、國の大小により、椽・介とを略す。又一郡を司るを、郡司といふ。國司の下
にありて、一郡を支配するをば、大領といふ。是等の役人ありて、貢物を取立て
調進する。國の年貢を、正稅といふ。畠の年貢を公廨といふ。正稅は御藏に治め、
公廨は諸︀役人の料に下さるゝ。又調・庸と名付けつゝ、或は金・銀・絲・綿の類︀を調進
{{仮題|頁=114}}
する、是れ今の浮所務なり。戶數に因つて之を奉る。遙牧の國司とて、都︀にあり
乍ら、其國を司るあり。國司領の米は、所務すれども、公廨の配當なし。此配當は、
介に下さるゝなり。さて國々に因つて、公家・武家の家領一庄・一村宛、先祖︀より
傳來の領分あり。又寺社︀領もあり。其國生立の士ありて、一庄・一國を承知した
る者︀あり。皆々宣命の綸旨を以て、年貢を除くなり。公卿の役料は、太政大臣四
十町、左右の大臣三十町なり。位田とは、一位に八十町、夫より段々順下して、正
五位に十二町、從五位に八町なり。又封戶は、一位に八百戶、二位に六百戶なり。
此の如く、位田と職田とを以て、其官次第にて、其祿知るゝなり。扨其國に惡徒等
ありて、國司の成敗に隨はざる時は、帝都︀へ訴へ、彈正尹より之を下知し、檢非違
使或は將軍に仰せて、追討有{{レ}}之なり。然るに賴朝の時代、檢非違使の代りに、諸︀國
へ我家人を下し、守護と名付けて、非常の備になし給へども、いつしか諸︀事共に、
守護職の成敗となり、國司の權威は、空しくなりしなり。夫より大方には、國守に
任ぜられても、其國へ至る者︀なし。故に自ら、守護人の成敗とぞなりける。
{{left/e}}
文治三年、{{仮題|投錨=義經奧州下向|見出=傍|節=s-1-2-5|副題=|錨}}九郞判官義經、賴朝と不和にして、敕勘を蒙り、潜に奧州へ下向ありと、聞
えしかば、賴朝諸︀國へ下知して、其の路々を支へらる。加賀國へも下知ありて、安宅
の海︀邊に關をすゑ、彼輩を咎めしむ。然るに其年の三月、義經主從山伏となり、羽︀黑
山へ赴く樣にして、加賀國を打通る。船にて能登の國三崎浦を廻り、越中國氷見伏
木港へ上り、夫より越後路を經て、卒に奧州秀衡が許へ下りける。賴朝之を聞き給
ひ、甚だ怒り、{{仮題|投錨=富樫泰家官を解かる|見出=傍|節=s-1-2-6|副題=|錨}}富樫が守護を除き、剩へ官を解かしめらる。富樫泰家、是より流浪の
身となりし故、入道して、法名をば佛誓と改め、諸︀國を行脚し、奧州へ行きて、再び義
經に見えける。義經、前恩を思ひ、秀衡に賴みて、一箇の地を與へて、富樫を爰に居
らしむ。此處にて一子を儲け、前野庄九郞とぞ名乘りけるが、遙に年を經て、其子孫
太閤秀吉へ仕へ、今坪內氏と申すは、此人の末なり。佛誓入道、其後本國加賀に歸
りけるが、國にある富樫家春、家を繼ぎけるが、頃年父子共に大病の事あり。夢想に
吿ありて、河北郡津幡の太田山に、富士權現を勸請し、諸︀堂建立して、田地を寄附せ
しむ。是より先承久三年、鎌倉執權北條義時が振舞を、上皇後鳥羽︀院御憤あつて、諸︀
{{仮題|頁=115}}
國の武士に院宣を下され、鎌倉追討の事を企て給ふ。{{仮題|投錨=承久の亂|見出=傍|節=s-1-2-7|副題=|錨}}依{{レ}}之北條家大軍を催し、上洛
せしむる由なり。義時が次男朝〔{{仮題|分注=1|時脫|カ}}〕は、四萬騎の勢を率し、北國より馳登る。兼て
院御所より敕定あれば、富樫家春、幼少たりと雖も、越中の井口・桃井等と語らひ合
せて、越中・越後の堺川に屯し、防ぎけるが、終に關東の大勢に打負け、逃亡しけるに
より、朝時、都︀へ恙なく登りける。此時諸︀院・諸︀皇子、皆遠國に遷し奉る。其後六波
羅に探題を置き、諸︀國の下知をなさしむる故、彌〻武家の代とぞなりにける。富樫
泰家入道佛誓卒して、一子の家春家督し、後入道して、定照とぞ號しける。其の子泰
明・其子信泰、連綿としてありけれども、終に鎌倉へ召出されず。信泰が子高家相續
の頃は、後醍醐帝の御代の中なりけり。
{{仮題|投錨=富樫、足利家の幕下となる事|見出=中|節=s-1-3|副題=|錨}}
後醍醐天皇、諱は尊治と申し奉る。御年卅一にて卽位まし{{く}}此帝御幼稚より、文
字を好み給ひ、常に諸︀臣を召して、五經・三史等の論議をなさしむ。又東福︀寺の師陳・
南禪寺の疎石等を召し、禪法に御歸依あり。上皇後宇多院、政務を執行ひ給へ共、鎌
倉へ內談ありて、當今に政務を御讓りなされて、大覺寺へ御隱居し給ふ。此時鎌倉の
將軍は、守邦親王{{仮題|分注=1|後深草院御子、前將軍|久明親王の御子なり}}執權北條相模守高時なり。然るに去る承久の亂
以後、鎌倉の威盛にして、王威はありてもなきが如く、帝之を憤り給ひ、終には鎌倉を
追討せんと、元弘元年、諸︀國の武士に命じて、鎌倉追討の事を謀り給ふに、關東へ洩
れ聞え、鎌倉の大軍押來り、帝は笠置へ御幸なりしを、捕へ奉りける。其後關東の
足利尊氏・新田義貞など義兵を起し、鎌倉を攻亡し、六波羅を追落し、正慶二年五月、
再び重祚し給ひけり。此度の恩賞として、尊氏に常陸・下總を賜はり、義貞には、上野
播磨、尊氏の弟直義に遠江、義貞の弟義助に駿河國、嫡子義顯に越前國、楠正成には
攝津・河內、名和長年に因幡・伯耆を賜はり、猶も餘の恩賞も多かりける。凡そ昔は、
武家所領を受け領ずる事なかりしが、近年越中國は、名越遠江守時有守護として、放
生津に館︀を構へありけるが、元弘三年、鎌倉の北條高時、沒落に及びけると聞き、一
族を催し、同國射水の二塚︀といふ所に陣を張り、越後路より上洛する官軍を防がん
{{仮題|頁=116}}
と、待ち居たる所に、京六波羅も、沒落の由聞えければ、國中の一揆起り、終に押寄せ、
討亡しけり。舍弟修理亮有公・甥兵庫介一族、何れも船に乘り、切腹してぞ果てにけ
る。此遠江守は、北條時政よりは六代民部公貞の嫡子なり。{{仮題|分注=1|此後放生津海︀上に、幽靈折々|顯はれ候由、大平記に見ゆ。}}
建武元年、公家諸︀國へ國司を下されけれども、近年京都︀の亂逆故、公家闕職ある故、
五畿七道へ、纔に十六人下向ありて、其外は守護職として武士を遣され、或は目代
を置きて、下知をなさしむ。此時加賀國へは、二條大納言師基をして、國司として下
さるゝ故、河北郡に館︀を造り、近國の下知を掌らしむ。{{仮題|分注=1|其館︀跡を今、御|所村といふ。}}足利直義を鎌倉
へ遣し、相模守に任ぜしめ、成良親王を供奉して、關東將軍たらしむるなり。爰に西
園寺大納言公宗といふ人ありしが、北條高時が弟の惠性と、密謀を企て、高時が子の
時行などを語らひ、東國に於て、北條の餘類︀を狩集め、旗を揭ぐる故、尊氏大軍を引
率し、鎌倉へ下り、終に惠性・時行等を討亡し給ひける。爰に又名越遠江守が嫡子時
兼も、惠性等と謀じ合せ、越後・越中の間に旗を擧げて、道威を振ふ故、楠正成を北
國の討手として、下さるべきの所に、近習の支へに依りて、桃井播磨守直常を遣さる。
直常は越國の間に於て、名越太郞時兼と數度戰ひて、遂に時兼を討亡しける。富樫
高家も、加越の境にて、桃井に加勢の形勢を張ると雖も、名越早く滅亡に依つて、引
返しける。
延元元年、尊氏鎌倉に在留し、東國を一圓に打隨ひ、威を近國に震ひ、剩へ自ら征夷
將軍と稱す。是より先に惠性等、鎌倉の直家を攻むる時、直義立退きけるが、其頃大
塔宮尊雲親王、{{仮題|分注=1|天皇の|御子、}}仔細ありて鎌倉に捕はれ、御座ありけるを、惠性等に御一味あ
るかと疑ひ、竊に害し奉る。此事天皇聞召され、尊氏兄弟が恣の仕方、甚だ逆鱗ま
しまして、新田義貞に命ぜられ征伐させしむ。義貞、此時一宮尊良親王を供奉して
東征するに、參州・相州箱根兩度の合戰、官軍大に打負け歸洛せしかば、夫より北國・
西國・南國に至る迄、皆尊氏に應ずる者︀多し。{{仮題|投錨=富樫高家尊氏の幕下となる|見出=傍|節=s-1-3-1|副題=|錨}}是より富樫次郞高家も尊氏の下知に
從ひける。
延元元年、尊氏上洛し、京都︀に於て、義貞と戰ひけるが、奧州の北畠顯家、官軍を率
して上洛してければ、尊氏終に打負け、九州へぞ落行きける。此時富樫高家も上洛
{{仮題|頁=117}}
して、數度の合戰に出でけるが、戰空しうして、尊氏と打連れて、九州へぞ下りける。
筑紫の住人菊池武俊、九州の勢を催して、尊氏を討たんと合戰する。四國勢には、
尊氏の味方にて、筑前國多々良の濱に於て戰ふ。尊氏運を天に任せて合戰し、菊池
に打勝ちければ、夫より西國一統に、又尊氏へぞ屬しける。此時富樫次郞高家は、
多々良濱にて、{{仮題|投錨=高家戰死|見出=傍|節=s-1-3-2|副題=|錨}}晴︀なる手柄を顯し、討死を遂げにける。{{仮題|分注=1|此時の高名七|人の內なり。}}建武四年、尊氏都︀
へ歸り、大納言に任ず。{{仮題|投錨=義貞戰死|見出=傍|節=s-1-3-3|副題=|錨}}新田義貞、越前に於て命を落す。是より又、武家一統の代
となりけり。爰に富樫高家が一子、未だ幼少にてありけれども、將軍召出され、御
諱字を給ひ、氏春と號し、加賀之介に任じ、守護職を給はりける。是れ父の高家、九
州にて討死せし恩賞とぞ聞えし。氏春幼少なれば、高家が兄弟泰信・家明・家善に、
各一郡づゝの司を給はり、所領多く配當ありて、氏春が後見をなさしむ。中にも家
善は、强剛の兵にて、尊氏の幕下に伺候して、每度京都︀に於て高名を顯す。越中の桃
井幡磨守直常は、官軍となりて、尊氏と戰を挑む。依つて富樫の一族は加賀にあり
て、越前・越中の官軍を防がしむ。是より富樫の一族、加賀一國に繁昌し、泰信を山代
殿と號し、家明を久安殿と號し、家善を押野殿とぞ號しける。先祖︀家近が祭る所の
稻荷明神︀を、其館︀に勸請し、永く氏神︀と祭りける。
{{仮題|分注=1|富樫氏、稻荷を祭るに、賀慶に小豆飯︀を供し國民是に傚うて、此國今に至る迄、宇賀神︀祭及び賀慶ある每に、小豆飯︀を焚くとぞ。}}觀應二年、將軍尊氏の嫡子義詮を京に置きて、其身は西國征伐に
發向せらる。其隙を伺ひて、桃井直常、尊氏の弟直義入道惠源に應じ、都︀を攻めん
と、越中を打立ちける。加賀國富樫の一族は、尊氏恩顧の者︀なれば、之を防がんと兵
を催し、津幡村にして兵を揃へ、軍評議をなしけるに、頃は正月七日計り、北國の習
深雪の上に、此頃降積る春の雪、地上に五尺計もありければ、いかにして軍をなす
べきやうもなしと、人々いひけるに、直常、かんじきといふものを多く調へさせ、軍
兵にはかせぬれば、浮沓をはきたる如くにて、山合・谷合、一丈もありぬる雪の上を、
陸地の如くに押上り、直に劒の宮の麓より、吉野山代を指して寄せけれども、富樫
一家の者︀は、其深雪の上に、取分此頃降積る大雪に、よもや桃井も、當分は寄すまじ
と、油斷して居たる折節︀、逆寄にして追拂へば、道の警固の者︀共、思ひかけず散々に
なりて、直常は只上洛にのみ心懸けぬれば、打捨てゝ押通る。爰に野々市の氏春が
{{仮題|頁=118}}
弟右近義宗といふ者︀、手勢五百人を引率し、跡を付けて追懸くる。されども深雪の
山道なれば、軍兵共、思ふ樣に慕ひ難︀く、大軍の跡を押すには、如何程の大雪にても、
落入らざる者︀なきに、誠に不思議なりといひければ、道々の鄕民共、桃井が軍兵の、
{{r|橇|かんじき}}をはきたる事を吿げければ、家宗、さらば手の勢にも、殘らずかんじきをはかせ、
跡を追懸けて越前に至る。爰は斯波高經の國なれば、一支もあるべきなり。其時後
陣不意に打入らんと、固唾を呑んで追懸ける。此足利高經、其頃尊氏を恨む事あり
て、南方宮方へや叛心せん、九州の直義方へや內意せんと、狐疑一決せざる折節︀な
れば、桃井をば、加賀・越前の間にて、手强き軍せんと思ふに、難︀なく打上り、直義に
會して義詮を攻め、忽ち京を落しける。富樫家宗は、桃井が跡を慕ひ、上京せしかど
も、此度惠源入道の事に付き、尊氏歸洛の沙汰を聞き、播州に行きて待合せ、則ち此
所に於て、度々惠源入道と合戰ありしが、每度尊氏打負け、家宗手勢悉く討亡し、疵
多く蒙りて、{{仮題|投錨=富樫昌家家宗家督が爭ふ|見出=傍|節=s-1-3-4|副題=|錨}}終に加州へ下りける。其後富樫之介氏春卒して、嫡子昌家幼少なり。
殊に近國に敵多ければ、加賀の守護心許なしと、國人言募り、氏春の弟家宗を家督に
せんと訴へける。將軍義詮も、家宗の武功、且つ先年桃井が跡を追ひて、上洛の功な
どを、能々知召しありければ、此事沙汰あらんとの評議にて、家督爭論に及びけるが、
佐々木道譽、偏に嫡子昌家に執奏なしける故に、昌家を、又加賀之介に任ぜられけ
る、此昌家が弟二人あり。第二は英田小次郞滿家といひ、第三は右京量家といふ。
是は後に、山代家の養子となり、高安となる、貞治五年の秋、斯波義明をして、越中
の守護となし、桃井直常を征伐せしむ。合戰難︀儀の時は、富樫が一族、加賀より加勢
すべき旨台命ありければ、義明越中に於て、桃井と度々合戰に及ぶ每に、勝利を得る
故、直常打負け、新川郡松倉城へ引入りける。此時直常が嫡子直和、長澤といふ所に
出張して戰ひ、終に討死する。直常が弟修理大夫直信・其弟三郞直弘、其子刑部少輔
詮信等、婦負郡より、山內城が端邊へ逃隱れければ、一先づ越中平均に及びける。其
後應安四年、直常再び國人を語らひて、石動山天平寺の衆徒と心を合せければ、衆徒
二千騎の兵を起し、斯波が本城守山へ押寄する時、直常も、新川郡より發向しける。
義明不意に前後に敵を受けて、悉く敗軍し、京都︀を指して逃登る。依{{レ}}之舍兄左兵衞
{{仮題|頁=119}}
佐氏賴、法體して玉田庵と號しありけるが、此人武勇勝れたりける故、越中へ遣し
て、義明は京へ登り、氏賴をして桃井と合戰させしむるに、宮方の威勢、段々に弱り
けり。武家繁昌の時に向ひぬれば、漸々桃井播磨守は、一年西園寺大納言叛逆の時、
名越太郞時兼、北國に旗を擧げて、攻登らんとするに依つて、桃井、越中の守護に任
ぜられ、討手を下し給ふ。直常は地侍故、國中の人民を語らひ、遂に時兼を討亡し、
其恩賞に、此國を賜はりけるが、長く宮方となりて、忠を盡し侍るなり。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|昔日北花錄}}{{resize|150%|卷之一<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=昔日北花録/巻之一}}
{{仮題|ここから=昔日北花録/巻之二}}
{{仮題|頁=119}}
{{仮題|投錨=昔日北花錄|見出=大|節=s-2|副題=卷之二|錨}}
{{仮題|投錨=富樫、大乘寺造立の事|見出=中|節=s-2-1|副題=|錨}}
爰に高家の弟富樫刑部左衞門家善、{{仮題|分注=1|押野と|號す、}}尊氏將軍の幕下に屬し、每度京都︀に於て
武勇を顯し、恩賞他に異なれば、家榮え名揚り、近國に響︀きける。老年にして、嫡子
家尙に家督を讓り、名を英道居士と申しける。此頃曹洞宗の僧︀に、明峯和尙といふ
人ありけるが、是に歸依し、禪學を好みぬ。卒去の後、家尙發起して、野々市に於て、
大乘寺といふ伽籃を建立し、明峯を請じて和尙となし、常住百僧︀を供養し、安居結制
を行ひける。抑曹洞宗の開山は、元亨釋書曰、道元、氏は源、京師の人なり。大納言
通忠の子なり。始め建仁寺の榮西に見ゆ。明庵之を奇として、法然なりといふ。貞
應二年、宋地に入り、天童太白山如淨禪師に見ゆ。如淨、曹洞宗を以て附與し、歸り
{{仮題|頁=120}}
來りて、法を王城の南深草に開闢せり。平時賴、招請すと雖も、辭して北越に至り、
爰に住居す。名付けて永平寺と號す。建長二年八月廿八日、壽五十四にして卒去す。
此道元和尙、宋より歸朝し、帝都︀の邊にして、其宗を弘めんとせしかば、先達つて新
宗を建てられし法然・親鸞・吾師の榮西も、皆々叡山の訴訟に依つて、或は遠流せら
れし。當時上門幷南都︀七大寺の威權、只事ならず、とても弘法の時機にあらずと、
北越の方へ蟄居し給ふ。然るに入宋の內、彼國の雙林に於て、寺格又は法會の式
抔、悉く意從せざるの間、高弟徹通を再び宋へ遣し、諸︀嶽の法式を寫さしむ。徹通
を再び宋へ遣し、歸朝の時は、はや師の道元遷化し給うて、六年を過ぎたる故に、永
平寺は、懷弉住職となりける故に、徹通は、加能兩國の間に經巡り、其頃石河郡野々
市に、大乘寺といふ眞言寺あり、零落して、再建叶ひ難︀くて、住侶の法印澄海︀といへ
る僧︀、此徹通が、弘法開法演の器︀たるを知りて、此寺を讓り給ふ。徹通大きに悅び、
終に住職し、曹洞の寺となしける。初め徹通入宋の時、師の形見として、道元自作
の肖像を負ひて往きけるが、之を爰に安置して、朝夕之を拜す。徹通薨じたる後、瑩
山爰に住し、此度明峯に讓りける。明峯は、瑩山の弟子なりしが、終に此寺を發し
て、伽藍とは做しける。爰に螢山和尙は、初め後醍醐天皇歸依まし{{く}}て、紫衣を
賜はり、曹洞一派の僧︀祿となし、永平寺を本山とす。然れども永平寺に、開山の木
像なし。是に依つて、大乘寺の像を求めて止まず。富樫氏之を肯はず。此時永平寺
に傳ふる所の什物、一夜の碧巖の助を得て、一夜に寫し得たるものにて、曹洞一派の
寶器︀なれども、之を大乘寺へ與うて、彼木像に代へんといふ。是非なく富樫家、尙肖
像を奉護して、越前へ送り、碧巖集は、終に大乘寺の什物となりける。又徹通在宋の
內、彼國の諸︀嶽雙林の規矩法、或は伽藍の繪圖等、悉く寫し來りければ、瑩山和尙此
書に因つて、曹洞の法式を定めらるゝ故に、此一派、大乘寺を以て、規矩の手本とす
る事にはなりぬ。此時則ち富樫一家の菩提所となし、次第に諸︀堂建て備はり、北越
無雙の精︀舍となる。昌家を始め、山代・久安などの家々より、田地を寄附し、山林を
も持たせて、永く安居の退轉なからしめんとす。京都︀將軍よりも、每度國家安全の
祈︀禱の爲めに、下知文を寄せられぬ。此明峯和尙の後住大智和尙、是れ博識の名僧︀
{{仮題|頁=121}}
にして、曹洞宗を、西國幷奧羽︀に開演せしむる故、諸︀國に草創の寺多し。富樫昌家
の叔父定照居士、此大智を歸依し、大乘寺へ招き、隱居の砌、我館︀の吉野にありける
を造立して、祇陀寺と號し居らしむ。西國・東國に開基せる寺院は、皆祇陀寺を以て
本寺とせり。故に此寺、又壯觀なり。共に富樫一家の檀信故、國民又馳走せり。
{{left/s|1em}}
道元より、二世懷弉・三世義界・四世瑩山なり。此後醍醐天皇御歸依まし{{く}}、曹
洞一派の總錄に補せられ、永平寺を、本山と敕許あり。其後大聖寺等の諸︀寺に遊
び、能登國永光寺を開き、末年同國總持寺にて薨ぜり。永平寺は、峨山といへる
高弟住職たり。外に五哲と號する徒あり。所謂大源和尙・徹通和尙・無瑞和尙・大
徹和尙・寶峯和尙・此五和尙、總持寺を瑩山の廟として五院を立てゝ相續せり。遙
か後年に至り、東照神︀君治世の頃、此寺も、曹洞一派の本山と定まり、永平・總持相
竝びて、北越に法燈を輝しける。日本の曹洞、右の五哲に分る故に、五派よりし
て、總持寺を輪番に看主たり、總持の號、尤も其故あるかな。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=富樫等一向宗合戰の事|見出=中|節=s-2-2|副題=|錨}}
富樫加賀之介藤原昌家、京都︀將軍義滿の命に隨ひ、國政專ら相務むと雖も、多病に
して、軍陣催促の命に應ずる事能はず。依つて舍弟英田小次郞を以て、國勢を相隨
へさせ、京へ上りけるが、小次郞、元來强勇の武士にて、將軍の旨に叶ひ、諱字を給は
りて、満家とぞ號しける。此頃山名時熙・同氏幸兩人、將軍家の命に背く事ありし
に、同類︀山名陸奧守氏淸・同播磨守滿家等に命じて、之を討たしめらる。因つて小次
郞も、義滿の命に隨ひ、氏淸・滿幸に加はりて發向して、終に時熙・氏幸を追討す。兩
人中國へ逃下りけるが、再び降參して、本領安堵しける上、又氏淸・滿幸、恣の振舞
ありしを、義滿咎められけるにより、旁以て氏淸等之を憤り、叛逆を企て、丹波・和泉
より兵を起して、將軍家へ敵對する。此英田小次郞は、氏淸が指揮にありて、心な
らず叛逆の人數に加はり、洛中へ打入りて、所々に於て合戰あり。是れ明德二年內
野合戰なり。氏淸幷兄弟は、義敎等家老の小林彈正、英出小次郞滿家は、大內義弘
{{仮題|頁=122}}
と戰ひ、{{仮題|投錨=英田滿家戰死|見出=傍|節=s-2-2-1|副題=|錨}}十二月晦日、內野にて皆討たれぬ。滿幸は逃去りけり。管領細川常久幷畠
山基國・赤松・山名・一色・斯波先陣たり。將軍自ら旗を進めて、終に打勝ちける。此度
英田小次郞、京都︀に於て、將軍家の敵となり、討死したる以後、諸︀國の武士、今日宮
方、明日は武家方と心變へけれども、富樫一族、卒に二心の振舞なし。右の趣を以て、
將軍家よりも、殊に稱美ありし者︀共が、此度滿家一人、無道の振舞、申譯なき所なり。
然れば富樫一族追討の評議、あるまじきにもあらず。急ぎ言譯して、此罪を免︀され
んと、則ち小次郞が弟量家上洛して、細川常久に便り、今度の滿家が振舞、一族の知
る所に非ず。其上最前時熙等御征伐の砌、御下知に依つて、氏淸が指揮に隨ひ、間
もなく氏淸が叛逆の節︀は、彼が旗下を逃出づる事能はず。終に逆徒に與し候て、滿
家心外の働により、早や討死致し、郞等共に此事を遺言いたし、國へ歸し候由、逐
一に演べければ、將軍家許容ありて、景家を慕下に留置き給ふ。
{{仮題|分注=1|此量家、後に山代の泰信が養子となり、高安と號す。法體して淨淸と號し、大乘寺明峯和尙の弟子となり、一室を造立し、高安軒と名付け、明峯を開基とす。}}此の二人、將軍家筑紫菊地退治として發
向故、諸︀國の軍勢を召し給ふ。越中の國司斯波義將も、先陣に隨ひ、筑紫へ下るに
よりて、越中の桃井、宮方の守護として、每度軍を出す間、狼藉の節︀は、加州より富
樫の一族、越中へ申すべき旨、將軍家より命ぜらる。桃井直常は、此頃射水郡の軍
に打勝ちける故、威を越中に振ひけるとなり。直常卒して、孫の直氏、家督相續し
けるが、其後應永廿三年、將軍義持の弟新大納言義嗣叛逆して、より{{く}}將軍家へ恨
ある者︀を語らひ、桃井刑部少輔直氏、是に應じて上洛し、此事を謀りけるが、事顯れ
て、終に謀計ならず。同廿五年義嗣生害。桃井も捕はれて、幕府へ引かるゝ。將軍
家へ降參を乞ふと雖も、うけがはれず。鳥部山に於て自害す。其妻の方へ遣す辭世
とて、
本來夢裏差乾坤 向上撤却一利劒
うき身世にやがて消えなば尋ねても草の露をや哀れとも見よ
斯くの如くして、桃井生害に及びけれども、其頃鎌倉管領持氏、京都︀と不快故、寄々
桃井が跡を取立て、直氏が一子直弘幷叔父も、每度鎌倉へ出仕して、其指揮に隨ひけ
る。其後永享の頃、信濃の小笠原政康、村上賴淸と合戰の節︀も、鎌倉の命として、越
{{仮題|頁=123}}
中勢を催し、村上が加勢に赴きける。夫より鎌倉の持氏、家老の上杉憲實と合戰の
節︀も、直弘幷叔父の上野入道直蓮、共に越中の一族大勢を引率し、持氏の味方とな
る。然れども京都︀將軍より、持氏退治の命、諸︀國へ觸れ來りければ、京勢を始め關東
の大勢、持氏を攻亡し、永享十一年、鎌倉の永安寺にて生害す。足利基氏、觀應年中、
東國を領したるより、四代九十年にして亡びぬ。是より上杉、押して管領職となる。
此時桃井入道直蓮は捕はれ、殺︀さるゝ。直弘は遁れて、越中へ逃げたりけるとなり。
去程に、富樫之介昌家は、多病にして、爾も嗣子なければ、舍弟滿家が子の小次郞を
養子として、{{仮題|投錨=富樫昌家滿春を養ふ|見出=傍|節=s-2-2-2|副題=|錨}}家督を繼がしむ。叔父の量家は、此時山代家の養子となり、京都︀に伺
候しければ、此時山代家の養子執奏し、小次郞上洛の上、將軍諱の一字を給はり、加
賀之介滿春と號しける。此滿春、禪學を好み、館︀內に一室を建て、勝蓮寺と號す。國
滿春出家人等、勝蓮寺殿とぞ號しける。其後入道して、常繼禪門とぞ申しける。此滿春に三
子あり。嫡男次郞持春、則ち富樫之介、福︀巖寺殿と號す。{{仮題|分注=1|法名|常永}}。次男右近大夫敎家・三法名
男小三郞泰高といふ。然るに嫡子次郞、將軍より御諱字を給はり、持春と號し、加
賀介に任じけるが、實子なきに依りて、弟の敎家を養子となし、加賀介に敍し、義敎
公より御一字を給ひ、敎家とぞ號し、家督を繼がしむ。其弟の泰高は、上洛して、將
軍の幕下に伺候しける。此頃京都︀は義將公以來、諸︀國も泰平にして、干戈の動き
なく、依つて諸︀士高情になり、茶湯・蹴鞠・遊宴專らなり。泰高も都︀にありて、細川持
氏と深く交はる。每度將軍家の御供に候して、北山・東山の遊宴の席に伴はれける。
其後敎家卒して、一子成春を、家督相續せしめんと、一族推擧しける所に、細川持之・
勝之の親子より、叔父泰高が、久しく在京して、將軍家に功ある事を申募り、泰高を
して、加賀介たらしめんといふ。爰に管領畠山持國德本入道、內々細川家と中よか
らず。依つて次郞成春を扶けて、終に加賀半國宛の守護となされし。泰高・成春の兩
人を富樫之介に任ぜられける。{{仮題|投錨=泰高成春共に富樫之介に任ぜらる|見出=傍|節=s-2-2-3|副題=|錨}}依つて一族斷絕してありけるが、此度赤松が郞等
共南方の宮方にありし神︀寶を盜み出し、內裏へ返納せしめ奉りける。其恩賞とし
て絕えたる赤松家を再興し、{{仮題|投錨=赤松政則加賀半國の守護となる|見出=傍|節=s-2-2-4|副題=|錨}}滿祐︀が弟義則が二男の次郞政則とて、五歲になりける
者︀をして、加賀半國の守護を賜はりける。是れ細川勝元が執奏に依つてなり。然れ
{{仮題|頁=124}}
ども此時より、富樫成春は、赤松の旗下に隨ひけり。其頃畠山德本が子の義就は、
河內にあり。義就は、能登の國司に補せらるゝ。然るに應仁元年より、山名宗全と
細川勝元と威を爭ひ、諸︀大名雙方へ方人して、日本中動亂となる。將軍家の威勢衰
へて、之を征する事叶はず。{{仮題|投錨=富樫一族細川勝元に一味す|見出=傍|節=s-2-2-5|副題=|錨}}洛中の合戰止む時なく、此時富樫一族は、細川方へ一
味して、京都︀へ每度出勢して、能登の畠山義就も、山名へ方人して、北海︀渡船を止め、
細川が兵糧運送を支へけり。因つて將軍家より命ぜられ、義就を細川方へ降參せ
しめらるゝが故に、北越の兵糧道開けて、細川勝利を得る事にはなりぬ。其後此功
により、義就管領に任ぜられけり。文明三年、本願寺の蓮如上人兼壽、華洛より北國
へ來りて、越前・加賀・能登・越中・越後迄、經巡りければ、百姓等、本願寺派の一向宗を
尊敬して、奔走すれば、宗旨も廣まり、國中所々に御堂を建立して、子孫弟子等を住
侶となし、爰に一月、彼法義弘通の說法をなし給ふに、渴仰せずといふ事なし。其
頃越前にて、朝倉敏︀景入道英林寺といふ者︀ありて、主人斯波武衞の跡を、將軍義政
公より拜領し、一國を打隨へ居けるが、此蓮如上人に歸依して、細呂木の鄕吉崎と
いふ所に、一箇の地を寄附せし故、爰に一宇の御堂を建てゝ、本山となしける。抑此
一向宗の開山親鸞上人は、弘長二年遷化せられしを、十一年後文永九年、弟子中評
議して、東山大谷に本願寺を建立して、龜山院より敕號を賜はり本山となす。然る
に上人在世の後、開基の寺々多しと雖も、就中下野國高田の鄕專修寺は、敕號を賜
はる故、此寺次第に繁昌し、高弟眞佛庵より、代々相續して、中頃伊勢國へ移住す。
高田派と號し、一派を立てしが、越前・加賀に、其門葉蔓り、大坊主と號す輩ありて、
常に本願寺派と中惡しく、賀州石川郡・河北郡には、本願寺派大坊主數多ある故、江
沼郡の者︀共之を語らひ、{{仮題|投錨=一向宗高田派本願寺派相爭ふ|見出=傍|節=s-2-2-6|副題=|錨}}度々高田派の者︀と、評論止む時なし。是に依つて、江沼郡・能
美郡の高田派の百姓、會津・細呂木の者︀を語らひて、折々吉崎へ仇をなす。吉崎のた
や{{仮題|分注=1|今云|長屋}}にある坊主共、之を防ぐと雖も、土民等大勢にて難︀儀に及ぶ。{{仮題|分注=1|此頃蓮如上人吉崎に|て和讃を勤めらる。}}
爰に朝倉の家士に、和田大膳といふ者︀、蓮如上人へ深く親近して仕へけるが、下間
氏を給はり、筑後法橋となり、武勇の者︀なる故、大將となりて、一揆を防ぎけるが、
是より下間が兵威、近國に震ひける。爰に富樫成春が女は、勢州高田專修寺へ嫁娶
{{仮題|頁=125}}
す。此緣を以て、成春、兩郡の高田派と本願寺派の百姓等を召集め、爭論を止めさせ
けるに、頗る高田派を荷擔し、本願寺派をおとしければ、土民共大きに腹を立て、下
郡・石川郡・河北郡の大坊主、木越の廣德寺・磯部の正安寺等を語らひ、國中大に起り、
吉崎の下間筑後を招き、大將にせんといふ。蓮如上人、赦し給はず。依つて筑後申
す樣、一揆の徒黨、差止め申すべき旨、御示狀を以て、差止めさせ申すべしとの事に
付、其通り觸文を持たせ遣されける。筑後、加州へ來りて、觸文を出させて、上門の御
意なりと號し、大將となり、野々市の館︀へ押寄する。俄の事なれば、富樫成春進退究
りて、旣に切腹せんとす。石川の守護職同氏泰高、之を扱ひ、一先づ成春は館︀を退
き、山代の邊へ蟄居しければ、下間等の一揆共、國中の高田派の者︀共を、攻亡さん
と犇きけるを、泰高色々に扱ひて、無事になりぬ。是より加賀一國は、本願寺領の
如くになる。蓮如上人の次男權僧︀都︀兼鎭といふは、越中勝興寺の住職たりしが、我
寺を、四男の蓮誓法印に讓りて、此頃加賀の若松に道場を建て、法を弘めらる。此嫡
子蓮能僧︀都︀、山田の鄕に、光敎寺を開基しけるに、國中より寄進して、何れも希代の
伽藍となりける。されば富樫成春は、山代邊に蟄居してありし內卒去して、一子次
郞、幼少たればとも、當國數代の守護職なれば、家督相續あらしめんと、百姓共打寄
り談合して出迎し、野々市へ歸館︀なさしめ、越前朝倉家へ便りて、將軍家へ御禮を
なし、富樫之介に任じ、政親と號しける。{{仮題|投錨=政親富樫之介に任ぜらる|見出=傍|節=s-2-2-7|副題=|錨}}近年應仁の兵亂發りて、每度合戰ありしが、
文明五年、山名宗全・細川勝元兩將、一時に病死故、洛中の戰相止み、諸︀大名は、國々
へ歸りける故、また諸︀國動亂となりける。富樫家の兵威次第に衰へ、本願寺の候人、
加賀國一國を下知して、猶越中も、勝興寺・瑞泉寺等の大坊主共、棟梁とはなりぬ。越
前の朝倉敏︀景も、一國を打從へて、近江國へ働かんと志しけるにより、先づ國中の
一揆を鎭めんと、高田派・本願寺、共に折々軍勢を出し合戰ある故、蓮如上人、下間筑
後を勘當し給ふ。此者︀大將となり、每度一揆を勸めける故なり。されども敏︀景、吉
崎を尊敬の體にもあらず、畢竟動亂の初めならんと、文明十一年、吉崎を立退きて、
蓮如上人は、近江の山科に一宇を建て、爰に移住せり。
{{left/s|1em}}
一向宗の本山は、開山七十一歲の時、自ら像を製して、讓狀を添へて、孫女覺位
{{仮題|頁=126}}
尼へ與へらる。夫より此像のある所を以て、本山とする定めなり。文永九年、本
願寺草創ありしより、寬正年中迄百九十餘年、東山大谷にありしが、其頃宗門彌〻
繁昌して、後土御門院の時、禁裏にありし日華門を、本願寺へ御免︀ある。是れ蓮如
上人の時なり。此御門の內にある寺なる故に、御堂と一宗の輩等之を唱ふ。山門
の衆徒此事を憤りて、大勢軍勢を催し、大谷を燒打にする。僧︀侶四方へ逃散り、
蓮如上人手を負ひ乍ら、彼木像を守護して、江州三井寺の邊近松といふ所に、暫
く忍び居る。夫より北國へ經廻りゐる時、彼近松に預け置かれける。文明五年、
越前吉崎に一宇建立して、彼像を迎へんとし給へども、江州の門徒、惜しみ奉りて
許さず。是に依つて、吉崎には寫身の御願といふをかけ、夫より報恩講をば、修行
ありけるが、程なく越前も物騒にて、文明十一年、江州の山科に越し給ひ、一宇を建
立し、彼木像を安置しける。此時より御廟と本山と分けて、二箇所になる。其以
前は、御廟所を以て本山とす。十七年の後明應五年、大坂へ隱居し給ひ、山科の
御堂は、實如上人{{仮題|分注=1|是本願寺第|九世なり}}に讓らるゝ。夫より{{仮題|分注=1|十|世}}證如上人相續し給ふに、天文二
年、山門より又山科を燒きしに、此時大坂へ引越し給ふ。{{仮題|分注=1|十一|世。}}顯如上人、天正八年、
大坂を立退き、信長へ渡し給ひて、紀州鷺の森御坊に住し、同十九年太閤より、京
六條通り堀川に、御朱印の地を寄附ありしかば、攝州天滿の御堂を引取り、爰に
一宇を建立あり。顯如上人の時代、{{仮題|分注=1|是今の西本|願寺なり、}}又御嫡敎如上人の爲めに、慶長十一
年、六條烏丸に、家康公より御朱印の地を給ひ、一宇を建立する。
{{left/e}}
長亨元年八月、江州の佐々木六角大膳大夫高賴、將軍家の命に背き、征伐の事あり。
義尙自ら旗を進め、諸︀國の軍勢を催促ある。{{仮題|投錨=政親、六角高賴を伐つ|見出=傍|節=s-2-2-8|副題=|錨}}富樫之介政親、加賀の軍勢を引連れ、幕
下に伺候す。此次郞政親、身の長六尺に餘り、勇壯の兵にて、器︀量群に秀でたり。
若狹の武田と兩勢を先陣に手配して、江州へ發向あるに、高賴一戰に打負け、甲賀
山へ逃入りける。將軍家は、猶江州釣の里に在陣なり。富樫政親は、近年家督を繼
ぎて奉公始めに手柄の程を、將軍甚だ感ぜらるゝ。此時政親願ひけるは、近年一國
の土民、一向宗に荷擔し、國政を專らにす。公貢を遲滯し、やゝもすれば一揆を企
て、國中動亂に及ぶ事每度なり。幕下より、能越兩國の士へ御敎書を成下され、兩
{{仮題|頁=127}}
國より加勢仕るに於ては、早速國中の一揆等を取鎭め申すべきなりと、御暇下され、
兩國へ加勢の儀をぞ下知ありける。翌長亨二年、雪もやう{{く}}消えければ、政親、
野々市の屋形を立退き、同郡高尾城へぞ籠りける。國中の一揆多き中にも、押野の
富樫家信・久安の富樫家元・山城の富樫泰行三軒は、各手勢を具して籠城あり。泰高
一人が手は不快の間故、此度籠城はせざりける。國中の土民恐怖して、爰彼所へ會
合なし、何となく屋形へ御詫申すには如かじと、家司の山河參河守に附きて、向後
御屋形樣へ對し、我意を立て申すまじき旨、懇に歎訟しけれども、政親、此度將軍家
へ訴へ、{{仮題|投錨=富樫政親本願寺派僧︀侶と戰ふ|見出=傍|節=s-2-2-9|副題=|錨}}兩國加勢の儀も有{{レ}}之なれば、國中の本願寺派を、僧︀侶共に攻絕やさんと、兼
て思ひける故、中々承引なき故に、土民共是非なく會合し、洲崎の和泉入道慶覺・河
合藤左衞門尉宣久を兩大將として、加賀四郡の百姓共手分して押寄せける。爰に
加賀三山の大坊主達と申すは、木越光法寺・磯部正安寺・鳥越弘願寺・若松の道場山
田先敎寺等なり。是等寄合ひ評議して、富樫之介泰高へ使者︀を遣し、此度政親殿の
振舞、一國の土民を、殘らず殺︀し盡さんとの結構に見えたり。然れども唇落ちて、齒
寒き道理なれば、我々も出陣に及び申すなり。貴殿當國の守護たれば、罪なき百姓
を鏖になして、知らぬ顏もなるまじきなれば、一所に出陣あるべきなり。又高尾
城へ、一所に御籠なるべき御心中に候や、承りたしと申遣しける。此時三山の坊
主達の威勢、{{仮題|投錨=富樫泰高本願寺派に與す|見出=傍|節=s-2-2-10|副題=|錨}}中々違背に及ばせまじき體なれば、是非なく泰高も出陣せり。
{{仮題|分注=1|三山の大坊主とは、越前にも三門徒といふ大坊主ありて、今いふ巡讃院家の類︀か。}}大坊主衆は、野々市大乘寺に陣を取り、泰高と一所にな
り、一揆の後見とぞ聞えける。河北の者︀共は、淺野大衆邊に陣を取る。石川濱手の
百姓は、廣岡山王の森に陣を取りて、本陣よりの差圖を相待つ所に六月五日、諸︀方
の一揆申合せ、高尾の城を總攻にする。白山の衆徒等も一揆に荷擔し、百姓原二
千人計引連れて出でける。斯の如く國中の者︀共、一時に揉立てしかば、高尾城內に
は、越中・能登の加勢を待てども便なく、宗徒と賴みし士ども多く討死し、或は落行
きける故、政親、妻子を越中の方へ遣したき旨賴み遣し、其身は高尾の傍なる嶽の
城へ籠りける。此所にして、暫く兩國の加勢を見合さんと、一族郞等二百騎を勝り
て、夜の中に出入をなしければ、寄手初めは知らざりけるが、河合藤左衞門、此事を
{{仮題|頁=128}}
密に聞出して、究竟の若者︀共六百騎餘、慶覺坊を大將として、嶽の城の搦手より押
上り、無二無三に攻登りけるに、城中不意を打たれて大に騷ぎ、俄に門を開き打つ
て出で防ぎけれども、一揆等附入にして戰ひける故、終に政親は、水卷新助忠家と、
兩人馬上に引組んで、{{仮題|投錨=政親戰死|見出=傍|節=s-2-2-11|副題=|錨}}郭內にある所の深き池へぞ轉び落ち、兩人共に水底に死した
りける。此時宗徒の家來白崎民部・高尾若狹・同九郞右衞門・額八郞・槻橋入道・同內藏
佐・宇佐神︀八郞右衞門・山川監物・同小次郞等討死して嶽の城は落ちたりける。政親
始め高尾の城を出でらるゝ時、彼城にて、一首の辭世を殘すとぞ。
五溫もと空なりければ何者︀か借りて來らん借りて返さん 生年卅六
此嶽山の池へ、政親馬上ながら沈みし故、鞍が嶽と言傳ふともいへり。又倉が嶽と
もいひて、要害の地とぞ。扨高尾の城には、嶽の城落されて、大將討死の由、寄手の
中へ聞えければ、城中の者︀共、今は何をか期すべき。さるにても斯くの如く、大勢
取卷きたる中へ、討つて出でたりとも、百姓原を相手に、討死を遂げたりとて、さ
のみ手柄にもなるまじ。人々は譜代の者︀なり、切腹して名を後代に殘さんと、各評
議しける所に、寄手より使を以て、人々必ず自害あるべからず。御大將滅後の上は、
寄手引取り申すべき條、勝手次第開城あるべし。中には本鄕駿河守は、木越御坊の
知音なれば、はや{{く}}出城あるべしと言越しけり。されども譜代の面々なれば、政
親の供せんとて、駿河守を始め、八尾入道覺妙・宮永八郞・勝見與四郞・福︀益彌三郞・那
緣・吉田・小河・白崎・近藤・黑川各自殺︀して、館︀に火をぞかけにける。家老參河守は、自
害をせんとする所へ、一揆共大勢取付きて、止めける故に、詮方なく、山內祇陀寺ま
で落行きぬ。{{仮題|投錨=高尾城陷る|見出=傍|節=s-2-2-12|副題=|錨}}其外一家の人にも、皆出城して、終に高尾は落城しぬ。斯りければ、嶽
の城には、水底より大將の死骸を引揚げ、菩提所大乘寺へ送り、葬禮を執行ひ、一家
の事なれば、富樫之介泰高も、葬禮に加はりて一首の歌を追悼しぬ。
おもひきや老木の花は殘りつゝ若木の櫻まづ散らんとは
爰に能登・越中の諸︀士等、將軍家より、富樫之介政親に加勢すべき由、御敎書を以て
下知ありければ、打寄り評定に及ぶ。越中礪波郡の人々は、蓮沼に寄合ひ、夫より
倶利伽羅山へ押上る。射水郡の者︀共は、放生澤に勢揃して、各加賀へ打入らんと、五
{{仮題|頁=129}}
月廿八九日、牢人の頭阿曾孫八郞・小杉新八郞先陣として、森下竹橋邊まで打つて來
る頃、河北の一揆蜂起し、英田光濟寺大將として之を支へ、一戰して打勝ち、倶利伽
羅山の麓、黑坂邊迄追討にして引返す。其後能州畠山の家臣共、黑津船宮の腰邊迄、
加勢として出張しける。高橋新左衞門・笠間兵衞尉家次、一揆の大將なり。濱手より
向つて合戰する所、河北郡の一揆共、湖水を小船に乘越して、跡を乘切らんとぞ押
寄せける。能州勢是に恐れて、終に引返す。又越前朝倉貞景の家臣堀江中務景忠は、
利仁將軍の後胤にて、富樫とは同家なり。救はずんばあるべからずとて、主人に此
事を吿げ、手勢二千餘騎、江沼郡橘まで出張せしに、はや政親討死の事相知れけれ
ば、殘念ながら軍を引返し、越前へ歸らんとする所、一揆共大勢附慕ひ、道々合戰し
てぞ引取りける。斯くの如く、軍何れも一揆共の利運なれば、洲崎入道・河合藤左衞
門竝に洲崎十郞左衞門正末・安吉源左衞門家長・山本圓心入道・高橋左衞門等大將と
なり、大坊主達へ訴へて、國中にある所の高田派の道場寺々を打毀ち、さて正安寺
は大將となり、直に能州へ攻入りける。畠山の一族、此時勢甚だ微々たる故、船に乘
りて、越前敦賀迄引退きければ、能州も、一圓に本願寺の支配になり、越中勝興寺も
加州二俣本泉寺を語らひて、本願寺へぞ捧げける。富樫之介泰高は、守護職の名目
たれども、あつてなきが如く、諸︀事、一向宗の下知に隨ひける。泰高卒して、嫡子慈
顯多病なる故、孫の植泰、加賀介に任じ、京都︀將軍義尙始め六角高賴
{{仮題|分注=1|佐々木道譽、京六角通に居住す。故に六角と號す。司氏義貞、京極に居舍す。依つて京極と號す}}を征伐の爲めに、江州釣の里に對陣ありしが、陣中にて卒去
し給ふ。されども父義政、堅固なりしかば、弟義視︀の子義村を養ひて子とす。依つて
明應元年の秋、義村軍を帥ゐて、六角高賴を攻む。此時北國の勢を催促ありし故、富
樫之介植春、五百騎を引率し、先陣に加はる。高賴又甲賀の山中へ逃隱るゝ故、義村
歸京し給ふ。翌年三月、義豐が河內の國を征伐ある。{{仮題|分注=1|義豐に義就が子にて、其頃|畠山政長管領故斯の如し。}}富樫植春も、
將軍家の在陣正覺寺を攻む。畠山政長討死し、義村は捕へらるゝ。富樫植春密に
義村を盜出し、其身も共に逃隱る。義村は越中へ赴き、夫より又周防國大內介高へ
赴き、年月を送る。富樫植春は國へ歸り、敗軍の士卒を撫育し、京都︀の樣子を窺へ
ば、細川政元一人威を振ひて、將軍義高を取立てければ、畠山義豐も、威勢を振ひし
{{仮題|頁=130}}
ことにはなりぬ。依つて能州へ再び入國なさしめける。是れ能州の守護義豐の次
男にて、畠山左衞門義長とぞいひける。始め一向宗の一揆に逃退き給へども、此頃
越前朝倉、次第に威勢强し。加州一揆も、每度取合ありし故に、北國より山科本願
寺への通路一圓に、絕え果てけるに依つて、本願寺の下間氏、將軍家へ訴訟して、北
國の通路滯なきやうにと、朝倉家へ御下知あるが故に、越前と加州と和睦なり。能
州へも畠山家入領となる。されども一向宗の威勢盛にして、若松の道場を、石川
郡の小立野に移し、尾山と號し、一城の御堂を構へ、山科より下間を呼下し大將とし、
三箇國の下知をなさしむ。是れ下間筑後とて、初め朝倉の臣なりしが、蓮如上人へ
仕へ、勘當請けしが、上人末期に勘當を許しある故、北國の案內者︀なりとて、是者︀を差
遣さる。是に二人の子あり。一男筑後法橋・二男下間宮內卿といふ。爰に於て加賀
一國、尾山より成敗して、能州半國・越中蠣波郡勝興寺も一郡を領して、{{仮題|編注=1|次の}}〔{{仮題|分注=1|本ノ|マヽ}}〕此
時將軍家の威勢、次第に衰微せり。山門高野、或は又一向宗等の威勢盛にして、本願
寺也實如上人逝去し、嫡子光圓照如上人も早世。其子の大僧︀都︀光融如上人は、父照
如より先立つて、大永元年に卒去なる故に、圓如なり。{{仮題|分注=1|償如の|子なり。}}此家老に、下間上野介眞
賴・同式部卿法印賴康・同筑後守賴淸、此三人威勢を振ひ、諸︀大名に交はり、公方家の
御相伴衆となりて、福︀祐︀又類︀なし。關東・西國・中國・北國に至る迄、國主・領主は、今日
ありて、明日早や替る時なれば、漸々と本願寺の領となりて、當時天下の者︀たる〔{{仮題|分注=1|本ノ|マヽ}}〕
然る所下間上野介が叔父に、下間筑前法橋といふ者︀、驕に飽く事を知らず。然るに
此加賀國の風俗、本願寺派を以て國主とし、近國草の靡くを開くが如くなる事を聞
きて、手勢大人數を催し、{{仮題|編注=1|御國|御山カ}}の城に馳付け、近國を攻亡し、大功を立てんと謀りける
に、彼下間銃後が子供、是に順隨し、旣に一揆を催しける。夫より坊主中へ廻文を
廻し、此事を吿げけるに、三山の大坊主を始め、和田・洲崎・上宮寺・光濂寺の輩、打寄
りて評定しけるは、此度下間の企を察するに、全く本寺よりの成敗にあらず。汝等
が威勢に募り、大國の守護となり、管領四職に連らんとの自分の奢より出でたる儀
なり。これに方人して、天下の敵とならん事、恐しき企なりとて、一人も承引する
者︀なし。筑前・筑後此由を聞くよりも、先づ近所なる若松の隱居へ押寄せ、庵室を
{{仮題|頁=131}}
打毀ち、夫より吉野・波佐谷の道場を破却し、住持達は皆連枝なれば、人を添へて、山
科へ差登りて、尙夫より、國中の寺院々々を打破らんといふ。和田超照寺は、終に御
山へ降參す。
{{left/s|1em}}
是より先永正四年、越前の和田超照寺、諸︀浪人を語らひ、山科實如上人へ申上ぐ
るは、先年蓮如上人吉崎に御座ありし時、越前一國は隨ひ居ける所、朝倉が振舞
惡しく、御立退き遊ばされ候當時、拙者︀共諸︀浪人を語らひ、朝倉を一時に攻亡す
の企を仕置の間、早速當國へ御入下さるゝに於ては、國中一統に、御味方申すべ
しとぞ申上ぐる。實如上人御承引なし。是に依つて、加賀の江沼郡松住と言合
せ、兩國の一揆を催し、川より北に陣を取り、朝倉家の小城々々を攻取りしかば、
貞景大勢を以て早速討亡し、猶加賀國江沼郡迄來りけるが、夫より超照寺、加賀
國へ來り居たりけるが、翌年又玄任と兩大將にて、越前へ攻入り、朝倉の舍弟
衞門尉敎景に戰ひて、一揆大に打負け、玄任は討死し、超照寺は加州へ逃げ歸る。
此時越前の國にある本願寺の末寺は、殘らず燒立て、坊舍滅亡に及びける。吉崎
の道場も、此時破却なり。然るに京都︀將軍家より、朝倉家へ下知あつて、本願寺
派と和談すべき由にて、越前の坊主衆、本所々々に歸りけれども、超照寺は、終に
加賀にありけるとなり。
{{left/e}}
享祿四年、御山の大將下間筑前幷同氏筑後法橋・宮內卿・和田超照寺、數萬の一揆を
催し、猶も旨に順はざる輩を打破らんと、先づ野々市の照臺寺へ取懸り、堂塔庫裏、
一宇も殘らず燒立てける。凡そ能美石川の間には、波佐谷の道場と此照臺寺を以
て、大坊とぞ唱へけるに、一時に煙とはなりにける。是に依つて、洲崎・和田・河合次郞
右衞門等の一類︀・光德寺・正安寺も、皆能州へ逃行き、兩國の守護へ訟へければ、朝倉
敎景、數萬の軍兵を引率し、金津・細呂木へ來りて合戰する。江沼郡の大坊主・黑瀨
の惠敎・山田の先敎寺は、越前よりの加勢に力を得て進み戰ひし故に、下間氏の一揆
共、大聖寺敷地本折邊迄引退き、御幸塚︀に屯しける。朝倉敎景、敷地の天神︀に本陣
を定めける。此時は、加州一國の一揆、攻取らんとぞ催しける。爰に又能州畠山義
則は、一族畠山大隅を大將として、遊佐・溫井・神︀保三家老に、能登・越中兩國の勢を差
{{仮題|頁=132}}
添へ、正安寺・光德寺・洲崎等を先陣として數萬騎、河北の堺指江・鴈金・黑津舟・宮腰邊
まで押寄する。然るに{{仮題|編注=1|海︀山|御山カ}}の城より、一つの謀をなしける。大聖寺邊にて討取り
たる敵の首共を、越前朝倉家の大將共の名を書記し、大野八田邊の湖邊にて、梟首
したりける。能登勢之を一々見て、扨は上口の戰、越前勢打負けたりと覺ゆるぞ。
さあらば勝誇りたる大勢の者︀共、追付此處へ向ふらんとぞ、路々臆病心になりたる
所へ、安宅浦より、軍船數百艘に取乘りて、今濱へ打上り、能州勢の跡を取切る筈な
りと、國中へいはせける。其上每夜獵船數百に、篝火を焚きて、遙かに沖をば往來さ
せける。之を見て畠山が加勢共、後を取切られては難︀儀なり。一先づ引けといひけ
れば、臆病神︀の癖として、我先にと崩れ立ち、何仕出したる事もなく、七尾まで引取
りける。此時上口には、朝倉左金吾敎景・山崎新左衞門尉長家大將にて、御幸塚︀も攻
崩し、安宅・今湊川・本吉迄攻入り、尙も山內・吉野口を、勢を二手に分けて押詰むる
所へ、能州口の軍破れて、能越兩國の加勢は、殘らず引退きける由註進あれば、左金
吾も當惑し、今迄は、能州の加勢を賴みにこそ深入せり。いざや越前堺迄引かんと、
急に評定せられしが、下間氏の一揆共、此體を見るよりも、村々山々に人夫を置き、
鐘・太鼓を打鳴らし、夜は明松星の如くに燈し立て、又安宅邊の浦々へ、獵船に篝火
を焚き、數百艘押寄せさせ、國中山々峯々も、あく所なく軍兵の體を見せける故、越
前勢、うしろ神︀の立ちけるにや、我先にと引返へす。兼ては敷地か金津に陣を取り
て、大將朝倉敎景の出馬を待たんと、約束し置きけれども、大勢の引立ちたる癖な
れば、北庄邊迄、我先と引退きける。爰に於て下間の一揆、所々に浪人大將を置
き、猶も越前へ攻入らんと、軍用意をぞなしにける。此時富樫介植泰舍弟小次郞晴︀
貞・嫡子次郞植春・二男天易待者︀幷一族の衆中、且又黑瀨藤兵衞尉・福︀田村竹太夫・能
美郡の松永平左衞門・隅田六郞左衞門・湯淺九郞兵衞・金子・小杉・小松の道秀・藤塚︀の
二ッ木・出口の齋藤・安宅の今井藤左衞門・野々市の照庵寺等は、朝倉勢に先立つて、
越前へぞ落行きける。河合が嫡子洲崎孫四郞玄任・次郞右衞門・土田・山本・上坂與三
兵衞等も、能州口より、越前へ落行きける。朝倉敎景、此落人共二千人計に、三千貫
の扶持を充行ひ、かくまひ置きける。其後度々此者︀共、大聖寺橘邊迄討出でけれど
{{仮題|頁=133}}
も、功なくして月日を送り、猶も朝倉家へ、木國に歸り、{{r|爰彼|こゝかしこ}}を賴みけれども、其頃朝
倉家にも、上方邊取合度々にて、空しく月日を送りける。
{{left/s|1em}}
本願寺の候人下間氏は、源三位賴政の後胤なり。賴政の嫡子伊豆守仲綱、二人の
子あり。嫡子彈正左衞門賴義・次男肥後守宗綱なり。承久の頃、賴義は京都︀にあ
りて、內裏守護となり、鎌倉將軍實朝の時、一門の總領たれば、威勢他に異なり。
然るに後鳥羽︀法皇、賴義が振舞、叡慮に叶はざる事ありしが故、院參伺候の武士を
以て、賴義追討の儀仰付けられ、賴義詮方なく、仁壽殿へ駈込み、內裏に火をかけ、
殿中にて切腹しぬ。一族皆{{r|虜︀|とらはれ}}となる。此時次男宗綱が子の藏人宗信も殺︀さる。宗
信が子に、兵庫頭宗重といふ者︀あり。未だ幼年なりしが、下野の國へ下りありけ
る內、下間の鄕に於て、親鸞上人の弟子となり、蓮位坊阿法といふ。夫より一生、親
鸞上人に隨ひ居けるなり。其子蓮覺・其子觀阿・其子宗務・又其子覺參・其子玄英、蓮
如上人の時、丹後法橋といひ、代々本願寺の候人となりて居ける。此玄英に、八人
の子あり。一男筑後法橋賴善に二子あり。{{仮題|分注=1|一は丹後法橋賴玄、|二は上野法橋賴慶}}二男備前守成賴・三男助
綠法師・四男越後守賴長{{仮題|分注=1|源十郞賴包・賴康、其|子刑部法印賴康、}}・五男上總法橋慶秀・六男遠江守兼賴・七男
周防守賴宗・八男駿河守光宗、{{仮題|分注=1|筑後守賴淸・筑後守|賴{{仮題|編注=1|逢}}女進法印仲元、}}斯くの如く段々榮えて、富貴となる
中にも、一男四男八男の跡、大に榮えて、證如上人の頃、三家老と號し、將軍家の
御相伴衆に加はる。是より先に、本願寺の祖︀像前へ、諸︀國より上る品々の賽錢は、
下間家の收納となる掟なりしを、顯如上人の頃、皆本願寺へ差上げ、夫より諸︀國の
末派へ官職を許し、此官銀を以て、配當する事となり、別けて顯如上人の〔{{仮題|分注=1|脫字ア|ルカ}}〕
下間賴龍・同賴廉・同仲之、是等三家老となり、常に乘馬五十疋宛・人數三百人計を
扶持し置きけるなり。
{{left/e}}
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|昔日北花錄}}{{resize|150%|卷之二<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=昔日北花録/巻之二}}
{{仮題|ここから=昔日北花録/巻之三}}
{{仮題|頁=134}}
{{仮題|投錨=昔日北花錄|見出=大|節=s-3|副題=卷之三|錨}}
{{仮題|投錨=富樫家滅亡の事|見出=中|節=s-3-1|副題=|錨}}
天文元年、{{仮題|分注=1|後奈良院の御宇、將|軍義時公治世、}}京都︀繁昌して、每月二箇寺三箇寺宛出來し、京都︀
大方題目の庵となれり。爰に山門の衆徒此事を憤り、近江の佐々木義賢と示し合
せ、軍勢多く催して、日蓮宗の寺々を破却せしむ。是に依つて上の京より、賀茂川に
於て大合戰あり。日蓮宗の徒大に打負けて、山徒京中へ攻入り、寺々を燒きける時、
四條通より上の方殘らず燒失して、內裏も炎燒す、此時三好海︀雲といふ者︀、京都︀に
威を振ひ、管領細川晴︀元も、將軍義晴︀も、皆三好が計らひなりければ、之を征する力
なし。依つて內裏より、山科へ下知ありて、此亂を鎭めんと任ぜける。本願寺の候
人等、下間を大將として、上の京の火を救はんとする事を、山門の衆徒また之を憤り、
佐々木へ下知して、山科を攻めさす。義賢、山科へ發向して、堂塔に火をかけ攻討ち
ければ、不意に打負け、本願寺の一族は、大坂へ退きける。下間等も京を捨て、大坂へ
馳登りけるが、元來此宗旨、河內・紀伊邊に、多く門徒ありし故、早速大坂に城を築き、
影堂・彌陀堂・庫裡・玄關等、善盡し美盡して、區々に建立す。尤も渡海︀の便よき故、諸︀
國の貢米、貴賤の參詣、今迄より八十倍して、繁昌此時より大なるはなし。爰に加賀
の國御山の城には、下間氏の一國を打隨へて、猶も越前へ攻入らんと企てける所に、
山科の御堂燒失して、本願寺の一族等、何方へか落行きけん、いざ知らずといふ事
を聞きて、追々吿げ來りければ、何れも肝を消し、下間銃前は、先づ宮腰浦より船に
乘り、大坂指して逃行きける。殘る者︀共拔け{{く}}に、いづくともなく落失せければ、
土民共、越前・能州へ早速案內して、三山の坊主達、其外或は富樫介が一族、鏑木・石
黑・山田・洲崎等の人々を迎へけるにより、人々早速入國して、何の造作もなく、舊里
に在付きけるこそ不思議なれ。御山の城には、近邊の坊主達在番して、浪人・鄕士を
多く奪ひて、大坂へ通路をなさしむ。元の如く一國の貢米を以て、本願寺へぞ捧げ
{{仮題|頁=135}}
ける。是より國中靜謐にして、一向宗の繁昌となる中にも、洲崎和泉は、亡父慶覺坊
が、越前より來りし時、蓮如上人へ聖作の小佛を給はりしに、夫を甲の立物として、
富樫氏を亡せし故、此御佛を崇敬し、慶覺寺を建てゝ安置す。{{仮題|分注=1|今金澤城下にある|慶覺寺是なり。}}天文十
七年、越前の國主朝倉孝景、波着寺へ參詣して、俄に逝去しければ、{{仮題|分注=1|孝景は若狹の大守、|武田光信が婿なり、}}
江州佐々木氏綱の末子孫次郞を養子として、遺跡を繼がしむ。左衞門督義景と號
し、細川勝元の婿となる。此時祖︀父貞景の弟敎景入道宗滴存命して、一國の政務の
後見をなしけるが、宗滴先年加州へ打入り、一揆の加勢せられける時、軍利あらず。
其上加州の浪人坊主等を、久しく扶持し置きけるに、一禮もなく、何れも入國して、
結句土民共に一味して、越前へは今以て不通の仕方、言語道斷なり。我れ存命の內
に、今一度加州へ打入り、本願寺派の者︀共を切隨へんと、此事を義景に內談し、天文
二十年の秋、再び大軍を催して、加州へ押寄せ、南鄕・津柴・千足の三城を攻落しける。
此時加州の大將分黑瀨兵庫等討死す。夫より大聖寺の城へ押寄せ、爰をも終に攻落
し、數山に宗滴陣を取る。此時大坂に於て、本願寺の{{仮題|分注=1|十|世}}證如上人、遷化の由聞えけれ
ば、一揆力を落して、江沼郡の內にて、度々加州勢敗北す。宗滴年を越えて在陣しけ
る內、陣中にて卒去ある。是に依つて、大聖寺・敷地邊より、越前勢は一先づ引取りけ
れども、加州勢、さのみ慕ふ事なくて、軍は止みぬ。弘治元年の春、公方義輝公より
御敎書來りて、越前・加賀和睦すべきの由なり。是に依つて、加州の總代として、窪田
肥前守といふ者︀越前へ來りて、禮を勤めて、夫より兩國和平となり、軍は止みける。
此頃越中安養寺村に、勝興寺といふ大坊あり。蓮如上人の次男蓮乘、相續せしより
以來、當國に威を振ひ、實如上人より、北國七州總錄に補せられ、一國の坊主を、與力
に定めらる。爰に越後より長尾爲景、近年越中を窺ひて、大軍を催し攻入りける。
新川郡には、桃井直和が氏族、所々の城を攻落し、神︀尾播磨守長光が籠り居ける瀧
山の城を取圍む。長光終に自殺︀して、落城に及びぬれば、婦負郡・新川の二郡は、風
を望んで爲景に隨ひ降りて、夫より射水郡增山の城神︀保越中守を攻むる。越中守、
五箇山へ逃隱る。此爲景の兵威大に振ひて、栴檀野に陣を取りてありける所に、礪
波郡木船の石黑左近・安養寺村の勝興寺・中田村の得成寺等、礪波郡・射水郡の軍勢、
{{仮題|頁=136}}
三戶田より安養坊山へ打つて出で、不意を攻めて、終に爲景討死す。猶殘兵を討つ
て、越後の境に至りて引歸す。{{仮題|分注=1|爲景の塚︀、今に|午滑村にある。}}此時爲景の爲に、桃井の氏族斷絕せり。
直和が孫長市丸出家しける。是れ直常より六代の孫なり。
{{仮題|分注=1|後に日蓮宗の日降上人とて、京都︀本願寺・尼ケ崎本興寺・越中國淺井の本興寺等の開基なり。}}爲景討死の後、神︀保越中守、富山の城へ移り、新川・婦負郡に威を振ふ。
其後爲景の家督を、景虎繼ぎてより、{{仮題|投錨=景虎起る|見出=傍|節=s-3-1-1|副題=|錨}}越中は父の仇國なりと、度々越中へ打つて出
で、合戰止む時なし。然れども景虎、甲州・相州等に大敵ありて、深く越中へ働く事
能はず。故に飛州の國司姊小路家の家老も、能州の國司畠山家の家老も、幷國士に
は椎名・井口・興恩寺の輩、婦貞・新川兩郡を爭ひける。礪波は石黑左近・勝興寺・得成
寺・瑞泉寺・善德寺抔、折々合戰止む事なし。永祿二年、長尾景虎上京して、將軍義輝
に謁︀し、名をば輝虎と改む。{{仮題|分注=1|此時輝虎、紙子の道服を着て編笠を冠|り、脇差一腰一僕にて上洛すと云々。}}此時大坂の本願寺{{仮題|分注=1|十一|世}}顯
如上人、二品親王の敕許を蒙り、永く門跡となる。{{仮題|分注=1|是れ正親町院|の御宇なり。}}是より先に後桃園院
の時、久しく御卽位の大禮行はれず。本願寺證如上人より、數百金を捧げて、大禮の
料とす。其恩賜として、敕許なるとぞ。今年毛利元就、當今御卽位の料金を捧げ奉
る。其恩賜として、其家を永々淸華に准ぜられ、菊桐の紋を賜はり、將また本願寺門
跡の敕許ありし故、六院家を免︀許ありて、參內の儀式等行はるゝにより、國々の大坊
主上洛す。加賀・越中の坊主衆も、殘らず上洛あれば、越中には神︀尾・石黑、礪波郡へ
打つて入り、大に威を振ひ、終に石黑・椎名をば、神︀尾が幕下として、越中守光氏頃日
越中にして大に勢あり。婦負郡瀧山には、神︀尾が家臣寺島丑之助・同甚助居城たり。
其近所なる城生の城には、齋藤次郞左衞門が養父常陸入道淨永あり。此淨永、長尾
家に緣ありて、輝虎の幕下となる故、每度合戰あり。後に齋藤、長尾家を叛きけると
なり。永祿八年、將軍義輝は、三好義繼・松永久秀・同久道等に殺︀され給ふ。新將軍
義昭、京都︀を落ちて、佐々木・淺井・朝倉を賴み給へども、皆三好が威に怖れ、早く合戰
を催しもせず。{{仮題|投錨=信長、三好義繼を討つ|見出=傍|節=s-3-1-2|副題=|錨}}是に依つて、織田信長を賴み給ひければ、早速に領掌し上洛して、終
に三好・松永等を降參させ、義昭を京都︀に居ゑ置き、羽︀柴筑前守秀吉を以て守護せし
む。其頃甲州の武田信玄上洛し、將軍家へ功を立てんと伺ひて、義昭を語らひ、信長
を攻めんと企てらるゝに付、近江の淺井長政・越前の朝倉義景をも語らひける。信
{{仮題|頁=137}}
長之を聞き、早速越前へ出馬して、朝倉と合戰あり。{{仮題|投錨=信長、淺倉義景を討つ|見出=傍|節=s-3-1-3|副題=|錨}}元龜元年より同四年にして、終
に朝倉を攻亡す。義景、一乘が谷にて切腹す。一族の景鏡等、信長へ荷擔しける故、
早く落城す。此時信長より、前波九郞兵衞尉吉繼を、一條が谷に置く。{{仮題|分注=1|一乘は、朝倉家の|代々居城なり。}}
越前一國の政道をなさしむ。津田九郞兵衞・木下助左衞門・明智十兵衞を、北庄に奉
行とせり。其後前波九郞兵衞、桂田播磨守長俊と改名し、信長の一字を拜領す。爰に
又富田彌八郞長秀といふ地士あり。生國は雲州佐々木の末葉にて、近年朝倉家へ
隨ひ、武名專ら高き人なり。中々播磨守が指揮に隨はず、一揆を催し、終に長俊を討
亡し、猶も北庄三奉行を攻亡さんといひけるを、朝倉家の一族衆扱ひて、三奉行は
北庄を退き、終に濃州へ歸りける。是より富田長秀、一國の主となり、威勢を振ひけ
るに、一向宗の徒は、是に隨はず、却つて富田を亡さんと、土民共打寄り{{く}}相談し
て、早く加州の御山へ使を遣し、大將一人給はるべし。抑朝倉義景は、細川家の婿と
して、當時大坂の上人とは相婿なり。此因緣を以て、越前を一圓に、本願寺領となす
べしとぞいひ遣しける。爰に於て、加州より下間筑後守・同じく和泉守・杉浦壹岐
守・七里參河守等、大勢を率し馳向ひ、七里參河守を先陣として、國中の勢を集め、
長秀と戰ひける。天正二年十一月、長泉寺山に於て、小林吉隆︀が放つ所の鐵炮に當
りて、{{仮題|投錨=富田長秀戰死|見出=傍|節=s-3-1-4|副題=|錨}}長秀終に空しくなりける故、一族離散して、軍止みにければ、
{{仮題|分注=1|長秀が一子勝右衞門といふ者︀、山崎氏親類︀にて、仕へ居けるが、後加州利常公に仕ふ、}}夫より下間・杉浦・七里等手分して、越前一國を打隨へける。就中高
田派の門徒共、幷に府中の町も燒立て{{く}}、亂暴に及びける。扨朝倉家の一族衆も、
最初信長入國の節︀反心して、本家義景を見放したる敵なれば、一々攻潰さんと、景
鏡を一番に攻落し、平泉寺も燒立てける。景鏡は早く逐電しけるなり。猶北一國の
他宗をば殘らず改宗させ、{{仮題|投錨=一向宗の跋扈|見出=傍|節=s-3-1-5|副題=|錨}}神︀社︀を破却し、國中一向宗のみにして、恣にぞ威を振ひけ
る。いつしか昨日まで、郡主地頭と呼ばれし人々、土百姓の家來となり、淺ましき有
樣なり。爰に去々年、信長越前へ攻入る時、加州の富樫の一族衆は、將軍家の御敎書
默止し難︀く、信長に應じ、出陣せんといひける。爰に於て國中の土民、野々市へ押
寄せ、館︀を燒立て、一時攻にして揉立てける。{{仮題|分注=1|近年信長、大坂に於て、顯如上人と、每年合戰あ|りける故、加州一國は、本願寺領なる故なり。}}
富樫介泰俊幷子息兩人は、金津の城溝口、大炊之介方へ引退き、泰俊の舍弟晴︀貞は、
{{仮題|頁=138}}
長屋谷傳燈寺へ落ちける。此頃大乘寺無住故、傳燈寺より來りて看主たり。然るに
百姓共、大乘寺にも火をかけて燒立てける故、看主と共に落行きけるが、一揆共、猶
も慕ひ來りて、終に傳燈寺へ押寄せ、火をかけて攻立てける故、晴︀貞、詮方なく生害
なり。{{仮題|分注=1|此人畫を能くす。好んで馬を畫き、世に藤原晴︀貞とは此|人なり。今傳燈寺に富樫の石塚︀あるは、晴︀久の墓なり。}}此晴︀久に三子あり。嫡子宮內晴︀
友は、越中へ落行き、二男彥次郞輝上・三男豊弘。侍者︀兩人は、野々市にて討死す。
是れ則ち元龜元年五月なり。{{仮題|分注=1|此時松任に、蕪木右衞門といふ者︀、富|樫が一味にて、一揆の爲に討たれぬ。}}越前國金津の城主は、溝
口宗天入道が子息大炊之介長逸︀とて、去々年信長公の召に應じ京都︀へ出陣し、六條
合戰に大功を顯し、五千石を加增し、一族嚴重に城を守りけるが、天正二年の春、爰
へも一揆押寄せける。大將杉浦壹岐守扱ひして、和交に及ばんとするに、城中に叛
心の者︀ありて、內より火をかけ、同士討する故に、是非なく溝口一族、殘らず自害し
て、落城にぞ及びける。{{仮題|分注=1|長逸︀が子は逃れて後、|大炊之介長氏といふ。}}富樫泰俊父子三人幷一族小泉藤左衞門、近
年爰に客となりてありしが、此時城中にて討死して、三人共に相果てらる。泰俊
六十四歲、法名宗廣と諡す。嫡子植春二十七歲、法名宗珍と諡す。二男天易侍者︀廿
五歲。{{仮題|投錨=富樫家滅亡|見出=傍|節=s-3-1-6|副題=|錨}}此時永く富樫の家は亡びける。然れども一族數家の事なれば、土民となり、
加賀一國に散在せる。其後胤、あげて數へ難︀しと雖も、慥に其正統を知れる者︀なし。
{{仮題|分注=1|富樫氏族、今金澤・小松・野々市・|松任にて、高家となり散在せり}}大乘・押野・本折等の家名は、其末流と云々。斯りける後は、
越前一國本願寺の領となる。是に依つて、下間・七里等の大將、國政を行ひ、所々に道
場を建て、百姓を芥の如くに使ひける故、土民等案に相違し、始めの武士に使はれけ
る時よりも、課役多くかゝりて、難︀儀に及ぶ事を憤り、また叛逆を企て、坊主衆と百
姓と二派になりて、同士軍始りて、國中大亂となる。天正三年の春より、夏へかけ
て打入り、越前一國を征伐せんと、柴田修理亮勝家・丹羽︀五郞左衞門尉長秀・明智日
向守光秀・羽︀柴筑前守秀吉・稻葉伊豫入道一徹以下の大將にて、三萬人は中海︀道より、
鳥羽︀の要害を攻破り、船橋・森田・長崎・金津迄押通り、一揆の大將分幷坊主共、悉く打
取り、瀧川左近將監一益・前田又左衞門尉利家卿・佐々內藏介成政・武藤宗右衞門以
下三萬人は、三保河內より、土橋迄亂入す。佐久間信盛が嫡子甚九郞
{{仮題|分注=1|此時信盛は、大坂天王寺にありて、顯如上人を防ぐ。天正八年、顯如上人和平の時、數年盛信が大坂にありて、功なき事を怒り、改易せられ、浪人となり、行方知らず。}}不破河內守・伊賀伊賀守・原田
{{仮題|頁=139}}
備中守・篠岡兵庫介以下一萬人は、西潟・越智・織田・山家・三田濱等の在々に打入り亂
暴す。金森五郞八長近・原彥次郞等は、德山より北口に打入り、大野郡にて在陣す。
三國吉崎に楯籠りたる一揆共は、加賀國へ逃げける。{{仮題|投錨=信長越前を平均す|見出=傍|節=s-3-1-7|副題=|錨}}其外の大將分・坊主分、殘らず
此時討死し、纔に一月許にて、一國平均となり、豐原寺は、此度七里・下間等が在陣た
る間、敵に一味なりとて、數百の坊を、悉く燒拂ひける。足羽︀郡にある高田派の坊
主達一揆、本願寺敵なる故、此度早速罷出で、信長公の加勢する故、悉く坊舎を助け
置かれける。是に依つて、越前一國の守護を、柴田勝家に申付け、五十萬石を宛行は
れ、北庄に在城す。大野郡三萬石は、金森五郞八へ、二萬石原彥次郞、敦賀元の如く
武藤宗右衞門代官たり。府中邊にて、五萬石を佐々成政、三萬石前田利家卿、二萬石
不破河內守。{{仮題|分注=1|之を三奉|行とす。}}斯くの如く夫々政道ありて、府中に信長在陣の內、羽︀柴秀吉・丹
羽︀・柴田・稻葉等は、直に加州へ攻入り、大聖寺・敷地・山中等を攻落し、能美郡半分
も、追靡けけれども、信長より、早速歸るべき旨、下知あるにより引返す。能美郡
の一揆、後を慕ひければ、江沼郡の者︀共、所々より打出で、退口難︀儀の所、秀吉後陣に
ありて、漸々引取りける。未だ加賀の國は、年貢等手に入るまじけれども、頓て征伐
すべしとて、江沼郡・能美郡二郡の內にて、阿閇淡路守貞秀・堀中務丞景忠兩人に、十
萬石を給はる。扨大聖寺・津葉二箇所に城を構へ、戶次右近を大將として、鳥彌右衞
門・佐々權左衞門・堀江中務・溝口大炊介を籠め置きて、信長は岐阜へ歸城し給ふ。
{{left/s|1em}}
信長、此時正二位下大納言に任じ、息信忠從四位左中將となる。江州安土に城を
築き、{{仮題|分注=1|八幡より一里北の方にて、|湖水の彼方なる小山なり、}}其身は安土に居し、信忠を岐阜に置き、天下の執事と
なる。未だ將軍の宣下はなしと雖も、過半信長の下知を用ひ、是より先將軍義昭
を取立て、故將軍義輝の敵三好・松永を征伐して、二條に館︀を造立し、義昭を居ゑ
置き、猶將軍に隨はざる輩を征せんとす。義昭は、信長の恩大なるに、其頃武田信
玄、京都︀に旗を擧げん事を望む故に、義昭をそゝのかし、信長を討たんとす。山
門幷に佐々木・淺井・朝倉を語らひしに、信玄早く病死しけるにより、信長先づ叡
山を攻亡し、佐々木承禎︀を陣參させ、淺井を潰し、朝倉を平らげ、猶も將軍義昭を
捕へて、河內若江の城へ蟄居せしむ。{{仮題|分注=1|義昭剃髮して、|昌山と號す。}}是より京都︀五畿內邊に橫行し、
{{仮題|頁=140}}
天下の政事を執行ひけり。
{{left/e}}
天正四年、信長の幕下戶次右近、{{仮題|分注=1|初め簗田左衞門大|郞といふなり}}加賀の大聖寺に楯籠り、一揆の押と
してありける故、加州全く本願寺領主たりと雖も、通路一圓に叶はず、只商家の
類︀のみにて、大坂へ行通ひける。是も加賀者︀と見えて、越前の通路なり難︀し。
{{仮題|分注=1|此時大坂に、顯如上人・敎如上人ありて、元亀元年以來、信長と合戰止まざるなり。}}土民此事を憤りて、能美・江沼兩郡一統し、大聖寺・津葉兩
城を攻取らんと、いぶり橋に陣を取り評議す。戶次右近、敷地の天神︀山へ出張し戰
ひけるが、初めの程は、加州方打負けしに、山內・白山・麓・別宮・吉野邊の一揆悉く起
り、富樫の一族殘黨幷に家人共大勢加勢して、終に天神︀山を追落し、大聖寺へ攻寄
せ、息をも繼がず攻めたりける。村々里々、殘らず敵中なれば、津葉の城代堀江中
務・佐々權左衞門、之を救ふ事能はず、急ぎ信長へ註進す。依つて早速佐久間玄蕃允
盛政を加勢として差下し、柴田勝家馳向つて、指揮すべき由なり。兩人大勢を引率
し、大聖寺の後として、寄手を拂ひ退け、敷地の陣を取返しける。此時一揆討富樫六
郞左衞門尉家貞{{仮題|分注=1|押|野}}・舟田又吉・小里黑源太・林新六等討死す。然れども御幸塚︀{{仮題|分注=1|今井村|なり}}に
楯籠りて、猶越前勢を待ちけるに、德山五兵衞計略をなし、城中の內山四郞左衞門・
林七介を味方へ招きて、內應させければ、終に落城にぞ及びける。是より柴田は越
前へ引返し、佐久間は大聖寺御幸塚︀邊にありて、猶も能美郡の山內・別宮邊を攻平げ
んと、每日其支度をぞなしにける。永々打つて出でんとすれば、足下の山中・山代・橋・
熊坂邊より、一揆起り出でゝ、跡を取切らんとする故、兎角大聖寺・いぶり橋邊に對
陣してぞ日を送りける。{{仮題|分注=1|此時盛政、加州の一揆を攻平らぐるに於|ては、一國を給はるべしとの事なりとぞ。}}
{{仮題|投錨=越中國士爭戰の事|見出=中|節=s-3-2|副題=|錨}}
越中礪波郡は、本願寺派の大坊瑞泉寺・勝興寺・得成寺・善德寺等の所領として、追年
射水郡も打隨へる中にも、勝興寺住職は、蓮如上人より五世大僧︀都︀顯榮とて、細川
晴︀元の婿たり。本願寺顯如上人も、晴︀元の婿たりしかば、此頃顯如上人、織田信長と
不快にて、大坂に於て、每度合戰に及ぶこと、顯榮一身に拘はりたる事と思ひて、遠
く北陸より、大坂の{{仮題|編注=1|懸見}}たる如く思ひて、費糧を助けて、猶又加勢の事を計ると雖
{{仮題|頁=141}}
も、遠境心に任せず。然るに此年、信長、朝倉義景を討ちて、越前治りけるが故、北陸
道の路絕え果てたり。朝倉義景滅亡の時、二女あり。一女は、勝興寺の嫡子顯幸へ
約束あれば、家臣豐島藤兵衞を添へて、越中へ送る。二女は、家臣福︀岡石見守之を
携へ、顯如上人の嫡子敎如上人へ送る。是れ何れも兼約に依りて、陣中より遣す時
に、勝興寺へ朝倉家穢藤四郞といふ名劒と、渡天の佛像とを送る。
{{仮題|分注=1|佛像とは、天皇より、大塔宮へ下されし佛にて、今彼寺にあり。名劒は、勝興寺より利家卿へ上らるゝ故、今國司にあり。}}然るに信長には、重々の仇ありければ、越後の長尾
の謙信、近年都︀に旗を揚げんとの志、度々通達しけるが故、上洛に於ては、驥尾に附
かんと申合せける。謙信も、未だ越中の仇を報ぜざる故、大軍を率し發向す。父の
爲景とは事替り、文武の勇將として、關八州の管領ともいはるゝ器︀量たれば、越中の
國士、風を臨んで參じける。神︀保一族は、父の敵なればとて、合戰に及びけるに、安
藝守氏春は、富山の城を明けて、森山の麓へ楯籠り、四方へ海︀水を堰入れて之を守
る。石黑左近、礪波郡にありて加勢たり。叔父の神︀保兵庫氏信、增山の根城を守り
けるが、謙信、此城は父の仇なり、自身に攻めんと戰ひけるが、終に氏信切腹して、{{仮題|投錨=謙信增山城を陷る|見出=傍|節=s-3-2-1|副題=|錨}}增
山落城に及びける。夫より礪波の一向宗、味方の事なれば、直に加州へ打渡り、御山
の城下に屯しける時、信長の幕下より、加賀の國を犯す由にて、松任・野々市へ陣を
出し、佐久間盛政と戰はんとす。是に依つて、佐久間、信長へ急を吿ぐるに依つて、
柴田勝家指揮して、丹波五郞左衞門・佐々成政・前田利家卿・金森五郞八等の數輩、早
速加州へ來りけれども、謙信の威勢、左右なく戰を交へん樣もなく、互に見合せ居
たりける內、北條氏政、越後の國へ攻入る由、吿あるにより、謙信は、手取川より、越
後川へ引返す。{{仮題|分注=1|此時、松任の蕪木右衞門を、謙信討取るといふ事、別|書にあれども、蕪木は先達つて一揆の爲に討たる。}}是に依つて、柴田・丹波等
の諸︀將も、濃州へ引返しける。是れ天正五年七月なり。此時越中は、皆謙信の幕下
となりけれども、獨り神︀保安藝守・同淸十郞父子、信長に荷擔し、謙信に隨はずして、
石黑左近と召し合せ、礪波郡の一向宗と戰ひ爭うて、騷動に及びける。{{仮題|投錨=謙信卒去|見出=傍|節=s-3-2-2|副題=|錨}}翌天正六年
六月、謙信、越後に於て卒去しける。始め姊の子喜平次景勝を養ひ、子として置きけ
る上に、北條家より、又養子としけるに、此三郞と喜平次と、跡式を爭ひ、大に合戰し
ける。依{{レ}}之越中の國士、又越後を背き、一向宗と合戰しける。然るに甲州武田勝賴
{{仮題|頁=142}}
も、信長に恨あれば、加越兩州の一向宗と牒じ合せ、濃州へ越さんとの事故、飛驒國
錦山の城主鍋山休庵を語らひ、越中へ働出で、井波・瑞泉寺等を先手として、國士神︀
保・椎名を亡し、越前の國へ登らんと企てける故、休庵が家臣白尾筑前、一向宗に一
味なり。且又國中を橫行する。此頃越中の國士には、神︀保安藝守氏春・同淸十郞、富
山の城國府の城に任ず。祖︀父神︀保播磨守長光は、畠山義綱の家臣、自然と能州より
來りて、越中の成敗を取行ひける。新川郡布市に住し、射水郡增山と富山に城を拵
へ、子息越中守光氏・孫の氏春に至りて、爰に住す。齋藤次郞左衞門一鶴︀は、城生の
城に居住す。椎名小四郞道三は、松倉に住す。{{仮題|分注=1|此城は、越後の堺にあり。普門藏人|が籠る所、後桃井二代爰に蟄居す。}}井上肥
後守は、新庄にあり。白鳥の城には、神︀保八郞左衞門尉楯籠り、興田備前守は大村に
あり。{{仮題|分注=1|東岩瀨の|近鄕なり。}}今泉の城には、越後の家臣河田豐前守在住たりしが、此頃越後へ退
きける。礪波郡木船には、石黑左近在住なり。斯くの如くの國士、少々宛の所領を
爭ひ、本願寺の坊主衆と、合戰止む時なかりしが、越後の國に於ては、喜平次景勝打
勝ちて、早く謙信の後を蹈へ、一國を幷呑し、速に越中へ打入り、城々を攻めける。
{{仮題|分注=1|謙信の時は、越中・能登・佐渡・上野・信州の內等の國々、皆旗本たりしに、|景勝になりて從はず。然れとも越中の一向宗は一味故、先づ越中へ來る。}}此時飛州の白尾筑前は、景
勝へ降參して、先手となり合戰する。是に依つて、齋藤次郞左衞門は、城を明けて
本國常州へ逃行きける。椎名は、射水郡三戶田邊へ隱るゝ。興田豐前は、切腹して
落城す。新庄の井上も、逃亡して行方なし。唯富山の神︀保一人楯を突︀きて、景勝に
降らざりける。木舟の石黑と礪波の一向宗を〔{{仮題|分注=1|脫字ア|ルカ}}〕なり。景勝も深入無用と、魚津
の城を普請して、河田豐前守・吉江織江を殘して、一先づ越後へ引返しける。{{仮題|分注=1|此頃大坂の顯如上
人、信長と合戰度々に及ぶ故、越中加賀の一向宗、加勢の心ありと雖も、當時越前は、信長領となる故、上方
の通路一圓絶えたり。甲州武田勝賴、越後の長尾景勝に荷擔し、兩人の內上洛あらば、加勢すべしと、兼約あ
りしと雖も、信長々第に威勢强くなる故、越中の神︀保・能登の長氏も、皆
織田家へ心を通じ、加勢を給はらば先手となりて、越前へ攻入らんと約す。}}神︀保安藝守父子、婦負郡射
水の間に威を振ひ、金谷河原に砦を築きて、一族八郞左衞門を籠め置きて、井波等
の一向宗を防ぎける。射水郡阿尾の城主菊地伊豆守も、礪波郡赤丸村木田・木舟村
の石黑はいふに及ばず、皆神︀保に心を通じける。此頃神︀保より、度々信長へ人を馳
せて、加越の間へ御下向あらば、先陣して早速越後へ攻入らんと約しける。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|昔日北花錄}}{{resize|150%|卷之三<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=昔日北花録/巻之三}}
{{仮題|ここから=昔日北花録/巻之四}}
{{仮題|頁=143}}
{{仮題|投錨=昔日北花錄|見出=大|節=s-4|副題=卷之四|錨}}
{{仮題|投錨=能州畠山滅亡の事|見出=中|節=s-4-1|副題=|錨}}
能登國は、應永の頃、畠山義統、將軍より國司として下向ありしかば、代々畠山相續
して、近年義則の子息三人ありしが、末子は、越後の謙信へ養子に遣し、嫡子と次男
は早世し、暫く家督相續なかりしに、河內國畠山主膳正{{r|照専|てるあつ}}の弟に、修理大夫則高
を招きて、國守として敬す。國士には、長谷部の長里・瀧野・長・溫井・三宅・太田・建部・
伊丹、之を八臣と稱して與力なり。家老には遊佐備前守{{仮題|分注=1|是は河內|より來る}}神︀保安藝守、
{{仮題|分注=1|是は三代以前京都︀より來る、}}之を補佐す。神︀保は、先年越中の國司斯波家微勢なる故、加勢の爲めに越中
へ渡り、夫より彼國の指揮する事にはなると雖も、一向宗、次第に權威盛なりしか
ば、畠山の國司は、名のみとなり、越後の謙信の旗本となりて、日を送りける。此八
臣の內、長對馬守主連は、長谷部信連より十九代長連が一子なり。當時重連の代と
なり、威勢肩を竝ぶるものなく、能州半國を領しける。是に六男あり。嫡子は左兵
衞・次男右兵衞・三男四郞五郞長松といふ。近年織田信長、五畿內に威勢あれば、重連
由々しく思ひ、度々人を遣して、懇意に禮儀を述べければ、信長公も、近年の內、越後
發向の志あれば、其節︀神︀保と申合せ、先達あるべしと、約束ありければ、猶も信長に
附入りて、此頃末子長松が出家にならんと、觀音寺へ行きけるを還俗させ、長九郞
左衞門と名乘らせて、家老の伊久留伊豫を添へて、信長へ人質に遣しける。{{仮題|分注=1|則ち連龍|といふ。}}
爰に遊佐備前守、或時に黑瀧の長與市景連を招き、近年對馬守が行跡、信長へ附入
り、頓て我々をも、被官にすべき形勢なり。何卒之を謀らんといへば、景連大に喜び、
三宅・喜田を語らひ、其謀計を拵へける。備前守が一子孫六は、對馬守が婿なれば、
溫井方へ、對馬守幷子息五人を呼迎へ、饗應をなし酒を勸め、扨沈醉の頃、長・三宅・
喜田三家の人數押懸け、暫時に六人を討取り、家來共は、皆々扶けて追拂ひ、夫より
一揆の如く打連立ちて、畠山殿の館︀穴水へ押寄せければ、修理大夫詮方なく、道下の
{{仮題|頁=144}}
浦より船に乘り、妻子を引連れ、越前敦賀迄落延び、夫より東坂下へ蟄居せらる。又
遊佐・温井・三宅・黑瀧の人々は、國中を押廻り、我に隨はんといふ者︀は赦し置き、違背
の輩は、片端より打潰しける間、忽も國中鎭り、此者︀共、郡々を{{r|分取|わけとり}}にし、對馬父子が
首を、大理濱の端に梟首し、此につき信長攻來るべし。征伐あらば、越後の謙信へ
加勢を賴まんと、謙信へ禮をして幕下となるに、此後より目代として、上杉玄蕃を
遣し、穴水の館︀に置かしむ。此時暫く、能州一國は、謙信の成敗となりける。然る
に對馬守が六男、能州の事を聞きて、信長に暇を乞ひ、家來伊久留を能登へ遣し、其
身は越前の三國に泊り、能登の便を相待ちけるに、舊臣追々三國に來り、九郞左衞
門に對し、追付入國の事を謀る。伊久留了意も頓て歸り、國中の百姓・町人、何れも
味方の旨を語る中にも、芝峠の庄屋刀禰が方まで着船の約束、穴水の榮齋が働の
樣子などを語りければ、九郞左衞門大に悅び、舊臣百人計に、信長より二百人乞ひ
得て、越前より船に乘り、能州の芝峠の湊に着きける。是れ天正三年八月なり。
{{仮題|分注=1|九郞左衞門連龍、天文廿二年十二歲にて、信長へ人質に行く。}}庄屋、兼て兵糧を多く貯へ置き馳走し、{{仮題|編注=1|近たか}}村へ吿げしか
ば、舊臣方々に隱れある者︀共、先達つて了意・榮齋が語らひにて、軍用意して待ちけ
る故に、急に寄集りし軍勢、三十人計なれば、九郞左衞門、時刻を移さず、穴水へ
押寄せける。上杉玄蕃は、思も寄らぬ事なれども、先づ防ぎ戰ひける。一日の內
に、手勢皆討取られければ、{{仮題|投錨=上杉玄蕃戰死|見出=傍|節=s-4-1-1|副題=|錨}}自殺︀して相果てける。夫より直に、黑瀧の長與市景連
が館︀の、棚本へ押寄せける。此時遊佐・溫井・三宅・喜田の人々も、何れも棚木へ打寄
り、相談半なる所へ、早や長九郞左衞門連龍押寄せけるに、國中の百姓共、馳寄り馳
寄り五千人計、棚木を追取卷き、溫井備中守は、城外へ出でゝ備へける。長與市・遊
佐備前は、城中を守り防ぎける。然るに溫井景隆︀・三宅長盛が手勢、過半叛心して、
連龍へ加はる。猶も殘勢心元なしとて、偕支度なれば、向ひ進む者︀一人もなし。景
隆︀・長盛詮方なく、亂軍に紛れて落行きける、城中にも、過半叛心の者︀あれば、防ぐに
力なく、城戶を開きて打つて出でける。先に對馬が家老に、小林平左衞門は、武勇第
一の者︀故、景連方へ招き置きたり。此度連龍入國と聞きて、景連に暇乞ひて、昨日
此城立退きたり。今日先陣に進んで、終に與市景連を討取り、彼が差添の丈木の刀
{{仮題|頁=145}}
を添へて、連龍奉る。遊佐備前守は落失せける。是に依つて、九郞左衞門、一國を打
隨へ、館︀の濱{{仮題|分注=1|今田鶴︀濱|といふ}}に城を築き、扨信長へ註進して、目代を下さるべき旨、申遣しけ
る故、管屋九右衞門・福︀富平左衞門下向して、九郞左衞門へは、鹿島半郡を下され、一
國は信長の領となる。其後連龍、人をして、畠山殿を尋ねければ、修理大夫は病死
あり、後室と娘一人を引取りけるが、家來其の相談に依つて、{{仮題|分注=1|畠山の娘は、利家卿の臣河岸掃部に嫁す。連龍の嫡子
十左衞門、二女あり。一は利家卿の臣前田美作
に嫁す今一人は、淺加作左衞門に嫁ぐといふ、}}是より連龍は、信長の幕下に屬して、再び長谷
部の家を起しける。{{仮題|投錨=能州畠山家斷絕|見出=傍|節=s-4-1-2|副題=|錨}}能州畠山の家は、此時斷絕して、先主義則の三男彌五郞、越後に
ありけれども、謙信死去の後、養子北條三郞と、甥の喜平次と、跡式を爭ひ合戰する。
終に喜平次打勝ちて、一國を治むる時、彌五郞、{{仮題|編注=1|越後}}は、京都︀へ立退き、剃髮して入庵
と號しける。慶長年中、德川家へ召出され、畠山入庵と名乘る。其後胤、今旗下に
ありて、高家となる。
{{left/s|1em}}
戰國には、和睦或は幕下に屬せし印として、人質を家來として召仕ひ、または高貴
の子族を、養子と號し置きける故、實に子ありても、養子の名目數多あり。故に謙
信、始め甥の喜平次養子として、又北條家より養子を貰ひ、畠山家より養子をす
る。皆人質の覺悟なり。男子なきは、女子を以て婚姻し、或は妾となす。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=加州一揆退治の事|見出=中|節=s-4-2|副題=|錨}}
天正八年壬三月、重ねて信長命として、加州へ打入り、一揆の類︀、殘らず追討すべし
とて、柴田勝家・同三左衞門・德山五兵衞・拜鄕五左衞門、{{仮題|投錨=佐久間盛政加州一揆征伐|見出=傍|節=s-4-2-1|副題=|錨}}中にも佐久間玄蕃允をば、先
陣の大將として一萬五千人、江沼郡へ押寄せらる。去々年勝家越前に於て、農民
共所持する所の兵器︀を、殘らず取集め、農具にして渡しける時、加州江沼・能美郡へ
も、其旨觸れ遣しけれども、一圓に承引せず。爰に於て、此度一揆原、殘らず攻取る
べしとの評議なり。勝家は御幸塚︀にありて、三左衞門と玄蕃等と二手に分れ、佐久
間は吉野・劒・鞍ヶ嶽と、{{r|四十萬|しゞま}}・若松より長谷傳燈寺邊へ打向ひ、所々の小城・坊舎
を燒拂ひける。三左衞門は、安宅・本吉より、宮の腰浦へ出でゝ、河北郡へ打入らん
とす。爰に於て、長九郞左衞門連龍が方へ、加勢の事を言遣し、連龍が出陣をば待合
{{仮題|頁=146}}
せ居ける內、佐久間は、車{{仮題|分注=1|地|名}}の山越を押して、竹の橋へ打出で、末森の砦を攻崩し
ける。此頃三河國土呂崎の一向宗、國主家康公と不和になり、德川家の家士衆、一
向宗に荷擔して、多く暇を乞ひて浪人しける內、成瀨宇右衞門・岡部彌次郞・西鄕新
太郞・本多彥次郞・同三彌{{仮題|分注=1|左衞門|正重}}・同彌八郞、{{仮題|分注=1|佐渡守|正信}}等の人々、加州本願寺派の方人とし
て、此國に留り居けるが、此末森にも、本多三彌と西鄕新太郞籠り居ける故、合戰日
數を經けれども、終に淺間なる砦なれば、退散して、鳥越へ行きけるに、佐久間押付
鳥越へ向ひける。弘願寺此所を立退きて、能州の方へ落ちければ、越中へ浪人は退
ぞきける。爰に大湖の邊に、木越廣法寺といへる大坊あり。湖水をば、屋形の四方
へ堰入れ、中々敵を寄付けず。河北郡の鄕士共寄集り居けるが上に、森下の城に
は、龜田小三郞といふ者︀あり。畠山義則の親族故、近年能州より彼家の諸︀浪人、多
く爰に便り居けるが、木越の後詰を待ち居たり。然る所に能州より、長九郞左衞
門連龍、黑津舟濱迄打出でければ、柴田三左衞門は、宮の腰より大手に向ひ、佐久間
は、中條邊より押寄せらる連龍が、近鄕の漁船を多く集めて、是に取乘りて、湖水
の口を切開きぬれば、木越近邊の溜水、一時に流れて堅田となる。諸︀勢是に氣を得
て、雙方より攻懸る。猶も佐久間は、森下竝に御山より、後詰やあらんと、中條・今
町邊に勢を殘して戰ひしが、廣法寺遂に打負けて、長九郞左衞門に降參し、能州の
方へ退きける。夫より諸︀將評議して、先づ御山の城を攻落さんと、柴田三左衞門は、
宮の腰口より、廣岡の森に陣を取り、拜鄕・德山は、犀川を隔てゝ陣を取りける。佐
久間盛政は、南良瀨越の山道より、小立野の山上へ出でゝ、城の後より攻懸る。此
御山の城には、初め本願寺の候人、楯籠りしが、先年宗徒の大將分は、越前へ打つて
出で、信長の爲に大方討死して、是よりは、朝倉家の浪人大將となりて、籠り居ける
故、外の一揆原とは大樣にて、能々持ち怺へ防ぎ戰ひけるに、大手柴田三左衞門手に
して、一揆原の大將分松永丹波守・鈴木右京親子・黑瀨左近・平野甚右衞門・窪田大炊
等討死したりける。
{{left/s|1em}}
松永丹波は、越中松永道林寺が弟にて、蓮如上人に隨身して、松永隼人といふ者︀
の子なり。下間筑後、越前に討死の後は、此松永を以て、尾山の城主とす。平野甚
{{仮題|頁=147}}
右衞門は、河內の浪人にて、武勇の者︀なり。此人討死の跡を、今に甚石衞門坂と
いふ。
{{left/e}}
山の手小立野口にて、坪坂新吾・得田小次郞討死しければ、本願寺・本誓寺・廣濟寺・惠
林房・善照坊評議し、終に城を明けて、佐久間に渡し、何れも退散にぞ及びける。是
より佐久間盛政は、御山の城に繩張し、東の方の堀を搔上げ、爰に居住して、猶も一
國を平均せんと、柴田・徳山・拜鄕など評議して、松任と野々市には、若林長門幷同氏
雅樂之助・同甚八、楯籠りたり。是れ朝倉家の武士なれば、百姓同前にはなるべから
ずとて、柴田三左衞門は上口へ向ひ、佐久間は下口より向ひける。若林、鐵炮の士六
百計にて、手取川の際に打出でゝ、能々防ぎける。柴田衆評議しけるは、斯る所に
數日戰ひなば、又諸︀方の一揆蜂起すべし。はや{{く}}埓を明くるに如かずと、使を以
て和談を言遣し、唯今押領の地、其儘與へ申すべき由故、若林早速領掌し、長門幷子
供兩人召され、御禮として本陣へ來る。長門は坊主あたまに{{仮題|編注=1|へんてつきて}}、一尺五
寸計の脇差計にて、一禮する所、兼て仕組みたる事なれば、大勢懸りて打殺︀しける。
此長門は、如何なる身體にや、人々{{r|切物|きれもの}}にて懸りたるに、一圓切れず。大勢にて擲殺︀
しける。子供も其場にて討たれける。此時御供、田村に土屋隼人、安吉村に大窪大
炊抔いふ地侍あり。此事を聞きて、降參すれば殺︀さるゝ間、今は覺悟を極めんと、若
林が家來共と同じく、我が家形々々を燒拂ひ、那谷の奧山中の溫泉壺の左の山、常德
寺が籠りたる城へ、各楯籠りけるが、扱を入れて、常法寺を始め一揆の大將分浪人
共、皆々爰を立退きて、上方道へ赴きける。
{{left/s|1em}}
參河浪人本多彌八郞も、爰に近年籠り居けるが、娘一人出生して之を携へ、若州
へ赴き、同じく十年、家康公へ歸參す。此頃上方に於て、本願寺顯如上人、大坂の
城を明けて、信長へ渡さるゝ故、一向宗微勢になる。
{{left/e}}
河北郡森下の龜田小三郞は、剛勢の古兵なれば、中々降參せず。故に柴田勝家より、
さま{{ぐ}}扱を入れて、溝口千熊といふ者︀を人質に遣し、終に龜田は、北の庄へ行き
て降參す。夫より佐久間盛政に與力し、金澤の城へ來り奉公しけるが、病死して其
跡絕えたり。存命の內、此溝口千熊に、龜田の氏を取らせんと、約し置きける由に
{{仮題|頁=148}}
て、千熊、後に淺野家へ仕へける時、龜田大隅と名乘りける。
{{left/s|1em}}
溝口千熊は、溝口金右衞門が弟半左衞門とて、家老の子なり。後に龜田大隅と名
乘り、淺野家を立退き、浪人せり。其後權兵衞、加州利常公に仕ふ。
{{left/e}}
斯くて河北郡にも、木越・森下落着しければ、割出村の高桑備後、熊吉村の戶田左近・
田中藤兵衞・松田次郞左衞門{{仮題|分注=1|道場となり|今にあり}}・富田村の左近・木目谷村の高橋藤九郞父子、
是等の一揆、皆々降參し、或は髮を剃り、一向坊主となる。士を止めて百姓になる。
加州一國平均すれば、早速安土に註進しける。重ねて靑山與三を以て、此度の軍功
を謝し、佐久間玄蕃に、石川郡・河北郡兩郡を給はり、御山の城に居らしむ。同國御
幸塚︀に德山五兵衞、大聖寺には拜鄕五左衞門、其外越前丸岡等に、柴田三左衞門・同
伊賀守抔を差置かれ、{{仮題|投錨=柴田勝家北國を支配す|見出=傍|節=s-4-2-2|副題=|錨}}都︀て北國は、勝家が成敗に屬しける。同年五月、一向の本山大
坂顯如上人、敕命に依りて、信長と和睦ある。去ぬる元龜元年より合戰始り、信長の
威勢、日々に增長し、五畿內・南國・北國、過半打隨へ給ひけれども、大坂の城攻には、
度々後れを取りて、勝つことなし。十一年の爭更に止んで、都︀鄙の貴賤、悅をなし
ける。顯如上人より、諸︀國へ其旨を觸れられ、敕諚の上は、氏家に對し、野心あるべか
らずとの制止なりし故、越中能登兩國の一向宗、神︀保氏治と長連龍に付いて、此旨
を演べられしかば、信長より、能州は菅屋・福︀富竝に越中へ、佐々成政を遣し、一國の
諸︀坊主を追落されける。面々にて、殘らず舊地を與へて、和睦ありける。同九月、
{{仮題|分注=1|天正|八年、}}前田利家卿に、能登一國を給はる。子息利長卿を、信長の婿となし給ふ。
{{仮題|分注=1|此姬君、後に玉泉院殿と申す。}}又神︀保安藝守氏春へも、姬君を遣され婿となし、越中の國司とし、佐々成政を
守護職とす。此時神︀保は、守山の城より、古國府に移り、佐々成政、富山の城に居住
す。{{仮題|分注=1|今の高山より、一|里計南の方なり。}}前田氏は元の如く、越前府中に在城し、子息利長卿に、叔父五郞兵
衞安勝・孫左衞門良繼を添へて、能登に在國なさしむ。
{{left/s|1em}}
菅屋九右衞門・福︀富平左衞門は、能州の檢地を濟し、今年より加州へ來る。檢地し
て、翌年四月、安土へ歸りける。同十一年、信長生害の時迄、越中新川手に入らず。
依つて檢地なし。今に至りて加賀・能登は、田一反の步數、三百步なり。越中は古
制の如し。今に至りて、三百六十步を以て、一反とす。前田氏の仁心大なるかな。
{{left/e}}
{{仮題|頁=149}}
天正九年二月、信長、京都︀に於て馬揃あるべしと、諸︀國の大名を召す。是に依つて、
北國の諸︀將も上洛なり。此折を得て、上杉景勝の臣河田豐前守、新川郡松の城より
打つて出で、小出の城を攻動かす故に、京都︀へ註進すれば、早速佐々・神︀保・前田・金
森・不破・德山・原の面々馳下り、河田豐前守を追退けける。佐々成政、軍功あるに依
つて、是より越中一國の成敗をなさしめける。此時礪波郡木舟の城主石黑左近亮・
家老石黑與右衞門・伊藤次右衞門・水卷采女以下の一族三十二人、信長公より召に依
つて上國す。此者︀共上杉に一味の上、安養寺の寺院を燒失せし科に依つて、丹波五
郞左衞門長秀に仰せて、道中長濱の旅宿に於て、殘らず切腹仰付けられける。
{{left/s|1em}}
石黑左近が家來水卷釆女が傳に曰、水卷次郞は、加藤の麁流、文明の初め、加州石
川郡倉滿より、越中の水卷の邑に住す。{{仮題|分注=1|彼が墓、礪波鄕|安居村にあり。}}其子忠家加州へ來り、一揆の
大將河合藤左衞門が婿となり、洲崎和泉入道慶覺坊が旦那となる。長亨二年、富
樫介政親と組みて、嶽山の池へ落ちて、共に落命す。其子忠元・孫の忠鑑は、加州
にありて、慶覺坊・河合藤左衞門と一所に、本願寺の候人となる。忠家が弟、越中
にて、石黑左近が家老となる。采女忠國、長濱にて自殺︀する。忠國が二男傳次郞
忠弘、加州へ來りて、卯辰福︀壽院に住す。先祖︀の緣に因つて、米泉村にして、慶覺
坊一院を建立し、元祖︀慶覺坊が、蓮如上人より給はりし行基の作阿彌陀如來、長
一寸八分なるを本尊とし、北陸眞宗中興の彌陀と號す。忠弘、天正年中、利家卿に
謁︀し奉り、住吉村に於て、一箇の地を給はり、其子助左衞門忠經・其子助左衞門忠
直、終に加州の土民となる。
{{left/e}}
天正十年春、信長、家康公の加勢として、甲州武田勝賴を攻亡し、甲州・信州・駿州・上州
一圓に德川・織田兩家の領國となる故、信長の旗本森勝藏・瀧川左近將監を、信州に
置きける故に、{{仮題|投錨=信長、景勝を攻む|見出=傍|節=s-4-2-3|副題=|錨}}北國の諸︀將と示し合せ、雙方より越後の景勝を、攻むべしとの事に
て、北國衆は、柴田勝家・同勝豐・佐久間盛政・佐々成政・前田利家卿・德山五兵衞・神︀保
氏春・同淸十郞・椎名孫六入道以下、四萬八千餘人、越中に發向ある。此時景勝の臣河
田豐前は、越中魚津城に楯籠る故、之を攻めんと押寄する。景勝後詰の爲に越中へ
來り、天神︀山に陣を取りて居ける內、信州より、瀧川・森打つて出づる由、註進ありけ
{{仮題|頁=150}}
れば、魚津の城を打捨て、在所春日山へ引返す。是に依つて、諸︀將魚津へ押寄せ、河
田豐前守・吉江織部正を討取り、早速信長へ註進して、猶越後へ打入らんと評定して
勇みける。爰に信長は、數年の大敵武田家を討亡し安堵し、父子洛陽へ出で、德川家
を招き、遊覽せんとあるに、{{仮題|投錨=信長弑せらる|見出=傍|節=s-4-2-4|副題=|錨}}明智光秀逆心を企て、六月二日、信長・信忠父子、本能寺に
於て生害ありし由、同五日、越中の陣所へ吿げ來る。諸︀將大きに驚き評定しけるは、
近年我々が大敵とするは、中國の毛利・越後の上杉なり。此弊に乘りて、打つて出で
んとは必定なりといふべし。中國は、羽︀柴・丹羽︀の面々向ひたれば心安し。我々も
一先づ、領地々々へ引籠り、越後勢を防ぐべしと、其上にして、光秀は計るに安しと、
各分國へ引返さる。成政は富山の城、神︀保は守山の城、盛政は尾山の城、其外德田・柴
田も、夫々の居城へ引籠りける。
{{left/s|1em}}
評に曰、此時勝賴より、景勝に使者︀を以て申遣しけるは、信長横死により、弔合戰の
爲に歸るなり。落着の上、對陣に及ばんといへば、景勝は義士なり、忽ち和睦ある
べしと。此時北國の諸︀將、殘らず上洛せば、光秀安土に逗留の內、馳着くべく、然
らば其功、太閤の上にあるべきものか。主將たる柴田が淺智と知るべし。
{{left/e}}
此時前田利家卿は、能州におはせしが、信長公、華洛遊覽の爲め、夫婦一所に上洛ある
べしと誘ひ來る故に、夫婦上洛の所、江州勢田に於て、信長の變を吿げ來る。士卒共
拔々落行きければ、內室を尾州の荒子へ遣し、其身は安土に籠らんとし給へども、
加勢一人もなく、江州の甲賀左衞門も長秀も、一先づ本國へ歸り、重ねて北國の諸︀將
と一所に登らんと、終に越前の府中へ歸り給ふ故、北の方も、尾州より府中へ歸り
給ふ。
{{left/s|1em}}
此時、利長公に附添へける家士吉田長藏・三輪作藏・姊崎勘兵衞・山森橘平・恒川才
次・奧村次右衞門・金岩與次之助なり。彼家にて、瀨田歸り七人衆といふ
{{left/e}}
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|昔日北花錄}}{{resize|150%|卷之四<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=昔日北花録/巻之四}}
{{仮題|ここから=昔日北花録/巻之五}}
{{仮題|頁=151}}
{{仮題|投錨=昔日北花錄|見出=大|節=s-5|副題=卷之五|錨}}
{{仮題|投錨=石動山破却<sup>幷</sup>加越能城跡の事|見出=中|節=s-5-1|副題=|錨}}
抑能登國石動山天平寺は、往昔法道仙人爰に住んで、大寶年中空に登りしと、其後
靈龜二年、越中國を割きて能登國とす。是れ法道、能く登るの所以なり。養老元年、
泰〔{{仮題|分注=1|澄脫|カ}}〕登山して、孝謙天皇より大宮坊を始め、諸︀堂を建立あつて、坊舍三千に及
ぶ。都︀て北陸七州の產神︀と崇め、座主正一和尙の永宣を蒙り、守護地頭の不入の地
なれば、一山の大衆富貴にして、近國を輕んじ、忍辱の法衣を脫ぎ、討仇の堅甲を着
して、沙門の姿を私兵となし、嶮岨を賴んで國制を用ひず、甚だ武家を蔑にせり。此
度京都︀に於て、信長横死の由を聞きて、早く越後へ內通して、先年落行きし溫井・三
宅が輩を語らひ、當守護前田家を計らんと、一山の大衆評定しければ、遊佐が子の孫
六、景勝へ訴へ、舊國能州へ打入らんと乞ふ。依つて景勝より加勢として、井津木彈
正淨定に、三千の兵を添へて、能州安部屋浦へ廻らしむ。溫井・三宅等は、越中妻良
の浦より登り、名知山へ打入る。天平寺の般若院快存、火の宮坊立玄寺等と評定し、
先づ越中口荒山の要害に、砦を築かんと急ぎ、普請をぞ始めける。此事、前田利家
卿、早速に聞き給ひ、嫡子利長卿は越前にあり、加賀の佐久間へ、加勢の事を言遣され
ける。盛政早速に軍勢を催し、越中口へ向ひけるに、溫井・三宅・遊佐が、何心なく普請
し居たる所へ馳着き、一戰に打勝ち、三大將竝に火の坊を討取り、殘黨を追拂うて
往きける所に、利家卿の軍勢と行違ひたり。夫より利家卿は、直に山上へ攻登り、先
陣長九郞左衞門連龍・高昌石見守・村井又兵衞・奧村助右衞門が輩、勇を震ひ戰ひし
が、連龍は案內者︀故、人知らぬ嶮岨より駈登り、寺院に火をかけしかば、魔風烈しく、
堂塔殘らず一片の煙と燃え上る。{{仮題|投錨=天平寺破却|見出=傍|節=s-5-1-1|副題=|錨}}爰に於て、阿彌陀院の律師俊慶・大宮坊の飛驒・栗
原の飛周防以下の大將分、殘らず討死しければ、殘黨の老僧︀・兒僧︀・喝︀食、佛像・經卷を
抱へて、深山幽谷に逃げ迷ふ時に、利家卿士卒を制し給ひ、寺僧︀等を殺︀すべからずと
{{仮題|頁=152}}
て之を制し、大將分梟首して、歸陣し給ふ。佐久間も尾山の城へ引返す。
{{left/s|1em}}
此時佐久間、前田家に對し、野心を企つる由、七國志に見えたり。
{{left/e}}
般若院快存は、越中へ落行き、五社︀の內將軍地藏の愛宕權現を、鎭座なさしむ。葭原
村に住居す。是よりして今石動とぞ號しける。是より先、石動山の大衆、加州へ人
を遣し、本領寺派の一揆浪人を語らひける故、佐久間が能州加勢に行きける御山を
攻めんと、二曲村の次郞兵衞といふ者︀大將となり、能美・江沼二郡の勢を集めける
に、佐久間、早速能州より引返し、直に二丸へ押寄せ、一揆を追散らし、夫より山中を
攻落して、一先づ城へ返りける。越後の加勢伊津木彈正も、石動山落去の由を聞き
て、安部屋より漕ぎ來る。{{仮題|分注=1|𮎰山軍記に詳|しく見ゆ。}}是れ天正十年七月なり。爰に羽︀柴秀吉、明智光秀
を、一戰に討亡しける大功を以て、天下の執柄、一人あるが如き故、柴田勝家之を妬
み、終に合戰に及び、天正十一年二月より、江州に於て、羽︀柴と取合始まりけるが、前
田利家卿は、佐久間盛政と兩人、柴田が先陣となりし。佐久間は、長濱より甲水村邊
へ燒働き、前田公は、濃州關ヶ原邊迄放火して、引返し給ふ。同三月、勝家三隊の軍
勢を催し、{{仮題|投錨=柳瀨合戰|見出=傍|節=s-5-1-2|副題=|錨}}佐久間を先陣として、抑ヶ瀨邊へ出張しけるに、一戰に打負け、越前へ引
返す。此時利家卿は、府中にいます。
{{left/s|1em}}
評に曰、七國志に、利家卿・利長卿父子出陣とあり。追つて考ふべし。或は利家卿
の姬君、太閤の養女となると云々。或は嫁すともいふ。後加賀殿とて寵愛なり。
故に利家卿は、他の疑を退けん爲め、此時出陣なしと云々。
{{left/e}}
子息利長卿加勢の爲め、別に松山迄出陣ありて、蜂須賀彥右衞門・大金藤八等押とし
て、堂木山に居給ひける所に、味方悉く打負け、前後に敵充滿してければ、利長卿自
ら旄を取りて、靜々と引返し給ふ。小塚︀藤右衞門・木村三藏・富田與五郞、先に進んで
討死す。長九郞左衞門・村井又兵衞{{r|殿|しんがり}}して、數度取つて返し引退く。橫山山城守・半
記入道旗奉行たりしが、抑ヶ瀨の邊にて討死す。長・村井が家臣も、長壹岐・神︀保八郞
右衞門・小林圖書・太田內藏介・國分尉右衞門・河岸主計・村井左京等を始め、十八人討
死す。されども敵を切拂ひ終り、府中へ引返す。其後府中の城へ入りて、利家卿と
和睦ありて、太閤は、北の庄へ取懸り給ふ故、越中より、佐々成政加勢すべきかと、利
{{仮題|頁=153}}
長卿、船橋の川岸に備へて守り給ふ。太閤北の庄を早速攻亡し、城中の烟上るを見
て、最早勝家が首を見る迄もなし。佐々成政又備へざる先に向はんと、加州の城へ
打入り、佐久間が家來共を追散らしける。成政早速使者︀を以て、娘を人質に入れて、
降參を乞ひける故、之を領掌し、則ち加州の內石川郡・河北郡を、利家卿へ給はり、能
美郡・江沼の兩郡と、越前・若狹兩國、都︀て百萬石を、丹羽︀長秀に給はりて、北の庄に居
て、北國の鎭となさしむ。
{{left/s|1em}}
此時村上義淸が一子次郞左衞門義明、長秀に仕へけるを、直參として六萬石を給
はり、大野に在城せり。後所替して小松に住す。溝口金右衞門若州に居けるを、
六萬石給はり、大聖寺に居て、長秀が與力たらしむ。天正十四年より、長秀亂心と
なりて死去す。子息幼少たる故、丹波の跡を、其儘堀久太郞秀政に給はり、慶長二
年、堀久太郞を、越後の國上杉景勝の跡へ國替の時、村上周防守も、溝口伯耆守も、
越後へ移り、大聖寺へは山口玄蓄允、小松は羽︀柴長重に給はる。
{{left/e}}
前田利家卿は、加州へ移り、尾山の城を普請し、府名を金澤と改めて、能州竝に越前
府中より、家中を殘らず引寄せ、堅固に守り給ふ。此時長九郞左衞門・不破河內・德
山五兵衞三人、與力となりける。能州七尾には、御一族前田五郞兵衞・同孫左衞門・
同修理・高昌織部を差置き、松任の城には、御嫡子利長卿を置き給ふ。前田右近・同
又次郞は津幡の城、奧村助右衞門・土肥千秋等は、能州越中の城・末森の城に差置か
るゝ。
{{left/s|1em}}
此時家中の諸︀士は、二三丸新丸に屋敷を建て、是に置かるゝとなり。
{{left/e}}
此頃尾州の織田信雄と秀吉と、不和なる故、越中の佐々成政、立山のさら{{く}}越と
いふ所を越えて、尾州に至り、味方すべき由を約束し、夫より加州へ打入りて越前
へ攻上らんと、軍用意をなし、謀計の爲に、利家卿の次男を、婿にせんと企てける。
此事顯れて合戰となり、前田方には、加能の堺鳥越に砦を築き、目賀田五右衞門・丹
波源十郞を入れ置かる。{{仮題|投錨=前田利家佐々成政合戰|見出=傍|節=s-5-1-3|副題=|錨}}能州七尾へも、中川淸六光重をば、加州に遣して、長九郞
左衞門は、德丸の城を守り、加越の堺朝日山にも砦を築き、村井又兵衞・高昌九藏・原
田又右衞門を入れ置くべしと、三將千五百の人數にて朝日山に塀を懸け堀を拵へ、
{{仮題|頁=154}}
普請最早半の所へ、越中勢佐々平左衞門・前野小兵衞、五千人の人數にて、朝日山に砦
を築かんと來りて、合戰に及ばんとする。利家卿、金澤より後詰として出馬ある故、
佐々・前野は、早く富山へ引入りける。是れ天正十二年八月廿八日なり。此時越中
には、倶利加羅の城に、佐々平左衞門・野々村主水、井波の城には前野小兵衞、阿尾に
は始めより菊地十六郞、守山には神︀保安藝守、{{仮題|分注=1|此城跡、今守山の|麓古國府にあり。}}境の城には、丹羽︀權平
を守らせける。同九月、成政密に勢を出して、加越能の堺なる末森を攻取らんと
一萬の人數を以て、今石動の後より、末森の近所なる壺井山に陣を取る。神︀保安藝
守父子、三千の人數をして、金澤の後詰を防がんと、加能の堺川尻に陣を取る。佐々
平左衞門・前野小兵衞先陣として、末森の紺屋町を燒拂ひ、喚き叫んで戰ひける。城
主奧村助右衞門等、纔に六百の人數を以て之を防ぐ。此事金澤へ註進しければ、利
家卿聞き給ふや否や、馬に打乘り駈出し給へば、家中の面々追付き{{く}}、森下の町に
して、漸々千計になり、夫より揉みに捫んで馳せ着き給ふ。其日の暮程に、津幡甚直
といふ者︀の方へ入り給ふ。亭主大釜に粥を焚かせ、追々來る人々に振舞ひける。此
時津幡には家數もなく、總勢過半、甚直が宅へ宿る。爰に於て利家卿、道先へ人を遣
し、先陣を呼返し、今夜は津幡に一宿し、評定の上に後詰あるべしと、觸れさせ給ふ
故に、指口・狩鹿野邊迄行きける人々、皆津幡へ着き給へば、津幡の城主前田右近父
子罷出で、評定ありけるは、末森未だ半作事の城なり。其上纔の勢にて、楯籠る事な
れば、落さるゝ事もやあるべく、此度の戰に利を失ふ時は、成政、金澤迄も附入るべ
し。此所に於て、御待合あれと宣へば、諸︀將尤と同じける故、利家卿も領掌あり。是
に依つて諸︀軍、草鞋を解きて休みける。爰に神︀保が物見の者︀共、道々にありけるが、
先に呼返したる勢と、津幡の體を窺ひて、とても利家卿、後詰はあらじと吿げける故、
其夜は濱邊の兵共、陣屋へ入りて休みける。然るに利家卿、丑の刻時分、{{r|風與|ふと}}亭主を
起し給ひ、夜中末森迄の道案內をすべしと、物具し給ひければ、諸︀卒大に驚きて、俄
に軍粧して立出づる。爰に山伏一人、宿に在合せ、兵糧など手傳して居けるを召し
て、今日の吉凶を、占ふべしとあれば、山伏早速に手占して申しけるは、今朝の御出
陣、大吉なりと申上ぐる。大將大きに歡び給ひて、都︀合三千五百人、津幡甚直を先に
{{仮題|頁=155}}
立て、九月十二日寅の刻、一陣村井又兵衞・不破彥三、二陣原隱岐守・前田又次郞・片山
內膳、三陣多野村三郞四郞・靑山與三・前田慶次郞、旗下利家卿御父子、宮川但馬・山崎
庄兵衞武者︀奉行として、列伍を調へ、揉みに揉んで押寄する。川尻の邊神︀保が陣屋
の前を、未だ夜の內に打通り、今濱の砂山に馳着きける。未だ十二日の東雲にて、末
森の體を窺へば、城攻にも取懸らず、金澤勢の後詰はなし。今日先手の勢を以て、城
を攻落し、直に金澤へ入らんと、越中勢まだ油斷して居ける所へ、村井長賴申しける
は、城攻の先陣を差置き、壺井山の本陣に取懸り、攻入るならば、自然と城攻の先手
は敗すべしといふ。利家卿は、いや{{く}}先づ城攻の者︀共を、雙方より攻破り、はや
はや城兵に安堵させ申すべしとて、一陣・二陣・三陣は大手へ向ひ、油斷して居ける越
中勢に打つて懸れば、大に驚き防ぎ戰ふ。城中よりも、奧村切つて出で、一時計に、
越中勢を多く討取り、殘兵を追懸け、利家卿城中へ入りて、此度奧村が、城を能く守
りし事感心あり。越中勢の先手佐々與右衞門、搦手口にては野々村主水・櫻井勘助・
本庄市兵衞・堀田次郞左衞門・齋藤半右衞門等、宗徒の士討死す。金澤方には野村傳
兵衞・山崎彥右衞門・半田惣兵衞高名して、感狀を給はる。其外富田六左衞門・篠原勘
六、皆大病にて駕籠に乘り、宮の腰濱通りより來り、今濱にて、大將に見參せり。
村井源六・木村久三郞・北村作內・小泉彌市・阿波賀藤八・江見藤十郞・岡本七助・吉川平
太・井口茂兵衞等、悉く勇を振ひ手柄を顯す。不破彥三・村井又兵衞が家臣、多く手
柄を顯す旨感賞あり。扨越中勢は、本陣へ崩れ懸りけるに、成政初めて驚き、大き
に怒り、隊伍を調へ、待ち居たれども、加州勢は、末森の城に入りて、敗軍を追ひ來ら
ず。爰に於て、成政如何思ひけん、末森へは懸らず、揉引にして備を散らさず引返し、
竹の橋の近所吉倉山に陣を取る。爰に中條半右衞門といふ百姓、今晩利家卿、末森
へ出陣の後に、津幡近所の鄕民數萬人を語らひ、紙旗多く拵へて、津幡邊の山に登り、
太鼓を鳴らし、鬨の聲を揚げて、森々に旗を結付け備へ居たりしを、成政、竹橋より
斥候を遣し、此體を聞き、津幡へは懸らず、竹橋近所なる鳥越の城へ押寄する。爰
には金澤より、目賀田・丹羽︀等籠りたるが、佐々、一萬に及ぶ勢にて、押寄せ來る事を
聞き、城を明けて落失せける故、成政より、久世但馬守を入れ置きて、總勢富山へ引
{{仮題|頁=156}}
返しける。先に神︀保氏治は、川尻に出張しありける所、いつの間にか、加勢は遙か
海︀際を打通りて、唯今末森にて、軍最中の事を聞き、大きに驚き、後より來る加州
勢を少々討取り、壺井山へ來りけれども、加州勢を通しける事を恥ぢて居けるが、
是も成政に隨ひ、鳥越山に赴き、夫より居城守山へぞ引入りける。利家卿は末森の
城に於て、奧村が此度の忠戰を賞し給ふに、助右衞門が曰、九日より敵勢攻懸り、
味方の小勢、終日兵糧を使ふ間なく、晝夜入替る人なければ、殊の外勞れける故、與
力の士上原藤左衞門、{{仮題|分注=1|甲州信玄が軍奉行上|原隨應軒が子なり、}}一時の計略にて持ち怺へる故、又寶達山の麓
澤河村に、田畠兵衞といふ百姓ありて、先に成政押寄せ候節︀、敎導して、あらぬ道へ敎
へける故、越中勢を腦し侍ふ段、逐一と語りければ、夫々恩賞ありて、扨今宵は津幡
の方氣遣しければ、助右衞門は、此所を能々守るべしとて、其夜津幡へ引返し給ふ。
爰に於て、中條の半右衞門が働を恩賞あり。又甚直が方に御泊り、鳥越の樣子心元な
しとて、小林喜衞門を斥候として遣さるゝ所に、早や落失せて、敵入替りたり。依つ
て思慮やありけん、{{仮題|投錨=利家凱陣|見出=傍|節=s-5-1-4|副題=|錨}}翌十三日、又末森へ取返し、其日濱邊より宮腰を經て、金澤へ入城
あり。此時城下にて、常に御目見仕りたる町人共、町端へ御迎に出でて、歸陣を賀し
ければ、大將大きに喜悅し給ひける。
{{left/s|1em}}
今に吉例として、國主他國へ出入の時、町端へ出迎送をするなり。
{{left/e}}
能州七尾の城主前田五郞兵衞安勝・同孫左衞門良繼・高昌織部・中川淸六等は成政大
軍を以て、末森を攻むる由に付、長九郞左衞門をも呼寄せ、評定しけるは、千にも足
らぬ奧村の勢にて、普請も半なる末森の城に、中々二日とは持堅むる事覺束なし。
然に後詰して、勝誇りたる越中勢に、當城迄乘取られては、能州一國、成政が所領と
なるべし。我々利家卿へ對し、假令切腹したりとも、後難︀は遁るべからず。只我々
持つ所の城を丈夫に、持堅めんには如かじと、評議一決しぬれば、九郞左衞門は詮
方なく、手勢を引具して、末森へと馳せ向ふ。此時利家卿、越中勢を追拂ひ、末森の
城へ入り給ふ所に、能州の濱手に、一手の軍勢見えたる故、早速脇田善左衞門・野村
七兵衞をして見せしめらる。二人白子濱に至り、窺ひ見ければ、長連龍なり。末森
の樣子を聞きて、甚だ殘念がり、我れ速に馳せ來らんといひし所に、七尾の大將衆、
{{仮題|頁=157}}
留められし故に、本意を遂げざる事の口惜しさよ。利家卿への申譯とて、髮を切つ
て謝しける。利家卿大きに感賞して、猶能州の事、諸︀事氣を付け給ふ樣にと、懇に挨
拶ありしとなり。連龍は、德丸へ引返して、家臣鈴木因幡をして、窪田の館︀を相守ら
す。然るに神︀保安藝守は、守山へ引返して、此度の末森にての恥辱を雪がんと、守山
より、氷見の庄荒山邊迄出張し、百姓を惱まし、勝山といふ所に、要害を構へて、袋井
隼人を殘し置き、其身は守山へ歸りける。此由七尾の諸︀將聞傳へ、前田孫左衞門・高
昌織部・中川淸六、各手勢を引具し、勝山へ押寄せ攻立てけるに、越中勢多く討たれ
けれども、大將袋井武功の者︀にてよく防ぎ、師源七郞・山崎喜左衞門・石黑采女など、
持ち怺へて戰ひけるが、終に能州勢は、七尾へぞ引返しける。兄の五兵衞等大きに
怒り、纔なる勝山の砦一つに、各歷々方馳せ向ひ、其儘に歸らるゝ事、後代の恥辱な
りと、又々勢揃し押寄せけるに、此度は越中勢勞れ果て、戰ふ氣色もあらで、一戰に
も及ばず、守山へ逃げ歸りける。されば五郞兵衞殿の一言にて、先頃の恥を雪ぎた
り。早速金澤へ註進に及びける。此年十月に、利家卿下知して、津幡の前田右近父
子をして、鳥越・倶利加羅邊を放火なさしむ。金澤よりも加勢として、岡島喜三郞を
遣され、度々鳥越を攻むと雖も、城主久世但馬守、堅く守りて取合はず。深雪にな
りける故、加勢も引返す。此頃京都︀に於て、佐々成政より、秀吉公へ遣し置きける。
人質の娘を殺︀されし由、成政仄に聞きて、大きに怒りて、十一月廿三日、富山に出で
て、立山の道さら{{く}}越といふ所より尾州へ至り、又遠州へ立越え、信雄・家康公に
對面し、太閤越中へ押寄せ給はゞ、兩公御加勢給はるべしと、約束して歸りける。
{{left/s|1em}}
此さら{{く}}越といふ所立山にありしを、後手加州利常公、此道を埋め、平均になり
たる時、{{r|橇|かんじき}}をかけて通りけるならんか。其外に間道なし。深雪の時、各尋ね給ふ
に、山を越えて、信州下の諏訪へ出づる。
{{left/e}}
天正十二年二月、加州勢法坂といふ山道より、越中蟹谷へ出づる。深夜に、蓮沼の町
を燒拂ひける。此所は道林寺正滿寺などいふ。大坊主幷礪波一郡の商家の集りた
る所にて、家數二千軒計ありしを、一時の煙となしぬ。先陣村井又兵衞・二陣山崎庄
兵衞・三陣岡島喜三郞等、利家卿御父子も、後陣に打立ち給ふ。爰に井波より、前野小
{{仮題|頁=158}}
兵衞二千計にて打つて出で、大に戰ひけれども、加州勢、深く敵地へ入りし事なれ
ば、終に引返しける。利家卿も、山上に控へ給うて打連れ、金澤へ入り給ふに、同三
月、佐々成政、城ヶ端井波を打通り、二俣山より鷹栖邊へ打入り、近鄕を放火する。
金澤より、三四里の道なれば、村井又兵衞・不破彥三・利家卿も、早速出陣ありけれど
も、成政早く富山へ入城す。利家卿、夫より直に取つて返し、鳥越の城を攻め、三日
戰ひて、城兵を討取りけれども、要害故に落城せず、又金澤へ歸り給ふ。阿尾城主
菊地右衞門入道・子息十六郞、利家卿へ內通して、越中發向あらば、內應すべしとな
り。其仔細は、成政、富山の櫻馬場にて花見の折節︀、酒宴の上口論ありて、菊地入道大
きに腹立し、斯くの如きの事に及びける。成政平生大志ありて、人數をも多く召抱
ふるに、所領不足なれば、諸︀士の知行を二つめ三つめにして渡しけり。家中竝に遠
國より招き來りたる士共、常に腹立してぞありける。利家卿は、津幡の後山より、倶
利加羅を以て右に見て、越中へ打入り、阿尾の城に至り、菊地父子に對面し、前田宗兵
衞・片山內膳・高昌九藏・小塚︀藤十郞・長田權右衞門を籠置かれたり。菊地父子、利家卿
の疑を避けん爲めに城を出でゝ、其傍に住す。是に依つて、利家卿、金澤へ引返し給
ふ。去年以來、成政加州と戰ひて、利あらずして越中へ引入り、守山・富山・井波等
より、急に打つて出で戰ふべしとて、倶利伽羅より、鳥越の城兵を引取り、佐々平左
衞門は、木船に入置きける。また蟹谷の勝興寺も、射水郡へ移住あるべしとて、神︀保
安藝守が古館︀の古國府に敷地を構へ、成政・氏治兩人より、國中へ下知して、伽藍忽
ち建立しければ、稅地二百石を寄附する。植生八幡の神︀主上田石見守に、神︀領加增
して、若し加賀勢來りなば、早く註進すべしとなり。此時守山の神︀保氏治、阿尾の城
を攻むる。然るに村井又兵衞、越中へ打入り、所々巡見して步みけるが、此事を聞
き、早速後詰として、神︀保を打殺︀す。扨倶利伽羅と今石動に砦を築き、倶利伽羅へは
近藤善右衞門・岡島喜三郞・原田又右衞門を籠めらるゝ。今石動へは、前田右近子息
又次郞なり。こゝに木船の佐々平左衞門、今石動へ押寄せ、小矢部川を渡りて大に
戰ひ、井波より前野小兵衞、加勢として打つて出でけるが、右近父子打勝ちて、越中
勢引退く。然るに秀吉公には、去年織田信雄と、尾州小牧にて合戰ありけるが、此春
{{仮題|頁=159}}
和睦ありけれども、佐々成政、未だ越中にして、顏の色を立てける故、密に越中勝興
寺を招き、越中の形勢をぞ尋ねらるゝ。成政越後の景勝と一味したるや否や、また
信雄は、德川家等の加勢もあらんやと、委しく聞き給へど、只成政身の働きたる由を
相述べらる。是に依つて、天正十三年正月廿三日、京を打立ち、直に越中の安養坊山
に在陣なり。{{仮題|投錨=成政信長に降る|見出=傍|節=s-5-1-5|副題=|錨}}此時信雄より扱ひ給ひて、成政降參し、御詫申上ぐる。神︀保・前野等は、
富山へ引越し、新川一郡を成政へ下され、且つ勝興寺にも、朱印の地を給ひ、石田三
成・木下半助制札を建て、夫々越中の仕置改め、伏見へ引返し給ふ。此時金澤の城に
於て、越中礪波・射水・婦負の三郡を、利家卿へ進らせらるゝ故、貴船城に、前田右近秀
繼を入れ置き給ひ、守山の城には、利長卿居給はんとの事にて、城普請ありて、翌十
四年に入城ありける。然るに此年十一月廿三日地震して、貴船の城を搖り崩すに依
つて、右近秀繼此時逝去なり。兄藏人利久も、一所に逝去なり。翌十五年、此城を今
石動の山上に引移して、右近の子息又次郞、利長卿より、四萬石給はりて爰に住す。
天正十五年、太閤、九州發向の時、利家卿は、京都︀を守り給ひ、利長卿は、九州從軍あり
ける。此時金澤には五郞兵衞尉安勝、能州七尾には、孫左衞門良繼・高昌織部・中川
淸六、越中守山には前田對馬守父子、松任に、德山五兵衞等在城なり。同年佐々成政
に、肥後一國四十五萬石を下されし故、成政再び本懷を遂げ、神︀保父子の越中士も、
殘らず引具し、九州へ入國しければ、新川一郡は、太閤の分領となる。天正十六年、
孫四郞利政卿へ、能登國一圓を配分あり。則ち七尾に在城して、長九郞左衞門を與
力となして、孫左衞門城代となる。村井左馬介・不破源六
{{left/s|1em}}
此源六は、濃州竹ヶ鼻の城主二萬石の身代なりしが、太閤と信孝と合戰の時、源六、
信孝公に一味する。此時に長九郞左衞門連龍、竹ヶ鼻を攻落しければ、源六、連龍
に降參す。夫より利長卿に仕へ奉るなり。
{{left/e}}
兩人の家老半田半兵衞・次太夫・山崎彥右衞門・北村三右衞門・奧村與平等を附けらる
る。天正十八年、太閤小田原攻の時、利家卿御父子隨軍あり。金澤御留守居五郞兵
衞尉能州七尾、長九郞左衞門越中守山、前田對馬守今石動、前田又次郞病死故、家老
笹島織部、新川郡にはまだ御拜領にあらざれども、越後景勝、太閤の味方にあらず。
{{仮題|頁=160}}
是に依つて去年中、太閤より御下知にて、富山城に前田對馬守・長男美作、魚津に村
井又兵衞、增山の城に山崎庄兵衞、白鳥の城に岡島備中・拜鄕伊賀を籠め置き給ふ。
文祿元年、利家卿、上方へ參觀あり。此時に朝鮮征伐の評議ある故なり。二月より、
金澤の城普請始まる。利家卿、守山より金澤へ來り、堀石垣を築かせらる。是まで
は山屋敷の地形なり。此時小立野の間を、深く掘切り水を湛へ、東の丸を高石垣に
築き立て、{{仮題|投錨=金澤城を築く|見出=傍|節=s-5-1-6|副題=|錨}}笹原出羽︀も、上方より奉行として來り、此城を經營して、此時より金澤城
といふ。今年越中守山海︀道岩が淵にて、向彌八郞と齋藤平四郞・山口庄九郞喧嘩す
る。雙方の朋友出合ひて、大喧嘩となる。吉田三左衞門・萩原八兵衞を始め、下人等
大勢當座に死す。宇野平八は、後日京都︀大德寺に於て切腹する。太閤朝鮮陣始ま
り、利家卿、肥前の名護屋に在陣年久しき故に、金澤の人數は交代す。其節︀は、利長
卿在國、利政卿には御供たり。留守居の在城、金澤に五郞兵衞尉安勝・村井又兵衞、
守山に利家卿、魚津に靑山與三、富山には前田對馬守父子、山崎庄兵衞は增山を明け
て、放生澤へ來る。此頃阿尾の菊地伊豆守病死す。子息十六郞金澤へ來り、築岩へ
御供する。前田對馬守は、守山の城代となりて、利長卿上京の節︀は、每も守山に在
城あり。文祿二年、利家卿、從三位中納言に昇進し給ひ、村井豐後守・笹原出羽︀守、從
五位下に敍す。同三年正月、金澤大城下となり、始めて年始の御禮等儀式あり。同
年、新川郡を御拜領ある。是に依つて、利長卿富山の城に入り給ひ、守山に、前田對
馬守父子在城なり。慶長四年、利長卿御家督御相續に依つて、富山より金澤御入城
なり。今年金澤城總構の堀藪出來する。近年、加・越・能三州一圓に治まり、利長卿城
城を守らせ給ひ、また小松の城には、丹波五郞左衞門長秀・息男長重成人の上秀賴公
の近習人奉公し、加賀守に任じて、十二萬石を領して在城なり。同國大聖寺は、戶次
右近病死なり。子供なうして、上り知となりたる所へ、山口玄蕃允に六萬石給はり、
直參として太閤より遣さる。{{仮題|分注=1|山口は、筑前大和中|納言秀秋が臣なり。}}然る所に、慶長五年の秋、石田治部少
輔三成叛逆して、日本國中動亂となる。{{仮題|投錨=利長、家康に與す|見出=傍|節=s-5-1-7|副題=|錨}}利長卿、德川家へ荷擔し給ふに、小松の丹
波長重と、大聖寺の山口は、石田治部少輔に一味する。是に依つて、また國中に合戰
始まる。同年八月、利長卿金澤を立ちて、人數二萬騎にて着到し、上方發向あり。
{{仮題|頁=161}}
小松の城下を打通りて、大聖寺へ來り給へば、山口城より打つて出で大に戰ひ、終
に打負け、父子一所に自殺︀する。八月六日、只一日の內に落城する事、希代の强戰
なり。
{{left/s|1em}}
此城跡大聖寺、今の關所よりは、上口西の手上少なり大手は海︀道の方。
{{left/e}}
夫より越前金澤迄、發向ありと雖も、仔細ありて、また金澤へ引返し給ふ。同八日に、
小松の城下鬼場潟の邊を引取る頃、小松の城より打つて出で、{{r|殿|しんがり}}長九郞左衞門の勢
と戰ひ、淺井繩手に於て、長氏の家士多く討死す。九郞左衞門父子士卒を纒ひ引取
りける時、猶小松勢附從ひ、山代橋の上にして、金澤勢も蹈止りて、金澤方より、松平
久兵衞・水越縫殿・岩田傳左衞門・井上勘左衞門、此五人晴︀なる鑓を合せて高名あり。
爰にて雙方物分れして、利長卿は、金澤へ歸陣し給ひ、頓て關ヶ原の軍破れて、丹波
は改易となり、小松領・大聖寺領、都︀て利長卿領し給ふ。右出陣の折は、金澤城代奧村
助右衞門、越中守山は前田對馬守、魚津に靑山佐渡、劒に{{仮題|分注=1|今鶴︀來|に作る}}砦を構へ、高昌石見、
三堂山に岡島備中・不破彥三、其近邊千代には、不破丹波瀬原・寺西治右衞門を置き給
ふ。追々上方發向の時は、濱の手二口村に砦を構へ、山崎長門守を置き給ふ。慶長
六年、土方勘右衞門尉に、利長卿より一萬石給はり、新川郡布市村にて知行す。其
後秀忠公より、奧州にて一萬石給はりて、直參となる。加增して四萬五千石になり、
奧州に在城す。
{{left/s|1em}}
此土方、後河內守に任じ、新川郡を知行せしを、國主江戶往來の節︀に、放鷹の障な
りとて、能登國にて替地あり。越中は上め、能登は下めたる故能登にて一萬石
餘、替りに給はるといふ。其頃土方氏仔細あつて、國を除かるゝ故に、七千石は公
領となる。三千石は土方氏知行今にあり。
{{left/e}}
源峯大聖寺は近藤善右衞門、能州は利政卿居給ひけるが、上方へ御退隱故、其跡へ大
井久兵衞・三輪藤兵衞、富山へは、津田刑部を入置かれ、今石動は前々より、笹島豐前
在城なり。此後三箇國、終に鬪戰の災なく、靜謐に治まりしは、偏に大守の厚思に
依る物なりと、四民安堵の思をなせし。慶長十一年、利長公御隱居あつて、富山城造
營ありて入らせ給ふ。同十四年、類︀燒回祿して、翌年關野に新城を築き、高岡と號し
{{仮題|頁=162}}
入城あり。同十九年元和の役、利光卿上洛の時は、金澤御留守居奧村快心入道、小松
は前田源峯入道、大聖寺は津田道勺入道・近藤大和、魚津は靑山佐渡、今石動は{{仮題|編注=2|笹原|島カ}}
豊前、能州七尾は大井久兵衞・三輪藤兵衞之を守る。此外鶴︀來守山・末森境阿尾等の
砦々を明けられて、金澤へ籠り給ふ。寬永十八年より、富山へ淡路君、大聖寺へ飛驒
君御入城。小松は、微妙公御隱居ありて、所々の砦城は、皆々廢せられ、治世太平無
窮の{{r|徵|しるし}}を知らしめ給ひ、目出度かりける御代とかや。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|昔日北花錄}}{{resize|150%|卷之五<sup>大尾</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=昔日北花録/巻之五}}
{{仮題|ここから=浅井物語/巻第一}}
{{仮題|頁=162}}
{{仮題|投錨=淺井物語|見出=大|節=am-1|副題=卷第一|錨}}
{{仮題|投錨=第一 淺井備前守先祖︀の事|見出=中|節=am-1-1|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=淺井氏家系|見出=傍|節=am-1-1-1|副題=|錨}}淺井備前守長政の先祖︀を、委しく尋ぬるに、後花園院の御宇嘉吉の頃、三條の中納
言政氏公、敕勘を蒙り、左遷の身となり、佐々木京極に預けられ、鄕北淺井郡丁野村
に籠居して、年月を送り給ふ。妻女を語らひ、男子一人出來給うが、三歲の春の頃、
敕勘を許され召返され、上洛し給ふに、程なく煩はせ給ひ、生死無常の習とて、終に
失せさせ給ふ。いたはしや御子息、母上に養育せられ、十一歲の頃、母に向ひて宣
ふは、人の親は、父母とてこれあるに、我等の父は、何となり行き給ふぞや。母上之
を聞くよりも、兎角の御返事もなくして、涕ぐみ給ひしが、やゝありて、されば汝
が父は、洛陽三條の中納言殿、敕勘を蒙り、此所におはしゝ時、汝を儲け、程なく召
{{仮題|頁=163}}
返され給ひ、汝をもやがて呼上すべしとありしに、程なく世を早うし給ふ故、自ら
の今迄養育して、成人させしなり。是こそ父の{{r|記念|かたみ}}とて、來國光の脇差を取出し、渡
し給へば、父の記念と聞くよりも、涕を流し給ひけり。斯くて十三歲の春、京極三
郞殿、鷹狩に出で給ふ折節︀に、近々と立寄り申されけるは、某幼少に候へ共、御身い
かやうの名字をも下され、いかやうにも召使はるべき旨、申されければ、京極殿聞き
給ひ、御邊は未だ若年なるに、神︀妙の次第かな。さり乍ら御邊の父は公卿なり、何
として某などの、召使ひ申すべくや。御賄の程をば申行ふべし。名字の儀は、御邊
の住み給ふ所、淺井郡なれば、これを名字に參らすると宣へば、忝なしとて、頓て淺
井新三郞重政とぞ名乘りける。後には新左衞門とぞ申しける。重政の子息、淺井新
三郞忠政とぞ申しける。後には新右衞門尉と號す。忠政の子息三人あり。嫡子新
三郞堅政、次男新七郞と號す。これは三田村家へ、養子にぞなりにける。三男新八郞
これも大野木家へ、養子にぞ參られける。嫡子新三郞堅政の子息、四人あり。嫡子
をば淺井新次郞、後には名字を代へ、赤尾駿河守と申しけり。次男をば淺井新三郞
助政、後には備前守と號す。三男淺井新介、後には大和守と號す。四男淺井新六郞、
後には五郞右衞門と號す。又淺井備前守助政。子息四人あり。嫡子淺井新三郞、次
男淺井新九郞久政、後には下野守と號す。三男、宮內少輔と號す。四男をば僧︀にな
し、侍者︀とぞ申しける。淺井下野守久政子息淺井新九郞長政、後には又備前守と號
す。備前守長政、子息四人あり。嫡子萬福︀丸・二女秀賴公御母儀・三女將軍家光公御
母儀・四女京極若狹守御室、後に常高院と號す。
{{仮題|投錨=第二 上坂治部大夫先祖︀の事|見出=中|節=am-1-2|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=上坂景重先祖︀|見出=傍|節=am-1-2-1|副題=|錨}}去程に、上坂治部大夫景重の先祖︀は、梶原平藏景時二男平次景高、其子平八兵衞景
信、牢々して鄕北に來り、京極殿を賴み、坂田郡上坂村に居住す。平藏景時より廿四
代に當つて、上坂平兵衞尉景家の子息平次郞景重とぞ名乘りける。其時の京極殿
は、宇多の天皇より十代佐々木源藏秀吉が嫡子佐々木三郞盛綱より、九代京極三郞
高家、後には官山寺殿とぞ申しける。上坂平次郞、十三歲にて元服して、京極殿へ
{{仮題|頁=164}}
奉公に參り、幼少の時分より利發なるにより、京極三郞殿御氣に入りて、側を離れ
ず召使ひ給ふ。翌年平次郞十四歲の時、佐々木六角彈正少弼と、鄕州愛知川に於て
合戰の時、粉骨の働、鑓付首討取り、其後又脇を合せ、度々の軍功比類︀なきによつ
て、いよ{{く}}屋形の氣に入りて、家老のものを乘越え、萬事平次郞次第になりぬ。頓
て改名いたし、上坂治部大夫景重とぞ名乘りける。
{{仮題|投錨=第三 上坂治部大夫、京極殿名代仕る事|見出=中|節=am-1-3|副題=|錨}}
或時京極三郞殿、上坂治部大夫を呼寄せて、密に宣ひけるやうは、汝を賴むべき仔
細あり、同心に於ては、申付くべしと宣ひければ、治部大夫、兼て我等幼少の時より、
御奉公仕り、今斯樣に御取立ある上は、何樣の御用にも立ち申すべしと、朝夕の存
念に候へば、いかやうの儀にても、仰を背き申すまじと、申上げければ、三郞殿、斜
ならず悅び給ひて、いやとよ、別の仔細にあらず。我等鄕北の意見をいふと雖も、
佐々木六角は大名なり、我等は小身なれば、明暮の戰に利を得る事なく、空しく月
日を送る事、無念の次第なり。汝我が名代を仕り、鄕北の侍共・近習・外樣の者︀までも、
汝心の儘に召使ひ軍功を遂げ、向後汝分別次第、萬事仕置仕るべし。汝心に叶はざ
る事あらば、我に申聞くべし。諸︀事賴むと宣へば、治部大夫承りて、首を地に付け
申上げけるは、只今申上ぐる如く、何樣の御用にも、罷立つべしと存ずる上は、御諚
を背き申すまじと、覺悟仕りて候へども、此儀に於ては、御免︀なさるべき旨、其上
鄕北の諸︀侍、何として私の下知に付き申すべくや。四方の聞えもいかゞしく候。是
非とも御免︀なさるべき旨、涕を流し申上げければ、三郞殿聞召し、さればこそ、汝左
樣に申さんと思ひ、前かどに、口を堅めてあるなるに、斯くは辭するぞや。諸︀侍の
儀は、汝が下知に附くやうに、申付くべくぞ。其段違亂する者︀あらば、國中を拂ふべ
くぞと宣ひける。治部大夫も、兩三度迄辭退申されけれども、たつて宣ふなれば、
是非を申上ぐるに及ばず、御請をこそ申しけれ。三郞殿、斜ならずに喜び給ひて、鄕
北の諸︀侍・近習・外樣を呼寄せ宣ひけるは、某年もより、萬事苦勞になる故に、我等名
代を、上坂治部大夫に申付くる間、彼を我等と思ひ、軍功をも賴入ると宣へば、何も
{{仮題|頁=165}}
畏り存ずるとて、異儀申す者︀もなうして、座席をぞ立ちにける。親しき者︀共寄會ひ、
口ずさみしけるは、京極の家、この時盡く、他家に渡し給ふ事、前代未聞と唱へける。
斯くて治部大夫、名代仕りければ、いよ{{く}}門前に、市をぞなしにける。鄕北の人
人、靡かぬ者︀もなかりけり。{{仮題|投錨=上坂景重の勢威振り|見出=傍|節=am-1-3-1|副題=|錨}}斯くて坂田郡上平に、京極殿の御館︀を建て、近習の人々
家を作り立て、三郞殿移徙ありて、京より役者︀を呼下し能をさせ、めでたかりける
事共なり。治部大夫は、上坂村に城郭を構へ、鄕北の仕置をこそしたりけれ。上坂
村に、上坂伊賀守といふ侍あり。先祖︀を尋ぬるに、多田の滿中より廿六代の後胤
上坂伊賀守と申しけり。上坂治部大夫と兩上坂にて、一門の二百人餘もありしが、
今は治部大夫が威に恐れ、伊賀も、治部大夫へ出仕す。一門はいふに及ばず、治部
大夫が下知につくなり。
{{仮題|投錨=第四 淺井新三郞、己高山木の本に祈︀誓をかくる事|見出=中|節=am-1-4|副題=|錨}}
去程に、淺井新三郞、未だ若年の時、つく{{ぐ}}と物を案ずるに、侍たらん者︀の子孫
は、天下をも心懸け、せめて一國の主ともならずして、徒に月日を送る事、無念の次
第かな。何卒案を廻らして、北郡をも攻めて、我手に入れたしと、朝夕思案を巡ら
しける。さればとよ昔より、佛神︀に祈︀誓かくる、習なれば、爰に木の本の地藏大菩
薩は、龍樹菩薩の御作、三國傳來の尊容、本師附屬の大導師、今世後世を引導し、衆生
濟度の御誓願、今以て私なし。步みを運び祈︀誓せば、などか成就せざるべきと、跣の
{{r|行|ぎやう}}にて、百日の日詣をし給ひける。已高山は、傳敎大師の御草創、延曆年中に、唐よ
り歸朝し給ひて、然るべき地に、一寺を結ばゝやと思召し、畿內近國を尋ねさせ給
ひしが、然るべき地なしとて、鄕北伊香の郡に來て、彼山を御覽じて、一院を建立し、
觀音の像を安置して、已高山とぞ號し給ふ。誠に大慈大悲の御誓願、衆生濟度の御
方便なり。是へも參詣し、祈︀誓申さんとて、又百日詣ぞし給ひける。
{{仮題|投錨=第五 淺井新三郞、上坂治部大夫所へ奉公に出づる事|見出=中|節=am-1-5|副題=|錨}}
{{仮題|頁=166}}
{{仮題|投錨=上坂六角|見出=傍|節=am-1-5-1|副題=|錨}}合戰永正五年の春の頃、淺井新三郞、上坂治部大夫景重へ奉公に出づる。本より才覺あ
る者︀なれば、治部大夫氣に入りて、新三郞十五歲の秋、六角殿と取合ひありし時、治
部大夫軍に打勝ちて、敵を追拂ひし時、高宮兵介と名乘り、新三郞と鑓を合する時、
兵介鑓を打捨て引組みて、新三郞を取つて押へ、旣に首をかゝんとせし時、下より脇
差にて、草摺を引上げ、二刀刺し通せば、さしもに剛なる兵介も、弱りける所に、新三
郞が郞黨、主を討たぜじと駈付き、兵介を取つて引退け、首取り給へと申しければ、
得たりとて首を打落し、治部大夫に見せければ、若年の者︀の、比類︀なき働とて、感じ
給ひけり。其後も度々の軍功をぞ勵ましける。或時治部大夫、佐和山表へ出張ある
所に、六角方に中原安藝守、山の片陰に人數を隱し置き、敵を相待つ所に、治部大夫、
向ふ敵を追拂ひ、勇みに勇んで追懸くる所を、中原、鬨をどつと作り、橫鑓に突︀懸
れば、足をもためず敗軍す。六角勢是に力を得、我先にと取つて返し追つかけたり。
治部大夫も、旣に危く見えし時、新三郞、磯山の手先の陰に、討死を極め隱れ居て、
よき時分を見計らひ名乘りかけ、長刀を水車に廻して、切つて懸る。後より大橋善
次郞、淺井新次郞と名乘り、續いて突︀懸り、敵味方、爰を先途と防ぎ戰ひける所に、治
部大夫之を見て、淺井討たすな者︀共、返せ{{く}}と下知し、尤も先懸けて進まれけれ
ば、何れも取つて返し、敵を難︀なく追拂ひ、上坂へぞ歸陣し給ひける。今度淺井新三
郞が働、侍たらん者︀は、手本にせよと宣ひけり。治部大夫歸陣しては、陣中の苦勞を
慰めんとて、諸︀侍を呼集め、次第を追うて振舞ひ給ふ。百の遊亂さま{{ぐ}}なり。陣
中にて、手に合ひたる者︀には、朱椀・朱折敷にて振舞ひ給ふ。後れを取りたる者︀に
は、黑折敷・黑椀にて振舞ひけり。誠に諸︀人に{{r|貌|かほ}}をまぶられける事、生きたる甲斐ぞ
なかりける。何れも座席を立つ時は、治部大夫立出で、今度各の働、誠に神︀妙なり。
一命を輕んじ給ひ、軍忠淺からずと宣ひけり。其しな{{ぐ}}によつて、褒美家恩を宛
行ひ給ふ。總じて治部大夫は、仁義禮智正しくして、京極殿を敬ひ奉り、諸︀侍へ禮儀
をなし、萬民を助け給ふ故、上下諸︀共に、從はぬ者︀はなかりけり。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|淺井物語}}{{resize|150%|卷第一<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=浅井物語/巻第一}}
{{仮題|ここから=浅井物語/巻第二}}
{{仮題|頁=167}}
{{仮題|投錨=淺井物語|見出=大|節=am-2|副題=卷第二|錨}}
{{仮題|投錨=第一 佐々木六角殿と上坂治部大夫和睦の事|見出=中|節=am-2-1|副題=|錨}}
斯くて佐々木六角殿と上坂治部大夫、佐和山表に於て、互に長陣を張りて、日々夜
夜の迫合、討っつ討たれつして、利を得る事なかりけり。治部大夫、侍共に向つて
宣ふは、誠に年中に、五度七度の取合にて、面々も我等も、心に油斷なし。此度は是
非佐々木六角を討ち申すか、我等腹を切るか、二つに一つと極むる間、各の軍功、賴
み入ると宣へば、何れも尤の儀にて候、我々共も、討死を相極め、無二の忠節︀いたす
べしと、申されければ、治部大夫、斜ならず喜びて、さらば酒を進めんとて、亂舞をぞ
し給ひける。此事、六角方へ聞えければ、家老の者︀共を呼集め、此事いかゞあるべ
きと、評定取々なる所に、平井加賀守、進み出でゝ申すやう、先づ此度は無事を繕ひ、
御人數を入れられ、重ねて猛勢を以て、上坂の城へ押寄せ、治部大夫を討たん事、何
の仔細候べき。此度治部大夫、討死を極め罷向ひ、無二の合戰候に於ては、此方の人
數も、大半討たれ申すべし。其上昔より、少敵とて侮︀るべからずと、申候へば、各何と
御分別候と、申しければ、後藤左衞門尉進み出で、平井申さるゝ儀、尤と存ずる旨申
しければ、六角殿宣ふは、さあらばいかやうにも、面々分別を以て、無事を繕ひ給ふ
べき旨、宣ひければ、平井重ねて申しけるは、小倉將監は、治部大夫と一門なれば、彼
を召され、能々御含められ遺され、尤と存ずる旨申しければ、さらばとて、小倉を呼
寄せ、後藤申されけるは、今度永々の取合にて、軍勢も疲れたり。敵方もさぞあらん。
御邊は、治部大夫一門の事なれば、何卒無事を繕ひ、互に勢を入る樣に、才覺あるべ
き旨、申されければ、將監承りて、相調へ申す事いかゞに存ずる間、此儀御免︀候へと
申しければ、いや{{く}}左樣の儀でなし。和睦の事は、兎角互の事なれば、疾々罷越
さるべしと、申されければ、さらば罷越し、治部大夫が心中をも承るべしとて佐和山
に行きて、治部大夫に見參して、此由斯くと語れば、治部大夫申しけるは、誠に少弼
{{仮題|頁=168}}
殿と、年來相戰ひ候へども、終に勝負を遂げず、無念の次第故、此度は無二の軍を遂
げ、討死を極めたる間、左樣の事は、中々存寄らぬ事と、申されければ、將監、物に慣
れたる者︀なれば、少しも腹立の氣色なく、小聲になりていふやうは、我等の儀は、御
邊の紋をも汚しゝ上は、毛頭惡事は申すまじきぞ。此度六角方、殊の外長陣に、草臥
れたると見えたり。御邊の存命に無事を調へ、向後軍なきやうに、相定むべしと、申
されければ、治部大夫、此度は兎角討死と極むる間、御邊とも今生の暇乞にて候。
はや{{く}}歸へられ候へと、あらゝかに申しければ、さらばとて座を立ち、家老共を近
付け、此儀いかゞと語れば、家老も長陣に草臥れ、此段治部大夫の爲め宜しき事とて、
將監と相具して出で、治部大夫に向つて、噯の筋目、將監申されければ、家老の者︀共、
此度は將監殿宣ふ通になさるべしと、申しければ、治部大夫、何れも對陣に、草臥れ
たりと覺ゆるなり。其儀ならば、兎も角もと宣ひければ、將監斜ならず喜びて、早
早立歸り、後藤に斯くと申しけり。此度の無事、早速に相濟み候事、偏に御邊の智略
深き故と感じけり。上下おしなべて、喜ぶ事限なし。頓て南北の境に膀示を立て、
愛知川の河より南は、六角少弼領分、河より北は、京極の領分と、互に狀を取交し、六
角殿は、石寺へ馬を入れられければ、治部の大夫は、上坂に歸陣し給ひけり。{{仮題|投錨=京極六角和睦|見出=傍|節=am-2-1-1|副題=|錨}}斯く
て治部大夫、京極殿へ參り、南北和睦の筋目、具に申上げければ、京極殿、斜ならずに
思召し、今に始めぬ事なれども、此度は□□の軍功宜しき故、我等思ふやうに無事
調へ、一入大慶なりとぞ感じ給ひける。上下諸︀民おしなべて悅び合へる事限なし。
{{仮題|投錨=第二 上坂治部大夫法體の事|見出=中|節=am-2-2|副題=|錨}}
去程に、南北無事になりければ、鄕北の諸︀侍、朝夕亂舞にてぞ暮しける。さて又治部
大夫、つく{{ぐ}}物を案ずるに、はや年も過半たけければ、法體し、後世に心を寄せば
やと思案して、京極殿へ、法體の儀訴訟しければ、京極殿聞召し、汝左樣になりて
は、大將に誰をか定むべき。先づ今度はさしおきて、養子をも仕り、宜しき時節︀に、法
體をいたし候へと、宣へば、承りて、御諚尤に候へども、法體仕るとも、軍出來るに於
ては、前々の如く御名代仕り、敵を追拂ひ、國の仕置をも仕るべし。且又養子の儀
{{仮題|頁=169}}
は、御前へ伺ひ、頓て相究め申すべし。其段御心安かるべき旨、申上ぐれば、京極殿、
斜ならずに悅び給ひて、兎も角も其方次第と宣へば治部大夫喜悅して歸宿いたし、
髮を下し、法名泰貞齋とぞ號しける。{{仮題|投錨=上坂景重法體|見出=傍|節=am-2-2-1|副題=|錨}}上坂信濃守も法體して、淸眼と號す。上坂修
理亮も法體して、了淸と號すなり。泰貞齋、愚意を廻らすに、今斯樣になる事、偏に
京極殿御取立故なり。此御恩いかでか報ずべき。せめて御息を一人申下し、我等名
跡を讓るべしと思案して、京極殿へ、此由斯くと申上ぐれば、いかやうとも、汝所存
次第と宣ひければ、斜ならず喜びて、御子一人申請け、卽ち治部大夫と號す。上坂の
城に居ゑ置き、我身は、夫より一里餘り西南に、今濱といふ所に、城を拵へ籠居す。
斯くて泰貞齋、娘一人ありけるが、淺見對馬守は、文武の達者︀なればとて、婿にこそ
したりけれ。法體して、春向軒と號す。尾上村に、城を拵へ居たりける。泰貞齋、今
一人筋目正しき者︀を見立て、今濱の城を讓り、兩人して、京極殿に忠節︀を勵まし、
我跡も立つやうにと思はれければ、此事、美濃國の屋形土岐殿傳聞き、內緣を以て
申さるゝは、御邊養子望の由を承る。好む所の幸かな。我等子供の中、何れなりと
も一人、御邊の望次第に遣すべし。同心に於ては、悅着たるべしと宣へば、泰貞齋
申されけるは、土岐殿などの御息を、我等養子には勿體なしとて、同心せざりけり。
此由土岐殿へ申しければ、さては是非いやには聞えず、此上は幾度も申遣し、泰貞
齋望の如くにいたすべき旨宣ふ。今濱へ立越えて、土岐殿存分、具に語れば、さても
冥加なき事共かな。さり乍らいかでか我等養子に仕るべしと、兩三度迄辭しけれど
も、達つて申さるゝ故、是非に及ばず。其儀ならば御息を、鄕北辰が鼻の川端に捨て
置かれ候はゞ、我等若年より、每夜々々廻り仕る間、見付け拾ひ申すべしと、固く約
束して使者︀を返す。此由土岐殿へ申しければ、さても義深き侍かな。さあらば望の
如く、鄕北辰が鼻に捨置くべしと遣しけり。泰貞齋、例の如く夜廻りして、御息を
見付け斜ならず喜び、我等年來の望を、佛神︀の憐れみて、捨置かせ給ふかとて、頓て
相具し立歸り、圍繞渴仰し給ひけり。辰が鼻の川淵の邊にて、拾ひたる子なればと
て、其名を淵子と名付けたり。斯くて十三歲にて元服して、上坂兵庫頭と號す。其
後年長けて、泰貞齋は、今濱の內に隱居して、城を嫡子治部大夫に渡し、我が身は念
{{仮題|頁=170}}
佛修行に心を入れ、月日を送りけり。誠に泰貞齋、若年より京極殿に出頭して、度々
の軍功、其譽、世に越え、末々まで果報人とて、諸︀人羨まざらぬはなかりけり。
{{仮題|投錨=第三 上坂泰貞齋病死の事|見出=中|節=am-2-3|副題=|錨}}
永正十二年の冬の頃より、泰貞齋煩ひ出し、次第々々に弱り行けば、一門家老の者︀
共を呼集め、某病氣重り、はや末期に罷成候なり。死後にも、我等仕置の如く、治
部大夫を敬ひ、鄕北の主と崇むべし。兵庫頭は治部大夫を我主と思ひ、隨分忠を盡
すべし。治部大夫も、兵庫守に情をかけ、萬事相談して、國の仕置を仕るべしと、宣
ひけり。其後治部大夫、兵庫守を密に近付けいふやうは、鄕北の侍共、何れも心變
は之れあるまじ。但し淺井新三郞は、若年の時より、懇に召使ひしが、才智人に勝れ、
案深き者︀なり。度々の軍功數多あり。軍の差引、彼が申す所一つも違はず。立身を
もさせたく思ひつれども、汝等が爲めに、行末惡しかるべしと思案して、家恩をも
行はざりけれども、不足の氣色もなく、いよ{{く}}忠功を盡すなり。兎角見屆け難︀き
者︀なり。彼に心を許すべからず。さり乍ら、前々に違ふ事も無益なり。懇に召使ふ
べしと申されけり。次第に弱りければ、淺見春向軒を近付けて、兄弟の者︀共は、未
だ若年なり。御邊萬事計らひ、家老の者︀と相談して、我等仕置の如く、賴み入り候ぞ。
兄弟の者︀共も、春向軒を、我等と思ひ申すべしと申されけり。永正十三年三月九日、
行年五十三歲にて、念佛數返唱へ、終に果敢なくなりにけり。{{仮題|投錨=上坂泰貞齋病死|見出=傍|節=am-2-3-1|副題=|錨}}治部大夫・兵庫頭一門
の人々は、こはいかにとて歎きけり。さてあるべきにあらざれば、葬禮こまやかに
取行ひ、よく{{く}}弔ひ給ひけり。
{{仮題|投錨=第四 淺井新三郞助政謀叛智略の事|見出=中|節=am-2-4|副題=|錨}}
斯くて上坂泰貞齋死去の後、上坂治部大夫に、淺井新三郞、よく奉公いたすと雖も、
泰貞齋に變り、萬事隔つるやうにせられ、次第に外樣になりければ、新三郞つく{{ぐ}}
と思案して、泰貞齋死去、幾程も過ぎざるに、我儘を振舞ひ、酒宴のみにて暮し、行
末には{{r|引裾|ひきはな}}るとも、早幹が陳に侍らはゞ、他人の國となさん事無念なり。いかに
{{仮題|頁=171}}
も案を巡らし、治部大夫を追拂ひ、鄕北を我儘にすべしと案ずれども、小身なれば、
斯樣の大功思立つ事、誠に蟷螂が斧なり。さり乍ら軍の習なれば、大軍を小勢にて
打勝つ事、今代にては細川律師・赤松父子、昔は源の義經・義仲其例數多あり。併ら
百分一に足らざる勢にて、思立たんも覺束なし。さり乍ら未だ、うひ{{く}}しきに、治
部大夫の行儀惡しきを幸にして、{{仮題|投錨=淺井新三郞隱謀|見出=傍|節=am-2-4-1|副題=|錨}}此度思立たずば、何の時か期すべきと、縱ひ八十
にて果てたるとも、何の仔細のあるべきぞ。某今年廿三歲にて、討死し侍らんこそ、
骸の上の面目なり。是非に思立つべしと、舍兄の淺井新次郞に、此由密に語りけれ
ば、以ての外の氣色にて、御邊は氣の違ひ候か、我々兄弟三人の勢、僅に五六十騎
に過ぐべからず。其小勢にて、治部大夫を亡さん事、九牛の一毛より猶も劣れり。
三田村・大野木は一門なれども、よも同意あるまじきぞ。此儀固く無益なりと申しけ
れば、新三郞、さらぬ體にもてなし、さて又三田村が館︀へ行き、あらまし斯くと語れ
ば、御邊は氣の違ひて、左樣の事を申すか。今治部大夫を、諸︀侍敬ひ候に、勿體なき
心中かなと、制しければ、新三郞思ふやう、さては同心之れなしとて、又大野木が館︀
へ行き對面して、此旨密に語れば、さて{{く}}御邊は、大腹中なる事を申さるゝ物か
な。三田村我々、御邊に同心いたし候とも、治部大夫が人數には、百分一もあるべ
からず。中々左樣の事は、思寄らぬ事、骸の上迄人に笑はれんも恥辱なり。先づ時
節︀を待ち給へ、又時分もあるべし。先づ治部大夫氣に入るやうに、よく奉公し給へ
と、申しければ、新三郞は立歸り、さても三田村大野木は、甲斐なきものかな。彼が
一味に於ては、勢の七八百はあるべし。又我等因みし者︀相語らはゞ、都︀合千一二百
騎もあるべきに、治部大夫が勢とても、五六千には過ぐべからず。彼奴原を追散ら
す事、何の仔細のあるべきと、齒がねをぞ鳴らしける。さあらば大橋善次郞は、互
に幼少よりの朋友なれば彼に申聞かすべしと、善次郞を密に呼び、此儀いかゞと語
れば、善次郞聞きて、さても能く思立ち給ふかな。治部大夫未だうひ{{く}}しき內に、
{{r|追立|おつた}}てずんば、いつの時をか期すべきぞ。內々御邊と相談いたすべしと、所存ある
所に、能くいひたる物かなとて諾しけり。新三郞斜ならず喜びて、誠に前廉より、御
邊は賴もしく存ぜしが、いよ{{く}}賴むと語りければ、善次郞申すやう、御一門なれ
{{仮題|頁=172}}
ば、大野木・三田村殿には、知らさせ給ふまじきかと、申しければ、其儀にて候、彼等に
斯くと語りければ、氣色を違ひ、我等を物狂などと申し、中々同心なしといひけれ
ば、善次郞申すやう、御一門にて候へども、思量少なき腰拔共かなとて笑ひけり。此
事洩れ聞えぬ先に、一時も早く思立ち給へ。御邊兄弟三人・我々手勢、都︀合百五六十
騎はあるべし。今少し不足なり。伊部淸兵衞は軍功も其隱なし。御邊も我等も、
他事なき間なれば、賴みて見んといひければ、新三郞、兎も角も御邊の分別次第と
ありければ、頓て善次郞、淸兵衞方へ行き對面して、只今參る儀、貴殿偏に賴み申す
仔細あり。いかやうの事にても、同心あらば申すべしといひければ、淸兵衞聞きて、
御邊の御用ならば、一命をも參らすべしと申す。淸兵衞、善次郞が手を取つて、
間所へ行き、早々語り給へと申せば、其儀とよ、我等も淺井新三郞に賴まれ、一命を
輕んじ候と申せば、さては如何なる事ぞや、疾々とありければ、されば新三郞逆心
を企て、治部大夫を追拂はんとの所存なり。貴殿を偏に賴む旨申すなり。淸兵衞
聞きて、內々は我等、左樣に思立ち、貴殿と新三郞とを、賴むべしと存ずる所に、さ
てははや、新三郞の若輩者︀に、先をかけらるゝ事無念なり。未だ若年の分として、斯
樣の事を思立つ事、兎角侍の頭をもいたすべき者︀なりと感じけり。さて何なりと
も我等に於ては、先駈を仕り打破らん。心安く思召せ。斯樣の事、延々にては惡し
かるべし。明後日は、是非打立つべしとぞ申しける。善次郞、斜ならず悅びて、新三
郞に申聞かせんと、暇乞して立ちにけり。新三郞に、樣子具に語れば、さても賴も
しき心中かなと、喜ぶ事限りなし。彼がいふ如く、明後日、是非に於て取懸くべし
と催しけり。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|淺井物語}}{{resize|150%|卷第二<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=浅井物語/巻第二}}
{{仮題|ここから=浅井物語/巻第三}}
{{仮題|頁=173}}
{{仮題|投錨=淺井物語|見出=大|節=am-3|副題=卷第三|錨}}
{{仮題|投錨=第一 淺井新三郞逆心を企て、上坂へ押寄せ乘取る事|見出=中|節=am-3-1|副題=|錨}}
斯くて淸兵衞・善次郞兩人の者︀共、新三郞が館︀へ行き申しけるは、明後日の軍の手立、
いかゞ思ひ給ふぞや、樣子具に承るべしといへば、新三郞申しけるは、先づ我等存
分申すべし。惡しき所は、能きやうに御差圖賴み入るなり。先づ明日悉く用意仕り
て、日暮れなば、五つ時分に城近く忍び寄り、物見を遣し、彼の城の出入見計らひ、
吿げ來るに於ては、上坂村に忍入り、百騎の勢を隱し置き、相圖の言葉次第に、我等
手前へ馳せ參る旨を申含め、御邊兩人は、新次郞を召連れられ、殘百三十騎の勢に
て、上坂村いかにも近き在所へ押寄せ、家々に火をかけ、鬨をどつと作り給へ。其時
城中驚き、取る物も取敢ず、我先にと駈出づべし。よき時分を見計らひ、又鬨を揚
げ給ふべし。然らば兵庫頭も打つて出づべし。さあらんに於ては、御邊達百騎の
勢を連れ、敵の中へ紛れ入り、上坂の城へ駈入り給ふべし。新次郞は三十騎の勢を
率し、次なる村に駈入り、又火をかけ鬨を作り、其後何方へなりとも引取るべし。我
等は能き時分を見計らひ、敵の歸るやうにして、城中へ紛れ入り、門を堅めたる奴
原・番所々々の者︀共、一々に斬つて捨て、頓て門を打堅め、手詰々々を申付け、敵歸る
ものならば、射立て斬立て候はん。御邊達、隨分早く城の中へ駈入り、共に防ぎて
給はれ。若し兵庫頭が勢、駈出でんものならば、上坂の城へ押寄せ、侍共の家々町
屋、悉く燒拂ひ、樣子を見計らひ攻入るべし。敵堅うして叶はずば、丁野村へ引籠る
べし。敵猛勢を以て攻來らば、めさます軍して、其上は運次第と快く語れば、二人
の者︀共、さて{{く}}新三郞の軍の手立は、樊噲・張良・韓信・太公望、我朝の源義經・楠正
成と申すとも、これにはいかで優るべき。斯樣の{{r|方便|てだて}}ならば、鄕北は、廿日の中に
は切取るべし。序を以て、京極殿を追散らし、行々は天下に旗を立つべしと、兩人
{{仮題|頁=174}}
の者︀共感じければ、新三郞も喜びけり。去程に永正十三年八月廿三日の戌の刻に、
二百三十騎の勢を率して、丁野村を立ちて、{{仮題|投錨=上坂新三郞兵を擧ぐ|見出=傍|節=am-3-1-1|副題=|錨}}上坂の城へ押寄せ、相圖の如くに新三
郞は、百騎の勢を連れ、田の中に伏隱れ、淺井新次郞・伊部淸兵衞・大橋善次郞三人
の者︀共は、百三十騎の勢を連れ、上坂近き在々へ忍び入り、家々に火をかけ、鬨をど
つと揚げたりけり。上坂の城には、これは如何なる事やらん。何なる者︀の謀叛ぞや。
定めて泰貞齋が言置きし淺井新三郞にてぞあるらん。此者︀が手勢之れありとも、
五十か三十かならではあるまじき、急ぎ駈向ひ、生捕にせよやとて、逸︀雄の若武者︀共、
我先にとぞ馳出でける。兵庫頭も、上氣なる人なれば、頓て駈出で給へば、城內に
は人數をも殘さず、二千餘騎の者︀共、我劣らじと駈出でたり。新三郞は其紛に、百
騎の勢にて、城內に駈入りければ、門番・矢倉々々の番・役所々々の者︀共、これは如
何にと、防ぎ戰へども、一々に射倒し斬伏せければ、防ぐ事叶はずして、我先にとぞ
落行きける。{{仮題|投錨=上坂新三郞等上坂城を乘取る|見出=傍|節=am-3-1-2|副題=|錨}}斯くて淸兵衞・善次郞も、百騎を引具して、城內へ駈入りければ、新三
郞、斜ならず喜びて、門々役所々々を堅め申付け、歸る敵をぞ待ちたりける。淺井
新次郞は、次なる鄕に忍び入り、火をかけ鬨をどつと作り、行方知らずに引取りけ
り。上坂勢は之を見て、さればこそ小勢なるぞ、敵一人も殘さず討取るべしとて、彼
村へ押寄せけれども、一人も敵なし。所の者︀を近付け尋ねければ、武者︀と思しき者︀
三十人計り馳せ來り、家々に火をかけ鬨を揚げ、行方知らず歸り給ふと、申しければ、
さても惡き奴原かなとて、上坂の城へ歸り入らんとせし所に、城內より究竟の射手
共差詰め引詰め散々に射ける間、上坂勢に、手負・死人數多出來ければ、是にや怯み
けん、淺井が不意の{{r|方便|てだて}}に當つて、さては早や、敵に此城を乘取られけるこそ無念
なれ。この儘攻むべしと宣へば、上坂信濃守申しけるは、いやとよ何の方便もな
く、むざと攻寄せなば、又敵に追立てらるべし。諸︀人の嘲も候べし。先づ引取り給
ひ、今濱にて、治部大夫殿と御談合候て、明日押寄せ攻め給はゞ、何の仔細の候べ
きと、申しければ、皆此儀に同じて、今濱指して引きにけり。淸兵衞・善次郞、此由を
見るよりも、臆病なる奴原を、一々に斬つて捨てよと、門を開き駈出でんとす。新
三郞之を見て、さしもに剛なる御邊達、左樣の事はし給ふべからず。大勢の中へ
{{仮題|頁=175}}
斬つて出づる物ならば、一端は敗北すとも、物慣れたる者︀取つて返し、附入にせら
れては惡しかりなん。今夜の勝負は、我々存分なり、靜まり給へと、制しける。兩人
の者︀共、尤なりとて笑ひ止まりけり。斯くて上坂勢、今濱指して落行きければ、治部
大夫は驚き、是はいかにと尋ねければ、今夜の次第、斯くの通りと申せば、無覺悟な
る次第にて、城を早速乘取らるゝ物かなと、あらゝかに怒りけり。扨{{r|明日|あくるひ}}廿四日の
早朝に、淺井新三郞助政逆心仕り、上坂の城を乘取る由、其隱なければ、新三郞と
知音の者︀共、さても大氣なる者︀かな。いで此度の軍なれば見繼がんと、淺井新六郞・
同新分・伊部助七・丁野彌介・田部助八・尾山彥右衞門尉、彼等六人、其勢二百餘騎計に
て、上坂の城へ駈付け、新三郞に對面して、御邊大儀を思立ち給ふものかな。朋友
なりし因に、討死せんと參りたり。斯樣の事思立つならば、など我等共に知らせ給
はぬぞ。日頃の御情、相違したりと申せば、新三郞、さて{{く}}早速、是へ駈付け給ふ
事、弓矢の御情、あげて數ふべからずと喜びける。大野木・三田村の人々も、此由を聞
きて、扨も{{く}}新三郞は、大腹中の者︀かな。我等共の意見をも用ひずして、上坂へ押
寄せ、城を乘取るなり。定めて一兩日に、今濱より押寄せ攻めらるべし。とても遁
れざる事なれば、上坂へ馳着き、新三郞と一所に、討死いたすべしとて、八百餘騎の
勢を連れ、上坂へぞ赴きける。新三郞に對面ありて、御邊は、我々共制せしをも聞
入れず、早速思立つものかな。定めて今明日中に、今濱より押寄すべし。隨分働き
討死をいたすべしと語れば、新三郞申しけるは、さて{{く}}兩人、是迄馳着き給ふ事、忝
なしと喜びて、此上は幾萬騎にて寄せ來るとも、一々に{{r|追散|おつち}}らさんと喜びける。大
野木・三田村之を聞き給ひ今に始めぬ新三郞のがさつかなとぞ笑はれける。
{{仮題|投錨=第二 上坂治部大夫、上坂へ押寄せ給ふ事|見出=中|節=am-3-2|副題=|錨}}
斯くて今濱の、城にて、軍の評定とり{{ぐ}}なり。上坂掃部頭、進み出で申されけるは、
兎角時刻移りては惡しかりなん。世間の人の習にて、古きを捨て新しきに附くも
のなれば、御家中にも、新三郞に心を通はす者︀多かるべし。勢の附かぬ先に、一刻
も早く押寄せ、蹈潰し給へと申しければ、一門家老、此儀いかゞと評定す。淺見春
{{仮題|頁=176}}
向軒は、淺井が謀叛を聞くよりも、子息對馬守を近付け、定めて今濱には、軍の評定
取々にて、定まる事あるまじきぞ。敵に勢の附かば惡しかりなんと存ずるなり。早
早今濱へ行き、治部大夫を諫め上坂に押寄せ、新三郞討つべき事尤なりとて、取る
物も取敢ず、手勢五百餘騎引具して、今濱へ駈付け、治部大夫に對面して、何とて御
油斷候ぞ、一刻も早く押寄せ、新三郞其外籠城したる奴原、討取り給へと、申されけ
れば、京極殿を始めとして此儀に同じ、我先にと打立ちけり。今日の軍の侍大將に
は、上坂信濃守・同掃部頭・淺見對馬守、右三人にぞ極りける。斯くて永正十三年八月
廿五日の早天に、今濱勢都︀合六千餘騎を率し、上坂の城へ押寄せけり。春向軒、治
部大夫に向つて申されけるは、敵は小勢なれば、難︀なく乘取るべし。さり乍ら淺井
新三郞は、手早き者︀なれば、叶はじと存ずるならば、萬事を捨て、御旗本へ突︀懸り申
すべし。軍に馴れたる者︀共、御旗本に殘し置かれ然るべし。我等も後備に立つべし。
斯くて城近くなりければ、手組をして、城を大取卷にぞしたりける。淸兵衞・善次郞
二人の人々、大野木・三田村を呼寄せて、敵はや大取卷にして候ぞ。此方の城の持口
を、御定め候へと、申しければ、新三郞に問ひけるに、新三郞聞きて、今日の軍の{{r|方便|てだて}}
は、無二の軍こそよく候へ。取卷かれては、中々次第々々に小勢にて惡しかりなん。
一番合戰は、淸兵衞・善次郞し給へ。二の目は我等、三番は、大野木・三田村殿を賴み
申すなりとぞ申されける。三田村・大野木聞きて、それは荒氣なり。先づ敵の樣子を
見計らひ、よき時分に、切つて出でんと、申されければ新三郞重ねて申されけるは、
軍の時分は、只今こそ能き時分なれ。圖を拔かしては叶ふまじ。早々御出で候へと
申しければ、善次郞・淸兵衞尤とて、勢を引具して、門の側にぞ控へたる。敵近々と
攻寄せければ、新三郞敵の樣子を見計らひ、時分は能きぞと門を開き、一度に鬨を
作り懸け、喚き叫んで斬つて懸れば、敵一支も支へずして、蛛の子を散らすが如く
に、我先にと敗北す。味方は是に勢ひ、我先にと討出でければ、上坂掃部・{{r|口分田|くもだ}}彥七
兩人の者︀共、鑓を橫たへ穢き者︀共かな。敵に味方を合すれば、十分一もなきぞ、返せ
返せと罵り、討死は爰なりと、喚き叫んで突︀懸かれば、淸兵衞・善次郞も心は猛く勇
めども、此勢に追立てらる。新三郞之を見て、鬨を噇と作り、面も振らず切つて懸
{{仮題|頁=177}}
れば、上坂掃部・口分田彥七の人々、爰を先途と防ぎ戰へども、新三郞に追立てられ、
旗本指して引きにけり。新三郞は其勢を以て、旗本指して突︀懸かれば、旗本騷動し
て、我先にと落ちにけり。淺見春向軒之を見て、穢き奴原かな、討死せよと、呼ばは
つて、橫鑓に突︀いて懸る。是は武勇の名人とて、はや引色に見えければ、後に控へ
たる大野木・三田村、續いて押寄すれば、さしもに剛なる春向も、今濱指して引きに
けり。新三郞、何處迄か遁すべきと、喚き叫んで追討に討ちければ、春向軒も、旣に
討たるべう見えし所に、淺見新七・堀屋彌七、取つて返し討死す。{{仮題|投錨=上坂治部大夫敗軍|見出=傍|節=am-3-2-1|副題=|錨}}此間に春向、落延
び給ひけり。新三郞之を見て、春向軒を討洩らす事の無念さよ。さり乍ら味方の
勢も疲るべし、長追しては惡しかりなんと、勢を全うして、上坂の城へ引きにけり。
今日の軍に、敵百八十騎討たるれば、味方も卅八騎ぞ討たれける。今日新三郞軍の
方便、古今稀なる働かなと、上下諸︀共に感じけり。
{{仮題|投錨=第三 上坂治部大夫軍に打負け、重ねて評諚の事|見出=中|節=am-3-3|副題=|錨}}
去程に、治部大夫軍に打負け、今濱の城へ引籠り、敗軍の士卒を集め、頓て上坂に
押寄せ、此度は無二の合戰を遂ぐべしとて、方々へ廻文を遣し、猛勢を催しけり。此
事上坂の城へ吿げ來れば、善次郞・淸兵衞申すやう、此の勢を以て、明日未明に、今濱
へ押寄せ、平攻に攻むるならば、はか{{ぐ}}しき矢一つも射出し、打出づる者︀もある
まじく、大略は落行くべし。一々に討つて捨つるものならば、治部大夫も、此紛に
落行くべし。追討に討取るべきに、何の仔細の候べき。打立ち給へと申しければ、
新三郞、尤にて候へども、今濱の城も丈夫に拵へ、堀深くして土居高し。其上淺見
春向軒候へば、物馴れたる者︀なれば、味方堀にひたる程ならば、能き時分を見計ら
ひ切つて出づるものならば、味方の勢も、今日の軍に疲れ、一支も支へずして、追立
てられん事疑なし。さあらば味方は小勢なり、敵は大軍にて、勢ひ懸つて、此城を
乘取られては惡しかりなん。先づ一兩日は、士卒をも休め、敵の方便をも見計らひ、
重ねて勝負を決すべしと、申しければ、二人の者︀共又申すやう、いや{{く}}軍は、機を
拔かしてはいかゞ、打立ち給へと、申しければ、助政聞きて、謀も宜しく候へども、春
{{仮題|頁=178}}
向軒は物に馴れたる剛の者︀なれば、今日の軍に出でず、荒手を七八百も殘し置く
べし。彼者︀共、打出で戰ふものならば、味方は疲れたる勢なれば、敗北せん事疑な
し。此度は御思案候へと、申しければ、兎角御邊次第と申しけり。去程に、今濱の城
には、敗軍の諸︀勢、方々より集まる程に、又大勢にぞなりにける。春向軒、進み出で
て申しけるは、一時日の軍に、淺井新三郞に追立てられ、誠に無念の次第かな。重ね
ての戰に、人數の立てやう大事なり。彼者︀は軍立變にして目早し。味方の虛を見て
切つて懸り、大利を得んと存ずる者︀なり。此方旗本には、上坂信濃守を置き、治部
大夫と我等は、勝備になりて、彼が方便を見て、突︀懸るべしと申されけり。物馴れ
たる者︀共は、尤とぞ同じける。又若武者︀などは、左樣に敵に怖ぢては、軍に勝つ事
よもあらじ。味方の人數に、敵の勢を合すれば、五分一ならでは之れなきに、新三
郞打出でたらば、大勢にて取園み討取らんに、何の仔細の候はんと、申す人も多かり
けり。此儀上坂へ吿げ來れば、新三郞さればこそ春向、軍の方便こそ由々しけれ。
此上は彼が軍勢を見屆けずば、城よりは出づべからずとぞ申定めける。
{{仮題|投錨=第四 今濱勢上坂面へ出張りて備を立つる事|見出=中|節=am-3-4|副題=|錨}}
永正十三年九月三日の卯の刻に、六千五百餘騎を率し、上坂面へ押寄せけり。一番
備は上坂修理亮、二の目は口分田彥七、三番は旗本上坂信濃守、兩脇備、左は治部大
夫人數、伏隱れ居る。上坂掃部頭、武者︀奉行なり。右は淺見春向軒父子、是は淺井
新三郞微敵なれば、頭の方より押包み、討取らんとの方便なり。然る所に新三郞、
自身物見に出で、敵の方便を大方推量し、爰は我等も方便を相謀るべし。今日の一
番は、我等仕るべし。二の目は善次郞殿・淸兵衞殿致さるべし。大野木・三田村殿は
城の內に、備を立て給ふべしとて、助政五百餘騎の勢を率し、城外へ駈出で、鏑を揃
へ、差詰め引詰め射させける。上坂勢も之を見て、{{r|矢衾|やぶすま}}作りて、散々にぞ放ちける。
新三郞は射立てられ、少しく色めく所に、修理亮鬨を作り、眞黑になりて切つて懸
るに、一支も支へずして、次の備迄颯と引く。跡なる彥七、勢を拔かすな者︀共とて、
喚き叫んで切つて懸る。いよ{{く}}淺井支へ兼ね、城內へ逃籠る。上坂勢、續いて
{{仮題|頁=179}}
駈入らんとせし所に、春向軒使者︀を立て、深入して惡しかりなん、早々引取り給へ
と、兩度迄制しければ、彥七は、何とて左樣に臆し給ふぞ、是へ押寄せ給へ。此勢城
內へ攻入らば、定めて新三郞は討取るべきぞ、いざさせ給へといひけれども、春向
軒、達つて無用と申さるゝ故、上坂勢引退きにけり。淸兵衞・善次郞、此由を見るより
も、是こそ軍の時分なれ、跡をくるめ給へといひて、旣に駈出でんとせし所を、新三
郞鎧の袖を控へ、尤にも候へども、あの春向、未だ荒手にて控へたり。一旦は切崩し
候とも、重ねて惡しかるべしとて、二人相具して、上坂の城內へ引入りければ、上坂勢
も、今濱の城へぞ引取りける。今濱の城にて、口分田彥七申しけるは、今日の軍は、春
向の制し給ふ故、淺井を討取らずして、無念なりとぞ申しける。春向宣ひけるは、淺
井は若輩に候へども、心も剛に智惠深し。殊に軍の色を見て、方便を色々に巡らし侍
るぞや。昨日城中へ駈入り給ふならば、味方は過半討たるべし。向後とても、淺井と
の軍は、能くしめて弓矢を取り候はずば、味方の勝利はあるまじとこそいはれけれ。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|淺井物語}}{{resize|150%|卷第三<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=浅井物語/巻第三}}
{{仮題|ここから=浅井物語/巻第四}}
{{仮題|頁=179}}
{{仮題|投錨=淺井物語|見出=大|節=am-4|副題=卷第四|錨}}
{{仮題|投錨=第一 上坂治部大夫、京極殿へ訴訟の事|見出=中|節=am-4-1|副題=|錨}}
去程に、上坂治部大夫は、淺見春向軒を相具して、上平の館︀へ行き、淺井新三郞逆
心の通り、一々申されければ、京極殿聞召し大きに驚き給ひ、兵庫頭といふ不覺仁、
左樣に新三郞に計られし事、前代未聞の次第なり。且うは又御邊も、彼の城へ押
寄せ、卽時に誅罰せられずして、今迄遲滯ありし事も、武勇の程覺束なしと、仰せけ
れば、春向軒進み出で、軍の始終、助政が方便、具に申されけれども、中々憤頻︀にし
て、聞入れ給はず。春向軒重ねて申されけるは、往事をば思はざれと承る。此上は
御旗を向けられずば、叶ふまじと存ずるなり。さあらんに於ては、治部大夫先登
し、無二の勝負を決すべき所存の由、達つて申上ぐれば、さらば家老共に、相談ある
{{仮題|頁=180}}
べき旨仰せられ、人々に、此儀如何とありければ、何れも是非の卽答、難︀澁せられし
所に、大津彈正少弼申しけるは、御誅戮延々にては惡しかるべし。浮世の中の習に
て、舊好を捨て、新恩に附くものにて侍れば、一刻も早く御出馬ありて、春向申上ぐ
る如く、治部大夫に軍を{{r|魁|はじ}}めさせ、上坂へ押寄せ、淺井を討たん事、踵を巡らすべか
らずと、事もなげにぞ聞えける。{{r|錦折|にしきごり}}右近將監申すは、大津殿の謀も、尤に候へども、
斯る折柄は、人の心區々に候はん。北郡の殿原にも、新三郞に心を通ずる者︀も候べ
し。先づ鄕北へ廻文を遣され、其請に應じ、勢の多少を試みて、御出馬尤たるべし
との由なり。何れも此儀に同じける。治部大夫今濱へ歸り、又上坂へ押寄せたり。
助政も足輕を出し、矢軍少々して、懸けつ返しつあしらひける所に、今濱勢、眞黑
になりて切つて懸れば、新三郞、兵を{{r|圓|まる}}めて楯籠る。兎角して日を暮らしければ、今
濱勢寄合ひ語りけるは、此間の軍の體を見るに、淺井は、先度の合戰に手を負ふか、
討死をしけるか。さもなきものならば、斯樣に軍の體あらじといふもあり。いや
いや屋形の御腹立を聞きて、城中の勢共落失せて、斯く延々とはあるやと、申す者︀
も多かりけり。上坂の城へ押寄する事、一圖こそ能かんなるに、評諚々々にて極ま
らざる事、泰貞齋死去の後は、諸︀事不合にして、相定まらざる事、氣毒千萬と、淺見春
向軒呟き乍ら、先づ御一左右迄は、人馬の足を休めんとて、尾上へ歸城したりけり。
{{仮題|投錨=第二 淺井新三郞智略を巡らし今濱の城を攻落す事|見出=中|節=am-4-2|副題=|錨}}
淺井新三郞は、伊部淸兵衞・大橋善次郞を近付けて、淺見父子は、屋形の出陣迄とて、
尾上へ歸りぬ。其外の諸︀勢も、一左右を待つて居り、城々に休息し、今濱には、然るべ
き者︀も之れなき由、吿げ來るに依つて、すつぱを遣し、樣子を見屆くる所に、實說な
り。誠に願ふ所の幸かな。此折柄に智略を巡らし、今濱の城を乘取るべしといへば、
兩人聞きて、能き謀にて侍るぞや、軍功の者︀は、虛罰するにありと、大公望も傳へた
り。早く思慮然るべき旨申しければ、新三郞、さては手配仕らんとて、先づ淸兵衞
殿は、五百餘騎にて、新次郞を具せられ、夜の內に、今濱近き村の藪の陰、田の中に
{{仮題|頁=181}}
伏隱れ居給ふべし。大橋殿も、夫より二三町も引退き、堤の下・畔の中に、深く隱れ
居給ふべし。我等は八百餘騎を二手に分け、また仄暗き早朝に、彼城へ押寄せ、鬨
を噇と揚ぐるならば、城中より之を見、敵は小勢と侮︀つて駈出でん。其時は矢軍少
少して、跡なる備と一つになるべし。さあらば敵勝に乘りて追懸けんか。それをも
妨ぎ兼ぬる體にもてなし引取り、堤などを見計らひて小楯にして、蹈止め戰はゞ、
定めて治部大夫駈出づべし。其後へ大橋殿は、大手口に火を懸け、喚き叫んで押寄
せば、城中の者︀共は門を堅め、爰を先途と防がんを、伊部、搦手より攻入り給はゞ、
城は心安く乘取るべしとぞ計らひける。去程に永正十三年九月廿一日の午の刻計
に、伊部・大橋の人々は、上坂の城を出で、差圖の如く、今濱の近邊に、旗・指物を卷
き持たせ、深く忍びて居たりける。淺井新三郞は、八百餘騎を引率し、未だ寅の刻
なるに、城際へ押寄せて、鬨の聲をぞ揚げたりける。城中には思寄らざる事なれば、
殊の外騷動して、樣々敵に出拔かれけるぞや。此小勢にて取圍まれば何とせん。
先づ此城を落ちて、重ねて大勢を催し、攻寄せんといふもあり。いやとよ、助政を討
たんには、孫子・吳子を大將として攻むるとも、一刻にはなるべからず。爰をさへ堅
固に保つならば、春向軒も馳着くべし。上平よりも、御加勢のなき事はあるまじき
ぞ。今少しの間なり、丈夫に防ぎ戰へとて、上坂修理亮・同掃部助、走廻り下知しけ
れば、城中暫く靜まりける。上坂八郞右衞門は、敵の樣子を見んとて、櫓へ上りけ
るに、折節︀小雨降り、朝霧深うして、敵分明に見えざりければ、城外へ忍び出で、勢
の多少を、見屆け、敵は僅に千の內なり。周章する間に、町屋へ放火すべきぞ。は
や御勢を出されよ、追散さんと、申しければ、逸︀雄の若者︀共、我先にと駈出づれば、修
理亮大音揚げて、周章てゝ事を仕損ずるな。大敵を恐れず、小敵を欺かずと、申傳へ
侍るぞ。敵を侮︀つて、不覺し給ふな。我が下知次第に駈けよとて、一千餘騎を左右
に立て、敵軍を見渡せば、無下に小勢なり、駈付け追つ散らすべう思ひけるが、待て
暫し、助政は、軍法宜しき敵ぞかし。いかなる方便もあるらんと思案して、人數を
備へて待つ所に、淺井討手を揃へて馳向ふ。修理亮も鏑を竝べ差詰め引詰め散々
に射る。新三郞討立てられて色めく所を、修理亮、備を亂して突︀懸れば、淺井勢一
{{仮題|頁=182}}
支も支へず、次の備へ颯と引く。修理之を見て、今一揉み揉んで敵を追立て、討取
れや者︀共と、喚き叫んで切つて懸れば、爰を先途と防ぎ戰ふ所に、治部大夫、眞黑に
なりて駈出づれば、淺井勢、爰をも{{r|追立|おつた}}てられけるが、小楯を取つて蹈止まり、互に
命を惜まず、火花を散らして戰ひけり。斯りける所に、宵より隱れ居たりし大橋善
次郞、今濱の町へ駈入り、家々に放火をすれば、折節︀風は烈しく、狼煙天を覆ひけれ
ば、城中の者︀共、こは如何にと騷動しけるを、上坂信濃守、老武者︀にて、物に馴れたる
人なれば、諸︀卒にいひけるは、定めて是は助政が、宵より忍を入れて町屋を燒き、城
中騒動せん所を、不意に城を乘取らんとの謀なるべし。小勢にてあらんに、樣子を
見て切つて出で、一々に討取るべし、少しも騷ぐべからずと、下知しければ、はや善
次郞馳着きて、散々に射る。城中よりも射手數多、木戶口へ駈出で、鏑を揃へて差詰
め引詰め射たりけり。互に爰を先途と戰へば、鎬を削り鍔を割り、偏身より汗を流
し、何れ隙ありとも見えざりけり。上坂治部大夫は、軍の下知して居たりしが、後
を見れば、狼煙天に覆うたり。こは如何にと戰ふ所に、淺井新三郞爰にあり、治部大
夫殿に、見參せんと名乘り懸け、面も振らず八百餘騎、切先を竝べて切つて懸れば、
上坂勢、此勢に追立てられ、我先にとぞ落行きける。上坂修理亮蹈止め、敵は小勢
ぞ、惡し穢し返せやとて、大音揚げて下知すれども、返す者︀なかりければ、治部大
夫を介抱し、尾上を指してぞ落行きける。淺井新三郞は、治部大夫を追拂ひ、敵百
三十騎討取り、手合よしと悅びて、直に今濱へ押寄せて、鬨を噇と揚げたりける。
去程に伊部淸兵衞も、搦手より攻入りければ、城中の者︀共、防ぎ戰ふと雖も、多勢
に無勢叶はずして、皆散々に敗北す。助政は思ふ儘に城を取り、勝鬨を噇と揚げ、悅
ぶ事は限りなし。{{仮題|投錨=淺井新三郞今濱の城を乘取る|見出=傍|節=am-4-2-1|副題=|錨}}斯くて淺見春向軒は、今濱の煙を見て大きに驚き、淺井は武略の
上手なれば、忍び入れて町屋に放火するか、又手過にてやあるらん、疾く見て參れ
とて、{{r|斤候|ものみ}}を遣しけるが、春向思案して、若し味方の者︀共に、新三郞に心を通じ、敵
を城內へ引入るゝか、いか樣大事のあるらんとて、我身も甲冑を帶し、士卒も皆用
意して、{{r|左右|さう}}を遲しと待つ所に。{{r|斤候|ものみ}}馳せ歸り。今濱落域仕り、大將を始め今濱勢、是
へ敗北の由、申しければ、さて{{く}}無念の次第かな。此新三郞の若者︀に、兩度迄追落
{{仮題|頁=183}}
され、治部大夫是へ退き來る事、前代未聞の次第なり。治部大夫・兵庫頭は、油斷せ
らるゝとも、修理亮・信濃守、斯樣に不覺すべしとは、夢にも思寄らず、我等休息せ
し事も懈怠かなと、後悔︀して居られける。{{r|良|やゝ}}ありて治部大夫、百騎計にて、尾上の
城へ落ち來れば、春向軒出向ひ、是へ{{く}}と請じけり。治部大夫も修理亮も、軍の
始終具に語られければ、春向は、誠に天運の程、兎角申すに及ばれずと、いやすげ
なうぞ答へられける。敗北の人々は、定めて淺井勝に乘り、明日は是へ押寄すべし、
持口を定められよとありければ、春向答へて、明日敵寄せ來らば、此狹き所へ引請け、
時分を見合せ駈出でば、味方の勝利疑なし。淺井は軍立の功者︀なれば、左樣の働は
侍るまじとぞ申しける。
{{仮題|投錨=第三 新三郞今濱の城を乘取る旨京極殿聞き給ふ事|見出=中|節=am-4-3|副題=|錨}}
上坂八郞右衞門・淺見新八郞は、密に尾上を忍び出で、上平へ參り、今濱落城の旨、委
細に大津彈正に語れば、是は{{く}}と驚きて、さても治部殿は、不覺にも侍るとも、春向
軒・掃部助の兩人、斯く老耄し給ふ事、誠に不思議さよと、いひければ、淺見新八郞、
ればとよ運の拙さは、兩人共に、居城に休息たる由申しければ、天命の上は、有無の
仔細に及ばずとて、京極殿の御前へ參り、此由具に申上ぐれば、其治部大夫・兵庫頭の
不覺者︀、泰貞齋死去して幾程も經ざるに、あの助政の若者︀に、度々追立てられ、剩へ
兩城迄乘取らるゝ事、言語に絕ゆる所なり。春向・掃部も、敵を前に置き乍ら、休息
の儀も油斷なりとて、殊の外なる御腹立にて、さらば家老共を早く召せと、宣へば、
賀州宗愚・黑田甚四郞・隱岐修理・多賀若宮參りければ、京極殿御前近く呼寄せ、此儀
如何にと、仰せければ、何れも評定とり{{ぐ}}なり。多賀新右衞門尉進み出でゝ、淺井
は度々の軍に打勝ち、兩城迄を乘取り、强勇の敵なり。味方は數度敗北して、機を失
ひてあるなれば、御領分の內にても、淺井に心を通はして、逆心の者︀も侍るべし。先
づ御判を遣され、勢の多少を御覽じて、いかにも弓矢をしめて遊ばされ、然るべき旨
申しければ、皆此議に同じける。若き人々は、左樣に延々なる御出陣に候はゞ、敵は
{{仮題|頁=184}}
日々に多くなり、味方は日々に臆すべし。御家人の內には、屋形を背き奉りて、助
政に組する者︀は、一人も侍るまじ。兎角早速に押寄せられ、平攻にするものならば、
卽時に敵は亡ぶべしと、爽に申しける。古老の仁申されけるは、それは卒爾候べし。
多賀殿の評議然るべしとて、觸狀をぞ廻しける。
{{仮題|投錨=第四 鄕北の諸︀勢廻文に依つて御請申さるゝ人數の事|見出=中|節=am-4-4|副題=|錨}}
鄕北の諸︀士、屋形よりの廻文を拜見し、御請申す人々には、高野瀨修理亮・山崎源八・
多賀右近・高宮次郞左衞門・土田兵助・多賀新右衞門・黑田甚四郞・土肥次郞左衞門尉・
樋口次郞右衞門尉・新庄彌八郞・富田新七・香取庄介・勝田孫八郞・下坂甚太郞・狩野彌
八郞・伊吹宮內少輔・伊井平八郞・中山五郞左衞門尉・小足宮內大輔・細井甚七・大炊新
左衞門・野村伯耆守・同じく肥後守・口分田彥七・阿閇參河守・同帶刀・同萬五郞・熊谷次
郞・同新次郞・安養寺河內守・渡邊監物・八木與藤次・今井十郞兵衞尉・同孫左衞門尉・同
四郞左衞門尉・同次郞左衞門尉・今村掃部助・井口宮內少輔・筧助七・尾山彥七・千田伯
耆守・磯野源三郞・同右衞門大夫・西野丹波守・赤尾與四郞・東野左馬助、御左右次第に
馳參るべき旨、各請判ありければ、京極殿御覽じて、此勢にて、淺井を討取らん事、
何の仔細かあるべきとて、喜び給ふ事限なし。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|淺井物語}}{{resize|150%|卷第四<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=浅井物語/巻第四}}
{{仮題|ここから=浅井物語/巻第五}}
{{仮題|頁=185}}
{{仮題|投錨=淺井物語|見出=大|節=am-5|副題=卷第五|錨}}
{{仮題|投錨=第一 淺井新三郞、上坂・今濱兩城を破却し小谷山に城を拵ふる事|見出=中|節=am-5-1|副題=|錨}}
去程に、新三郞、{{r|倩|つら{{く}}}}物を案ずるに、數度の軍に打勝ち、剩へ兩城迄乘取ると雖も、
北郡の諸︀侍一人も參らざるは、京極殿を、偏に恐るゝと覺えたり。爰にて大勢に、取
籠められては惡しかるべしと思案して、大野木・三田村・伊部・大橋を近付けて、此儀
如何にと評定す。善次郞遮つて申しけるは、いざとよ淺井殿、鄕北の諸︀侍、何萬騎
候とも、能き大將のなき上は、さのみ心惡うも候はず、右往左往に押寄するを、能き
時分を見計らひ、駈出づる程ならば、風に木の葉で侍らんぞ。大勢の奴原を、上平
の道すがら、追討にせん事、何の仔細も候まじ。御心安く思召せし、事もなげにぞ
語りける。人々は手を打つて、大橋殿の謀は、快くこそ侍れとて、大きに興を催し
ける。新三郞打聞いて、いやとよ大橋殿、左樣に敵を侮︀り候へば、油斷の心侍るぞ。
勝つて甲の緖をしむると、申傳へて候ぞ。誠に名言にて候。似ぬ事には侍れども、
龐涓は孫𬛜を侮︀つて、馬陵の樹下に死したり。賢將猶然り。治承の宗盛は、仲綱
を直下に見て、永く天下の亂をなせり。愚將又是なり。大聖の孔子すら、暴虎馮河
の詞あり。呂尙が書にも、內を調ふるを本にすと見えたり。春向といふ老軍の侍れ
ば、如何なる方便も候べし。よく{{く}}思慮候へと、小聲になりていひければ、大野木・
伊部・三田村〔{{仮題|分注=1|大橋|脫カ}}〕思案して、仰尤にて候かな。誠に上坂も今濱も、地形平夷にして、
澗谷の防なく、域郭麁濶にして、壁壘賴み難︀し。大勢に圍まれ候はゞ、如何に悔︀ゆ
とも叶ふまじと存ずるなり。先づ爰を引拂ひ、小谷山に城郭を構へ、楯籠るものな
らば、京極殿大勢にて寄せ給ふとも、嶮岨の防ぎ一つあり、水の手よし、是に山峯崎
ち續いて、{{仮題|編注=1|伏かまり}}を置くにも便よし。天の時は地の利に如かじと侍れば、いかな
る方便も候べしと、いひければ、新三郞、尤も由々しき企かな、我等も左樣に存じ候と
{{仮題|頁=186}}
て、早速に今濱・上坂の兩城を破却して、小谷へ勢を引取りける。頓て隣鄕の百姓共
を集め、城を拵へ、誠に晝夜の境もなく急ぎける。{{仮題|投錨=新三郞小谷山に城を築く|見出=傍|節=am-5-1-1|副題=|錨}}新三郞は、人々を近付けて、只今
普請の最中を幸と心得、春向軒、攻寄すべしと覺えたり。此方にも、其用心をいた
すべし。伊部殿・大橋殿は、小谷山の後の{{r|嵩|だけ}}に控へ給へ。敵押寄せ候はゞ、定めて普
請の人夫共を、追拂ふべきか。其時嵩より一文字に駈付け、無二の合戰し給へ。我
等は丁野山と、虎御前山の間に勢を伏せて、敵の働を見、橫合に突︀懸るものならば、
敵を追散らさん事は案の內と、申されければ、何れも此の儀然るべしとて、其用心
をしけれども、敵寄せざれば、さて止みぬ。靜に城をぞ拵へける。
{{仮題|投錨=第二 上坂治部大夫今濱に歸り城を取建つる事|見出=中|節=am-5-2|副題=|錨}}
去程に、上坂治部大夫は、淺井新三郞、小谷へ引取る由を聞き、急ぎ今濱へ立歸り、
民百姓を呼集め、埋れたる堀を浚ひ土手を築き、夜を日に續いで急ぎければ、春向
軒、治部大夫に申さるゝは、只今此城は何の爲めの普請ぞや。新三郞助政は、數度
の軍功ありと雖も、京極殿の威光に恐れ、鄕北の士大夫一人として、彼に隨順せざ
る故に、小谷山へ引籠り候なり。此儀を屋形へ言上して、片時も早く押寄せて、勝
負を決すべき事なるに、治部大夫殿・兵庫頭殿こそさあるとも、家老の面々は、何と
て斯樣に油斷ぞやと、言葉荒に申さるれば、治部大夫打聞きて、尤も至極に侍れども
先づ足懸を拵へて、軍の懸引をも仕るべしと存ずるなりと、仰せければ、春向答へて
それは敵、國へ攻入る時の御用意には然るべし。只今は事變つて候なり。斯くゆ
るゆると候はゞ、小谷の城も出來ぬべし。早速に退治は、思寄り侍らざるぞ。彼が
途中にある內に、少しも早く人數を出されて、御一戰候はゞ、疑なく本意を遂ぐべ
しと、再三申されけれども、治部大夫も老軍も、一圓同心せざりし故、齒嚙をしてぞ
歸りける。春向軒は、夫より直に上平へ行き、黑田甚四郞・隱岐修理亮に、此由語
りければ、何れも同意にて、先づ今濱を取立てゝ、其上にて御退治然るべしとの評
定なり。大津彈正・若宮兵介進み出で、春向申さるゝ如く、一時も早く御誅伐然るべ
し。助政思ふ儘に、城を拵へ候はゞ、北郡の諸︀士も、多くは彼に與すべし、御大事是
{{仮題|頁=187}}
なりと、言葉を殘さず申せども、面々合點なき故、春向餘りに氣をせきて、屋形の御
前へ參り、此旨斯くと言上しければ、其方の申すやう、尤も宜しく候なり。さり乍
ら今濱の城も近日出來する間、其時出勢あるべき由、仰せらるゝの上なれば、力及
ばず、春向軒は尾上に歸城せられけり。
{{仮題|投錨=第三 京極殿病死の事|見出=中|節=am-5-3|副題=|錨}}
斯りける所に、京極殿俄に業病うけさせ給ひ、日夜に重らせ給ひければ、近習・外樣
に至る迄、殘らず御館︀に詰めたりける。上坂治部大夫も馳來り、家老共と相談し
て、京都︀より名醫を呼下し、種々看病しけれども、定業なれば叶はずして、永正十四
年二月十六日に終に空しくなり給ふ。{{仮題|投錨=京極殿病死|見出=傍|節=am-5-3-1|副題=|錨}}御一族下々迄、こは如何にと歎き悲み、淚に
くれて居たりしが、さてあるべきにあらざれば、御葬禮いと細やかに取しつらひ、
法名官山寺殿と號しける。生死無常の習程、果敢なかりける事ぞなき。御家督をば、
嫡子三郞殿繼がせ給ふ。頓て御落髮ありて、理覺齋とぞ申しける。北郡の諸︀侍、續
目の御禮申上げ、圍繞渴仰したりける。斯く中陰旁にて、愁傷の折柄にて、軍の議
定もなかりければ、春向、上平へ參り、家老の面々を近付けて、斯樣に軍を延引する
ならば、御大事目の前なり。屋形は若き御大將なれば、各御差圖候へとて、能き侍
大將を一人仰付けられ、片時も早く淺井御退治候へ。緩々と御治世候はゞ、京極家
の御滅亡疑なしと、涙を流し申されければ、家老の面々も、尤といふ人もあり、いや
とよ、あの新三郞、何程の事を仕出すべき。官山寺殿の御薨逝、幾程も立たざるに、
軍の評議も然るべからずと、申す人もありければ、春向重ねて、左樣に侮︀り給へど
も、數度の軍に、味方何れも打負けて、あの小身なる助政に、兩城迄攻落され候ぞ
や。幕下に屬する御家人共、義を金石に守ればこそ、敵は小谷へ引籠りて候へ。新
三郞が城も、やう{{く}}出來候はんか。定めて此方の油斷を見て、夜討にも仕候べき
か。其時は何と悔︀ゆとも益あるまじ。片時も早く御征伐あれかしと、再往强ひて申
されける。然る所に、多賀新右衞門進み出でゝ申しけるは、春向の異見の段、一々道
理至極にて侍るなり。片時も早く御出陣然るべし。此體に候はゞ、當家の御大事、
{{仮題|頁=188}}
只今なりと、ありければ、家老の面々も、多賀が言葉に驚きて、兎やせん角やあらま
しと、談合評定區々なり。此旨理覺齋聞召し、春向軒・新右衞門が申す所神︀妙なり。
急ぎ鄕北の諸︀勢を召せと、仰せければ、北郡の御家人共、我先にとぞ馳せ來る。
{{仮題|投錨=第四 京極殿、小谷へ押寄せ給ふ事<sup>附</sup>諸︀勢心變の事|見出=中|節=am-5-4|副題=|錨}}
去程に、京極殿は、永正十四年五月十一日に、八千餘騎を引率して、小谷へ押寄せ
給ひける。{{仮題|投錨=京極勢小谷城を攻む|見出=傍|節=am-5-4-1|副題=|錨}}先づ一番には、磯野右衞門大夫・子息源三郞・千田伯耆守・子息帶刀・東野
右馬助・赤尾與四郞、以上其勢九百餘騎なり。侍大將には、磯野源三郞とぞ定めけ
る。此源三郞と申すは、又なき剛の者︀、大力の强弓にて、十七束をぞ引きたりける。
三年竹の節︀近なるに、大すやきを打すげて、四町面を射通しけるとぞ聞えし。二番
は、井口宮內少輔・今村掃部・西野丹波守・阿閇參河守・渡邊監物、都︀て其勢八百餘騎。
三番は、安養寺河內守・今井十郞兵衞・同孫左衞門尉・熊谷次郞・同新次郞・月瀨新六郞・
小足掃部・同宮內少輔・中{{仮題|編注=1|村}}〔{{仮題|分注=1|山|カ}}〕五郞左衞門尉、是も諸︀卒は八百餘騎。四番には、狩野
彌八郞・勘田孫八・伏木・富田・下坂・新庄。五番には、土肥次郞・伊吹宮內少輔・百堀
次郞・多賀新右衞門尉・多賀右近・山崎源八郞・土田兵助・馬場等を始めとして、何れ
も勢は八百餘騎。六番は旗本なり。京極殿の御一門、上坂の御一族、家老・近習を始
めとして、其勢二千五百餘騎。左の脇は上坂治部大夫一千餘騎。右の脇は、淺見春
向軒・子息對馬守、是も一千餘騎とぞ聞えける。淺井新三郞は之を聞き、伊部・大橋
を近付けて、京極は大勢を引具して、段々に備を立て、押寄せ給ふと承る。二三段の
備にてあるならば、何卒{{r|方便|てだて}}を運らして、追散らすべしと思へども、其猛勢に圍ま
れば、心は猛く勇むとも、討たれん事は必定なり。とても天命是迄ぞや。いざ華や
かに討死せん。先づ淸兵衞殿と善次郞殿は、五百餘騎を引率して、大嵩・虎御前山
の陰に旌旗を卷き、深く伏して居給ふべし。敵此城を取卷く時、伏せたる旗を差上
げて、鬨を噇と作りかけ、靜々と寄せ給へ。敵軍之を見て、思ひ寄らざる事なれば、
備々も騷ぐべし。定めて各を討たんとて、駈向ひ侍らん。其時分を見計らひ、大手
{{仮題|頁=189}}
の門を押開き、少しも猶豫の心なく、切つて懸り候はゞ、一先づ追崩さで候べきか。
其上に討死致さんは、弓矢の面目にて候はずや。如何に{{く}}とありければ、淸兵衞
善次郞も、宜しき方便に侍るとて、皆此議にぞ同じける。斯りける所に、海︀北善右衞
門・赤尾孫三郞は寄合ひて、四方山の話をし、酒飮みて居たりしが、海︀北差寄りて、事
の心を案ずるに、弓馬の家に生れては、名を後代に殘さんこそ、本意にて侍れ。縱令
萬年の齡を保ちても、名を埋みては何かせん。さても淺井助政は、文武二道の名將
なり。彼が幕下に屬して、晴︀々しき軍して、討死をしてこそ、弓矢の面目たるべけれ
と、小聲になりていひければ、いしく申させ給ふものかな。誰もさこそとありけれ
ば、海︀北手を取りて、いざさせ給へといひしかば、願ふ所の幸とて、赤尾・海︀北諸︀共
に、村山甚次郞・赤尾小四郞を打連れて、小谷の城へ馳入りける。新三郞對面して、
こは如何に海︀北殿。こは如何に赤尾殿。屋形近日、大勢にて押寄せ給ふと承る。各
御手にて、討死せんと思ひしに、是迄御出ありし事、今世後世の芳志とて、斜ならず
喜びける。倩夫れ惟れば、邦有{{レ}}道則、賢人進佞人退。邦無{{レ}}道則反{{レ}}之矣。存亡の前
表爾なり。阿門參河守は、子息萬五郞を近付けて、京極殿數千騎にて、近日小谷へ
押寄せ給ふと雖も、軍備不合にして定まらず。春向、文武の達人にて、每度諫言を加
ふと雖も、家老の面々我威に募り用ひず。力及ばぬ次第なり。口惜しさよとぞ語り
ける。萬五郞承り、さる事に侍るぞや。此體に候はゞ、捗々しき方便も候まじ。さ
ても淺井助政は、若輩に候へども、良將にてあるなれば、彼が手に與しなば、終には
運を開くべし。さ候はぬものならば、華々しき軍して、討死してこそは、弓矢の思
出、何か苦う候べき。片時も早くといひければ、我もさこそといふ儘に、家子郞等
八十七騎引具して、小谷勢へぞ加はりける。淺井此由見るよりも、阿閇殿の御出は、
千騎萬騎に超過せり、軍神︀の冥助これぞとて、城中の上下おしなべて、喜ぶ事は限
りなし。
{{仮題|投錨=第五 淺見春向軒軍異見の事|見出=中|節=am-5-5|副題=|錨}}
さる程に淺見春向は、子息對馬守を先として、五百餘騎を引率して、上平へ馳せ參
{{仮題|頁=190}}
り、家老衆に對面し、軍の{{r|行|てだて}}を問ひければ、先づ勢をば五段に備へ、其次は旗本なり。
淺見殿と治部殿は、兩脇備と語りける。春向軒思案して、尤の軍立に侍れども、新
三郞助政は、常ざまの敵には事變り、種々の方便も候はんぞ。今度猛勢にて攻寄せ
候へば、十死一生とこそ存ずべけれ。愚老愚案を運らし候に、味方詰寄せ候はゞ、門
を開いて駈出づるか、又小谷への道すがら、山陰に{{r|伏|ふし}}を置くか、御旗本を心懸け候
べし。先づ我等存ずるは、一二の備は能き將一人宛に、葉武者︀共を遣され、三番備に
は、鄕北にても譽ある者︀を置き、磯野源三郞・千田伯耆守は、古今稀なる勇將に侍れ
ば、三番備の兩脇を押すべし。其父子は浮武者︀にて、味方の虛實を見計つて、弱き
所へ馳付けば、不意の行には乘るべからず。各如何にとあれば、尤といふ人もあ
り、前のを能しといふもあり、評定決斷せざりしを、多賀新右衞門・大津彈正進み出
で、愚案を運らし候に、春向の御謀、然るべし。淺井が敵の虛實を見る事、掌を指す
が如く侍れば、不思議の方便も候べしといひければ、何れも此議に同じける。新三
郞助政は、伊部・大橋の人々に、八百餘騎を差添へて、虎御前山にぞ伏置きける。阿
閇父子・海︀北善右衞門・赤尾孫三郞は、二百餘騎を引具して、城の東の山陰に、深く隱
れて居たりける。城內には新三郞、五百餘騎にて待懸け、押寄するものならば、門
を開き駈出でゝ、討死せんと定めたり。又春向思ひける樣は、淺井は、定めて途中
に伏を置き、不意の勝利を期すべしと、{{r|斥候|ものみ}}を繁︀く遣しければ、伊部・大橋を見付け、
樣子委しく聞屆け、さればこそとて用心す。淸兵衞・善次郞も、斥候の者︀に行逢へば、
詮なき事に思ひ、小谷の城へ歸り、此由新三郞に語れば、さは春向が、軍に念を入る
るなり。さあらんに於ては、敵を近く引請けて、阿閇・赤尾が左右を聞きて、駈出づ
べしとぞ議したりける。斯くて五月十一日、未だ寅の一點に、京極三郞殿、數千騎を
引率して、小谷近くぞ寄せられける。新三郞聞くよりも、急ぎ櫓へ登り、敵陣を見
たりける。誠に段々の備にて、先陣、旣に攻寄すれば、後陣、後に控へたり。淺見父
子の人々は、手勢と思しくて、四五百騎少し引延びて備へけり。如何樣是は某が、駈
出づるものならば、橫鑓に突︀懸り、後を取切り、討つべしとの手立なりと思案して、
櫓より飛んで下り、人々を近付けて、春向が備の體を見てあれば、卒爾に出でゝは
{{仮題|頁=191}}
惡しかるべし。城を堅固に守れとて、持口をこそ定めけれ。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|淺井物語}}{{resize|150%|卷第五<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=浅井物語/巻第五}}
{{仮題|ここから=浅井物語/巻第六}}
{{仮題|頁=191}}
{{仮題|投錨=淺井物語|見出=大|節=am-6|副題=卷第六|錨}}
{{仮題|投錨=第一 海︀北善右衞門・赤尾孫三郞・阿閇參河守、敵陣へ駈入る事|見出=中|節=am-6-1|副題=|錨}}
斯りける所に、阿閇參河守・海︀北善右衞門・赤尾孫三郞は、助政今や駈出づると相待
てども、其儀なければ、敵はや城を取卷きしかば、いざや面々駈出でんとて大音揚
げ、赤尾・海︀北・阿閇父子是玆にあり、傍輩たりし因に、寄合ひや見參せん。弓矢取る
身の習ぞや、討死せんといふ儘に、二百餘騎を魚鱗に立て、大勢の中へ駈入れば、上
平勢は之を見て、一支も支へず我先にとぞ逃行きける。野村伯耆守・口分田彥七蹈
止め、敵は小勢ぞ、{{r|惡|にく}}し穢し返せとて、切先揃へて切懸れば、互にひしと喰合せ、追っ
つ返しつ、火出づる程にぞ揉うだりける。赤尾孫三郞は長刀にて、馬武者︀三騎切落
{{仮題|頁=192}}
せば、海︀北善右衞門も、能き敵二騎ぞ討取りける。此勢に恐れて、少し色めく所を、
其所をさつと駈拔けて、井口・今井が控へたる山田へ、すぐに發向す。敵味方入亂れ、
暫し蹈止め戰ひけり。赤尾・海︀北が手にかけて、敵十二人討取りて、難︀なく敵を追散
らし、小谷の城へ歸り入る。新三郞出向ひ、只今の振舞は、馮異・卞莊子{{仮題|入力者注=[#「馮異・卞莊子」は底本では「馮異卞・莊子」]}}も斯くやと
て、驚目して讚めければ、皆人々も感じける。敵は彌〻押寄せて、幾重ともなく取圍
み、我れ先にと攻入らんとす。城中には之を見て、持口を堅め、爰を先途と防ぎけ
り。赤尾孫三郞・海︀北善右衞門・大橋善次郞三人は、浮武者︀にて、縱橫に馳り巡り、軍
の下知をぞしたりける。淺井新三郞は伊部淸兵衞も、同士卒を勵ませば、容易く攻
入るべきやうもなく、寄手對陣取りて、日數を送りける程に、城中にも寄手にも、軍
にぞ仕疲れける。
{{仮題|投錨=第二 淺井夜軍の事|見出=中|節=am-6-2|副題=|錨}}
去程に助政は、人々を招き寄せ、密に談合したりしは、此中の對陣に、敵方は草臥
れて、油斷の樣に見えさうぞ。此方にも弓など、餘りに繁く射さすまじく候ぞ。疲
れたる體にもてなさば、いよ{{く}}敵軍撓むべし。さあらんに於ては、樣子を能々見
屆け、夜討にせんとぞ議したりける。各きつと目合せて、誰も斯くこそ存ずるなれ。
大敵を討たんには、夜軍に如く事なしと、昔より申傳へ侍るとて、皆尤と同じ。さ
らば味方に觸れんとて、合言葉をぞ定めける。北風吹くといふ時は、一度に切つて
懸るべし。南風烈しといふ時は、城中へ引取れよ。谷かと問はゞ、味方は、山と答ふ
べし。敵・味方の印には、天目ざいを、綿嚙に付けて置け。步武者︀の印をば、羽︀織の
後に縫付くべし。脇差の印には、白紙にて三引龍の鞘卷せよと、言含めて、夜討の用
意ぞしたりける。城中には、態と弱りてもてなしける。上平勢之を見て、敵は早や
草臥れて見え候ぞ。磯野源三郞を大將にて、諸︀人數の中よりも、精︀兵を勝つて、北
なる嵩へ攀登り、敵を{{r|最下|ました}}に見下して、散々にぞ射たりける。源三郞が射ける矢は、
壁櫓をも射通せば、城中には倦み果て、板楯・持楯・突︀竝べて、其陰にこそ居たりけれ。
寄手いよ{{く}}力を得て、揉みに揉うでぞ攻めたりける。城中にも、防矢射て抱へけ
{{仮題|頁=193}}
る。淺井は態と日を暮らし、斥候を出し見せければ、馳せ歸りて申すやう、敵方の
人々は、今日磯野が大弓にて、城中難︀儀しけるにや、殊の外に弱りしとて、夜廻の番
も侍らず。御旗本は酒宴にて、諸︀勢喜び勇み、油斷の旨をぞ語りける。新三郞は之
を聞き、能き時分と喜びて、明夜は必ず切つて出で、無二の勝負を決すべしと、伊部・
大橋・赤尾・阿閇を呼寄せて、此由斯くといひければ、人々は聞くよりも、天の與ふる
時節︀なり。尤と諾しける。新三郞は手分せんとて、大橋善次郞・赤尾孫三郞に、二百
餘騎を差添へて、宵より山田の東の谷を下り、八島村へ忍び入り、夜半計りになるな
らば、家々に放火して、時を噇と揚げ給へ。斯りけるものならば、尊照寺に在しま
す京極殿の旗本は、上を下へと騷ぐべし。備々の勢共も、周章て候はゞ、太刀・刀を
も取敢ず、{{r|繫馬|つなぎうま}}に乘り鞭打つべし。其時我等、切つて出づるものならば、一足も敵は
耐ふるまじ。蹈止めて取圍まば、打物の續く程は戰ふべし。討死して候はゞ、伊部・
大橋・大野木・三田村・阿閇父子の人々は、屋形の旗本へ馳入りて、討死し給へといひ
ければ、何れも淚を流し、さて{{く}}由々しき方便かな。大將たらん謀慮には、斯樣に
一圖に極めてこそ、一戰に勝利を得てんとて、感心してぞ居たりける。赤尾孫三郞・
大橋善次郞は、はや{{く}}暇申すとて、二百餘騎を引具して、靜に城をぞ出でにける。
阿閇參河守父子・淺井新次郞・同新助は三百餘騎にて、助政大手を駈出づるものなら
ば、搦手より發向せん。三田村・大野木は、助政敵と戰はゞ、橫鑓に懸くべし。伊部淸
兵衞尉は、三百餘騎を引しめて、城を堅固に守るべし。新三郞駈出でば、定めて春
向後を取切りて、城中へ攻入らんか。其時は淸兵衞、無二の軍、期すべしと、手合を
こそしたりけれ。斯くて永正十四年六月十三日、夜半計の事なるに、海︀北善右衞
門・赤尾孫三郞、八島村へ忍び入り、家々に放火して、鬨を噇とぞ作りける。寄手之
を見て、夜討が入りてあるやらん、又は謀叛人かと騷動す。海︀北善右衞門・赤尾孫
三郞は、二百餘騎を圖形に備へ、面も振らず切つて懸る。上平勢、闇さは暗し、思寄
らざる事なれば、弓よ太刀よといふ所を、矢庭に十七八騎斬伏せられ、殘る者︀共、何
地を指すとも知らずして、我先にとぞ落行きける。海︀北・赤尾が者︀共は、合言葉・合
印を、兼て極めし事なれば、二十騎三十騎、{{r|爰彼|こゝかしこ}}へ馳散りて、思ふ儘に攻付け、數多
{{仮題|頁=194}}
の敵をぞ討取りける。新三郞助政は、八島村の放火を見て、八百餘騎を左右に立
て、揉みに揉うで駈出づれば、淺井新次郞・同新助・阿閇父子の人々も、搦手より馳
着きて、同じく鬨をぞ揚げたる。寄手は之を見て、弓取る者︀は矢を知らず、太刀一
腰を、二人して爭ふもあり。繫馬に打乘りて、馳せ出でんとするもあり。上を下
へと騷動して、矢一つをだに射ずして、我先にとぞ落行きける。新三郞{{r|追懸|おつか}}けて
諸︀卒に下知していひけるは、只突︀捨てよ、首ばし取るな若者︀とて、追討にこそした
りけれ。春向は之を見て大音揚げて、味方の奴原に、恥ある者︀がなければこそ、斯樣
に汚き負をすれ。安養寺・熊谷殿はおはせぬか、返せ{{く}}と、呼ばはれども、返す者︀こ
そなかりけれ。春向父子は、五百餘騎を鶴︀翼に連ね、淺井が勢に切つて懸れば、新
三郞も、魚鱗になりてぞ戰ひける。孫子が傳へし所、吳子が祕する所を、互に知り
たる事なれば、春向、陽に開いて圍まんとすれども、圍まれず。助政、陰に閉ぢて破
らんとすれども、破られず。子の半より寅の一點まで、討ちつ討たれつ、{{r|追|お}}っつ追は
れつ、火出づる程戰ひければ、誠に千騎が百騎、百騎が十騎になる迄も、果すべき戰
とは見えざりしに、城中に殘りたる伊部淸兵衞之を見て、三百餘騎を、半分は殘し
置き、百五十騎を左右に立て、橫合に突︀立てければ、春向は疲れ武者︀、伊部が荒手に
追崩され、叶はじとや思ひけん、勢を圓めて、尾上へこそは引取りけれ。斯くて淸
兵衞も助政も、城中へこそ引取りけれ。京極殿は、家老共を引具して、靜々と退き
給ふ所を、赤尾・海︀北は大將と目懸けて、透間もなく追付きたり。上坂掃部・同八郞右
衞門之を見て、平治の景安は、義平に討たれ、元曆の繼信は、敎經が鏑に死す。君恥
かしめらるゝ{{r|則|ときん}}ば、臣死すといへり。景春・景久玆にありといふ儘に、取つて返し、
火出づる程にぞ戰ひける。上坂掃部は、赤尾孫三郞に渡り合ひ、眞甲かけて打つ
太刀を、孫三郞、得たりやと請流しければ、餘る太刀にて、小手の{{r|外|はづれ}}を、したゝかに
こそ切らせけれ。されども赤尾事ともせず、引取る太刀に附入りて、內冑を丁と突︀
く。突︀かれてゆらゆる所を、馳せ寄せむづと組み、上を下へぞ返しける。されども
赤尾は大力、終に掃部を討ちてける。八郞右衞門も、善右衞門に馳せ合ひ、互に鎬を
削り、暫しは勝負も附かざりけり。海︀北飛懸り、景久と引組んで、取つて押へける
{{仮題|頁=195}}
所を、下より脇差を拔き、二刀迄突︀きけれども、鎧の上なれば、海︀北終に首をぞ取
りたりける。京極殿は其{{r|間|ひま}}に、虎口を遁れて落延びける。伊部・八郞右衞門、二人の
侍なかりせば、助り難︀き命なり。海︀北・赤尾の人々は、京極殿を討洩らし、助政に馳
付きて、此由斯くと語れば、斜ならず喜びて、此度勝利を得し事も、御邊達の働なり
とぞ感じける。上平勢を、三百八十討取れば、味方も、卅七騎ぞ討たれける。
{{仮題|投錨=第三 淺見春向軒上平へ行き、重ねて軍評定の事|見出=中|節=am-6-3|副題=|錨}}
斯くて淺見春向軒は、上平へ參り、家老に向ひていひけるは、今度は譽ある御家人
共、矢一つをだに射出さずして、追立てられ候事、誠に無念の次第なり。愚老も助政
と、刺違へんと思ひしを、伊部淸兵衞に追立てられ、是迄遁れ參る事、老後の面目失ふ
事、人の上にて候はゞ、いと言甲斐なく侍らんか。身の上に候へば、能く命は惜し
く候とて、涙ぐみてぞ申されける。扨も上坂掃部・同八郞右衞門は、泰貞齋に、幼少
より附添ひ候故、軍の事も、功者︀にて候ひしに、今度屋形の御大事に代り候は、弓矢
取つての面目かな。誠に殊勝に候とて、また落淚ぞしたりける。人々も之を聞き、
皆尤とぞ感じける。斯くて軍の評諚は、如何に{{く}}と問ひければ、隱岐修理亮進み
出で、未だ其沙汰も侍らず。屋形は若き御大將に候へば、各評諚遂げられ、然るべく
御計らひ候へとこそ申しけれ。多賀新右衞門・大津彈正差寄りていひけるは、今度
は諸︀勢を二手に分け、早速に押寄せて、一刻攻にするならば、助政を討たん事、案の
內に侍らんと、以前の負に腹立ちて、齒嚙をしてぞ居たりける。黑田甚四郞・若宮兵
助・錦折右近は、一刻攻はせらるまじ。度々の軍に打勝ちたる敵なれば、下々まで機
を呑んで、陽盛に侍らんぞ。卒爾に押寄せ候て、又追立てらるゝものならば、長き弓
矢の恥なるべし。其上屋形の御大事も、目の前にて侍らんぞ。重ねての軍をば、い
かにも重く計らるべしとぞ議せられける。多賀・大津聞きて、尤のさげすみに候へ
ども、淺井勝に乘りて、是へ押寄するものならば、如何に後悔︀いたすとも、叶ふまじ
といひければ、黑田・若宮之を聞き、夫は願ふ所の幸かな。上平の道すがら、{{r|詰々|つまり{{く}}}}に
伏を置き、前後を遮り候はゞ、味方の勝利に侍らんと、評諚一圖に極まらず、取々に
{{仮題|頁=196}}
こそ聞えけれ。春向は之を聞き、いや{{く}}助政は、左樣の方便に乘るべからず。鄕
北の諸︀勢半分も三分一も、彼が幕下に屬せずば、押寄する事は候まじ。重ねても小
谷へ、人數引請け申すべきぞ。今度發向候はゞ、何卒方便を變へるか。さらぬもの
ならば、不意に押寄せて、一刻攻に仕るか。先づ軍を取延べて、彼が手立を見計らひ
て、御出陣候か。此外は候まじと申さるれば、修理亮之を聞きて、鄕北勢の外に、又
加勢あるべく候や。如何なる方便と問ひければ、春向、さればとよ、別の事には侍
らず。六角殿は、古、御兄弟の御末なり。御大事に候へば、御賴みなされても、何か
苦しう候べき、隱岐殿とこそ語られけれ。面々は之を聞き、尤といふもあり、今迄
國を爭ひて、敵味方にてあるものが、今更賴むもいかゞしと、申す人もありければ、
春向達つて申されけるは、各の評諚も、至極して候へども、當家の御難︀儀、此時に侍
るぞ。侍が侍を賴む事、{{r|往昔|そのかみ}}も今も例多し。先づ御賴み候て、叶はざるものならば、
又謀も有之べしと、再往强ひていひければ、皆此議にぞ同じける。
{{仮題|投錨=第四 京極理覺齋、佐々木彈正少弼殿へ加勢を乞はるゝ事|見出=中|節=am-6-4|副題=|錨}}
斯くて評定極まり、京極殿へ、此由委細に申しければ、尤と仰せられ、卽ち多賀新右
衞門・河瀨壹岐守を使者︀として、{{仮題|投錨=京極、六角に援を求む|見出=傍|節=am-6-4-1|副題=|錨}}六角殿の御內なる平井加賀守・三蛛新右衞門を御賴
ありて、御遣されけるやうは、家來淺井新三郞と申す者︀逆心を企て、小谷山に楯籠
るに付きて、誅戮の爲め發向の所に、不慮に敗北の段、嘲弄の人口を塞ぎ難︀し。是
れ更に當家の恥辱なり。且つは又近日征伐せしむべしと雖も、北郡の士卒、以前に
屈懼して、早速攻伏せ難︀し。此上は六角殿の御太刀影にて、凶徒を打破り、愚意を達
せんと欲す。御出勢に於ては、且つは先考の{{r|好|よしみ}}、且つは當家の面目、何事か是に如か
んや。右の旨宜しく演說を仰ぐべしとぞ書かれける。平井・三蛛、卽ち披露したり
ければ、彈正殿聞召し、家老共を近付けて、此儀如何にとありければ、京極殿と此方、
敵味方に候て、常に不和に侍りしを、先年上坂泰貞齋、無事を調へ候より、軍はなく
{{仮題|頁=197}}
候へども、京極家の破滅こそ、願ふ所の幸かな。北郡をも御手に入れ申さん事、珍
重なりといふもあり。いや{{く}}昔より、御連枝の御末にて、今斯く宣はせ給ふを、
御見繼ぎなされずして、淺井に追落され給はんは、當家の御恥辱にて侍らんと、申す
人も多かりけり。衆議區々なる所に、後藤但馬守進み出でゝ申すやうは、先づ京極・
六角とて、{{r|最牛角|まつごかく}}なる御家の、斯樣に賴み給ふ事、當家の面目、何か是に優さるべき。
其上御一門の目の前にて、淺井に討たさせ給はん事、天下の嘲、御名の恥、何か苦し
う候べき。急ぎ加勢を遣され、助政誅戮なされん事、世間の聞えも然るべしと、言葉
を殘さず申しければ、六角殿も人々も、道理至極と同心して、頓て出勢あるべき旨、
御返事ありければ、多賀・河瀨立歸り、京極殿へ、此由具に申上げければ、上下おしな
べ喜びける。北郡へも、此旨斯くと觸れ知らせ、一左右次第に、馳參るべき由を、仰
出されければ、鄕北の諸︀侍、何れも是に{{r|勢|きほ}}ひ、御一左右遲しと待ち居たり。
{{仮題|投錨=第五 佐々木彈正殿御扱にて和談の事|見出=中|節=am-6-5|副題=|錨}}
去程に彈正殿、御家中に、此事猶も隱れなければ、我も{{く}}と出立ちける。さも華
やかなる有樣なり。然る所に、彈正殿思召しけるやうは、淺井は名に負ふ者︀なれば、
竝の事にては、相叶ひ難︀し。其上新三郞は、{{r|遉|さすが}}公家の人なれば、此度は、某如何樣と
も相計らひ、{{仮題|投錨=上坂淺井和睦|見出=傍|節=am-6-5-1|副題=|錨}}兎角和談いたさせ申すべしとて、夫よりも彈正殿は、頓て和談の書狀
書認め、京極殿へ御遣しあり。又淺井の方へも、其通り爾々とありければ、別儀な
くして、終に和睦に相極まり、其後は相變る事なくして、末久しくぞ愛で給ふ。斯
る目出たき御事とて、各珍重に思召し、末繁昌とぞ榮えける。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|淺井物語}}{{resize|150%|卷第六<sup>大尾</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=浅井物語/巻第六}}
{{仮題|ここから=浅井日記/本}}
{{仮題|頁=198}}
{{仮題|投錨=淺井日記|見出=大|節=an-1|副題=本|錨}}
{{仮題|入力者注=[#図は省略]}}
{{仮題|頁=199}}
嘉吉二年三月、三條大納言公綱卿、敕勘を蒙り江州に謫せらる。國主佐々木管領政
賴朝臣、淺井郡丁野村に宅を構へて之を預置く。總べて十三年なり。亨德三年敕免︀。
此卿、文安三年配所に於て一男子を生む。龜若と號す。寬正二年に龜若丸十六歲、國
主政賴朝臣、淺井郡に狩するの次、始めて之を見、公卿の子たるを以て、引いて近習に
召され、{{仮題|投錨=淺井の先祖︀|見出=傍|節=an-1-1|副題=|錨}}稱號幷諱字を給はつて、淺井新三郞政重と號す。是れ淺井の元祖︀なり。應仁・
文明年中に、度々の軍功あるに依つて、國主政賴朝臣、淺井郡に於て、百貫の地を給
はる。改めて淺井新左衞門と號す。器︀量勇健にして、身長六尺八寸ありといふ。明
應元年二月二日、年四十七にて出家す。道端と號す。同五年正月廿日卒す。往齡五
{{仮題|頁=200}}
十一。傳に曰、母昔日竹生島明神︀に祈︀りて之を得、凡そ在胎十二月を經て產す。長
男新三郞賢政、文明八年生る。長享元年九月、京極三郞高淸、佐々木管領高賴朝臣に
叛きて野心を懷く、于{{レ}}時賢政も誘引せられて是に與す。管領高賴士を遣して之を
罰す。一戰の後、江州北郡の所領悉く沒收せられて蟄居す。二男新七郞定政は、同
所領沒收せられて後、三田村權守之を取り家に附く。三男新八守政は、大野木の家
を繼ぎ、大野木但馬守と號す。淺井賢政長男亮政は、明應六年に生る。永正十一年
父所領零落の後、京極中務大輔高淸の長臣上坂治部大輔に仕ふ。于{{レ}}時淺井新三郞
亮政と號す。
同十三年の夏、京極中務大輔高淸、武の器︀に當らざる故に、長臣上坂が爲に、代々の
家名治部大輔を奪はる。上坂之を奪ひ、國主佐々木管領六角氏綱朝臣に向つて逆
心す。是に依つて管領、上平へ討手を差向けらる。大將には後藤左衞門尉・進藤對
馬守・山崎源太・朽木・森川・靑地八千七百騎にて攻寄す。京極方は、上坂治部大輔を
大將として、江北の士西野丹波守・東野美作守、彼是城主上平の城に楯籠り、淺見對
馬守が云、大軍を引受け、小城を以て防戰ふ事、誠に武略なきに似たりとて、佐和
山表へ討つて出で、六月廿八日の卯刻に合戰を始め、同巳刻に終る。此時京極勢敗
北して、旣に大將上坂討死せんとす。于{{レ}}時管領の兵に、高宮兵助といふ大力と、淺井
新三郞戰ふに、難︀なく兵助に組伏せらる。新三郞下より短刀を以て、上なる高宮を
二刀刺して首を取る。是れ新三郞初陣の高名なり。同月晦日合戰。于{{レ}}時管領の御
勢の中、原安房守手勢八百餘騎山際に伏置き、京極方の先手の進むに、橫鑓に突︀懸る。
上坂治部大輔亦將に討死せんとする所に、淺井新三郞磯山の手崎にて長刀を以て、
唯一人蹈止つて支へ戰ふ。于{{レ}}時新三郞が前腹の兄淺井新二郞、竝に大橋善次郞來
つて戰ふ。上坂治部大輔是に力を得、取つて返し大きに相戰ふ。然れども大軍手痛
く攻來る故、上坂へ引退き、歸城の後、新三郞に感書を出す。其文に曰、
{{left/s|1em}}
其方の事、今度合戰味方敗北之處、一人蹈止、管領之旗本高宮兵助討{{二}}取之{{一}}。同晦日
大合戰、亦味方令{{二}}敗北{{一}}之處、新三郞甲斐々々敷蹈止。依{{レ}}之敵數輩切崩、味方無{{レ}}難︀
引取訖。誠希代之高名不{{レ}}可{{二}}勝計{{一}}。依{{レ}}之爲{{二}}賞恩{{一}}三百貫令{{二}}思補{{一}}、候。加之向後可
{{仮題|頁=201}}
{{レ}}號{{二}}備前守{{一}}者︀也。猶上坂主計助可{{レ}}申狀如件。
永正十三年七月九日{{sgap|14em}}上坂治部大輔景宗
淺井備前守殿
{{left/e}}
其後、管領の長臣後藤左衞門尉・同心小倉將監道氏は、上坂治部大輔伯父なる故に、
上坂、此小倉を以て{{r|色|いろ}}び降參す。管領聊か御承引なく、剩へ先づ彼の愚昧の京極父
子を誅伐し、次に近年奢を好む上坂一類︀を悉く誅せらるべきの由なり。此時管領の
長臣平井加賀守諫言を申して云、且つ御國の騷動、且つは降人を誅せらるべき法な
しと、申すに依つて、御赦免︀ありて江北靜謐なり。されども武威を押さんが爲め、京
極高淸の所領を削り入道させ、環山寺と號す。上坂治部は閉居すべき由なり。于
{{レ}}時上坂、京極高淸の子を養つて、是に治部大輔を授け、其身は入道して泰貞齋と號
す。上坂信濃守・同修理亮も共に入道して、信濃守は淸眼と號し、修理をば了淸とい
ふ。上坂の城には京極の子治部大輔を居ゑ置き、上坂泰貞齋は其より一里坤に當
つて今濱といふ所に居住。此外京極家の家臣、上坂泰貞齋が婿淺見對馬守も、入道し
て春向軒と號す。尾上村に居住す。淺井新三郞亮政戰功有難︀しと、主君上坂大屋
形の御氣色に違ひ、入道しける上、徒に勞して其功やなし。
永正十四年正月淺井備前守亮政、主君上坂入道泰貞齋に密に諫言しけるは、美濃國
主土岐殿に外戚の子あり。之を養ひて御娘と一所にし、今濱の家督を讓り給ふに
於ては、土岐殿の太刀影を以て、年來の面目を雪がるべしといふに附きて、上坂入
道是に力を得、卽ち土岐家の長臣齋藤掃部助が方へ、淺井亮政を以ていひ入れける
に、齋藤早速領掌の返事しける間、近日密に彼の子を、江北今濱へ呼び迎へ、頓て元
服して上坂兵庫助と號す。同年三月九日、上坂入道泰貞齋病死、往齡五十三。嫡子
兵庫助跡を繼ぐ。淺見春向軒後見す。于{{レ}}時淺井備前亮政、上坂家臣として、家內是
れが下知に順ふ。上坂兵庫助實高が後見淺見春向軒、家中仕置の事に付いて、淺井
備前の守と不和なり。亦上坂も淺井を惡む。依之上坂家中上下不和なり。此時京
極家は、所領も減じ、高淸隱居にて、子息壹岐守高峯は、生得愚にして京極手下の仕
置もならざるなり。{{nop}}
{{仮題|頁=202}}
同十五年正月、淺井備前守亮政が姊{{仮題|分注=1|號{{二}}北|向殿{{一}}}}一子を生む。大屋形氏綱の妾なり。外戚
の腹たるに依つて、亮政之を給つて子とす。後淺井下野守久政といふは是なり。
同七月九日、佐々木管領源氏綱朝臣逝去。御曹子幼少に依り、大屋形高賴朝臣江州
の國政を行はる。八月廿四日亮政、密に兄の淺井新二郞兼政に、上坂父子を夜討す
べき由談ず。新二郞臆して是に應ぜず。次に叔父の三田村新七郞定政に之を談ず、
是も同ぜず。次に大野木新八郞守政を語るに、猶是に應ぜず。此時淺井一家悉く
同心與力せば、人數六七十騎あるべきか。亮政一度思立つ所默止難︀く思ひ、朋友大
橋善次郞を語らふに、大橋一言に及ばず、是に應ず。此外江北の士彼此催し、人數漸
く百二三十騎に及ぶ。亮政思ふに、此の小勢を以て、上坂父子其外一家の大勢に對
せん事覺束なしとて、伊部淸兵衞を賴む。異議なく同心す。是等を集めて三百餘
騎に及ぶ。同月廿三日助政下知として、大橋善次郞・伊部淸兵衞に百二三十人差添
へ、上坂村に忍入り、伏兵として相圖を待ち、殘る百五十餘人を三手に分け、上坂近
所の在々に押寄せ、家々に火を懸け、園の聲を揚ぐ。上坂兵庫助在々の火の手を見
て、其勢千七百人を率して、城外に討つて出で、鬨の聲に從つて馳向ふ所に、淺井備前
守亮政、精︀兵八十餘人を勝りて、敵に紛れて、上坂の城へ打入り、老武者︀・女童以下一
一に之を誅し、勝鬨を揚ぐる。于時在々に伏せ置く人數、彼此より走寄り、鬨の聲を
合す、上坂陣を引いて城に入らんとするに、敵早や入替りぬ。途方を失ひ、直に今濱
の城へ落往き、舍兄上坂治部大輔と一所に居す。同廿四日淺井一家の者︀共之を聞
きて曰、今度備前守亮政が智略、誠に前代未聞一門の眉目なり。此度之を助けずば、
何の時を期すべきとて、兄の新二郞を始め、新七郞・新八急ぎ馳付き、共に彼の城に楯
籠る。此外傍輩の中、伊部介七・丁野村彌介・田部助八・尾山彥右衞門、其勢三百餘騎に
て馳付け、淺井に力を勠す。之を聞きて、三田村新七郞・大野木新八郞も一時に馳付、
依{{レ}}之亮政が勢二千餘騎に及ぶ。同廿五日上坂兵庫助一門他家の面々を召集め、上
坂の城を攻落すべき評定なり。今濱城中の人々は、上坂治部大輔・淺見春向軒子息
對馬守等なり。{{仮題|投錨=淺井京極合戰|見出=傍|節=an-1-2|副題=|錨}}同日午刻上平に住居せらるゝ京極入道高淸、今濱城に移つて江北の
諸︀士を集む。侍大將には上坂信濃守・同掃部助・淺見父子三人なり。同廿六日早天に、
{{仮題|頁=203}}
京極・上坂の人數六千餘騎、今濱の城を打立つて、上坂の城へ押寄す。淺井亮政城を
出で、一文字に討つて懸る。京極上坂の勢を三方へ追散し、勝鬨を作る。此に京極人
數の中に、上坂掃部助・口分田彥七敗軍の味方を集めて、引返し大に戰ふ。淺見新七
郞・堀彌七郞とは、名を惜んで引返し討死す。淺井亮政が內、丁野彌兵衞は、淺見新
七を討取るなり。堀彌七郞は乾次郞吉を鑓下にて首を取る。今日の合戰に、京極方
の人數百八十騎を討取る。淺井人數は卅七騎討死す。同九月六日に今濱の城にて、
上坂兵庫助、京極を引立て、江北の諸︀士を招き集め、是非に淺井を誅伐すべしとて、打
立つ人數六千餘人なり。同七日卯刻に上坂の城へ押寄する。一番に上坂修理亮。
二番に口分田彥七。三番京極・上坂の旗本。左備は上坂治部大輔・同兵庫助・同信濃
守・同掃部助。右備は淺見春向軒子息對馬守・澤田備中守・津田兵內左衞門なり。淺井
は微敵なれば、彼打つて出でば、引包んで討取るべき支度なり。淺井豫め備へなむ。
伏兵を三所に置き、相圖を定めて打立ち相戰ふに、淺井勢敗北して城へ引入れば、京
極勢勝に乘りて追懸く。淺井豫め置く伏兵を以て、守返して相戰ふに、京極・上坂の
勢、一戰に利を失ひて討死する者︀多し。終日敵味方戰ひ暮し、申の刻に、兩陣互に引
退く。今日の合戰、四分は淺井負なり。六分は京極勢の勝軍なり。同十日上坂治
部大輔・淺見春向軒、何れも上平に集り評定して、逆臣淺井を退治せん事を、京極入道
高淸へ報ず。高淸は臆して、早速退治の評定相極らざる所に、大津彈正が曰、急ぎ
退治の儀然るべきか。其故は、亮政が姊北向殿、大屋形の妾として一人の若君あり。
亮政之を養育し奉る故、江北の諸︀士彼に屬するの由なれば、退治延引せば、一定味
方の大事なるべしといへども、最前兩度の合戰不利故に、早速の評定延引す。是に
依つて、上坂治部大輔大に怒つて、今濱の城へ歸り、人數を集めて、每日淺井方と
迫合あり、戰ふ度每に、淺井智略を以て、敵を討取る事勝げて計るべからず。淺
見春向軒・京極高淸入道子息高峯、每事武の器︀に當らざる事を惡みて、主君京極父子
を打捨て、居城尾上の城に引籠る。同廿一日午刻、淺井備前守亮政、智略を以て、今
濱の城をも攻取るべしとて、伊部淸兵衞・大橋善次郞を近付て、誠や淺見春向軒父子
は、京極家出陣延引なるを見限り、居城尾上へ引取るとなり。其外諸︀侍皆悉く主君
{{仮題|頁=204}}
を見捨て、在々へ引籠るとなり。是に依つて、今濱の城には、然るべき人なしと聞き、
忍を入れて彌〻之を窺ひ聞くに果して然なり。亮政大きに悅び、是偏に天の與へ給
ふ所なり。今此城を取らざれば、却つて其罰遁るべからずと、伊部淸兵衞に六百餘
人を相添へ、大橋善次郞に三百餘人を相加へ、今濱の近所、田の畔・藪の中に、夜中に
兵を遣し伏せ置き、吾身は九百餘人を二手に分けて、今濱の城へ押寄せ、早天に鬨を
作る。城中以ての外周章し上下を反す。されども大將上坂治部大輔は、近習・外樣の
人々を引率し、大手の門を開いて、切つて出で防ぎ戰ふ。淺井勢、小勢なるを見て取
つて、追懸々々相戰ふに、淺井態と弱々と二町計引退く。敵勝に乘つて行く所、伊部
淸兵衞・大橋善次郞、時刻よしと、相圖の旗を擧げ、在家に火を懸け相戰ふ。今朝寅刻
より小雨降り、朝霧立ちて物の色相見えず。上坂八郞左衞門、淺井が勢を小勢なり
と見侮︀つて、敵は小勢なるぞ、進めやとて、味方を勵ます。上坂修理は敵小勢なりと
て欺くべからず。淺井は智略の者︀なれば、味方を不意に落すべき事もあるべしと
いふに、上坂治部大輔は、血氣の大將にて、之を用ひず。大はやりに懸つて相戰ふ。
上坂信濃守は、老武者︀にて町屋に火の手の擧るを見て、城中の兵に下知をなさんと
しけれども、諸︀兵火の手を見て途方を失ひ、散々に戰なして、吾先にと落行く。大將
上坂治部を始め、一門の面々力なく、尾上を指し落行けば、淺井亮政は百十騎にて城
を乘取り、勝鬨をぞ擧ぐる。爰に淺見春向軒は、今濱の燒くるを見て、如何にと案じ
煩ふ所に、上坂治部大輔・同兵庫助・同修理亮・同信濃守百四五十人、尾上の城へ落來
る。春向軒出向ひ、吾が助勢の延引する事、是天命といふ。此時上坂勢の中より、多く
淺井に降參する者︀あり。是に依つて、淺井勢は三千人に餘るなり。同廿三日、上坂八
郞左衞門・淺見春向軒は、密に尾上を忍出で上平へ行き、京極高淸入道・子息壹岐守高
峯の長臣大津彈正に向つて、今濱落城の次手を具に語る。彈正大きに驚きて云、上
坂一家奢侈甚しく、已而武勇に疎し。是に依つて、淺井の若者︀に兩城ともに謀取ら
るゝ事、誠に言甲斐なき次第なり。是れ弓矢の冥加に盡きたる物か。淺井今度の逆
臣、大屋形高賴朝臣之を知り給はぬ事のあるべくや。是れ併、淺井內緣の者︀故に、否
の御下知に及ばざる所なり。京極家の滅亡遠きにあらずと、加賀入道宗愚・黑田甚
{{仮題|頁=205}}
四郞・隱岐修理亮・多賀新右衞門・若宮以下の人々評定して曰、重ねて淺井退治あらん
事に於て、江北の諸︀侍の心覺束なし。先づ廻文を以て、召集め見給はんかとて、多賀
新右衞門筆執つて觸送る。一味同心の人々には、高野瀨修理亮・山崎源八・多賀右近
大夫・河瀨壹岐守・高宮次郞左衞門・土田兵助・多賀新右衞門・土肥次郞左衞門・樋口次
郞左衞門・新庄彌八郞・大炊新左衞門・野村伯耆守・同肥後守・口分田彥七・富田新七郞・
香取少助・伊吹{{仮題|編注=2|宮内少輔|內匠亮イ}}・伊井平八郞・中山五郞左衞門・小足宮内少輔・細{{仮題|編注=1|井|江イ}}甚七郞・阿
閇參河守・同帶刀左衞門・同萬五郞・熊谷次郞左衞門・同新次郞・安養寺河內守・渡邊監
物・八木與藤治・今井十郞兵衞・{{仮題|編注=2|同孫左衞門|今井肥前守賴弘イ}}・同四郞左衞門・今村掃部助・井口宮内少輔・
筧助七郞・尾山彥七郞・千田伯耆守・磯野源三郞・同右衞門大夫・西野丹波守・赤尾與四
郞・東野左馬助以上各連判なり。同年九月廿六日、淺井備前守亮政・大野木・三田村・伊
部・大橋を呼んで曰、已に上坂・今濱兩城を攻取ると雖も、何れも平地にして、大軍を
引請け相戰ふ事然るべからず、其上江北の諸︀侍、粗ぼ京極・上坂の手に屬するの由聞
えあり。いざや此所を引退き、小谷山を城郭に構へて、思の儘に防ぎ戰ふべきなり。
去れば此山は鹼岨にして、防戰に數多の利あり。第一水の手自由、山峯聳えて伏{{仮題|編注=1|か
まり}}を置くに便あり。是れ究竟の勝地なり。若し此普請の間にも、京極・上坂の兩
勢押寄する事、用心あるべく、方便あるべしとて、每日忍入りて、敵陣の案內を聞く。
亮政亦、諸︀卒に向つて曰、萬一味方軍に利を失はん時は、一方を切破り、息男新九郞
を先に立て、大屋形御父子の許に駈入り、京極・上坂が年來の惡行を申上げ、屋形の
御下知を以て、彼等を退治すべきなり。其間各々隨分相働くべしと、味方の兵を慰
む。淺井に與せし侍共、此事を聞きて、心鐵石の如くなり。京極・上坂の人々、此內意
を聞きて、淺井退治評定中々事易からず。江北の諸︀侍皆云、此間の合戰など大屋形
の耳に立たざる事之れあるべからず。是れ唯淺井が養ふ所の御曹子は、亮政が姊
の生む所の子なり。是等の故にや、兎角御下知に及ばず。是のみにあらず、高島郡
六代官高島越中守・田中・朽木・横山・永田・萬木等も、餘所に懸つて居る者︀、一定大屋形
の御內意を知るにやと、いふを聞きて、京極・上坂の人々、熱湯にて手を洗ふが如し。
其餘誰ありて、淺井退治の評定せん。兎角延引の間に、淺井は緩々と小谷の城を拵へ
{{仮題|頁=206}}
て移りぬ。同十月十三日上坂治部大輔は、淺井が捨つる所の今濱の古城を取立て
て移入るなり。同二十日淺見春向軒・子息對馬守、尾上を立ちて、今濱上坂治部が館︀
に至つて、諫て曰、此合戰、淺井獨が心より起る所にあらざるべし。其{{r|謂|いはれ}}は、亮政が
子は、甥ながら、屋形氏綱の落腹なり、是れ一。江北是程迄の騒動、御耳に立たざるも、
淺井を內意に思召す御下心、是れ二。主君京極入道高淸御父子共に、性愚にして、諸︀
侍之を慢るに依つて、其方の父泰貞齋家中を手に付け、度々に大屋形の御下知に違
背せられし事、是れ三。彼此條々、以來とても御宥免︀あるべからず。此度淺井退治の
事延引せば、悔︀ゆとも其益なかるべし。世間の哢口誠に塞ぎがたし。上坂の人數と
ても、一千人に及ぶなれば、對すまじきにあらず。他の兵を備へずして、是非に小谷
へ夜討に押寄せ、十死一生の合戰然るべしと、再三强ひけれども、上坂治部大輔、臆し
て是に應ぜず。春向軒制し兼ねて、夫より上平京極の長臣大津彈正・若宮兵助が許
に往きて、亦右の樣を諫むるに、京極高淸入道子息壹岐守、大に臆して是に同ぜず。
春向軒は一所のみならず、兩所迄も己が本意立たずして、唯徒に居城尾上へ歸りぬ。
同十六年二月十五日、{{仮題|投錨=京極高淸逝去|見出=傍|節=an-1-3|副題=|錨}}京極中務大輔高淸入道、環寺梅︀叟宗意大居士逝去、于時上坡治
部大輔・同兵庫助・淺見春向軒子息對馬守評定して、御子息壹岐守高峯は、家を續がる
べき器︀量ならねばとて、京極家の菩提所の淸瀧寺に置き申し、理惡齋と號しぬ。是
より所領等は、殘らず上坂治部大輔支配しける。{{仮題|投錨=京極家滅亡|見出=傍|節=an-1-4|副題=|錨}}京極家の滅亡なり。同五月十二日
淺見春向軒連判して、衆中を呼集め、京極理惡齋の子息三郞殿を取立て、大將として
八千餘騎にて、小谷の城へ押寄す。左備は上坂治部大輔一家一千餘騎、右備淺見春
向軒子息對馬守千餘騎、其外の諸︀侍は、一番に磯野右衞門大夫・千田伯耆守子息帶刀
左衞門・東野右馬助・赤尾與四郞其勢九百餘騎、侍大將には、磯野源三郞、此源三郞は
精︀兵の强弓にて、十五束半を引き、四町表射透すなり。二番井口宮內少輔・今村掃部
助・西野丹波守・阿閇參河守・渡部監物其勢八百騎。三番に安養寺河內守・今井十郞兵
衞・同孫右衞門・熊谷次郞左衞門・同新{{仮題|編注=1|四|次イ}}郞・月瀨新六・小足掃部助・同宮內少輔・中{{仮題|編注=1|村|山イ}}五
郞左衞門其勢八百騎。四番狩野彌八郞・勘田孫八郞・伏木十內左衞門・澤田十內左衞
門・但馬守中村小十郞左衞門・下坂右馬助・下坂式部少輔・新莊伊勢守・乾加賀守五百
{{仮題|頁=207}}
騎五番土肥次郞・伊吹宮內少輔・百堀次郞左衞門・多賀新右衞門實高・多賀右近・山崎
源八郞・土田兵助・馬場淸太夫其勢八百騎。六番には旗本京極の門葉多賀・河瀨・上坂
の一族近習を始めとして、其勢二千五百騎。明くれば十三日早天小谷口へ押寄せ、
追手・搦手一同に鬨の聲を揚ぐる。淺井備前守亮政は、兼て忍を以て、京極家の方便
の樣を一々聞き濟しければ、少しも驚かず。大軍は不意を以て、討つに利ありといひ
て、伊部淸兵衞・大橋善次郞に五百餘騎を差副へ、大嶽虎御前山の蔭に深く、旗を卷い
て伏置き、敵攻め來つて、正に一戰に及ぶ時、俄に起て橫合に懸るべし。敵是に色立
ちて前後騒ぎあへる隙に、亮政大手の門を開き、亦一文字に打つて出で、命を限の軍
をすべしと、鬨の聲だに合せず、靜り返つて居たる所に、海︀北善右衞門・赤尾孫三郞馳
來つて力を戮す。亮政大きに悅び、殊に海︀北を賞す。是れ又京極家上下不和の故な
り。海︀北が淺井に加はるを見て、村上甚四郞・赤尾與四郞も同小谷へ馳入る。淺見春
向軒下知していひけるは、當手の中に敵多く紛れ居らん。只矢軍のみして敵味方
の機を見るべしとて、足輕迫合ばかりにて、今日の合戰は止りぬ。同十四日阿閇參
河守息萬五郞、京極勢の備疎らにして、始終の軍利あるまじと見透して、小谷の城へ
討入り降參す。其勢八十五騎なり。淺見春向軒・同對馬守五百餘騎は遊軍となりて
陣す。是は淺井亮政、日頃不意の合戰を好む者︀なれば、味方しどろなる所へ討つて
懸るべき爲めなり。同十五日淺井嘉政は、上半の人數多、味方に來りて{{r|袒|かたぬ}}く事、偏に
武運を開くべき先表なりとて、新に軍伍を組替へける。先づ伊部・大橋に八百三十
騎を相副へ、伏兵として、虎御前山の谷間に之を置き、阿閇參河守・同萬五郞・海︀北善
右衞門・赤尾孫三郞・同與四郞に、二百五十騎を差加へ、小谷の東なる山陰に之を伏
せ、城內は淺井七百五十騎相圖を定めて、敵を相待つ。同十八日、京極幷上坂勢八千
騎にて亦小谷の城へ押寄す。淺井、大手へ討出で、一戰して弱々と引退く。上平勢追
ひ縋うて、大門口に討入る所に、兩方の伏兵一度に、起つて討つて懸る。亮政取つて
返して相戰ふ。上平勢敗北して討たるゝ兵七百廿騎なり。同十九日上平勢、昨日の
合戰に利を失ひし事を口惜しと思ひ、行を替へて寄來る。京極勢の內、野村伯耆守・
同肥後守・口分田彥七郞、每度味方の敗北する事は、諸︀兵の一途に思合はざる故なり。
{{仮題|頁=208}}
今日の合戰に、野村・口分田討死して、江北の諸︀侍を恥しめんと、最前に馳出で、蹈止
つて戰へば、是に少し力を得て、上平人數乘越え{{く}}命を惜まず相戰ふ。此時淺井
は城內に引籠り、さまを閉ぢて防ぎ戰日午に及んで軍{{r|敗|まけ}}す。今日の合戰は、京極勢
の勝軍なり。同廿日辰刻より申刻迄、上平勢と淺井勢と、今日を限りと相戰ひ、上平
勢終に敗北す。大半討たれければ、重ねて勢を催して、相戰ふべき事は難︀しと見え
たり。{{仮題|投錨=土岐範國京極を援く|見出=傍|節=an-1-5|副題=|錨}}同廿一日美濃國主土岐範國、所緣たるに依つて、妻木駿河守を大將にて、二千
餘騎を相副へ、加勢として京極方へ遣す。淺井方にも美口京極勢少し力を得て、小谷
表に對陣す。淺井方にも美濃勢の新手と知つて、卒爾には出合はず、唯城をのみ堅
固に守るなり。同六月三日、永々對陣すれども、大屋形より是非の御下知に及ばざ
る事、是れ偏に淺井を引かせ給ふ故なりといふに、京極・上坂の勢彌〻猶豫して、墓々
しく合戰もせざれば、美濃の援兵も快く働くを得ず、唯對陣にのみ日を送る迄なり。
同十一日淺井亮政、海︀北・阿閇・大橋等を集めて評定す。京極勢の永陣急に攻敗らん
事、夜討にしくはなかるべしと、先づ合言葉を定め。北風吹くかといはゞ、一度に
切つて懸るべし。南風烈しといはゞ、城中へ引取れよ、谷かと問はゞ山と答へよ。
味方の相印には、天目ざいを綿嚙に打入るべし。步兵の印には羽︀織の後に縫付く
べし。太刀・脇差の印には、白紙を以て三引兩を鞘卷せよと、此外色々夜討の支度用
意しける最中に、上平勢の中、磯野源三郞を大將にして、諸︀手中より精︀兵を勝つて、
小谷の北なる嵩へ上り、城を目下に見下し、矢種を惜まず散々に射る。本より磯野
が矢先は、四町を射徹す事なれば、城中防ぎかねたり。されども亮政は、今夜夜討せ
んと支度しぬる事なれば、一人も防矢射出す者︀なく、靜まり反つて居たり。夜に入
れば大將亮政、大橋・赤尾に三百餘騎を差副へ、山田の東の谷を下り、八島村へ忍び入
り、夜半ばかりに家々に火を懸けたり。時に尊照寺に陣を取りたる京極三郞の備、
上下周章て騷ぐ。其時淺井、一文字に切出でければ、京極勢一戰にも及ばず敗北しけ
るを、追討に二百卅騎計捕る。淺見春向軒、子息對馬守に下知して曰、今此時を遁し
て何れの時をか期せん。只反合つて討死せよと蹈止りて、逃ぐる味方を遮つて相戰
ふ。春向軒が五百餘騎、子の刻より寅の一點迄相支へ、淺井荒手を入替へ、十方に變
{{仮題|頁=209}}
化して相戰へば、春向軒父子叶はず、尾上を指して引退く。上坂の人々上坂掃部助・
同八郞右衞門・同主水正・同主殿助・同十郞三郞、是に恥しめられ、取つて返して相戰
ひ、上坂掃部助は、赤尾孫三郞と鑓を合せて討死す。上坂八郞右衞門は、海︀北善右
衞門と相戰ひしが、相互に昨日迄傍輩の好ある故、尋常に言葉をかはし、鑓を捨て
馬上より組みて落ちけるが、海︀北第一の大力なるか、難︀なく八郞右衞門を組伏せ首
を取る。{{仮題|投錨=京極方敗北|見出=傍|節=an-1-6|副題=|錨}}大將京極三郞は、一騎當千の家族共の、取つて返しては討死するを見捨て、
虎口を遁れて落行く。今夜上平勢四百三十騎討たれ、淺井方には卅九騎討死す。
京極三郞、上平へ落來りて、淺見春向軒父子・大津彈正忠・多賀新右衞門實高・若宮兵
助・隱岐修理亮等を呼集めて曰、此の如く、味方每度敗北する上は、江北の諸︀侍定め
て、今は皆淺井方にこそ加るべけれといへば、果して淺井廻文を送つて、其文に日、
{{left/s|1em}}
近年度々合戰、全非{{二}}亮政逆心{{一}}。京極家幷上坂之一類︀、依{{二}}累年積惡{{一}}窺{{二}}大屋形樣之
御內意{{一}}、擲{{二}}一命{{一}}。萬人之愁、頗及{{レ}}此者︀也。此間、誤雖{{レ}}被{{二}}京極家隨逐{{一}}、忽飜{{二}}惡心{{一}}。
於{{二}}當城{{一}}相加輩者︀、大屋形樣御前可{{レ}}然執成可{{レ}}申、狀仍而如件。
永正十六年六月十二日 淺井備前守亮政
江北城主御中
{{left/e}}
前に神︀文を書副へて廻しける。江北の諸︀侍殘らず、小谷の城へ馳加はる。此由、京極
家の長臣等聞きて、是れ京極家の滅亡此時なり。然るべくば大屋形へ加勢を請申さ
れ、今一戰之れあるべきかといふに、大津彈正曰、度々の合戰に何の御沙汰もなけれ
ば、大屋形は必定淺井を引かせ給ふ者︀なり。亮政重ねて寄せ來らば、隨分防戰、京極
殿を介錯し、自害せんより外なしといへば、多賀新右衞門が曰、尤も遁るゝ所なしと
いへども、一往謀無きは大將の恥なり。然りと雖も、大屋形、淺井をたとひ援かせ
給ふとも、猶思食す所もあればこそ前後の御下知なけれ。兎角一往の御歎然るべ
しとて、多賀新右衞門實高・河瀨壹岐守宗高兩使を以て、大屋形の近臣平井加賀守・
三雲豐後守方へ、京極三郞殿より兩使を以て、申上ぐるの趣、
{{left/s|1em}}
今度家來淺井備前守、企{{二}}逆心{{一}}就{{レ}}楯{{二}}籠小谷城{{一}}、爲{{二}}誅戮{{一}}令{{二}}發向{{一}}之處、味方不慮敗
北之段、嘲弄難︀{{レ}}壅{{二}}人口{{一}}。偏是爲{{二}}當家恥辱{{一}}。且亦近日雖{{レ}}可{{レ}}令{{二}}征伐{{一}}、江北之諸︀士悉
{{仮題|頁=210}}
以、依{{レ}}令{{二}}彼等組{{一}}、當手軍勢以外屈懼、早速難︀{{二}}攻伏{{一}}。此上者︀、以{{二}}大屋形樣御太刀影{{一}}、
令{{二}}凶徒誅伐{{一}}、年來欲{{レ}}雪{{二}}恥辱{{一}}。誠以被{{レ}}加{{二}}御勢{{一}}者︀、且先{{仮題|編注=2|孝之|考カ}}好、且當家面目何事如{{レ}}之
哉。此條々宜奉{{レ}}仰{{二}}誼說{{一}}。誠惶々々謹︀言。
六月十六日{{sgap|16em}}京極三郞
平井加賀守殿
謹︀上
三雲豐後守殿
{{left/e}}
平井・三雲、此趣を奏達す。大屋形聞食し、京極家不器︀量にして、江北の諸︀侍逆心の
條、彼非其器︀量故なりと仰せられ、御同心なきのみならず、以の外御不豫なり。同六
月十九日淺井亮政、阿閇參河守を以て大屋形へ言上す。近年京極家愚昧たるに依
つて、家中の仕置等、家臣上坂治部大輔、私を以て贔屓の沙汰をなす。去に依つて、
諸︀人疎果て、亮政に限らず上坂に背く者︀數多なり。今度の一戰不{{レ}}得{{レ}}已之條、全く上
意を輕んずるにあらず、願くは御赦免︀を蒙り、向後凶徒を誅伐し忠勤を抽づべし。
此等の趣、御披露賴入り申すといひ、其上北向殿の御若君所緣、他なく思召されける
にや、御隱居大屋形樣高賴公、早速御赦免︀の御書を下しなさる。廿一日淺井亮政兄
弟四人、大屋形樣へ御目見申す所に、京極家所領殘らず、之を拜領す。年來の本望を
達し、剩へ江北の總旗頭を仰付けらるゝなり。亮政一世の眉目珍重、而して廿五日
には小谷の城へ歸りぬ。此より江北の諸︀士多くは亮政に屬す。京極偏執の士は、猶
出で從はざる者︀も少々あり。又京極家は無きが如くにて閉居せらる。上坂一家は
或は出家遁世、又他國出走の者︀もあり。此外亮政に與せざる人々は、美濃・伊勢の方
へ落行く。
同十七年二月十七日、{{仮題|投錨=細川澄元同高國と合戰|見出=傍|節=an-1-7|副題=|錨}}細川修理大夫澄元と細川右京大夫高國と、權威を爭うて合戰
す。高國軍敗れて、江州佐々木高賴を賴みて落來る。國主高賴朝臣之を許し、岡山
に置かる。四月廿五日、江州先手八千餘騎上洛、寺社︀等制法を定む。五月廿四日、佐
佐木高賴朝臣、嫡孫義實、幷二男定賴を召具し、細川高國を同道して上洛、勝軍山に
陣取り京都︀を攻めらる。淺井備前守亮政先陣たり。六月細川澄元病死、高國自然
と本意を達す。攝州尼崎に於て城を構へ是に居る。同十一日淺井亮政軍功に依て、
{{仮題|頁=211}}
高賴朝臣より坂田郡を給はる。同日夜、今度合戰の內、十三人に領地を給はる。中
にも鹽津の城主熊谷兵庫助直昌、首數に依つて感書を給はる。八月廿一日佐々木
廿二代の管領源高賴朝臣他界、嫡孫義實其跡を續ぎ給ふ。叔父彈正忠定賴于{{レ}}時後
見たり。淺井亮政、江州三老の隨一となる。
大永元年三月廿三日御卽位なり。應仁大亂の後、禁中以の外御不如意たるに依つ
て、{{仮題|投錨=後柏原天皇御卽位|見出=傍|節=an-1-8|副題=|錨}}二十年餘絕えたる大禮を興行し給ふ。其料は本願寺より之を調進す。此賞とし
て、始めて門跡の號を永代許し下さるなり。五月十一日佐々木管領義實朝臣の後見、
彈正忠定賴・細川高國評定ありて、法住院殿義澄公の若君千壽王殿{{仮題|分注=1|後號{{二}}義|晴︀公{{一}}}}を執立て
奉りて、江州嶽山より三井寺に入れ奉る。六月九日六角屋形義實朝臣、叔父彈正忠
定賴朝臣・細川高國朝臣供奉にて、若君千壽王殿御上洛、相國寺御安座、六角家は南
禪寺、細川家は東福︀寺に旅館︀を構へらる。十二日千壽王殿御參內、敍{{二}}從五位下{{一}}御
諱號{{二}}義晴︀{{一}}。廿八日義晴︀公敍{{二}}從五位上{{一}}、十一月廿五日義晴︀公敍{{二}}正五位下{{一}}任{{二}}左馬頭{{一}}。
十二月廿四日義晴︀公御年十一歲にて御元服。加冠は細川武藏守高國、理髮六角義實、
打亂は佐々木彈正定賴、泔盃は伊勢守貞信之を勤めらる。{{仮題|投錨=義晴︀征夷大將軍となる|見出=傍|節=an-1-9|副題=|錨}}廿五日義晴︀公任{{二}}征夷大
將軍{{一}}、于{{レ}}時十一歲。管領は細川高國なり。
同二年二月、義晴︀公從四位下に敍し、參議に任じ、左中將を兼ぬ。
同三年五月前將軍義植公、阿波國撫養といふ所にて、毒害せられ給うて他界。御年
五十八。慧林院殿と號す。
同四年二月十日、前將軍家、江州多賀社︀參詣、國主義實・同定賴・淺井亮政に命じて、舟
中を奉行なり。多賀より將軍家、竹生島に御參詣、三月朔日上洛。江州御逗留の座は
觀音寺なり。十月將軍家御不例に依り、佐々木家十一月二十日上洛。
同五年六月九日、甲賀郡望月對馬守・神︀保采女逆心なり。伊賀の河合にて引逢ふ。
亮政・河瀨壹岐守、佐々木家の命を蒙り悉く誅伐なり。卽ち彼等が沒收を給はる。
三好・畠山と不平の事に依つて、將軍家より御扱として、九條殿御下向にて和平なり。
十一月廿八日、若州武田家中騒動す。是に依つて、信秀・亮政、佐々木の命にて、若州
に往きて悉く靜まるなり。
{{仮題|頁=212}}
同六年二月十六日、{{仮題|投錨=將軍石淸水社︀參|見出=傍|節=an-1-10|副題=|錨}}石淸水八幡宮造營遷宮、將軍御社︀參。山城攝津守護代等、京都︀よ
り八幡に至つて辻固す。山上は細川高國警固す。山下は畠山植長警固す。供奉の
人々は、細川右馬頭澄賢・伊勢守貞孝、此外丹波・但馬・若州等の武士、幷に公家傳奏廣
橋大納言守光・日野大納言內光なり。尊氏將軍の先例として、善法寺を御宿房に召
さる。奉納物は弓・劒・神︀馬・神︀鎧等なり。京都︀御所の御留守は、六角義實朝臣・同叔
父定賴朝臣之を勤む。淺井備前守亮政は、江州觀音寺城に入り、之を守る。四月七
日今上皇帝崩。{{仮題|投錨=後柏原天皇崩御|見出=傍|節=an-1-11|副題=|錨}}御齡算六十三。江州屋形代官として、淺井亮政上洛。廿九日太子踐
祚。五月六月七月〔{{仮題|分注=1|本ノ|マヽ}}〕八月十九日將軍義晴︀公、江州坂本に御下向日吉御社︀參、六角
義實朝臣・同叔父定賴の命を蒙りて、淺井備前守亮政、旅館︀經營之を奉行す。廿二日
將軍義晴︀公御上洛、佐々木屋形義實朝臣の命を蒙りて、淺井備前守亮政供奉。廿三
日、淺井亮政、始めて將軍義晴︀公に謁︀し奉り、御太刀拜領す。九月・十月・十一月〔{{仮題|分注=1|本ノ|マヽ}}〕、
十二月十五日安房の里見義弘、相州鎌倉に攻入る。小田原城主北條氏綱出で戰ひ、
里見義弘卽時敗北す。同月將軍義晴︀公、近國の射手を召して御的始あり。
同七年二月十一日、三好筑前守入道長基海︀雲、阿波の國より出張りて、泉州堺の浦
に於て、人數を揃へて京都︀に攻入りて、桂川にて相戰ふ。高國敗北す。十三日高國、
將軍義晴︀公に供奉して江州に下り、國主義實を御賴み、六角家、淺井を以て之を守
らしむ。十五日越前の國主朝倉彈正忠孝景、上洛して三好と合戰、三好敗北して泉
州に引返す。三月・四月・五月・六月〔{{仮題|分注=1|本ノ|マヽ}}〕、七月廿五日、江州七手組、所謂目加多・馬淵・
伊庭・三井・三合・落合・池田等六千騎上洛。十月十三日將軍義晴︀公御上洛、江州大守
六角義實朝臣・同叔父定賴朝臣・朝倉孝景供奉せらる。時に六角義實管領たり。從
四位下大膳大夫に任ず。
享祿元年、將軍義晴︀公十八歲。八月三好一家、泉州より蜂起。九月八日將軍、京都︀
を御出で、江州御下向、國主義實、同叔父定賴の評議を以て、高島郡朽木谷に御館︀を
構へて之を請ず。朽木民部少輔植綱・河瀨刑部少輔、幷河上六代官・淺井亮政等之を
警固す。今年正廿八、柳下、六條法華堂下りて坂に居す。三好和平調つて又坂に下
るなり。二月六日金吾歸鄕、其後和州に入る。筒井沒落、柳下賢治、幡州に出で生害
{{仮題|頁=213}}
なり。
二年將軍家・朽木、猶御逗留なり。
三年正月、大外記淸原良雄敕使として、朽木に至つて、大納言從三位を將軍義晴︀公
に授けらる。江州の屋形家來各賀奉るに、太刀・馬等を獻ず。
四年六月三好長基入道海︀雲、故細川澄元の子晴︀元を取立てゝ、{{仮題|投錨=三好長基細川高國と合戰|見出=傍|節=an-1-12|副題=|錨}}大將として二萬餘
騎を引具して、阿波を發して攝州尼崎に着岸、細川高國入道常桓、天王寺と大坂の
間にて合戰し、高國大きに敗北す。引いて大和川を渡らんとするに、大蛇前に橫つ
て眼光人を射、其勢恐らくは言ひ難︀し。高國已むを得ずして一矢を放つ。蛇取つ
て屑とせず、猶口を開いて高國に向ふ。高國重ねて發つ。其の矢誤たず眉間に入
りて、蛇立所に死す。高國此の難︀所を遁れて、川を渡りて尼崎に歸城すと雖も、三好
が勢程なく追詰めける間、{{仮題|投錨=高國自盡|見出=傍|節=an-1-13|副題=|錨}}一支にも及ばず、庫〔{{仮題|分注=1|本ノ|マヽ}}〕に入りて自殺︀す。長臣島村以下
悉く殉死す。此時、江州より加勢として淺井亮政、兵を引いて上洛、高國已に自殺︀
すと聞きて、山科より引返して此旨を申す。江州佐々木家、淺井遲引して、其手に
遇はざる事を責めて、大に嗔り給ふ。亮政暫く出仕を止む。
天文元年三月十一日、將軍義晴︀公、朽木より志賀郡竟花の下生庵に御移座。十二日
同郡和途善福︀寺。十三日坂本の寶永寺。十四日{{r|穴太|あなふ}}の常在寺、六角家・朝倉家以下
供奉す。淺井亮政先陣。十月五日本願寺以下退治を加へられ、日蓮宗軍忠を抽ん
づ。是に依つて、將軍家御感書を給ふ。都︀て十三箇寺。此時細川右京大夫晴︀元管領
に任ず。晴︀元と三好海︀雲と不和なり。是に依りて、泉州堺浦海︀雲一家、管領の爲めに
害せらる。
同二年十月八日、曉天衆星感動して落つる事大雨の如し。諸︀人之を奇怪とし、見て
怕れ死す者︀多し。禁裏に於て御祓あり。十二月山城國梅︀宮炎上。
同三年正月晦日、月讀宮炎す。春夏疾病萬民迫惱、死者︀巷に滿てり。八月二十日、將
軍義晴︀公江州御下向、多賀竹生島參詣、國主六角家居城{{r|繖山|きぬがさ}}に御逗留。九月三日將
軍家、江州より上洛。淺井備前守亮政、六角家の命に依つて供奉す。同二十日、將軍
家の上使伊勢守某、江州に下向。國主義實朝臣に、文の裏書塗輿等を御許容。淺井
{{仮題|頁=214}}
亮政代官とし上洛、公方家に謁︀し奉るなり。
四年越前國主朝倉彈正忠孝景、軍功に依つて塗輿御免︀。此の人の父陪臣と雖も、其
子孝景は、高家の武家に准ぜらるゝとなり。淺井備前守亮政曰、凡そ武者︀は萬事に
うとくとも、一筋に武道に勝るゝ人、必ず未代とても國も天下も知るべきなり。去
ながら、天理に協はざる武道は、一旦其功立つと雖も亡ぶべきなり。三田村が曰、是
れ因果なりと。
五年二月御卽位あり。{{仮題|投錨=後奈良天皇御即位|見出=傍|節=an-1-14|副題=|錨}}禁中御不如意に付いて、大內助義隆︀朝臣より、其料を調進に
て御執行なり。三月十日將軍義晴︀公若君御誕生。{{仮題|分注=1|後號{{二}}義藤{{一}}|又義輝。}}江州六角家より淺井備
前守亮政名代として、大蛇といふ太刀を獻ぜらる。六月中納言兼秀卿、敕使として
大宰大貳を大內助義隆︀朝臣に授けらる。是は大內助、御卽位の料を奉りし故なり。
七月廿七日、京中の日蓮宗・法華宗、號の事、度々叡山より之を制すと雖も、曾て以て
用ひざるに依り、延曆寺の衆徒・末寺・末山を召集して、勢を京中へ亂入りて、日蓮宗
の寺々を破却す。彼の徒數多害せらる。此時、山門より近江の國主義實朝臣・同叔父
定賴を賴み申すに依つて、淺井備前守亮政、八千三百餘騎を引率し、粟田口北白川
に陣す。是は若し日蓮宗門與力の武士あらん爲めの備なり。此の日、洛中日蓮宗寺
寺に火を放つて、驅討つに依つて、禁裏其外諸︀家類︀火にや及ぶべきかとて、淺井、人
數を引具して、洛に入りて禁中を警固す。叡感に預るなり。
六年正月朔日、佐々木大屋形義實朝臣若君生る。後義秀と號す。十五日江州屋形、
幷後見定賴の御曹子義賢、八幡山の典厩、江北淺井備前守城に於て、遊興對的等あ
り。八月十日院は、山田大藏房、關東より上りて吿げて曰、去る七月二十日、小田原
北條氏綱と上杉朝定の家臣難︀波田彈正と、武州松山にて合戰すとなり。十一月三
日、{{仮題|投錨=義昭誕生|見出=傍|節=an-1-15|副題=|錨}}將軍義晴︀公の二男義昭誕生。十二月三日より大慧星現はる。
七年、東國に下す宛は歸來りて吿げて曰、甲州武田大膳大夫晴︀信、父信虎、惡逆に
して國を有つべからざる事を知つて、老臣・近習に評し合ひて、父を嫌つて婿駿河國
主今川義元の許に放ち遣すと、淺井亮政之を聞いて曰、{{r|僉|みな}}謂ふ、晴︀信は良將なりと、
何ぞ痛く其父を擯する。實に惡むべきの{{r|太|はなゝだ}}しきなり。其武田家は、唯自身のみ武に
{{仮題|頁=215}}
僑ると云ふ者︀か。{{仮題|投錨=北條氏康上杉憲政と合戰|見出=傍|節=an-1-16|副題=|錨}}是れ人望に背き天道に捨てらるゝ所、吾は可謂、良將といふべか
らざるなりと、七月相州北條氏康、八千餘騎を以て、上杉憲政・同朝定の八萬餘騎にて
固めたる武州河越の城を、夜討にて大に勝つ。此時扇が谷の上杉朝定は討死し、山內
上杉憲政は、上州平井の城を指して落逃れぬ。是より兩上杉衰微して、關八州悉く
氏康に屬す。北條家より古河晴︀氏を妹婿に取つて、北條家諸︀事支配す。甲州武田
晴︀信功に誇り、信州の小笠原長時・越後の村上義淸を攻伏するなり。十月七日、北條
氏康、下總の國小弓御所足利義明を攻めて、國府臺にて合戰、義明朝臣一戰にて
亡ぶ。
八年六月、三好一家京都︀を攻む。將軍義晴︀公江州御下向あるべき由吿げ來る。是に
依つて、佐々木管領義實、淺井備前守亮政に命じて、御迎の爲めに上洛せしむ。將
軍家旣に、山州八瀨の里に着き給ひて御滯留、河瀨刑部少輔實宗、高島郡六代官の內、
朽木民部少輔植綱供奉、淺井備前守亮政、高野里修學院に陣取警固し奉る。八月十
七日洪水、賀茂川洛中に流れ入りて、人民多く水災の爲めに死す。江州所々損ず。
九年、春夏天下餓殍、疫癘人民多く死す。四月九日洪水。五月江州佐々木屋形庶流尼
子晴︀久、中國十三箇國を領す。安人〔{{仮題|分注=1|本ノ|マヽ}}〕安藝の毛利右馬助元就、近年周防山口の城
主大內助義隆︀に密に通ず。出雲の屋形尼子晴︀久、之を聞き、家來須佐河內守久高・富
田豐後守久宗に、二萬餘騎を差副へ吉田に遣して、毛利元就を攻伏せしむ。大內助
之を聞き、家臣陶尾張守晴︀賢に、八千七百餘騎を相加へ、毛利加勢として田村田上に
至つて對陣す。數月合戰に及び、尼子晴︀久の代官須佐・富田敗北して歸陣す。切々
此時尼子晴︀久も、同じく出馬せりと。
十年四月、三好一家京都︀に攻上る。將軍家、江州に御下向。佐々木義實・同叔父定賴
之を迎へ奉る。河瀨刑部少輔、義實の命を蒙り上洛、將軍家に供奉し至つて坂本に
警固す。八月十一日、大風、京中大破、江州繖の城大損。禁中殿門多く傾頽す。河內・
攝津・丹波・但馬等同じく損ず。
十一年正月六日、淺井備前守藤原亮政〔{{仮題|分注=1|脫字ア|ルカ}}〕行年六十一。淺井郡小谷山に葬る。二
月廿九日、{{仮題|投錨=大內義隆︀尼子晴︀久と合戰|見出=傍|節=an-1-17|副題=|錨}}大內助義隆︀、二萬人を引率し出雲國に發向し、尼子晴︀久の居城富田の城
{{仮題|頁=216}}
を攻む。大內助家臣陶尾張守晴︀賢大手の大將毛利元就は、國中の案內者︀として先
陣す。數月合戰して五月十八日大內助敗北、義隆︀の嫡子新助義國討死して、首を尼
子家內山佐・主殿助之を取る。先陣の毛利元就降參す。尼子屋形之を容さず。此よ
り周防國に往きて、永く大內助の家人となる。此合戰に大內助敗北の後、家臣陶尾
張守晴︀賢、大に主君を謾り欺くとなり。四月朔日〔{{仮題|分注=1|前ニ正月朔|日トアリ}}〕、江州の大屋形義實朝臣
の若君誕生。後義秀と號す。八月駿河國主今川義元、遠江國を討取つて、參河國に發
向す。依つて、尾張國主織田彈正忠信秀、二千餘騎を以て、小豆坂に出陣し合戰、今川
方敗北。{{仮題|投錨=鐵炮江州に入る|見出=傍|節=an-1-18|副題=|錨}}十二歲正月八日、天月を殘して晨に及ぶ。八月廿五日、鐵炮、大隅國より江
州に來る。元種ヶ島より渡るなり。江州國友に於て鐵炮を作らしむ。屋形之を制
して他國に出さゞるなり。
十三歲七月九日、京中洪水前代未聞。五月朔日、佐々木後見彈正忠定賴朝臣の若君
誕生。後義賴と號す。義賢の弟、之を考ふべし。六月六日後見義賢の長男生る。
後、義弼と號す。
十四歲應仁より後、度々兵亂に依つて、禁中以の外御不如意の事、神︀武天皇以來之
れなき所なり。諸︀卿之を難︀儀とせり。近衞殿・鷹司殿・綾小路殿・庭田殿・五達殿・中原
大外記等、皆江州に下向ありて、佐々木の屋形を賴り、觀音城下常樂寺・慈恩寺に寓
居せらる。此外諸︀公家、皆國々に下つて、其所緣を語ひ、末々の殿上人・地下人等、攝
津・河內・近江等の間に徘徊して民間に交り、亦京都︀を出でられざる人々は、賈家に
身を寄せて、朝夕を餬する人もあり。或は一椀の食を求めん爲めに、門戶に佇立すれ
ば、戰國の習に案內檢見の者︀かと恠み捕へて、嗷問の責に及べるもあり。或は賊の
爲めに討殺︀されたる人の妻子眷屬とて、所々に迷ひ行き、愁歎の餘りには、淵瀨に身
を投げ、自ら湯水を斷つて渴死するもあり。其消息中々見るに忍び難︀く、哀なる事
前代未聞なり。
十五年正月、將軍義晴︀公若君義藤公十一歲にて、從五下に敍す。八月廿三日、酉刻黃
雲西に{{r|靉靆|たなび}}き人面相映じて金色なり。{{仮題|投錨=佐々木義實逝去|見出=傍|節=an-1-19|副題=|錨}}九月十四日、佐々木大屋形廿四世源義實朝
臣逝去。武算卅七歲。智仁勇の良將なり。諸︀士僉{{仮題|編注=1|挊}}て之を歎惜す。十五日御遺骸
{{仮題|頁=217}}
を大慈恩寺に移す。十六日御葬送、寺內の警固は、淺井下野守・同備前守長政。御本
城の御留守は、進後の兩藤なり。御追善中陰佛事の次第、繁に依つて之を略し、別記
之を誌す。十月細川晴︀元幷三好一族、京都︀を攻めんと欲するの由、聞えあるに依り、
江州大守義秀朝臣の後見定賴の命を蒙りて、淺井下野守久政上洛し、將軍家を警固
す。十一月十九日、將軍家の若君義藤公、正五下に敍し左馬頭に任ず。此時淺井久
政猶京都︀にあり。十二月十八日、將軍義晴︀公江州御下向、左馬頭義藤卿御同道、淺井
下野守久政供奉。今日の晩間佐々木管領義秀朝臣・同後見定賴、坂本に出で、之を迎
ふ。{{仮題|投錨=義藤元服|見出=傍|節=an-1-20|副題=|錨}}十九日將軍家、日吉社︀の社︀司樹下主膳資時が館︀に於て、若君義藤御元服。此時
武家の管領闕く。佐々木雲光寺殿の氏綱舍弟、彈正忠定賴、俄に四品に敍し管領と
なりて、加冠の役を勤めらる。義實の嫡子義秀幼稚なるに依つて、定賴是に代る。理
髮は細川中務大輔晴︀經。打亂は朽木民部少輔植綱・泔杯は定賴の舍弟大原中務大輔
高保なり。二十日敕使として、廣橋大納言兼秀卿下向。若君義藤卿征夷大將軍に任
じ從四位下に敍し、禁色昇殿を聽さる。左馬頭は元の如くす。御所義晴︀公右大將に
任ず。同日申刻社︀司樹下資時、諱字を賜はりて晴︀時と號す。同日佐々木彈正忠定
賴朝臣諱字を賜はりて晴︀賴と號す。廿一日佐々木家嫡龍武丸・朝倉・畠山家、將軍家
の元服を賀奉り獻上物あり。同日日吉領を倍加す。其外奉納物多し。今日山門の
衆徒等之を賀奉る。同日社︀司晴︀時に一所を賜はる。同日敕使廣橋大納言兼秀卿歸
洛、祿原與へらるゝ。
十六歲、將軍家御父子、觀音寺の城に移り給ふ。正月六日將軍家御父子上洛。佐々
木家の命に依り、淺井下野守久政供奉、年來の忠功に依り、從六位下に敍す。二月廿
六日、將軍義藤卿、參議に任じ左中將を兼ぬ。三月細川右京大夫晴︀元家來、三好が一
族、二萬餘騎京都︀へ押寄せんとの風聞あり。大御所右大將義晴︀公・當將軍義藤公、北
白川の御城に入り給ふ。佐々木定賴朝臣の兄、雲光寺殿の嫡男龍武丸同道、北白川
の城へ參らる。{{仮題|投錨=細川晴︀元京都を攻む|見出=傍|節=an-1-21|副題=|錨}}是れ淺井久政が供奉する所の御君なり。四月十八日細川晴︀元上洛、
四國の兵を引來つて北白川の在家を燒く。淺井久政、佐々木龍武、御曹子の後見と
なりて出向合戰し、首三百七十三討取る。將軍御感書を久政に給はる。{{nop}}
{{仮題|頁=218}}
{{left/s|1em}}
今度細川令{{二}}逆心{{一}}、於{{二}}北白川{{一}}相働之處、卽時懸付、首三百七十三討捕之條、御滿悅
不{{レ}}少。重而恩賞地可{{レ}}被{{二}}下置{{一}}。猶伊勢守可{{二}}申付{{一}}者︀也。
天正十六年四月廿一日 御判
淺井下野守方<sup>江</sup>
{{left/e}}
七月十二日、細川晴︀元、山脇相國寺に陣す。佐々木後見彈正忠定賴・子息左京大夫義
賢、江州南郡の兵を催し上洛し、細川に與力し、將軍の御座北白川の城を攻む。淺井
下野守久政、山下にて大に戰ひしが、味方に裏切の者︀多ければ叶はずして、城中に引
返し、城に火を懸け、將軍家御父子に供奉し、江州坂本に下り、壺笠山の城に楯籠る。
此時江州の大屋形は、幼稚にして觀音城にありしを、淺井久政・河瀨刑部少輔・阿閇參
河守・蒲生將監・山崎源太左衞門等に評し合ひて、坂本壺笠の城へ引取る。此時大屋
形の後見定賴は、御敵細川晴︀元が舅なる故、是の如し。是より江州の兵士二つに分れ
て、大屋形方・定賴方とて父子兄弟絕信、國中穩ならず。八月三日主上御扱の事に依
つて、細川晴︀元・佐々木定賴御赦免︀、敕使同道坂本壺笠の城に至つて、將軍家御父子
の御入眼なり。
十七年六月、將軍家御父子上洛。此時細川晴︀元管領に任ず。佐々木四郞義秀・同定佐々木四郞義秀・同定
賴子息義賢・淺井下野守久政供奉。
十八年二月中旬、攝州の三好筑前守源長慶同名宗三入道と不和なり。此事を晴︀元
に訴ふる所に、晴︀元偏に示三を贔屓せらる。長慶大に怒りて宗三入道を討たんと欲
す。{{仮題|投錨=三好長慶同宗三入道と合戰|見出=傍|節=an-1-22|副題=|錨}}是に依つて、宗三、晴︀元の嫡子右馬頭晴︀賢の居城中島の城に楯籠る。長慶三千七
百餘騎にて、急に之を挫かんと取懸る。每戰度に討たるゝ者︀多くして城中危し。宗
三思へらく、所作の未練︀なる故に、晴︀賢辜なくして亡び給はん事、本意にあらずと
て、三月朔日に同國江波城に引退く。此城は元より宗三が城にて、子息右衞門大夫
政勝是に居る。卽ち父子一所に楯籠るなり。同國に晴︀元の被官三宅權守といふ者︀
あり。是も三好長慶に與す。是に依つて、晴︀元の家臣香西越後守を差向け、不日に攻
落す。晴︀元卽ち入城す。是は若し君臣不和なるに依つて、三好長慶逆心して、晴︀元を
恨むべき事あるべきかとて、晴︀元の舅佐々木の後見彈正忠定賴に、內意を通じて助
{{仮題|頁=219}}
勢を乞ふなり。二月下旬三好長慶、吾が身一分の上には、恐らくは他人の隨順する
事あらんと、豫め是れ覺悟なり。細川高國の子次郞氏綱を取立て大將として、河內國
遊佐河內守長敎・大和國筒井順照寺をかたらひ、中島の城に楯籠るなり。是に依つ
て、攝州・河內・大和の內、兵數多馳集りて三好長慶に與す。其勢三萬餘騎に及ぶ。六
月十一日早天に三好宗三入道・子息右衞門大夫政勝は、手勢三千餘騎、幷晴︀元の勢
二千五百騎を引率し、江波の城を打出で、江口の渡を越え、中島城に相近付き、江口の
鄕に陣取つて、豫め約諾しける近江の佐々木定賴子息義賢の援兵を相待つなり。廿
三日三好長慶、中島の城にて筒井・遊佐の人々を召集め、先づ江口の敵宗三を、今夜
夜討にやせん。又三宅の城に押寄せて、細川晴︀元父子を討ちやせんと、評定一途な
らざる所に、長慶が舍弟十河民部大輔一存が曰、敵宗三、此表へ寄來ると雖も、味方の
大軍に恐れて、近江の加勢を待つと見えたり。若し一戰半に及んで、江州の大軍馳
加はらば、一定味方の利あるべからず。急ぎ晴︀元の無勢にて、楯籠りたる三宅の城を
攻落し、直ちに其勢を以て、江口の城を攻落さんに、何の難︀儀あるべきと、一存手勢
八百七十騎にて、三宅城に押寄せ、急に之を攻む。已に一二の木戶を攻破る時、茨木
筑前守大手に進出でゝ曰、假令晴︀元朝臣、宗三入道を贔屓せられ、其沙汰に及ぶと
雖も、正なく代々の主君を辜なくして討ち奉るべくや。何れの不道か是に如かんと
のゝじり申せば、一存尤とや思ひけん。夫より人數を引拂ひ、淀川の東の堤に打懸
り、江口の城へ押寄せんとす。折節︀川水岸に湛へて、渡すべきやうなし。于{{レ}}時一
存が先陣、乾次郞が一家手の者︀七十騎一度に打渡す。是に依りて、江口の西の木戶
に破れ懸るなり。之を聞きて三好長慶は、細川氏綱を奉つて二萬三一千餘騎、丹波堤
を筋違に、江口の東の木戶口に押寄す。城中の兵三千餘騎一度に打出で相戰ふ。
于{{レ}}時城中に逆心の兵ありて火を放つ。是に依りて、大將宗三入道・子息右衞門大夫
政勝、大和口より落ちて越えんとする所に、河內國遊佐が內、小島十郞が發つ矢に
中りて、川端に討たれぬ。右衞門大夫政勝は、甲斐なく逃去つて、江州を指して落つ
るなり。此合戰に討死する者︀、都︀て一千八百五十三人なり。大將宗三が首は、十河
民部少輔一存が扈從、恒川八郞三郞之を取る。細川晴︀元父子主從廿餘人、三宅の
{{仮題|頁=220}}
城を落ちて、丹波路に懸り嵯峨に到つて、暫く逗留して未だ入洛せず。將軍家遮つ
て、伊勢守貞孝を使として之を召され、六月廿五日の暮に及んで、晴︀元父子入洛す。
佐々木の後見定賴朝臣、豫め晴︀元に力を戮すべしとの事にて、當廿四日三萬五千餘
騎を引率し上洛す。先陣進藤山城守貞治・二陣淺井下野守久政・三陣後藤但馬守實
興、今道を越えて北白川に打出づる。佐々木京極大夫義賢は、義秀朝臣と同陣にて
大津を經て上洛。{{仮題|分注=1|一說に、此時は出陣なし。定賴|と同じく觀音城にありとなん。}}先陣旣に西郊山崎神︀南に陣取る。大將義
賢は東西の九條に着陣なり。此所に於て、攝州の註進を聞くに、晴︀元昨日廿三日敗
北して、丹波路に懸りて落去の由なり。是に依りて、江州の勢、廿六日の卯刻陣を引
拂ひ、殘らず上洛。同廿七日前將軍義晴︀公・當將軍義藤公、京都︀を御出で江州に御下
向。是れ三好長慶が亂を避けて、御同道の人々には、大御所義晴︀公の御臺所の御兄、
近衞關白植家公・同御子內大臣晴︀嗣公・三井の門主聖護院准后道增・南都︀大覺寺門主
義後〔{{仮題|分注=1|俊|カ}}〕・九條關白政基の二男三寶院門主義堯・久我大納言晴︀通・庭田中納言某、武
家には佐々木左京大夫義賢・細川右京大夫晴︀元・子息右馬頭晴︀賢・同播磨守元常等供
奉。今日の暮には神︀樂岳に御旅館︀。此所に於て、逆徒追伐の御評定あつて、東山慈照
寺に御止宿。同廿八日今道に懸りて、江州志賀郡に御下向、東坂本常在寺を御旅館︀
とす。此所に於て、三好退治の評定あり。然りと雖も、本人細川晴︀元父子臆して、先
陣討つべきの覺悟なし。淺井下野守久政之を謾り陣を引拂はんとす。佐々木後見
定賴、觀音城を出で來りて之を諫むと雖も、晴︀元敢て進むことを得ず。再往の諫言
に及ばず、淺井下野守久政・進藤山城守貞治等、義秀朝臣を奉じて引退くなり。七月
九日三好筑前守長慶、細川氏綱を奉じて上洛し、悉く巡見して、十五日攝州に下向す。
家人松永彈正忠久秀を京都︀に留置き諸︀司とす。八月十一日將軍家御父子、上野民
部大輔信孝を遣して、越前朝倉伊勢の國司を召さる。十月廿八日將軍大御所、佐々
木定賴父子に命じて、慈照寺の大嶽中尾の山に御城を築かれんとて、今日鋤初す。
永原太郞左衞門・山崎源八郞之を奉行す。十一月廿六日より將軍大御所御不例、上
池院法印紹弼御藥を調進し奉る。十二月四日御所御快氣に依つて、伊勢國住人加
多兵庫助敎員が所持の大鷹竟花と號するを、彥部雅樂頭晴︀直を以て、之を召され、長
{{仮題|頁=221}}
等山御狩、近衞准后父子、細川家以下供奉。三井の衆徒等多く出迎へ夜に入りて還
御。淺井久政、進藤山城守に語りて曰、將軍家の體を見るに、甚だ武の御器︀量少し。
勢州の加多が祕藏する鷹を召し、之を御慰とせらるゝ事、此時に當らず、唯義士を
集め、武林の下に慰み給はゞ、何となく御運も開かるべし。人は其作用にうときと
き、必ず家を失ふ者︀ぞ。將軍家和歌に達し給はんより、武に達し給はゞ、誠に先祖︀
の大功も、自ら輝かせ給はんとなり。同甘一日より復將軍大御所御不例なり。今度
は片岡大和守晴︀親御藥を奉る。
十九年正月五日より、復上池院御藥を奉る。足に腫氣あり。同八日には山徒正覺
房法印が勸に依つて、御近習十二人登山して、中堂まで千度巡禮あり。久政之を聞
いて曰、人必ず亡びんとする時、先づ空しく物にかゝりて內に不{{レ}}宿、依つて物を賴
む。是れ先表なり。{{仮題|分注=1|久政名言|といふ。}}鬼神︀を祈︀るは常なり。事に臨み祈︀るべき所なし。嗚呼將
軍家他界せば、三好時を得て、天下是が物となるべし。是れ武將の勤めざるあやま
ちなり。自己の神︀明を磨出す人稀なれば、皆是の如しといへり。同十六日には、將
軍家の御祈︀として、佐々木・細川の兩家より大神︀宮代參、江州より平井駿河守勢州
に行く。同十七日前將軍家御不例大切に依つて、殿中に於て御祈︀事あり。義賢・高
保・高實之を奉行せらる。同廿一日將軍家御不例小驗、貴賤慶悅。同廿七日復御病重
る。是に依つて、竹田瑞竹軒定榮御藥を奉る。同廿九日、佐々木後見定賴朝臣、山門
祈︀願所雞足院・覺林房・上乘院・實光房・正覺房・南光房、一ハ坊の法印を請じて、去る廿三
日より今日に至るまで、一七日溫座の降魔あり。件の寺は佐々木代々祈︀願所なり。
山門の衆徒、之を六角家六坊といふ。二月二日より平井宮內卿明英・上池院紹弼兩
人、一紙誓言の御藥を進む。同十六日復中尾の御城普請事始り、佐々木定賴朝臣悉く
之を調ふ。此城、坂を登る事七町半餘中間に於て武者︀屯三所あり。南方如意嶽に
續ける尾崎を、三重に掘截りて、二重に壁を付け、石を其中に入るなり。四方山續き
なく最よき城なり。目下に山・攝・丹の三國を見下す。同廿八日大御所御病小驗なり。
三月七日、今日吉日と稽へ申すに依つて、大御所義晴︀公・當將軍義藤卿御同途、御座を
穴太の新房に移さる。廿六日御快に依り、廿七日如意嶽の新城に移らせ給ふべしと
{{仮題|頁=222}}
て、方に御動座の所に、伊丹大和守雅興叛逆の事、註進ありければ、猶新房に御逗留。
四月中旬より大御所御快氣に依つて、佐々木義秀・細川晴︀元等、日吉社︀にて神︀樂あ
り。久政之を奉行す。同下旬より大御所御病重く御藥常の如し。五月朔日、大御所
不快、是に依りて、如意嶽在城の人々、上野民部大輔信孝・伊勢守貞孝・三淵掃部頭晴︀
員・大館︀左衞門佐晴︀光・攝津守元造・飯︀川山城守信賢等、各穴太の新房に來集す。三日
大御所、上野民部大輔信孝に命じて、土佐刑部卿光茂を召して、御眞影を寫さしむ。
四日戊辰辰下刻、前征夷大將軍正二位大納言兼右近衞大將源朝臣義晴︀卿御他界。武
算四十一。{{仮題|投錨=將軍義晴︀他界|見出=傍|節=an-1-23|副題=|錨}}號{{二}}萬松院殿{{一}}御法名道照道、號{{二}}曄山{{一}}。七日、左大臣從一位を贈︀る。今日御
棺を慈照寺に移す。御佛事は相國寺鹿苑院に於て、之を執行す。細川右京大輔晴︀
元・子息右馬頭晴︀賢・同元常・佐々木修理大夫義秀・同彈正忠定賴・息左京大夫義賢・同
中務大輔高保・同左近大夫高實・朽木民部少輔植綱等、穴太の御所へ香奠を奉る。九
日御臺所御雉髮。號{{二}}慶壽院殿{{一}}。御戒師は妙安和尙。前將軍義晴︀公近臣多く剃髮す。
十一日佐々木・細川勸め申すに依り、當將軍義藤公、穴太の新房より比叡辻寶泉寺に
御座を移さる。廿一日御葬送、松田對馬守盛秀之を奉行す。五山長老西堂諷經。公
家には烏丸大納言光康・飛鳥井大納言雅綱・廣橋中納言國光・藤右衞門佐永相・日野左
少辨晴︀賢各送り行く。廿六日御中陰佛事滿散。今日敕使烏丸大納言光康・廣橋大納
言國光、贈︀{{二}}日輪當午の法華經一部{{一}}。六月廿一日、前將軍義晴︀公の御遺物を禁中に差
上げらる。御使は伊勢守貞孝、烏帽子上下にて參內す。御腰物は大原眞守鮫鞘、金
具は燒付、胴丸の目貫・緣・柄・頭折金、何も彫物御紋なり。傳奏廣橋黃門之を請取つて、
卽ち叡覽に供へらる。主上御泪を御衣に落させ給ふとなり。廿八日諸︀公家江州坂
本に下着して、寶泉寺の御前に於て各拜謁︀す。
{{dhr|4em}}
{{resize|200%|淺井物語}}{{resize|150%|本<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=浅井日記/本}}
{{仮題|ここから=浅井日記/末}}
{{仮題|頁=223}}
{{仮題|投錨=淺井日記|見出=大|節=an-2|副題=末|錨}}
{{仮題|投錨=三好、細川合戰|見出=傍|節=an-2-1|副題=|錨}}天文十九年十一月十九日、三好筑前守長慶、二餘萬人を引率して上洛し、東山の御城
を燒き、幷北白川の在家に放火す。同廿三日、三好長慶、大津松本に放火す。細川
晴︀元幷將軍義藤公の近臣三井寺に陣し、佐々木義秀竝淺井下野守久政、粟津より打
懸り相戰ひ、三井寺に陣取し、細川以下の兵敗北し、坂本へ引返す。是に依つて、粟津
の合戰勝に乘るといへども、三好事ともせず、江州勢の河瀨壹岐守・同丹波守馳前
む。精︀兵多く船手より射ける矢に、三好難︀儀して山科に引退き、三好、山科より直に
攝州に下る。同月三好長慶、攝州より上洛東山に放火し進んで、大津松本に到る。
晴︀元等が家人敗れ走る。
同廿年三月、三好長慶、細川氏綱を奉じて上洛し、十月參內す。洛中地子錢を免︀許す。
是れ洛人を懷けんが爲めなり。七月十四日。細川晴︀元家人七百餘人、相國寺に楯籠
りて、靜つ原の山本對馬守・大原の久保勘解由左衞門・芥川左近・山科の四宮十內左衞
門等を語らひ寄せ、三好長慶上洛せば、不意に圍んで、之を討つべしとの事なり。芥
川左近、三好に反忠しければ、方便悉く相違して、三好却つて逆寄に來て之を討つ。
此時相國寺悉く回祿す。{{仮題|投錨=源定賴逝去|見出=傍|節=an-2-2|副題=|錨}}八月大內介義隆︀の家人陶安房守晴︀賢謀叛して、九月朔日大
內介自殺︀す。此時公家多く自殺︀す。廿一年正月二日、佐々木後見彈正忠從四位下行
兼大膳大夫源朝臣定賴逝去。行年五十八歲。江雲寺殿と號す。法名承龜と號す。
道號光室。此人元相國寺僧︀。龜侍と號する者︀、舍兄氏綱朝臣逝去後、佐々木嫡領義
實、幼稚にて亂世の故、廿七歲にて還俗せられ、江州の後見として其武威高し。同
廿八日將軍義藤公、坂本寶泉寺より上洛、近衞關白植家卿・同內大臣晴︀嗣公・聖護院
門主道增・大覺寺門主義俊・三寶院門主義堯・久我大納言晴︀通同途、武家には淺井下野
守久政・佐々木義秀〔{{仮題|分注=1|脫字ア|ルカ}}〕を奉て後陣に打つ。左京大夫義賢は、父定賴朝臣の喪中
なるに依つて、供奉を闕かる。此時細川右京大夫晴︀元は、舅定賴朝臣逝去の後、賴む
方なくなりて、江州堅田に蟄居せられけるが、{{仮題|投錨=將軍家三好と和睦|見出=傍|節=an-2-3|副題=|錨}}將軍家旣に三好と御和睦なつて、上洛
{{仮題|頁=224}}
し給へば、剃髮染衣の身となりて、堅田を出奔せらる。淺井久政、江州傍輩中に語
りて曰、されば右京大夫義賢は、彼が爲めには小舅なり。殊に伊勢國司北畠・能州
畠山・本願寺・美濃國主土岐等、是れ皆父定賴有緣の國主なり。蓋ぞ此度此人々を相
語らひ、晴︀元を取立て、三好を退治して、彼が憤を散ぜざらんや。是れ偏に義賢武
備の足らざる故なりと、{{r|嚙|はが}}みて歎息す。二月廿六日、細川二郞氏綱其弟藤賢、攝州よ
り上洛し、三好長慶供奉、翌日將軍義藤公に謁︀す。三月十一日、細川氏綱右京大夫
に任じ管領に補す。其弟藤賢右馬頭に任ず。時に三好長慶、天下の權を執る。此時
三好が家人松永彈正忠久秀、長慶が長男義長が乳母と嫁して諸︀事を沙汰す。其奢
甚し。又長慶、此松永を京師に留めて萬づ下知す。此松永は西岡の凡下の者︀なりし
が、方々に變化して、終に三好に仕ふるに至つて、內緣に懸ること是の如し。六月十
日、越前國主朝倉左近將監延景上洛し、將軍家に謁︀し衞る。諱字を給はりて義景と
號す。實は江州佐々木の管領氏綱朝臣の二男、朝倉彈正忠孝景、これを養子とす。七
月八日朝倉義景歸國。此時左衞門督に任じ從四下に敍す。江州に滯留、淺井下野守
久政が館︀、小谷の城に於て軍事を評論す。今世武道に正しき將なし。運に乘じて一
旦功ありといふとも、後代武の龜鑑に備ふべき者︀なしと、義景曰、夫れ吾が武は子
孫の繁榮を能くすと雖も、非道にして身を立てずと。
廿二年正月三日、六角義秀朝臣、元三會勤行せらる。精︀進代雞足院導賀、淺井久政
代官として登山。七月廿八日、將軍家許容あつて、前右京大夫晴︀元父子上洛す。是
は佐々木左京大夫義賢豫め申しなすに依つてなり。嗚呼是れ亂の元か。今武將無
實なり。足利家滅亡殆んど相近しと、久政之を歎く。八月朔日、三好長慶、前右京
大夫晴︀元父子が許されて上洛すと聞きて、攝・河兩國の兵二萬餘人を引率上洛す。將
軍家防戰に及ばず、京師を去つて丹波國山國に下り給ふ。同十三日、將軍義藤公敕
命に依り上洛。
{{仮題|投錨=將軍義藤義輝と改名|見出=傍|節=an-2-4|副題=|錨}}廿三年二月十二日、敕詔に依り、將軍義藤公、御諱の字を改めて義輝と號す。佐々
木家名代として淺井久政上洛し、之を賀奉り、將軍家に謁︀す。十月十五日、小谷城、普
請成就。{{nop}}
{{仮題|頁=225}}
弘治元年正月廿五日、大地震、江州所々に損ず。二月、日本亂世故、流人多く大明に
かゝるの由註進。三月十四日、石見國より白鹿を獻ず。五月三日、安藝國嚴島神︀顯
廿三日に及ぶ。{{仮題|投錨=毛利元就陶全姜と合戰|見出=傍|節=an-2-5|副題=|錨}}十一月朔日、毛利右馬助元就と陶全姜と合戰し、全姜安藝國嚴島に
攻め入り、夜に乘じて之を討ち、全姜敗北す。是より毛利武威甚だ高し。大友義長
之を聞き、走りて長門國に到り、深川大寧寺にて自殺︀す。毛利は尼子の家來、陶は大
內介の家來、何れも主君を亡して武を輝すとなり。
二年、相州小田原の北條氏康、切ほこり其武德を以て、足利左馬頭晴︀氏の子、義氏を
取立てゝ、葛西谷に移し、奏聞を經て左馬頭に任じ、鎌倉公方と號するなり。傳聞
く、氏康の先祖︀、常に繪島明神︀を祈︀るとなり。久政曰、人必ず貧乏にして、能く佛神︀
の心に叶ふ。神︀亦之を憐む。富貴の時、貧を忘れずとなり。十月越後の上杉景虎・太
田三樂と、北條氏康と上州にて合戰す。景虎は元來關東上松家に僕たり。主君の稱
號を給はりて上杉と號す。
{{仮題|投錨=後奈良院崩御|見出=傍|節=an-2-6|副題=|錨}}三年九月五日、主上崩御、後奈良院と號す。三月佐々木大屋形義秀、勢州を攻む。
義賢之を下知し、小倉參河守三千騎を以て、勢州千草城を攻め、同じく三重の城を攻
む。倶に勢州軍記にあり。{{仮題|投錨=正親町天皇踐祚|見出=傍|節=an-2-7|副題=|錨}}十一月廿七日、踐祚、當今御年四十二年。近年打續く度
度の兵亂に付、御卽位の事延引、漸く先帝崩御の後、此の如きなり。
{{仮題|投錨=三好松永の亂|見出=傍|節=an-2-8|副題=|錨}}永祿元年、三好松永が亂に依つて、將軍源義輝竝に細川晴︀元、朽木へ沒落。同年正月
廿四日、將軍義輝公、細川前右京大夫晴︀元を管領に補せらる。三好長慶之を聞き、上
洛せんと欲す。是に依つて二月三日、將軍家、細川晴︀元父子を召連れて、勝軍山の
城に入り給ふ。淺井下野守久政、佐々木後見承禎︀入道を諫めて、將軍家竝に細川晴︀
元父子を、江州へ迎へ奉る。淺井久政、主君義秀を奉じて、坂本に往きて將軍家を
本誓寺に移し奉る。三月朔日、將軍家竝に細川晴︀元朽木谷に移り、此所に於て、三
好退治の評定あり。十三日、將軍家朽木より龍花の下生庵に御移、佐々木義秀竝に
承禎︀入道・子息義祐︀・淺井下野守久政、此外江州の旗頭中殘らず參り集る。細川晴︀元
父子先陣に相究め、四月廿三日、將軍家御座を、和途の善福︀寺に移さる。五月三日、將
軍家、又御座を善福︀寺より坂本本誓寺に移さる。六月四日、諸︀軍勢如意嶽の城に入
{{仮題|頁=226}}
りて軍伍を定む。于{{レ}}時細川晴︀元父子先陣。二陣江州の先手甲賀組。三陣佐々木義
秀竝に淺井下野守久政。四陣佐々木承禎︀父子。五陣將軍家の御家人。八日早天、先
づ諸︀軍を勝軍山に移さる。午刻に至つて、將軍家義輝公、坂本本誓寺より勝軍山の
城に御移り、九日未刻に、三好長慶が先陣松永彈正忠久秀、八千七百騎にて勝軍山の
麓に押寄す。江州勢則ち山を下りて合戰、敵七百五十七騎を討取る。味方の內、河瀨
刑部少輔討取る。其外、細川晴︀元の兵、將軍家の御家人江州勢合せて、三百五十四騎
討死す。此內甲賀組多く死す。九月廿四日、松永久秀と、將軍家の御家人幷細川晴︀
元の兵と北白川にて合戰、將軍家の兵竝に細川の兵打負け、引取らんとする所に、淺
井久政橫合に之を討ち、松永が兵七百三十騎を討取る。松永大に敗北し、將に討死
せんとする所に、西村主水正、淺井勢に討つて懸りて大に戰ふ。此間に松永久秀、虎
口を遁れて入洛す。九月義輝竝に晴︀元、坂本より進發し、勝軍山の城に旗を建てら
れ、松永彈正と白河にて合戰、十一月三好長慶と和睦、義輝は歸洛し、晴︀元をば芥川
に囚へ蟄居せしめ、年を經て死す。十一月十日、敕命に依り、三好和睦の事相調ひ、
將軍家御入洛なり。前右京大夫晴︀元をば、三好長慶家來池田太郞左衞門を以て、之
を召取りて、攝州芥川に召籠め置き、歲を經て晴︀元は病死。是より細川家斷絕す。
三好大に天下の權を執るなり。
二年二月上旬以來、淺井下野守久政、江州大屋形義秀を奉じて、後見承禎︀入道の武
器︀の儀中らざる事を謗る。其故は、承禎︀先に姊婿細川晴︀元が、三好が爲めに亡され
しを助け得ざる事を惡み思ふとなり。是より江州二つに分れて、佐々木代々の家
人、父子兄弟の間を隔てゝ、互に相凌ぐ。三月二十日夜、承禎︀の長男四郞義祐︀十六年、
居城箕作を去つて、佐和山の城へ退く。廿一日、淺井久政勢を寄せて之を攻め、數日
合戰に及ぶ。廿二日、百濟寺衆徒中之を扱ふ。是に依りて、久政兵を引去る。四月三
日、高野瀨美作守秀定、敵として承禎︀に背く。承禎︀父子八千餘騎にて之を攻む。淺
井久政、高野瀨を救ひて、大屋形義秀を奉じて、其勢一萬六千騎にて後卷す。是に
依つて承禎︀父子、塘を築いて水攻にせんと支度す。其塘縱五十八町、橫十三間な
り。高野瀨出で戰ふ。翌四日、叡山衆扱に依り、承禎︀兵を引去る。五月三日、長尾景
{{仮題|頁=227}}
虎、越後より上洛す。將軍家御相伴に召加へらる。加之關東管領職を申請け、又御
諱の字を給はりて輝虎と號す。七月八日、上杉輝虎歸國、淺井久政、小谷城に迎へ
て軍事を談ず。
{{仮題|投錨=正親町天皇御卽位|見出=傍|節=an-2-9|副題=|錨}}三年正月廿七日御卽位、毛利元就其料を調進す。是に依つて、大膳大夫に任じ、菊桐
の御紋を賜はる。五月、今川義元駿河より發向し、遠・三兩國を討從へて、尾張國に討
入らんとす。此時、織田彈正忠信長、援兵を淺井に乞ふ。佐々木管領義秀、淺井備前
守長政を差越〔{{仮題|分注=1|遣|カ}}〕すべき評定極の所に、當國不安の故之を止めらる。甲賀の池田前
田の一族に、三千餘人を差加へ、之を遣す。十八日、淺井久政が計らひとして、織田信
長の娘を大屋形義秀の御前に嫁入せんとし、信長に申送る。信長悅んで許諾し、舍
兄大隅守信廣の娘を養つて、義秀朝臣に嫁す。承禎︀父子不快なり。淺井長政が室
は信長の姊なり。國人も之を吉とせず。然りと雖も、久政之をなす。信長は今世
の强將にして、當國の助なりといひて、終に嫁娶の儀、相調ひて興入あり。信長娘千
世君廿二歲、義秀十九歲。
四年正月、三好長慶の長男義長上洛して、將軍義輝公に謁︀し、義長、新宅を洛に造る。
落成の後御成。三月十九日、八幡山典厩義昌逝去。大屋形義秀朝臣の叔父なり。四
月十日、勢州梅︀戶左近大夫卒す。佐々木前屋形高賴朝臣の三男なり。勢州に往き
て梅︀戶の家を繼がる。五月、大屋形義秀朝臣の若君誕生。御母は織田信長卿の娘
なり。七月廿六日、佐々木承禎︀勝軍山に出張、神︀樂岡にて合戰す。淺井下野守久政、
同備前守長政等、主君義秀を奉じて如意嶽に陣す。三好義長對陣す。廿八日、將軍
家御扱として、伊勢守貞孝を江州に下さる。江州勢是に依つて引取る。九月十日、
武田信玄と上杉景虎と、{{仮題|投錨=武田上杉合戰|見出=傍|節=an-2-10|副題=|錨}}信州河中島にて合戰す。輝虎は車備を以てす。信玄は鶴︀
翼の備なり。輝虎難︀なく鶴︀翼を打破り、切貫きて海︀津の城へ打入り、切貫きたるを
勝とす。武田は場を蹈へたるを以て勝とす。此時武田の兵多く討死す。十一月廿
四日、三好と手切に依つて、江州より攻上る。勝軍山に陣す。江州先陣長原安藝守、
北白川にて相戰ふ。先手敗北して長原討死す。其外、細川晴︀賢の兵百二十騎討死す。
此時、柳本・內藤・赤澤三郞も討死す。敵の先陣松永彈正が兵二百三十騎討取る。對
{{仮題|頁=228}}
對の合戰なり。淺井下野守久政、三好勢の左備と相戰ひて、淺井小泉を討取り、其外
七十三討取るなり。十二月十日、洛陽城北燒く。今月江州白鬚明神︀の前、湖中玉石
の華表現す。
五年五月三日、織田信長と齋藤右衞門大夫龍興と、西美濃に於て合戰、齋藤敗北す。
龍興豫め淺井久政に援兵を乞ふと雖も、江陽騒動の故是に應ぜず。
六年正月、安房里見義弘・武州岩付の城主太田三樂と、北條氏康・同氏政と、武州國府
臺にて合戰、里見敗北す。四月二日、東寺塔雷火。十日淺井。下野守久政、佐々木管
領義秀朝臣を奉じて、{{仮題|投錨=淺井久政佐々木承禎︀と合戰|見出=傍|節=an-2-11|副題=|錨}}愛智川にて佐々木承禎︀と合戰、淺井急に之を挫ぐ。承禎︀敗軍
して甲賀に入る。五月十日河州の畠山政家と、三好義長と合戰、畠山敗北して千三
百餘討死す。十月朔日、承禎︀の長男右衞門督義祐︀、大屋形義秀を亡さんが爲に、僞
りて種村大藏少輔・建部采女正兩人に命じて、先づ義秀公の長臣後藤但馬守を、今朝
登城の次を以て、觀音寺の城山の座敷に於て之を討つ。息後藤又三郞も同時に討
たる。其弟又六郞は、大屋形の御前に侍りて、此騷動を聞き、卽ち山の座敷に走入
り、種村・建部に討つて懸り、暫く相戰ひて死す。國中登城の面々、大に驚き其故を
問ふ。義秀朝臣、淺井久政に命じて之を尋ねらる。建部・種村事を當座の喧嘩に讓
つて、大慈恩寺に馳入る。二日、淺井下野守久政、大屋形義秀の命を蒙り、後藤自殺︀
の事、急いで糺明せらる。評定の人々、進藤山城守賢盛・後藤豐前守宗保・朽木宮內
少輔貞綱・山崎源太左衞門賢家・蒲生右兵衞大夫賢秀・貴地駿河守賢相・平井加賀守之
武・池田大和守定藤・磯野丹波守秀昌・本馬五郞左衞門成保・小倉備前守實治・加藤佐
渡守家治・建部源八兵衞秀明・種村伊豆守高安・武藤肥後守家明・山岡美作守實俊・馬
淵美作守元房・布施淡路守公雄・木村筑後守重孝・目加多左大夫秀遠・同又六郞秀保・
三上伊豫守秀成・宮本右兵衞賢祐︀・杉立又九郞秀政・森川民部少輔氏房・土屋左京進爲
吉等なり。其僉議未だ決せず、翌朝三日に及ぶ。右衆中猶觀音城にあり。四日、和
田和泉守貞國、右金吾義祐︀の內意を承けて之を扱ふ。五日、大屋形御病氣、是に依
つて、旗頭中評定停止。于時承禎︀父子、大屋形の御病氣を候はんが爲に入城す。淺
井下野守久政・同備前守長政・進藤山城守賢盛等、之を遮つて、義秀朝臣の入城を許さ
{{仮題|頁=229}}
ず。七日、訴人片桐主馬助、評定の場に出でゝ、承禎︀父子隱謀の事を白狀す。八日
曉、佐々木右衞門督義祐︀・同舍弟大原二郞賢永、日野の谷貝懸に落去し、承禎︀は甲賀
郡三雲に落去す。十日今度右衞門督義祐︀逆意に付て、淺井下野守久政・同備前守長
政沙汰として、近江國中の諸︀士を集め血を歃りて誓盟を堅む。所謂京極伯耆守高
鄕・同長門守高吉・進藤山城守賢盛・後藤豐前守宗保・同又五郞直政・乾甲斐守秀氏・伊
庭民部少輔實家・池田大和守定藤・同新三郞豐雄・同次郞左衞門高雄・同但馬守秀政・
石田刑部少輔賢三・伊左可中齋宗圓・井口宮內少輔秀成・磯野丹波守秀昌・伊達出羽︀守
實方・子息同出羽︀守秀宗・伊吹宮內少輔秀國・今井駿河守秀之・猪︀飼︀源五左衞門秀依・
馬場丹後守賴資・畑勘六左衞門高氏・速水右馬助實枝・林與左衞門高之・錦織民部少輔
常義・西野丹波守秀方・堀內藏丞賢永・同彌六郞正和・同伊豆守信武・同新助賢安・細江
河內守秀時・本莊孫二郞賢雄・本間又兵衞賢治・同五郞左衞門武保・戶田河內守則國・
富田刑部少輔實綱・藤堂角內左衞門高光・德永左近將監元方・鳥山左近丞實輔・大原丹
後守定綱・岡田備後守良隆︀・大宇大和守秀則・大野木備前守高盛・落合八郞左衞門高經
同出雲守家祐︀・隱岐平左衞門公廣・同左近大夫賢廣・小倉備前守實治・同內藏助實雄・
尾園管左衞門賢房・同土佐守定覺・大津日向守秀持・小河土佐守秀三・和田伊賀守惟政
同和泉守貞國・同中務丞秀綱・腰坂甚內左衞門安守・和途越後守秀信・若宮兵助秀光・
渡部監物高方・河合左馬亮康明・同安藝守實之・蒲生右兵衞賢秀・堅田兵部少輔秀氏・
片桐備後守實光・同備中守實方・柏原美作守資冬・鏡陸奧守高規・龜井民部少家繼・加
藤佐渡守家治・同孫六忠次・川野新兵衞貞英・片岡善左衞門元恒・川瀨壹岐守秀盛・海︀
北善右衞門實新・同主水正實信・同主膳正秀信・狩野彌八郞時光・金田河內守實繼
{{仮題|分注=1|秀宗兄なり}}梶原平八郞景宗・金田監物秀宗・神︀崎右近大夫賢高・同與太郎昌氏、橫山佐渡守高
長・吉田安藝守定雄・同若狹守定之・田上甲斐守實國・高島越中守實國・同日向守秀氏・
高宮參河守豐信・信武・建部左近將監信勝・同大藏少輔秀治・同源八郞秀明・高木右近
大夫義淸・藤堂善兵衞實成・田中播磨守實氏・同主馬助秀忠・同久兵衞吉政・谷口武兵
衞兼條・多賀日向守秀名・同新左衞門吉忠・高野瀨美作守秀隆︀・多羅尾和泉守賢賴・種
村大藏大輔身誠・同參河守賢仍・同伊豫守高成・同伊豆守高安・高田安房守實方・高橋
{{仮題|頁=230}}
越前守好信・田村兵庫助景輔・津田權內介高光・永田刑部少輔賢家・同左近大夫秀家・
楢崎內藏助賢家・同助八郞弼高・永原大炊頭實冬・同安藝守信賴・鯰江滿介貞時・同又
八郞貞雄・中原安藝守貞行・村井大學介高冬・武田肥前守信重・武田若狹守信佐・武藤
肥後守家明・同與助武信・氏家・左內左衞門守之・植村丹後守實賴・宇野武藏守親光・野
村越中守高勝・同肥後守秀勝・栗田式部少輔秀元・朽木宮內少輔貞綱・同信濃守元綱・
黑田伊賀守高三・同市正忠淸・熊谷二郞左衞門貞之・倉橋部右京進政廣・九里三郞左衞
門秀雄・山田掃部助秀成・山內<span style="display:inline-block;transform: rotate(-90deg)">捘</span>〔{{仮題|分注=1|本ノ|マヽ}}〕川守高吉・山岡美作守實俊〔{{仮題|分注=1|江州南部旗頭隨一|なり大日山の城主}}〕・同八
郞左衞門景隆︀・山崎源太左衞門賢家・山際出羽︀守秀俊・山路主殿頭弼高・馬淵美作守元
房・同源右衞門家盛・同豊前守賢秀・間宮若狭守信冬・眞野佐渡守信重・町野石見守秀
俊・松原彌兵衞賢佐・藤井豐前守貞房・布施新藏人賢友・同淡路守公雄・同藤九郞公保
〔{{仮題|分注=1|古今至|考人也}}〕・舟木重兵衞氏信・後藤豐後守宗行・同又五郞眞政・杓修理亮賢安・同孫三郞秀
豐・同丹後守秀道・駒井伊賀守貞勝・香莊源左衞門賢輔・上坂兵部少輔高宗・小足掃部
助政之・寺田掃部助成時・靑山左近大夫實定・靑木忠右衞門正信・赤田信濃守信光・赤
座加賀守秀春・同勘解由左衞門賢隆︀・同孫八郞永政・靑地駿河守實貞・同伊豫守秀資・
阿閇參河守信之・同淡路守長之・安養寺河內守秀春・弟子猪︀介高春・赤尾美作守長行・
坂田河內守泰高・澤田武藏守秀忠・同兵庫頭忠次・木村次郞左衞門重光・同筑後守重孝
木戶越前守秀資・萬木能登守高成・目加多左大夫秀遠・同越後守貞遠・同文六秀保・三
井新三郞安隆︀・同出羽︀守賢之・三上孫兵衞高久・同藏人佐高佐・同伊豫守秀成・同總左
衞門賴久・同九郞左衞門重政・三雲丹後守氏之・三田村相模守氏光・宮部安房守定秋・
宮川參河守貞度・三塚︀備後守高德・箕浦越後守高光・水原河內守賢隆︀・同伊賀守資盛・
同甚助二〔{{仮題|分注=1|本ノ|マヽ}}〕成・宮本右兵衞賢祐︀・同新次郞忠祐︀・進藤伊賀守貞方・下內太郞左衞門
長安・新村左衞門忠資・新莊伊賀守實賴・志賀山城守賴佐・日夏越前守秀種・同孫三賢
佐・樋口二郞左衞門之藤・平井駿河守定能・同丹後守賢供・一柳右馬助正之・木須管介
貞淸・森川左近將監氏兼・瀨田掃部助秀昌・千田伯耆守賢房・須田下總守家康・同七郞
左衞門賢隆︀・杉立又九郞秀政等なり。{{仮題|分注=1|家日記曰、江州諸︀士之頭二百六十人、此起請文於{{二}}佐々木神︀前{{一}}灰燒吸{{二}}食之{{一}}、子孫永々奉{{レ}}對{{二}}屋形{{一}}、逆心有{{レ}}之輩、悉可{{レ}}蒙{{二}}深罰{{一}}也。依{{レ}}是當家之御家人等於{{二}}末世{{一}}無{{二}}異念{{一}}者︀、云々。}}{{nop}}
{{仮題|頁=231}}
{{left/s|1em}}
敬白佐々木大社︀上卷起請文前書
{{仮題|箇条=一}}、近江國中御家人、依{{二}}奸亂{{一}}及{{二}}大亂{{一}}之條、是併諸︀臣越度不{{レ}}可{{レ}}過{{レ}}之。向後改{{二}}順路
之儀{{一}}、起請文相固之上者︀、大屋形樣幷承禎︀公御爲、御國之爲、聊以不{{レ}}存{{二}}私曲{{一}}、可然
樣可{{二}}覺悟{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}、自分之公事令{{二}}言上論訴{{一}}、御糺明之所、乍{{レ}}知{{二}}非義{{一}}、巧言者︀道理之由、不{{レ}}可{{二}}掠申上{{一}}
事。
{{仮題|箇条=一}}、他人之公事執取申上事、乍{{レ}}知{{二}}其仔細{{一}}不{{レ}}可{{二}}相紛{{一}}。猶以乍{{レ}}知{{二}}非義{{一}}、或爲{{二}}緣者︀・親
類︀・朋友等{{一}}、耽{{二}}賄賂{{一}}有{{二}}道理{{一}}之由、不{{レ}}可{{二}}掠申上{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}、公事執申輩、乍{{レ}}知{{二}}道理之旨{{一}}、或恐{{二}}權門{{一}}、或被{{レ}}賴{{二}}有緣輩{{一}}、不{{二}}仔細申分{{一}}、爲{{二}}其公事
非分{{一}}之儀不{{レ}}可{{レ}}有{{レ}}之。幷言上之仔細申募固、又者︀含{{二}}他事之憎︀{{一}}公事相手、同執申
輩、申{{二}}沈巧言{{一}}讒訴不{{レ}}可{{レ}}仕事。
{{仮題|箇条=一}}、於{{下}}被{{レ}}爲{{二}}仰出{{一}}儀{{上}}者︀、具以可{{二}}申渡{{一}}。然言上之輩、誤幷論{{レ}}之者︀不{{レ}}可{{レ}}然之旨、所{{レ}}及{{二}}
心中{{一}}、無{{二}}油斷{{一}}可{{二}}申聞{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}、依{{レ}}爲{{二}}相手權門{{一}}、其身之儀執申輩無{{レ}}之者︀、其旨趣以{{二}}起請文{{一}}、連判衆中指{{二}}當其仁
體{{一}}、兩人可{{レ}}被{{レ}}申{{レ}}之。然件之相手、縱雖{{レ}}爲{{二}}親類︀・緣者︀・烏帽子親之間{{一}}、不{{レ}}及{{二}}斟酌{{一}}、
右之旨、慥相屆可{{レ}}有{{二}}言上{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}、年貢所當諸︀役之儀、借用物等諸︀催促之儀、御中間之事者︀不{{レ}}可{{レ}}申。雖{{レ}}爲{{二}}自分之催
促人{{一}}、速可{{二}}其越判{{一}}仁、縱雖{{レ}}有{{二}}催促人{{一}}、爲{{二}}御中間請付{{一}}可{{レ}}致{{二}}註進{{一}}。然卒爾之働令{{二}}
緩怠{{一}}者︀、不{{レ}}及{{二}}仔細{{一}}隨{{二}}其咎{{一}}、可{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}不{{レ}}可{{二}}拾置{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}、連判衆之內、喧嘩・口論・公事等落居之儀、被{{二}}相屆{{一}}仁體有{{レ}}之者︀、至{{二}}其時{{一}}以{{二}}起請文{{一}}、
無{{二}}贔屓偏頗{{一}}可{{レ}}有{{二}}順路異見{{一}}。若判者︀申旨、無{{二}}同心{{一}}者︀道理方人相組可{{レ}}達{{レ}}之事。
{{仮題|箇条=一}}、雖{{レ}}令{{レ}}存{{二}}非分{{一}}、於{{レ}}有{{下}}被{{二}}御裁許{{一}}之儀{{上}}者︀、則其旨趣、被{{レ}}書{{二}}載新式目{{一}}、其公事之類︀、向
後一樣於{{レ}}有{{二}}御成敗{{一}}不{{レ}}可{{レ}}歎也。若又新式目不{{レ}}被{{二}}書載{{一}}已前、背{{二}}右之旨{{一}}御書奉書
等、申給輩有{{レ}}之者︀、一同御理可{{二}}申上{{一}}、不{{レ}}可{{レ}}爲{{二}}緩怠{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}、致{{二}}理非決斷{{一}}雖{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}、於{{レ}}有{{二}}抱置揆〔{{仮題|分注=1|脫字ア|ルカ}}〕者︀{{一}}、仔細各爰可{{レ}}被{{二}}申渡{{一}}。然者︀可{{レ}}被
{{レ}}任{{二}}御成敗{{一}}旨可{{二}}相屆{{一}}。尙以無{{二}}一途{{一}}者︀、旣背{{二}}公儀{{一}}之條不{{レ}}輕。濫惡縱雖{{レ}}爲{{二}}無{{レ}}遁
{{仮題|頁=232}}
間{{一}}見放、一味同心方付可{{二}}相達{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}、御使節︀幷諸︀事奉行等相勤之輩、或以{{二}}私曲{{一}}構{{二}}依怙{{一}}、或以{{二}}非分之儀{{一}}、民惱儀不{{レ}}可{{レ}}仕
事。
{{仮題|箇条=一}}、爲{{二}}代々方御家來之身{{一}}、依{{二}}當分之御奉公{{一}}、號{{二}}大屋形樣方{{一}}、號{{二}}承禎︀公方{{一}}、偏頗不{{レ}}可
{{レ}}存。若此旨者︀、此起請文御罰、至{{二}}子々孫々{{一}}迄、可{{二}}罷蒙{{一}}神︀罰深厚事。
{{仮題|箇条=一}}、向後御家人者︀不{{レ}}及{{レ}}申。他國御旗下之面々、於{{レ}}有{{二}}逆心{{一}}者︀、早速可{{レ}}致{{二}}言上{{一}}。依{{二}}
不{{レ}}遁間{{一}}令{{二}}緩怠{{一}}者︀、子孫永々可{{レ}}蒙{{二}}氏々之大社︀神︀罰{{一}}。尤可{{レ}}被{{レ}}除{{二}}御記錄所々名號{{一}}
事。
右此條々爲{{二}}公私相同者︀{{一}}也。十三箇條之內、而後心中之誤者︀不{{レ}}可{{レ}}有。神︀罰心裏{{三}}乍{{二}}
仔細存{{一}}、少相紛令{{二}}執行{{一}}之者︀、忝此大社︀上卷起請文之御罰、可{{レ}}蒙{{二}}深重{{一}}者︀{{仮題|編注=1|之|也カ}}。仍前
書如{{レ}}件。
永祿六年十月十日
{{left/e}}
十一月六日、前大屋形義實朝臣の二男、右京大夫義賴、若州の武田大膳大夫義統の
爲に養子となり。淺井下野守久政、是に供奉し若州に送る。
七年五月五日、大屋形義秀朝臣の若君生る。七月晦日、尾州の信長と濃州の齋藤龍
興と戰ふ。龍興敗北す。八月十日、復信長と龍興と合戰す。齋藤大に敗北すれど
も、終に信長の旗下とならず。淺井備前守長政、赤尾に吿げて曰、齋藤は誠に今世
の義士なり。末世武道盛んならん時は、此人を取るべし。又武道衰へて今日の勢に
着く世には、必ず是等を用ふべし。嗚呼今より後、義士あるべしとも覺えず。唯商
人の友を以て綠として、諧ふ如きの士のみ將のみ多からんといへり。
八年五月、三好左京大夫義繼家人、松永彈正忠久政等、將軍家を蔑如し、大に逆威を
振ひ、天子を輕んじて之を見奉る事、只神︀社︀の祝︀部の如くする事を、將軍家惡み思
食すに依つて、彼等誅伐の爲めに、蜜に御內意を以て、佐々木管領義秀・武田大膳大
夫義統・丹後の一色左京大夫義嗣に賴る。爰に佐々木承禎︀の長男、右衞門督義祐︀は、
三好左京大夫義繼が姊婿たる故、此事を以て三好に吿げ報ず。{{仮題|投錨=三好義繼等將軍を攻む|見出=傍|節=an-2-12|副題=|錨}}三好義繼・松永彈正
忠久秀・同右衞門佐久道、急に兵を催し、其勢八千餘騎にて、十九日の曉天に不意に
{{仮題|頁=233}}
發して、將軍の御所を打圍む。御所の勢、纔に五百餘騎なり。相戰ふこと辰の刻迄
に、御家人悉く討死す。時に將軍家義輝公、自ら手を下し相戰ひ防がる。御印三箇
所負はせ給ふに依つて、{{仮題|投錨=將軍義輝自盡|見出=傍|節=an-2-13|副題=|錨}}御殿に火を放ちて御自殺︀なり。御母公大方殿慶壽院殿と號
す。同じく自殺︀す。是は近衞植家公の御娘なり。將軍家行齡三十年。二十日、三好
義繼、家人平田和泉守を遣し、將軍家の御舍弟北山殿、鹿苑院御門主周暠をすかし、
洛內を出で夷川にて殺︀害す。義繼、家人茨木備前守を南都︀に遣して、將軍の御弟一
乘院の御門主を討取らんとす。此に三好義繼が家人、元は將軍家の者︀なりし大庭
大學助といふ者︀、密に人を南都︀に下し、京都︀の次第、門主に吿げ奉る。是に依つて、一
乘院御門主覐慶、二十日の戌刻に南都︀を忍び出で、春日山に入らせ給ふ。此所より
御家人大館︀左京大夫を以て、江州に吿げらる。廿二日、江州より一乘院殿御迎とし
て、平井加賀守之武を遣さる。之武卽ち御門主を供奉し、南都︀より直に江州甲賀郡
和田和泉守が城に入れ奉る。是は承禎︀の嫡子義祐︀は、三好義繼が姊婿たるに依つ
て、觀音城へは之を入れ奉らず。二つに分れて、佐々木家來中連判神︀文の內も
心々になりて、義祐︀方に與する者︀多し。淺井久政・同長政・進藤山城守賢盛に吿げて
曰、義秀朝臣の命を請けて、南都︀の門主覺慶を取立てんとす。義祐︀方の城主等、之
を討ち奉らんとはかり、國內穩ならず。六月七日、前將軍義輝公に左大臣從一位を
贈︀る。光源院殿融山道圓公と號す。八月四日、佐々木右衞門督義祐︀、甲賀郡の御所
覺慶を討つべき由を、甲賀廿一家の中、望月刑部左衞門・內記三郞左衞門・大野右近
上野十內左衞門・大川原左馬助・里川八郞左衞門・神︀保角內左衞門等に評し合すと風
聞す、大屋形義秀、進藤山城守賢盛に命じて、御門主を野州郡の內、矢島の小林寺に
移し奉らる。則ち進藤山城守之を警固す。承禎︀父子は、三好合體なれば、江州の御
家人等兩家に相分れて、偶〻交る時は、水の油に入るが如し。九月八日、淺井久政、主
君義秀に諫言し、{{仮題|投錨=覺慶還俗|見出=傍|節=an-2-14|副題=|錨}}矢島の御所覺慶を還俗させ奉る。京師に達し密に元服、左馬頭に
任じ從五下に敍す。敕使庭田中納言重保卿下向。加冠は佐々木管領義秀朝臣、理
髮は上野中務大輔淸信、打亂は淺井備前守長政、泔抔は三淵兵部少輔藤孝なり。時
に國主義秀卿、太刀・鎧等を獻ず。淺井久政・同長政、御馬を獻ず。今日改めて義昭と
{{仮題|頁=234}}
號す。
九年春二月十日、矢島の御所義昭公御扱に依つて、承禎︀は三雲より、義祐︀は貝懸よ
り、觀音寺の子城、箕作の城に入る。淺井父子、和睦の事甚だ同心せずと雖も、諸︀旗
頭中、各同心の上は、獨異儀に及ばざるなり。是に依つて、承禎︀父子、深く淺井を惡
まる。淺井父子も亦之を憤る。{{仮題|分注=1|勢州記、永祿九年三月十一日、佐々木義秀後見承禎︀、京都︀に攻上る。大手粟田口、搦手は山中今道中尾山に陣し、大手南禪寺上に陣す。三好と合戰、三好敗北都︀を落つ云々。}}
十三日、江州十六人評定衆、誓盟を固む。五月、出雲國主{{仮題|編注=2|居|尻カ}}子屋形
沒落の故に、家人龜井新十郞永綱、譜代主君の家を出で、他門に仕へん事を恥ぢて、
大屋形義秀朝臣に仕へん事を乞うて、江州に來つて淺井長政に談ず。屋形厚く憐
愍を加へらる。十二月廿八日、三好左京大夫義繼家臣松永彈正忠等評定して、前軍
萬松院殿の御舎弟、左馬頭義維の子、義榮を取立て奉りて主君とし、今日敍爵、或說
には〔{{仮題|分注=1|矢ノ字|脫カ}}〕島の公方義{{仮題|編注=2|禎︀|昭カ}}の御子なりといふ。
十年二月、矢島の御所左馬頭義昭公、佐々木義秀に命じて、所々に散在する御家人
共尋ね集めらる。三月下旬より四月上旬迄に、馳來る人々、公家には飛鳥井左中將・
德大寺中納言・日野大納言・藤宰相・五達左馬頭・綾小路中將・庭田中納言、武家には伊
勢伊勢守・二階堂駿河守・野瀨丹波守・一色丹後守・同式部大輔・飯︀河山城守・同肥後守・
大草治部大輔・會我兵庫頭・收村孫六郞・丹羽︀丹後守・上野佐渡守等なり。三月廿四日
左馬頭義昭公、竹生島參詣。淺井下野守久政海︀上之を警固す。八月十六日、三好義
繼、姊婿佐々木義祐︀に密談して、矢島の御所を、討たんと謀る由、風聞す。淺井下野
守久政・息長政・進藤賢盛等、此旨を大屋形に奏達す。屋形是に命じて御所を若狹に
移し奉らる。屋形義秀の御母と、武田義統の室は、御姊妹にして、何れも將軍家の御
連枝なり。廿四日、攝州住吉社︀鳴動。敕使奉幣あり。{{仮題|投錨=松永彈正謀叛|見出=傍|節=an-2-15|副題=|錨}}十月十日、松永彈正忠久秀謀
叛し、三好左京大夫義繼を南都︀大佛殿に襲うて、火を放ち急に迫る。義繼大に敗北
す。此時、般若寺兵火の爲めに燒く。十一月朔日、矢島御所義昭公、若州は分內狹く、
天下再興もなり難︀きに依り、朝倉彈正忠孝景・同子息義景を賴んで、越前に御移りな
り。義景は佐々木氏綱の二男なり。孝景之を養ひて家を附す。義秀の叔父の國な
れば、尤も異儀に及ばず。今年左馬頭義昭公、越州に御越年なり。國主義景は、禮
{{仮題|頁=235}}
を厚くして、舊好に負かずと雖も、其父彈正忠孝景は、常に御相伴に參り、甚だ不禮
なり。子息義景屬{{レ}}之。是に依つて、朝倉父子其中疎なり。
{{仮題|投錨=義榮征夷大将軍となる|見出=傍|節=an-2-16|副題=|錨}}
十一年二月八日、三好左京大夫義繼が奉ずる左馬頭義榮に、三好・松永等供奉參內、征
夷大將軍に任じ、從三位に敍す。左馬頭如{{レ}}元禁色昇殿を聽さる。此日、三好義綱從
四位下に敍し、松永久秀從六位下に敍す。六月十三日、左馬頭義昭公の御使として、
上野中務大輔淸信、越前より江州に來りて、淺井父子を以て、佐々木屋大形義秀に
吿げて曰、朝倉義景崇敬すと雖も、父孝景不禮にして、大義を談ずるに堪へず。始
終御本意を遂げらるべき事、尤も覺束なし。尾州、織田信長は、今世の良將にして
義秀竝長政有緣深し。旁以て信長を御賴あるべきかとの事なり。管領義秀竝に長
政父子卽ち領掌す。七月六日、左馬頭義昭公、上野中務淸信・長岡兵部大輔藤孝を
使として、尾州信長の許に到りて、三好退治の儀を賴まる。信長早速領掌す。上野・
長岡越前に歸る。此時、江州より淺井備前守長政を、尾州に副へらるべき所に、管領
義秀病氣甚だしき故之を闕く。{{仮題|投錨=佐々木義秀逝去|見出=傍|節=an-2-17|副題=|錨}}七月九日、佐々木廿五世管領源朝臣義秀逝去。江州
東西の旗頭中來集す。十日、御遺骸を慈恩寺に移す。淺井下野守久政・同備前守
長政稚屋形龍武御曹子五歲なり。之を奉じて觀音城に居す。御佛事奉行進藤山城
守賢盛・後藤豐前守宗保等なり。御追善の次第多きに依りて。之を記さず。御引導
は帝釋寺存海︀和上。籠僧︀十二人。山門五箇の別所の比丘衆なり。十八日、左馬頭
義昭公、越前より濃州御下向、小谷に御滯留。稚屋形を奉じて、淺井久政、左馬頭義
昭公に謁︀す。是に於て、三好退治の評定あり。十九日、信長公方家の御迎として、不
破河內守來る。廿五日、義昭公小谷城御動座、美濃國御下向、御旅館︀は立正寺なり。
翌廿六日、信長、岐阜より來りて、始めて公方家に謁︀し奉る。獻上物多く御家人に
及ぶ。八月九日、信長、岐阜より江州佐和山に來る。淺井久政・同長政・稚屋形龍武
丸を奉じて佐和山に到る。稚屋形は信長の孫なり。長政は姊婿なり。何れも外戚
として、始めて對面なり。各之を相賀す。是に於て、長政、信長に相擬して、同十日
{{r|繖|きぬがさ}}の城承禎︀父子の許に往きて、三好退治の儀に付て、信長、旣に佐和山に出向の由を
說いて之を諫むれども、承禎︀父子同ぜず。是に長政退いて進藤山城守を招きて、此
{{仮題|頁=236}}
旨を語る。進藤之を聞いて曰、往年承禎︀父子、三好義繼と所緣之ある故、公方義昭
公を討たんと欲す。其志至つて切なり。此度若し此の父子を除きて、抑へて信長
を引入れられば、恐らくは味方の內に、反忠の者︀ありて、災大事に及ばんか。淺井
聞いて、已むを得ず、重ねて承禎︀父子に强ふれども、更に同心せず。淺井詮方な
く佐和山に立歸りて、此由を信長に語る。信長之を聞いて曰、是非に此父子を味
方に招き入れずんばあるべからずとて、公方家の近臣上野中務大夫淸信に、不破河
內守・管屋九右衞門兩人を、承禎︀父子の許に寄せて再三催促に及ぶ。父子之を聞い
て曰、諸︀士評定の品を以て、三好御退治の御味方に參るべき條、尤も本意なりと雖
も、彼等當家に所緣たる事、世の知る所遁れ難︀きに依り、{{r|且|しばら}}く延引す。尙併、了簡
を加ふべしといふ。是に依つて信長、亦淺井長政をして、頻︀に父子を鞭策せらる。
父承禎︀は殆ど志を傾けらるゝと雖も、子息義祐︀全く之を受けず、稚屋形觀音城に歸
入せらる。二十日、信長、佐和山を立ちて岐阜に歸る、此時、長政、信長に評する事
あり。廿七日、信長、又岐阜より佐和山に來る。淺井父子出でゝ對評す。先づ承禎︀
の長臣、永原大炊頭に約して、{{仮題|投錨=信長、佐々木承禎︀と合戰|見出=傍|節=an-2-18|副題=|錨}}竊に稚屋形龍武御曹子を、觀音城より佐和山に移し、
永原以下の諸︀士をして、承禎︀に叛かしむ。翌廿八日、信長先陣として、愛智川表に
出張す。承禎︀豫め、信長・淺井寄來らん事を察して、三雲三郞左衞門・楢崎內藏助・建
部傳八郞・種村大藏大輔を先驅として、愛智川表へ差向けられ、其身父子は大軍を引
率して、觀音城より討出で、平場に控へて、敵の先手に向つて鐵炮を打ちかくる。此
時美濃・尾張に鐵炮未だ多からず。是に依つて、信長の兵多く討たる。是に矯まず
愛智川に臨んで轡を一面に雙べ、一文字に河を絕さんとす。案の外に水淺ければ、
軍勢過半河中に馳入る。時に承禎︀、豫め愛智川の水上を壅いで、流を止めて待ち
懸る十八箇所の塘を一度に切つて放つ。河水漲り落ちて寄手大に狼狽す。漂溺し
て死する者︀三千餘騎、信長敗北して岐阜に歸る。後に知る。承禎︀の支度誠に徒然な
らずと。九月七日、信長復岐阜を立ちて江州澤山に着く。淺井父子、稚屋形龍武御
曹子を奉じて同じく至る。是に於て、江州の旗頭等馳集る。其餘纔に承禎︀父子に屬
す。是に依つて右衞門督義祐︀使節︀を以て豫め加勢を三好に乞ふ。三好是に應ずと
{{仮題|頁=237}}
雖も、未だ果さず。十一日、信長、再び愛智川表に出張す。時に淺井父子、稚屋形を
奉じ來つて、信長に吿げて曰、去月尾・濃二州の兵、當國の地圖に疎くして、容易に承
禎︀の計略に墮つ。先づ且く佐和山城を擱いて、箕作の城を攻めらるべし。是れ承禎︀
父子所謀の外なり。其手の兵、國圖を知らずして、戰ふに難︀儀たらん。淺井父子、稚
屋形を奉じて江州の諸︀士を隨へ、先陣として箕作・觀音兩城の間に入りて、承禎︀父子
を遮つて箕作を攻めしめんといふ。信長是に應じて則ち佐久間右衞門信盛・木下藤
吉郞秀吉・丹羽︀五郞左衞門長秀を以て、箕作の城を攻めさせらる。吉田安藝守・同若
狹守・同出雲守・建部大藏大輔・同源八郞を籠め置かれたり。何れも精︀兵にて、信長の
兵多く討白らまされて引返す所に、松平參河守家康引違へて、討つて懸る。家人松
平勘四郞といふ者︀、一番に進んで攻登る。城兵防ぎかねて引入る。勘四郞續いて切
つて入る。城の諸︀將等叶はずして、淺井長政に就いて降參す。同日戊刻、和田山の大
將馬淵豐前守賢英・松原彌兵衞賢佐・木村筑後守重孝・宮木右衞門大夫賢祐︀、淺井長政
に通じて城を開渡す。十二日、承禎︀父子、永原大炊頭を觀音寺に留め、自身出で戰
ふ。前に淺井備前守に約諾せし如く、永原、觀音寺の城に火を放つ。是に依つて、承禎︀
幷義祐︀の兵大に敗北す。承禎︀父子、軍術盡きて野須郡落久保を差して落行く。是に
於て、甲賀郡の士和田和泉守、其外三雲・黑川・神︀保・大川原・池田等馳來る。承禎︀大に
悅んで、之を引き石部に移る。承禎︀父子に與せし城主等、夜陰に及んで、十八箇所迄
城を開いて、皆石部に往きて、承禎︀父子に相仕ふるなり。十三日、淺井下野守久政・同
備前長政、稚屋形を奉じて、觀音寺の城に復入りぬ。信長同じく入城す。昨日當城二
の丸と南丸とは燒火〔{{仮題|分注=1|失|カ}}〕す。其殘る所は、本丸・東の丸・竝に西大門・東門、諸︀士の山の
座敷なり。信長の兵は、桑實寺・老僧︀石寺外傍の侍屋敷に居す。同日信長、感書を松
平參河守の侍、松平勘四郞に遣す。同日信長、淺井長政に內談して、江州の制法を
沙汰せらる。其評定人は、信長の下、柴田權六勝家・森三左衞門可成・坂井右近將監長
勝・蜂屋兵庫助吉成なり。江州の下、進藤山城守賢盛・山崎源太左衞門賢家・平井加賀
守之武・目加多左太夫秀遠なり。十四日信長、長政と評す。今日公方御迎として、不
破河內守を濃州に下す。同日忍を京師に遣して、三好一家の方人を尋決す。十五日、
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{{仮題|投錨=將軍義榮病死|見出=傍|節=an-2-19|副題=|錨}}征夷大將軍源義榮公、腫物を病んで他界。是れ三好が奉ずる所の將軍なり。淺井長
政、信長に語りて曰、今上洛せんと欲するの所、此の人他界する事は、味方必ず本
意を遂ぐべき前表なりと。信長之を聞いて甚だ悅喜す。廿二日、左馬頭義昭公、濃
州より江州に到つて、觀音寺の城に御着座。于{{レ}}時西坂桑實寺を御旅館︀に轉ず。廿
五日、信長、長政に吿げて曰、某、義昭公を奉じて上洛し、三好・松永以下を退治すべ
し。然らば承禎︀父子、伊勢國司{{仮題|分注=1|承禎︀の|婿なり}}・本願寺顯如承認為等を集め、三好に力を戮せ、後
へに在りて攻上るべきなり。其時長政は、稚屋形龍武丸{{仮題|分注=1|長信孫|なり}}を誘ひ、觀音寺を守
り、江州を後見として、佐和山・小谷を固め、國中佐々木譜代の城主を懷け、承禎︀父子
竝に國主等が後卷を押へしめんか。長政然りとす。廿八日、信長上洛、東福︀寺に旅陣
す。左馬頭義昭公は、淸水寺に御旅館︀なり。今日敕使あり。京中耆老參賀す。同日
信長、一萬八千餘騎にて、靑龍寺の城を攻む。城主岩成主稅助長方防ぎ戰ふ。信長
の兵、柴田權六・蜂屋兵庫助・森三左衞門・坂井右近が手に、首八十三級討取る。廿九
日、信長三萬餘騎にて、復た靑龍寺を圍む。時に岩成主稅介軍術盡きて、森三左衞門
が手に屬して降參、卽ち城を開渡し、先馳の人數に加はる。晦日攝州芥川の城を攻
む。城主三好日向守・細川六郞。十月朔日の夜に入りて城落つ。十月二日、小淸水の
城主篠原右京進、防戰に及ばず、夜に紛れ落つ。{{仮題|投錨=松永久秀信長に降る|見出=傍|節=an-2-20|副題=|錨}}三日、左馬頭義昭公、小淸水の城に移
入る。信長は芥川の城に入る。同日信長、池田の城を攻む。城主池田筑後守之を防
ぎ戰ひ同四日降參。五日、松永彈正忠久秀、子右衞門佐を召具し、芥川に來り、信長に
降る。{{仮題|投錨=義昭征夷大將軍となる|見出=傍|節=an-2-21|副題=|錨}}十五日、信長、左馬頭義昭公を奉じて入洛す。義昭公は本國寺に御旅館︀、信長
は淸水寺に居る。十八日、左馬頭源義昭參內、征夷大將軍に任じ。禁色昇殿を聽さ
るゝ故、信長同じく參內す。同日の夜、敕使あり。義昭公參議左近衞中將を兼ね、從
四位上に敍す。十一月近衞關白前久將軍義昭の命に背きて職を止め、二條前關白晴︀
良再任す。十二月、東國へ下す忍の宛は、歸り申して曰、武田信玄、甥の今川氏眞を
逐ひて駿河國を奪ふ。是に依つて北條氏政、兵を遣して氏直を救ふと。
十二年正月五日、三好山城守・同下野守・同日向守・岩成主稅介・齋藤右兵衞大夫龍興・
長井隼人佐等五千三百餘騎、今月朔日、泉州堺の浦にて人數を揃へ、先づ家原の城
{{仮題|頁=239}}
主寺町左近舊部次郞を攻殺︀して、次に將軍義昭公の御座、洛下本國寺に押寄す。豫
め此旨を京師より江州に吿げらる。淺井久政・同長政・江州旗頭中評して、稚屋形の
命として、和田伊賀守・野村越中守を京師に差向けて、將軍家に加勢せしむ。今未明
に戰初つて{{仮題|投錨=三好一家敗北|見出=傍|節=an-2-22|副題=|錨}}寄手悉く敗北、三好が一家落去す。將軍御家人等手痛く相働き、野村越
中守大に軍功あるに依つて、將軍義昭公御感書を給ふ。
{{left/s|1em}}
今度三好一族攻來之處、於{{二}}所々{{一}}神︀妙之働。別而御感悅。殊數輩引廻智略之至、於{{二}}御
當家{{一}}二無之忠節︀思食所也。猶上野中務大輔申付者︀也。
正月七日 御朱印
野村越中守方<sup>へ</sup>
{{left/e}}
正月六日、未刻逆徒敗北の由、京師より江州に吿げ來る。淺井長政、亦此旨を岐阜信
長に觸れ送り、卽日長政は稚屋形を奉じて上洛す。相隨ふ面々、進藤山城守・後藤喜
三郞・蒲生右兵衞大夫・川瀨壹岐守・山崎源太左衞門・磯野丹波守・平井加賀守・池田大
和守・本間五郞左衞門・落合出雲守・小倉備前守・神︀崎右近大夫・吉田出雲守・建部源八・
種村伊豫守・布施淡路守・靑木忠右衞門・阿閇參河守・木村三郞左衞門・目加多左太夫・
宮木右兵衞・平井丹後守等本國寺後卷として上洛す。此外相留まる江州の城主は、
皆淺井久政に隨從して城を固む。是れ尙ほ不意を思ふ故なり。八日信長、江州高宮
に到り九日入洛す。二月二十日より、信長、近國諸︀士に命じて、二條元の御所に堀を
二町四方に掘り石垣をつく。卒爾の普請なる故に、山城中の寺社︀の石を取るとなり。
長政曰、神︀を後にし己を先とする者︀、果して天の責あり。奉行等之を知らざる故云々。
四月朔日二條御城の普請造畢す。同六日將軍家御移徙。七日敕使あり。信長參向し
之を賀す。淺井長政、龍武丸を奉じて同じく之を賀す。五月四日、淺井長政以下江州
に下る。蒲生右兵衞大夫賢秀、將軍家守護の爲めに京に留まる。信長取立の者︀木下
藤吉郞を京師に置く。十一日、信長、京を出で觀音城に到り岐阜に歸る。六月十八日、
將軍義昭公參內、從三位に敍し大納言に任ず。八月三日、伊勢國司佐々木承禎︀・同子
息義祐︀、伊賀國河合伊賀守を語らひ、信長・淺井を亡さんとするの吿あり。二十日今
三日の吿を以て、岐阜を立ち勢州桑名に到る。廿三日、米造の城に到つて軍事評定し
{{仮題|頁=240}}
て、國司の士木造播磨守が守る所の淺井を攻めらる。城兵に逆心の者︀ありて、防戰に
及ばず、卽ち降る。同日信長、勢州より軍利の由吿げ來る。長政、蒲生・進藤・後藤・山岡・
磯野寺を加勢として之を遣さる。廿九日、信長、江州の勢を加へて五萬三千餘騎、國
司居城大河內の城を攻む。城兵防ぎ戰つて、九月朔日に扱の事ありて、國司城を開
渡し和州に往くなり。信長之を憐み、其寄物多く之を與へしむ。同日信長の二男信
雄を、大河內の城に置きて、其弟上野介信包を上野の城に置き、三男三七郞信孝を神︀
戶城にすゑ、北伊勢五郡を瀧川左近に授け、長島城に置き、勢州諸︀關を破る。是より
先、信雄は國司の娘と嫁して、旣に其家督たり。家人等種々逆意あり。重ねて考へ
て記すべし。二日、江州の健士歸り來つて、件の旨淺井に吿ぐ。信長猶は伊勢に在
り。十一月十一日、信長勢州より千草越を經て、江州蒲生郡に到りて、觀音寺の城に
入る。是に於て、淺井以下の面々、勢州平功を賀す云々。十二日、信長上洛、將軍義
昭公に謁︀す。信長此時、禁中御修理の事をなす。長政曰く、信長名聞ながら、冥加に
相叶ふべしと。十九日、信長京を出で、江州に至つて岐阜に歸入る。
元龜元年二月廿四日、信長、岐阜を立ちて江州に來つて、觀音寺城に入り、御息女千
世君に御對面。{{仮題|分注=1|龍武丸の御|母なり。}}實は信長の兄、信廣の息女なり。信長之を養ふ。淺井以
下國中の城主、當城に於て信長に會す。
{{left/s|1em}}
江原武鑑十一、永祿十二己巳、人皇百七正親町院、自{{二}}永祿十二{{一}}至{{二}}天和三亥{{一}}百十五
年歟。二月十五日、兩將評議ありて、二條元の御所を、方一町四方を廣げ、さしわ
たし四十五間に堀を掘り、石垣等夫々に請取ありて、今日御所造營事始めあり。
五畿內に、近江・美濃・尾張等の人夫を集め、夜を日に續ぎ御所普請を急ぎ給ふ。村
井長門守・野村越中守・織田大隅守三人奉行なり。下奉行十二人、御所作事の次第
多きに依つて記さず。四月六日辰刻に、二條新造の御移徙の事相定まる。本國
寺の御所より、二條元の御所へ移り給ふ。昵近の公家衆二行に供奉す。次に江・尾
の兩將、其外名高き面々供奉なり。兩將より音物あり。八日敕使三條中納言、二
條の新御所に來り給ひて、再び二條御安座の儀を、皇家より御珍重たるの由、今日
午刻より諸︀公家諸︀門跡の御禮あり。九月・十日・十一日、二條御所に御能あり。大
{{仮題|頁=241}}
夫は梅︀若なり。洛中の貴賤見物致すべき由なり。諸︀公家・門跡・國主出仕なり。十
三日、將軍より江州へ仰付けて、洛中へ黃金を給ふなり。廿一日、二條南門に落
書あり。其歌に云、
なきあとの印の石を取集めはかなく見えし御所の體哉
右の落書を何故に立つるぞといふに、今度二條の新御所、急ぎに依て、遠國より石
など招き集むる事、おそきに依て、賀茂・平野・西山・東山の舊寺共、苔むしたる石共
を、あたるを幸に取る程に石塔など多ければ、此の如くは落書立てけるとなり。
廿五日、五條松原通より、彼落書立てたりし者︀を、野村越中守が手の者︀、搦取りて、今
日二條の御所に引參る。御所天の與へ給ふ所の罪人なり。如何樣にか罪に行は
んとて、種々思召して江・尾へ問ひ給ふに、信長曰、最も罪に行ひ給ふべきなり。四
條川原にて釜にて、いり殺︀さんなどゝ申さるゝ。屋形曰、甚だしき奉行の科なり。
落書を立つる者︀、治世のあやまりを正す所なり。何ぞ國家のあやまりを改むる者︀
を、罪する法あらんやと仰せければ、御所理にせまりて、彼の落書立てたる者︀を免︀
し給ふなり。彼の者︀は、隱れなき狂歌の上手にて、名を無一左衞門といふ町人な
りしが、先年三好家、御卽位を取行ひし時も、色々落書あり。
{{left/e}}
三月六日、信長江州より上洛し、將軍義昭公に謁︀す。四月朔日、信長、泉州に下り數
日留連して、買人を召集め器︀物等を翫ぶ。長政之を聞いて曰、信長武を意に忘れ
たるか。家業を外になす時は、必ず身を失ふといへり、十一日、信長、泉州より上洛、
十五日、將軍家、猿樂を催して、信長をして之を觀せしむ。十八日、淺井下野守久
政・同備前守長政、江州の諸︀士に向つて曰、此頃信長が行跡を看るに、其の志偏に天
下を奪はんとするにあり。恥づらくは、諸︀人彼に所緣たるを以て、我が內意を推
度せん。縱ひ彼れが爲に、肉を段々に碎かれ、骨を粉にすとも、何ぞ譜代の主君を
忘れて、をめ{{く}}と隨ひ移らんや。事延引せば難︀儀に及ばんか。{{仮題|投錨=淺井長政信長を討たんとす|見出=傍|節=an-2-23|副題=|錨}}急ぎ越州に傳へて、
義景等に相評して、近日彼等を誅伐すべし。若し佐々木家代々の御人の內、信長に
心あらん人は、憚を存ぜず、早速彼に吿げて、此旨を註進せらるべしと、進藤・後藤
以下の人々、卽座には是非の返答之れなし。十九日、長政、淺見對馬守を使として、越
{{仮題|頁=242}}
前の義景が許に寄せて、此事を吿げ送る。義景大に悅んで卽ち是に應ず。江州の諸︀
士、其志區々にして一同せず。或は承禎︀に傾いて甲賀に馳する者︀もあり。或は信長
に靡いて京師に赴く者︀もあり。又義を思ひ名を愛する者︀は、稚屋形に隨從して、淺
井父子が下知に屬する人もあり。此時江州三つに分かる。多賀新右衞門・山岡對馬
守は、忽ち裏反つて信長に屬して之を吿ぐ。信長、頓て彼等を內通として、江州の
士を多く我が手に引入れて、先づ越前を退治せんと擬せらる。廿三日、信長、京師よ
り若州に入り、{{仮題|投錨=信長、朝倉義景抱の手筒山城を攻む|見出=傍|節=an-2-24|副題=|錨}}悉く武田大膳大夫義統家來を背かしめ、其より義景抱の手筒山の城
を攻むとなり。廿六日、義景の長臣朝倉式部大輔が居城金箇崎の城を攻む。式部
大輔柔弱にして卽時に降る。廿七日淺井父子、其外江州の城主等、金箇崎・手筒山兩
城共に降參する由を聞きて、信長が後を遮つて討たんとす。信長大に驚きて兵を引
いて、廿八日、朽木越に引返す。越前勢追懸け戰ふ。信長將に討死せんとす。松平
參河守家康、後殿して朽木谷に懸る。朽木信濃守元綱、八百餘騎にて切所に引受
け、信長を討たんとして之を遮る。信長通り得ず。松永彈正久秀、朽木と舊好あり。
松永先づ往きて朽木を賴む。朽木、節︀を假初の所緣を忘れて、卽ち許して信長を通
す。{{仮題|投錨=信長虎口を遁る|見出=傍|節=an-2-25|副題=|錨}}信長虎口を遁れて洛に到る。江州の諸︀士、皆朽木が義なきことを惡む。淺井
長政、朽木を恥かしめて曰、元綱何ぞ馬を他門に繋ぎて、肩を聳し尾を振る。夫れ朽
木は江州先方の士にして、而かも佐々木家血脈の一流なり。其業の口惜しき、且つ
又名字を汚すの士なり。朽木一言の返答に及ばず。同月伊勢國司具敎、四月敕詔に
依り、將軍義昭之を扱ふ。信長已むを得ず、之を許す。五月、國司自ら和州より勢州
に歸入る。皆是れ佐々木承禎︀の所爲なり。信長二男信雄を婿とし、以て國を讓る。
天正四年十一月廿五日、國司一家自殺︀す。國司の居城は、竹井といふ所なり。後に
は內山がみせに隱居す。大河內といふ所にて自殺︀なり。此時、具敎が長男、中御所
侍從具長二男長野左衞門佐具定・長野家繼三男式部少輔具信・四男渥見殿□□具敎・
婿坂內具光入道範甫・子息兵庫頭敎國、皆田丸にて自殺︀なり。御本處とも號す。府
內に住す。國司家滅亡。
永祿十二年正月十一日、木造下總守・柘植三郞左衞門具敎の家人、此二人瀧川伊豫守
{{仮題|頁=243}}
を以て、信玄に內通する所、元龜四年五月五日、國司より信玄に內通の事、條々信長
之を聞き、再び發して國司を攻亡すなり。國司室は、佐々木後見承禎︀の長女なり。
五月二日、淺井長政、稚屋形を奉じて、南都︀の兵を催し、信長の兵稻葉伊豫守を守山
に攻む。江南の兵內・靑地采女正等裏切す。依つて味方敗北して、討死する者︀多し。
長政兵を引取る三日、信長、越前に留置きたる木下藤吉郞、信長の難︀儀を聞きて、今
夜雨を凌いで、越前を引いて京師に入る。九日、信長、畿內敵多くして在京難︀儀に
依つて、家人森三左衞門を志賀宇佐山に留置き、其身は東江州に赴く。愛智郡鯰江
城には、佐々木右衞門督義祐︀あり。甲賀には承禎︀あり。江東の城主淺井長政に隨ふ
者︀共、道に遮つて之を討たんと議す。時に日野の蒲生右衞門大夫賢秀・香津畑勘六
左衞門兩人、江州の譜代として主君を違背し、信長に案內をして、二十日の早天に千
草越に懸りて、北伊勢に之を落す。日野の內、三木大學助、此由を承禎︀に吿ぐ。承禎︀
の妾の父、家人杉谷の善住房を彼山に遣す。善住房鐵炮を以て之を打つ。信長運
强くして、此難︀を遁れて北伊勢に出で着す。件の妾、甲賀にありし時、一男子を生
む。後佐々木三郞といふ。義祐︀稱號を是に依つて許さず。母の氏を用ひて端と號
す。之を端の御房といふ。{{仮題|投錨=佐々木承禎︀、信長と合戰|見出=傍|節=an-2-26|副題=|錨}}六月五日、承禎︀、甲賀より野州川原に出張して、信長の士
柴田權六・佐久間右衞門と合戰、野州郡の內、江州譜代の士、三上伊豫守裏反りて、佐
久間・柴田に約して、承禎︀の後より切つて出づる。承禎︀敗北す。此日、三雲三郞左衞
門・同主水正・永原河內守・馬野瀨民部大輔・乾主膳正等を始めとして、八百卅六騎討
死す。七日、淺井長政、越前勢を合せて江北所々に要害を構ふ。江州の士堀二郞左衞
門・樋口三郞兵衞、信長に內通して裏反るなり。十八日、信長、堀二郞左衞門を案內
者︀として、小谷表へ打寄する。十九日合戰、信長の兵七百五十三騎討取り、味方二
百七十騎討死するなり。二十日、合戰對々の勝負なり。但し味方六分の勝軍なり。
廿一日合戰、信長敗北す。敵八百七十騎討取り、味方二百八十騎討死するなり。廿
二日合戰、信長敗北す。味方之を追ひ八十三騎を討取る。信長難︀儀して小谷表を引
去る。木下・柴田殿後たり。廿三日、信長、橫山の城を攻む。味方の兵大野木土佐守・
三田村左衞門佐・野村肥後守防戰し城兵多く討死す。信長勝軍なり。淺井長政、豫
{{仮題|頁=244}}
め約する所の朝倉義景加勢、朝倉孫三郞を大將として、一萬餘騎江北に到る。廿六
日、淺井・朝倉勢大寄山に打つて出で、信長と對陣す。此山より信長の龍鼻迄、其間
五十町を隔つ。廿八日、西方朝倉勢一萬餘騎と、信長方松平參河守家康の五千餘騎
と{{仮題|投錨=姊川合戰|見出=傍|節=an-2-27|副題=|錨}}兩陣姊川を隔てゝ、互に越しつ越されつ合戰、辰の刻より午の刻に至る。終に朝倉
方討勝つ。時に磯野丹波守・高宮參河守・進藤山城守・永原大炊頭・大宇大和守・目加多
左太夫・池田大和守・山崎源太左衞門・赤田信濃守・連大寺主膳正・神︀崎右近大夫・吉田
安藝守・建部源八・種村大藏大輔・山岡對馬守・馬淵豐前守・布施淡路守・三上藏人・宮木
新次郞・平井加賀守一萬二千餘騎を以て、信長方の先手に向つて一文字に討つて懸
る。信長の先手坂井右近・二陣池田勝三郞を乘崩し、北ぐる敵を追つて、首級三百
七十九之を討取る。此內、坂井右近が嫡子久藏・同家臣可兒彥右衞門・坂井喜八郞・同
大膳を討取る。坂井、池田方に崩れかゝる。依つて信長の本陣亂れ騒ぐ。于{{レ}}時長
政、橫合に討つてかゝり相戰ふ。參河守無勢なるに因つて、崩れかゝる所に、參河
守本陣を持固め平に直して、朝倉勢の中に橫合に討つて懸る。朝倉勢二つに分れ
て戰ふ。終に敗北して、前波新八郞・同新九郞・眞柄十郞左衞門・小林周防守・魚住主水
正・龍門寺佐渡守・黑坂備中守等討死す。東方長政備も、越前勢の敗北を見て、長政二
陣の兵、橫合に松平勢に討つてかゝる所に、信長本陣より、頻︀に鐵炮を打懸く。長政
の兵是に難︀儀して亂合ふ。此時、淺井雅樂助・同齋宮助・磯野孫兵衞・狩野次郞左衞門・
同二郞兵衞・遠藤喜左衞門・今村掃部助・東野刑部左衞門・伊部大學助・海︀北主水正・熊
谷二郞左衞門・同孫左衞門・今井內膳正・大津小彈正・上坂主殿助等討死す。藤堂源介
の子與介、十五歲にて高名あり。鑓下に首を取る。于{{レ}}時稚屋形の勢、磯野丹波守秀
昌以下の人々は、信長の先陣坂井・池田を乘崩して、續いて信長の本陣に討つてかゝ
る。信長當に討死すべき所に、越前の勢敗北を見て、長政橫がゝりの時、信長本陣よ
り打出す鐵炮に、歷々討死するを見て、敵陣を一文字に南方に切透き馳せ迫り、悉く
佐和山城に引籠る。七月朔日より、信長家人丹羽︀五郞左衞門、其外市橋九郞左衞門・
水野下野守・河尻與兵衞等を以て、佐和山の城を攻む。二日磯野丹波守秀昌夜討し
て、丹羽︀五郞左衞門が手○者︀百三十騎討取り、每夜忍を以て、敵陣の小屋を燒いて、敵
{{仮題|頁=245}}
兵二十騎・三十騎宛之を取る。敵是に難︀儀して、向城を取つて兵糧詰にせんと計る。
秀昌又忍を以て計る。七日、信長、江北の合戰七分の勝軍にして、先づ人數を引退
き上洛す。爰に三好山城守・同日向守、今度姊川合戰のしどろに引きて上洛すと聞
きて、東條紀伊守・篠原・奈良・岩成・細川六郞・齋藤右衞門大夫龍興、攝州野田・福︀島に
楯籠る所々の一揆をかり催し、上洛せしめんとす。信長之を聞きて遮つて、將軍
義昭公を奉じて攝州に下る。八月廿一日なり。甘九日より三好と合戰し、雌雄彼此
互に進退す。九月二日、將軍家攝州退治として出京、野田・福︀島へ向はる。于{{レ}}時大
坂の本願寺門跡顯如、淺井長政に之を通じ人數を出し、信長の兵を討つ。信長の兵、
是に難︀儀して討死する者︀多し。川口の合戰には、旣に將軍の兵大いに敗北して、野
村越中守討死し、信長の兵も敗北す。本願寺より此旨を通ず。長政も亦、越前の朝
倉義景に之を通ず。義景、卽ち二萬五千餘騎を引率して、九月十三日江州小谷に着
し、長政と評す。長政、稚屋形を奉じて、一萬八千餘騎竝に江州の諸︀士を相隨へて、十
六日志賀郡坂本に到り上洛せんと欲す。十九日、淺井長政、先手を以て信長の士森
三左衞門宇佐山の取手にあり。之を攻む。森、打出で戰ふ。敗北して森は瀨戶在家
にて討死す。長政の內、石田十藏、森が首を取る。其外首三百七十三、之を取る。
藤堂與介高名あり。長政、太刀を給ふ。佐々木承禎︀瀨多に陣す。是は信長、大津に
かゝらば打留むべしとなり。二十日・廿一日、味方の先手、大津・山科に陣す。廿二日、
信長、將軍義昭を奉じて、攝州を引退き上洛す。大坂より追駈け挑み戰ふ。信長敗
北して、人數を繰引にして京に引入る。廿四日、信長、今道越を經て江州志賀に出
で、宇佐山の取手に入りて、坂本表に向つて對陣す。淺井・朝倉・靑山、坪根笠山に
陣す。同日夜、信長人數を穴太村唐崎に移す。廿五日、越前勢八千餘騎二手に分れ
て、穴太村に打向ひ合戰す。信長の兵敗北し味方之を追ふ。長政制して之を止む。
十月十六日、淺井勢と信長先手と高畠に戰ひ味方敗北す。長政下知として、山路主
水正・昭光房以下、其兵六千餘騎、神︀崎・坂田・蒲生の士を構へ、箕作に楯籠る。信長の
士丹羽︀五郞左衞門・木下藤吉郞等、信長志賀の陣、難︀儀すと聞きて、坂本に往く所に、
箕作より討出で、之を遮り相戰ふ。山路・昭光房等戰死す。同日佐々木承禎︀、瀨多よ
{{仮題|頁=246}}
り陣を大津に移す。將軍義昭公、之を聞き勝軍山の陣を引いて三井寺に移す。又承
禎︀と尾花川にて合戰し、互に勝敗あり。十一月廿四日、堅田鄕地下侍猪︀飼︀甚助・馬場
孫二郞・居初又四郞、信長方に內通して、信長の士坂井右近を引入る。淺井・朝倉、兵を
寄せて卽時に之を誅伐して、坂井以下一人も殘さず、之を討取る。同日信長の士、池
田勝三郞が內通を以て、江州の士進藤山城守・後藤喜三郞・多賀新右衞門、山岡對馬
守裏反つて信長に降る。是は長坂江州の士魁たるを惡みてなり。淺井長政、義景
に語りて曰、進・後兩藤、竝に多賀・山岡、當國代々の長臣として、今此時節︀に當つて、
信長に降參する事は、眞に人外なり。又池田は元來當國譜代の士にして、一門を離
れて信長に仕ふといへばとて、其義を忘るゝ事、彼れ一人だも之を許さゞるに、剩へ
傍輩を牽墮す。今此義條〔{{仮題|分注=1|本ノ|マヽ}}〕是亦惡むべきの甚だしきなりと、義景曰、去れば古今
節︀義を守るの兵甚だ稀なり。不{{レ}}可{{三}}唯限{{二}}江州士{{一}}。受{{二}}生於弓馬之家{{一}}者︀は、最容{{レ}}恥{{二}}其
名{{一}}也。本朝之武士守{{二}}其節︀{{一}}之人は、後昆輝{{二}}其面{{一}}、失{{レ}}義者︀は子孫懷{{二}}其嘲{{一}}。彼等武運
遂に盡きて、無{{レ}}由{{レ}}立{{レ}}身。自招{{二}}惡果{{一}}下劣所業、實に不{{レ}}足{{レ}}論といへり。無{{レ}}益{{レ}}用、
在{{レ}}敵亦然りと互に相笑ふ。十二月朔日、信長、山門の老僧︀及び執行に內通して、和
平の事を義景・長政に乞ふ。之を受用せず。五日、瀨多に陣取る。承禎︀の家人山岡
對馬守を、信長志賀の陣に遣し、和平の事之を許す。同日敕使勸修寺大納言尹豐・將
軍義昭公御扱の事あり。長政・義景之を受けず。七日信長、血判の誓詞を、義景・六角
龍武丸家臣長政・本願寺光佐、叡山三執行に送つて和を請ふ。皆已むを得ず之を許
す。十四日、信長岐阜に下る。
二年二月十二日、佐和山城磯野丹波守秀昌以下、江州譜代の城主等信長に降り、城
を開渡す。信長、卽ち家人丹羽︀五郞左衞門を入れ置く。長政曰、嗚呼磯野以下江州
譜代の人々、惡名を子孫に貽す。百年不生の身を以て、士の志を失ふこと、誠に甲
斐なき次第、勝げて計るべからずと云々。江州の士、大半信長に降參す。今日迄當
手を背かれぬ人は、有難︀き志なり。節︀に當つて義を守る者︀實に少し。然るに彼等
信長に降參すとも、武の志なければ、必ず子孫の面を汚すべし。長政は信長の姊婿
たりと雖も、士の志を立て譜代の主君を捨てず。自今以後、尙ほ當手の諸︀士、譜代の
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主を見捨て、信長に降參せん人は、疾く當城を出でらるべしといへり。五月五日、長
政二萬三千餘騎を引率し、姊川表へ出張なり。赤尾美作守・阿閇淡路守・淺見對馬守・
馬淵伊賀守をして、橫山の城を押へさせ、淺井新七郞を先陣として、去年信長に內
通せし堀二郞左衞門を攻亡すべしとて、箕浦の城に押寄す。同類︀の樋口三郞左衞
門、堀と一緖に楯籠る。今朝卯刻に木下藤吉郞、後の山より脫出で、橫山の城より
箕浦の城に馳入る。午の刻淺井勢取懸り、酉の刻迄合戰して、敵二百廿餘騎討取
り、味方討死百人に及ぶ。六日朝、木下藤吉郞が企に依つて、高島の士三千餘人、信
長方に降つて箕浦に入城するの由吿げ來る。長政、先づ兵を引取つて、江州諸︀士の
逆心を試む。十一日、信長三萬七千餘騎を以て、尾州長島へ攻向ふ。是は本願寺光
佐一味のところなり。然るに近年信長抱の城を攻む。是に依つて、信長已むを得
ず發向すとなり。此合戰に、信長方大に敗北して引取るところに、長島勢、追駈け挑
みて、信長の士氏家常陸介入道ト全を始めとして、二千餘人討取るなり。八月十九
日、木下藤吉郞、信長に吿げて、堀・樋口相加はるといへども、長政手痛く之を攻むる
に依つて堪へ保ち難︀しと。是に依つて信長、岐阜より發して、橫山の城に馳入る。二
十日、信長、小谷と山本山の間に押入りて、先づ小谷の城を攻む。于{{レ}}時長政、一萬八
千餘騎にて、信長より押遣す柴田權六を追拂ふ。之を見て山本山の城より、阿閇淡
路守・同萬五郞三千八百餘騎にて討つて出で、信長の先手原備中守を乘崩す。于{{レ}}時
信長敗北して引退く。阿閇三千八百餘騎・赤尾・淺見六千餘騎北るを追うて、首を取
ること九百五十三なり。信長難︀儀して陣を繰引にして、橫山の城に引入る。藤堂與
助高名あり。長政の感狀に曰、
{{left/s|1em}}
其方事、及{{二}}二度{{一}}取{{レ}}首事、雖{{レ}}爲{{二}}若輩{{一}}神︀妙之至也。猶抽{{二}}軍功{{一}}之後、一廉可{{二}}取立{{一}}候
者︀也。
元龜二年八月廿日 長政<sup>判</sup>
藤堂與助殿
{{left/e}}
廿二日、信長、横山より佐和山に移りて新村の城を攻む。城主新村左衞門佐忠資、三
千餘騎にて討つて出で。大音を揚げて曰、江州佐々木代々の士、近年義を忘れて信
{{仮題|頁=248}}
長の爲めに降るといへども、新村に於ては、縱ひ身を肉びしほになすとも、義は失
ふまじと存ずといひて、一文字に駈入り、敵一萬九千の多勢に對して、今朝辰刻よ
り午刻迄、縱橫無盡に相戰ふ。新村が兵過半討たれ、纔に殘つて七百餘騎、尙ほ信
長の旗本を目に懸けて、切つて入る。佐久間・柴田ひらき合せて、之を討止めんと
す。新村之を物ともせず、七百騎一群に討つて通る。信長の二陣・三陣大に敗北し
て、信長正に危し。此時、新村切脫けば難︀なく遁るべきに、死を一途に思定めてけ
れば、少しもたゆまず相戰ふ所に、七百騎の者︀共、皆五箇所・三箇所手を負はぬ者︀な
ければ、{{仮題|投錨=新村忠資自盡|見出=傍|節=an-2-28|副題=|錨}}新村左衞門佐叶はじと味方を引まとひ、城に入り火をかけ自殺︀す。廿四
日、河瀨南北の城を攻む。城主河瀨壹岐守秀盛・大宇大和守秀則一族家子都︀合三千
餘騎討出で防戰ふと雖も、大軍河瀨の兵多く以て討死す。是に依つて叶はずして、
廿五日の夜に入り城に火をかけ、小谷城へ落去る。廿八日、小河城主小河孫一郞貞
勝・金森城主駒井本間弱兵にして、殊に貞勝は、柴田權六所緣たる故、一戰に及ばず、
城を開渡し、前代未聞の不道、武士の甚だ惡む所なり。九月十一日、信長、瀨田に陣
す。山岡父子に比叡山の四方間道等を案內させて、十二日未明に、早尾坂・奈良坂・無
動寺坂・本八瀨坂・雲母坂より、信長五萬七千餘騎にて討つて上り、諸︀堂に火を放つ。
衆徒等十方に北ぐ。悉く追つて之を討殺︀す。衆徒の內、少々防戰ふ者︀もあり。此
日、三王神︀社︀・中堂・講堂・戒檀堂・釋迦堂・法華堂・淨行堂、其外谷々の諸︀堂・開山傳敎大
師廟・淨土院を始め、殘らず燒く。此時、山門の僧︀徒上下合せて四千三百四人、竝に
雜人一萬三千人死す。淺井長政曰、信長、山門を恨むる意趣は、先年武田上洛の志
ありて衆徒に內通し、將軍義昭公に密に通ずといふ。次に義景・長政といふ先手寄
處ありといふ。其上山徒等、信長愛する所の舟木慈敬寺を討つといふ。此三つを
以て、今是に及ぶか。嗚呼信長は不仁なり。何ぞ恨を佛神︀に遺し、手に立たぬ僧︀徒
を燒討にし、殊に朝家護持の法跡、國土安全の道場、是の如きの靈地を、己れ一人
の恨を以て燒亡すこと、狼藉血氣の小人なり。末代の武士たらん者︀思ふべし。之
を吾が武は國の父母たり。敎へずして其子を殺︀さんや。吾れ信長が娣に嫁し、殊
に疎意有るまじき事なれども、彼が行末の所存を兼ねてより考へ見るに、遂に武の
{{仮題|頁=249}}
冥加に盡きて、逆亡久しからず、必ず獅子身中の蟲の爲に身を墮し、一生の功空し
く子孫の面を恥かしむる者︀なり。
元龜三年三月六日、信長岐阜より横山城に入る。七日巳刻、信長、小谷表に寄來る。
長政、宵より在々に伏兵六千を、三所に分ち置き、味方敢て兵を出さず、敵を城下に
引寄せ、信長先陣八千餘騎、余吾木本邊に來る時、伏兵兩方より一度に發る。于{{レ}}時
城中より長政討つて出で、前後より敵を挾み討つ。信長敗北して橫山の城に引退
く。九日信長大溝に引退く。時に長政、志賀郡の士に吿げて信長を攻めしむ。信長
討つて出で相戰ふ。志賀郡の兵敗北して引去る。長政、援兵として阿閇淡路守・淺
見美作守に、兵六千餘人を差副へ之を遣す。志賀郡の城主等なり。已に敗北すと聞
きて各引返す。十一日信長、志賀郡に討つて出づ。明智十兵衞・丹羽︀五郞左衞門・中
川八郞左衞門・山岡玉林齋・進藤山城守を以て、木戶城主佐野十乘房・比良城主田中
房覺雲法印・和途の城主金藏坊成覺・眞野城主西養房善正・雄野城主和田源內左衞門
等を攻めしむ。城主等防戰ふといへども、大軍にて數日の合戰故、城を開渡すなり。
十二日、信長京に入る。十三日、進藤山城守賢盛扱に依つて、志賀の城主志賀若狹
守城を開渡す、長政之を聞きて曰、進藤は江州代々の長臣として、其威高く功もあ
り。近年信長が血氣に{{r|阿|おもね}}り隨ふ。唯己れ一人のみならず、同輩迄引墮して降參せ
しむる事、人外の所爲にして、武の沙汰にあらずといへり。四月二日、細川六郞之
元・岩城主稅介、種々に手を入れ又信長に降參す。信長も不勇の士と見て之を用
ひず。此月、三好左京大夫義繼、松永彈正忠久秀息右衞門佐相議して、信長上洛の
次手を以て、之を討たんと欲す。信長先立て高屋の城に攻向ふ。依つて三好義繼兵
を引率して、河內國若江城に引籠る。松永彈正は、大和國信貴城、子息右衞門佐は
同國多門の城に引籠るなり。信長京を出で岐阜に歸る。山岡父子、江北の難︀を思
うて鈴鹿越に導き之を下す。七月廿一日、信長長男三郞信忠を引具して、小谷に寄
來る。長政討つて出で相戰ふ。味方敗北す。于{{レ}}時下野守久政、搦手より討出で橫合
にかゝる。信長の兵是に切立てられて引退く。首を取ること二百卅五、味方討死
二百十二人、今日の合戰は對々の軍なり。廿二日、信長、木下藤吉郞を先陣として、山
{{仮題|頁=250}}
本山の城を攻む。阿閇淡路守子息萬五郞、八百餘騎討つて出で相戰ひ、敵七十五騎
を討取り味方五十六騎討死す。廿三日、信長、長途を歷て山本に寄す。淺井長政、朝
倉義景に吿げて、此表出張すべき由をいふ。義景是に應ず。晦日、朝倉左衞門佐義
景、二萬三千餘騎を引率し江北に到る。八月十日、信長の兵と義景の兵と足輕迫
合あり。此軍の最中に、義景の家人前波九郞兵衞・同九助・富田孫六・戶田與次・毛屋
猪︀之介、木下藤吉に屬して裏反す。信長、取手を虎御前山に{{仮題|編注=1|着}}〔{{仮題|分注=1|築|カ}}〕く。木下藤吉郞
を居う。十六日、宮部善祥︀房祐︀全逆心し、信長の手に屬して、近邊の士を集む。此時、
信長、橫山の城に居す。宮部を以て、淺井郡伊香郡を拘引せしむ。十七日、長政、宮
部善祥︀房を討たんとて、赤尾美作守に三千餘騎を差副へ之を攻む。木下藤吉郞、宮
部を救ひ來つて合戰、互に勝敗あり。十一月三日、長政、宮部城を攻む。木下藤吉郞、
其外信長の援兵多し。故に城堅固にて墮ちず、足輕迫合にて、長政兵を引取るなり。
十二月廿四日、松永彈正忠久秀父子、佐久間右衞門尉を使として降り、信貴・多門の
二城を開渡す。{{仮題|投錨=松永久秀信長に降る|見出=傍|節=an-2-29|副題=|錨}}長政曰、久秀は元來山城國兩郊松波とて、凡下の者︀たりしが、彼方
此方に腰を折り諧ひ仕へ て、主人を悉く亡して、已を立つ時の宜に乘じて、已に諾
侯の位に陪すといへども、吾が武の立つる所を知らず。故に恥を捨て面を曝して、
三好に背き信長に隨從する事、其種姓の拙さにと思へば、片腹痛しと云々。
天正元年正月十日、松永父子岐阜に下り、信長に語ひ見ゆるなり。多門の城には山
岡對馬守を入置き、信貴の城には進藤山城守を入置くなり。廿八日、信長と信玄
と互に其罪を數へて、之を將軍義昭公に訴ふ。將軍家、武田信玄が志を是とす。信
長甚だ之を恨むといへども、時を待者︀なりと世人いへり。二月四日、將軍義昭公。三
淵大和守を御使節︀として、信長御退治の御味方に參るべき由、淺井長政に吿げ下さ
る。長政曰、奉る所の稚屋形は、將軍の御甥子、義秀朝臣の長男なれば、殊に淺井台
命に應じ奉るべき事なれども、長政、常に將軍家、武將の器︀に當らざる事を思ふ故に、
畏り奉るとは御受申しながら、且つ出陣の催はなし。志賀郡{{r|仰木|おうき}}上の房貞慶が方
より吿げて曰、將軍家、信長御進伐として人數を相催さる。勢多の山岡光淨院・山中
の磯貝新右衞門・堅田の地下侍等、其外公方家代々の御家人彼此二千餘人なり。同
{{仮題|頁=251}}
廿一日、信長、家人柴田・明智・丹羽︀・蜂屋を遣し石山を攻む。山岡光淨院一戰に及ば
ず降參す。卽ち城を開渡す。廿八日より堅田の城を攻む。是れ亦地下侍一揆の事
故、戰迄の事に及ばず、首を延べて降參す。然れども明智十兵衞聞かず、之を戰は
ずして誅伐すとなり。三月十日、將軍家、上野中務大輔淸信を以て越後に下し、長尾
を賴る。是に應ず。次に武田信玄に賴まる。相應ぜずとなり。是れ信長誅伐の事
なり。武田は公方の作法惡しき事を聞きて、迚ても御味方に參るとも、將軍家の行
末保たざる事を察して相應ぜざるなり。{{仮題|投錨=信長、義昭の御所を圍む|見出=傍|節=an-2-30|副題=|錨}}廿八日、信長、岐阜より上洛して、將軍家の
御所を圍む所に、禁中より御扱として近衞殿・九條殿、信長の陣に到る。信長已む
を得ずして、敕命に從ひ兵を引退く。四月四日、三好黨俄に發りて、信長を不意に
討たんとす。信長、兵を差向け防戰ふ、三好黨敗北して、火を町屋にかけ落去す。
此時、下京多く燒く。七日、信長京を出で江州に下る。佐々木右衞門督義祐︀を、鯰
江の城に攻む。義祐︀出で戰ふ。信長、家人佐久間・柴田等を以て、附城を拵へて每日
足輕迫合あり。義祐︀、信長に敵する事度々多き中に、別して今度將軍家御味方に參
り、信長の下向を遮らんとす。時に蒲生右兵衞大夫之を扱ふ。義祐︀受けず。之を
信長家人を以て、義祐︀を押へて岐阜に下る。十五日、承禎︀、甲賀郡石部を出で紀州
雜賀に往く。二男佐々木大原二郞賢永、甲州の武田を賴つて甲斐國に下る。淺井
父子之を聞きて曰、噫承禎︀父子、義祐︀と一緖に鯰江に籠り、有無の軍に運を果さで、
謀と號し身を去らんや。子孫の面を汚さんよりは、姓名を天下に輝し、後なきこそ
よけれ。七月朔日、將軍家再び信長誅伐の催あり。今度は行を替へて、二條の御
所には、日野大納言・藤宰相・德大寺義門、竝に三淵大和守・伊勢備中守・三浦內藏
助等、一千七百餘騎を籠置き、將軍は宇治の眞木の島に御陣をすゑらる。是れ信長、
再び上洛し、二條の御所を攻むるの時、將軍は夜に入り、佐々木右衞門佐義祐︀・渡部
宮內少輔と牒じ合せて、洛中に火をかけ、一戰中に信長を討取るべしとの行なり。
此時、將軍家、三淵大和守を差下され、淺井長政は信長上洛の後を遮るべき由、仰せ
下さる。長政復た御受申しながら兵を發せず。阿閇淡路守曰、上意に任せて信長
上洛の後を遮らば、必ず信長を討取るべきなり。長政聞いて之を曰、他の弊に乘じ
{{仮題|頁=252}}
て當敵を伐つことは、良將の惡む所なり。足下の言中らず。此節︀若し長政、後を遮
るならば、一定信長を討たん事、石を以て卵を壓ぐが如くならん。然りと雖も、吾
が武の志を外にせば、必ず後人の笑を受くべきなりとて、遂に兵を出さゞるなり。
阿閇曰、正成・長政のみ天下の義士なりと。長政曰、足下の言、將には吉と。五日、信
長大に驚きて岐阜を立ち、江州佐和山の城に入る。是に於て、將軍家方便の樣を吿
ぐる人あり。是に依つて、朝妻より諸︀勢殘らず、船にて坂本に着き、今道・大津二手
に分れて上洛し、町屋に火を放ちて、二條の御所に攻向ふ。城には大將等公家其外
弱兵にて、一戰に及ばず降參す。七日、信長、二條妙覺寺に居す。于{{レ}}時長岡兵部大
輔藤孝・荒木信濃守・伊丹內藏助・三浦內藏助等信長に降參す。十五日、信長、兵を二
に分ちて、宇治眞木島に攻向ふ。此時、江州譜代の城主、悉く信長に隨從して、宇治
に馳向ふ人々には、蒲生右兵衞・子息忠三郞・永原筑前守・進藤山城守・後藤喜三郞・永
田刑部少輔・山岡美作守・同孫太郞・同玉林齋・多賀新右衞門・山崎源太左衞門・平井加
賀守・小河孫市・久德左近右衞門・靑地千世壽麻呂・池田孫二郞等なり。宇治・眞木島
の兵討出で、{{仮題|投錨=義昭の軍敗北|見出=傍|節=an-2-31|副題=|錨}}巳刻より午刻迄防ぎ戰ふと雖も、信長大軍に依つて、將軍家の兵悉く
討死す。于{{レ}}時蒲生右兵衞大夫・山崎源太左衞門方へ、將軍家の近臣二階堂山城守を
以て、御扱の事仰出され、信長已むを得ず是に應じ、木下藤吉郞を以て城を受取り、將
軍義昭公を普賢寺に入れて後、信長、木下藤吉に命じて將軍を送る。河內國津田を
越えて尊延寺にかゝり、若江の城に至る。後に紀州に往き、又毛利家に依つて、永く
足利の家を絕す。十八日、今度將軍家に屈したる渡部宮內少輔、預め{{r|計略|はか}}るところ
相違しければ、一乘寺の城を出で、佐久間に便りて信長に降參す。十九日、將軍家に
屈せし和田伊賀守惟政、攝州に居る。信長之を攻む。當國の士中、川瀨兵衞といふ者︀
あり。和田伊賀守が隱るゝ所を知りて、之を尋ね首を取る。二十日、信長、洛中地子
料迄免︀許す。先代より天下を治むる人、先づ洛內の地子錢を許す事、是れ古規なり。
信長、今天下を治めんとするに依つてなり。廿七日、信長、洛を出で江州に下り岐
阜に下り歸る。八月七日、永田刑部少輔が諫に依つて、{{仮題|投錨=淺井長政山本山の城を攻む|見出=傍|節=an-2-32|副題=|錨}}山本山の城主阿閇淡路守・
同萬五郞、信長方に裏反る程に旗を差擧ぐる。八日、長政、山本山の城を攻む。阿閇
{{仮題|頁=253}}
降參す。長政、兵を引取らんとするに、淺井石見守曰、彼信長の出張を待たんが爲
に、僞つて降るなるべし。唯攻亡すべしと、長政曰、縱ひ僞つて人を誑すとて、已に
降參する者︀を攻むべきかとて聽き敢ず、嗚呼是れ淺井家の運盡くるなりといへり。
十一日、信長、岐阜より江北に來る。同日、月ヶ瀨の城主伊部掃部助城を開き去
る。併、信長には降らず。長政曰、伊部弱兵なりと雖も少し義ありと。十二日、信
長の兵佐久間右衞門・柴田權六等、大嵩の北山田山に陣す。是に依つて、小谷より
越前通路不自由なり。敵之を計つて陣す。同日、朝倉左衞門督義景、二萬二千餘
騎を引率し、長政の援兵として來つて、田邊山に陣す。信長の兵、高月に來つて義
景に對陣す。于{{レ}}時淺見對馬守裏反つて、大嶽の三の丸へ敵を引入る。是に依つて、
十三日、越前勢の內、齋藤刑部少輔・小林彥六・西方院數馬助以下二千七百餘騎、忽ち
信長に降參して、越前の鄕導をするなり。{{仮題|投錨=信長、義景と合戰|見出=傍|節=an-2-33|副題=|錨}}十四日、丁野山落つ。越前の兵、是に居り
早速落城する事は、城中に平泉寺僧︀ありて、內通裏切の故なり。十五日、義景兵を
引退く。信長、刀根山に馳付け大に戰ふ。{{仮題|投錨=義景敗る|見出=傍|節=an-2-34|副題=|錨}}義景敗北して武者︀頭多く討死す。所謂
朝倉治部大輔・同掃部助・同權守・同土佐守・同豊後守・同八郞左衞門・三田島六郞左衞
門・河合安藝守・靑山隼人・鳥井與七郞・久保將監・佗見越後守・山崎新左衞門・同肥前守・
同七郞左衞門・細本治部少輔・中村五郞左衞門・伊藤九兵衞・中村大學助・和田九郞右
衞門・引多山城守等なり。又前美濃守護齋藤右衞門大夫龍興、此時義景に依つて同
じく討死す。義景一騎當千の家子多く討死するに依つて、兵を引いて越前に入る。
若州の兵之を聞き、多く信長に降參す。十八日、信長、越前府中龍門寺に陣す。朝倉
譜代の城主等皆信長に降參す。是に依つて義景、居城を保ちがたく、武備の術盡き
て、近臣等を引率し、今日子刻に一乘の谷を引拂ひ、他國の兵知らざる山中にて、而も
小勢を以て大軍を防ぐに利ある所なりとて、大野郡山田の莊六房に引籠る。信長の
兵ともに曾つて、義景の在所を知らず。二十日、信長の士稻葉伊豫守、平泉寺の僧︀を
かたらひ、大野郡の百姓を懐け、義景の在所を索出す。稻葉卽ち義景の館︀を圍む。
時に義景の長臣、{{仮題|投錨=義景自盡|見出=傍|節=an-2-35|副題=|錨}}朝倉式部大輔景鏡、義景に自殺︀を奬め、其首を取つて稻葉に渡し降
參す。義景の近臣、鳥井兵庫助・高橋甚三郞は、主君を介錯し其身も卽ち殉死す。廿
{{仮題|頁=254}}
六日、信長の諸︀兵悉く引返し、海︀北主水正・安養寺大和守・井口主殿介・新莊孫八兵衞
が、楯籠る淺井郡虎御前山の城を、圍んで之を攻む。城兵防ぎ戰ふ。海︀北・安養寺・井
口・新莊四人の大將、一度に切出で、忠臣二君に事へざるものをと、義を相守る事、金
石の如き四百八十二人、信長の備に切つて入り、敵に多く討亡され、皆枕を竝べて討
死す。雜兵は多く信長に降參す。實に四大將、義を不義の中に守りて、名を子孫の面
に輝すなり。廿七日、信長の先末木下廢吉郞八千餘騎にて京極太に行登りて、浅井
久政と長政との間を取切る。于時久政、討出で大に相戰ふところに、裏切の者︀之れ
あり、大宇大和守・門根次郞左衞門・山際出羽︀守等討死す。是に依つて、兵を引退きて
籠る。{{仮題|投錨=淺井久政自盡|見出=傍|節=an-2-36|副題=|錨}}廿八日、久政の兵大門口に戰つて、皆悉く討死す。是に依つて、淺井下野守源
朝臣自殺︀す。行年六十一歲。淺井福︀壽軒・同宮內少輔・同新八郞殉死す。廿九日、信
長の三萬八千餘騎、小谷の四方より平に攻登る。信長は木下藤吉郞が陣所京極太
に移つて、兵を進めて大に戰ふ。城兵防ぎ戰ふ。川瀨壹岐守・澤田兵庫頭、手勢三百
餘騎を一文字に進め、信長の陣取りたる太が嶽に討つてかゝり戰ふに、信長の兵多
く討取る。木下藤吉郞が兵、橫合に馳合せて戰ふ。是に於て、河瀨壹岐守・澤田兵庫
頭以下皆討死す。于{{レ}}時長政、淺井石見守・赤尾美作守を招いて曰、吾れ二君に仕へ
ず、死を遂ぐる事、是れ日頃の大望にして、悅是に過ぎず。{{仮題|投錨=淺井長政の忠節︀|見出=傍|節=an-2-37|副題=|錨}}然りと雖も、稚屋形今年
纔に十歲にして、眼前に御自殺︀を見、佐々木數代の屋形、こゝに斷絕に及ばん事、天
命といひながら、是併、我等文道に疎く、武威の拙きがなす所なり。此恨、永く泉
下に繋るのみ。願はくは其方二人、我が死に殉はんよりは、稚屋形龍武御曹子を具
し奉りて、城を出で信長に降參し、時の宜しきあらんを見て、今一度信長に此憤を
報ぜば、我が志といひ、各が志といひ、何の功か是に如かんや。凡そ士たる者︀、死期
の術、遠大の計を致すこそ專要なれ。相構へて短慮の働をなすべからずと、打歎き
ていへば、石見守・美作守之を聞いて曰、尤も此を遁れて、信長に降らん事、一旦の
計あるに似たりといへども、終に信長に事を悟らるゝ程ならば、稚屋形竝に我等殺︀
害に及ばん事必せり。然らば賤しき奴僕の手に堕ち、所存の外の死を取らん事、實
に口惜しき次第なるべしと、長政復た曰、其こそ士たる者︀の本意なれ。恥にして恥
{{仮題|頁=255}}
ならず、謀略も無くして、只徒に死果つるは、恥にして恥なり。若し各推量の如く、
此謀空しからば、但彼が武運强くして、我等忠義の足らざる所なりと思ひなし、只
今生一往のみかは、歷劫忘れざるの思深く、其心を運びなば、終には蓋ぞ其恨を果
さゞるべき。時刻移らば然るべからず。疾々といへば、兩人異議に及ばず、稚屋形
を抱へ奉り、木下藤吉郞に便りて信長に降參すと呼んで馳出づ。長政、之を看て大
に悅び、{{仮題|投錨=淺井長政自盡|見出=傍|節=an-2-38|副題=|錨}}卽ち火を城に放つて自殺︀す。行年卅九歲。忠を子孫の上に貽し、名を萬代
の鏡に懸く。本朝忠臣多しと雖も、天下武家の手に移りし以來、惟楠正成・淺井長政
二人のみ。萬人の鏡にして武士の骨脈なり。信長、木下を以て、先づ稚屋形を受取
り、次に淺井石見守・赤尾美作守は降人なればとて、甲を脫がせ弓絃をはなし太刀を
取りて、木下に預けらる。稚屋形に供奉し、小谷城を出づる內、小姓の內加藤虎之
助{{仮題|分注=1|後號{{二}}肥|後守{{一}}}}・片桐助作{{仮題|分注=1|後號{{二}}|市正{{一}}}}・脇坂甚內{{仮題|分注=1|後號{{二}}|中將{{一}}}}・稚屋形將軍義昭公の繼嗣となりし時、右三人
の小姓秀吉卿に屬する七本鑓の內なり。七本鑓は、所謂加藤虎之助・片桐助作・脇坂
甚內・加藤孫六・福︀島市松・平野權六・糟屋助右衞門等なり。九月朔日、信長、淺井石見
守・赤尾美作守に對面して曰、汝等二人、旣に長政自殺︀の場より心を飜し、我に降參
する事、甚だ疑あり。龍武丸は我が孫なり。之を供して吾に屈せば、我れ汝等を賞
せん。時節︀不意に長政が恨を報ぜんとの行なるべし。愚將は是等の謀に墮ちて、
不覺に死を取るべし。信長に於ては謀らるべからず。誠に爾曹は、節︀義を守るの義
士なり。免︀し置きたくは之れありと雖も、是非に及ばざる次第なりとて、{{仮題|投錨=信長、淺井石見守赤尾美作守を誅す|見出=傍|節=an-2-39|副題=|錨}}木下藤吉
郞に申付けて二人共に之を誅す。二日稚屋形をば、木下藤吉郞秀吉之を預るとこ
ろに、磯野丹波守秀昌、代々の主君たるに依つて、此度の軍功の賞に申し替へて、之
を預り養育す。四日、鯰江の城主佐々木右衞門督義祐︀を、信長家人柴田權六勝家に、
兵四千餘騎を相副へ攻めしむ。之を義祐︀、城を保たず、卽ち降參す。五日、信長、百濟
寺を破却す。是は義祐︀籠城中、兵糧を{{r|送給|みつ}}ぎたる罪となり。六日、信長岐阜に下る。
十日、椙谷善住房、高島郡堀川阿彌寺に隱れ居けるを、磯野丹波守秀昌之を召捕り、
岐阜に召具して信長に渡す。信長大に悅んで、土中に埋めて竹鋸を以て之を捜殺︀
す。是は先年信長、千草越の時、承禎︀の命を蒙りて、鐵炮を以て信長を打ちたる者︀
{{仮題|頁=256}}
なり。淺井備前守長政は、元祖︀淺井新三郞政重、三條大納言公綱卿の子にして、其
姓藤原なり。久政の代に至りて實父の姓に反つて源姓なり。久政は佐々木管領氏
綱朝臣の妾、淺井備前守助政が姊、北向殿の生む所なり。亮政之を給はりて養育し
て家に附す。世にいふ、久政・長政二代の淺井、忠を致し節︀を持する者︀、本朝開闢以
來絕倫の義士なり。唯楠正成を除くのみと、長政子四人あり。嫡男は萬福︀丸とて、
長政に先立つて早世す。餘三人は皆女子なり。一人は京極の宰相高次の室、常高
院と號し、一人は豐臣秀吉公の室、淀殿と號し、右大臣秀賴公の御母なり。一人は
征夷大將軍秀忠公の御臺所なり。崇源院殿と號す。征夷大將軍家光公・和子國母女
院の御母公なり。二代の淺井家、無二の義士たる故に、沒後の佳名天下に輝けり。
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*[[老人雑話]]
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*底本: 国民文庫刊行会 編『雑史集』,国民文庫刊行会,1912.8. {{NDLJP|1906666}}
*Webブラウザ上でキーワード検索しやすくするために、「龍」を除く旧字を新字に変換し、いくつかの異体字を常用漢字に変換している。
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{{仮題|ここから=聚楽物語/緒言}}
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聚樂物語は、豐臣秀次の事蹟を傳へたるものにして、太閤秀吉西國發向
の事より、秀次老母の御事に至るまですべて十二項、なかに女房三十餘
人の最期を叙すること詳なり。其の文章の素樸なる、案ふに德川初期の
ものなるべし。年代著︀者︀ともに詳ならず。
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{{仮題|ここまで=聚楽物語/緒言}}
{{仮題|ここから=大阪物語/緒言}}
{{仮題|頁=5}}
{{仮題|投錨=緖言|見出=中|節=|副題=|錨}}
大阪物語は、關ヶ原の役に筆を起して、大阪冬夏兩陣の顚末を叙し、卷末
に當時の首帳を載せたり。繪畫を挿みて小說樣にかきなせるものなが
{{仮題|頁=6}}
ら、さすがに其の實況を窺ふに足るものあり。作者︀詳ならず。寬文十二年
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{{仮題|ここまで=大阪物語/緒言}}
{{仮題|ここから=三河物語/緒言}}
{{仮題|頁=6}}
{{仮題|投錨=緖言|見出=中|節=|副題=|錨}}
三河物語は、德川氏の勳舊大久保彥左衞門忠敎が、其の晩年、主家竝に自
家の經歷を叙して、子孫に示せるものなり。忠敎は純忠至誠の士、眞に三
河武士の典型と稱せらる。此の書また悉く其の肺肝より出でたるもの
にして、熱誠紙上に溢る。特に行文朴實、最も當時の情態を想見するに足
れり。たゞ書中難︀字澁句多きが上に、方言俚語交錯して、頗る通じ易から
ざるものあり。今其の難︀字の甚しきものに限りてこれを改め、澁句のわ
きがたきものにのみ漢︀字を塡めて、いさゝか通讀に便せり。されども他
の當字、借字、假名遣、語格等は、大方私意を加へずして、原本の體裁を傳ふ
ることに力めたり。
{{仮題|編者識=1}}
{{仮題|ここまで=三河物語/緒言}}
{{仮題|ここから=塵塚物語/緒言}}
{{仮題|頁=6}}
{{仮題|投錨=緖言|見出=中|節=|副題=|錨}}
塵塚︀物語は、專ら風敎に稗益あるべき逸︀事逸︀聞をはじめ、足利氏季世の
巷談街說を集錄す。當時の著︀聞集ともいふべきものなり。作者︀詳ならず。
尤も其の奧書に、天文二十一年十一月日藤某判とあれば、後奈良天皇時
代の公家の手に成れるものなるべし。元祿二年版行す。
{{仮題|編者識=1}}
{{仮題|ここまで=塵塚物語/緒言}}
{{仮題|ここから=老人雑話/緒言}}
{{仮題|頁=6}}
{{仮題|投錨=緖言|見出=中|節=|副題=|錨}}
老人雜話は、永祿八年に生れて、寬文四年に百歲の高齢にて逝ける、專齋
江村宗具の雜談を、其の孫宗恕の筆記せるもの、天正慶長頃の事實を傳
へて、頗る憑據とするに足る。專齋は京師の儒醫、倚松庵とも號す。始め加
藤淸正に仕へ、後森美作守に仕ふ。和學を好み、和歌を善くし、細川幽齋木
下長嘯子等と交る。
{{仮題|編者識=1}}
{{仮題|ここまで=老人雑話/緒言}}
{{仮題|ここから=慶長見聞集/緒言}}
{{仮題|頁=6}}
{{仮題|投錨=緖言|見出=中|節=|副題=|錨}}
慶長見聞集は、一名江戶物語といふ。三浦淨心の隨筆にして、專ら江戶の
雜事を記す。當時の人情風俗を窺ふ唯一の史料たり。見聞集もと三十二
卷ありしが、其の中、後北條氏に關するものを拔きて、北條五代記と名づ
け、遊女歌舞伎に係るものを抄して、そゞろ物語と名づけ、甲陽軍鑑等を
{{仮題|頁=7}}
評論せる部分を集めて見聞軍抄と名づけ、各上梓して世に行はる。而し
て本書のみは未だ刊行せられざりしなり。されば世に傳ふるもの、いづ
れも傳寫の誤脫夥くして、通じ難︀きところの尠からざるは遺憾なり。淨
心は北條氏政の臣にして、三浦五郞左衞門尉茂正と稱す。北條氏滅亡後、
江戶に住して著︀作に從ふ。晩年天海︀僧︀正に歸依し、入道して淨心と號す。
正保元年八十歲にて逝く。
{{仮題|編者識=1}}
{{仮題|ここまで=慶長見聞集/緒言}}
{{仮題|ここから=聚楽物語/巻之上}}
{{仮題|頁=12}}
{{仮題|投錨=聚樂物語|見出=大|節=j|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=卷之上|見出=中|節=j-1|副題=|錨}}
{{r|朝|あした}}に{{r|榮|さか}}え{{r|夕|ゆふべ}}に{{r|衰|おとろ}}ふるは、皆是れ{{r|世間|せけん}}の{{r|習|なら}}ひ、國を治め{{r|天下|てんか}}を{{r|保|たも}}つも、其身の{{r|賢愚|けんぐ}}にあらず、天より與
へ給ふといひながら、{{r|君臣|くんしん}}の{{r|禮儀|れいぎ}}を{{r|失|うしな}}ひ、父子の{{r|慈孝|じかう}}なき時は、必ず其家{{r|亡|ほろ}}ぶ。君臣に禮をなす時は、
臣又君に{{r|忠|ちう}}を{{r|盡|つく}}し、父は子に{{r|愛|あい}}をなし、子は父に孝をなす時は、{{r|身治|みをさま}}り{{r|家齊|いへとゝのほ}}りて、必ず其國{{r|榮|さか}}ゆと
見えたり。{{r|爰|こゝ}}に{{r|前|さき}}の{{r|關白|くわんぱく}}{{r|秀次公|ひでつぐこう}}は、{{r|伯父|をぢ}}{{r|太閤|たいかふ}}{{r|秀吉卿|ひでよしきやう}}の重恩を忘れ給ひて、{{r|剰|あまつさ}}へ逆心を{{r|含|ふく}}み給ひしか
ば、{{r|天罰|てんばつ}}いかで{{r|脫|のが}}れ給ふべき。{{r|御身|おんみ}}を亡し給ふのみならず、多くの人を失ひ給ふ、御心の程こそあさま
しけれ。
{{仮題|投錨=太閤秀吉西國發向の事|見出=小|節=j-1-1|副題=|錨}}
{{r|抑|そも{{く}}}}此秀吉卿と申すは、君臣の{{r|禮儀|れいぎ}}を重んじ、民を{{r|憐|あはれ}}み給ひし故に、天下を治め給ふのみならず、高官
{{仮題|頁=13}}
高位に{{r|經上|へのぼ}}り給ひ、{{r|末代|まつだい}}迄も御名を{{r|淸|きよ}}め給ふとかや。其かみ{{r|羽︀柴|はしば}}{{r|筑前守|ちくぜんのかみ}}にて、{{r|前|さきの}}大將軍{{r|織田|おだ}}の{{r|信長|のぶなが}}
{{r|公|こう}}に仕へ給ひ、東南西北の{{r|合戰|かつせん}}に、御名を天下に{{r|顯|あらは}}し給ひしかば、信長公の{{r|御代官|ごだいくわん}}として、西國
{{r|御退治|ごたいぢ}}の爲に、天正十年三月{{r|上旬|じやうじゆん}}に都︀を立つて、備前備中の{{r|兩國|りやうこく}}にて、あまたの{{r|城郭|じやうくわく}}を攻め破り、夫より
{{r|高松|たかまつ}}の城を{{r|取圍|とりかこ}}み、大河の{{r|末|すゑ}}を{{r|堰止|せきと}}めて、{{r|水攻|みづぜめ}}にしてこそおはしけれ。
{{仮題|投錨=惟任謀叛の事|見出=小|節=j-1-2|副題=|錨}}
{{r|斯|か}}くて城中{{r|難︀儀|なんぎ}}に及び、{{r|大將軍|たいしやうぐん}}五人{{r|切腹|せつぷく}}仕るべし、殘る者︀共は速に御助け候へとの{{r|降參|かうさん}}しけれども、
始より{{r|冑|かぶと}}を{{r|脫|ぬ}}いで{{r|罷出|まかりい}}でばこそ。此上にては、一人も殘さず攻め{{r|滅|ほろぼ}}し給ふべき旨仰せける所に、都︀よ
り{{r|早打|はやうち}}來りて、日向守{{r|心變|こゝろがは}}り仕り、大將軍{{r|信長|のぶなが}}{{r|信忠|のぶたゞ}}御父子共に、三條{{r|本能寺|ほんのうじ}}にて{{r|御腹|おんはら}}召され候由申上げ
ければ、秀吉{{r|聞召|きこしめ}}し、こは{{r|口惜|くちを}}しき次第かな、斯樣に一命を輕んじ、{{r|戰場|せんぢやう}}に{{r|屍|かばね}}を{{r|曝|さら}}さんと思ふも、此
君の御爲ぞかし、此上は敵の{{r|降參|かうさん}}するこそ幸なれ、いかやうにも計へと、{{r|杉原|すぎはら}}七{{r|郞左衞門尉|らうざゑもんのじよう}}に仰せけ
る。{{r|內々|ない{{く}}}}毛利家より、城中の大將{{r|淸水|しみづ}}兄弟、又{{r|藝州|げいしう}}より{{r|加勢|かせい}}に入りたる三人、以上五人に腹切らせ、
{{r|諸︀卒|しよそつ}}を助けられ候はゞ、{{r|毛利|もうり}}{{r|分國|ぶんこく}}の中、備中、備後、伯耆、出雲、石見五箇國を渡し申すべきの{{r|內存|ないぞん}}
なれば、右の如く{{r|扱|あつかひ}}を調へ、其上に{{r|人質|ひとじち}}を出し、{{r|御旗下|おんはたした}}に附隨ふべきとの{{r|制旨|せいし}}にて、大將五人の
{{r|首實檢|くびじつけん}}ありて、先づ毛利家の{{r|陣所|ぢんしよ}}を引拂はせて後、方々の水を{{r|切流|きりなが}}し、城中の諸︀卒を出し、杉原七郞左衞
門に{{r|人數|にんず}}あまた差添へ、{{r|高松|たかまつ}}の城へ入れ置き給ひ、秀吉は{{r|髻|もとゞり}}を切り給ひて、いかさまにも主君の{{r|御讎|おんあだ}}
なれば、日向守を秀吉が手にかけて打從へ、{{r|御孝養|ごけうやう}}にせざらんは、二度{{r|弓矢|ゆみや}}を取るまじきとのたまひて、
六月六日に備中を{{r|引取|ひきと}}り、備前にて一日{{r|御逗留|ごとうりう}}あつて、同じき九日に、本國播州姬路の城に入り給ふ。
未だ諸︀勢も{{r|揃|そろ}}はざれども、{{r|半時|はんとき}}ばかりの御用意にて、{{r|夜半|やはん}}過に早打立ちて、明石兵庫の{{r|宿|しゆく}}を過ぎ、{{r|尼|あま}}
が{{r|崎|さき}}を經て、十二日には津の國{{r|高槻|たかつき}}の{{r|邊|へん}}に著︀き給ふ。
{{仮題|投錨=山崎合戰の事|見出=小|節=j-1-3|副題=|錨}}
{{r|此處|こゝ}}に暫く御陣を立てられ、{{r|八幡|やはた}}山{{r|愛宕|あたご}}山兩所の峯を伏拜み給ひて、願くは此度の{{r|合戰|かつせん}}に打勝ちて、
日向守を秀吉が手にかけ頭を{{r|刎|は}}ね、主君の{{r|御孝養|ごけうやう}}に供へんと、{{r|一筋|ひとすぢ}}に祈︀り給へば、誠に{{r|神︀慮|しんりよ}}にも叶ひ
けるにや、いづくともなく{{r|山鳩|やまばと}}二つ飛來り、{{r|味方|みかた}}の{{r|旗頭|はたがしら}}に附いてぞ{{r|翔|かけ}}りける。諸︀軍勢之を見て、いと
賴もしく思ひ、勇み進んで押寄せける。斯くて{{r|山崎|やまざき}}の峰を打越え給ひて、{{r|駒|こま}}を{{r|驅|か}}けすゑ{{r|見廻|みまは}}し、此處
はいかにと仰せければ、{{r|御足輕|おんあしがる}}の中に、此處{{r|案內|あんない}}能く存じたる者︀進み出で、是は{{r|馬塚︀|うまつか}}と申し候。又あ
れなる{{r|繁︀|しげ}}みの{{r|彼方|あなた}}に、敵の{{r|馬印|うまじるし}}の見え候所は、{{r|糠塚︀|ぬかづか}}にて候と申上げければ、秀吉聞召し、{{r|糠|ぬか}}は馬の{{r|食|は}}
みものな。めでたし{{く}}。扨は此合戰は{{r|早打|はやうち}}{{r|勝|か}}つてあるぞ。馬の{{r|足立|あしだち}}能からん所まで、しづ{{く}}と押
寄せて、一人も殘さず討取れや兵共とぞ仰せける。かゝりける所に、{{r|不思議|ふしぎ}}なる事こそ出來たれ。晴︀
れたる空俄に{{r|搔曇|かきくも}}り、{{r|愛宕|あたご}}山の峯より、{{r|唐笠|からかさ}}程の{{r|黑雲|くろくも}}一村出來り、次第に{{r|巽|たつみ}}の方へ行くかと思へば、
{{r|辻風|つじかぜ}}{{r|夥|おびたゞ}}しく吹き來りて、{{r|仇|かたき}}の陣へ{{r|渦卷|うづま}}いて{{r|卷|ま}}くりけるが、立て並べたる大旗小旗{{r|馬印|うまじるし}}を、ひし{{く}}
{{仮題|頁=14}}
とぞ吹倒しける。秀吉之を御覽じて、すはやかゝれと仰せければ、先手の大將中川瀨兵衞尉高山右近
大夫、五十騎計にて{{r|驅|か}}け出し、{{r|魚鱗懸|ぎよりんがか}}りに懸りければ、日向守が郞等に、{{r|明智左馬助|あけちさまのすけ}}、{{r|齋藤藏之助|さいとうくらのすけ}}、
{{r|藤田傳吾|ふぢたでんご}}を先として、{{r|鶴︀翼|かくよく}}に開いて、一人も{{r|漏|も}}らすな討取れや者︀共と下知しけれども、{{r|寄手|よせて}}は{{r|驀地|まつしぐら}}に
攻めかくる。明智の兵共は、{{r|後陣|ごぢん}}より色めき立つて{{r|崩|くづ}}れければ、たゞ{{r|一支|ひとさゝ}}へも取合せず、東を指して
{{r|敗軍|はいぐん}}す。{{r|伏見|ふしみ}}、{{r|深草|ふかくさ}}、{{r|木幡山|こばたやま}}へ、散り{{ぐ}}になりて落行きけるを、高山中川{{r|眞先|まつさき}}にかけて、{{r|雜兵|ざふひやう}}の首
取るな、打捨にせよとて、{{r|散々|さん{{ぐ}}}}に切亂しければ、明智が{{r|人數|にんず}}、殘少なに討ちなされ、光秀もから{{ぐ}}
其處を遁れて、{{r|山科|やましな}}までは{{r|落延|おちの}}びけれども、{{r|運|うん}}の極めのあさましさは、{{r|鄕人|がうにん}}に突︀落されけるを、{{r|郞等|らうどう}}
共首打落し、{{r|深田|ふかだ}}の中へ隱しけるとぞ聞えし。{{r|家老|からう}}のものども、或は討たれ、或は{{r|痛手|いたで}}負ひ、行方知
らず落行きけるを、{{r|後日|ごにち}}に爰かしこより{{r|搜|さが}}し出して討ちける、{{r|因果|いんぐわ}}の程こそうらめしけれ。
{{仮題|投錨=秀吉天下を治め給ふ事<sup>附</sup>秀次養子になり給ふ事|見出=小|節=j-1-4|副題=|錨}}
斯くて秀吉卿の威勢、{{r|日々|にち{{く}}}}{{r|夜々|やゝ}}に勝りければ、信長に{{r|附隨|つきしたが}}ひし諸︀侍、皆々秀吉卿の{{r|御下知|ごげち}}に附き奉り
て、{{r|自|おのづか}}ら天下{{r|悉|こと{{ぐ}}}}く治りけり。されども未だ御手に入らざる{{r|國々|くに{{ぐ}}}}、爰かしこにありけれども、秀吉御馬
をだに出されければ、{{r|木草|きくさ}}の風に{{r|靡|なび}}くが如くにて、三年が中に、天下一{{r|統|とう}}の御代となし給ふ。斯くて
都︀にまし{{く}}、{{r|御門|みかど}}を{{r|守護|しゆご}}し奉り給ひ、{{r|御所領|ごしよりやう}}を寄せられ、{{r|御殿|ごてん}}を{{r|造立|ざうりふ}}し、金銀其外寶を揃へて{{r|捧|さゝ}}げ
給ひ、天子の御心{{r|慰|なぐさ}}め給ひしかば、{{r|御門|みかど}}{{r|叡感|えいかん}}の餘りに{{r|關白職|くわんぱくしよく}}を預け下されける上は、我朝は申すに及
ばず、{{r|唐土|もろこし}}迄も{{r|靡|なび}}き隨ひ奉りける。さる程に{{r|御威光|ごゐくわう}}いやまさり、天正十六年四月十四日に、{{r|聚樂|じゆらく}}の御
城へ{{r|行幸|ぎやうかう}}をなし給ふ上は、何事も御心に{{r|叶|かな}}はずといふ事なし。されども秀吉{{r|御代繼|みよつぎ}}の御子一人もおは
せざれば、{{r|御甥|おんをひ}}{{r|三好次兵衞殿|みよしじひやうゑどの}}を{{r|御養子|ごやうし}}にし給ひて、大國あまた{{r|遣|つかは}}され、{{r|家老|からう}}には、{{r|中村式部少輔|なかむらしきぶせう}}、
{{r|田中兵部少輔|たなかひやうぶせう}}を附け給ひ、{{r|聚樂|じゆらく}}の御城を渡し給ひて、{{r|御寵愛|ごちようあい}}は中々に、語り盡くさん暇なし。{{r|同|おなじく}}十九年
に{{r|關白|くわんぱく}}を讓り給へば、天下の諸︀大名皆此君に{{r|恐|おそ}}れ{{r|隨|したが}}ひ奉る。されば每日{{r|藝能|げいのう}}の{{r|勝|すぐ}}れたる者︀を{{r|召集|めしあつ}}め、
其{{r|道々|みち{{く}}}}を正したまひければ、{{r|亂舞|らんぶ}}{{r|延年|えんねん}}は、四{{r|座|ざ}}の{{r|猿樂|さるがく}}にも越えさせたまふ。{{r|御手跡|ごしゆせき}}、{{r|尊圓親王|そんゑんしんわう}}の
{{r|御筆勢|ごひつせい}}にも{{r|劣|おと}}り給はじと申しける。或時は{{r|儒學|じゆがく}}の{{r|達者︀|たつしや}}を召して、{{r|聖賢|せいけん}}の道を聞召し、或は五山の{{r|智識|ちしき}}を召
されて、{{r|禪法|ぜんぼふ}}の{{r|悟|さとり}}を御心にかけ、又{{r|公家|くげ}}{{r|門跡|もんぜき}}を{{r|請|しやう}}じ奉り、{{r|詩歌管絃|しいくわくわんげん}}の御遊、何事も{{r|廢|すた}}れたる道を正し
給へば、上下共に此{{r|公|きみ}}の御代、{{r|幾久|いくひさ}}しかれとぞ{{r|祈︀|いの}}りける。
{{仮題|投錨=淀殿の御事<sup>附</sup>若公御誕生の事|見出=小|節=j-1-5|副題=|錨}}
{{r|太閤秀吉公卿|たいかふひでよしきやう}}は、大阪伏見の兩城かけて{{r|御座|おは}}しけるが、其頃近江の國の{{r|住人|ぢうにん}}{{r|淺井殿|あさゐどの}}御{{r|息女|むすめ}}、世に{{r|類︀|たぐひ}}なき美
人にてまします由、{{r|聞召|きこしめ}}し及び、忍びやかに迎へ給ひて、{{r|淀|よど}}のわたりに、{{r|新造|しんざう}}の{{r|御所|ごしよ}}を建てられ、
{{r|一柳|ひとつやなぎ}}越後守守護し奉り、{{r|淀|よど}}の{{r|御所|ごしよ}}と申し、いかしづき給ふ所に、いつとなく{{r|御心地|みこゝち}}{{r|例|れい}}ならず{{r|御座|おは}}しけ
れば、{{r|名醫|めいゝ}}{{r|典藥|てんやく}}を召して、{{r|醫療|いれう}}さま{{ぐ}}なりしかども、更に其{{r|驗|しるし}}なし。かゝりける所に{{r|陰陽|おんやう}}の{{r|頭|かみ}}考へ
て申しけるは、全く是は御病氣にあらず、{{r|御懷妊|ごくわいにん}}とぞ申しける。太閤{{r|不{{レ}}斜|なゝめならず}}{{r|御感|ごかん}}まし{{く}}て、{{r|當座|たうざ}}に
{{仮題|頁=15}}
黃金千兩給はり、{{r|御產|ごさん}}平ならんには、重ねて{{r|御褒美|ごはうび}}あるべきとぞ仰せける。夫れより{{r|天台山|てんだいさん}}{{r|園城寺|をんじやうじ}}の
{{r|座主|ざす}}{{r|僧︀正|さうじやう}}に仰付けられ、{{r|御產|ごさん}}{{r|平安|へいあん}}の{{r|御祈︀念|ごきねん}}、樣々行はれける。斯くて{{r|日數|ひかず}}積りければ、玉を{{r|延|の}}べたる
{{r|若君|わかぎみ}}{{r|御誕生|ごたんじやう}}ある。太閤{{r|御年|おんとし}}過ぎさせ給ひての御子にて{{r|御座|おは}}しければ、{{r|御寵愛|ごちようあい}}淺からず、されば諸︀國の大
名小名より、{{r|名物|めいぶつ}}の{{r|御太刀|おんたち}}、{{r|刀|かたな}}、金銀、{{r|珠玉|しゆぎよく}}、寶を盡して捧げ給ふ。{{r|御代|みよ}}{{r|長久|ちやうきう}}のしるしとて、{{r|都︀鄙|とひ}}
{{r|遠國|をんごく}}の{{r|賤|しづ}}の身まで、勇みさゞめきあひにけり。
{{仮題|投錨=關白惡逆の事|見出=小|節=j-1-6|副題=|錨}}
かゝりける所に、{{r|秀次公|ひでつぐこう}}思召しけるは、太閤{{r|御實子|ごじつし}}なからん時こそ、我に天下をも{{r|讓|ゆづ}}り給ふべけれ。
正しく{{r|實子|じつし}}をさしおき、いかでか我を{{r|許容|きよゝう}}し給ふべきと、思召す御心出來けれども、{{r|仰出|おほせいだ}}す事もなく、
御心の底に{{r|滯|とゞこほ}}りけるにや、いつしか御{{r|機嫌|きげん}}{{r|暴|あら}}くならせ給ひて、御前近き人々も、故なく{{r|御勘氣|ごかんき}}を蒙り、
或は{{r|御手打|おてうち}}に{{r|遭|あ}}ふもあり。さればいつとなく人を切る事を好きいで給ひて、罪なき者︀をも{{r|斬|き}}り給ふ間、
{{r|御前|ごぜん}}の人々も、今日迄は人を{{r|弔|つふら}}ひ、今日より後は、如何なる{{r|憂目|うきめ}}にか{{r|遭|あ}}はんと、皆人每に心を碎かぬ
はなかりけり。或時{{r|御膳|ごぜん}}あがりけるに、御齒に砂のさはりければ、{{r|御料理人|ごれうにん}}を召して、汝が好む物な
るらんとて、{{r|庭前|ていぜん}}の白砂を口中に押入れさせ、一{{r|粒|りふ}}も殘さず{{r|嚙碎|かみくだ}}けとて責め給へば、さすが捨て難︀き
命なれば、力なく氷を{{r|碎|くだ}}く如くに、はら{{く}}と{{r|嚙|か}}みければ、口中破れ、齒の根も碎けて、眼も{{r|眩|くら}}みう
つぶしに伏しけるを、又引立てゝ右の{{r|腕|うで}}を打落させ、此上にても命や惜しき、助けば助からんやと仰
せければ、是にても{{r|御助|おんたす}}けあれかしと申すを、又左の{{r|腕|うで}}を打落し、是にては如何にと仰せければ、其
時{{r|彼者︀|かのもの}}{{r|眼|め}}を見出して、日本一のうつけ者︀かな、左右の腕なくて、{{r|命|いのち}}生きても{{r|甲斐|かひ}}やある。さるにても
{{r|過去|くわこ}}の{{r|戒行|かいぎやう}}{{r|拙|つたな}}くて、汝を主と賴みし事の{{r|無念|むねん}}さよ。常々汝は{{r|鮟鱇|あんかう}}といふ魚の如くに、口を開けて居
る故に、砂はあるぞかし。此後も見よ、風の吹かん時は、必ず{{r|砂|すな}}はあるべきぞや。此上は如何やうに
もせよ、命は{{r|限|かぎり}}ある物ぞと、{{r|散々|さん{{ぐ}}}}に{{r|惡口|あくこう}}しければ、それ物ないはせそとて、{{r|頓|やが}}て首を{{r|刎|は}}ねられける。
其後中村式部少輔、田中兵部少輔參りて{{r|樣々|さま{{ぐ}}}}に制し奉れども、人を{{r|斬|き}}り給はねば、{{r|彌|いよ{{く}}}}{{r|御機嫌|ごきげん}}あらくぞ
おはしける。さあらば{{r|罪科|ざいくわ}}深き{{r|籠者︀共|ろうしやども}}を御手にかけ申せとて、每日一人づつ引出し{{く}}斬り給ふ間、
{{r|京|きやう}}、{{r|伏見|ふしみ}}、{{r|大阪|おほさか}}、{{r|堺|さかひ}}の{{r|籠者︀|ろうしや}}をも{{r|斬盡|きりつく}}し、其後は{{r|假初|かりそめ}}の{{r|訴訟|そしよう}}うつたへに出づる者︀も、助かる者︀はなかり
けり。されば{{r|狩場漁|かりばすなどり}}の道すがらにても、肥りせめたるをのこ、{{r|懷妊|くわいにん}}の女{{r|抔|など}}は{{r|見合|みあはせ}}次第に捕はれける。
又何よりも危かりしは、或時秀次{{r|天主|てんしゆ}}へ上り給ひて、四方を{{r|眺|なが}}めておはしけるに、{{r|懷妊|くわいにん}}の女、如何に
も苦しげにて、{{r|野邊|のべ}}の{{r|若菜|わかな}}を摘みためて、其日のかてを求めんと、都︀を{{r|指|さ}}して步み出で來るを御覽じ
て、是なる女の{{r|極|きは}}めて腹の大なるは、是ぞ二子などいふ{{r|物|もの}}なるらん。急ぎ{{r|連|つ}}れて參れ、あけて見ばや
とぞ仰せける。御前の{{r|若殿原|わかとのばら}}、承り候とて、我先にと走り出で、あへなく引立て{{r|參|まゐ}}りける所に、
{{r|益庵法印|えきあんほういん}}何となく立伺ひ、持ちたる{{r|芹薺|せりなづな}}を懷へ押入れさせ、扨{{r|御前|ごぜん}}に參り、此女は懷妊にては候はず、
{{r|年老|としお}}いたる者︀にて候が、樣々の{{r|若菜|わかな}}を摘みて{{r|懷中|くわいちう}}へ入れ、都︀へ賣りに出づる者︀にて候と、打笑ひ申しけ
{{仮題|頁=16}}
れば、それならんはよし{{く}}、急ぎ返せと仰せける。此女、{{r|鰐|わに}}の口を遁れたる心地してこそ歸りけれ。
扨も此{{r|益庵法印|えきあんほういん}}は{{r|智惠|ちゑ}}深く、又なき{{r|慈悲心|じひしん}}かなとて、諸︀人感ぜぬはなかりけり。
{{仮題|投錨=當君御卽位の事|見出=小|節=j-1-7|副題=|錨}}
{{r|先帝|せんてい}}{{r|正親町院|おほぎまちゐん}}の御宇には、諸︀國の{{r|兵亂|ひやうらん}}未だ{{r|鎭|しづ}}まらず。{{r|王城守護|わうじやうしゆご}}の武士共も、一歲が中も{{r|在京|ざいきやう}}せず。彼
方此方へ移り變りければ、國々の{{r|貢物|みつぎもの}}も滯り、天下の政もかれ{{ぐ}}にて、{{r|庭前|ていぜん}}の花も{{r|色香|いろか}}衰へ、
{{r|雲井|くもゐ}}の秋の{{r|月影|つきかげ}}も、微になれる心地して、いと{{r|淺|あさ}}ましき世の中にて、{{r|親王|しんわう}}{{r|宣下|せんげ}}の{{r|儀式|ぎしき}}もなく、{{r|御卽位|ごそくゐ}}を
なし給ふべき便もましまさねば、太子{{r|徒|いたづ}}らに、三十年四十年の{{r|春秋|はるあき}}を送り給ふ事を、{{r|口惜|くちを}}しくや{{r|思召|おぼしめ}}
しけん、いつしか{{r|勞氣|つかれき}}を{{r|勞|いたは}}り給ふ。太閤秀吉卿{{r|御痛|おんいた}}はしく思召し、いかにもして{{r|御惱|ごなう}}{{r|平愈|へいゆ}}なし奉り、
{{r|御位|みくらゐ}}に立たせ給ふやうにと、{{r|樣々|さま{{ぐ}}}}御心を盡し、{{r|典藥大醫|てんやくたいゝ}}に仰付けられ、醫療を盡しけれども、{{r|御戒行|ごかいぎやう}}
や拙くおはしけん、天正十四年七月{{r|下旬|げじゆん}}に、終にかくれさせ給ふ。太閤{{r|本意|ほんい}}なく思召し、{{r|切|せめ}}ての御事
に、此君の王子を、急ぎ御位に卽け給ふべきとて、{{r|同|おなじく}}十一月二十五日に、御卽位を{{r|勸|すゝ}}め奉り、{{r|諸︀國|しよこく}}の
{{r|鍛冶|かぢ}}{{r|番匠|ばんしやう}}を召し上せられ、{{r|禁中|きんちう}}を四方へ{{r|開|ひろ}}げ、數百の{{r|棟數|むねかず}}を立列べ、金銀七寶を{{r|鏤|ちりば}}め、御殿へ移し奉
り、{{r|御所領|ごしよりやう}}を附け、樣々の{{r|珍寶|ちんぽう}}を捧げ奉り、{{r|諸︀卿|しよきやう}}の絕えて久しき{{r|家々|いへ{{く}}}}を改め立て給ひ、{{r|萬|よろづ}}{{r|廢|すた}}れたる道
を正し給ふ事こそありがたけれ。此君、常に{{r|學窓|がくそう}}に御眼を{{r|曝|さら}}し給ひて、時{{r|折々|をり{{く}}}}の政を怠り給はず、
{{r|延喜|えんぎ}}の{{r|聖代|せいだい}}を御心に{{r|凝|こ}}めて行はせ給ふ。大閤は此由聞召し、御學びに御心を盡させ給ふ事を{{r|勞|いたは}}り思召し、
いかさまにも{{r|叡慮|えいりよ}}を慰め給はん爲に、春は花見の御遊をなし、{{r|藝能|げいのう}}{{r|勝|すぐ}}れたる者︀を召しあつめ、
{{r|亂舞|らんぶ}}{{r|延年|えんねん}}を始め、共に{{r|興|けう}}じさせ給ふ。九{{r|夏|か}}の天には{{r|高樓|かうろう}}を組み上げ、空吹く風を招き、{{r|庭前|ていぜん}}に泉を{{r|湛|たゝ}}へ、船
を浮べ、{{r|納涼|なふりやう}}專らなり。秋は{{r|千草|ちぐさ}}の花の種を{{r|揃|そろ}}へ、夕の露の更け行けば、{{r|餘多|あまた}}の蟲の音を{{r|選|えら}}び、月の
前には{{r|樽|たる}}を抱き、{{r|詩歌管絃|しいくわくわんげん}}をなし、{{r|嚴冬|げんとう}}の朝は、御{{r|焚火|たきび}}の御殿を作り、諸︀木の{{r|藥味|やくみ}}あるを集め、{{r|林間|りんかん}}
に酒を{{r|溫|あたゝ}}めて、{{r|紅葉|もみぢ}}を{{r|焚|た}}き給ふ、誠に有難︀かりし事共なり。五十代{{r|以前|いぜん}}は知らず、それより此方は、
{{r|君臣|くんしん}}の禮儀、斯る目出度{{r|御代|みよ}}はよもあらじ。君君たれば、臣又臣とありて、{{r|愈|いよ{{く}}}}天下{{r|泰平|たいへい}}なり。されど
も此君御身の樂みにも{{r|誇|ほこ}}り給はず、御父{{r|陽光院|やうくわうゐん}}、{{r|十善|じふぜん}}の御位に{{r|洩|も}}れ給ひし事を{{r|萬々|ばん{{く}}}}本意なく思召し、
{{r|折々|をり{{く}}}}は仰出されて御淚を{{r|催|もよほ}}し給ふ。または{{r|先帝|せんてい}}{{r|御齡|おんよはひ}}の傾き給ひて、{{r|玉體|ぎよくたい}}衰へ給ふ事を{{r|痛|いた}}はり思召す、
{{r|叡慮|えいりよ}}の程こそありがたけれ。
{{仮題|投錨=先帝崩御の事<sup>附</sup>落書の事|見出=小|節=j-1-8|副題=|錨}}
{{r|文祿|ぶんろく}}元年中冬の頃より、{{r|先帝|せんてい}}正親町院御病氣になり給ふ。{{r|當君|たうくん}}此由聞召し、急ぎ行幸なされ、{{r|樣々|さま{{ぐ}}}}痛
はり給ひて、今一年なりとも延びさせ給ふやうにとの{{r|勅定|ちよくぢやう}}なれば、{{r|典藥|てんやく}}{{r|醫術|いじゆつ}}を盡し、{{r|諸︀寺|しよじ}}{{r|諸︀山|しよさん}}へ仰付
け、祈︀り{{r|加持|かぢ}}し給へども、{{r|老後|らうご}}の御事なれば、次第に{{r|御惱|ごなう}}{{r|重|おも}}らせ給ひて、明け行く年の{{r|正月|むつき}}の初の五
日に終に{{r|隱|かく}}れさせ給ふ。{{r|御門|みかど}}深く{{r|歎|なげ}}かせ給へば、{{r|諸︀卿|しよきやう}}諸︀共に憂をなし、御心を{{r|詰|つ}}めてぞおはしける。
{{r|誠|まこと}}に一天の{{r|主|あるじ}}{{r|萬乘|ばんじよう}}の君の{{r|御物忌|おんものいみ}}に、月日の光も薄くなり、神︀慮も苦び給ふらん。{{r|王城守護|わうじやうしゆご}}の神︀々、
{{仮題|頁=17}}
{{r|門戶|もんこ}}を閉ぢて、人の{{r|參詣|さんけい}}をだに厭ひ給へば、{{r|況|ま}}して人間に於てをや。貴きも賤しきもともに憂ふる{{r|姿|すがた}}な
う。されば{{r|畿內|きない}}近國は、浦々の{{r|獵漁|れふすなどり}}をだになさず、されば{{r|洛中|らくちう}}にて{{r|魚鳥|ぎよてう}}賣り買ふ事をだに{{r|戒|いまし}}めける。
かやうに心なき者︀迄も、世を{{r|憚|はゞか}}るは習ひなるに、{{r|當時|たうじ}}{{r|關白|くわんぱく}}{{r|秀次公|ひでつぐこう}}は、{{r|伯父|はくふ}}{{r|太閤|たいかふ}}の御威光にて、{{r|下郞|げらう}}の
身として又なき{{r|官位|くわんゐ}}を{{r|瀆|けが}}しながら、{{r|天命|てんめい}}をも恐れず、人の{{r|嘲|あざけり}}をも恥ぢ給はず、{{r|明暮|あけくれ}}{{r|酒宴|しゆえん}}{{r|亂舞|らんぶ}}をなし、
{{r|剩|あまつさ}}へ北山西山邊にて、{{r|鷹狩|たかゞり}}{{r|鹿狩|しゝがり}}を初め、民の{{r|煩|わづらひ}}諸︀人の{{r|苦|くるしみ}}をも厭はず、{{r|我意|がい}}に任せて{{r|振舞|ふるま}}ひ給へば、京
童共{{r|囁|さゞめ}}き寄つて、{{r|無道|ぶだう}}{{r|至極|しごく}}の事共かな、行末恐しき事やとて{{r|爪彈|つまはじ}}きし、{{r|唇|くちびる}}をぞ{{r|反|かへ}}しける。又何者︀かし
たりけん、一條の{{r|辻|つじ}}に{{r|札|ふだ}}をたてゝ、
先帝の手向のための狩なればこれや殺︀生關白といふ
秀次かやうに、樣々{{r|惡逆|あくぎやく}}を盡し給へども{{r|恐|おそ}}れ奉り、太閤の{{r|御耳|おんみゝ}}に立つる者︀なかりければ、{{r|彌|いよ{{く}}}}{{r|我儘|わがまゝ}}に
振舞ひ給ふを、{{r|中村式部少輔|なかむらしきぶのせう}}、{{r|田中兵部少輔|なかひやうぶのせう}}、再三御諫め申上げけれども、更に{{r|御承引|ごしよういん}}なくて、{{r|剩|あまつさ}}へ
後々は兩人{{r|御前遠|おんまへどほ}}になりて、{{r|若輩|じやくはい}}の御小姓衆、又は{{r|筋|すぢ}}なき者︀共出頭して、直なる道を行ふ者︀は、{{r|孔子|こうし}}
{{r|風|ふう}}の{{r|男|をとこ}}ぞなんどとて、{{r|囁|さゝや}}きあざ笑ひける間、{{r|自|おのづか}}ら人の心惡き方へぞ引かれける。
{{仮題|投錨=木村常陸御謀叛勸め奉る事|見出=小|節=j-1-9|副題=|錨}}
中にも{{r|木村常陸|きむらひたちの}}守は、{{r|御氣相|ごきあひ}}にて、何事も{{r|御內存|ごないぞん}}を{{r|推量|おしはか}}り申しけるが、或時秀次ちと{{r|御所勞|ごしよらう}}にて奧
の{{r|御殿|ごてん}}におはしけるに、常陸守まゐりて、{{r|隱密|おんみつ}}にて言上申したき事の候。恐れながら{{r|御前|ごぜん}}の人々を退
けられ、それへ{{r|召上|めしあ}}げられ候へかしと申上ぐる。關白聞召し、{{r|御前|ごぜん}}の{{r|女房達|にようぼうたち}}をも退けられ、{{r|御側|おそば}}近く
召されける。{{r|常陸|ひたち}}守{{r|畏|かしこま}}りて、かやうの御事申出すに付きても、恐入り候。若し{{r|御承引|ごしよういん}}ましまさずば、
{{r|唯今|たゞいま}}御手にかけられ候べし。太閤の{{r|御恩賞|ごおんしやう}}を蒙り給ふ事は、{{r|海︀山|うみやま}}にも譬へ難︀く候。然りとは申せども、
{{r|先年|せんねん}}{{r|若君|わかぎみ}}出來させ給ひて後は、我等の存じなしにて候か、何とやらん{{r|御前|ごぜん}}{{r|遠|どほ}}にならせ給ふやうに見え
させ給ひ候。貴きも賤きも、{{r|實子|じつし}}のなき時にこそ、{{r|養子|やうし}}をば{{r|寵愛|ちようあい}}仕る物にて候へ。此若君五歲になり
給はゞ、先づ{{r|關白|くわんぱく}}を御讓りあれと仰せられ、西國か東國の{{r|端|はて}}にて{{r|御所領|ごしよりやう}}を出され、{{r|後々|のち{{く}}}}は{{r|流人|るにん}}のやう
になし給はん事は、{{r|目|め}}の{{r|前|まへ}}にて候はん。さあらん時は、何事を思召し立ち給ふとも、{{r|道|みち}}{{r|往|ゆ}}き申す事は
候はじ。今{{r|御威光|ごゐくわう}}强き時に、大名共にも內々{{r|御情|おなさけ}}をかけられ候て、{{r|心底|しんてい}}を殘さず御賴み候はゞ、何者︀
か{{r|背|そむ}}き奉るべき。夫れ{{r|弓取|ゆみとり}}は、親を討ち子を{{r|害|がい}}しても、國を治め天下を保つは習ひにて候。{{r|此儀|このぎ}}思召
し立ち候はゞ、先づ{{r|異儀|いぎ}}なく{{r|御味方|おんみかた}}に參り候はん者︀共を、{{r|指圖|さしづ}}仕り候べし。皆太閤{{r|御取立|おとりたて}}の侍の中に
も、{{r|過分|くわぶん}}の{{r|勳功|くんこう}}をなせし者︀共、{{r|少身|せうしん}}にて罷在り、又さまでの忠なき{{r|輩|ともがら}}に、{{r|大分|だいぶん}}の御所領下されたる者︀
多く候へば、{{r|恨|うらみ}}を含みける者︀共多く候へども、其身{{r|人數|ひとかず}}ならねば力なし。若し君の思召し立つ御事あ
らば、{{r|恨|うらみ}}を{{r|散|さん}}ぜんと存ずる者︀共、かくといはぬ計にて候と、{{r|憚|はゞか}}る所なく申上げける。關白{{r|御枕|おんまくら}}を{{r|押除|おしの}}
け、{{r|起直|おきなほ}}り給ひて、汝が申す所もさる事なれども、{{r|莫大|ばくだい}}の{{r|御恩賞|ごおんしやう}}を蒙り、いかにとしてさる事のある
べきや。其上{{r|大阪|おほさか}}{{r|伏見|ふしみ}}の御城は、日本一の{{r|名城|めいじやう}}ぞかし。又{{r|縱|たと}}ひ我に{{r|與|くみ}}するとも、諸︀大名の中、三分一
{{仮題|頁=18}}
はよもあらじ。さあらば、いかでか{{r|運|うん}}を開くべき。よしなき事な申しそ、{{r|壁|かべ}}に耳ありといふ事のある
ぞとの給ひける。{{r|常陸|ひたち}}守重ねて申すやう、{{r|御諚|ごぢやう}}にて候へども、{{r|人數|にんず}}を{{r|揃|そろ}}へ、一戰に及び候はんだに、
軍は{{r|人數|にんず}}の{{r|多少|たせう}}によらぬ物にて候。其上{{r|某|それがし}}{{r|城中|じやうちう}}へ忍び入り、大殿の{{r|御命|おんいのち}}を奪ひ奉らん事は、何か{{r|仔細|しさい}}
の候べきと、事もなげに申しければ、關白聞召し、誠に汝は{{r|聞|きこ}}ゆる忍びの名を得たると聞けども、そ
れは時により、{{r|折|をり}}に從ひての事ぞかしとぞ仰せける。木村{{r|承|うけたまは}}りて、其儀にて候はゞ、三日の{{r|御暇|おんいとま}}を
下され候へ。大阪の御城へ忍び入り、何にても{{r|御天主|ごてんしゆ}}に御座候{{r|御道具|ごだうぐ}}を、一種取りて{{r|參|まゐ}}り候べし。之
を{{r|證據|しようこ}}に{{r|御覽|ごらん}}じて、御心を定められ候へとて、{{r|御前|ごぜん}}を罷立つ。秀次は{{r|只|たゞ}}{{r|覺束|たゞおぼつか}}なし、よし{{く}}と{{r|仰|おほ}}せけ
れども、それより{{r|所勞|しよらう}}とて{{r|出仕|しゆつし}}をやめ、急ぎ罷下りけるが、其夜太閤は伏見へ{{r|御上洛|ごじやうらく}}にておはしけれ
ば、{{r|取分|とりわ}}き門々のとのゐ{{r|嚴|きび}}しかりつれども、いと易く忍び入り、事のやうをぞ{{r|伺|うかゞ}}ひけるに、{{r|女房達|にようぼうたち}}の
聲にて、{{r|上樣|うへさま}}ははや{{r|牧方|ひらかと}}まで御上り候はんかなどいふを聞きて、扨は{{r|御運|ごうん}}强き大將軍かな、此城に
{{r|今夜|こよひ}}ましまさば、御命を{{r|奪|うば}}ひ奉らん物をと{{r|悔︀|く}}いながら、{{r|此儘|このまゝ}}歸りては惡かりなんと思ひ、{{r|天主|てんしゆ}}に忍び入
り、太閤{{r|御祕藏|ごひざう}}の{{r|御水差|おんみづさし}}の{{r|蓋|ふた}}を取りて、急ぎ罷上り、秀次の御前に{{r|參|まゐ}}り、{{r|件|くだん}}のやうを語り奉る。關白
之を{{r|御覽|ごらん}}じければ、{{r|先年|せんねん}}秀次より{{r|御進上|ごしんじやう}}の{{r|水差|みづさし}}の蓋なり。{{r|不思議|ふしぎ}}なる事かな。異なる物ならば、{{r|疑|うたが}}は
しくも思ふべきが、{{r|我手|わがて}}{{r|馴|な}}れたる物なれば、いかで{{r|見損|みそん}}ずべきとて、斜ならず感じ給ふ。此水差は、昔
{{r|堺|さかひ}}の{{r|濱|はま}}にて、{{r|數寄者︀|すきしや}}の持ちたる{{r|道具|だうぐ}}なりしを、{{r|宗益|そうえき}}と申す者︀求め出して、{{r|秀次|ひでつぐ}}へ捧げ奉るを、{{r|頓|やが}}て太
閤へ進上とぞ聞えし。其後大阪には、之を尋ねさせ給へども、見えざれば、何者︀か{{r|過|あやま}}ちして{{r|隱|かく}}し捨て
たるらんとて、{{r|金細工|きんざいく}}の者︀に仰付けられ、{{r|黃金|わうごん}}を以て{{r|打物|うちもの}}にさせ給ふ。後に{{r|聚樂|じゆらく}}の御城{{r|缺所|けつしよ}}の時、此
{{r|御道具|ごだうぐ}}出でたるにより、此事思ひ合せて、{{r|委|くは}}しく尋ね給ひてぞ{{r|顯|あらは}}れける。{{r|常陸守|ひたちのかみ}}、かやうに樣々に
計ひ申しければ、秀次も自ら御心を{{r|移|うつ}}され、內々に{{r|御支度|ごしたく}}ありて、大名小名によらず、御意に從ふべ
きと思召す者︀共には、{{r|御手前|おてまへ}}にて{{r|御茶|おちや}}を下され、或は御太刀、刀、{{r|御茶湯|おちやたう}}の{{r|道具|だうぐ}}によらず、その程々
に從ひ、金銀を遣されける間、何事もあらば一{{r|命|めい}}を奉らんと存ずる者︀共あまたなり。されども{{r|御家老|ごからう}}
中村田中をば、御はたへ入れさせ給はで、よろづ木村が{{r|差計|さしはから}}ひ申しけるが、つひに{{r|天罰|てんばつ}}{{r|遁|のが}}れ{{r|難︀|がた}}くして、
君をも{{r|失|うしな}}ひ奉り其身も{{r|敢|あへ}}なく{{r|亡|ほろ}}びけり。
{{仮題|投錨=聚樂へ御成の由仰上げらるゝ事|見出=小|節=j-1-10|副題=|錨}}
{{r|文祿|ぶんろく}}四年二月中頃、聚樂より{{r|熊谷大膳|くまがへだいぜん}}を遣され、{{r|伏見|ふしみ}}の{{r|里|さと}}の秋の月は、古より{{r|歌人|かじん}}の言の葉に詠み盡
したる御事なれども、{{r|年每|としごと}}の御遊なり。又{{r|廣澤|ひろさは}}の月も他に異なれば、來らん秋の月をば、北山にて
{{r|御覽|ごらん}}ぜられ候へかし。{{r|若君|わかぎみ}}御慰めのために、{{r|八瀨小原|やせをはら}}の{{r|奧|おく}}にて、{{r|狩|かり}}くらを初め、御遊をなし{{r|奉|たてまつ}}るべしと
ぞ仰上げられける。太閤斜ならず御感にて、{{r|兎|と}}も{{r|角|かく}}も關白の心に{{r|任|まか}}すべしと、{{r|心地|こゝち}}よげに打{{r|咲|ゑ}}み給ひ
て、汝心得て{{r|御返事|ごへんじ}}申すべしとて、{{r|大膳|たいぜん}}に御太刀{{r|一腰|ひとこし}}御{{r|吳服|ごふく}}{{r|餘多|あまた}}下し給はつて歸し給ふ。{{r|大膳|だいぜん}}罷歸り此
由言上申しければ、夫れより{{r|御成|おなり}}のために御殿を急ぎ申せとて、{{r|鍛冶|かぢ}}{{r|番匠|ばんしやう}}を{{r|召|め}}し集め、夜を日に{{r|繼|つ}}い
{{仮題|頁=19}}
で急がれける。
{{仮題|投錨=御謀叛顯るゝ事|見出=小|節=j-1-11|副題=|錨}}
同五月二十五日の夜に入つて、{{r|石田|いしだ}}{{r|治部少輔|ぢぶのせう}}が{{r|宿所|しゆくしよ}}へ{{r|文箱|ふみばこ}}持來り、是は{{r|聚樂|じゆらく}}より參り候。{{r|淺野彈正殿|あさのだんじやうどの}}
へ急ぎ{{r|御狀|ごじやう}}參り候間、歸りて御{{r|返事|へんじ}}を給はるべしとて急ぎ歸りける。{{r|番所|ばんじよ}}の{{r|侍|さぶらひ}}ども、この狀を石田に
見せければ、{{r|文箱|ふみばこ}}の上に、{{r|石田治部殿|いしだぢぶどの}}まゐると書きて、{{r|誰|たれ}}とも名を{{r|顯|あらは}}さず。{{r|光成|みつなり}}不思議に思ひ{{r|披|ひら}}き見
れば、{{r|幼|をさな}}き者︀の筆のやうにて、
{{left/s|1em}}
近き頃{{r|太閤樣|たいかふさま}}聚樂へ{{r|御成|おなり}}とて、御用意樣々御座候。中にも北山にて{{r|鹿狩|しゝがり}}のためとて、{{r|國々|くに{{ぐ}}}}より弓鐵
砲の者︀を{{r|選|えら}}びすぐり、數萬に及び召し{{r|上|のぼ}}せられ候。是は全く{{r|狩|かり}}くらの御ためならず、{{r|御謀叛|ごむほん}}とこそ
見えて候へ。{{r|對面|たいめん}}にて申したく候へども、{{r|返忠|かへりちう}}の者︀といはれん事{{r|口惜|くちを}}しく候。又申さぬ時は、{{r|重恩|ぢうおん}}
を蒙り候{{r|主君|しゆくん}}へ弓を引くべし。此{{r|旨|むね}}を存じ我が名を{{r|隱|かく}}して{{r|斯|かく}}の如し。
{{left/e}}
と書きたり。石田{{r|驚|おどろ}}き、{{r|急|いそ}}ぎ御前に參り、{{r|此由|このよし}}言上申しければ、太閤{{r|聞召|きこしめ}}して、關白何の{{r|意恨|いこん}}にてさ
る事あるべきぞ。夫れは{{r|疎|うと}}める者︀の{{r|仕態|しわざ}}なるべしと仰せければ、{{r|光成|みつなり}}承つて、いや{{く}}存じ合せたる
事ども候へば、先づ{{r|田中兵部|たなかひやうぶ}}を召し上せ、某いろ{{く}}に{{r|賺|すか}}して見候べしと申しければ、{{r|兎|と}}も{{r|角|かく}}も先づ
{{r|隱密|おんみつ}}にて{{r|窺|うかゞ}}へとのたまふ。
{{仮題|投錨=治部少輔田中を賺す事|見出=小|節=j-1-12|副題=|錨}}
{{r|其頃|そのころ}}田中は、{{r|津|つ}}の國河內の{{r|堤普請|つゝみぶしん}}の{{r|奉行|ぶぎやう}}に仰付けられて{{r|居|ゐ}}たりけるを、{{r|夜通|よどほ}}しに召し上せ、先づ石田
が{{r|宿所|しゆくしよ}}へ{{r|呼寄|よびよ}}せ、{{r|奧|おく}}の{{r|亭|ちん}}へ{{r|請|しやう}}じ入れ、あたりに人一人も置かず、二人{{r|差寄|さしよ}}りて、いかに田中殿、{{r|御邊|ごへん}}
は千年も經させ給ふべきぞや。光成こそ御命を助け奉りて候へと申せば、{{r|兵部|ひやうぶ}}聞いて大きに驚き、こ
はいかに、{{r|夢|ゆめ}}ばかりも存じ審らぬ事を{{r|承|うけたまは}}り候ものかな。何事なれば事{{r|新|あらた}}しくは仰せ候ぞといひける。
石田、さればとよ、光成ほどの{{r|親|したし}}みを{{r|持|もち}}給はずば、{{r|今度|こんど}}の御大事を、いかで遁れさせ給ふべき。{{r|御首|おんくび}}
を光成が{{r|繼|つ}}ぎ申して候といひければ、田中事の外{{r|氣色|きしよく}}を損じて、何と申すぞ、石田殿、{{r|當代|だうだい}}日本の{{r|侍|さふらひ}}
の中に、田中が事なんど、{{r|御前|ごぜん}}にて{{r|惡樣|あしざま}}に申さん人は覺えず。{{r|縦|たと}}ひ{{r|讒言|ざんげん}}したりとも、上に用ひさせ給ふ
まじ。{{r|御邊|ごへん}}などが{{r|今時|いまどき}}{{r|出頭|しゆつとう}}して、御前近く參るとて、首を{{r|繼|つ}}いだるは、{{r|命|いのち}}助けたるはなんどといふべき
事やある。いざや{{r|只今|たゞいま}}にても、{{r|御前|ごぜん}}へ參らん。{{r|無用|むよう}}の事して{{r|助|たす}}けんよりは、罪あらば我が{{r|首|くび}}討つて參
れとて、{{r|膝|ひざ}}を{{r|直|なほ}}し、刀の{{r|柄|つか}}に手を{{r|掛|か}}け、思切つたる有樣なり。石田{{r|小聲|こゞゑ}}になりて、{{r|靜|しづ}}まり給へ、田中
殿、事の{{r|仔細|しさい}}を申さで、{{r|御氣|おんき}}に當りたるは{{r|理|ことわり}}にて候。されども御心を{{r|靜|しづ}}めて{{r|聞食|きこしめ}}せ。關白{{r|御謀叛|ごむほん}}おぼ
しめし立ち給ふ御事の{{r|顯|あらは}}れければ、中村は{{r|病氣|びやうき}}にて出でざれば、知らぬ事もあるべきが、兵部は{{r|兼|かね}}て
知らぬ事よもあらじ。{{r|賴|たの}}むまじきは人の心ぞや。急ぎ{{r|誑|たばか}}り寄せて{{r|腹切|はらき}}らせよと仰せられ、{{r|御憤|おんいきどほり}}深く仰
せ候ひしを、光成{{r|罷出|まかりい}}で、{{r|御諚|ごぢやう}}にて候へども、かはどの{{r|不覺|ふかく}}なる事をおばしめし立つ程の{{r|御心樣|おこゝろざま}}にて、
いかで彼等に御心を{{r|免︀|ゆる}}し給ふべき。其上{{r|此兩人|このりやうにん}}の者︀共、度々御{{r|異見|いけん}}申しけれども、更に{{r|御承引|ごしよういん}}なくて
{{仮題|頁=20}}
常に{{r|參|まゐ}}れども{{r|御機嫌|ごきげん}}{{r|惡|あし}}くし給ひて、{{r|御前遠|ごぜんどほ}}に罷成りたるとて、{{r|常々|つね{{ぐ}}}}申候と、{{r|御身|おんみ}}に代りて申上候へば、
夫れはさもあるらんが、されども彼程の事を{{r|支度|したく}}せば、何に付けても{{r|不審|ふしん}}の立つべきを、兎も角もい
はざる事はいかにとの{{r|御諚|ごぢやう}}にて候を、其儀にて候、{{r|內々|ない{{く}}}}某に申しつる事共候へども、かやうの{{r|御野心|ごやしん}}
あらんとは、{{r|努々|ゆめ{{く}}}}{{r|存|ぞん}}じも寄らで候ひしが、{{r|今|いま}}{{r|存|ぞん}}じ合して候。{{r|彌|いよ{{く}}}}{{r|窺|うかゞ}}ひ、{{r|御振舞|おんふるまひ}}を見計ひ候へとこそ申候
はめとて{{r|罷立|まかりた}}つて候。{{r|聊|いさゝか}}もおぼしめし合せらるゝ事は候はずやと、{{r|言葉|ことば}}を盡しいひければ、田中聞い
て、是は{{r|存|ぞん}}じの外にて候。一大事を{{r|承|うけたまは}}り候へば、某が身の上を、何者︀か{{r|讒言|ざんげん}}申しつらんとこそ存じ
て候へ。仰の如く此頃は、某{{r|抔|など}}は{{r|外座間者︀|とざまもの}}のやうに罷成候へば、さやうの大事をば、いかで知らせ給
ふべきなれども、{{r|上意|じやうい}}に、{{r|憎︀|にく}}しと思召すは{{r|御理|おんことわり}}なり。さりながら存ぜざる{{r|旨|むね}}は、罷出でても申し{{r|披|ひら}}
くべし。此上はいかやうにも心を附けて{{r|窺|うかゞ}}ひ申さんといふ。光成聞いて、さらば先づ{{r|御邊|ごへん}}は{{r|普請場|ふしんば}}へ
急ぎ御出で候へ。{{r|上意|じやうい}}として、是より{{r|使者︀|ししや}}にて申すべしとて、田中は河內へぞ歸しける。其後使者︀を
以て、{{r|其許|そのもと}}堤の{{r|御普請|ごふしん}}は、{{r|誰|たれ}}にても{{r|仰付|おほせつ}}けらるべし。人こそ多く候はんに、{{r|御成前|おなりさき}}にて候に、急ぎ
{{r|歸京|ききやう}}あつて、{{r|聚樂|じゆらく}}の御殿{{r|抔|など}}急がせ給へとの御諚にて候と申しつがひければ、兵部少輔夫れより{{r|頓|やが}}て{{r|聚樂|じゆらく}}
へ參り、{{r|萬|よろづ}}に心を附けて{{r|窺|うかゞ}}ひ見けれども、是ぞ{{r|定|さだか}}なる事とてはあらざれども、いかさま{{r|不審|ふしん}}なる事共
多かりければ、{{r|昨日|きのふ}}は{{r|兎|と}}ありて、{{r|今日|けふ}}は{{r|角|かく}}ありてと、{{r|每日|まいにち}}石田が{{r|許|もと}}へ知らせける間、光成太閤の{{r|御前|ごぜん}}
に參り、{{r|御謀叛|ごむほん}}早や{{r|疑|うたが}}ひなく候。兵部少輔方より、昨日は斯く申して參り候。今は又{{r|此儀|このぎ}}を申して{{r|遣|つかは}}
し候と、此事{{r|急|きふ}}に申上げける間、太閤{{r|聞召|きこしめ}}し、其儀ならば、急ぎ{{r|踏潰|ふみつぶ}}すべしとの御諚なり。光成申し
けるは、{{r|先|ま}}づいかやうにも{{r|誑|たばか}}り給ひて、叶はぬ時は御馬を出さるべし。{{r|只今|たゞいま}}{{r|洛中|らくちゆう}}へ{{r|押寄|おしよ}}せ候はゞ悉く
{{r|發火|はつくわ}}仕るべし。さあらば、{{r|禁中|きんちう}}も{{r|火災|くわさい}}いかで{{r|免︀|まぬか}}れ給ふべき。天子への{{r|恐|おそれ}}一つ。其上{{r|御命|おんいのち}}に代り奉らん
と存ずる程の大名共は、皆{{r|御暇|おいとま}}給はり、國々へ{{r|罷下|まかりくだ}}り候。{{r|御馬廻|おんうままは}}りの者︀共、僅に千{{r|騎|き}}にはよも過ぎ候
はじ。{{r|軍|いくさ}}の{{r|習|なら}}ひにて、{{r|人數|にんず}}の多少には{{r|依|よ}}るべからず候へども、定めて京都︀には、兼ての{{r|御支度|ごしたく}}なれば
{{r|洛中|らくちう}}に{{r|多勢|たぜい}}{{r|滿|み}}ち{{く}}てあるべく候。さあらば{{r|由々|ゆゝ}}しき御大事にて候。先づ{{r|德善院|とくぜんゐん}}を遣はされ、いかや
うにも{{r|賺|すか}}し出し奉り候はんこそ、{{r|武略|ぶりやく}}の一つにてこそ候はんずれと申上げければ、{{r|御前|ごぜん}}の人々、此儀
然るべく存じ候と、一{{r|同|どう}}にぞ申しける。
{{仮題|投錨=德善院聚樂へ參る事|見出=小|節=j-1-13|副題=|錨}}
さあらば先づ{{r|法印|ほういん}}參り、いかやうにも{{r|計|はから}}ひ申せとの御諚にて、七月八日に、{{r|德善院|とくぜんゐん}}聚樂へ參り、{{r|秀次|ひでつぐ}}
の御前に參り、何とも申し出す事もなく、{{r|涙|なみだ}}に{{r|咽|むせ}}びければ、關白{{r|怪|あやし}}み給ひて、いかに{{く}}と仰せける。
{{r|法印|ほういん}}淚を押へて、其御事にて候。{{r|愚人|ぐにん}}は勝るを{{r|嫉|ねた}}む習ひにて候へば、君の御事を{{r|讒言|ざんげん}}申す者︀の候へば
こそ、主なき文に{{r|樣々|さま{{ぐ}}}}言上申候を、一度二度は御用ひなくおはせしかども、{{r|度重|たびかさ}}なりければ、{{r|扨|さて}}は
{{r|御野心|ごやしん}}もましますか、何の{{r|御意恨|ごいこん}}ぞや。{{r|御齡|おんよわひ}}の傾くに付けても、{{r|杖柱|つゑはしら}}とも賴み思召すに、賴みたる木の
下に雨{{r|漏|も}}るとは是なるならん。かゝる{{r|不思議|ふしぎ}}こそ出で來れと、{{r|御朦氣千萬|おんおぼろけせんばん}}にて、御淚{{r|堰|せ}}きあへさせ給
{{仮題|頁=21}}
はず候と{{r|言葉|ことば}}を盡し、誠にさるべきやうに申しければ、關白{{r|驚|おどろ}}き給ひて、こはそも何事ぞや、我まん
まんの{{r|御恩賞|ごおんしやう}}を蒙り、何の{{r|不足|ふそく}}ありてか{{r|野心|やしん}}を{{r|含|ふく}}むべき。汝も能く思うて見よ、我れ{{r|幼少|えうせう}}より御寵愛
ある故に、日本國中の{{r|諸︀侍|しよし}}にかしづかれ、{{r|七珍萬寶|しつちんばんぱう}}滿ち{{く}}て、心の{{r|儘|まゝ}}にある事、我力にあらず、{{r|偏|ひとへ}}
に太閤の{{r|御恩賞|ごおんしやう}}ぞかし。夫れに何ぞ我れ{{r|逆心|ぎやくしん}}あり共、何者︀か我に{{r|組|くみ}}する者︀のあるべきぞ。{{r|斯程|かほど}}の大事
を一人して思ひ立たんは、{{r|偏|ひとへ}}に{{r|狂人|きやうじん}}にてあるべし。其上何に付けても、此君に野心を{{r|構|かま}}へば、日本國
中の{{r|諸︀神︀|しよしん}}は申すに及ばず、上は{{r|梵天帝釋天|ぼんてんたいしやくてん}}、下は{{r|四大天王|しだいてんわう}}も{{r|照覽|せうらん}}あるべしと、御誓にて{{r|陳|ちん}}じ給ふ。法
印{{r|承|うけたまは}}りて、御諚の如く、我等如きの者︀共存じ奉ればこそ、御前にても{{r|推量|おしはか}}り申上げ候へ。さりながら
{{r|常々|つね{{ぐ}}}}御存じ候如くに、一{{r|旦|たん}}御腹の立つ時は、{{r|矢楯|やたて}}もたまらず仰せられ候へども、又いつもの如く、
{{r|若君達|わかぎみたち}}御先に立てられ、あれへ御參りあつて、{{r|御心底|ごしんてん}}を{{r|仰上|おほせあ}}げられ候はゞ、{{r|頓|やが}}て{{r|御機嫌|ごきげん}}は直らせ給ふべ
しと申しけれども、さすが{{r|御身|おんみ}}に危き事やおはしけん、{{r|先々|まづ{{く}}}}汝罷歸りて、我が{{r|野心|やしん}}なき{{r|旨|むね}}を心得て申
上げよとて、{{r|法印|ほういん}}を下し給ふ。德善院罷歸りて、此由{{r|委|くは}}しく言上申しければ、いかやうにも計ひて、
{{r|聚樂|じゆらく}}を出し奉れとて、重ねて{{r|幸藏主|かうざうす}}を{{r|差添|さしそ}}へられ遣さる。此幸藏主と申す{{r|尼|あま}}は、女なれども、{{r|智惠|ちゑ}}深
く{{r|辯舌達|べんぜんたつ}}しければ、{{r|御前|ごぜん}}を去らず、{{r|萬|よろづ}}の事を{{r|推量|おしはか}}りけれども、一{{r|度|ど}}も御心に反き{{r|奉|たてまつ}}らず。常に關白
{{r|御參|おんまゐ}}りの時も、此{{r|尼|あま}}ならで{{r|御挨拶|ごあいさつ}}申す者︀なし。されば此兩人重ねて參り、御諚の{{r|通|とほ}}りさし心得て申上候
へば、{{r|幸藏主|かうざうす}}も罷出で、樣々{{r|御取成|おんとりなし}}にて、{{r|御機嫌|ごきげん}}直らせ給ひて、{{r|越方|こしかた}}{{r|行末|ゆくすゑ}}の事、誠に{{r|有難︀|ありがた}}き御諚{{r|共|ども}}仰
出され、御淚を流し給ひて、{{r|初|はじめ}}より{{r|浮世|うきよ}}ぜめと思召せばこそ、先づ法印めをば{{r|遣|つかは}}されて候へ。されど
もさやうに諸︀人に{{r|疎|うと}}まれ給ひて、{{r|讒言|ざんげん}}受けさせ給ふも、御心に{{r|私|わたくし}}のましませばこそ。天下を保ち給ふ
人は、{{r|萬民|ばんみん}}を御子と{{r|憐|あはれ}}び給ひてこそ、御代は{{r|彌|いよ{{く}}}}{{r|長久|ちやうきう}}なるべけれ。{{r|聊|いさゝか}}も御心に私なく、天の道を{{r|背|そむ}}き
給はぬやうに、{{r|御計|おんはから}}ひあれかしとおぼしめし候。此むね{{r|能々|よく{{く}}}}申上げよとの御諚にて、{{r|重|かさ}}ねて幸藏主を
遣され候。{{r|急|いそ}}ぎあれへ御參りなされ、{{r|御對面|ごたいめん}}にて、何事も仰上げられ候はゞ、事の{{r|序|ついで}}に內々の{{r|御訴訟|ごそしよう}}
も叶ひ候べしと、{{r|德善院|とくぜんゐん}}は{{r|富婁那|ふるな}}の{{r|辯舌|べんぜつ}}を{{r|假|か}}りて申上げ、幸藏主は{{r|舍利佛|しやりぶつ}}の{{r|智惠|ちゑ}}を取つて、さもあり
げに申上げければ、さらば{{r|汝等|なんぢら}}は{{r|御先|おさき}}へ參れ、{{r|頓|やが}}て御出あるべき由仰せられ、{{r|御輿|おんこし}}を出せと仰せける。
兩人さあらば{{r|御先|おんさき}}へ參り候べし。{{r|相構|あひかま}}へていつもの如く{{r|君達|きんだち}}をも{{r|具|ぐ}}し給ひて、{{r|御參|おんまゐ}}り候へと申してこ
そは{{r|歸|かへ}}りけれ。
{{仮題|投錨=木村常陸參り御諫め奉る事|見出=小|節=j-1-14|副題=|錨}}
かくて{{r|關白|くわんぱく}}{{r|御裝束|おんしやうぞく}}を{{r|更|あらた}}め{{r|出御|しゆつぎよ}}なる所へ、木村{{r|罷出|まかりい}}でて、君は{{r|斯程|かほど}}まで、{{r|言甲斐|いひがひ}}なき{{r|御所存|ごしよぞん}}にておはし
ける事こそ{{r|口惜|くちを}}しけれ。{{r|唯今|たゞいま}}{{r|伏見|ふしみ}}へ御參り候とも、{{r|御對面|ごたいめん}}は思ひも寄らず、{{r|再|ふたゝ}}び都︀へは返し給ふべか
らず。道にて{{r|雜兵|ざふひやう}}の手にかゝり給ふか、さらずば{{r|遠國|をんごく}}へ流され給ひて、遂には{{r|御介錯|ごかいしやく}}申す者︀もなき
{{r|御腹|おんはら}}召され候はん。迚も{{r|遁|のが}}れ給ふまじき御命を、いつまで惜み給ふぞや。{{r|急|いそ}}ぎ{{r|伏見|ふしみ}}へ押寄せ、{{r|戰場|せんぢやう}}に御
名を{{r|殘|のこ}}し給ふか、さらずば此城に{{r|楯籠|たてこも}}り、京中を{{r|燒拂|やきはら}}ひ、御門を是へ{{r|行幸|ぎやうかう}}なし奉り給ひて、一{{r|支|さゝ}}へ支
{{仮題|頁=22}}
へ給はゞ、いかで太閤も、天子へ御弓を{{r|彎|ひ}}き給ふべき。さあらば{{r|御扱|おんあつかひ}}と仰せ候はん時は、十分の利
を得させ給ふべし。先づ{{r|京中|きやうちう}}の{{r|兵粮|ひやうらう}}を{{r|悉|こと{{ぐ}}}}く{{r|召寄|めしよ}}せられ候へと、{{r|威丈高|ゐだけだか}}になつてぞ申しける。
{{仮題|投錨=阿波の木工御異見の事|見出=小|節=j-1-15|副題=|錨}}
かゝりける所に、{{r|阿波|あは}}の{{r|木工|もく}}の{{r|助|すけ}}進み出で申しけるは、{{r|常陸|ひたち}}の{{r|守|かみ}}申す所もさる事にて候へども、又退
き{{r|愚案|ぐあん}}を{{r|廻|めぐ}}らし候に、伏見の{{r|大殿|おほとの}}は、御心早き{{r|大將軍|たいしやうぐん}}にてましませば、君の{{r|御謀叛|ごむほん}}必定と思召し候は
ば、やはか{{r|斯樣|かやう}}に事{{r|延|の}}び候まじ。卽時に{{r|押寄|おしよ}}せ給ふべし。{{r|唯筋|たゞすぢ}}なき事を取持つて、石田が樣々{{r|讒言|ざんげん}}申
すとも、太閤{{r|御底意|おんそこい}}には{{r|御承引|ごしよういん}}なきとこそ存じ候へ。さあらん時は、{{r|何心|なにごころ}}なく御參り候はば、{{r|彌|いよ{{く}}}}御心
{{r|解|と}}けさせ給ふべし。又只今{{r|伏見殿|ふしみどの}}へ寄せられ候とも、{{r|甲斐々々|かひ{{ぐ}}}}しく利を得させ給ふ事は候はじ。あな
たは{{r|譜第|ふだい}}{{r|重恩|ぢうおん}}の侍共なれば、十{{r|騎|き}}が百{{r|騎|き}}にも向ひ候べし。こなたは{{r|大勢|たいぜい}}なりとも、諸︀國のかり{{r|武者︀|むしや}}に
て、伏見に親を持ち子を置きたる者︀、或は{{r|最愛|さいあい}}に心{{r|牽|ひ}}かれ、何の{{r|御用|ごよう}}にも立ち難︀し。又此{{r|城廓|じやうくわく}}に{{r|籠|こも}}り
給ふとも、{{r|寄手|よせて}}{{r|嚴|きび}}しく候はゞ、{{r|頓|やが}}て{{r|實否|じつぷ}}も極まり候べきか。{{r|遠攻|とほぜめ}}にして{{r|兵粮|ひやうらう}}を盡し候はゞ、皆{{r|親類︀|しんるゐ}}
{{r|緣者︀|えんじや}}に附いて{{r|降參|かうさん}}し、敵には力を附くるとも、{{r|甲斐々々|かひ{{ぐ}}}}しく御用に立つ者︀は候はじ。{{r|斯樣|かやう}}に申す者︀共こ
そ、{{r|御內存|ごないぞん}}は存じて候へ。{{r|何者︀|なにもの}}か{{r|白狀|はくじやう}}申すべきぞや。{{r|危|あやふ}}き事は候はじ。{{r|唯|たゞ}}此度は急ぎ{{r|御參|おんまゐ}}りあつて然
るべく候と、{{r|理|り}}を{{r|責|せ}}めて申しければ、いづれも此儀然るべし。さあらばいかにも{{r|穩便|をんびん}}に{{r|如|し}}くべからず
とて、{{r|御輿|おんこし}}一{{r|挺|ちやう}}にて、御道具をも{{r|差置|さしお}}き、{{r|徒立|かちだち}}にて{{r|御供|おんとも}}二三十人召連れられ、{{r|文祿|ぶんろく}}四年七月八日に、
聚樂の城を出で給ふは、{{r|御運|ごうん}}の{{r|末|すゑ}}とぞ覺えける。{{nop}}
{{仮題|ここまで=聚楽物語/巻之上}}
{{仮題|ここから=聚楽物語/巻之中}}
{{仮題|頁=23}}
{{仮題|投錨=卷之中|見出=中|節=j-2|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=關白伏見へ出御の事|見出=小|節=j-2-1|副題=|錨}}
{{r|關白|くわんぱく}}{{r|御輿|おんこし}}を早め給へば、程なく{{r|五條|ごでう}}の橋を打渡り、{{r|大佛殿|だいぶつでん}}の前を過ぎさせ給ふに、何とやらん{{r|前後|ぜんご}}も
{{r|騷|さわが}}しく{{r|犇|ひし}}めきて、{{r|往|ゆ}}き{{r|來|か}}ふ人も、こゝかしこに{{r|立迷|たちまよ}}ひければ、御供の人々、これは早や{{r|御討手|おんうつて}}の向ひ
たると覺え候。{{r|賤|いや}}しき者︀共の手にかゝり給はん事、{{r|餘|あま}}りに{{r|口惜|くちを}}しく候へば、{{r|東福︀寺|とうふくじ}}へ御輿を入れられ、
あれにて御心靜に、{{r|御腹|おんはら}}召され候へかしと申しければ、秀次聞召し、{{r|扨|さて}}は法印めに{{r|誑|たばか}}られつる事の無
念さよ。さらば是より{{r|引返|ひきかへ}}し、聚樂にて{{r|腹|はら}}切らめと仰せける。かゝりける所に、{{r|後|あと}}より參りたる{{r|若黨|わかたう}}
{{r|共|ども}}、早や五條わたりの{{r|體|てい}}を見候へば、敵まん{{く}}と{{r|入廻|いりまは}}りて候と覺え候。{{r|還御|くわんぎよ}}は思ひもよらず候と申
しければ、關白{{r|聞召|きこしめ}}し、さるにても弓矢取る者︀の、{{r|假初|かりそめ}}にも乘るまじき物は{{r|輿車|こしくるま}}ぞかし。{{r|馬上|ばじやう}}ならば
何者︀なりとも、{{r|頓|やが}}て{{r|蹴散|けち}}らして通るべき物を、{{r|犬死|いぬじに}}すべき事こそ{{r|口惜|くちを}}しけれ。思ふ{{r|仔細|しさい}}のある間、先
づ藤の森まで{{r|御輿|おんこし}}を{{r|急|いそ}}げとて、さらぬ{{r|體|てい}}にて過ぎさせ給ふ所へ、{{r|增田右衞門尉|ますだうゑもんのじよう}}參り迎へ、馬より飛
んで{{r|下|お}}り、御輿の前にかしこまり、以の外の{{r|御機嫌|ごきげん}}にて御座候。一先づ{{r|高野山|かうやさん}}へ忍ばせ給ひて、{{r|連々|れん{{く}}}}
以て{{r|御野心|ごやしん}}なき通りを、{{r|仰|おほ}}せ開かれ候へと申しければ、關白{{r|御輿|おんこし}}を立てゝ、是れ迄出づるよりして其
{{r|覺悟|かくご}}なれば、{{r|今更|いまさら}}驚くべきにあらず。聚樂にありながら御{{r|理|ことわり}}を申せば、おほそれ多く思ひ、是れ迄出
でたるなり。{{r|唯今|たゞいま}}{{r|兎|と}}も{{r|角|かく}}もならんずる命は、{{r|露塵|つゆちり}}も惜しからねども、{{r|無實|むじつ}}にて果てん事こそ、何より
{{r|口惜|くちを}}しけれ。相構へて秀次程のものに、{{r|最後|さいご}}を知らせざる事あるべからず、{{r|尋常|じんじやう}}に腹切るべしと宣へ
ば、{{r|右衞門尉|うゑもんのじよう}}承つて、いかで{{r|御腹|おんはら}}めさるゝまでは候べき。一{{r|旦|たん}}かやうに{{r|仰|おほ}}せられ候とも、{{r|連々|れん{{く}}}}に
{{r|御自筆|ごじひつ}}の御書を捧げられ、{{r|御心底|ごしんてい}}を{{r|仰|おほせ}}上げられ候はゞ、{{r|頓|やが}}て{{r|御和睦|おんわぼく}}あつて、讒言の{{r|輩|ともがら}}を、御心のまゝに
仰付けらるべしと、やう{{く}}に申し{{r|勸|すゝ}}め奉り、夫れよりものゝふども、{{r|前後|ぜんご}}を{{r|圍|かこ}}み、{{r|大和路|やまとぢ}}にかゝり
{{r|伏見|ふしみ}}の城を{{r|外|よそ}}に見て、急がせ給ふ御心の中、思ひやられて{{r|痛|いた}}はしさよ。{{r|假初|かりそめ}}の{{r|出御|しゆつぎよ}}にも、{{r|馬上|ばじやう}}の{{r|御供|おんとも}}
數百人{{r|召連|めしつ}}れられつるに、{{r|此度|このたび}}は僅に侍四五人ならでは御許しなければ、只{{r|夢路|ゆめぢ}}を{{r|辿|たど}}る御心地にて、
南を{{r|指|さ}}して赴き給ふ事こそ{{r|憐|あはれ}}なれ。{{r|聚樂|じゆらく}}に{{r|殘|のこ}}りたる人々は、伏見との{{r|御對面|ごたいめん}}も叶はせ給はで、我君は
{{r|高野|かうや}}へ上らせ給ふ由{{r|聞|きこ}}えければ、皆{{r|呆|あき}}れ果てゝ、こはそも何と{{r|成行|なりゆ}}く世の中ぞや。かくあるべきと思
ひなば、などかいづく迄も{{r|御供|おんとも}}申さであるべきぞ。たゞ{{r|天|てん}}人の{{r|五衰|ごすゐ}}、目の前に{{r|覺|さ}}めぬる事こそあさま
しけれと、{{r|上下|しやうか}}{{r|諸︀共|もろとも}}に泣き悲む聲、{{r|暫|しば}}しも止むことなし。中にも御恩深き人々は、{{r|順禮修行者︀|じゆんれいしゆぎやうじや}}の姿
に身を{{r|窶|やつ}}し、いづく迄も{{r|御跡|おんあと}}を{{r|慕|した}}ひ參らんと志しぬれども、こゝかしこにて{{r|嚴|きび}}しくあらためければ{{r|叶|かな}}
はずして、夫れより{{r|諸︀國|しよこく}}七{{r|道|だう}}{{r|廻|まは}}るもあり、或は{{r|己々|おのれ{{く}}}}が{{r|住|す}}み{{r|馴|な}}れたる{{r|國々|くに{{ぐ}}}}へ歸るも多かりけり。
{{仮題|投錨=關白高野へ入御の事|見出=小|節=j-2-2|副題=|錨}}
{{r|關白|くわんぱく}}其{{r|夜|よ}}は、いぶせき{{r|藁屋|わらや}}の{{r|軒端|のきば}}も荒れたるに御輿を{{r|留|とゞ}}め、いとをかしき{{r|御膳|ごぜん}}{{r|捧|さゝ}}げ奉りけれども、
{{仮題|頁=24}}
{{r|御箸|おんはし}}をだに取り給はで、いざよふ月を{{r|御枕|おんまくら}}にて、暫し{{r|傾|かたふ}}き給へども、まどろみたまはねば、御夢をも結
びあへず、たゞ{{r|移|うつ}}り{{r|變|かは}}れる御身の上を{{r|觀|くわん}}じ給ひてかく、
思ひきや{{r|雲井|くもゐ}}の{{r|秋|あき}}の空ならで竹あむ{{r|窓|まど}}の月を見んとは
かやうに口ずさみ、いとゞ長き夜をあかし兼ねておはしけるに、{{r|漸|やう{{く}}}}{{r|八聲|やこゑ}}を吿ぐる{{r|鳥|とり}}の{{r|音|ね}}も、まだ{{r|東雲|しののめ}}
の空暗きに、{{r|御輿|おんこし}}{{r|舁|か}}き出し、{{r|疾|と}}く{{く}}と勸め奉れば、{{r|急|いそ}}がぬ旅の{{r|道|みち}}ながら、御心ならずうかれつゝ、
{{r|井出|ゐで}}の{{r|玉水|たまみづ}}行過ぎて、{{r|佐保|さほ}}の{{r|川隈|かはくま}}うちけぶり、{{r|奈良坂|ならざか}}や、{{r|春日|かすが}}の{{r|森|もり}}も程近くなる。{{r|日頃|ひごろ}}の{{r|御參詣|ごさんけい}}には
御輿車數を知らず、金銀を{{r|鏤|ちりば}}め、{{r|御末々|おんすゑ{{ぐ}}}}迄も花やかにて、{{r|南都︀|なんと}}の{{r|衆徒達|しゆとだち}}は出迎へ、{{r|道|みち}}を淸め沙を{{r|敷|し}}き、
こゝかしこにひれ{{r|伏|ふ}}して、御目にかゝらん事を{{r|願|ねが}}ひつるに、今ひきかへたる{{r|御有樣|おんありさま}}の{{r|痛|いた}}はしさよ。{{r|往|ゆ}}
き{{r|來|か}}ふものも恐れ奉らず、{{r|賤山|しづやま}}がつに{{r|打交|うちまじ}}はり給ふ事こそ{{r|哀|あはれ}}なれ。かくて{{r|般若寺|はんにやじ}}のあたりに、しばし
御輿を立てゝ、{{r|春日|かすが}}の{{r|大明神︀|だいみやうじん}}を{{r|伏拜|ふしをが}}み給ひて、
{{r|三笠山|みかさやま}}{{r|雲井|くもゐ}}の月はすみながら{{r|變|かは}}り行く身の{{r|果|はて}}ぞ{{r|悲|かな}}しき
かやうにうち{{r|詠|なが}}め、御淚を{{r|流|なが}}させ給へば、{{r|御供|おんとも}}の人々、{{r|守護|しゆご}}の輩まで、皆々袖を{{r|濡|ぬら}}さぬはなかりけり。
それより{{r|行末|ゆくすゑ}}を見渡せば、柴屋の里のしば{{く}}も、{{r|止|と}}め{{r|參|まゐ}}らする人もなく、{{r|分|わ}}け行く{{r|露|つゆ}}の草村の、{{r|蟲|むし}}
の聲だに{{r|衰|おとろ}}ふる、身の{{r|行末|ゆくすゑ}}や歎くらん。{{r|岡野|をかの}}の宿を過ぎ行けば、{{r|當摩|たいま}}の寺の{{r|鐘|かね}}の聲も、{{r|煩惱|ぼんなう}}の眠や{{r|覺|さま}}
すらんと{{r|思召|おぼしめ}}し續けて、
{{r|轉寢|うたゝね}}の夢の{{r|浮世|うきよ}}を出でて行く身の{{r|入相|いりあひ}}の{{r|鐘|かね}}をこそ聞け
かくてよもすがら、高野山へ{{r|攀|よ}}ぢ{{r|登|のぼ}}り給ひ、{{r|木食上人|もくじきしやうにん}}の方へ御案內ありければ、{{r|上人|しやうにん}}驚き給ひ、{{r|急|いそ}}ぎ
{{r|請|しやう}}じ入れ奉り、{{r|扨|さて}}{{r|唯今|たゞいま}}の御登山、おぼしめし{{r|寄|よ}}らざる御事かなとて、{{r|墨︀染|すみぞめ}}の{{r|袖|そで}}を{{r|濡|ぬら}}し給へば、{{r|關白|くわんぱく}}何
と仰せ出す事もなく、{{r|御袖|おんそで}}を顏に{{r|押當|おしあ}}て、御淚に{{r|咽|むせ}}び給ひ、やゝありて、{{r|我|わ}}れかゝる事のあるべきと
は思ひも{{r|寄|よ}}らで、世にありし{{r|時|とき}}、心を{{r|附|つ}}くる事もなくて、{{r|今更|いまさら}}あさましうこそ候へ。みづからが{{r|露|つゆ}}の
{{r|命|いのち}}、早や{{r|極|きは}}まり候へば、{{r|唯今|たゞいま}}にも{{r|伏見|ふしみ}}より{{r|檢使|けんし}}あらば、{{r|自害|じがい}}すべし。{{r|亡|な}}からん{{r|跡|あと}}は、{{r|誰|たれ}}か賴み申すべ
きと{{r|仰|おほせ}}もあへず、又御淚を{{r|流|なが}}し給へば、木食上人{{r|承|うけたまは}}り、{{r|御諚|ごぢやう}}にて候へども、{{r|此山|このやま}}へ御登りなされ候
上は、いかで{{r|御命|おんいのち}}に{{r|障|さは}}り候べき。{{r|縱|たと}}ひ{{r|太閤|たいかふ}}{{r|御憤|おんいきどほ}}り深くましますとも、當山の{{r|衆徒|しゆと}}一同に申上げ候は
ば、よも{{r|聞食|きこしめ}}し分けざらんと、{{r|賴|たの}}もしげにぞ申されける。
{{仮題|投錨=秀次入道し給ふ事<sup>附</sup>御最後の事|見出=小|節=j-2-3|副題=|錨}}
{{r|關白|くわんぱく}}やがて{{r|御|み}}ぐし{{r|下|おろ}}し給ひて、御戒名は{{r|道意禪門|だういぜんもん}}とぞ申しける。御供の人々も、{{r|皆|みな}}{{r|髻|もとゞり}}{{r|切|き}}つて、{{r|偏|ひとへ}}に
御世{{r|菩提|ぼだい}}の祈︀にて、{{r|上意|じやうい}}の御使を、今や{{く}}と{{r|待|ま}}ち給ふ所に、{{r|福︀島左衞門大夫|ふくしまさゑもんのだいぶ}}、{{r|福︀原右馬助|ふくはらうまのすけ}}、
{{r|池田伊豫守|いけだいよのかみ}}、此人々を大將として、{{r|都︀合|つがふ}}其勢五千餘騎、{{r|文祿|ぶんろく}}四年七月十三日の{{r|申|さる}}の{{r|刻|こく}}に、{{r|伏見|ふしみ}}を立ち、十四
日の{{r|暮程|くれほど}}に、高野山にぞ著︀きにける。{{r|木食上人|もくじきしやうにん}}の御庵室に{{r|參|まゐ}}りければ、{{r|折節︀|をりふし}}秀次入道殿、大師の御廟
所へ{{r|御參詣|ごさんけい}}にて、{{r|奧|おく}}の{{r|院|ゐん}}におはしけるを、上人より此由{{r|申上|まうしあ}}げられければ、{{r|頓|やが}}て御下向あつて、三人
{{仮題|頁=25}}
の御使に{{r|御對面|ごたいめん}}ある。左衞門大夫{{r|落緣|おちえん}}に{{r|畏|かしこま}}り、御さま{{r|變|かは}}りたるを見奉り、{{r|涙|なみだ}}を流しければ、入道殿
{{r|御覽|ごらん}}じて、いかに汝等は、{{r|入道|にふだう}}が{{r|討手|うつて}}に來りたるとな。此{{r|法師|ほうし}}一人討たんとて、{{r|餘|あま}}りにこと{{ぐ}}しき
{{r|振舞|ふるまい}}かなと仰せければ、福︀原右馬助{{r|畏|かしこま}}つて、さん候。{{r|御腹|おんはら}}{{r|召|め}}され候はゞ、{{r|御介錯|ごかいしやく}}申せとの{{r|御諚|ごぢやう}}にて候と
申せば、{{r|扨|さて}}は汝等、我首討つべきと思ふか。いかなる劔をや{{r|持|も}}ちたる。いで入道も{{r|腹切|はらき}}らば、首討た
せんために、かたの如くの太刀を{{r|持|も}}ちたるに、汝等に見せんとて、三尺五寸{{r|黃金|こがね}}{{r|作|づく}}りの御{{r|佩刀|はかせ}}、する
りと{{r|拔|ぬ}}き給ひて、是れ見よと仰せける。これは右馬助{{r|若輩|じやくはい}}にて、{{r|推參|すいさん}}申すと思召し、{{r|重|かさ}}ねて物申さば
御手にかけられんと{{r|思召|おぼしめ}}す{{r|御所存|ごしよぞん}}とぞ見えける。三人の御小性衆は、{{r|御氣色|みけしき}}を見奉り、少しも{{r|働|はたら}}くな
らば、{{r|中々|なか{{く}}}}御手にはかくまじき物をと思ひ、{{r|目|め}}と{{r|目|め}}を{{r|見合|みあは}}せて、{{r|刀|かたな}}の{{r|柄|つか}}に手をかけ居たる有樣、いか
なる{{r|天魔鬼神︀|てんまきじん}}も退くべきとぞ思はれける。入道殿は{{r|如何|いかゞ}}思召しけん、{{r|御佩刀|おんはかせ}}を{{r|鞘|さや}}に納め給ひて、いか
に汝等、入道が今まで{{r|命|いのち}}ながらへたるを、さこそ{{r|臆|おく}}したりと思ふべし。{{r|伏見|ふしみ}}を出でし時、其夜如何に
もなるべきと思ひつるが、{{r|上意|じやうい}}をも待たで腹を切るならば、すはや身に{{r|誤|あやまり}}あればこそ、{{r|自害|じがい}}をば急ぎ
つれと思召さば、{{r|故|ゆゑ}}なき{{r|者︀共|ものども}}の、多く{{r|失|うしな}}はれん事も{{r|不便|ふびん}}なる事と{{r|思|おも}}ひ、{{r|今迄|いまゝで}}ながらへしぞ。今は{{r|最後|さいご}}
の用意すべし。{{r|相構|あひかま}}へて面々{{r|賴|たの}}むぞ。我に{{r|仕|つか}}へし者︀共を、{{r|能|よ}}きやうに申上げ、{{r|如何|いか}}にもして申助けて
入道が{{r|孝養|けうやう}}にせよ。よしなき讒言にて、{{r|我|われ}}こそかく{{r|成行|なりゆ}}くとも、一人も{{r|罪|つみ}}ある者︀はあるまじきぞと{{r|宣|のたま}}
ひしは、いとはかなき御志とぞ思はれける。{{r|頓|やが}}て御座を立たせ給ひて、御ゆびかせ給ひて、{{r|御最後|ごさいご}}の
御用意なり。かゝりける所に、{{r|木食上人|もくじきしやうにん}}を始め、一山の老僧︀出合ひ給ひて、三人の御使に向ひ、{{r|當山|たうざん}}
七百餘年此方、此山へ上り給ふ人の{{r|命|いのち}}を、{{r|害|がい}}し給ふ事{{r|其|その}}ためしなし。いかに天下の{{r|武將|ぶしやう}}にてましませ
ばとて、{{r|此由|このよし}}一旦言上申さでは候はじと、{{r|老若|らうにやく}}一同に申されける。御使の人々、{{r|仰|おほせ}}はさる事にて候へ
ども、兎ても角ても叶ふまじき{{r|御訴訟|ごそしよう}}にて候と、再三申しけれども、此山の名を下すにて候へば、
{{r|如何樣|いかやう}}にも言上申すべきとの{{r|詮議|せんぎ}}なり。福︀島進み出でて、{{r|衆徒|しゆと}}の仰せ尤さもあるべく候。さりながら此
者︀共參りて、若し{{r|時刻|じこく}}遷り候はゞ、{{r|迚|とて}}も{{r|勘氣|かんき}}を蒙り、腹切れと仰せらるべし。さ思召し候はゞ、{{r|先|ま}}づ
かく申す者︀を、{{r|衆徒達|しゆとたち}}の御手にかけられ候て後、いかやうにも{{r|言上|ごんじやう}}申され候へと、{{r|威丈高|ゐたけだか}}になりて申
しければ、さすがに{{r|長袖|ちやうしう}}の事なれば、木食上人を{{r|始|はじ}}め、一山の衆徒達{{r|力|ちから}}及ばず立ち給ふ。かやうの{{r|𨻶|ひま}}
に少し{{r|時|とき}}{{r|遷|うつ}}り、其の夜は漸{{r|明|あ}}けて、{{r|巳|み}}の{{r|刻|こく}}に御腹召されける。{{r|御最後|ごさいご}}の有樣は、さも{{r|由々|ゆゝ}}しくぞ見え
給ふ。{{r|御名殘|おんなごり}}の御盃{{r|取交|とりかは}}し給ひて後、{{r|是迄|これまで}}附隨ひ參りたる人々を召して、いかに汝等、{{r|是|こ}}れ{{r|迄|まで}}の志こ
そ、{{r|返々|かへす{{く}}}}も{{r|神︀妙|しんべう}}なれ。多くの者︀の其中に、五人三人{{r|最後|さいご}}の供するも、{{r|前世|ぜんせ}}の宿緣なるべし。一度{{r|所領|しよりやう}}
をも與へ、人となさんと思ひつるに、いつとなく{{r|打過|うちす}}ぎて、一旦の{{r|樂|たのし}}みもなく、今かゝるめをさする
{{r|事|こと}}のあさましさよとて、御淚を流し{{r|給|たま}}ひつゝ、いかに{{r|面々|めん{{く}}}}を{{r|後|あと}}にこそ具すべきに、若き者︀共なれば、
{{r|最後|さいご}}の{{r|有樣|ありさま}}{{r|心元|こゝろもと}}なし。其上みづから{{r|腹切|はらき}}ると聞かば、{{r|雜兵共|ざふひやうども}}がみだれ入り、{{r|事騒|ことさわが}}しく{{r|見苦|みぐる}}しがるべし。
是れにて腹切れとて、山本主殿に、{{r|國吉|くによし}}の{{r|御脇指|おんわきざし}}を下されける。{{r|主殿|とのも}}承りて、某は{{r|御介錯|ごかいしやく}}仕り、御{{r|後|あと}}
{{仮題|頁=26}}
にこそと存じ候へ共、{{r|御先|おさき}}へ參り、{{r|死出|しで}}{{r|三途|さんづ}}して{{r|苛責|かしやく}}其に中付け、{{r|道|みち}}{{r|淸|きよ}}めさせ用すべしと、につこと笑
つて戲れしは、さも{{r|由々|ゆゝ}}しく見えたれ。誠に{{r|閻魔倶生神︀|えんまぐしやうじん}}も、恐れぬべき振舞なり。彼御脇指を{{r|戴|いたゞ}}き、
西に向ひ十{{r|念|ねん}}して、腹十文字に{{r|搔破|かいやぶ}}り、五{{r|臟|ざう}}を繰出しけるを、{{r|御手|おんて}}にかけて打ち給ふ。今年十九歲、初
花の{{r|稍|やゝ}}{{r|綻|ほころ}}ぶる{{r|風情|ふぜい}}なるを、時ならぬ{{r|嵐|あらし}}の吹き落したる如くなり。其次に山本三十郞を召して、汝もこ
れにて切れとて、安川藤四郞の九寸八分ありけるを{{r|下|くだ}}さるゝ。{{r|承|うけたまは}}りて候とて、これも十九にて{{r|神︀妙|しんべう}}
に腹切り、御手にかゝる。三番に{{r|不破|ふは}}の{{r|滿作|まんさく}}には、しのぎ藤四郞を下され、{{r|思|おも}}ふ{{r|仔細|しさい}}のあれば、汝も
{{r|我手|わがて}}にかゝれと仰せければ、いかにも{{r|御諚|ごぢやう}}に從ひ奉るべしとて、御脇指を{{r|頂戴|ちやうだい}}して、生年十七歲、{{r|雪|ゆき}}
より{{r|白|しろ}}く{{r|淸|きよ}}げなる{{r|肌|はだ}}を押開き、{{r|左手|ゆんで}}の{{r|乳|ち}}の上に突︀立て、{{r|右手|めて}}の{{r|細腰|ほそこし}}まで引下げたるを{{r|御覽|ごらん}}じて、いし
くも仕たりとて、御太刀を{{r|振上|ふりあ}}げ給ふかと思へば、{{r|首|くび}}は先へぞ{{r|飛|と}}んだりける。{{r|彼等|かれら}}は常に御情深き者︀
共なれば、人手にかけじと{{r|思召|おぼしめ}}す、{{r|御契|おんちぎり}}の程こそ淺からね。かくて入道殿は、{{r|御手水|おんてうづ}}嗽ひしたまひて
{{r|後|のち}}、りう西堂を召して、其身は出家の事なれば誰か{{r|咎|とが}}むべき。{{r|急|いそ}}ぎ都︀へ上り、我が{{r|後世|ごせ}}弔ひ候へと仰
せければ、{{r|口惜|くちを}}しき{{r|御諚|ごぢやう}}にて候。是れ迄御供申し、唯今御暇給はり、{{r|都︀|みやこ}}へ上り候とも、何の{{r|樂|たのし}}み候べ
き。其上恩{{r|深|ふか}}き者︀共は、出家とて、いかで許され候はん。{{r|僅|わづか}}の命ながらへて、都︀まで上り、{{r|人手|ひとで}}にか
かり候はん事、思ひも寄らず候と申し切つて、これも{{r|御供|おんとも}}に極まりける。{{r|此僧︀|このそう}}は{{r|內典外典|ないてんげてん}}暗からず辯
舌人に勝れければ、御前を去らず仕へしが、いかなる事にや出家の身として、{{r|御最後|ごさいご}}の御供申さるゝ
こそ{{r|不思議|ふしぎ}}なれ。かくて入道殿は、{{r|兩眠|りやうがん}}を塞ぎ觀念して、本來無東西何所有南北と觀じて後、篠部淡
路守を召されて、汝此度{{r|跡|あと}}を慕ひこれ迄參りたる志、{{r|生々|しやう{{く}}}}{{r|世々|せゝ}}迄報じ難︀き忠ぞかし。とてもの事に我
れ{{r|介錯|かいしやく}}して供せよと仰せける。淡路承つて、此度{{r|御跡|おんあと}}を慕ひ參らんと志し候者︀共、いかばかりあるべ
き中に、{{r|某|それがし}}武運に叶ひ、{{r|御最後|ごさいご}}の御供申すのみならず、御介錯まで仰付けらるゝこと、{{r|今生|こんじやう}}の望み、
何事か是れに過ぎ候べきと申せば、御心地よげに打笑み給ひて、さらば{{r|御腰|おんこし}}の物と仰せける時、四方
樣の供饗に、一尺三寸の{{r|正宗|まさむね}}の御脇指の{{r|中卷|なかまき}}したるを{{r|進|まゐ}}らせ上ぐるを、右の御手に取り給ひて、左の
御手にて、御心元を{{r|揉|も}}み{{r|下|さ}}げて、ゆんでの{{r|脇|わき}}に突︀立て、めてへきつと引廻し給へは、{{r|御腰骨|おんこしぼね}}少しかゝる
と見えしを、淡路御後へ{{r|廻|まは}}りければ、暫く待てと{{r|宣|のたま}}ひて、又取直し、胸先より押下げ給ふ所を、頓て
御首討ち奉る。{{r|惜|をし}}むべき御年かな、三十一を一{{r|期|ご}}として、嵐に{{r|脆|もろ}}き露の如く消え給ふ。りう西堂{{r|參|まゐ}}り
て御死骸{{r|納|をさ}}め奉り、これも{{r|御供|おんとも}}申しける。淡路守、我{{r|郞等|らうどう}}を近づけて、手水嗽ひして、秀次の御首を
拜し奉りて後、{{r|檢使|けんし}}の人々に向ひ、某身{{r|不肖|ふせう}}に候へども、此度御跡を慕ひ參りたる御恩に、御介錯仰
付けらるゝは弓矢取つての面目と存候。あはれ見給ふ方々は、{{r|念佛|ねんぶつ}}申してたび候へといひもあへず、
一尺三寸{{r|平作|ひらづくり}}の脇指を、{{r|太腹|ふとばら}}に二刀さしけるが、切先五寸計後へ突︀通して、又取直し、首に押當て、
{{r|左右|さう}}の手を掛けて、前へふつと押落しければ、首を{{r|膝|ひざ}}に抱きて、{{r|軀|むくろ}}は上に重なりけり。見る人目を驚か
し、あはれ{{r|大剛の|たいがう}}者︀かな。腹切る者︀は世に多かるべきが、かゝるためしは傳へても聞かずとて、諸︀人
{{仮題|頁=27}}
一度にあつとぞ感じける。
{{仮題|投錨=秀次君達の御事|見出=小|節=j-2-4|副題=|錨}}
さる程に、此關白殿は、{{r|御思|おのも}}ひ{{r|人|びと}}多き中にも、{{r|若君|わかぎみ}}三人おはします。御{{r|嫡子|ちやくし}}は仙千代丸と申して、五
歲になり給ふ。次をば御百丸とて四歲、三男は御十丸。何れも{{r|玉|たま}}を{{r|研|みが}}きたる如くにて、父御の{{r|御寵愛|ごちようあい}}
{{r|淺|あさ}}からず、{{r|片時|へんし}}も離れ給はでおはしける。常には伏見殿へ御參りの時も、同じ御車にて座しける。此
度は、何とて我々をば召連れ給はぬぞ。父はいづくへ御渡り候ぞや。急ぎ父のおはします方へ、我を
具して參れ。{{r|我先|われさき}}に行かん、我も行かんと、{{r|聲々|こゑ{{ぐ}}}}に泣き叫び給へば、母上達は落つる淚を押へつゝ、
{{r|大殿|おほとの}}は、西方淨土と申して、めでたき所へ渡らせ給ひ候。若君達をも、頓て御迎へ參り候べし。{{r|暫|しばら}}く
御待ちあれといひもあへず、淚に{{r|搔暮|かきく}}れ給へば、{{r|中居|なかゐ}}{{r|末々|すゑ{{ぐ}}}}の女房童に至る迄、{{r|伏轉|ふしまろ}}びてぞ泣き叫びける。
若君達は此由{{r|聞召|きこしめ}}して、さらば御迎へ參らずとも、{{r|急|いそ}}ぎ其西方淨土とやらんへ、我を具して行き給へ。
唯今行かん。御車こしらへよ、御馬に{{r|鞍置|くらお}}けよとて{{r|責|せ}}め給へば、いとゞ{{r|遣|や}}る方なき御身どもの、置き
所なくて、たゞ{{r|伏沈|ふしゝづ}}み泣沈み給ふ有樣、{{r|哀|あは}}れとも中々に、たとへていはん方もなし。{{r|昔|むかし}}平治年中に、
{{r|待賢門|たいけんもん}}の軍に打負け給ふ義朝の思ひ人{{r|常磐御前|ときはごぜん}}は、三人の若君を{{r|引具|ひきぐ}}して、{{r|大和路|やまとぢ}}指して落ち給ふも
かくやと思ひ知られたり。されども夫れは{{r|敵の|かたき}}の手をも脫れつれば、少しは{{r|賴|たの}}みもありぬべし。此人々
は{{r|籠|かご}}の中の鳥の如くにて、{{r|如何程|いかほど}}あこがれ給ふとも、{{r|露|つゆ}}の{{r|賴|たの}}みもあらばこそと、見る人聞く人、{{r|袖|そで}}を
濕らさぬはなかりけり。
{{仮題|投錨=秀次入道殿御首實檢の事|見出=小|節=j-2-5|副題=|錨}}
同じき七月十七日に、入道殿{{r|御首|おんくび}}幷に御供申せし{{r|輩|ともがら}}の首共を、伏見へさしのぼせ、{{r|太閤|たいかふ}}の御目に懸け
奉れば、さしも御いとほしみ深く思召しつる{{r|御養君|おんやしなひぎみ}}にておはしけるに、今{{r|引換|ひきか}}へて、{{r|御憤|おにきどほ}}り深く
思召し、さるにても{{r|天罰|てんばつ}}を受けたる者︀の、なれる果のあさましさよ。{{r|後代|こうだい}}のためしなれば、急ぎ都︀へ
上せ、三條の{{r|橋|はし}}にて、七日{{r|晒|さら}}すべしとの御諚にて、三條川原にかけ奉る。京中の{{r|貴賤|きせん}}{{r|群集|ぐんじゆ}}して、御有
樣を見奉り、{{r|哀|あは}}れ人の{{r|身|み}}の{{r|上|うへ}}{{r|程|ほど}}定めなきものはなし。今日此頃迄、{{r|諸︀國|しよこく}}の{{r|大名|だいみやう}}にいつきかしづかれ
{{r|給|たま}}ひて、{{r|何事|なにごと}}も御心の儘に{{r|振舞|ふるま}}ひ給ひつるに、かやうに{{r|淺猿|あさま}}しく成行き給はんとは、誰か思ひ寄るべ
きぞ。{{r|知|し}}らぬは人の{{r|行末|ゆくすゑ}}の空と、{{r|詠|よ}}み置きしこそ誠なれといひ語らひ、諸︀人{{r|涙|なみだ}}を流しける所に、年の
程八十に及びたるらんと見えて、{{r|色黑|いろくろ}}く脊高く{{r|荒々|あら{{く}}}}しき{{r|禪門|ぜんもん}}、{{r|歪|ゆが}}みたる杖を曳きずり、{{r|汗水|あせみづ}}になりて
足早に{{r|步|あゆ}}みより、餘多の人を押分けてはゞり出でて、大の聲にてから{{く}}と{{r|打笑|うちわら}}ひ、さても{{く}}、人は
現在のありさまにて、{{r|過去|くわこ}}{{r|未來|みらい}}を知るといへば、前生の戒力にて、一旦は{{r|榮華|えいぐわ}}に{{r|誇|ほこ}}るといへども、か
やうに目の前にて、あさましき體に成り果てゝ、さこそ{{r|來世|らいせ}}は{{r|修羅道|しゆらだう}}に落ちて、長く浮むまじき人の
なれる果や。われ八十になり、{{r|杖柱|つゑはしら}}共賴みつる子を、故もなく失はれ、兎にも角にも{{r|成|な}}るべきと思ひ
つれども、孫共の幼くて、世になしものとならんを{{r|不愍|ふびん}}さに、つれなく命ながらへて、今又かゝる
{{仮題|頁=28}}
{{r|不思議|ふしぎ}}を見る事よ。あら面憎︀やと思ふ{{r|心地|こゝち}}にて、{{r|齒切|はぎしり}}してぞ罵りける。{{r|諸︀人|しよにん}}、こは如何なる物狂ひぞや
と怪みけるに、此{{r|禪門|ぜんもん}}は、都︀の方邊土にて、田畠多く{{r|持|も}}ちて富める民なるが、一とせ{{r|訴訟|そしよう}}ありて、彼
が{{r|嫡子|ちやくし}}奉行所へ參りける。世に勝れて肥りせめて、大の男なるを、{{r|何者︀|なにもの}}か申上げたりけん、{{r|故|ゆゑ}}なく{{r|搦|から}}
め取り、訴訟うつたへの{{r|沙汰|さた}}もなく、{{r|頓|やが}}て其夜に切られけるとなり。これは如何なる事ぞといへば、其
頃{{r|關東|くわんとう}}より、鍛冶の上手を召上せられ、あまたの太刀を打たせ給ふ中にも、三尺五寸の太刀を打ちた
てゝ參らせければ、此{{r|太刀|たち}}のかねを{{r|驗|ため}}し{{r|試|こゝろ}}み給はんとて、大の男の肥りたる者︀もがな、いづくにても
{{r|見出|みいだ}}したらば、{{r|竊|ひそか}}に召し連れ參れと、內々仰せけるを、{{r|若殿原|わかとのばら}}承り、折に幸と申上げけるとぞ聞えけ
る。
{{仮題|投錨=木村常陸父子最後の事|見出=小|節=j-2-6|副題=|錨}}
木村常陸の守定光は、{{r|關白殿|くわんぱくどの}}伏見へ御參りの時も、{{r|色々|いろ{{く}}}}申留め奉れども、{{r|阿波|あは}}の木工之助が申すに附
き給ひて出御なる。常陸力及ばで居たりけるが、猶{{r|御心許|おんこゝろもと}}なく存じければ、御跡を慕ひ、五條の橋迄
{{r|見|み}}え{{r|隱|がく}}れに參りけるが、先々の樣を見ばやと思ひ、夫れより道をかへて、竹田へ{{r|直|すぐ}}に打つて出でける
に、竹田の宿外れには、{{r|鞍置|くらお}}きたる馬共、{{r|爰|こゝ}}かしこに引立てゝ、{{r|物具|もののぐ}}したる兵並みゐたり。すはや危
し。{{r|我君|わがきみ}}をはや道にて討ち奉ると{{r|覺|おぼ}}ゆるなり。いつまで命を{{r|長|なが}}らふべきぞ。いかに汝等、皆{{r|徒立|かちだち}}にて
叶ふまじけれども、我に命惜しからぬものは、{{r|向|むか}}ふかたきを一さゝへ支へよ。我は其𨻶に{{r|驅|か}}け通りて、
{{r|石田|いしだ}}めが{{r|驅|か}}け廻らんに、{{r|踏|ふ}}み{{r|落|おと}}し、首取つて後腹切るべしとて、旣に{{r|驅|か}}け出でんとしける所に、野中
淸六とて、十九になるわつぱ、馬の口に{{r|取付|とりつ}}き、暫く待ち給へ。縱ひ鬼神︀の{{r|働|はたらき}}を致し候とも、此分に
て、いかで驅拔け給ふべき。先々に人數を伏せて、待つ體とこそ見えて候へ。さあらば{{r|雜兵|ざふひやう}}の手にか
かり、犬死し給ふべし。先づ是より{{r|山崎|やまざき}}に打越え給ひて、夜に入り忍び入り、いかさまにも計ひ給へ
かし。さらずば一度北國へ下り給ひて、城に{{r|楯籠|たてこも}}り給はゞ、國々へ下りたる{{r|味方共|みかたども}}、馳せ集まり候べ
し。其時一{{r|合戰|かつせん}}して、主君の爲に命を{{r|棄|す}}てさせ給はゞ、御名を殘し給ふべしと、おとなしくいひけ
れば、{{r|殘|のこ}}る者︀共、此儀然るべきとて、夫れより東寺を西へ、{{r|向|むか}}うの明神︀へかゝりあゆませ、山崎たか
ら寺に、日頃{{r|好|よしみ}}ある{{r|僧︀|そう}}の許へ忍び入り、伏見のやうを聞き居たりしに、關白殿は{{r|高野|かうや}}へ渡り給ふと聞
きて、さては未だ御命にさかいなし。いかにもして{{r|御跡|おんあと}}を{{r|慕|した}}ひ參らんと思ふ中に、下人共皆{{r|落失|おちう}}せけ
れば、唯{{r|羽︀拔鳥|はぬけどり}}の如くにて、{{r|呆|あき}}れ果てゝぞゐたりける。されば宿の者︀共此由を聞き、此{{r|人々|ひと{{ぐ}}}}を隱し置
きたりなどと{{r|聞食|きこしめ}}しては一大事とて、{{r|頓|やが}}て伏見へ申上げければ、それより檢使立つて、七月十五日に
腹を切りける。子息木村志摩の助は、北山に忍びゐたるが、父の{{r|最後|さいご}}の由聞きて、{{r|頓|やが}}て其日寺町正行
寺にて、自害してこそ果てたりけれ。
{{仮題|投錨=熊谷最後の事<sup>附</sup>下人追腹切る事|見出=小|節=j-2-7|副題=|錨}}
熊谷大膳は、{{r|嵯峨|さが}}二尊院に居たりけるを、{{r|德善院|とくぜんゐん}}承りて、同七月十五日に、同七月十五日に、松田勝右衞門といふ{{r|家老|からう}}
{{仮題|頁=29}}
の者︀を遣しける。松田は先づ釋迦堂迄來り、それより人を遣し、秀次今日高野にて御腹召され候。{{r|急|いそ}}ぎ
御供あるべきとの{{r|上意|じやうい}}を、德善院承りて、松田これ迄{{r|參|まゐ}}りて候。日頃{{r|御懇志|ごこんし}}に預り候へば、何事も思
召し置かるゝ事の候はゞ、承り候へと申しつがひければ、{{r|大膳|だいぜん}}使に出で合ひて、上意の御使にて候へ
ば、{{r|夫|そ}}れ迄罷出で對面申度候へども、御氣遣ひもあるべければ、これへ御入り候へかし。{{r|最後|さいご}}の御暇
乞をも申し、又{{r|賴|たの}}み申度事の候由返事しければ、松田頓て內へ入る。大膳出で合ひ、これ迄御越し
{{r|滿足|まんぞく}}申候。左候へば、我等{{r|召遣|めしつか}}ひ候者︀共、最後の{{r|供|とも}}仕るべき由申候を、色々申留め候。若し某果て申候
後にて、一人なりとも{{r|此旨|このむね}}背きたる者︀は、{{r|來世|らいせ}}まで勘當たるべく候。其上其者︀の一類︀を、五畿內近國
を御拂ひ候うてたび候へ。返々を、重海︀の{{r|勘當|かんだう}}たるべして、樣々の{{r|誓|ちかひ}}にて、其後{{r|最後|さいご}}の御盃持つて參
れとて、松田と最後の{{r|盃|さかづき}}取交しける𨻶に、大膳が郞等共、御最後の御供申さばこそ、{{r|勘當|かんだう}}をも蒙り候
はめ。御先へ參り候上はとて、三人一所にて腹切つてぞ死んだりける。{{r|殘|のこ}}る者︀共之を見て、尤是は{{r|理|ことわり}}
とて、我も{{く}}と心ざしけるを、松田が{{r|郞等|らうどう}}は寺中の僧︀達出合ひて、一人には五人三人づつ取付きて
先づ太刀刀を奪ひ取る。大膳之を見て不覺なる者︀共哉。誠の志あらば、命長らへて、熊谷後世を{{r|弔|とぶら}}ひて
くれよかし。却てよみぢの{{r|障|さはり}}とならんと思ふかや。此世にてこそ、主のために命を捨つべけれ。御助
あらば、此大膳は、唯今にても出家して、主君の{{r|御菩提|おんぼだい}}を弔ひ奉るべけれども、御許なければ、力な
しとて、淚に{{r|咽|むせ}}びければ、此上は力なしとて、皆髮を{{r|剃|そ}}り、{{r|主|あるじ}}の御房の御弟子になり、後をば{{r|念頃|ねんごろ}}に
弔ひ奉るべし。御心安く{{r|思召|おぼしめ}}して、御最後の御用意候へと申す。熊谷斜に喜び、頓て{{r|行水|ぎやうずゐ}}して、{{r|佛前|ぶつぜん}}
に向ひ禮し、客殿の前に疊裏返して重ね、其上にて水盃取交し、供饗に載せたる{{r|脇指|わきざし}}を取り、西に向ひ、
立ちながら腹十文字に切つて、首を{{r|延|の}}べてぞ討たせける。松田も日頃深き{{r|契|ちぎり}}なれば、涙に{{r|咽|むせ}}びつゝ、
{{r|主|あるじ}}の{{r|御房|ごぼう}}に申合せ、百箇日迄の弔ひかたの如くに勤めける。さるにても熊谷は小身なれども、日頃の
情や深かりけん。又は{{r|其身|そのみ}}{{r|大功|たいこう}}の者︀なれば、下々迄も心勝りつらん。誠に{{r|栴檀|せんだん}}の林に生ふる木なりと
て諸︀人感じける。
{{仮題|投錨=白井備後阿波の木工最後の事|見出=小|節=j-2-8|副題=|錨}}
{{r|白井備後|しらゐびんご}}阿波の木工は、鞍馬の奧迄{{r|立退|たちの}}き、上意いかゞと待つ所に、德善院の方より、小池淸左衞門
を{{r|遣|つかは}}して、關白殿の御事、北の政所より仰せられ、{{r|御命|おんいのち}}ばかり申助け奉らんとて、{{r|樣々|さま{{く}}}}に仰せ上げら
れけれども、いかにも{{r|叶|かな}}ふまじき由{{r|御返事|ごへんじ}}にて、檢使の爲に福︀島左衞門大輔、福︀原右馬助、池田伊
豫の守、此三人を遣され候。急ぎ{{r|最後|さいご}}の御用意候べし。又思召し置く事候はゞ、此者︀に仰聞けられ候
へ。{{r|後|あと}}の{{r|御孝養|ごけうやう}}は、懇に{{r|沙汰|さた}}し申すべしといひ遣されける。兩人淸左衞門に{{r|對面|たいめん}}して、{{r|法印|ほういん}}の御心付
{{r|過分|くわぶん}}に候。{{r|迚|とて}}もの御事に、日頃賴みつる上人の方へ{{r|召連|めしつ}}れくれ候事は、{{r|御邊|ごへん}}の心得として、なるまじ
きかと{{r|賴|たの}}まれければ、淸左衞門聞いて、いと易き御事にて候。{{r|法印|ほういん}}も其趣申付け候とて、{{r|舊|ふる}}き{{r|釣輿|つりかご}}に
載せ、白井は大雲院の御寺にて腹切る。木工の助は{{r|粟田口|あはたぐち}}の鳥の{{r|小路|こうぢ}}といふ者︀の方にて、時をも{{r|變|か}}へ
{{仮題|頁=30}}
ず果てたりけり。
{{仮題|投錨=備後が女房最後の事<sup>附</sup>幽靈の事|見出=小|節=j-2-9|副題=|錨}}
白井が女房は、{{r|北山|きたやま}}邊に忍びてありけるが、妻の{{r|最後|さいご}}の有樣を聞いて、少しも{{r|騷|さわ}}がず。夫れ{{r|弓取|ゆみとり}}の妻
は、{{r|昔|むかし}}よりかゝるためしのあるぞかし。みづから十二歲にて{{r|見|まみ}}え初めてより{{r|此方|このかた}}、{{r|一日|いしにち}}{{r|片時|へんし}}も{{r|離|はな}}れず
して、此度後に{{r|殘|のこ}}るとも、{{r|幾程|いくほど}}の齡を保ち、如何なる榮華に誇るべきぞや。其上此人々の妻や子は、
{{r|如何|いか}}に忍ぶとも、終には捜し出されて、失はれん事は{{r|疑|うたが}}ひなしと、思ひ定めければ、召遣ひつる{{r|女童|めのわらは}}
にも、夫々にかたみを遣し、{{r|緣|ゆかり}}共の方へ返し遣し、二歲になる姬をめのとに{{r|抱|いだ}}かせ、大雲院貞庵上人
の御寺へ參り、是は備後が{{r|妻|つま}}や{{r|子|こ}}にて候。{{r|賴|たの}}む方なき身となり候へば、{{r|夫|つま}}の後を慕ひ參り候べし。な
からん跡を{{r|御弔|おんとぶら}}ひ候てたび候へと申しければ、上人は聞召し、貞女{{r|兩夫|りやうふ}}に{{r|見|まみ}}えずとは、かやうの人を
申すらめ。{{r|隱|かく}}れなき人の妻なれば、{{r|言上|ごんじやう}}申さでは叶ふまじ。先づ{{r|是|これ}}へ入らせ給へとて請じ入れ、頓て
德善院へ申されける。{{r|法印|ほういん}}此由言上申されければ、太閤{{r|憐|あは}}れにや思召しけん、{{r|男|をのこ}}の子あらば害すべし。
女は法印が計ひにて助けよとの{{r|御諚|ごぢやう}}なり。法印方より、此由貞庵へ申されければ、{{r|上人|しやうにん}}喜び、御命は
{{r|申請|まうしう}}けて候へば、御心{{r|易|やす}}く思召せと仰せけり。女房聞いて、{{r|有難︀|ありがた}}き上人の御慈悲にて候へども、命長
らへ候共、{{r|誰|たれ}}を{{r|賴|たの}}み、いづくに身を{{r|隱|かく}}し候はん。たゞ{{く}}{{r|夫|つま}}の跡を慕ひ申すべし。又これに候{{r|姬|ひめ}}、二
歲にて候。上人の御慈悲には、いかなる者︀にも{{r|預|あづ}}けたまひて、{{r|若|も}}し人となり候はゞ、自らが跡{{r|弔|とぶら}}はせて
たび候へとて、正宗の守刀に、黃金三百兩添へ、上人に渡し給ふ。貞庵{{r|聞召|きこしめ}}し、{{r|仰|おほせ}}はさる事にて候へ
ども、{{r|先|ま}}づ御命を長らへ給ひて、{{r|夫|つま}}の{{r|後世|ごせ}}菩提をもとひ給はんこそ、誠の道にて候はめと、いろ{{く}}
に留め給へば、さらばさま{{r|變|か}}へてたび候へとて、綠の{{r|髮|かみ}}を{{r|剃|そ}}りこぼし、{{r|墨︀染|すみぞめ}}の衣著︀て、よもすがら
{{r|念佛|ねんぶつ}}申しておはしけるが、{{r|曉方|あけがた}}にめのとは姬を{{r|抱|いだ}}き、少し{{r|睡|まどろ}}みける𨻶に、守刀を取出し、心元にさし當
て、うつぶしになりて{{r|空|むな}}しくなる。めのと驚き、上人へ此由申せば、貞庵も涙と共に、{{r|孝養|けうやう}}念頃にし
給ひて、彼姬をば五條あたりに、人あまた附けて{{r|育|そだ}}てさせ、十五の年能き幸ありて{{r|富|と}}み{{r|榮|さか}}えけり。
{{仮題|投錨=備後夫婦夢に見ゆる事|見出=小|節=j-2-10|副題=|錨}}
又何よりも{{r|哀|あは}}れ深き事こそあれ。{{r|此姬|このひめ}}幼なき時より、讀み書く事に心を{{r|染|そ}}め、あまたの{{r|雙紙|さうし}}を集め見
るにも、是は誰人の御子、父はその{{r|某|それがし}}、母は誰人のむすめとあるに、我はいかなる身なれば、父とも
母ともいふ人のなきこそ{{r|不思議|ふしぎ}}なれと、思ひ暮しけるが、或時めのとに向ひ、あの{{r|鳥類︀畜類︀|てうるゐちくるゐ}}も、親子
の道はあると聞く。況して我は人間にて、父とも母とも知らざる事こそ{{r|淺|あさ}}ましけれと、搔口說きけれ
ば、めのと涙に{{r|咽|むせ}}びけるが、やゝありて、疾くにも斯くと申度は候ひつれども、幼き御心一つにて、
{{r|歎|なげ}}き給はん事を痛はしく思ひ、{{r|打過|うちす}}ぐしつるぞや。此上は力なし。父御は白井備後の守殿と申して、天
が下の{{r|大名|だいみやう}}{{r|小名|せうみやう}}に知られさせ給ひしが、前關白秀次{{r|御謀叛|ごむほん}}思召し立ちし事{{r|顯|あら}}はれ、高野山にて御腹
めされ候。其御內にて人にも知られ〔{{仮題|分注=1|此間三|行不明}}〕れて人手にはかゝらじと思召し、此間三貞庵上人を{{r|賴|たの}}み給ひ、御
{{仮題|頁=31}}
ぐし下し、頓て御自害し給ひしぞかし。御身をば{{r|自|みづか}}らに預け給ひしを、上人の御慈悲にて、年月を{{r|明|あか}}
し{{r|暮|くら}}し候ぞや。しかも今年は十三年にも{{r|當|あた}}り候へば、猶々上人を{{r|賴|たの}}み給ひて、父母の{{r|菩提|ぼだい}}をとひ給へ
といひもあへず、泣き沈みけり。姬は此由聞召し、あらつれなの人の心やな、{{r|問|と}}はずばいつまで包む
べきぞ。{{r|縱|たと}}ひ父こそ主君のために、果敢なくなり給ふとも、などか母上は我を{{r|捨|す}}て置き給ひて、今か
かる{{r|憂目|うきめ}}を見せ給ふぞや。二歲の時、いかにも成るならば、今かゝる思ひはよもあらじ。うらめしの
{{r|浮身|うきみ}}やとて、{{r|人目|ひとめ}}も恥ぢず泣き給ふ。めのとは淚を押へて、歎き給ふは、御ことわりにて候へども、
{{r|夫|そ}}れ女は五{{r|障|しやう}}三從とて、{{r|罪業|ざいごふ}}深き事{{r|海︀山|うみやま}}にも譬へ難︀し。其上劔の先にかゝり果て給へば、猶しも{{r|罪深|つみふか}}
く思召し、後の世{{r|弔|とぶら}}はれ給はんとて、御身を浮世に殘し給へば、いかやうにも父母の{{r|御孝養|ごけうやう}}し給ひ、
御身の後の世をも佛に{{r|祈︀|いの}}り給はんこそは、孝行の道にておはしませ。斯く申す事を用ひ給はずば、今
より後は、自らも捨て{{r|參|まゐ}}らせて、{{r|何方|いづかた}}へも參り候はんと、{{r|搔口說|かきくど}}きければ、姬君聞きもあへず、{{r|恨|うら}}め
しのいひ事や、二歲にて父母に{{r|後|おく}}れ、今又めのとに捨てられば、何を{{r|便|たよ}}りに{{r|浮草|うきくさ}}の、波に{{r|漂|たゞよ}}ふ有樣に
て、{{r|寄邊|よるべ}}をいづくと定むべき。兎も角も{{r|計|はから}}ひのなどあしかるべき。{{r|殊更|ことさら}}親の菩提を弔はんに、いか
で愚のあるべきぞとて、それより{{r|明暮|あけくれ}}念佛申し經を讀み、{{r|偏|ひとへ}}に後世菩提の外は、心にかくる事もなし。
斯くて春も暮れ夏長けて、五月の末つ方より、大雲院にて四十八夜の別時念佛を初め、{{r|結願|けちぐわん}}を命日に
{{r|當|あた}}るやうに志して、樣々に{{r|弔|とぶら}}ひけるが、七月十四日の夜{{r|明|あけ}}、{{r|結願|けちぐわん}}の日なれば、いと{{r|名殘惜|なごりを}}しく思ひ、
佛の御前に通夜申し、殊更{{r|孟蘭盆|うらぼん}}の事なれば、{{r|萬|よろづ}}の亡者︀も、{{r|娑婆世界|しやばせかい}}に來るなれば、三{{r|界平等利益|がいびやうどうりやく}}と
{{r|廻回|ゑかう}}して、少し{{r|睡|まどろ}}みける夢に、其年四十餘りと見えし人の、{{r|唐綾|からあや}}の裝束に、冠を著︀し、{{r|笏|しやく}}取直し佛壇
におはします。又三十路{{r|餘|あま}}りと見えたるに、{{r|濃紫|こいむらさき}}の{{r|薄衣|うすぎぬ}}に、墨︀染の衣著︀て、右の{{r|座|ざ}}に直り給ふ。
{{r|夢心|ゆめごゝろ}}にも不思議に思ひ、あたりなる人に問ひければ、あれこそ白井備後守殿夫婦にて候へと語る。扨は
我父母にてましますぞや、是れこそ{{r|姬|ひめ}}にて候へと、いはんと思ふ所に、俄に千萬の雷{{r|鳴|な}}り{{r|渡|わた}}り、天地
も{{r|覆|くつがへ}}すかと恐しく思ふに、丈二丈計にて、眼は{{r|日月|じつげつ}}の光の如くなる{{r|鬼|おに}}の、五體に{{r|朱|しゆ}}を{{r|塗|ぬ}}りたるやうに
て、口には{{r|炎|ほのほ}}を吹き出して、いかに罪人、{{r|片時|へんし}}の暇と申しつるに、何とて遲きぞ、{{r|急|いそ}}ぎ歸れと{{r|怒|いかり}}をなし
ければ、こはそも斯る{{r|憂目|うきめ}}に會ひ給ふぞやと、心{{r|憂|う}}く思ひ居たるに、八旬に餘り給ふと覺しき老僧︀、い
づくともなく來り給ひて、佛の御前なる百味の{{r|飮食|おんじき}}を取りて、此{{r|呵責|かしやく}}に與へ給へば、其時鬼共{{r|怒|いかり}}を止
め、却て恐れをなして立去りければ、俄に{{r|紫雲|しうん}}たなびき、空より{{r|音樂|おんがく}}響︀きて、{{r|異香|いきやう}}{{r|薰|くん}}じ、二人の親と
聞きし人は、忽ち{{r|金色|こんじき}}の佛と顯れ、金の蓮に乘りて天生し給ふ。其時彼姬夢心に、有難︀き事なれども、
餘り名殘惜しき事と思ひて、しばらくとて、{{r|裳裾|もすそ}}に{{r|縋|すが}}ると思へば、夢は覺めて、{{r|佛前|ぶつぜん}}にかゝりたる旗
の脚に取附きてぞ居たりける。餘りに有難︀く不思議に思ひ、あたりを見れば、めのとも{{r|障子|しやうじ}}に寄添ひ
眠り居たるを驚かしければ、{{r|有難︀|ありがた}}き夢を見つるに、驚かし給ふ物かなといふ。いとゞ{{r|不審|ふしん}}に思ひ、い
かなる夢ぞや、みづからも恐しく、又有難︀き夢の吿ありとて、互に{{r|語|かた}}りけるに少しも違はず。{{r|夜明|よあ}}け
{{仮題|頁=32}}
て後も、暫し{{r|紫雲|しうん}}たなびき、{{r|虛空|こくう}}に{{r|異香|いきやう}}{{r|薫|くん}}じける。{{r|末世|まつせ}}とはいへども、誠の志あれば、かゝる{{r|奇特|きどく}}も
ありけるとて、貴賤の輩皆{{r|歡喜|くわんぎ}}してこそ歸りけれ。
{{仮題|投錨=木村常陸が妻子の事|見出=小|節=j-2-11|副題=|錨}}
又何よりも{{r|痛|いた}}はしきは、{{r|常陸|ひたち}}の{{r|守|かみ}}が妻や子の{{r|最後|さいご}}の有樣なり。十三になる娘のありしが、並びなき美
人なれば、關白聞食し及び、度々召しけれども、常陸いかゞ思ひけん、ちと{{r|痛|いた}}はる事候とて、母に附
けて越前に下し置きしが、{{r|最後|さいご}}の時に、野中淸六といふ{{r|童|わらは}}を近付け、汝{{r|最後|さいご}}に供せんと思ふ志は{{r|淺|あさ}}か
らねども、{{r|暫|しばら}}く命長らへて、北國へ下り、我が老母妻子のあらんを、{{r|兎|と}}も{{r|角|かく}}も計へかしといひ{{r|含|ふく}}めけ
れば、野中、いかさまにも{{r|御諚|ごぢやう}}に從ひ候べしとて、急ぎ越前に下り、木村が母女房に向ひ、{{r|殿|との}}は都︀に
て御腹召され候。急ぎ何方へも忍ばせ給へと申しければ、女房聞いて、さりとも{{r|今|いま}}一{{r|度|ど}}{{r|見|み}}もし{{r|見|み}}えも
して、兎も角もならばやとこそ願ひつるに、早や先立ち給ふ事の悲しさよ。心に{{r|任|まか}}せぬ{{r|憂世|うきよ}}とはいひ
ながら、あさましき{{r|我身|わがみ}}かな。今は少しも{{r|命|いのち}}長らへても{{r|詮|せん}}なし。急ぎ害せよ。死出の山にて待ち給ふ
らんと{{r|歎|かこ}}ちける。野中思ひけるやうは、三人の人々を{{r|害|がい}}せんとせば、{{r|愚|おろか}}なる女童共、取付き{{r|縋|すが}}り付き
悲むならば、思ふやうにはなくて、わびしくあさましき事のあるべし。たゞ某{{r|腹切|はらき}}つて{{r|見|み}}せばやと思
ひ、早や{{r|唯今|たゞいま}}都︀より御迎ひ參り候べし。さあらば{{r|賤|いや}}しき者︀の手にかゝり給ひて、一門の御名を下し給
ふべし。{{r|急|いそ}}がせ給へ。某は{{r|殿|との}}の御待ち候はんに、先づ御供に參り候といひも果てず、{{r|腹|はら}}十{{r|文字|もんじ}}に{{r|搔切|かきき}}
つてぞ死にける。女房此由を見て、{{r|扨|さて}}は{{r|童|わらは}}が最後を急げと、常陸の守いひ含めつらん。いざや父の跡
を{{r|慕|した}}へとて、十三になる{{r|姬|ひめ}}を害せんとしければ、めのとの女房{{r|縋|すが}}りつきて引退くる。ありあふ者︀は、皆
{{r|女童|めのわらは}}なれば、當座の憂目を{{r|見|み}}じと思ふ計にて、我も{{く}}と{{r|抱|いだ}}き付き、縋り付きて引退くる。木村が女
房は、力及ばで{{r|立退|たちの}}き、{{r|淺猿|あさま}}しのめのとが心や、縱ひみづからが手にかけずとも、{{r|遁|のが}}れ果つべき命か
や。{{r|尊|たか}}きも{{r|卑|いや}}しきも、わりなく命を{{r|惜|をし}}めば、必す{{r|恥|はぢ}}を{{r|晒|さら}}すものぞやとて、木村が老母に向ひ、{{r|急|いそ}}ぎ最
後の御用意候へかし。みづからは御先へ參り候とて、守刀取出し、{{r|甲斐々々|かひ{{ぐ}}}}しく自害して{{r|果|は}}てられた
り。老母は{{r|日頃|ひごろ}}賴みつる{{r|智識|ちしき}}を{{r|請|しやう}}じ奉り、身に{{r|觸|ふ}}れたる小袖共に金を取添へ參らせ、一門の{{r|後世|ごせ}}弔ひ
てたび候へと、{{r|委|くは}}しくいひ置き、是も自害して{{r|果|は}}てられける。其{{r|後|のち}}めのとは姬を{{r|抱|いだ}}き出でけれども、
女心の{{r|果敢|はか}}なさは、いづくを{{r|指|さ}}し、誰を{{r|賴|たの}}むともなくうかれ出で、峯に上り谷へ下り、足に{{r|任|まか}}せて{{r|迷|まよ}}
ひけれども、いつならはしの事ならねば、足より{{r|流|なが}}るゝ血は、{{r|裳裾|もすそ}}も草木も{{r|染|そ}}め渡す。たどり{{く}}
行き廻りて、{{r|嶮|さか}}しき巖石に{{r|踏|ふ}}み迷ひ、一足行きてはたゝずみ、二足行きては休らひつゝ、{{r|夜|よ}}もすがら
{{r|涙|なみだ}}と{{r|露|つゆ}}にしをれつゝ、{{r|詮方|せんかた}}なさの餘りに、いかなる獸も出でて、我命を取りて行けよかし。あら{{r|恨|うら}}め
しのめのとや、母{{r|諸︀共|もろとも}}に行くならば、{{r|死出|しで}}の山を越え、{{r|三途|さんづ}}の河を渡るとも、かほど{{r|憂目|うきめ}}はよもあら
じ。いづくにも{{r|深|ふか}}き淵河のあらん方へ出でて、身を{{r|沈|しづ}}めんと{{r|思|おも}}ひ、谷について下りければ、やう{{く}}
{{r|東雲|しのゝめ}}の空も{{r|明|あ}}け渡り、山田守る{{r|賤|しづ}}が家路に歸るに行逢ひて、道に{{r|踏|ふ}}み{{r|迷|まよ}}ひたるぞ、{{r|道|みち}}しるべせよとい
{{仮題|頁=33}}
へば、某參り候方へ出でさせ給へとて、{{r|先|さき}}に立ちて步みける。いと{{r|嬉|うれ}}しくて、此者︀を見離さじと{{r|轉|まろ}}び
{{r|倒|たふ}}れて、{{r|慕|した}}ひ出でられければ、本の{{r|在所|ざいしよ}}へ出來り、都︀より尋ね來りたる{{r|者︀共|ものども}}に行きあひ都︀に上り、三
條河原にて{{r|害|がい}}せられて、{{r|後迄|のちまで}}死骸を{{r|晒|さら}}されける、{{r|因果|いんぐわ}}の程こそあさましけれ。
{{仮題|投錨=秀次老母の御事|見出=小|節=j-2-12|副題=|錨}}
{{r|關白|くわんぱく}}の御母上は、{{r|太閤|たいかふ}}{{r|御姉|おんあね}}{{r|御前|ごぜん}}にておはしければ、諸︀國の大名に{{r|仰|あふ}}ぎかしづかれてまし{{く}}けるに、
此度{{r|不思議|ふしぎ}}の{{r|出|い}}で{{r|來|き}}、御心を{{r|碎|くだ}}き給ふ所に、{{r|早|は}}や高野にて{{r|御腹|おんはら}}{{r|召|め}}されたる由聞食し、{{r|是|これ}}は夢か{{r|現|うつゝ}}か、
夢ならば、{{r|覺|さ}}めての後はいかならんといひもあへず、御心地{{r|取失|とりうしな}}ひ給ふを、あまたの{{r|女房達|にようぼうたち}}、御藥{{r|參|まゐ}}
らせ樣々して{{r|呼|よ}}び{{r|活|い}}け奉れば、{{r|少|すこ}}し心づき給ひて、{{r|扨|さて}}も世には、神︀も佛もましまさぬかや。我れ此程
{{r|祈︀|いの}}りつるは、いかにもして此度の{{r|難︀|なん}}を轉じ給はゞ、伊勢太神︀宮を{{r|始|はじ}}め奉り、日本國中の大社︀を、{{r|造立|ざうりふ}}
し奉るべし。其外の神︀々へも、{{r|奉幣|ほうへい}}を{{r|捧|さゝ}}げ、御神︀樂を{{r|奏|そう}}し、{{r|神︀慮|しんりよ}}を{{r|鎭|しづ}}め奉らん。神︀も佛も昔は{{r|凡夫|ぼんぷ}}に
ておはしませば、{{r|恩愛|おんあい}}の哀れは{{r|知食|しろしめ}}さるべし。若し此願{{r|叶|かな}}はずば、我命を{{r|取|と}}り給へと{{r|祈︀|いの}}りつるに、{{r|切|せめ}}
て一方はなど叶へ給はぬぞと、{{r|搔口說|かきくど}}き{{r|歎|なげ}}き給ふは{{r|理|ことわり}}なり。誠に人の親の習ひにて、{{r|賤|いや}}しき者︀のあま
たある子の中に、獨り缺けたるをだに歎くぞかし。{{r|況|ま}}してや類︀なき一人の御子にて、天が下を{{r|御心|みこゝろ}}の
儀に{{r|計|はから}}ひ給ふ御身の、御心に{{r|任|まか}}せぬ世の{{r|習|ならひ}}こそ悲しけれ。見るもの聞くもの涙を{{r|流|なが}}さぬはなかりけり。
斯くては命{{r|長|なが}}らへじとおぼしめし、{{r|自害|じがい}}を心がけ給へども、{{r|附隨|つきしたが}}ふ人々{{r|守|まも}}り{{r|居|ゐ}}ければ、それも叶はず
して、いつしか{{r|御心|みこゝろ}}{{r|狂亂|きやうらん}}し給ふ。太閤{{r|此由|このよし}}聞食し、さすが{{r|連枝|れんし}}の御事なれば、{{r|痛|いた}}はしく思召し、
{{r|幸藏主|かうざうす}}を遣はされ、{{r|御歎|おんなげ}}きはさる事にて侍れども、それは{{r|先世|せんぜ}}の{{r|業因|ごふいん}}を知食されざる故にて候。たゞ何事
も{{r|夢|ゆめ}}の中と思召し、{{r|後世|ごせ}}を{{r|弔|とぶら}}ひ給はんこそ、{{r|誠|まこと}}の道にて候はんずれ。{{r|惡|あ}}しく心得給はゞ、共に又{{r|來世|らいせ}}
迄も、あさましくこそ覺え候へと、樣々{{r|慰|なぐさ}}め給ひ、{{r|頓|やが}}て都︀の中に、{{r|村雲|むらくも}}の{{r|御所|ごしよ}}と申して、新造を立て
られ、{{r|明暮|あけくれ}}法華妙典を{{r|讀誦|どくじゆ}}し、釋迦多寶の兩尊に、秀次の{{r|御影|みえい}}を{{r|据|す}}ゑ、{{r|御供|おんとも}}申せし人々の{{r|位牌|ゐはい}}を{{r|並|なら}}べ
給ひて、臨終正念南無妙法蓮華經と、一{{r|心|しん}}に{{r|行|おこな}}ひ{{r|濟|す}}まし、七十三にて、{{r|成佛|じやうぶつ}}の{{r|素懷|そくわい}}を{{r|遂|と}}げ給ふ。され
ば{{r|今|いま}}の{{r|世|よ}}{{r|迄|まで}}も{{r|其跡|そのあと}}を{{r|垂|た}}れ、{{r|憂|うれひ}}深き方々は、此寺に入り給ひ、{{r|行住坐臥|ぎやうぢうざぐわ}}に、只妙法蓮華を{{r|含|ふく}}み、{{r|臨終|りんじう}}の
{{r|夕|ゆふべ}}を{{r|待|ま}}ち給ふこそ{{r|有難︀|ありがた}}けれ。{{nop}}
{{仮題|ここまで=聚楽物語/巻之中}}
{{仮題|ここから=聚楽物語/巻之下}}
{{仮題|頁=34}}
{{仮題|投錨=卷之下|見出=中|節=j-3|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=若君<sup>幷</sup>三十餘人の女房達洛中渡され<sup>附</sup>最後の事|見出=小|節=j-3-1|副題=|錨}}
{{r|秀次公|ひでつぐこう}}は{{r|隱|かく}}れなき{{r|色好|いろごの}}みにて、あまたの{{r|御思|おのも}}ひ{{r|人|びと}}おはしける。其頃{{r|遠國|ゑんごく}}{{r|遠離|ゑんり}}の{{r|果|はて}}迄も、尋ね給ひて、
みめ{{r|容|かたち}}すぐれたるをば、{{r|大名|だいみやう}}{{r|小名|せうみやう}}の娘によらず{{r|召聚|めしあつ}}められ、{{r|百千|もゝち}}の人の{{r|中|なか}}よりも、{{r|選|えら}}び{{r|勝|すぐ}}りし事な
れば、三十餘人の內は、{{r|何|いづ}}れを{{r|如何|いか}}にといはん方なき美人達にてぞおはしける。{{r|玉|たま}}の{{r|簾錦|すだれにしき}}の{{r|帳|とばり}}の中に
{{r|金銀|きん{{ぐ}}}}を{{r|鏤|ちりば}}め、色を{{r|盡|つく}}したる{{r|襲|かさ}}ねの{{r|衣|ころも}}を身に{{r|纏|まと}}ひ、常は源氏伊勢物語の辭を{{r|弄|もてあそ}}び、古今萬葉の歌を學び、
或時は{{r|琵琶|びわ}}を{{r|彈|たん}}じ、或時は{{r|琴|こと}}を{{r|調|しら}}べ、{{r|明暮|あけくれ}}{{r|榮華|えいぐわ}}に{{r|誇|ほこ}}り、日の{{r|影|かげ}}をだに見給はねば、{{r|況|ま}}して人の見奉る
事もなかりつるに、{{r|情|なさけ}}なくもいぶせき{{r|雜車|ざふぐるま}}に、{{r|取載|とりの}}せ參らする事の{{r|痛|いた}}はしさよとて、{{r|卑|いや}}しき{{r|賤|しづ}}の{{r|女|をんな}}{{r|猛|たけ}}
き{{r|武士|ものゝふ}}も、涙を流さぬはなかりけり。されば秀次公、五人の御子を{{r|儲|まう}}け給ひし。姬君は、{{r|攝津|せつつ}}の{{r|國|くに}}
{{r|小濱|をはま}}の寺の御坊の娘、中納言の{{r|局|つぼね}}の御腹に出來給ひし。仙千代丸は、尾張の國住人{{r|日比野下野守|ひゞのしもつけのかみ}}が娘の
腹、御百丸は、{{r|山口雲松|やまぐちうんしよう}}が娘の腹、御土丸と申せしは、お{{r|茶々|ちや{{く}}}}の{{r|御方|おんかた}}產み給ふ。御十丸の母上は、北野
の別當{{r|松梅︀院|しようばいゐん}}の娘なり。此人々は{{r|取分|とりわ}}き御寵愛にておはしければ、御{{r|髮|ぐし}}下し給ふ。其外も皆{{r|髻|もとゞり}}より{{r|切|きり}}
{{r|拂|はら}}ひ、日頃賴み給ひし寺々へ{{r|遣|つかは}}し、或は{{r|高野|かうや}}の山へ上げらるゝもあり。思ひ{{く}}の{{r|最後|さいご}}の出立にて、
上下京を{{r|引廻|ひきまは}}り、一條二條を引下げて、{{r|羊|ひつじ}}の{{r|步|あゆ}}み近づき、三條の橋へ引渡す事の{{r|痛|いた}}はしさよ。{{r|檢使|けんし}}に
は{{r|石田|いしだ}}治部少輔{{r|增田|ますだ}}右衞門尉抔を先として、橋より西の土手の傍に、{{r|敷皮|しきがは}}{{r|敷|し}}きて{{r|並|な}}みゐたりけるが、
車の前後に立向ひ、先づ若君達を害し奉れと{{r|下知|げぢ}}しければ、承り候とて、{{r|若殿原|わかとのばら}}{{r|雜色|ざふしき}}抔走り寄り、玉
を{{r|延|の}}べたるやうに見えさせ給ふ若君達を、御車より抱き{{r|下|おろ}}し奉り、御樣の{{r|變|かは}}りたる父の御首を見せ參
らすれば、仙千代丸はおとなしくて、しばらく御覽じて、こは何とならせ給ふ御事ぞやとて、わつと
泣かせ給ひつゝ、走り寄らんとし給へば、母上達は申すに及ばず、{{r|貴賤|きせん}}の{{r|見物|けんぶつ}}、{{r|守護|しゆご}}の{{r|武士|ぶし}}、{{r|太刀取|たちとり}}
に至る迄、皆涙に{{r|暮|く}}れて、前後を{{r|辨|わきま}}へざるが、心{{r|弱|よわ}}くては{{r|叶|かな}}ふまじきと思ひ、{{r|眼|まなこ}}を{{r|塞|ふさ}}き、{{r|御心元|おんむなもと}}を一
刀づつに返し奉れば、母上達は、{{r|人目|ひとめ}}をも{{r|恥|はぢ}}も忘れ果てゝ、我をば何しに早く害せぬぞ、{{r|死出|しで}}の{{r|山|やま}}
{{r|三途|さんづ}}の{{r|川|かは}}を{{r|誰|たれ}}かは{{r|御介錯|ごかいしやく}}申すべきぞ。急ぎ我を殺︀せ、我を害せよとて、{{r|空|むな}}しき御死骸を抱きつゝ、{{r|伏轉|ふしまろ}}
び給ふ御有樣は、{{r|燒野|やけの}}の{{r|雉|きゞす}}の身を棄てゝ、{{r|煙|けぶり}}に{{r|咽|むせ}}ぶに{{r|異|こと}}ならず。しばしも{{r|怯|おく}}れ給はぬ{{r|御最後共|ごさいごども}}を、急
がれけるこそあはれなれ。夫れより御目錄にて次第々々に害し奉る。
一番には、{{r|上﨟|じやうらふ}}の御方一の臺の御局、前の大納言殿御娘、御年は{{r|三十路|みそぢ}}に餘り給へ{{r|共|ども}}、御かたち{{r|勝|すぐ}}れ
{{r|優|いう}}にやさしくおはしければ、未だ{{r|二十|はたち}}ばかりにを見え給ふ。父大納言殿御いとしみ深くおぼしめし、
いかにもして{{r|御命計|おんいのちばかり}}を申助け給はんとて、{{r|北|きた}}の{{r|政所|まんどころ}}について、樣々に申させ給へども、世の{{r|怨|うらみ}}もあ
りと{{r|思召|おぼしめ}}しければ、つひに叶はずして、失はれ給ふ。又御めのとの{{r|式部|しきぶ}}といふ女房、{{r|御最後|ごさいご}}の{{r|御供|おんとも}}申
さんとて、是迄{{r|附慕|つきした}}ひ參りけるを召して、是迄の志こそ{{r|返々|かへす{{く}}}}もたのもしう{{r|嬉|うれ}}しけれ。我が身斯く成行
{{仮題|頁=35}}
く事も、先の世の{{r|宿綠|しゆくえん}}ぞかし、今更{{r|歎|なげ}}くべき事にあらず。只父御の御歎きと聞くこそ心苦しけれ。誠
の志あらば急ぎ歸り、我が成行くやうを申すべし。{{r|親子|おやこ}}は一世の{{r|契|ちぎり}}とは申せども、賴み奉りし佛の
{{r|御慈悲|おんじひ}}にて、後の世は同じ{{r|蓮|はちす}}の緣となるべければ、たのもしくこそ思ひはんべれ。此世は{{r|假|かり}}の{{r|宿|やどり}}なれ
ば、何事も{{r|前世|ぜんせ}}の{{r|報|むくい}}ぞと思召し捨てさせ給ひて、御心を慰め給へと、{{r|能々|よく{{く}}}}申すべしとて、{{r|最後|さいご}}の{{r|御文|おんふみ}}
の{{r|端|はし}}に斯く{{r|詠|えい}}じて書き付け給ふ。
{{r|長|なが}}らへてありふる程を{{r|浮世|うきよ}}ぞと思へば{{r|殘|のこ}}る{{r|言|こと}}の{{r|葉|は}}もなし
と{{r|打詠|うちなが}}めて討たれ給ふ。めのとは是迄慕ひ參り候も、{{r|死出|しで}}の{{r|山路|やまぢ}}の道すがら、御手をも引き參らせん
ためにてこそ候へ。我をも害してたび候へとて、{{r|太刀取|たちとり}}に手を{{r|擦|す}}りて申せども、御目錄の外は、いか
で叶ふべきとて、{{r|荒|あら}}けなくいひて返しけれども、たゞ{{r|平伏|ひれふ}}して泣き{{r|口說|くど}}きければ、{{r|猛|たけ}}き武士も泣く泣
く手を取り引立てゝ、{{r|輿|こし}}に助け{{r|載|の}}せて、送り返しければ、心ならず歸り參り、御最後のありさま、
{{r|細細|こまごま}}と申上げ、夫れより物をも食はずして、七日に當る日{{r|空|むな}}しくなる。父大納言殿北の御方、此由を聞
きもあへず、暫し{{r|絕|た}}え入り給ひしを、{{r|御顏|おんかほ}}に{{r|水打注|みづうちそゝ}}ぎ抔して、呼び活け奉り、{{r|公達|きんだち}}御手に取付き給ひ
て、こはいかにならせ給ふぞや。此度の歎きに、誰か{{r|劣|おと}}り{{r|優|まさ}}りのあるべき。されども{{r|叶|かな}}はぬ道は力な
し。殘る者︀共は、御子とは思召し候はずやとて、{{r|掻|か}}き{{r|口說|くど}}き悲み給へば、少し{{r|御心地|おんこゝち}}{{r|取直|とりなほ}}し給ひて、
さしも賴みをかけつる人々は、いかにいひなされけるぞや。{{r|兎|と}}ても{{r|角|かど}}ても叶はぬ道と知るならば、
{{r|最後|さいご}}の{{r|際|きは}}に今一度、見もし見えもせば、{{r|其面影|そのおもかげ}}を忘れ{{r|形見|がたみ}}とも慰むべきに、扨も{{r|言甲斐|いひがひ}}なき賴みをかけ
つる{{r|口惜|くちを}}しさよと、伏沈み泣沈み、あこがれ給ふぞ{{r|憐|あは}}れなる。夫れより{{r|御飾|おんかざり}}{{r|下|おろ}}し、{{r|偏|ひとへ}}に{{r|後世菩提|ごせぼだい}}を祈︀
り給ひけるが、{{r|遣|や}}る{{r|方|かた}}なき思ひ積りて、程なく{{r|隱|かく}}れさせ給ひけり。
二番には、小上﨟の御方御妻御前、是も三位中將にて、時めき給ふ人の御娘なり。御年は十六になり
給ふ。何れも劣りはあらねども、{{r|殊|こと}}に{{r|勝|すぐ}}れてやさしき御{{r|容|かたち}}なり。{{r|冬木|ふゆき}}の{{r|梅︀|うめ}}の{{r|匂|にほひ}}深き{{r|心地|こゝち}}にて、さこそ
御盛りには、如何計たをやかに生ひ立ち給はんと、思ひ{{r|遣|や}}られていたはしさよ。{{r|綠|みどり}}の{{r|黑髮|くどがみ}}を半切り棄
て、{{r|肩|かた}}の廻りにゆらゆらとかゝり、{{r|芙蓉|ふよう}}の{{r|眼尻|まなじり}}にこぼるゝ涙は、{{r|珠|たま}}を{{r|貫|つらぬ}}くに異ならず。誠に{{r|繪|ゑ}}に書く
とも、いかで筆にも及ぶべき。{{r|紫|むらさき}}に{{r|柳色|やなぎいろ}}の{{r|薄衣重|うすぎぬかさ}}ね、白き{{r|袴|はかま}}引締め、{{r|練︀貫|ねりぬき}}の{{r|一重衣|ひとへぎぬ}}打掛け、秀次入道
の御首を、三度禮して斯く詠じ給ふ。
{{r|朝顏|あさがほ}}の{{r|日蔭|ひかげ}}{{r|待|ま}}つ間の花に{{r|置|お}}く露より{{r|脆|もろ}}き身をば{{r|惜|をし}}まじ
かやうに詠み給ひて、西に向ひ十念し給ふを、太刀取{{r|御後|おんうしろ}}へ廻るかと思へば、御首は前に{{r|轉|まろ}}びける。
三番には、中納言の局御龜御前と申せし。姬君の母上、{{r|津|つ}}の國{{r|小濱|をはま}}の{{r|御坊|ごぼう}}の娘とぞ聞えし。御年は盛
り過ぎけれども、心ざま{{r|優|やさ}}しくおはしければ、取分き御寵愛淺からずおはしければ、ゆかりの{{r|末々|すゑ{{ぐ}}}}迄
も{{r|富|と}}み{{r|榮|さか}}えしに、昨日の樂み今日の悲みとなる、{{r|天人|てんにん}}の五{{r|衰|すゐ}}目の前に見えて、あさましかりし事共な
り。{{r|御辭世|ごじせい}}に、{{nop}}
{{仮題|頁=36}}
賴みつる{{r|彌陀|みだ}}の{{r|敎|をしえ}}の{{r|違|たが}}はずば{{r|導|みちび}}き給へ{{r|愚|おろか}}なる身を
と打連ね、西に向ひ、{{r|南無西方極樂世界|なむさいはうごくらくせかい}}の{{r|敎主|けうしゆ}}{{r|阿彌陀佛|あみだぶつ}}と一心に念じ、三十三にて、露と等しく消え
給ふ。
四番には、仙千代丸の母上{{r|日比野下野|ひゞのしもつけ}}の{{r|守|かみ}}が娘おわこの前、十八歲になり給ふ。{{r|練︀貫|ねりぬき}}に{{r|經帷子|きやうかたびら}}重ね、
{{r|白綾|しろあや}}の袴著︀て、若君の御死骸を抱き、水晶の{{r|珠數|じゆず}}を持ちて出で給ふ。此程の御歎きの{{r|積|つも}}りに、又若君
の{{r|御最後|ごさいご}}の有樣、一方ならぬ御事なれば、{{r|村雨|むらさめ}}に打亂れたる{{r|絲萩|いとはぎ}}の、露置き餘る{{r|風情|ふぜい}}にて、中々目も
あてられぬ有樣なり。貞庵上人參り十念授け給ふ。心靜に{{r|回向|ゑかう}}して後、斯くぞ詠み給ふ。
{{r|後|のち}}の世をかけし{{r|緣|ゆかり}}のさかりなく{{r|跡|あと}}{{r|慕|した}}ひゆく{{r|死出|しで}}の{{r|山道|やまみち}}
五番には、御百丸の母上十九歲、尾張の國の住人{{r|山口松雲|やまぐちしようゝん}}が娘、白き{{r|裝束|しやうぞく}}に{{r|墨︀染|すみぞめ}}の{{r|衣|ころも}}打掛け、若君の
御死骸を懷に抱き、{{r|紅|くれなゐ}}の{{r|房|ふさ}}つけたる珠數持ちて、是も貞庵の御前にて十念うけ、心靜に囘向して、
{{r|夫|つま}}や子に{{r|誘|さそ}}はれて行く道なれば{{r|何|なに}}をか後に思ひ殘きん
と{{r|詠|よ}}みて西に向ひ、{{r|掌|たなごゝろ}}を合せ、兩眼を{{r|塞|ふさ}}ぎ、{{r|觀念|くわんねん}}しておはしけるを、水もたまらず御首を打落す。
六番には、御土丸と申せし若君の母上なり。是も白き裝束に、{{r|墨︀染|すみぞめ}}の衣著︀て、物{{r|輕々|かろ{{ぐ}}}}しく出で給ふ。
此御方は{{r|禪|ぜん}}の{{r|智識|ちしき}}に{{r|御緣|おんゆかり}}ありて、常々{{r|參學|さんがく}}に心をかけて、散る花落つる木の葉につけても、{{r|憂世|うきよ}}の{{r|徒|あだ}}
に{{r|果敢|はか}}なき事を觀じ給ひしが、此時も{{r|聊|いさゝか}}{{r|騷|さわ}}ぎ給ふ{{r|氣色|けしき}}もなくて、
うつゝとは{{r|更|さら}}に思はぬ世の{{r|中|なか}}を一夜の夢や今{{r|覺|さ}}めぬらん
七番には、御十丸の母上、北野の松梅︀院の娘、おさこの前、是も御子の親なれば、{{r|御髮|おぐし}}{{r|下|おろ}}し給ひて、
{{r|白綾|しろあや}}に{{r|練︀貫|ねりぬき}}の{{r|一重衣|ひとへぎぬ}}{{r|重|かさ}}ね、白き袴引締め、{{r|綟子|もぢ}}の{{r|衣|ころも}}打掛け、左には{{r|疊紙|たゝうがみ}}に御經を持添へ、右には、思
の{{r|玉|たま}}の{{r|緖|を}}{{r|繰返|くりかへ}}して、足たゆく{{r|步|あゆ}}みいで、西に向ひ御經の{{r|紐|ひも}}を解き、法華經の{{r|普門品|ふもんぼん}}を{{r|讀誦|どくじゆ}}して、入道
殿幷に若君我身の{{r|後生善所|ごしやうぜんしよ}}と、心靜に回向し給ひて後、
一{{r|筋|すぢ}}に{{r|大悲大慈|だいひだいじ}}の{{r|影|かげ}}たのむこゝろの月のいかでくもらん
八番には、近江の國の住人{{r|信樂|しがらき}}の{{r|多羅尾|たらを}}彥七娘、おまん御ぜんとて、二十三になり給ふ。{{r|丈|たけ}}と等しき
黑髮を、髻より切拂ひ、練︀貫に同じく白き袴引締め、紫に秋の花盡し{{r|摺|す}}りたる{{r|小袖|こそで}}打掛け出で給ふ。
此頃{{r|童病|わらはやみ}}を{{r|勞|いたは}}り、折しも起り日なれば、たゞ{{r|芙蓉|ふよう}}の花の、{{r|夜|よる}}の間の雨に{{r|痛|いた}}く打たれたるやうにて、見
る目もいと悲しく、心も{{r|消|き}}え入るやうに覺えけるが、是も上人の十念うけて、
いづくとも知らぬ{{r|闇路|やみぢ}}に迷ふ身を{{r|導|みちび}}き給へ{{r|南無阿彌陀佛|なむあみだぶつ}}
かやうに詠みて、{{r|掌|たなごゝろ}}を合せ給へば、{{r|劔|つるぎ}}の光輝くと見えて、首を抱きて伏し給ふ。
九番には、およめの御方とて、尾張の國の住人{{r|堀田|ほつた}}次郞右衞門娘二十六、是も白き裝束にて、{{r|白房|しろぶさ}}の
珠數に、扇持添へ、めのとに手を{{r|牽|ひ}}かれ出でて、西に向ひ十念回向して後、
ときおける{{r|法|のり}}の敎の道なれば獨り行くとも{{r|迷|まよ}}ふべきかは{{nop}}
{{仮題|頁=37}}
かやうに詠じて、又念佛申して、首を延べて討たれ給ふ。
十番に、おあこの御方と申せしは、{{r|美目容貌|みめかたち}}に猶勝りたる心ばへにて、慈悲深く{{r|柔和|にうわ}}におはせしが、
每日法華經讀誦し給ふ。{{r|況|ま}}して此程は、少しも{{r|怠|おこた}}り給ふ事なし。されば{{r|最後|さいご}}の歌にも、妙法蓮華の心
を{{r|詠|よ}}める。
{{r|妙|たへ}}なれや{{r|法|のり}}の{{r|蓮|はちす}}の花のえんにひかれ行く身は{{r|賴|たの}}もしき哉
十一番に、おいま御前、{{r|出羽︀|では}}の國{{r|最上殿|もがみどの}}の御娘、十五歲なり。{{r|未|いま}}だ{{r|蕾|つぼ}}める花の如し。此御方は、兩國
一の美人たる由{{r|聞召|きこしめし}}し及び、樣々に仰せ、去んぬる七月{{r|初|はじめ}}つ{{r|方|かた}}、{{r|召上|めしのぼ}}せられけるが、{{r|遙々|はる{{ぐ}}}}の{{r|旅疲|たびづか}}れと
て、未だ{{r|御見參|ごけんざん}}もなかりつる中に、此事{{r|出來|いでき}}ければ、いかにもして申受け參らせんとて、樣々に心を
{{r|碎|くだ}}き申させ給へども、更に御免︀なかりけるを、{{r|淀|よど}}の{{r|御方樣|おんかたさま}}より、去り難︀く{{r|仰|おほ}}せられ、度々御文を參ら
せられければ、太閤{{r|默|もだ}}し難︀くや思召しけん、さらば命計を助くべし、鎌倉へ遣し、尼になせと仰出さ
れける。夫れより{{r|早馬|はやうま}}にて伏見より、{{r|揉|も}}みに{{r|揉|も}}うでうたせけれども、死の緣にてやおはしける。今一町
計著︀かざる中に害しけるこそ、{{r|憐|あは}}れも深く{{r|痛|いた}}はしけれ。未だ幼かりつれども、{{r|最後|さいご}}の{{r|際|きは}}も、さすがに
おとなしやかにて、辭世の歌に、
罪をきる{{r|彌陀|みだ}}の劔にかゝる身の{{r|何|なに}}か五つの障あるべき
此歌を聞召して、太閤相國も痛はしく思召し、御淚を流させ給ふとぞ。
十二番は、あぜちの御方、これは上京の住人に{{r|秋羽︀|あきは}}といふものゝ娘なり。年三十に餘りければ、{{r|長月|ながつき}}
{{r|末|すゑ}}の白菊の、{{r|籬|まがき}}に餘る迄咲き亂れたる如くにて、さすがに京童の子なれば{{r|物慣|ものな}}れて、時折々の御心に
隨ひ宮仕ける。月の前花の下の御酒宴の{{r|折柄|をりから}}も、此人參らざれば、御盃も數添はず。されば{{r|冥土|めいど}}にて
思召し出すらん。此程打續き、あぜち參れ{{く}}と{{r|宣|のたま}}ふと、夢に見奉るとて、
冥土にて君や待つらんうつゝ共夢ともわかす{{r|面影|おもかげ}}にたつ
かやうに詠みけるとぞ。されば最後の時も、前を爭ひけれども、御目錄にて十二番目なり。又の歌に、
{{r|彌陀|みだ}}頼む心の月をしるべにて行かば{{r|何地|いづち}}に迷ひあるべき
十三番は、少將殿とて、備前の國{{r|本鄕主膳|ほんがうしゆぜん}}娘なり。此人は秀次御裝束を受給はりし人なれば、{{r|取分|とりわ}}き
御恩深く蒙りし人なり。これも辭世の歌に、
ながらへば猶も{{r|憂目|うきめ}}を{{r|三津瀨川|みつせがは}}渡りを急げ君やまつらん
十四番には、左衞門の督殿、三十になり給ふ。{{r|岡本|をかもと}}といふ人の後室なり。父は河內の國{{r|高安|たかやす}}の櫻井と
いふ人なるが、世の常ならず{{r|優|やさ}}しき心ざまなり。月の{{r|夕|ゆふべ}}雪の{{r|朝|あした}}などは、琵琶を彈じ琴を調べ、又は源
氏物語など讀みて、幼き人々に敎へし人なり。最後の時も{{r|思設|もおもひまう}}けたる{{r|氣色|けしき}}にて、
{{r|屢|しば{{く}}}}の{{r|憂世|うきよ}}のゆめの{{r|覺|さ}}め{{r|果|は}}てゝこれぞうつゝの佛とはなる
十五番は、右衞門の督殿とて、三十五になり給ふ。{{r|村井|むらゐ}}善右衞門といふものゝ娘なるが、二十一にて
{{仮題|頁=38}}
村瀨の某といひし夫に離れて、宮仕へ申せしが、容顏{{r|勝|すぐ}}れければ、御寵愛にておはしける。此御方は、
法華經一部讀み覺えて、常に讀誦して心を{{r|澄|す}}まし給ふが、最後の歌にも、
火の家に何か心の{{r|留|とま}}るべき{{r|涼|すゞ}}しき道にいざやいそがん
かやうに詠みて後、一乘妙傳の{{r|功力|くりき}}にて、{{r|女人成佛|によにんじやうぶつ}}疑ひあるべからず。{{r|一切經王最位|いつさいきやうわうさいゐ}}第一、南無妙法
蓮華經と{{r|唱|とな}}へ、{{r|掌|たなごころ}}を合せて討たれ給ふ。
十六番は、めうしんといふ{{r|老女|らうぢよ}}なり。秀次の御內に、いしん、ふしん、えきあんとて、三人の{{r|同朋|どうほう}}な
りしが、此{{r|乳母|うぼ}}ふしんに離れし時も、自害せんとしたりつるを、樣々仰せ留め給ひて、御前を去らず
召仕はれける。男にも勝りて{{r|智慧|ちゑ}}深きものとて、何事の御內談をも、此乳母に知らせ給はぬ事はなか
りけり。されば最後の御供申す事を喜びて、
{{r|先立|さきだ}}ちし人をしるべにゆく道の{{r|迷|まよ}}ひをてらせ山の{{r|端|は}}の月
と打詠めて、是も{{r|貞庵上人|ぢやうあんしやうにん}}の十{{r|念|ねん}}をうけ、心靜に念佛を申し、{{r|奉行|ぶぎやう}}の人々にも最後の{{r|暇乞|いとまごひ}}をして討
たれける。
十七番は、おみや{{r|御前|ごぜん}}、十三になり給ふ。是は一の{{r|臺殿|だいどの}}の御娘なりしを聞召し及び、わりなく仰せら
れて、{{r|召迎|めしむか}}へ給ひしとなり。されば此由太閤相國{{r|聞食|きこしめ}}し、あるまじき事の{{r|振舞|ふるまひ}}かな、世に又人もなげ
に親子の人を召上げられたる事、たゞ{{r|畜類︀|ちくるゐ}}に異ならずとて、愈御憤り深く思召しければ、樣々に賴み
て、御樣變へ、命計りをと申させ給へども、御許なきとぞ聞えし。此姬君の御辭世に、
{{r|秋|あき}}といへばまだ{{r|色|いろ}}ならぬうらば{{r|迄|まで}}{{r|誘|さそ}}の{{r|行|ゆく}}らんしでの{{r|山風|やまかぜ}}
かく{{r|詠|よ}}み給ひて、おとなしやかに{{r|念佛|ねんぶつ}}申し給ふ{{r|最後|さいご}}の{{r|有樣|ありさま}}、哀れを{{r|盡|つく}}せし事共なり。
十八番に、お{{r|菊御前|きくごぜん}}、是は{{r|津|つ}}の{{r|國|くに}}{{r|伊丹|いたみ}}の某といふ人の{{r|娘|むすめ}}、十四歲にておはしける。{{r|先立|せんだ}}ち{{r|給|たま}}ふ人々の
あへなき{{r|最後|さいご}}の有樣を見て、自ら{{r|消|き}}え{{r|入|い}}るやうに見え給ふを、貞庵上人{{r|寄|よ}}り{{r|近付|ちかづ}}きて、{{r|御|ご}}十{{r|念|ねん}}を{{r|勸|すゝ}}め
給へば、{{r|其時|そのとき}}心を{{r|取直|とりなほ}}し、{{r|靜|しづか}}に十念授かりて{{r|後|のち}}、かく{{r|詠|よ}}み給ふ。
{{r|秋風|あきかぜ}}に{{r|誘|さそ}}はれて{{r|散|ち}}る{{r|露|つゆ}}よりも{{r|脆|もろ}}きいのちを{{r|惜|をし}}みやはせん
十九番に、{{r|喝︀食|かつしき}}とて、{{r|尾張|をはり}}の國の{{r|住人|ぢうにん}}坪內市右衞門{{r|娘|むすめ}}、十五歲、此御方は{{r|心|こゝろ}}ざまさえ{{ぐ}}しくて{{r|男姿|をのこすがた}}
ありて、さながらたをやかにして、いふばかりなく{{r|優|やさ}}しき{{r|樣|さま}}なればとて、{{r|名|な}}をも{{r|喝︀食|かつしき}}と{{r|呼|よ}}ばせ給ふ。
{{r|萌黃|もえぎ}}に{{r|練︀貫|ねりぬき}}の{{r|一重|ひとへ}}衣重ね、{{r|白|しろ}}き{{r|袴|はかま}}引締め、{{r|靜々|しづ{{く}}}}と{{r|步|あゆ}}み出でて、{{r|入道殿|にふだうどの}}御首の{{r|前|まへ}}に向ひて、
{{r|暗路|やみぢ}}をも{{r|迷|まよ}}はでゆかんしでの{{r|山|やま}}{{r|澄|す}}める{{r|心|こゝろ}}の{{r|月|つき}}をしるべに
かやうに{{r|詠|よ}}みて、{{r|殘|のこ}}り給ふ人々に向ひ、御先へこそ{{r|參|まゐ}}り候へ、{{r|急|いそ}}がせ給へ。{{r|三瀨川|みつせがは}}にて待ちつれ{{r|參|まゐ}}ら
せんとて、{{r|西|にし}}に{{r|向|むか}}ひ手を合せ給ふありさま、{{r|誠|まこと}}に{{r|正|たゞ}}しき{{r|最後|さいご}}かなと、{{r|見|み}}る{{r|人|ひと}}{{r|暫|しば}}し涙を{{r|留|とゞ}}めて感じけ
る。
二十番には、お{{r|松御前|まつごぜん}}とて十二歲、{{r|右衞門|うゑもん}}の{{r|督殿|かみどの}}の娘、是は{{r|未|いま}}だ{{r|幼|をさな}}くおはしければ、肌には{{r|唐紅|からくれなゐ}}に
{{仮題|頁=39}}
{{r|秋|あき}}の{{r|花盡|はなづく}}し{{r|縫|ぬ}}うたる{{r|薄衣|うすぎぬ}}に、{{r|練︀貫|ねりぬき}}を{{r|打掛|うちか}}け、{{r|袴|はかま}}の{{r|裾|すそ}}をかいとりて、母上の死骸を{{r|禮|れい}}してかく詠める。
殘るとも長らへ果てん{{r|憂世|うきよ}}かは{{r|遂|つひ}}には{{r|越|こ}}ゆるしでの{{r|山道|やまみち}}
二十一番は、おさいとて、{{r|別所豐後|べつしよぶんご}}の{{r|守|かみ}}{{r|內|うち}}に、きやくじんといふものゝ娘なりしが、十五の夏の頃、
初めて{{r|參|まゐ}}り仕へしに、あだし{{r|情|なさけ}}の{{r|手枕|たまくら}}の、{{r|睡|まどろ}}む{{r|程|ほど}}も{{r|夏|なつ}}の{{r|夜|よ}}の、明けてくやしき{{r|玉手箱|たまてばこ}}、再びかくとも
の給はざれば、たゞ{{r|拙|つたな}}き身を{{r|怨|うら}}みて、{{r|明|あか}}し{{r|暮|くら}}しけるに、或時{{r|雨夜|あきよ}}の御つれ{{ぐ}}とて、御酒宴ありしに、
{{r|御酌|おんしやく}}に參られしを、それそれ何にても{{r|御肴|おんさかな}}にと{{r|仰|おほ}}せければ、とりあへず、
君やこし我やゆきけん{{r|思|おも}}ほえず{{r|夢|ゆめ}}か{{r|現|うつゝ}}か{{r|寐|ね}}てか{{r|覺|さ}}めてか
といと細くたをやかなる聲にて、{{r|今樣|いまやう}}にうたひければ、關白{{r|聞食|きこしめ}}して、{{r|彼在五中將|かのざいごちうじやう}}がりの{{r|使|つかひ}}にて、伊
勢の國に{{r|在|いま}}せし時の樣{{r|思召|おぼしめ}}しやらせ給ひて、{{r|痛|いた}}はしく{{r|哀|あは}}れにや{{r|覺|さ}}しけん、御盃二たびほし給ひて、此
女房に下されければ、おもはゆげに{{r|顏打赧|かほうちあか}}めて、うちそばみければ、側なる人々、それ{{く}}急ぎ御盃
取り給へと責められて、給はりければ、關白{{r|御覽|ごらん}}じて、{{r|自|みづか}}らも御肴申さんと{{r|戯|たはふ}}れ給ひて、
{{r|搔暮|かきくら}}す心の{{r|暗|やみ}}に迷ひにきゆめうつゝとはこよひ定めよ
と{{r|伽陵賓︀|かりようびん}}の御聲にて、歌はせ給へば、御前の女房達も、皆涙をぞ{{r|催|もよほ}}されける。かくて其夜は{{r|御寢所|ごしんじよ}}へ
召して、{{r|樣々|さま{{ぐ}}}}{{r|御情|おんなさけ}}深く仰せられ、{{r|後々|のち{{く}}}}も{{r|度々|たび{{く}}}}召しけれども、いかゞは思ひけん、{{r|痛|いた}}はる事候とて、其
後は參らざりしが、{{r|御最後|ごさいご}}の{{r|御跡|おんあと}}を{{r|慕|した}}ひ參るこそ{{r|不思議|ふしぎ}}なれ。
{{r|末|すゑ}}の{{r|露元|つゆもと}}の{{r|雫|しづく}}も消えかへり同じながれの波のうたかた
車に乘りし時、此歌を短册に書きて袂に入れ、最後の時は、{{r|妙法華經|めうほけきやう}}{{r|讀誦|どくじゆ}}の外は、物をもいはず{{r|果|は}}て
られけり。
二十二番には、おこぼの御方十九歲、近江の國の住人{{r|鯰江權之介|なまづえごんのすけ}}といふ人の娘なり。十五の年{{r|召出|めしいだ}}さ
れ、{{r|夫|そ}}れより此方{{r|御恩|ごおん}}深く{{r|蒙|かうぶ}}り、親類︀の{{r|末々|すえ{{ぐ}}}}{{r|迄|まで}}も人となし、其身はさながら宮女の如くにて、四五年
が程は、月に向ひ花に戯れて{{r|明|あか}}し{{r|暮|くら}}し、後の世の{{r|營|いとな}}み{{r|抔|など}}は、思ひも寄らでありつるが、{{r|此期|このご}}に臨みて、
大雲院貞庵上人の御敎をうけ、十念{{r|囘向|ゑかう}}してかくぞ。
さとれるも迷ひある身も{{r|隔|へだて}}なき{{r|彌陀|みだ}}の敎を{{r|深|ふか}}く{{r|賴|たの}}まん
二十三番、おかな御前十七歲、越前の國より、木村常陸の守が上げたりし女房なり。此人は{{r|勝|すぐ}}れて{{r|心|こゝろ}}
{{r|賢|さか}}しく、世の常の女房には變りたりければ、殊に御寵愛とぞ聞えし。{{r|辭世|じせい}}の{{r|歌|うた}}にも、{{r|仇|あだ}}なりし世の中仇なりし世の{{r|中|なか}}
を{{r|觀|くわん}}じて{{r|詠|よ}}める。
夢とのみ思ふが{{r|中|なか}}に{{r|幻|まぼろし}}の身は{{r|消|き}}えて行くあはれ{{r|世|よ}}の{{r|中|なか}}
二十四番にはおすて御前、是は一條のあたりにて、さる者︀の拾ひたる子なりしが、{{r|類︀|たぐひ}}なき{{r|貌|かたち}}に{{r|生立|おひた}}ち
ければ、{{r|召上|めしあ}}げられて、いつきかしづき給ひけるが、三年餘りが程樂み{{r|榮|さか}}え、今又かゝる{{r|憂目|うきめ}}に遭ふ
事、皆先の世の{{r|報|むくい}}とはいひながら、{{r|淺|あさ}}ましかりし事共なり。{{nop}}
{{仮題|頁=40}}
來りつるかたもなければ{{r|行末|ゆくすゑ}}も知らぬ心の{{r|佛|ほとけ}}とぞなる
二十五番はおあい御前、二十三歲、{{r|古川主膳|ふるかはしゆぜん}}といふ人の娘なり。此人は{{r|法華|ほつけ}}の信者︀にて八卷の御經を
{{r|轉讀|てんどく}}して、常々に人をも示し{{r|勸|すゝ}}められしが、{{r|最後|さいご}}の歌にも、{{r|草木成佛|さうもくじやうぶつ}}の心を{{r|詠|よ}}める。
草も木も{{r|皆|みな}}佛ぞと聞く時は{{r|愚|おろ}}かなる身もたのもしき{{r|哉|かな}}
二十六番は、大屋三河守が娘、生年二十五歲、是も{{r|大雲院|だいうんゐん}}の{{r|御坊|ごぼう}}の{{r|佛前|ぶつぜん}}にて十念をうけ、{{r|暫|しばら}}く觀念し
て、
尋ね行く佛の{{r|御名|みな}}をしるべなる{{r|道|みち}}の迷ひの晴︀れ渡る{{r|空|そら}}
二十七番は、おまきの御方、十六になり給ふ。{{r|齋藤|さいとう}}平兵衞娘なり。是も貞庵上人を賴み奉り、御十念
給はりて後、西に向ひ手を合せ、觀念して、
急げ{{r|只|たゞ}}{{r|御法|みのり}}の船の出でゐ{{r|間|ま}}に乘り{{r|遲|おく}}れなば{{r|誰|たれ}}か{{r|賴|たの}}まん
二十八番には、おくま{{r|御前|ごぜん}}、{{r|大島|おほしま}}次郞左衞門娘、二十二歲、{{r|肌|はだへ}}には白き{{r|帷子|かたびら}}に、{{r|山吹色|やまぶきいろ}}の{{r|薄衣|うすぎぬ}}を{{r|重|かさ}}ね、
{{r|練︀貫|ねりぬき}}に{{r|阿字|あじ}}の{{r|梵字|ぼんじ}}すゑたるを打掛けて、{{r|裾|すそ}}を取り足たゆく步みより、入道殿御首若君達の御死骸を禮
して、
名ばかりを{{r|暫|しば}}しこの世に{{r|殘|のこ}}しつゝ身は{{r|歸|かへ}}り行く{{r|元|もと}}の{{r|雲水|くもみづ}}
かやうに{{r|詠|よ}}みて、秀次御首に向ひて{{r|直|なほ}}り給ふを、{{r|太刀|たち}}{{r|取|と}}り參りて、西に向はせ給へといへば、
{{r|本來無東西|ほんらいむとうざい}}ぞかし、急ぎ討てとて、其儘切られ給ふ。
二十九番は、おすぎ御前、十九歲になり給ふ。此方は{{r|取分|とりわ}}き御寵愛おはせしが、去んぬる年{{r|勞氣|らうき}}を{{r|勞|いたは}}
り給へば、夫れより御前遠ざかりければ、{{r|若|わか}}くましませども、{{r|偏|ひとへ}}に{{r|後|のち}}の世を祈︀り、いかにもして{{r|御暇|おんいとま}}
{{r|給|たま}}はり、{{r|浮世|うきよ}}を{{r|厭|いと}}はゞやと願ひ給ひつるが、{{r|叶|かな}}はずして、今{{r|最後|さいご}}の{{r|御|おん}}供し給ふこそ不思議なれ。
すてられし身にも{{r|緣|ゆかり}}や殘るらん{{r|跡|あと}}{{r|慕|した}}ひ行くしでの{{r|山越|やまご}}え
三十番はおあやとて、御すゑの人。
{{r|一聲|ひとこゑ}}にこゝろの月の雲はるゝ{{r|佛|ほとけ}}の{{r|御名|みな}}をとなへてぞ行く
三十一番は{{r|東|ひがし}}とて、六十一歲、中ゐ御すゑ女房を{{r|預|あづか}}りければ、人にかしづかれ、富み榮えつるに、{{r|老|おい}}の
{{r|浪|なみ}}の{{r|立返|たちか}}り、{{r|寄邊|よるべ}}なき身となりて、夫は七十五にて、三日先に相國寺にて、自害し果てけるこそ哀れ
なれ。
三十二番におさん、是も御すゑの女房。
三十三番はつぼみ。
三十四番ちぼ。
かやうに心々の樣を{{r|詠|よ}}み{{r|連|つら}}ね給へば、見る人聞く人涙に{{r|咽|むせ}}び、さても{{r|優|やさ}}しの{{r|人々|ひと{{ぐ}}}}かな、{{r|賤|いや}}しき身なら
ば、{{r|命|いのち}}の惜しき事をこそ、{{r|歎|なげ}}き悲むべけれ。{{r|此期|このご}}に{{r|臨|のぞ}}みて歌詠ずべきとはよもおもはじ。哀れ{{r|上﨟達|じやうらふたち}}
{{仮題|頁=41}}
やとて、知るも知らぬも、袖を{{r|濕|ぬ}}らして{{r|感|かん}}じける。文祿四年八月二日午の{{r|刻|こく}}{{r|計|ばかり}}より、{{r|申|さる}}の終まで、{{r|草|くさ}}
の{{r|葉|は}}を{{r|薙|な}}ぐやうに引出し引出し、御首ふつ{{く}}と打落し{{く}}、大なる穴を掘りて、其中へ四つの手足
を取り、{{r|投入|なげい}}れ{{く}}したる有樣、{{r|誠|まこと}}に{{r|冥土|めいど}}にて{{r|閻魔王|えんまわう}}の御前にて、{{r|倶生神︀阿放羅刹共|ぐしやうじんあはうらせつども}}が、罪人集めて
{{r|呵責|かしやく}}するらんも、{{r|中々|なか{{く}}}}是にはよも{{r|勝|まさ}}るべきとて、見る人{{r|膽|きも}}を{{r|消|け}}し、{{r|魂|たましひ}}を失ふ{{r|計|ばかり}}なり。誠に罪ある者︀を
害するは常の事なれども、かくまで情なく、{{r|痛|いた}}はしき事のあるべきか。秀次入道殿こそ大惡逆の人な
れば、惡しと思召すは御{{r|理|ことわり}}なれども、此人々のいかで{{r|夢計|ゆめばかり}}も{{r|知召|しろしめ}}さるべき。罪ある者︀は{{r|緣|ゆかり}}を改め、生
害するも習ひなれども、男の{{r|外|ほか}}は助かる習ひぞかし。{{r|縱|たと}}ひ命をこそ助け給はずとも、{{r|切|せめ}}ては此人々の
死骸をば、{{r|日頃|ひごろ}}{{r|賴|たの}}み給ふ{{r|僧︀聖|そうひじり}}をも{{r|召出|めしいだ}}して、いかさまにも{{r|弔|とぶら}}はせ給ふか、さらずば此人々の{{r|親類︀緣|しんるゐゆかり}}に
も取らせ給はらで、かほど{{r|迄|まで}}あさましげに、{{r|賤|いや}}しき者︀の手にかけさせ、死骸の{{r|耻|はぢ}}まで{{r|晒|さら}}し給ふ事の{{r|痛|いた}}
はしさよとて、心あるものは、あら{{r|行末|ゆくすゑ}}{{r|恐|おそろ}}しとて{{r|小聲|こゞゑ}}になり、{{r|舌|した}}を{{r|振|ふ}}りてぞ{{r|歸|かへ}}りける。{{nop}}
{{仮題|ここまで=聚楽物語/巻之下}}
{{仮題|ここから=大阪物語/上巻}}
{{仮題|頁=41}}
{{仮題|投錨=大阪物語|見出=大|節=o|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=上卷|見出=中|節=o-1|副題=|錨}}
盛なる者︀の衰ふるは、いにしへより今更驚き難︀き事なり。さる程に秀吉と申すは、{{r|日本|にほん}}の事は申すに
及ばず、{{r|唐土|もろこし}}までも{{r|掌|たなごころ}}に入れて、我身{{r|關白|くわんぱく}}に任じ、{{r|聚樂|じゆらく}}に於て行幸を申請け、誠に有難︀かりし事ど
もなり。然れども{{r|病|やまひ}}の萌す所は、{{r|釋尊|しやくそん}}も遁れ難︀く、{{r|宿病|しゆくびやう}}忽ちしきりなれば、秀吉の御子息秀賴は、未
だ幼ければ、{{r|內府公|だいふこう}}を御{{r|後見|うしみ}}に賴む由仰せ置かれて、竟に無常の風に誘はれ、御{{r|他界|たかい}}ありけり。然る
所に日本の{{r|諸︀大名|しよだいみやう}}は、悉く罷上り、秀賴へ伺候申す所に、加賀の肥前{{r|利光|としみつ}}、越後の{{r|長尾景勝|ながをかげかつ}}の兩人は、
御{{r|上|のぼ}}りなきによつて、內府公より、此兩人は何とて御上りなきぞ、急ぎ上らるべき由仰せ越され候へ
ば、秀吉{{r|存生|ぞんじやう}}の時より、三年の御許ある間、上るまじきの返狀あれば、さては{{r|謀叛|むほん}}の企ありとて、加
賀へ家康{{r|御出馬|ごしゆつば}}あるべき由に極まりける所に、{{r|扱|あつかひ}}に依つて{{r|和談|わだん}}になりけり。さて景勝は竟に{{r|同心|どんしん}}なき
に依つて、景勝陣と御觸なされ候。頃は{{r|慶長|けいちやう}}五年六月中旬に、家康は江戶へ下り給ふ。江戶中納言は、
西國北國の諸︀大名、其外秀吉の{{r|馬廻|むまゝはり}}を催し、七月二十日に江戶を立ち、同二十二日に常陸の國宇都︀宮
まで、御著︀きなされ、家康は同二十三日に、下總の{{r|小山|をやま}}に御著︀きなされ候所に、秀吉{{r|御代|みよ}}の時は、天
{{仮題|頁=42}}
下の三{{r|奉行|ぶぎやう}}をも致したる{{r|石田治部少輔|いしだぢぶのせう}}、かやうの{{r|砌|みぎり}}を能き幸と存じ、謀叛の企てをなし、中國西國に
殘り留まりたる衆の方へ、{{r|廻文|くわいぶん}}を廻し、島津又八郞、同又七、安藝の毛利、菊川金吾中納言、{{r|小西|こにし}}
{{r|攝津守|つのかみ}}、浮田の宰相、增田右衞門皆々の衆へ、{{r|安國寺|あんこくじ}}を使として、我に一{{r|味同心|みどうしん}}に{{r|只管|ひたすら}}に賴まれける。
{{r|刑部少輔|ぎやうぶのせう}}は、內府公と一{{r|段御等閑|だんごとうかん}}なうなさるゝ故、諸︀事御談合あるべし。急ぎ御下り候へとの御使上
りける。{{r|會津|あひづ}}の陣へ心ざし、美濃迄下り候刑部を、治部の{{r|少輔|せう}}賴む由申す時、家康に對して合戰に勝
つ事、中々及び難︀し。思ひ止りて然るべしと申され候へば、斯程に思ひ立つ上は、是非とも{{r|貴邊|きへん}}の{{r|命|いのち}}を
貰ひ置くと申しければ、其儀に於ては力及ばずとて、同心するこそ運の極めと聞えけれ。さてあるべき
にあらざれば、西國の{{r|軍勢|ぐんぜい}}{{r|雲霞|うんか}}の如く馳せ上り、先づ伏見の城に、鳥井彥右衞門を攻め滅し、丹後の
國に、{{r|羽︀柴|はしば}}越中居城を攻め落し、江州大津京極居城、伊勢の國津の城、以上四箇所の城を攻め落しけ
る。軍の門出よしと悅び、美濃國へ討つて出づる。家康公は下總の小山にて、此由を七月二十三日の
夜半に聞召し、{{r|評定|ひやうぢやう}}日數ありて、景勝{{r|表|おもて}}には{{r|結城|ゆふき}}の宰相{{r|政宗|まさむね}}を押へとして御置きなされ、八月一日に
江戶へ御歸りにて、八月中は、江戶に御逗留ありける。さて討手上る。其先陣、先づ家の子には本多
{{r|中務|なかつかさ}}、井伊の{{r|兵部|ひやうぶ}}、中村一學、羽︀柴越中、加藤{{r|左馬|さま}}、寺澤{{r|志摩|しま}}、{{r|德長|とくなが}}{{r|左馬|さま}}、金森法印、同出雲、藤堂
佐渡、黑田甲斐守、是等の衆は、八月二十三日の曉、美濃國岐阜の中納言城へ取懸け打散らし、それ
より東國勢は、美濃の高井に陣を据ゑ、家康上洛を待ち居たり。卽ち家康は、九月一日より出陣あつ
て、同じく十四日の申の刻に、高井に著︀き給ふ。江戶中納言は、{{r|眞田|さなだ}}謀叛に依つて誅伐の爲めに、
眞田表へ御出陣ありける。美濃國大垣の城には西國方の福︀原右馬助大將として、しか{{ぐ}}の{{r|侍|さふらひ}}{{r|楯籠|たてこも}}
る所を、中村一學、家康{{r|垂井|たるゐ}}に著︀き給ふを見て、九月十四日の{{r|晩|ばん}}、大垣の城を攻めけるに、城の內に
も、さすが待ち設けたる事なれば、城の外へ打つて出で、火花を散らし戰ひける。一學內のもの{{r|屈强|くつきやう}}
の侍三百餘討たれて、危かりける所に、堀尾{{r|帶刀|たてはき}}{{r|後詰|ごづめ}}して、痛く推附けゝれば、力及ばず城の內へ逃
げ入りける。扨又十五日の卯の刻に、石田治部少輔は、大谷刑部少輔島津が陣へ、大垣より引きける所
を、羽︀柴左衞門大夫打向ひ、一合戰して二百餘人の首を取つて、關原宮の前に並べ置きたりける。さ
て左衞門大夫は、關原東の入口、南の山の腰に{{r|人數|にんず}}を立て置き、物見の郞等二人に申付け、{{r|敵|てき}}の人數
の立てやう見て參れとありければ、かしこまるといふより早く立ち、敵の人數の立てやうを見れば、
先づ南の端西の川端に小河左馬、夫より北へ續いて脇坂{{r|中書|ちうしよ}}、其北に大谷刑部少輔、北東に小西
{{r|攝津守|つのかみ}}、{{r|其間|そのあひ}}少し山を隔てゝ戶田武藏、又北東へ續いて治部少輔島津兄弟、次第々々に諸︀侍{{r|並居|なみゐ}}たる由申
し來る。扨先づ左衞門大夫、井伊兵部、本多中務、此四五人は、我々の人數をば{{r|後|あと}}に立て置きて、若
黨計を二三人づつ召連れて、{{r|金吾|きんご}}中納言陣所近く立寄り、先づ使を立てゝ、{{r|別心|べつしん}}の約束はいかゞ遲な
はり給ふ。但し別心翻る物ならば、はや夫れへ討つて懸らんとありければ、御使尤に候。今朝は雨降
り霧深くして、{{r|旗頭|はたがしら}}をも見分かずして遲なはり候。別心を翻さぬ由、使に使を差添へて遣しける。脇
{{仮題|頁=43}}
坂中書、小河左馬も、はや傳へ聞き、降參申されけり。其使未だ歸りも着かぬに、はや刑部少輔陣に
討つて懸る。刑部親子も、さすが名を得し{{r|剛|がう}}の者︀なれば、一{{r|足|そく}}も退かず、火花を散らして、三度まで
返し合せ{{く}}て、痛く戰ふといへども、大軍に小勢なれば、戰疲れて叶はず。刑部が若黨申すやう、
味方只今敗軍す、御腹召せと申しける。刑部この由聞くよりも、無念なる次第かな、こは叶はじとや
思ひけん、駒を{{r|彼處|かしこ}}に乘放ち、若黨に申すやう、われ腹を切るならば、死骸を深く隱せとて、いふよ
り早く腹十文字に搔切れば、若黨も御供申さんといふまゝに、あたりの敵を切拂ひ、其身も其處にて
腹を切る。刑部が{{r|面|おもて}}は見えざりけり。剛なる者︀の死にやうは、斯くこそあるべき物なれと、人々目を
驚かし、{{r|賞|ほ}}めぬ人こそなかりけれ。小西{{r|攝津守|つのかみ}}左衞門大夫にむかひ、暫くは戰へども、過半討たれて
叶ふまじきと見て敗軍するを、愈{{r|勝|かつ}}に乘り、三百餘討取り、其日二度{{r|合戰|かつせん}}に、左衞門大夫手へ{{r|頸數|くびかず}}五
百打取り、戶田武藏、津田河內に向ひ、爰を{{r|先途|せんど}}と戰へども、{{r|痛手|いたで}}負ひければ叶はずして、終に河內
に討たれけり。島津治部少輔も、隨分合戰すといへども、田中兵部、本田中務、井伊兵部、加藤左馬、
羽︀柴越中、藤堂左渡、德長法印、同左馬、金森法印、同出雲、寺澤志摩、いづれも其外大名小名、東
國{{r|勢|ぜい}}强くして、西國勢敗軍しけり。島津郞等過半討たれければ、叶はじとや思ひけん、{{r|眞丸|まんまる}}にかたま
り、伊勢口へ突︀き拔け、大阪より舟に乘り、薩摩へ下りける。治部少輔、小西攝津守、安國寺、爰の
山彼處の{{r|洞|ほら}}に隱れて、一首の歌こそ、哀れとも{{r|無道|ぶだう}}とも{{r|可笑|をか}}しかりける事共なり。
せめて世に命のあらば又も見ん秀賴樣の花のかほばせ
小西も此處彼處の里々に隱れ居て一首、
遂に行く道とは聞けど恨めしや妻諸︀共に越えん山路は
安國寺も、浦々島々を逃𢌞るとて、
古の花のやどこそすつるとも命ばかりは殘りとゞまれ
かやうに日數は經れども、終に捕はれ{{r|人|びと}}となり、三人ながら洛中洛外を引渡し、六條河原にて首を刎
ね、三條河原にかけられけり。
然る所に殘る大名小名、{{r|冑|かぶと}}をぬぎ{{r|弦|ゆづる}}をはづし降參す。然れどもその{{r|咎|とが}}遁れ難︀きに依りて、或は{{r|遠國|をんごく}}
{{r|波濤|はたう}}に流され、或は{{r|國所領|くにしよりやう}}を召上げられ、{{r|浪人乞食|らうにんこつじき}}の姿となり、去んぬる頃忠節︀の大名小名、國郡を給
はり、時めきめであへること、{{r|花木|くわぼく}}の春に逢へるに異ならず。かくの如く無道を罰し、功あるを賞祿
し、神︀社︀を{{r|修造|しゆざう}}し、萬民を{{r|撫|な}}で、政道正しかりければ、九州四國皆關東に歸服し奉り、諸︀國の{{r|渴迎|かつがう}}、
譬へば{{r|北辰|ほくしん}}の其所に出で、{{r|衆星|しゆせい}}の是にたんだくするが如し。されば一天{{r|平|たひらか}}にして、國富み民安らかな
る事、傳へ聞く堯舜の御代、延喜天曆の聖代も、是には過ぎじとぞ覺えし。かゝる上にも、下の{{r|情|なさけ}}上に
通ずる事難︀ければ、訴訟あらん{{r|輩|ともがら}}は、{{r|直|ぢき}}に訴狀を捧ぐべしと仰せ下され、{{r|大御所|おほごしよ}}每年一度づつの御
{{r|鷹野|たかの}}なさるゝ。是に依つて訴訟あるものども、{{r|直訴|ぢきそ}}を遂げ、{{r|上聞|じやうぶん}}に達しゝかば、忽ちけんぼうの{{r|燈火|ともしび}}を
{{仮題|頁=44}}
かゝげ、愁歎の{{r|闇|やみ}}を晴︀らす。かゝりしかば{{r|刑鞭|けいべん}}も{{r|蒲朽|かまく}}ち、{{r|諫鼓|かんこ}}も打つ人なかりけり。貴賤安樂にして、
旣に十五箇年の春秋を送り迎ふ。然る所に慶長十九年の春の頃より、世上なにとなく{{r|咡|さゝや}}く事ども多か
りければ、秀賴の老臣{{r|片桐市正|かたぎりいちのかみ}}を關東へ召され、大阪の御{{r|仕置|しおき}}仰せ渡されたる所に、いかなる事かあ
りけん、秀賴御承引なく、却つて市正を勘當なされ、大阪の御用心ありければ、市正大阪に{{r|堪|こら}}へ兼ね、
弟{{r|主膳|しゆぜん}}を相{{r|具|ぐ}}し、三百餘騎にて{{r|茨木|いばらき}}へ引き籠る。大阪に殘る諸︀侍、思ひ寄らぬ事なれば、{{r|鎧|よろひ}}を著︀れど
も{{r|冑|かぶと}}を著︀ず、馬に乘れども{{r|鐙|あぶみ}}なし。槍よ{{r|薙刀|なぎなた}}よと{{r|犇|ひし}}めきて、上下馳せ違ふ事{{r|夥|おびたゞ}}し。これを見る町人商
人、{{r|只|たゞ}}敵の寄せ來りたると心得、足に任せて逃ぐるもあり、多年蓄へ置ける財寶を、我人のと奪ひ合
ふ。或は子を{{r|倒|さかさま}}にかき負ひ、{{r|行方|ゆきかた}}を失ひ、家財道具東西南北へ運び出す有樣、前代{{r|未聞|みもん}}の事どもなり。
大野{{r|修理|しゆり}}これを見て、町々に奉行をつけて、制當しけれども、大水の落つる河口を、手にて防ぐが如
くに由て、止むべきやうなかりけり。秀賴此由聞召し、大野修理を召され、此上は力及ばぬ次第なり。
定めて關東より、近日に大勢上るべし。急ぎ人數を集め、兵粮を{{r|籠|こ}}め、城の{{r|構|かまへ}}を堅くせよ。急げ{{く}}
との{{r|御諚|ごぢやう}}なり。承ると申して、大阪、堺、尼崎に、{{r|商賣|あきなひ}}のために附け置きたる米舟どもを點檢し、金
銀を與へ、米は城へ籠められける。さる程に四五日の間に、{{r|石數|こくすう}}二十餘萬石ぞ集めける。さて御朱印
を認め、先年の一亂以後、浪人したる者︀共の方へぞ遣しける。御請け申すに及ばず、馳せ參りたる侍、
先づ信濃國の住人眞田阿波守、次男眞田左衞門守、{{r|長宗我部|ちやうそかべ}}土佐守、森豐前守、{{r|赤石掃部助|あかしかもんのすけ}}、
{{r|仙石宗也|せんごくそうや}}、{{r|五島|ごとう}}又兵衞を始として、此處の谷彼處の{{r|洞|ほら}}より馳せ來る。程なく六萬餘騎とぞ{{r|着到|ちやくたう}}を吿ぐる。卽
ち御對面あつて、御盃を下され、時刻を移さず馳參るの條、志のほど{{r|神︀妙|しんべう}}なり。長々の浪人さこそあ
るらんとて、鎧、馬物具、太刀、刀、{{r|黃金|きがね}}、{{r|銀|しろがね}}、{{r|錢|ぜに}}、米を與へ給はりて、よろづ賴み思召すとの御諚
ありければ、忝さの餘りに、皆感淚を流しつゝ、苔の衣を脫捨てゝ、華やかなる武者︀となる。浪人し
たる者︀共、日頃かゝる{{r|亂|みだれ}}もあれかしと、{{r|希|こひねが}}ひたる折柄なれば、盲龜の{{r|浮木|ふぼく}}、{{r|優曇華|うどんげ}}の花待ち得たる心
地して、あはれ敵の早く寄せよかし、{{r|尋常|じんじやう}}に討死し、名を後代に殘さんと、勇み喜ぶありさまはゆゝ
しかりし事どもなり。
扨此城と申すは、西は海︀、北は大{{r|河|が}}、東は{{r|深|ふけ}}田、南一方{{r|陸地|ろくち}}なれども、{{r|地下|ちさが}}りにして、城一片の雲の
如くに見上げたれば、いかなる{{r|天魔鬼神︀|てんまきじん}}が寄せ來るとも、{{r|容易|たやす}}く落つべきやうはなし。{{r|外郭|とがは}}に堀を掘
り柵を結ひ、{{r|土手|どて}}を高く{{r|築|つ}}きあげ、八寸角を柱にして、{{r|塀|へい}}を强く塗り上げて、塀裏に五寸角を打付け、
{{r|矢狹間|やざま}}を繁︀く切り、十間に一つづつ{{r|櫓|やぐら}}を立て、八方より眺むれば、日本には雙びなし。咸陽宮を學ぶ
とも、是にはいかで{{r|勝|まさ}}るべきと、勇み喜ぶ有樣を、物によく{{く}}譬ふれば、{{r|高館︀|たかだち}}とやらんにて、龜井
兄弟、伊勢、駿河、武藏坊辨慶、此者︀共が君の御盃給はり、所領には{{r|如|し}}かじとて、勇み喜ぶ有樣より、
猶賴もしく聞えける。扨大𢌞りには、一{{r|間|けん}}に侍三人づつの名字を書付け、大筒小筒玉藥を添へて渡さ
れける。楯籠る兵どもは、一騎當千の手柄を、兼て顯したる者︀共なり。いづれも賴もしく覺えける。
{{仮題|頁=45}}
旣に此事{{r|頻︀|しき}}りなれば、京伏見より、{{r|早馬|はやむま}}を關東へ{{r|注進|ちうしん}}す。大御所の御諚には、こと{{ぐ}}しの申しやう
や、何程の事かあるべき。{{r|蟷螂|たうらう}}が斧を取つて、{{r|龍車|りうしや}}に向ふ{{r|風情|ふぜい}}なるべし。さりながら兩把に伐らざれば、
ふかを用ゐるといふ{{r|本文|ほんもん}}あり。其儀にてあるならば、慰みがてらに上洛し、世の{{r|騷|さわぎ}}を鎭めんとの御諚
にて、十月十一日に御馬を出されける。將軍は東國の御仕置仰付けらるゝ程は延引ありて、同二十三
日に御進發と聞ゆ。諸︀國の大名小名夜を日に繼いで馳せ上る。先陣は京伏見に著︀きければ、{{r|後陣|ごぢん}}は漸
く江戶品川にさゝへたり。江戶伏見の間は、百二十里の程は、たゞ人馬さながら滿ち{{く}}て、一日の
其內にも、二里や三里も往きやらで、山路暮らして{{r|旅寐|たびね}}する、夢もいつしか古里の、慣れ{{r|來|こ}}し人の
{{r|名殘|なごり}}のみ。富士の{{r|高嶺|たかね}}を見上ぐれば、雪の中より立つ煙、風を痛みて片寄るも、身のたぐひぞと打詠め、
宇津の山邊のうつゝにも、夢にも知らぬ人にのみ、{{r|逢瀨|あふせ}}の數も大井川、波のよるさへ行く道の、{{r|佐夜|さよ}}
の{{r|中山|なかやま}}分け{{r|上|のぼ}}り、また越ゆべしと思はねば、哀れなりける我が身かは。澤邊に渡す{{r|八橋|やつはし}}に、{{r|著︀|き}}つつ慣
れにし{{r|旅衣|たびごろも}}、はる{{ぐ}}行くも{{r|入相|いりあひ}}の、鐘も{{r|鳴海︀|なるみ}}の{{r|宿|やど}}過ぎて、熱田といへど風寒し。めぐる{{r|時雨|しぐれ}}を厭ひ
つゝ、美濃にかゝれば{{r|笠|かさ}}のはの、露も{{r|垂井|たるゐ}}と打拂ふ、{{r|伊吹颪|いぶきおろし}}や{{r|不破|ふは}}の{{r|關守|せきもり}}、渡る{{r|奧田|おくだ}}の{{r|假寐|かりね}}の夢は{{r|醒|さめ}}
が{{r|井|ゐ}}の、水のこほりの{{r|鏡山|かゞみやま}}、いざ立寄りて見て行かん、年へぬる身の老いぬらし。雪をいたゞく
{{r|三上山|みかみやま}}、富士といはんと詠み置ける、そのことの葉は{{r|誠|まこと}}なり。瀨田の{{r|長橋|ながはし}}打渡り、駒の{{r|足音|あしおと}}{{r|𨻶|ひま}}もなく、
{{r|往來|ゆきき}}の人に逢阪の、關を越ゆれば是やこの、知るも知らぬも別れては、京や伏見に著︀きにけり。{{r|上|のぼ}}り{{r|集|つど}}
へる人々、伏見、深草、{{r|鳥羽︀|とば}}、{{r|八幡|やはた}}、淀、山崎や{{r|寶寺|たからでら}}、西は淡路、尼が崎、{{r|生田|いくた}}、{{r|昆陽野|こやの}}、兵庫の浦、
堺、住吉、{{r|安倍野|あべの}}の原、{{r|天野|あまの}}、{{r|平野|ひらの}}、{{r|小野|をの}}、{{r|闇峠|くらがりたうげ}}、{{r|飯︀盛|いひもり}}、{{r|牧方|ひらかた}}、{{r|葛葉|くずは}}の里、{{r|禁野|きんや}}、{{r|片野|かたの}}、{{r|天|あま}}の川に、
{{r|𨻶間|すきま}}もなく陣どりける。{{r|扨|さて}}{{r|白幟|しらのぼり}}、赤幟、{{r|吹貫|ふきぬき}}、{{r|指物|さしもの}}、{{r|馬印|むまじるし}}、風のまに{{く}}飜るは、吉野立田の花紅葉、
{{r|嶺|みね}}の嵐の誘ふらんも、斯くやと思ひ知られたり。又{{r|海︀原|うなばら}}を見渡せば、飾り立てたる舟どもの、漕ぎ亂
れたる有樣は、立田の河の秋の暮、{{r|三室|みむろ}}の山のもみぢ葉の、吹來る風に散りうつるも、是にはいかで
勝るべき、譬へん方もなかりけり。暮行くまゝに眺むれば、諸︀陣に焚きける{{r|篝火|かゞりび}}は、月遲き夜の空晴︀
れて、輝く星の如くなり。斯くて大名小名を、二條の御所に召集め、大坂の{{r|攻口|せめぐち}}の{{r|御手分|おんてわけ}}とぞ聞えけ
る。先づ東の{{r|寄手|よせて}}には、佐竹、景勝、本多出雲、眞田河內守、淺野{{r|采女|うねめ}}、松平丹後守、{{r|牧野|まきの}}駿河、堀
尾山城、京極若狹、同丹後、酒井{{r|宮內少輔|くないのせう}}、南には松平筑前、越前の少將、井伊の{{r|掃部|かもん}}、藤堂和泉、
{{r|生駒|いこま}}讃岐、尾張の少將、松平陸奧守、寺澤志摩守、淺野但馬、鍋島信濃、蜂須賀安房守、松平土佐守、同
宮內少輔、同左衞門{{r|督|かみ}}、石川{{r|主殿|とのも}}助、北には、向井將監、{{r|千賀|せんが}}孫兵衞、{{r|九鬼|くき}}長門守、小濱久太郞、備
中衆、福︀島備後守、毛利右近、松平武藏、本多美濃守、同周防守、黑田左衞門佐、有馬玄蕃、片桐
{{r|市正|いちのかみ}}、同主膳を始めとして、組々の諸︀侍、都︀合三十萬餘騎とぞ聞えける。斯くて各{{r|攻口|せめぐち}}を請取り馳せ向
ふ。其名を得たる大河、{{r|堀|ほり}}、{{r|沼|ぬま}}なれども、馬をうちひで{{く}}掛渡し、我先にと攻め近づく。天滿中島
に、城の內より人數を出して禦ぎけれども、此處彼處より駒を掛渡し{{く}}、攻懸くれば{{r|耐|たま}}り兼ね、大
{{仮題|頁=46}}
阪指して引退く。爰に{{r|穢多|ゑつた}}が城とて、名を得たる{{r|寨|とりで}}あり。蜂須賀阿波守{{r|手勢|てぜい}}一萬餘騎、まだ{{r|東雲|しのゝめ}}も明
けやらぬに、穢多が城へ押寄せて、鐵砲を揃へ、{{r|矢狹間|やさま}}を閉ぢ、槍薙刀押つ取り{{く}}、堀へ飛び{{r|浸|ひた}}り
{{r|喚|をめ}}いて懸れば、城の者︀共、弓鐵砲を投げ捨てゝ、{{r|切先|きつさき}}を揃へ、此處を{{r|先途|せんど}}と戰へども、阿波守{{r|麾|ざい}}を打
振りて、敵に息を繼がせそ、たゞ懸れと{{r|下知|げぢ}}せられければ、大勢の兵共、手負死人を踏付け{{く}}亂れ入
る。城中の者︀心は{{r|猛|た}}けけれども、大勢に{{r|揉|も}}み立てられて、叶はじとや思ひけん、大阪指して引いて行
く。逐付け{{く}}五十餘人討取れば、穢多が城は落ちにけり。爰に將軍の{{r|舟奉行|ふなぶぎやう}}向井將監は、十一月十
六日に、舟にて{{r|傳法口|でんほふぐち}}に著︀く、同十七日に、九鬼長門守、千賀與八郞、是も舟にて同所に著︀きにける。
卽ち談合して、しんけい{{r|村|むら}}の敵の要害を押破るべしとて、同十八日の夜、しんけい村を押破り、同二
十二日まで、野田、福︀島、しんけいの間にて日夜合戰し、同二十六日に、九鬼長門、向井將監、{{r|小濱|をばま}}
久太郞、千賀與八郞、{{r|葦|よし}}島へ移り、二十九日の夜明に、福︀島の{{r|櫓|やぐら}}へ取懸け、{{r|卽時|そくじ}}に攻め落す。中にも
向井將監は、大野修理が用意したる大{{r|安宅|あたけ}}、其外{{r|河面|かはおもて}}にて敵の船共取りける。扨石川{{r|主殿助|とのものすけ}}、船より
五分一へ働くを見て、向井將監同じく攻め入りければ、{{r|船場|せんば}}の敵、城の內へ引いて入りける。其頃大
阪水口の川より、鐵砲三十挺計り引具したる侍一人張番に出で、鐵砲を打たせて居たりける。佐竹
{{r|先手|さきて}}の者︀共五六十人、{{r|堤|つゝみ}}の{{r|陰|かげ}}より忍びより、あけほひに切つて懸る。張番の者︀共、叶はじとや思ひけん、
城の內へ逃げて行くを逐ひ付け、{{r|首|くび}}十二三取りて、佐竹衆引{{r|退|の}}きけり。其手の{{r|持口|もちぐち}}、五島又兵衞腹を
たて、門を開いて打つて出づる。佐竹衆は二町計引退く。堤の影に隱れ居て鐵砲を打つ。又兵衞詰掛
け、頻︀に鐵砲を打かくれば、一町餘り{{r|其處|そこ}}を引き、又打合ひければ、又兵衞猶詰め寄せけり。佐竹之
を見て、敵は{{r|逃腹|にげばら}}を立てたると見えたり。あひしらひ敵を引出せと下知せらる。承ると申して{{r|弱々|よわ{{く}}}}と
引く氣色を見せければ、又兵衞{{r|耐|こら}}へ兼ねて、拔き連れて切つて懸る所に、佐竹衆の{{r|手立|てだて}}なれば、なほ
弱く引いて{{r|退|の}}く。爰に佐竹內膳といふもの、何の手立もなく、さのみ敵に{{r|後|うしろ}}を見すべきかと踏み{{r|留|とゞま}}り、
敵を待つ所に、城の內より秀賴の{{r|御乳母|おんめのと}}の{{r|子|こ}}木村長門守と名乘て驅け出で、暫しは槍にて內膳と仕合
ひけるが、寄れ組まんといふまゝに、引組んで兩馬が{{r|間|あひ}}にどうと落ち、木村は聞ゆる大力なれば、竟
に內膳を討ちにけり。其外の佐竹衆二十餘人討死す。城の內より又兵衞討たすな、木村討たすなと、お
ひおひに出でければ、千四五百計討つて出で、佐竹が前へ追懸くる。佐竹は{{r|案|あん}}の{{r|內|うち}}と思ひ、薙刀を{{r|提|ひつさ}}
げ、堤の蔭に忍び寄り、敵を待つ有樣は、虎が風に毛を振ひ、獅子が齒嚙みするも、斯くやと思ひ知
られたり。はや懸らんと思ふ所に、ならびの陣に控へたる堀尾山城守、橫入に懸合すれども、柵を隔
てたれば、勝負もなかりつるに、山城の者︀共柵のはづれを廻る。城の內の者︀懸け合せ、散々に切亂す。
{{r|天主|てんしゆ}}より秀賴{{r|御見物|ごけんぶつ}}なり。諸︀陣の者︀共堀越しなれば、押寄すべきやうはなし。皆見物してぞ居たりけ
る。いづれも{{r|晴︀|はれ}}ならずといふ事なし。互に一足も引かず組んで落ち、刺し違ふるもあり、首を取るも
あり、取らるゝもあり、何れも勝負は見えざる所に、景勝堀越しに押し寄せ、鐵砲嚴しく打懸けられ
{{仮題|頁=47}}
ければ、{{r|敵城|てきしろ}}の內へ引退き、山城ものは、元の陣へぞ引かれける。城の內の{{r|兵|つはもの}}矢野{{r|和泉|いづみ}}を先として、
三千餘人ぞ討死す。{{r|手負|ておひ}}は數を知らず。山城守の者︀、二十餘騎討たれけり。手負六百餘人と聞えける。
佐竹大きに腹をたて、使者︀を以て申けるは、城の內より敵を{{r|誑|たばか}}り出し、討たんと巧み候所に、{{r|橫合|よこあひ}}に
槍を入れられ、敵を追込まれ候事、軍法を御背き候かと存じ候。{{r|但|たゞ}}し{{r|若氣|わかげ}}にも候へば、{{r|一度|ひとたび}}は苦しか
らず、重ねて{{r|箇樣|かやう}}の御振舞御無用に候とぞ申ける。山城守返事には、仰せ尤も、御存じの如く我等若
氣に候へば、軍法をもしか{{ぐ}}と存ぜず候。但し{{r|目|め}}の{{r|前|まへ}}の敵にて候はゞ、いつとても{{r|耐|こら}}へ難︀く候。以
來とても麁忽なる儀は候べし、每度御許を蒙るべしと申されける。佐竹すべきやうはなし、賴み切つた
る{{r|家|いへ}}の{{r|子|こ}}{{r|郞等|らうどう}}討たせながら、敵は人の手柄になし、損の上の損をしたるといはれける。其の翌日山城
守、將軍の御前に參られければ、昨日の手柄の次第{{r|御|ぎよ}}感に預る。次の間に伺候する{{r|折節︀|をりふし}}、{{r|歷々|れき{{く}}}}坐せら
れたる所に、{{r|軍奉行|いくさぶぎやう}}の安藤次右衞門差出でて申されけるは、山城守昨日の{{r|仕合|しあはせ}}、手柄はさる事にて候
へども、佐竹手前にたばかり出したる敵を、{{r|橫入|よこいり}}にて軍法を御破り、狼藉に覺え候。佐竹さぞ本意な
く存ぜられ候はん。若氣に候へば、一應は苦しからず、重ねて麁忽なる事、{{r|御越度|おんをつど}}たるべしと、荒ら
かに申されければ、山城守{{r|莞爾|につこ}}と笑ひ申しけるは、仰の如く若氣に候へば、軍法をしか{{ぐ}}と存ぜず
候へども、さりながら昔より、源平{{r|兩家|りやうけ}}の合戰、元弘建武の{{r|軍|いくさ}}にも、目の前に進む敵を、是は誰の請
取りの敵なりとして、討たで返したる法や候。珍らしき事を承り候物かな、手近き敵にて候はゞ、い
つとても麁忽なる合戰は仕るべし、每度{{r|御|ご}}用捨に預るべしと、ごんひさわやかに申されければ、あつ
ばれ{{r|氣量|きりやう}}{{r|骨格|こつがら}}{{r|優|すぐ}}れたる山城守や、生年十七歲、{{r|老|おい}}の先さぞあるらんと、賞めぬ人こそなかりけれ。
又此頃、天下に{{r|數寄者︀|すきしや}}の{{r|和尙|をしやう}}と聞えし{{r|古田織部|ふるたおりべ}}、かゝる亂れの中にも、すきの友とてふりはへて、佐
竹陣に尋ねゆき、折節︀佐竹はしよりについて居られけるが、やがて{{r|竹束|たけたば}}の蔭へ這ひ入り、{{r|冑|かぶと}}を脫いで
{{r|積|つも}}る{{r|物語|ものがたり}}をし、{{r|居風呂|すゐふろ}}にて茶を飮みなどして居るに、織部{{r|後|うしろ}}をきつと見て、此竹束に、{{r|茶杓|さしやく}}になるべ
き竹やあるとて、{{r|打傾|うちかたぶ}}きて見けるに、きんかなる{{r|頭|つぶり}}、{{r|楯|たて}}の影よりさし出し、日影に輝き、きら{{く}}と
しけるを、城の內よりこれを見、鐵砲を以て之を打つ。鐵砲あやまたず、織部が{{r|頭|つぶり}}にはたと當る。古
田{{r|肝|きも}}を潰し、{{r|頭|あたま}}を抱へ手負ひたりといへば、前にありつる{{r|茶湯坊主|ちやのゆぼうず}}、{{r|茶巾|ちやきん}}{{r|絥紗物|ふくさもの}}を以て血を拭ふ。見
る人數寄者︀に似合ひ合うたる{{r|拭|ぬぐ}}ひ物やとぞ{{r|咡|さゝや}}きける。せめて此手を、我仕寄りにて{{r|負|お}}ひたらば、{{r|少|すこ}}し
の御感にも預るべきを、人の仕寄にて負はれし事、あたら{{r|疵|きず}}かなとぞ申しける。其の後{{r|我陣|わがぢん}}に歸り、
郞等共に申されけるは、武士の著︀べきものは{{r|冑|かぶと}}なり、今より後は{{r|數寄屋|すきや}}にても、冑を著︀べしといはれ
ける。爰に福︀島の近所に、{{r|博勞|ばくらう}}が{{r|淵|ふち}}といふ所あり。堀しげくして、敵{{r|左右|さう}}なく附き難︀き{{r|寨所|さいしよ}}なり。城
の內より{{r|薄田隼人助|すゝきたはやとのすけ}}、人數を出だして鐵砲を打たせ、あたりを拂つて居たりける。此の口の寄手石川
主殿助、家の子郞等共に向つて申しけるは、{{r|親兄弟|おやおとどい}}{{r|御勘氣|ごかいんき}}を蒙るといへども、我は他の家を繼ぎし故
に、御許されありて御供申すなり、然れば{{r|一際|ひときは}}忠節︀を{{r|抽|ぬき}}んで、御奉公を致すべしと思ふなり。志あら
{{仮題|頁=48}}
ん人々は、供を致して{{r|給|た}}べとぞ申しける。郞等共承り、御供申し美濃國を罷り立つ日より、{{r|一命|いちめい}}を奉
る上は、とかう申すに及ばずと申しければ、主殿助尤も滿足の至りなり、其儀ならば薄田{{r|籠|こも}}る{{r|博勞|ばくらう}}が
{{r|淵|ふち}}を、我等{{r|手勢|てぜい}}を以て攻め落し、薄田を討たばやと思ふは如何あるべきといふ。仔細に及ばず候、{{r|疾|と}}
く思召し立たれ候へと申す。さらば用意せよといふまゝに、{{r|犇々|ひし{{く}}}}と{{r|拵|こしら}}へ、夜の明くるを待つ。主殿助
明日は討死せんと思ふなりとて、家中の者︀共に{{r|最期|さいご}}の盃をさす。郞等共國へかたみを送るもあり、
或は親き友達は、互に暇を乞ひ乞はれ、之を最後と思へば、二世迄とぞ契りける。夜旣に{{r|明方|あけがた}}になりけ
れば、二千餘騎博勞が淵へ押寄する。城の內の者︀共弓鐵砲を揃へ、雨の降る如く打懸くる。されども
主殿助、思ひ切つたることなれば、薙刀をひつそばめ、{{r|眞先|まつさき}}に懸り、凍りたる堀に飛入れば、郞等共
我先に討死せんと、喚き叫んで攻入れば、城の內の者︀共、弓鐵砲を投げ捨て、槍薙刀を揃へ堀端へ討
つて出で、爰を{{r|先途|せんど}}と戰へども、石川が者︀共手負死人を乘越え{{く}}攻めければ、城の內の兵共、槍下
にて三十餘人討たれけり。殘る{{r|軍兵共|ぐんびやうども}}、城の{{r|外|そと}}より內へ楯籠り、爰を支へんとしける所に、蜂須賀阿
波守、淺野但馬守の者︀共、{{r|後|うしろ}}へ𢌞せば、城の內の者︀、叶はじとや思ひけん、{{r|船場|せんば}}を指して引いて往く。
折節︀薄田、大阪にありけるが、此由を聞き、{{r|船場表|せんばおもて}}へ驅け出づる。石川なほ薄田を討たんとて、{{r|喚|をめ}}い
て懸れば、薄田叶はじとや思ひけん、船場へ逃籠りける。森豐前へ使者︀を立て、{{r|後詰|うしろづめ}}をなされ候へ、
一合戰仕らんといふ。豊前守の返しには、{{r|先|さき}}をせよならば參り候べし。{{r|後詰|うしろづめ}}ならば仕るまじきといは
れけり。薄田すべきやうはなし、郞等共を討たせながらすご{{く}}と大阪へ引退く。いかなるものかし
たりけん、一首の狂歌を立てにけり。
博勞が淵にも身をば投げよかしすゝきたなくも逃げてこんより
いらぬ所に人數を出し、打殺︀され{{r|身方|みかた}}の弱りをしたりと、口々に申せば、隼人助{{r|面目|めんぼく}}なうぞ見えにけ
る。かかりける所に、大野修理、五島又兵衞に申しけるは、穢多が城博勞が淵二箇所を、敵に取られ
ぬるこそ無念なれ。今のやうにては、船場町をも破らるべし。敵に利を付け何かせん、{{r|自燒|じやき}}をせんと
存ずるはいかにと申す。又兵衞尤も然るべきといへば、其夜船場へ火を懸けて、雲井遙に燒き上ぐる。
蜂須賀阿波守之を見て、はや船場{{r|自燒|じやき}}するは、付入りせよ者︀共と下知せらる。承ると申して、弓槍道
具押つ取り{{く}}駈附くる。されども敵は皆城の內へ引いて入り、僅に殘る者︀共を二十餘人討取つて、
元の陣に引きにける。松平陸奧守政宗、我等人數を持ちながら、一手柄せぬ事、無念なる次第なり。
城の{{r|外側|そとがは}}打破らんと思ふとて、物に{{r|慣|な}}れたる侍六七騎相具し、{{r|攻口|せめぐち}}{{r|見|み}}に出づる所に、城間近く打寄す
れば、城の內より知らぬふりにて居たりけり。政宗{{r|鞍|くら}}かさに立上り、大音上げて申しけるは、何とて
內の{{r|奴原|やつばら}}は、鐵砲を打たぬぞ、{{r|玉藥|たまぐすり}}が盡きたるか、無くば取らせんとぞ申しける。其時內より鐵砲二
つ打出す。矢筋遙に高かりければ、政宗から{{く}}と打笑ひ、かけ鳥などこそ、左樣に空へ向つて打つ
物なれ。目の下なる敵をば、{{r|手元|てもと}}を上げ{{r|筒先|つゝさき}}を下げて打てとぞいはれける。其言葉も終らざるに、十
{{仮題|頁=49}}
挺計つるべて打ちたりける。されども政宗には當らず、{{r|後陣|ごぢん}}に控へたる{{r|老武者︀|らうむしや}}の右の頰先より、左の
耳の根に打出だされ、馬より倒にどうと落つ。政宗いはれけるは、おのれらが鐵砲は器︀用なり、只今
敎へつるにはや{{r|上|あが}}りたり。稽古にじんべんありといひて、さらぬふりにて遁れけり。之を見る人々あ
ら{{r|不思案|ぶしあん}}の政宗や、只今の鐵砲が、一つの目に當るならば、大事のこぐち{{r|前|まへ}}に、{{r|眼|まなこ}}に事をかゝれん物
をとて笑ひける。爰に天王寺の鳥居に、一首の歌を書き付けゝる。
{{r|東武者︀|あづまむしや}}{{r|破|やぶ}}れ{{r|車|ぐるま}}の如くにて引くも引かれず乘るも乘られず
とぞ書きたりける。{{r|先手衆|さきてしう}}之を聞き、{{r|童共|わらんべども}}の嘲けるこそ無念なれ、急ぎ總攻めをせんと進みける。其
頃眞田左衞門督が楯籠る{{r|寨|とりで}}の前に、笹山といふ山あり。其の陰に城より鐵砲を出して、常に打たせけ
り。松平筑前守先手の本多安房守之を見て、あの笹山に籠りたる者︀共を、打取らんといふ儘に{{r|犇々|ひし{{く}}}}と
こしらへ、夜の內に押寄せ、笹山を押つ取り卷き、鬨をどつと作る。されども敵には音もせず。不審
に思ひ、人を入れ見せければ、敵は城の內へ引籠る。爰には一人もなし。寄手も興さめ顏して引かん
とする所に、眞田が、城のやぎりに立上り、{{r|方々|かた{{く}}}}は笹山に{{r|勢子|せこ}}を入れ、雉狩をし給ふか。日頃は雉あ
りつれども、此程の鐵砲に所をかへ候。{{r|御徒然|おんつれ{{ぐ}}}}にも候はゞ、此城へ懸からせ給へ、{{r|軍|いくさ}}して遊ばんとぞ申
しける。安房守尤其存じにて候とて、{{r|麾|ざい}}を振り眞先に懸かられける。之を見て誰か引くべきとて、我
先にと押寄せけり。鳥井堀柵を乘越え{{く}}、土堤に走り上り、其夜の事なるに、越前の少將の{{r|先手|さきて}}、
城の內へ內通の仔細ありけん、是も人知れず拵へ、{{r|曙|あけぼの}}に押寄せ、堀へ飛入り{{く}}懸りける。其後年の
程十四五と見えたるが、緋縅の鎧に、同じ毛の{{r|冑|かぶと}}に、{{r|猩々緋|しやう{{ぐ}}ひ}}の羽︀織にて、眞先懸けてかゝる。{{r|後見|こうけん}}の武
士と見えけるが、鎧の袖に{{r|縋|すが}}りつき、いかなる事にかとて引留むる。若武者︀立歸り、後見も事による、
軍の先懸する者︀を、留むる法やある。{{r|其處|そこ}}離せといへども、猶取附きて居たりける。腰の刀をひんぬ
いて、{{r|冑|かぶと}}の{{r|眞向|まつかう}}を二つこそ打たれければ、力及ばず離しけり。堀底へ飛び入り給へども、柵を越すべ
きやうなくておはしけるを、{{r|側|そば}}なる若者︀共{{r|刀|かなた}}を拔き、柵の木を切落し、押明けてぞ通しける。松平筑
前守と越前の少將兩陣の間に、井伊の{{r|掃部助|かもんのすけ}}陣取り居たりける。左右の者︀共大勢城に懸るは、{{r|出拔|だしぬ}}き
するぞ者︀共、はや懸れと下知せらる。承ると申して、我先にと押寄せ、堀に飛入り{{く}}、堀底なる柵
を乘越し塀にひた{{く}}と打乘り、此口の一番乘井伊の掃部助と名乘るを、內より槍薙刀を揃へ突︀き落し
突︀き落し防ぎけり。十二月三日の夜半より押寄せ、四日の曙に乘り敗りける。{{r|身方|みかた}}二百餘騎討たれけれ
ども、後陣も續かず、城の內に手合せするものなく時を移す。筑前守の內に山崎{{r|閑齋|かんさい}}といふ{{r|法師武者︀|ほうしむしや}}
安房守に申しけるは、後陣も續かぬに、斯くて時刻移すならば、味方に{{r|手負|ておひ}}{{r|死人|しにん}}{{r|出|い}}で來候べし、先づ
引かせ給へと申す。安房守も斯く存ずる、さらば先づ閑齋{{r|退|の}}かせ給へといふ。閑齋は先づ{{r|退|の}}かせ給へ
と、互に{{r|時|とき}}{{r|移|うつ}}せば、閑齋申しけるは、法師の役に、先に參るとて{{r|退|の}}きければ、安房守も遁れけり。之
を見て、井伊の掃部越前衆も引きける所に、始め先懸けしたる若武者︀、{{r|後|あと}}に{{r|下|さが}}りて引きければ、城の
{{仮題|頁=50}}
內より之を見て、あつぱれ剛の者︀かな、あの若武者︀打つなと、口々に申しける。餘りいたいけさに、城
の內より扇を開き、只今{{r|後|あと}}に引かせ給ふは、よしある{{r|人體|じんたい}}と見え申候、{{r|穢|きたな}}くも引かせ給ふ物かな、返
させ給へと詞を懸くる。若武者︀返し難︀き事かとて、刀を打振り五六段計走り歸る。其の時味方の人々
鎧の袖に縋り付き、引留めて歸りける。味方も之を見て、あつぱれ武士や、えいゆうけつほどの勇士
とも、かゝる人をや申すべきと、一同にどつと賞めにけり。之を{{r|誰|た}}そと尋ぬるに、越前の少將の御弟
に松平出羽︀守と申して、生年十五にならせ給ふ。{{r|類︀|たぐひ}}少なき事どもなり。
斯かりしかば御兩殿も御馬を寄せられ、大御所はかつ山、將軍は岡山に{{r|御陣|ごぢん}}を据ゑられければ、左備
へ、右備へ、御馬{{r|廻|まは}}り、{{r|後備|あとぞな}}へ、本陣の中にして、二里三里四方に打圍み、道より外は{{r|空地|あきち}}なし。此
折しも、天神︀地祇も御納受ありけるにや、冬立つ空の習ひとて、降りみ降らずみ定めなき、しぐるゝ
雲の晴︀れ初めて、御出陣より{{r|此方|このかた}}は、照らす日影も暖なれば、寒風も身に{{r|染|し}}まず、四國九國の船共が
自由なれば、諸︀軍勢の賑ひも愈關東の御威光とぞ見えにける。爰に又大阪と中島の間に、川深くして
{{r|懸引|かけひき}}たやすからねば、毛利長門守、福︀島備後守、{{r|川上|かはかみ}}を{{r|堰|せ}}き{{r|止|と}}めよとの御諚なり。うけ給はると申し
て、{{r|長柄|ながら}}の{{r|邊|へん}}に{{r|亂杭|らんぐひ}}を打ち大竹を{{r|拉|ひし}}ぎ{{r|水柵|しがらみ}}にして、{{r|土俵|つちだはら}}を並べ、大{{r|石|せき}}大{{r|木|ぼく}}を取り掛け、廣さ十四五間
に{{r|築|つ}}きければ、漲り落つる淀川も、北へ向ひて流れ行く。堤より{{r|下|した}}は河原となりにけり。さてこそ
{{r|寄手|よせて}}も自由なり。爰に{{r|天王寺口|てんわうじぐち}}にて、城の內より申しけるは、大御所御馬を向けられ候に付いて、{{r|花々|はな{{ぐ}}}}
しき軍を、見物申すべしとぞ呼ばはりける。藤堂和泉守の陣より申しけるは、然るべき用意かな、{{r|己|おのれ}}
等がやうなる浪人共、{{r|金銀|きん{{ぐ}}}}に目をかけて籠るといふとも、{{r|金|かね}}を取るならば命は惜しかるべし。{{r|軍|いくさ}}は比
丘尼にも劣るべし。命が惜しくば逃げ道を拵へて、はや{{く}}落ちよ浪人共、{{r|廣言|くわうげん}}は許すなりとぞ申し
ける。內より申しけるは、天下の{{r|弓矢|ゆみや}}に{{r|雜言|ざふごん}}は{{r|無益|むやく}}なり。忠臣{{r|二君|じくん}}に仕へずといふ{{r|本文|ほんもん}}を知り給ひた
るか。我等が浪人は、別に主を賴むまじきが爲に、浪人をして時節︀を待ちしなり。{{r|御邊達|ごへんたち}}の{{r|主|しゆ}}和泉守
のやうなる、{{r|內股膏藥|うちまたかうやく}}の{{r|間合|まにあひ}}こそ、{{r|本々|ほん{{ぐ}}}}の武士はなるまじけれ。命が惜しくば城へ入れ、助けんとぞ
申しける。和泉守の者︀、言葉やなかりけん、鐵砲を以て續け打ちに打ちければ、內よりどつと笑ひけ
り。其頃松平左衞門督の仕寄り、{{r|鐵|くろがね}}の楯四五丁をたて、町口の橋の上迄寄せければ、城の內よりは
らかんを、二丁列べて放しければ、打倒され、引起さんとすれどもかなはねば{{r|詮方|せんかた}}なく楯を棄て、
{{r|竹束|たけたば}}の蔭に引退く。城の內より申しけるは、鐵の楯など棄て給ふぞ。取らせ給はぬものならば、永き御
ひけにて候べしと申しける。左衞門督の內に、河田太郞左衞門といふ大力あり。竹束の蔭にありける
が、常々名を得たるは、此時の用にて候とて、眞黑によろひ、橋の上に躍り出でたるは、たゞ辨慶も
かくやらん。鐵の楯四五丁打重ね、三十人が動かすとも、たやすくならぬ此の楯を、やす{{く}}と打{{r|擔|かづ}}
き、城の內を{{r|睨|にら}}み、河田太郞左衞門と申すものなり。楯取りて歸るを御覽ぜよといひ棄てゝ、しづし
づと立歸る。城より大鐵砲を打ちけるが、河田があげまき{{r|外|はづ}}れより、ちの上に打通す。もの{{く}}しや
{{仮題|頁=51}}
といふまゝに、扨又楯を取りて歸りける。見る人聽く人每に、あつぱれ大力の{{r|剛|がう}}の者︀かなと、賞めぬ
ものこそなかりけれ。扨又十二月三日の夜の事なるに、蜂須賀阿波守、{{r|小松口|こまつぐち}}に竹束を付け、{{r|堀際|ほりぎは}}に
仕寄せける。城の內より{{r|屈强|くつきやう}}の兵計、竊に橋を渡し、遙々と忍び出で、{{r|後|うしろ}}より竹束裏に押寄せ、{{r|散々|さん{{ぐ}}}}
に切つて廻る。阿波守の者︀共、思ひ寄らぬ事なれば、拔き合せて切り亂す。{{r|鎬|しのぎ}}を削り{{r|鍔|つば}}を割り、{{r|切先|きつさき}}
よりも出づる火は、秋の田の面の{{r|電|いなづま}}の、光り合ふより猶繁︀し。斯かりしかば阿波守の陣より、我も我
もと駈け附くる。內の者︀共叶はじとや思ひけん、橋の上に引退く。阿波守のおとなに、中村右近といふ
もの、薙刀を打振り、橋の{{r|詰|つめ}}まで{{r|追懸|おつか}}くる。城の內の兵一人取つて返して、しばし戰ひ、右近を突︀き
倒し、首を取らんとしける所に、{{r|稻田|いなだ}}九郞兵衞とて十五になりけるが、橋の上にて{{r|兩臑|もろずね}}を{{r|薙|な}}ぎ落し、
倒るゝ所を飛び懸り、{{r|頓|やが}}て首を取りたりける。首を敵に取らせず、剩へ敵を打取り、{{r|比類︀|ひるゐ}}なき手柄な
りと、大御所より御感狀を頂戴し、九郞兵衞名譽をしたるものかな。阿波守の者︀共二十餘人討死す。
城の內の者︀共を十餘人ぞ打留めける。爰に藤堂和泉、井伊の掃部、仕寄りの影より、{{r|金堀|かねほり}}を入れて掘ら
せられ、二間四方掘り入れ、一尺四方の柱をたて、厚さ五寸の板を天井の左右に打附け、堀底を通り、
はや城の內へ掘入れ、又{{r|此處彼處|こゝかしこ}}に{{r|築山|つきやま}}を高く{{r|築|つ}}き、城の內を{{r|見下|みおろ}}し、はらかん大鐵砲をぞ打たせけ
る。旣に四方の{{r|寄手|よせて}}、{{r|堀際|ほりぎは}}に仕寄り鐵砲を放す。內よりもはらかん{{r|石火矢|いしびや}}大鐵砲、爰を{{r|先途|せんど}}と放しけ
る。{{r|鬨|とき}}の聲は、千萬億の{{r|雷|いかづち}}を一所に集めたらんも、是にはいかで勝るべき。上は{{r|梵天|ぼんてん}}四王、下は龍神︀
八りう、{{r|堅牢|けんらう}}地神︀、みやうくわんみやうしう、{{r|肝|きも}}を潰し給ふらんと覺えける。鐵砲{{r|虛空|こくう}}に滿ち{{く}}て
津の國{{r|河中島|かはなかじま}}、時ならぬ{{r|霧霞|きりかすみ}}の{{r|立籠|たちこ}}めたるに異らず。山より出づる日の影は、おほへる如くにて、馬
の毛も{{r|定|さだ}}かならず。かくて寄手の、近日大乘りあるべきと御觸れあり、{{r|登階|のぼりはし}}{{r|熊手|くまで}}なんどを用意して、
勇みあへる事{{r|斜|なのめ}}ならず。其時秀賴の御ふくろ、{{r|天主|てんしゆ}}に{{r|上|あが}}らせ給ひて、四方の寄手を御覽ずれば、はや
堀際にぞ寄せける。{{r|幟馬標|のぼりむまじるし}}を{{r|立並|たてなら}}べ、花やかなる若武者︀共、幾千萬といふ計なく、{{r|竹束裏|たけたばうら}}に{{r|並|な}}み居
たり。御ふくろ肝を消し給ひて、{{r|有樂|うらく}}大野修理を召され、あれ{{く}}見給へや、敵ははや堀際に寄せた
り。定めて{{r|頓|やが}}て{{r|外側|とがは}}を破り候べし。然れば皆討死たるべし。其跡に誰ありて秀賴を守護すべき。まさ
なの世の中やと、御淚に{{r|咽|むせ}}ばせ給へば、御{{r|前|まへ}}の女房達、{{r|實|げ}}に{{r|理|ことわり}}やうたてやと、{{r|咽|む}}せ返りてぞ泣かれけ
る。御ふくろ初めの程の仰せには、我は信長の{{r|姪|めひ}}淺井が娘なり、いづれも武將の譽れなりと、誰かは
知らざらん。我は女なりとも、所存は男に劣るまじ。{{r|自然|しぜん}}の時は具足冑を著︀て、一方の大將にもなる
べし。{{r|方々|かた{{く}}}}も{{r|此度|このたび}}の事なれば、{{r|手柄|てがら}}を顯し、名を後代に留めよと、誠に由々しくの給ひけるが、女心
の淺ましさは、目に餘る敵を御覽じて、秀賴の御身の上思召し煩はせ給ひ、あやめも分かぬ御有樣に
て、ひたすらに御心弱り給ふにぞ、たかきもいやしきも子を思ふ道に迷ふとは、思ひ知られて哀なり。
是や此和歌の{{r|褒貶|はうへん}}に、{{r|小町|こまち}}が歌を{{r|難︀|なん}}じて、哀なるやうにて强からず、强からぬは、をうなの歌なれば
なりと、{{r|古今|こきん}}の序に{{r|貫之|つらゆき}}が書き置きしも、{{r|品|しな}}こそ變れ、心は等しかるべし。{{nop}}
{{仮題|頁=52}}
大野修理、御ふくろへ參り申しけるは、日本國を敵に請けさせ給ふなれば、大勢の寄せ來らん事は、
兼てより思ひ設けたる事にて、今更驚かせ給ふべきにあらず。味方には能き者︀六七萬も候べし。{{r|兵粮|ひやうらう}}
{{r|玉藥|たまぐすり}}丈夫に候へば、斯かる名城が落つべき仔細候はず。まづ二三が年も籠城なされ候はゞ、敵と申な
がら、{{r|餘所|よそ}}ならぬ御中なれば、竟には御和睦候べし。御心强く思召し候へと申上げける。御ふくろも、
{{r|實|げ}}にそれはさもあるべし。さりながら如何にもして、秀賴の御身さへ恙なく渡らせ給はゞ、たとへ
{{r|茅屋|かやゝ}}の軒端に月を見てもありなんと、なほしをれさせ給ひて、其後天主より下りさせ給ひて、常の御殿
に入らせ給ふ。折節︀{{r|稻富|いなとみ}}喜大夫といふ者︀、はらかんを城の御殿に向つて打ち懸け、ちやうを{{r|積|つも}}つて放
す。御殿の壁を貫き、女房達の首の骨を打ちける。之を見る上﨟衆、おはした共{{r|肝|きも}}を消し、あわてさわ
ぐも{{r|理|ことわり}}なり。御ふくろは是につけても、秀賴の御事を歎き給ふ。大野修理秀賴の御前に參り、御ふく
ろの歎きの通を申上げければ、秀賴から{{く}}と打笑ひ給ひ、女は{{r|果敢|はか}}なき者︀なればさもあるべし。敵
{{r|總攻|そうぜめ}}せんならば、我も{{r|外側|とがは}}へうつて出で、花やかなる合戰し、名を後代に殘すべし。軍のならひ必ず
{{r|勢|せい}}の多少にはよらぬ物と聽くぞ。是に志ありて楯籠る者︀は、定めて義を重くせば、同じ心にてぞある
らん。主とよしみを同じうするときんば、ならずといふ事なしとこそ{{r|兵書|ひやうしよ}}にも見えたれ、衆を近きに
{{r|帥|そつ}}すべしと、喜ばせ給ふ。修理うけ給り、御諚尤にて候とて、御前を罷り立ち、急ぎ{{r|組頭|くみがしら}}を集めて、
秀賴の御諚御ふくろの仰せをいひ渡し、此儀いかゞあるべきと{{r|評定|ひやうぢやう}}す。中にも五島又兵衞申しけるは、
秀賴の御諚、{{r|類︀|たぐひ}}なき御心中と感淚を流し奉り、此仰せをうけ給り、誰れやの者︀か臆し候べき。さりな
がら大勢{{r|外側|とがは}}へ懸り候はゞ、定めて破り候べし。其時{{r|歷々|れき{{く}}}}皆討死仕るべし。其道の御手立、おろかあ
るまじく候へども、おぼつかなく候へば、各御思案候て、たゞ兎角秀賴の御身、恙く渡らせ給はん御
{{r|才覺|さいかく}}尤に候。若し{{r|和睦|わぼく}}に罷りなり{{r|扱|あつか}}ひも候はゞ、是に伺候仕る侍共、皆首を刎ねられん事、思ひ設け
て候。いづれの道に御用に立つも同じ事に候へども、罷り出で尋常に腹を仕るべし。今度參り集まる
者︀共に對し、御氣遣はいらざる御事と申ければ、各此儀に同じける。其頃將軍より、大御所へ仰せ
られけるは、諸︀軍勢皆堀際まで仕寄り候へば、二三日の內に總攻申つくべしと御申ありければ、大御
所の御諚には、總攻の事、まづ{{く}}待たせ給ふべし。此城たとひ{{r|外側|とがは}}を取りたりとも、二三の丸を落
し難︀し。其故は、{{r|一歲|ひとゝせ}}六條の{{r|上人|しやうにん}}楯籠られけるを、信長數萬の{{r|勢|せい}}を以て、三年攻められけれども、竟
に落ちず、扱ひになりて遁れけり。其後太閤多年こしらへ、今又大勢たて籠れば、平攻めには利を得
難︀し。敵に依つて{{r|轉化|てんくわ}}すといふ事あり。{{r|斯樣|かやう}}の城を手立を變へて落す物なり。唯我に任せて暫し待ち
給へとの御諚なれば、將軍力及ばで、總攻を延べらるゝ。其後大御所、本多{{r|上野|かうづけ}}を召され、城の樣、さ
すがに秀賴は若し。御ふくろは{{r|女儀|によぎ}}なり。家中は皆小身の者︀、又{{r|新參|しんざん}}の集りものなれば、今はや心
{{r|區區|まちまち}}なり、手難︀き事はあらじ。扱ひを入れて見よとの御諚なり。うけ給はると申して、{{r|京極若狹|きやうごくわかさ}}守弟城
へ入り、大御所の仰せらるゝは、秀賴一{{r|旦|たん}}の御{{r|腹立|ふくりふ}}により、關東より御馬を向けらるゝ、近日總攻め
{{仮題|頁=53}}
あるべし。落ちんずる事治定なり。{{r|夫|それ}}に付けて、秀賴{{r|餘所|よそ}}ならぬ御中なれば、御痛はしく思召さるゝ
なり。秀賴御やはらぎの旨あらば、扱ひ申されよといひければ、若狹守やがて御內證の通りを、城の
內へ申入る。內より扱ひにもせばやと思ひ給へる折なれば、わたりに舟と喜び、頓て御扱ひと聞えしが、
十二月二十一日の夜半より、互の鐵砲を停めらるゝ。翌二十二日より、竹束、幟馬印を取置く。敵
も味方もこは如何なる事ぞと、唯夢の覺めたる心地しける。されども城の內の門は未だ開かねば、
{{r|內外|うちそと}}の者︀共、皆堀端に立出で、或は親子、兄弟、舊交、{{r|緣|ゆかり}}の者︀共、手をあげ扇をあげ、互に{{r|今日|けふ}}の{{r|命|いのち}}を
助かり、再び逢うたる嬉しやと喜ぶ事、{{r|王質|わうしつ}}が七世の孫に會ひぬるも、斯くやと思ふ計なり。同二十
三日よりは、{{r|內外|うちそと}}より人夫を出し、城の{{r|櫓塀|やぐらへい}}を打{{r|毀|こぼ}}ち、石垣崩し堀を{{r|埋|む}}め、三の丸迄は平地になりに
けり。慶長年中に干戈起る事旣に兩度なり。然れども關東御武勇に依つて、或時は一戰の{{r|下|もと}}に大敵を
滅し、忽ち天下を保ち、或時は、{{r|籌|はかりごと}}を帷幄の內に運らし、{{r|暫時|ざんじ}}の間に城廓を破り、卽ち國を治め給ふ。
文武二道の名將、上古にも{{r|例|ためし}}なし。末代にもあり難︀し。爰に本多佐渡守といふ人、七十にして{{r|則|のり}}を超え
ず、智略の深き事、陶朱公も恥ぢぬべし。君といひ臣といひ、漢︀家にも本朝にも類︀なき事どもなり。
頓て大御所は、十二月二十五日より江戶へ御下向ありける。將軍は未だ{{r|岡山|をかやま}}に御逗留にて、大阪の御
{{r|仕置|しおき}}仰付けらるゝ。斯かりしかば、{{r|騷|さわ}}がしかりし年も暮れ、慶長二十年にぞなりにける。新玉の年立
歸れば、名におふ{{r|浪花|なには}}の梅︀も、今を盛りと花咲きて、{{r|匂|にほひ}}は{{r|四方|よも}}に{{r|遍|あまね}}く、君が代のためしに植ゑし住吉
の松も、{{r|今年|ことし}}より猶{{r|萬歲|ばんぜい}}を呼ぶ聲、いよ{{く}}天下泰平國土安穩、めでたき事にぞなりにける。
{{仮題|ここまで=大阪物語/上巻}}
{{仮題|ここから=大阪物語/下巻}}
{{仮題|頁=54}}
{{仮題|投錨=下卷|見出=中|節=o-2|副題=|錨}}
こゝろざし合ふ時は{{r|吳越|ごゑつ}}も地を隔てず、況や誰かは知り奉らん、秀賴公の{{r|御母堂|ごぼだう}}と大守の{{r|御臺所|みだいどころ}}は、
御{{r|姉妹|きやうだい}}なる上に、太閤{{r|相國|しやうごく}}、秀賴の御{{r|行方|ゆくへ}}を{{r|訝|いぶか}}しく思召し、大御所を御賴みありし上は、兩御所も
{{r|一入|ひとしほ}}御いとほしみ深うして、去年天下の亂に及びしをも、御{{r|宥免︀|いうめん}}ありて、大御所は正月三日に{{r|帝都︀|ていと}}を御
立ありて、駿府へ御下りなされ、大守秀忠公は、同二十九日に{{r|花洛|くわらく}}を出で、武州江戶へ御歸りありし
かば、東國、北國、南海︀、西海︀の大名小名、皆{{r|萬歲|ばんぜい}}を歌ひて我國々へ歸る。京堺の者︀共も、隱し置け
る財寶共を運び返して、茶の會酒宴などして遊興を催すところに、其頃大阪より{{r|大藏卿局|おほくらきやうのつぼね}}、二位局、
中原{{r|正榮|しやうえい}}、靑木民部丞を御使として、駿府江戶へ遣さる。是は去年の大亂大水に、{{r|攝津國|つのくに}}河內の百姓
共、悉く退散して、兵糧に{{r|宛行|あておこな}}はるべき{{r|知行|ちぎやう}}所これなき間、仰せ付けられ候やうにとの御使とぞ聞え
し。其{{r|序|ついで}}を以て、兩御所の御諚には、旣に去年{{r|和睦|くわぼく}}の儀相定め、{{r|還御|くわんぎよ}}のある上は、諸︀浪人をも{{r|御扶持|ごふち}}
離され、{{r|穩便|をんびん}}の沙汰をこそ專らにせらるべき所に、まづ{{く}}浪人を扶持し給ふ由{{r|聞食|きこしめ}}す其{{r|謂|いはれ}}何ぞ。次
に去年和睦の時も仰出さるゝ如く、大阪を明け渡さるゝに於ては、大和の國を參らすべきなり。秀賴若
うして其{{r|分別|ふんべつ}}足らずといふとも、太閤よしみある侍共秀賴を取立てんと思ひ顏にて、{{r|逆心|ぎやくしん}}をも起さば
天下の亂止むまじ。然れば大阪はこてきの{{r|住家|すみか}}と、{{r|訝|いぶか}}しく思召しての御諚とぞ聞えし。然れども秀賴
も御母堂も、御{{r|合點|がつてん}}なき上、浪人共兎角死ぬべき命を、一人づつ所々にて切られんより、思ふ儘の
{{r|太刀打|たちうち}}して、名を後代に殘さんと、思ひ切つたることなれば、縱ひ秀賴公は大和國へ御移り候とも、浪
人どもは大阪に留りて、討死すべしとぞ怒りける。大野修理を始として七組の者︀共、少し物に心得た
る老兵などは、今の世に兩御所を傾け申さん事は、{{r|螳螂|たうらう}}が斧をいからかして、龍車に向ひ、ちゝうが
あみにあひをなすに似たり。武勇といひ智謀といひ、{{r|天竺|てんぢく}}{{r|震旦|しんたん}}は知らず、日本{{r|蜻蛉洲|あきつす}}の內には、兩御
所に肩を{{r|列|なら}}ぶべき人やあると{{r|咡|つぶや}}きけれども、浪人共の{{r|惡意見|あくいけん}}に附かせ給ひけるは、秀賴の御運の末と
ぞ悲しみける。さる程に大阪と關東の{{r|御間|おんあひだ}}切れ離れ、旣に合戰に及ばんとす。まづ大阪より京都︀へ多
勢を差し向けられ、堂塔伽藍に至るまで、一{{r|宇|う}}も殘さず燒き拂はるべしといふ沙汰する程こそありけ
れ、京中の者︀共、去年預け置きし財寶を、やう{{く}}運び返しけるを、又愛宕鞍馬の方へ、馬車を以て
運び返す事、道もさりあへず。如何なる者︀の申しけるやらん、たとひ京中を燒かるゝとも、禁中は苦
しからじとて、{{r|內裏院|だいりゐん}}の{{r|御所|ごしよ}}、{{r|女院|によゐん}}、宮々の御所の庭には、{{r|寸地|すんぢ}}を餘さず、京中の者︀共{{r|假屋|かりや}}を打つて
{{r|妻子|さいし}}共をぞ住ませける。此由時日を移さず飛脚を以て、板倉伊賀守、駿府へ注進申されければ、京の
者︀共が、今に始めぬ臆病さに、左樣には騷ぐらん。伏見には{{r|番衆|ばんしう}}固く仰せ付けられ、京には板倉伊賀
守斯くてありければ、たとひ大阪より寄せたりとも、一防ぎは防がんものを、然れども帝都︀守護のた
めに、松平下總守、本多美濃守、井伊掃部助急ぎ罷り上り、淀鳥羽︀に陣取つて、帝都︀を守護し申すべ
{{仮題|頁=55}}
き由仰せ出ださる。源家康公は四月四日に駿府を御立ちあつて、同十八日に{{r|花洛|くわらく}}に著︀き給ふ。大守秀
忠公は、同十日に江戶を御立ちあり、同二十一日に伏見に御著︀きなさる。然れば京中の者︀共{{r|安堵|あんど}}して
今は何事かあるべきと、{{r|大內山|おほうちやま}}のあんに置く、國々の諸︀大名、本國に歸りて後、いまだ五日になる
者︀もあり、十日に足らぬ人もあり。去年よりの{{r|旅寢|たびね}}の程のうつゝなさも、夢なりけりと語りも盡くさ
ぬ{{r|妹脊|いもせ}}の中を、また引き別れ上るこそ、さらぬ別れに劣らず悲しけれ。大御所將軍、前後に京著︀する
人々には、尾張の宰相、駿府の中將、北國には越前の少將、加賀の松平筑前守{{r|利光|としみつ}}、越後の少將、
京極若狹、同丹後守、山形出羽︀守、秋田に佐竹{{r|義宣|よしのぶ}}、奧州に松平陸奧守政宗、米澤の中納言景勝、中
國衆には、松平武藏守、同宮內少輔、同備後守、堀尾山城、羽︀柴右近、四國には蜂須賀阿波守、{{r|生駒|いこま}}
讃岐、松平式部少輔、紀州に淺野但馬守、和泉に小出大和守、丹波には有馬玄蕃頭、松平周防守、岡
部內膳、其番々の{{r|輩|ともがら}}{{r|記|しる}}すに及ばず。此外黑田筑前守、加藤左馬助、松平{{r|長門|ながと}}、寺澤志摩などは、去年
{{r|在江戶|ざいえど}}したりけるが、此度は御所將軍の御供して上りけり。羽︀柴越中守{{r|忠興|たゞおき}}も、將軍御{{r|入洛|じゆらく}}の後上洛
す。軍勢京伏見在鄕に{{r|𨻶間|すきま}}もなく居たりけれども、{{r|御法度|ごはつと}}固く仰せ付けられける間、いさゝかの狼藉
もなかりけり。兩御所京都︀に御著︀きの後も、御使を以て、大阪を明け渡され、大和へわたましあるべ
し。諸︀浪人共も、命をば助け置くべき由、度々仰せ遣されけれども、秀賴公御承引なし。今は御母堂
もしをれさせ給ひて、命さへ恙くておはしまさば、縱ひ{{r|蝦夷|えぞ}}が島にても、兩御所の仰せの儘に、從ひ
給へとありけれども、秀賴{{r|聞食|きこしめ}}し入れられず、{{r|剩|あまつさ}}へ大和の法隆︀寺は、聖德太子{{r|佛舍利|ぶつしやり}}{{r|安置|あんち}}の{{r|伽藍|がらん}}にて、
星霜久しく{{r|退轉|たいてん}}なき所なるを、大くの大和が在所なりとて、多勢を遣はし燒き拂ひ、{{r|男女|なんによ}}、僧︀俗、老
少をいはず、殘さず切棄てらるゝ。是は去年秀賴公、御{{r|謀叛|むほん}}を起させ給ひたる始め、秀賴公の御事{{r|支|さゝ}}
へ申したるよし聞食し、其御鬱憤ゆゑなり。淺野但馬守、和泉國しだちといふ所まで出城して居たり
けるを、大野主馬、同{{r|道犬|だうけん}}、行き向ひて蹴散らせと、秀賴仰付けられければ、二萬餘騎引き{{r|率|そつ}}して、
しだち表へ發向す。大阪勢の{{r|旗頭|はたがしら}}を見るとひとしく、但馬守先陣に淺野左衞門佐、上田{{r|主水|もんど}}の入道
{{r|宗箇|そうこ}}、手勢三百餘騎を前後左右に進ませ、少しもぎゝせず打立つれば、大野主馬が日頃武者︀大將と、賴
み切つたる{{r|伴|ばんの}}團右衞門を、宗箇討取りければ、大阪勢これに{{r|氣色|きしよく}}を失ひ、{{r|立脚|たてあし}}もなく引きければ、逐
ひ附け逐ひ附け、首を取る事數を知らず。其內に{{r|宗徒|むねと}}の兵の首三十餘人但馬守討取り、卽ち兩御所へ上
げられければ、物始めよしと御感斜めならず。扨て又和泉の堺の{{r|津|つ}}は、八百年以後少しも斷絕せず、
福︀祐︀の地にして、{{r|倉廩|さうりん}}を構へ、財寶蓄へ積める所により、無緣の僧︀、{{r|寺堂|てらだう}}を{{r|建立|こんりふ}}して、地狹き內に八
宗九宗あまた集り居たる所を、秀賴、大野道犬に仰せ付けられて、故なく燒拂はれけるこそあさましけ
れ。{{r|九鬼長門|くきながと}}、向井將監、{{r|小濱|をばは}}久太郞、關東の船奉行なれば、舟にて堺浦へ打廻る。中にも將監鐵砲
を打懸けゝれば、道犬が郞等共あまた討取り、其日秀賴天王寺へ御出なされて、是へ關東勢寄せ來ら
ば、いづくか防ぎて然るべからんと御覽ありて、計らはれん爲なり。御供には、大野修理を始めとし
{{仮題|頁=56}}
て、七組の組頭{{r|眞田|さなだ}}左衞門佐、五島又兵衞以下召連れられ、太閤より傳はれる{{r|瓢簞|へうたん}}の御{{r|馬印|むまじるし}}を立てら
れ、{{r|太|ふと}}く{{r|逞|たくま}}しき馬に鎧かけさせ召されたる御有樣、あつぱれ大將とぞ見えたりける。其日秀賴公の物
のたまへるを聞きける者︀共、幼き者︀のうひごといひけるやうに、思ひけるこそ{{r|可笑|をか}}しけれ。また京中
にありとあらゆる{{r|徒者︀|いたづらもの}}どもに、大阪より金錢を遣され、大御所四月二十八日に、淀まで御出陣あるべ
きなり、其跡に京中に火を附け、燒き上ぐべしと仰せ付けられける所に、大御所御出陣延引ありけれ
ば、彼のいたづらものども案に相違して、いかゞせんと思ひ居たる所に、{{r|天罰|てんばつ}}にやかゝりけん、{{r|宗徒|むねと}}
の惡黨共顯れ、數十人{{r|搦|から}}め{{r|捕|と}}られて、皆{{r|首|かうべ}}を{{r|刎|は}}ねられけり。誠に孔子は盜泉の水に渴忍び、{{r|曾參|そうしん}}は勝
母の里に返らずといふことさへあるに、此火つけの大將を{{r|誰|た}}ぞと尋ぬるに、{{r|古田織部|ふるたおりべ}}が召仕ひける
{{r|宗喜|そうき}}といふ入道なり。斯かる惡逆無道のものを、日頃{{r|不愍|ふびん}}にして召仕ひける{{r|德|とく}}には、大阪{{r|落居|らくきよ}}して、此
の火附の儀、古田織部が知らざることはよもあらじと、{{r|御不審|ごふしん}}を蒙り、腹切れと仰せ付けられ、子供
五人同じく腹切らせける。年頃{{r|數寄|すき}}の{{r|和尙|をしやう}}にて、{{r|道具|だうぐ}}の{{r|目利|めきゝ}}して廻られけるが、此宗喜をば何と目利
をせられけるやらんと笑はぬものもなかりけり。去程に五月二日まで御扱ひの儀ありといへども、大
阪に御承引これなき上は是非に及ばず、五月三日に、大守は御馬を召され、大御所は同五日に、大阪
表へ御進發なさる。大阪にも兼ねて用意の事なれば、二手に別つて相待ちにける。まづ大御所の寄せ
給ふ大和路へは、木村長門守、山口左馬介、{{r|薄田隼人|すゝきだはやと}}等を大將として、相從ふ兵六萬餘騎、敵寄せば
{{r|一戰|ひといくさ}}して討死せんと待懸けたり。大守の寄らせ給ふ{{r|平野口|ひらのぐち}}へは、五島又兵衞、長宗我部等大將にて七
萬餘騎、爰を敗られなば、大將のひけいのみならず、本城卽時に落つべしと、諸︀勢に下知して控へた
り。去程に六日の早朝に、兩御所の先陣井伊掃部助、藤堂和泉守、松平下總守、本多美濃守、三萬餘
騎にて押寄せ、天地も響︀く計に、鬨の聲三箇度續けゝる。弓鐵砲少し射違ふる程こそありけれ、槍薙
刀を押つ取り{{く}}、おつゝまくつゝ、打つゝ打たれつ戰ふ。數刻に及びけるが、大阪勢と申すは、一
旦の慾に耽りて、伊勢、熊野、愛宕、八幡などの{{r|勸進聖|くわんじんひじり}}や、或は{{r|片邊土|かたへんど}}の{{r|莊屋政所|しやうやまんどころ}}などといはれし
もの、或はいひ甲斐なき{{r|辻冠者︀原|つじくわんじやばら}}共が集りたる事なれば、軍といふ事は、{{r|前後|ぜんご}}是が始なり。鬨の聲を
聞くと等しく落ち失せて、恥あるもの、百騎計ぞ殘りたる。木村長門守は、去年も佐竹義宣寄せ口に
て、比類︀なき働きして、秀賴の{{r|御感|ごかん}}に預かりしが、{{r|今日|けふ}}の戰にも、敵多く討ち取つて、名を得たる事
數箇度なりといへども、{{r|後|うしろ}}あばらになりければ、今は討死せんと思ひ切つたる{{r|氣色|けしき}}を、郞徒等見けれ
ば、今は{{r|退|の}}かせ給へ。{{r|今日|けふ}}が秀賴の{{r|御最後|ごさいご}}にても候はず。いかにも殿樣の{{r|御先途|ごせんど}}を見果て給はんと思
召せやといひければ、汝等は知るまじきぞ、弓矢取りの習ひ、死ぬべき所にて死なざれば、必ず後悔︀
ある事なり。{{r|我|わが}}最後の{{r|體|てい}}よく{{く}}見て、殿樣へ{{r|言上|ごんじやう}}すべしといひ棄てゝ、敵の群つて控へたる中に駈
け入り、{{r|雲手|くもて}}、かぐなは、十文字、八つ花形といふものに、{{r|散々|さん{{く}}}}に切つて廻はり、駈け拔けて見てあ
れば、薄手深手十四箇所まで負ひければ、今は斯うとや思ひけん、{{r|鞍笠|くらかさ}}に突︀立ちあがり、日頃{{r|音|おと}}にも
{{仮題|頁=57}}
聞くらん、今は目にも見よ、秀賴公の{{r|御乳母|おんめのと}}の{{r|子|こ}}に、木村長門守といふ大剛の者︀ぞ、木村が首取つて
武士の{{r|名譽|めいよ}}にせよ。さる者︀ありとは、兩御所にも知られたるぞと名乘つて、あたりを拂つて控へたる
を、東國{{r|逸︀男|はやりを}}の若武者︀共、十騎計落重なり、竟に木村を討ちにけり。山口左馬介は、木村長門が{{r|妹婿|いもとむこ}}
にてありけるが、死なば一所と、日頃{{r|契約|けいやく}}やしたりけん、長門が討たれたる所にて、華やかなる軍し
て同じく討死してんげり。
{{r|薄田隼人|すゝきだはやと}}は、元より甲斐々々しき覺えあつて、{{r|相撲取|すまふと}}りの{{r|大力|おほぢから}}なるが、去年も{{r|穢多|ゑつた}}が城をいひ甲斐な
く落され、人の{{r|嘲|あざけ}}り遁るゝ所なかりければ、{{r|今度|こんど}}は人より先に討死して、去年の恥をも淸むべしと、
思ひ切つたる事なれば、身方は諸︀勢落ち失せけれども、少しも{{r|退|しりぞ}}く心なく、駈け入りては首を取り、
組んで落ちては首を取り、身方の勝にてもあらばこそ、首を取つて大將の御目にかけ、勳功にも預ら
んずれとて、首を取つて薄田隼人の助と名乘り、敵の方へ投遣り{{く}}して、首數數多討取つて、痛手
負うて、竟に討死してんげり。{{r|增田兵大夫|ますだひやうだいふ}}と申すは、增田右衞門尉{{r|長盛|ながもり}}の子なり。關が原の一亂以後、
關東に居たりしが、{{r|此度|このたび}}大守の御供して上りけれども、太閤相國の御時、父右衞門尉奉行にてありけ
る事を思ひ、今斯くなり果てぬる身の上を、口惜しく思ひけん、{{r|萬一|まんいち}}大阪の御{{r|利運|りうん}}になるならば、大
和の國にて知行四十萬石下さるべしと、秀賴公の御朱印を頂戴して、六日に平野口へ向ひけるが、朝
の{{r|間|ま}}の合戰には、分捕あまたしたりけるが、二度のかけに討死する。井伊掃部助は親井伊侍從の{{r|側室|そばめ}}
の子たるに依つて、親侍從さのみに賞玩もせず、かすかなる{{r|體|てい}}にて關東にさぶらはれけるが、夜討の
時より、甲斐々々しき{{r|氣色|きしよく}}ありければ、兩御所は聞食し、故侍從が武勇の道を繼ぎ、當家のせんよう
に立つべき器︀用、此掃部助にありとのたまひて、近江の國{{r|佐和山|さわやま}}に在城して、{{r|自然|しぜん}}上方への御陣あら
ば、{{r|先手|さきて}}を仕るべしと仰せ付けられける驗ありて、去年も大阪眞田が{{r|出城|でじろ}}にて、目に立つ軍して名を
上げけるが、{{r|今日|けふ}}の合戰にも、關東勢攻めあぐんで見えける所に、掃部助眞先かけて、{{r|我手勢計|わがてぜいばかり}}は
{{r|一足|ひとあし}}も引き{{r|退|しりぞ}}かず、敵の首多く討取り、功名したりければ、兩御所見給ひて、さればこそ一騎當千の兵
とは、斯かる者︀こそいへと感じ思召されて、大阪落去の後も、先づ此の掃部助に金銀數萬兩下され、
其上領地御加增もありけるなり。誠に{{r|面目|めんぼく}}の至りなり。藤堂和泉守の兵に渡邊勘兵衞は、異國の韓信
張良にも劣らぬ、{{r|武勇|ぶゆう}}智略の者︀なりけるが、大阪勢の餘り大勢なるを見て、世の常の如く、あひがか
りに懸らば、身方必ず負くべし。堤を傳ひ溝を越し、敵の{{r|眞中|まんなか}}を{{r|橫合|よこあひ}}に懸りて駈割るべし。然らば敵
共前後左右に迷ひて、必ず身方は打勝つべしと、諸︀勢を勇めて{{r|麾|ざい}}を打振りしが、少しも違はず大阪勢
は、勘兵衞に身方の眞中を駈け隔てられ、{{r|弓手|ゆんで}}{{r|馬手|めて}}へ{{r|退|ひ}}きたりけり。然れども藤堂仁右衞門、同玄蕃、
同新七以下、和泉の郞等數百騎、爰にて皆討死する。其日井上小左衞門討死する。其外大阪勢返し合
せ返し合せ討死しける其中にも、長宗我部は其手の大將にてありけるが、人より先に大阪の御城指し
て逃げたりけり。五島又兵衞、元は黑田筑前守の郞從たるが、近年浪人して、去年以後大阪に籠り、
{{仮題|頁=58}}
金銀數千兩給はり、其上大野修理が姪婿になりて、よろづ心に任せたりけるが、關東方へ內通の仔細
ありとて、人疑ひけるを、口惜きことに思ひけるが、身方の軍破れたりと見てんげれば、{{r|誰|た}}が陣とも
いはず、駈け入り{{く}}戰ひけるが、松平下總{{soe|の}}守の手にて、ある武者︀と組んで刺違へてぞ死んだりけ
る。城中には、五島又兵衞、木村長門守、山口左馬以下討死し、力落されたりといへども、未だ眞田
左衞門佐が討たれずして、さりともとこそ申しけるを、高き山深き海︀とも賴まれ、その日暮れければ、
互に{{r|篝火|かゞりび}}を焚きて、若し夜討にや寄すると、馬の{{r|腹帶|はらおび}}を締め、鐵砲の藥ごみして待合はす。明くれば
七日の早朝に、大阪勢十八萬餘騎、喚き叫んで、兩御所の御陣へ、二手になりて懸りけり。關東勢三
十萬騎、皆爰を{{r|退|ひ}}きては、再び兩御所の御目に懸る事、誰あつてなるべきと進みけれども、大阪勢
{{r|今日|けふ}}討死せずして、いづ方へ逃げたりとも、日本の內には、{{r|片時|へんし}}も足を{{r|留|と}}めて懸るべき所もあらばこ
そと、思ひ切つたることなれば、一まくり關東勢をおんまくり、兩御所の御旗本近く懸りける所に、
本多{{r|中務|なかつかさ}}次男出雲守、小笠原兵部少輔親子、安藤{{r|帶刀|たてはき}}が親子以下、大守の近所の者︀共、爰を{{r|先途|せんど}}と戰
ひて、{{r|分捕|ぶんどり}}あまたして討死す。大守自ら{{r|麾|ざい}}を取り給ひて、{{r|軍|いくさ}}の下知をし給ひければ、誰かは名をば汚
すべき。なだれ懸れる者︀共、皆返し合せ{{く}}戰ひければ、さしもの大阪勢、北へ指して引き退く。越
前の少將は、駈けあひの合戰は、{{r|今日|けふ}}が始にておはすなれば、軍の{{r|掟|おきて}}もいかゞあらんと、家老の面々
も{{r|訝|いぶか}}に思ふ所に、其{{r|心根|こゝろね}}{{r|元來|ぐわんらい}}丈夫におはしければ、少しも臆したる氣色もなく、自ら麾を取り、軍勢
共に先立つて懸けられければ、本丸へ一番に、越前の少將の者︀共亂れ入りけり。御旗本黑田筑前、加
藤左馬、將軍の御旗本近く、陣を張つて居たりけるが、諸︀勢はなだれ懸かれども、一足も先へは進
めども{{r|後|うしろ}}へは退かず、{{r|剩|あまつさ}}へなだれ懸かる軍勢を勇めて、黑田筑前守、加藤左馬助爰にあるぞ、返せ返
せと怒られけるを、物によく{{く}}譬ふれば、異國の樊噲も、斯くやと覺ゆる計なり。松平筑前守は、
大守の陣崩れば、橫合に鑓を入れんと、堅く陣を張つておはしけるが、諸︀方の陣崩れけれども、少し
も備を崩さず、{{r|槍衾|やりぶすま}}を作つておはしければ、大御所は御覽じて、さすがに度々の功名を極めし、利家
が子なりと仰せられけり。本多大隅守は、大守の老臣佐渡守の末子にてありけるが、常に武勇を好ま
れける間、集まるもの、皆甲斐々々しき者︀共多かりけり。其故度々大阪勢を逐ひまくり、數多く討ち
取りければ、兩御所も特に感じ仰せられ、諸︀大名も譽めければ、羨まぬものこそなかりけれ。敵身方
五十萬騎に及びたる勢、入亂れたることなれば、面々の旗の紋をも、互に見知らねば、關東勢も
{{r|同士討|どしうち}}して、多く討たれけるとなり。眞田は身方討負けたりと見ければ、誰が陣ともいはず、駈け入り駈け
入り戰ひけるが、越前の少將手にて、大音あげて名乘りけるは、關が原の一亂以後、{{r|高野|かうや}}の{{r|住居|すまひ}}を仕り、
空しく月日を送る所に、幸に此陣出で來て、{{r|忝|かたじけな}}くも故太閤相國の御子右大臣秀賴公に、一騎當千と賴
まれ申したる眞田左衞門佐とは我事なり、心あらん若者︀共、我首取つて、將軍の御感に預からぬかと
呼ばはり、{{r|邊|あたり}}を拂つて見えけるが、鐵砲にて{{r|胸板|むないた}}を{{r|打貫|うちぬ}}かれ、馬より{{r|眞倒樣|まつさかさま}}に落つる所に、越前の少
{{仮題|頁=59}}
將の{{r|郞從|らうじう}}おりあひて、遂に首をぞ取つたりける。{{r|郡主馬|こほりしゆめ}}は若かりし時は、{{r|度々筈|どゞはず}}をも合せたるものな
りければ、關が原の亂以後も、過分の知行を遣すべき由、諸︀大名いはれけれども、一旦の慾に耽り、
{{r|後代|こうだい}}の名を失はんこと口惜かるべきなり。我不肖なりといへども、今迄秀賴公の從者︀たれば、秀賴公
の{{r|門下|もんか}}にて死すべしとて、いづ方へも行かざりけるが、今度も少しも油斷なく、秀賴公へ奉公申され
けるが、七日の巳の刻計に、諸︀方の口々破れて、關東勢亂れ入り、はや屋形々々に火懸りたりと見て
んげれば、日頃出仕申す如く、千疊敷の間へ參り跪き、腰の刀を拔くまゝに、腹十文字に搔切つて俯
しにけり。年七十一とぞ聞えし。此時哀れなりしは、子息{{r|某|なにがし}}御供申さんとて、旣に腰の刀に手をかけ
けるを、汝は未だ秀賴公の御恩をだにも蒙らず、{{r|私|わたくし}}のけんやうなれば、只今自害をせずとも、人あな
がちに嘲るべからず、親の子をおもふ道は、{{r|凡下|ぼんげ}}までも變る事なし、暫らく生きて我{{r|後世|ごせ}}を{{r|弔|とぶら}}ひて得
させよ。只今自害せば、{{r|來世|らいせ}}迄も勘當たるべしといひければ、力及ばず、親の自害を{{r|介錯|かいしやく}}して返りけ
る、心の內こそあはれなれ。{{r|成田兵藏|なりたひやうざう}}といふ者︀、させるおぼえの者︀にてもなかりけるが、主馬と一度
に千疊敷にて腹切りたるこそ由々しけれ。毛利河內守は、太閤より召仕はれける老兵にてありつる
が、是も同所にて腹切らんと、老母妻子引連れて參りけるが、はや千疊敷に火の懸かりければ、織田
の{{r|有樂|うらく}}の屋敷へはいり、老母幷に妻子共皆刺殺︀し、我身も腹切つて、自ら喉笛を刺して死んだりける
こそ聞くもすゞしけれ。渡邊內藏助は、眞田と一所にて戰ひけるが、深手數多負ひて、我屋に歸り、
子供兩人引き具して{{r|登城|とじやう}}しければ、{{r|母儀|ぼぎ}}の{{r|正榮|しやうえい}}之を見て、など急ぎ腹を切らぬぞと諫められければ、
御自らの先途見奉らん爲に、遲なはり候と申しければ、我は女の身なれば、いかやうにても苦しから
じ。汝は日頃秀賴公の御恩を海︀山と見ながら、若し自害を仕損ずる物ならば、{{r|屍|かばね}}の上の恥辱たるべ
し。はや{{r|疾|と}}く腹を切られ候へと勸められければ、子息三人刺し殺︀し、{{r|頓|やが}}て其刀を取直し、腹十文字に
切りければ、母儀の正榮は、まづは切つたり{{く}}と譽め給ひて、頓て首をぞ討たれける。誠に日頃は
{{r|最愛|さいあい}}の獨り子にて、荒き風にも當てじとこそ思はれけるに、名を惜み義を重んじて、女の身として、
我子の腹切る介錯し給ひける事、{{r|類︀|たぐひ}}少き事、前代未聞の事共なり。茲に明石掃部助は、御城大阪中、諸︀
奉公人の屋形々々に、火の懸かりたるを見て、今は逃れ難︀くや思ひけん、敵の{{r|群|むらが}}つて控へたる中へ割
つて入り、遂に討死してんげり。此の如く名を惜む勇士は、皆討死しける中に、大野主馬、同道犬、
仙石宗也、長宗我部は、日頃は秀賴{{r|別|べつ}}して賴み思召しけるに、命は能く惜き物なりけり。{{r|淺猿|あさま}}しげな
る{{r|體共|ていども}}にて皆散り{{ぐ}}に落ち失せけり。其中に長宗我部は、{{r|八幡|やはた}}に{{r|禁野|きんや}}の里、{{r|蘆原|よしはら}}の中によしとこそ
思ひつらめ、隱れ居ける所に、是まで{{r|小者︀|こもの}}一人附添ひたるを見知りたる者︀ありて、いひ甲斐なく生捕
られ、二條の御城へ{{r|上|あ}}げければ、伊賀守受取りて、{{r|雜色|ざふしき}}の手に渡し、{{r|柵|さく}}の木に縛り付けられ、生きな
がら恥をぞ{{r|曝|さら}}しける。其後{{r|洛中|らくちう}}{{r|洛外|らくぐわい}}を引き渡し、六條河原へ引出し、{{r|首|かうべ}}を刎ねられて、首をば三條橋
の下に曝されける。大野道犬も生捕られ、京都︀にて{{r|首|かうべ}}を刎ねられべかりしが、和泉の國堺の者︀共、兩
{{仮題|頁=60}}
御所へ{{r|言上|ごんじやう}}しけるは、町は{{r|形|かた}}の如くも建ち候べきが、{{r|堂寺|だうてら}}は十分一も建ち候まじ。堺の津は地領狹き
內に、佛法繁︀昌の所なるを、此道犬が{{r|所爲|しよゐ}}として燒失ひ候。然れば佛敵法敵の{{r|罪|ざい}}とぞなれば、{{r|昔|むかし}}平の
重衡の{{r|例|れい}}に任せて、堺の寺庵へ下さるべき由訴へ申しければ、兩御所も誠に然るべしと仰せられて、
卽ち道犬をば堺へ遣されければ、堺の入口に、{{r|磔|はりつけ}}にこそしたりけれ。{{r|前世|ぜんせ}}の{{r|報|むくい}}といひながら、あさま
しかりし事共なり。去る程に諸︀方より{{r|込入|こみい}}りければ、大阪に籠る勢共の、恥ある侍は皆討死す。いひ
甲斐なき者︀共や、{{r|女|をんな}}{{r|子|こ}}どもなどは恥をも忘れ、持ちも習はぬ物共を、肩{{r|脊中|せなか}}にかけて、多く{{r|天滿川|てんまがは}}へ
飛び入りければ、誠に{{r|假初|かりそめ}}の{{r|物詣|ものまうで}}だも、土をも更に踏まざりし奉公人の{{r|妻子共|さいしども}}、川に流れ水に溺れ、
死する事數を知らず。天滿川には俄に變じて、{{r|紅葉|もみぢ}}を流す吉野川、紅葉{{r|下|した}}ゆく{{r|龍田|たつた}}とぞなりにける。
其故は、なまじひに此女房共、持ちも習はぬ{{r|小袖|こそで}}、{{r|帷子|かたびら}}、{{r|金襴|きんらん}}、{{r|緞子|どんす}}のやうなる物共、手元にあるに
任せ著︀て出でけるが、川を{{r|渉|わた}}るとて、水は深し皆流しけるこそ哀れなれ。人の習ひ{{r|一紙半錢|いつしはんせん}}も得る時
は喜び、失ふ時は悲しむなり。されども命にかへる物はなしと、此時よく{{く}}思ひ知られけり。刀、脇
差、金銀、珠玉の{{r|重寶|ちようはう}}ども、天滿川{{r|長柄|ながら}}の渡り、{{r|吹田|すゐた}}の渡りなどには、數を知らず棄てければ、其邊
の民共は、俄に德付きたりとぞ聞えける。さて秀賴公の御臺所は大守の{{r|御娘子|おんむすめ}}なりける間、いかにも
して取り奉らんと、內々{{r|謀|はかりごと}}を運らし給ひけるが、大野修理が{{r|分別|ふんべつ}}として、この姬君をよく{{く}}申含
め出だし奉らば、秀賴同御母堂我等親子は、命をば助け給ふべしと思ひて、恙く出だし奉りけり。大守の
御事は申すに及ばず、御喜びこそ{{r|理|ことわり}}なれ。さる程に秀賴公、おなじく御ふくろ、大野修理、おなじく
母儀大藏卿{{r|局|つぼね}}、宮內卿局、二位局、{{r|速見|はやみ}}甲斐守、竹田{{r|榮翁|えいおう}}、僧︀には韓長老以下二十餘人、朱山{{r|櫓|やぐら}}の下
{{r|土藏|どざう}}へ籠り給ひけり。兩御所より{{r|横見|よこめ}}の衆遣され、堅く守護せられける。明くれば八日、兩御所より
土藏の內への給ひけるは、仰せらるべき仔細數多あれば、二位の局を{{r|來|こ}}さるべしとなり。大野修理は、
二位の局に申しけるは、我等親子自害仕るべし。秀賴公の御親子の御命助かり給ふやうに、よく{{く}}
申さるべし。夫に返り給ふ間、秀賴公の御自害をも、相待給ふべきなりと、淚の內に申しければ、二
位も哀れに覺えて、{{r|押|おさ}}ふる淚の下よりも、定めて殿樣御親子の御命を、御助けあるべしとこそ存候へ
とばかり、泣く{{く}}いひて出でられけるが、之を最後とは、後にぞ思ひ知られける。二位の局出でら
れて、兩御所へ參られ、事の仔細を述べられければ、頓て秀賴御腹召さるべしと、橫見の衆へ申付け
られければ、其趣を土藏の內へ申入れたるに、大野修理速見甲斐守使に出で迎ひて、二位の局を以て、
兩御所へ申す仔細あれば、二位返り參る迄、相待たるべき由申しけるに、二位兩御所へ參りて後の御
意にてあるを、さまでに命の惜きかと惡口しながら、鐵砲打ちかけゝれば、貝吹いて內へ入り、土藏
の內へ{{r|燒草|やきくさ}}{{r|籠|こ}}め、內よりも燒立つれば、外よりも鐵砲打ちかけ、火を付けゝれば、秀賴は{{r|平生|へいぜい}}御腰離さ
れず、{{r|故|こ}}太閤より御讓の{{r|藥硏藤四郞|やげんとうしらう}}にて、腹十文字に搔切り給へば、大野修理立廻り頓て介錯仕る。
いたはしきかな御年二十三にて{{r|晨|あした}}の露と消え給ふ。扨も秀賴御ふくろの最後の言葉ぞ哀れなる。われ
{{仮題|頁=61}}
太閤の妻となり、幸淺からず、世の人には左樣の事もなかりしに、{{r|前世|ぜんせ}}の{{r|契|ちぎり}}深くして、二人の{{r|若|わか}}を設
けしが、兄八幡太郞は三歲にて失せ給ふ。秀賴は{{r|佛神︀|ぶつしん}}を深く賴み奉りし故にや、今迄恙くおはしけれ
ば、一度天下の政道をも、執り行はせ奉りて見ばやとこそ、日頃思ひしに、世には神︀も佛も{{r|御座|おは}}せぬ
かや、情なの兩御所や、恨めしの浪人共やと、掻き口說き給ひければ、大野修理申しけるは、愚なる
仰せ候や、{{r|凡下|ぼんげ}}の者︀も武士の家に生るゝものは、{{r|襁褓|きやうはう}}の中より、斯かる事あるべしと、兼ねて思召し
定め給はざるか。況や雨御所を敵に受け、天下を爭はんと思召し立つ上は、覺悟の前の所なり。太閤
相國{{r|前世|ぜんせ}}の{{r|戒行|かいぎやう}}に依つて、一度天下をしろしめし、{{r|上|かみ}}一人を恐れず{{r|下|しも}}萬民を顧みず、萬事を{{r|我意|がい}}に任
すれ、其報只今來ると思召し、今たゞ{{r|萬法|まんはふ}}を{{r|截斷|さいだん}}して、一心の誠を悟り、三{{r|明|みやう}}の{{r|覺路|かくろ}}に赴き給ふべし
と、おとなしやかに申しければ、御ふくろも念佛申し給ひける、其後御自害こそ無殘なれ。大野修理之
を見、秀賴の御腹召したる藥硏藤四郞をおつ取りて介錯を仕る。大野修理が最後の言葉ぞ哀れなる。
太閤{{r|御代|みよ}}の御時、家に傳はる郞等とて召仕はれ、{{r|御他界|ごたかい}}の後は、秀賴公に添へ置かれて、左右に仕へ
奉る、ためし少き此君、月とも日とも思ひ、{{r|山岳|さんがく}}よりも猶高く、{{r|芝蘭|しらん}}よりも{{r|馨|かうば}}しく、{{r|片時|かたとき}}も近所を立
去らず奉公を申せしに、我手に懸け申す事、草の蔭なる太閤の、さこそ{{r|憎︀|にく}}しとおぼすらん。斯くて
{{r|時刻|じこく}}も移りければ、大野修理、母儀の大藏卿にいはれけるは、昔より今に至る迄、親を手に懸くる事い
かゞあるべし。只自害との給ひて、{{r|妻子|さいし}}共を刺し殺︀し、{{r|冥加|みやうが}}の爲と存ずれば、御ふくろを介錯申した
る藥硏藤四郞{{r|押取|おつと}}りて、腹十文字に切り、秀賴の御顏に抱き付き、{{r|晨|あした}}の露と消えにけり。大藏卿は之
を見て、{{r|焰|ほのほ}}の中へ飛入り、{{r|焦|こが}}れ死し給ひけり。其外十餘人ありける人々は、皆煙に{{r|咽|むせ}}びて、{{r|形|かたち}}と共に
燒け失せけるこそあはれなれ。誠に故太閤相國の{{r|側室|そばめ}}{{r|數多|あまた}}ありける中に、秀賴公の御母儀なれば、
{{r|別|べつ}}して御志深くものし給ひて、故太閤神︀と{{r|崇|あが}}められ給ふ後も、秀賴公{{r|片時|へんし}}も離れさせ給ふ事なく、朝夕
はたゞ{{r|上手|じやうず}}といはれし女の{{r|猿樂|さるがく}}{{r|歌舞伎|かぶき}}、たかと云ふ者︀を召して舞ひ{{r|謳|うた}}はせ、躍り跳ねさせ、世を世と
思召さで、月日を送らせ給ひしに、天魔破旬の勸め參らせけるか、いはれざる{{r|御謀叛|ごむほん}}を起させ給ひ
て、我身も秀賴公も、一つ煙の灰となり給ひける、{{r|劫|ごふ}}の程こそ悲しけれ。{{r|生者︀必滅|しやうじやひつめつ}}の習ひ、{{r|釋尊|しやくそん}}未だ
{{r|栴檀|せんだん}}の{{r|煙|けぶり}}を免︀かれず、{{r|天人|てんにん}}{{r|遂|つい}}に五{{r|衰|すゐ}}の{{r|苦|く}}に會ふと云ひながら、かけても思ひきや、秀賴公おなじく御
ふくろなどの、かゝる{{r|憂目|うきめ}}に會はせ給はんとは、誰か思はん。彼の大阪の城は、{{r|本|もと}}{{r|親鸞上人|しんらんしやうにん}}の、始め
て此の所に道場を建て、念佛{{r|三昧|さんまい}}を行ひ給ひしが、信長公へ明渡さるゝなり。其後故太閤相國、日本
國を從へ給ひて、國々の勝地を御覽ずるに、此大阪に勝れる境地なし。傳へ聞く、{{r|唐土|もろこし}}の{{r|明州|みやうじう}}の{{r|津|つ}}に
似たりと。日本の內には申すに及ばず、{{r|大明|たいみん}}{{r|南蠻|なんばん}}へ行く舟も、此の所大海︀を前にして、帝都︀をうしろ
にあて、誠に{{r|類︀|たぐひ}}なき名地なりと、{{r|執|しつ}}し思召して、{{r|元|もと}}ありしに{{r|櫓|やぐら}}を添へ、堀を深く掘りて、{{r|在家|ざいけ}}を建て
させ、{{r|天主|てんしゆ}}を高く{{r|拵|こしら}}へ、其內に、春は花見し櫻の門、爰に涼しき山里か、秋は月見の{{r|櫓|やぐら}}あり、冬は雪
の興をそふ、{{r|朱|しゆ}}山{{r|櫓|やぐら}}千疊敷の廣間、其外の{{r|殿々|でん{{ぐ}}}}、金銀を{{r|鏤|ちりば}}め、珠玉を飾り、秀賴の御爲とし置かせ給
{{仮題|頁=62}}
ひ、又世に稀なる{{r|唐物|からもの}}ども、刀脇差の{{r|類︀|たぐひ}}{{r|數奇道具|すきだうぐ}}など、日本の名物を集めて、かたがたにすとも、大
阪にある重寶には、釣合ふまじかりけりと聞えしが、{{r|破滅|はめつ}}の時刻到來して、其名計ぞ殘りける。凡そ
生者︀必滅の{{r|理|ことわり}}は、免︀がれ難︀しと見えたりけり。中にも哀れなりしは、秀賴公の{{r|側室|そばめ}}の腹に出で來給へ
る若君、八歲になり給へるが、年頃は關東の聞えを憚らせ給ひて、あれども更に人に知らせ給はで、
{{r|片田舍|かたゐなか}}にて育ち給ひしが、去年{{r|御和睦|おんくわぼく}}の後や、大阪におはしけん、七日の晩程に、たゞ一人{{r|煙|けぶり}}の中を
迷ひ{{r|步|あり}}かせ給ひけるを、{{r|誰|た}}が子とは知らねども、いと白く淸げに{{r|座|おは}}しければ、西國武士取り奉りて、
伏見へ連れて來りけるが、家の{{r|主|あるじ}}{{r|材木屋|ざいもくや}}にてありけるが、未だ子を持たざりけん、此武士に請ひけれ
ば、仔細あらじとて得させけるを、材木屋うれしき事に思ひて養ひけるが、世になき{{r|氣隨人|きずゐにん}}にて、我
父がいふ事も聞入れざりければ、{{r|持|も}}て扱ひ兼ねて居ける所に、いかゞして洩れ聞えけん、秀賴公の若
君こそ、伏見に{{r|座|おは}}すなりとて御迎ひ參り、二條の御城へ連れ奉る。兩御所御覽じて、未だ幼稚なれば、
何の{{r|辨|わきまへ}}をも知るまじといへども、大敵の子なり、助け置かば、養盜の{{r|患|うれへ}}あるべし、急ぎ{{r|首|くび}}を刎ねて然
るべしと、板倉伊賀守に仰せ付られ、御{{r|行水|ぎやうずゐ}}させ申し、御物など參らせて、御名はいかにと問はれけれ
ば、我は名もなし、但し{{r|殿樣|とのさま}}とこそ人はいひしとの給ひければ、聞く人涙を流しけれ。卽ち新しき
{{r|板輿|いたごし}}を取寄せて奉る。室町を{{r|下|くだ}}りに、六條河原へと渡さるゝ。卽ち六條河原にて斬り奉らんずるに、少
しも臆したる{{r|氣色|けしき}}もなく、敷皮の上に立ちて{{r|座|おは}}しける。つくばはんとし給ふ所を打ち奉りけるこそあ
はれなれ。故太閤相國の給ひけるは、秀賴成長して{{r|男子|なんし}}にても{{r|女子|によし}}にても設くる程になる迄、此の世
にながらへば、始めて秀賴が子を產みたらん者︀には、{{r|非職凡下|ひしよくぼんげ}}のものゝ娘なりとも、金千枚まづ{{r|當座|たうざ}}
の{{r|引出物|ひきでもの}}に取らすべき物をとこその給ひつれ。未だ十にも足らせ給はで、河原の者︀の手にかゝり給ひ
ける、御果報の程の{{r|拙|つたな}}さは、申すも中々愚なり。{{r|今度|こんど}}大阪に籠りたる所の武士、名あるものは悉く討
死し、腹を切ること數知らず、哀れなる事共なり。恥をも忘れ命を惜む{{r|輩|ともがら}}は、本國へ逃げ隱れ、いづ
くか兩御所の御知行ならぬ所なし。皆捕へ{{r|搦|から}}められ、或は{{r|首|かうべ}}を刎ねられ、或は{{r|磔|はりつけ}}に懸けられ、女は渡
邊正榮などがやうに、さのみ{{r|猛|たけ}}からず。兩御所も古の{{r|例|れい}}に任せ、御宥免︀ありければ、{{r|優|いう}}にやさしくて、
月よ花よと春秋を送り給ひし女房達、或は{{r|賤山|しづやま}}がつに身を見せ、吉野初瀨の奧を住み所と定め、或は
荒き{{r|武士|ものゝふ}}に捕はれ、遠き野中に赴くもあり、{{r|乞食流浪|こつじきるらう}}の身となりて、{{r|彼方此方|かなたこなた}}とさまよひ{{r|步|あり}}き給ひし
は、目もあてられぬ事共なり。去程に兩御所は、猶大阪の{{r|餘黨|よたう}}を尋ね{{r|捜|さぐ}}つて、悉く打果し、天下を治
められんが爲、京都︀伏見に御逗留ありて、賞罰嚴重の{{r|法度|はつと}}を定め、今度大阪表にての忠不忠を{{r|聞食|きこしめ}}し
明らめ、忠ある{{r|輩|ともがら}}には、望みに勝さる金銀領地を下され、不忠不義の輩には、{{r|枝葉|えだは}}を枯らし、{{r|刑戮|けいりく}}に
行はれしかば、忠臣は進み、佞人は退く。いよ{{く}}四海︀{{r|八島|やしま}}の{{r|外|ほか}}も、浪靜になる世なれば、かゝる目
出たき天下の守護、上古にも末代とてもありがたし。只此君の御壽命、{{r|萬歲|ばんぜい}}々々{{r|萬々|ばん{{く}}}}ぜいと、{{r|祝︀|しゆく}}し奉
る。{{nop}}
{{仮題|頁=63}}
{{-}}
{{仮題|投錨=頸帳|見出=小|節=o-2-1|副題=|錨}}
{{Interval|width=14em|margin-right=4em|array=
2.3:一頸三千七百五十三^越前少將{{分註|size=70%|此內眞田左衞門首西尾久作捕|御看勘兵衞首野本右近取}} 一同三千二百^松平筑前守
一同八百六十八^藤堂和泉守 一同六百二十一^松平武藏守 一同五百二十五^松平陸奧守
一同三百六十^京極若狹守 一同三百十五^井伊掃部 一同三百二^羽︀柴丹後守
一同二百五十三^本多美濃守 一同二百十七^本田大隅守 一同二百八^鳥井土佐守
一同二百六^羽︀柴右近 一同百五十二^金森出雲守 一同百十九^桑山左衞門佐
一同百十七^小出大和守 一同百九^加藤式部 一同百八^毛利甲斐守
一同百五^本多縫殿助 一同百二^土井大炊助 一同九十七^水野日向守
一同九十七^大關彌平次 一同九十^菅沼織部 一同八十七^堀丹後守
一同八十^稻葉右近 一同七十八^榊原遠江守 一同七十五^那須左京
一同七十四^本田出雲守 一同七十三^松平下總守 一同七十二^德永左馬
一同七十^太田原備前守 一同六十八^成田左馬 一同六十七^小出信濃守
一同六十八^遠藤但馬守 一同六十一^古田大膳 一同六十^淺野采女正
一同五十七^有馬玄蕃 一同五十七^松平伊豫守 一同五十三^板倉豐後守
一同五十三^松平和泉守 一同五十二^關長門守 一同五十^分部左京
一同四十四^秋田城之介 一同四十四^小笠原兵部 一同四十三^和田左京
一同四十^一柳監物 一同三十八^千本大和守 一同三十四^松平甲斐守
一同三十四^蘆駒藤九郞 一同三十三^伊王野又六郞 一同三十三^大島一類︀
一同三十三^平岡平右衞門 一同三十一^酒井左衞門 一同三十一^岡本宮內少輔
一同三十^酒井雅樂頭 一同三十^靑山伯耆守 一同三十^石川主殿
一同三十^池田備中守 一同三十^伊奈組衆 一同二十七^牧野駿河守
一同二十七^稻葉內匠 一同二十四^高力左近 一同二十三^藤田能登守
一同十九^稻垣平右衞門 一同十九^丹羽︀勘介 一同二十^秋山右近
一同二十六^小濱民部 一同十九^高木衆 一同二十^妻木雅樂
一同十七^尾里助右衞門 一同十六^遠山勘右衞門 一同十三^新庄越前守
一同十四^細川玄蕃 一同二十一^松平阿波守 一同十七^松下石見守
一同十四^丹羽︀五郞左衞門 一同十四^保科肥後守 一同二十五^阿部備中守
一同十七^松平越中守 一同十二^植村主膳 一同十二^松平將監
一同二十^羽︀柴越中守 一同十一^仙石兵部 一同十三^山岡主計頭
一同十三^堀尾山城守 一同十^稻葉衆家中 一同九^谷出羽︀守
}}{{nop}}
{{仮題|頁=64}}
{{Interval|width=14em|margin-right=4em|array=
一同十^佐久間大膳 一同七^日根織部 一同七^西尾豊後守
一同六^遠山九大夫 一同六^山崎甲斐守 一同八^藤堂將監
一同七^別所豐前守 一同五^山口十大夫同心 一同六^佐久間備前守
一同五^水野監物同心 一同六^井上主計同心 一同四^永見新右衞門
一同三^久貝忠三郞同心 一同五^淺野內膳同心 一同四^內藤帶刀
一同二^堀淡路守 一同二^脇坂淡路守 一同二^村越三十郞
一同二^奧田九郞右衞門 一同二^加藤右近 一同五^向井將監
一同二^向井半彌 一同五^水谷伊勢守 一同一^六鄕兵庫
一同一^{{resize|80%|駒井次郞右衞門同心}} 一同一^桑島孫六同心 一同二^松平越中守
一同一^水野大和守 一同二^水野淡路守 一同二^酒井阿波守
一同二^內藤主膳 一同二^菅沼主殿助 一同二^阿部修理
一同二^安藤式部少輔 一同一^松平采女正 一同一^大原侍從
一同二^松平右近 一同一^松平小太郞 一同二^小山長門守
一同二^成瀨豐後守 一同二^屋代甚三郞 一同一^成瀨藤藏
一同一^永井信濃守 一同一^川口左介 一同一^三枝源八郞
一同一^小栗彥二郞 一同二^永井傳十郞 一同一^土屋左介
一同一^安藤與八郞 一同一^松原作右衞門 一同一^松平與右衞門
一同二^渡部監物 一同二^近藤彥九郞 一同二^永田權八郞
一同一^三枝新九郞 一同二^本田八十郞 一同二^德永出羽︀
一同一^坂部作十郞 一同一^稻垣藤七郞 一同二^久世三四郞
一同二^石川勘介 一同二^細井金十郞 一同一^小澤忠右衞門
一同一^小澤權之丞 一同一^戶田藤九郞 一同一^石丸權八郞
一同二^曾我喜太郞 一同一^渡邊兵九郞 一同二^安藤傳十郞
一同一^鯰江甚右衞門 一同一^靑山作十郞 一同一^安藤次右衞門
一同一^伊藤右馬助 一同一^服部重兵衞 一同一^今村彥兵衞
一同一^兼松源兵衞 一同二^靑山石見守 一同一^駒井右京
一同一^松前隼人 一同一^中山勘解由 一同二^中山助六郞
一同一^跡部民部 一同二^牧野織部 一同一^日根長五郞
一同一^曾我十兵衞 一同一^前島十三郞 一同一^鈴木市藏
一同一^市橋左京 一同一^今村傳十郞 一同一^加藤伊織
}}{{nop}}
{{仮題|頁=65}}
{{Interval|width=14em|margin-right=4em|array=
一同一^加藤久次郞 一同一^駒井六郞左衞門 一同一^佐橋次郞左衞門
一同一^保々長兵衞 一同一^木造七左衞門 一同一^堀三右衞門
一同一^戶田又久 一同一^遠藤平右衞門 一同一^蜂屋六兵衞
一同一^戶田平兵衞 一同一^大久保新八郞 一同二^今村傳右衞門
一同一^戶田山三郞 一同一^門桑半十郞 一同一^鏑目長四郞
一同一^大久保六右衞門 一同一^野山新兵衞 一同一^井野次郞兵衞
一同一^勝部甚五左衞門 一同一^新木甚介 一同一^岡部庄九郞
一同二^岡部七之介 一同一^井戶左馬 一同一^平岩金五郞
一同二^酒井長左衞門 一同一^佐橋兵三郞 一同一^本多傳三郞
一同一^山上長二郞 一同一^加藤權右衞門 一同一^廣戶半十郞
一同一^天野甚太郞 一同一^宮崎左馬 一同二^朝比奈六左衞門
一同一^中根權六郞 一同一^中川牛之介 一同一^渡邊孫三郞
一同一^布施八右衞門 一同一^押田庄吉 一同一^小野源十郞
一同一^高田藤五郞 一同一^戶田數馬 一同一^渡邊半兵衞
一同二^伊丹佐次右衞門 一同一^大橋兵右衞門 一同一^大橋金彌
一同二^小川三太郞 一同一^細井長左衞門 一同一^高藏惣十郞
一同一^中川市之介 一同一^市岡太左衞門 一同一^石尾六兵衞
一同一^別府忠兵衞 一同一^天野源藏 一同一^逸︀見庄兵衞
一同一^小野淺右衞門 一同一^山木才兵衞 一同一^眞田半兵衞
一同一^佐久間信濃 一同一^坪內五郞左衞門 一同一^諏訪部小太郞
一同一^淺野內膳 一同三^羽︀柴勘右衞門 一同一^荒川又六
一同一^朝比奈孫太郞 一同二^坂部久五郞 一同一^坂部權十郞
一同一^逸︀見小四郞 一同一^窪田勘太郞 一同一^御手洗五郞兵衞
一同一^山本與九郞 一同一^鵜藤右衞門 一同一^原九郞右衞門
一同一^原作平次 一同一^富永喜左衞門 一同一^山田淸大夫
一同一^齋藤三右衞門 一同一^中島長四郞 一同一^小笠原角左衞門
一同一^井上外記 一同一^田村兵藏 一同一^田代養元
一同一^荷澤又右衞門 一同一^桑島源六 一同一^佐々與右衞門
一同一^森川金右衞門 一同一^片山三七郞 一同四^名倉兵九郞
一同四^靑山大藏 一同四^神︀尾刑部 一同五^屋代甚三郞同心
}}{{nop}}
{{仮題|頁=66}}
{{Interval|width=14em|margin-right=4em|array=
一同七^三枝源八同心 一同五^中山勘解由同心 一同二^水野太郞作同心
一同二^內藤若狹同心 一同一^成瀨豐後同心 一同三^溝口外記同心
一同一^伊丹喜之介 一同二^永見新右衞門同心 一同二^羽︀柴勘右衞門同心
一同八^近藤石見同心 一同二^靑山吉四郞同心 一同一^靑山主馬同心
一同一^曾我喜太郞同心 一同二^伊藤右馬同心 一同一^猪︀子久左衞門同心
一同一^中川牛之介同心 一同一^井上淸兵衞同心 一同一^木造七左衞門同心
一同一^牧野傳藏同心 一同一^宮崎左馬同心 一同二^牧野豐前同心
一同一^渡邊監物同心 一同一^水野隼人同心 一同一^阿部彌六同心
一同二^岡田木工之介同心 一同一^今村傳四同心 一同一^榊原小左衞門同心
一同一^大橋金彌同心 一同一^服部兵吉同心 一同一^市橋左京同心
}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=大阪物語/下巻}}
{{仮題|ここから=三河物語/序}}
{{仮題|頁=66}}
{{仮題|投錨=三河物語序|見出=中|節=m-j|副題=|錨}}
我老人之事なれば、{{r|夕|ゆふ}}さりを{{r|知|し}}らず。然{{r|解|ときんば}}只今之時分者︀、御主樣も
御普代之御內之者︀の筋をも、一圓に無御存知、猶又御普代之衆も、
御普代久敷筋目もしらず、三河者︀ならば、{{r|皆易|かいえき}}に御普代之者︀と思
召ける間、其立譯をも子供がしる間敷事なれば書置成。此書物を
{{r|公界|くがい}}へ出す物ならば、御普代衆忠{{r|節︀|せつ}}之筋目、又は{{r|走|はし}}り{{r|旋|めぐ}}りの事を
も、能{{r|穿鑿|せんさく}}して可{{レ}}書が、も、能穿鑿して可書が、是者︀我子供に我筋をしらせんために書置
事なれば、他人之事をば書ず。其に寄而門外不出と云なり。各も家
家の御忠霞又は{{r|走|はし}}り{{r|旋|めぐ}}りの筋目、又は御普代之筋目之事書しる
して、子供達得御{{r|讓|ゆづり}}可{{レ}}被{{レ}}成候。我等も我一類︀の事を、如此書而子供
{{仮題|頁=67}}
に渡す、夢々門外不出可有成。以上。
{{仮題|ここまで=三河物語/序}}
{{仮題|ここから=三河物語/第一上}}
{{仮題|頁=67}}
{{仮題|投錨=三河物語|見出=大|節=m|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=第一上|見出=中|節=m-1|副題=|錨}}
それ{{r|迷|まよひ}}の{{r|前|まへ}}の{{r|是非|ぜひ}}は、{{r|是|ぜ}}ともに{{r|非|ひ}}なり。夢之內の有無者︀、有無共無也。我等身の{{r|識|しき}}あれば、有かはあ
だなり。夢の浮世と何を{{r|寤|うつゝ}}と可{{レ}}定。されば{{r|刹那|せつな}}の榮華も心をのぶることわりを思へば、{{r|無爲|むゐ}}の{{r|快樂|けらく}}
に同。爰に相國家康之御由來を申立るに、{{r|其|それ}}{{r|日本|じちゐき}}{{r|安藝津島|あきつしま}}は、是國常立の{{r|尊|みこと}}より{{r|起|おこ}}り{{r|埿瓊沙瓊|ういぢにすいぢに}}{{r|男神︀|なんしん}}
{{r|女神︀|によしん}}を{{r|初|はじめ}}として、伊弉諾伊弉册の尊、以上天神︀七代にてわたらせ給ふ。又{{r|天照|あまてる}}御神︀より、鵜之羽︀ふきあ
はせずのみこと迄、以上地神︀五代にて、おほくの{{r|星霜|せいさう}}を{{r|送|おく}}り給ふ。然るに{{r|神︀武|じんむ}}天王と申奉るは、ふき
あはせず之第四のみことにて、一天之主百王にも{{r|初|はじめ}}として天下を{{r|排|をさめ}}給ひしよう此方、國主をかたぶけ、
萬民の{{r|恐|おそるゝ}}斗事、文武之二道にしくはなし。{{r|好文|かうぶん}}の{{r|族|やから}}を寵愛しられずとは、誰か萬機の{{r|政|まつりごと}}を{{r|扶|たすけ}}、又
{{r|勇敢|ようかん}}之{{r|輩|ともがら}}を寵賞せられずんば、いかでか{{r|慈悲|じひ}}之{{r|亂|みだれ}}{{soe|を}}鎭めん。{{r|故|かるがゆゑに}}{{r|唐大宗文皇帝|たうだいそうぶんくわうてい}}は、{{r|疵|きず}}を{{r|畷|す}}い{{r|戰士|せんし}}を
賞じ、{{r|漢︀|かん}}之{{r|高祖︀|かうそ}}は三尺之{{r|劍|けん}}をたいし諸︀侯をせいし給ひき。然間本朝にも中頃寄源平兩{{r|氏|じ}}を定おかれし
寄此方、武畧を振舞{{r|朝家|てうか}}を{{r|守護|しゆご}}し、{{r|互|たがひ}}に{{r|名將|めいしやう}}之名をあらはすによつて、諸︀國の狼藉をしづめ、{{r|旣|すで}}に四
百餘{{r|廻|くわい}}之年月を送り{{r|畢|をはん}}。是淸和の後胤、桓武のるたひなり。しかりとは{{r|云共|いへども}}、王氏を出而人臣につら
{{仮題|頁=68}}
なりて、矢鏃を嚙み、{{r|戣先|ほこさき}}を{{r|著︀|あらはす}}心指取々成。{{r|抑|そも{{く}}}}源氏といつぱ、桓武天皇寄四代之王子、田村之{{r|帝|てい}}と申
きは、文德天王とも申、王子二人おはします。第一を{{r|惟喬|これたか}}之親王と申。御門此御子をば、殊に御心指
ふかく思召而{{r|春宮|とうぐう}}にも立て、御位をも讓り奉らばやと思召しける。第二之御子をば{{r|惟仁|これひと}}之親王と申き
は、未いとけなくおはします。御母は{{r|染|そめ}}殿の關白忠仁{{r|公|くう}}の御{{r|娘|むすめ}}成ければ、一門くわうきよ{{r|卿相雲客|けいさうゝんかく}}と
もに寵愛奉り、是も又{{r|默止|もだし}}難︀く思召ける。かれは兄弟相分の器︀量{{r|也|なり}}。是は{{r|萬機無爲|ばんきむゐ}}之しんさうなり。是を
そむきて寶祚を授くる物ならば、w{{r|用捨|ようしや}}{{r|私|わたくし}}有而、臣下唇を飜すべし。すべて競馬を{{r|乘|のら}}せ{{r|勝負|かちまけ}}によつて、
御{{r|位|くらゐ}}をゆづり奉るべしとて、天安二年三月二日、二人の御子を引供し奉り、右近之馬場へ行幸成。月
卿雲客花之{{r|袂|たもと}}を{{r|{{?|「厂+用」}}|かさね}}、玉之裳をつらね、右近之馬場へ{{r|供奉|ぐぶ}}せらる。此事稀代盛事天下之ふしぎとぞみえ
し。御子達も{{r|春宮|とうぐう}}之ふしん是にありとぞ思召れける。さればさま{{ぐ}}の御{{r|祈︀|いのり}}ども有けり。{{r|惟喬|これたか}}之親王
の御{{r|祈︀|いのり}}之師には、柿之本之き僧︀正{{r|眞濟|しんせい}}とて、東寺之行者︀、弘法大師の御弟子成。{{r|惟仁|これひと}}之親王の御祈︀之
師には、{{r|若|わぐ}}山之{{r|住侶慧亮和尙|ぢうりよゑりやうをしやう}}とて、慈覺大師の御弟子にて、たつとき{{r|聖人|しやうにん}}にてわたらせ給ひける。
{{r|西塔|さいたふ}}平等房にて大威德の{{r|法|ほふ}}をぞおこなひ給ひける。{{r|旣競馬|すでにけいば}}十番をきはに定られしに、惟喬の御方に、つ
づけて四{{r|番勝|ばんかち}}給ひけり。{{r|惟仁|これひと}}之御方へ心を{{r|侘|よする}}人汗をにぎる。心をくだきて{{r|祈︀念|きねん}}せられけり。さるあひ
だ右近の馬場寄も、天台山平{{r|等|とう}}房之{{r|壇|だん}}所へ{{r|使|つかひ}}之{{r|馳沓|はせかさなる}}事、{{r|但|たゞ}}くしを引がごとし。{{r|旣御味方|すでにみかた}}こそ四番つゞ
けて{{r|負|まけ}}ぬと申ければ、慧亮心{{r|憂|う}}くおもはれて、繪像の大威德を倒に懸け奉り、三尺之{{r|土牛|どぎう}}を北むきに
立て{{r|祈︀|いの}}られけるに、{{r|土牛|どぎう}}躍りて西むきになれば、南に取而おしむけ、東にむけば北に取而{{r|押|おし}}なをし、
肝膽くだきて揉まれしが、猶すゑかねて獨鈷をもつて身づからなづきを突︀き碎き、なふを取而{{r|芥子|けし}}に
まぜ、爐に打くべ{{r|烟|けむり}}を立、一揉もみ給ひければ、土牛{{r|哮|たけ}}りてこゑをあぐ。ゑざうの太いとく利劔をさ
さげてふり給ひければ、所願{{r|成就|じやうじゆ}}してんげりと、御心をのべ給ふ所に、御{{r|味方|みかた}}こそ六{{r|番|ばん}}つゞけて{{r|勝|かち}}給へ
と、御{{r|使趙|つかいはしり}}付にける。{{r|有難︀|ありがたき}}{{r|瑞相|ずゐさう}}ども詞に云もおろか成。されば{{r|惟仁|これひと}}之{{r|親王|しんわう}}御{{r|位|くらゐ}}に{{r|定|さだまり}}{{r|春宮|とうぐう}}に立給ひ
けり。是によつて{{r|延曆寺|えんりやくじ}}之大衆の詮義にも、ゑりやう{{r|頂|なづき}}をくだきしかば、{{r|次帝|じてい}}{{r|位|くらゐ}}に付、そんいけんを
ふり給へば、くわんせうれいをたれ給ふとぞ申ける。是に{{r|仍|よつて}}{{r|惟高|これたか}}之御{{r|持僧︀|ぢそう}}しんせい僧︀正、思ひ{{r|死|じに}}にぞ
うせ給ひける、無念成し事ぞかし。御子も{{r|都︀|みやこ}}へ御無{{レ}}歸して、比叡の山のふもと小野と云所にとぢこも
らせ給ひける。比は神︀無月之すゑつ方雪げのそらの嵐さゑ、しぐるゝ雲のたゑまなく、行かふ人もま
れ成ける。{{r|況哉|いはんや}}小野の御ぢうりよ、思ひやられて{{r|哀|あはれ}}成。爰に宰相中將在原之業平、{{r|昔|むかし}}の{{r|契|ちぎ}}り{{r|不|ざる}}{{レ}}{{r|被|ら}}{{レ}}{{r|淺|あさか}}
人成ければ、ふん{{く}}たる雪をふみわけ、{{r|歎々|なく{{く}}}}御{{r|跡|あと}}を{{r|尋|たづね}}奉り而見まいらせければ、まふとううつりき
たつてかうやう嵐にたへ、とういんけんかきうとうしん{{く}}たるおり、人目も草もかれぬれば、山里
いとゞさびしきに、{{r|皆|みな}}{{r|白庭|しろには}}のをも、跡ふみ{{r|付|つく}}る人もなし。折節︀御子は{{r|端|はし}}ちかく出させ給ひて、南殿の
{{r|御|み}}かうし三間あけさせて、{{r|四方|よも}}の山を覽めぐらし、げにや春は靑く夏はしげり、秋はそめ冬は{{r|落|おつる}}と云
昭明太子の思召つらね、{{r|香爐峯|かうろほう}}の雪をば{{r|簾|すだれ}}をかゝげて{{r|見|み}}なんと、御口ずさみ渡らせ給ひけり。中將此
{{仮題|頁=69}}
御有樣を見奉るに、只夢の心地ぞせられける。近參而昔今の事供申承るに付而も、御衣の{{r|袪|たもと}}しぼりも
あえさせ給はず、{{r|後鳥羽︀|ごとば}}之{{r|院|ゐん}}之御遊行{{r|形|かた}}野の雪の御{{r|鷹狩|たかゞり}}{{r|迄|まで}}、思召出れて中將かくぞ申されける。
{{r|別|わか}}れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見んとは
御子も取あへさせ給はで御返歌に、
夢かとも何か思はん世の中をそむかざりけん事のくやしき
かくて貞觀四年に御出家渡らせ給ひしかば、小野の宮とも申ける、四品宮內卿供申けり。文德天王御
年三十にして御崩御なりしかば、第二の王子御年九歲にて御ゆづりをうけ給ふ、淸和天王と申は此御
事成。後には水之尾の{{r|帝|てい}}とぞ申ける。王子あまたおはします。第一をば陽成{{r|院|いん}}、第二をば{{r|帝|てい}}こ親王、
第三をば帝{{r|慶|けい}}親王、第四をば{{r|帝|てい}}法親王、此王子は御琵琶の上手にておはします。桂の親王とも申ける。
心を{{r|懸|かけ}}らるゝ女は月の{{r|光|ひかり}}を待{{r|兼|かね}}、螢を{{r|袪|たもと}}につゝむ。此御子の御事成、今之源氏の{{r|先祖︀|せんぞ}}是成。第五をば{{r|帝平|ていへい}}
親王、第六をば{{r|帝春|ていしゆん}}親王と申、六{{r|孫|そん}}王是成。されば彼親王の御子常元之親王の御嫡子、多田の新發意
滿伸、其御子攝津守賴光、次男大和守{{r|賴親|よりちか}}、三男多田之法眼とて、山法師三塔一之{{r|惡僧︀|あくそう}}成。四郞河內守
賴信、其御子{{r|伊豫|いよ}}之入道{{r|賴義|よりよし}}、其ちやく子八幡太郞義家、其御子{{r|式部|しきぶ}}大輔{{r|義|よし}}國等、新田大炊助義重迄、
七代は皆諸︀國のちくぶに名をかけ、げいを將軍之きうはにほどこし、不{{レ}}被{{レ}}家々々にして四海︀を{{r|守|まもり}}、
{{r|白波|しらなみ}}{{r|猶|なほ}}{{r|越|こえ}}たり。されば各爭をつくすゆへに、{{r|互|たがひ}}に{{r|朝敵|てうてき}}と成而、源氏世を{{r|亂|みだせ}}ば平氏{{r|勅宣|ちよくぜん}}を以是を制し、御
{{r|恩|おん}}に{{r|詫|ほこり}}、平氏國を傾くれば、源氏詔命に任せて是を罰して勳功を極む。然るに近代は平氏ながく退散
して源氏世に驕る。四海︀を{{r|靜|しづめ}}しより{{r|此方|このかた}}綠林えだをふく風音もならさゞりき。されば叡慮に背くせい
よふは、色をおふけんの秋之霜にをかされ、てうそをみだすはくはうは、{{r|音|おと}}を上{{r|絃|げん}}之月にすます。是
ひとへに羽︀林の威風代に超えたる{{r|故|ゆゑ}}成。然るにせいしをひそめて{{r|都︀|みやこ}}の外の{{r|亂|みだれ}}を制し、{{r|私曲|しきよく}}之爭を止め
て歸伏せざるはなかりけり。げにや八幡太郞義家寄御代々嫡々然共義貞の威勢に仍、それにしたがつ
て仁田之內德川之鄕中におはしまし給ふ{{r|故|ゆゑ}}に寄而德川殿と奉{{レ}}申き。義貞高氏に{{r|打敗|まけ}}給ふ時、德川を出
させ給ひ而寄、中{{r|有|う}}の衆生之ごとく{{r|何|いづく}}と{{r|定|さだめ}}給ふ處も無く、拾代斗も{{r|此方彼方|こゝかしこ}}と御るらう被成有かせ給
ふ。德の御代に{{r|時宗|じしう}}にならせ給ひて、御名を{{r|德阿彌|とくあみ}}と奉申。西三河坂井之鄕中得立被{{レ}}寄{{soe|せ}}給ひ而、御
あしをやすめさせ給ふ。折節︀御徒然さのつれ{{ぐ}}に、いたらぬ者︀に御{{r|情|なさけ}}を懸させ給へば、若君一人出
來させ給ふ。然る處に松平之鄕中に、太郞左衞門申而、國中一之有德成人ありけるが、いか成御緣に
か有やらん、太郞左衞門{{r|獨|ひとり}}{{r|姬|ひめ}}之有りけるを、德阿彌殿を{{r|婿|むこ}}に取、遺跡に立まゐらする。然る處に坂井
之御子、後に御尋をはしまして御{{r|對面|たいめん}}有時、尤御{{r|疑|うたがひ}}無{{レ}}更{{soe|に}}、然りとは{{r|云|いへ}}ども人の一つせきを嗣ぐ故は、
總領とは云がたし。家之子にせんと仰あつて、{{r|末|すゑ}}の世迄おとなとならせ給ふ由、しかとの事はなけれ
共申つたへに有り。{{r|偖|さて}}又後には太郞左衞門{{r|親氏|ちかうぢ}}、御{{r|法名|ほふみやう}}は{{r|卽|すなはち}}{{r|德阿彌|とくあみ}}、{{r|何|いか}}に{{r|況哉|いはんや}}、弓矢を取而無{{二}}其計{{一}}、
{{r|早|はや}}山中拾七名を{{r|戮|きり}}取せ給ふ。殊更御{{r|慈悲|じひ}}においては{{r|幷|ならぶ}}無{{レ}}人、民百{{r|姓|しやう}}乞食{{r|非人|ひにん}}どもに{{r|至迄哀|いたるまであはれ}}みをくは
{{仮題|頁=70}}
へさせ給ひ而、有時は{{r|鎌|かま}}、くわ、{{r|銲|よき}}、{{r|鉞|まさかり}}などをもたせ給ひ而出させ給ひ、山中之事なれば道細くし石高
し。木の{{r|枝|えだ}}之道ゑさしいで荷物に{{r|掛|かゝる}}をばきり{{r|捨|すて}}、木{{r|根|ね}}之出たるをばほり{{r|捨|すて}}、せばき道をばひろげ、出たる
石をば掘{{r|捨|すて}}、橋を{{r|懸|かけ}}道を作り人馬の安穩にと、晝夜御油斷無御慈悲をあそばし給ふ。御內之衆に被仰
けるは、我が{{r|先祖︀|せんぞ}}十時斗{{r|先|さき}}に、高氏に居所をはらわれて、{{r|此方彼方|こゝかしこ}}と流浪して{{r|遂|つひ}}に本望をとぐる無{{レ}}
事。我又此國得まよひき而、今又すこし頭をもちあぐる事佛神︀三{{r|寳|ぱう}}も御{{r|哀|あはれ}}みも有か。我一命を{{r|跡|あと}}拾代
にさゝげ、此あたりをすこしづつも{{r|戮|きり}}取而子供に渡す物{{r|被|ら}}{{レ}}{{r|成|な}}ば、代々に{{r|戮取|きりとり}}々々する物ならば、{{r|先|さき}}拾
代之內にはかならず天下を治め、高氏{{r|先祖︀|せんぞ}}を絕やして本望を遂ぐるべきと被仰ければ、御內之衆一同
に申上けるは、御{{r|先祖︀|せんぞ}}は只今{{r|社︀|こそ}}承候へ。其儀は{{r|兎|と}}も{{r|角|かど}}も其儀にかまい不申、年月當君之御{{r|情|なさけ}}雨山{{r|忘|わすれ}}
{{r|難︀|がたく}}在候儀を各々寄合中而も、{{r|別|べつ}}之儀を請不申、{{r|扨|さて}}も{{く}}御{{r|慈悲|じひ}}と申、又は御{{r|情|なさけ}}此御恩の何として報じ可
{{レ}}上哉、只二つと無命を奉り、妻子けんぞくを{{r|𦖁|かへりみ}}ず中夜の{{r|摝|かせぎ}}にて、御{{r|恩|おん}}をほうぜんと申成、{{r|親氏|ちかうぢ}}{{r|聞|きこし}}被{{レ}}召
而{{r|面|めん}}々被申候事{{r|憐|はぢ}}入而候。我面々に何をもつて{{r|慈悲|じひ}}供をぼゑず、又何をもつて{{r|情|なさけ}}供おぼえざる。又何
をもつ而{{r|面々|めん{{く}}}}に思ひつかれんともおぼえざるに、面々の左樣に申さるゝは、分別に不{{レ}}及ふしんに{{r|社︀|こそ}}あ
れと仰せければ、面々申上候。{{r|先|まづ}}御{{r|慈悲|じひ}}と申事は御存知なきや、あれに{{r|伺|しかう}}候申、五三人之面々は重罪
の御咎を申上申者︀成を、{{r|妻子|さいし}}ともに火水の{{r|責|せめ}}に而責{{r|戮|ころ}}させられではかなはざる者︀を、{{r|妻子|さいし}}眷族ゆるし
おかるゝのみならず、其身が一命迄御ゆるされ{{r|賸|あまつさえ}}何ものごとく、御前得召被{{レ}}出召つかわさるゝ御事
は、是にすぎたる御{{r|慈悲|じひ}}何かは御座候はん哉。あの者︀ども一類︀女房供の一類︀の者︀供迄も、人寄先に一
命をすてゝ御奉公申上候はんと存知定申たり。ましてあの者︀供は{{r|妻子|さいし}}の一命を被下御{{r|恩|おん}}者︀{{r|未世|まつせ}}、此御
{{r|恩|おん}}ほうじ上申候事此世に而{{r|成難︀|なりがたし}}。此御{{r|恩|おん}}には{{r|燃㷄|もゆるひ}}之中得も御奉公被{{レ}}成ば{{r|飛|とび}}入らんと、一心に思ひ定而
罷有と申成。それのみならず、面々も心に入而{{r|摝|かせぎ}}申事、御祝︀着に思召るゝ{{r|凛|さむき}}か{{r|腆|あつき}}か晝夜供に骨折御身
にあまり而思召るゝに、{{r|近|ちかう}}參而膝を直し罷有との御{{r|情|なさけ}}は、雨山御忝身に{{r|餘|あま}}り存知候と申上候へば、御
ことばも不{{レ}}被{{レ}}出御{{r|涕|なみだ}}をおさへさせ給へば、面々{{r|愈|いよ{{く}}}}{{r|涕|なみだ}}をながし御前を罷立、申つるごとく{{r|雨露雪霜|あめつゆゆきしも}}
にもいとはず、{{r|夜|よる}}はかせぎ、かまり、ひるは{{r|此方彼方|こゝかしこ}}のはたらき{{r|晝夜|ちうや}}身を{{r|拾|すてゝ}}而御ほうかう申上申に付
而、あたりをきりとらせ給うて、御太郞左衞門尉{{r|秦親|やすちか}}え御代を御讓り給ふ。
太郞左衞門尉{{r|泰親|やすちか}}、御{{r|法名用金|ほふみやうゆうきん}}、是も御父におとらせ給はざりし、弓矢取と申し、御{{r|慈悲|じひ}}、中々申つ
くしがたし。然る所に、大臣殿、勅勘をかうむらせ給ひ而、三河之國ゑ流罪ならせ給ふ。然りとは申
せども、無{{レ}}{{r|程|ほど}}御赦免︀ならせ給ひ而、御歸京とぞ申ける。其時國中におひて、大小人に不{{レ}}{{r|寄|より}}、名之有
{{r|侍|さふらひ}}に、御供申せと有し時、國中をさがさせ給へども、源氏之ちやく{{く}}にてわたらせ給へば、是に
ましたる、ぞくしやうなし。其儀ならば、{{r|泰親|やすちか}}御供あれと被仰而、御供を{{r|社︀|こそ}}被成けり。其寄して、三
河之國ゑの、御綸旨には、{{r|德川泰親|とくかはやすちか}}と被下給ふに{{r|仍|よつて}}、早國中之侍も、民、{{r|百姓|ひやくしやう}}にいたる迄も、恐れを
なさゞる者︀はなし。然る間、松平之鄕中を出させ給ひ而、岩{{r|津|つ}}に城を取せ給ひ而、御{{r|居|い}}城として、住
{{仮題|頁=71}}
ませ{{r|給|たま}}ふ。其後{{r|岡崎|をかざき}}に城を取給ひ而、次男にゆづらせ給ふ。岩{{r|津|つ}}をば、和泉守信光に御代渡させ給ふ。
和泉守信光、御法名{{r|月堂|げつだう}}、御代々御{{r|慈悲|じひ}}之儀は申に不{{レ}}及、弓矢を取せ給ふ事{{r|幷者︀無|ならぶものなし}}。{{r|凡|およそ}}西三河之內
三ヶ一は{{r|戮隨|きりしたがへ}}給ふ。おぎう、ほつきうを{{r|責|せめ}}被{{レ}}取{{soe|せ}}給ひ而、岩{{r|津|づ}}之城をば、御そうりやうしきへ渡さ
せ給ふ成。おぎうの城をば、次男源次郞殿に御讓り有。其後に{{r|安祥︀|あんじやう}}之城を思召被{{レ}}{{r|懸|かけ}}而、{{r|伎踊|をどり}}をいか
にもいかにも、きらびやかにしたてさせ給ひ而、{{r|路|ろ}}地を通るふりをして、{{r|安祥︀|あんじやう}}{{r|寄|より}}拾四五町{{r|程|ほど}}へだてゝ西
の野ゑ打上而、無{{レ}}何{{soe|と}}、かね、{{r|太鼓|たいこ}}、{{r|笛|ふゑ}}、つゞみにて打はやし、{{r|爰|こゝ}}をせんどと、をどりければ何かわし
らず、西の野にて{{r|社︀|こそ}}、をどるをどり{{r|社︀|こそ}}、法樂にをどる成、いざや出而見物せんとて城も町も打明而、男
女供に、不{{レ}}被{{レ}}{{r|殘|のこ}}、我先にと出ける間、案の內成とて、我も{{く}}と{{r|亂|みだれ}}入、其{{r|儘|まゝ}}付入にして、城を被{{レ}}取{{soe|せ}}
給而{{仮題|入力者注=[#返り点「レ」は底本では「二」]}}、三男次郞三郞{{r|親忠|ちかたゞ}}に御ゆづり有。
次郞三郞{{r|親忠|ちかたゞ}}、後には{{r|右京亮|藏人頭共申}}{{r|親忠|ちかたゞ}}と奉申。御{{r|法名|ほふみやう}}、{{r|淸仲|せいちう}}、{{r|安祥︀|あんじやう}}にうつらせ給ふ。何れも御代々、
御{{r|慈悲|じひ}}と申、御武邊をもつて、次第々々に御代も{{r|隆︀|さかえ}}させ給ふ。御內之衆、又は民{{r|百姓|ひやくしやう}}、こつじき、{{r|非人|ひにん}}に、い
たる迄、御情を御{{r|懸|かけ}}させられ給ふ事、大小供に{{r|淚|なみだ}}を{{r|流|なが}}しかんじ入斗成。然る間、何事もあるときは、百
姓供迄、{{r|箶鑓|たけやり}}をもつて出、一命を{{r|捨而|すてゝ}}たゝかい、御ほうかうにする成。然間ましてや{{r|況|いはん}}、{{r|普代|ふだい}}相傳の衆な
れば、{{r|妻子|さいし}}を顧ず一命を{{r|捨而|すてゝ}}ふせぎ{{r|戰|たゝかう}}によつ而、次第々々に御手も{{r|廣|ひろ}}がる成。是と申も、御武邊と
御{{r|情|なさけ}}御{{r|慈悲|じひ}}と{{r|能|よき}}御{{r|普代|ふだい}}をもたせられ候{{r|故|ゆゑ}}に無{{レ}}恙、{{r|取廣|とりひろげ}}させ給ひ而、安祥︀を{{r|長親|ながちか}}ゑゆづり給ふ。
次郞三郞長親、後々は{{r|藏人頭|くらんどのかみ}}長親御{{r|法名|ほうみやう}}{{r|道悅|どうえつ}}、何れも御代々御{{r|慈悲|じひ}}御武邊、殊更すぐれさせ給ふ事、何
れをわくべきにはあらねども、御命をしらせられざる御事其たぐひなし。爰に伊豆之早雲新九郞たり
し時に、駿河之國今河殿へ名代として、駿河、遠江、東三河、三ヶ國之皉を{{r|促|もよほ}}して、一萬餘にて、西三河へ
出る。新九郞は吉田に着、先手は下地之{{r|御位|ごい}}小坂井に{{r|陣|ぢん}}を取、明ければ{{r|御油|ごい}}、赤坂、{{r|長{{?|「阝+志」}}|ながさは}}、山中、藤河を打
過而庄田に本陣を{{r|取|とれ}}ば、先手は大{{r|平|ひら}}河を{{r|前|まへ}}にあて、{{r|岡|をか}}大{{r|平|ひら}}に陣を取。明けれ者︀、大平河を打越{{r|念|ねん}}し原ゑ押
上、{{r|岡崎|をかざき}}之城をば、にれんぎ、{{r|𤚩久保|うしくぼ}}、{{r|伊名|いな}}、西之{{r|郡衆|こほりしゆ}}を、押に{{r|置鍪|おきかぶと}}山を{{r|押而|おして}}とをり、伊田之鄕を{{r|行過而|ゆきすぎて}}大
樹寺に本陣を{{r|取|とれ}}ば諸︀勢は岩津之城へ{{r|押寄|おしよせ}}、{{r|四方|しはう}}{{r|鐵砲|てつぽう}}はなちかけ、天地をひゞかせときのこゑをあげ而、
をめきさけぶとは申せども、岩津殿と申は弓矢を取而無{{二}}其{{r|隱|かくれ}}{{一}}御方なれば、{{r|少|すこし}}も御動轉なく{{r|譟|さわ}}がせ{{r|給|たま}}
はず。其故度々の高名、名をあらはしたる者︀供をもたせ給ゑば、彼が出而中々{{r|敵|てき}}をあたりゑ{{r|寄付|よせつけん}}事思ひ
不{{レ}}寄はたらきければ、新九郞を{{r|初諸︀勢|はじめしよせい}}供も、もてあつかいたふぜい成、然る處に{{r|長親|ながちか}}者︀、侍供を{{r|召寄|めしよせ}}{{r|面|めん}}
面{{r|聞|きく}}かとよ。北條新九郞岩津へ{{r|押寄|おしよせ}}、天地をひゞかせたゝかうと{{r|見|みえたり}}。{{r|其|それ}}弓矢を取者︀の{{r|習|ならひ}}には、{{r|敵不勢|てきはぶぜい}}
{{r|味方|みかた}}は{{r|多勢|たせい}}成供すまじき{{r|陣|いくさ}}も有。{{r|何況哉|いかにいはんや}}、敵者︀{{r|多勢|たせい}}{{r|味方|みかた}}は{{r|不勢|ぶせい}}成供、せでかなはざる{{r|陣|いくさ}}も有、此度之
儀者{{r|敵|てき}}多勢供成供せずしてかなはざる{{r|陣|いくさ}}成。我{{r|娑婆|しやば}}之{{r|露命|ろめい}}今日が{{r|限|かぎり}}ぞ面々何と思ふぞ。各々一{{r|同|どう}}に申上
候。如仰{{r|何|いか}}に敵{{r|不勢|ぶせい}}成と申とも、すまじき{{r|陣|いくさ}}を被成んと被仰候はゞ、兎角に面々供が{{r|晉|すゝ}}み申間敷、{{r|何|いかに}}
{{r|敵|てき}}{{r|多勢|たせい}}成と申供、被成候はでかなはざる陣においては{{r|兎角|とかく}}被成候ゑと可申上。{{r|況哉|いはんや}}此度之{{r|御合戰|ごかつせん}}被成
{{仮題|頁=72}}
候はで、かなはざる陣成。{{r|時刻|じこく}}うつさせ給ひては{{r|譡|かのう}}間敷、{{r|日比|ひごろ}}之御{{r|情|なさけ}}殊更御{{r|普代|ふだい}}之御{{r|主|しう}}之御一大事
と申、是非供に{{r|妻子|さいし}}を不{{二}}歸兒{{一}}、御{{r|馬|うま}}之先に而{{r|戮死|きりじに}}に{{r|仕|つかまつり}}て、死出三津之御供{{r|社︀|こそ}}弓矢を取而の{{r|而目|めんぼく}}にて{{r|候|さふら}}
ゑと申上ければ、{{r|長親|ながちか}}御{{r|淚|なみだ}}を{{r|流|なが}}させ{{r|給|たま}}ひて、我少身なれば普代久敷{{r|者︀|もの}}と{{r|云|いへ}}どもかいがはしきあてがいも
ゑせざるに、{{r|普代|ふだい}}之{{r|主|しう}}之用に立妻子な不{{二}}歸見{{一}}、{{r|無|なき}}{{レ}}{{r|恩主|おんしう}}に一命をくれんと{{r|勇|いさむ}}事は{{r|有難|ありがた}}さよ。一萬餘有所
へ{{r|雜兵|ざふひやう}}五百之內外にて{{r|陣|いくさ}}をせん事は、蟷螂が{{r|鉞|をの}}をにぎるがごとし。{{r|更|さら}}ば今生之{{r|暇乞|いとまごひ}}に酒出せと仰有り
而、{{r|廣|ひろき}}物に酒を入而出るを、御{{r|筩|さかづき}}に一つ請させ給ひ、面々に{{r|盃|さかづき}}を{{r|指|さし}}度は思ゑども、{{r|時刻|じこく}}之のぶる間{{r|盃|さかづき}}
と思ゑとて{{r|廣|ひろ}}き物の酒ゑ御{{r|盃|さかづき}}之酒を入させ給ゑば、思ひ{{く}}に是をいたゞき、御前を{{r|罷立|まかりたち}}{{r|𠆻|いそぎ}}けり。
{{r|長親|ながちか}}わづか{{r|雜兵|ざうひやう}}五百餘の內外にて、{{r|安祥︀|あんじやう}}之城を出させ給ひ、くはご、つゝばり、や{{r|羽︀|は}}ぎゑあがり、
{{r|河崎|かはさき}}を{{r|押|をし}}上而、矢矧河を{{r|越|こえ}}させ給ふを、{{r|北條|ほうでう}}之新九郞{{r|聞|きゝ}}而さらば備を出せ{{r|陣|いくさ}}をせん。殊更{{r|敵|てき}}は少{{r|勢|せい}}成と
{{r|盺|よろこぶ}}。{{r|謳|をめき}}さけびて段々に出る。東三河衆、牛久保之牧野、にれん木之戶田、西之郡之鵜殿、{{r|作手|つくりで}}之奧
平、{{r|段嶺|だみね}}之{{r|蒯沼|すがぬま}}、{{r|長|ながし}}間之{{r|蒯沼|すがぬま}}、野田の{{r|蒯沼|すがぬま}}、{{r|設樂|しだら}}、す{{r|瀨|せ}}、{{r|西鄕|さいがう}}、伊名之本田、吉田衆、遠江衆には
{{r|宇豆|うづ}}山、{{r|濱名|はまな}}、{{r|堀江|ほりえ}}、{{r|伊野谷|いのや}}、{{r|奧野山|おくのやま}}、{{r|乾|いぬゐ}}、{{r|二俣|ふたまた}}、{{r|濱松|はままつ}}、{{r|蚖堬|まむしづか}}、{{r|原河|はらかは}}、{{r|久野|くの}}、懸河、{{r|藏見|くらみ}}、{{r|西鄕|さいがう}}、{{r|角笹|かくは}}、
{{r|天方|あまがた}}、{{r|堀越|ほりこし}}、{{r|見藏|みくら}}、{{r|無笠|むさか}}、{{r|鷺坂|さぎさか}}、{{r|森|もり}}、高天神︀、{{r|蠅原|はいばら}}衆、其外小侍供、又は駿河衆、三{{r|浦|うら}}、{{r|朝伊名|あさいな}}、{{r|瀨名|せな}}、
{{r|岡|をか}}部、山田、其外は{{r|北條|ほうでう}}之新九郞を{{r|旗|はた}}本として、何れも{{く}}我をとらじと、先陣之あらそひ、{{r|段々|だん{{く}}}}に
そないを立、とうらうが{{r|鉞|をの}}とかや、いさみにいさんで事供思はず、{{r|長親|ながちか}}者︀{{r|何|いか}}にも心をしづめさせ給ひ
て、逸︀物之犬の虎をねらふがごとくに、{{r|大軍|たいぐん}}をにらめさせ給ひ而、{{r|靜|しづ}}々と{{r|係|かゝら}}せ給ふ。味方之{{r|兵|つはもの}}どもも
度々事に相{{r|付|つけ}}たる者︀どもなれば、{{r|敵|てき}}方{{r|寄|より}}嵩を{{r|懸|かけ}}て、{{r|爭|いさむ}}供{{r|洞天|どうてん}}するな。{{r|小軍|せうぐん}}が{{r|大軍|たいぐん}}にかさを被{{レ}}懸それに
{{r|寎而武|おどろきいさめ}}ば物{{r|前|まへ}}に而勢がぬくる{{r|者︀|もの}}成。敵は{{r|{{?|「言+?」}}|いさま}}ば{{r|諫|いさめ}}{{r|何|いか}}にも心を大事として{{r|心|しん}}に成、{{r|胸|むね}}の內には一{{r|足|そく}}{{r|無間|むげん}}と
念じて、{{r|{{?|「言+?」}}|いさみ}}てついてかゝる事なかれ、位詰めにしてつきくづせ、然る{{r|時者︀|ときんば}}{{r|敵方|てきかた}}寄、小{{r|勢|せい}}と思ひ{{r|下|した}}目に
{{r|懸|かけ}}て{{r|鑓|やり}}を{{r|可|べき}}{{レ}}{{r|入|いれ}}、そこにて一足{{r|無間|むげん}}と心得而、{{r|立|たち}}處をさらずして、じり{{く}}と{{r|根|ね}}强くつき{{r|可|べき}}{{レ}}{{r|入|いれ}}、そこ
をはつしとこたゑなば、かさを{{r|懸|かけ}}たる{{r|敵|てき}}はかならずまはすべし。{{r|敵|てき}}{{r|坎|にぐる}}とてもをうべからずして{{r|洞天|どうてん}}な
く、丸く成而二の手を待而二の手もくづれたりとも、{{r|旗|はた}}本又は後そないのくづれざる內何度{{r|敵|てき}}くづる
るとも{{r|亂|みだれ}}ずしてかたまれ、小{{r|勢|せい}}はかたまりて中を{{r|戮|きり}}通れと{{r|云|いひ}}而かゝる。{{r|案|あん}}のごとく敵方寄突︀いてかゝる
を、一二の手迄{{r|戮|つき}}くづせば、又{{r|入替|いれかへ}}而かゝるを折しきて{{r|待懸|まちかけ}}而、引請而突︀きくづせば、{{r|胠|わき}}寄又{{r|入歸|いれかへ}}而
かゝるを待請而ついてかゝりてつきくづせば、新九郞{{r|旗|はた}}本迄迯げかゝる。然る間{{r|夜陣|よいくさ}}に成{{r|敵味方|てきみかた}}をみ
わけずして{{r|震動|しんどう}}する。其{{r|儘押懸|まゝおしかけ}}給はゞ新九郞も{{r|敗軍|はいぐん}}可{{レ}}有けれども、{{r|軍兵|ぐんびやう}}とも{{r|早|はや}}せいきがきれて、{{r|何|いかに}}と
してもつかれたる{{r|故|ゆゑ}}、{{r|其|そこ}}を引のけ{{r|矢萩|やはぎ}}川を前にあてゝ御{{r|旗|はた}}を立給ふ。{{r|合戰|かつせん}}之{{r|場|ば}}は河むかい新九郞陣{{r|場|ば}}
之{{r|下|した}}なれば、夜明而新九郞方寄、今夜之合戰者︀し{{r|場|ば}}を取たる間、此方之{{r|勝|かち}}と云而よばわる。然る處に
田原之戶田申けるは、{{r|駿河|するが}}を賴而者︀{{r|上下|のぼりくだり}}も六ヶ數き{{r|長親|ながちか}}と申合而、駿河と手ぎれをせんと申を、新九
郞{{r|其|それ}}を聞而、我は西之郡之城普請をみて、させて{{r|頓|やが}}而{{r|歸|かへら}}んとて、馬まはりの{{r|者︀|もの}}計引つれて出けるが、
{{仮題|頁=73}}
西之{{r|郡|こほり}}へは{{r|行|ゆか}}ずして、すぐに吉田得引入。諸︀勢者︀是を{{r|聞|きゝ}}、{{r|跡|あと}}寄{{r|足|あし}}々にして吉田へ{{r|引|ひ}}く。其寄新九郞西三
河ゑ出る事不{{レ}}成、{{r|長親|ながちか}}は{{r|安祥︀|あんじやう}}へ引入給ふ。其後は猶以國中の者︀ども{{r|異儀|いぎ}}には不{{レ}}及、{{r|扨|さて}}又次男內前殿
には櫻井之城を{{r|參|まゐら}}せられ、三男新太郞殿には{{r|靑|あを}}野の城を參せられ、松平勘四郞殿には藤井を參せられ給
ふ。同右京殿にはふつかまと東ばたを參せられ給ふ。{{r|信忠|のぶたゞ}}へ{{r|安祥︀|あんじやう}}を御{{r|讓|ゆづらせ}}給ひ而、ほど無御遠行成。
次郞三郞信忠、後には左京亮信忠御{{r|法名太香|はうみやうたいかう}}、此君何れの御代にも{{r|相替|あひかは}}らせ給ひ而、ほど御{{r|慈悲|じひ}}之御心も
無、まして御{{r|情|なさけ}}がましき御事も{{r|御座|ましまさ}}ず。御せへんもぬるくをはしまして、御內之衆にも御{{r|詞懸|ことばかけ}}も無を
わしませば、御內之衆も又は{{r|民百姓|たみひやくしやう}}にいたる迄も、{{r|怕慴|をぢをのゝ}}きて思ひ付者︀も無。然る間早御一門之衆も
我々に成而、したがい給ふかたもをわしまさず。ましてや國侍供も、我々に成而したがい申者︀も無。
然る間{{r|逍|やう{{く}}}}わづかの{{r|安祥︀|あんじやう}}計をもたせ給ふ。然る間とても此君之御代をつがせられ給ふ事{{r|成難︀|なりがたし}}。其儀に而
も有ならば、{{r|長親|ながちか}}之御子は何れも同事成。長親ゑ御ほうかうの筋目は、何れと申も同然にさふらゑば、
次男に而をわしませば、內前殿を御代に立申、信忠をば{{r|胠|わき}}に{{r|置|おき}}申さんと云人{{r|多|おほ}}し。此中に信忠を{{r|捨難︀|すてがたく}}
思ふ衆の申ける者︀、又各之仰尤成、然とは{{r|雖|いへども}}{{r|長親|ながちか}}寄も、內前殿ゑは櫻井を被遣人をもわけて被遣
給ふ。信忠卿者︀御總領式にて御座あれば、{{r|安祥︀|あんじやう}}を{{r|讓|ゆづら}}せられ給ふ。其故人をも{{r|方|かた}}々達を初、度々のはしり
めぐりの衆を{{r|多|おほく}}付させ給ふ事者︀{{r|別|べつ}}之儀ならず。君之御不器︀用ならば{{r|各|おの{{く}}}}守り立申せとの儀成。君之御
ぶきやうにて各を{{r|初|はじめ}}申、我々迄もふの惡き事なれども、{{r|長親|ながちか}}之御見あてがいのごとくにも被成、此
君を御{{r|主|しう}}と仰ぎ奉り給へと申衆も有。いや{{く}}長親之御前をそむく物ならば、御{{r|主|しう}}之御命を{{r|背|そむき}}て
七{{r|逆罪|ぎやくざい}}の咎をかうむり、{{r|無間|むげん}}にも墮つべきが、是は各も御{{r|分別|ふんべつ}}あれ、此御家と申は、第一御{{r|武邊|ぶへん}}、第二
に御內之衆に御{{r|情|なさけ}}御{{r|詞|ことば}}の御{{r|念頃|ねんごろ}}、第三に御{{r|慈悲|じひ}}、是三つをもつてつゞきたる御家なれども、三つ之物
が一つとして不{{レ}}調。左樣にも{{r|候|さふらへ}}ば、とても御家者︀立間數、然る時んは{{r|長親|ながちか}}御跡は、此君之御代につぶ
れて、他之手に渡申事目之前成。我も人も子をもつ事者︀、大身少身供に道前成。そうれうが{{r|倥侗|うつけ}}て跡
を{{r|嗣|つぐ}}間敷と見ては、{{r|弟|おとゝ}}が利發なれば弟に跡を{{r|次|つが}}するは{{r|習|ならひ}}成。{{r|長親|ながちか}}も左樣に思{{r|召|めされ}}べき。內前殿も次男な
れども御子成、其故此御跡御代々之引付、三つの物一つもはづれさせ給はず、長親之御跡者︀立而ゆく故
者︀、{{r|兎角|とかく}}內前殿を御代に立まゐらせんと云、尤此君之御代を{{r|次|つが}}せられ間敷と、各々の仰尤道理成。我
我も左樣に者︀存知候。しかしながら、か樣に無{{レ}}{{r|情|なさけ}}も御{{r|主|しう}}に取あたり申も前々の{{r|因果|いんぐわ}}成。又我々の親達
之{{r|長親|ながちか}}之樣成御主に取あたり申而、御{{r|情|なさけ}}をかうむられ申も{{r|前々|ぜん{{ぐ}}}}の{{r|果報|くわほう}}成。然りとは申せども御{{r|普代|ふだい}}久
敷御{{r|主|しう}}を取替而、{{r|藪|やぶ}}之{{r|側|かたはら}}にすませ申を{{r|見|みる}}事も成間敷ければ、其時御有樣をみまいらせて、{{r|袖|そで}}に而{{r|淚|なみだ}}を
{{r|押|おし}}拭いて通るならば、その{{r|普代|ふだい}}之主をそれに取{{r|替|かへ}}たる者︀どもよとて、人之{{r|觀|みる}}處は{{r|扨|さて}}をきぬ、我心に{{r|𢦪|はづかしく}}
も可{{レ}}有、{{r|其|それ}}を思ゑば是非も無御供中而{{r|腹|はら}}を{{r|戮|きる}}迄、各々者︀{{r|互|たがひ}}之心々にし給ゑ。各之{{r|長親|ながちか}}之御跡之、つ
ぶれざる樣に內前殿を御{{r|代|よ}}に立申さんとの給ふも、{{r|長親|ながちか}}のため成。又我等供が御供申而{{r|腹|はら}}を{{r|戮|きらん}}と申も
長親之御ため成。我等どもがか樣に申をも、信忠者︀何とも思召者︀有間敷けれども、{{r|普代|ふだい}}之御主なれば一
{{仮題|頁=74}}
命をまいらする事は、露塵{{r|惜|をし}}からず。{{r|偖|さて}}も{{く}}御いたわしや、御不器︀用成故、各か樣に思ひたゝれ申
と思得ば、一入いたはり入まいらせ候。早御家も二つにわれ申由を信忠も聞召て、其中に{{r|頭取|とうどり}}之{{r|族|やから}}を
御手討に被成ければ、目出度御事かな御{{r|氣|き}}の付せ給ふと云者︀も有り。いや{{く}}何としても御{{r|代|よ}}者︀{{r|次|つが}}せら
れ{{r|難︀|がた}}きと申者︀計{{r|多|おほ}}し。然間{{r|信忠|のぶたゞ}}之仰には、何としても一門を{{r|初|はじめ}}又は小侍どもに{{r|屆|いたる}}迄も、我に思ひ付ぬ
と{{r|覩|みえ}}たり。{{r|其|それ}}を{{r|何|いかに}}と云に一門之者︀も{{r|遠|とほ}}立而出仕も無、小侍どもさゑ出仕をせず。{{r|賸|あまつさえ}}{{r|普代|ふだい}}の者︀迄我を嫌
うと{{r|覩|みえ}}ければ、さらば{{r|隱居|いんきよ}}して次郞三郞に{{r|讓|ゆづらん}}と仰有而、次男九郞{{r|豆|づ}}殿に{{r|械|ねぶのき}}の鄕を{{r|讓|ゆづら}}せ給ふ。三男十郞
三郞殿に{{r|見次|みつぎ}}之鄕を{{r|讓|ゆづら}}せ給ふ。次男三郞淸康得御{{r|代|よ}}を渡させ給ひ而、信忠者︀大{{r|濱|はま}}之鄕へ御{{r|隱居|いんきよ}}成。次
郞三郞{{r|淸康|きよやす}}御{{r|法名|ほふみやう}}{{r|道法|だうほふ}}、十三之御年御世に渡らせ給ひし寄此方、{{r|諸︀國|しよこく}}迄人之{{r|賸|もちい}}申事唯事不{{レ}}被{{レ}}{{r|成|な}}。去
程に此君者︀御{{r|脊矮|せいひき}}くして、御{{r|眼|まなこ}}之內くならてうのごとし。只打をろしのこたか寄も猶も見事にして、
御{{r|圖|かたち}}{{r|幷|ならぶ}}人無。殊に弓矢之道に{{r|上越|うへこす}}人も無、御やさしくして、大小人を隔て給はで、御{{r|慈悲|じひ}}をあそばし
御{{r|情|なさけ}}を{{r|懸|かけ}}させられ給ふ。{{r|去程|さるほど}}に御內之衆も一心に思ひ付、此君には{{r|妻子|さいし}}を歸り見ず一命を{{r|捨|すて}}而屍を土
上にさらし、山{{r|野|や}}の{{r|獸物|けだもの}}に引ちらさるゝとても何かは惜しからんや。此御跡六代の君、何れも御武邊
{{r|並|ならび}}に御{{r|慈悲|じひ}}同御{{r|情|なさけ}}をもつて、次第々々につのらせ給ふと{{r|云|いへ}}ども御六代に{{r|勝|すぐれ}}させ給得ば、天下を{{r|納|をさめ}}さ
せ給はん御事目の前成。去程に御{{r|膳|ぜん}}の{{r|上|あがる}}時分、各々出仕をする處に、御しるしの御でうぎを打あけさせ
給ひ而、{{r|指|さし}}出させ給ひ、{{r|面|めん}}々是に而酒を被下よと仰ける。各々頭を地に付而謹︀ん而伺候申す。何とて
被下ぬぞ、とく{{く}}との御意なれども、別の御酒盃供思はず御主の御めしのでうぎなれば、{{r|誰|たれ}}かは可
被下哉と思ひ而、猶もひれふすを御覽じて、面々何とて被下ぬぞ、{{r|過去|くわこ}}之{{r|生性能|うまれしやうよけれ}}ば主と成、{{r|過去|くわこ}}之
{{r|生性惡|うまれしやうあ}}しければ內之者︀と成、侍に{{r|上下|あがりさがり}}者︀無物成、{{r|謙|ゆるす}}に{{r|早|はや}}く被下よと御意之{{r|下|くだる}}故、餘り御辭退申歸而{{r|惡|あし}}
かりなんと存知、畏つて召出しに罷出る。其時{{r|包笑|ほゝゑませ}}給ひ而、老若ともに不{{レ}}ら{{レ}}殘罷出、三つづつ被下
よと御意なれば、餘り目出度忝さに、下戶も上戶も{{r|押|おし}}なべて三ばいづつほして罷立、道にて物語をす
る樣は、只今之御ぢやうぎの御酒盃並に御{{r|情|なさけ}}之御{{r|詞|ことば}}を、何程の金銀{{r|米錢|べいせん}}を知行に相そゑ、{{r|寶|たから}}物を山程被
下たると申すとも、此御{{r|情|なさけ}}には{{r|替難︀|かへがたし}}。只今之御酒盃之御酒者︀何と思召候哉。御方々又は我等供之{{r|頭|くび}}の
血成。此御{{r|情|なさけ}}には{{r|妻子|さいし}}を{{r|歸覩|かへりみ}}ず、御馬の{{r|先|さき}}に而討{{r|死|じに}}をして、御{{r|恩|おん}}之{{r|報|はう}}ぜん事今生之面目、冥土の思出可{{レ}}
成と申、各一同に尤成と{{r|悅|よろこぶ}}。又或時御能のありける時、淸康者︀{{r|緣|ゑん}}之上にて御見物被成候。內前殿を
{{r|初|はじめ}}、各々御一門其外者︀白洲に疊をしきて見物有。然處に內前殿御{{r|座敷|ざしき}}に有、御前衆御出無內にをもはず
しらずに、疊の端に{{r|腰|こし}}を{{r|懸|かけ}}けるを{{r|遠|とほく}}寄も御覽じて、我{{r|座敷|ざしき}}に{{r|腰|こし}}を{{r|懸|かけ}}る者︀は、何者︀ぞおろせと仰けり。
御{{r|使|つかひ}}參り而、內前はをりさせ給へと申。{{r|莅|いそぎ}}をりさせ給へと申せば、尤內前樣之御{{r|座|ざ}}敷に何とて{{r|上|あがり}}申さ
ん哉。をもはずしらずに、心不{{レ}}ら{{レ}}成たゝみのへりに{{r|腰|こし}}之{{r|懸|かゝ}}り申成。御意無供見{{r|懸|かけ}}申ばおり可申處に
{{r|畏|かしこまつて}}御座候と申處ゑ、重而御使參而申、{{r|早々|はや{{く}}}}おりさせ給ゑ、おりさせ給はずばおろし申せと申被付た
り。{{r|急|いそぎ}}おりさせ給ゑと申せば、彼人申、迷{{r|惑|わく}}成{{r|重|かさね}}て御{{r|使|つかひ}}をり申間敷と申さば{{r|社︀|こそ}}、{{r|畏|かしこま}}御座候と申上候
{{仮題|頁=75}}
處へ、か樣之儀{{r|迷惑|めいわく}}仕候。然共上之御目之御前、又は諸︀{{r|傍輩|はうばい}}之{{r|所思|おもわく}}か樣に御使を{{r|頻︀|しきつて}}請申、一人罷立も
{{r|後|うしろ}}もさび敷存知候ゑて{{r|赤面|せきめん}}仕、左樣にも御座候はゞ、恐には御座候ゑ共、御{{r|結緣思召|げちえんおぼしめされ}}而、內前樣も
御立被成候得、御供申可罷立、たとゑば頭は{{r|刎|はね}}らるゝとも、我等一人者︀罷立間敷とときつて、御能の
{{r|過|すぐる}}迄{{r|終|ついひに}}不{{レ}}立。然る處に御のうの{{r|過|すぎ}}而、各々罷立處に彼者︀に御城得罷可{{レ}}上由御使立、諸︀{{r|傍輩|はうばい}}も定而御
{{r|成敗|せいばい}}も可{{レ}}有と申、其身者︀{{r|勿論|もちろん}}思ひ定而有處へ、御使有ければ如{{二}}存知{{一}}なれば、{{r|驚|おどろく}}に不及、{{r|畏|かしこまつて}}御使
と打つれて御城ゑ參。淸康御覽じて{{r|汝等|なんぢら}}供は久敷{{r|普代|ふだい}}之者︀なれば、此{{r|先|さき}}々の一類︀も{{r|多|おほく}}討死をして、信
光、{{r|親忠|ちかたゞ}}、長親寄此方勳功を盡したる者︀のすゑ{{く}}、殊更{{r|汝等|なんぢら}}も度々の走りめぐり其名をえたりと云ど
も、我又少身なれば、かいがわしきあてがいもせざれども、{{r|普代|ふだい}}なれば我ために一命を{{r|捨|すて}}而、はしり
めぐりをする。か樣に思ひ入たる普代之者︀を{{r|持|もち}}たる故に、日本國がうごきて拾萬廿萬騎に而{{r|倚|よせかくる}}供、五
百三百に而も{{r|戮|きり}}而{{r|懸|かゝらん}}と思ひしは、かれらを持たる故成。{{r|普代|ふだい}}之者︀を{{r|置|おき}}而、當座の侍を二萬三萬持たれ
ばとて、其に而多勢ゑ懸りて利をなさん事思ひも不{{レ}}寄。然間{{r|汝等|なんぢら}}を{{r|初|はじめ}}{{r|普代|ふだい}}之者︀一人をば、か程少身な
れ供神︀八幡も御照覽あれ、一郡にはかゑ間敷。{{r|汝等|なんぢら}}どもがごとくの者︀を{{r|持|もち}}たる故に、我又年にもたら
ずして、其故少身にして拾二三に成而天下を心懸一{{r|陣|いくさ}}せん事、{{r|汝|なんぢ}}供を賴成しに內前殿{{r|父|おや}}げ無{{r|汝|なんぢ}}をふみ
つぶさんとし給ふ。內前殿儀ならばはしりめぐりの者︀供には、{{r|情|なさけ}}をも懸給而、我等が用にも立樣にと被
成候て給而{{r|社︀|こそ}}者︀本意なれ。{{r|却而|かへつて}}か樣にはしりめぐりの者︀を無被成れんとの{{r|充行|あてがい}}は、去とは{{r|父|おや}}げ無あて
がいに{{r|社︀|こそ}}あれ。{{r|汝|なんぢ}}度々のはしりめぐりにはあてがいせざれども、今日座敷を立ならば{{r|惜者︀|をしき}}にはあれど
も、{{r|是非|ぜひ}}供兄弟一るいを成{{r|敗|ばい}}せんと思ひ定而、今立か{{く}}としり目に懸て{{r|覩|みて}}あれば、されども{{r|能立去|よくたゝざる}}、
{{r|汝|なんぢ}}には地かた四貫出しつるが、今日{{r|能|よく}}立候{{r|去|ざる}}褒美に五貫かさねて九貫にしてとらするぞとて被下けり。
是を聞、國中之大小之侍どもの申は、異國者︀しらず、本朝には御{{r|慈悲|じひ}}と云御{{r|情|なさけ}}と云御武邊と云、淸康に
ましたる御主は難︀{{レ}}有と云。
然處に{{r|岡崎|をかざき}}之城をば於平{{r|彈|だん}}正左衞門督殿{{r|持|もた}}せられ給ふ。同山中之城をも、彈正左衞門督殿寄持たるを、
大久保七郞右衞門てうぎをもつて{{r|忍|しの}}び取に取せ給ふ。其褒美を{{r|{{?|「阝+台」}}|のぞめ}}と御意なれども、上樣御少身なれば
知行可{{レ}}被{{レ}}下との{{r|{{?|「阝+台」}}|のぞみ}}も無御座候。御{{r|普代|ふだい}}之御主なれば御{{r|忠節︀|ちうせつ}}者︀申成。年者︀罷寄成、新八郞、甚四郞、
彌三郞、兄弟三人之子供者︀、其身にしたがいて御知行をば被{{二}}下置{{一}}成。何の{{r|{{?|「阝+台」}}|のぞみ}}無{{二}}御座{{一}}と申上げれば、
重而何を{{?|「阝+台」}}申せと{{r|御諚|ごぢやう}}有りければ、年寄之候何を{{r|指|さし}}而{{r|莅|のぞみ}}可申哉。然者︀御分國之內の市之{{r|升|ます}}を被下候ゑ、
升取を申付而{{r|置|おき}}申物ならば、我等之すぎあいほどの儀者︀御座可{{レ}}有、別之{{r|莅|のぞみ}}も御座無と申上ければ、其儀
{{r|安|やすき}}申分成とて被下けり。{{r|扨|さて}}其後岡崎を取んと被成ければ、彈正左衞門督殿も、とても成間敷と思{{r|召|めさ}}れ、
其儀ならば淸康を{{r|婿|むこ}}に取而、岡崎を{{r|婿|むこ}}一せきに渡させ給ひけり。其儀に寄而御家に而三御{{r|普|ふだい}}代と申儀
は、安祥︀御普代、山中御普代、岡崎御普代と申成。{{r|安祥︀|あんじやう}}御普代と申者︀、{{r|信光|のぶみつ}}、{{r|親忠|ちかたゞ}}、{{r|信忠|のぶたゞ}}、{{r|淸康|きよやす}}、
{{r|廣忠|ひろたゞ}}迄、此方召つかはれ申御普代成。山中御普代、岡崎御普代と申す者︀、淸康之御拾四五之時{{r|切|きり}}取せ給
{{仮題|頁=76}}
ひし處の衆成。案祥︀の儀は不{{レ}}及{{レ}}申{{soe|に}}、安祥︀寄山中を先切取せ給故に、山中をも御本{{r|領|りやう}}とは被{{レ}}仰候成。
其後に淸康の仰には{{r|未|いまだ}}出仕をせざる一門、又は國侍ども之方ゑ仰つかはされける者︀、{{r|信忠|のぶたゞ}}{{r|隱居|いんきよ}}有而我
に代を{{r|讓|ゆづら}}せ給ふに付、{{r|纔|わづか}}五百三百之{{r|普代|ふだい}}之者︀計にて、あたりまはりを{{r|切|きり}}付而、大方一門も出仕をする、
其外之者︀ども出仕をすれども、其方など者︀一圓に構も無、有事者︀不{{二}}心得{{一}}早々出仕をせよ。然ども存
分も有而出仕をすまじきにをいては、存分次第此返事に寄而{{r|押懸|おしかけ}}而存分によつてふみつぶすべしと仰
つかわしけれ者︀、信忠に{{r|偭|そむき}}奉り其故身を引に、今御出仕遲なはり奉る成。右の御意趣を打被{{レ}}拾御{{r|徐|ゆるされ}}可
被下候ゑ。淸康ゑ何と而違背可{{二}}申上{{一}}哉。今日罷越出仕可{{レ}}仕と申而、出仕之方も有、又は信忠に{{r|偭|そむき}}申候
條、只今も淸康へ出仕之事、思ひも不{{レ}}寄と申處ゑ者︀、{{r|押寄|おしよせ}}給ひ而ふみつぶさせ給ひ而、手あらく被{{レ}}成候
得者︀、{{r|殘所|のこるところ}}の衆者︀手を合降人となれば、御{{r|慈悲|じひ}}に而{{r|寬|ゆるさ}}せ給ふ。御拾三にして御代を請取せ給ひし寄、
御內之衆に{{r|哀|あはれ}}見御{{r|情|なさけ}}申つくしがたし、其に寄而一入怕懼れけり。御武邊{{r|武渡|たけくわたら}}せ給ふ故、一しほ御{{r|慈悲|じひ}}
を被成、御{{r|哀|あはれ}}み御{{r|情|なさけ}}を{{r|懸|かけ}}させ給ひ而、人一人にもふそくを{{r|持|もた}}せ給ず、御面目をうしなわせ給ず。{{r|況|いはん}}や
追い拂い御成敗と申事も無人を{{r|惜|をしま}}せ給ひけり。是と申も御代々久敷者︀なれば、いたづらに人をうしなは
ん寄、我馬之先に而打死をさせ、御用に立させられんと思召入たり。拾三拾四にして{{r|纔|わづか}}少之安祥︀之小
城を{{r|請取|うけとら}}せ給ひ、{{r|纔|わづか}}五百三百之人數に而御{{r|年|とし}}にもたらせ給で、早西三河を切取せ給ふ。是と申も第一
御武邊{{r|武|たけき}}故成。第二には君を大切に思ひ奉る、御普代を{{r|持|もた}}せ給ふ故成。{{r|何|いか}}に{{r|能|よき}}御普代を持せ給ふとも
君之心二にして、御{{r|慈悲|じひ}}も無、御{{r|情|なさけ}}も無、御{{r|哀|あはれ}}みも無者︀成{{r|難︀|がたし}}。又は君之御心{{r|武|たけく}}渡せ給ふとも、御{{r|普代|ふだい}}
衆君を一心に御たいせつに思ひ入不{{レ}}申して{{r|摝|かせぐ}}事鈍く候はゞ、{{r|何|いか}}に思召とも成{{r|難|がたし}}。淸康と申者︀御武邊第
一、樊噲張良をもあざむき、御{{r|慈悲|じひ}}、御{{r|情|なさけ}}、御{{r|哀|あはれ}}みふかうして、御{{r|內|うち}}衆も御代々久敷御普代と申、思ひ
付申而君には妻子を歸見ず、一命を{{r|捨|すて}}而{{r|㷄|ひ}}水の中ゑも飛入、是非ともに御用に立而御馬之先に而打死
をすべし。たとゑ拾萬廿萬有と云とも、五百三百之者︀ども君を中に取つゝみまん中ゑ{{r|戮|きつて}}而入、四方八面
切而𢌞らば、何かはためん哉。御年拾九の時尾{{soe|を}}島之城を取せ給ふ。廿斗之時{{r|尾張|をあり}}之國へ御手を{{r|懸|かけ}}させ
給ひ而、岩崎しな野と云鄕を切取給ひ而、しなのゝ鄕をば松平內前殿へつかはさる。其寄うりの
{{r|熊谷|くまがえ}}が城ゑ御{{r|働|はたらき}}成、早其時者︀西三河之人數八{{r|千|せん}}有。拾五六手に{{r|作|つくり}}段々におさせられ、岡崎を打出させ給
ひ而、やわたに御陣を取せ給ひ而、明ければうり寄一二里へだたり而、御陣を取せ給ひ而、明ければ
段々におさせられ、{{r|熊谷|くまがえ}}が城へ押寄給ひ而、{{r|放火|はうくわ}}して大手ゑ者︀松平內前殿、同右京殿、其外御一門の
衆{{r|寄|よせ}}させ給ふ。御{{r|旗|はた}}本はからめ手上のかさゑ押上させ給、天地を{{r|響︀|ひゞ}}かせ四方{{r|鐵砲|てつぽう}}打こみ鬨をあげさせ
給ふ。{{r|熊谷|くまがえ}}も去弓取なれば、事ともせずして大手へ{{r|切|きつ}}而出る。松平右京殿と申者︀、御一門之中にも{{r|勝|すぐれ}}
たる弓取、又は他人にも右京殿の{{r|上|うへ}}こす者︀は無。然間一足去らず{{r|戈|たゝ}}かはせ給ふ所に{{r|良且戈|やゝしばらくたゝかひ}}給ふが、
{{r|多|おほく}}之{{r|疵|きず}}をかうむり、{{r|場|ば}}もさらずして{{r|主|しう}}從十二三人討死をし給ふ。松平右京殿と申者︀、武邊第一と申一
度も{{r|逆心|ぎやくしん}}之無人なれば、淸康も事之外{{r|惜|をしま}}せ給ひて、御落淚中々申つくしがたし。其時內前殿{{r|貳|すけ}}させ給
{{仮題|頁=77}}
はゞ、右京殿討死は有間敷に、內前殿一圓{{r|貳|すけ}}させ給はず。淸康者︀からめ手の山寄見下させ給ひ、內膳
は何と而{{r|貳|すけ}}ざると而御拳を握らせ給ひ、御{{r|眼|まなこ}}を見出し御顏をあらめ、{{r|{{?|「齒+分」}}|はがみ}}を被成{{r|白泡|しらあわ}}を{{r|䶦|かませ}}給ひ而、突︀
立て{{r|眦而泚|にらめあせ}}を{{r|滂|ながさせ}}給ふ御有樣、{{r|瘴|やく}}神︀天滿鬼神︀も面を可{{レ}}合樣も無。餘りに御{{r|勢|せい}}にするかねさせ給ひ而、內
前殿を{{r|召|めさ}}れて、只今右京仕合に付、{{r|貳|すけ}}られずしてかなはざる所を、よそにみ而國にも{{r|替|かへ}}間敷右京をば
討せ給ふ哉、さりとは{{r|貴|き}}方之{{r|貳|すけ}}させられでかなはざる處をよそに見て、國にも替間敷右京をば打せ給
ふ哉。去とは貴方之{{r|貳|すけ}}させられではかなはざる處成を、よそに見所にはあらず。明日にも御覽ぜよ。
弓矢八幡天道大𦬇も御{{r|照覽|せうらん}}あれ。我等が手前において、一門の者︀を打せては見間敷と仰けり。內前殿
も{{r|異儀|いぎ}}に不{{レ}}及赤面してをはします。內前殿は{{r|生|いき}}ての{{r|羞|はぢ}}、右京殿者︀に今{{r|初|はじめ}}の事なれども{{r|死|しに}}ての面目名を
上給ふ。{{r|儅|さて}}又各々申ける者︀、此君者︀御{{r|慈悲|じひ}}御{{r|情|なさけ}}御{{r|哀|あはれ}}みふかき君なれども日頃の御{{r|悲慈|じひ}}、御{{r|情|なさけ}}、御{{r|哀|あはれ}}み
はか樣之時打死をさすべき御ために、{{r|日頃|ひごろ}}御ふびんをくはへさせ給ふ成。只我人命を{{r|捨|すて}}て{{r|摝|かせぎ}}給へ。か
樣にうつくしく{{r|俰|やはらか}}にあたらせ給ふ君の{{r|伯父親|をぢおや}}に而まします。內前殿へ被{{レ}}仰にくき事を、{{r|儅|さて}}も{{く}}{{r|荒|あら}}々
と手ぎつく被仰候物かなと、各々舌を捲き興醒めて{{r|社︀|こそ}}ゐたり。思ゑば此君者︀人間に{{r|替|かはり}}たるとぞ申けり。
弓矢の道におそらくは、{{r|異|い}}國者︀しらず本朝にはあらじ。{{r|扨|さて}}又東三河をば牧野傳藏が{{r|持|もつ}}、淸康東三河へ
御{{r|働|はたらき}}とて{{r|段|だん}}々にそなへ、岡崎を打出させ給ひ而{{r|押|おさせ}}られ給ふ。岡崎を立而{{r|赤坂|あかさか}}に御陣を取せ給へば、先
手者︀{{r|御油|ごゆ}}かうに陣を取、明ければ赤坂を打立たせ給ひ而、小坂井に御{{r|籏|はた}}が立。先手は{{r|押|おし}}おろして、下
地の{{r|御油|ごい}}を放火する。吉田之城寄是をみて、少國を二人して{{r|持|もつ}}而何かせん、今日實否の合戰して東三河
を淸康ゑ付物か西三河を我取物か、實否の合戰爰成とて、大舟小舟に而吉田河を打越舟を{{r|置|おく}}ならば、
味方の心も未練︀出來かせんとて、舟をば{{r|突︀流|つきながし}}而{{r|懸|かゝる}}。淸康是を御覽じて、小坂寄御{{r|籏|はた}}を{{r|押|おし}}おろさせ給ひ
而{{r|打向|うちむかはせ}}給ふ。傳藏も{{r|下|しも}}地へ押上、淸康は下地之{{r|塘|つゝみ}}へ押{{r|上|あげ}}んとす。兩{{r|方|はう}}{{r|塘|つゞみ}}之兩
之{{r|腹|はら}}に{{r|芝付|しばつき}}而半日{{r|𣂉|ばかり}}{{r|互|たがひ}}之念佛之{{r|聲|こゑ}}斗して、大事に思ひ而、しん{{く}}と心をしづめて{{r|居|ゐ}}たり。傳藏、傳
次、新次、新藏、兄弟四人一つ處に西之方にぞ居たりけり。淸康と內前は兩陣に群がつて、東西をか
けまはり、敵の中へかけ入{{く}}ざいを取給ふ。然る所に御馬まわりの衆はしり寄而、ゆはれざる大將
之{{r|敵|てき}}之中へかけいらせ給ふとて、御馬の水付に取付ければ、あやかりめはなせとて采配を取なほし給
ひ而、{{r|脥|つら}}を打御{{r|腰|こし}}物に御手を懸させ給ひ、はなさずば成敗せんと仰ける所へ、內前殿かけよせ給ひ而
何物ぞあやかり、はなせ{{r|放|はな}}して打死をさせよ。大將をばかばう處が有物ぞ、大將をかばいても{{r|軍|ぐん}}兵が
{{r|負|まくれ}}ば、大將ともに打死をするぞ。軍兵が{{r|勝|かて}}ば大將も{{r|生|いき}}るぞ、はなして下知をさせて打死をさせよと仰
ければ放しけり。去程に內前は{{r|敵|てき}}味方に見しられんため、{{r|鋹|かぶと}}をぬいでとつてからりと{{r|捨|すて}}、淸康と內前
と敵之中得懸入々々げぢをなし給ゑば、何れも是にいきほひて塘へ{{r|懸上|かけあがり}}、{{r|鑓|やり}}を{{r|互|たがひ}}になげ入る寄{{r|其儘|そのまゝ}}つ
きくづして河へ追はめけり。傳藏兄弟四人是を{{r|見|みて}}突︀つ立ければ、何れも{{r|負|まけ}}じと立而{{r|鑓|やり}}をなげ入ければ
淸康{{r|方負|かたまけ}}にけり。然ども淸康之御{{r|旗|はた}}本が{{r|勝|かち}}而吉田河へおいはめ候故、淸康と內前跡寄{{r|懸|かゝ}}らせ給へばな
{{仮題|頁=78}}
じかはたまるべき哉、傳藏、傳次、新次、新藏、兄弟四人を討取る。吉田之城に者︀女房ども出て見而
{{r|下|しも}}地をふうするに、出而見よとてこんがうをはきて出て、塀寄見越而見る。淸康者︀思之儘に合戰に打
{{r|勝|かち}}而、吉田河之上之瀨へまはりて河を{{r|騎|のり}}越、吉田之城へ{{r|卽|すなはち}}{{r|責|せめ}}入給ゑば、女房どもはこんがうをはき
て田原へ{{r|落行|おちゆく}}。淸康者︀吉田に一日之御とうりう被{{レ}}成、明ければ吉田を打出させ給ひ而、{{r|段々|だん{{く}}}}に備を{{r|押|おし}}
田原へ{{r|押寄|おしよせ}}させ給ひければ、戶田も降參を乞いければ{{r|寬|ゆるさせ}}給ふ。田原に三日之御陣之取給ひ而、明ければ
又吉田へ押もどさせ給ひ而、吉田に十日御とうりう之內に、山{{r|家|け}}三方、{{r|作手|つくで}}、{{r|長間|ながしの}}、{{r|段嶺|だみね}}、野田、{{r|牛|うし}}
久保、{{r|設樂|しだら}}、西鄕、二れん木、伊名、西之郡、何れも{{く}}降參を乞いければ{{r|寬|ゆるさせ}}給ひ而出仕する。明け
れば吉田を御立有りて岡{{r|崎|ざき}}ゑ着せ給ふ。其寄して{{r|案祥︀|あんぢやう}}之三郞殿と申奉り而、諸︀國に而人之{{r|沙汰|さた}}するは
淸康之御事成。然間{{r|早|はや}}{{r|甲斐|かひ}}の國の{{r|信虎|のぶとら}}寄も仰合らるゝと、{{r|使者︀|しゝや}}をつかはさるゝ。是をきゝて近國寄
{{r|使者︀|ししや}}之有りけり。{{r|美濃|みの}}三人衆者︀{{r|早|はや}}御馬を寄られ候ゑ、御手を取り申さんと申せしところに、{{r|尾張|をはり}}之國森
山御手を取申故、{{r|美濃|みの}}へ御心懸有而、森山之御陣とて一萬餘に而岡崎を立給ひ、御一門之衆先手とし
て、段々にそなへて押せられ、其日者︀{{r|岩崎|いはざき}}に御陣を取、明ければ森山に御着有而、御陣をはらせ給ひ
けり。其寄して{{r|美濃|みの}}三人衆ゑも、是迄御出陣之由仰つかはさる。小田之{{r|彈正|だんじやう}}之{{r|忠|ちう}}は{{r|淸須|きよす}}に有と云とも
{{r|此方彼方|こゝかしこ}}打ちらして放火せしめ給ふ。{{r|美濃|みの}}三人衆も{{r|悅|よろこび}}而{{r|頓|やが}}而數の{{r|俣|また}}を打越而打むかひ中、御對面可{{レ}}仕
と申越其支度有處に、松平內前殿はうり之熊谷が處ゑ御、{{r|働|はたらき}}之時、松平右京殿ゑ{{r|貳|すけ}}させ給はざるとて、
荒々としたる御{{r|詞|ことば}}を{{r|意趣|いしゆ}}に籠め、其{{r|耳弄|のみならず}}淸康御手をくだき給ひ而、西三河をたいらげさせ給ひ、東三
河の牧野傳藏を打取、一國をかため給ひしかば、小田之{{r|彈正|だんじやう}}之忠にせりとゞめさせて、岡崎を{{r|安|やす}}々と
取物ならば、三河之國者︀我等が物と思ひ定而、{{r|上|うへ}}野の城に居而、{{r|虛病|きよびやう}}をかまひて今度の御供者︀{{r|無|なし}}。{{r|上|うへ}}
野の城に御入有而、其寄信長之御父、小田之{{r|彈|だん}}正之忠と仰合られて{{r|別心|べつしん}}と申而、森山ゑつげ來。淸康
{{r|聞召|きこしめされ}}て、內膳別心をしてあればとて、何程のかうをなすべきとて、事とも思{{r|召|めされ}}ず。然る時んば森山者︀
內前殿{{r|婿|むこ}}なれば、{{r|彈|だん}}正之忠を引{{r|請|うけ}}而候はゞ、のきくち{{r|如何|いか}}が候はんと申ければ、森山が城を出るなら
ば、付入にして城を{{r|㸋|やき}}はらひ可{{レ}}申。{{r|彈|だん}}正之忠向うならば、願のことく一合戰してはたすべし。{{r|彈正|だんぜう}}の
忠と{{r|合戰|かつせん}}のするならば、內前をふみつぶすに不{{レ}}及、{{r|獨|ひとり}}ころびにならん。其故彈正忠も出て我に太刀を
合ん事思ひも寄らず。出る事は成間敷、我案祥︀に有し時、{{r|纔|はづか}}に五百三百{{r|持|もち}}たりし時さゑ、一度天下を
心懸而有にも、百々度之{{r|軍|いくさ}}をせずんば天下は{{r|治|をさめ}}られじ。野に向き山に向き{{r|敵|てき}}とだにも{{r|見|みる}}ならば、是非
ともに押寄而百萬騎有とも百々度之{{r|軍|いくさ}}をせんと思ひ而有り。何時も軍ならば、はづす間敷に心安あれ
と仰けり。然者︀退かせられ給はゞ、{{r|大給|おきふ}}の源次郞殿者︀、內前殿{{r|婿|むこ}}に而有り。いかゞ御座可{{レ}}有哉と申け
れば、中々之事を申物かな、{{r|彈|だん}}正之忠をさへ何供思はぬに、源次郞{{r|連|づれ}}が何とて出て我を{{r|禦|ふせがん}}哉。若出る
ならば{{r|頭|くび}}に石を付而我と{{r|潭|ふち}}ゑ{{r|飛|とび}}入に{{r|社︀|こそ}}あれ。其迄も{{r|無|なき}}{{r|池鯉鮒|ちりふ}}へ出てすぐに上野ゑ押寄、二三之丸を{{r|燒|やき}}
はらいてのくべしと仰ければ、各々被申けるは、其儀{{r|如何|いか}}が御座可{{レ}}有哉。小河は內前殿の{{r|婿|むこ}}なれば、
{{仮題|頁=79}}
定而小河寄も加{{r|勢|せい}}もや可{{レ}}有と申ければ、から{{く}}打{{r|咍|わらはせ}}給ひ而、中々之事面々者︀何を案ずるぞ。我とを
るに小河などが百萬之人數を{{r|持|もち}}たればとて、出て我に太刀を合ん哉。出る{{r|成|ならば}}滿足と仰ける。然る處に
{{r|阿部|あべ}}之大藏惣領之彌七郞を{{r|喚|よび}}而申けるは、何とやらん{{r|世間|せけん}}之騷々敷に付而、我等も{{r|別心|べつしん}}を{{r|䇅樣|くはだつる}}に{{r|沙汰|さた}}
をすると聞、我君之{{r|御恩|ごおん}}ふかくかうむり、今人と成し我等ぞかし、此御{{r|恩|おん}}を何としてかほうぜん哉。
然ども此御{{r|恩|おん}}は今生に而ほうずる事中々{{r|成難︀|なりがたし}}と、寐ても寤めても是を{{r|社︀|こそ}}思ひ{{r|暮|くらし}}申せしに、か樣に人に
{{r|沙汰|さた}}を致さるゝも、天道之つきはてたる事成、{{r|逆心|ぎやくしん}}之思ひ寄ず、{{r|若|もし}}我左樣成儀もあらば、君之御ばつと
蒙りて人も人とは云ずして、後には乞食をすべし。日本は神︀國なれば、諸︀神︀諸︀佛もなどか我を安穩に
而{{r|置|おかせ}}られ間敷候べし。何とて此君之御{{r|恩|おん}}を{{r|譞|わすれ}}申さん哉。{{r|哀纆綱|あはれなはつな}}をも懸させられても、水火之{{r|責|せめ}}に而も
御{{r|尋|たづね}}あらば、申披きても果て度は存ずれども、物をもゆはせ給はで、御{{r|成敗|せいばい}}も有ならば、よみじのさ
はりとも可成に、人{{r|聲|こゑ}}高く{{r|憂世|うきよ}}さうざう敷も有ならば、我等を御せいばい有と心得而、{{r|汝等|なんぢら}}者︀何方へ
も取籠り候へ而、我等が親は{{r|逆|ぎやく}}心之儀者︀夢々心に無{{二}}御座{{一}}候。此中も憂世に而其沙汰を仕とは、內々
承及申つれども、夢々左樣成儀ども者︀不{{レ}}存候と、又は仰出しも無御座候へば、此方寄申上候へば、
{{r|却而|かへつて}}あやまり有に似たりと存知、又は其{{r|證跡|ぜうぜき}}少成供{{r|似|にた}}る儀有間敷、仰出しも御座候時可{{二}}申上{{一}}と存知
候而罷在、御{{r|普代|ふだい}}久敷召つかはされ申{{r|耳成|のみならず}}、{{r|賸|あまつさへ}}君之御蔭をもつて人と罷成、此御{{r|恩|おん}}を{{r|忘|わすれ}}て御{{r|謀叛|むほん}}申
ならば、日本に{{r|諸︀|しよ}}神︀もましまさば、天命よかる間敷、此上にても七{{r|逆罪|ぎやくざい}}をかうむりて、{{r|無間|むげん}}の{{r|棲|すみか}}をい
たさんに、何とて君に弓を{{r|彎|ひき}}申、御{{r|謀叛|むほん}}を申上候はん哉。夢々父子ともに不存候由を申上、其故尋常
に{{r|腹切|はらきり}}申せと申きかせ候ゑば、親の仰をもそむき、御主に敵を申上げ、七{{r|逆|ぎやく}}五{{r|逆|ぎやく}}の{{r|咎|とが}}を{{r|請|うけ}}申す事、日
本一の阿房彌七郞めとは此事成。然間君之御運つきさせ給ふ哉。御馬が{{r|逸︀|はな}}れて人{{r|聲高|こゑたかく}}候へば、父之大
藏を御成敗かと心得而、彌七郞せんごの{{r|刀|かたな}}にて、淸康何心も無して御座有處を、ひんぬいて{{r|切害|きりころし}}申。
上村新六郞是を{{r|見|みて}}、彌七郞を其場にて切伏{{r|踏害|ふみころす}}。各々是を聞{{r|莅|いそぎ}}參りて君之御有樣を{{r|見|みて}}、各々落淚する
事、釋尊の御入滅もかくやと思ひしられて{{r|哀|あはれ}}成。各々餘りの{{r|腹|はら}}立に彌七郞が死骸を{{r|屎堀|くそぼり}}に{{r|踏|ふみ}}こむ。各
各あきれはて、とほうにくれていたる處に、上村新六郞申けるは、御かたきは打申成。此故者︀思ひ{{r|置|おく}}
事{{r|無|なき}}、{{r|腹|はら}}を{{r|切|きり}}て御供を可申由を申、其時各々被申ける、君を切申たる彌七郞を切申事{{r|手|て}}がら申に不及
比類︀無、然どもか樣に君之不慮之御仕合あらんとも、神︀ならねばしらずして、陣屋ゑ{{r|寬|くつろ}}げし故に、居
合ずして各々{{r|迷惑|めいわく}}、{{r|流水|りうすゐ}}{{r|不|ず}}{{レ}}{{r|歸|かへら}}{{r|後悔︀|こうくわい}}{{r|不|ず}}{{二}}{{r|先立|さきだた}}{{一}}、か樣の事あらんとしりたらば、{{r|誰|たれ}}かは陣屋へくつろげん哉。
{{r|折節︀|をりふし}}御身有合而天道にも叶い候いて、彌七郞を打給ふ事ひるい無云にも不及。然ども有合たる事なら
ば、{{r|誰|たれ}}かは御身に{{r|{{?|「足+習」}}|おと}}らん哉。有合ぬ事{{r|社︀|こそ}}天道にはなされたり。{{r|本|もと}}寄もおひ{{r|腹|ばら}}を切申事、御身にも{{r|誰|たれ}}か
{{r|{{?|「足+習」}}|おと}}らん哉。{{r|併|しかしながら}}御身者︀{{r|追腹|おひはら}}を切給ゑ、我ら供者︀是に而{{r|追腹|おひばら}}は切間敷、{{r|追腹|おひばら}}の切つぼに而可{{レ}}{{r|切|きる}}、御身も
ふんべつ有而切給ゑと、各々申されければ、新六郞聞而申、{{r|追腹|おひばら}}の切處者︀何くぞや。各々被申ける、
{{r|追腹|おひばら}}の切處と{{r|者︀|いつは}}十日と過ごす間敷、小田之{{r|彈正|だんじやう}}之{{r|忠|ちう}}、{{r|岡崎|をかざき}}へ{{r|押寄|おしよせ}}べし。各々是に而腹を切程ならば、
{{仮題|頁=80}}
岡崎に者︀人も無して若君御一人{{r|御|おはしまさ}}ば、{{r|彈|だん}}正之忠{{r|押寄|おしよせ}}而{{r|鵜鷹|うたか}}の餌を{{r|伐|うつ}}樣に{{r|打|うた}}せ申さんは無念に存知可
申。然ば若君樣之御先に而{{r|追腹|おひばら}}をば{{r|切|きり}}可申。{{r|追腹|おひばら}}之切處是成。御身も同は爰に而之{{r|追腹|おひばら}}思案あれ。何
くに而切も同事なれば{{r|停|とゞめ}}はせず。新六郞被{{レ}}申ける、げに思ひ{{r|縒|あやまつて}}候。各々と一{{r|身|み}}して若君之御前に而
切死に死可申と云ければ、各尤成、とても{{r|切|きる}}{{r|追腹|おひばら}}ならば、各々と一身して火花をちらして切死にし給
へ、御供申而可{{レ}}切とて、森山を{{r|落|おち}}而歸る。森山も{{r|落勢|おちぜい}}なれども心も{{r|替|かはらず}}して手も不{{レ}}付して歸しける。內
前殿も只今は何かと申而手出し{{r|有|あら}}ば、城を{{r|持|もち}}かためては成間敷とや思召ける哉、{{r|玃待|さるまち}}の歌のごとくに
{{r|寢|ね}}たるぞ{{r|寢|ね}}ぬぞにして、{{r|宇|そら}}だるみして二三ヶ月之間者︀、兎角之御取合もなくして、萬事{{r|指|さし}}引を{{r|御|おはします}}。其
內に{{r|悉|こと{{ぐ}}く}}引付給ひ而、我者︀同前にいたされ申す。淸康三拾之御年迄も、御命ながらへさせ給ふならば、
天下はたやすく治させ給んに、廿五を越せられ給はで、御遠行有{{r|社︀|こそ}}無念なれ。三河に而森山{{r|崩|くづ}}れと申
は此事成。
お{{r|千|ち}}代樣拾三にして淸康におくれさせ給ゑば、森山くづれて十日も{{r|過去|すぎざる}}に小田の彈正之忠三河へ打出、
大樹寺に{{r|旗|はた}}を立る。其時森山にて{{r|追腹|おひばら}}{{r|切|きらん}}と申衆、我人{{r|追腹|おひばら}}者︀爰成、若君樣は城に而御腹を被成而、城に
火を懸させ給ゑ。然ども聊爾に御{{r|腹|はら}}を{{r|切|きら}}せ給ふな。各々打死を仕物ならば、敵方城ゑ{{r|押寄|おしよせ}}而、二三の
丸ゑ{{r|責|せめ}}入らば、其時御{{r|腹|はら}}被{{レ}}成候ゑ、其寄內は御腹者︀{{r|切|きらせ}}給ふべからず。我等供はとても{{r|追腹|おひばら}}を切申上は
御城を罷出{{r|廣|ひろき}}處ゑ罷出、{{r|浮世|うきよ}}之思ひ出に、花々と{{r|戮|きり}}死に可仕、取{{r|譽|ほめ}}られて{{r|此方彼方|こゝかしこ}}に而死する物なら
ば、人も{{r|追腹|おひばら}}とは申間敷、然ども{{r|何|いか}}に御{{r|普代|ふだい}}と申とも御{{r|慈悲|じひ}}、御{{r|情|なさけ}}、御{{r|哀見|あはれみ}}も{{r|御|おはしまし}}給はずば、其{{r|場|ば}}其
場にて、當座之死者︀仕候とも、か樣に{{r|妻子|さいし}}眷屬を{{r|捨|すて}}而、打死仕事よもあらじ。君之御代々我等供之代
代之御{{r|情|なさけ}}、御{{r|慈悲|じひ}}、御{{r|哀見|あはれみ}}、殊更淸康之御{{r|慈悲|じひ}}、御{{r|情|なさけ}}、御{{r|哀見|あはれみ}}を思ひ出し奉れば、妻子けんぞくを{{r|敵|てき}}に
只今打{{r|剿|ころされ}}申、又は我等{{r|共|ども}}は打死仕たる斗にては足り不申、御代々又は淸康御{{r|慈悲|じひ}}、御{{r|情|なさけ}}、御{{r|哀見|あはれみ}}無
者︀、{{r|何|いか}}に御{{r|普代|ふだい}}成とも此時は妻子けんぞくをかこちて、山野に{{r|隱忍|かくれしのび}}而命をつぐべけれども、淸康之御
{{r|情|なさけ}}に者︀妻子けんぞくも{{r|惜|をしから}}ず。{{r|扨|さて}}各々若君を見上而見まいらせ、{{r|淚|なみだ}}をはら{{く}}と{{r|泊|ながし}}、各々妻子けんぞく
ともに只今果て申事を、{{r|露塵|つゆちり}}程もをしからじ。若君に御代を{{r|持|もた}}せ不申して、御年にもたらせ給はぬに、只
今來世之御供を申事之{{r|遖|かなし}}さよと、申もあゑず一度にはつと{{r|嗁|さけぶ}}。是や此釋尊の御入滅の時、拾弟{{r|御|み}}弟子、
拾六羅漢︀、五拾二類︀にいたる迄、{{r|遖嗁|かなしみさけぶ}}もかくやらん。{{r|儅|さて}}又御{{r|普|ふだい}}代に而無者︀何物かか樣には{{r|遖|かなし}}まん哉。
是を思へば主人之{{r|實|たから}}には{{r|普代|ふだい}}の者︀にしくは無、二つ有事は三つ有とは、{{r|能|よく}}{{r|社︀|こそ}}申つたへたり。淸康之御
仕合に一度{{r|嗁|さけび}}、只今若君樣に別れ申に、二度之{{r|嗁|さけび}}打死をとげ申さんとて出るに、妻子けんぞく{{r|鎧|よろい}}之{{r|袖|そで}}
に取付、かなぐり付而{{r|嗁|さけぶ}}事三度之歎成。{{r|早時刻|はやじこく}}うつり候、御{{r|暇|いとま}}申而さらばとて、御前を立而能出る。
神︀も爰を大事と思{{r|召|めす}}にや、伊賀の鄕之八幡宮之鳥居、伊田之鄕の方ゑ一{{r|間間|けんま}}{{r|中|なか}}{{r|步|あよ}}ぶ。各々岡崎を半道
程出而伊田之鄕に而、敵を待懸而{{r|居|ゐ}}たりと云とも、{{r|雜|ざう}}兵{{r|逍|やう{{く}}}}八百有り。{{r|彈|だん}}正之忠是見而大樹寺を押出
し而、二つに分けてかゝる。伊田之鄕と申者︀、上者︀野成下者︀田成、野方へ四千、田方へ四千押{{r|寄|よする}}。岡崎
{{仮題|頁=81}}
寄出る衆も八百を二つにわけて、野方へ四百、田方へ四百に而打むかう。誰見たると云人者︀なけれ供、
申傳へには伊賀之八幡之方寄も、白羽︀之矢が敵之方へふる{{r|雨|あめ}}之ごとく、はしりわたりたると云。さも
有哉。然る所に八千之者︀ども一度に{{r|鯨聲|ときのこゑ}}を{{r|上|あぐる}}。優しくも八百の方寄も{{r|鯨聲|ときのこゑ}}を{{r|上|あぐる}}。{{r|靁|いかづち}}渡る春之野に{{r|鶯|うぐひす}}之
古巢を出て初音を出すごとく成。早近寄而南無八幡とてぞむかいける。田の方にて上村新六郞が{{r|鑓|やり}}を
入んと云。磯貝出き助が云、新六郞早きぞはやりて{{r|鑓|やり}}を入れば、物きはにてせいがぬけて、{{r|鑓|やり}}が弱き
物成、大軍の方寄入させて、待{{r|請|うけ}}而{{r|根|ね}}强く請留めて入よと云て、野方を見上て見れば、{{r|廣|ひろ}}き野に而四
百之衆は四千之者︀に取まかれて、{{r|追腹|おひばら}}{{r|切|きらん}}と云衆は一人も{{r|殘|のこら}}ず火花をちらして、切死にぞしたりけり。又
{{r|若黨|わかたう}}小者︀中間、ちり{{ぐ}}に{{r|岡崎|をかざき}}を{{r|指|さし}}而{{r|坎|にげ}}入を見而、野方者︀{{r|皆|みな}}うたれて、{{r|弱|よわ}}者︀は岡崎を{{r|指|さし}}而{{r|坎|にげ}}入ぞと云
處に、敵方も野方が{{r|勝|かつ}}を見而、我先にと競ひて押懸たり。何方之合戰にも人數{{r|多|おほ}}しと申とも、先へ出
て{{r|鑓|やり}}を合る者︀は、五人拾人には過去物なれども、此人々者︀森山寄此時之事思ひまうけたる事なれば、少
も{{r|騒|さわぐ}}事も無、待{{r|請|うけ}}而百四五十人一度に錣を傾けて根强くついて{{r|係|かゝり}}ければ、主々に付而{{r|殘|のこり}}之者ども刀をひ
ん{{r|撛|ぬき}}{{く}}、主々寄先に立たんと進みければ、三のそないを切くづしければ、{{r|殘|のこる}}そないは共にはいぐんす
れば、{{r|悉|こと{{ぐ}}く}}切捨にして又かたまりて、野方之敵に{{r|傃|むかい}}而しづ{{く}}と押寄ければ、敵是を見てかなはずと
や思ひけん、我先にと大樹寺へ{{r|亂|みだれ}}入、其寄してのけてくれよと降參を乞う。何方も若き衆は{{r|有習|あるならひ}}なれ
ば、{{r|勝|かつ}}に{{r|乘|のつ}}而迚も遣る間數と高言をする。其中に{{r|老武|らうむしや}}ども之申けるは、敵かうさんのせばやり給ゑ、敵
を打取と云とも田方四千を{{r|社︀|こそ}}打取たり。其儀も未殘たり。野方四千は{{r|恙無|つゝがなし}}。味方も田方四百{{r|社︀|こそ}}{{r|恙|つゝが}}なけ
れ、野方四百は{{r|皆|みな}}打死をする。敵八千之時者︀味方八百有。敵打被{{レ}}取て四千になれば、味方も打死をし
て四百に成。其故田方之者︀も五百も千も打もらされて可有、左樣にあれば{{r|未|いまだ}}敵者︀多し。味方者︀すくな
く候ゑば、勝て{{r|鋹|かぶと}}之緖をしめよと云事有。其故は{{r|軍|いくさ}}の{{r|習|ならひ}}者︀しられず、此上{{r|我|わが}}味方打{{r|負|まけ}}たらば城迄とら
るべし。我等之命露{{r|塵惜|ちりをし}}からじ。只今迄は若君之御命もたすかり給ふべしともおぼえざりしに、早御
命を{{r|扶|たすけ}}申事は是程之{{r|勝|かち}}者︀何かあらん哉。此上にて{{r|軍|いくさ}}之{{r|習|ならひ}}なれば各々打死をして、{{r|扶|たすかり}}給ふ若君之御命を
{{r|歸而圇|かへつてむなしく}}せばいかゞあらん哉。若き衆之被申候ごとく、{{r|八萩河|やはぎかは}}を半分越せて{{r|切|きつ}}て{{r|懸|かゝる}}物ならば、早おくれ
を取たる敵なれば、安々と切くづす。敵なれども然ると云に敵も其を心得而降參をば乞ふ成。りやう
じに河をば{{r|越|こさ}}じ。河を越と敵も思ひてそこにて思ひ切、聊爾に河を越而も{{r|負|まける}}、城をむたい{{r|責|ぜめ}}にしても
{{r|負|まける}}と思ひ切而、城を{{r|責|せめる}}物ならば{{r|安責落|やすくせめおとす}}べし。{{r|窮却|きうしてかえつ}}而{{r|猫|ねこ}}をくふと云事之候ゑば{{r|寬|ゆるし}}而やり給ゑ、此故
者︀爰えへの{{r|働|はたらき}}者︀、{{r|二度|ふたたび}}思ひ懸る事者︀有じと云ければ、其儀尤とてかれは河を越、味方は岡崎へ合引に
引けり。各々若君樣を{{r|二度|ふたたび}}見まいらせて、又うれし{{r|涕|なき}}にどつと{{r|涕|なく}}。若君樣は各々を御覽じて、扨何れ
もを見る事之嬉さは、{{r|二度|ふたたび}}淸康之御目に懸思ひ{{r|社︀|こそ}}すれ。{{r|併朝|しかしながら}}一度に來り而、我を見て涙を{{r|流|ながし}}而、今生
の{{r|暇乞|いとまごひ}}とて出たりし者︀どもの、{{r|多來|おほくきた}}らず、扨も{{く}}ふびん成次第とて、をきつふしつ御落涙有ければ、
御前成人々も{{r|鎧|よろひ}}之{{r|袖|そで}}をぬらして御前を立、三河にて伊田合戰と申けるは是成。{{nop}}
{{仮題|頁=82}}
然るに寄千千代樣御元服被成。次郞三郞{{r|廣忠|ひろたゞ}}御{{r|法名|ほふめい}}{{r|道幹|だうかん}}御代々之御つたはりの御{{r|慈悲|じひ}}、御{{r|情|なさけ}}、御{{r|哀見|あはれみ}}、
殊に{{r|勝|すぐれ}}而{{r|御|おはします}}。各々{{r|悅|よろこぶ}}處に、內前殿者︀{{r|眼前|がんぜん}}の大伯父なれども、{{r|橫領|をうりやう}}して廣忠を立出し給ふ。其時御普
代衆も色々心々成。御跡に殘て是非に一度者︀御本意をとげさせ申御代に立申さん、我等ども立退く物
ならば、{{r|末世|まつせ}}岡崎へ入らせられ給ふ事有間敷とて、御跡に思ひとゞまりて、御供せざる人多し。又何
心も無而御供せざるも有、又內前殿も{{r|長親|ながちか}}之御子なれば、何れも御主は一つ成とて、內前殿に思ひ付
も有。人者︀兎もあれ角もあれ、をなじ{{r|長親|ながちか}}之御子とは申せ供、內前殿者︀庶子{{r|信忠|のぶたゞ}}者︀御惣領、其故{{r|信忠|のぶたゞ}}、
{{r|淸康|きよやす}}、{{r|廣忠|ひろたゞ}}迄三代あをぎ奉しに、{{r|長親|ながちか}}迄四代御跡へ歸りて、其故そしをおなじ事とは云{{r|難︀|がたし}}。廣忠の御
座{{r|御座|ましませ}}ば{{r|逆|ぎやく}}成儀成、{{r|某|それがし}}供者︀妻子けんぞくを歸見ず、一命を捨而是非とも一度者︀廣忠を岡崎へ入可{{レ}}奉
成。然る所に阿部之大藏申けるは、忰め{{r|社︀|こそ}}氣違にて、君をば打奉りて有、我等においては少も御無沙
汰に不{{レ}}及、是非供に御供申さんとて、十三にならせ給ふ廣忠の御供申て、伊勢之國へ{{r|落|おち}}行給ふ。{{r|其耳|それのみ}}
{{r|非|ならず}}、六七人も御供申成。十四迄伊勢に御座被成候成。然る間に關東三河をば早駿河寄取、{{r|吉良|きら}}殿者︀小
田之彈正之忠と御一身有。然間駿河寄{{r|吉良|きら}}へ押懸ければ、{{r|荒|あら}}河殿は{{r|屋方|やかた}}に{{r|別心|べつしん}}をして、駿河と一身し
て荒河を{{r|持|もつ}}處に、屋方はかけ出させ給ひ、敵に打向はせ給ゑば、屋かたの御馬强き馬に而、敵之中ゑ
引入られて、{{r|卽|すなはち}}打死を被成けり。其寄{{r|吉良|きら}}殿御子達は駿河へ付せ給ふ。さあ有程に大藏、廣忠を駿河
へ御供申而、今河殿を賴入申。今河殿御無沙汰有間敷由被{{レ}}仰けり。廣忠十五之春駿河ゑ御下給ひ而、
其年之秋駿河寄加勢をくはゑて、もろの城ゑうつし申。然る間岡崎に有心を懸申御普代衆折をねらひ
申せども、其身之力に不及して、大久保新八郞定而思ひ可{{レ}}立と相待申處に、內前殿も內々左樣にも思
{{r|召|めさ}}るゝ哉、次郞三郞殿を岡崎へ入申さん者︀は別之者︀ならず、大久保寄外は有間敷、さらば起請を{{r|書|かき}}候ゑ
とて、七{{r|枚|まい}}起請を伊賀の八幡の御前に而、廣忠を岡崎へ入申間敷と{{r|書|かゝ}}せ申。新八郞宿へ歸りて、弟之
甚四郞彌三郞二人之兄弟どもを{{r|呼|よび}}寄、兄弟之者︀ども{{r|聞|きく}}かとよ、うつけたる事を云まわる、伊賀之八幡之
御前に而廣忠を岡崎へ入申間敷と、我に七{{r|枚|まい}}起請を{{r|書|かゝせ}}たり。ほれ物にはあらずやとてから{{く}}と{{r|笑|わらひ}}け
り。二人之兄弟承而主を本意させ申さんために{{r|社︀|こそ}}、御跡には留まりたり。其故起請之御罰とかうむり
ても{{r|地獄|ぢごく}}へ落る。是を{{r|悲|かな}}しみ起請のおもてに{{r|負|そむく}}問敷とて、主に{{r|負|そむけ}}ば七{{r|逆罪|ぎやくざい}}、とても{{r|咎|とが}}をかうむる間、主
を世に立申而思ひ置事無{{r|咎|とが}}を{{r|請|うけ}}給ゑ、御身一人之{{r|咎|とが}}にも有ば{{r|社︀|こそ}}、兄弟三人{{r|地獄|ぢごく}}に{{r|落|おつる}}迄兎角きしやうは千
{{r|枚|まい}}も書給ゑ、廣忠をば一度は岡崎ゑ入可{{レ}}申と申處に、又新八郞にきしやうを書けとて{{r|書|かゝ}}せければ、八{{r|幡|まん}}
之御前に而、七{{r|枚|まい}}きしやうを{{r|書|かゝ}}せけり。何度も{{r|書|かき}}申さんとて書けり。又四五日有而も、廣忠を岡崎へ入奉
ん者︀は、大久保寄外者︀兎角に有間敷候間、一度二度のきしやう者︀無{{二}}心元{{一}}おぼえ候ゑば、又きしやうを
書給ゑとて、三度迄伊賀の八幡之御前に而、七枚きしやうを大久保新八郞に{{r|書|かゝ}}せける。新八郞宿所に歸
而又二人之兄弟供を{{r|喚|よび}}而申けるは、二人ながら聞け、八幡之御前に、又又きしやうを{{r|書|かゝ}}せて有。是供には
三度迄七{{r|枚|まい}}きしやうを{{r|書|かゝ}}せたり。合而二十一{{r|枚|まい}}のきしやう成。百{{r|枚|まい}}千{{r|枚|まい}}も{{r|書|かゝ}}せよ。書せば{{r|書|かく}}べし。起請の
{{仮題|頁=83}}
御罰とかうむりて、今生にては{{r|白癩|びやくらい}}、{{r|黑癩|こくらい}}の{{r|病|やまひ}}を{{r|請|うけ}}、來世にては無{{r|間|げん}}之{{r|住|すみ}}かともなれ、子供之母を{{r|牛|うし}}
裂にもせばせよ、忰を八つ串にも刺さばさせ、何どきしやうをかゝせ申すとも一度は廣忠に御本意をと
げさせ申、岡崎ゑ入不{{レ}}申ば{{r|置|おき}}申間敷候。我等斗をふかく疑ひ申間、久敷延るならば何たる事をか申べ
し。兎角に{{r|𠆻|いそぐ}}べしと云而、廣忠へ內通を申上たり。然間もろゑ頓て內前殿働を被{{レ}}成ける。其時新八郞
も供を申ける。人先に立出而{{r|普|ふ}}代之主に矢を一つ參らせんと云ければ心得而立出る。新八郞はしり出
而雜言を云て{{r|射懸|ゐかけ}}けるを、其矢を取而廣忠之御目に懸申せば御{{r|喜|よろこび}}成。次の{{r|働|はたらき}}之時又新八郞はしり
出、何ものごとくざふごんの云て罵しりければ、又心得而先度之矢文之御返事を{{r|持|もち}}而出、新八郞普代
之主に彎弓は殊外あがりたり。普代之主之矢を{{r|請|うけ}}而見よと云ければ、けさんのまくりて{{r|尻|しり}}を出して待
懸る。{{r|射|い}}たる矢を取而{{r|靫|うつぼ}}の底に入、又新八郞が一矢參るとて{{r|射|ゐ}}懸けるを取而廣忠ゑまゐらせければ、取
上而御覽ずれば、何月之何時分岡崎へ入申さんと云矢文成。{{r|惡|あしく}}雜言を不申ば、內前殿{{r|愈|いよ{{く}}}}うたがはせ給
はんとて、{{r|畏|おそれ}}おそろしくは思へどもざふごんをば申成。歸りてうつぼの矢を取出して見ければ、岡崎
を取而くれんと申事御滿足に思{{r|召|めされ}}ける。{{r|早急|はやいそげ}}と被{{レ}}仰候御事成。去間新八郞二人之兄弟どもを{{r|呼寄|よびよせ}}而申
けるは、早時分も能に由斷有間敷、彌三郞者︀{{r|晝|ひる}}語りしことをば、{{r|悉|こと{{ぐ}}く}}{{r|殘|のこ}}さず{{r|{{?|「穴/?」}}|ねごと}}に云者︀なれば其心得可
有。女房者︀男之事{{r|惡|あしき}}樣にはいはざる物なれども{{r|{{?|「穴/?」}}|ねごと}}は誰も可笑き物なれば、{{r|懸|かゝる}}大事とはしらずし而、思
はずしらずに人に語物成。左樣に有とても、か樣之大事をば女房には{{r|聞|きか}}せぬ物成。女者︀{{r|肝|きも}}びけ成物な
れば、色を違いて物をくはで、人に{{r|不審|ふしん}}を立らるゝ物なれば、か樣之大事をば聞せぬ物成。此事をし
をうすれば、妻子けんぞくも命{{r|佑|たす}}かる。若しそんずれば妻子けんぞく迄も殘ず{{r|死|しする}}事なれば、一代に一
度之大事成心得給へよと云ば、甚四郞が聞而、其方が{{r|{{?|「穴/?」}}|ねごと}}我さへをかしきと云而{{r|笑|わらひ}}ければ、新八郞云、
{{r|笑|わらひ}}事に而無ぞ一大事成と云ながら、兄弟三人して{{r|笑|わらひ}}ける。彌三郞者︀上帶を{{r|頤寄頂|おとがひかしら}}へ{{r|縣|かけ}}からげて臥せば、
明ければ{{r|腮|あご}}がするがると云。扨又何時分にやと申せば、明々後日によからんと云。然間我等別して等閑
無衆二三人に{{r|聞|きかせ}}ずんば、後日に{{r|恨|うらむ}}べしと云。兄弟之者︀ども誰にやと{{r|聞|きく}}。林藤助、成瀨又太、{{r|八國|やかう}}甚六
郞、大原左近右衞門ぞと云。尤是には御{{r|聞|きかせ}}給ゑと云。さらば藤助{{r|呼|よび}}に越と被申ければ、甚四郞立而兄
に而候人は少御用有、御𨻶入無者︀御出あれと申越ければ、若此事を思ひ立たれてもあらんと心得て、
{{r|急|いそぎ}}而{{r|使|つかひ}}寄先に來り、何事にやと申せば、別之用に{{r|非|あらず}}能酒を{{r|請|うけ}}而有、一越召と申事と云ば、早たべ度と心
得而{{r|急|いそぎ}}ければ、つれて立而此事斯と云ければ、藤助手を合涙を{{r|滂|ながし}}、扨も{{く}}目出度事哉、我人御供し
て出候はで叶は{{r|去|ざる}}事なれ供、我人御供を申物ならば、二度御本意をとげさせ給ふ事、思ひも寄ず、然
時んば御跡に留まり申、是非とも御本意をさせ申さんと、思ひ入而とゞまる成。然ども何供{{r|才覺|さいかく}}に仕
{{r|煩|わづ}}らいて有御身之思ひ立給ふを待申處に、內前殿もさも思召か、御身に廣忠を引立申間敷との七{{r|枚|まい}}起請
を、伊賀之鄕の八幡御前にて三度{{r|書|かゝせ}}たまふを見て、{{r|力|ちから}}をおとして手をうしないて有。然どもきせうを書
給ふとも、{{r|兎角|とかく}}に思ひ立候はんとはおもひ入て有つるが、然ども三度之七{{r|枚|まい}}きせうの事なれば、此事
{{仮題|頁=84}}
{{r|如何|いかゞ}}と申事も{{r|成|ならず}}、御身之{{r|貌|かほ}}を見{{r|上|あげ}}見おろしはしたれども、さながら{{r|如何|いかゞ}}とも云{{r|難︀|がたし}}。きせうを{{r|書|か}}き給ふと
も兎角御身は引立給はで、{{r|置|おかれ}}間敷人と思ひしにたがはず、扨も{{く}}能ぞ{{く}}思ひ立給ふ物哉、殊更我
等にも{{r|聞|きかせ}}給日し事、海︀ならば大かい、山ならば{{r|須彌山|しゆみせん}}寄も高くふかく御{{r|恩|おん}}に{{r|請|うけ}}申成。只今迄は一日も
早と心懸申事、時之間もわするゝ事無、思ひ入て候へども、一人として成{{r|難︀|がた}}ければ、我{{r|力|ちから}}に不{{レ}}及し
て打過ぬ。御身さへ思ひ立給はゞ、成もせん物をと思ひて今か{{く}}と思ひ、御身の貌をまもり上けれ
ども、七{{r|枚|まい}}きせうのゆゑなれば、さながら{{r|詞|ことば}}には不{{レ}}被{{レ}}出、とてもあの人者︀御本意をとげさせ申さでは
置間敷人なれども、度々の七{{r|枚|まい}}きせうに{{r|伀|おそれ}}を{{r|爲|な}}し給ふ物か。然ども其儀成供兎角に御手者︀引れ給はん人
成と思ひ入而、{{r|遲|おそし}}と{{r|貌|かほ}}を見上見下し申けるに、思ひ申に違はずして思ひ立給ふ事嬉しさよと、{{r|遊上|をどりあがり}}て
{{r|{{?|「忄+付」}}|よろこび}}て、ふかく一身申て來世迄之{{r|契|ちぎり}}を申と云。此藤助と申は御代々つたはりたる侍大將成。正月御酒
盃をも御一門寄先に罷出て被下けり。其次に御一門出させ給ふ。御家久敷侍者︀是にこす人無。藤助申
すは、我寄外に{{r|誰|たれ}}にきかせ給ふ。いや{{く}}我兄弟{{r|一類︀|いちるゐ}}斗に而も安けれども、御身は御家之子と申、又は
{{r|某|それがし}}に別而貴殿者︀ちかづきける。此儀を{{r|聞|きかせ}}不{{レ}}申は、後之{{r|恨限|うらみかぎり}}有間敷ければ、御身斗に{{r|聞|きか}}せ申成。貴
殿と內{{r|談|だん}}して一兩人に{{r|聞|きか}}せ申方も候得ども、未{{r|聞|きか}}せ不申{{r|{{?|「辶+㐮」}}|いよ{{く}}}}忝奉存候。然者︀誰人に而候と申ければ、成
瀨又太郞、{{r|八國|やかう}}甚六郞、大原佐近右衞門などに{{r|聞|きかせ}}可申哉。尤之儀成、何れも此衆は思ひ入たる事に候へ
ば、引入させ給へと申に付而、又太を{{r|囂|よび}}に越と申せば、甚四郞方寄兄に而候人は、少御用御座候間、御
𨻶入候はずば少度御出あれ。林藤助殿も是に御入候と申越候へば、若もか樣之{{r|贔|くはだて}}も有やらんと、ふか
く無{{二}}心元{{一}}存知而、使寄も早來り而、林殿も是に御入候か何之御用ぞ{{r|不審|ふしん}}成、早承度候と申ければ、何
たる御用も無{{レ}}是儀なれども、{{r|去|さる}}方寄めづらしき酒を請而申に付而、一つ申さんために申入たりと云け
れば、頓而さとりて其酒を早く被下度と申時、さらばとてかたはらへつれて、此由角と申せば藤助ご
とく手を合而、藤助に少もちがはず喜事無{{レ}}{{r|限|かぎり}}して、一身申成と云。甚六佐近右衞門兩人方へ人を越候へ
と申せば、甚四郞方寄人をつかひ、{{r|兄|あに}}に而候人は御𨻶入候はずば、少用之儀御座候間、少と御出候へ
と申越候へば、是も頓而さとりて、使寄先に走り來りて何事ぞや、各々寄合而機嫌{{r|能|よげ}}に物語をし給ふと
云。御心易かれ何事も候はず、{{r|去|さる}}方寄能酒を{{r|請|うけ}}而候へば、一つ申さんために申入たりと申せば、何れ
も此事{{r|胸|むね}}に{{r|絕|たえ}}ぬ事なれば、新八殿之能酒を早く{{r|聞|きゝ}}度申候。{{r|慹|おそし}}と待申候間早被{{レ}}下度と申せば、{{r|更|さら}}ばとて
人をのけて此事角と被{{レ}}申ければ、中々喜事無{{レ}}{{r|限|かぎり}}して、手を合而藤助又太喜に少もちがはずして、ふ
かく一身申と云。{{r|扨|さて}}何時分にやと云。か樣之儀は{{r|時刻|じこく}}うつりあしかり明々後日と{{r|定|さだめ}}けり。新八郞各々
に內談有。然者︀御本居{{r|无|なし}}{{レ}}{{r|疑|うたがひ}}、左樣にも{{r|荒|あら}}ば此儀九郞豆殿を引入申、御門を{{r|闢|ひらき}}て{{r|廣|ひろ}}々と入奉らんと云。
其時藤助を{{r|初|はじめ}}三人衆兄弟共各々申けるは、只今迄之事殘所なけれ共、{{r|乍|ながら}}{{レ}}{{r|去|さり}}此事を九郞豆殿へ{{r|聞|きかせ}}られ給
は事{{r|如何|いかゞ}}し候はん。能々御分別あれ、內膳殿者︀九郞豆殿御ためには{{r|眼前|がんぜん}}の{{r|伯父|をぢ}}にて{{r|御|おはします}}。{{r|如何|いか}}に{{r|伯父|をぢ}}に
たいして{{r|逆|ぎやく}}心者︀{{r|荒|あら}}じ。能々御分別あれと云。新八郞重而申、各々の如仰內膳殿者︀眼前之伯父にて{{r|御|おはします}}
{{仮題|頁=85}}
處{{r|眼前|がんぜん}}成、然ども庶子成廣忠者︀、九郞豆殿御ためには{{r|眼前|がんぜん}}の{{r|姪|をひ}}と申し、しかも御惣領にて{{r|御|おはしませ}}ばいか
でか御一身なからん哉。若少成とも何かと思召たる御氣色も荒ば、{{r|他言|たごん}}してはかなはざる事なれば、
以來迄も御本居とげ{{r|難︀|がたし}}。然時んばなまじひ成事を仕出しては如何がに候間、ごんびんを聞色を見而喧
嘩にもてなして{{r|指|さし}}ちがへて死べし。然者︀他言は{{r|荒|あら}}じ、然時んば我等兄弟一{{r|類︀|るゐ}}どもを{{r|殘置|のこしおく}}成。{{r|彼等|かれら}}と一
身して御本居をば、とげさせ給へと云。各々被{{レ}}申けるは、其{{r|胸|むね}}ならば無{{二}}是非{{一}}、御存分次第同はとても
御本意を遂げさせ申事は、九郞豆殿に{{r|聞|きかせ}}申に不{{レ}}相相違有間數、同は御思案あれと云ければ、兎角我に
御任せ給へ。我をば死たる者︀と思召、{{r|日頃|ひごろ}}九郞豆殿御物語にも{{r|聞|きゝ}}かどめたる事も有と云ば、其儀なら
ば何と成とも貴殿次第と被申候に付而、其儀ならば貴殿達と一度に罷出申さん。又太と甚六は是に待
給ひ兩人には歸りに寄而申さんとて、打つれて出にけり。扨新八郞者︀九郞豆殿へ參ければ、何もの如
く御機嫌能御ざふたん有。然處に人を退けさし寄而此儀角と申ければ、殊外御喜有て我等が是へ入奉
らんとは思へども、內前我等にも事の外心を{{r|置|おき}}而、入番之者︀油斷をせざれば思ひ{{r|乍成難︀|ながらなりがたし}}。御身寄外
本意をとげさせん人者︀無と思ひて有處に、八幡之御前に而、七{{r|昧|まい}}きしようを一度ならず二度ならず三
度迄書給へば、御身も何とか{{r|荒|あら}}んと{{r|不審|ふしん}}に思ひつれば、{{r|不思議|ふしぎ}}に思ひ立給ふ事返々も喜敷存知候とて、
殊之外の御きげん成。新八聞給へ、是に付而御身と內談有。此度若御身之しそんずる物ならば、重而御
本居させ申さん事{{r|成難︀|なりがたし}}。然時んば我等寄外は無、然間此度は我等をば重而のためにたばひ給へ。然者︀
我等者︀{{r|有馬|ありま}}へ湯治をすべし。其內に是へ入奉れ。然者︀門之鍵を{{r|壺|つぼ}}ねにあづけ置べし。大久保新八郞な
らば渡せ、別成者︀に渡すなと申可付、其分心得而、能調議をし給へ。何時分の事にやと仰ければ、明
明後日に相定申と申せば、さらば明日內前得人を{{r|使|つかひ}}、湯次之事を申而、明後日者︀かならず罷可{{レ}}立と被
{{レ}}仰、かたく仰{{r|置|おかれ}}ければ、新八郞忝と申而罷立ければ、九郞豆殿御座敷を立せ給ひ而、又誰に{{r|聞|きかせ}}給ふ哉
と仰ける。林藤助、成瀨又太郞、{{r|八國|やかう}}甚六郞、大原左近右衞門にしらせ申と申せば、{{r|愈|いよ{{く}}}}御きげん能而、
尤之衆成、御身之聞せ給ふ衆ならば、あだ成衆には有間敷と思ひしに、此衆を引入給はゞ思ひ置事無と
仰{{r|有|あつ}}而、此衆にも心得而仰候得、御身と一身と聞而心安{{r|社︀|こそ}}存知候得、申に{{r|及去|およばざる}}衆に候得ども、{{r|{{?|「辶+㐮」}}|いよ{{く}}}}御心得
あれと{{r|念比|ねんごろ}}に御語あれと而入せ給ふ。藤助者︀新八者︀{{r|果|はて}}られ候か、何と有と思ひ而、手に{{r|泚|あせ}}をにぎり門に
立、無{{二}}心元{{一}}而立ける所へ、新八心{{r|能|よけ}}に來り給ふを{{r|見|み}}而、{{r|先|まづ}}命之ながらへたるを、夢之心地して{{r|趙賓︀|はしりおかひ}}
涙ぐみて、やれ新八か如何成御馳走にや、心{{r|能|よげ}}に見得させ給ふと云而見上ければ、新八も二度逢たる嬉
しさに仕合先御心安かれ、殊之外御ちそうに相申、忝奉存申間、其祝︀ひに明朝御振舞可申候間、佐近
右衞門殿御同道有り而、かならず御出あれ。爰に而具に可承候得ども路次之儀に候へば早々承候、萬
事御心安可有と申{{r|捨|すてゝ}}ぞ通りける。佐近右衞門も新八者︀命ながらへて有かと思ひ、大道へ出て{{r|聞𦗗|きゝみゝ}}を立
而、{{r|泚|あせ}}をにぎりて、をほせなぎをつきてゐたる處得、{{r|遠|とほく}}寄見懸而はしり寄、扨も歸らせ給ふかと云而淚
ぐむ處に、{{r|先|まづ}}仕合御心安思召せ、事之外御ちそう忝奉{{レ}}存候。是に而御ちそうの儀御物語申度者︀候得ど
{{仮題|頁=86}}
も、路次之儀に候得ば如何に候。今日之御ちそう忝奉存候間、其祝︀に明朝御出可被成候、御振舞可申
候。藤助殿も是迄御寄可有候由仰候。御同道{{r|有|あつ}}而かならず未明に藤助殿と御同道可有候。待入申其迄
も候はず未明に可參候。又太も甚六も待かね可{{レ}}被{{レ}}申候間、{{r|御免︀|ごめん}}なれとて通りければ、又太{{r|八國|やかう}}も
二人之兄弟どもと打つれて、半途迄出候得而、新八者︀果てられけるかとて、{{r|互|たがひ}}に物もいはずして{{r|泚|あせ}}を
にぎりて待かね而居たる處に、岡崎之方をながめ居たるに、{{r|霞|かすみ}}之內寄見付而、新八{{r|社︀|こそ}}來りたりとて大
息をつき、はしりむかひて只今御越かと{{r|云|いへ}}ば、仕合{{r|先|まづ}}御心安思召而歸らせ給得とて、{{r|喜|よろこび}}而供につれて
入にけり。又太甚六二人之兄弟どもに、此由具に語ければ{{r|不|ず}}{{レ}}{{r|斜喜|なゝめなら}}而、淚を{{r|流|ながし}}而申けるは、{{r|陲|あやうき}}今日之御
身之命と申ければ、とても普代之主に奉{{レ}}命ば{{r|何|いづ}}くに而奉も同事成と云。明ければ藤助、甚六、佐近右
衞門、又太參而此由具に語。又九郞豆殿右之衆得、御{{r|念比|ねんごろ}}に被仰し事どもをも具に申渡しければ、{{r|愈|いよ{{く}}}}
感淚を{{r|滂|ながし}}而喜事無{{レ}}{{r|限|かぎり}}。扨又九郞豆殿御湯治と{{r|聞|きく}}寄も各々{{r|胸落付|むねおちつく}}。新八郞は{{r|忍|しの}}び而廣忠得申上けるは、
御支度有而御待可被成、明夜是得入可{{レ}}奉、然者︀明晩御{{r|迎|むかひ}}に藤助、甚六郞、佐近右衞門、又太郞、甚四
郞を進上可申と申越候得ば、廣忠之御喜給ふ。明ければ君も御一代之御大事御一代の御喜と思召、今
日之日の{{r|暮|くれ}}申事を、千年をふる思ひに思召暮させ給ふ所に、早入合に成ければ、御{{r|迎|むかひ}}を待兼させ給ふ
處に、藤助、又太郞、佐近右衞門、甚六郞、甚四郞忍而參、早御時分能御座候。御仕度{{r|有|ある}}而出させ給得
と申す。新八郞は兄弟一{{r|類︀|るゐ}}引つれて御{{r|番|ばん}}に上相待奉{{レ}}申と申上けり。新八郞は番之由を申而、兄弟一{{r|類︀|るゐ}}
引つれて七つ時分寄行、{{r|暮|くれ}}相に成ければ、御門之かぎを渡させ給得と云。{{r|奧|おく}}寄も門之かぎと申は何者︀
ぞや。不{{レ}}被{{レ}}{{r|苦|くるし}}候、大久保新八郞に而御座候と申ければ、局の仰には大久保新八ならばかぎを渡し申せ
と仰{{r|置|おかれ}}たり。新八ならば{{r|直|ぢき}}に渡し申とて御つぼね自身身づから{{r|持|もたせ}}給ひ而、直に新八かとて渡させ給ふ。
かぎは請取申今や{{r|慹|おそし}}と相待けり。廣忠も早打立給ふ而、{{r|莅|いそがせ}}給ひし處得、城者︀取申成{{r|遲|おそく}}御座候。{{r|莅|いそがせ}}給得
とて半途迄申來りければ、御夢之御心地して、御馬を早め給得供、御心には一つ處に而{{r|遊|をどる}}樣にを思召、
鳥ならば一{{r|飛|とび}}にも{{r|飛|とんで}}も{{r|行早|ゆかばや}}と思名共、御身は跡に{{r|御而|おはしまし}}、御心者︀城得{{r|移|うつ}}らせ給ふ。然間無{{レ}}程打{{r|付|つか}}せ給
ひければ、新八郞者︀待請申。大手之門には兄弟一{{r|類︀|るゐ}}を{{r|置|おき}}ければ、錠を取{{r|槤斗|くわんのき}}に而有事なれば、{{r|急|いそぎ}}
門を{{r|闢|ひらき}}而奉入ば、新八郞も一{{r|類︀|るゐ}}之者︀を引付而{{r|置|おき}}、本城之御門の{{r|闢|ひらき}}、廣忠を入奉て大{{r|息|いき}}ついて、今{{r|社︀|こそ}}日
比の御本望是成と云。然以此番之{{r|族|やから}}者︀{{r|此方彼方|こゝかしこ}}之城をのり狹間をくゞりて{{r|落坎|おちにげ}}ぬ。然間城をかためて、
廣忠を御本居をとげさせ給ひ而、只今城へ{{r|移|うつ}}らせ給ふ成。二三之丸に有侍廣忠得心有者︀は、二三の丸
をかため給ひ而、入番之{{r|族|やから}}を一人ももらさず打取給得と云而、{{r|鯨聲|ときのこゑ}}を{{r|上|あげ}}{{r|鐵砲|てつぽう}}をはなし懸申せば、しる
もしらざるも{{r|落行|おちゆく}}。{{r|旣|すで}}に夜も明ければ、心有御{{r|普代|ふだい}}衆は、何方から此城を{{r|忍|しの}}び取らんともおぼえず。
誰人ぞ廣忠を引入申とおぼえたり。其儀ならば{{r|急|いそぎ}}可{{レ}}參とて、心有衆は大手へ{{r|急|いそぎ}}參而、是者︀誰がし何が
しと名のりて馳せ集まる。城寄は喚はる。各々か早く來り給ふ物哉。次郞三郞樣{{r|社︀|こそ}}今夜{{r|曉|あかつき}}方に是得御
本居をとげさせ給ひ候ぞや。各々御普代の{{r|面々|めん{{く}}}}達は、{{r|𠆻|いそぎ}}二三の丸得入せ給ひ而、かためさせ給得、定
{{仮題|頁=87}}
而{{r|上野|うへの}}寄內膳殿駈け可{{レ}}被{{レ}}付、御油斷有間敷と申ければ、各々我も{{く}}と{{r|駈|か}}け入而、二三之丸をかた
めけれども、內前殿も{{r|寄|よせ}}給ず。內前殿仰けるは、廣忠を引立申者︀別之者︀にはよも{{r|荒|あら}}じ。大久保にて可
{{レ}}有、{{r|腹切|はらをきら}}すべき者︀なれども、伊賀之八幡之御前にて七{{r|枚|まい}}起請を三度{{r|書|かゝ}}せ申故、ゆだんをして{{r|扶置|たすけお}}き申
事{{r|悔︀敷|くやしく}}{{r|口惜|くちをしき}}無念成。{{r|流水跡|りうすゐあと}}へ{{r|不|ず}}{{レ}}{{r|歸|かへら}}{{r|後悔︀|こうくわい}}{{r|不|ず}}{{二}}{{r|先立|さきだた}}{{一}}、大久保は內前殿に憎︀まれても{{r|苦|く}}にもたず、廣忠を御本
居させ申せば、內前之{{r|憎︀|にくみ}}給ふも起請の御罰も不{{レ}}入、只今{{r|社︀|こそ}}嬉しきと云。廣忠十三の御年淸康に御おく
れさせ給ひ而、頓面其年{{r|眼前|がんぜん}}之大{{r|祖︀父|をぢ}}內前殿に岡崎を立出されさせ給ひ而、御年十三に而伊勢の國得
御浪人被成、御年拾五之春駿河國へ御下被成、今河殿を御賴被成而、其年之秋今河殿寄も加勢をく
はへて、三河の國もろの鄕にうつらせ給ひ而、御年拾七歲之春、御本居被成岡崎得入せられ給ふ。廣
忠之御{{r|悅|よろこび}}を、物に{{r|遙々|よく{{く}}}}譬ふれば、{{r|法華經|ほつけきやう}}之七之{{r|卷|まき}}{{r|藥王|やくわう}}品に云、{{r|寒|さむき}}者︀の火を得たるがごとく、{{r|倮|はだか}}成者︀の
衣を得たるがごとく、{{r|商人|あきんど}}のぬしを得たるがごとく、子の母を得たるがごとく、渡りに舟を得たるが
ごとく、{{r|病|やまひ}}に{{r|藥|くす}}しを得たるがごとく、{{r|貧敷|まどしき}}に{{r|寶|たから}}を得たるがごとく、民之{{r|王|わう}}を得たるがごとく、こきや
くの{{r|海︀|うみ}}を得たるがごとく、{{r|燐燥|ともしび}}の{{r|暗|やみ}}を除くがごとくと{{r|說|とき}}給ふ如くに、{{r|何|いかに}}御心之內の御喜是に{{r|劣|おとり}}申間
敷、扨又御本居をとげさせ申儀、御滿足と仰有而、其御{{r|忠節︀|ちうせつ}}と被成候而、新八郞、藤助、甚六郞、佐
近右衞門、又太郞に地{{r|方|かた}}拾五貫づつ被下けり。甚四郞彌三郞を{{r|初|はじめ}}此一{{r|類︀|るゐ}}之者︀どもにも、それ{{ぐ}}に被
下けり。新八郞にも並に被下る。然ども御知行は其分成、是に余かつて中野鄕と申て、くでん百貫之
處を{{r|代官|だいくわん}}を仰被付而、後日には是を知行に被下けり。扨又其後內前殿も御{{r|詫|わび}}事被成而御出仕被成、御
一門{{r|悉|こと{{ぐ}}く}}御本居目出度とて、各々御出仕無{{レ}}滯。廣忠御{{r|慈悲|じひ}}御{{r|情|なさけ}}御哀見ふかきと申各々喜申處に、御浪
人被成人之{{r|憂|うき}}苦き{{r|善惡|よしあしき}}を思召しらせ給ひ而、民百姓の{{r|歎適|なげきかなしみ}}をも能見{{r|置|おかせ}}給ひ、少身者︀の鄙の{{r|棲|すみかにて}}渡世
を{{r|送|おくる}}をも御覽じければ、{{r|愈|いよ{{く}}}}御{{r|慈悲|じひ}}、御{{r|哀|あはれ}}見、御{{r|情|見}}を懸させ給ひし御事、御代々にも殊に{{r|勝|すぐれ}}たり。然間
苅屋の水野下野殿の{{r|妹婿|いもとむこ}}に被成せ給ひ而、竹千代樣と{{r|媛|ひめ}}君を御儲けさせ給ひ而、扨其後に御前樣をば
かりやへ{{r|送|おくり}}まゐらせ給得ば、其後久松佐渡殿へ御越有而、御子{{r|多|おほく}}もうけさせ給ふ。其後廣忠は田原之
戶田{{r|少弼|せうひつ}}殿の{{r|婿|むこ}}にならせられ給ひ而、御輿が入。然處に本城得御輿を入んと云ければ、本城者︀竹千代
城なれば、新城得入よと仰ければ、久敷つかへて何かと申けれども。かなはずして{{r|終|つひ}}に者︀新城得いらせ
給ふ成。又或時玆に御{{r|鷹|たか}}野得出させ給得ば、折節︀五月之事成に御前成、ずいぶんの人田を植ゑ申とて、
我も自身破れ{{r|帷子|かたびら}}を着たかはしをりにはしをりて、玉襷をあげて、我も{{r|早苗|さなへ}}を背負ひて{{r|目脥|めづら}}迄土にし
て行處得、折節︀廣忠行合させ給ひ而、あれは今藤に而は無かとて、御馬をひかへさせ給ふ。{{r|紛去|まぎれざる}}事な
れば各々{{r|傍輩|はうばい}}衆も{{r|赤面|せきめん}}して有處に、見而參と仰ければ、{{r|畏|かしこまり}}而參而申樣、扨貴方之儀者︀何としたる事ぞ。
上に御覽じ付而、今藤か見而參との御使成。扨何と可{{二}}申上{{一}}哉と云。何と御返事を可{{二}}申上{{一}}、今藤に而
御座候と申上給得と云。されば左樣にも申被{{レ}}上間敷と申せば、扨貴方いはれ去事を仰候かな。上樣の御
{{r|直|じき}}に御覽じて、御馬をひかへさせ給ひ而、御意之處を何とまげられ申さん哉。御身のまげ給はゞ、又
{{仮題|頁=88}}
別之人參而、見而有樣に申上ば、其時に御身も我等故に御{{r|迷惑|めいわく}}可{{レ}}有。然時んば我等及に人を損なひ申
事も{{r|迷惑|めいわく}}如何斗可{{レ}}有。其故我等とゞか{{r|去|ざる}}故をもつて、人迄そこなふといはれん事も{{r|迷惑|めいわく}}、然者︀{{r|浮世|うきよ}}得
此沙汰{{r|廣|ひろ}}まるべし。殊に御身之一{{r|類︀|るゐ}}に{{r|惡|あしく}}いはれ{{r|憎︀|にくまれ}}申事も、{{r|骸|かばね}}之上迄も骸之上の{{r|恥|はぢ}}の恥成。其故上の御
{{r|直|ぢき}}に御覽ぜられて、御馬をひかへさせられての御意なれば、御身の{{r|撑|さゝ}}へにあらば{{r|社︀|こそ}}、御身に恨も有べ
けれ。{{r|玆|こゝ}}に而曲る事成間敷に、今藤に而御座候と申上給得と申せば、何供{{r|迷惑|めいわく}}之御使とて赤面して歸
けり。御前得參ければ、今藤かと御意之{{r|有|あれ}}ば、謹︀んで有けり。重而御尋有ければ{{r|畏|かしこまつて}}候と申上げる時、
{{r|急|いそぎ}}つれて參れとの御意なれば、立歸而參れと御意成と申せば、{{r|畏|かしこまつた}}と申而御前得參、{{r|早苗|さなへ}}をせおひて、
いとゞ泥に成者︀が、上樣を見付申而知れ申間敷と思ひ而、{{r|早苗|さなへ}}をせおひて畔に躓きたる風情にして、田
之中得うつぶしにふしたれば、目も{{r|脥|つら}}もまつ{{r|墨︀|くろく}}に泥に成而御前に{{r|畏|かしこまれ}}ば、誠に{{く}}怪有がる生者︀に而
候。上樣は是を御覽じて、御目に御淚を{{r|持|もた}}せられけり。各々も我人あれ躰の事をばせぬ人一人もなけ
れども、各々は、ふも能か{{r|終|つひ}}に御目にあたらず、今日今藤は見被{{レ}}出申事{{r|社︀|こそ}}不連なれ。只今是に而御成敗
あらん事之不憫さよ。今日者︀今藤が身の上明日は如何にとしても、か樣之事をして妻子を{{r|孚|はごぐ}}までかな
はざる事なれば、明日者︀我々の身之上とて{{r|泚|あせ}}をにぎる處に、つく{{ぐ}}と御覽じて、{{r|良|やゝ}}有而今藤か見違
へたり。扨も{{く}}{{r|汝|なんぢ}}供左樣に{{r|荒|あら}}れぬ事をして、妻子けんぞくを孚み、{{r|事|こと}}の有時は一疋に{{r|乘|のり}}而{{r|懸|かけ}}出先懸
をして一命を{{r|捨|すて}}而、度々の高名{{r|莫大|ばくだい}}成。然ども少身なれば身を{{r|輙過|たやすくすぐる}}あてがひもせずして、左樣の事
をさせ申、定而{{r|汝|なんぢ}}一人にも{{r|限|かぎる}}間敷、面々も嘸有るらん。ふびん成ば我も何たるあてがひもしたくは思
得ども、{{r|汝|なんぢ}}供{{r|如|ごとく}}{{二}}存知{{一}}出し可{{レ}}申地行之なければ、可{{レ}}取とも思はであられぬ成をして、奉公をしてく
るゝ事返々も{{r|喜|うれし}}けれ。是と云も普代久敷者︀なれば、主を{{r|悲|かなしみ}}未而左樣にはすれ。{{r|新參|しんざん}}{{r|犇|はしり}}付之者︀ならば思
ひも不{{レ}}寄、只人間之{{r|寶|たから}}者︀普代之者︀成。かまへて{{く}}{{r|汝|なんぢ}}が{{r|恥|はぢ}}には{{r|非|あらず}}我等が{{r|恥|はぢ}}成に、{{r|恥|はぢ}}と思はで{{r|汝|なんぢ}}も面々
も左樣にして妻子をはごくみ、我に能一命を捨而奉公をしてくれよ。我汝供が{{r|摝|かせぎ}}をもつて{{r|戮|きり}}ひらく者︀
ならば、過分のあてがひをもすべし。只今者︀我も{{r|成去|ならざる}}間{{r|荒去|あらざる}}事をもなして、妻子をはごくみて、其故
一命を捨而{{r|摝|かせぎ}}てくれよ。早々歸而田をうゑよと仰ければ、御前成人々又聞懸に涙を{{r|滂|ながす}}。其身者︀元寄妻
子を歸見ず、一命を奉らんと思ひけるも、御{{r|慈悲|じひ}}御{{r|情|なさけ}}之御{{r|詞|ことば}}一つをもつて、{{r|諸︀|しよ}}人淚を{{r|滂|ながし}}て{{r|一入|ひとしほ}}君に思
ひ付申成。彼者︀を是に而御成敗も有ならば、諸︀人{{r|恨|うらみ}}をなして君に思ひ付一命を捨んと思ふ者︀は一人も
有間敷に、廣忠之御{{r|慈悲|じひ}}御{{r|情|なさけ}}之御{{r|詞|ことば}}一つに而是を聞及に、廣忠には妻子を歸見ず、一命を奉らんと申
者︀斗成。只人は{{r|慈悲|じひ}}と{{r|情|なさけ}}と{{r|哀|あはれ}}見にこす事無。然處に天野孫七郞を召て仰けるは、{{r|廣瀨|ひろせ}}之作間を切而參
れ。切濟ましたらば、大{{r|濱|はま}}之鄕に而百貫可{{レ}}出。手を負はせる物ならば、同所に而五十貫可{{レ}}出と仰けれ
ば、作間を切ん事思ひも寄{{r|去|ざる}}事なれ共、御普代之主の御意{{r|負難︀|そむきがたし}}。{{r|但|たゞし}}御馬之先に而打死も安し、御前へ
引出されて、頸を{{r|打|うた}}れ申事も安し、然ども死る事者︀同前にはあれども、作間を切ん事心を盡しても
{{r|成難︀|なりがたし}}。然と申ても普代之主の仰者︀{{r|負|そむか}}れず候成。成程者︀狙ひ候而、{{r|成|ならず}}は死迄と思ひ定而、御{{r|請|うけ}}を申罷立、
{{仮題|頁=89}}
道々案ずるに別之儀も無。作間を切んに者︀、{{r|先|まづ}}作間處へ行而、奉公をして案內を見{{r|置|おき}}て切んと忠ひ而、
其寄して作間方得奉公とて行ければ頓而{{r|置|おき}}にけり。然程に能奉公をする事獨樂をまはすがごとくに{{r|使|つかはれ}}
ければ、大方{{r|成|ならず}}氣に入而後は{{r|膝|ひざ}}本{{r|近使|ちかくつかは}}れて寢間のあたりを徘徊する。仕濟したりと思ひ而、今は時分
も能折と思ひ而、人{{r|侒|しづ}}まりて寢間に{{r|忍|しのび}}入而見ければ、作間は前後もしらずして臥したりけり。天野孫
七郞立寄而、起きば當るを{{r|最後|さいご}}に切べしと思ひけれども、能ふしたれば、胴中と心得けるが、いやい
や{{r|夜|よる}}之物{{r|多|おほ}}く著︀て、綿が厚ければ身にとはる間數と思ひ而、細{{r|頭|くび}}を切んと心懸而、{{r|夜|よる}}之物のはづれを、
月あかりに見而、以てひらいて切付ければ、{{r|戮|きら}}れ而作間少も身を動かさずして居たれば、{{r|切戮|きりころし}}たりと
思ひ而出ければ、早{{r|邊寄|あたりより}}もなりを立れば、早城之內{{r|{{?|「亻+癶/虫」}}|さわぎ}}ければ、へいを{{r|乘|のり}}而{{r|北|にぐる}}とて、刀を跡得取落せど
も、取に歸らん事も{{r|成|ならず}}して{{r|捨|すて}}而來り而、此由角と廣忠得申上ければ、{{r|刀|かたな}}をおとしたればとて、其程の
手柄をする故、取に下而{{r|死|しす}}る事之あらん哉、少もくるしからず、手がら{{r|比類︀無|ひるゐなし}}、{{r|約束|やくそく}}の如く出すべし
と仰ける。去程に作間は{{r|起上|おきあが}}り而疵をさぐりて見れば、{{r|折節︀|をりふし}}枕がはづれてそばに有ければ、枕に切付
而{{r|齃|はなばしら}}を兩之{{r|𦗗|みゝ}}の處迄切付けり。{{r|𪱜|おとがひ}}下りければ{{r|{{?|?+月}}|おとがひ}}を取て押上而、鼻の息を吹きて見而あれば、息詰りけ
れば、又疵を引離して能疵口を合而、息をふきて見ければ、息も相違なければ、帶をもつて頭に搦み
付而養生する。作間はから{{ぐ}}の命を{{r|佑|たす}}かる。天野孫七郞には、御約束のごとく大{{r|濱|はま}}にて五十貫被下
けり。手柄をする故に後迄も{{r|異|い}}名に作間切と申成。然處に內前殿者︀御{{r|兄|あに}}甚太郞殿者︀、御{{r|舍弟|しやてい}}に而{{r|御|おはしまし}}け
るが、內前殿者︀淸康廣忠に{{r|逆心|ぎやくしん}}を被成けれ共、甚太郞殿者︀{{r|終|つひに}}{{r|逆心|ぎやくしん}}無、廣忠を內膳殿の立出させ給ひ
し時も、甚太郞殿者︀廣忠を引請度と被成候へども、內前殿手ばなし給で、伊勢得{{r|送|おく}}り給得ば、{{r|力|ちから}}無し
て{{r|御|おはします}}。其寄して者︀內前殿と甚太郞殿は御{{r|中|なか}}よからず。廣忠御本居有而甚太郞殿は御滿足之由被仰而、
人先に御出仕有而、{{r|一|ひと}}入の御取{{r|持|もち}}給ふ。內前殿も{{r|詫|わび}}言被成而出させ給得ば、甚太郞殿仰には、內前者︀
兄なれ供、度々の別心なれば歸{{r|新參|しんざん}}成。我は弟なれども一度も別心をせざれば、上座に可{{レ}}有と仰け
り。內前殿は如何に角有ばとて{{r|弟|おとゝ}}寄下座には有らんやと仰ける間、{{r|互|たがひ}}の{{r|座論|ざろん}}に而、御出仕にも日をか
へさせ給ふ成。{{r|路次|ろじ}}をありかせ給ふにも、兩方{{r|乍抜身|ながらぬきみ}}に而{{r|互|たがひ}}に內衆も{{r|反|そり}}を直してとほらせ給ふ。若何
事も有{{r|成|ならば}}、甚太郞殿方がつよからん。其を如何にと申に兩方得御加擔は有間敷とは申せども、內前殿
者︀上樣を立出し給ひ而、方々を御浪人させまゐらせられ給得者︀、御心中に餘り御{{r|贔屓|ひいき}}には有間敷哉、
甚太郞殿者︀{{r|終|つひ}}に一度も{{r|逆心|ぎやくしん}}無、上を御たいせつと思召給得ば、御心中には是を{{r|惡|あし}}かれとはよも思召候
はんか。其故御普代衆も{{r|悉|こと{{ぐ}}く}}甚太郞殿得可{{レ}}付、內膳殿へは一人も付人有間敷、然時んば甚太郞殿{{r|勝|かたせ}}ら
れ給はんか、免︀若者︀と有內に兩方{{r|乍|ながら}}跡先に御{{r|病死|びやうし}}なれば無{{二}}何事{{一}}。然處に小田之{{r|彈正|だんじやう}}之忠出馬有而、{{r|案祥︀|あんじやう}}
の城を{{r|責取|せめとれ}}ば、無{{レ}}程{{r|佐崎|さざき}}の松平三左衞門殿、彈正之忠の手を取而、廣忠得{{r|逆心|ぎやくしん}}をし給ひ而、岡崎に{{r|迎|むかひ}}
而{{r|渡理|わたり}}{{r|{{?|「竹/木」}}鍼|つゝばり}}に取出を取給ふ。然處に坂井左衞門尉は內々を小田之彈正之忠と心を合而、其故にて廣忠
得{{r|難︀澁|なんじふ}}を申懸、折も能ば城をも心懸給ふか、御城得つめ入而、{{r|直談|ぢきだん}}に{{r|社︀|こそ}}申けるは、石川{{r|安藝|あき}}守と坂
{{仮題|頁=90}}
井雅樂助に{{r|腹|はら}}を御{{r|切|きら}}せ被成候はずんば、御{{r|不足|ふそく}}を可{{二}}申上{{一}}と被申候得ば、兩人之者︀に何とて{{r|腹|はら}}を{{r|切|きら}}せ
可{{レ}}申、思ひも不{{レ}}寄と被仰候處に、左衞門尉{{r|別心|べつしん}}に而御城得つめ給ふと而、各々御城得參ければ、佐
衞門尉も引のき給ふ。大原佐近右衞門今藤傳次郞なども一つくみ成。然處に本城之門{{r|脇|わき}}に而、佐近右
衞門が一人突︀伏せて、佐衞門尉と打連れて、大原佐近右衞門も、今藤傳次郞も、其外五三人引のきて
小田{{r|彈正|だんじやう}}之忠得出る。然處に松平九郞豆殿、{{r|舍弟|しやてい}}の十郞三郞殿、御{{r|死去|しきよ}}被成ければ、御{{r|跡繼|あとつぎ}}之御子無
と仰有而、其御{{r|跡式|あとしき}}を{{r|押領|あふりやう}}し給ふ。然處に岩{{r|津|づ}}殿御跡式迄、{{r|押領|あふりやう}}被成ければ、御身に{{r|妙|あて}}而御知行ども
には三人御知行を一つにして押領被成ければ、廣忠之御{{r|領分|りやうぶん}}には{{r|莫大|ばくだい}}に{{r|勝|すぐれ}}たり。か樣に我{{r|儘|まゝ}}に{{r|押領|あふりやう}}被
成候はゞ、只今{{r|社︀|こそ}}廣忠得御無沙汰無とは申せども、{{r|此方彼方|こゝかしこ}}押領し給得者︀、早廣忠と兩天に成給ふ成。
然者︀少之出入も六ヶ敷、其故內膳殿に懲︀りたる仕合も有、後之わづらひ是成。{{r|先車|せんしや}}之覆すを見而、
{{r|後車|こうしや}}の誡めをなすと{{r|云|いへ}}り。各々寄合{{r|談合|だんがふ}}して廣忠得此由申上、九郞豆殿を駿河得今河へ御{{r|使|つかひ}}につかはさ
れ、其寄岡崎得{{r|寄|よせ}}入不申、九郞豆殿は{{r|犇|おどろか}}せ給ひ、こはいかに何事ぞや。我廣忠得對して御無沙汰之心
毛頭{{r|更|さら}}に無、如何成儀に而御座候哉。更に我身におぼえ不申と仰せつかはし給得ば、各申上候。如仰
只今においては、廣忠得御無沙汰之儀夢々毛頭更に無、廣忠を御たいせつと思召事大方{{r|成|たらず}}。只今迄之
御取立{{r|殘|のこる}}所も無。然間御別心などと申儀は夢々思ひも寄ず、廣忠を大事と思召事大方ならねども、十
郞三郞殿御跡を我{{r|儘|まゝ}}に{{r|押領|あふりやう}}被成、{{r|其耳成|それのみならず}}岩{{r|津|づ}}殿御{{r|跡|あと}}迄、我{{r|儘|まゝ}}に{{r|押領|あふりやう}}被成候得ば、早廣忠之御領分には、
貴殿樣之御領分が{{r|莫大|ばくだい}}に增してあれば、早南天にならせ給得は、{{r|自然|しぜん}}少之出入も候得ば其時は六ヶ敷、
其故先車の覆へすを見而、後車之誠めをなすと云事有。此前內前殿にこり申故は、{{r|何只|いかに}}今御無沙汰無
と申而も、後日を不存候間、兎角に{{r|寄|よせ}}申間敷と各々申ければ、色々御{{r|詫|わび}}事{{r|有|あれ}}ども、各々用ひず。然者︀
今河殿を賴入而、御{{r|詫|わび}}事申さんとて、駿河得下而今河殿を賴、御{{r|詫|わび}}事被申ければ、各々右之しいしゆ
を申ければ、各々の被申候も以來を兼而被申候得ば、道理之聞えたりとて重而御{{r|詫|わび}}事無。然間九郞豆
殿仰には廣忠には{{r|恨|うらみ}}は荒ねども、家中之{{r|恨|うらみ}}なれば、さらば小田彈正之忠と一身可有とて、早手出しを
し給ひ而、廣忠之御領分に火之手を上給ふ。御普代衆をも九郞豆殿に{{r|多|おほく}}あづけ{{r|置|おかせ}}給ひし處に、九郞豆
殿手を出し給ふに寄而、九郞豆殿に付申處には{{r|非|あらず}}、如何せんと云處に、大久保甚四郞、同彌三郞申ける
は、後日には岡崎得のき度と申たりとも、取鎭め給はゞ成間敷に、取しめざる內に、兎角のき給得と
て、各々を{{r|唆|そゝの}}かし立て、引はづしてのきけり。九郞豆殿も此衆を賴と思召て{{r|社︀|こそ}}、手をも出させ給ひし
に、大久保が覺悟をもつて各々はのく成。更角に{{r|憎︀|にくき}}事かな、何ともして大久保一名之子供成とも描まへ
て、{{r|磔|はりつけ}}串{{r|指|ざし}}にもして無念をはれんと仰けり。然ども其比土呂、{{r|鍼崎|はりさき}}、野寺、佐崎とて{{r|敵味方|てきみかた}}{{r|不入|ふにふ}}之處
なれば、{{r|鍼崎|はりさき}}之勝萬寺得妻子けんぞく{{r|供|ども}}を入ければかなはず。勝萬寺殿も大久保衆之子供達一人も出
させ給ふなとて、人を付而寺內寄外得出させ給はずして{{r|置|おき}}給ふ。然者︀九郞豆殿ふかく{{r|憎︀|にくませ}}給ひ而、大久
保一名之知行、又は手作迄も根をほり給得ば、取わけ此一名は妻子けんぞくを{{r|餓死|がし}}に及せ、一{{r|衣|え}}を
{{仮題|頁=91}}
{{r|代貸|しろが}}し{{r|穄|あは}}、{{r|薭|ひえ}}、{{r|芋|いも}}などは上の{{r|食物|じきもつ}}也。豆腐の糟てうずのこなどを{{r|買|かひ}}取而、一兩年何と無から{{ぐ}}の{{r|命|いのち}}を
{{r|存|ながら}}へけれども、御普代之御主の御ためと思へば、何れも{{r|苦|く}}にもたず。然處に小田{{r|彈|だん}}正之忠出馬有而、
上和田に取出を取而、松平三左衞門殿を置給へば、早岡崎は一國一城と成。然處に岡崎寄大原作之右
衞門、今藤傳次郞、其外以上に七八人斗、上和田得のきて彈正之忠の前得罷出ければ、彈正之忠立出
對面して、各々{{r|忠節︀|ちうせつ}}は忝と仰ければ、其時佐近之右衞門傳次郞指出而申、御心安思召候得。岡崎は{{r|程|ほど}}
有間敷{{r|鑓|やり}}をもふりまはし候程の者︀どもは、{{r|皆|みな}}罷のき而{{r|座|おはし}}候間、頓而取而御目に懸申さんと申ければ、彈
正之忠の御返事に、されば滿足して有。然ども各々之樣に度々之事をして、名の高き人成。岡崎におき
ても一本{{r|鑓|やり}}之衆なれども、{{r|普代|ふだい}}の主の前途を{{r|見捨|みすて}}妻子を孚み、一命を{{r|捨|すてる}}處を{{r|慟|かなしみ}}而つよ見をほんとして
{{r|懸落|かけおち}}し給ふ。一本{{r|鑓|やり}}立寄も人{{r|數|かず}}に入{{r|去|ざる}}とは申ながらも、普代之主のせんどを見つぎ、妻子けんぞくを
歸見ずして、一命を主に奉らんと申而、岡崎にいたるあやかり者︀ども{{r|社︀|こそ}}、一本{{r|鎚|やり}}立寄も千萬心憎︀く存
知候と仰ければ、各々赤面して{{r|社︀|こそ}}居たりけり。扨又彈正之忠引{{r|入|いり}}給得ば、廣忠之仰出しに{{r|筧圖書|かけひづしよ}}を召
而仰けるは、和田之取出得忍入而、三左衞門尉を切て參、{{r|切害|きりころす}}者︀ならば、百貫可{{レ}}被{{レ}}下と仰ければ、御
請を申罷越、忍入而見而有ば、前後もしらず見得ければ、押付々々四{{r|脇指|わきざし}}五脇指つきける程に{{r|聲|こゑ}}も不
{{レ}}立してはてられ給ふ。{{r|豆書|づしよ}}も忍入たるに{{r|勢息|せいいき}}も切けるにや、{{r|其|そこ}}を出ければ{{r|腰|こし}}之たゝざれば、{{r|弟|おとゝ}}之{{r|筧|かけひ}}助
大夫も兄と付而其あり迄行けるが、兄之{{r|腰|こし}}之立た{{r|去|ざる}}を見て、おびてのきけるに、助大夫と申は{{r|隱無|かくれなき}}お
ぼえの者︀、{{r|筧|かけひ}}助大夫とて人之{{r|赦置|ゆるしおき}}たる者︀成。兄之{{r|豆書|づしよ}}にも拔群{{r|位|まし}}たる者︀成。助大夫兄を引懸而のくと
て云けるは、御身之取給ふ知行之內我等にも少くれ間敷と被{{レ}}申候はゞ、爰に{{r|捨|すつる}}と云けるを、扨も{{く}}
助大夫は能ねぎりたりとて{{r|笑譝|わらひほめ}}に{{r|譝|ほめ}}にけり。{{r|筧豆書|かけひづしよ}}には御{{r|約束|やくそく}}のとほり百貫被下けり。扨又廣忠は四
方に五つ六つの取出をとられ給ひ而、一國一城にならせ給得ば、今河殿を御賴被成御{{r|加勢|かせい}}を賴入と、
駿河得仰つかはしければ、今河殿御返事に{{r|家勢|かせい}}の事は安き儀成、{{r|但|たゞし}}と申に人質を給候得、其故加勢を
申さんと仰ければ、更ばと仰有て竹千代樣御年六歲の御時、質物として駿河得御下向被成けり。然間
西之郡にて御{{r|船|ふね}}に召れて、田原へあがらせ給ひて、田原より駿河へ御下向可被成との儀成。田原の戶
田少{{r|弼|ひつ}}殿は、廣忠の御ためには御{{r|婚|しうと}}成。竹千代樣の御ためには、繼{{r|祖︀父|をぢ}}成。然供{{r|少弼|せうひつ}}殿小田原之彈正
之忠得永樂錢千貫目に竹千代樣を{{r|賣|うらせ}}させられ給ひ而、御舟に召而熱田之宮得あがらせ給ひ、大宮司{{r|{{?|「冫+?」}}|あづかり}}
給ひ而明之年{{r|迄|まで}}{{r|御|おはします}}。廣忠之仰には其方得出したる事ならねば、何と成とも存分次第可有とて、{{r|終|つひ}}に
御{{r|用|もちひ}}なかりけり。彈正之忠も{{r|理非|りひ}}も無あたるべきにあらざれば打{{r|過|すぎ}}ぬ。然間今河殿仰けるは、廣忠寄
しち物はきたれども、そば寄{{r|盜|ぬすみ}}取而、敵方得{{r|賣|うり}}申事は無{{二}}是非{{一}}、其故も小田と一身無、侍之義理は見得
たり。此上は廣忠を見繼而、{{r|加勢|かせい}}可有とて、{{r|林西寺|りんさいじ}}之{{r|說齋|せつさい}}長老に各々を仰付而、駿河、遠江、東三河、
三ヶ國之人數を{{r|催|もよほし}}而{{r|加勢|かせい}}有。{{r|說齋|せつさい}}{{r|駿府|すんぷ}}を立而藤枝に{{r|付|つき}}、明ければ藤枝を立出{{r|大㳄河|おほゐがは}}、さよの山を打越懸
河に陣を取。明ければ懸河を打立而、{{r|福︀路居|ふくろゐ}}、見付、天{{r|龍|りう}}河を打越、其日は引間に陣を取。明ければ
{{仮題|頁=92}}
引間を立出而、兩手にわけて今切と本坂を越而、吉田に陣を取。吉田を立出{{r|下地|しもぢ}}之{{r|御位|ごい}}、小坂井{{r|御油|ごい}}
赤坂を打過而、早山中藤河に陣を取けり。岡崎には各々此由聞寄も{{r|喜|よろこび}}而、いざや駿河衆之出けるか見
んとて、弓取三十人斗{{r|圓入功|ゑんにふぼう}}山得あがりてながめける。折節︀岡の城寄九郞豆殿五百斗にて岡崎得打ま
はりと有而、まつ{{r|黑|くろ}}にかたまりて坂を押上させ給ふ。三十人斗之衆是を見而、爰成は九郞豆殿と見得
たり。いざや此{{r|小堬|こづか}}に木の葉を{{r|指|さし}}其蔭に隱れ居而、近くよらせられ給ふ時、一矢づつ射懸申、其寄坂
を下りに{{r|{{?|「足+朋」}}|はしり}}{{r|降|おり}}而、明太寺之町得{{r|懸|かけ}}入而、其寄すがう河得出べしとて待懸て居たりける處得、近々と
{{r|寄來|よせきた}}らせ給得ば、{{r|{{?|「足+朋」}}|はしり}}出而一矢づつ射懸而、坂を下に{{r|{{?|「足+朋」}}|はしり}}{{r|降|おり}}而、明太寺之町得入而、すぐにすがうの河原へ
出けり。九郞豆殿は御{{r|覽|らん}}じて、おつ取{{く}}{{r|追|おひかけ}}而町得{{r|追|おひ}}入而、町に火を懸させ給ひ而、其きほひに引の
けさせ給ば、御手柄と申くるしかる間敷を、御遊の末のかなしさは、町に火を懸させ給はずして、一
町斗引のけさせ給ひ而、そなへを立而{{r|御|おはします}}處得、又三十人斗之者︀供が立歸而、{{r|兩|ふたつ}}にわけて町の上下寄
指取引詰、我も{{く}}とそなへゝ射懸ければ、{{r|誰|たれ}}之矢が中るとも無して、九郞豆殿ひかへさせ給ふ御馬
の口取を射{{r|害|ころす}}。次に來る矢にて九郞豆殿を御馬寄射おとし奉ければ、是を見而{{r|犇|はしり}}出指取引つめ射懸れ
ば、{{r|其儘|そのまゝ}}敗軍しければ、九郞豆殿は早打死被{{レ}}成けり。岡崎も其間四五町有事なれば、元寄押出したる
衆是を見而、おつ取{{く}}{{r|追|おひ}}付而、皆打取。然間九郞豆殿御しるしを{{r|持|もち}}而參る。廣忠得角と申上ければ、
聞召もあへさせ給ずして、御{{r|淚|なみだ}}を{{r|滂|なが}}させ給ひ、安如何而か{{r|生|いけ}}取てもくれざる哉。日比九郞豆殿我等に一
つとして{{r|負|そむかせ}}給ふ事無く、此度敵をなし給ふ事も、{{r|違|ちが}}ひめ更になければ{{r|恨|うらみ}}と更に思はず。以來を疑ひて
{{r|某|それがし}}方寄立出しけるを、樣々{{r|侘|わび}}させ給得ども、わ聞ざれば赤面して存知之外に敵にならせ給得ば、我方
寄無理に敵とはなす成。內前之敵に成給ふとは、ばつくんちがいたりとて、はら{{く}}と御淚を{{r|滂|ながし}}させ
給得ば、各々も御道理とて、{{r|鎧|よろひ}}の{{r|袖|そで}}をぬらしけり。然間彈正之忠は駿河衆之出るを聞而、{{r|淸須|きよす}}之城を
立而、其日は{{r|{{?|「竹/?」}}|かさ}}寺鳴海︀に陣取給ひ而、明ければ箸寺を打立給ひ而、{{r|案祥︀|あんじやう}}に{{r|著︀|つか}}せ給ひ而、其寄{{r|八萩|やはぎ}}河之
下の瀨を越而、上和田之取出にうつらせ給ひ而、明ければ{{r|馬頭|ばとう}}之原得押出し而、合陣の取んとて上和
田を{{r|未明|みめい}}に押出す。駿河衆も上和田之取出への{{r|働|はたらき}}とて、是も藤河を未明に押出す。藤河と上和田之間
一里有。然處に山道の事なれば、{{r|互見|たがひにみ}}不{{レ}}{{r|出|いださ}}して押けるが、{{r|小豆|あづき}}坂へ駿河衆あがりければ、小田之三郞
五郞殿は先手に而小豆坂へあがらんとする所に而、{{r|鼻|はな}}合をして{{r|互|たがひ}}に{{r|洞天|どうてん}}しけり。然とは申せども{{r|互|たがひ}}に
{{r|旗|はた}}を立而{{r|即|すなはち}}合戰{{r|社︀|こそ}}{{r|初|はじまり}}而、{{r|且|しばらく}}は{{r|戰|たゝかひ}}けるが、三郞五郞殿打{{r|負|まけ}}させ給ひ而、{{r|盜人|ぬすびと}}{{r|來|き}}迄打れ給ふ。盜人來
には{{r|彈|だん}}正之忠之{{r|旗|はた}}の立ければ、其寄も盛り歸して、又{{r|小豆|あづき}}坂之下迄打、又其寄{{r|追|おひ}}歸されて打れけり。
其時之合戰者︀對々とは申せども、彈正之忠之方は二度{{r|追|おひ}}歸され申、人も{{r|多|おほく}}打れたれば、駿河衆之{{r|勝|かち}}と
云。其寄駿河衆は藤河得引入、彈正之忠者︀上和田得引而入、其寄案祥︀得引而、案祥︀には舍弟之小田之三
郞五郞殿を{{r|置|おき}}給ひ而、彈正之忠者︀{{r|淸須|きよす}}得引入給べ。三河に而小豆取も申したゑしは此事に而有。
廣忠は其年二拾三にて御病死被成ければ、岡崎得も駿河寄入番を入而{{r|持|もち}}けり。扨又本城之御番は{{r|誰|たれ}}に
{{仮題|頁=93}}
而{{r|御|おはします}}。大久保新八郞と云。扨二の丸之御番は誰人に而{{r|御|おはします}}やと云。田中彥次郞に而御座候。扨新八殿
聞召御代々御{{r|忠節︀|ちうせつ}}と申、又はか樣に辛勞苦勞して御奉公申上、君之御手も{{r|廣|ひろく}}成申たらば、御普代之衆
は手と手を取合而、{{r|飢死|かつゑじに}}に候はんにやと云。新八郞申、御心安あれ此君御{{r|慈悲|じひ}}ふかければ、御手{{r|廣|ひろく}}な
らせられても、{{r|飢|かつ}}ゑ{{r|殺︀|ころ}}しは被成間敷、御身之如{{レ}}仰末の御代には必さもあらん。御手も{{r|廣|ひろく}}あらば{{r|新參|しんざん}}{{r|犇|はしり}}
付之衆{{r|多|おほく}}來り而、獨樂をまはすがごとく御奉公申ならば、其を御身{{r|近|ちかく}}召つかはるべし。其{{r|耳弄|のみならず}}別儀別
心之{{r|末|すゑ}}の子孫供が、能御奉公申而、御意に入、御{{r|膝|ひざ}}本{{r|近|ちか}}く御來公可{{レ}}申、又{{r|信光|のぶみつ}}寄此方{{r|忠節︀|ちうせつ}}{{r|忠功|ちうこう}}をなし
度々{{r|走|はし}}りめぐりをして、{{r|親|おや}}、{{r|祖︀父|おほぢ}}、{{r|伯父|をぢ}}どもを打死させて、御代々御{{r|忠節︀|ちうせつ}}申上たる子孫なれども、{{r|惡|あしく}}召
つかはさるゝと申而、御{{r|不|ぶ}}奉公をかならず可{{二}}申上{{一}}、其時普代もいらざるとて、押はらはれ可{{レ}}申。御普
代久敷者︀はちり{{ぐ}}に罷成、{{r|忠節︀|ちうせつ}}{{r|忠高|ちうかう}}之筋は一人も無して、普代もいらざるとて、行得も無者︀を普代と
可{{レ}}被{{レ}}仰御{{r|代|だい}}もかならず可{{レ}}有。然ども其御{{r|代|だい}}には御普代も入{{レ}}申供又入申御代も可有。其を如何にと
申に、此跡之御代にも御手之{{r|廣|ひろ}}がる御代も{{r|多|おほ}}し。又はらりと崩れて御手{{r|狹|せば}}む御代も{{r|多|おほ}}く候つるを各々
御存知成。御手之{{r|廣|ひろ}}き御代には御普代は入申間敷けれども、又{{r|末|すゑ}}之御代に御手せばに成たる御代に前
前の御代に御{{r|慈悲|じひ}}無おいはらはせ給ば、後には御普代之筋をも御存知有間敷、又は普代之衆も御普代之
御主を知るまじきければ、御身にあてゝ引立申者︀有間敷ければ、其御代にあたらせ給ふ御主をいとをし
く存知候。只今之御主廣忠は、御慈悲のふかく{{r|御|おはしませ}}ば御心安あれ。此君之御代に飢ゑ{{r|殺︀|ころし}}は被成間敷候
と云。田中彥次郞申者︀新八殿尤成。只今之御{{r|慈悲|じひ}}は申つくしがたし。如仰{{r|末|すゑ}}之御代に御慈悲無御代も
可有候。左樣之御代も出來させ給ば、御代々久敷筋は{{r|散々|ちり{{ぐ}}}}に成て、御主も御普代之筋を御存知有間敷は
歷然成。又御普代之衆も、御普代之御主を存知申間敷は、是もれきぜん成。然者︀其御代にて信光寄之
此方、御代々之忠節︀を積み{{r|置|おき}}而河へ{{r|流|なが}}す迄。
元和八年{{仮題|分注=1|壬|戌}}卯月十一日 {{仮題|分注=1|子供是を{{r|讓|ゆづる}}門|外不出可有成}} 大久保彥左衞門 {{resize|80%|花押}}
子供是を能嗜みて、日に一度づつ取出して見而、御主樣得御無沙汰無能御奉公申上候得、御{{r|普|ふ}}代衆
は何れも是に劣らず御忠節︀はしりしめぐり者︀同前可{{レ}}成。然ども此書物{{r|公界|くがい}}ゑ出す物ならば、何れも御
普代衆之事をも能穿鑿して可{{レ}}書が、此書物はくがいゑ出す事無して、{{r|汝|なんぢ}}供が{{r|寶|たから}}物に可{{レ}}有候得ば、各々
の事は不{{レ}}書して、我一名之事又は我れ辛勞しても見も{{r|成|ならず}}、子供も有程の御奉公申上而、御取上無とも其
に御不足不申上候。何事も先之世の因果と思ひ而、御不足無奉公を申上よ。其に寄何れもの事書不申
候。其爲此書物門外不出可有者︀成。以上。{{nop}}
{{仮題|ここまで=三河物語/第一上}}
{{仮題|ここから=三河物語/第二中}}
{{仮題|頁=94}}
{{仮題|投錨=第二中|見出=中|節=m-2|副題=|錨}}
{{r|小豆坂|あづきざか}}之合戰之明の年、今河殿寄、{{r|雪|せつ}}齋長老を名代として、駿河、遠江、三河、三箇國の人數を{{r|促|もほよし}}而
押而出、西三河之{{r|案祥︀|あんじやう}}得{{r|卽|すなはち}}取つめけり。{{r|案祥︀|あんじやう}}之城に者︀、小田之三郞五郞殿うつらせ給ひ而、{{r|御|おはします}}處に、
四方寄、{{r|責寄|せめよせ}}而、{{r|鐘太鼓|かねたいこ}}を{{r|鳴|なら}}し、四方寄、矢{{r|鐵砲|てつぽう}}をはなし、天地を{{r|響︀|ひゞ}}かせ、{{r|鯨聲|ときのこゑ}}を上、もつたて、か
ひ立、せい{{r|樓|ろ}}をあげ、矢藏を上、竹たばを付而、{{r|晝夜|ちうや}}、時之間もゆだん無、荒手を{{r|入替|いれかへ}}々々{{r|責|せめ}}入れば、
早二三之丸を{{r|責|せめ}}取而、本丸斗に成而、{{r|噯|あつか}}ひを懸而、二の丸得おろして、{{r|卽|すなはち}}、{{r|堄|しゝがき}}をゆて、押こみて、{{r|𥯚|こ}}
の內之鳥、あじろの內の、ひ魚のごとくにして置、其寄して小田之彈正之忠得、{{r|雪|せつ}}齋長老寄申しつか
はしけるは、三郞五郞殿をば、二の丸得、押おろし、{{r|卽|すなはち}}{{r|堄|しゝがき}}をゆいて、押入而おく。然とは云ども、松
平竹千代殿と、人質替にも被成候はんや。其儀においては尤成。然らずんば、是に而御{{r|腹|はら}}を切せ申さ
んと、申つかはしければ、平手と林兩人寄返事に、仰被越候儀尤に存知候。さらば取{{r|替|かへ}}申さんとて、
其時{{r|相互|あひたがひ}}に、替相にならせられ給ひし寄、竹千代樣者︀、駿河之國得御下被成、{{r|駿府|すんぷ}}之、少將之宮之町
に、御年七歲寄、十九之御年迄、御{{r|氣伻|きづかひ}}を被成候御事、云に無{{レ}}斗、あたりにて、{{r|䲼|こたか}}をつかはせられ給
し迄も、御{{r|氣遣|きづかひ}}を被成候。{{r|去|さる}}程に人者︀只、情あれ。原見石主水が屋敷得、御{{r|鶚|たか}}それ而入ける時者︀、折
折うらの林得入せ給ひ而、すゑ上させ給へば、主水申樣は、三河の忰に、あきはてたりと、度々申つ
るを、御無念にも思召けるや、三拾七八年程へて後、遠江之國、高天神︀之城を、甲斐之國の、勝賴方
寄{{r|持|もち}}けるを、押寄而、{{r|堀|ほり}}を{{r|掘|ほり}}、{{r|堄|しゝがき}}をゆい、塀柵付而{{r|烯害|ほしころ}}させ給ひし時、原見石主水も、其時城に{{r|籠|こもり}}け
る。早兵粮米も盡きて、切而出けるを、{{r|生取|いけどり}}而此由を申上ければ、其原見石と申者︀、我{{r|昔|むかし}}{{r|駿府|すんぷ}}につめ
て有し時に、上原得、{{r|鶚|たか}}つかいに出るに、原見石が林得、{{r|鶚|たか}}のそれて入時、すゑ上に入候へば、三河
のせがれに、あきはてたると、度々に{{r|置|おい}}而申つる。我も{{r|侤|おほい}}たり。原見石も可{{レ}}存。とてもわれにあきた
る原見石なれば、とく{{く}}腹を{{r|戮|きらせ}}申との御{{r|諚|ぢやう}}成。原見石、最後もよかりける。尤其儀成、{{r|悔︀敷|くやしき}}事に{{r|非|あらず}}
とて、南得むきて腹を切りけるを、そば寄申けるは、さすがの原見石程の者︀が、最後をしらずや、西
にむきて{{r|腹|はら}}を{{r|切|きれ}}と云ければ、原見石が申、{{r|汝|なんじ}}物をしらずや、{{r|佛|ほとけ}}者︀{{r|十方|じつぽう}}、{{r|佛土中|ぶつとちう}}、{{r|无二亦|むにやく}}、{{r|無三|むさん}}、{{r|除佛|ぢよぶつ}}、
{{r|方便說|ほうべんせつ}}と、{{r|說|とき}}給得者︀、西方にばかり、極樂者︀有と斗思ふか、{{r|荒胸|あらむね}}狹や。いづれの極樂を嫌はんやとて、
南にむきて腹を切けり。然所に、大河內と申者︀は、其比再々御前得も參、御用をもたして、御奉公ぶ
りを、いたしたる者︀なれば、城寄も何時切而出るとも、{{r|汝等|なんじら}}は石川{{r|伯耆|ほうき}}守{{r|責|せめ}}口之前に、石風呂のあり
ける中得入而居よと仰せければ、御意之ごとく、大河內は、石風呂之中にぞゐたりけるを、命を御{{r|扶|たすけ}}
被成、其{{r|耳成|のみならず}}、物を被下而、送り而國得御返しあり。能あたり申大河內も、{{r|惡|あしく}}あたり申。原見石も一
つ時、一度に高天神︀の城に籠りて、城をば一度に出るとは申せども心に{{r|哀見|あはれみ}}を{{r|勿|もち}}而、人に能あたりた
る者︀は、天道の御惠に仍、{{r|忽|たちまち}}に、打死をする所を命を{{r|佑|たすか}}る。御{{r|幼少|えうせう}}之御時、能あたり申ならば、此度
{{仮題|頁=95}}
の命は、無{{レ}}{{r|遖|なん}}{{r|佑|たすかる}}べきを、心に{{r|慈悲|じひ}}を{{r|持去|もたざる}}故に仍、討死の{{r|場|ば}}に而、{{r|生|いけ}}取れ而、腹を切たる儀は、主之
奉公には、同事にはあれ{{r|供外|どもよそ}}のきけいと申、其身之ためには、迷惑成。是を{{r|見|みる}}に付而、只人者︀{{r|慈悲|じひ}}之
心を本として、人を{{r|惡|あしく}}する事なかれ。去程に御年七歲寄御十九迄、駿河に引被{{レ}}付させ給ひ而、其內者︀
御扶持方斗之あてがいにして、三河之物成とて少もつかはされ候事{{r|成|ならず}}して、今河殿得不{{レ}}被{{レ}}殘{{r|押領|あうれう}}し
て、御普代之衆者︀、拾箇年餘、御ふちかたの御あてがひ可被成樣もあらざれば、せめて山中貳千石餘
之所を渡してもくれ{{r|去歟|ざるか}}、普代之者︀ともが{{r|餓死|がし}}に及{{r|體|てい}}なれば、かれらにせめてふちかたをもくれ度と
被{{レ}}仰けれども、山中貳千石さゑ渡し候はねば、何れも御普代衆手作をして、年貢石米をなして百姓同前
に{{r|鎌|かま}}鍬を取、{{r|妻子|さいし}}をはごくみ、身を{{r|扶|たすけ}}{{r|荒|あら}}れぬ{{r|形|なり}}をして{{r|誠|まこと}}に駿河衆と云ば氣を取{{r|拜|はい}}つくばひ、折{{r|屈而髃|かゞみかたほね}}
身をすくめて{{r|恐|おそれ}}をなして{{r|步|あり}}く事も、若{{r|何|いか}}成事をもし出てか、君之御大事にも成もやせんと思ひ而、其{{r|耳|のみ}}
斗に各々御普代衆有にあられぬ{{r|氣伻|きづかひ}}をし{{r|趙廻|はしりめぐる}}。拾箇年に餘年には五度三度づつ駿河寄尾張之國得{{r|働|はたらき}}に
而有、竹千代殿の衆に先懸をせよと申越けれども、竹千代樣は御座不{{レ}}被{{レ}}成、{{r|誰|たれ}}を御主として先懸をせ
んとは思得ども、然供御主は何くに御座候とも、普代之御主樣得の御奉公なれば、各々我々不{{レ}}殘罷出
て、先懸をして{{r|親|おや}}を打死させ子を打死させ、{{r|伯父|をぢ}}{{r|姪|めい}}從兄弟を打死させ、其身も數多の{{r|疵|きず}}をかうむり、
其間々には尾張寄{{r|働|はたらき}}ければ出て者︀{{r|禦|ふせぐ}}。晝夜心を盡し、身をくだき{{r|働|はたらく}}とは申せども、未竹千代樣之、岡
崎得入せ給はぬ事之{{r|悲|かな}}しさと、各々の身に餘りて{{r|歎|なげき}}けり。今河殿も竹千代殿の普代之者︀をさゑ{{r|害|ころし}}あげ
たらば、竹千代殿を岡崎得入申間敷とや思召哉、{{r|此方彼方|こゝかしこ}}の先懸をさせ、數多之人を{{r|害|ころし}}、然處に今河
殿寄{{r|苅|かり}}屋之城を忍び取に取んと、伊賀衆を{{r|喚寄|よびよせ}}付けり。水野藤九郞殿者︀恪氣の{{r|深|ふか}}き故に、城之內にか
いがは敷人を置給而、年寄たる{{r|臺所|だいどころ}}人之樣成者︀、{{r|夫|ぶ}}あらしこ、其外年寄、小性の樣成{{r|役|やく}}にも{{r|立去|たゝざる}}者︀ど
もを取{{r|集|あつめ}}而、四五十人斗居たり。其故{{r|熊|くま}}村と云{{r|鄕|がう}}に目懸を置給得ば、其後通い給ふとて、濱手の方を
ば人之行かよいなければ、聞懸而濱之方寄伊賀衆やす{{く}}と忍入而、藤九郞殿を打取。其外之者︀ども
を{{r|此方彼方|こゝかしこ}}得押寄々々{{r|皆|みな}}打{{r|取|とり}}而、二の手を待けり。其時岡崎衆を二之手にするならば、{{r|無|なく}}{{レ}}{{r|難︀|なん}}城を取か
ためべき物を、水野下野殿者︀竹千代樣の御ためには、{{r|眼前|がんぜん}}の伯父、藤九郞殿者︀下野殿には御子、竹千
代樣には御いとこなれば、其に心を置{{r|歟|か}}、岡崎衆には不{{レ}}付して、二の手を三河之衆に申被付けれ
ば、をくれても有{{r|歟|か}}、二の{{r|手慹|おそ}}ければ{{r|苅|かり}}屋衆之{{r|爰|こゝ}}はと思ふ衆が、早{{r|悉|こと{{ぐ}}く}}おとなの牛田玄蕃所得懸寄而、
{{r|此方|このかた}}は何とゝ云ければ、玄蕃云、何とゝは{{r|酷|あわてたり}}とて{{r|卽|すなはち}}{{r|倍|よせかくる}}程に、其{{r|儘|まゝ}}城を{{r|騎|のり}}返而、伊賀衆を八十餘
打取。然ども藤九郞殿頸をば羽︀織につみて、床ゑ上而{{r|社︀|こそ}}置。駿河衆も城を{{r|騎|のり}}返され而、手をうしない
ける處に、早小河寄下野殿懸着給得ば、駿河衆も足々にして引退く。然處に小田之彈正之忠も御遠行
有而、信長之御代に成、竹千代樣も早御元服被成、義元の元を取せられ給ひ而、次郞三郞元康と申奉
る。
永{{r|祿|ろく}}元年戊午の年、御年十七歲にして、大高の兵粮を請取せられ給ひ而入させ給ふ處に、敵も出て見
{{仮題|頁=96}}
得ければ、物見を出させ給ひしに、鳥居四郞左衞門、杉浦藤次郞、內藤甚五左衞門、同四郞左衞門、石
川十郞左衞門など見而參、今日之兵らう入者︀如何御座可有哉。{{r|敵陣|てきいくさ}}を{{r|持|もち}}而候と被{{二}}申上{{一}}候處得、杉浦
八郞五郞參而申上候者︀、早々御入候ゑと申上ければ、各々被{{レ}}申けるは、八郞五郞は何を申上候哉、敵
きをいて{{r|陣|いくさ}}を持たると云。八郞五郞申、いや{{く}}{{r|敵|てき}}者︀{{r|陣|いくさ}}は{{r|不|ず}}{{レ}}持、御{{r|旗|はた}}先を見而山成敵方が下得おろさ
ば、陣を持たる敵なれども、御{{r|旗|はた}}先を見而、下成敵が上得引上申せば、兎角に敵者︀武者︀をば持ぬ敵に
而御座候間、早々入させ給得と申ければ、八郞五郞が申ごとく成、早々入よと被仰而、押立て入させ
給得ば、相違無く入給ひて引のけ給ふ。大高之兵粮入と申而御一大事成。然間信長も淸{{r|須|す}}得引給ふ。
次郞三郞樣之御おぼゑ{{r|初|はじめ}}成、其寄岡崎得引入給ひて、{{r|寺邊|てらべ}}之城ゑ押寄給ひ而、外ぐるはを押{{r|敗|やぶり}}放火し
て岡崎得引入らせ給ひ而、次に梅︀がつぼの城得押こみ給ひければ、城寄出て{{r|禦|ふせぎ}}{{r|{{?}}|たゝかふ}}と云とも、何かは
以堪ゑべき。付入にして外がまゑゝ{{r|追|おひ}}入、二三之丸迄{{r|燒排|やきはらひ}}而、數多打取而、其寄岡崎得引せ給ひ而、
次に廣瀨之城、衣之城得押寄給ひ而、{{r|數多|すた}}打取かまいを{{r|敗|やぶり}}、放火して引きのけさせ給ひ、其寄岡崎
得引入給ひ而、程無又駿河得返らせ給ふ。御普代衆之{{r|喜|よろこび}}申事無{{レ}}{{r|限|かぎり}}。扨も何とか御{{r|成長|そだち}}給ひ而、弓矢
之道も如何{{r|御|おはしまさん}}と、{{r|朝暮|あけくれ}}無{{二}}心元{{一}}{{r|案|あん}}じ{{r|參|まゐら}}せ候得ば、扨も{{く}}淸康之御勢に能も{{く}}たがはせ給{{r|去|ざる}}事
之目出たさと申、各々{{r|感淚泊|かんるゐをながし}}而喜けり。扨又義元、尾張之國得出馬之時、次郞三郞元康も御供被成
而御立有。義元者︀駿河、遠江、三河、三ヶ國之人數をもよをして、{{r|駿府|すんぷ}}を打立而、其日藤枝に付。先
手之衆は島田、金谷、仁坂、懸河に付、明ければ藤枝を立而懸河に付、先手者︀原河、{{r|袋井|ふくろゐ}}、見付、池田
に付、明ければ懸河を立而引間に付、諸︀勢は本坂と今{{r|切|ぎれ}}ゑ兩手にわけて押而出て、{{r|御油|ごい}}赤坂に而出合
けり。義元者︀引間を立而吉田に付、先手は{{r|下|しも}}地之{{r|御位|ごい}}、小坂井、{{r|國|かう}}、{{r|御油|ごい}}、{{r|赤坂|あかさか}}に陣取、吉田を立而
岡崎に付。諸︀勢者︀屋{{r|萩|はぎ}}、{{r|鵜等|うとう}}、今村、牛田、八橋、池鯉鮒に陣之取、明ければ義元池鯉鮒に付給ふ。
此以前寄くつ懸、鳴海︀、大高をば取而{{r|持|もち}}たれば、くつ懸之城には駿河衆入番有り。鳴海︀之城をば岡部
之五郞兵衞が居たり。大高には鵜殿長{{r|勿|もち}}番手に居たり。信長寄大高には取出を取而、{{r|棒|ぼう}}山の取出を佐
間大角と申者︀が{{r|勿|もち}}而、明ずして居たりしを、{{r|永祿|えいろく}}三年{{仮題|分注=1|庚|申}}五月十九日に、義元は池りう寄{{r|段|だん}}々に押而大
高ゑ行、{{r|棒|ぼう}}山之取出をつく{{ぐ}}と巡見して、{{r|諸︀|しよ}}大名を寄而良久敷{{r|評定|ひやうぢやう}}をして、さらば{{r|責取|せめとれ}}。其儀なら
ば元康責給得と有ければ、元寄{{r|踸|すゝむ}}殿なれば{{r|卽|すなはち}}{{r|押寄|おしよせ}}而責給ひければ、程無たまらずして佐間は切て出
けるが、{{r|運|うん}}も盡きずや、打もらされて{{r|落|おち}}而行。家の子{{r|郞從|らうどう}}どもをば{{r|悉|こと{{ぐ}}く}}打取。其時松平善四郞殿、{{r|筧|かけひ}}
又藏、其外之衆も打死をしたり。其寄大高之城に兵らう米{{r|多籠|おほくこむる}}。其上に而又{{r|長評定|ながひやうぢやう}}の有けり、其內に
信長者︀{{r|淸須|きよす}}寄人數をくり出給ふ。{{r|評定|ひやうぢやう}}には鵜殿長{{r|勿|もち}}を早長々の番をさせ而有り。誰を{{r|替|かはり}}にか{{r|置|おか}}んとて、
誰か是かと云內、良久敷誰とても無。さらば元康を置申せとて、次郞三郞樣を置奉り而引のく處に、
信長者︀思ひの{{r|儘|まゝ}}に懸付給ふ。駿河衆是を見而、石河六左衞門と申者︀を{{r|{{?|「口+?」}}|よび}}出しける。彼六左衞門と申者︀
は、大{{r|剛|がう}}の者︀に而、伊田合戰之時も{{r|面|おもて}}を十文{{r|字|じ}}に切はられ、頸を半分切れ、身の內につゞきたる處も
{{仮題|頁=97}}
無、{{r|疵|きず}}を持たる者︀成を{{r|{{?|「口+?」}}|よび}}而云けるは、此敵は武者︀を{{r|勿|もち}}たるか、又もた{{r|去|ざる}}かと云。各々の仰に不{{レ}}及、あ
れ程若やぎ而見えたる敵の、武者︀を{{r|勿|もた}}ぬ事哉候はん{{r|歟|か}}。敵は武者︀を一ばい勿たりと申。然者︀敵之人數
は何程可{{レ}}有ぞ。敵之人數は內ばを取而五千も可{{レ}}有と云。其時各{{r|䇻|はからつ}}て云、何とて五千者︀可{{レ}}有ぞと云。其
時六左衞門打{{r|䇻|はからつ}}而云、{{r|方々|かた{{ぐ}}}}達は人數のつもりは無{{二}}御存知{{一}}と見えたり。かさに有敵を下寄見上而{{r|見|みる}}時
は、少數をも太勢に{{r|見|みる}}物成に有。敵をかさ寄見おろして見れば、太勢をも少勢に{{r|見|みる}}物にて候。{{r|方々|かた{{ぐ}}}}達
のつもりには、何として五千寄內と被仰候哉、惣別か樣之處の長{{r|評定|ひやうぢやう}}者︀、能事は出來せ{{r|去|ざる}}物にて候。{{r|方々|かた{{ぐ}}}}達
山を{{r|責|せめん}}歟{{r|責|せめ}}間敷{{r|歟|か}}との{{r|評定|ひやうぢやう}}久敷、又城之替番の詮義久敷候間、ふつゝと能事有間敷と申つるにたがは
ず、是得押寄給ふと其{{r|儘|まゝ}}、取あゑずに{{r|棒|ぼう}}山を{{r|責|せめ}}落させ給ひ而、番手を早く入歸給ひ而、引かせ給は
でかなはざる處を、餘りにをもくれ而、手ねばく候間、ふつゝと能事有間敷、早々被{{レ}}歸せ給得と、六
左衞門申ければ、{{r|急|いそぎ}}早めて行處に、步行者︀は早五人三人づつ山得あがるを見而、我先にと退く。義元
は其をばしり給ずして、辨當をつかはせ給ひて、ゆく{{く}}として{{r|御|おはしまし}}給ひし處に、{{r|車軸|しやぢく}}の雨がふり{{r|懸|かゝ}}
る處に、永祿三年{{仮題|分注=1|庚|申}}五月十九日に、信長三千斗に而切而懸らせ給得者︀、我も{{く}}と{{r|敗軍|はいぐん}}しければ、義
元をば毛利新助方が場もさらさせずして打取、松井を{{r|初|はじめ}}として拾人餘、枕を{{r|幷|ならべ}}打死をしけり。其外
{{r|敗軍|はいぐん}}して{{r|追|おひ}}打に成、其儘押つめ給はゞ駿河迄も取給はんずれども、信長は强みを押させられ給{{r|去|ざる}}人なれ
ば、其寄淸須得引入給ふ。然ると申に、元康の{{r|{{?|「尸+?」}}除|しつはらい}}を被成候物ならば、か程の事は有間敷に、大高の
城之番手を申被{{レ}}付し事{{r|社︀|こそ}}、義元の運命成。{{r|岡部|をかべ}}之五郞兵衞は、義元打死被成、其故{{r|屝|くつ}}懸之入番衆も落
行供、鳴海︀之城を{{r|持固|もちかため}}而、其故信長を引請而、一{{r|責々|せめ{{く}}}}られて其上にて、降參して城を渡し、あまつさ
え信長得申義元之しるして申請而、駿河得御供申而下けり。御{{r|死骸|しがい}}を取{{r|置|おき}}申而、御しるし斗之御供申而
下事、たぐいすく無とも申つくしがたし。此五郞兵衞を昔之事のごとくに{{r|作|つくる}}ならば、武邊と言侍之義
理と云、普代之主の奉公と云、{{r|異|い}}國はしらず、本朝には有難︀し。尾張之國寄東において、岡部之五郞
兵衞をしらざる者︀は無。扨又義元は打死を被成候由を承候。其儀に置而は、爰元を早々御引{{r|除|はらは}}せ給ひ
而、御尤之由各々申ければ、元康之仰には、たとへば義元打死有とても、其儀何方寄もしかとしたる
事をも申不{{レ}}被{{レ}}來に、城を{{r|明退|あけてのき}}若又其儀僞にも有ならば、二度義元に{{r|面|おもて}}をむけられん哉。其故人のさ
さめき{{r|䇻|はらひ}}くさに成ならば、命ながらゑて詮もなし。然者︀何方寄もしかとしたる事無內は、菟角にのか
せられ間敷と仰{{r|除|はらつ}}而御座候處得、小河寄、水野四郞左衞門殿方から、淺井六之助を{{r|使|つか}}ひにこさせられ
て、其元御油斷と見得たり。義元{{r|社︀|こそ}}打死なれば、明日は信長其元得押寄可被成、今夜之內に御支度有
而、早々引のけさせ給得、然者︀我等參而、案內者︀可申由を、申被{{レ}}越候得ば、六之助、主之{{r|使|つかひ}}に來り而
申けるは、我等に御案內者︀申而、早々御供申せ。信長押寄給はゞ御六ヶ敷候はんと、四郞右衞門申被
{{レ}}越候間、我等に三百貫被{{レ}}下給得、御供申さんとて知行をねぎりて御案內者︀を申けり。水野四郞右衞門
殿は腹を立、{{r|憎︀|にくき}}やつばらめ、成敗をいたし度と被申候得ども、敵味方の事なればせいばいも{{r|弄|ならず}}、大高
{{仮題|頁=98}}
之城を引のかせられ給ひ而、岡崎には未駿河衆が持而居たれども、早渡してのきたがり申せども、
{{r|氏眞|うぢざね}}にしつけのために、御辭退有而請取せられ給はずして、直に大樹寺得御越有而御座候得ば、駿河衆
岡崎之城を明而{{r|退|のき}}ければ、其時{{r|捨|すて}}城ならば、{{r|拾|ひろ}}はんと仰有而、城得うつらせ給ふ。其時御普代衆{{r|悅|よろこび}}而、
扨も{{く}}も目出度御事哉、十ヶ年に餘普代之御主樣を遠くに置奉り而、一度岡崎得奉{{レ}}入而、とてもの
はしりめぐりを御目之前に而申度と願ひ而、餘國も無、{{r|猪︀猿|しゝさる}}之樣成やつばらどもに折れかゞ見、{{r|敗|はい}}つ
く{{r|敗|はい}}かゞみまはる事も、一度は君を是得入申さんため成。御年六歲之御時此城を御出被成、永祿三年
{{仮題|分注=1|庚|申}}五月二十三日、生年十九歲之御年、岡崎之御城得入せ給ふ事之目出度さと申而、{{r|悅|よろこび}}申事無{{レ}}{{r|限|かぎり}}。然間
駿河と御手{{r|切|ぎれ}}を被成候得て、元康を替させられ而、家族にならせちれ結ぶ。扨又{{r|板倉|いたくら}}{{r|彈|だん}}正を中島之{{r|鄕|がう}}に
而松平主殿助殿ゑ仰被{{レ}}付、御{{r|成敗|せいばい}}被成候得と而、仰被{{レ}}付ける處に、打漏し給得ば、岡の城得來り而、
岡之城を{{r|持|もつ}}所に岡崎寄押寄給ひ而、責おとし給得ば、板倉彈正者︀東三河得行岡崎も方々得御手づかい
を被成けり。{{r|或|ある}}時は廣瀬之城得御{{r|働|はたらき}}被成、押つめ而{{r|構|かまい}}ぎはにてはげ敷せりあひ有而、{{r|追|おひ}}こみ而曲輪を
{{r|破|やぶり}}、數多打取而引給ふ。又有時は{{r|履|くつ}}懸之城得押寄而、町を{{r|破|やぶり}}放火して引給ふ。又有時は衣之城得押寄、
數多打取て引給ふ。有時は梅︀が{{r|壺|つぼ}}之城得御{{r|働|はたらき}}有而、町を破而引給ふ。有時は小河得御{{r|働|はたらき}}有ければ、小
河寄も石が瀨迄出てせり合けり。其時鳥居四郞左衞門、大原佐近右衡門、矢田作十郞、蜂屋半之丞、大
久保七郞右衞門、同次右衞門、高來九助、是等が{{r|鑓|やり}}を合成其寄引のき給ふ。又有時は寺邊之城得御働
有而、押懸而城をのり取給ふ。又有時は苅屋得御{{r|働|はたらき}}有。苅屋寄十八町得出てたゝかいけり。十八町に
て大久保五郞右衞門、同七郞右衞門、石河新九郞、杉浦八十郞{{r|鑓|やり}}が合、但杉浦八十郞は爰に而打死を
したり。其寄{{r|互|たがひ}}に引のく。又或時は長{{r|澤|さは}}得御{{r|働|はたらき}}有而、鳥屋が{{r|根|ね}}之城得押懸而、荒々とあて給ふ。其時
榊原彌平々々兵衞之助を、あれは{{r|誰|たれ}}ぞ早しと被仰ければ、榊原彌平々々兵衞之助に而御座候と申けれ
ば、早押こみて有り。{{r|更|さら}}ば早之助と付よと被仰けるに仍、榊原早之助と申成、又有時は西尾之城得御
{{r|働|はたらき}}被成、是に而も{{r|鑓|やり}}が合、又有時は東{{r|條|でう}}之城得御{{r|働|はたらき}}有而、各々鑓が合、又有時は衣之城得押寄給ひ
て、各々鑓が合、越前之柴田と大久保次右衞門鑓が合、ある時は小河得御{{r|働|はたらき}}有、小河衆又{{r|石|いし}}が瀨迄出
で各々鑓が合、石川{{r|伯耆|はうき}}守と高木主水が鑓が合、又有時は梅︀が{{r|壺|つぼ}}得御{{r|働|はたらき}}、是にても各々鑓が合、此城
城得度々に{{r|置|おき}}而、二三ヶ年は御無{{レ}}𨻶、月の內には五度三度づつ御{{r|油斷|ゆだん}}無御{{r|働|はたらき}}有。其後信長と御{{r|和談|わだん}}被成
し寄は、此城々得御{{r|働|はたらき}}は無。{{r|但|たゞし}}西尾之城と東{{r|條|でう}}之城は駿河方なれば、{{r|節︀々|せつ{{く}}}}之御{{r|働|はたらき}}成。{{r|吉良|きら}}殿も惣領の
義{{r|藤|とう}}は、淸康之御ためには{{r|妹婿|いもとむこ}}なれば、家康之御ためには大{{r|姑婿|おばむこ}}成に寄而、駿河得下申而、{{r|藪|やぶ}}田之村
に置奉、舍弟之{{r|義諦|よしあきら}}を義藤寄西尾の城に{{r|置|おき}}給ひしを、東{{r|祥︀|じやう}}之城得義{{r|諦|あきら}}をうつし給ひて、西尾の城得は
牛久保之、牧野新次郞を留守居に申付而置。然所に松平主殿助殿は中島之城に東{{r|條|でう}}にむかはせ給ひ而
{{r|御|おはしまし}}而、日々夜々の{{r|迫合|せりあ}}ゐ{{r|摝|かせぎ}}かまりに無{{レ}}{{r|𨻶|ひま}}して、寸ん之𨻶を不{{レ}}得。然間東{{r|條|でう}}寄中島得{{r|働|はたらき}}けるに、引{{r|羽︀|は}}
に主殿助殿餘り手ぎつく付給得ば、敵方取而返而こんずこまれつしける處に、主殿助殿打死をし給ふ。
{{仮題|頁=99}}
其をきをいにして敵は引のく。然者︀又荒河殿は{{r|義諦|よしあきら}}得{{r|逆心|ぎやくしん}}をして、家康之御手を取、坂井雅樂助を荒
河得引入而西尾之城と日々夜々にせりあいければ、牧野新次郞もこらゑずして城を渡して、牛久保得
行。其寄西尾之城には坂井雅樂助を置給ふ。東{{r|條|でう}}之城得押寄而取出を取給ひ而、{{r|小牧|こまき}}之取出をば本多
豐後守が{{r|持|もつ}}。{{r|醅塚︀|かすづか}}之取出をば小笠原三九郞が{{r|持|もつ}}。{{r|共|とも}}國之取出をば松井左近が{{r|持|もつ}}。本多豐後守手に而、
{{r|藤瀿畷|ふぢなみなはて}}に而九月十三日にはげ敷せりあゐ有而、義{{r|諦|あきら}}のおとなの{{r|飛長|とびなが}}半五郞を打取、味方には大久保太
八郞、鳥居半六郞など打死をする。義諦も半五郞を打せ給ひ而寄、{{r|弄|ならず}}して頓而降參して城を下させ給
ひ而、御扶持方に而{{r|御|おはします}}。半五郞は其年二十五に成けれども、武邊之者︀なれば敵味方共に申けるは、
半五郞打死之上は、落城程有間敷と申せしは、年にもたらずして半五郞者︀斯被{{レ}}申けるは、手柄成とほ
めたり。{{r|漸|やうやく}}したる處に永祿五年{{仮題|分注=1|壬|戌}}に野寺之寺內に{{r|徒|いたづら}}者︀の有けるを、坂井雅樂助押こみ而けんだんしけ
れば、永祿六年{{仮題|分注=1|癸|亥}}正月に、各々{{r|門徒|もんと}}衆寄合而、{{r|土呂|とろ}}、{{r|鍼崎|はりざき}}、{{r|野寺|のてら}}、{{r|佐|さ}}崎に取籠り而、{{r|一揆|いつき}}を{{r|迮|おこし}}而御敵と成。
其時之義{{r|諦|あきら}}をすゝめて、御主となさんと云ければ、其に{{r|乘|のり}}而頓而敵、東{{r|條|でう}}之城得{{r|飛上|とびあがり}}而手を出さ
せ給ふ。荒河殿も{{r|初|はじめ}}に御味方被成候時、家康之御{{r|妹婿|いもとむこ}}に被成申而、此度は{{r|逆心|ぎやくしん}}之被成義{{r|諦|あきら}}と一所に成
給ふ。其{{r|耳成|のみならず}}、櫻井之松平監物殿も、荒河殿と仰被{{レ}}合而別心を被成けり。{{r|上野|うへの}}にては坂井將監殿別心
成。東三河者︀{{r|長澤|ながさは}}、{{r|御油|ごい}}、{{r|赤坂|あかさか}}を切而、東は不{{レ}}被{{レ}}殘駿河方成。上樣之御味方は竹之谷之松平玄蕃殿、{{r|形|かた}}
之原の松平紀伊守殿も御{{r|忠節︀|ちうせつ}}成。{{r|深溝|ふかうず}}之松平主殿助殿是、土呂、{{r|鍼崎|はりざき}}、東三河衆に兩三人ははさまれ
給ひ而御忠節︀有。西尾の城には坂井雅樂助有而、野寺荒河殿と取合而有。本多豐後守は、土井之城に
居而、土ろ{{r|鍼|はり}}崎に{{r|向|むかつて}}有而之御忠節︀成。松平勘四郞殿も、松平右京殿も、野寺、櫻井に{{r|向|むかつ}}而御忠節︀成。
右之御一門之衆、同本多豐後守は{{r|遂|つひ}}に一度も逆心は無、岡崎之南は{{r|土|と}}ろ{{r|鍼崎|はりざき}}、其內は一里によはし。西
南にあたつて、野寺、佐崎、櫻井、其內一里有。北西にあたつて{{r|上野|うへの}}の城有、其間一里半有。東は
{{r|長澤|ながさは}}寄して不{{レ}}被{{レ}}殘駿河御敵成。中にも、土ろ{{r|鍼崎|はりざき}}者︀一の御手先なれば、一{{r|揆|き}}之衆も爰を先途と心得
而、鑓をもふりまはす程之衆は、{{r|悉|こと{{ぐ}}く}}我も{{く}}と此兩所え籠り居たる。野寺寄も一揆は起る事なれど
も、彼地は岡崎寄は{{r|遠|とほく}}候ゑば、本人とは申せども、岡崎之間に、佐崎と櫻井を隔てゝ有事なれば、是
兩所を押向はせて、却而野寺は手{{r|置|おき}}に成。土呂{{仮題|入力者注=[#「土」は底本では「士」]}}、{{r|鍼|はり}}崎、佐崎、三ヶ寺は知ら{{r|去|ざる}}事なれども、尤一味の寺
なれば同心をしたり。此三ヶ寺は岡崎{{r|近|ちか}}く候得ば{{r|歸|かへつ}}而手先と成に仍、爰はと云衆は{{r|悉|こと{{ぐ}}く}}土ろ、{{r|鍼崎|はりざき}}、
佐{{r|崎|ざき}}、是三ヶ所得楯籠る。然とは云ども野寺得は何事も{{r|在|あらば}}こもらんと云而、吉良あたりの衆、又は寺內
{{r|近|ちかき}}衆に、大津半右衞門を{{r|初|はじめ}}{{r|獚塚︀|いぬづか}}甚左衞門、{{r|獚塚︀|いぬづか}}八兵衞、獚塚︀又內、獚塚︀善兵衞、小見三右衞門、中河
田左衞門、{{r|牧|まき}}吉藏、其外石川{{r|黨|たう}}、賀藤{{r|黨|たう}}、本田{{r|黨|たう}}、手島{{r|黨|たう}}、其外爰は之衆百餘も可{{レ}}有。小侍は數をし
らずしるすに不及。事之{{r|在|あらば}}可{{レ}}入とて居たり。佐崎之寺內に楯籠る衆は、倉地平左衞門、小谷甚左衞門、
太田彌太夫、安藤金助、山田八藏、安藤太郞左衞門、太田善太夫、太田彥六郞、安藤次右衞門、鳥居
又右衞門、加藤無手之助、矢田作十郞、戶田三郞右衞門、其外是に{{r|{{?|「足+習」}}|おとらぬ}}爰は之衆{{r|百騎|ひやくき}}餘可有。其外小侍
{{仮題|頁=100}}
共は際限無。戶田三郞右衞門御前をそむき、御面目たるに寄而、寺內得入たる事なれども、心からの
御別心にあらざれば、寺內を可{{レ}}取と調儀をしける處に、顯れければ、外ぐる{{r|輪|わ}}を{{r|燔|やき}}而出で、其時御前
がすみて罷出。佐崎に松平三藏殿の城を{{r|勿|もち}}而居給得ば、御{{r|加勢|かせい}}をくわゑ給ふ。岡崎得道一里有。其間
に{{r|{{?|「竹/木」}}|つゝ}}ばりの取出小栗等に{{r|持|もたせ}}給ふ。是は矢作河之西、やはぎ河之東、{{r|六|むつ}}栗之{{r|鄕|がう}}中に夏目次郞左衞門屋敷
城を{{r|持|もち}}而、ふかうずの松平主殿助殿と、取合而居たりけるを、主殿之助殿{{r|押寄|おしよせ}}而構を押やぶり給得ば、
夏目次郞左衞門かなはずして、藏屋得とぢこもり而有處に、松平主殿之助殿得仰つかはされけるは、
次郞左衞門構をやぶらせ給ふ事ひるい無、殊更夏目我に敵をなし、弓を彎事{{r|憎︀|にく}}き事かぎり無とは{{r|存|ぞんず}}れ
共、左樣にとぢこめ、{{r|箄|こ}}の內の鳥になし給得ば、{{r|害|ころし}}給ふも同前に候得ば、{{r|貳|たすけ}}置給得と仰つかはされけ
れば、主殿之助殿大きに{{r|腹|はら}}を立給ひ而、御敵を申而、錆矢を射懸申たる{{r|族|やから}}を、{{r|何|いか}}に御{{r|慈悲|じひ}}ふかければ
とて、{{r|貳|たすけ}}置給得とはさりとは承とゞけざる御事なれども、御意ならば是非に不{{レ}}及、惣別申上申に及{{r|去者|ざるもの}}
をと{{r|慷慨︀|かうがい}}被成ける。御{{r|免︀|ゆるし}}被成間敷夏目を御{{r|寬|ゆるし}}けるを、御{{r|慈悲|じひ}}哉と各々感じ入ける。扨又松平七郞殿は
大草の城を{{r|持|もち}}而、一{{r|揆|き}}と一味して御敵に成給得ば、是も{{r|土呂|とろ}}同前に御{{r|改易|かいえき}}を被成ければ、何くゑ行供
無、跡方も無して、七郞殿跡者︀{{r|絕|たえ}}たり。扨又土ろに立こもる衆、大橋傳一郞、石河半三郞、{{r|佐馳|さばせ}}甚兵衞、
佐馳甚五郞、大見藤六郞、石河源左衞門、{{r|佐馳|さばせ}}覽之助、大橋左馬之助、{{r|江|え}}原孫三郞、本多甚七郞、石
河十郞左衞門、石河新九郞、石河新七郞、石河太八郞、石河右衞門八郞、石河又十郞、佐野與八郞、江
原又助、內藤彌十郞、山本才藏、松平半助、尾野新平、村井源四郞、山本小次郞、ぐわつくわい佐五
助、{{r|黑柳|くろやなぎ}}次郞兵衞、成瀨新藏、岩{{r|堀|ほり}}忠七郞、本多九三郞、三浦平三郞、山本四平、阿佐見主水、阿佐
見金七郞、賀藤小左衞門、平井甚五郞、黑柳喜助、野{{r|澤|ざは}}四郞次郞、其外是に{{r|劣|をとら}}ぬ{{r|兵|つはもの}}ども、七八十騎
こもる。其外小侍ども百餘可{{レ}}有。坂井將監殿得こもる衆、{{r|足|あ}}立右馬之助、鳥井四郞左衞門、高來九助、
{{r|足|あ}}立彌一郞、芝山小兵衞、鳥井金五郞、本田彌八郞、榊原七郞右衞門、大原佐近右衞門、今藤傳次郞、
坂井作之右衞門、其外是に{{r|劣|をとら}}ぬ衆數多有。扨又{{r|鍼|はり}}崎之寺內得立こもる衆、八屋半之丞、{{r|筧|かけひ}}助大夫、渡
邊玄蕃、渡邊八右衞門、渡邊八郞三郞、渡邊八郞五郞、渡邊源藏、渡邊平六郞、渡邊半藏、渡邊半十
郞、渡邊墨︀右衞門、久世平四郞、{{r|淺|あさ}}井善三郞、淺井小吉、淺井五郞作、{{r|波切|なみきり}}孫七郞、今藤新四郞、黑
柳孫左衞門、黑柳金十郞、本田喜藏、賀藤善藏、朝岡新十郞、賀藤次郞左衞門、佐野小大夫、賀藤源
次郞、朝岡新八郞、{{r|獚塚︀|いぬづか}}七藏、賀藤傳十郞、賀藤源藏、賀藤一六郞、賀藤又三郞、成瀨新兵衞、坂邊
又六郞、坂邊人屋、坂邊勝之助、坂邊{{r|桐|きり}}之助、坂邊酒之丞、坂邊又藏、此外是に{{r|劣|をとら}}ぬ衆七八十騎可{{レ}}有。
其外に小侍供數多有、上和田と日々夜々之たゝかい成。
扨又御味方の衆、松平和泉守、大給に有而御味方成。坂井雅樂之助、坂井左衞門丞、石河{{r|日向|ひうが}}守、石
川{{r|伯耆|ほうき}}守、內藤三左衞門、內藤喜一郞、本田肥後守、本田平八郞、本田豐後守、上村出羽︀守、上村
庄右衞門、上村十內、是は此時打死。鵜殿十郞三郞、是も同時打死。松平彌右衞門殿、松平彌九郞殿、
{{仮題|頁=101}}
松平次郞右衞門殿、松平金助殿、是も同時打死。鳥井伊賀守、鳥井又五郞、賀藤ひねの丞、賀藤九郞
次郞、賀藤源四郞、米來津藤藏、同小大夫、小栗太六郞、小栗彌左衞門、{{r|上|うへ}}野三郞四郞、{{r|靑長|あをふ}}藏、押
かも殿、中根藤藏、中根權六郞、中根喜藏、成瀨藤藏、榊原攝津守、榊原早之助、榊原小兵衞、山田
淸七郞、山田そぶ右衞門、伊名市左衞門、松井左近、{{r|香|かう}}村半十郞、中根{{r|肥濃|ひの}}、中根源次郞、中根甚太
郞、中根新左衞門、中根彌太郞、中根喜三郞、天野三郞左衞門、天野三兵衞、天野助兵衞、天野淸兵
衞、天野傳右衞門、天野又太郞、山田平一郞、芝田七九郞、平岩七之助、賀藤{{r|播磨|はりま}}、{{r|渥海︀|あつみ}}太郞兵衞、
靑山喜太夫、今村彥兵衞、長見新右衞門、靑山牛之大夫、今藤馬之左衞門、靑山善四郞、平岩五左衞
門、河齋文助、河上十左衞門、久目新四郞、{{r|八國|やかう}}甚六郞、ほつち藤三郞、坂井{{r|下總|しもふさ}}、ほそ井喜三郞、
大竹源太郞、小栗助兵衞、小栗仁右衞門、案藤九助、池野波之助、池野水之助、吉野助兵衞、遠山平
大夫、鳥井{{r|鵧|つる}}之助、鳥井才一郞、筒井與右衞門、{{r|筧豆書|かけひづしよ}}、筧牛之助、土屋甚助、打死。筒井內藏、ふた
ゑつゝみにて打死する。土屋甚七郞、林藤助、內藤甚五左衞門、內藤四郞左衞門、松山山城、杉浦藤
次郞、山田彥八郞、此外岡崎に有衆數多有。御手先得出る衆、上和田には大久保一{{r|類︀|るゐ}}有。{{r|鍼崎|はりざき}}に{{r|向|むかう}}。
大久保{{仮題|編注=2|五郞|新八郞}}右衞門、大久保甚四郞、大久保彌三郞、大久保七郞右衞門、大久保次右衞門、大久保八郞
右衞門、大久保三助、大久保喜六郞、大久保與一郞、大久保新藏、大久保與次郞、大久保九八郞、宇津野
京三郞、{{r|筒|つゝ}}井甚六郞、杉浦八郞五郞、杉浦彌七郞、杉浦久藏、松山久內、松山市內、天野孫七郞、市
河半兵衞、田中彥次郞。扨又土井の城には本田豐後守有而御{{r|忠節︀|ちうせつ}}申。扨又ふかうずには、松平主殿之
助殿、竹之谷には松平源番殿、かたのはらには松平紀伊守殿、是三が所相幷御{{r|忠節︀|ちうせつ}}有。扨又屋{{r|萩|はぎ}}河之
西には、藤井之松平勘四郞殿、ふつかまの松平右京殿、兩所相幷而御忠{{r|節︀|せつ}}有。扨又佐崎には松平三藏
殿御加勢を申請而御忠{{r|節︀|せつ}}有。扨又{{r|筒|つゝ}}ばりには小栗助兵衞、小栗二右衞門、小栗大六郞、其外小栗等有
而御忠{{r|節︀|せつ}}有。扨又岡崎寄上和田得は廿丁斗有。土ろ寄も上和田得廿丁計有。扨又{{r|鍼|はり}}崎寄上和田得は、
十二丁計之間に而有處に、大久保一類︀之者︀どもが{{r|集而|あつまりて}}、日夜油斷無{{r|塞戰而|ふせぎたゝかいて}}、{{r|終|つひ}}に其寄岡崎得敵を上た
る事無。{{r|鍼崎|はりざき}}寄上和田得{{r|働|はたらき}}ければ、矢藏に上而竹之筒の{{r|蚵|かひ}}を{{r|吹|ふき}}ければ、岡崎には上和田に{{r|蚵|かひ}}が立と聞
と被{{レ}}仰而、番を付而置せられければ、すはや上和田に{{r|蚵|かひ}}{{r|社︀|こそ}}立申せと申上ければ、{{r|日比|ひごろ}}仰被{{レ}}付候間、早
御馬に鞍を置而引立れば、早召而何時も人先に懸付させ給ふを、敵は{{r|遠|とほ}}見を置而見而者︀、殿の懸付さ
せ給ふに早のけとて、足々にしてのく。げにと五丁十丁之事なれば、上樣を見懸申而は、其{{r|儘|まゝ}}寺內得引
入、又重而之懸合にも何ものごとく{{r|貝|かひ}}を立ければ、御懸付も何ものごとくに懸付給ふ。其時は御供申
而懸付申たる衆には、上村庄右衞門、黑田半平、敵には八屋半之丞と上村庄右衞門が{{r|鑓|やり}}を合る。渡邊源藏
などが{{r|鑓|やり}}が合、其時黑田半平を渡邊源藏がつきたをす。然處に懸付之衆{{r|重|かさなり}}ければ八屋半之丞も渡邊源藏
も引ぬいて足々にしてのく。八屋半之丞はほそ{{r|畷|なはて}}而得折而{{r|退|のき}}ける所得、水野藤十郞殿懸付給ひ而、半之
丞が八幡大{{r|菩薩|ぼさつ}}のけ間煎に、返と仰ければ、八屋立{{r|𠌫|どまり}}而につこと笑而、藤十郞殿が我等にはとてもなら
{{仮題|頁=102}}
せられ間敷と云而、{{r|鑓|やり}}をまつ{{r|直|すぐ}}に突︀立て手につばきを付而手ぐすねを引。藤十郞殿重而仰けるは、とて
もやる間敷物をと仰ければ、八屋云、とても我には成間敷に、こたへ給得とて{{r|鑓|やり}}おつ取而、錣を傾け而懸
りければ、藤十郞殿{{r|脇|わき}}得{{r|闢|ひらき}}給ふ。半之丞のゝしりて、左程に{{r|社︀|こそ}}思ひたれ。我に何がならせ給はんと云而の
のしる。半之丞と申は{{r|脊|せい}}かし高にして{{r|力|ちから}}の强ければ、白{{r|樫|かし}}の三間{{r|柄|え}}を中ぶとによらせ而、長吉之身の四
寸斗成をとぎ上にして紙を吹き懸而、颯々ととほるを、えりはめて持。然間長柄之{{r|持鑓|もちやり}}も少成ども錆の
うきたる事は無。去間半之丞が{{r|鑓|やり}}さきには{{r|誰|たれ}}かむかはんと、{{r|獨|ひとり}}ごとを云ける者︀成。然間半之丞は其寄野
得上てのく處得、上樣懸付させられて、八屋め返と被仰ければ、心得たりと而返而見而あれば、上樣に而
有ければ、取つ而戾し{{r|鑓|やり}}をひきずり而{{r|頭|かしら}}を{{r|傾而|かたむけて}}、{{r|虛空|こくう}}{{r|三寶|さんぽう}}に{{r|逃|にげ}}行處得、松平金助殿懸付而、八幡半之丞
返と仰ければ、取而返而、殿様なれば{{r|社︀|こそ}}{{r|逃|にげ}}たれか、御身達にかとて歸し而、金助殿も八屋も{{r|互|たがい}}に{{r|鑓|やり}}を突︀き
合而五度六度合給ふが、力の强き者︀が{{r|樫|かしのき}}之三間柄を石突︀を取而{{r|突︀立|つきたつ}}れば、かなはじと思召、鑓を引{{r|拔|ぬき}}而
うしろへしさり給ふ所得、ふみ込み而{{r|擲突︀|なげづき}}にしければ、金助殿うしろ寄前ゑ鯨に{{r|魚淙|もり}}を立たる如くに突︀
き立けり。走り寄而、鑓を引ぬきける處得、又上樣懸付させられ給ひ而、八屋めと被{{レ}}仰候を聞而、又鑓を
引ずり而跡も見ずしてにげにけり。上樣も御歸被成而、八屋めが我にもにげんやつにはあらね共、我を
見而にげけると御意被成、御機嫌能。然間上和田寄大久保一{{r|類︀|るゐ}}ともが{{r|伊內|いない}}之都︀得さがりて、{{r|鍼崎|はりざき}}之寺內
之きはに而きび敷せり合けり。其時大久保七郞右衞門と本田三彌相ためにしたるに、七郞右衞門早くは
なし候而、三彌を打たふす。然ども其手に而は死ず。かゝりける所に一{{r|揆|き}}方之申けるは、爰元をきび敷
あひしらひ而、{{r|槉|はしら}}之鄕中をとをり、妙國寺得出て取きる物ならば、上和田得入事成間敷、然時んば{{r|賓︀|むかう}}
をつよくさせ而、跡寄切而懸ならば、{{r|土|ど}}井を{{r|指|さし}}而のくべし。さもあらば土井之間の水田得追入而可{{レ}}打
と申を、半之丞者︀大久保{{r|淨玄|じやうげん}}{{r|婚|むこ}}なれば、有は{{r|小姑|こじうと}}、有は{{r|伯父姑|をぢひうと}}、從弟姑なれば{{r|泚|あせ}}を{{r|捖|にぎる}}。然と云而も各々を
打せ而見る所にもあらずと思ひ而、{{r|皆|みな}}々出て取{{r|剿|きらん}}と云。{{r|槉|はしら}}之鄕中之原得出て馬を{{r|乘|のり}}ありきければ、妙國
寺前を取{{r|剿|きる}}と見えたり。半之丞が來り而懸まはる成。急爰を引のけよとてのきければ、案之ごとく敵
打{{r|除|はらつ}}而出けれども跡にて候得ば手をうしなひたるふぜい成。八屋が出て懸まはり而、しらせずば大久
保一名は不{{レ}}被{{レ}}殘打れ可申間、{{r|愈|いよ{{く}}}}一{{r|揆|き}}ははゞかり可{{レ}}申けれども是も、上樣の御運の强き故成。然ば佐
崎之寺內得取出を被{{レ}}成ける所に、水野下野守殿{{r|鴈屋|かりや}}寄武具に而、佐崎之取出得見舞に御越有。然處に
土口ゑ{{r|譽|こもり}}たる一{{r|揆|き}}衆、佐崎之取出之{{r|後|ご}}詰として、{{r|作岡|つくりをか}}大{{r|平|ひら}}得{{r|働|はたらき}}而{{r|燒|やき}}立る。佐崎に而御覽じて下野殿得
被{{レ}}仰けるは、御貴殿は是寄御歸被成候得、我等は上和田を{{r|直|すぐ}}に取切申而不{{レ}}被{{レ}}殘討取可{{レ}}申と被{{レ}}仰け
れば、下野殿は只御無用と仰けれども、兎角に御歸り被成候得、我等は急申とて早御馬に召ければ、
是を見{{r|捨|すて}}而何と而返り可{{レ}}申哉、其儀ならば御供申さんとて一度に懸給ふ。上樣之御ためには能御仕合
成。敵之ためには{{r|不運|ふうん}}成次第成。渡り河地を越させ給ひ而、大久保一{{r|類︀|るゐ}}をは{{r|鍼|はり}}崎之{{r|押|おさへ}}にをかせられ給
ひ而、大久保彌三郞計御案內者︀申而、{{r|盜|ぬす}}人來をすぐに{{r|小豆|あづき}}坂得あがらせ給ひ而、{{r|馬頭|ばとう}}之ふみわけ得出
{{仮題|頁=103}}
させ給得ば、{{r|作|つくり}}岡大{{r|平|ひら}}寄歸るとて、{{r|鼻|はな}}合をして{{r|洞天|どうてん}}す。石河新九郞は{{r|道|みち}}を替而のき而は、たと得ば{{r|生|いき}}而
をもしろからず、又道をかゑ而山之中に而打れたらば、新九郞{{r|社︀|こそ}}{{r|端|へり}}道をして打れたるなどと、人に沙
汰せられん事は、{{r|骸|かばね}}之上之恥辱可{{レ}}成とて、本道を{{r|直|すぐ}}にのきければ、金之團扇の指物を{{r|指|さし}}ける間、新九
郞と見懸而、我も{{く}}と{{r|追|おひかけ}}たり。水野藤十郞殿懸付而突︀きおとして打取給ふ。頓而{{r|佐馳|さばせ}}甚五郞、大見
藤六郞、是兄弟も一つ場にて打取、波切孫七郞そこを行過而、大{{r|谷|や}}坂る上處を上樣懸付させられ而、
二{{r|鑓|やり}}迄つかせ給ふに懸のび而馬寄落すして{{r|迯|にげ}}行。孫七郞を二{{r|鑓|やり}}つきたるに{{r|迯|にげ}}而行たると被{{レ}}仰ければ、
波切孫七郞と申者︀、無{{レ}}{{r|隱|かくれ}}武邊之者︀又は{{r|氣|き}}ちがい者︀なれば、此御意を聞而我は上にはつかれず、別之者︀
につかれたると申。上樣につかれ申と申ならばをぼえと申、又は其身のためにも能{{レ}}可有に、{{r|眼前|がんぜん}}に上
樣につかれ申而、上樣にはつかれ申さぬと申たるに仍、御{{r|憨|にくみ}}被成而、其後{{r|終|つひ}}に子供之代迄御前へ召不
{{レ}}被{{レ}}出。然處に八屋半之丞、大久保次右衞門を{{r|{{?|「口+?」}}|よび}}出し而、御無事可{{レ}}仕由申上候得と申けるに付而、大
久保新八郞を同道して、次右衞門と兩人御前に參、此由を申上ければ、御{{r|喜|よろこび}}被成而さらば{{r|急|いそげ}}との御意
なれば、八屋半之丞、石河源左衞門、石河半三郞、本田甚七郞、此外五三人申けるは、何と成とも御
存分次第可{{レ}}仕候。然ども何れもちがい申儀御赦免︀被{{レ}}成可{{レ}}被{{レ}}下由、過分申つくしがたく奉{{レ}}存候。其儀
ならばとてもの儀に寺內を前々のごとく立をかせられ而可被下、次には此一{{r|揆|き}}のくはだての者︀の命を
御{{r|捨免︀|しやめん}}被{{レ}}成而被{{レ}}下候はゞ御過分に奉存候。然とは申とも各の存分は不存候へども、まづ申上候各に
此事申ならば、定而異儀に及衆もあまたの中なれば不{{レ}}存候。一人成とも何かと申者︀も候はゞ、又其に
付て一味する者︀も御座候はゞ、此御ぶじ罷成難︀し。其時は我々供之{{r|斯|かく}}斗存知候而も及間敷候得ば、御
不沙汰は無して、御無沙汰に罷成候べき。其時は{{r|却|かへつ}}而二{{r|罪|ざい}}之御{{r|咎|とが}}人に可{{二}}思召{{一}}。然ば此事他言無して、
此者︀供斗に而{{r|土|ど}}ろ得引入可申間、各々の命右之くは立之者︀の命、寺內供に前々のごとく、御{{r|捨免︀|しやめん}}之儀
を申上給得と申に付而申上ければ、尤之儀{{r|汝|なんぢ}}供申如く面々が命、並に寺內前々のごとく、{{r|相違|さうい}}有間敷
一揆企之者︀にをいては、兎角御{{r|成敗|せいばい}}可歲成との御意なれば、右の者︀供{{r|惶|おそれ}}ながら又言上申、寺内幷に各々
が命被下候儀、御過分申つくし難︀し。同はいたづら者︀の命をも被下候樣にと申而、御ぶじの儀が{{r|支|つか}}ゑ
ければ、大久保淨玄申上けるは、{{r|姪|をひ}}小供御手先得罷出申、日夜之{{r|戰|たゝかひ}}無{{レ}}𨻶仕、{{r|賸|あまつさえ}}正月十一日には、土ろ
{{r|鍼崎|はりざき}}、野寺三ヶ所之一揆方一手に罷出、上和田へ{{r|働|はたらき}}ける處に一{{r|類︀|るゐ}}之者︀供罷出ふせぎ{{r|戰|たゝかひ}}申に付而、其日
せがれ之新八郞は{{r|眼|まなこ}}を射られ、{{r|姪|をひ}}の新十郞も{{r|眼|まなこ}}を射られ、其外之{{r|姪|をひ}}小供何れも手ををはざる者︀一人も無
して、爰をせんどとしたる處得、上樣御自身早く懸付させられ候に付而、敵方御{{r|影|かげ}}を見{{r|付|つけ}}申に付而、
我先にと{{r|迯|にげ}}のきけるに仍、一{{r|類︀|るゐ}}供も利運仕。其時血{{r|池|いけ}}を{{r|滂|ながし}}したるをば、上樣御覽じ被成けり。其時之
{{r|姪|をひ}}子之辛勞分と思召而、此一{{r|揆|き}}のくは{{r|立|だて}}之者︀の命を被下候得、此一揆をさへ御無事に被成而候はゞ、
彼{{r|等|ら}}を先立給ふならば、{{r|上野|うへの}}に有坂井將監を頓て{{r|{{?|「足+昔」}}|ふみ}}つぶさせられ給ふべき。{{r|何況哉|いかにいはんや}}{{r|吉|き}}良殿松平監物殿
も荒河殿も其日に押つぶし給ふべき。何か之御無心も打被{{レ}}{{r|捨|すて}}給ひ而、何と成供面々が望次第に可被成
{{仮題|頁=104}}
候得而、{{r|先|まづ}}御ぶじにさせ給得、御手さへ{{r|廣|ひろ}}くならせられ給はゞ、其時は何と被成候はんも御{{r|儘|まゝ}}に罷可
{{レ}}成物を、只今は何かと被仰處にあらずと申上ければ、さらば淨玄次第に{{r|徐置|ゆるしおき}}、起請を可{{レ}}書とて、上和
田之{{r|淨衆院|じやうしゆゐん}}得御出被成而、御起請をあそばし而、右之者︀供に被{{レ}}下ければ、是をいたゞき而、さらばと
て石河日向守を{{r|土|ど}}ろの寺內得、高須之口寄八丁得引入ければ、一揆方之各々{{r|傲騒|おどろきさわげ}}供、{{r|早亂|はやみだれ}}入ければ
{{r|不|ず}}{{レ}}{{r|叶|かなは}}して、我も{{く}}と手を合ければ、御{{r|寬|ゆるされ}}有而方々得御先懸をす。然間松平監物殿も{{r|早|はや}}かうさんに御
{{r|寬|ゆるさせ}}給得ば、其付而荒河殿もかうさんし給得供、御{{r|無|な}}{{レ}}{{r|徐|ゆるし}}ければ上方得浪人被成而、河內之國に而御病死
成。坂井將監殿も{{r|上野|うへの}}を明而駿河得{{r|落|おち}}行給ふ。一のをと名に而有ければ、上樣{{r|歟|か}}將監殿{{r|歟|か}}と云程之威
勢なれども御主に勝事{{r|弄|ならず}}して、それ寄將監殿筋は{{r|絕|たえ}}而跡かたも無。然間{{r|義諦|よしあきら}}もならせられ給はで、{{r|佗|わび}}
事被成而東{{r|祥︀|じやう}}之城を下させ給得ども、御扶持方をも出させ給ねば、御身も{{r|弄|ならず}}して上方得御浪人被成、
{{r|淨體|じやうてい}}を賴ませ給ひ而御座候つるが、{{r|惡|あく}}田河に而打死を被成けり。其後{{r|土|ど}}ろ、{{r|鍼|はり}}崎、佐崎、野寺之寺內を
やぶらせ給ひ而、一向{{r|宗|しう}}に{{r|宗|しう}}旨をかゑよと、起請を書せられ給得ば、前々之ごとくに被成而可被下と、
御起請之有由を申ければ、前々は野原なれば、前々のごとく野原にせよと仰有而打{{r|敗|やぶり}}給得ば、坊主達
は{{r|此方彼方|こゝかしこ}}得{{r|迯|にげ}}ちりて行、御敵を申上御{{r|徐|ゆるし}}之衆も有、又鳥井四郞左衞門、渡邊八郞三郞、波切孫七郞、
渡邊源藏、本田佐渡、同三彌、御國にはあらずして、東得行衆も有、西國得行衆も有、北國得行衆も
有。大草の松平七郞殿は、何方得行ともしらず、何れも御敵申者︀供を{{r|扶置|たすけおか}}せられ候御事、御{{r|慈悲|じひ}}成儀
どもとてかんぜぬ人も無。其寄して東三河得御手を懸させ給ひ而、西之郡城を忍取に取せ給ひ而、鵜
殿長{{r|勿|もち}}を打取、兩人之子供を生取給ふ。然間竹千代樣をば駿河に置まいらせられ而、御敵にならせ給ひ
ければ、竹千代樣を今{{r|害死|がいし}}奉、後{{r|害死|がいし}}奉、今日の明日のと罵れども、{{r|關口|せきぐち}}刑部少輔殿の御孫なれば、さな
がら{{r|害死|がいし}}奉る無{{レ}}事{{soe|も}}。然ば石河伯耆守申けるは、いとけなき若君御一人、御{{r|戕界|しやうがい}}させ申さば、御供も申
者︀無して、人之見る目にもすご{{く}}として{{r|御|おはします}}べし。然者︀我等が參而、御{{r|最後|さいご}}之御供を申さんとて、
駿河得下けるを、貴賤上下かんぜぬ者︀も無。然處に鵜殿長{{r|勿|もち}}子供に人質がゑにせんと申越ければ、上
下{{r|萬民|ばんみん}}{{r|喜|よろこび}}申事{{r|限|かぎり}}無して、さらばと云而{{r|換|かへ}}させ給ふ。其時石河伯耆守御供申而岡崎得入せ給ふ。上下
萬民つゞい而御{{r|迎|むかい}}に出けるに、石河伯耆守は大{{r|髯噉|ひげくひ}}そらして、若君を{{r|頸|くび}}馬に{{r|乘|のせ}}奉り而、念し原へ打上
而、とをらせ給ふ事之見事さ、何たる物見にも是に過たる事はあらじとて見物す。{{r|氏眞|うぢざね}}は扨も{{く}}あ
ほう人哉。{{r|抑|そも{{く}}}}竹千代樣を鵜殿に{{r|歸|かへ}}ると云法やく哉と云たり。其より思召置無{{レ}}事取合給ふ而、牛久保、
吉田得御{{r|働|はたらき}}有而、度々のせり合に各々骨身を碎く成。早長{{r|澤|さは}}之城をも取而、野田、牛久保にあたり而、
一の宮に取出を取給ふ。駿河寄も佐{{r|脇|はき}}と{{r|八幡|やはた}}に取出を取而、吉田、牛久保を根城にする。然處に氏{{r|眞|ざね}}
は駿河遠江之人數をもよをして、旗本は牛久保に一萬斗にて有、一野宮を五千餘に而{{r|謮|せむる}}を三千の內外
に而後づめを被成けり。氏眞男ならば出て{{r|陣|いくさ}}をすべしと而、人數三千斗にて、{{r|八幡|やはた}}と佐脇之間得押出
させ給ふ。本野が原得出て氏眞の所を押とをし給ひ而、市の宮{{r|責|せめ}}ける者︀どもを{{r|押除而|おしはらひて}}、其夜者︀取出に
{{仮題|頁=105}}
御陣取給ひ、明ければ本之道に出させ給ひ而とをらせ給得ども、氏眞出給ふ事{{r|弄|ならず}}、市の宮の退口と申
而、三河にて沙汰するは是成。其後八幡、牛久保、{{r|御油|ごい}}得{{r|働|はたらき}}而、{{r|御油|ごい}}之東之{{r|臺|だい}}に而取合而、打つ打れ
つ火花をちらし而せり合、{{r|旣|すでに}}{{r|御油|ごい}}之衆押崩されんとせし所得、岡崎寄上樣早く懸付させられ給ふ故、
敵を押崩して數多打取、八{{r|幡|はた}}迄押こみ、放火して引給ふ。上樣は敵之出るとは御存知無して、佐脇得
之御{{r|働|はたらき}}とて出させ給得ば能仕合成、八幡得御{{r|働|はたらき}}被成けるに、二連木、牛久保、佐脇、{{r|八幡|やはた}}寄かた坂得
出て合戰をしたり。頓而切くづされて、板倉彈正と{{r|婿|むこ}}之板倉主水を打取、扨又八{{r|幡|はた}}之取出も佐脇之取
出も明けり。然間小坂井に吉田、牛久保に{{r|向|むかひ}}而取出を取給得ば、年久保之牧野新次郞も御手を取。扨又
{{r|設樂|しだら}}は、東三河衆一人も御手を取ざる先に人一番に御忠節︀を申。然間四方は敵岡崎寄は程遠ければ、
居城をさりて妻子を引ぐして、岡崎得詰めて居たり。東三河之國侍には{{r|設樂|しだら}}は一番、其付而{{r|西鄕|さいがう}}御忠
節︀成。次に野田之{{r|蒯沼|すがぬま}}新八郞、{{r|下祥︀|げじやう}}之白井が御味方を申。然處に二連木之戶田{{r|丹波|たんば}}守、御內通を申上
し寄、人質を盜取んために、二れん木寄吉田得{{r|再々|さい{{く}}}}行而、城代と{{r|雙六|すぐろく}}を打而、氣をくつろがせて其後大
{{r|韓櫃|からうと}}とを背負はせ、中得色々の物を入、吉田之門を入而番衆是を御覽ぜよ、御{{r|不審|ふしん}}成物は候はずとて明
而見せければ、いや其迄に及不{{レ}}申と申ければ、然ば又此からうとを歸し可申間、御通し候得而被{{レ}}下候
得、しかしながら御不審も候はゞ、{{r|某|それがし}}が御城に罷在儀に候間仰被{{レ}}越候得、參而改め御目に懸申さんと云
得ば、其に及不{{レ}}申相心得申と申せば、此からうとを能見しらせ給得とて、{{r|何|いつ}}ものごとく、城代と{{r|雙六|すぐろく}}
を打而どめいて{{r|遊|あそぶ}}內に、支度して右之からうとの中得、{{r|老母|らうぼ}}を入而せをはせ而通れば、何之{{r|仔細|しさい}}も無、
{{r|盜|ぬすみ}}出て合圖して置たれば、{{r|小性|こせう}}が參而{{r|白須|しらす}}をねり出れば、頓而心得而{{r|雙六|すぐろく}}を打{{r|納|をさめ}}て立出る。門を出る
寄馬之上に而長刀おつ取而、母を先得おつ立てのく。本寄申置たる事なれば、{{r|郞從|らうどう}}どもは{{r|迎|むかい}}に懸{{r|迎|みかい}}た
り。吉田と二れん木之間、相{{r|幷|ならび}}たる所なれば、何之相違も無、手がら成人質の盜樣比類︀無。其故御味
方申けるに仍、其時戶田之丹波守に松平を被{{レ}}下而、其寄此方松平丹波守とは申成。扨又吉田得取詰よ
せて取出を取せ給ひけり。{{r|起硏寺|きけんじ}}之取出には鵜殿八郞三郞、其外の衆、{{r|醅壔|かすずか}}之取出には小笠原新九郞、
二れん木口の取出をば{{r|即|すなはち}}丹波守が{{r|勿|もつ}}。下地得御{{r|働|はたらき}}之時、本田平八郞と牧惣次郞が{{r|鑓|やり}}を合、其時八屋
半之丞少をそく出ければ、半之丞{{r|鑓|やり}}が{{r|初|はじまる}}ぞ{{r|急|いそげ}}と云ければ、八屋{{r|聞|きゝ}}而人が鑓をしたらば、我は切合迄よ。
半之丞が二番鑓をしたるといはれては、嬉{{r|敷|しく}}も無、鑓は{{r|勿|もち}}而來るなと云て{{r|勿|もた}}せず。然處に{{r|鑓脇|やりわき}}に{{r|拔|ぬき}}は
なし而居たる者︀を、{{r|犇|はしり}}入而二人切ふせ而、三人めに河井少德が{{r|鐵砲|てつぽう}}を懸而居たるに{{r|犇|はしり}}入而、京之口を
取而切たる所を、正德も無{{レ}}{{r|䛳|かくれ}}者︀の事なれば、身を不{{レ}}引し而放しける程に、八屋半之丞がかうがめえ打
込ければ、そこをば引のけ而其手に而死けり。正德と云名はせはしき所にて、押付而其手負を打取と
云ければ、立歸而八幡大井手{{r|負|おひ}}にてはなし。正德のちんばぞと云たるに仍、さらば正德となれとて、
氏實之付給ふ。其寄して河井正德と申成。今之{{r|浮世|うきよ}}にかたは者︀をば嫌うと見えけるが、當世のかたは
者︀はしらず。昔はかたは者︀をきらはざるに仍、正德が樣成者︀も有つる。然處に半之丞殿{{r|社︀|こそ}}打死し給ふ
{{仮題|頁=106}}
と、母之方得吿げ{{r|來|きたり}}ければ、急母之立出て何と半之丞が打死と云か。{{r|畏|かしこまつて}}候と申。扨{{r|最後|さいご}}は如何が有りつ
るぞ。ひるい無候。扨は心安物哉。{{r|若|もし}}半之丞{{r|社︀|こそ}}最後{{r|惡|あし}}きと聞ならば、我も命ながら得而せんも有間敷に最
後之能と聞而嬉敷、打死は侍之{{r|役|やく}}なれば、{{r|犇|おどろき}}而{{r|悔︀|くや}}むに不{{レ}}及と云。女にはまれ成、さすがに半之丞が母成
と云。然處に早吉田を渡し而行、{{r|長間|ながしの}}{{r|作|つく}}手{{r|段嶺|だみね}}もかうさんし而出仕をする。扨又{{r|甲斐|かひ}}の{{r|武田|たけだ}}之信玄と仰
合而、家康は遠江を河切に取給得、我は駿河を取んと仰合而、兩國得出給ふ。{{r|蒯沼|すがぬま}}次郞右衞門、{{r|鱸|すゞき}}石
見、今藤登、是三人して案內者︀をして、{{r|永祿|えいろく}}十一年{{仮題|分注=1|壬|辰}}十一月日、遠江得出させ給ふ。然間氏眞は信玄
に駿河を取れ給ひ而、懸河得落來り給ふ。上樣は伊野谷得出させ給得ば、{{r|二俣|ふたまた}}早く御手を取、小笠原
新九郞を{{r|召|めし}}而、其方一{{r|類︀|るゐ}}之事なれば、{{r|蚖堬|まむしづか}}得行而小笠原與人郞を引付給得と御證なれば、{{r|畏|かしこまつて}}御請を
申、其寄{{r|蚖壔|まむしづか}}得行ける處に、與八郞は人質をつれ而、{{r|秋山|あきやま}}所得行を道に而逢而、御身は何方寄何くゑ
通らせ給ふぞと云ば、新九郞申は、我等は御身之方得心懸而參りたり。御身は大勢引つれ給ひ而、何方
得渡らせ給ふぞ。我等は秋山方得出仕いたし而、人じちを渡さんと思ひ而、是迄罷出申成と申せば、其
儀ならば先御歸あれ、內談を申さんとて、すなはち押歸して申、當國は家康之御手に入成、御身も秋山
方得之出仕はやめられ候得而、早々家康得御出仕あれ、爲{{レ}}其に某が參候と申ければ、何と成とも御貴
殿之御計らひ{{r|惡|あしき}}事はあらじとて、秋山方得之出仕を頓而やめて、新九郞をつれ而、家康得出仕有。上
樣は懸河に{{r|當|むかはせ}}給ひ而、{{r|不入斗|いりやまぜ}}に御陣をはらせ給ふ。秋山は{{r|信濃|しなの}}寄も遠江の國あたご得出て、見付之{{r|鄕|がう}}
に陣取而、國{{r|侍|さぶらひ}}供を引付んとす。然處に家{{r|康|やす}}寄仰つかはさる。{{r|大炊|おほゐ}}河を切而、駿河の內をば信玄之領
分、{{r|大炊|おほゐ}}河を切而、遠江之內をば某領分と相定而有處に、秋山被出候事ゆはれ無、早々引歸らせ給得と御
使之立ければ{{r|畏|かしこまつ}}而候と而、山なし得引入すくもだが原得押上而、原河之谷をとをり、{{r|倉見西鄕|くらみさいがう}}をと
をり而、さよの山得出て駿河得行、秋山が異儀に及ならば打{{r|害|ころし}}被{{レ}}成と被仰けれども、秋山異儀に不及
して引{{r|除|のき}}けるは、秋山{{r|巧|こう}}者︀と{{r|社︀|こそ}}は申しける。然間永祿十一年{{仮題|分注=1|壬|辰}}に、氏眞は、駿河をば信玄に押しはら
はれ給ひ而、懸河得朝稻之備中守處得落來り給ふ。{{r|備中|ぼつちう}}守が引請而、爰をせんどと{{r|摝|かせげ}}供成{{r|難︀|がたし}}。然處に
小原之備後守、日比、小笠原與八郞が奏者︀之事なれば、與八郞を賴而{{r|蚖堬|まむしづか}}へ、妻子を引つれ而落行け
れば、入も不{{レ}}立して妻子共に悉一人も{{r|不|ず}}{{レ}}{{r|殘|のこら}}打{{r|害|ころす}}、扨もむごく{{r|哀|あはれ}}成次第哉。小笠原が行{{r|末|すゑ}}いかがあら
んと諸︀人感じける。然處に久野が庶子どもに、久野佐渡、同日向守、同彈正、同{{r|淡路|あはぢ}}、本間十右衞門申け
るは、爰に而人と成處成。いざや家康得敵に成而、懸河と相挿み而、爰をのかせ申間敷、久野が敵を
するならば、遠江內之侍達は一騎も不{{レ}}被{{レ}}殘して、敵に成而くつ歸すべし。さもあらば國中之一揆供
も{{r|此方彼方|こゝかしこ}}寄{{r|起|おこ}}るべし。然者︀家康も深入をし而{{r|御|おはしませ}}ば、{{r|綻|ふくろ}}得入たる心成、いざさらば惣領しきにきか
せんとて、久野三郞左衞門に申ければ、何れも申處尤にはあれども、然と云に一度氏眞得{{r|逆|ぎやく}}心をし而、家
康之御手を取奉而、氏眞得弓をひく事をさ得、侍之弓矢義理をちがゑたると思得ば、夜之目も{{r|不|ず}}{{レ}}被
{{レ}}寢して、人の取さた迄も面目無して、赤面するに程も無して、又家康得{{r|逆心|ぎやくしん}}をする物ならば、二張の弓
{{仮題|頁=107}}
成。其故人之取{{r|仕|さた}}にも內股膏藥とて{{r|後指|うしろゆび}}を{{r|指|さゝ}}れば、命ながらへても益も無、一心に家康得思ひ付給得と
て承引なければ、各々罷立而申は、惣領に而有者︀に人と成給得と取立申とも、一{{r|圓|ゑん}}に承引なし。其儀に
おいてはそうりやうには{{r|腹|はら}}を切せ申而、鹿子の{{r|淡路|あはぢ}}を取立て、家康を跡先寄も取つゝみ、何方得ものが
す間敷と申定ける處に、久野佐渡と本間十右衞門兩人內談して申けるは、{{r|何況|いかにいはん}}哉そうりやうと云又は主
なれば、方々もつて{{r|何|いか}}に知行を取、{{r|輙|たやすく}}身を過ぐるとても腹をば切せられ間敷とて、兩人くみ歸而此由申
ければ、三郞右衞門{{r|驚|おどろき}}而、其儀ならば御家勢を可{{レ}}申とて其由申上ければ、尤と被{{レ}}仰而御家勢を{{r|指|さし}}つ
かはされ給得ば、三郞左衞門は二の九得{{r|折|をり}}而、本城得御家勢之衆をうつせば無{{二}}何事{{soe|も}}{{一}}、然間{{r|淡路|あはじ}}には{{r|腹|はら}}
を切せ、彈正は三郞左衞門{{r|姪|をひ}}なれば{{r|押除|おしはらひ}}ける。其寄懸河得押寄、天主山に御{{r|旗|はた}}を立させられ給得ば、
城寄も爰者︀の者︀どもが出て、きび敷せり合有。其比信長に面目うしなひ而浪人して駿河得下、氏眞得
出御供して今城にこもり居たる衆之內に打死有、伊藤武兵衞をば{{r|謀久|むく}}原次右衞門が打取、大屋七十郞
をば大久保次右衞門が打取、小坂新助をは大手のぬりちが得迄押こみて、ぬりちがゑにて打取而のく。
其外高名は數多有。其置{{r|謀久|むく}}原{{r|慇懃|いんげん}}に申、今日は{{r|組|くみ}}打に仕たると中上ければ、大久保次右衞門が申ける
は、いや{{く}}今日之高名にくみ打は一人も無く、御身之打たるも{{r|靑皮|せいひ}}の具足著︀而、{{r|鐵砲|てつぽう}}にあたり死而臥
したるを打給ふ成。今日之高名は{{r|悉|こと{{ぐ}}く}}冷{{r|頸|くび}}成。我等が取たるも{{r|鐵砲|てつぽう}}にあたり而死たるひゑ{{r|頸|くび}}に御座候
と申處に、內藤四郞左衞門高名をして來りて申は、高名は仕候得ども、今日之高名は{{r|某|それがし}}を{{r|初|はじめ}}{{r|悉|こと{{ぐ}}く}}ひゑ
{{r|頸|くび}}に而御座候と申上ければ、內藤四郞左衞門と大久保次右衞門が口は扨も相たり。兩人之衆には似相
たりと各申ける。扨又天王山に取出を被成而、久野三郞左衞門を置せられ給ふ。西にはかは田村の上
に取出を被成、各々番手に{{r|持|もつ}}。南には{{r|曾我|そが}}山に取出を被成、小笠原與八郞が{{r|持|もつ}}。然間永祿十二年{{仮題|分注=1|己|巳}}正
月二十三日に落城して、氏眞は小田原得落行給ふ成。然處に三月日{{r|堀河|ほりかは}}に一{{r|揆|き}}の起き申候由{{r|吿|つげ}}來りけ
れば、其儘取あ得させ給はず、懸付給而{{r|催|もよほし}}もなく{{r|偣|よせかくる}}程に、頓而へいに付而乘る。然間大久保甚十郞十七歲
に而一番に乘りける處を、內寄{{r|鐵砲|てつぽう}}に而左のべにさきを打れて打死をする。平井甚五郞も打死をする。
其外{{r|數多|すた}}打死有。{{r|堀|ほり}}河は汐の指たる時は舟に而寄外行べきかたも無。しほひ之時も一方口なれども{{r|{{?|「亻+?」}}無|みちひく}}
{{レ}}事{{r|璅|つめいる}}程に、{{r|即|すなはち}}男女ともになで切にぞしたりける。右之大久保甚十郞は、右に一揆之{{r|起|おこり}}申たる折節︀に通
り合ければ、悉歷々の衆立も一同す。{{r|駭騷|おどろきさわぐ}}衆も有ければ、甚十郞は御{{r|膝元|ひざもと}}{{r|近|ちかく}}召つかはれ申、御意の{{r|能|よかれ}}
ば一々に申上げけり。{{r|誰々|たれ{{く}}}}は{{r|憔酷|おどろきあわてゝ}}、跡先得{{r|迯|にげ}}ちり山得も{{r|迯|にげ}}入而御座候。誰々は{{r|不|ず}}{{レ}}{{r|亂|みだれ}}して{{r|神︀妙|しんびやう}}に御
座候つる由を申上ければ、せがれなれども{{r|神︀妙|しんびやう}}に能見たと御意被成御感成。然間見付之{{r|國|かう}}を御住所に
被成、城を取、原に各々屋敷取をしてすませ給ひけるが、爰は不{{レ}}可{{レ}}然とと濱松得引かせられ給ひ
而、御城を拵へ給ひ御住所を定させ給ふ。
扨又、信長寄仰被越けるは、御{{r|加勢|かせい}}を被成而給候得、北近江得{{r|働|はたらき}}を、被成候はんと仰被越候得ば、頓而
すけさせ給はんとて、御出馬被成けり。元龜元年{{仮題|分注=1|庚|午}}二月日、信長{{r|鐘|かね}}ヶ崎得{{r|働|はた}}らかせ給ひけるに、越前衆
{{仮題|頁=108}}
つよければ、信長も大事と思召而、家康を跡に{{r|捨|すて}}置給ひ而、さた無に、{{r|宵|よひ}}之口に引取せ給ひしを、御
存知無くして、夜明而、木下藤吉、御案內者︀を申て、のかせられ給ふ。{{r|鐘|かね}}ヶ崎之、のきくちと申而、
信長之御ために、大事ののき口成。此時之藤吉は、後之世の太閤成。然者︀、信長北之{{r|郡|こほり}}得御{{r|働|はたらき}}被成
候はんと思召處に、越前衆は出、方々に取出を取、{{r|都︀|みやこ}}得之行通りを{{r|停|と}}めんとて、三萬餘にて出ければ、
信長も{{r|急|いそぎ}}、{{r|橫|よこ}}山迄御出馬有而、家康に早々御{{r|加勢|かせい}}を被成而被下候得、越前衆罷出申候間、合戰を可被
成由仰被越候得ば、相心得申とて其{{r|儘|まゝ}}御出馬被成けり。信長殊外に{{r|悅|よろこば}}せ給ひ而早く御出馬有。然者︀明
日之合戰に相定申、一番は柴田、明智、森右近など申付候間、家康は二番合戰を賴入申と云ひて、毛
利新助と、兩人をもつ而仰被越候得ば、御返事にとても御加勢申故は、何と被仰候とも、是非ともに、
一番合戰を仰可{{レ}}被{{レ}}付と仰被越候得ば、信長之御返事に、家康之御存分尤、左樣に思召可被成、然ど
も早{{r|備組|そないぐみ}}を仕たる事なれば、彼等を一番之やめさする事も、如何に候得ば、同は二番之請取せられ而
給候得、其故一番も二番も同意成。二番と云而も時により一番に成事も{{r|多|おほ}}き物なれば、兎角に二番を
賴入申と御返事有ければ、又押歸而被{{レ}}仰けるは、尤そないぐみを御定之所を、一番を二番得と被仰候
得を、如何がと思召すところ、尤承とゞけ申たり。一番も二番も同意と仰せられ候儀、是は承とゞけ
不申。尤明日之合戰には、二番が一番にも{{r|社︀|こそ}}成りもや仕らん。其儀は時之仕あはせ、たとゑば二番が
一番になると申しても、後之世までの書物には、一番は一番、二番は二番と書きしるして、末世まで
も可{{レ}}有候間、兎角一番を申可{{レ}}請。其故{{r|某|それがし}}が年も寄たる者︀ならば、三番四番に成りとも被仰候處に
可有けれども、三十に足るたらざる者︀が、家勢に參而、一番を申請{{r|兼|かね}}而、二番に有と、末世迄申傳
へに、罷可{{レ}}成事、{{r|迷惑|めいわく}}仕候。兎角に一番合戰を、仰被{{レ}}付候得、然らずんば、明日之合戰には罷出間
敷候。然者︀今日引拂ひ而罷歸可申と御返事有ければ、信長聞召而、家康之被仰も尤承とゞけたり。左
程に思召給はゞ、{{r|愈|いよ{{く}}}}忝存知候。其の儀ならば一番合戰を賴入申と被仰而、明日之御合戰は家康之一
番{{r|陣|いくさ}}成。然處に、各々申上けるは、此以前寄一番{{r|陣|いくさ}}を仰被{{レ}}付只今家康得、一番{{r|陣|いくさ}}を被成候得との御
諚之處、{{r|迷惑|めいわく}}仕候と申上ければ、信長御腹を立給ひ、大成御{{r|聲|こゑ}}を被成、推參成忰どもめが、何をしり
て云ぞと仰ければ、重而{{r|音|ね}}を出事ならざれば、家康之一番{{r|陣|いくさ}}に定ける。家康之仰には、明日廿八日之
合戰に、今日廿七日に、是得着而一番陣を請取事、天道のあたへ成と被仰、御{{r|喜|よろこび}}悅かぎり無。元龜元
年{{仮題|分注=1|庚|午}}年六月廿八日の{{r|曙|あけぼの}}に、押出たま得ば、越前衆も、三萬餘に而押出す。信長之一萬餘、家康之人數三
千餘に而互に押出而、{{r|北風南風|おつつまくりつ}}{{r|攻㦴|せめたゝかふ}}處に、家康之御手寄、切くづして追討に打取給得ば、信長之御手
は、{{r|旗|はた}}本近く迄切被立、各々爰はの衆が打れけれども、家康之御前が勝而、おくへ切入給得ば、敵も
{{r|卽|すなはち}}{{r|敗軍|はいぐん}}して、不{{レ}}殘打取給ひ而、今日之合戰は、家康之御手がら故、天下之譽を取と、信長も{{r|御|ぎよ}}感成。
信長其寄、{{r|此方彼方|こゝかしこ}}押つめさせたまふならば、近江之儀は申に不{{レ}}及、越前迄も切取せ給はんに、惣別
信長は{{r|勝|かち}}而、{{r|鋹|かぶと}}之緖をしめよとて、其儘岐阜へ引入給ふ。桶狹間の合戰にも、義元をば打取給ふ故、
{{仮題|頁=109}}
其寄{{r|無|なく}}{{レ}}{{r|𠉧|もよをし}}{{r|璅|つめいる}}物ならば、{{r|{{?|「今/久」}}|すみやか}}に三河、遠江、駿河迄{{r|納|をさめ}}させ給はん。此時もをけばさまより淸須得引入
給ふ。然ども{{r|終|つひ}}には近江も、越前も、三河、遠江、駿河も御手には入たれども、勝而{{r|鋹|かぶと}}の{{r|緖|を}}をしめよ
とて、其きをいを以てつよみをば、おさせられたまぬ御方成。然間元龜元年{{仮題|分注=1|庚|午}}十二月日、越前衆三萬
餘に而、{{r|比叡|ひゑい}}に陣取而有。信長は志賀に御陣を取り給ひ而、家康ゑ御加勢之由仰被越ければ、石河日
向守を指つかはさる。北國は早雪もつもりたる事なれば、兵粮米も盡き可申。然者︀敵を干し{{r|害|ころす}}べしと
信長は思召處に、比叡山寄兵粮米をつゞけ申のみならず、{{r|賸|あまつさえ}}歸り調儀をして信長を打せんとす。山寄
申越たるは、越前衆之陣屋得火を懸可{{レ}}申候。然時んば切而懸らせ給へば{{r|敗軍|はいぐん}}可{{レ}}有。其儀ならば夜中に
山得あがらせ給得と申けれども、信長さすが之弓取なれば、聊爾に山得あがらせ給はずして、坂本迄
押寄而、火之手があがらば{{r|偣|よせかけ}}べきとて、ひかゑさせ給ひし處に、案之ごとく歸りてうぎ成。然間越前衆
は三萬餘有、殊更に近江之國は大方越前之{{r|領分|りやうぶん}}なれば、岐阜への道も塞れば、信長{{r|纔|わづか}}一萬之內なれば
かなはじとてあつかひをかけさせ給ひ、天下は朝倉殿{{r|持|もち}}給得、我は二度{{r|望|のぞ}}み無と起請を書給ひ而、無
事を作り而岐阜へ引給ふ。扨又引入給ひ而、をつ付而切而上らせ給ふ處に、又家康寄御加勢を被成けり。
其時は松平勘四郞殿に{{r|諸︀家中|しよかちう}}寄人を面々に出合而付而立給ふ。然處に信長は見つくり之城を{{r|攻|せめ}}させ給
ふに{{r|更|さら}}に{{r|落|おち}}ず。然者︀此小城にかゝり而、日を盡して詮も無。是は先{{r|指置|さしおき}}而{{r|都︀|みやこ}}得切而のぼらんとて、城
をまきほぐして搦手之衆のくを、松平勘四郞殿是を見給ひ而、大手之方寄{{r|責|せめ}}入給得ば、{{r|卽|すなはち}}からめ{{r|手|で}}得
落行ば城得{{r|亂|みだれ}}入。松平勘四郞殿手柄覺え云に不及。然間都︀得入せ給得ば、{{r|亂|らん}}取に小田之上野守殿の者︀
と、三河之者︀が出合而、ふるゑぼしを奪合ひ而、上野守殿の者︀を三河之者︀がしたゝかに打ければ、そ
れが喧嘩に成而、美濃尾張之衆が一つに成而、松平勘四郞殿得{{r|偣|よせかくる}}程に、何れも三河衆が無{{二}}是非{{一}}とて
{{r|悉|こと{{ぐ}}く}}町得出て、弓{{r|鐵炮|てつぽう}}{{r|鑓|やり}}をかまゑ而居たる處得、{{r|偣|よせかくる}}程に引請而打立ければ、中々あたりゑ{{r|寄|よせ}}付ん事は
思ひ寄ずして、信長得比由申ければ、信長聞召言語道斷とゞかざる事を申者︀ども哉、家康寄{{r|加勢|かせい}}を賴
而、其加勢を打{{r|害|ころす}}法や有物か。れうじをしたるやつばら{{r|在|あら}}ば、一々に{{r|成敗|せいばい}}せんと仰ければ、{{r|偣|よせかくる}}者︀ど
もはちり{{ぐ}}に成而見得ざりけり。扨又信長勘四郞を召而仰けるは、勘四郞今度みつくりにおい而、手
柄ひるゐ無處に、又此度之喧嘩扨々ひるい無。勘四郞は{{r|背|せい}}はちひさけれ{{r|共|ども}}、{{r|肝|きも}}のをうき成者︀なり、い
やいや勘四郞は{{r|熨斗|のし}}づけをさして有間、此度之陣をばつゞけられべきぞやと仰けり。勘四郞ためには
面目成。然處に信長之仰に、天下之公方も{{r|朝倉|あさくら}}は引請申事もならざるを、{{r|某|それがし}}が岐阜へ{{r|喚|よび}}越申而、{{r|二度|ふたゝび}}
天下之公方となし奉り申たる、其{{r|情|なさけ}}をも{{r|忘|わすれ}}而{{r|賸|あまつさへ}}{{r|朝倉|あさくら}}と一身して、我に敵をなし給ふ事{{r|恩|おん}}を知給はね
ば{{r|腹|はら}}を切せ申度存ずれども、公方にて{{r|御|おわし}}ませば{{r|徐置|ゆるしおき}}申と而都︀を{{r|除|はらひ}}給ふ。其時に比叡山も{{r|長袖|ながそで}}の身とし
て歸りちやうぎをして我を打んとしける間、さらば山を立間敷と仰有而、其寄も久敷ゑい山はくづれ
而、久敷たゝざるを、又家康之御取立被成而、今者︀山が立。扨又信長記を見るに僞多し。三ヶ一者︀有事
成、三ヶ一者︀似たる事も有、三ヶ一は無{{二}}{{r|跡形|あとかたち}}{{一}}事成。信長記作たる者︀、我々がひいきの者︀を、我が{{r|智惠|ちゑ}}
{{仮題|頁=110}}
之有{{r|儘|まゝ}}に{{r|能作|よくつくり}}たると見得たり。其故は處々に而の{{r|勝負|しようぶ}}之事を書付けるに、先僞と見得けるは、其比、
十、十一、十二三に成、西も東もしらざる者︀が、成人してはるか後に{{r|元服|げんぷく}}して男に成而有間、昔物語
に聞し者︀を、そんぢやうそこに而走り廻り、ひる無高名などと書而、{{r|僞|いつはり}}を{{r|作|つくりた}}る事も{{r|多|おほ}}し。長篠などの
{{r|陣|いくさ}}にも、せざる高名を相打にしたると云處も有。武者︀づかひなども、一代つかひたる事も無人を、武
者︀をつかひたると書而有。此外此場に而の事にも僞多し。度々にをいてひけを取、人に{{r|後指|うしろゆび}}さゝれた
る者︀を、{{r|鬼神︀|おにかみ}}之樣に書たるも有。又は度々の高名をして、{{r|諸︀國|しよこく}}に而かくれ無{{r|覺得之者︀|おぼえのもの}}をかゝざるも有
り。ちからの無者︀を大ちからと書たるが{{r|皆|みな}}僞り或。大ちからと書たる內に、{{r|獨力持|ひとりちからもち}}たる衆は一人も無。
{{r|結句力|けつくちから}}は無してがいす成衆多きに、色々加樣に書申事は、思得ば我が目を被{{レ}}懸たる衆之事を、かたも
無事をも作たると見得たり。然時んば書者︀に{{r|智惠|ちゑ}}有而無{{二}}智惠{{一}}に似。然間信長記には僞多しとさたした
り。家康御代々の事を是にあらまし書しるす成。一つとして僞と云事を、後之世にも當代にも、をそ
らく申人者︀有間敷、然ども人に見せ申とて書不{{レ}}置、我等子供に御八代御九代當相國秀忠樣、當將軍家
{{r|光|みつ}}樣迄御主樣成。其御末々迄なん代も{{r|能|よく}}御奉公申上奉れ、我寄後しらせんため成。門外不出。
元和八年{{仮題|分注=1|壬|戌}}卯月十一日 {{分註|size=100%|子供に是讓門|外不出可有成}} 大久保彥左衞門<sup>花押</sup>
此書物に、各々御普代衆之御事あらまし書而、我一{{r|類︀|るゐ}}之儀くは敷書申事は別之儀に{{r|非|あらず}}。{{r|姪|をひ}}子供又は一類︀
之者︀ども、御普代久敷御主樣之御ゆらいを後には存ず間敷と思ひ而、しらせん爲に我{{r|遺|ゆゐ}}言として書而
子供にくれ申事なれば、門外不出と申置故、くがいゑ出す書物にあらざれば、我等一名之事を本に書置
事なれば、別之御普代衆之儀は不{{レ}}書。何れも御普代衆御忠節︀は雨山可有ければ、各々も後子供之御普
代御主樣之御筋目を忘させ給はぬ樣に、家々に而の御普代之御主樣之筋目、又は御普代久敷召つかは
れ給ふ、筋目{{r|並|ならび}}に御忠節︀之筋目を能書給ひ而、子供達へ各々も御{{r|讓|ゆづり}}給得、我等も如此に候、然ども此書
物は門外不出に候間、他人は見申間敷けれども、若百に一つも落ちりて、人之御覽じも{{r|在|あらば}}、其御心得
之爲に如此に候。我依怙に我一名一{{r|類︀|るゐ}}、又は我身之事を書置たると思召有間敷候。子供得之{{r|遺|ゆゐ}}言之書物
なれば、我一名一類︀又は身之事を書ざれば、子供の合點がすみ申間敷候間如此に候事以上。
此書物くがひへ出す物ならば、各々御普代衆之御忠節︀はしりめぐりの儀をも具にせんさくして可{{レ}}書
が、是は門外不出としてくがひへ出事なくして、子供にもたせ而後之世に御普代之御主樣のしらせん
爲に書置事なれば、他人之事をかゝず。然{{r|時|ときんば}}我名又は我身之事をかゝずは、子供の合點もすみ申間
敷ければ如{{レ}}{{r|此|かくの}}に候。門外不出に候へば、誰人も見は申間敷けれ共、若おちちりて人も見申さば、其時
之爲如此に候。各々御普代衆は家々之忠節︀はしりめぐりの事を書立而、子達へ御ゆづり可有候。我等
如此書候て、子供にゆづり申。門外不出也以上。{{nop}}
{{仮題|ここまで=三河物語/第二中}}
{{仮題|ここから=三河物語/第三下}}
{{仮題|頁=111}}
{{仮題|投錨=第三下|見出=中|節=m-3|副題=|錨}}
然る所に元{{r|龜|き}}三年{{仮題|分注=1|壬|申}}之年、信玄寄申被越けるは、天りうの河をきりて切とらせ給へ。河東は某が切取
可申と相定申處に、大炊河ぎりと仰候儀は、一圓に心得不申。然者︀手出を可仕とて、{{r|申|さる}}之年信玄は遠
江へ御出馬有而、來原西島に陣取たまへば、濱松寄もかけ出して見付の原へ出て、來原西島を見る所
に、敵方是を見ておつ取{{く}}のりかけければ、各々申けるは、見付の町に火をかけてのく物ならば、敵
方案內をしるべからずとて、火をかけてのきけるに、案之外に案內をよくしりて、上のだいへかけあ
げ而乘付ける程に、頓而ひとことの坂之おり立にてのり付けるに、梅︀津はしきりのり付られ而ならざ
れば、がん石をこそのりおろしける。其時大久保勘七郞は、とつて歸し而てつぽうを打けるに、一二
間にて打はづす。其時上樣之御諚には、勘七郞は何として打はづして有ぞと被仰ける時、其儀にて御
座候ふ。{{r|都︀筑|つゞき}}藤一郞が弓をもちて罷有によつて、其をちからと仕候て放し申つる。{{r|纔|わづか}}一二間ならでは御
座有間敷、定而くすりはかゝり可申、兎角と申內に我等が臆病ゆへに、打はづし申たると申上ければ、
藤一申は、勘七郞が立とゞまりて打申故に、我等は了簡なくして罷有つると申ければ、兄之大久保次
右衞門が申は、藤一左樣に御取合は被申そ、御身を力とせずんば、せがれが何とて立とゞまらん哉。
方々の故に有つるぞと申せば、御方之弓ゆがけをはづし給ふを見て、我も馬ゆがけをはづしたると申
せば、藤一申は次右左樣にはなし、{{r|坂|さか}}のおりくちにて、御身の馬ゆがけをはづし給ふを見て、我等も
弓ゆがけをはづしたると申せば、いや{{く}}御身の弓ゆがけをはづしたるに心付、我もゆがけをはづし
たと申ば、上樣は御笑はせ給ひ而、其儀はまづおけ、勘七郞汝があやかりと云にはあらず、見付の臺
寄おひ立られ而のきたる間、せいきのせきあげたる處に、定而汝はてつぼうを中程に、手をかけて火ざ
らのしたを取而放したるか、御意のごとく左樣に仕申と申上ければ、左樣に可有、中程に手をかけて火
ざらの下をもちてはなせば、引息にては筒さきがあがり、出る息にてはつゝさきがさがる物成、殊更
つねの時とおひ立られし時のいきは、かわる物にて有間、はづれたるも道理成、汝がおくびやうと云
處にはあらず、何時も左樣成時は{{r|諸︀手|もろて}}ながら、引がねの下をもちて打物成、何といきをあらくつきた
り共、つゝさきはくるはざる物にて有ぞ、以來は其心もち可有と御意成。然間遠江之小侍共が信玄へ
のきけるが、此度供して來り而、天方、むかさ、市の宮、かくわのふるかまい、其外のふる城、又は屋敷
構を取立てもつ。かくわの構をもちたる小侍共を、{{r|久野|くの}}と懸河と出合而、せめおとしておゝく討取た
れば、其外之所をばのこらずあけたり。天方斗{{r|久野|くの}}{{r|彈|だん}}正其外寄合之小侍共がもちけるを、味方が原之
合戰之後、天方之城をせめさせ給ひ而、本城斗にして引のかせ給へば、其後明てのく。信玄は見付のだ
い寄がうだゐ島へ押上而陣取、其寄二俣之城を責ける。城には靑木又四郞中根平左衞門その外こもる。
信玄はのりおとさんと仰ければ、山縣三郞兵衞と馬場美濃守兩人かけまわりて見て、いや{{く}}此城は
{{仮題|頁=112}}
土井たかくして草うらちかし、とてもむり責には成間敷、竹たばをもつてつめよせて、水の手を取給
ふ程ならば、頓而落城可有と申ければ、其儀ならば責よとて、日夜ゆだんなくかねたいこをうつて時
をあげて責けり。城は西は天りう河東は小河有り。水の手は岩にてきし高き崕づくりにして、車をか
けて水をくむ。天りう河のおし付なれば、水もことすさまじきていなるに、大綱をもつていかだを
くみて、うへよりながしかけ{{く}}、何程共きわもなくかさねて、水の手をとる{{r|釣|つるべ}}なはを切程に、なら
ずして城をわたす。然間信玄は城を取而寄、東三河に奧平道文と、すがぬま伊豆守と同新三郞、これ
等はながしの、つくで、たみね是等が山が三方をもちたるが、逆心して信玄に付、すがぬま次郞右衞門と
同新八郞は御味方を申而、ぎやくしんはなし。然間信玄は上方に御手を取衆之おゝくありければ、三
河へ出て、それより東美濃へ出、それよりきつてのぼらんとて、味方が原へ押上て井の谷へ入、長し
のへ出んとて、ほうだへ引おろさんとしける處に、元{{r|龜|き}}三年みづのへさる十二月二十二日、家康濱松
寄三里に及而打出させ給ひ而、御合戰を可被成と仰ければ、各々年寄共の申上けるは、今日之御合戰如
何に御座可有候哉、敵之人數を見奉るに三萬餘と見申候。其故信玄は老むしやと申、度々の合戰になれ
たる人成。御味方はわづか八千の內外御座可有哉と申上ければ、其儀は何共あれ、多勢にて我屋敷之
{{r|背戶|どと}}をふみきりて通らんに、內に有ながら出て尤めざる者︀哉あらん。{{r|負|まく}}ればとて出て尤むべし。そのご
とく我國をふみきりて通るに、多勢成というてなどか出てとがめざらん哉。兎角合戰をせずしてはお
くまじき。陣は多ぜいぶぜいにはよるべからず、天道次第と仰ければ、各々是非に不及とて{{r|押寄|おしよせ}}けり。
敵をほうだへ半分過も引おろさせて、きつてかゝらせ給ふならば、やす{{く}}ときり勝たせ給はん物を、
はやりすぎてはやくかゝらせ給ひしゆゑに、信玄度々之陣にあひ付給へば、{{r|魚鱗|ぎよりん}}にそなへを立て引う
けさせ給ふ。家康は{{r|鶴︀翼|がくよく}}に立させ給へば、少せいという手薄く見えたり。信玄はまづ{{r|鄕人|がうにん}}ばらを{{r|出|いだ}}さ
せ給ひて、つぶてをうたせ給ふ。然るとは申せ共、家康衆は面もふらず錣をかたぶけてきつてかゝる
程に、{{r|早|はや}}一二之手をきりくづしければ、又入かへてかゝるを、きりくづして、信玄の{{r|旗|はた}}本迄きり付け
るに、信玄之{{r|旗|はた}}本よりまつくろに時をあげてきつてかゝるほどに、{{r|纔|わづか}}八千の人數なれば、三萬餘の大
敵に骨身をくだきてせり合たれば、信玄之{{r|旗|はた}}本にきりかへされてはいぐんをする。家康御{{r|動轉|どうてん}}なく御
小姓衆をうたせじと思召而のりまわし給ひて、まん丸に成てのかせ給ふ。馬にて御供申衆は、すがぬま
藤藏、{{r|三宅|みやけ}}彌次兵衞其外はおり立ければ、馬にはなれてかち立成。中にも大久保新十郞をかなしませ
られ給ひて、小栗忠藏に馬を一つとれと仰ければ、相心得申とて頓而取てのりける。忠藏も手を負ひ
けるが、其馬を新十郞にかすまじきかと被仰ければ、忠藏御意寄はやくおうけを申而とんでおり、新
十郞をのせて我はもゝを鑓にてつかれけるが、いたまずして御馬に付奉りて御城迄御供を申、上樣よ
りも御さきへにげ入て、上樣は御討死を被成たると僞を申處へ、無何事いらせ給へば、彼者︀共はこゝか
しこへ又にげかくれけり。上方らう人に中河土源兄弟はおぼえ之者︀と申つるが、濱松へは得のかずして
{{仮題|頁=113}}
懸河へにげてゆく。水野下野殿は今切れを越てにげ給ふ。山田平一郞は岡崎迄にげ行て、次郞三郞樣
之御前にて、大殿樣は御打死を被成候と申上候處へ、上樣は無何事御城へいらせられ被成候。諸︀大名
衆も一人も無何事引のけ申成。但信長よりの御かせい平手と、御手前之衆には靑木又四郞殿、中根平
左衞門計、物主は討死仕候。其外若き衆{{r|家老|からう}}共は鳥居四郞左衞門、本田肥後守、加藤ひねの丞、同九
郞、ゑのきづ小太夫、大久保新藏、河井やつと兵へ、杉之原なつと兵へ、榊原攝津守、成瀨藤藏、石
河半三郞、夏目次郞左衞門、河井又五郞、松山久內、加藤源四郞、松平彌右衞門殿、何れも此外に此
とほり之衆數多候へ共しるすに不及。然處に信玄はさいがかけにて首共をじつけんして、其儘陣どら
せ給ふ所に、大久保七郞右衞門が申上けるは、加樣に弱々としては、いよ{{く}}敵方きおひ可申、然者︀
諸︀手のてつぽうを御あつめ被成給へ。我等が召つれて夜討を仕らんと申上ければ、尤と御諚にてしよ
てをあつめ申共出る者︀もなし。やう{{く}}諸︀手よりして、てつぽうが二三十挺計出るを、我手まへのてつ
ぼうに相くわへて、百挺計召つれて、さいがかけへゆきて、つるべて敵陣へ打こみければ、信玄是を
御らんじて、さても{{く}}勝ちても{{r|强|こわき}}敵にて有り。是程にこゝわと云者︀共を、數多討とられて、さこそ
內も{{r|亂|みだれ}}て有哉らんと存知つるに、かほどのまけ陣には、か樣にはならざる處に、今夜の夜ごみはさて
も{{く}}したり、未よき者︀共の有と見えたり。兎角にかちてもこわき敵成とて、そこを引のけ給ひて、
いの谷へ入而長しのへ出給ふ。其寄おく郡へはたらかんとて出させ給ふ所に、爰に藪の內に小城有け
る。何城ぞととわせ給へば、野田之城成と申。信玄は{{r|聞|きゝ}}及たる野田は是にて有か、その儀ならば{{r|通|とを}}り
がけに踏みちらせと仰あつて押寄給へば、打立てあたりへもよせ不{{レ}}付。さらばとて竹たばを付もつた
て、龜の甲にて{{r|偣|よせかくる}}。晝夜ゆだんなくかねたいこを打て、夜もすがらせめけれ共日數をふる。城には野
田のすがぬま新八郞、松平與市殿のかせいにいらせ給へば、ことともせずしておはします。然共日數
もつもりければ、二三之丸を{{r|責|せめ}}とられて本丸へつぼむ。然間あつかいをかけて、二の丸へうつして{{r|堄|しゝがき}}
をゆひておしこみて、其寄して長しのゝ{{r|菅沼|すがぬま}}伊豆が人質と、つくでの{{r|奧|おく}}平道文が人じちと、だみねの
すがぬま新三郞が人じちに、換へあひにして、松平與市殿もすがぬま新八も引のきけり。信玄は野田
之城を{{r|責|せめる}}內に病つかせ給ひて、野田落城有而後は、きつてのばる事も不成して、本國へ引而入とて御
病おもく成而、平井波合にて信玄は御病死被成ける。
然る間元{{r|龜|き}}四年{{仮題|分注=1|癸|酉}}二俣之城にむかつて、取出を御取被成ける。一つ屋城山、一つがう大島、一つ{{r|道|だう}}々
國中のおさいと被成ける。さてまた濱松より岡崎へ御越被成候とて、元{{r|龜|き}}四年{{仮題|分注=1|癸|酉}}長しのゝ城を打ま
わらせ給はんとて、かけよせさせ給ひて、火矢を射させて御覽じければ、案之外に本城、は城、藏
屋共に一間ものこらず燒きはらひければ、其{{r|儘|まゝ}}其寄{{r|押|おし}}寄給ひて、{{r|責|せめ}}給へば、勝賴は後づめと被成候へ
て、鳳來寺くろぜまで、武田之{{r|典厩|てんきう}}をさしつかわせ給ふ。是をも御もちいなくして、せめさせ給へば、
城中にもはや、兵糧米も候はねば、はや降參をぞ申ける。しからばたすけおくべきよしおほせ給ひ
{{仮題|頁=114}}
て、あつかいて、同年の七月十九日に城をうけとらせ給ひ、御普請を被成、兵糧米多こめおかせられ
給ひて、おく平九八郞に城を被下而頓而御馬も入。然ける處に、是も後づめとして、武田之{{r|梅︀雪|ばいせつ}}を
遠江之國へ出し森に陣之取、こゝかしこをほう火して、苅田をして打ちりて、らん取をする處に、
長しのゝ城をせめおとし給ひ而、引いらせ給ふ所に、敵出而、{{r|此方彼方|こゝかしこ}}うちちりて放火をし、らんぼ
うらうぜき、かり田をしるときくよりも、我さきにとかけ付而、おひくづしておひ打に打取。然處に
榊原小平太同心に、上方らう人有けるが、大久保次右衞門が高名をして、首をひつさげてのく處へ、
彼らう人來りて、七八人してうしろよりいだきて、次右衞門が取頭を、ばいてゆく。次右衞門は、汗
をにぎつて、腹を立けれ共、かなわずして歸る。其時榊原小平太彼らう人を召つれて、御前へ出ける
を、戶田之三郞右衞門是を見て、{{r|急|いそぎ}}次右衞門に吿げられけるは、次右衞門はしらざるか、彼者︀をこそ
只今榊原小平太が、召つれて御前へ出けると被申ければ、次右衞門は、忝よくぞ御きかせ候とゆひす
て、彼者︀之歸らぬさきにと、御前へいそぎける。三郞右も、我も同心してゆくべきとて、二人つれて
御前に參、あの人之{{r|指|さし}}上申すしるしは、各々見被申候。我等が打申候へて、ひつさげてのき申處を、
七八人參て、ひきかなぐりて參たり。我等にかぎらず、各々御普代久敷衆には、御あてがひも不被成と
申共、御普代御主なれば、我人女子を歸見ず、一命をすてゝかせぎ申とは申せ共、あれてい之者︀には
くわ分之御知行を被下、人をおゝくもち申候へば、何時もあのごとくに御座候へば、少身成、我等通
り成者︀は、何とかせぎ申ても御ほうかうに罷成がたく奉存知候。其うへ彼等はよければ罷有、あしけ
れば罷あらず、御普代之衆はよくてもあしくても、御家之犬にて罷出ざるに、せざる高名を立させ
られ候御ことは、一段とめいわく仕候と申上ける處に、榊原小平太申けるは、次右いはれざる儀を仰
被上候。我等同心の高名には歷然したるに、きこゑざると被申ければ、次右衞門申は、たれ人のよきあ
しきも、貴所之何とてしらせ給はん。其あたりへも{{r|來|こ}}ずして、いらざる事を仰候。見ぬ京物語は、せ
ざるものに候間、いかに同心之腰を引度共、なき事は成間敷と申ければ、其時御諚には、次右衞門い
らざる事な申そ、我家にて{{r|汝|なんぢ}}に武邊に點うつ者︀は有間敷に、我次第にしておけと、御意のうへ畏つ
て御前を罷立ければ、くだんの{{r|浪|らう}}人は、有事ならずして{{r|虛空|こくう}}にうせぬ。然間、元{{r|龜|き}}四年{{仮題|分注=1|癸|酉}}の暮に、勝
賴は遠江へ御出馬有而、久野、懸河へあてゝ、國中へ押出して、ほう火する。其寄天りう河の、上の
瀨をのり越而、濱松へはたらき、まごめ之河をへだてゝ、あしがるをして、其寄引取てかんざうの
瀨を越、やしろ山を越て、山なしへ出而、すくも田が原に陣を取給ふ。然所に、池田喜平次郞と云者︀、
博奕打のはうびきし成。然共、うき世になきすりきりなれば、ばくちは、やるせもなく打ちたくは
あれ共、し合に立るものなければ、取みなしとて、あひてもなければ、やるせもなく打たきまゝ
に、然者︀勝賴のすくも田が原に陣取而、御入之由を承候へば、忍び入而馬を盜み取而、ばくちを可
打とて、行ける所に、被見付て、四方へおひまはされ、頓而いけどられて、高手小手にいましめられ
{{仮題|頁=115}}
て、勝賴之御前へひつすゆる。勝賴は御覽じて、敵のもやうは何と有と被仰けれども、弱みを一つ不
申して强み斗を申ければ、引立而行、番をよくしておきてにがすな、頓而御せいばい可有とて、い
らせ給へば、いよ{{く}}つよくいましめけり。然所に勝賴はすわ之原へ御陣がへを被成而御越有而、
繩打を被成而城を取給ふ。然者︀せな殿、喜平次を御覽じて、あれは、某が古へ存知たるものなり、駿河
へほうかうに參し時、{{r|某|それがし}}目懸申たる者︀之儀にて御座候間、{{r|哀|あはれ}}{{r|某|それがし}}に御あづけ給候へと被申ければ、其儀
ならばあづけよとの給候へば、せな殿へわたしける。せな殿仰には、御身は昔寄之{{r|知音|ちいん}}なればあづか
り申成。さて又ちいんと云て、なわをかけておくことは、あづかりたるせんもなし。さらばなわを
ときて、我等が相伴をして、我等が陣之內をば、らく{{く}}とありき給へ。他之陣場へ行給ふな。然者︀
御身に昔目を懸申たる故にあづかりて、らくにおき申成。此故にても國へも行度は行給へ。ちかづき
故に我が一命を知行に相そへて、勝賴へ{{r|指|さし}}上申迄にて候へ。少もくるしからざるに、行度は行給へと仰
ければ、喜平次申、せな殿御なさけをわすれ申而おちゆく者︀ならば、我身のはぢはさておきぬ、國の
はぢをかき申間敷と申。心之內には前のごとく、なわをもかゝりて有ならば、何とぞしてなわをも
拔きて行べけれ共、せな殿になわをとかれ申候へば、にぐる事はならず、却而せな殿になわのうへに
なわをかけられたるとこそぞんじ候と、心の內におもひける所へ、やかたよりの御意に候。あづけお
くいけ取に、なわをかけ給ひて、渡し給へとて參ければ、喜平次心之內に思ひけるは、さて命ながら
へけるぞや。此程はせな殿にからしばりと云物にあひつるが、うれしやと思ひける處に、せな殿仰け
るは、此間之內にかけおちもし給はで、又渡し候へと仰被越候へば、めいわくなれ共是非に不及と被
仰而渡し給へば、喜平次も其名をゑたるものなれば、おどろくけしきもなく一禮して行ける。なわ取
うけ取而、おつ立而行、なわをつよくいましめて置。ねずの番の者︀六人ゐて、かわりていたりける所
に、喜平次申けるは、御身達はあまりこと{{ぐ}}敷ふぜいかな。いけどりと云事は、何方にも敵味方之
事なれば、{{r|互|たがひ}}に主之ほうかうなれば、にくきにあらざる事なれども、かほどに高手小手にいましめて
其上に鹽水をふきて、したへ足之付ざるやうにいましめて、其の故ねずの番をも給ふ。此のうへ我等
がにぐる事は此の世にてならざるていに候間、ねむたくはゆく{{く}}とね給へといへば、番之者︀申け
るは、げに{{く}}それもきこえたり。其上にげてゆかば、おし付打すつべし。さらばねよとて、臥して
大いびきかきければ、喜平次はしすましたりと心得而、高手小手のなはをはづして、番之者︀をあごみ
越而、はしり出而あわが嶽へとびあがりて、くら見さいがうゑ出而、濱松へ參りければ、手がら
成命のたすかりやうかなとぞ、御意被成けり。勝賴はすわの原の城を取給ひて引入給ふ。同東美濃、
岩むろの城をば、信長のおばごのもち給ふが、信長の御子、御房樣を養子被成けるが、信長へべつし
んをして、勝賴と一身して、秋山を引入而、秋山とふうふに被成、御房樣を、甲斐國へやり給ふ。其
歸りに勝賴は、あすけのくちへ、御はたらき有と申せば、上樣はあすけへ御陣立有。然共勝賴は其の
{{仮題|頁=116}}
寄引入給ふ。信長は御はら立而、岩むろへ押寄給ひて、城を責おとし給ひ、秋山をばいけ取給ひて、
磔にかけ給ふ。{{r|軍|ぐん}}兵どもをば二之丸へおひ入而、{{r|堄|しゝがき}}をゆひ、火を付而やきころし給ふ。おばごをば、
こまき山にて、御手打に被成けり。さて又天正二年{{仮題|分注=1|甲|戌}}四月、いぬいへ、腰兵粮にて、御はたらき有
而、ずいうんに、御{{r|旗|はた}}が立ければ、諸︀勢は、れうけ、ほりの內、和田之谷に陣取。折ふし大雨ふり
て大水出ければ、一兩日は何れも兵粮なくして迷惑したり。然共水も程なくひきおちければ、同六
日之日御陣も引のけさせ給ふ所に、御{{r|旗|はた}}本はみくら迄引とらせ給ふ。然る處に天野宮內右衞門け
た之鄕より出而、あとぜいにしきつてしたい付、たる山の城、かうめうの城より、これ等が先へまは
つて、田のおふくぼ村に出、{{r|鄕|がう}}人を相くわへて、{{r|此方|こゝ}}の{{r|嶺谷|みねたに}}、{{r|彼方|かしこ}}のをづる山さき、木かや之中よ
り、しかりげ、さるかわうつぼを付、しゝ矢をはめて、五人十人二十人三十人づつ、中へ出あとへ出
先へ出而、おもはぬ外之處にててつぽうをはなし、おごゑをあげけれ共、日のめも見えぬみ山之中な
れば、ふせぐ事もならず、殊更上はくもにそびへたる{{r|大|み}}山、下はがゝとしたるがん石のほそ道なれ
ば、あとよりくづれたるともなく、中よりくづれたる共なくして、田のおふくば村にてかへせば、{{r|深|み}}
山に入て見えず。のけば又出而付。然間、田のおふくぼ村にて、同年の四月六日にはいぐんする。各々
打死有り。ほり小太郞、鵜殿藤五郞、大久保勘七郞、おわらの金內、是等がしよ手に打死してより、其
ほか數多打死をしたり。御{{r|旗|はた}}本の心がけたる衆、あとへのこりて打死をしたり。上樣は、みくらにて
此由聞召、あとにててつぱうのおとが聞こえけるが、いかゞと思召所に、あとぜいがはいぐんと聞召
て、おどろかせ給ひて、引歸させ給へば、敵はちり{{ぐ}}に、味山へ入而見へざれば、是非に及ばせ給
はずして、御馬は天方迄入る。其時大久保七郞右衞門同心の杉浦久藏、手をおひてゐたるをみて、乘
りよせて飛んでおり、久藏手をおひたるか、是にのれとて引立てければ久藏がいふ、うつけたる馬之
おり處かな、我等とをりの者︀は、何程打死したるとてもくるしからず。大將をする者︀が、左樣に馬ば
なれる物か、八幡大菩薩のる間敷と云へば、しきだいは所によるぞ、早のれと云。久藏云けるは、我
御身をおろして、ころして、我此馬にのりていきても、ゑがとけぬ、とてものる間敷とてのらざれば、
ぢこくうつりてあしゝとて、七郞右衞門はのらばのれ、いやならば馬を捨てよとて打すてゝのきけれ
ば、小だま甚內が立歸而、七郞右衞門はのきたるなり。はやのれとてとつて引立てのせて、我は又、
はしり付申す。然間七郞右衞門には、兵藤彌助、小たま甚內、犬若と云小者︀と三人付。然る處に、
ほそみちのかけのはたをのきける處に、あとよりにぐる者︀が、さきへとをるとて、七郞右衞門を崖へ
突︀落す。三人の者︀共が付而飛ける處に、犬若があげはのてふの羽︀のさし物をもちたるが、すてけるに、
敵が是をとるを兵藤彌助が見て、はしりかゝりてかなぐりとる處を、わきなる敵が、彌助をけさがけ
にきりたふすを、七郞右衞門がとつ而歸して、二人ながらきりふせければ、また犬若がさし物を取而
もちてのく。然間奧平道文之ちやく子作州は、勝賴に、べつしんをして、御忠節︀を申給へば、長しの
{{仮題|頁=117}}
の城を出し給ひて、九八郞を頓而むこ殿になされんと仰ければ、信康之被仰樣には、存知もよらず、
我等が{{r|妹|いもと}}むこに、何とて九八郞を仕らん哉と、被仰ければ、さすがに、おしてもならせられ給はずし
て、信長へ被仰ければ、信長より被仰候は、尤信康之仰候儀承とゞけたり。然共忠節︀人之事、又は大
事之さかいめをあづけおき給ふ間、次郞三郞殿不肖を堪忍被成候ひて、家康にまかせられ候て、尤か
と存知候と被仰ければ、親達之被仰候間、何と成とも御存分次第と被仰ける間、さてこそ{{r|奧|おく}}平九八郞
方へ御越は入ける。
然處に、天正二年{{仮題|分注=1|甲|戌}}勝頼御出馬有而、高天神︀之城へ{{r|押|おし}}寄而、責させ給ふ處に、信長後づめと被成而、
御出馬有りければ、小笠原與八郞手がわりをして、ゐなりに成ければ、信長手をうしない給ひて、吉田
寄引歸らせ給ふ。然處に天正三年{{仮題|分注=1|乙|亥}}に、家康御{{r|普|ふ}}代久敷御中間に、大賀彌四郞と申者︀に、{{r|奧郡|おくごほり}}廿餘鄕
之代官を、御させ給ひて、何かに付而ふそく成事なく、富貴にくらすのみならず、あまりの榮華に
ほこりて、よしなき謀反をたくみて、御普代之御主をうち奉りて、岡崎の城を取て、我が城にせんと
くは立けり。然間小谷甚左衞門、倉地平左衞門、山田八藏を引入而、此事やす{{く}}と岡崎を取可申と
よく申合而、勝賴へ申入候は、是非共今度御手を取申、岡崎を奉取、家康御親子に御腹をさせ可申事
はれきぜん成。其いわれは、{{r|何何|いつなん}}時も、家康岡崎へいらせられ給ふ時は、我等御馬之御先に參而、上
樣御座被成候に御門ひらき給へ、大賀彌四郞成と申せば、うたがひもなく、御門をひらき申候間、然
者︀つくでまて御馬を被出給ひて、御先手の衆を二かしらも三かしらも、{{r|指|さし}}つかはされ候はゞ、其御
先に立而岡崎へ御供して、城へやす{{く}}と引入れ申者︀ならば、御城の內にて、次郞三郞信康樣をば、
打取可奉成。然者︀こと{{ぐ}}く家康へそむいて、勝賴へかうさん申而、御手に可付成。然時んば、家康
へ付可奉者︀共は、何れも少身者︀にて有者︀共、二百三百付申而あればとて、功をばなすべからず。其者︀
共も岡崎に女子をおきたれば、こと{{ぐ}}くおさへ取物ならば、其內も大方參而かうさんを可申、大久
保一るい共が、御敵を不申候筋め之者︀にて候間、可奉付、然共是も少身者︀どもなれば、是も功をなす
事はあらじ。殊更女子共はやはぎ河を越而、{{r|尾張|をはり}}を{{r|指|さし}}而おちゆくべし。然者︀河之はたに、小谷甚左衞
門と山田八藏が罷有事なれば、一人もとをさずして、めし取申者︀ならば、是も御手をとる事も候はん
か、然共是は不存候へ共、然共家康へ付可奉者︀は、百騎之內外にて可有候之間、然者︀濱松をあけて、
舟にて伊勢へのかせられ給ふべき、然らずは吉良へうつらせ給ひて、舟にて尾張へ御越被成候はんと
て、御とをり可被成、然者︀押寄而打奉、家康信康御親子樣之御しるしを、ねんじ原にかけ可申と、あ
り{{く}}と書付而、大賀彌四郞、倉地平左衞門、山田八藏、小谷甚左衞門判とかきとゞめ而、勝賴へ上
ければ、勝賴悅給ひ而、然者︀尤此事いそげとて、つく出筋へ、御出馬有りける處に、山田八藏つく{{ぐ}}
とあんじて、如此の儀ならば、御主を打奉らん事うたがひなし、然とても打奉る儀も成間敷なれば、
兎角に此儀におひて一味は成間敷と思ひて、此儀を申上、若御ふしんに思召候はゞ、我等がちやうだ
{{仮題|頁=118}}
いゑ、一兩人も御越被成而、御きかせ可被成候。此儀を{{r|內談|ないだん}}仕而きかせ申さんと申上ければ、尤と被仰
而、一兩人{{r|指|さし}}つかわされて、きかせられ給ひしに、れきぜん之儀成。大賀彌四郞は、是をば{{r|夢寤|ゆめうつゝ}}しらずし
て、女房にむかひて申けるは、我はむほんのたくみ、御主を打奉らんと申ければ、女房まことにもせずし
て、ぢやれけうしやにも云ふべき事をこそ云たるもよけれ、さやう成事を、いま{{く}}わ敷、きゝ度もなし
とてそばむけば、彌四郞重而申けるは、夢々いつはりにあらずと、{{r|實|まこと}}しがほに申ければ、其時女房おど
ろきて、げに{{く}}左樣成くわだてをたくみ給ふか、さても{{く}}天道のつきはて給ふ物哉、上樣の御か
げ雨山かうむりて、何かに付而とぼしき事はなくして、身をすぎ申事をさへ、天道おそろしく候へば、
一度は御ばつもあたり可申と思へば、御主樣の御事おろかにも思ひ奉らず、其故各々御普代久敷御侍衆
達さへ、我等がまねは成給はぬに、{{r|況哉|いはんや}}御身は御中間之身成を、か樣に奧郡廿餘鄕之代くわんを仰被
付候へば、何が御ふそくは有而御むほんをくわ立被申候哉、其儀を思ひとゞまり給へ、然らずんば、
我々子共共にさしころして、其故にてむほんをくわ立給へ、かならず御主樣之御ばちは、たちま
ちにかうむりて、御身のはても此世から、かしやくせられて、辛苦をうけてはて給ふべし。わが身
なども{{r|烙磔付|いりはりつけ}}にもあがりて、うき名をながさんも目のまへなれば、只いまさしころし給へと申けれ
ば、其時彌四郞申は、女之身としてしらざる事を申物かな。其方をば此御城へうつして、御{{r|臺|だい}}といわ
せんと云ければ、女房云は、若も御{{r|臺|だい}}といわれゝば祝︀言だが、いはれぬ時の不祝︀言はの、御身きゝ給
へ。佛法は實がいればかたぶくと云ふ、人間は實がいれば{{r|反|そ}}ると云は、御身之事成とて、其後物も
いはず。然る間大賀彌四郞をば御城にて召取、倉地平左衞門はさとり申に付、はなち討に成、小谷甚
左衞門は、遠江之國こくれうの鄕中にて、服部半藏がいけ取んとしける處に、天りう河へとび入而、
およぎて二俣之城へゆき、それ寄かい之國へゆく。彌四郞をば高手小手にいましめ、{{r|鋜|ほだし}}をはかせて、
大久保七郞右衞門に仰被付而、馬之頭のかたへうしろをして、あとのかたへまへをして、頸がねを
はめて、あとわにゆい付而、ほだしを兩之鞍骨に搦み付て、むほん之時のためにとて、したてたるさ
し物をさゝせて、がく、かね、ふへ、たいこにて打はやして、濱松へつれてゆく。然る處にねんし原に、
女房子共、五人はり付にかけておく處を、彌四郞を引とをして、やりすごして見せければ、殊之外に
わるびれて見えけるが、何とか思ひけん、かほを少もちあげて、五人之者︀を見て、{{r|汝|なんぢ}}共は先へゆきた
るか、目出度事かな、我等も跡寄行べきと申しければ、見物之衆わらひける。然間、道々はやして、
人ににくませ、濱松內を引まわして、岡崎へ引歸而牢舍させておく。さて又勝賴は御出馬有けれ共、
此事あらはれて、調儀ちがひければ、其寄押出し而、二れんぎへはたらき給ふ。其時信康之御馬は、
山中之法藏寺に立而、御陣之とらせられ給ふ。家康之御{{r|旗|はた}}は、吉田に立てゝ、はぢかみ原にてはげは
げ敷、あしがる有而、勝賴は其寄引入給ひて、ながしのへ{{r|偣|よせかくる}}。{{r|則|すなはち}}城を{{r|責|せめ}}させ給へば、家康、信康、
兩{{r|旗|はた}}にて野田へ押寄させ給ふ。然間、大賀彌四郞をば、岡崎之辻にあなをほり、頸板をはめ、十の指
{{仮題|頁=119}}
をきり、目のさきにならべ、あしの大すぢをきりて、ほりいけ、竹鋸と、鐵鋸とを、相そへておきけ
れば、とをりゆきの者︀共が、さても{{く}}、御主樣の御ばちあたりかな、にくきやつばらめかなとて、の
こぎりを取かへ{{く}}、ひきけるほどに、一日之內に引ころす。然る所に、信長御出馬有而、先手之衆
は、はややわた、市之宮、ほん野が原に陣をとれば、城之介殿は、岡崎へ付かせ給へば、信長は{{r|池|ち}}鯉
鮒へ付せ給ふ。然共、長しのゝ城は、きつくせめられて、はや殊之外つまりければ、忍び而、鳥居强
右衞門と申者︀出して、信長は御出馬か、見て參れとて出す。城寄はやす{{く}}と出而、此由を家康へ申
上ければ、信長へ{{r|指|さし}}被越ければ、信長御{{r|悅|よろこび}}被成而、御出馬之由仰つかはされければ、强右衞門、おう
けを申而罷立而、武田之逍遙軒の、責口へゆき、竹たばをかづきて、早かけいらんと見合ける處に、
見出されて召とられ、勝賴之御前へ引出す。勝賴は聞召、其儀ならば、{{r|汝|なんぢ}}が命はたすけ{{r|置|おき}}、國へ召つ
れ。過分に地行を可出、然者︀はり付にかけて城へ見せべき、其時ちかづき共をよび出して、信長は不
出候間、城を渡せと申候へ、其時汝をもおろさんと云ければ、强右衞門申は、忝奉存候命さへ御たす
け候はゞ、何たる事を成共可申候に、あまつさへ御地行を可被下と、御意之候へば、目出度事何かあ
らんや、はや{{く}}城ちかくに、はた物にあげさせ給へと申ければ、其ごとく城ちかくに、かけければ、
城中之衆出而、聞給へ、鳥居强右衞門こそ、しのびて入とて召とられ、如此に成而候へと申ければ、
こと{{ぐ}}出而强右衞門かと云。其時、强右衞門申けるは、信長は出させ給はぬと申せ、命を{{r|扶|たすけ}}其故
地行をくれんとは申が、信長は岡崎迄御出馬有ぞ、城之介殿はやわた迄御出馬成。先手は、市之宮本
野が原に、まん{{く}}と陣取而有。家康信康は野田へうつらせ給ひて有。城けんごにもち給へ。三日之
內に御うんをひらかせ給ふべしと、此由を奧平作州と、同九八郞殿と、親子の人へよく申せと云ひけ
れば、却つて敵のつよみを云やつなれば、はやくとゞめをさせとて、とゞめをぞさしける。然處に、
坂井左衞門尉、信長之御前に參而申けるは、ながしのゝかさに、鳶が巢と申處之御座候を、はる{{ぐ}}
と南へまわりて取申物ならば、{{r|則|すなはち}}城と入合可申。可然と思召候はゞ、三河之國衆を同道申候へ而、{{r|某|それがし}}
參可申と被申ければ、信長{{r|悅|よろこび}}給ひ、尤の儀成、早々{{r|急|いそぎ}}給へ。左衞門尉は日比聞及たる者︀なれば、其ご
とく成。{{r|目眼|まなこ}}が十付而見えけりと被仰ければ、左衞門尉は罷出、家康へ此由申、各々同道してとびが
すへまわりて、頓而おひくづす。其時松平紀伊守、同天野西次郞、同戶田之半平、其外之衆おほく{{r|鑓|やり}}
が合。世上にては、戶田之牛平が{{r|鑓|やり}}之事をさたしたるは、半平はさし物をさしたるゆゑ成。天野西次
郞は、半平寄先なれ共、さし物をさゝざる、づつぼう武者︀なれば、せじやうにては、半平程はさた
はなけ共、半平寄西次郞がゝさき成。然間、大正三年{{仮題|分注=1|乙|亥}}五月廿一日、信長、城之介殿親子兩{{r|旗|はた}}、家康、
信康親子兩旗にて、十萬餘にてあるみ原へ押出し、谷を前にあてゝ、ぢやうぶに柵を付而待ちかけ給
ふ所に、勝賴は{{r|纔|わづか}}二萬餘にてたき河之一つ橋之{{r|絕所|せつしよ}}を越、{{r|賸|あまつさえ}}わづか橋を越てから一騎打の處を、一里半越て
押{{r|寄|よせ}}而之合戰なり。然共十萬餘之衆は、柵の內を出でずして、あしがる計出し而たゝかひけるに、信
{{仮題|頁=120}}
長之手へは作ぎわ迄おい付而、其寄は引而入。家康之手は大久保七郞右衞門同次右衞門此兄弟之者︀を
{{r|指|さし}}つかわされければ、兄弟之者︀共は、敵味方之間に{{r|亂|みだれ}}入而、敵かゝれば引、敵のけばかかり、おゝき人數
を二人之ざいに付而、とつてままはしければ、信長是を御覽じて、家康之手まへにて、金の上羽︀の蝶のは
と、あさぎのこくもちのさし物は、敵かと見れば味方、又味方かと見れば敵也。參而敵か味方か見て參
れと仰ければ、家康へ參而、此由かくと申ければ、いや{{く}}敵にはあらず、我等が普代久敷者︀、金之あげ
はのてふのはゝ、大久保七郞右衞門と申而こくもちが兄にて候。あさぎのこくもちは、大久保次右衞門
と申而、てふのはが弟にて候と仰ければ、{{r|急|いそぎ}}立歸此由申ければ、信長聞召而さても家康はよき者︀をもた
れたり。我はかれらほどの者︀をばもたぬぞ。此者︀共はよき膏藥にて有り。敵にべつたりと付而、はな
れぬと仰けり。然間勝賴も、土屋平八郞、內藤修理、山方三郞兵衞、馬場美濃守、さなだ源太左衞門など
云度々の合戰に合付而、其名を得たる衆が、入かへ{{く}}おもてもふらず{{r|責|せめ}}たゝかいて{{r|黜|しりぞく}}事なき處に、此
衆は雨のあしの如く成、てつぽうにあたりて、場もさらず打死をしければ、勝賴も是を御覽じて、是
非もなき馬場美濃と、山方三郞兵衞が打死之うへは、合戰は見えたりと思召處に、其外こと{{ぐ}}くむ
ねとの{{r|兵|つはもの}}打死をしたりければ、{{r|則|すなはち}}{{r|亂|みだれ}}而はいぐんする。然共勝賴は無何事引のけさせ給ふ。是寄{{r|璅|つめいり}}給
ふならば、かい之國迄おさめさせ給ふべきに、奧平作州同九八郞を召出給ひ而、今度はひるいなき
城をもち給ふ事、天下にかくれなき其おぼへ、ばくたい成と御かん其かへもなし。大久保七郞右衞門、
同次右衞門兄弟之者︀共を召出給ひ而、さて{{く}}今度之武者︀づかいひるいなし。{{r|汝|なんぢ}}共がかけ引ゆへ、
陣にかちたり。汝共程成者︀を我はもたぬと被仰而、殊外御かん成。然間其寄引入給へば、家康も頓而
今度之御禮と被成而、あづちへ御參府あり。其時御供之衆はしらずに伺候して有所へ、信長立出させ
給ひ而、髯はこぬかと被仰ければ、其時ゑ原孫三郞が罷出ければ、信長之仰に、いや{{く}}ながしのに
てのひげが事と被仰ければ、七郞右衞門は御供にあらざれば、大久保次右衞門罷出ければ、其時さて
汝が事にて有。さて{{く}}ながしのにてのはしりまい、手がら云に不及、汝共程の者︀を我はもたぬ。今
度は辛勞をしたると被仰而、御ふくを被下ければ、次右衞門は時の面目はどこして罷立、家康其寄御歸
被成而、同亥の年{{r|二俣|ふたまた}}へ{{r|押寄|おしよせ}}させ給ひて、びしやもんどう、戶ば山、みな原、わたが島に取出を被成
給ふ。二俣を大久保七郞右衞門に被下候ゆへ、みな原之取出に有。然處に高明の城へ押寄させ給ふ。
大手の二王どうぐちへ、本田平八、榊原小平太、其外押寄けり。御{{r|旗|はた}}本は{{r|橫|よこ}}河ゑうつらせ給ひて、か
がみ山へ押上させ給ひ、其寄城へ{{r|璅|つめいる}}程に、城にはあさいなの又太郞が有けるが、かうさんをこひけれ
ば、命をたすけてやり給ふ。同年二俣も落城成。
然る處に天正四年七月日、いぬゐへ御はたらき有而、たる山の城を責取、其寄かつさかへ押寄せ給へ
ば、しほ坂を持ちて入立ざれば、大久保七郞右衞門に石が{{r|嶺|みね}}へあがりて、かさ寄も追ひ崩せと御意之
候へば、おうけを申而七郞右衞門石きりへうつりければ、天野宮內右衞門かなはじと思ひ而、しほざ
{{仮題|頁=121}}
かとかつさかをあけて、しゝがはなへ、うつりて引のきけり。大久保七郞右衞門は、天正三年{{仮題|分注=1|乙|亥}}寄同
天正九年{{仮題|分注=1|辛|巳}}年迄、二俣、高明、入手をもちて、境めに有りて、日夜無𨻶山野に臥してかせぎけり。
さて又、天正五年{{仮題|分注=1|丁|丑}}に、すはの原の城を責させ給ひ而、頓而責取給ふ。其寄小山之城を押寄而責させ
給ふ處に、勝賴は{{r|後|ご}}づめと被成而、長しのにて打死の{{r|跡嗣|あとつぎ}}之、十二三寄うへの者︀、又はしゆつけおち
などを引つれて、御出馬ありてはやおほ井河を、一そなひ二そなひ越ければ、城をまきほぐして、
引のき給ふ時、いらうさき迄は、敵にむかわせ給ひし程は、信康何共不被仰してのかせられ給ふが、
いらうさきより敵をあとへなす時は、信康之仰には、是迄は敵にむかひ申なればこそ、御先へは參た
り。是寄は敵をあとにして引のき申せば、先上樣のかせられ給へ。何方にか親をあとにおき申而、子
の身として、先へのく事の御座可有哉と被仰ければ、大殿之御諚には、せがれのゆわれざる事を申者︀
哉。とく{{く}}のき候へと、千度百度、{{r|押|お}}しつおされつ仰られけれども、つひに信康はのかせられ給は
ねば、大殿之まけさせられて、引のかせ給へば、信康は御あとをしづ{{く}}と引のかせられ給へば、勝
賴も河をば越給はず、河を越たる者︀も引とり、上樣もすはの原城へいらせ給ひ而、其寄御馬は入。{{r|丑|うし}}
之年信康之{{r|御前|ごぜん}}樣寄、信康をさゝへさせ給ひて、十二ヶ條かき立被成而、坂井左衞門督にもたせたま
ひて、信長へつかわし給ふ。信長左衞門督を引むけて、まきものをひらき給ひ、一々に是はいかゞと
御たづね候へば、左衞門督中々存知申と申ければ、又是はと被仰ければ、其儀も存知申と申ければ、
信長十ヶ所ひらき給ひ、一々に御尋ありければ、十ヶ所ながら存知申と申ければ、信長二ヶ所をば、
ひらかせ給はで、家之おとながこと{{ぐ}}く存知申故はうたがひなし、此分ならばとても物には成間敷
候間、腹をきらせ給へと、家康へ可被申と仰ければ、左衞門督此由おうけを申而、罷歸時、岡崎へは
よらずして、すぐに濱松へとをりければ、御利根成殿に候へば、頓而御心得被成而、是非に不及と被
仰けり。家康へ此由を左衞門督が申上ければ、此由を聞召而、是非に不及次第成、信長に{{r|恨|うらみ}}はなし、
高きもいやしきも子の可愛き事は同前成に、十ヶ所迄ひらき給ひ而、一々尋給ひしに、しらざる由申
候はゞ、信長もか樣には仰間敷を、一々存知申と申たるによつて、か樣に被仰候成。別之子細にあ
らず、三郞をば左衞門督がさゝゑによつて、腹をきらする迄、我も大敵をかゝゑて、信長をうしろに
あてゝ有故は、信長にそむきて成がたければ、是非に不及と被仰ける處に、平岩七之助罷出て申ける
は、聊爾に御腹をきらせ御申給ひては、かならず御{{r|後悔︀|こうくわい}}可被成。然者︀{{r|某|それがし}}を御もりに付奉り候へば、何事
をも某之いたづらに被成候へて、某が頸をとらせ給ひて、信長へ{{r|急指|いそぎさし}}被上給ば、其時誰ぞ御賴被成而、
家康も{{r|獨|ひとり}}子にて御座候間、ふびんに可被存と申上候はゞ、其時は信長も、某が頸之參ると聞召給は
ば、疑團のやはらぐ事も可{{レ}}有に、兎角に某が頸を一時もはやく指つかわされ給へと思ひ入而、重々
指つめ{{く}}申上ければ、七之助が云處尤成、忝こそ候へ、能つく案じても見よ、我も國にはゞかる程の
{{r|獨|ひとり}}子をもちて、殊更我あとをつがせんと思ひて有に、か樣に先立申さんこと、日本之はじと云、いか
{{仮題|頁=122}}
計めいわくこれにすぎず、然るとは云共勝賴と云大敵をかゝへて有なれば、信長をうしろにあてねば
かなはざる事なれば、信長にそむきてはならず、其故{{r|汝|なんぢ}}をきりて{{r|頸|くび}}をもたせてやりて、三郞が命さへ
ながらへば、汝が命をもらはんずれ共、左衞門督がさゝへの故は、何としても成間敷に、汝までなく
しては上がうへの恥辱成。然者︀三郞をふびんなれ共、岡崎を出せと仰あつて、岡崎を御出被成而、大
{{r|濱|はま}}へ御越有而、其寄ほりゑの城へ御越被成而、又其寄二{{r|俣|また}}の城へ御越被成而、天方山城と{{r|服部|はつとり}}半藏を
仰被付而、天正六年{{仮題|分注=1|戊|寅}}御年二十にて十五日に御腹を被成けり。何たる御とがもなけれども、御前樣は
信長の御{{r|娘|むすめ}}にておはしまし給ふ。其故早御{{r|姬君|ひめぎみ}}も、二人出來させ給へ共、御不合にも有つるが、それ
とても御子も有中と申、御ふうふの御中なれば、御子の御ためと申、人口と申、方々いか樣に御さゝ
へ可有にはあらざる御事なれ共、さりとてはむごき御仕合と、申さぬ人はなかりけり。それのみなら
ず、坂井左衞門督は御家のおとなと申、御普代久敷御主の候事を、御前樣に見かへ奉りて、御前と一
身して、よくも{{く}}くちを{{r|指|さし}}上而さゝへ奉りたりと、各々上下共に申而にくみけれども、信長へおそれ
をなして讐はならず、さてもをしき御事かな、これ程の殿は又出がたし。晝夜共に武邊之者︀を召寄ら
れ給ひ而、武邊の御ぞうたん計成、其外には御馬と御{{r|鷹|たか}}之御事成。よく{{く}}御器︀用にも御座候へばこ
そ、御年にもたらせられ給はね共、被仰し御事を後之世迄も、三郞樣之如此被仰しとさたをもする、
人々もをしき事とさたしたり。家康も御子ながらも、御きやうと申、さすが御親之御身にもたせられ給
ふ御武邊をば、のこさず御身にもたせられて出させ給へば、御をしみ數々に思召候へども、其頃信
長にしたがはせられで、かなはぬ御事なれば、是非に不及して、御腹を御させ給ふなり。上下萬民
こゑを引而、かなしまざるはなし。信康之御そく女二人おはしまし給ふ成。然間天正五年{{仮題|分注=1|丁|丑}}に勝賴よ
こすかへ、御はたらき成されける。家康はしば原へ出させ給ひて、御陣之はらせられ給ふ所に、勝賴
之はたらき給ふ由を聞召而、よこすかへお{{r|旗|はた}}をよせさせ給ふ。{{r|旣|すで}}に合戰も有かと見へけれ共、勝賴も
かまひもなく引とらせ給へば事出來なし。其寄上樣もしば原へ御引被成而、御陣之はらせ給ひて、勝
賴はまわりて、懸河之筋へ出るかとて、大久保七郞右衞門と本田豐後守をばくつべへ指越被成而、陣
をとらせ給ふ成。然共勝賴は、よこすか寄引入給ふなり。同年に田中へ御はたらき成され而、とうべ
のしたに御陣之とらせ給ふ。勝賴はきせ河へ出でて、ほうでうの{{r|氏政|うぢまさ}}と、合陣をとらせ給ひしが、
家康のとうべのしたに、御陣を取せ給ふ由を聞召、是は家康をゑつぼへ引入たり。其儀ならば、うつ
の谷をゆきて、田中之城にうつりて、あとを取きり而、一合戰してはたすべしとて、氏政へつかいを
被立、家康山西へはたらき、とうべに陣取而有由承候間、明日は爰元を引はらい候へて、家康へむか
ひ可申間、御したい被成候はゞ、其御心得有而御付可有。また合戰を被成んと思召たまはゞ、尤之御
事可仕と仰被入而、合陣をはらひたまひて、きせ河より藤河へ押寄給へば、藤河が事之外出ければ、
こす事もならざる處に、是をば夢にも、家康御存知なき所へ、大久保七郞右衞門內に、島孫左衞門と
{{仮題|頁=123}}
申者︀の甥に越後と申出家、府中寄{{r|走|はしり}}入而、此由を申上ければ、取あゑず引のき給ふ。石川伯耆にしつ
ばらいを仰被付けり。然處に、もち舟寄出て付ける處を、とつて歸而、山へ{{r|追|おひあ}}上げてこと{{ぐ}}く打取。
其時松平石見、酒井備後などをほめたり。其外にもあれ共、まづ彼等が事を云たり。其寄おほい河を
引越而、すわの原城へいらせ給へば、勝賴もおつつけて、田中之城へうつらせ給へども、おそきゆゑ、
無{{二}}何事も{{一}}。其年高天神︀にむかはせ給ひて、大阪山に取出を被成けり。おがさの取出と二つあれ共、おが
さ山は此前取給ふ。然間天正七年{{仮題|分注=1|己|卯}}の春、田中へ御はたらき有而、苗を薙ぎて引給ふ。同年高天神︀の
取出、中村に二つ、同しゝがはな、同なふが坂に取出を被成ければ、おがさ、大阪、中村に二つ、しゝが
はな、なふが坂以上六つ取出をとらせ給ふ。然間天正八年{{仮題|分注=1|庚|辰}}の八月寄高天神︀へ取寄給ひ而、四方にふ
かくひろくほりをほらせ、たかどいをつき、たかべいをかけ、土へいには付もがりをゆひ、ほりむか
ひには、七重八重に大柵を付させ、一間に侍一人づつの御手あてを被成、きつても出ば、其上に人を
まし給ふ御手だてを被成ければ、城中寄は鳥もかよはぬ計なり。うしろには後づめのためと被成而、
ひろくふかく、大ほりをほらせ給ひ而、城之ごとくに被成けれ共、何としてこもり申候哉。さぎ坂甚
大夫と申者︀が入而、又出たると申たり。然るとは申せ共、林之谷と申は、山高くして可出樣もなし、
たとへ出たると云とも、行さきは國中其外、おがさ、懸河、すはの原、南は大阪、よこすかには上樣
之御座候へば、出て行べきかたもなし。然間陣之可取らいもなければ、大久保七郞右衞門うけとりな
れ共、はるかにへだたりて、とほくに陣を取、上寄之御諚には、とても林之谷へ出る事はあらじ、然
者︀時の番之者︀を、六人づつ{{r|指置|さしおき}}申せと御諚成。然間、天正九年{{仮題|分注=1|辛|巳}}三月廿二日之夜之四つ時分に、ふた
てにわけてきつて出る。あすけ、取原、石河長{{r|門|と}}守之くちは、入江の樣成ところなれば、城寄是を、
よわみと見て、きつて出ければ、間はほりなれば、それへこと{{ぐ}}くかけ入ければ、三方より指はさ
みて打ける間、ほりいつぱい打ころして、夜明けて{{r|頸|くび}}をば取る。岡邊丹波と、橫田甚五郞者︀、林之
谷へ、大久保七郞右衞門手へ出る。番之者︀六人指越候へとは御意なれ共、七郞右衞門は大久保平助に
相そへて、こゝはの者︀を十九騎指越ける。然間、城の大將にて有ける、岡邊丹波をば、平助が太刀付
て、寄子の本田主水にうたせけり。丹波となのりたらば、より子にはうたせまじけれ共、なのらぬう
へなり。其場にてこと{{ぐ}}く、五三人づつは打けれども、せいきもきれて{{r|皆|みな}}打とめることはならず。
然處に、七郞右衞門所より、はやすけてきりけれ共、はやことおはりぬ。然處に、石河長門守、あす
け、取原の手にて打もらされ共が、又まつくろにきりて、水野日向守手をやぶりけるが、其時は日向
守は年若くして、御{{r|旗|はた}}本につめられて、名代として、水野太郞作と、村越與惣左衞門がいたりしが、
出而ふせがす。七郞右衞門とならびなれば、すけ合之者︀共かけきたれば、ふせぎておふかた討取。さ
てまた天正十年{{仮題|分注=1|壬|午}}之春、木曾勝賴へ手がはりをして、信長を引ければ、信長親子は高遠へ御出馬有り
て、高とうの城を責取給ふ。勝賴はすはへ御出馬有けるが、高遠の落城之由を聞召而、すはよりかい
{{仮題|頁=124}}
之國へ引入り給へば、はや御普代之衆もこと{{ぐ}}く、おちちりてなかりければ、いかゞせんと思召處
に、有合衆も御供をせんか、何とせんとてさゝめきけり。小宮山內前はおくにて召つかわれ申せ共、
御意にそむきて有ける。小山田將監も內前と兩天成が、是はかわらずしゆつとう成けるが、勝賴を見
捨て奉りて早落行く。其時小宮山弟に申けるは、我は御勘氣をかうむると申共、我先祖︀御代々へ御無
沙汰なき筋め之者︀なれば、此度御供申而腹をきるべきと申ければ、弟之又七郞も、我も是非共に御供
せんと申せば、內前申樣は、勝賴之御情忝なくて御供申にあらばこそ、我がせんぞの御忠節︀、又は御
{{r|普|ふ}}代之筋めなれば、{{r|祖︀父|をうぢ}}、親、先{{r|祖︀|ぞ}}の名をくたさじとのためにお供を申成。{{r|汝|なんぢ}}は命ながらへて、親をかこ
ち、又は我等が女子をかこちて、{{r|骸|かばね}}のうへのはぢをかゝざる樣に賴入成とて、親又は女子を弟にあづ
けおきて、勝賴の御前に參、我は日比御勘氣をかうむるとは申せ共、是非共御供可仕、御ゆるされ給へ。
然とは申せ共、我等が五しやくにたらざる身をもちかね申たる事之御座候。それをいかにと申に、君
之御{{r|眼前|がんぜん}}をちがへじと仕候へば、我が{{r|先祖︀|せんぞ}}の御忠節︀又は御{{r|普代|ふだい}}之御內之者︀之かいもなし。又{{r|先祖︀|せんぞ}}の御
ちうせつを申立御普代之御主樣之御用立御供を申せば、{{r|君|きみ}}之御{{r|眼前|がんぜん}}をちがい申、其をいかにと申上候
に、おなじごとくに、召つかはされ候處に、某をば御用にも罷立間敷と思召而、御かんをかうむらせ給
ふ。小山田將監には御心をおかれず、御用にもたゝんと思召而、御ひざもと近く召つかわされ申將監は、
欠落ち仕候處に、又御用にも罷立間敷と思召候內前めが、御最後に罷出、おそれながら御直談に御勘
當御赦免︀之御わび事を申上而、御供仕而腹をきり申候事は、さて日比の御{{r|眼|がん}}りきはちがい不申哉。
然共先祖︀の御ちうせつを立、御普代之御主樣之御さい後の御供こそ、何よりもつて目出度とて御供を
こそしたりけり。扨又武田之{{r|梅︀雪|ばいせつ}}も勝賴之ためには{{r|姉婿|あねむこ}}にて有りけるが、府中寄御{{r|前|ぜん}}をぬすみ出して
下山へ引のけ給ひ而、勝賴にぎやくしんをし給へば、いよ{{く}}何れも勝賴をすてゝかけおちをしたり。
家康は駿河よりもいらせ給へば、田中之城を、依田右衞門督がもつ。まりこの城をやしろ左衞門がも
つ。とうべの城をば朝比奈がもつ。久のの城をば寄合にもつ。あな山は御味方に成たるとは申せ共、未ゑ
じり之城をもちていたる間、此城々をおさめて蒲原にてあな山とたいめん有りて、あな山を押立給ひ
て市河へ御付有而御陣取せ給へば、信長はすわに御陣之取せ給へば、先手は新府に付。家康は道々之
城々に御𨻶をつくし給ふ。それのみならず道之程も岐阜と濱松をくらぶれば、濱松からは三日ほども
遠からんに寄而、すこしおそくいらせ給ふ成。勝賴は早こと{{ぐ}}く御內之衆もちり{{ぐ}}に、主をすて
てかけおちをしたりければ、{{r|纔|わづか}}五十騎三十騎之ていにならせ給ひて、新{{r|府|ふ}}を天正十年{{仮題|分注=1|壬|午}}三月三日に、御
前を引つれさせ給ひ而、出させ給ひ、{{r|郡內|ぐんない}}の小山田方へ御越有らんとて、小山田八左衞門と云者︀を先
樣指つかわせ給へば、小山田も心がわりをしてよせ奉らざれば、八左衞門も歸りこず。其寄只今迄御
供したる者︀供も、ちり{{ぐ}}に成而、早五騎十騎之體にならせ給ひ而、天目山へ入せ給はんと被成けれ
ば、てんもく山へは御書代久數{{r|甘利|あまり}}甚五郞と大熊新右衞門が婚舅、先に入而手がわりをして、矢てつ
{{仮題|頁=125}}
ぱうを出していかけ打かけければ、かなわせ給はで、御前御曹子ともに河原に{{r|敷皮|しきがは}}をしかせてやすら
わせ給ひける處に、あとより程なく敵がおひかけければ、土屋惣藏指むかひける所に、跡邊尾張守は
爰をはづしておちゆくを、惣藏是を見て尾張は今にいたつて、何方へおちゆくぞとて、能つ彎いては
なしければ、尾張もうんやつきけん、土屋が矢がはしりわたつて、まつたゞなかをいとおしければ、
馬よりしたへおちければ、よせくる者︀が{{r|卽|すなはち}}{{r|頸|くび}}を取、とてもの{{r|黃泉|よみぢ}}ならば花々と勝賴之御供をするなら
ば、土屋同前に其名をあげて、名をかうたいにのこすべきを、おなじよみぢと申ながら、普代之主の
せんどをはづして、其場をかけおちして、土屋に射ころされ申事を、にくまぬ者︀はなし。土屋はそれ
寄矢束ねといて押みだし、さし取引つめさん{{ぐ}}にいてまわり、おゝくの敵をほろぼしてとつて歸、
御前と御そばの女房達に御いとまをまいらせ給ひ而、勝賴と御ざうしの御かいしやく申而、其身も腹
十文字にきりて、死出三途の御供申たる土屋惣藏が有樣、上古もいまも有がたしとほめぬ者︀はなし。
其後に勝賴御親子之御しるしを、信長之御目にかけければ、信長御覽じて日本にかくれなき弓取なれ
共、運がつきさせ給ひて、かくならせ給ふ物かなと被仰けり。さて信長は國のしおきを被成而、上野
をば瀧川伊豫守に被下、かい之國をば河しり與兵衞に被下、駿河をば家康へつかわされて、富士一見
と被仰而、女坂かしわ城をこゑさせ給ひ而、駿河へ御出有而、根方をとおらせ給ひ、遠江三河へ出さ
せられて御歸國成。然間家康も今度之御禮と被成、あづちへ御座被成候。信長は家康と打つれ{{r|都︀|みやこ}}ゑの
ぼらせ給ふ。信長之仰には、家康は堺へ御越有而、さかいをけんぶつ被成候へよと仰けるによつて、
さかいへ御越被成ける。然處にあけち日向守は、信長之取立之者︀にて有けるが、丹波を給はりて有し
が、にはかにぎやくしんをくわ立、丹波寄夜づめにして、本能寺へ押寄而、信長に御腹をさせ申。信
長も出させ給ひ而、城之介がべつしんかと被仰ければ、森之お覽が申、あけちがべつしんと見へ申と
申せば、さてはあけちめが心がわりかと被仰候處を、あけちがらうどうが參りて一鑓つき奉れば、其
寄おくへ引入給ふ。お覽は突︀きて出而、ひるいなくはたらき而打死をして御供を申。早火をかけて信
長はやけ死に給ふ。小田之九右衞門ふくずみをはじめとしてかけけるが、かけもあわせずしてかなわ
ざれば、城之介殿へこもる。野村三十郞は、こもる事ならざれば追腹をきる。然處に信長に御腹をさ
せ申而、又城之介殿へ押寄ける。小田之九右衞門ふくづみをはじめとして、こゝわの者︀共百餘こもり
ければ、城之介殿にては火花をちらしてたゝかいて、城之介殿をはじめまいらせ而、こと{{ぐ}}く打じ
にをしたり。小田之源五殿と山之內修理は{{r|狭|さま}}をくぐる、其寄小田之有樂に成。家康は此由をさかいに
て聞召ければ、早都︀へ御越はならせられ給はで、伊賀之國へかゝらせ給ひ而のかせられ給ふ。然處に
信長伊賀之國をきりとらせ給ひて、なでぎりにして國々へ落ちちりたる者︀迄も、引寄々々御せいばい
を被成ける時、三河へおち來りて、家康を奉賴たる者︀を一人も御せいばいなくして、御扶持被成ける
間、國に打もらされて有者︀が忝奉存而、此時御恩をおくり申さではとて、送り奉る成。あな山梅︀雪は家
{{仮題|頁=126}}
康をうたがひ奉りて、御あとにさがりておはしましける間、物取共が打ころす。家康へ付奉りてのき
給はゞ、何のさおいも有間敷に、付奉らせ給はざるこそ不運成。伊賀地を出させ給ひて、しろこ寄御
舟に召而、大野へあがらせ給ふ由聞きて、各御むかひに參而岡崎へ供申。其より本田百助は河しり與
兵衞と知音之事なれば、いそぎ參而其元に一揆もおこる物ならば、御かせい可被成と仰つかわされけ
れば、河しりも忝なきと申せ共、百助は一揆をおこして我等を打可申とて來りたると思ひて、馳走し
て其後蚊帳をつりてふさせて、河しりは長刀をもつて來りてかや之つりてをきつておとして、其儘つ
きころしければ一揆共此由聞寄も、四方寄押寄而河しりをも打ころす。然處に大須賀五郞左衞門と、
岡部の次郞右衞門、穴山內之者︀共を指つかわし給へば、あな山衆と岡部次郞右衞門は古府中へ付、大
すか五郞左衞門は市河にいたり、然ども爰{{r|彼方|かしこ}}一揆共にてしづまらざる所へ、大久保七郞右衞門{{r|婆|うば}}口
へ付たる由を、五郞左衞門も聞而、さては七郞右衞門が付たるが、今は心安とて{{r|太息|おほいき}}をつきける處に、
石河長門本田豐後親子も付たると申ければ、大方一揆もしづまりけり。然間、大すか五郞左、大久保
七郞右衞門、本田豐後親子、石河長門、岡部次郞右衞門、あな山衆、若見こ迄押出す。然る處に七郞
右衞門方迄六河衆、おび、つがね衆かけよりて先懸けをする。然る間御出馬程{{r|近|ちか}}ければ、此五六手之衆
はすわへ押寄ける。大久保七郞右衞門さいかくにて、すわをも引付けり。いなへは大{{r|草|くさ}}と、ちくを、
是も七郞右衞門が御意を得而、本{{r|領|りやう}}を出し而引付けり。然間{{r|下|しも}}ぢやうをも、七郞右衞門が引付けり。よ
だ右衞門は二俣之城を七郞右衞門に渡しける。其{{r|由緖|ゆいせう}}をもつて、田中之城をも大久保七郞右衞門に渡
さんと申而、七郞右衞門に渡して信濃へ行けるが、信濃もみだれて早其儀もならずして、兩度之ちな
みをもつて、七郞右衞門を賴而二俣へおちかくれ而來るを、七郞右衞門が此由を御意をうけければ、
信長へ隱しておくべき由御意に候へば、二俣にかくしおく。七郞右衞門申上けるは、此時御用に罷可
立候へば、よだ右衞門に本{{r|領|りやう}}を被下候へ而、指被越候はゞ普代之者︀共も不殘罷可出候間、是寄も諸︀手
寄も五騎十騎づつ相くわへられ、甲州先鋒を相そへられて、其故しばた七九郞を御勘氣をかうむりて
罷在儀に御座候へば、此度御赦され被成て、此者︀共の{{r|將|せう}}に被成て指被越候はゞ、作之郡は相違なく御
手に可入。其故よき小屋をもち申つるが、其小屋に普代の者︀共罷有由申と申上ければ、尤之儀成其儀
ならば七九郞を相そへ、諸︀手よりも出合而、早々越候へと御意に候へば、若見こ寄指越ければ、{{r|卽|すなはち}}小
屋へ入ければ、普代之者︀は夢之{{r|多|こゝ}}地して{{r|悅|よろこび}}て小屋をかたくもつ。然る處に北條の氏直は、かんな河に
て瀧川伊豫守と合戰して打勝而、信濃のうすいとうげを越而、作之郡へ出でければ、頓而眞田{{r|安房|あは}}守
も氏直の御手に付く。然間坂井左衞門督は、東三河之國衆を引つれて、三千斗にて伊名郡へ出て、す
わへ來り而被申けるは、信濃をば我等に被下候へば、諏訪をも我手つけんと云ければ、其時すは氣を違
へて、其儀ならば家康へは付申間敷、然ば氏なほへ可付とて、手ぎれをして氏なほへ申つかわしけれ
ば、氏直は此由聞召而、蘆田小屋へあてゝ、其寄ゑんのぎやうじやへ出て、かぢが原に陣取。坂井左
{{仮題|頁=127}}
衞門督三千斗にて、すわをのきて、おつこつに陣之取。同大須賀五郞左衞門、大久保七郞右衞門、石
河長門守、本田豐後親子、岡部次郞右衞門、あな山衆、是もおつこつに陣之取而有けるが、氏なほ道
一里の內外に、四萬三千にて陣取給ふを、夢にもしらずして有ける處に、七郞右衞門に石{{r|上|かみ}}菟角と云
者︀、あしたの小屋寄、氏なほのすわへ出馬有けるが、おつこつに陣取衆之儀、心元なきとて八つがた
けをしのび而來りて申けるは、氏なほはかぢが原に、四萬三千之人數にて陣取而、{{r|纔|わづか}}是寄一里の內外
可有に御存知有而御入候哉と莵角が申ければ、其儀ならばみせに可越とて、其時おつこつの名主太郞
左衞門と申者︀七郞右衞門が陣場に有而、何かの指引を申付而おきたる事なれば、所之者︀之事なれば、
太郞左衞門を申付而見せにつかわしければ、太郞左衞門罷歸而申、むかひの原之しげみ之かげにまん
まんと陣取而有。明日は定而是へ押{{r|寄|よせ}}可申かと申ければ、其儀ならば{{r|然|さら}}ばのけやと各々被申ける處に、
すわにて七郞右衞門が申けるは、すわを引付而御味方申處を、左衞門督殿口さきをもつて、二度敵に
なしたると申而、左衞門督と七郞右衞門と、口問答をしたりける。故をもつて坂井左衞門督殿は、七
郞右まづのき給へ。七郞右之のき給はずば、我はのく間敷と被申候。七郞右は左衞門督のき給へ、左
衞門督殿のき給はずば、何と有而ものく間敷と、申はらつていたりけるに、敵はさわを越而我おとら
じと、むかひの原へ押上けれ共、此もんどうがはてざれば、さらばとて左衞門督殿のき給ふ。左衞門
督殿も此もんどうにはらを立而、四つ之比のき給ひしに、陣場に火をかけ而陣ばらいをし給へば、敵
は此由を見るよりも、早めて押出す。左衞門督殿は其寄もあとも見ずしてのきはらい給ふ。然處には
じめ寄一手におしたる事なれば、六手の衆は一度にのく。しつはらいが、岡部次郞右衞門、二の手が
あな山衆、三が大久保七郞右衞門、四が本田豐後親子、五が石河長門守、六が大すか五郞左衞門、是六
手が一所に成て五郞左衞門を先に押立、だん{{く}}に押而のきける所に、氏なほは四萬三千之人數にて、
嵩成道を押而敵を見くだして、{{r|先|さき}}をもぎらんと{{r|踸|すゝむ}}。六手之衆は{{r|漸々|やう{{く}}}}取{{r|集|あつめ}}而{{r|雜兵|ざふひやう}}三千之內外にて、敵を
かさに見上而、無{{二}}{{r|動|どう}}轉{{一}}引のけける處に、早頓而先を取きらんとしたりける處に、六手が一度に立とゞ
まりて、{{r|旗|はた}}を押立て{{r|踸|すゝみ}}ければ、敵も歸され而{{r|徐呷|やうやくあぐみ}}而見へければ、猶{{r|侑|すゝみ}}而あしがるを出し、てつぱうを
打かけて、其{{r|競|きほひ}}に{{r|酷|あはて}}ずして{{r|禪引|しづかに}}のきければ、敵もしらみて見へける間、そこを十町斗引のけて又{{r|旗|はた}}を
立て、敵を相待たるていにいたし候へば、敵も{{r|脇|わき}}へまわすと見へける處へ、早石河はうき守をはじめ
として、其外之衆すけ來りければ、坂井左衞門督も押とゞまる。然間氏なほも其寄若見こへ押而、陣
之取給へば、各々は新府へ入而陣之取ければ相陣に成。然間六手之大將衆心おくれ之衆ならば、はいぐ
んもせでかなわざる事なれ共、各々度々之事に合付たる人々の事成。其故三千之人數が千斗は度々の
高名、名をあらはしたるこゝはの者︀共なれば、十萬騎二十萬騎にてよせくると云共、一合戰づつ花々
とせずしては、六手ながらおくまじきそなひに候へば、四萬三千之人數をもつて、{{r|纔|わづか}}三千之內外之者︀
が、七里之道をつかれて、人を一人打せずして引のく事は、上古も今も有がたし。然る處に家康は古
{{仮題|頁=128}}
府中に御座被成候つるが、明之日は早新府中へうつらせ給ひけり。然とは申せ共、家康之うつらせ給
へ共、御人數は八千寄外は無之と申せ共、日夜之{{r|戰|たゝかひ}}にも、四萬三千之敵に一度もつらは、出させ給は
ず。然ば氏直仰けるは、是寄古府中を押而郡內へ入而、引取らんと仰ける由を家康聞召而、其儀なら
ばむかいの原に取出を取而、氏なほ押而とおらば取出へ人數をうつして、合戰を可被成とて若見こに
も、むかいの原新府にもむかい之原に取出を被成けり。其日かきあげ斗成されて、夕さりは松平上野
者︀と、大久保七郞右衞門者︀を指越而、大事之番にてある間、ゆだん仕なと仰被越ければ、松平上野殿
寄は松平孫三郞を指越給ふ。七郞右衞門方よりは、大久保平助を指{{r|遣|つかわ}}しける。次之日は御普請をも丈夫
に被成而、其寄は諸︀手よりも一日一夜がわりに番をしたり。然間大久保七郞右衞門方より、あした方
へ申越而、何とぞ才覺をめぐらして、眞田を引付給へと申越候へばあしたがさいかくしたり。然共家
康御前之さいかくをよく被成而、さなだ安房守方へ具に被仰越候へと、あした方より申越に付而、御
はんぎやうを取、七郞右衞門方よりもくわしき事杉浦久藏に申きかせて、久藏をしのび而、{{r|遣|つかわ}}しけれ
ば、安房守は{{r|卽|すなはち}}御手に入ければ、あしたの小屋へもひやうらう米をいれけり。此比は小屋も{{r|兵粮|ひやうらう}}米につ
まり而、牛馬を喰い而命をつぎける處に、さなだにつゞけられ而、命ながらへたり。然處にさなだと
あしたと一手に成而、うすいを取きらんとしければ、氏直滅亡とや氏まさも思召か、{{r|含弟|しやてい}}之北條之左
衞門助殿を仰被付れて、一萬餘にてぐんないへ出、見坂を越而東{{r|郡|ごほり}}へ打出、{{r|此方彼方|こゝかしこ}}に打ちりて、はう
火してらんぼうをして、そなひを亂しける。然所に鳥居彥右衞門と、三宅惣右衞門と、{{r|伯父姪|をぢめひ}}をば古府
中之御留すいに、おかせられ給ひけるが、此由を聞寄{{r|急|いそぎ}}かけ付ければ、おどろきさわぎける處へ、押
寄押寄打ければ、こと{{ぐ}}くはいぐんして、見坂を指而にげ行ければ、左衞門之助殿もから{{ぐ}}の命
たすかり給ひて、見坂を指而おちゆき給ふ。然間、彥右衞門惣右衞門兩人之手柄云に不{{レ}}及。さて{{r|頸|くび}}を
{{r|雜兵|ざふひやう}}五百餘新府中へつけて越ければ、物見場にかけさせ給へば、敵方是を見て何事をするやらん。寄
合而{{r|走廻|はしりまわ}}りありくとて見ける處に、頸をかけて立のきければ、敵方いそぎ來りて見て歸り、氏直へ申
上けるは、何頸やらんこと{{ぐ}}數かけて見へ申と申上ければ、何頸にて有ぞ見て可參由被仰ければ、
各々來り而見て、是は我が親、是は我が兄、甥、從弟、是は我が伯父あに弟と申而、興を醒し頸をだき
かゝへてなきさけぶ。氏直もいよ{{く}}是におどろき給ひ而、其儀ならば無事をつくりて合{{r|互|たがひ}}に引のけ
べしとて、ぶぢをぞつくり給ふ。然る間ぐんないと作之郡を渡し可申間、然らばぬまたを此方へ御歸
しあつて、御ぶぢに被成候へと仰ければ、其儀においては尤可然と被仰候らいて、頓而御ぶぢに成而、
まづぐんないを渡し給ひ而、其故氏直はのべ山にかゝらせ給ひ而、作之郡へ出させ給ひ、うすいが峠
を越而上野へ出させ給ひ而引入給ふ。家康もかい之國をおさめさせ給ひ而、其寄大久保七郞右衞門を
仰被付而、作之郡へ召つかわされ而、御馬は入。七郞右衞門は御うけ申而、午之九月新府を立而、かぢ
が原にてすわへ使を立而、すわを引付而、ゑんのぎやうじやへ出て、其寄あしたの小屋へゆきければ、
{{仮題|頁=129}}
早野ざはの城を明、前山之城を燒きはらいてのきけるに、其城へうつりて有に、四方に一里二里之內
に小城屋敷城共に十二三有。こむろ之城、ねつごや、もぢつきのあなご屋、內山之城、ゆわをの城、みゝ
取之城、かしわぎの城、ひらはらの城、田之口之城、ゆわむらだ之城、うみの口、平尾之屋敷城、あ
らこの屋敷城、此城々の中へわり入而、四方へ取合而其內に{{r|此方彼方|こゝかしこ}}を引付けり。まづ岩村を引付而寄、
午之年之內に大方引付而、未之年よだ右衞門は岩尾之城をのり取んとて、押寄而のり入處に、右衞門は
てつぱうにあたり而打死しける。{{r|舍弟|しやてい}}之源八郞もてつばうにあたり而はてけり。兄弟打死をしたりけ
れば其{{r|儘|まゝ}}引のく。然共敵にしるしは取られず、又七郞右衞門が未之年こと{{ぐ}}く城共を取おさめて、
天正十二年{{仮題|分注=1|甲|申}}之春、上田之城を七郞右衞門が取而、さなだにわたす。
然る處に、同天正十二年{{仮題|分注=1|甲|申}}之年、關白殿、御本上に、腹をきらせ給はんと被成ける間、其時御本上家
康を奉賴と、被仰候に付而、尤之儀成。是非共に、みつぎ可申、さてくわんばく殿は、むごき事仰候
物かな、柴田が三七殿を引申たれば、しばたと、しづがたけにて、合戰して、しばたをたやして、又
三七殿を、沼の內海︀に、おはします處に、現在の主成を、昔之、長田に、たがわずして、三七殿をぬ
まのうつみにて打奉り、本上をばくわんばく殿のもりたてんと被申て、又世もしづまるかとおぼへば、
本上に腹をきらせ申と手、是非にみつぎ申さんと仰ければ、早くわんばく殿、十萬餘騎引つれ而、鵜
沼を越而、犬山へ押出て、こまき山を、とらんとし給ふ處に、家康はやくかけ付させ給ひ而、こまき
山へあがらせ給へば、くわんばくも手をうしなひ給ひて、おぐちがくでんに、諸︀勢は陣取りて、一丈
斗に高土手をつきて、其內に陣取成。こまき山には、柵をさへ付けさせ給はずして、かけはなちに、
陣取せ給ふ。土手のきわまで、かけ付{{く}}して、十萬餘之人數に、つらを出させ給はず。然る處に、
岡崎へ押寄而、城を取物ならば、こまき山も、たもつ事成間敷とて、三好之孫七郞殿を大將として、
池田勝入、森之庄藏、はせ河藤五郞、堀の久太郞、其外三萬餘にて、天正十二年{{仮題|分注=1|甲|申}}卯月八日に、おぐ
ち、がくでんを立而岩崎へ出て、一時之內に岩崎城を{{r|責|せ}}めとりて、かち時をつくりて有ける處に、
家康は三河へ、敵がまわると聞召而、其儀ならば、人數をつかわさんと被仰而、水野惣兵衞殿、榊原
式部大輔、大すか五郞左衞門、本田豐後守親子、其外を指つかわされける處に、程なく三好孫七郞殿
に押寄而、合戰をしてきりくづし、岩崎を{{r|指|さし}}而おひ打に打つ。然處にほりの久太郞、はせ河藤五郞
岩崎之城を責取而、きおひていたる處へ、おひかけければ、ちり{{ぐ}}に{{r|亂|みだれ}}而、おひける處を、又其寄
おひかへされて、おばた迄うたれける。然る處に、小牧山には、本上と坂井左衞門督、石河はうき守、
本多中務、其外之衆を、留すゐに置せられ給ひ而、家康は御{{r|旗|はた}}本衆、井伊兵部少輔斗、以上{{r|雜|ざう}}兵三千
餘にて、跡寄押つめさせ給ふ處に、こと{{ぐ}}くおばたを指して、にげ入を御覽じて、押よせさせ給ふ
處へ、池田勝入と、森庄藏と、押立て家康へむかひける處に、{{r|押|をし}}合而之合戰成。其時に、平松金次郞
と、鳥井金次郞と、二人の{{r|鑓|やり}}が相而、程なくはいぐんして、池田勝入をば長井右近がうち取、森庄藏は
{{仮題|頁=130}}
本田八藏が、打ちたるとはいへども議定せず。其寄も、三萬餘之者︀どもを、きりくづし給ひ而、こと
ごとくおひ打に打取給ひ、いそぎ人數を引上而、おばたの城へ引きいらせ給ふ處に、くわんばく殿、お
ぐつちがくでんにて、このよし聞召而、いそぎりうせん寺まで押出し給へども、家康御目の、きかせら
れたる御武邊第一の名大將なれば、そのむねを思召したる間、きり{{く}}と、とりまわして、手ばやく
おばたの城へ、引いらせ給へば、くわんばく殿も、手をうしなひ給ふ。然處に、小牧山にあひ殘坂井
左衞門督申けるは、くわんばく殿押而被出ければ、おばた筋之儀を、心元なく存ずれ。是より二重堀
を押やぶり而、こと{{ぐ}}く陣屋に火をかけて、やきはらふ物ならば、くわんばく殿も、はいぐん可有
と{{r|踸|すゝみ}}給へ共、其比寄、石川はうき守は、くわんばく殿へ心之ある間、其儀不{{レ}}可{{レ}}然とて、はうき守一
ゑんに{{r|踸|すゝま}}ざれば、左衞門督は、手にあせをにぎつて、白泡を嚙みて、いかれ共、はうき守すゝまざれ
ば、打おきぬ。本田中務も、左衞門督と同意なれば、はうき守すゝまぬと見、さらば我等はおばたゑ
むかひに參らんとて、五百斗にて、くわんばく殿之備之下を、押してとほり、おばたの城へゆきて、
御供を申而、小牧山へ來る。敵味方共に、本田中務をほめたり。然間くわんばく殿も、おぐち、がく
くでんへ引入り給ふ。然る處に、おぐち、がくでんを引はらつて、すのまたを越而、いもふへはたら
き給ふ。家康は、しげん寺へ押出し給ひ而、其寄きよすへ御馬が入る。くわんばく殿はいもふ之城を
水ぜめに、せめさせ給ふ內に、かにゑの城にて、前田與七郞が、べつしんのして、瀧川を引入ける處
に、家康此由聞召して、ぢこくうつしてかなふ間敷と仰あつて、其{{r|儘|まゝ}}取あへさせ給はずして、かけ出
させ給へば、我おとらじとかけける程に、かにへと申は、しほ之さし引の處なれば、ほそ道一すぢに
て、わきへゆくべきやうもなけれ共、家康之御いきおひ、一つをもつて{{r|卽|すなはち}}程なくのり付ける。瀧川も
かなわじと思ひ而、城之內寄舟にのり而、から{{ぐ}}の命、たすかり而、ゑ口を指而にげゆく。前田與
七郞も、一こたゑ、こたゑ而見てあれども、つよくせめられ而、かなはじと思ひ、女子を一舟に打の
り而、ゑ口を指而にげゆけども、のがすべきやうにあらずして、ゑ口にて女房子共、もろともに、の
こらず打ころされて汐にうかび而ぞ有ける。さてまたくわんばく殿は、いもふ之城を水ぜめにして、
其寄いせへまわり、桑名の上成山に陣取給ふ所に、家康は淸須寄、くわなへうつらせ給ひ而、松が島
へ、服部半藏を指つかわされて、しろこへ出させ給ひ、濱田と四日市場に、城をとらせ給ひ而、引入
給ふ。くわんばく殿も、其寄引入給ふ。然間、氏直合陣之時之、御無事のきりくみに、氏なほよりは
ぐんないと、作之郡、諏訪ぐんを渡し可申とて、是を渡しける。家康寄は、ぬまたを御渡し候へと御
諚に付而、氏なほ寄は、御やくそくのとおりに渡り申に付而、然ば、ぬまたを小田原へ、渡し申せと
仰被越候時、眞田申けるは、沼田之儀は上寄も被下ず、我等手がらをもつて取奉る沼田なり。其故今
度御忠節︀と申に付而、其御{{r|約|やく}}束被成候、筋めの儀も御座候處に、其儀にさへ御手付も無御座候へば、
御{{r|恨|うらみ}}に奉存候處に、{{r|賸|あまつさえ}}我等がもちたる、ぬまたを渡せと、仰被越候儀、なか{{く}}思ひもよらずとて、
{{仮題|頁=131}}
渡し不申。其故御主には仕間敷とて、くわんばく殿へ申依る。然處に天正十三年{{仮題|分注=1|乙|酉}}之八月に、眞田へ
御人數をつかわされける。鳥井彥右衞門、平岩主計、大久保七郞右衞門、すわほうり、しばた七九郞、
保科彈正親子、しもぢやう、ちく、遠山、大草、甲州せんぼう之衆、あした、岡部次郞右衞門、さいぐ
さ平右衞門、屋代越中、是等を指つかわされければ、上田之城へ押寄、二の丸迄{{r|亂|みだれ}}入ける間、火をかけ
んとせし處に、しばた七九郞かけよせて、火をかけたらば、入たる者︀共出る事成がたし。火をかくる
事無益とてとめけるは、七九郞若げのいたりか、物に合付ざるゆへか、火をかけずしてかなわざる處
之火をやめけり。然間其元を引のけ申す時、案のごとく、火をかけて、やき立る物ならば、出間敷敵
なれ共、火をかけざる故に、城寄したいて出る。早しきりに付、各々寄弓てつぱうをあとへさげける
に、大久保七郞右衞門內、本田主水、平岩主計內之尾崎佐門に申けるは、佐門何としたるぞ、其元之樣
子殊外、そないがもめて見ゆるは、いかゞ成と申時、佐門こたへていわく、主水能く見たり。只今迄
は、昔之てつぱう之者︀共が有つる間、よく心得而、人之云事をもきゝ候へば、下知をもなして、そな
いもさだまりてもめず。其者︀共は、朝寄ほねをくだきてかけ引したりければ、只今西東もしらざる物
に合付たる事もなき者︀共を、かわりに越たれば、あわてふためきて、げぢを云にも、耳にも不入して、
事おかしくあわてたる事に候へば、げぢにも付不申間、爰元之儀は、其方など見られ候分に候へば、
只今にげちり可申間、佐門は是にて打死を可仕候間、若其方之命ながらへ而、引のき給はゞ、佐門が
申つる由、主計によくかたりてくれよと、云もはてざるに、はやはいぐんしたりければ、佐門はこと
ばの如く、場をさらずして、打死をしたり。鳥井彥右之者︀共は、一段高き所を引のきけるに、戶石之
城寄出而付、是もきつ{{く}}と付ければ、早ならざる間、ご見孫七郞が、人にすぐれてはしり出、鑓を
くり出し、ひざぐるまにのせていたる處へ、敵おふぜい押かけければ、つつたちて、おふぜいの者︀共
と、花々とつき合而、場もさらず、うたれければ、其より彥右の衆は、はいぐんしたり。七郞右衞門
者︀は、乙部豆吉、本田主水兩人弓、くろやなぎ孫左衞門てつぱうにて、押合而のきける。此外にも十
二三人可有けれども、跡には此者︀共がのきけるに、乙部豆吉が一之矢をはなして、{{r|射外|いはづ}}し、二の矢を
つがはんとしたりける處を、早突︀きふせて打處を、くろやなぎ孫左衞門が、立はだかりて、てつぱう
にて豆吉を、打者︀をはなしてのきければ、其よりこと{{ぐ}}くはいぐんして、諸︀手之衆が四五町之內にて
三百餘打れける。大久保七郞右衞門は、賀ゞ河迄引のきけるが、鳥井彥右衞門者︀共が、くづれて來る
を見て、其方へむかひ而、一騎歸しける間、其付而大久保平助馬寄飛んでおりて、やりをひつさげ而
歸しける。七郞右衞門は、金のあげ羽︀之蝶の羽︀のさし物にて、かけまわりければ、さし物を見て、頓
て旗をも押寄ける。にげちる者︀もかけよせ而、河原にこたへける。平助は銀之あげ羽︀之蝶の羽︀之九尺
有さし物をさして、むかひける處へ、くろき具足をきて、やりをもちて押込みて來る者︀を、つきふせ
而、頸をばとらずして、よせくる敵をまちかけいたる處へ、さし物を見かけて、松平十郞左衞門來る。
{{仮題|頁=132}}
次に{{r|足立|あだち}}善一郞來る。次に木之下隼人が來る。其寄大田源藏、松井彌四郞、天野小八郞、戶塜久助、
後藤惣平、けた甚六郞、ゑざか茂助、天がた喜三郞、是等が、平助いたる處へ來りたれば、是等を引
つれて、上のだいへ押上けるに、敵も防ぎけるが、ことともせずして、押上ける處に、めてはさなだが
旗本、弓手と{{r|向|むか}}ふは五間六間之內に、こと{{ぐ}}く敵がひかえていたる處に{{r|眞田|さなだ}}が內之へき五右衞門が
弓手之方寄、此者︀共がならびいたる中を、敵としらで{{r|通|とをる}}處を、平助が見て、それは三つまきをせざる
は敵にて有ぞ、それつきおとせと云ければ、八幡へき五右衞門にて有ぞ。敵にはあらざると申ければ、
平助云、へき五右衞門と云に、つきおとせと言時、足立善一郞が、はしりかゝりてつきけるが、鞍の
後輪へあたる。五右衞門が共に來る者︀が、やりを取なほして、善一郞を少つく。然處に大久保平助前
へ來るを、{{r|胴|どう}}中と思ひ而つきければ、五右衞門に付たる者︀共が、やりを四五本もちけるが、二三本にて
平助がやりを、からみてなげければ、なほして、つかんとする間に打とおる。けた甚六郞が前へゆき
ける時、又平助云、甚六郞それつけといゝければ、はしりかゝりてつきけるが、是も追ひさまなれ共、
{{r|肘|ひぢ}}のはづれ之腰わきにあたらん。然間へき五右衞門が申は、河中島衆之早くすけ來りたりと思ひ、味
方と心得て、敵之中をとおりける處に、大久保七郞右衞門弟の平助に、つかれたると云ければ、平助
云は、いや{{く}}我もつきはついてあれ共、我が突︀く鑓はまげられ而、五右衞門にあたらず。けた甚六
郞とて七郞右衞門者︀が、やりがあたる成。我にはあらずと云けるが、五右衞門は、平助につかれたる
といへば、おぼへと心得而云けれ共、平助はつかぬと云。然間敵之中へ入而味方が歸しくるかと見
ける處に、十七八なる童が一人、敵としらずして來りけるを、天野小八郞がつかんとしける處を、平
助が見て、せがれにて有ぞ、むごきにゆるせとてゆるさせける。今思ひ合せ候へば、是等ほどよき高
名は有間敷物をと、平助も若げのいたりにて打せず。坂井與九郞高名も其の時之高名を、御旗本にて
はくづれくちの高名と云て、世にかくれなきやうに申共、一つ時之高名にて候つるが、與九郞高名は
七郞右衞門旗之立たる處をしらでかけ入たる者︀なれば、味方の中にて打たる高名成。小八郞に平助が
無用と云たる場は、與九郞高名の場寄一町程敵之中へ行過、敵の中にての事なれば、高名をせでさ
ゑ此者︀共には、高名したる衆之口は{{r|開|あか}}ざるに思へば、其時討すべきを然間敵之中にて味方の歸すかと
見ける處に、何かはしらず、廿騎斗本道を石橋之方へ歸してくると見て、平助は其寄むかうの敵にむ
かひ而、歸し來る衆と一手にならんと思ひ而、押こみてゆきける處に、一度に行ける者︀共は、其時は
一人も來る者︀なき所に、天方喜三郞斗來る。然間歸し來る馬乘を見てあれば、一人も見しりたる人な
し。其時喜三郞是寄はゆく間敷ぞ、見しりたる者︀は一人もなし。只今此者︀共はくづれべきと申もあへ
ざる處に、我さきにと迯げ行く。もとより敵は五六間之內にひかへたる事なれば、ほどなく乘り付け
り。石橋之有ける處にて、天野金太夫と小笠原越中と、なみきり孫惣と、兩三人がことばをかわし
て申は、平助が是をのく程に見捨てまじきとて、平助に詞を孫惣がかけける。見すてまじきと云けれ
{{仮題|頁=133}}
ば、三人は馬にのりたり。平助はおり立而、{{r|徒步|かち}}なれば、いらざるをかしき事ないひそと云てのく。
大久保七郞右衞門は、平岩主計がそなひへのり入而云けるは、貴殿のそなひを河を越而、われ等がそ
なひのあとへ押付給へ。敵之人數之纒らざる內に、我等がきつてかゝるべし。然時んば一人もやるま
じきと申せば、中々主計返事もせず。七郞右衞門重而云けるは、川を越事成間敷と思はれば、せめて
河のはた迄そなひおろさせ給へ。我等かゝり可申と申けれ共、其儀もならざれば、七郞右衞門はらを
たちて、日比其かくご成人なれば、ちからもなきあさましき事とてのり歸し而、又鳥居彥右衞門そな
ひへ行而申は、平岩主計方にそなひを河のはた迄おろし給へ。然者︀敵之人數ちり{{ぐ}}成內に、我等
がきつてかゝらんと云けれ共、{{r|震慄|ふるい}}まわりて物をもゆわず。然者︀彥右のそなひを我等そなひのあと
へ押出し給へ。敵之人數ちり{{ぐ}}にてまとわぬ內に、我等きつてかゝらんと云けれ共、鳥居彥右も
ことばをも不出して有ければ、其儀ならば河越事をいやとおもはれば、河のはたまでそなひをおろさ
せ給へ。我等がきつてかゝるべし。せめてあとをくろめ給へと云けれ共、返事もなければ、何れも下
戶に酒をしいたるふぜいなれば、ちからもなし。日比之存分之ごとく成とて立歸り、又ほしなのだん正
方のそなへへのり入而、御身のそなへを河のはたへおろし給へ。然者︀敵のまとまらざる內に、我等が
きつてかゝるべしと云ければ、是は猶もふるゑて返事もなければ、あつたら地行かなと云すてゝ歸る
處へ、平助が乘り迎ひ而、河むかひの敵が河をこしたらば、此ていにてははいぐん可有と見えたり。
てつぱうを河のはたへ出させ給へと申ければ、七郞右衞門物もいはずして手をふりければ、手をふり
てはかなふまじきに、はや{{く}}てつぽうを出させ給へと申ば、其時七郞右衞門たまくすりがなきぞと
言ければ、たまくすりのなきとは何としたる事ぞや、はや{{く}}出させ給へと云ければ、其時せがれめ
が何を云。こと{{ぐ}}くこしがぬけはてゝ出んと云者︀一人もなきぞ、こしがぬけたると云へば、諸︀人の
よわみ成に、たまくすりがなきと、云物なるぞと云ければ、平助も其儀ならばとて、かはらへのり出
して歸る。され共敵も河を越さずして引入ければ、相{{r|互|たがひ}}に引。然間明之日はまりこの城へはたらか
んとて、ちぐま河を越而八重原へ押上ける處に、さなだは是を見て、うんのゝ町へ押出して、八重
原之下を一騎打に、手しろづかまではたらきければ、大久保七郞右衞門が是を見て、しばた七九郞
をつかいにして、鳥居彥右衞門方と、平岩主計方へ申越ば、兩人之旗をちぐま河のはたへ押おろさせ
給へ。然者︀岡部次郞右は若く候へば、よた源七郞と、すはと我等がむかつて、中を取きりて、ね
つ原へおひ上而、一人ももらさず打取べきと申けれ共、兩人之衆一ゑんにすゝみ不申。されば七九
郞も手をうしない而立歸り、七郞右衞門に語ければ、如存知左樣に可有。然者︀河のはたへ出させ給
ふ事ならずば、此の山さきまで押出してあとをくろめ候へ。兎角に我等がかゝり可申と重而申けれ
ば、兩人ながら七九郞にも出合給はず、七九もはらを立而此由七郞右衞門にきかせければ、七郞
右衞門はこの內之鳥をにがしたりとて、手をうしないて有けるが、重而又御越候へ而給候へと申け
{{仮題|頁=134}}
れば、其時七九郞七郞右衞門にはをかけ而申は、どれ{{く}}とてもげこに酒をしいたるごとくに武邊之
方をしいればとて、しいたよりもあらざるに、重々千度百度行たればとて、かたが可付か、天日あつ
きとてかきがみをかぶりて、我等にも不出合して、臥りて有にいらざる事を被申候物かな、あのてい
に候はゞ、出たり共やくには立まじければ、ほしなだん正親子と右之兩人をば有なしにして、其方と
我等計成共、出ば出させ給へと被申ければ、源七郞も幼少成、岡部內前もやうしやうなれば、御身と
諏訪と我等三人して、進む所にあらざれば、無是非とて打おきぬ。然る所にまりこへはたらきて、
八重原に陣取ければ、さなだも押歸して相陣之取ける。然る處に岡部內前之物見番之時、さなだ親
子足輕之中へ打まじりて、手ぎつくせり合けるが、岡部內前には、駿河先鋒のこゝわの者︀共あま
たあつまりければ、事共せずしてあひしらいける。其時七郞衞門又もやこりずして、鳥居彥右衞門
方と、平岩主計方へ申被越ける。さなだ親子あしがる場へ出而、かけ引をしたると見えたり。ねがう
に幸の處へ出たれば、兩人の旗を我等が陣場迄出させ給へ。然者︀內前之手まへは引はなされば成間
敷候へば、內前を一番にして、其あとへ我等が押つめて、合戰をするならば、さなだ親子をばとて
もあの坂をばあげ間敷、打可取と度々のつかひを立けれ共、中々返事もせざれば、日比の事はしり
てあれ共、か程とはしらず、もつけかな{{く}}とて打返ぬ。岡部內前斗にても追ひ不被立して、對々
にして有つるに、各々出たらば手に物はもたすまじき、千兵はもとめやすし、一將はもとめがた
しとは今思ひ合たり。二人之心をもつて勝利をうしなひ給ふ。殊更何れもの手はよき事に會か又あ
しき事に會か、何樣に此度手にあはざる人は一人もなけれ共、ほしなだん正は、よき事にもあしき事に
もあわざれば、たぐいなき武者︀下戶と見へたり。然間此衆ふるひまわりたる故に、いよ{{く}}敵もきを
もちければ、相陣ののきかね而、重而御かせいを申うけて引のきて、各々ははつまがそりに城を取給
ひと、よだの源七郞は天神︀林に行而、おさいにおりければ、其時も大久保平助にてつぼうを相そへて
かせいに越たり。各々ははつまがそり寄引取給へ共、大久保七郞右衞門者︀こむろの城にとゞまりける處
に、天正十三年{{仮題|分注=1|乙|酉}}の暮に石河ほうき守逆心をして、女子を引つれて岡崎寄引のけける。上には岡崎へ
うつらせ給ふ。大久保七郞右衞門にも、さう{{く}}罷上候へとこむろへ日々に重々飛脚立けれ共、七郞
右衞門いそぎて上ならば、上方は{{r|亂|みだれ}}而早七郞右衞門も落行と云ならば、爰元も亂而一揆も起き而あら
ば卽さなだも{{r|偣|よせかくる}}者︀ならば、相違なくとらるべし。其ゆゑ越後に信玄御子に御せうどう殿と申而、御目
の見えざるの御入候ふ。是親子を甲州へ入奉んやうに申而、是を何とかと心がけたると、さたの有樣
に申候へと、何となく申樣に候へば、自然左樣之儀も有らば、甲州迄も亂而可有、左樣にも有ならば
いよ{{く}}御負けに可被成候間、爰元を少見合而罷可上と申而有とは申せ共、重々仰被下候へば、其儀
ならば誰ぞのこしおきて罷可上と申而、御地行を申上而可出に、誰居よ彼居よと申せ共、御地行ののぞ
み處にあらず。石川ほうき守ぎやくしんの故は、親女子のゆくへもしらずして、のこり所にあらずと
{{仮題|頁=135}}
各々申はらつていたり。七郞右衞門は其儀ならば是非に不及、各々は歸り給へ、我等が是に可有と云
ければ、各々申は、たとへば親女子はつれ申共、我等共斗罷歸る事は中々有間敷、何方へもともかく
も御貴殿次第と申。七郞右衞門はたれに申而もがつてんなし、然者︀平助是に有而くれよかしと被申け
れば、我等もいづれも同前に候。ほうき守いられ候う膝の下に、母と女房をおきて、とられたるもし
らざるに、御地行を申而、くれんなどといはれ而、跡にとゞまる者︀哉可有か。其故爰元之樣子をも御
らんぜ候ごとく、命ながらへて歸り而、御地行申うけ申事かたし。其故ほうき守ぎやくしんの故は、
定而おほかたの儀には有間敷ければ、上而も死するとゞまりても死ずる、とてもしする物ならば、御旗
先にて討死を可仕候。同命をまいらせながら、爰元にて果て候はゞ、人もしり申間敷候へば、幕の內
之討死に候。其故母之儀は、御方にも母、次右衞門、權右衞門にも母にて候へば、我等一人之母にあ
らず。我等こそあらず共、兩三人之御入候へば、思ひおく事はなけれ共、女房之行へもしらずして、
其故命不定成處にて御地行ののぞみ處あらず。御地行は閻魔王の御前へさゝげ候はん哉、何と仰候共
とゞまり申事は中々思ひよらず、ふつつといやに候。其時七郞右衞門申は、其方が被申候所げに{{く}}
左樣に候。母之儀は子供あまたあればあんずる事なし。女子之儀はほうき守ちかくにおきたるに、何
と成たるもしらずして御地行ののぞみ處にあらざると被申候事、其の儀は尤道理きこえ而候。其儀は
我等あやまつたり、かんにんせよ。然者︀何の望もなく、命をすてゝ是に其方とゞまりてくれよかし。
其儀にあらざれば、我等のぼり申事ならざる間、偏に賴入と被申ければ、其儀ならば心得申候。地行に
たづさわりてならば、中々にかくごに不及候へ共、何かなしに命をすてよと仰候處を、いやとは不被
申候間、さう{{く}}一時も早くいそがせ給へと、重々の御意に候に、爰元之儀あんじ給ふなと言て、早
早と申て{{r|暇乞|いとまごひ}}してのぼせて、我は{{r|酉|とり}}之八月より{{r|戌|いぬ}}之正月迄とゞまりける。然共ほうき守させる手立も
せずして引のきける。
然る處に、天正十四年頗之月、尾張內府家康へは御さたもなくして、關白殿へ無事をつくらせ給ふ處
に、くわんぱく殿よりして、尾張內府早ぶぢに被成候間、家康も御ぶぢに被成候へと、仰被越けれ
ば尤の儀なり、大ふの賴被申候へばこそ手ぎれは申たれ、大ふさへ一身被申候はゞ、我等においては
仔細なしと仰つかはされければ、其儀におひては忝存知候。然者︀べつして申合可申ためなれば、我等
の{{r|妹|いもと}}を可進とて其御定を被成て頓て御輿を入給ひて、御{{r|姉婿|いもとむこ}}殿に被成ければ、此故は上洛をせずして
はかなわざる事なれば、然者︀御上洛可被成と御意の有ける處に、坂井左衞門督被申けるは、御上洛の
儀共さりとはゆわれざる思召立にて御座候。菟角に思召とゞまらせ給へ、御手ぎれに罷成候うとても、
是非に及ざる儀共なりとしきつて被申上ければ、各々諸︀大名衆も右衞門督被申上候ごとく、御手ぎれ
に罷成申とも菟角に御上洛の儀は分別に及不申候。何と御座候へても、今度の御上洛は是非に思召と
どまらせられ可被成と、各々もしきつて申上給へば、左衞門督をはじめ各々は何とて左樣には申ぞ。我
{{仮題|頁=136}}
一人腹を切て萬民をたすけべし、我上洛せずんば手ぎれ可有。然共百萬騎にて寄くる共、一合戰にて
打はたすべけれ共、陣のならいはさもなき者︀なり。我一人のかくごをもつて民百姓諸︀侍共を山野にはめ
てころすならば、其亡靈のおもわくもおそろしき。我一人腹を切ならば諸︀人の命をたすけおくべし、其
方などもかならず何かの儀不申共、わび事をして諸︀人の命をたすけおけと被仰ければ、左衞門督も
左樣にも思召に付ては御尤なり、御上洛可被成之由申被上けるを、さすがにおとなの御返事には似相
たりと申ける。太閤者︀御上洛之由を聞召て、其儀ならば忝存知候。左樣にも思召ならば、若御用心之儀
も思召可有候へば、母にてまします人を岡崎迄質物に可遣と被仰て、御老母之政所を岡崎迄御越被成け
れば、其迄に及不申忝と被仰て、井伊兵部少輔と大久保七郞右衞門にあづけおかせられ給へば、人じち
の御越有て、諸︀人も大いきをつきてよろこぶ。御上洛有ける時兵部と七郞右衞門を召て被仰けるは、若
我が腹を切ならば政所をがいして腹を切可有者︀なり。我腹を切たり共、女共をばたすけおきて歸すべ
し。家康こそ女房をがいして腹を切たると有ならば、異國迄の聞えも不{{レ}}被{{レ}}可{{レ}}然、末世の云つたへにも
可成、然時んばまん所をばがいし奉れ。かならず女共に手さし有間敷と仰おかれて、御上洛被成ける
に、何事もなく御歸國被成ければ、各々上下共に目出度と申よろこぶ事かぎりなし。然間政所も御よ
ろこび有て御上洛被成けり。然共六ヶ敷や思召けるか、其後に御毒をまいらせんとて御ふるまいの時被
遣けるに、大和大納言とならばせ給ひて上座に御座被成候つるに、御運のつよきによつて御膳の出る
時御しきだいを被成て、大和大納言殿を上座へ上させ給ひて下座へ居替らせ給ふゆゑに、其御膳が大
和大納言殿へ据りて、家康のきこしめされん御毒を大和大納言の參てはてさせ給ふ。さて其後年々御
上洛被成けるに相違もなし。
天正十八年{{仮題|分注=1|庚|寅}}三月廿八日小田原の御陣立なる。うき島が原へ押出してさうが原に御陣の取せ給ひ、に
ら山の城へ人數を指越給ひて責させ、其よりはこね山をひらおしにあがりて、山中の城をとをりがけに
のりおとして、太閤の御{{r|旗|はた}}はむじりがとうげに打あがらせ給ひて、石かけ山に御陣のとらせ給ふ。家康
はみやぎ野へかゝらせ給ひて、くの原へ出させ給ひ、其よりいまい、いつしき、濱の手をうけとらせ給
ふ。思ひ{{く}}に山々をのり越て城を取まきけり。關東へは加賀、越前、能登、越中、越後、信濃衆を
引つれて、加賀大納言、うへ杉景勝の出給ひて關東の城々をのこらずうけとりて小田原一城になす。
然る所に早松田尾張もべつしんのくわ立けり。みな河山城も城よりかけおちをしければ、城中も早成
間敷とてぶぢのあつかいにて落城する。其上にて氏政と{{r|奧州|あうしう}}と兄弟に腹をきらせ申て、氏なおと、安
房守と、美濃守と左衞門助をばたすけ給ひて高野山へやり給ふ。さて又家康は國替可被成においては
關東にかへ給へ、いやに思召ば御無用なり。何と成共御存分次第と被仰ければ、尤かへ可申と被仰て
三河、遠江、駿河、甲州、信濃五ヶ國に、伊豆、相模、武藏、上野、下總、かづさ六ヶ國にかへさせら
れて、{{r|關東|くわんとう}}へ{{仮題|分注=1|庚|寅}}の年うつらせ給ふ。其より太閤は御馬が入、天正十九年{{仮題|分注=1|辛|卯}}七月日、くわんぱく殿大將
{{仮題|頁=137}}
はして{{r|奧州|あうしう}}陣有りて家康の御{{r|旗|はた}}は岩手ざわに立。然間奧州もこと{{ぐ}}くおさまりて關白殿は板屋越を
被成て{{r|米澤|よなざは}}へ入せ給ふ。家康もよなざわへ御越被成て關白殿と其より御歸國。
然間文祿元年{{仮題|分注=1|壬|戌}}に高麗陣とて、太閤の御馬も名護屋に立ける。家康の御馬も名護屋に立ける。諸︀勢は
高麗國へ立けり。辰の年御出馬有て、午の年の八月御歸國なる。然るあひだ其後に關白殿御むほんの
由仰被出て聚樂の城を取出、高野山へおくり奉りて御腹を被成けり。其後御手かけの女房衆あまた三
條がはらへ引出て、かうべをはねて一つあなに取入て畜生塜と名を付てつきこめ給ふ。然る處に太閤
は慶長三年成八月十八日に御年六十三にして朝の露ときへさせ給ふ。然共各々寄合給ひて七歲に成給
ふ秀賴を寵愛有ける。中にも內大臣家康を太閤の賴奉らせ給へば、取わけての御てうあひ成ける。然
る處に各々諸︀大名衆寄合て內府の御仕置なれば我々の存分にあらずと思ひて、諸︀大名一身して家康へ
御腹を切せ申さんと申合ける處に、伏見より大阪へ御見舞にうつらせ給ふ時、よき時分と心得たる處
に、此由を藤堂佐渡が心得て、今夜は先我等所に御座可有由申上て、我所にて用心きびしくし奉りける
處に、伏見にのこる御普代の大名小名夜がけにしてかけ付ければ、早成間敷と思ひて知らず顏していた
れば、城へいらせられ給ひて秀賴にたいめん被成て伏見へかへらせ給ふ。然共此儀思ひとゞまらずし
て、又伏見にて早大方敵味方見へわかつて有樣に有りけれ共、取かくる事はならざる所に、大阪より加
賀大納言遲し速しと來らせ給ひて、兎角に向島へうつらせ給へと仰ければ、むかひ島へうつらせ給ふ。
其よりこと{{ぐ}}く{{r|氣|き}}をちがへて我も{{く}}と申わけして、後には石田治部少輔一人に掛けて、後には寄
合て治部に腹を切せんとする處に、家康御慈悲におはしましければ、各々治部をゆるし給へと被仰け
れ共、各々きかざれば、其儀ならば石田は先さお山へ引入て可有由を仰被出けれ共、道へ押かけて腹
を切せんと各々申由を聞召て、然者︀中納言おくれと御意の出ければ、越前中納言樣の送らせ給へば、相
違なく石田はさお山へ行ていたりけり。然共治部少輔は此御おんをかたじけなきとはおもわずして、
心中には{{r|謀叛|むほん}}のたくむ事計なり。然間會津の{{r|景勝|かげかつ}}は國へ{{r|暇|いとま}}申てくだりけるが、其後召共來らず。其儀
ならば打取らんとて、家康の向わせられ給へば、北國、中國、四國、九國、五{{r|畿|き}}內、關東、出羽︀、奧
州迄殘所なくあひづ陣へぞ立ける。然間都︀を立て、先陣はなす野の原へ押出せば、後陣は未尾張、三
河、遠江、駿河をおすも有り。古河、くりはし、小山、宇都︀宮に陣の取、古河には家康の御旗が立、
宇都︀宮には將軍樣の御{{r|旗|はた}}が立。然處に、石田治部少輔謀叛をおこして、安藝の毛利、島津、あんこ
く寺、小西攝津守 增田右衞門督、長束大藏、大谷ぎやうぶのせう、にわの五郞左衞門、たち花左近、
金吾中納言、ぎふ中納言、うき田中納言、{{r|長宗我部|てうすがめ}}、小田の常眞、其外大名共が跡にて敵になり、伏見
の城を責取て松平主殿助、松平五郞左衞門、鳥居彥右衞門、內藤彌次衞を討取、かち時をつくりて
大津の城をせめ、あをのが原へおし出す。東にては景勝、佐竹義宣、眞田が敵になる。然間あいづの
御陣の御やめ被成て、上方へきつてのぼらせられんと被仰ける處に、本田中務、井伊兵部少輔御內談
{{仮題|頁=138}}
被申けるは、上方へ上らせ給ふ儀は如何に御座候。先此地を御しづめあつて其故きつてのぼらせられ、
御尤かと奉存知候儀は如何御座可有と被申ければ、言語同斷なる儀を申者︀共かな、我せがれより弓靱
を付て度々の事に相付て有物を、磯をせゝりていかゞせん。大場へ押出して一合戰してはたすべし。早
早汝共は罷上給へと被仰て、御先へこと{{ぐ}}く御人數をつかわされければ、先ちまつりにぎふの城
を{{r|責|せめ}}取ける。其手にのらざる衆は{{r|合渡|がうど}}へ押かけて、がうどの敵をきりくづしておひ打に打て、其より
あをのが原へ押上て陣の取。敵は大がきを根城として、柏原、山中、ばん場、醒井、垂井、あか坂、さ
を山迄取つゞく。敵は十萬餘可有か、味方は四五萬も可有か。家康御出馬なき內に合戰をいたす物な
らば、自然勝事も可有に、せでかなはざる處をのばしける處へ、慶長五年{{仮題|分注=1|庚|子}}九月十四日にあをのが原
へ押寄させ給ひて、同十五日に合戰を被成て、金吾中納言うらぎりをしてきりくづさせ給ひ、ことご
とく大たに刑部少輔をはじめとし、不殘追打に打取せ給ふ。さを山の城をのりくづして火をかけて、
治部少輔が女子けんぞく一人も不殘やきころす。石田治部、あんこく寺、小西攝津守、兩三人はいけ
取て京、大坂、堺を引渡して、後には三條かわらにてあをやが手に渡りて、かうべをはねられて頭を三條
の橋のつめにかけられたり。なつか大藏をはじめ、其外しよ大名の頭をば百姓共が所々にてきりて來
る。うきだの中納言殿をも生取て來りければ、八丈ヶ島へ親子三人ながさせ給ふ。ました右衞門督は
命をたすけおかせられ、岩付の城にあづけられて命ながらへたる斗にてあさましくぞくらしける。あ
きの毛利はおとなにて有る。吉川が宵に御內つうを申上、十五日の日は是もうらぎりの心にてむかへ
ていたるにより、命もたすかり主の國をもあげて、{{r|安穩|あんをん}}にして御じひふかきによりて、毛利には{{r|周防|すはう}}
と長門兩國を被下けり。島津には、{{r|薩摩|さつま}}{{r|日向|ひうが}}是兩國が本{{r|領|りやう}}なれば下おかれける。には五郞左衞門は上
樣への御ぶ沙汰にはあらず、指むかひ申たる加賀の{{r|筑前|ちくぜん}}に付申事のめいわくさのまゝ、御敵を申めいわ
く仕たりと申に付て、命を御ゆるされ被成て、其後召出されて少の御地行を被下けり。立花之左近は
膳所の城を責て御敵申さる者︀成を、命を御たすけ被成候儀さへばく大なる御おんに候に、召出されて
過分の御地行を被下て、御用に罷可立者︀と御意之候儀は、平人のふんべつに不及、{{r|先|まづ}}指あたつて御用
にたゝざるは御敵を申たるが一せう、其故御用に罷立間敷と思召ても、今度御敵を申さぬ人は重ても
御用に立事は治定なるに、何れも{{く}}御用に立たる衆より立花におゝく被下候儀は、御敵を申上たる御
褒美か、然る時んば御敵を申せば地行をもとる物か。此度の御取合には池田三左衞門と{{r|福︀島大輔|ふくしまたいふ}}と兩
人が頭をふりたらば、關が原迄出させ給ふ事は成がたけれ共、三左衞門は家康の御ためには{{r|婿|むこ}}殿にて
おはしませば、御みかたなくてもかなはざる御事なり。{{r|福︀|ふく}}島はさりとは思ひきりて御味方を申。きよ
すの城をあけて渡し申事はたぐひすくなき御ちうせつなり。然る所に將軍樣は宇都︀宮より御立被成、
中道にかゝらせ給ひて押て上らせ給ひける處に、さなだが城へとをりがけに打よせさせ給ひける。將
軍樣御年二十二の御事なれば、御若く御座被成候につきて、本田佐渡をつけさせたまひて御供させた
{{仮題|頁=139}}
まふ。なにかの儀をもおの{{く}}にまかせずして、佐渡一人して指引をしたりける。佐渡がさなだに
たぶらかされて、我はの顏して五三日日をおくりける。何事も各々は佐渡次第と被申て罷在間、佐渡
がはからひも{{r|隼|はやぶさ}}の指引こそよくも可有、武邊のしたる儀は一代に一度もなければ何かよからんや。然
間二三日もおそく付せ給ふ。何時も何事に付ても、其道々にえたる者︀に指引をばさせてならでは、事
のゆくべきにあらず。佐渡が我があしくしたるとはいわずして、後にはしらずがほしていたれ共、何
事も{{r|皆|みな}}佐渡が{{r|妨|はからひ}}なり。其時{{r|繰引|くりびき}}をしたり、是も佐渡がかうしやぶりにてくり引をして、後には我が利
口に云けれ共、人々は佐渡がくり引とてわらひける。くり引と云事はあれ共、つひにくり引に合たる
者︀はなくして、佐渡がをしへてはじめて各々もくり引に合たり。くり引に不及、敵が城より出たらば、
おつ取{{く}}おひ入て付入に城をとらんとはおもはで、さても{{く}}佐渡はくり引はしたり。さて又さを
山にて先ぜいに追付せ給ひ、其より伏見へ移らせ給ひて、押て大阪へうつらせ給ひけり。秀賴に腹を
切せ給ふかと各々存知ければ、御じひなる上樣にて、歸て後には將軍樣の婿殿に被成ける。
然る間慶長十九年{{仮題|分注=1|甲|寅}}之年秀賴諸︀國のらう人を抱へ、分銅をくづして竹をわりてそれへ{{r|鑄流|いなが}}して、竹な
がしと名付てらう人共にとりくれて、十萬餘ふちせられると家康聞召て、其儀ならば秀賴の御ふくろ
を江戶へ下給へと仰つかはされけれ共、思ひ不寄と御返事有ければ、其儀におひては國をも可進に、
大阪をあげて國入をし給へと被仰けれ共、其儀も思ひ不寄とていよ{{く}}諸︀らう人をかゝへてふしんを
して、てつぽうをみがき矢の根をみがくと聞召て、其儀ならばべつしんかと被仰ける。秀賴もりの片
桐市之正異見の申けるは、なにかと被仰候御時分にあらず、兎角に何と成共家康の御意次第に御した
がい被成て、御ふくろ樣を江戶へ御越被成て御尤と申上げれば、大野修理、同主馬之助、同道けん、
さなだ左馬助、明石掃部、其外のらう人共が寄合て申けるは、菟角に御ふくろさまを江戶へ御越被成
候儀はいらざる御事に候。市之正は家康のかたんを申候へば、市之正を御せいばいあれと申に付て、
市之正はすいたへ引のけける。さては謀叛におひてうたがひなしとて、東は出羽︀、奧州、關東八ヶ國、
東海︀道、五畿內、西は中國、四國、九國、北は加賀、越前、能登、越中、越後、日本に殘無所大阪へ
押寄せける處に、大阪よりは河內攝津國の、堤をきりて水をはゞませ、道をあしくしたりければ、家
康、秀忠、御親子樣は{{r|都︀|みやこ}}を御出馬あつて、諸︀せいは奈良口をほうりう寺、だうめう寺、平野へ出させ
給ひて、相國樣は住吉に御陣の取せ給ふ。大將軍樣は平野に御陣を取せ給ひて、岡山へ御陣を取よせ給
へば、相國樣はすみ吉より天王寺へ御陣のよせさせ給ひて、ちやうす山に御陣の取せ給へば、諸︀ぜい
は城を取まく。然所に城よりは、天ま、せんば、野田、福︀島、かわ田が城迄指出てもつ。然所に蜂須
賀阿波守、かわだが城へ押寄てたゝかいけれ共、取事のならざれば、石河主殿頭橫矢にかゝりきび敷せ
り合て、ふかきゑ河を{{r|脇立頭|わきだてくび}}立にてとび入{{く}}越て、攻かゝりければ、たまらずしてあけてせんば
へ引入處に、蜂須賀のり入、次の日せんばをあけける處に、石主殿頭のり入て、せんば橋迄押寄て
{{仮題|頁=140}}
橋を越んとする處に、敵はこさせじとすれ共、あたりの衆主殿頭處へすける衆一人もなければ、敵
は是を見てあたりのてつぼうをあつめて打立けれ共、事ともせずして良久しくたゝかいければ、相國
樣聞召て、あたりの者︀共はすけずして主殿をばすてころすか。主殿は何とて目もあかざる處へ押寄け
るぞ。さう{{く}}引のけよと重々御使ひの立ければ、其儀ならばとて少引のきて小口をかためていた
りけるを、天下にかくれなく申ならしたり。相國樣も大將軍樣も兩日の手がらを御感被成けり。さて
城を四方より取つめ、高く築山を築て大筒をかけ、又は江口をつききらせ給ひて、天ませんばの河を
ほし、天地をひゞかせ攻させ給ふ。然る處に越前少將樣と井伊掃部と亂入んとてほりへとび入どいを
のり、{{r|旣|すでに}}のりいらんとしたりけれ共、あたりの衆一ゑんにかまひもなく見物したるふぜいなれば、敵
は此由を見るよりもあたりの虎口を指置て、おりかさなりてふせぎければ、亂入事もならずして引のき
ける。ひるゐなき仕合不申及。然る處に城も成間敷と心得てあつかいに成けるは、此儘ゐなりにゆる
し給へと申ければ、相國の被仰樣には、其儀ならば惣かまいをくづし給へ。其儀においてはいなりに
指おかれ給はんと御意なれば、尤とおうけを申てぶぢに成ければ、おそしはやしと亂入て惣かまいの
へいやぐらをくづして、一日之內に日本國の衆が寄合て一日の內にほりを眞平に埋めて、次の日は二
の丸へ入て二の丸のへいやぐらをくづし、石がけをほりそこへくづし入てまつたひらに埋めさせ給へ
ば、秀賴もしよらう人も、もろ共に惣がまいと申つるに、二の丸までか樣に被成候う儀共はめいわく
仕と申せば、もとより惣がまいと申つる。たゞし本城をばやぶる間敷と申しつるによりて本城はやぶ
らず。其段になれば物をもいわせずしてうめさせ給ひて、相國樣は御先へ京とへ御歸馬被成けるに、大
將軍樣御跡に殘せ給ひて御しをき共被成、五三日御跡に御歸京被成けり。此故は秀賴重而手を被出候
共御心安と御意被成、御親子共に卯の正月、駿河關東へ御歸國被成ける處に、二月は早秀賴手かわり
の由つげ來る。然る處に手出しに堺の町をやき而手を出す。大野主馬、さなだ左馬頭、明石掃部其外
の者︀共が申けるは、京とをやき拂い、大津をやきてせたの橋をやきおとし、其より宇治橋をやきおとし
て奈良をやくべしと申處へ、早相國樣の御馬が京とへ付、押付而早江戶より夜日についで押つめさせ
給へば、大將軍樣もつゞいて伏見へ御付給へば、秀賴の思召事もかなわず。然る處に、ふる田織部は
京とをやき立申さんと申て秀賴と內通申處に、あらわれて其くみのもの迄あらわれ、東寺にはりつけに
かゝる。古田織部は御せいばい成されける。其ほかにも御せいばい人おほし。かるが故に、慶長八年
{{仮題|分注=1|癸|卯}}{{仮題|入力者注=[#「癸卯」は底本では「癸」]}}五月五日に京とを御出馬被成而、同六日にどうめう寺ぐちへ後藤又兵衞をはじめとして各々出ける
處に、たつ田ぐちより出給ふ衆、越後のかづさ守樣、政宗、松平下總守、水野日向守、此衆に出合而、
松平下總守、水野日向守、指合而兩手の前にて合戰してきり負けて、後藤又兵衞は打れける。其外は
いぐんしておひ打にせられ大阪指てにげ入。平野筋へは木村長門が出けるが、井伊掃部と藤道和泉と
兩人指合而、兩手にて合戰して木村長門を打取ければ、大阪指而はいぐんしたる處を、おひ打に打けれ
{{仮題|頁=141}}
ば、のこりは大阪へにげ入、しぎ野筋へは榊原遠江がおひ打にしたり。然る間同七日には、御兩{{r|旗|はた}}に
て押つめさせ給へば、眞田左馬之助は天王寺ゑ押出しける處に、大將軍樣押寄させ給ひ而御旗本にて
きりくづさせ給ひける。大將軍の御手柄廣大無變なり。然る所に城に火がかゝりければ、大阪內が町
迄一間も不殘やけはらいけるはふしぎなり。然る處{{r|陣|いくさ}}すぎて後に味方くづれこそしたり。然る間秀賴
は天主に火かゝりて、千疊敷もやけければ、山里ぐるわへ御ふくろ女房たち引つれ而御入有處に、井
伊掃部を仰被付ければ、大野修理罷出て、御のり物を二三でう給候へ、罷可出と被申候由申ければ、
御ふくろ斗のり物にて出給へ。其外は馬{{r|徒步|かち}}にても出給へと被申ければ、何かと言而出かねさせ給へ
ば、其{{r|儘|まゝ}}てつぱうを打こみければ、かなわじとや思ひ給ひけるや、火をかけてやけしに給ふ。御供には大
野修理、眞野藏人、はやみかいの守、是は秀賴の供をして腹を切てやけしする事たぐひなし。野々村伊
豫守は行方なし。伊藤丹後守は秀賴さい後の場をはづし、さまをくゞりて出けり。大野主馬、千石惣彌
は行方なし。{{r|長宗我部|ちやうすがめ}}と大野道けんは、落ちて{{r|此方彼方|こゝかしこ}}さまよひありく所に、長宗我部をば、やはた
にてとらまへ而高手小手に{{r|諷|いましめ}}て、二條の城の駒寄にしばり付而さらし給ふ。道犬をば大佛にてとらま
へ而高手小手にいましめて、堺の町を引而兩人ながら三條河原へ引出して、あをやが手にかけてかうべ
をはねて三條の橋の下にかけさせ給ふ。秀賴の落胤の若君も、十斗に成せ給ふを{{r|守|もり}}がつれまいらせ而、
伏見までおちゆかせ給ふをいけどりまいらせて、獄門にて切奉り而、すなわちごくもんにかけさせ給
ふ。然間大阪にこもりたる衆は、命ながらへたる衆はこと{{ぐ}}く具足をぬぎすて、{{r|裸|あかはだか}}にて女子もにげち
る。こと{{ぐ}}く女子をば北國、四國、九國、中國、五畿內、關東、出羽︀、奧州迄ちり{{ぐ}}に捕られけ
り。
さて{{r|因果|いんぐわ}}と云ものは有物か、太閤のいにしへは松下加兵衞が草履を取給ひし人を、信長の御取立をもつ
て人となり、今太閤迄へあげ給ひける人の、信長之御恩のわすれ而、御子の三七殿をぬまのうつみにて
御腹をきらせ給ひ、尾張內府をば御地行を召上北國におしこめ給ひ而、御扶持{{r|宛行|あてが}}いもなくしておき
給ふ。さて又太閤の御子秀賴も、相國樣打奉らんと大阪にて一度、又伏見にて諸︀大名に仰而打奉らん
と二度め、會津御陣の御跡に諸︀大名をもよおして伏見の城を攻めころして、相國へむかはせ給ひ而三度
め、又去年謀叛の企て、諸︀浪人をふちして敵に成給ふ事四度め、又當年手を出し而合戰をし給ふ事五
度めなり。相國御じひ故四度迄は御ゆるされ被成けれ共、たすけ度は思召けれ共、此うへは是非なき
次第、たすけおく物ならば又{{r|謀叛|むほん}}を可企、然者︀腹を切給へとて御腹を切せ給ふ。是を見る時んば{{r|因果|いんぐわ}}
と云物有物なり。然る所に御旗奉行の衆今度うろ{{く}}としたるを內々聞召被成候哉、御旗の衆一人は
甲斐國の者︀ほさか金右衞門とて武邊もなき者︀なり。一人は丹波の者︀せうだ三太夫と申者︀なり。是も武
邊の有もなきも御普代家にては人しらず。御{{r|鑓|やり}}奉行の者︀、一人者︀武藏の者︀、若林和泉と申者︀なり。一
人は三河の者︀大久保彥左衞門と申者︀、是は相國御代御七代召つかわさる。其身の先祖︀つたわり申、御
{{仮題|頁=142}}
普代のものなり。然ると申處に、御旗奉行の衆御{{r|鑓|やり}}ぶぎやう衆を下目に見て、何事をも御眼力をもつ
て御{{r|旗|はた}}を我等共に仰被付けるとて物ごと談合をもせず、御{{r|鑓|やり}}ぶぎやう衆はおか敷事申者︀共哉、出頭人
を取むけて有ればこそ彼等に御旗をば仰被付たり。彼等が武邊もしりたり、あすが日にも見よ、彼等
が何事もあらば御旗を取まわすすべをばしる間敷き。又依怙をして彼等を取立んとしたる衆本多上野
其外の衆の胴骨をもよくしりたり。此衆が武邊定の事をかしき腹すぢなる事なり。只今座敷之上にて
何かの事云て依怙したり共、何事もあらば見よ、えこしたる衆迄も恥をかゝせ可申と云ける處に、相
國樣は岡山の方へあがらせ給へば、御旗をば住吉迄押て行、住吉にて相國樣の御座被成候方をしらず
して、十方をうしなひて其時御鑓ぶぎやう衆とだんがふ申せ共、御眼りきにて御身逹には御旗を仰被
付たり。斯樣の時のためにてこそ、御眼力のちがわざるやうに可被成とて一ゑんかまはざれば、重々云
寄て彥左衞門云は、然者︀御旗を阿部野の原へ押上て、あれなる大塚︀へ兩人かけあげて御馬じるしの見
えば其方へ押給へといへば、尤とて御旗をあとへ押返てつかへ上て見けれ共、御馬じるしは見えずと
云。其儀ならば阿部野の原を押上給へと云ば、天王寺をさして押上げるに、中程にて御旗立ける處へ、
彥左衞門がかけよせて、何とて敵ちかき所にて御旗をばふらめき給ふぞ。ちやうす山を左にして押上
給へと云ければ、ほさか金右衞門が申は、御身はへたくらしき事をの給ふぞ。ちやうす山なるは敵に
はあらずやと言ければ、大久保彥左衞門云けるは、御身こそへたくら敷旗をばたつれ、ちやうす山のを
敵にてなきとはたれか云ぞ。ちやうす山のが敵なればこそ、御旗を遲々せずして左へ押上給へと云。相
國の御旗が昔よりついに左樣にふらめきて敵にへりたる事なし、たゞちやうす山を左になして押上給
へと言けれ共返事もなき。{{r|良|やゝ}}有て天王寺の方へは押ずして東の方へ押ける處へ、又大久保彥左衞門かけ
付て、何とて敵を後になして左樣に御旗をば押給ふぞ。御旗がまくれて見ぐるしきに、菟角ちやうす山
を左にして押上給へと云へ共耳にも不入。然る處にちやうす山の東にてやう{{く}}相國樣見付申。然る處
に早天王寺口にててつぱうのなり取合ける時、御旗を田中に立ける時、御{{r|鑓|やり}}を御旗の前へ出しければ、
ほさか金右衞門がかけ出して申は、只今迄御旗のあとに有ける御鑓を、御旗之先へ出し給ふか、我等は
しらざると申時、彥左衞門が申は、不{{レ}}及{{レ}}云{{soe|に}}我等共のあづかり申御鑓を御身達にしらせんならば腹が
いたき。其故物前にて御鑓が先へ不出ば何が可出ぞ、それ故物前にては旗にてたゝき合物か、鑓にて
たゝき合物か、何とて御身達のしらん哉。我等二人のだうぐをしり度共しらせ間敷と云ければ、物もい
わず歸りける。然處に彥左衞門が云けるは、若林和泉殿御らんぜよ。御旗奉行が何をもしらざる。てつ
ぱう衆はみかすみに有り。てつぱう衆へ押付でかなわざる旗を、遙にへだちたると申ければ、左樣に申
たるかと云ければ、いや{{く}}さやうには不申。然者︀我等が可申と被申候へば、彥左衞門が申。いや{{く}}
御無用に候、よき事をば御がんりきに我等仰付たりと云べし、あしき事をば其方と我等なんにいたし
候はん間御無用と申ければ、和泉甲は、いや{{く}}御ために候間可申と被申候へば、彥左衞門重て申は、
{{仮題|頁=143}}
御ための處は指おき給へ、彼等がていにてはまつことの時は、御旗を立申事は成間敷、其時は御身と
我等として立可申ければくるしからず。其儀は御心安可有と申處に{{r|敵|てき}}もはいぐんする。然る處に相國
の御馬じるしの天王寺の方に御座候と見て、其方へ御{{r|旗|はた}}を押けるに、頓て押付るに、天王寺の南にて味
方俄にくづれて來りければ、其時御旗を立けるに、二人の旗ぶぎやう一人もゐず。相國樣は道より天
王寺の方に頓て道{{r|畔|ぐろ}}に御馬をひかゑさせ給ひて御座被成候。御邊には馬のりとては小栗忠左衞門より
外は一人もなくして、ちり{{ぐ}}になりけるがにげたる事やらん、又御さきへゆきたる事やらん、御前に
はあらず。然共少身の衆は此時に候へば、手前をかせぐとても御先へ出ても似合たれ共、御目をかけ
られて人となり諸︀國の衆にもちいられて御影を見、人に{{r|怕慄|おぢおのゝ}}かれける衆は老若をきらわずして、上樣之
御あたりを一寸はなるゝ事は何たる武邊をしても第一のひけなるに、ましていわんや何れも有所をし
りたる者︀は一人もなけれども、時のいせいによりて我も存知たり、我も存知たるとは申せども蔭にては
有所存知たると申人一人もなし。其時御旗ぶぎやうの衆御旗のあたりには一人もあらずして、はるか
後來りて保坂金右衞門が申けるは、大久保平助我等はさきへゆかんと云ければ、彥左衞門申けるは、
尤の儀なり。先には鑓がはじまりたると云にさう{{く}}ゆきてやりをし給へ、我等は仰被付ける御道具
の有所にて可有と申ければ、金右衞門然者︀我等も參間敷と言ければ尤の儀なり、何事はなけれ共若何
事もあらば、仰被付たる御だうぐを枕として、はて給ふを本義と存ずる成と云ければ、其時御旗の所へ
は參たれ、せう田三太夫は先へ出てむかひより鐵砲をはなしける間、其に寄て先へ出て我等も鐵砲を
かけていたるとは云けるが、まことに鐵砲をかけていたるやらん、又はくづれたるやらん人はしらず。
たとへば先へ出ててつぱうをかけてある共ゆわれざる事なり。仰被付ける御どうぐのあたりをはなれ
申事はきこへ不申。然間はじめより彥左衞門ばかりいたる處へ、頓てすわべ惣右衞門が來たる、おしつ
ゞきて若林和泉が來る。御旗奉行二人はるかおそく來る。然間各々の被申樣にも彼衆にましたる御普代
の衆も有に、ゆわれざる衆に御旗を仰被付ける物哉。其故上方と御取合の處に、せう田三太夫も上方の
者︀なるに仰被付候儀はさりとはゆわれざると申。甲州關東の儀は上方との御取合なればくるしからざ
る事なれ共、是と申も出頭衆の氣に入たる故なり。きに入而申被付而も御ためには不被可然事成と各
さたしたり。さて又相國樣は五月八日に御歸京被成けり。大將軍は御跡にとゞまらせ給ひ、秀賴に御
腹を切せ給ひて其外御仕置共被成て御歸京なる。
其後相國樣京都︀にて今度大阪にてのよきあしきの御せんさく被成けるに、あるいはでんちやうらうに
相申たると云人も有り、又はそうてつ法印に相たると云人も有、あるいは我々{{r|互|たがひ}}に云合て證人に立相
たる人も有、事おかしきせう人成。昔は出家や醫者︀などを武邊之證人に立たる人をば、中々付合もせ
ざれ共、今の世は末世にも成り、出家といしやが武邊の脈とり、又は{{r|察|さつ}}しれば武邊に成と見へたり。
又は度々の武邊のしたる者︀を、昔は武邊のせう人には立て有に、一代之內敵のかほの赤きも黑きもし
{{仮題|頁=144}}
らざる者︀を、武邊のせう人に立る事、腹筋のいたきほどおかしき事なり。相國樣はもとより度々合戰
に合付させられて、日本の事は申不{{レ}}及{{r|異|い}}國迄も隱れなき御武邊第一之相國樣なれば、おかしくは思召
共それ{{ぐ}}に被成而、打おかせられ給へば、申霽れたると思ひ而武邊顏をしていたる人おほし。古き
武邊者︀共は目引鼻引わらひてこそいたり。其故武邊のしなも多し、昔はくづれくちの武邊をば武邊と
はいわず、但しくづれざるまへにたがひにつゞゑてまほり合たる時之武邊をば、よき武邊とてほめた
り。敵くづれたる處へ人さきにかけ入たると云共、其儀は昔はほめず、のきぐちの武邊が成がたき者︀
なり。然間のきぐちの時手きつくて敵につかれ申時は、五人十人には過ざる者︀に候間、のきぐちの武
邊を昔はほめ申なり。又こゝに只今はおもしろき事を云、兜をきたる者︀の頸を取ては、もぎ付と云事昔
はなければ只今聞當世流か、昔は小者︀中間ふ丸之頸なりとも、押つおされつ之處にての頸か、又は槍下
の頸か、深入をして打たる頸などの手がらなる處にて取頸は、何くびにてもあれ手がらと云たり。今
度之大阪などのやうにの追ひ頸をばかぶときたり{{r|共|とも}}、たとへば大將のくびなりとも手がらの高名とは
いわざるに、大阪にてかぶと頸を取たるとて利口する事のおかしや。然どもくづれてにぐる人が歸し
ししたる武邊をば、其儀をば殊の外にほめあげたり。今度は始めよりくづれたる敵なれば、各々馬に
ておひかけければ、何時もか樣に馬にのり而合戰は可有と斗、たうせいの衆は心得候へども、合戰の時
は皆々馬よりおひおろして、馬をば後備ひよりはるかにとおくやる物とはしらずして、何時も馬にの
りてあらんと斗言もはかなき事なり。然る所に今度相國樣の御旗奉行之衆うろ{{く}}としたるを聞召被
成候哉、小栗又一郞と大久保彥左衞門が罷出て有けるに、御座の間よりひろ間へ成せ給ひしが、彥左
衞門を御覽ぜられて、汝は旗に付而來りたるかと御意の候へば、彥左衞門手を付いてうしろを見けれ
ば、汝が事にて有と御意なれば、我等は御{{r|鑓|やり}}に付奉り申と申上ければ、汝は旗にて可有と御意なれど
も、いや{{く}}御{{r|鑓|やり}}に付奉り申すとまた申上ければ、重而又汝は旗にて可有と、あららかなる御こゑを被
成而御意の有りけれ共、兎角御鑓に付奉りて參上申由申上ければ、其時したらば旗には誰が付たるぞ
と御意の時、ほさか金右衞門と{{r|小田|せうだ}}が付奉りて參たる由申上ければ、何{{r|小田|せうだ}}々々と三度迄御意なれど
も、三太夫をわすれける處に、小栗又一郞が申上けるは、せう田三太夫と申ける。其時四方を御らん
じけれ共御旗ぶぎやうの衆一人もあらざれば、御廣間へ御座被成候つるが立歸らせ給ひて、御目を見
ひらかせ給ひて、五日の日淀にとまらんとは誰がいふつると、あら{{く}}成御聲にて三度迄被仰候へ共
御返事申上る人なし。はじめに{{r|某|それがし}}に御あらため被成候間、某が事にもやと奉存、彥左衞門申上げ申は、
よどに御とまりの儀は誰と人を奉{{レ}}指に及不申、上下共に左樣に不申候人は、一人も無御座と申上け
れば、重ての御諚に、我がとまらんといわざるに、とまらんと云やつばらめはたくらため迄と御諚被成
而御ひろ間へならせけり。誰申ともなく申つると申上たらば、誰が云つると御意被成而云くちを御せ
り被付可申が、上下共不申候人一人も無御座候と{{r|言|ごん}}上申によりて、彥左衞門はされ共せり被付不申。
{{仮題|頁=145}}
又然る處に二三日過而水野日向守御目見へに參而有。小栗又一郞大久保彥左衞門も有つる處に御座の
間より書院へならせ給ひけるに、日向守を御らんじて、今度は何としたるぞと御意被成ければ、日向
守申上けるは、さればせんばの方より三百騎斗住吉之方へ參申たるが、其內より三十騎程天王寺の{{r|土|ど}}
井に奉付而參申たるが、何方へ參りたるを不存候と申上られければ、其時御諚に、汝がしるべしと御
諚なれども、人を指而の御諚なければ、おうけを申上る人もなければ、彥左衞門手を付而、うしろの
方をみければ、汝が事なり汝がそこにいたればしりつらんと御意なれば、されば天王寺の土井の方よ
りもすぐ道の御座候ひつる。其よりにげ出申者︀がちやうす山の方より岡山の方へ參本道へ罷出申て、
本道をくづれ申者︀と一つに罷成申而參申に付而、敵味方之見わけは不存と申上ければ、其は敵かと御
意有りければ、敵のかほは見しり不申、ずいぶんの地行取衆が逃來り申つるが定而其中へも入而參申
か不存候。其くづれ而參候衆が御{{r|鑓|やり}}をもふみちらし申、馬之上にてかなぐり取而切折り申而もちて參
候。それを見てやりかづき共が又きりをり申たるも御座候と申上ければ、御諚にさても{{く}}腰拔めか
な、やりの短きがよきと云事をばいつしりたるぞ。然ば其者︀共は何方へにげけるぞ。御前の方へ參申
つるが、御前樣より某などは御先に罷在つる儀に御座候へば前後は不存と申上ける時、其儀ならばや
りはなきかと御たづね被成ければ、御鑓も御座候へども多分無御座と申上ける。相國樣は三間柄より
短きをば惣別にきらわせ給ふ事なれば、鑓をきり折り申たる者︀を腰ぬけと思召儀共なり。然る處に其
明の日二條の御構ひの火たきの間にての事なるに、松平右衞門は御旗は見ぬと云。彥左衞門は御旗は
立たるに何とてたゝざると仰候哉と云。いや我等共は見ずと云。又云、七本之御旗の立たるを何とて
見給はぬ哉と云。また立たる御旗をたゝぬとはいわれ間敷と云ければ、其の時こゝに御入候各々は見
給ふかと右衞門にいわれて、時の出頭におそるゝか、我も見ぬ{{く}}と各々口を指上云ければ、さればこ
そ聞給へ、御旗は立ざるにきわまりたり、我等共も見ず各々も見ぬとの給ふに、御身一人斗立たると
の給ふはたゝざるが必定成と云。又云{{r|實|げ}}に{{く}}左樣にも可有、頓て心得たりと云。何と心得給ふと云
ければ、{{r|云|いはく}}べつの儀には有間敷、おそれながら各々の暗の夜程に御らんぜば、我は月の夜程に見申べ
し。月の夜程に御覽せば我等は晝程に見可申。よく{{く}}存知候へば各々は其元へ御越候はで御越有と
仰候物か、若其元へ御越候とも、七本之御旗を御らんぜずんばあわて給ふか。其儀ならば不可然と云
ければ、重而之{{r|戰鬪|たゝかひ}}はなし。然間彥左衞門申は、其時御旗もおさまりて後具足をぬぎて、ぐそくかた
びら斗にて其まゝせう田三太夫と二人參て、上樣の御馬の立處、又は御旗の立所を見て返り申つるが、
各々は御らんぜ候かと云へば、其時右衞門げにと見る所成を、何のふんべつもなくして見ざると云けれ
ば、彥左衞門左樣に見る所をさへ見給はで物をあらそひ給ふかと云。然る間各々有事をろんじて、後
には彥左衞門を{{r|性|じやう}}の{{r|强|こは}}き者︀と云。又然る處に二三日すぎて、御前にて御せんさく有而よく申ひらきた
る人も有、又あしく申而{{r|退|しさ}}るも有。然る處に、やりに付きたる者︀參れと有ければ、又彥左衞門が罷出
{{仮題|頁=146}}
る。然る處に御せんさく過ぎて御座敷へいらせられ給ふとて彥左衞門を御覽じ付て被仰けるは、汝は
鑓に付て來ると云かと御狀なれば、かしこまつて御座候と申上ければ、御けしきかはりたまひて、彥
左衞門手を付たる疊のへりをふませ給へば、よこ疊の事なれば二尺四五寸へだたりける其間を、御杖
にてつかせ給ひて、汝は何とて我にはつかざるぞと御狀の時、御鑓に相そへられ御旗本の{{r|諸︀|しよ}}鑓まで若
林和泉と某に仰被付候へば、千本に及申たるやりに御座候へば、御旗に付申たる御どうぐに御座候へ
ば、御旗の有所に罷在由申上ければ、其儀ならば何としたるぞと御狀の候時、御旗が大和が冬の陣場
に立申間、御やりも其に罷有たりと申上ける時、そこに旗は立まじくぞと御狀の時、いや其に立申た
りと申時皆共見ざると云程に立間敷と御狀なれば、彥左衞門申は、何と御狀成とも御旗は立申たりと
申せば、早御けしきかわりて御わき指をねぢまわさせられて、頭へ埃のかゝり申ほど御杖にて疊をつ
かせられて、我も見ざるほどに、莵角に立間敷と重々御狀なれども、何と御狀成共御旗は立申と强く
申はりたれば、御狀には、其儀ならば何としたるぞと御狀之時、ちやうす山の方より崩れて來り申者︀
が、御家中の旗、やり、又は御鑓共にふみくづして御旗斗立て罷在と申上ければ、然者︀何としたると
御狀の時、ちやうす山方より參たる者︀は御前の方へ參而、御前の方がくづれ申と申ける時、弓矢八幡
今日の天道我が一代迯げたる事もなきを、あれめが我をにげたると云。大久保七郞右衞門が{{r|性|じやう}}の{{r|强|こは}}き
に、大久保次右衞門がこわきに、兄弟一のぢやうの{{r|强|こは}}きやつめなり相模をも我が{{r|助|たす}}けておきたる。あ
れめが情のこはき事を云と御意被成て、城內のひゞくほど御聲のたかければ、各々何事にやと申て肝
を消す。然る處に本多上野守參て彥左衞門が手をとりて罷立とてつれて出る。上樣の御そばへ永井右
近がまいりて、御道理にて御座候。總別ぢやうのこわき者︀にて御座候と申上ければ、御腹をいさせら
れ給ふ。然間彥左衞門召つかいが申ける、ゆわれざる御ことばを返給ふと云ければ、おのれらはしる間
敷、何とて上樣を迯げさせられたると、天道おそろしく申上申さん哉、上樣は小栗忠左衞門と只二騎御
馬に召而御座被成候。御へんには二十人ぐみ衆れき{{く}}といたる。然共ずいぶんの衆はにげてこそ有
らん、御前にはあらず、上樣こそ御座被成けり。御內のれき{{く}}はおふかたにげける間、申ぞこなひに
はあらず。然共此さきの御たづねにはゆる{{く}}御たづね被成候に付而御前の方へ參申つるが、御前と
は程へだち申間、御前へ參申而からは不存と申上ければ、御機嫌もよく御座候つるが、今日はつめ寄
てせり付{{く}}被仰候間、某も事の外せき申故に、御前が崩たると申上たる儀は心の外の儀成。又御こ
とばを返し申儀はべつの儀にあらず、御旗奉行衆うろめきたると聞召けるや、それをにくしと思召て
御旗がにげたると御狀被成けるは、上樣の御ちがい成。御旗にきずを付させられて、御はたがにげたる
と被仰所にはあらず。其に御腹を立せ給ひて、我が旗はにげたると御狀被成候を、各々れき{{く}}とし
たる御取立の衆中々にげ申たり。我等共も見不申と申上たる衆は日本一のひけと云。又は御しうさま
の御事をおもわずして當座の御きげんとり申つるは、さて卑怯にはあらざるや、某は相國樣迄御代御
{{仮題|頁=147}}
七代召つかわされ申御普代の者︀なれば、御旗にきずをば付申まじき。たとへにげ申たる御旗成ともに
げ不申と申上而、其が御咎ならば頸はうたれ申共、御旗のにげたるとは何として可申上哉、各々は當
座の御意にいり申とて、以來之御主のためをば不申、我等はとうざにくびは打れ申共、以來の御ため
あしくは何としてかは可申、相國樣度々之儀を被成申せ共、味方が原にて一度御旗のくづれ申寄外、あ
とさきに{{r|陣|いくさ}}にも御旗のくづれ申無{{レ}}事。況や七十に成らせられて、おさめの御ほうどうの御旗がくづれ
ては、何の世にはじをすゝぎ可被成哉、然時んば我等が命にかへても御旗のくづれざると申たるが、御
普代の者︀の役なり。又いかに御取立成とも當座の御氣にそむかざるやうにと思ひて、以來の御ために
かまはざる事こそ、御ふだいにあらざる人のやく成。我等御ことばを返し申而からかひ申たる故に、お
さめの御ほうどうの御旗はくづれぬになる。其儀をかんがへずして、某を上樣にからかい申たる我ま
ま者︀と申人は、とても末世御主の御用には立事有間じき。御ことばを返し申故に、世間にては我等に腹
を切せ可被成由を申と承候へば、其儀ならば我等唐高麗へ落行而、石のからうとに入たればとてもの
がるゝ事は有間じく、其儀ならば御前へ只今罷出て腹を切迄とて上下をきて出る處へ、小栗又一郞が
來りてやどに有かと云。何として被出けるぞや。其儀成、御前へ出給へ。出はぐれたらば出る事成が
たし。腹を御きらせあるならば切給へ。年寄衆して御意を得被申候事は御無用成。其に付て何かと被
仰候はゞ後六ヶ敷可有、定業はさだまりたり、あしきことをして死したるにはましなり。御主の御た
めを申而其があしき事に成ならば是非もなき事成、只今可被出同道可申とて、來りたると申ければ、
よくこそ御出有たれ。只今我一人罷出て腹を切せ被成候はゞ可切と存て支度申たり。我腹を切ならば
介錯には何時も御身寄外に賴可入人なければ、さいわいの所へ被出候者︀かな。腹を仰被付ば御かいし
やくを賴入事、目出度も御出かな。いざや御ともせんとて二條の御城へ參りければ、彥左衞門が來りた
ると申而、各々興醒貌にて有ける所へ、上樣御出被成而御覽ぜられて通らせ給へば、又一郞も心安とて
同道して歸りける。然間からかい申たるよりも、被出間敷所を出たりと人々も申なり。然間卯の年は兩
上樣ながら江戶駿河へ御歸國被成けり。
然間元和二年{{仮題|分注=1|丙|辰}}の正月、田中へ御鷹野に御成被成ける處に、俄に御わづらいつかせられて、次第々々に
おもり給ひて、卯月十七日に御遠行被成ける。御遺言の儀たれしりたる人はなけれども、申ならはした
るは、我がむなしく成ならば、日本國の諸︀大名を三年は國へ歸さずして、江戶に詰めさせ給へと被仰け
る時、大將軍の御狀には御ゆひごんの儀一つとして違背申まじき。然とは申せども此儀におひてはおゆ
るされ可被成候。左樣にも御座候へば、若御遠行被成候はゞ、是より日本の諸︀大名をば國へ歸し申て、
敵をもなさば國にて敵をさせ、押かけて一合戰してふみつぶし可申。何樣天下は一陣せずしてはおさ
まり申間敷と被仰候へば、其時御手を合られて、將軍樣をおがませられて、其儀を聞き申度ために申
つる。さては天下はしづまりたりと御よろこび成され而、其まゝ御遠行被成候と申たり。下々にて、
{{仮題|頁=148}}
さても{{く}}將軍樣の被仰樣は承ごとかなと舌を捲いてほめ奉たり。然間相國こそ卯月十七日に御遠行
ならせ給ひけれ、各々は不{{レ}}被{{レ}}下して國元にてゆく{{く}}と、其元仕置き其外申付而來年罷下給へと仰被
越給ふ。此御ことばに付おそしはやしと諸︀大名は罷下。
さればにや君之御めぐみあまねく、御あはれみのふかくして世もしづまり、かた{{ぐ}}も安穩なるにて、
昔を思ふに大唐殷の國に旱魃する事三ヶ年なり。然に草木こと{{ぐ}}く枯れうせ、人民多くほろびける
うへは、鳥獸にいたる迄いきのこるべしとは見へざりける。國主大になげき給ひて、大法祕法のこさ
ずおこなひ、雨を{{r|祈︀|いのり}}給へどかなわず。大王思ひの餘りに諸︀天を{{r|恨|うらみ}}奉りていわく、我生て寄此方、禁戒
をおかさず政みだりにおこなふとも思はざるに、如此日でりして人の生命すくなし。身にあやまりあや
まる處あらば、いましめ給へかしとなげき申さるれども、其しるしなかりけり。今は{{r|自|みづか}}ら命を民の{{r|爲|ため}}に
すてんにはしかじとて、{{r|廣|ひろ}}き野邊に出て萱をおほくあつめて高さ二十丈につみあげさす。公卿大臣奇
異の思ひをなすに、國王臨幸なりて、其かやの上にのぼり給ひて、まわりに火を付よと宣旨を被成けれ
ば、臣下大に辭して付る者︀なし。其時大王の給はく、若あやまりて政{{r|罌粟|けし}}ほどもみだり成事あらばやき
ぬべし。やくる程の身ならば命いきても益なし。若又あやまらずば天是をまもるべしとて大に逆鱗有り
ければ、綸言そむきがたくして四方寄火を付ければ、猛火山のごとくにもゑあがりて、{{r|炎|ほのほ}}空に{{r|充|み}}てり。大
王もけむりに{{r|噎|むせ}}び、前後もわきまへがたくし、すでに御衣に火の付ければ御目をふさぎ、掌を合十念
に住して火境變淨地と念じ給ひければ、天是を憐み大雨俄にふりくだりて、山のごとくなりつるみや
う火をけし、國王もたすかり給ふ。人民命をつぎ{{r|五穀︀成就|ごこくじやうじゆ}}しけるとなり。是も大王の御心一つをもつ
てなり。されば論語に曰く、あやまつてあらたむるにはゞかる事なかれ。あやまりてあらためざるは
{{r|賢|けん}}かへりて愚なりと見へたり。然に此文の名を{{r|圓珠|ゑんじゆ}}ともいへり。まことなる玉のばんをはしるによそ
へてなり。公方樣の御ことばのおもき、一つに天下も穩やかにたせいも靜まり、國土安穩にしてたみ
もゆたかにさかへ、目出度御代とぞ申けり。さて又我傳聞くは、{{r|親|ちか}}氏{{r|泰|やす}}親樣より今當將軍樣迄御代拾
一代の御事をあらまし傳てきゝおきしに、御代々御慈悲をもつて一つ、御武邊をもつて一つ、よき御{{r|普|ふ}}
代をもつて一つ、御情をもつて一つ、是によつて御代々もすへ{{r|程|ほど}}御はんじやう目出度なり。御子大將軍
樣の御代にわたらせ給はざる時は、物をものたまはず、人に御ことばをかけさせられ給ふ御事もなく
して、何とも御心の內をしれず。いかにとしても御代につかせられ給ふ御事、いかゞあらんと申人多
き時、大久保彥左衞門が申けるは、この君樣はあだなる御人にはならせられまじき。其をいかにと申
に、{{r|淸康|きよやす}}樣は御年御十三にして御代をうけとらせ給ひて、{{r|纔|わづか}}の案祥︀の小城をもたせ給ひて、{{r|雜|ざう}}兵五百
の內外の御普代の者︀斗にて、三河一國を、御年十七八の御時分はきりおさめ給ひて、其後小田の{{r|彈|だん}}正の
忠をおひすべて尾張を半國きりとらせ給ひて、諸︀國にて案祥︀の三郞殿と申て、人に{{r|怕|おぢ}}られ給ふ。其淸
康樣の御育ち、又はなりふりまでも我親共の物語申つるに、すこしもたがわせ給はねば、うたがひもな
{{仮題|頁=149}}
き御武邊はたけくおはしまして、諸︀國の人の恐れをなさざるはあるまじき、目出度御{{r|屋方|やかた}}可成ぞ。我
は年寄の儀夕さりをもしらず。此かき物に後引合て子共ども見よ。つかな{{r|蛇|じや}}は一寸を出して其大小を
しり、人は一言をもつて其{{r|賢愚|けんぐ}}をしるといふことは、當將軍樣の御事なり。御雜談のおもむきを承し
に、御武邊ならぶ人有間敷ぞ、御普代久しく召{{r|遣|つか}}われ申せば、御代も御長久に目出度なり。是やせい
やうの詞に、漢︀の文王は千里の馬を宣じ、晉の武王は{{r|雉頭|ちとう}}の衣をやくとは、今の御代にしられたり。
民の竈には朝夕の煙もゆたかなり。賢王の代になれば鳳凰翅をのべ、賢國にきたれば麒麟蹄をとく
と云ことも、此君の御時にしられたり。目出たかりし御事なり。抑東{{r|照權現|せうごんけん}}は、かたじけなくも紅葉山
に崇め奉り、{{r|蘋蘩|ひんぱん}}の禮社︀壇に繁︀く、奉幣しんぎよく{{r|石社︀|せきしや}}なり。其垂跡三所は仲哀、神︀功、應神︀三皇の玉體
なり。本地を思へば、本覺法身本有の如來なり。八萬法藏十二部經の如來も、法しんの如來も、ほんう
の如來も何れとわくべき一體なり。名付て三如來と號す。生界經行果上の三重の袂をあらわしたまへ
り。百王鎭護の誓を起して、一天{{r|靜謐|せいひつ}}にめぐみおはします。まことに是本朝の{{r|宗廟|そうべう}}として源氏をまも
り給ふとかや。現世あんをんの方便は、{{r|觀音|くわんおん}}の信力を{{r|起|おこ}}し給ふ、仰ぎても信ずべきは此權現なり。相
國の御ために淸淨{{r|衆緣|しゆいん}}の建立し給ふ。今の權現堂是成。其のほか堂塔を創立し給ふ。佛僧︀經卷をあふ
ぎ、御志{{r|卽壯|そくさう}}にして善根も又莫大なり。征夷大將軍に任ず。籌策を帷帳のうちにめぐらし、勝こと
を千里の外にえたり。げにやはるかに{{r|纔|わづか}}の案祥︀に御座の御時、淸康山中岡崎を御手に入させられ給ひ
て、其後三河一國をおさめさせ給ひて、御子廣忠へゆづらせ給ふ處に、{{r|伯父|をぢ}}內前に立被出給ひて、其
後御普代の衆が入奉りて駿河の吉元を賴奉りて、竹千代樣を人質に被{{レ}}進し時、{{r|繼祖︀父|まゝおうぢ}}中にて盗取、小
田の{{r|彈|だん}}正忠へうり奉りて、御六才の御年より熱田大宮司があづかりておはします御時は、かく可有と
はたれか思ひよるべきや。今一天四海︀をしたがへ、唐、高麗、中天竺まで掌なくなびかせ給ひ、なびか
ぬ木草もなかりける。まことややしきのことばに、天下安寧なる時はけしやくをもちひずとは、今こそ
思ひしられたり。
{{r|偖|さて}}又我子共物を聞け。親氏の御代に三河國松平之鄕へ御座被成てより此方、{{r|親|ちか}}氏、{{r|泰親|やすちか}}、{{r|信光|のぶみつ}}、{{r|親忠|ちかたゞ}}、
{{r|長親|ながちか}}、{{r|信忠|のぶたゞ}}、{{r|淸康|きよやす}}、{{r|廣忠|ひろたゞ}}、{{r|家康|いへやす}}、此御代々野にふし山を家としてかせぎ、かまりをして度々の合戰に親
を打死させ子を討せ、伯父、甥、從弟、はとこを打死させて、御ほうこうを申上、それのみならず女子
けんぞく共に麥の粥粟稗の粥をくわせ、其身もそれをくいて出ては打死をして御ほうこう申上たる、
其すへ{{ぐ}}子共供が、只今は御前へ可罷出ちからもなければ、ゆくゑもなき{{r|人|ひと}}の{{r|普代|ふだい}}と成、{{r|一季奉公|ひときぼうこう}}
をして世をめぐるも有り、御はしりばうかうをするも有り、{{r|荷擔商|になひあきなひ}}をして鰯田作をうりて世をおくる
も有、又は御前御ほうかうを申せ共、百俵、百五十俵、貳百俵、三百俵被下候へば、御前の御ほうかう
を申せば、髮をゆひ申若とうの一人も二人もつれではかなわず、御城ありきにもならざるとて{{r|徒跣|かちありき}}にて
もならざれば、小者︀の五人三人{{r|持|また}}でもならず。百二百三百俵被下候物は年中の上下一{{r|衣|え}}又は若とう小者︀
{{仮題|頁=150}}
の扶持給にもたらず候へば、內儀は昔親祖︀父のすぎあひのごとくなる、稗粥のていなり。各々御普代の
すへ{{ぐ}}のくらし申なり。それのみならず其身が咎とは申ながらにて候へば、さら{{く}}御怨みにはあら
ねども、御勘氣をかうむり奉りてこゝかしこ徘徊し、{{r|餓死|がし}}に及も有り。然間人を召つかう事{{r|番匠|ばんじやう}}の木を
つかうが如し。長木をばうつばりにし、短きをばひじきつかばしらにす。如此人の器︀用分限に{{r|隨|したが}}いて
心もちをしてあてがいつかふ。されば人をあまさずしてすべき事共なり。又年比召つかうともちいさ
き咎あらんには捨べきなり。或文に曰く、君子はよき事一つしたるをば百のとがあれども人をすてず、
下郞はよき事百度したれども、とがを一度しつれば恨みつるなり。人をかへりみるには我ごとくある物
はすべてなき物なり。是{{r|則|すなはち}}主となる時は、人をもどかわしく思ひ、臣と成時は人にもどかるゝ習いな
り。惣別三河の者︀は明暮弓矢をかせぎければ、公儀の道は何れもしらざる。然と申せどもかうぎのよ
き物何に可被成、日本の諸︀侍はこと{{ぐ}}く御內の者︀にて候へば、誰をあがらめてせうくわん被成てかう
ぎのよき物を御用に思召や、{{r|餘|あま}}りかうぎのよき物に昔も武邊をかせぎたる物なし。{{r|偖|さて}}又日本の諸︀大名
に金銀{{r|實|たから}}物を被下給ふ事は、海︀河へなげいれさせ給ふ{{r|如|ごと}}く也。其を{{r|如何|いか}}にと申に大名は百姓同前にて、
此前々も草の{{r|靡|なびき}}にて{{r|强|つよ}}き方へ斗就きければ、後世にもかく可有。何の{{r|入|いら}}ざる諸︀國の者︀は、御身にも成
間敷者︀に過分の御知行を被下候ても、其上に御{{r|氣遣|きづかひ}}可被成。御普代の衆の{{r|產廣|うみひろ}}げたる子が方々へ{{r|散|ち}}り
て有を召{{r|集|あつめ}}させ被成、御{{r|勘氣|かんき}}の御普代衆をも御{{r|赦|ゆる}}し被成候はゞ、五千も一萬も可有。是を召よせられて
御座あらば、百萬騎にて寄來る共、上樣の御先にて{{r|働|はたら}}く物ならば、きまんごくのきおふが寄せ來る共、
何かはためんや。只今斗にもあらじ。長親樣の御時も北條の新九郞が一萬餘にて{{r|寄懸|よせかけ}}たるを、長親
樣五百斗にて斬懸らせ給ひて斬崩し給ひし事も有。家康樣の御時氏なを四萬三千にて相陣を取時、相國
樣の人數は七八千にて四萬三千につらを出させ給はねば、氏なをは國郡を歸して降參してのく。同太閤
の拾萬餘にておぐちがくでんに陣取給へば、相國樣は{{r|雜|ざふ}}兵七八千にて{{r|小牧|こまき}}山へあがらせ給ひて相陣を
とらせ給ひ、十萬餘の人數につら出しをさせ給はず、あまつさへ三萬餘打ころし給ふ。是を見る時ん
ば、御{{r|普|ふ}}代衆{{r|押|おさ}}へ召寄させられておかせられ給はゞ、萬に御きづかいは有まじけれども、御{{r|普|ふ}}代の衆と
いへば肩身をすくめてありく事は是は何事ぞ。他國衆は只今世がおさまりたる故におひさう被成て御
普代衆をば外樣に召つかはれ給ふ。御代は五百八十年目出、しぜん何事もあらば、他國衆は御目を日比
かけられ申たるとはおもわずして、こと{{ぐ}}く欠落をすべし。それのみならず只今も左樣に可有、御
目をかけられ申內はぜひとも御用に立可申とは思ひ申べけれ共、御意も{{r|背|そむ}}き御{{r|言葉|ことば}}をも御かけなく
ば、そばめる心有て御かたじけなく候間、御用に是非共立候はんとおもふ人は一人も有まじき。又御普
代衆の御重寶は召つかわさるゝ人の儀は不申及、在々所々に有て御存知なき衆迄もはせ來りて御用に
罷可立。然時んば{{r|鴆毒|ちんどく}}口に甘くして命を斷、{{r|良藥|らうやく}}くちに苦くして身をたすくと云文有。ちんどくと云
鳥は海︀をとび{{r|渡|わた}}るに毛一つもおちいれば、かいちうの{{r|生類︀|しやうるい}}こと{{ぐ}}くしするなり。是は口に甘きなり。
{{仮題|頁=151}}
然る間おろかなる物のあしかるべき事を、主を賺さんためにいつくしくして、なだらめて心にたのむ
すぢと心得て申せば耳にいる。まつそのごとく他國の衆はかう儀はよし、口はじやうずなり、御ほうか
うはよく申なり。召つかわされよきまゝに御心をゆるさせ給ひて、御膝{{r|元|もと}}ちかく召つかわされ候事は、
ちんどくのくちにあまきがごとし。又は御普代衆は相國樣の御代迄山野に伏て夜ひるかせぎ、かまり
をして、武邊を家としてやりさきをとぎみがき、矢のねをみがきてつぱうをみがきて、武邊をむねに
たやさずして此道をかせぎたる衆の孫子にて候へば、祖︀父親のぶこつ成すがたを生おちより見つけて
候へば、上方衆のやうに、いたいけらしき聲づかいして、こびひなのやうに出立て、けいはくを云事は罷
成間敷けれども、しかしながら、{{r|恐|おそ}}らくは御用にたち申事においては、御普代衆に上こす事はおそれ
ながら日本には有まじけれども、只今は御用づくは御國も治まりて天下富饒成うへ、いらざると思召て
御普代衆には御ことばがけも不被成候哉。殊吏{{r|案祥︀|あんじやう}}御{{r|普代|ふだい}}、山中御普代、岡崎御普代の衆のすゑ{{ぐ}}を
ば、一しほ御目にもいれ給はざる御事は、良藥口に苦きが如く、然どもらうやくは口ににがけれども
やまいを治する。御普代はぶこつにて召つかわれ候事もどかはしく思召とも、御わきざしと思召御心
おきなくゆる{{く}}と御心をもたせ給ふ御事は。御普代衆にこす事は有まじけれども、左樣には候はで
とざまにて召つかわれ候へば、かたみをすくめて各々御{{r|普|ふ}}代の若き衆はありく。他國衆は只今は御座
敷にては御用にたゝんと云て、肩衣にてめをつかせてありく共、取つめての御用には、御座敷の上にて、
かゞみたる御普代衆には中々思ひもよらず成間じき。昔の引べつも有、諸︀國のらう人が濱松へ出來り
て御普代衆にもまけ間敷、是非共に御用に立て御旗の御先にて打死を可仕候と、{{r|誠|まこと}}しやかに高言をき
らしければ、上樣もさもやあらんと思召、又は御普代衆もげにもと思ひてまけまじとかせぎければ、
御普代衆を一度越たる事もなし。其故味方ヶ原にて御合戰に打負させ給ひて、{{r|旣|すで}}に遠江三河もあぶなく
思召候時は、日比かうげんきらして有る諸︀國の諸︀{{r|浪|らう}}人は、かけおちをして一人も殘らずして、三河遠
江の者︀斗有て、御用に立て御運のひらかせられける。か樣なる引べつも候へども、其儀を御存知なくし
て上方衆を御{{r|祕藏|ひざう}}被成、御心をおかせられ給ひて、御身になる御普代重代の衆のすゑ{{ぐ}}をば御ことば
がけもなし。御普代衆をあつめおかせられ給ふならば、日本國者︀打かはるとも、百萬騎にてよせくる
とも、御普代衆五千も一萬も可有が、上樣の御先にて錣を傾けてかゝるならば、何かはためん哉。御普
代衆をあしく被成候事は、上樣の御しつついを御存知なきなり。淸康樣家康樣などは御普代の者︀をた
いせつに思召て、弓矢八幡普代の者︀一人には一郡にはかへまじきと御意被成ける間、なみだをながして
かたじけなしと申てかせぎけるが、只今は御普代の者︀を御存知なきとてなみだをながしける、うらと
おもてのなみだなり。是迄は何れも御ちうせつ被成候御普代衆、又は我々共の儀なり。さて又子共ど
もよく{{く}}きけ。此書付は後の世に汝共が御しうさまの御ゆらいをもしらず、大久保一名の御普代久
敷をもしらず、大久保一名の御{{r|忠|ちう}}せつをもしらずして、御主さまへ御ぶほうかうあらんと思ひて、三
{{仮題|頁=152}}
でうの物の本にかきしるすなり。何れも大久保共ほどの御普代衆は數多候間、別の衆の事は是にはか
きおくまじけれ共、ふでのついでにあら{{く}}かきおくなり。各々のは定て其家々にてかきおかるべけ
れば、我々は我が家の筋を詳しくかきおくなり。先御地行不被下とても、御主樣に御不足に思ひ申な、
過去の{{r|定業|ぢやうごふ}}なり。然とは云ども、地行をかならず取事は五つあれども、如此に心をもちて地行を望むべ
からず。又地行をゑとらざる事も五つあれども、是をばなを{{r|飢|かつ}}ゑて死するとも此心持をもつべきなり。
第一に地行を取事、一には主に弓を引、{{r|別儀|べつぎ}}べつしんをしたる人は、地行をも取末も榮、孫子迄もさ
かると見えたり。二つにはあやかりをして人にわらはれたる者︀が、地行を取と見へたり。三つにはか
うぎをよくして、御座敷の內にても立まわりのよき者︀が地行を取と見えたり。四には算勘のよくして、
代官みなりの付たる人が地行を取と見へたり。五つにはゆくゑもなき他國人が地行をば取ると見へた
り。然共地行をのぞみて夢々此心もつべからず。又は地行をゑとらざる事、第一には一普代の主にべ
つぎべつしんをせずして弓を引事なく、忠節︀忠功を成たる者︀は、かならず地行をばゑとらぬと見へた
り、末もさからず。二つには武邊のしたる者︀は地行をばゑとらぬと見へたり。三つには公儀のなきぶ
てうほうなる者︀が地行をばゑとらぬと見へたり。四にはさんかんをもしらざる年の寄たる者︀が、地行を
ばゑとらざると見えたり。五つには{{r|普代|ふだい}}久しき者︀が地行をばとらざると見へたれども、{{r|例|たと}}へば地行はゑ
とらでかつゑ死ぬるとも、かならず{{く}}夢々此心{{r|持|もち}}を一つもすてずしてもつべし。電光朝露石火のごと
くなる夢の世に、何と渡世を{{r|送|おく}}ればとて、名にはかへべきか。人は一代名は末代なり。子共どもよくき
け。相國樣迄は一名の者︀どもをば御念比に被仰つるに、只今は何の御咎によりて大久保一名の者︀共は、
かたみをすくめせうかを立てありき申事、さら{{く}}不審晴︀れ不申。信光樣寄此方今當將軍樣迄御九代
召つかわされ給ひしに、我等共が{{r|先祖︀|せんぞ}}御代々樣へ一度そむき奉り申たる事もなし。其故淸康樣の御時に
は案{{r|祥︀|じやう}}斗もたらせられ給ひける處に、我等共が祖︀父が山中の城をちやうぎをして、取て進上申なり。其
より山中衆が御手に入て山中御ふだいと申なり。{{r|廣|ひろ}}忠の御やうせうなるによつて、{{r|眼前|がんぜん}}の大{{r|伯父|をぢ}}にて
御座有松平內前殿{{r|押領|あふりやう}}して、廣忠樣を岡崎をたて出し奉せ給ひし時、伊勢の方を御らう人被成候へて
わたらせ給ふ處に、十人斗も御供をして出るに、大久保一名の者︀は御供を申ならば、廣忠樣を御本意
させ申奉る事なりがたければ、せんほうになりて御跡に止まりて、是非共に一度は岡崎へ入奉らばや
と申て御供をせずしていたり。其外の御普代衆にも其存分にてとゞまる衆もおゝかりける處に、內前
殿の仰には、廣忠を岡崎へ入申さん者︀は、大久保新八郞寄外有間じきに、新八郞に入申間敷と起請を
かき候へとて、伊賀の鄕八幡の御前にて七まい起請をかゝせけり。其故にても、とかく新八郞より外有
間じきとて、又伊賀の鄕の八幡の御前にて、一度ならず二度ならず七{{r|枚|まい}}きせうを三度迄かゝせける。其
時新八郞やどへかへり、おとゝい共物をきけ。上樣を岡崎へ入申まじきと又七まいきしやうをかゝせた
り。殿樣を一度御本意させ申さんためにこそ御跡にはのこりたり。其心なくば御供をこそ申べけれ。
{{仮題|頁=153}}
七まいきせうの御ばつとかふむりて、此世にて{{r|白癩黑癩|びやくらいこくらい}}のやまひをもかうむれ。又はせがれを八つ串に
も刺さばさせ、女房を牛裂にもせばせよ、來世にては無間の住家共ならばなれ、是非共一度は入申さ
では置まじきと申て、我等共が伯父我等父などを引かこち、又は林藤助、{{r|八國|やかう}}甚六郞、成瀨又太郞、
大原佐近右衞門などを引入れ、其まゝ廣忠を岡崎へ入奉る事も有、又{{r|伯父|をぢ}}ご樣の{{r|藏人|くらうづ}}殿御べつしんの時
は、我等親の甚四郞と同弟の彌三郞と兩人して、藏人殿御家中をくりわりて口をもきくほどの者︀を、こ
と{{ぐ}}く岡崎へ引付申せば、藏人殿御腹をたゝせ給ひて、大久保一るいの者︀の女子を一人、何共して取
て磔にかけ度と被仰候事も有。又有時は御普代衆こと{{ぐ}}く一揆を起して御敵に成て、野寺、佐々木、
土ろ、はりざきに立こもりて、相國樣へ{{r|錆|さび}}矢をいかけ申時も、我等をぢの大久保新八郞屋敷城をもち
て、わづか敵の城へ七八町十町斗へだてゝ、日夜たゝかいける。其時はこと{{ぐ}}く御敵を申せば、一國一
城のやうなれども、大久保一流共が御味方申たる故に御運の開かせ給ふ。其時土ろはりざきを打あけ
て、大久保共の有ける上和田へよせかくる。其時正月十一日に大久保五郞右衞門も同七郞右衞門も一度
に目をいられける。こと{{ぐ}}く手をおはざるはなし。其時上樣人一ばんにかけつけさせ給ひて{{r|旣|すでに}}のりい
れんと被成ける處に、大久保次右衞門がはしり付奉りて御馬のくちを取、御跡を御らんぜよ、たれもつ
づき不申とてとゞめ奉り申時、汝共が恩をば七代御わすれ被成間じきと被仰し御事も有。おとゝい共
しんるい、いとこ、はとこ供のかせぎ申儀は申つくしがたし。我等をぢも打死をする、いとこ供もおほ
く打死をして御ほうかう申、又は我等が兄も三人打死をして御ほうかうに申上、又は彼等も十六の年
より境目に十二年罷有りて御ほうかう申上、其內四五年もまくらもとにぐそくをおきて、中夜野に伏山
に伏、芝のは萱のはをおりしきて、かせぎかまりにくろうをする。然ども不器︀用にも候哉、つひに武
邊のせず、又有時は石川ほうき守逆心のして太閤へ引のきける時は、大久保七郞右衞門は信濃之國こも
ろに有ける。ほうき守がべつしんなるに、七郞右衞門に急き罷上候へとおり付{{く}}御ひきやくの立ど
も、七郞右衞門覺悟をもつて信濃を治め給へば、只今爰元を引はらい申者︀ならば、信濃は御手に入間敷
と思ひて立かねたる處に、重々御つかひなれば、其儀ならばたれぞのこしおかんとて誰居りて吳よ、
かれおりてくれよと賴候へども、伯耆守のき候故は上ても打死をすべし、また爰元に有りても打死を
すべし、然る時んば女子共は何と成たるもしらずして、{{r|止|とゞ}}まり申す事思ひもよらずとて、あらんと云
人一人もなし。其儀ならば御ほうかうは何れも同前なり。平助是にて打死をしてくれよかしと被申け
れば、彥左衞門申は何れも御ほうかうと承る。同御ほうかうならば罷上て御目の前にての打死は御目
に見ゆべし。爰元にての打死は同打死なれども、幕の內の打死、人もしるまじければせんもなし。罷上
て御旗先にて打死を可申。其故母と女房を頓てはうき守足の下におきて何と成たるをもしらず。母之
儀は、御貴殿と次右衞門權右衞門にも母なればあんずる事なし。女房の行衞もしらずして是に有所に
有らずと申ければ、七郞右衞門申は尤の儀なり、何かもいらず、其方をとゞめおかねば爰元の衆も心
{{仮題|頁=154}}
とまらずと申儀は尤なり。御ために立つる命と云、又は我等に命をくれて是にあれかしと被申候に付
て、其儀ならば尤の儀、是に可有、早々御上あれとてのぼせける。然る間上方はみだれて七郞右衞門こそ
{{r|取敢|とりあ}}へずに上たると云て、こゝもかしこもそゝめきけり。然る處に信玄の御子に御せうどうどのと申て
御目くら子の一人、越後の國に景勝のかゝゑておき給ふが、其御父子を甲州へ入奉ると申てさゝやきけ
る。か樣の時もゆくへもしらぬ他國へ、十日路行て人のいかねる處に、命をすてゝ御ほうかう申上候。
然どもはうきの守させるくは立もせざれば、おのづからしづまりければ何ごともなし。それのみなら
ずしてさなだべつしんの時、御せいばいとして人數を一萬餘指被越候とき、おしこみてかまひをやぶ
りて退足につかれてはいぐんしけるに、四五町の內に三百餘打れければ、早さうくづれにあらん時、金
のあげはの蝶の羽︀の指物にて、七郞右衞門が加賀河をのり越て返す。七郞右衞門につゞいて彥左衞門
が返す。七郞右衞門はかわらにてかけまわれば指物を見て、七郞右衞門所へかけよせける所に、旗を
もおしよせける。彥左衞門はかわらにてつきふせて、頭をばとらずして上の段へ押上けるに、彥左衞
門は銀の上羽︀のてふの羽︀を指たれば、それを見て十一二人參りたれば、七郞右衞門はかわらをもちこた
ゑる。彥左衞門は上のだんをもちこたへたる故に、總のはいぐんはしづまりたり。然ずんばはいぐん
して四五里の間おひ打に打れ可申けれ、のこりたるとても五千も六千も打れ可申を、第一は七郞右衞
門が歸したるゆゑ、次には彥左衞門が歸たるゆゑに、五六千の人數をたすけて御ほうかう申上たる事も
有。又各々ちかき事なれば存知たり、僞とは申間じき。今度大坂において相國樣御旗奉行衆うろ{{く}}と
したるを御腹立被成、旗はにげたると御意の時、御きに入申とて中々御旗は何方に御座候を不存と申上
ければ、其付ていにしへは草履取を、一人としてもたざる者︀を御取立被成、一も二もなく御出頭を申
衆さへ上樣の御ひけの事御氣に入申とて、御旗をば我等も見不申と申上ける。たとへばくづれ申御旗
成とも、御旗は立申たるとて御意にそむくとも、御主樣を思ひ奉らば立申と申はらずしてかなわざる處
を、御主樣の御ひけをもいらず、當座の御意のよきやうにと申事は、御取立の衆にはさん{{ぐ}}の事、以來
の御用にも立がたし。然る處に彥左衞門に旗は何としたると御意の時、御旗は立申たりと申上ければ、
御氣色もかわらせ給ひ、疊のむかいのへりを御ふまへ被成て、御杖にてたゝみを突︀かせ給ひて、旗を
ば皆共も見ぬと云ほどに立間じきと御意成に、彥左衞門はこなたのへりに手を付ければ、間は二尺餘
有りけるが、{{r|頭|かうべ}}をたゝみに付て御旗は立申と申ければ、我も見ぬ程に立間じき、何と御意成とも立申と
申上ければ、返してたつ間じきと、おふきなる御聲にて御杖にてたゝみをつかせられ、御腰の物をひね
りまわさせ給へどもそれにもおどろかず、何と御意なるとも御旗立申と申はりて、ついには申かちけ
る間御旗はくづれざるに成たり。我等が身上の事を各々の樣に思ひて、おの{{く}}の如くに御はたは立不
申と申上候はゞ、さながら御旗はくづれたるになるべし。然る時んば日本に其隱れ有間敷ければ、異
國迄も其ひゞき不{{レ}}可{{レ}}然、我等が頭は刎られ申とも御旗に疵は付申間じき。たとへばくづれ申ともくづ
{{仮題|頁=155}}
れ不申と申上げて御せいばいに合可申に、いわんやくづれ不申御旗に候間、おそれながら御ことばを歸
し申て申はりたるによりて、御旗のくづれざるにしたるは、我等がからかい申たる故なり。是は御ほう
かうにはあらざるや。それのみならず七郞右衞門に付て、さかいめに十二年いたるに七郞右衞門者︀をつ
れ、七郞右衞門名代に{{r|此方彼方|こゝかしこ}}の取出の番を、其將になってつとめたる只今迄殘りて有者︀は、御
普代衆の內には我一人より外は有間じき。尤其比の取出の番をしたる衆も可有けれども、其衆はこと
ごとく人に付て{{r|步|あり}}きたる衆は可有。人をつれて步きたる人は一人も有間じき、我斗にて可有を、我等を
ば辛勞苦勞申上たるとは思召なくして、其比人の內の者︀に成て、其主人に{{r|扶持給|ふちきふ}}をうけて、草履取一人
のていにて其主人ゑほうかう申たる者︀をば、若き時しんらうくらうして走りまはりたる由御意にて過
分に御地行を被下ける。それは其身の主へのほうかうなり。上樣への御ほうかうにあらず。其を御ほう
かうと思召候はゞ其主への御ほうかうはなし。我等は境目へ出ると申せども、親の跡と兄の新藏打死の
跡を被下てあれば、七郞右衞門處寄は何にてもとらず。若き間は御手さきを心がけて、我が望にて出た
り。其故七郞右衞門をさかいめに召おかれける間、方々以さかいめへ出て御ほうかう申上候なり。人
なみに走りまい申事は一々にあらはしてもいらざることなり。面白き事どもなり。御直に御地行被下
て、さかいめへ出て御ほうかう申上たる我等共は、辛勞とも思不召して、主をもちて其主の供に出たる
者︀をば、さかいめに有てしんらうをしたるとて、過分に御知行を被下ける。子共聞たるか、其いにしへ
人につかわれ、草履取一人にて世をめぐりたる衆が、御前へ出人を大勢召つれたり。又今度大坂にてお
そろしくもなき所にてにげたる者︀が、過分に重ね地行を取て、人を多く召つれてひらおしにありく。
我等共は又武邊したる事もなし、猶々にげたる事もなし、先祖︀の御忠節︀もきわもなし、又我等辛勞も
きわもなし。御主樣には當將軍樣迄御九代の御普代なれども、か樣に被成ておかせられ候へば、右の
衆が人{{r|多|おほ}}にて通れば、わきへ乘寄せてとおる時は、さりとは、御なさけなき御事かなと思へば、人しれず
大とちのせいなる淚がはら{{く}}とこぼれけれども、何の因果かなと思ひて、心と心を取なをしてこそ步
き候へ。さて{{く}}御ほうかうは身にあまるほど申上申なり。上樣御座被成候御方へ、{{r|後|あと}}をして臥したる
事もなし。朝夕の看經にも先釋迦佛をおがみ奉りて、其次に相國樣をおがみ奉りて、其次に當將軍樣
御壽命御安穩に御そくさいに、御子樣御兄弟樣何れも御そくさいに、御じゆみやうあんをんにと拜み
奉り、其後七世の父母二親とおがみ奉り申。か樣なる儀は當將軍樣は御存知なき御事、東{{r|照|せう}}權現樣は
見とをさせられ給ふべき。か樣に大事と存知奉り申儀をば、神︀佛も見とをさせられたまはん。おもへば
世も末世になりて神︀もましまさぬかと思ひ奉るなり。然ども子供よくきけ。只今は御主樣の御かたじ
けなき御事はもうとうなし。さだめて汝共も御かたじけなく有間じき。其をいかにと申に、他國の人を
御心置きなく御膝元近く召つかわされ、又は何の御普代にもあらざる者︀を御普代と被仰て、御心おきな
く召つかわされ、汝共が樣に御九代迄召つかわされける御普代をば、新參者︀と被成て斗立の三斗五升俵
{{仮題|頁=156}}
の三年米を、貳百俵三百俵づつ何れもに被下て何とて忝存知可奉。然共其儀を御不足に存知奉らで、よ
く御ほうかう可申上、御こんがうをなをし申と御意ならば、貳百俵の事はさておきぬ。貳俵不{{レ}}被{{レ}}下候て
も、御草履取になりとも御馬取なりとも、御家を出てべつの主取有間じき。只今こそ我等{{r|先祖︀|せんぞ}}をすてさ
せ給へ。信光樣より此方相國樣迄御代々の御なさけわすれずして、只今のかなしき事をば、信光樣より
御代々相國樣迄ゑの御ほうかうと思ひ奉り、何とやうにも御ほうかう申上奉れ。其故御主にそむき奉れ
ば七{{r|逆罪|ぎやくざい}}の咎をうけて地獄におつるなり。此世はかりのやどりなり。後世を大事と思ひて返々も御無
沙汰なく、御馬取に被成候共御鑓かづきに被成候共御意にもれ有間敷、御家を出る事なかれ。御普代久
しく度々の御ちうせつはしりめぐりを申、御九代召つかわされたる者︀の筋を、あしく召つかわされ給は
ば、御主の御ふそくにてこそあれ、萬騎が千騎、千騎が百騎、百騎が十騎、十騎が一騎に成とも御草履を
なをしてもよく御ほうかう申奉れ。{{r|但|たゞし}}御ほうかう申上ても不勝づらをして御ほうかうを申上たらば、
御ほうこうにならずして反つて七{{r|逆罪|ぎやくざい}}の御とがと可成。何事をもかごとをも御意次第火水の中へも入
て打笑い申て、御きげんのよきやうに御ほうかう申上奉れ。親兄弟女子けんぞく一るいを取あつめて
も、必ず{{く}}返々くりかへし{{く}}御主樣御一人にはかへ申な。御主樣の御ほうかうならば、右の者︀共
をば火水の中、又は敵かたきの中へも打すてゝ二度其沙汰もすな。其さたをしたる物ならば、悔︀みたる
に似べければかならずさたもせぬ事なり。此おもむき汝共が子共によく申つたへよ。是をそむきて御
主樣へ御無沙汰申上たる者︀ならば、我死たりと云とも、汝共が笛の根に喰ひ付てくひころすべし。か
くは申せども、只今御主樣に御忝御事は一ツも半分もなけれども、信光樣より此方御代々相國樣迄の御
あはれみを、我等の代々深くかうむり申、それへの御ほうこうと申、當將軍樣迄御九代之御主樣と申、
又は我等の代々御ちうせつを申上たるを、今末の代に御無沙汰申上たらば、我々代々の御ちうせつがむ
と可成間、其儀をむなしくなすまじきため、其故御主樣に逆心を申せば、七{{r|逆罪|ぎやくざい}}のとがをかうむりて
{{r|無間地獄|むげんぢごく}}におつべければ、是等のおそれのおそろしければ、返々も御主樣に背き奉り申な、よく{{く}}心
得可申。然共當世の衆は{{r|地獄|ぢごく}}見たる者︀なき、何の後生と云人も多し。然共地獄なきと云人は主親をも何
共思ふまじければ、{{r|主|しう}}の用にも立まじければ、左樣なる人にはあつたら知行くれても{{r|詮|せん}}もなき事なり。
地獄が有と見てこそ{{r|主|しう}}にそむけば七{{r|逆罪|ぎやくざい}}のとがをかうむりて、{{r|無間地獄|むげんぢごく}}ゑおつるをかなしみてこそ御
主をば一しほおそろしけれ。又親に背けば五{{r|逆罪|ぎやくざい}}のとがをかうむりて、{{r|無間地獄|むげんぢごく}}ゑおちてよるひる{{r|苦|く}}
をうける。其くるしみのおそろしさに、御主と親をば大事にして御意に背かざるやうにと、人間はたし
なめ、{{r|地獄|ぢごく}}も{{r|極樂|ごくらく}}もなきと見たらば、主のばちもおやの{{r|罸|ばつ}}もあたらぬと見べき間、是をおもへば左樣
に申人は、御主樣の御事をも思ひ申まじきは必定なり。かまへて{{く}}子共よくきけ、{{r|地獄|ぢごく}}も{{r|極樂|ごくらく}}も有
にはひつぢやうなるぞ。地獄にかならずおそれて御無沙汰申上申な。御召つかい候事もあしく共、過去
の生業いんぐわと心得て可有。然共{{r|因果|いんぐわ}}は色々に有と見えたり。よき事をしてもよくは報はであしき
{{仮題|頁=157}}
も有り、あしき事をしてすゑがさかえてよきも有り。あしき事をして其身の代にあしくあたるもあ
り。色々とは見えたり。其をいかにと云に、御主樣へ敵をして、さび矢を射かけ申たる者︀の末々の、は
んぢやうしてさかゆるもおゝし。又代々御敵を不申上して、矢おもてにかけふさがりて、御代々の御時
每に御{{r|忠節︀|ちうせつ}}を申上たるすゑ{{く}}の者︀に、こと{{ぐ}}くかた身をすくめて、御敵を申たる筋の者にかゞむ
{{r|因果|いんぐわ}}も有。我等共の{{r|因果|いんぐわ}}は此{{r|因果|いんぐわ}}なり。さて又信長などの因果はたちまちにむくはせ給ふ。其をいかにと
申に、みのゝくに岩もろの城にて甲州衆を攻おとさせ給ひ、二の丸へ押入{{r|堄|しゝがき}}をゆひて、こと{{ぐ}}くや
きころし給ふ。其後甲州へ亂入給ひし時、ゑりん寺の智識達其外の出家達を{{r|鐘樓堂|しゆろうだう}}へおひ上て、火を
付てこと{{ぐ}}くやきころし給ふ。比は三月の事成に、其年の六月二日にはあけち日向守べつしんして、
二條{{r|本|ほん}}能寺にてやきころされ給ふは、{{r|因果|いんぐわ}}は早くむくいたるかと見えたり。さて又太閤の{{r|關白|くわんぱく}}殿御べ
つしんとて腹を切せ奉りて、御手かけ衆を三十人斗、何れもれき{{く}}の衆の{{r|娘|むすめ}}達を、三條{{r|磧|かはら}}へ引出し
て{{r|頭|くび}}を切て、一ツあなへ取入て畜生{{r|塚︀|づか}}と名付て、三條につかを築給ふ事も{{r|因果|いんぐわ}}、又三七殿は信長の御子
なれば、太閤のためには主にて有物を、ぬまの{{r|內海︀|うつみ}}にて御腹を切せ給ふ事も因果なり。昔は{{r|長田|をさだ}}今は
太閤なり。又家康樣へ毒をまいらせんと被成けるに、座敷にて御しき代を被成て、御座敷が大和大納
言の、上座より下座へ御さがり被成候故に、其御膳が大和大納言にすわりて、太閤の舍弟の大和大納言
まゐりて死給ふ。是と申も相國樣御じひにて御正直故に、天道の御惠深くして不被參、大和大納言の
參りたるも{{r|因果|いんぐわ}}なり。其後秀賴の大阪にて相國樣に御腹を切せ奉らんと有りけれ共、ほぐれてならざる
事なれ共、御じひ故に秀賴をたすけおかせられ給ふ。其後又諸︀大名を語らひて、{{r|伏見|ふしみ}}にて取かけて御
腹を切せ申さんと專支度をしけれ共、思ひもよらずならざる事なれば打過ぬ。其後あひづ陣へ御出馬
の御跡にて諸︀大名をかたらひて、手を出して伏見の城をせめてやきくづし、各を打取て其きおひに關
が原へ押出して、合戰して打まけける時、御じひ故たすけおかれ、それのみならず、いなりに大阪の
城におかせられ給ひけるに、其御恩をもしらずして今度又諸︀國の浪人を拾萬に及てかゝゑて、御敵を
なし給ふ所に、押寄させ給ひて城を取卷給へば、又かうさんのしければ、こりさせ給はで、御じひの
深きゆゑに{{r|赦|ゆ}}りさせ給へば、又次の年手出しをして、堺の町をやきはらへば、又々兩將軍樣御出馬有り
ておひくづさせ給ひ、なでぎりに被成ければ、運のすゑかや町も城も一間も殘らず、二時の內にやけ
はらいける。天主に火がかゝりければ、秀賴は御母を打連させ給ひて、山里ぐるわへ出給ひて、又かう
參を乞給へば、御じひにて御思案有けるが、いや{{く}}又生けておくならば、又もや不覺悟可有に、腹を
切せ申せと御意なれば、押かけて腹を切給へと申せば、火をかけて{{r|燒死|やけし}}に給ふ。是と申も太閤の{{r|因果|いんぐわ}}
又は御とがなき相國樣へ度々におひてそむかせ給ふ因果なり。是を思へば因果と云事も有物か、さて
又相國樣の御じひは申不及候へどもあら{{く}}如斯。まづ{{く}}御敵をなしてさび矢をいかけ奉り、御命
をねらいひたる者︀共を、こと{{ぐ}}く御助け被成候御事さいげんなし。又は尾張內府の太閤にせめつけ
{{仮題|頁=158}}
られ被成んと有時、家康を賴奉と仰けるにより、御加勢に御出馬有て合戰を打勝給ふ所に、內ふは太
閤にかたらはれ、家康へはさたなしにぶぢをつくりて、あまつさへ家康を打奉らんと內々たくみ給へ
と、何とも打可奉樣のあらざれば程も{{r|延|のび}}行ける處に、太閤より內ふはぶぢをつくらせ給ふが、家康は
何と可被成、同は御ぶぢをも被成候へと仰被越ければ、內ふにたのまれ申せばこそぶぢにもいたさ
ね、さらばぶぢに申とて御ぶぢになる。然時後內ふは太閤に國をとられ給ひて、越前のかたはらにあ
られぬ成にて御座候つるが、今度石田治部が手がわりの時、家康へ御敵に成て治部と一身に成けるが、
合戰に御勝ち候ても御赦し被成て御じひを被成ける。今度は大阪へ不入る故に、役なしに五萬石被下
候儀は御じひにはあらずや。石田治部が伏見にて御敵をなさんとしければ、上方衆寄合て腹を切せん
と申を、各を{{r|賺|すか}}いてさお山へおくりて越給ふ。御じひにはあらずや。其御おんをわすれて又御敵を申
て打ころされ申。佐竹、景勝、島津、安藝の毛利、彼等が御敵を申たるに、御せいばいはなくして反て
國郡を被下けるは御じひにはあらずや。秀賴を四度迄ちがいめを御赦されたるは御じひにあらずや。
信長の伊賀の國の者︀をば何方に有をも引出して、こと{{ぐ}}くせいばい被成けるに、三河遠江へ參たる
者︀をば隱し置給ひて、一人も御{{r|成敗|せいばい}}なき、是は御じひにはあらずや。然處に信長の御腹切せ給ひし時
家康樣者︀伊賀地にかゝらせ給ひてのかせられ申時、日比の御おん御忝と申て、國中の者︀共がおくり申
奉りて通し申、是も日比の御じひ故なり。是も御因果の御目出度御事なり。又々爰に不審成ことの
有けるは、各々犬打{{r|童|わらんべ}}迄申けるは、本多佐渡守が大久保相模守をさゝえ申たる由ならわしたり。左
樣の儀を人がしらでなもなき事申、佐渡は相模親の七郞右衞門に重恩を受たる者︀なれば、恩を忘れて何
とて左樣には可有哉。其は人の云なしなり。相模は子の主殿を初め我等どもこそしらね、定て其身の御
{{r|科|とが}}も深くこそ有つらん、とても佐渡はさゝゑ申事ゆめ{{く}}有間敷とは、今に於て思ひ居れ共、町人民
百姓迄も申故は、いかなれとは思へども、げにも左樣にもこそありけるかと、ふしんにはあれども、
然共しれず。佐渡は若き時分にはむごき物とは沙汰はしたれ共、年も寄ければ定て其心はなほり可申。
佐渡守をば七郞右衞門が朝夕のはごくみて、女子のつゞけ鹽噌{{r|薪|たきゞ}}にいたる迄、つゞけてはごくみ、御
敵を申て他國へかけおちしたる時も、女子をはごくみ、其故御詫事を申上て國へ歸して、先隼鷹匠に
して、其後色々御とりなしを申上、四十石の御知行を申うけて出し、其後もはごくみて、年取にはかなら
ず嘉例にして大晦日の飯︀と元三めしをば、七郞右衞門處にて佐渡は喰ひけり。關東へ御{{r|移|うつ}}り被成ても、
其故には江戶にても其かれいをばしたる佐渡なれば、いかでか其おんをわすれんや。其故七郞右衞門
果つる時も、佐渡守をよびて遺言にも、相模に不沙汰なき樣にと賴入て{{r|果|はて}}候へば、其時も七郞右衞門
にむかひて、何とてかぶさた可申、御心安あれとかた{{ぐ}}と申つるに、若其心を引ちがへてさゝへても
有か。昔は因果は皿の{{r|緣|はた}}をめぐると云けるが、今はめぐりづくなしにすぐに向へ飛ぶと云こと有。今に
おいていかなればとは思へども、人にさへづらせよと申事のあれば、左樣にも候哉、よき{{r|因果|いんぐわ}}はむく
{{仮題|頁=159}}
へどもおぼえなし。あしき因果のあしく報うは見えやすし。さも有か佐渡は三年もすごさずして{{r|顏|かほ}}に
たうがさを出かして、方{{r|顏|かほ}}くづれて奧齒の見えければ其儘死、子にて有上野守は御{{r|改易|かいえき}}被成て出羽︀之
國ゆりへながされて、其後あきたへ流されて佐竹殿にあづけられて、四方に柵を付堀をほりて番を被
付てゐたり。皆々申ならはすもげにはさも有か、相模守御かいえきも、大うす御大事の御仕置とあつて、
京都へ召つかはされ其跡にて御{{r|改易|かいえき}}被成、又上野守を御かいえきも、大うす御大事の御仕置とあつて、
て召つかはされて、其跡にて御かいえき被成候へば、同如くに候故、さてはさゝゑ申たるか、{{r|困果|いんぐわ}}のむ
くいかと又{{r|世間|せけん}}にて犬打わらんべ迄申なり。{{r|史記|しき}}のことばに{{r|蛇|じや}}は{{r|蟠|わだかま}}れどもしゆうけのかたにむかひ、鷺
は太歲のかたをそむき巢をひらき、つばめはつちのえつちのとにすをくいはじめ、わうよきはみなと
にむかひてかたたがへす。鹿は玉女にむかいてふし候なり。か樣のけだ物だにぶんにしたがう心は有
ぞとよ、{{r|面|おもて}}斗は人々にて、{{r|靈魂|たましひ}}はちくしやうに有物哉。
元和八年六月 日{{sgap|16em}}大久保彥左衞門 <sup>花押</sup>
子共にゆづる
若此書物を御普代久敷衆の御覽じて、我家之事斗を依怙に書たるとばし思召な。左樣にはあらず。此
の書置儀者︀人に見せんためにあらず。我は早七十に及に罷成候へば、今明日之儀も不存候へし故に、
今にもむなしく罷成候はゞ、御主樣を何程久敷御主樣とも存知申間敷ければ、御主樣にあふぎ奉御
事、當將軍樣迄御九代の御主樣にて御座被成候儀を、我がせがれにしらせんため、又は我が先祖︀の御代
代の內一度も御敵を不申候へて、度々の御ちうせつを申事をしらせんため、又は我等共のしんらうをし
らせん爲に書置て、門外不出と申おき候へば、誰人も御覽ぜは有間敷けれども、若落ちりて御覽ぜ候
共、えこに我家の事斗書たると仰有間敷候。御普代久敷衆は、何れも我家々の御ちうせつのすぢめ、
御普代久敷筋めを如此書立て、子供達へ御ゆづり可被成候。我等は如此、我が家の事を斗書立て子共
にゆづり申なり。然る間他所之儀は書不申。以上。{{nop}}
{{仮題|ここまで=三河物語/第三下}}
{{仮題|ここから=塵塚物語/巻第一}}
{{仮題|頁=160}}
{{仮題|投錨=塵塚︀物語|見出=大|節=c|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=卷第一|見出=中|節=c-1|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=常德院殿依{{二}}御秀歌{{一}}炎天曇事|見出=小|節=c-1-1|副題=|錨}}
前{{r|飛鳥井|あすかゐ}}老翁一日語られていはく、{{r|常德院|じやうとくゐん}}{{r|內大臣|ないだいじん}}{{r|義尙公|よしなほこう}}は天性をいうにうけさせ給ひて、武藝の御い
とまには和歌に心をふけりまし{{く}}て、{{r|御才覺|ごさいかく}}もおとなしくまし{{く}}ける。{{r|高官|かうくわん}}{{r|眤近|ぢつきん}}の公家つねにま
ゐらるゝ時は、かりそめの{{r|御雜談|ござふだん}}もなく、歌のはうへんのみ談じ給ひけるとなん。{{r|其比|そのころ}}の和歌の達者︀
某大納言、はじめは歌の{{r|樣|さま}}など心やすく{{r|御指南|ごしなん}}申されけるが、御年二十に過させ給ひては、彼卿かへ
つて風情をうかゞはれけるとなん。いみじき國主たれども、たゞ{{く}}御よはひ壯年にみたせ給はざり
つるは口をしき御事など、申あへりけるとなん。{{r|曾而|かつて}}{{r|江州|がうしう}}にひさしく{{r|御留陣|ごりうぢん}}おはしましけるに、一日
御遊のために湖水のほとりへ{{r|出御|しゆつぎよ}}なり、すなはちおほくの舟どもをかざり、{{r|御饗膳|ごきやうぜん}}めづらかにとゝのへ
て、諸︀道の{{r|達人|たつじん}}{{r|數輩|すはい}}{{r|供奉|ぐぶ}}せしめらる。{{r|公方|くぼう}}あまねく湖水のみぎはを御{{r|覽|らん}}まし{{く}}けるに、童子二人こ
ぶねにのりてたはぶれけるを、あれは何ものぞととはせたまへば、梅︀がはらのものにて御座候と申け
るを、{{r|大樹|たいじゆ}}きこしめして、御心にふと思ひよりたまふ句あり。{{nop}}
{{仮題|頁=161}}
湖邊自異山林興 童子尋{{soe|ねて}}{{レ}}梅︀{{soe|を}}棹{{soe|す}}{{二}}小船{{soe|に}}{{一}}
此二句を御こゝろにうかばせたまひて、此{{r|對句|つゐく}}もがなとしばし案じましませども、つひによろしき句
も{{r|浮|うか}}ばずして{{r|還御|くわんぎよ}}ありしに、其夜御ゆめのうちに、{{r|男體|なんたい}}の人來て彼句にたして七言四句となれば、御
ゆめのうちによろこばせ給ひて、程なく覺けるとなん。其句{{r|近習|きんじふ}}の人に仰られて書とめさせ給と云々、
その後皆人其二句を{{r|失念|しつねん}}によりて無{{二}}其詮{{一}}と云々、あたら事なり。是のみならず、{{r|去比|さんぬるころ}}又逆敵近隣をか
すめけるに、いそぎ{{r|御進發|ごしんぽつ}}ありけり。時しも{{r|炎天|えんてん}}のみぎはにて五萬ばかりの軍兵をめしつれ給ひける
が、士卒此あつさにたへかねて{{r|練︀汁|れんじふ}}のごとくなる汗をかき、馬もこらへかねて多くはひざまづきけれ
ば、人皆{{r|仰天|ぎやうてん}}してしどろになりにけり。
そのところ鏡山のふもとにてありければ、大樹の御うたに、
けふばかりくもれあふみのかゞみ山たびのやつれの影のみゆるに
とあそばされ、しばらく木陰にやすらひ給ふに、すこし程ありて天くもり涼風おもむろに吹來れば、
諸︀ぐんぜいも{{r|中秋|ちうしう}}夕暮のおもひをなして、たちまちよみがへるが如しと云々、{{r|上古末代|しやうこまつだい}}まで高名の御
ほまれなり。まことに一句のちからにて、數萬の{{r|軍兵|ぐんぴやう}}くるしみをやめらるゝ事、{{r|天感不測|てんかんふしき}}の君なりと
いへり。
{{仮題|投錨=左馬頭基氏宥{{二}}庖厨人{{一}}事|見出=小|節=c-1-2|副題=|錨}}
{{r|鎌倉|かまくら}}{{r|左馬頭基氏|さまのかみもつうぢ}}は、武勇たくましくして慈悲のこゝろも人にこえ、いと正直なるうまれつきなりけり
と云傳へ侍る。歌道にもをさ{{く}}{{r|執心|しふしん}}せられて、をりふしは五首十首づつよみおきて、公家へ遣して
{{r|褒貶|はうへん}}を賴まれけるといへり。いとやさしき事にも傳るならし。しかうしてつねに美食をこのみて{{r|賞翫|しやうくわん}}し
侍るに、或時庖丁人をよびよせ、ふなを取寄て曰く、この魚よくやきてのち{{r|羹|あつもの}}にすべし。相かまへて
{{r|無|ぶ}}さたに仕るなと、きびしくいひ付て內へ入られけるとなん。{{r|庖人|はうにん}}かしこまりて、右ふなをよく{{r|炙|あぶ}}りて
みそ{{r|汁|しる}}をもて熟くこしらへ、煮︀て膳部にそなへけり。扨{{r|陪膳|はいぜん}}のもの是を持て{{r|基氏|もとうぢ}}へすゑたり。基氏椀
のふたを取てふなをみれば、よきほどに火とほりて愛すべしとみえてければ、かた{{ぐ}}を食して又う
ちかへして食はんとし給へば、則一方は生にてぞ有ける。庖人の{{r|不運|ふうん}}にや、此魚ぶ沙汰にはせざれど
も、{{r|片身|かたみ}}きら{{く}}しく生にて有るあひだ、基氏大きにいかり給ひて、やがて執事をよびよせて、彼庖
人を召つれて可{{soe|き}}{{二}}罷出{{soe|づ}}{{一}}よし責られけり。{{r|執事|しつじ}}も此ものをふびんに思ひながら主命もだしがたくして、
つひに庖人を引つれ、{{r|客殿|きやくでん}}の二間を過ておくへ入れば、庖人もすは{{r|覺悟|かくご}}してけり。あつぱれ爰にて御
手うちにあひぬるものをと、色をうしなうてひざまづき居けり。時にもとうぢわきざしを腰に橫へ、か
たなをばひだりの手にひさげて、ちか{{ぐ}}とあゆみより、おのれすでに{{r|日來|ひごろ}}の不忠心にあるゆゑに、今
かやうの失あり、すみやかに{{r|命|いのち}}をうしなふべきなれども、先此度はゆるしおくものなり。自今以後よ
く心得て料理いたすべし。さりながら此度も唯にはあらじ。はだかにして此{{r|緣|えん}}のはしへまゐりひざ
{{仮題|頁=162}}
まづきて居るべし。ゆるしなき內は、はたらくべからずといひて、又{{r|鷹|たか}}がりに出られける。彼{{r|料理人|れうりにん}}
いとかなしき姿にて、ひろ緣すのこのはしにうづくまりてゐたりけるが、もとうぢ{{r|他行|たぎやう}}せられけるを
みて、{{r|執權|しつけん}}のものひそかにいひけるは、殿の御留守には{{r|苦|くる}}しからじ。臺所へ{{r|罷出|まかりいで}}よとゆるす間、此も
のおそろしながら執事の{{r|言葉|ことば}}をたのみてだい所へ出で、きる物を著︀して居けり。もとうぢは終日あそ
びてかへられけるに、門を入らるゝとひとしく、彼庖人はだかになりて件の緣のうへに罷出けり。も
とうぢおくの間へとほるとて見たまひて、おのれはいまだはだかにてありけるにや、ゆるしおくものな
りとのたまふ間、かたじけなき{{r|氣色|けしき}}にて{{r|立退|たちのき}}けり。
扨執權をよびよせて、あの庖人めはさせる失にはあらねど、後日のために{{r|所課|しよくわ}}するものなり、いかに
我がいひ{{r|付|つく}}るなればとて、終日赤はだかにてさし置條{{r|未練︀|みれん}}第一のふるまひなり。かさねてよく心得て
諸︀事はからふべし。凡そ我が善惡をたゞすもの汝が外はあるまじ。さあるによからぬはからひをする
候、彼庖人が{{r|困窮|こんきう}}汝が所爲なりと申されけるとなん。いと正しきの事なり。國をしらんものはかくあ
る事にや。
{{仮題|投錨=聖廟御本地爲{{二}}十一面觀音{{一}}濫觴<sup>附</sup>大江匡衡事|見出=小|節=c-1-3|副題=|錨}}
{{r|天滿宮|てんまんぐう}}の御事{{r|威力|ゐりき}}{{r|澆季|げうき}}の世にさかんにして、萬人{{r|丹精︀|たんせい}}をぬきんづるともがら、其{{r|瑞驗|ずゐげん}}をかうぶらずと
いふことなし。むかし{{r|大江匡衡朝臣|おほえたゞひらあそん}}{{r|聖廟|せいべう}}の{{r|御寳前|ごはうぜん}}へ種々{{r|供物|くもつ}}{{r|色々|いろ{{く}}}}の{{r|幣帛|へいはく}}をたてまつらる。其奏狀に云
云、抑右天滿大自在天神︀鹽梅︀於{{二}}天下{{一}}、輔導於{{二}}一人{{一}}、或日月於{{二}}天上{{一}}照臨出{{二}}萬民{{一}}、就{{レ}}中文道之大祖︀風
月之本主也。翰林人尤風夙可{{二}}勤勞{{一}}とかゝれたる句あり。然して其夜たゞひらの見られける夢こそあら
たなれ。天神︀、{{r|御殿|ごでん}}のとびらを押ひらかせ給ひて仰られけるは、我にたむくるところ{{r|文筆|ぶんぴつ}}{{r|皆|みな}}{{r|心肝|しんかん}}にそ
むところなり。但抑日月於{{二}}天上{{一}}と云句は神︀ならずして何ぞや、可{{レ}}摧汝旣に神︀道に通ずとす。我は是
本地十一面觀音なり。極樂にては稱して{{r|無量壽|むりやうじゆ}}とす。しやばにては則{{r|北野天神︀|きたのてんじん}}とす云々、夢さめてき
いのかんるゐをながされけるとなん。これよりして、天神︀をば十一面くわん音と申つたへたり。{{r|古今|ここん}}
{{r|歷然|れきぜん}}たる神︀言なり。此尊神︀の御事擧{{レ}}世信伏せずといふことなし。聖主御歌の會日も、{{r|月次|つきなみ}}二十五日
とさだめさせ給ふ。三公、九卿、諸︀侯、大夫、{{r|凡卑|ぼんぴ}}、{{r|蒼生|さうせい}}のともがら世に人といはるゝほどのもの、
皆仰がずといふ事なし。{{r|三善淸行|みよしきよゆき}}が{{r|菅右相府|くわんうしやうふ}}に奉る書にも、{{r|翰林|かんりん}}より走て{{r|槐位|くわいゐ}}にのぼり給ふ、{{r|吉備公|きびこう}}
の外名をおなじうする人なしと云々、{{r|吉備公|きびこう}}の{{r|巨益|こえき}}尤和朝{{r|唯|ゆゐ}}一の{{r|重臣|てうしん}}たり。然れ共中人以下土農卑夫
のものにいたりて、其德をもしらず名をさへしらぬもありけり。天神︀の至德申すも愚かなり。かやう
に擧{{soe|げて}}{{レ}}世{{soe|を}}仰たてまつる{{r|靈神︀|れいじん}}ためしすくなき御事なり。去延德二年の春式文人、此前に{{r|祭文|さいぶん}}をさゝげて
{{r|御示現|ごじげん}}に預るといふこと明白なり。{{r|加{{レ}}之予|しかのみならず}}一とせ{{r|宿願|しゆくゞわん}}を申上げ、{{r|立所|たちどころ}}に利生に預れり。諸︀神︀も皆御威
光{{r|照々|せう{{く}}}}たれども、翰林より大臣にいたり、御死去の{{r|後|のち}}{{r|聖廟|せいべう}}とあがめたてまつる事比類︀なき御事なり。
或人の云く、御一代の{{r|御詠歌|ごえいか}}に戀の歌すくなし。是を以て御在世の其世には、{{r|不義尾籠|ふぎびろう}}の事のみ{{r|翫|もてあそ}}び
{{仮題|頁=163}}
たりとみえたり。是其代の{{r|風味|ふうみ}}なるにや、今の世に似つかず思ひ侍る。されど聖廟の御在世をつら
つらたづね奉るに、{{r|金鐵|きんてつ}}の{{r|御行跡|ごかうせき}}うたがひなきものなり。しかれば{{r|歌仙才人|かせんさいじん}}の{{r|戀執不義|れんしふふぎ}}の聞えあるを
ば、其世の風俗とは申がたきか。
{{仮題|投錨=上古名人深嗜{{二}}其道{{一}}事|見出=小|節=c-1-4|副題=|錨}}
{{r|應長|おうちやう}}の比より世に{{r|連歌|れんが}}をもてあそぶ事さかりになれりと、或歌の{{r|抄|せう}}に見えたり。就{{レ}}中文正のころよ
りこのかた、{{r|連歌|れんが}}の{{r|名師|めいし}}ありて、四かい一同にもてあそびきたりて、今れんめんこのころある連
歌しけるもの、{{r|生得|しやうとく}}ぶき量にしてはなはだ執すといへども、人のくちにひろまりがたくてとしをふる
に、獨おこたる事なし。ある人の云く、年五十にいたるまで{{r|上手|じやうず}}にならざる藝をばすつべきなり。は
げみならふべき行末もなしと、古人もいへり。{{r|吾子|ごし}}すでに五十になん{{く}}たり。行さきいかほどの餘
命ありてか、{{r|不堪|ふかん}}の身をもて世にしられん事をねがふぞや、すみやかにすつべきなりと、さま{{ぐ}}い
さめけれど、此もの{{r|曾而|かつて}}{{r|承伏|しようふく}}せず、いよ{{く}}勤めけるに、やうやく人にもしられて師の名をもあらは
したり。此もの外のわざには{{r|下根|げこん}}なれども、{{r|連歌|れんが}}には終日終夜座をかさぬれどくたびれもせず、生れ
つきやまひ深く侍れど、連歌にはこれを事ともせず、人々ふしぎに思ひけり。此人一日いひけるは、
道は{{r|篤實|とくじつ}}をもて至極とす。われ全身ぶきやうにしてつとむる所はかんのう也。かるがゆゑにいましば
らくに名をひろむと云々、又曰く{{r|京極人道|きやうごくにふだう}}は一生八十にして、平生病氣せまりなやまれけれど、{{r|公事|くじ}}
{{r|雜務|ざふむ}}、{{r|歌道|かだう}}等をつまびらかにしるして一日も怠らぬ人なり。彼卿日記の中にも、けふは{{r|痰氣|たんき}}にせまり
なやみ、今日はなに{{く}}のやまひによりくるしむなど、一世のうちこゝろよき日はなし。然れ共篤實
をもて百世に名をのこさるゝものなり。{{r|根機|こんき}}といふはやまひと又別の品なりと見えたり。しかのみな
らず、つらゆきは一しゆの歌を二十日まで工夫おこたらず。ふぢはらの{{r|長能|ながよし}}は{{r|公任卿|きんたふきやう}}に歌を難︀ぜられ
て死し、{{r|宮內卿|くないきやう}}はうたをふかく{{r|案|あん}}じいりて、血をはきなやみしと云へり。又{{r|宗祇|そうぎ}}は連歌に{{r|執|しふ}}して句を
{{r|案|あん}}じ入て、朋友の机前にとひくるをしらず。此ほか名人の道に{{r|執|しつ}}したる事かぞへがたし。漢︀家の
{{r|潘安仁|はんあんじん}}といふ人は、詩を{{r|沈思|ちんし}}して、已に白はつの翁となれりといへり。人として{{r|堪能|かんのう}}にして實あるものは
すくなし。{{r|不堪|ふかん}}ながらも道に{{r|執篤|しふとく}}すればつひに其極にいたる。たとへばわれは物わすれありて文をみ
れども覺えず、我はかご耳にして用にたゝずと人ごとにいふめれど、それは皆すかざるによりて也。
たとへかごにて水をくむ程の{{r|健忘者︀|けんぼうじや}}なりとも、其籠を平生水にしづむれば、其中に水{{r|自然|しぜん}}とみてり。
學文も平生{{r|不退|ふたい}}にしてまなこを書にさらせば、久しくしてつひに其あぢはひをしるとぞ。是併かごを
水中にしづむるに水滿たりとおなじと、{{r|傍若無人|ぼうじやくぶじん}}に申けり。此事は{{r|唯人|たゞびと}}もしれる事ながら、時にとり
てのたとへをかしく侍る也。とかく大功は遲く成就すと云事を忘るべからずとぞ。
{{仮題|投錨=命松丸物語事|見出=小|節=c-1-5|副題=|錨}}
いにしへ{{r|命松丸|みやうまつまる}}といふもの歌よみにて、{{r|兼好|けんかう}}が弟子也けるが、兼好をはりて後、いま川伊豫入道のも
{{仮題|頁=164}}
とにふかくあはれみて、つね{{ぐ}}歌の物がたりなどせられけるとなん。つねは南朝へもかよひ侍ると
なん。此{{r|命松丸|みやうまつまる}}入道して、南朝のありさま物がたりにつくりて、歌など{{r|交|まじ}}へてやさしくその時のさまを
のべたり。其中にいはく、くすの木{{r|帶刀|たてはき}}正行がはか所に石たふを立たる其まへに、いかなる物かした
りけん、書つけて侍る。
くすの木の跡のしるしをきてみればまことの石となりにけるかな
おなじ物がたりにいはく、やよひのころ日のうらゝかなるに、女院の御所の庭にちりつもりける花の
いと多かりければ、伴のみやつこめさせ給ひて、ひとつ所にあつめさせ給へば、高さ五尺ばかりがほ
との山のなりにてありけるを、いと興ぜさせたまひて、よしのゝはなをうつせし山なればとて、あら
し山となづけさせ給ひて、人々に歌よまし{{r|上|うへ}}にも{{r|啓|けい}}し給ひければ、あすのほどにわたらせ給ひてんと
の給はせたまひけるに、其夜風のはげしくふきていひがひなくなりにけり。つとめて{{r|辨|べん}}の{{r|內侍|ないし}}のかた
へ、兵衞のすけのつぼね、
みよしのゝ花をあつめし山の名も今朝はあらしの跡にこそあれ
とありけるを、そうし給ひければ、
千はやふる神︀代もきかず夜のほどに山をあらしの吹ちらすとは
との給はせて、いといたうをかしがらせ給ひにけりと云々、此物語の中のうたおほくは命松翁が{{r|仕|し}}わざ
なるにや。彼ものゝ歌のていに似たる{{r|言葉|ことば}}をさ{{く}}見えたり。
{{仮題|投錨=小松天皇御事<sup>付</sup>石塔の事|見出=小|節=c-1-6|副題=|錨}}
小松天皇は仁明天皇第二の御子也。此みかどは、親王にて御座ありしとき常陸の大守中務卿上野大守
式部卿{{r|太宰|だざい}}の{{r|師|そつ}}など經させたまひてのち、御とし五十五歲にして思召しよらず御くらゐにつかせたま
ふと云々。
むかし{{r|唯人|たゞびと}}にておはしませしときより、つねに松をこのませたまひて、御庭にあまたの小松をうゑさ
せたまふ。御くらゐのとき、御としすでにたけさせ給ふゆゑ、小松も大木になりて枝はびこりたれば、
御くるまをいれんとせしに、松にさゝへられて入るべきやうもなし。諸︀臣せんぎありて此まつをきる
べきよし奏す。その時勅諚にいはく、朕いまくらゐにつく事天せう大じんより御ゆづりのくらゐなら
ば、此まつの中を車やるべし。松さはらずばくらゐにつくべし。さはらば位につくまじとおほせらる
るによりて、諸︀臣も是非なく御くるまをとほすに、松ども左右へ枝わかれて御くるま{{r|大路|おほぢ}}を引くが如
し。此聖德によりて小松の天皇と申たてまつるとぞ。まことに{{r|本朝不雙|ほんてうぶさう}}の賢王にて渡らせ給ふ御事、
諸︀史に載せ奉らずといふことなし。又つねにめくら法師をふかく{{r|不便|ふびん}}がらせ給うて、大隅の國を下さ
れけるとなん。その聖恩わすれずして今の世までもとぶらひたてまつるとなん。二月十六日彼{{r|御國忌|みこくき}}め
くら{{r|法師|ほうし}}どもあつまりつゝ、{{r|石塔|しやくたふ}}といふ{{r|法會|ほふゑ}}を{{r|執行|しゆぎやう}}乞たてまつるといへり。六條河原にいでて石のた
{{仮題|頁=165}}
ふをつみてとぶらひたてまつるゆゑに、{{r|石塔|しやくたふ}}と申とぞ。
{{仮題|投錨=住吉行幸事|見出=小|節=c-1-7|副題=|錨}}
或人のいはく、伊勢物がたりに、むかしみかど住吉にみゆきならせたまふ事をのせたり。此帝は文德天
皇にて天安元年に行幸ましますといへども、國史にも實錄にもみえず。新古今に此{{r|詞書|ことばがき}}のごとくすみよ
しにみゆきありし時と載せたれども、いづれのみかどの行幸とはしるさず。國史にもしるしもらしけ
るにやおぼつかなし。此事さだかにしる人なし。きかまほしきことゝいへるに、折ふし予かたはらに
ありあはせていはく、先年ある所にて文ども見侍る中に、後小松院{{r|御宸翰|ごしんかん}}なりといひて一册あり、題
して伊勢二門極理灌頂撰阿古彌{{r|浦口傳|ほくでん}}抄とあり。此書はむかし高くらの院御在位の時、{{r|神︀道議論|しんだうぎろん}}のう
へにて勅して書かしめ給ふと云々、その中にいはく、住よし行幸のみかど{{r|文德|もんとく}}{{r|淸和|せいわ}}兩帝なり。天安元
年五月十八日{{r|辰一點|たつのいつてん}}に帝都︀をたゝせ給ふ。此時{{r|業平|なりひら}}{{r|供奉|ぐぶ}}せられ侍るとあり。此ほか住吉の{{r|神︀祕|じんひ}}業平の
{{r|來由|らいゆ}}などくはしくのせたり。我これをみ侍りつといふに、かの人大きにきそくへんじて、あな大切の
御事や壁に耳といふことはさも侍る。{{r|高聲|かうじやう}}にの給なと口くばせをしてさらぬ體にて其座をたちさりけ
る。さてその翌の日、文してねんごろにまねきよせて此事をたづねられ侍り。もとより予辭する事に
あらねば、彼文の內にありつる事覺えつるまゝに、つまびらかにかたりければ、{{r|稀有|けう}}のよろこびをな
してやがてしるしとめられける。此事予があながちにも{{r|秘|ひ}}し侍らねども、此に取て花文を覺悟するは、
人のためには大切なる事もこそあれと思ひ侍りて、そのゝちみづからも又手日記にのせ侍りける。
{{仮題|投錨=坂上田むら丸事|見出=小|節=c-1-8|副題=|錨}}
坂の上のたむらまろは{{r|古今獨步|こゝんどつぽ}}のゆうしなり。事每にしるしとゞめつれば、其來由あながち勘へずも
ありなん。
いにし春、日本後記をよみ侍るに、さがの天皇の卷に云く、
{{left/s|1em}}
田村麻呂者︀、正四位下左京大夫苅田麻呂之子也。身長五尺七寸、胸厚一尺九寸、目如{{二}}蒼鷄{{一}}鬚編{{二}}金
絲{{一}}、有{{レ}}事而欲{{レ}}重{{レ}}身、則三百一斤、欲{{レ}}輕則六十四斤、怒而博視︀目、禽獸懼伏、平居談笑者︀、老少
馴親云々。
{{left/e}}
此外{{r|類︀聚史譜|るゐじゆしふ}}等にも田むらを美稱せり。すべてわが國にならびなき勇質なりとみえたり。しかれども
終に不{{レ}}得{{二}}其死然{{soe|を}}{{一}}といひつたへ侍る。又{{r|佛家|ぶつけ}}の人のいへるは、田むら丸壯年のいにしへ武術のきこえ
ありければ、桓武天皇めさせ給ひて{{r|勅問|ちよくもん}}あり。抑なんぢは{{r|生得|しやうとく}}の武術あり、いみじき事なりとおほせ
下されけるに、田むらめいはく、まことに恐れがら{{r|劍戟|けんげき}}をとりて{{r|有情|うじやう}}におそれらるゝといへども、此
まゝにてやみなん事口惜くもまかり過候。それにつき、君は日本聖皇第一の御むまれつき有、此國に
は過させ給ふとみ奉る。あはれ異國の御望しかるべく思ひ奉る。しからば{{r|征伐|せいばつ}}の{{r|節︀使|せつし}}には身不肖なり
といへども、田むらまろを御ゆるし下さるゝに{{r|於|おい}}ては、まかり向ひて{{r|大唐|たいたう}}を平治つかまつり、君を和漢︀
{{仮題|頁=166}}
兩朝の御あるじと仰奉るべしと、{{r|傍若無人|ぼうじやくぶじん}}に申されければ、みかどわらはせ給ひて、大きにまことし
からずと仰られけり。田むらかさねて申さく、御{{r|不審|ふしん}}御尤に覺え奉る。心みに術をみせ奉らんといひ
て、無罪のもの五百人あつめて太刀のはに墨︀をひき、一ふりうごかしければ、五百人のくび墨︀にてひき
たる跡あり。是御覽なされ候へ、此術をもつて人を殺︀さん事百萬もやすき事に覺え候まゝ、仰ゆるさ
れ候はゞやと望みけるあひだ、帝も{{r|御仰天|ごぎやうてん}}ありて、その事ならばゆるしめんと仰下され、旣に田むら
わが國をたちたまひける。異こくにも此{{r|前表|せんべう}}いちじるくして、雨江水をふらし侍るによりて、唐帝
{{r|淸龍寺|せいりようじ}}の{{r|惠果和尙|けいくわをしやう}}に命じて大元明王の法をおこなはしむるに、明王海︀をわたりたまひ、田むら出船の所
はかたといふにて、首を取てかへらせ給ひ、此首を淸龍寺の{{r|塚︀|つか}}にこめて置賜ふとなん。此事いかなる
文にも有ともしらず侍る、{{r|佛家|ぶつけ}}の沙汰なり。
{{仮題|投錨=宇治平等院來歷之事|見出=小|節=c-1-9|副題=|錨}}
昔宇治のくわんばくよりみち公{{r|平等院|びやうどうゐん}}を御こんりふあそばされて、善つくし美つくされて、おほくの
{{r|貨財|くわざい}}をなげたまひけるとぞ。扨本尊は天下{{r|無雙|ぶさう}}の{{r|佛工定朝法眼|ぶつこうぢやうてうほうげん}}が一刀三いあみだによらいにて、しや
う{{r|嚴七寶|ごんしつぼう}}をつくして{{r|赫々|かく{{く}}}}たり。{{r|內陣|ないぢん}}四{{r|壁|へき}}のさいしきの繪は、わが國にならびなき畫どころの{{r|爲業|ためなり}}が筆
といへり。{{r|觀經|くわんきん}}の文は、詩文能書御ほまれます具平親王の御{{r|筆跡|ひつせき}}にて、{{r|飛龍𢌞天|ひりようくわいてん}}のいきほひを得給ひ
たりし{{r|字畫|じくわく}}なりと云々。此がらんこんりふのいにしへより、旣に五百年の{{r|星霜|せいさう}}をふれども、いまだ一
{{r|炬|きよ}}のわざはひなければ、{{r|依然|いぜん}}として上古のかざり{{r|光彰|くわうしやう}}をます、誠に{{く}}またたぐひなき{{r|靈場|れいぢやう}}なり。むか
し{{r|茂仁|もちひと}}のしんわう御むほんのとき、源三位よりまさ入道、いのちをかろくし義をおもくし一戰の功を
はげますといへども、大軍の責めまぬかれがたくして、かばねを古岸の{{r|苔|こけ}}にさらし、名を長流のなみ
にたゞよはせしも此所なり。此軍中のさうげきにも一椽一尾の{{r|損亡|そんぼう}}なくいまにめでたく{{r|靈地|れいち}}也。扨
{{r|惣門|そうもん}}はきたむきなり。これは{{r|古|いにしへ}}{{r|當寺|たうじ}}{{r|草創|さう{{く}}}}の{{r|比|ころ}}、{{r|賴通公|よりみちこう}}{{r|先|まづ}}{{r|惣門|そうもん}}のびんぎをわづらはせたまひけるをりふし
に、四條の大納言{{r|公任卿|きんたふきやう}}まゐらせ給ひて{{r|雜談|ざふだん}}ありけるに、よりみち公ののたまはく、此地はひがしに
川みなみは山西はうしろにて、北よりほかに大門をたつべきたよりなし。きたに惣門のある寺やはべ
るとたづねたまひけるに、さしも{{r|和漢︀|わかん}}の才ひろき公任卿も覺悟なかりけるに、{{r|江帥|かうのそつ}}たゞふさそのとき
はいまだ{{r|弱冠|じやくゝわん}}にして、車のしりにあひのりして{{r|同|おな}}じくまゐられたるに、もしさやうの寺や候ととはれ
ければ、たゞふさのいはく、先わがてうには{{r|六波羅密寺|ろくはらみつじ}}空や上人所住のてら、漢︀土には{{r|西明寺|さいみやうじ}}{{r|圓側國師|ゑんそくこくし}}
所住の寺、天ぢくには大ならんだじ三國に通じて例侍ると、{{r|傍若無人|ぼうじやくぶじん}}に申されければ、{{r|博達|はくたつ}}の公任
卿も奇異のおもひをなして{{r|感動|かんどう}}しばらくやまざりけり。賴通公も御{{r|悅喜|えつき}}にて、扨はさやうの例もあり
けるにや、しさいなき事やとて、やがて北向に惣門を立られけるとなん、すなはちいまの山門の事な
りとぞ。{{仮題|分注=1|私にいはく、うぢは方角外よりの見聞拔羣相違あり。川はき|たへむかひながるゝといへり。くはしく彼里民にとふべし。}}{{nop}}
{{仮題|投錨=一休宗純播州下向之事|見出=小|節=c-1-10|副題=|錨}}
{{仮題|頁=167}}
ちか比{{r|一休宗純|きうそうじゆん}}といふ人は、後小松院の{{r|後胤|こういん}}にして、わが朝にならびなき{{r|道人|だうじん}}なり。{{r|勝雲院殿|しようゝんゐんどの}}御代の
後あまねくきこえありて、人たふとみけり。其身{{r|風漢︀經遽|ふうかんきやうげき}}の人にて、欲する所の作業一としてとげず
といふ事なし。{{r|頓智|とんち}}{{r|叡智|えいち}}{{r|悟道|ごだう}}の人なれば、所業いづれも節︀に{{r|當|あた}}りて、世には{{r|釋尊牟尼|しやくそんむに}}の{{r|應化|おうげ}}なりと申
あへり。壯年のころおもひ立所ありて、山陽のちまたにかゝり、播州のかたへおもむかれけるに、{{r|先|まづ}}
一のたにゝいたり亡卒のむかしを思ひいでて、{{r|追悼|つゐたう}}の語をはき、一りやう日も宿してそのわたりのこ
らず見めぐり、扨五里以上の路次に日なのめになれば、いづくともしらぬ野原のつゆをかたしきて、
日くらし夜をあかされけるとなん。此所より{{r|明石|あかし}}の浦人丸の塚︀に詣でられけるに、ふところより{{r|料紙|れうし}}
ゑぐをとり出して、件のかみに人丸の{{r|貌|すがた}}を繪かき{{r|賛|さん}}せられける。
歌道根原卽化身 若非{{二}}菩薩{{一}}佛歟神︀ 至{{レ}}今明石浦朝霧 有{{レ}}島有{{レ}}舟無{{二}}此人{{一}}
かくのごとくの巧言とんさくをのべて、{{r|自畫自書|じぐわじしよ}}して{{r|籠|こも}}られけるとなん。
その後此わたりたび{{く}}軍卒のためにさうどうし、あるひは{{r|野伏|のぶし}}あぶれもの所々亂入し、{{r|寶藏|はうざう}}ぢう物
の善惡をいはず引ちらしとりのきけるが、もしさやうの事にやありけん、永正の以後は件の{{r|畫賛|ぐわさん}}のさ
たなし云々。
{{仮題|投錨=千本釋迦念佛由來事|見出=小|節=c-1-11|副題=|錨}}
千本{{r|釋迦念佛|しやかねんぶつ}}といふは、きさらぎ{{r|中旬|ちうじゆん}}、大報恩寺釋迦堂遺敎經の法事についての事なり。つれ{{ぐ}}草
にいはく、千本釋迦念佛文永年中如輪上人はじめられけると云々、是{{r|念佛|ねんぶつ}}の{{r|濫觴|らんしやう}}にあらず。此ねんぶ
つ寬仁年中のいにしへ{{r|源信僧︀都︀|げんしんそうづ}}の高弟に、{{r|定覺上人|ぢやうかくしやうにん}}といふあり。是則{{r|釋迦念佛|しやかねんぶつ}}{{仮題|分注=1|音亂名號大念と云、俗に|しやか佛念佛と申來り}}
の{{r|始祖︀|しそ}}たり。其後一旦はめつして又貳百五十年ののち、龜山院御宇、文永年中に{{r|如輪上人|によりんしやうにん}}{{仮題|分注=1|一云明|院律師}}とい
ふ人ふたゝび此念佛を{{r|執行|しふぎやう}}せらるゝ云々。件の定覺上人の事、本朝僧︀傳譜ならびに{{r|元亨釋書|げんかうしやくしよ}}等にもみ
えず。山門橫川の記にのせたり。
{{left/s|1em}}
釋定覺姓政田氏、肥之後州之人也。居{{二}}台嶺{{一}}三十、源信之徒行{{二}}心觀妙理{{一}}、雖{{レ}}然常修{{二}}金剛密宗禪
門等{{一}}矣。寬仁之始、爲{{二}}法界四姓{{一}}、音亂名號、大念佛開發三所焉。破滅之後乃明鏡律師如輪繼{{レ}}之、故
以覺爲{{二}}念佛之始祖︀{{一}}。凡開基繁︀花之地、一旦破却而遙經{{レ}}年序後、又再興之例多之、到{{二}}于後世{{一}}緣起開
基之行狀等失墜云々。
永和元年三月日{{sgap|16em}}首楞嚴院比丘 嚴誓判
右山門之記文分明云々
{{left/e}}
如斯のうへは、定覺上人といふ人のさう{{ぐ}}にて、{{r|釋迦念佛|しやかねんぶつ}}之祖︀たり。如輪は定覺より二百五六十年
後、しかうして彼念佛破却をなげいてふたゝび{{r|發起|ほつき}}せる物ならし。{{r|加之彼|しかのみならず}}寺の鐘康曆元年七月に鑄た
ると云々、此銘にも粗有{{レ}}之。
同所名木の櫻あり。{{仮題|分注=1|普賢像云々。|}}{{nop}}
{{仮題|頁=168}}
此さくらの花盛を待て一枝を公方家へ進上して、翌日より念佛を始むると云々、下行米五十石を給ふ
と也。
一、昔應永年中{{r|鹿苑相國|ろくをんしやうごく}}よしみつ公、北山の{{r|別業|べつげふ}}におはしまし、後小松院行幸を申請させ給ふ。
{{仮題|分注=1|此事北山行幸記にあり云々。}}卽別業に於て{{r|御止宿|ごしゝゆく}}廿餘日、此けいえいによりて二月中旬の念佛しばらく延引ありて、三月に
わたり、花の時分をまちて行ふと云々。{{仮題|分注=1|此事左に|みえたり。}}
一、北山行幸の比は應永十五年春となり。卽釋迦念佛恒例の法事にあたり、{{r|洛中|らくちう}}{{r|羣|ぐん}}をなして喧しかり
けるあひだ、{{r|停止|ちやうじ}}すべきのよし、將軍家義滿公より仰下さると云々。卽上使斯波治部大輔義重をもつ
て、彼寺へ仰ありて云、此てらのさくら名木のよし上聞に達す。一枝を{{r|捧|さゝ}}ぐべし。因{{レ}}之彼住僧︀大枝を
{{r|手折|てを}}りて進上す。その時將軍家大きに御立ぷくまし{{く}}、かさねては小枝を切てさし上べし。名木の
大枝無{{レ}}情非{{レ}}可{{二}}折取{{一}}と云々。扨御{{r|下行米|げぎやうまい}}を下されてより、當世まで{{r|退轉|たいてん}}なきは{{r|右之謂|みぎのいはれ}}なり。
一、{{r|普賢像|ふげんざう}}といふは、古來より名だかき花木なりといへり。{{r|宇多天皇|うだてんわう}}{{r|雲林院|うんりんゐん}}御幸あそばされて、{{r|花|はな}}を
えいらんせさせ給ふ。此時{{r|菅家|くわんけ}}御供し給ひて、靑色を謝し給ひ、勅命によりて{{r|詩賦御作文|しぶごさくぶん}}の事、當代ま
でつたふる事也。此ふげん{{r|象|ざう}}は其{{r|種流|しゆりう}}なりと云々。
一此寺の由來を{{r|緣起|えんき}}{{r|等|とう}}{{r|失散|しつさん}}して不{{二}}分明{{一}}。是應仁よりこのかた舟岡山合戰に及びて、度々のたゝかひに
武家の{{r|陣舍|ぢんや}}となれり。故に{{r|重寶|ちやうはう}}みな失散す云々。
{{仮題|投錨=宗祇法師狂句之事|見出=小|節=c-1-12|副題=|錨}}
去比、{{r|宗祇法師|そうぎほうし}}本にて名高くして{{r|冠家|くわんか}}の人にもこれをはぢて法傳をうけらるゝ事あり、其身{{r|斗藪|とそう}}に住
して一所不定のきこえ有り。其比天下に{{r|連歌師|れんがし}}おほく侍る。所謂肖柏櫻井彌四良基佐宗長など、其外
も類︀おほく侍る。宗祇は{{r|隨一|ずゐいち}}にして、歌道の{{r|骨柱|こつちう}}たりとみえたり。其比宗祇以下の連歌師五六輩をえ
りて、五萬句の連歌を{{r|張行|ちやうかう}}せしめ、かたじけなくも{{r|先院勅點|せんゐんちよくてん}}をくだしめ給ふ。{{r|衆輩|しゆはい}}皆宗祇に不{{レ}}及{{二}}點
數{{一}}すくなし。誠{{r|俗生|ぞくしやう}}いやしなどいへど、歌德によりて其名は{{r|攝家|せつけ}}{{r|淸花|せいくわ}}も及給はず。尤此みちの{{r|逸︀人|いつじん}}
也。或時宗祇嵯峨{{仮題|入力者注=[#「峨」は底本では「蛾」]}}のあだしのゝ北に{{r|草庵|さうあん}}有るをみて、{{r|便路|べんろ}}に立よりて侍る、庭に{{r|卯|う}}の花咲ける。ある
じの野僧︀立いでて侍るに、其{{r|坊主|ぼうず}}鼻高く見にくかりければ、宗祇かへるさに、彼花に{{r|短尺|たんざく}}して、
さかばうのはなにきてなけほとゝぎす
宗祇かへれば、あるじの{{r|野僧︀|やそう}}此短尺をみて、にくき所爲かなと思ひて、客僧︀御留り候へとよばりける
となん。宗祇立かへれば、此句をよみきかせ給へといふ。宗祇さかはうの――とよみければ、さては
仔細なく候。我は此句を嵯峨坊の鼻にきてなけと心えて候故、扨はにくき事也とおもひ、よびかへし
つるといへり。をかしき事也と云々。凡そふぐのものは人にまじはるごとに{{r|向|むか}}ふの人のいふことばを、
よろづ我不具に推してきくもの也。是かたはものゝ每々ある事也と云、此僧︀も同日之談か。宗祇も下の
心がらはあつぱれ鼻をよそへたる句なればとみゆれば、たはふれたるとみえたり。{{nop}}
{{仮題|頁=169}}
{{仮題|投錨=元良親王釋靜安<sup>幷</sup>足利又太郞事|見出=小|節=c-1-13|副題=|錨}}
人皇五十七代陽成院のわうじ元良親王は、{{r|玄妙幽|げんめういう}}の{{r|歌仙|かせん}}にて、御自詠あまた人口に多し。徒然草にい
はく、此親王元日の{{r|奏賀|そうが}}の{{r|聲|こゑ}}甚しゆしようにして、大ごくでんより{{r|鳥羽︀|とば}}のつくり道まできこゆるよし、
李部王重明親王の記に侍るなどいへり。此李部王の御記は、{{r|名目|みやうもく}}高くしてまれ{{く}}なる物なりとぞ。
{{r|勿論|もちろん}}貴族等には{{r|所持|しよぢ}}もありつらめ、なれども擧{{レ}}世大切の記なりとみえたり。今川伊豫入道貞世九州
探題職をかうぶり罷下るの{{r|砌|みぎり}}、公方より申預り書寫し侍ると云一說有之、其後其記何かたへかちりつ
らん、又兵火のためにや{{r|灰燼|くわいじん}}となりつらん、あたら事といへり。近代ある人、歌書の{{r|抄物|せうもの}}など述せら
るゝ中に、やゝもすれば、此記を證文にひかれたる所おほし。此人若所持せられたるか、又外にてた
またま一覽もありつるか、又ふるき抄物の切句などに、李部王記をひきける事おほし。若其類︀を用ひ
て{{r|載擧|のせあ}}げられけるにや、{{r|如何樣不審|いかさまふしん}}におぼえ侍る。兼好さへおぼつかなくいへり。しかるを二百餘年
の{{r|後輩|こうはい}}として、たやすく此記を沙汰するは、{{r|後生|こうせい}}おそるべき事か、如何々々。扨右にしるすごとく元
良親王の御聲は、{{r|大極殿|だいごくでん}}より鳥羽︀のつくり道まできこゆと云。また僧︀傳にいはく、釋靜安西大寺の
{{r|常騰法師|じやうとうほうし}}にしたがひて{{r|法相|はつさう}}をまなび、曾て江州ひらの山に居し、十二佛名經をよみて{{r|禮拜修懺|らいはいしゆせん}}す。その
こゑ{{r|帝闕|ていけつ}}に聞ゆ。又諸︀州のあひだにも聞{{レ}}之ものありと云々。此事頗元良親王と同日の談乎。又古史に
いはく、足利又太郞忠綱が聲十里を去て聞ゆと云々、是又一同之談なり。凡そ漢︀家にも此ためしあり
といへども、本朝には間おほくいひつたへたり。此說いさゝか{{r|所謂|しよい}}ありげに聞え侍る。しかりといへ
ども、凡そ愚の今料簡するには、不{{レ}}得{{レ}}心にもおぼえ侍れど、{{r|古傳|こでん}}の{{r|所記|しよき}}なれば、あざむくべからず、
{{r|誣|し}}ふべからず。かやうの事は{{r|佛家|ぶつけ}}のものに沙汰すれば、さま{{ぐ}}わが道に引入て、義理ふかくとりな
す物なり。されど佛法以前にかやうの談、異國にも其例あれば、今釋氏のいへるまゝにも有るべから
ず。{{nop}}
{{仮題|ここまで=塵塚物語/巻第一}}
{{仮題|ここから=塵塚物語/巻第二}}
{{仮題|頁=170}}
{{仮題|投錨=卷第二|見出=中|節=c-2|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=目盲法師禮{{二}}萬歲{{一}}事|見出=小|節=c-2-1|副題=|錨}}
天文の初、{{r|洛陽|らくやう}}に名高き{{r|目盲法師|もくまうほうし}}ありて、{{r|高官|かうくわん}}{{r|有職|いうそく}}の人々へつねにまゐり、さま{{ぐ}}の藝をつくして
侍る間、{{r|都︀下|とか}}の人きいの思ひをなせり。かくのごとく{{r|鳴|な}}る藝なれば、{{r|富貴|ふつき}}の町人すべて、彼目盲法
師が門戶に市をなしてもてなしあへり。同五年あらたまの御禮を申などいひて、先公家がたへおもむ
きけるに、此盲者︀の手を引くもの、田舍よりのばりて諸︀事{{r|無下|むげ}}なれば、常々敎訓して召仕ひけるが、
今日手を引くに付て、さま{{ぐ}}の事をしへていはく、{{r|內裏|だいり}}御{{r|築地|ついぢ}}のうちへ入る時は、{{r|町屋|まちや}}の心え仕る
まじ。位たかき御かたさまなればつゝしむべし。{{r|若|もし}}{{r|長袖|ながそで}}の{{r|御人體|ごじんたい}}とみるならば、半町もまへかたより
此方へ申べし、{{r|跪|ひざまづ}}き禮をなすべしと{{r|庭訓|ていきん}}をふくめける。さて{{r|正親町|おほぎまち}}の{{r|面|おもて}}の御門より入る時、手引きに
云付けるは、是より內かた樣は皆雲上なり、かまへてあやしき{{r|人相|にんさう}}の御かたとみるならば、我に吿ぐ
べし。{{r|貴人堂上|きにんだうじやう}}の御かたさまは、{{r|平人|へいにん}}と衣ふくも替りて{{r|長袖|ながそで}}なり。但長袖といふにしさいあり、必ず
御かしらに物をいたゞかせたまふ、是則{{r|御公家|おくげ}}也。たとへ又長袖の人なりとも、つぶりにものゝなき
は{{r|凡人|ぼんにん}}也。よく{{く}}見分て我にしらすべしとくりかへし{{く}}申しける。扨御門を入るとひとしく彼手
ひきのもの吿ていはく、御申の御かた樣これへ御こしとさゝやきければ、盲者︀{{r|膝折頓首|ひざをりとんしゆ}}して、白砂に
手をつき、しか{{ぐ}}のものにて御座候と一禮をのぶれども、何の御こたへもなし。又使をたまはりて
御太儀と云事もなかりけり。扨如{{レ}}此して下馬する事、一町の間に十所ばかりもひざまづきければ、ひね
もその禮には、百四五十所もつくばはせけるあひだ、身もひえ水衣も{{r|沙泥|すなどろ}}になりてみぐるしけれ
ば、道に行あふ人ごとにつまはじきをしてわらひけるとぞ。かやうに{{r|路次|ろじ}}にておほくひざまづけども、
一度も御ことばに預る事なかりけり。盲者︀もくたびれて、もはやいつしか手引と共にかへりてけり。
扨宿へかへりてしばらくやすみて、彼手引に申しけるは、每年の御禮には{{r|上方樣|うへつがたさま}}より御詞を被{{レ}}下る。
又さほど下馬もせず唯御やかたへ參る計なり。さて{{く}}今日の下馬の事ふしぎ也。若なんぢ人たがへ
して、我につげぬるか。又{{r|御公家|おくげ}}ならば、さだめておなじ御かたへ幾たびも禮を致させたるにてぞあ
るらん。いぶかしき事也。{{r|最前|さいぜん}}よりよく{{く}}示し敎へけるにといへば、彼手引がいはく、先刻より御
敎の御方ならでは、御吿を申さずと云ふ。猶{{r|不審|ふしん}}におぼえて、かしらには物をいたゞかせ給かととひ
ければ、いかにも左樣に候と云ふ。さては{{r|彌|いよ{{く}}}}おぼつかなしと思ひてまたとふ、長袖をめしたるにや。
彼引手こたへて云、いかにも長袖にて{{r|大紋|だいもん}}のかたびらをめし、御手には{{r|鼓|つゞみ}}をもたせたまひ、御供の人
人はみなふくろをもち給と云。彼盲者︀{{r|仰天|ぎやうてん}}して、扨は仔細なき{{r|萬歲樂|まんざいらく}}なり、{{r|口惜|くちをし}}き禮をもしつる物か
なと云て、その手引をしばらく追ひこめけれどもかひなく、後には盲者︀もをかしきことにおもひ、ま
た{{r|公家|くげ}}のひと{{ぐ}}へ、かさねて御禮を申あらためて、この事をかたりわらひけるとかや。をかしきこ
{{仮題|頁=171}}
となり。
{{仮題|投錨=關山和尙被<sub>レ</sub>饗{{二}}應於夢窓國師{{一}}事|見出=小|節=c-2-2|副題=|錨}}
妙心寺關山ゑげん{{r|禪師|ぜんじ}}は、そのかみ濃州に山居せられて、{{r|智行兼備|ちかうけんび}}の道人本朝にならびなき{{r|禪哲|ぜんてつ}}なり
といへり。去建武之後、大德禪院大灯妙長の{{r|令名|れいめい}}世に比類︀なく、王侯大人一同に{{r|歸依|きえ}}せしめたまふ。
これによつて五山{{r|大刹|だいせつ}}の{{r|長老|ちやうらう}}も机前のもりをはらはんことをのぞみ、{{r|隱遁無爲|いんとくむゐ}}の尊德もかへつて{{r|殘盃|ざんぱい}}
の冷にしたがふ。四海︀に{{r|鳴|な}}る事{{r|雷霹|らいへき}}の如しと云ふ。しかれども門弟曾て大灯の心にかなひがたく、唯
龍の勢ありておそるゝのみといへり。一日門弟論義せるに、問{{r|說心|せつしん}}に叶はざるにや、大灯立て首をう
たれけるが、あまりにつよく{{r|打擲|ちやうちやく}}せられて弟子をうちころされけるとなん。これよりいよ{{く}}おそれ
をなして、門下の輩しんしやくの{{r|體|てい}}にみえて、敢てつかうまつる事人にゆづりあひて、{{r|悟道|ごだう}}を耳のよ
そになせり。此事{{r|擧|あ}}げて天下にかくれなく、あるひはたふとびあるひはさらずともなどいひて、かた
ぶけける{{r|者︀|もの}}もおほしとなり。關山此事をつたへきゝて、是則我のぞむ所なり。あつぱれ師や、かゝる
人にこそ、{{r|師資|しゝ}}の{{r|盟約|めいやく}}もなすらめとて、急ぎわらんづをはきしたゝめ{{r|常住|じやうぢう}}の{{r|體|てい}}にて上洛あり。卽時に
{{r|大灯|だいとう}}の{{r|禪院|ぜんゐん}}のたづねゆきて、しか{{ぐ}}のものなりとことわられければ、大灯やがて立て出合はれける
に、關山庭上に立ちながら、急に{{r|法問|ほふもん}}二三度に及ぶ時、大灯歎じて曰く、あゝなんぢ我をしれりや、
はからざりき、けふすでに汝に會せんとは云々。大灯もこゝろよく、{{r|問談數廻|もんだんすくわい}}におよびて、是より
彼禪師を{{r|吹擧合體|すゐきよがつたい}}せらるゝと云々。かゝるたふとくおそろしき{{r|敎化|けうげ}}を聞きつたへて、不日に上洛あり
て、法問におよぶ事、まことに{{r|未曾有|みそう}}と云つべきか。凡本朝の禪師といふは、{{r|關山|くわんざん}}を稱して云といへ
り。是若經者︀よりしてこれをいはゞ、{{r|等覺|とうがく}}十{{r|地|ち}}の{{r|再來|さいらい}}とも{{r|稱美|しようび}}すべきかと云々。扨はなぞのゝ
{{r|勅願所|ちよくゞわんしよ}}、{{r|御影堂|めいだう}}、{{r|法塔|ほふたふ}}、{{r|山門|さんもん}}、{{r|鐘樓|しゆろう}}五山に超えて美々しくいらかをならべ、寺門一{{r|宗|しう}}の開山たり。
{{仮題|分注=1|妙心寺の僧︀の云く、寺は大德寺へゆづり、宗は妙心寺へゆづり給ふと云、大灯の語ありと云々。宜哉今にいたりて、益々門人□林尤義と云々。}}ある人のいはく、惠玄妙心寺住せられしころ、{{r|天龍寺|てんりうじ}}
{{r|夢窓國師|むさうこくし}}嵯峨より入京の折ふし、寺前を過ぎたまひける間、人をして關山をとはせられけるに、折よ
く關山住坊にまして、やがてやぶれごろもをとゝのへ走出、先御入寺せしめ給へとて{{r|引導|いんだう}}して、住坊
に入り、こゝろよく{{r|對談|たいだん}}ありて後、{{r|國師|こくし}}へきやうをぞ致すべきが、貧賤なれば{{r|心外|しんぐわい}}なりとて破れたる
すゞりばこより錢四五錢をとり出して、{{r|近隣|きんりん}}の{{r|在家|ざいけ}}へ小僧︀をはせて、やきもちといふるのを買はしめ、
{{r|夢窓|むそう}}へもてなされけるとぞ。夢窓もこれを見給ていぶせきながら、關山の志の切なるを感じ入て{{r|賞食|しやうしよく}}
ありて、こゝろよく謝して退出せられけるとなん。{{r|輕忽|きやうこつ}}のもてなしなどいふもおろか也といへり。彼
{{r|夢窓國師|むそうこくし}}は四海︀の智識にて、當時天下の大人{{r|渴仰|かつがう}}の{{r|上|うへ}}、世こぞつて{{r|崇敬|そうぎやう}}し奉ること{{r|言舌|ごんぜつ}}に述べがた
し。富貴にして{{r|柔潤優廉|にうじゆんいうれん}}のきこえ又かまびそし。殊に和こく{{r|風詠|ふうえい}}其妙、より{{く}}公門をはづかしめらる
ると云、かた{{ぐ}}有道の師、{{r|言語道斷|ごんごだうだん}}にして、五山第二の列にそなはられ、風水怪石をもてあそびて、
其こゝろざし悠々閑然たりといへり。{{nop}}
{{仮題|頁=172}}
かゝる{{r|止事|やんごと}}なき高德を、關山のもてなしつくろはずかざらずして、唯そのまゝの{{r|體|てい}}{{r|未曾有|みそう}}の事どもな
りと、ある人かたられ侍りし。
{{仮題|投錨=信州草津湯の事<sup>付</sup>地ごくあなの事|見出=小|節=c-2-3|副題=|錨}}
信州おく山の中に、草津といふ所あり。其所に{{r|熱泉|ねつせん}}あり。此所いたりて山中にして{{r|人倫|じんりん}}まれなる所な
り。淺間の山のふもとより七八里も奧山なりと云。此{{r|溫湯|をんたう}}はきはめてあつくして、勢ひ又强く其味し
ぶれり。是いはゆる佛說に、東海︀の北國に草津といふ所あり、其所に{{r|熱湯|ねつたう}}ありて{{r|衆痾|しうあ}}を治すと云々、
則此湯なりといひつたへたり。しかれども、此湯の性つよくさかんなるがゆゑに、病によりて忌{{レ}}之と
いへり。凡{{r|瘡毒難︀治|さうどくなんち}}にして骨にからみ、又惡血ありて{{r|腫物|しゆもつ}}を發し、春秋寒暑︀の節︀にいたりて再作する
の類︀は、かならず十人に八九は治すと云。されば此湯を賴むものは、まづ深切にその人の{{r|虛實强柔|きよじつがうじう}}の
質器︀をみあきらめて、しかうして後に可{{レ}}用{{レ}}之と云。{{仮題|分注=1|猶此事、醫術の人に相談し、且又此湯|を用ひたる人に、再往たづねとふべし。}}此事は前年、彼湯
にいりてしば{{く}}其しるしをえたるものかたり侍し。和國第一の{{r|熱泉|ねつせん}}也。一たび湯治してかへるもの
其{{r|太刀|たち}}、{{r|脇差|わきざし}}、{{r|衣服|いふく}}、{{r|器︀財|きざい}}の類︀、惣じて色を變ぜずといふことなし、てぬぐひを彼湯にひたすに、
{{r|白潔|はくけつ}}の布たちまち{{r|柿澁|かきしぶ}}の汁にて染めたるがごとし。やぶるゝ事なくして、其布かさね疊む所の折目より
すなはちをれ切るといへり。かやうの湯もある事にや。扨三月より中秋まで、遠近のもの爰に來り、
其程すぎぬれば、{{r|入湯|にふたう}}難︀{{レ}}叶と云。
{{仮題|分注=1|其所の民俗語て云く、九月より以後は、此所の山神︀參會し給ふ故、重陽の比より此所の旅館︀の人も去て里に下り、又來年の期を待て此所に來たりて、旅人をもてなしあつかふと云。秋去もし此說然れるか、又重陽より以後は至て寒きが故か、兩條いかゞ。}}又此湯より猶おく山へいれば、おそろしく燒上る山おほしと云。晝は其
やくる時いたりても見分がたし。夜に入て燒る{{r|刻限|こくげん}}には、四面皆火也と云。外國のものたま{{く}}此事
をきけば、身の毛もよだつておのゝく事也。古僧︀の說にいはく、燒上る山は皆地ごくなり。此國むか
しより人情{{r|强頂|がうちやう}}にして{{r|邪欲無道|じやよくむだう}}なり。道を說すゝめがたし。此ゆゑに善光寺の本尊はる{{ぐ}}と西邦よ
り此國にうつらせ給ふは、此いはれなりと云々。又或人のいはく、{{r|武藏|むさし}}の國ちゝぶの邊に穴あり。此
あなに入れば前途いく程といふことを知らず。地ごくの相をうつし異人奇形の物に逢といへり。
{{仮題|分注=1|わたくしに云、此說いかゞなり。先年此郡のものに此よしたづれ侍るに、古僧︀と同日之談也。此事然りや否。又云、いつはらと云所に地ごくへつたふ穴ありと云。是則武藏の國也。地ごくの事はしらず、穴あるは實也と云々。}}
{{r|古來|こらい}}の文どもにも武藏野の下に地{{r|獄|ごく}}有りといひつたへたり。もし然らば、頗相似たる說也、しひて地
ごくの沙汰を決するにはあらず、かたりしまゝをしるしとゞむ。
{{仮題|投錨=上杉領內土民論諍事<sup>付</sup>頓智の事|見出=小|節=c-2-4|副題=|錨}}
{{r|鎌倉|かまくら}}の{{r|執權|しつけん}}{{r|上杉民部入道道昌|うへすぎみんぶにふだうだうしやう}}といふもの、{{r|發明利根|はつめいりこん}}のうつはもの也。あるとき{{r|領內|りやうない}}の土民松山を論じ
て{{r|隣里|りんり}}のともがらと度々いひ合ひいさかひ侍るが、{{r|賤|いや}}しきもの共なれば、後の慮もなく、又時代の用
捨もなく、唯わがまゝをのみたがひにふるまひて、後は一揆がましくなりて、さび矢をみがき{{r|竹鑓|たけやり}}な
どの物用意し、{{r|不日|ふじつ}}の{{r|難︀儀|なんぎ}}に及ばんとす。これによりて{{r|近鄕|きんがう}}の百姓より{{r|代官|だいくわん}}までひそかに吿うたへけ
る間、時の代官田中源太左衞門なにがしと云もの、{{r|具|つぶさ}}に聞屆け大きにおどろき、やがて執權まで此事を
{{仮題|頁=173}}
うかゞふ。家臣も唯ならずおもひけるに依て{{r|道昌|だうしやう}}へ達しける。此山の論に就て事々しき仔細あれども、
{{r|畢竟|ひつきやう}}山のいたゞきよりふもとまでの{{r|間尺|けんしやく}}を積りあきらめずしては、此論決しがたしと云々。先{{r|家老代官|からうだいくわん}}
相共に被{{r|論評|ろんじやう}}の百姓のうも、{{r|當|たう}}を立る者︀四五人をよびよせて{{r|對決|たいけつ}}せせしむ。然してたがひの{{r|究極|きうきよく}}、此山の
高さをつもらねば{{r|勝負|しようぶ}}決しがたきによつて、さし當り人々も辨へかねて、此事いかゞすべしといふ。
代官も山の間尺を{{r|直|ぢき}}に知る事同朋の中に不{{レ}}得{{レ}}心なれば、{{r|勝|かつ}}て承知仕らず申けり。かくのごとくして
やうやく時をうつすところに、道昌は此事耳のよそにして、大やうに下知もなく、最前より百姓の一
{{r|揆何條|きなんでふ}}の事かあるべきとあざむかれ侍りけるが、けふは折ふし浴室へ入りて、しばらく垢などすら
せ、只今{{r|風呂|ふろ}}よりあがりさまに、障子をへだてゝこの事を立ぎきせられけるが、もどかしくやおもはれ
けん、{{r|頓|やが}}て身をぬぐひ刀を手に{{r|提|ひさげ}}てたち出で直訴をきかれけり。扨山の間尺をつもるに至りて、かや
うかやうにして、其山の間尺毛髮も違ひなしと云て、此公事わけられ{{r|諍論|じやうろん}}もしづまりけると云。凡山の
間尺を直さまにつもり知るといふは、先其山いたゞきに何にてもあれ目あてのしるしを置き、其所に
人を置き、扨又一人は三間にても五間にてもあれ竿をこしらへ、其先に印を付け山のいたゞきより次
第に山路をくだり、此竿の先の{{r|印|しるし}}と山のいたゞきの印とおなじやうなる時、山上のものとたがひに聲
をかけて、兩方のしるし同じやうなりといふ時、下の竿をもちたる者︀立留れば、其所にて何間何尺と
つもり、又山上の印を其所へ持下りて置き、{{r|最前|さいぜん}}のしるしを持たるもの坂を下りて前のごとくにして、
何間とつもり次第に間尺を書しるし、ふもとまで下りて惣の間尺何程とつもるに、{{r|毫髮|がうはつ}}もたがひなし
と云々。たとへ山路の{{r|曲折|きよくせつ}}何十町ありといふとも、直上して間尺を知るときは纔也といへり。直上百
間の山は普通に超て、人の目にたつといへり。富士山もすぐに立てみるに、九十六町ならではなしと云。
しかうして京口よりのぼる時は、山路十二里有と云々。道昌武勇萬人にこえたる人なれば、尤其道は
{{r|鍛鍊|たんれん}}せられめ、あらぬ事までも覺悟しけるは、まことにたゞ人にはあらず。若軍書の中にありけるに
や、いかさまふしぎの事共也と云。又一日道昌遊宴の後{{r|遁世|とんせい}}者︀びは{{r|法師|ほうし}}などよびあつめられて、四方
山の物語せさせてなぐさまれけるに、彼の者︀ども、我いちはやしと樣々の{{r|珍說|ちんせつ}}をのみ云出侍りしに、
其中より云く、御領の其寺に五重の塔あり、高さ何十間有と云。かたはらより申けるは、左にあらず、そ
れぞれの間尺有といひて、相互に{{r|虛空|こくう}}なる{{r|穿鑿|せんさく}}をして時をうつしけるを、道昌又聞{{レ}}之{{r|微笑|びせう}}して、なんぢ
らが論義共に{{r|穩當|をんたう}}ならず、皆以て人のいひしまゝを聞いて、我しりがほに論ずれども、ひとつもあた
らざる也。塔は何重にてもあれ、下の重の四方を間を取ばしるゝ物也、たとへば下の重三間四方あり
て五重ならば、{{r|升形|ますがた}}まで十五間有る物なり。又五間四方ならば、二十五間あるものとしるべし。三間
四方にて、三重ならば九間也。如斯一重づつ五間三間にてもあれ、四角に積り扨やねをふき立る物な
り。上下の重に甲乙あれば、塔のかたちみにくゝ、又{{r|暴風|ぼうふう}}大雨のとき、甚あやうくして損亡する物也
と云々。則なんぢらが今{{r|僉儀|せんぎ}}する塔を右の如くに積るべしと云て、人を遣して右の如くにして少しも
{{仮題|頁=174}}
相違なしと、又{{r|九輪|くりん}}は其{{r|塔|たふ}}にしたがひて{{r|品|しな}}あるものなり。如此にこゝろえべしと、かたられけるとな
ん。まことにきい人也。{{仮題|分注=1|此事、先年鎌倉の家來の末かたり|しまゝ也。然哉否暫く老工を待つ。}}
{{仮題|投錨=鹿園院殿北山之別業三重金閣事<sup>付</sup>富士埋木事|見出=小|節=c-2-5|副題=|錨}}
{{r|鹿苑院殿|ろくをんゐんどの}}{{r|大相國|だいしやうこく}}{{r|義滿公|よしみつこう}}去御應永十五年春、後小松院行幸をきた山の別業に申入させたまふ。此{{r|經營|けいえい}}に
よりて增々{{r|金殿|きんでん}}{{r|紫閣|しかく}}をみがきつくりそへさせ給ひ、瀧水を引き池をほらしめ、池中に{{r|洲崎|すさき}}をかまへ、
水中に伊勢島{{r|雜|さい}}賀の名石をならべ、海︀島の意味になぞらへ{{r|風情|ふぜい}}をつくして{{r|結構|けつこう}}あり。是かたじけなく
も天子{{r|鳳輦|ほうれん}}をうながしめ給ふによつてなり。そのうへ義滿公後小松院{{r|御猶子|ごいうし}}の御約東有{{レ}}之に依て、わ
きて奔走せさせたまふも{{r|御理|おんことわり}}なり。扨池の汀に南面にかまへたる三重の閣あり。
{{仮題|分注=1|四壁に、金ばくを押て彩色の繪あれば、俗に金かくと云。}}此閣より水上をのぞむに、{{r|澰灔|れいえん}}たる池崎、うき草をうごかし、{{r|陰森|いんしん}}たる{{r|緣樹|えんじゆ}}{{r|影|かげ}}{{r|沉|しづん}}で{{r|魚鼈|ぎよべつ}}枝にあ
そぶ。又遠山をみれば、白雲花色をうばひ、{{r|薄霞山岳|はくかさんがく}}をゑどる、絕景無二の{{r|壯觀|さうくわん}}也。これによりて、
天子も{{r|龍顏|りようがん}}殊にうるはしく、二十餘日の{{r|止宿|しゝゆく}}とぞきこえけり。扨彼金かく三重の上の天井をば、一枚
の板をもつて方一丈をふさがれけるとなん。もつともふしぎの大木にてもありぬると、此事人口にい
みじく、今の世までも云ひ傳ふる人侍る。去る中秋ある武家の會合に、此閣の物語ありて、座中耳をかた
ぶけ{{r|感情|かんせい}}止まざる所に、奧より富士の{{r|神︀職|しんしよく}}大宮の住中務と云もの走出て、さみしていはく、凡{{r|花洛|くわらく}}の人
人はおほくは外を御存知候方すくなし。此ゆゑに、此一枚の天井板をみづからいみし、{{r|御雜談|ござふだん}}ある事
なり。富士山のむもれ木といふは、彼板に倍せる木おほく侍る。先づは某が茅屋に二間の杉障子あり、
是則一枚板なり。{{r|御不審|ごふしん}}においては、御供申罷下御見參に入候べしとつぶやきければ、座中の人々手
をうつて、是より外のうはさはやみにけり。すべて六十餘州の日本にさへ{{r|遠國|をんごく}}には耳なれぬ事のみ多
し、いはんや唐土てんぢくのさかひ、さぞあるらんと思ふ計也。香といふものもあぶらのこりたる木
なり。みさまはあやしくて、その匂ひえもいはれず。{{r|栴檀|せんだん}}といふものもふしぎの香也。いみじき物の
みかぞへがたし。
{{仮題|投錨=尼子伊豫守無欲の事|見出=小|節=c-2-6|副題=|錨}}
{{r|尼子|あまこ}}伊豫のかみつねひさは、{{r|雲州|うんしう}}の國主として武勇人にすぐれ、{{r|萬卒|ばんそつ}}身にしたがつて不足なく、家門
の{{r|榮耀|えいえう}}天下にならびなき人にてぞ有ける。是はむかし{{r|大御所|おほごしよ}}{{r|等持院|とうぢゐん}}どの尊氏公御存生の時、{{r|執事|しつじ}}武州
もろ直に讒せられて、命を雲陽のちまたにおとせし、鹽冶はんぐわん五代の{{r|後胤|こういん}}なりと云々。然るに高
貞{{r|生害|しやうがい}}の後、其子三歲の{{r|兒|ちご}}を法師にして、尼の弟子として養育せり。成人の後{{r|還俗|げんぞく}}して、其師名を貴
び、故に名字を尼子と名乘けるとぞ。{{r|經久|つねひさ}}までは五代なりとぞ。是も其先宇多天皇より出て、佐々木
一流の名家也と云つたへ侍る。
さてこのつねひさは、天性無欲正直の人にて、らう人を{{r|扶助|ふじよ}}し、民とともに{{r|苦樂|くらく}}を一にし、ことにふ
れて困窮人をすくはれけるあひだ、これに因りて、かの門下に{{r|首|かしら}}をふせ{{r|渴仰|かつがう}}するもの多し。{{r|齊|せい}}の孟し
{{仮題|頁=175}}
やうくんが食客三千のむかしも、今雲州に再興せるかと人みな賞しほめあへり。去る永正八年船岡山
の一亂の後、京城しばらく靜るといへども、國々在々郡々は私の武よくによつて、{{r|干戈|かんくわ}}しばらくも止
事なし。此時經久は雲州の居城に有{{レ}}之、先暫休そく{{r|活計|くわつけい}}せられけるとなん。扨此つね久親族の大み
やうにてもあれ、又出入{{r|拜趨|はいすう}}のさぶらひにてもあれ、常にとぶらひくる人ごとに、四方山の{{r|雜談|ざふだん}}にし
て、後所持の物をほむれば、則其身もよろこびて、さほどいみじく{{r|稱美|しようび}}の上は、貴方へつかはすなど
云て、{{r|墨︀跡|ぼくせき}}、衣ふく、太刀、刀、馬鞍等にいたるまで、卽時に其人におくられけるとなん。これによ
りて經久の風をしれる人、かさねてとぶらふ折からは、何にても所持の道ぐをみせらるれども、人々
{{r|斟酌|しんしやく}}して{{r|譽|ほめ}}もせず、目にふるゝばかりにてやみけるとなん。年々の暮ごとに所持の衣ふくをぬいて家
來のものにとらせ、わが身は薄わたの小袖一つを著︀て、五三日をすごされけれども、{{r|寒氣面貌|かんきかほかたち}}へもあ
らはれず、手あしもこゞえるさまなし。{{r|宛|あたかも}}暮春煖氣の人相をみるがごとしといへり。あるとき、{{r|出入|でいり}}
の某といふものとぶらひ來て、きげんうかゞひものがたりせるに、折節︀その前の庭に大きなる松あり、
えだのふりやうわざとならずして、景氣すぐれて見事なりければ、彼出入のものも、經久平生のふるま
ひはよくしれども、さればとて樹木までほめぬも{{r|座體|ざてい}}さながら{{r|無骨|ぶこつ}}なりとおもひて、扨々御庭の古松
{{r|木立|こだち}}えならずおもしろく一らん仕候。此木はそもいづかたより誰がし殿の御進上にて候ぞや、又むか
しより御庭におのづから生じたる松にて御座候や。かやうのめづらしき松は、いまだ見申さず。御ひ
さうあそばされ候べしといひてかへりけり。その翌日家來にいひ付て、此木をよくほらせ人夫をあつ
めて、{{r|才覺|さいかく}}を{{r|廻|めぐ}}らしそこなはぬやうにして、きのふ來たりし某が方へつかはすべしといひ付て、內へ
入られければ、家の子かしこまりて候とて、くだんの松をほらせ、くるまにのせんとすれども、すぐ
れたる大松なれば、くるまにもつみやすからず。長さは十間あまりもある木なれば、通路せばくして
枝はびこりたれば、只めいわくするのみにて、{{r|途方|とはう}}をうしなひて、また經久にかくと申上ければ、つ
ね久其事ならん、其儀ならば是非なし。其松をこまかに切てつかはすべしとて、つひに此木を切りく
だき、牛ぐるまにのせてのこらず送り侍となん。ふしぎといふもおろかなる人なりとぞ。此事細川の
某傳へきゝていはく、夫攻伐は武道の第一、人々わすれざる所也。是本大欲に似たれども、其あひだに
おほくの品なり。あるひは君につかへて{{r|朋友|ほういう}}{{r|浸潤|しんじゆん}}の讒にあひ、あるひは{{r|傍輩|はうばい}}{{r|著︀座|ちやくざ}}上下により、あるひ
は不意におそひ來る敵あり。あるひは一言の失をあたへられて、後代の恥を思ふ。かくのごとくの品
繁︀々なり。此類︀よりして、{{r|蜂起|ほうき}}{{r|鬪諍|とうじやう}}しあるひは打まくる人あり。或は打勝て敵國を我有とする事あり。
是自然なり。あながち欲より出づるのみにあらず。經久武勇の家に生れ、攻伐は其業なれば各別の事
也。平生かやうのふるまひまことに古今いまだきかず、武士たる者︀のよきてほん也。侍は一朝命安を
んに居しがたし。此ゆゑにかねて人に約しがたし。況や後子の{{r|榮枯|えいこ}}を思はんや。予はつねひさが行跡
にこゝろをよせはべり。若かのふるまひをあざむくもの有るべけれど、實は人々の及ばざるところ
{{仮題|頁=176}}
なり。かやうの無欲をこそ行しがたくとも、せめて{{r|聚斂|しうれん}}せざるやうに、身を持べき事なりとぞ申され
ける。
{{仮題|投錨=大相國義滿公御作文の事|見出=小|節=c-2-7|副題=|錨}}
{{r|鹿苑院|ろくをんゐん}}{{r|大相國|だいしやうこく}}源よしみつ公は、{{r|大御所|おほごしよ}}{{r|贈︀|ぞう}}左天臣等良公の御辞、木朝不變の將軍にておはしましげる。寶
篋院殿{{r|御他界|ごたかい}}の後、わづかに十歲のほどにて御世をしろしめされて、四十餘年が間天下をたもち給ふ。
御在世には佛家に{{r|歸依|きえ}}し給ひ、{{r|禪院寺|ぜんゐんじ}}{{r|塔|たふ}}を{{r|建立|こんりふ}}あり、{{r|榮耀|えいえう}}時をえ給ひ、後小松院御{{r|猶子|いうし}}の御ちぎりい
ますによりて、御他界の後、天皇號まで贈︀らせ給しを辭せさせ給ひけるとなん。かやうの御贈︀號古今
例なき御事也。公方の號は此時よりはじまりけるとぞ。つねの御心ばへはなだらかにやさしくおはし
ます。よろづ人にふびんせさせ給ひければ、皆人あがめ奉るとみえたり。{{r|御存生|ごぞんじやう}}の御事かの家の御記
文にくはしければ、しるすにおよばず。一とせ西國{{r|御下向|ごげかう}}の折ふし、長門の國にあみだ寺へ{{r|御參詣|ごさんけい}}あ
り。其時{{r|院主|ゐんしゆ}}申ていはく、此所に平氏亡卒の{{r|靈蟹|れいかに}}と{{r|化生|けしやう}}して、此うみに住候。これこれ御上覽に入奉
らんとて、かの平家がにを一つ進上しければ、よしみつ公つく{{ぐ}}御らんじて、壽永元暦のむかしのあ
はれ御心にいたましくおぼして、追悼の御作文をあそばしける折から、やさしき御風情申もおろかな
りとぞ。其御追悼の詞言、
{{left/s|1em}}
嗚呼悲哉、三がい{{r|流轉|るてん}}のしゆらの業は、{{r|跋提河|ばつたいが}}のながれにおとされて、{{r|苦海︀|くがい}}のなみにしづみ、かゝ
る蟹のすがたと{{r|化生|けしやう}}せしもの歟、可憐々々。すぎし元曆のいにしへをも、今の事よとあやまたれ、
もろきなみだ袖にあまる。つら{{く}}人間盛衰をあんずるに、たゞ是かんたん一時のねぶりにもたら
ず。平家わづかに二十餘年のおごりも、{{r|盛者︀必衰|しやうじやひつすゐ}}の夢のうちにきたりて、つひに{{r|東夷|とうい}}の{{r|武威|ぶゐ}}にくだ
かれ、壽永の秋の一葉に掉さして、西海︀の{{r|波濤|はたう}}にたゞよひ、{{r|浮沈|ふちん}}のながれに身をよせしも、いとあ
はれなりし有樣なり。比しも元曆二ねんの春の半ば、官軍諸︀所の軍に打まけて、つくしぞさして
{{r|落鹽|おちしほ}}の、天子をはじめ、{{r|月卿雲客|げつけいうんかく}}も皆一{{r|蓬|ほう}}の{{r|滴露|てきろ}}に涙を比し、帆をひやうはくの浪にまかせて、豐前
の國柳がうらに著︀かせ給て、しばしは君しんきんを休めたまひしかば、官軍一まづ{{r|安堵|あんど}}の思ひをな
せり。斯りしところに、三月二十二日とかや、おもはざるに範賴よしつね、兵船數千さうにておし
よせ、幡旗を春風にひるがへし、矢をいる事雨のごとし。{{r|櫓楫掉歌|ろかひたうか}}は天をふるはし、{{r|鯢波|げいは}}の{{r|數聲|すせい}}
{{r|海︀底|かいてい}}をとゞろかす。されば兵は{{r|凶器︀|きようき}}、武は{{r|逆德|ぎやくとく}}とはいへども、王土に身をよせし{{r|武士共|ものゝふども}}、{{r|情|なさけ}}なくも先
帝の{{r|御座船|ござぶね}}、天子の龍の天績を{{r|憚|はゞか}}らず、七重八疊に{{r|打困|うちかこ}}む。官軍今を{{r|限|かぎり}}と{{r|軍|いくさ}}すと{{r|雖|いへども}}、{{r|天運|てんうん}}{{r|微|び}}にして
{{r|忽|たちまち}}まけ、女院{{r|擒|いけどら}}れ給しかば今は是迄也と、二位の{{r|禪尼|ぜんに}}進み出て、安德天皇八歲の君を左の脇にいだ
き奉り、右の手に寶劔をぬき持、海︀ていに飛いりたまへば、{{r|諸︀卿|しよきやう}}{{r|百官|ひやくゝわん}}諸︀司、平家の一ぞく{{r|公達|きんだち}}も、
一つながれに身を沈め、水の泡立つ時の間に、消えて姿もなき跡は、よせくる浪ぞ名殘なる。そも
そも官軍此蟹と化生する事いかなれば、なれぬ海︀路のたゝかひに、七手八脚てだてつき、しんい
{{仮題|頁=177}}
{{r|强情|がうせい}}のうらみきえやらず、{{r|弘誓|ぐぜい}}のふねにほだされ、{{r|隨緣眞如|ずゐえんしんによ}}の浪おこつて、八苦の{{r|海︀|うみ}}にしづみ、ぼん
なうの{{r|波瀾|はらん}}にたゞよひて、{{r|萬卒|まんそつ}}のこんぱく天源にかへる事能はず、終に水底にるてんして、よる所
なきまゝに、蟲に{{r|解|げ}}して此かにとなれるもの歟。今かれがすがたを見しよりも、むかしのあはれに
袖ぬれて、
過し世のあはれに沈む君が名をとゞめ置きぬる門司のせきもり
よるべなき身は今かにと生れきて浪のあはれにしづむはかなさ
{{left/e}}
かやうの{{r|御追善|ごつゐぜん}}{{r|大樹|たいじゆ}}の御身にて、たぐひなくやさしく覺え侍る。則此御筆跡を彼寺にをさめて今にあ
りといへり。生前の富貴死後の文章といふ本文有り。いけらんうちのさかえは、皆{{r|浮虛|ふきよ}}のたのしびな
り。死して後名をのこすは文章なり。いさゝかの事にてもかきおく人は、其心ばへやさしく覺え侍る。
いはんや{{r|公方|くぼう}}の身をや。いうに覺え侍る物ならし。
{{仮題|投錨=森元權之助譬舌利口事|見出=小|節=c-2-8|副題=|錨}}
{{r|關東|くわんとう}}の管領さまのかみ氏滿公は、常に酒を好て宴せられ、雨天になれば{{r|近習外樣|きんじふとざま}}となく召しあつめて、
氣かろげに辭をかけらるゝ間、空くもれば、すはや殿の御遊はじまりぬらんと、上戶のともがらいさ
みあへり。一年{{r|五月雨|さみだれ}}の空いつもよりうちつゞきて、はれ間なくさびしさまさりければ、かの酒宴ひ
たものうちつゞき、{{r|座體|ざてい}}尊卑をいはず、主從もろともに無禮講といふべきほどに興じられけるに、氏
滿のいはく、天子も人なり、將軍も人なり、又我も人なり、我に仕ふる汝等も又人倫なり。智をいはば
なんぢらこそ、結句われにもこゆべし。いかにといふに、つねに{{r|下民卑賤|げみんひせん}}のわざを見て、人情をこま
かに目にふるゝによつて、ものゝ思ひやり下臣の身ほどくはしかるべし、如此一等々々の{{r|序次|じよじ}}人間ほ
ど品あるものはあらじ。書を見ても目にふれず、哀を間近くきかざれば、おもひはかる所の情けには
すくなかるべし。折々は主從を引かへて世を治めたらんこそ、よかるべき物とたはぶれ給へるに、近
習の人々かつて此返答を申ものなし。やゝ有て、はるかの{{r|末座|まつざ}}にひざまづきたる森元權之助信光とい
ふもの罷出て、こは勿體なき御意にてこそ侍れ、上ありての下にてこそ候へ。さて主君のよろしきと
申は、唯おほやけなるが物にさはらずしてよくおはしまし候。凡そ大君の{{r|御利發|ごりはつ}}、下從のごとくなる
はあしく、けつく下としてよろづの法をはからひがたく、なまじひに御利根すぐるれば、民のために
却つて煩に罷成り候べし。いかにと申すに、とても三皇五帝の聖代のごときも、今時はおはしますま
じ。又泰時時賴のごとくに、人を撫育してあきたらず、尙{{r|頭人評定|とうにんひやうじやう}}のものまひなひにふけりて、民
をなやます事もこそあんなれと、諸︀こくを{{r|斗藪|とそう}}して、下農商旅の唯ならぬをあはれみ、天下ひとしく
たひらかにをさめらるゝ事、古今にためしなき事に申あへり。其よりのちの將軍家、又管領奉行頭人
評定のこゝろざしをみ侍るに、おほくは皆わたくしあり。人を害する事をかへりみず。此いはれに兵
亂うちつゞき候。さはいへど、天下のぬしとむまれさせたまふ人は、{{r|只人|たゞびと}}にてはあるまじ。そのゆゑ
{{仮題|頁=178}}
は、右大將家よりこのかた、代々の國主{{r|御逝去|ごせいきよ}}のときにのぞんで、{{r|天變地化|てんぺんちくわ}}萬人のまなこにさへぎる。
是併其表事天下に徹するがいはれ也。{{r|大御所|おほごしよ}}{{r|尊氏|たかうぢ}}{{r|御逝去|ごせいきよ}}のとき、さる澤の池水、色變じ皆泡になると
申候。又寶篋院大樹御死去の時も、{{r|虛空|こくう}}に{{r|哀慟|あいどう}}の聲一兩夜あひつゞき、これをもつてみれば、只{{r|凡人|ぼんじん}}
にあらざ事あきらけし。惣じて{{r|人界|にんがい}}の品を{{r|工夫|くふう}}仕るに、たとへば五重の塔に比して申さば、御國主は
{{r|九輪|くりん}}のうへの寶形なり。それより下の重は、皆一ぞくの類︀、又其下の重は{{r|大名|だいみやう}}{{r|高家|かうけ}}、それより一重づ
つ下は、皆それ{{ぐ}}の役人、{{r|領知|りやうち}}相應に位も劣り{{r|威|ゐ}}もかろし。扨下の{{r|土代|どだい}}のごときは、御中間小人
{{r|恩澤|おんたく}}に預かり渡世するものども也。是等は皆{{r|御扶助|ごふじよ}}に預かる人にたぐへ、扨塔の具をはなれて、そのほ
かのくさむらの露にいのちをつなぐむしのごときものは、皆農工商のともがらなり。是は{{r|天露|てんろ}}をなめ
{{r|潤雨|じゆんう}}のめぐみならではいきがたし。此事おそれながら、よく御案じ候うて、{{r|向來|ゆくすゑ}}あはれみをおこさせ
たまふやうにおぼしめさるべく候と申ければ、氏滿大に悅喜有て、只今のたとへ時に取りておもしろ
し。よくぞ申たりとて、酒たうべさせて、大祿をくだされけるとなん。彼上杉が餘流のものがたり侍
る。その時は侍從傍輩も大汗になりて、無用のたとへと思ひしが、大祿の後はあつぱれ{{く}}てがら也。
森元ならではとほめぬ人もなかりしとぞ。
世の中のほめそしる事は、善惡によらぬものなり。人間の用捨のみ貧福︀にありといふ本文、まことな
りけり。
{{仮題|投錨=本間孫四郞資氏馬藝事|見出=小|節=c-2-9|副題=|錨}}
相模の國の住人本間孫四郞資氏といふ者︀、去る建武以後そのほまれ天下にかまびそしく、弓馬相まじ
へて、{{r|古今獨步|こゝんどつぽ}}の達者︀也。{{仮題|分注=1|世に本間方と云|て、一流の祖︀也。}}扨此孫四郞事在世のてがら、さま{{ぐ}}也と云へり。しかる
をちうばつの後おほく世にかきもらせると云々。{{r|勝定院|しやうぢやうゐん}}殿大樹義持公、弓馬の御稽古のはじめ、日
本の弓馬の書召集めらる。此時作州の{{r|牢浪人|らう{{く}}にん}}、稻村元澄といふものゝ許より、差上げたる弓馬奧義書
{{r|數帙|すちつ}}あり。其中に本間が手がら不{{レ}}殘擧たる書あり。近比其寫したる本なりとて、ある所にて見侍るに、
世に書もらしたる事不{{レ}}可{{二}}擧算{{一}}、あたら事也。むかし兵庫和田の御さきにおいてかけ鳥を射たるふる
まひ、又鹽消判官高貞がもとより{{r|龍馬|りうめ}}{{r|獻上|けんじやう}}之時、天下馬道の達人、皆此馬に{{r|辟易|へきえき}}して近づくものなし。
獨り此{{r|資氏|すけうぢ}}勅命をかうぶりて、これにのればたちまも{{r|飛龍|ひりよう}}くもをかけるの{{r|威|ゐ}}、{{r|憤虎|ふんこ}}山をふるはす{{r|爲體|ていたらく}}、
又{{r|言|こと}}の葉に述がたしと云々。馬も馬なり、御者︀も御者︀なりといひて、{{r|異口同音|いくどうおん}}に{{r|感動|かんどう}}あり。是より其
名天がしたに{{r|溢|あふ}}れ、門人彼が{{r|風骨|ふうこつ}}を學ばん事をねがふものおほし。それ{{r|諸︀藝|しよげい}}諸︀道を學べるもの、{{r|初心|しよしん}}、
{{r|後心|ごしん}}、{{r|堪能|かんのう}}、{{r|不堪|ふかん}}の品ある事、世こぞつて然り。凡稽古のもの何にてもあれ、其みちのさし口一二ヶ
條を半途習ふ時、早此事をみづからあざむき、一等飛んで又其上を欲するがゆゑに、終にその道にい
たるものすくなしと云。習れのはしめより、悟文の後まで、一級々々の品を正し、はしごをのぼる如
くする、是則篤實によりて然かり。{{r|嗚呼|あゝ}}道をつとむるの士、{{r|鮮|すくな}}き事ひさし。豈其兩端をあぢはへるも
{{仮題|頁=179}}
の、其中道深遠{{レ}}之理をしる事あらんや。然して天下の人こぞりて本間をたつとび、習つとむるといへ
ども、終に資氏が心に叶はず。如何となれば、彼所謂一より五六に飛、其次を除て十に至らん事をね
がふによつてなり。門弟の中、あるもの一日本間に申しけるは、凡そ貴方の御奧義何が條候哉、さだ
めて千萬の{{r|祕術|ひじゆつ}}も御座候はんといふに、本間につこと笑ひて、その事なり、千萬の術は一をよくすれ
ばそのほかは自然に滿足す。第一の大事といふは、かけはしをのるに{{r|口傳|くでん}}有り。これをならひ得れば、
のこる所は、すべてこゝろざしにしたがふものなり。しかれども此{{r|故實|こじつ}}たやすく傳へがたしと云へば、
此ものすはやとおもひて、いまだ十の內一二もいたらずして、早千萬の{{r|奧藏|あうざう}}を遂げまくおもひて、ぜ
ひとも{{く}}御師傳にあづかり候はん。たとへ一朝に命をまゐらすといふともかならんと、手をあはせ
て懇望しける間、本間もぜひなくして、さらば{{r|師|し}}傳申べし。此所にてはつたへがたし。すなはち山谷
に行てつたふべしまゐられよと、師弟相ともに誘引して、道のほど三里ばかりも行つれ、或谷川の上に
{{r|梯|かけはし}}あり。本間は先に乘り弟子は迹につづきてのりけるが、彼かけはしのもとにて、本間ゆらりと馬よ
り飛おり、此ところ大事に候。よく{{く}}御覽あれと云て、馬の口を引き、しづ{{く}}とかけはしをわた
し、扨又其馬にのりてけり。弟子是をみて、{{r|希有|けう}}のおもひをなし、扨いかなるふるまひにて候ぞやと
とへば、其事なり、をこの高名はせぬにしかずと云本文有り。此かけはしなくとも、一鞭あてたらん
に、五間三間の{{r|谷合|たにあひ}}はたやすく飛こえさすべし。いはんやかけはしのうへをのらんをや。若我乘りて
みせんに、貴方はやそれに心をかたぶけ、每々か樣のわざをこのまば、これ則あやふきををしゆる
{{r|張本|ちやうほん}}也。道は{{r|不得心|ふとくしん}}にして、大事は{{r|遮|さえぎり}}て懇望あり。是無用の第一なり。梯に不{{レ}}限あやふき所の高名はせ
ぬもの也。ひつきやう大事といふは、身をまたうする所をいふ。若やむことを得ずして、敵大勢おそ
ひかゝり、不意に取まきなば、すみやかに死すべき事肝要也。梯の外、軒ば渡し、くわんぬき通し、其
外のわざは、皆人の目をよろこばしむるのみ也。相かまへて自今以後此事をつゝしみて、無用の輕わ
ざをこのみたまふなと敎へけるとぞ。まことに、此もの馬道の長者︀なれば、弟子に示すところいはれ
なきにあらず。尤をかしきふるまひと云々。{{nop}}
{{仮題|ここまで=塵塚物語/巻第二}}
{{仮題|ここから=塵塚物語/巻第三}}
{{仮題|頁=180}}
{{仮題|投錨=卷第三|見出=中|節=c-3|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=靑蓮院宮手跡御物語の事|見出=小|節=c-3-1|副題=|錨}}
{{r|靑蓮院前門主|しやうれんゐんさきのもんしゆ}}の御弟子に、藤原のなにがしといふ人、{{r|當流|たうりう}}にかんのうのきこえあり。御門主も此人を
こそとおぼしめして、つねの{{r|御懇切|ごゝんせつ}}他にことなりしが、或時御機嫌のよき折から仰られて云く、近代
なに事もおとろへゆくこと、皆おなじといへども、{{r|手跡|しゆせき}}は{{r|中比|なかごろ}}より以外おとれり。そのゆゑは、わが
家流の大祖︀伏見、後伏見の兩院、{{r|風雅|ふうが}}れい{{く}}としてもろこしの筆法をあらはされ、しかも其のすが
たの中に、{{r|和朝|わてう}}の{{r|體忽然|ていこつぜん}}としてそなはれり。これ則家流にかぎらず、中古相かなひたる{{r|宸翰|しんかん}}なり、更
に{{r|凡慮|ほんりよ}}のおよふべきところにあらず。扨法親王尊圓の御手跡は、又これよりをさ{{く}}いやしと云々。む
かし伏見後ふしみ御在世の御時、{{r|尊圓|そんゑん}}はいまだ御幼稚にして、{{r|手翰|しゆかん}}名譽のしるしあらはれ、是により
て益々院にもいつくしみふかく、愛せさせ給ひけるとなん。十七歲の御時{{r|法然房|ほふねんぼう}}の作られし一枚きし
やうといふものをあそばされて、{{r|筆體|ひつてい}}にすこし私のいみじき所をくはへたまひて、えいらんにそなへた
てまつらるとなり。此時院御らんぜさせ賜ひて、御ふくりふ以外なりと云々。その故は{{r|妍|かたましき}}をとりていみ
じく書賜ふ故、其さまいやしく思召によりてとぞきこえし。其後は尊圓と{{r|筆跡|ひつせき}}の論によりて、御中よ
からぬ事もありといへり。然れども、尊圓{{r|以降|このかた}}の{{r|法親王|ほふしんわう}}{{r|滔々|たう{{く}}}}として皆おとれり。尊圓に{{r|比並|ひひやう}}すれば十
が二三也とみゆ。
殊に近世予が如きは、竹の枯枝を折て交へたるに似たり。あへて其門に不{{レ}}及。畢竟尊圓の筆跡にし
くはなきものなり。さはいへど、近代惣て筆法うすくなりて、文字たよわくなる其みなもとは、尊圓
よりおこると言ふ。いかなればまなびがたきによりて、{{r|不堪|ふかん}}よりしひて此手跡に似ん事をねがふもの
は、あるひはつたなくいやしくなりもてゆく事也。尊圓の{{r|流義|りうぎ}}は、普通の{{r|琢︀磨|たくま}}にては、人の目にも立
がたし。然ども此筆志をわするゝものは、他流又いたりがたし。此筆をよくまなぶ時は、衆流おのづ
から至極せずといふことなし。凡そ文字は{{r|亡命|ぼうめい}}の後のたましひ也。正しく書しるしてしかるべし。た
とへ{{r|名墨︀|めいぼく}}たりといふとも、死後によみがたき文字は、惡筆におとれり。そのうへ古來より筆をたしめ
と云本文をみず、たゞつとめまなんで書をよめとこそみえたれ。此事皆人しる事なれば、時にとりて
わきまへぬものあり、かるがゆゑに、しかいふ。又{{r|世尊寺|せそんじ}}も行能經朝より以後の筆法は、皆かなは
ず、さながらつくろひたる體にみえて、あぢきなし。乍{{レ}}去正しくみゆる文字は、皆よき{{r|手跡|しゆせき}}といふべ
し。あまがち其人の{{r|流義|りうぎ}}にはよるべからず。中止よりなま{{r|才覺|さいかく}}の{{r|禪僧︀|ぜんそう}}ごときもの、あるひは{{r|和朝|わてう}}の風は
つたなし、あるひはまつたき文字はいやしなど、さま{{ぐ}}人をさみして、おのれが{{r|手跡|しゆせき}}はかつて心え
ず、文字のわかちのみえぬを本として、自負するありさまいとあさましき事ども也。この比禪僧︀やう
の物折々たづねきたりて、筆下にたゝん事をねがふ者︀もありつれど、予あへて此ものにくみせず。た
{{仮題|頁=181}}
ちかへりてはいよ{{く}}わが家をさみすべしなど、こまやかに申されけるとなり。此事を聞く人々、尤
の仰せ至極せりなどほめたてまつる人もありし。
{{仮題|投錨=武藏坊辨慶借狀之事|見出=小|節=c-3-2|副題=|錨}}
昔慈照院殿御在世に、さま{{ぐ}}の道具古き筆簡など、もろこしわが朝の名人をつくして高覽あり。こ
れによりて將軍家拜趨の人々、皆めづらしき筆跡を各まゐらせられけり。あるひは{{r|宸翰|しんかん}}のたぐひ、其
外のかける物ども宛も山のごとくにあつまり侍るとぞ。そのしな{{ぐ}}は申におよばず、たぐひなき見
物なりしといひつたへたり。其中にむさし坊辨慶が筆跡とて、文二十通計あなたこなたよりあつまれ
り。其こと葉は皆かり狀なり。あるひはやせたる馬一疋御かし候へ、あるひは{{r|沙金|しやきん}}すこし預けたまへ、
或はきぬ一たん{{r|粮米|らうまい}}一俵かし給へと、あらぬ事までかりとゝのへたる文どもなり。是第一の見物なり
とて、上下喜悅してわらひあひ給へりとぞ。將軍仰せけるは、纔に取殘したる今の文どもさへかくの
如くのかり狀なり。在世にはいくらの物をかかりつらんといとをかし。此文をみて無欲のものといふ
事あきらか也。一日のたくはへあれば、明日は又人の芳志によりて日をくらしつるとみえたり。如{{レ}}斯う
へはさだめて其かり物を{{r|返辨|へんべん}}する事もなかるべきか、{{r|畢竟|ひつきやう}}{{r|聚歛|しうれん}}せざる者︀といふ所あらはれて殊勝のよ
し、大樹も御感ありとぞ。唯今の{{r|僧︀俗辨慶|そうぞくべんけい}}がふるまひならば、人にうとまるゝ事あるべからず。扨辨
慶が姿を恐ろしくいぶせく繪にかき來れり。大きなるひが事と見えたり。右の{{r|反故|ほご}}の中に辨慶を美僧︀
なりといふ事、あまた其世の僧︀共の文あり。各別千萬の事也。
{{仮題|投錨=如意嶽樓門瀧<sup>幷</sup>城墎魔障の事|見出=小|節=c-3-3|副題=|錨}}
洛東の高山を如意が嶽といふ。是むかし{{r|如意|によい}}{{r|輪堂|りんだう}}ありて美々敷盛なりと云々。此山に瀧あり。急雨五
月の比、京より此山を望むに、瀑布あり{{く}}と見えていみじき壯景也。むかし當寺繁︀昌の折から、此
瀑布のかたはらに{{r|樓門|ろうもん}}あり。是則三井寺の境地にして西方の門也。かるがゆゑに號して{{r|樓門|ろうもん}}の瀧とい
へり。往古三井寺へ役する者︀此道を往還すと云傳ふ。京より彼寺へ行時は、外の海︀道より嶮なれ共、
ことに近きによりてなり。此山の{{r|城墎|じやうくわく}}去る比公方いみじく{{r|執|しふ}}したまひけれど、後不吉の聞えありとい
ひて廢荒せり。又此わたりに、{{r|昔|むかし}}平氏の世に俊寬僧︀都︀やすより入道その外の人々、後{{r|白|しら}}河院へ勸め奉
りて、平族をほろぼすべきとの相談ありし山庄の跡也といひて{{r|礎|すゑいし}}有り。すべて此一山はいにしへさ
まざまの寺院山庄ありて、軒を並べいみじき所なりといへど、{{r|廢亡|はいばう}}は時なればせん方なし。扨去比、
此所の城盛んなりし折から、不思議のばけものありて、人をたえ入らしむと云{{r|傳|つた}}ふ。奧の{{r|矢倉|やぐら}}の下に
つとめ守るさぶらひ共、雨天物さびしき折から、碁すぐ六などもてあそびたはぶれける時、あかりさ
うじの破れたる所より、面のひろさ三尺ばかりにして、三目兩口の{{r|鬼形|きぎやう}}のもの內をきつと見入れけれ
ば、やがて人々興をさまし、身の毛も立て怖ろしとなん。すべて夜ふけぬれば{{r|虛空|こくう}}さうどうし、かぶ
ら矢太刀の音などきこえて、{{r|化生|けしやう}}の物まなこに遮り、怖ろしき山なりと云々。此事常德院殿御家來某
{{仮題|頁=182}}
といふもの、ちかく迄長命して、修學院の邊に{{r|牢浪|らうらう}}として閑居しけるがくはしくかたり侍る。ある人
のいはく、凡そ山中廣野を過るに、書夜をわかたず心得あるべし。ひとげまれなる所にて、{{r|天狗魔魅|てんぐまみ}}
のたぐひ、或は蝮蛇猛獸を見つけたらば、逃かくるゝ時かならず目をみ合すべからず。おそろしき物
をみれば、いかなるたけき人も、頭髮たちて足にちからなくふるひ出て、{{r|曉鐘|げうじよう}}をならす事勿論也。是
一心{{r|顚倒|てんたう}}するによりてかゝる事あり。此時まなこを見合すれば、こと{{ぐ}}く彼ものに氣をうばはれて
卽時に死すもの也。外の物はみる共、かまへてまなこ計はうかゞふべからず、是{{r|祕藏|ひさう}}の事也。たとへ
ばあつき比、天に向ひて日輪をみる事しばらく間あれば、たちまち{{r|昏盲|こんばう}}として目みえず。是太陽の光
明さかんなるが故に、肉眼の明をもつて是を窺へば、終に眼根をうしなふが如し。萬人を降して{{r|平等|びやうどう}}
にあはれみたまふ日天さへかくのごとし。いはんや{{r|魔魅障礙|まみしやうげ}}のものをや。{{r|毫髮|がうはつ}}なりとも便りを得て、其
物に化して眞氣をうばはんとうかゞふ時、目をみるべからずとぞ。
{{仮題|投錨=大峯の事<sup>付</sup>仙境の事|見出=小|節=c-3-4|副題=|錨}}
ある{{r|眞言師|しんごんし}}の云く、大みねは奧州{{r|湯殿山|ゆどのさん}}と{{r|金胎兩部|きんたいりやうぶ}}の山なり。此山至て高く諸︀木枝をつらねて茂れる
によりて、{{r|輙|たやす}}く日光をだにみる事あたはずと云へり。昔役君開闢の後、一旦{{r|蝮蛇毒鬼|ふくじやどくき}}のために人跡も
たえ、延喜のころは此山すでに{{r|魔界|まかい}}となりて參詣する人もなければ、聞きつたふるのみなり。しかる
ところに醍醐寺の{{r|聖寶|しやうほう}}といふ{{r|修練︀|しうれん}}{{r|驗德|げんとく}}の人、此山の靈驗鬼蛇のためにうしなはん事をなげきて、一日發
起して、入山せられ侍るに、毒蛇道に{{r|横|よこた}}はりて前途をふさぐ。聖寶これを事ともせずして、忽ち鐵履
を以てふみころされければ、其蛇すなはち白骨となれり。其白骨今に殘りて醍醐に侍るとぞ。扨それ
より次第に登山せられけるに、いろ{{く}}の{{r|異|あや}}しきもの出て、聖寶をうかゞふといへども、聖寶曾て物
のかずともせず、{{r|密呪|みつじゆ}}をもつて封ぜらるゝに、{{r|天狗化物|てんぐばけもの}}やうの物力つきてゆるしをこひ、向來此山の
守護をいたすべき{{r|由|よし}}降參してうせにけるとなり。又其後帝子日藏上人此山の奧、{{r|笙|しやう}}のいはやと云所に
{{r|蟄|ちつ}}して、{{r|鹽穀︀|えんこく}}をたちて修せられ、藏王の{{r|擁護|をうご}}にあづかりたまふ。此上人修練︀いまだ熟せざる時は、蛇
に追はれて命をうしなはんとせる事たび{{く}}なりとかや。凡蛇の追來になまぐさき息をふきかく。そ
のいきはなはだあつくなまぐさくして、眼もくらみ方角もしらぬ物なりとぞ。其追はるゝ時、先鼻を蔽
うて逃ぐべしと云。日藏の住たまふ所は、普通の{{r|驗者︀|けんじや}}の行がたき所なり。此いはやより執金剛神︀にい
ざなはれ、藏王の御前にいたりて、日藏九々年月擁護といふ金札を給はり、此八字の{{r|趣向日藏|しゆかうにちざう}}も解し
がたくあんじ給ひける時、西天より{{r|菅公大政威德天|くわんこうだいしやうゐとくてん}}來たり藏王と列座まします。日藏此金札八字を威
德聖廟に問はせ給へば、天神︀仰られて云、日は大日也、藏は胎藏なり、九々は年月なり、擁護は藏王の
加護なり、いふこゝろは日藏といふ名、一{{r|宗|しう}}に過分なり、今名をかへたらんにおいては、九々八十一年の
命をたもつべし。そのまゝの日藏ならば、九々八十一月に壽命ちゞまるべし。速に改名せば、九々八十
一年の期まで藏王護し給ふべしとの意也と申させ給へば、日藏もかんるゐをのごはれ、其後名を{{r|道賢|だうけん}}
{{仮題|頁=183}}
とあらためたまふとぞ。此事{{r|元亨釋書|げんかうしやくしよ}}にもみえたる。くはしくは大峯の{{r|緣起|えんぎ}}にありと云々。いみじき
事共也。此わたりに{{r|巖穴|いはあな}}あり。良香が{{r|脫戶仙術|だつこせんじゆつ}}を得し所と云。其外此山に仙家ありて往々に異人に逢ふ
輩おほし。此山順逆の外入るものすくなし。つねに人跡まれにして、{{r|幽邃|いうすゐ}}たれば鳥もすむ事なし。木
葉は五六尺、所によりて一丈も深ければ、むしもなく唯{{r|山嵐|やまあらし}}枝をならす音のみ也とかや。まことに靈山
異人のすむべき地也とぞ。{{r|圓滿院|ゑんまんゐん}}の{{r|門主行尊僧︀正|もんじゆぎやうぞんそうじやう}}此山にて{{r|卯月|うづき}}ばかりに櫻をみて、花よりほかにしる
人もなしとよめる歌の意味は、彼山へ入ずしてはしれがたしとぞ、二條家の人申されき。近比は衆人
もたやすく入るといへど、多くは{{r|半腹|はんぷく}}までいたりてかへりつゝ、さま{{ぐ}}の事みたりといふ。ことに
國々の下山伏など、旦那の前にてはゆゝしくかたれども、實はふもとよりかへるとぞ。彼の山のこと
一切外の人へもらすことなりがたし。その法式ありて、{{r|峯入|みねいり}}のとき、僧︀俗ともにちかひを立てしむと
なり。
{{仮題|投錨=南朝辨內侍の事<sup>付</sup>楠正行手柄の事|見出=小|節=c-3-5|副題=|錨}}
{{r|南朝|なんてう}}{{r|辨內侍|べんのないし}}と申は、右少辨俊基朝臣のむすめなりとぞ。かたちいとうるはしく侍りけるを、いつの比な
るにや、武さしのかみ師直みそめ侍りつゝ、あけくれこゝろにかけて思ひくらしけるに、{{r|御門|みかど}}かくれさ
せ給ひてのち、よき時分と思ひて、文つかはして、忍びいでさせ給へ、御むかひをまゐらせてんと度々
いひやりけれど、かへり事もしたまはざりければ、いとにくしとおもひて、{{r|行氏卿|ゆきうぢきやう}}へかよひけるをん
なのありけるを求め出して、北の方へかゝる事なん侍る、共にはからはせ給うて、{{r|本意|ほい}}遂げなんには、
しらさせ給はん所をもあまたつげ侍りなん。三位殿の官位を進とすゝめて言ひおこすれば、さらぬだ
に世の中の人のおそれぬはなきに、いとたのもしくきこえければ、御文をとゝのへ給うて、內侍のき
みに、本仕へし梅︀が枝といひし女をそへて、はからはせ給へかしときこえけるに、いとよろこびて、
命をかけてちぎりけるさぶらひ二十人ばかりえらびて、梅︀が枝にそへて吉野へつかはしける。內侍の
君に、梅︀が枝が北の御かたの文をもちてこそといひ入けるに、御こひしうおもひて過しつるに、こな
たへとめされて御ふみたてまつるに、はるかにこそわたらせたまへ、山ざとの御すまひさこそと思ひ
やらるゝ、今袖をこそしぼりあへ給はね、御こひしさのいとせめて、すみよしへまうではべりしほど
に、道のたよりもしかるべければ、逢たてまつらん事をおもひて、かうちの國とかや、たかやすのほ
とりにしりたる人のさぶらふに、まゐりてこそ待ちたてまつれ。はかなき世のましてみだれがはしけ
れば、このたびならではいかで相見んなど、こまやかに書きたまうて、
あひみんとおもふこゝろをさきだてゝ袖にしられぬ道しばの露
御つかひも御ふみのこゝろにかきくどきければ、まことの御母君にすてられ參られしよりは、それに
もまさりておもひまゐらせし御なさけの忘られで、あさゆふこひしうおもひたてまつりつれとて、君
に御いとまをけいし給ひて、とりあへずいでさせ給へり。にようばうふたり靑さぶらひみたり、御供
{{仮題|頁=184}}
にはつかうまつりけるに、道に人出あひて、たかやすに待せ給ひけれども、人多くてむつかしければ、
すみよしまでまかるにこそ。若御出もさふらはゞ、あれまでぐしたてまつれとおほせおかれさふらへ
ばとて、人あまたいでてとりこめたてまつる。いとこゝろ得ぬ事にこそ。すみよしまではるばるとい
かで行なん。御こしをかへせとのたまはすれば、あをさぶらひども御こしをかへしなんとしければ、
たゞ住吉までいそぎたまへとひきたつるに、いかにもかなふまじけれと引とゞむるを、さないはせそ
とて、三人ともに打ころしてけり。君はいとおそろしく、鬼にとらへられ給へる心ちしたまひて、た
だなきになかせ給へり。ものゝあはれをもわきまへぬものゝふども、なさけなうこよひ住吉迄いそぎ
なん、殿もそれまでいでむかひおはさんなどいひのゝしりて、いしかはといふ所までゐてゆきけり。
たてはきまさつらが、吉野殿へめされてまゐるに行あうて、其ほど過しなんとかたはらなる木かげに
たちしのぶを、こゝろもとなく思ひて、たちとまりて事の{{r|樣|さま}}をとひけるに、つぼねがたのすみよしに
まうでさせたまひけるといふに、さてはとて過なんとするに、ないしの泣きたまへるこゑをきゝて、
おして御こしのほとりへたちよりてよくとへば、かう{{く}}のことになんとの給はすに、いかさまにも
あやしければ、そうしなんほどは皆めしとれとて、のこらずからめとりてけり。恥を思へる者︀三人四
人ありて、拔合せ戰ひけれどもつひに{{r|打|うち}}殺︀しぬ。吉野へ參りて事のよしを奏し奉れば、梅︀が枝をすか
してとはせ給へば、はかりつる事を申しけるに、侍共は皆きられて、梅︀がえは尼になし給うてかゝる
ありさまを、北のかたへよく{{く}}けいせよとてかへされにけり。まさつらがなかりせば、くちをしか
らましに、よくこそはからひつれとて、辨のないしをまさつらにたまはせんとみことのりありければ、
かしこまりてかくこそ詠じける。
とても世にながらふべくもあらぬ身のかりのちぎりをいかでむすばん
とそうして辭退しけり。その時はこゝろえがたくおぼえしが、後におもひ合はされていとほしみあひ
にけり。
{{仮題|投錨=新待賢門院御所化物事<sup>付</sup>篠塚︀女武邊の事|見出=小|節=c-3-6|副題=|錨}}
凡そ武勇人の子には男女にかぎらず强勢の人あり。是{{r|勿論|もちろん}}そのぶゆう{{r|膂力|りよりき}}の種子なればにや、むかし
新たいけん門院に伊賀のつぼねといへる人は、新田さちうじやう義貞朝臣のさぶらひ{{r|篠塚︀|しのづか}}伊賀守がむ
すめなりとぞ。女院の御所はくわうきよの西の方にて、山につゞけるところなりけるが、さんぬる正
平ひのとの亥のとしのはるのころ、おそろしき{{r|化物|ばけもの}}有りとて人々さわぎおそれたまへり。そのかたち
をしかと見さだめたるものもなし。これにゆきあひけるものは、こゝちくらくなりにけり。{{r|內裏|だいり}}より
とのゐ人あまたまゐらせたまうてひきめなど射させければ、そのほどはしづまりにけるとぞ。みな月
十日あまりのほどに、いとあつきころなりければ、此つぼね庭にいでてたゝずみたるに、月のさし出
てあかゝりければ、{{nop}}
{{仮題|頁=185}}
すゞしさを松ふく風にわすられてたもとにやどす{{r|夜半|よは}}の月かげ
とたれきく人もあらじとひとりごとしてたちけるに、松のこずゑのかたよりからびたる聲して、唯よ
くこゝろしづかなれば則身は涼しといふ、{{r|古|ふる}}き詩の下の句をいふに、見あげければ、さながら鬼の形
にて、つばさのおい出でたりけるが、まなこは月よりもひかりわたるに、たけきものゝこゝろもきえ
うせぬべきを、此つぼねうちわらひて、まことに左にこそありけれ、さもあらばあれ、抑いかなるもの
にかあるらん、あやしくおぼゆるにこそ、名のり給へと問はれて、我はふぢはらのもととほにこそは
べれ。女院の御ためにいのちをたてまつりさふらひしに、せめてはなきあとをとはせ給はん事にこそ
あれ。それさへなくさふらへば、いとつみふかくして、かゝるかたちになりてくるしき事のいやまさ
れば、うらみたてまつらんとおもひて、此春のころよりうしろやまにさぶらへども、御前には恐れて
まゐらぬにこそあれ。此よし啓してたまひなんとこたへければ、げに{{く}}左はきゝおよびし。されど
うらみたてまつるべきことかは。世のみだれに{{r|思|おも}}ひすぐし給へるぞかし。その事ばかりならばけいし
とぶらひてん。さるにても御のりにはいかなる御事かよかるべき、{{r|心|こゝろ}}にまかせ侍らんとのたまへば、
唯その事ばかりにさふらへ、御とぶらひには唯法華經にしくはあらじ。さらばかへりなんといふに、か
へらん所はいづくにかととひければ、露ときえにし野のはらにこそ、なき{{r|魂|たま}}はうかれさふらへとて、
北をさしてひかりもてゆくをみおくりて後、女院の御まへにまゐりてけいしはべりければ、まことに
おもひわすれてこそ過しつれとて、あけの日よしみつの法印にみことのりありて、御だうにて三七日
法華きやうをくやうしたまひけるに、そののちあへてことなる事もなかりけり。浮びてやあらんとい
とたのもしく侍ると云傳へたり。
{{仮題|投錨=良峯衆樹八幡宮參詣の事|見出=小|節=c-3-7|副題=|錨}}
むかし{{r|良峯|よしみね}}の{{r|衆樹|もろき}}と云人、才學{{r|優長|いうちやう}}にして平生怒りすくなく、佛神︀に{{r|歸依|きえ}}したてまつる事無二也けり。
此ゆゑに一會の賓︀客ももゝとせのまじはりをねがひ、多年の朋友はいよ{{く}}懇切の志を{{r|抽|ぬき}}んずといへ
り。此もろき延喜十三年のころ、{{r|石淸水八幡宮|いはしみづはちまんぐう}}へまゐりけるをりふし、俄に雨ふりて四方のそらもく
らくなりて、よろづいぶせきまゝに、御まへなるたちばなの{{r|木陰|こかげ}}にたちよりて、雨天をしのぎけり。此
橘木も半に枯れておとろへたれば、
ちはやふるおまへのまへの橘ももろ木もともに老いにけるかな
とよみてしばらくたちやすらひけるに、大ぼさつもあはれにをかしくやおぼしめされけん、半かれた
る橘の枝俄にみどりにかへりけり。衆樹も天氣晴︀ければ、再三神︀前に{{r|稽首|けいしゆ}}して罷りかへりけるとぞ。
凡そむかしより信をいたす人利益に預らずといふ事なし。{{r|土大根|つちおほね}}さへひとを利する例あり、いはんや
人としてこれをおもはざらんや。嗚呼人生信ある事すくなし。{{r|胡爲|なんすれ}}ぞ書をよみ理を聞てこれにもとる
ぞや。たま{{く}}かやうの{{r|瑞驗|ずいけん}}をきく人、其こゝろざしの不信なるにたくらべて是をあざむき、かへつ
{{仮題|頁=186}}
て人心のまことを害す、是すなはち賊なり。更に{{r|强竊|がうせつ}}二盜をいふのみにあらず、各これをはぢてます
{{く}}ふかくまことをいたすべきなり。世間の人をみるに、おろかにつたなき物にかへつて{{r|瑞|ずゐ}}ある事{{r|多|おほ}}
し、是何ぞや。其きくところを直に胸中にうけて是を心に判ぜず、恐れ恐るゝ事いたつてふかし。此
ゆゑにかみほとけの{{r|感應|かんおう}}もあり。されど國家君臣の要道にいたりてもちゆるにたらず、身をほろぼしう
れへを子孫にのこし、あるひはすこしきに{{r|泥|なづ}}んで大をすつ。其外あまたの害ある事は、皆愚盲のしわ
ざなり。信有て聖賢のをしへをたつとび佛神︀に歸し、ひろく學て自得する人今古すくなし。しからば
いかゞせんや。古人のいはく、學に弊あり、不學にまことあり、學に信あり、不學に害ありと云々。
このこといたれるかな。
{{仮題|投錨=堀河院高野御參詣<sup>附</sup>弘法大師宗論之事|見出=小|節=c-3-8|副題=|錨}}
いにしへ高野の山荒れすたれて、すでに六十よねんなりけり。衆木しげりて{{r|蔭|かげ}}くらく、すゞの細みち
あとたえて、いづくに堂たふありとも見えざりしを、{{r|持經上人|ぢきやうしやうにん}}といひし人、はじめてたづねあらため
てしゆざうせられけるとかや。堀かはの院御在位の御とき、さんぬる寬治二年正月十五日せんとうに
て御遊宴のみぎり、種々の{{r|御談義|ごだんぎ}}どもありし時、當時天竺に{{r|正身|しやうじん}}の{{r|如來|によらい}}しゆつせして、せつほう{{r|利生|りしやう}}
したまふとうけたまはり及ばんに、おの{{く}}あゆみをはこびかうべをかたぶけたなごころを{{r|合|あは}}せて、
參り給ひなんやといふ一義の出でたりけるに、皆參るべきよしを申さるゝその中に、がうそつたゞふ
さの卿といひし人、その時は未だ左大辨の宰相にて末座に侍はれけるが、進み出でて申されけるは、
人々は皆參るべきのよしを申させ給へども、たゞふさにおいては、參るべしともおばえ候はずと申さ
れければ、諸︀卿一どうに疑心をなして、各は皆{{r|參|まゐ}}るべき{{r|由|よし}}を申さるゝ中に、御へん一人は參らじと申
さるるは其仔細いかやうぞや。その時江帥申されけるは、本朝大そうの間はよのつねの{{r|渡海︀|とかい}}なれば、
おのづからやすく渡る事もさふらひなんず。天ぢくしんたんのさかひ、{{r|流沙葱嶺|りうさそうれい}}のけんなん、わたり
難︀うこえがたきみちなり。まづそうれいといふ山は、西北は大雪山につゞきて東南は海︀くうにそびえ
いでたり。銀漢︀にのぞんで日をくらし、白雲をふんで天にのぼる。みちのとうざい八千より、草木も
おひず水もなし。雲のうはぎをぬぎさきて、苔のころもゝきぬ山の岩のかどをかゝへつゝ、廿日にこ
そこえはつなれ。此みねをさがつてにしをてんぢくといひ、ひんがしをしんたんと名づけたり。其中
にことにそびえたる山あり。けいはらさいなんとも名づけたり。御みねにのぼりぬれば三千世界の廣
狹はまなこの前にあらはれ、一ゑんぶたいの遠近は足のしたにあつめたり。又流沙といふ川あり。水
を渡りてはかはらを行き、河原をゆきては水をわたる、かやうにする事八ヶ日があひだに、六百三十
七度なり。白浪みなぎり落て岩間をうがち、{{r|靑淵|あをふち}}水まひて木葉をしづむ。晝は劫風ふきたてゝ{{r|砂|すな}}をと
ばして雨のごとし。夜は{{r|妖鬼|えうき}}はしり散て火をともす事星に似たり。たとへ{{r|深淵|しんゑん}}をばわたるとも、妖鬼
の{{r|害難︀|がいなん}}はのがれがたし。たとへ{{r|鬼魅|きみ}}の怖畏をば免︀るとも、水波のへうなんはさりがたし。されば玄し
{{仮題|頁=187}}
やう三ざうも六度まで此道におもむいて命をうしなひ給ひけり。次の{{r|受生|じゆしやう}}の時にこそ、法をばつたへ
給ひけれ。しかるを天ぢくにも{{r|震旦|しんたん}}にもさふらはず、わがてうの{{r|高野山|かうやさん}}に{{r|正身|しやうじん}}の{{r|大師|だいし}}{{r|入定|にふぢやう}}しておはし
ます。かゝる靈地をだにも未だ蹈まずして、むなしく年月をおくる身が、たちまち十萬よりのけんな
んをしのびて、{{r|靈鷲山|りやうじゆせん}}のみぎりにいたるべしともおぼえさふらはず。天竺の{{r|釋迦如來|しやかによらい}}と吾てうの弘法
大師は、そくしん{{r|成佛|じやうぶつ}}の{{r|現證|げんしよう}}これあらたなり。そのゆゑはむかしさがの天わうのおん時、大師{{r|淸涼殿|せいりやうでん}}
にして四{{r|宗|しう}}の大乘宗のせきとくたちをあつめて、{{r|顯密論談|けんみつろんだん}}の{{r|法門|ほふもん}}いたさるゝ事ありけり。{{r|法相宗|ほつさうしう}}の
{{r|源仁|げんにん}}、{{r|三論宗|さんろんしう}}の{{r|道昌|だうしやう}}、{{r|花嚴宗|けごんしう}}の{{r|道雄|だうゆう}}、{{r|天台宗|てんだいしう}}の{{r|圓澄|ゑんちよう}}、{{r|眞言宗|しんごんしう}}の{{r|弘法|こうぼふ}}、おの{{く}}我宗の目出度やうを立申
されけり。{{r|先|まづ}}{{r|法相|ほつさう}}の{{r|源仁|げんにん}}、わが宗には三{{r|時敎|じけう}}をたてゝ一さいの{{r|聖敎|しやうけう}}を判ず。三時敎といふは、所謂
{{r|有空中|うくうちう}}是なりと云々。三論宗の道昌、我宗には二藏をたてゝ、一さいの{{r|聖敎|しやうけう}}をしめす。二藏といつぱ。ぼ
さつ{{r|藏聲聞藏|ざうしやうもんざう}}是なりと云々。{{r|花嚴宗|けごんしう}}の道雄、我宗には五敎をたてゝ一切の{{r|聖敎|しやうけう}}ををしゆ。五敎といふ
は、{{r|小乘敎|せうじようけう}}、{{r|始敎|しけう}}、{{r|終敎|しうけう}}、{{r|頓敎|とんけう}}、{{r|圓敎|ゑんけう}}これなりと云々。天台宗のゑんてう、我宗には四けう五味をた
てゝ一さいの聖敎を判ず。四敎といふは、藏、通、別、圓、五味は乳、酪、熟、醍、酬是なりと云々。
{{r|眞言宗|しんごんしう}}の弘法、我宗にはしばらく{{r|事相敎相|じさうけうさう}}たつといへども、眞の{{r|卽身成佛|そくしんじやうぶつ}}の義を立。その時四家の大
乘宗の{{r|碩德達|せきとくたち}}、眞言の卽身成佛の義を一同にうたがひ申されける。先づ法相宗の源仁難︀じていはく、
それ一代三時の敎文を見候に、三{{r|劫|こふ}}成佛の文のみあつて、眞言の卽身成佛の文なし。いづれの聖敎の
文を以て卽身成佛の義をたてらるゝぞや、其文あらばすみやかに文證をいたされて、{{r|衆會|しゆゑ}}の{{r|疑網|ぎまう}}をはら
されよとぞいはれける。大師答へてのたまはく、誠になんぢらが崇する所の聖敎の中には、三劫成佛
の文のみあつて、眞言の卽身成佛の文なし。且々先文證を出さんとて、若人求佛惠通達菩提心父母所
生身卽證大{{仮題|編注=2|學|覺歟}}位、これをはじめて文證をひきたまふこと其かず繁︀多なり。源仁かさねていはく、まこ
とに文證をば出されたり。此文のごとくそのむねをえたる人證はたれ人ぞや。大師こたへてのたまは
く、とほくは大日{{r|金剛薩埵|こんがうさつた}}、ちかくは我身すなはち是也とて、かたじけなくも{{r|龍顏|りようがん}}にむかひたてまつ
り、手に三つ印をにぎり口に佛語をじゆし、心にくわんねんを凝して身にぎゝをそなふ。{{r|生身|しやうじん}}の{{r|肉身|にくしん}}
へんじて忽ちに{{r|紫磨|しま}}わうごんのはだへとなり、かしらに五佛のはうくわんを現じ、光明さう天をてら
して日輪のひかりをうばひたまふ。朝廷にはかにかゞやいて、{{r|淨土|じやうど}}の{{r|莊嚴|しやうごん}}をあらはす。時にていわう
御座をさりて禮をなし、臣下きやうがくして身をまげ、南都︀六宗の賓︀地にひざまづいて稽首し、{{r|北嶺|ほくれい}}
{{r|四明|しめい}}の客庭上にふして攝足す。成佛ちそくの立派には、だうおう道昌も口をとぢ、ほうしんしきしやう
のなんたうには、源仁ゑんてうも舌をまく。つひに四宗きぶくして{{r|門葉|もんえふ}}くはゝり、一朝はじめて{{r|信仰|しんかう}}
して{{r|道流|だうりう}}をうく。三{{r|密|みつ}}五{{r|智|ち}}の水四海︀にみちて{{r|慶垢|ぢんく}}をあらひ、六{{r|大無碍|だいむげ}}の月一天にかゞやいて長夜をて
らす。されば御在世ののちも{{r|生身|しやうじん}}ふへんにして、{{r|慈尊|じそん}}の出世をまち、六{{r|情|じやう}}かはらずして{{r|祈︀念|きねん}}の{{r|法音|ほふいん}}を
きこしめす。此ゆゑに現世のりしやうもたのみあり、{{r|後生|ごしやう}}のいんだうもうたがひなき御事なりとぞ申
{{仮題|頁=188}}
されける。上皇大きにおどろかせ給ひて、これほどの事いまゝでおぼしめしよられざりつる事こそ、
かへす{{ぐ}}もおろかなれとて、やがて明日高野御幸のよし仰下さる。江そつ申されけるは、明日の御
かうもあまりそつじにおぼえ候。むかし{{r|釋尊靈鷲山|しやくそんりようじゆせん}}にて御說法ありし{{r|砌|みぎり}}に、十六の大こくの諸︀王達の
御幸なりし{{r|規式|ぎしき}}は、金銀をのべて{{r|寶輿|ほうよ}}をなし、珠玉をつらねて{{r|冠蓋|くわんがい}}をかざりたまへり。これすなはち
{{r|希有難︀遭|えうなんさう}}のあゆみをこらして、{{r|歸依|きえ}}かつがうのこゝろざしをいたし給ふ作法なり。いま君の御かうも
それにはたがはせたまふべからず。わがてうの高野の山をば、てんぢくの靈鷲山と{{r|思|おぼ}}しめし、弘法大
師をば正身のしやかによらいとくわんぜさせたまひて、御かうのぎしきをひきつくろはせたまふべう
もや候ふらんと申されたりければ、此義もつともしかるべしとて、日かず三十日を相のべらる。其間
に供奉の{{r|公卿殿上人|くぎやうでんじやうびと}}も、{{r|綾羅|りようら}}きんしうをあつめて衣裝をとゝのへ、金銀をちりばめて{{r|鞍馬|くらむま}}をかざりた
まへり。是ぞ高野御幸の初めなりとぞ。
{{仮題|投錨=光明皇后御長髮事|見出=小|節=c-3-9|副題=|錨}}
南都︀諸︀大寺のたから物一にあらず、種々の靈寶あり。就中こうふくじ{{r|寶藏|はうざう}}の中さま{{ぐ}}の佛像そのほ
かの重財等あり。その中にまろきはこあり。そのうちに女の髮有、たけ一丈餘、其黑き事比類︀なし。
ひすゐをあざむくべし。まことに和漢︀の中ためしすくなき物なり。是則光明皇后御壯年のころの御ぐ
しなりとぞ。是を取りてみれば、おそろしき物なり。さらに今やうの髮に似ず。かゝるものもありけ
るにやと覺え侍る。九百年に及ぶむかしの御すがたも、今みるやうの心地せり。御かたちのやんごと
なきありさまは、國史等にくはしければ、今更申に及ばず。觀音さつたの御さいたんなればにや、申
もおろかなる事なり。しかのみならず、よしのどろ川と云所のおくに、てんの川といふ所に{{r|辨才天|べんざいてん}}あ
り。此所によしつねの妾白拍子しづかが髮とてあり。長八尺ばかり、是さへいみじくおもひ侍るに、
光明皇后の御事ふしぎといふもあまり有り。又此所に七なんがすゝ毛といふ物あり、長五丈ばかり、
其{{r|緣起|えんぎ}}をきけば甚だ{{r|尾籠|びろう}}の事共なり。たゞし此ものは、吉野にかぎらず往々に諸︀所にありとぞ。
{{仮題|投錨=世尊寺行能詣{{二}}淸水寺{{一}}祈︀{{二}}嗣子{{一}}之事|見出=小|節=c-3-10|副題=|錨}}
後嵯峨院の御宇、行能卿としすでに七旬におよびて、一子もなし。是已にわが家斷絕のもとゐなるにや
と、あさ夕かなしまれけれども、如何ともする事なし。寬元元年に淸水寺へ七日さんろうありて、此
事をいのられけるに、ずいけんあらたにして、{{r|不思議|ふしぎ}}の一子を{{r|儲|まう}}けられける。白河の三品經朝卿是な
り。此經朝康元年中に生年十三さいにして、大內の{{r|番帳|ばんちやう}}をかきまゐらせらる。{{r|筆簡妙絕|ひつかんめうぜつ}}の人なりと
云々。そのゝち六十餘におよびて、{{r|冥途|めいど}}の請におもむいて閻王宮に到られけり。{{r|閻魔|えんま}}王此人にめいじ
て額をかゝしむ。此時七日があひだ{{r|氣息|きそく}}{{r|斷|た}}え身はあたたかなり。すでに七日をへて{{r|蘇生|そせい}}せられけると
なん。同朋とぶらひて且はよろこび且はあやしき思ひをなして、とかくとひかたりたまひけるが、そ
ののちいく程なくして、つひに死去せられけるとぞ。{{r|希代|きたい}}の事なり。參議佐理卿は三島明神︀の神︀言に
{{仮題|頁=189}}
よりて、日本惣鎭守三島大明神︀といへる額を書き給ひけるとぞ。凡そ上代には、{{r|異人權化|いじんごんげ}}の{{r|僧︀俗|そうぞく}}おほ
し。いかんぞ今{{r|澆薄|げうはく}}の世なればとて、一人もなく又おとにもきかず、あさましき事どもなり。當代半
學の儒士、古來の奇異を聞て、皆いつはりなりと云は、理りにも侍るか、是異人なければなり。されど
末代迄品々の靈驗をのこしおきたまふうへは、更にうたがふまじき事也。
{{仮題|投錨=大館︀氏明奉{{二}}鷹於南朝{{一}}事<sup>付</sup>怪鳥事|見出=小|節=c-3-11|副題=|錨}}
南帝御くらゐに居させたまひける初めつ方、伊豫の國{{r|大館︀左馬助|おほだちさまのすけ}}うぢあきらの許より、世にためしな
き程の{{r|逸︀物|いちもつ}}なりとて、はいたか一もとたてまつられしを、四條の大納言たかすけ卿にあづけさせた
まひて、折々御覽じさせたまひけるに、誠にすぐれたる鷹なり。その比皇居のうへなる山のしげみよ
りよな{{く}}いでて、からすの聲に似て{{r|內裏|だいり}}に響︀きわたりて鳴を、あやしき鳥にてあらん、諸︀士に仰せ
て射させたまひけれども、ところさだめざりければ、かれもこれもかなはずしてやみにけり。ある時
かの鷹をふもとの野べにて雉にあはせたまひけるに、きじには目もかけずして、山のかたへそれゆき
けるを、さしもかしこうおぼしめす御鷹をとて、行方にむらがり行に、しげみのうちに入りけるを、
いかにせんとてまぼり居けるほどに、鶴︀のおほきさなるくろき鳥を追出して、空にてくみあひともに
おちけるを、人々立よりてころしてけり。かたちはからすのごとくにして、右ひだりのつばさをひき
のばしてみければ、七尺あまりありけり。いち{{r|物|もつ}}のたかも胸のほどをくはれて、しばし程ありて死にけ
り。夜な{{く}}なきつるは此鳥にてやありけん、そののちはおともせざりけり。いづれにたゞ事にては
あらじとて、二つの鳥をつかにつきこめて、その上にちひさきやしろをたてゝ、鳥塚︀といひて今にあ
りけるとぞ。あやしき事にこそ有りつれ。{{nop}}
{{仮題|ここまで=塵塚物語/巻第三}}
{{仮題|ここから=塵塚物語/巻第四}}
{{仮題|頁=190}}
{{仮題|投錨=卷第四|見出=中|節=c-4|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=弘法大師奧州鹽川奇異事<sup>付</sup>漢︀朝事|見出=小|節=c-4-1|副題=|錨}}
往年東奧の住士語ていはく、世に空海︀の{{r|奇特|きどく}}おほく史傳に載す。悉く天下の貴賤知る所なれば、いま
さら述ぶるに不{{レ}}及。就{{レ}}中人のために重寶なる事をせさせ給ふ事あり。我住國の內、或山中に鹽川とい
ふ所あり。此ところは{{r|溪谷|けいこく}}の{{r|幽栖|いうせい}}にて、人民四五十屋ばかりあり。凡そ此近隣は海︀邊へとほく數十里
の道をへだてたれば、つねに米穀︀もとぼし。第一鹽を得る事自由ならず。昔大師{{r|廻國|くわいこく}}ありしとき、此
所の人民物語してしか{{ぐ}}の事にて候とてなげきければ、大師是をきかせたまひて、{{r|不便|ふびん}}の事也、急ぎ
{{r|呪力|じゆりき}}を以て鹽を{{r|涌出|ゆしゆつ}}せしめ、後世民家のたすけとすべしと仰られて、あたらしく桶をこしらへさせて、
谷川の{{r|眞中|まんなか}}に居ゑ給ひけるに、其日より{{r|彼|かの}}をけの中へよどみ入る水計、內にて海︀潮となりて其桶の下
流へはすこしもからき味ひちらず、常の水なり。其所の民近隣の人々、此所へ行きて{{r|彼|かの}}をけの中の水
をくんで釜へ入て鹽とし、あるひはやきて鹽とし、扶けとなす。いまにおいて彼川の桶は大師のつく
らせたまふまゝなりといふ。{{r|洪水暴流|こうずゐぼうりう}}の折からも、砂石にうづまれずして中流にあり。かやうの奇異
は後の世まで人をたすくる{{r|聖術|せいじゆつ}}なり。{{r|言語道斷|げんごだうだん}}言ふべからずと云々。{{r|加{{レ}}之|しかのみならず}}今の世にあしの葉の中に、
三寸ばかり間をへだてゝしわのよりたる二所有り。是も大師のたはぶれの御所爲なりといへり。{{r|粽|ちまき}}を
まく人を見給ひて、汝がまく{{r|粽|ちまき}}にはくゝりに大小ありて見にくし。よきほどに粽を置てこれへ見すべ
し。明年より諸︀國のあしの葉にしるしをつけて置べしと仰られければ、彼もの葉の上に粽をおきてこ
れほどがよき比におはしますといへば、大師そのところに御つめにて跡をつけたまひて、明年より
{{r|蘆|あし}}の葉に二つのしわあるべし。其しわに此今の爪あとをくらべてみるべし、違ふまじ。此しわの中に
粽を置てまくべしと仰られけるとなり。扨其翌年より天下の蘆の葉にしわ有ける。今の蘆の二つのし
わは此いはれなりとかや。不思議といふもおろかなり。
扨國々郡々村々まで、大師の御覽なき所はなしと云。壽命は六十餘なり。此內御在唐に久しく、いとま
あらず。扨國々修行あり。又世に大師{{r|御筆跡|ごひつせき}}ほど多きはなし。御作文詩序あまた有り。いかなればか
やうに纔六十年の內おほくの作業有事ぞや、まことに{{r|不雙|ぶさう}}の{{r|權化|ごんげ}}なりとぞ。高野山碩學の僧︀、先年あ
る人にいはく、我山は大師{{r|如意寶珠|によいはうじゆ}}を封じてうづめさせ賜ふ。此ゆゑに後世にいたりて萬法滅すれど
も、當山は彌々繁︀昌すると云々。其時かたはらに人有りて申けるは、{{r|傳敎大師|でんけうだいし}}は日本無雙の{{r|權者︀|ごんじや}}にて、
ことに我山の衰微を好み給ひけるによりて、次第に山門はおとろへ、高野は右の如くに末々ほど繁︀昌
すと云。然共{{r|叙岳|えいがく}}の衰微は{{r|開山|かいざん}}の本意也と云傳ふといへば、前の眞言僧︀、それは天台家のへらぬ口に
て候べし。如何なる無欲の人なりとも、我が宗の末々榮えて群生を救はんをきらふ事や侍らんと云合
ければ、いとをかしく覺え侍る。扨右の鹽川の事に付て、つら{{く}}案ずるに、和朝は海︀邊へさまでと
{{仮題|頁=191}}
ほき所もなし。此所に鹽をもちふる事とぼしからず。夫鹽は五味の第一にて、萬食に味を添ふ。此も
のなくてはかなひがたし、身命をもたもちがたしと云々。まことに我國は小國なれども、萬物滿足し
て世界第一の豐家也。漢︀唐には肉味をほしいまゝにして、{{r|汚穢不淨|をゑふじやう}}をいまず、虫蛇猛獸の類︀一として
食せずといふ事なし。此のゆゑにより{{く}}食毒にあてられ、是が爲にいのちをうしなふ{{r|輩|ともがら}}かぞへがた
し。皆{{r|惡味|あくみ}}のしからしむる所なり。そのうへ鹽といふものは、中州にいたりて海︀邊へ數千里へだてた
れば、常にとぼしとみえたり。されど自然の妙有て池鹽、石鹽、井鹽とて此三所より鹽を取て五味滿足
す。是又天地{{r|造化|ざうくわ}}の功はかるべからざる事なり。わが國は太古神︀代より肉味を忌來れり。是併萬品そ
なはりたる豐國なればにや、肉味にあらずして食物とぼしからざるが故なりと云々。
{{仮題|投錨=將軍家御他界時有{{二}}兼兆{{一}}事|見出=小|節=c-4-2|副題=|錨}}
鎌倉右大將賴朝卿平族追討し給ひ、四海︀漸くやすき思ひをなし、益天子を{{r|崇敬|そうきやう}}ありしかば、後白河院
叡感のあまりに、六十六ヶ國の{{r|惣追捕使|そうつゐふし}}になされけり。これよりして武威さかんになりて、朝廷{{r|衰微|すゐび}}
せり。彼賴朝卿は容貌優美にして、實證分明なりし人なりとぞ。此卿{{r|逝去|せいきよ}}し給し時、いろ{{く}}の天變
ふしぎあり。鎌倉の海︀水紅に色かはるとぞ。其御子賴家實朝卿の時もふしぎありとなん。しかれども
時代はるかに押うつりたる事なれば、さまでくはしくかきける物も見きたらず。間近くは御當代の
{{r|曩祖︀|なうそ}}{{r|大御所|おほごしよ}}尊氏公{{r|御逝去|ごせいきよ}}の時、猿澤の池水へんじて紅にみゆ。其外{{r|天變地兆|てんゝぺんちてう}}一にあらず。先公方
{{r|御他界|ごたかい}}まで一として表事あらずと云事なし。是尤國主なれば、自然の德化天地に徹してふしぎとあるなる
べし。常德院殿の御時は、{{r|白日斜陽|はくじつしややう}}になりて色赤く光なく、{{r|朧|おぼろ}}なる事三十日とかや云傳ふ。かゝるふし
ぎの天地にこたふる事、まことにやん事なくおはし侍る。下ざまの人そしりかたぶけ申す事勿體なき
事なり。たとへ{{r|行跡|かうせき}}あしければとて、さみし奉るまじきを、ましてことなる御はからひもなく、尋常
にして終らせ給ふ國主の御沙汰、かならず無用の事なりとみえたり。
{{仮題|投錨=野相公妙書之事|見出=小|節=c-4-3|副題=|錨}}
野相公たかむらは、弘仁帝の御時つかうまつりて、三{{r|木|ぼく}}いたり{{r|博學得業|はくがくとくげふ}}の人にて、古今にすくなき歌仙
なり。此人一代の詩文和歌{{r|擧|あ}}げてかぞふべからず、比類︀なき達人なり。{{r|文華秀麗文粹等|ぶんくわしうれいもんずゐとう}}の書にもをさ
をさのせたり。されどおほく世にもれたる作文ありとみえたり。惠林院殿御世に、公家の人々あつめさ
せ給ひて詩文の御雜談あり。{{r|漢︀家|かんけ}}の{{r|文人|もんにん}}はいとめづらしからず。和國の才人の述作に、をかしく奇妙
る文やあると問はせ給へば、ある人書きてまゐらせられける。小野篁奉{{二}}右大臣三守{{一}}書其詞云、
學生小野篁誠恐誠惶謹︀言
{{left/s|1em}}
竊{{soe|に}}以{{soe|れば}}、仁山受{{レ}}塵、滔{{レ}}漢︀之勢寔{{soe|に}}峙{{soe|え}}、智{{soe|の}}水{{soe|は}}容{{レ}}露、浴{{レ}}日之潤良流、是以尼夫結{{二}}交於縲維之生{{一}}、呂公附{{二}}
嬪於掖庭之士{{一}}、剛柔之位、不{{レ}}可{{二}}得{{soe|て}}而失{{一}}也。配偶之道、其來尙矣。傳承賢第十二之娘、四德無雙、六
行不{{レ}}闕焉。所謂君子之好幸、良人之高媛者︀也。篁村非{{soe|て}}{{二}}馬卿{{soe|に}}{{一}}、彈{{レ}}琴{{r|未|ず}}{{レ}}能身、非{{二}}鳳史{{一}}吹{{レ}}簫猶拙{{三}}孤
{{仮題|頁=192}}
對{{soe|て}}{{二}}寒窓{{soe|に}}{{一}}、恨{{二}}日月之{{r|易|ことを}}{{一レ}}過{{soe|ぎ}}、獨臥{{soe|て}}{{二}}冷席{{soe|に}}{{一}}歎{{soe|く}}{{二}}長夜之不明{{soe|を}}{{一}}、幸願蒙{{soe|り}}{{二}}府君之恩{{soe|を}}{{一}}、許{{soe|し玉へ}}{{二}}倶{{soe|に}}同穴偕老之義{{soe|を}}{{一}}、不{{レ}}耐{{二}}
宵蛾拂{{レ}}燭之迷{{一}}、敢切{{二}}朝曜□□之務{{一}}、篁謹︀言。
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是は右大臣三守公のむすめをしたひて、めあはせたまへと願ひて、三守へおくりける文なりとぞ。ま
ことに文字のつゞけやう、故事のうつりはたらきて、金玉のこと葉なり。當座に覺悟して書出さるゝ
事、又高名なりとて、此文かきまゐらせし人のもとへ、おほく祿給ひける。
{{仮題|投錨=細川勝元淀鯉料理之事|見出=小|節=c-4-4|副題=|錨}}
應永よりこのかた、管領三職の人々以ての外に威をまし、四海︀擧て崇敬する事將軍にまされり。これ
も御當家前代のうち、あるひは{{r|還俗|げんぞく}}の國主もあり、あるひは早世の君もあり。赤松がごとき君を弑し
奉る逆罪の聞えもあり。その外の事大小となく、公方は耳のよそにきこしめして、萬人三職のはから
ひにて、御家督の口入も取りつくろひけるによりて、おのづから代々に勢を加へ、萬卒これにおそるゝ
事{{r|虎狼|こらう}}のごとし。就{{レ}}中去る管領右京大夫勝元は、一家不變の{{r|榮耀|えいえう}}人にて、さま{{ぐ}}のもてあそびに財
寶をつひやし、{{r|奢侈|しやし}}のきこえもありといへり。平生の{{r|珍膳妙衣|ちんぜんめうえ}}は申に及ばず、{{r|客殿屋形|きやくでんやかた}}の美々しき事
{{r|言語道斷|ごんごだうだん}}なりと云々。
此人つねに鯉をこのみて食せられけるに、御家來の大名彼勝元におもねりて、鯉をおくる事かぞへ難︀
し。一日ある人のもとへ勝元を招請して、さま{{ぐ}}の料理をつくしてもてなしけり。此奔走にも鯉を
つくりて出しけり。{{r|相伴|しやうばん}}の人三四人うや{{く}}しく{{r|陪膳|はいぜん}}せり。扨鯉を人々おほく{{r|賞翫|しやうくわん}}せられて侍る
に、勝元もおなじく一禮をのべられけるが、此鯉はよろしき料理と計ほめて外の{{r|言葉|ことば}}はなかりけるを、
勝元すゝんで、是は名物と覺え候。さだめて客もてなしのために、使をはせて求められ候とみえたり。
人々のほめやう{{r|無骨|ぶこつ}}なり。それはおほやう膳部を賞翫するまでの禮也。{{r|切角|せつかく}}のもてなしに品をいはざ
る事あるべうもなし。此鯉は淀より{{r|遠來|ゑんらい}}の物とみえたり。そのしるしあり。外國の鯉はつくりて酒に
ひたす時、一兩箸に及べば其汁にごれり。淀鯉はしからず、いかほどひたせども汁はうすくしてにご
りなし。是名物のしるし也。かさねてもてなしの人あらば、勝元がをしへつる{{r|言葉|ことば}}をわすれずしてほ
め給ふべしと申されけるとなり。
まことに淀鯉のみにかぎらず、名物は大小となくその德あるべきものなり。かやうの心をもちて、よ
ろづにこゝろをくばりて味ふべきことと、そのときの{{r|陪膳|はいぜん}}のひとの子、あるひとのもとにてかたり侍
る。
{{仮題|投錨=源三位入道賴政事<sup>付</sup>東山殿閑居御雜談事|見出=小|節=c-4-5|副題=|錨}}
源三位入道賴政は、世の人のしるごとく、攝津守賴光より五代の後胤參河守賴つなが孫、兵庫頭仲正
が子なり。文武兼備の侍にて、殊更和歌の達者︀也。其世の人々多く賴政が{{r|風雅|ふうが}}を味ひて、門に入る輩あ
またありとぞ。一代の{{r|秀歌|しうか}}は家々の日記にしるしたれば、誰もしる所なり。其中ことに{{r|秀吟|しうぎん}}ときこえ
{{仮題|頁=193}}
し歌は、庭の面はまだかわかぬに夕だちのそらさりげなき月をみるかな。是前代{{r|秀逸︀|しういつ}}の人おほく{{r|褒賞|ほうしやう}}
ありし歌なり。されど不幸にして一生の中大國をも得られず、よしなきむねもりのふるまひによりて、
三位入道衰老のやいばに命をうしなはれしは、をしき事也といひ傳へたり。東山殿御歌の御稽古には、
賴政が風をいみじくおぼして、つね{{ぐ}}彼體を味はせ給うてけるとぞ。前代大亂打つゞき、世の政務
思召まゝならねば、人々のふるまひうとましく{{r|味氣|あぢき}}なくおぼして、東山一庭の月に心をすまし、茶の
湯{{r|連歌|れんが}}を友として、世のさかしまを耳のよそに聞しめしけるとぞ。此時{{r|大位小職|だいゐせうしよく}}の人々日々步行をう
ながされて御幽栖へとぶらはれ、さま{{ぐ}}の物がたりはじめて、なぐさめ參らせられけるとなん。賴
政が{{r|鵺|ぬえ}}をいたりと申事兩度なり。皆射おほせて比類︀なき名をのこし候。ことに闇夜におよびて目ざす
ともしらぬ比、かゝる{{r|怪鳥|けてう}}をいたる事、是はそも何を目あてとして仕たるにや、いみじくもおぼつかな
くもおもひ入て候と申されければ、義政すこしゑませ給ひて、その事なり、いみじう射{{r|課|おほ}}せ侍る。さ
れど目あてもなきに射たりしなど、不審ある事然るべからず。凡弓法には{{r|天狗|てんぐ}}、ばけ物、{{r|魔魅|まみ}}の類︀お
そるゝ{{r|手便|たより}}候。其法ある矢を用ふればあながち目あてによるべからず、つる音にて彼化怪のものおのづ
から矢に當ると申傳へて候。されど普通の藝にてはかやうの物おそれず。賴政は達人なれば、矢をつ
がふとひとしく{{r|化鳥|けてう}}を{{r|射課|いおほ}}せたりといふ事、手にこたへたりみえたり。目あてにむかひて射る矢の的
に當る事、いとめづらしからずと仰られければ、人々も{{r|快喜|くわいき}}して、仰せ{{r|勿論|もちろん}}の御事にていみじく覺え奉
ると申されけるとぞ。かさねて大樹公の仰せに、かやうの事人々もてあつかはれざるがゆゑに、いぶか
しく思ひまうけ給ふるなり。人々の所作をゐなかうどのたふとみたるとひとしき事也。あやしみをな
すにたらずとの給ひて、後はさま{{ぐ}}世のとりさたになりて、をかしき事どもかたりあひたまうける
とぞ。
{{仮題|投錨=定家卿明月記詩事|見出=小|節=c-4-6|副題=|錨}}
{{r|京極黃門定家卿|きやうごくくわうもんていかきやう}}は古今に名だかき{{r|歌仙|かせん}}なり。詞花子孫につたへてかうばしく、言葉ます{{く}}しげり
て{{r|後裔|こうえい}}をおほふ。いま{{r|澆世無味|げうせむみ}}のみぎり、彼高風をあふがんとすれば、いよ{{く}}たかし。愚口に味はん
とすれどもくちかなはず。是時代はふれて人あさましくなりもて行くによつてなり。其上{{r|黃門|くわうもん}}の時世
には、{{r|詩序|しゞよ}}のもてあそびなども人々つたなからずして、{{r|秀作|しうさく}}のきこえあまたつたへ侍る。黃門も隨分
詩作秀逸︀のほまれありて、叡聞にも達せられ侍るとみえたり。彼卿の{{r|明月記|めいげつき}}の中にも、往々にのせら
れ侍る。つねに白氏文集をもてあそびて、居易が{{r|風味|ふうみ}}をしたひ、人々にもすゝめてよましめられけ
るとなん。{{r|手跡|しゆせき}}はよろしからざるといふ事、應永の比の記に{{r|粗|ほゞ}}見え侍れど、苦しかるまじき事なり。
古來より名人の{{r|筆跡|ひつせき}}あしき人もまゝつたへきゝ侍り。そのうへいま彼卿の筆法をみるに、おほく文字
の{{r|品|しな}}かはりて、さま{{ぐ}}にかゝれ侍る。凡五六品にもわかれてみゆ。今やうの人のさらにおよぶべく
もあらず。あしきといへるもゆゑあるべき歟。{{r|就{{レ}}中|なかんづく}}{{r|上根|じやうこん}}{{r|無雙|ぶさう}}の人にて侍るにや、おほく他家の記錄
{{仮題|頁=194}}
をみるに、黃門の明月記ほどくはしきはなし。其身は洛に居住して、{{r|別業|べつげふ}}を九條小倉にいとなみ、つ
ねに彼所へいたりて窮身を山野にたのしまれ侍るよし、くはしく記中に見えたり。一とせ人々詩序に
つらなり、{{r|當座|たうざ}}のほまれありつる句、
見鐘響︀近松風暮 鳳輦蹤遺草露春
又建仁の比、上皇南山へ御幸ならせたまひしにも、彼卿{{r|供奉|ぐぶ}}せられ、{{r|發心|ほつしん}}門のはしらに書付られ侍る
詩歌なども記にみえたり。本文にいはく、
{{left/s|1em}}
建仁元年十月十五日午刻計、著︀{{二}}發心門{{soe|に}}{{一}}、宿{{二}}于南無房宅{{一}}、此道常不{{レ}}具{{二}}筆硯{{一}}、又有{{レ}}所{{レ}}思、未{{レ}}書{{二}}一
事{{一}}。
此門之柱始而書{{二}}詩一首{{一}}。{{仮題|分注=1|門之巽角柱閑所也。}}
慧日光前懺{{二}}罪根{{一}} 大悲道上發心門 南山月下結緣力 西刹雲中弔{{二}}旅魂{{一}}
いりがたきみのりの門はけふすぎぬいまよりむつの道にかへすな
{{left/e}}
又南山の御逗留のうち、御狩とやらんの御留守にさぶらひて、
{{left/s|2em}}
旅亭晩月明 草寢夏風淸 遠水茫々處 望鄕夢未{{レ}}成
おもかげはわが身はなれず立そひてみやこの月にいまやねぬらん
{{left/e}}
これのみならず、定長入道{{r|寂蓮|じやくれん}}をはりけるにも、黃門悲歎の言葉一段をかゝれ侍る。是また{{r|殊勝|しゆしよう}}の事
也。
{{left/s|1em}}
建仁二年七月二十日午刻計、參{{二}}上左中辨少輔入道逝去之由{{一}}、其子天王寺之院主申內府云々、未{{二}}聞
及{{一}}歟。聞{{レ}}之卽退出、已依{{レ}}爲{{二}}輕服之身{{一}}也。浮生無常雖{{レ}}不{{レ}}可{{レ}}驚、今聞{{レ}}之哀慟之思難︀{{レ}}禁、自{{二}}
幼少之昔{{一}}、久相馴而旣及{{二}}數十囘{{一}}、況於{{二}}和歌之道{{一}}者︀、傍輩誰人乎、已以奇異之逸︀物也。今旣歸{{レ}}泉
爲{{レ}}道可{{レ}}恨、於{{レ}}身可{{レ}}悲云々。
玉きはるよのことわりもたどられず思へばつらし住よしの神︀
{{left/e}}
此ほか自記のうち、{{r|釋典|しやくてん}}の圖などまで{{r|叮嚀|ていねい}}にしるしおかれ侍り。いとこまやかなる事、今尤世のかゞ
みとなれり。いみじきふるまひなり。{{r|往歲|わうさい}}いつころにや、{{r|仙洞參仕|せんとうさんし}}の人々おほくあつまりて、酒茶を
たのしびて、いろ{{く}}の淸談はじめられけるついでに、ある人の申されしは、定家卿はよろづにするど
のふるまひをせられて、我はわれ人は人なる心ばえありと見えて、其世の人々どもおほくはこゝろよ
からざる聞えも侍り。その事のよしあしはまさしくしるしたる文も見あたらねば、しれがたく侍れど、
今しばらくしりぞいて愚案をめぐらし侍るに、人々のふるまひはいざしらず、定家においてはすげな
くしてそひよりもなく、禮義もするどなる事あきらけし。その故は、人としておほくしれる內、一人
二人などは中あしききこえもある物なり。是いまの世の人々にもあるべき所なり。定家卿は其ころの
人みな下心にあしさまにもおもへりといへり。是黃門のふるまひ足らざるがいたす所なり。いかんぞ
{{仮題|頁=195}}
黃門一人に{{r|與|くみ}}して、多くの人を{{r|惡|わろ}}しといはんや。是{{r|正|たゞ}}しき{{r|證據|しようこ}}なりと申されけり。予其{{r|傍|かたはら}}にありて申
しけるは、尤も{{r|理|ことわり}}はきこえて侍れど、またさにもあるべからず。{{r|其|その}}故は{{r|唐|もろこし}}我{{r|朝|てう}}の{{r|間|あひだ}}に、{{r|昔|むかし}}より{{r|至人|しじん}}
{{r|名士|めいし}}の{{r|挺生|ちやうしやう}}せるに、其世の人々おほくそしりきらふためし侍るといへり。是外事をそしりていふにあら
ず、皆その盛德技藝の、おのれがちからに及ばざる所をにくみてそしれり。其{{r|技能|ぎのう}}を{{r|誹|そし}}れる人ありと
て、一{{r|槪|がい}}にその一人をあしきともさだめがたし。西天にもかやうのためしあるべけれど、それはいとは
かなの間なれば、たづぬるにいとまあらず。もろこしに至て、まさしく{{r|唯一不雙|ゆゐいつぶさう}}の孔子をそしれるもの
もありとみえたり。仲尼は聖人なり。そしれるものは惡賊なり。孔子仁義をいたきて世のさま{{r|貧欲攻伐|どんよくこうばつ}}
のふるまひになり行をいたみて、彼らにしめさんがために、あまねくくに{{ぐ}}をめぐりたまひしを、さ
まざまにさみして、おのれをしらずなどいひし人もありと云り。此そしり他なし。唯その聖德のわれに
あたはざるをもつて也。仲尼はて給ひてのち、かやうの例おほし。又{{r|扁鵲|へんじやく}}といふ人自然に醫の四智を
得て、みな人のやまひなさとして{{r|年壽長短|ねんじゆちやうたん}}の未然をきはむるほどの此技能によりて、秦の大
醫の令李害といふものにころされけるよし、史記にも侍るとかや。此{{r|殺︀害|せつがい}}も他事にあらず。彼いみじ
き{{r|藝能|げいのう}}のわれにあたはざるをにくみてなり。すべて和漢︀兩朝のあひだ其{{r|才藝|さいげい}}によりて、あるひはころ
されあるひは遠つ島へうつされ、あるひは讒せられ侍るためし多く侍るとみえたり。今黃門在世不快
の人をはかるに、そしれる事他にあらず、和歌のたくみなるによりてなり。しからば名歌によつてそ
しらるゝは、定家卿の身においては{{r|規模|きぼ}}なるべし、いかゞ侍らんやと申ければ、人々さもいはれたり
なとさだめあひたまひける。
{{仮題|投錨=和國天竺物語事|見出=小|節=c-4-7|副題=|錨}}
みづからいみじきとおもへるものがたりも、人おほき中にてははるかにおとれるものなり。予むかし
をさなく侍るころ、ある{{r|殿上人|でんじやうびと}}のもとへまかり侍るに、あまたの人々よりあひつゝ{{r|詩歌|しか}}の{{r|褒貶|はうへん}}などさ
だめあひて、いづれもかしこく沙汰せられ侍りけるが、後には例の酒宴になりて、かまびそしくなり
けり。これもしばらくしづまりつるまゝに、予申し侍るは、此程めづらしき事を承り侍る。物がたり
して、人々に興じさせ侍らん、きゝ給へ。東福︀寺なにがしの長老がめしつかひける小僧︀、あるものゝ
方へまかり侍るに、亭主たはぶれて、さても美しき御僧︀に侍る。むかしよりおほくの僧︀たちを見來た
るに、いまだ貴僧︀のごとくなるよそほひをみず。又俗中にもたぐひなかるべし。是かならず{{r|親父御母儀|しんぷごぼぎ}}
の間すぐれたる器︀量なるべし。いみじき御むまれつきにも覺え侍る。御僧︀はそも御親父の子にて侍る
やらん、御母{{r|儀|ぎ}}の子にておはするやらん、こまやかにうけたまはりたき事にて侍ると申ければ、小僧︀
申けるは、仰かしこまり候。まことにいやしきむまれつきにて侍れど、今さらせんかたなく侍る。し
かるを御褒美にあづかる{{r|條|でう}}面目とや申さん、又恥辱とや申べけん、いづれにわかちがたく、扨仰られ
候御返答申べく侍れど、すこし又うけ給はり度事も侍る。先これをとひ奉りて後申侍るべしとぞ。手
{{仮題|頁=196}}
をうちて、此鳴りたる方は右の手にて侍るやらん、ひだりの手にて候やらん、仰きかされ候へと申
ければ、亭主それはふしんも待らぬ事なり。兩方の手をうち合ひたるひゞきなり。右の方にも侍らず
左の手にても侍らずと申ければ、小僧︀さればこそ、さきに仰らるも父が子か母が子かと御ふしんある
も、かやうのたぐひなるべし。父母まじはりての子也。ちゝ一人の子にもあらず、母一人の子にも侍
らず。かたちの善惡は父母にたづね給へと申侍るまゝ、亭主もはたとつまりて、これはやんごとなき
返答也。尤至極の御ことわりなれとて、感じ入てもてなし侍るとかやつたへ承り候とて、語りければ、
座中の人々も、をかしき物がたりをもせられ侍るものかなとて、わらひあひ興に入られけり。又かた
はらよりある人の申され侍るは、勿論一座の興にて、をさなき人の物がたりにはいみじき事也。され
ど、かやうの例はいにしへより侍るとみえたり。そのかみ世尊西天に出生まし{{く}}て、おほくの御の
りをとかせたまひ{{r|衆生|しゆじやう}}を{{r|濟度|さいど}}し給ひければ、彼{{r|外道魔族|げだうまぞく}}のともがらひとつにあつまりて、{{r|瞿曇沙彌|くどんしやみ}}が
ふるまひいとにくき事也。いかにもしてめづらしき事をとひかけて、そのこたへにつまりたらば、彼
法をやぶらんと議したり。その中にかしこき{{r|外道人|げだうにん}}すゝみ出て申けるは、よき御はからひ也。それが
しにまかせ給へ、やがて彼法をやぶり侍らんとて、いきたる小鳥を壹羽︀手ににぎり、釋尊の御前にて
かの小鳥を手ににぎりつゝさしいだし、此鳥はいきて侍るか御あきらめ候へ、若相違あらば難︀義を申
かけんといひければ、世尊つく{{ぐ}}と御らんじて御返答もなくして、門の口へ出たまひ、しきゐをま
たげさせ給ひて、いかに{{r|外道|げだう}}、唯今われは門より外へ出るものか、門より{{r|內|うち}}へ入る者︀か、よく工夫して
申すべし。若それに相違あらば、大きにわざはひをかうぶり侍るべしと申させたまひければ、さしもか
しこき外道なれど、此世尊の御ふるまひを見て、さらにこたへにもおよばで、いづくともなくにげ去
り侍るとかや。まへに外道の手をさし出し、鳥は生きたるか死たるかととひ侍るは、{{r|如來|によらい}}もしいきた
るとこたへたまはゞ、此鳥を手の{{r|內|うち}}にてしめころして、是が生て侍るかと世尊をつまらせ申べし。又死
したりとこたへ給はゞ、則生ながらさし出し、是が死して候かといづれのみちにも返答あらば、我が方
が勝たるべしとおもひはかりてとひ奉る。是外道のたくみ侍るかしこき所也。されど三世{{r|了達|れうたつ}}の如來
なれば、かほどの事いかであぐませたまふべき。終に返答もあそばされず門のしきゐをまたげたまひ、
內かそとかととはせたまへば、たちまちおそれてにげ去りけるとかや。外道もし內へ入給ふといはゞ、
片足を出して是が內入るかとこたへたまふべし。又外へと申さば、外のかた足をうちへ入させ給ひ、
是が外へいづるものかと、御こたへあるべきためなり。これ世尊の御はからひなり。此ふるまひをさ
とりて逃げたりける外道もいとかしこし。かやうのためし佛書にも侍り。さきの小僧︀のふるまひも、
かゝるためしのはし{{ぐ}}をきゝつゞりて、こたへ侍るにやと申されければ、座中の人々これは{{く}}と
{{r|大汗|おほあせ}}をながし、{{r|感情|かんせい}}しばらくやまざりけり。みづからをさなごころにいみじく思ひしものがたりも、
いたづらになりて、はづかしくはべれど、またその恥によりて、大きなる德もうけたまはりまうけ侍
{{仮題|頁=197}}
りし。
{{仮題|投錨=夷大黑之事|見出=小|節=c-4-8|副題=|錨}}
あるひとのいへるは、大こくとえびすと對して、あるひは木像をきざみ、あるひは繪にかきて富貴を
いのる{{r|本主|ほんしゆ}}とせり。世間こぞりて一家一館︀にこれを安置せずといふことなし。但しえびすの事は其本
說もありとみゆれど、大黑といふ事、いづれの比よりいはひそめたりといふ本說たしかに見侍らず。
ことわざにいふ說はまち{{く}}なれども、多くはみな{{r|虛說|きよせつ}}にしてもちゐがたし。此事いぶかしく侍る。
そのうへ世にえびす大こくといへば、{{r|蛭子|ひるこ}}と對するいはれもありけるにやといひ侍るに、又あるひと
來りていはく、尤いはれありげに侍る。以往に兼倶が說をうけたまはりしに、大黑といふは、元
{{r|大國主|たいこくしゆ}}のみことなり。{{r|大已貴|おほあなむち}}と{{r|連族|れんぞく}}にして、むかし天下を經營し給ふ神︀也。大已貴とおなじく天下をめぐ
りたまふ時、彼大國主ふくろのやうなる物を身にしたがへて、其中へ旅產をいれて{{r|廻國|くわいこく}}せらるゝに、
その{{r|入物|いれもの}}の中の{{r|粮|かて}}をもちゐつくしぬれば、又自然にみてり。それによりて後世に福︀神︀といひてたふと
むは此いはれなりと云々。しかうしてそののち、弘法大師彼大國の文字をあらためて、大黑とかきた
まひけるといへり。しからば、{{r|蛭子|ひるこ}}とは本一族たれば、對するいはれなきにあらず。福︀神︀とあがめは
じめたる、はいづれ世より、誰人の{{r|濫觴|らんしやう}}といふ事はしらず。大黑と文字をあらためられしは弘法なり
といへり。是兼倶が說なりとかや。
{{仮題|投錨=淡島由來之事|見出=小|節=c-4-9|副題=|錨}}
又近代民家の町をみるに、僧︀俗のわかちもみえぬもの、淡島の{{r|本緣|ほんゑん}}をいひ立てすゝめふれてありき侍
る。その{{r|利生|りしやう}}をきけば、{{r|女人腰下|によにんえうか}}のやまひにかぎりたるやうにのゝしれり。甚以てをかしき事也。さ
れどすこしはその據もなきにあらず。淡島といふはすくなひこのみこと也といへり。神︀代醫術の御神︀
也。くらまのゆき大明神︀、五條の天神︀、あはしまは皆一體の神︀なるよし分明なり。しからばかならず
{{r|女性|によしやう}}のこしけにはかぎるべからず。男女諸︀疾の平復をいのらんにかならず{{r|利益|りやく}}あるべし。ことに末代
醫術を習はんものは、皆此神︀を尊崇すべきことなり。
去る永正年中に、山しろの國{{r|大住|おほすみ}}といへる里に藪くすしあり。{{r|宿願|しゆくゞわん}}の事ありて、五條の天神︀へまうで
て{{r|通夜|つや}}しけるが、夢に老翁きたりてつげていはく、皆以神︀慮にあたはず。但しいまよりのち醫の道を
いよ{{く}}はげみて、第一民俗を不便せば、漸々にして家門さかゆべしと云々。夢覺て{{r|御示現|ごじげん}}あらたな
りと思ひ、{{r|神︀託|しんたく}}のごとくにつとめければ、益々{{r|門葉|もんえふ}}しげくして、財寶所せばしといへり。是うたがひ
なき事なり。
{{仮題|投錨=德政之事|見出=小|節=c-4-10|副題=|錨}}
中古天下に德政をいふふしぎの法をたてゝ、我がまゝをふるまひきたれり。その{{r|起|おこ}}りをたづぬれば、
世のみだれうちつゞき、{{r|軍產|ぐんさん}}とぼしき故に、かれこれの商人職人の金銀をうばひ、あるひは借りとり
{{仮題|頁=198}}
てそのぬしにかへさず、さればとて此事おとなしからざれば、彼の人のきく所もうとましく思ひて、よ
りより此法をおこなふ。たとへば、かりたる物はかしぬしのそん、かしたる物はかり主の德となれり。
これを一{{r|國平均|こくへうきん}}の{{r|德政|とくせい}}といへり。我國神︀代よりこのかたかゝる無理なる法をきかずといへり。此事公
方にはしらせ給はず。彼三職のごとき人のふるまひなりといへり。やゝもすれば、これらのともがら
{{r|家督|かとく}}をあらそひて、恥にもならぬ事を一家の恥辱なりと號して、唯今まで無二の親しき中も、たちまち
{{r|虎狼|こらう}}のこゝろをさしはさみ戰におよぶ。さればとて、その{{r|張本|ちやうぼん}}のともがらばかり討死にするにもあら
ず。それ{{ぐ}}の家の子郞從をひきゐて、おほくる人をそこなはしむ。是ふびんの事なり。およそ武勇
人の戰場にのぞみて、高名はいとやすき事といへり。されどかたきながら見しらぬ人也。又主人のため
にこそあたならめ。{{r|郞從下部|らうじうしもべ}}ごときに至て、いまだ一ことのいさかひもせざる人なれば、あたりへさ
まよひきたる敵も、わが心おくれてうちがたき物也。とかく義ばかりこそおもからめ。その外は皆ふ
びんの心のみおこりて、おほくはうちはづす事敵も味方もひとし。又戰場にいたりては、いかなる白
日晴︀天も{{r|朦朧|もうろう}}とくもりて物のわかちも見えがたく、扨漸々たゝかひつかれ、日もくるればたがひに幕
のうちへいりて、けふは{{r|先|まづ}}いきのびたりなど大いきしてやすみ、しばらくこゝろもしづまりぬれば、
故鄕のちゝはゝ妻子の事を思ひ出し、又唯今夜討もや來るらんと心いそがはしく、いさゝかもゆるが
せなる間なしといへり。近比軍に出でし武士かやうの物がたり申侍しが、尤さもあるべき事也。しか
らば足もとの敵をも、うちはづし見はづし侍ることわりなり。されば大人はおほかたのはぢにはこらへ
て、たゝかはざるがおとなしく侍るべし。これしかしながら、おほくの家臣{{r|僮僕|どうぼく}}のためなり。中昔より
さまざまのいくさうちつゞきて、いたましき事のみおほし。其つひえをおぎなふものはたれ人ぞや。
皆{{r|竹園|ちくゑん}}、{{r|椒房|しくばう}}、{{r|出世|しゆつせ}}、{{r|坊官|ばうくわん}}、{{r|商人|あきびと}}、{{r|村民|むらたみ}}、{{r|所持|しよぢ}}のものなり。いにし比より將命{{r|御敎書|みげうしよ}}をわがふもの、武
家の外おほくは先德政たりとも不易たるべきのよしを、第一にねがひのぞむとみえたり。たとへば、今
度何々品に就て{{r|粉骨|ふんこつ}}をぬきんで御馳走申上は、たとへ德政の法度これ有といふとも、御下知のむねに
まかせて、買得分の田畠並借けす、米錢、しち物、預り狀、永地之事一切改動あるべからず。{{r|若相|もしあひ}}違
犯の輩於{{レ}}有{{レ}}之者︀、成敗を加ふべきの狀、仍如{{レ}}件。およそかやうのたぐひおほし、又ある人の申ける
は、去る文明の比の德政に、をかしき事ありしと申つたへたり。其の比三條五條のわたりに、おほく
の旅人とまり侍れば、にぎはしかりけり。此折から德政のふれちかくあるべきとの風聞しけるあひだ、
亭主の町人よきついでなり、たからをまうけ侍るべしと{{r|工|たく}}みて、かの旅人の所持の物をいち{{く}}見て、
このわきざししばらくかしたまへ。此つゝみたる物は何にて侍るやらん、くるしからずばかし給へと
申けるあひだ、旅客此事たくみていへるとは夢にもしらざれば、やすきほどの御事なり。御用に立ん
物は何にてもかし申べしとうけがひける間、おほくの旅民の{{r|所持|しよぢ}}の具どもに、皆かし給へといふ一こ
と葉をそへたり。かくのごとくして、一兩日もすぎ侍るに、案のごとく、公儀よりのふれなりとて、貝を
{{仮題|頁=199}}
ふきたて鐘をならして、辻々に{{r|德政|とくせい}}の{{r|御法度|ごはつと}}ありとのゝしりける。そののち彼亭主旅人をあつめて申
けるは、さて{{く}}うとましき事をも申かけ侍るものかな。此德政と申はかたじけなくもうへさまより
の御觸也。此下知のこゝろは、何にてもかり侍ると申言葉をかけたる物は皆かりぬしへたまはり、か
したる物は皆ぬしのそんにて、天下のかしかりを平らかにひとしくせさせ給ふ御法なり。されば此ほ
どかし給へと申物は、皆此はうの物なり。是わたくしならず。則唯今の御ふれこれなりとさもきら{{く}}
しく申けるに、旅人は何のわきまへもなく、これはいかなる御ふれぞとばかりいひて、人々目を見あ
はせ{{r|仰天|ぎやうてん}}してとはうにくれて居たり。中にいとこさかしものありて罷いでて申けるは、よし{{く}}たが
ひにくるしからず、うへさまの御ふれそむき侍らず。かすべしと申したる物は皆そのはうへとりたま
へ。但し此ふれにつきていたましく思ひ侍る事あれど、それも是非なし。かりそめに貴殿の御やどを
かり侍る事是時節︀也。今さら此家をかへすべき事に侍らず。さればむかしより久しく所持したまふ家
なるべけれど、折あしく惜りあはせ、妻子{{r|所從|しよじう}}ひきつれたちのき給はん事{{r|笑止|せうし}}に侍ると申せば、亭主
もこれは理不盡の仰にて候とあらそひけれど、とかくわたすまじといへるあひだ、かれこれ大事にな
りて、{{r|奉行所|ぶぎやうしよ}}へうたへ侍るに、家主をめされてにくきふるまひかな、いそぎ立出候べし。嚴重の{{r|捌|さばき}}なれ
ば力およばず大かた家をとられて、いづくともしらずのき侍るといひつたへたりとかたり侍し。家主
がすこしのよくにふけりて、あさましき目にあひたりとて、その比天下の口にわらはれしと也。{{nop}}
{{仮題|ここまで=塵塚物語/巻第四}}
{{仮題|ここから=塵塚物語/巻第五}}
{{仮題|頁=199}}
{{仮題|投錨=卷第五|見出=中|節=c-5|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=淺井某雲母坂奇怪事|見出=小|節=c-5-1|副題=|錨}}
去る江州一亂の時、淺井のなにがしといへる者︀、落むしやとなりてひえの山の{{r|雲母坂|きらゝざか}}をくだりて京へ
おもむき、ふしぎのものにあひたりといへり。老人とみれば、又にはかにわかくなり、若くみれば又{{r|忽然|こつぜん}}
としてしわよりてみゆ。一さい人にして分明ならぬくせものなり。淺井にかたり侍るは、そのはうが
家かならず末さかえて貴族の名を得べし。たのもしく覺ゆべし。つゝしみなくば又うれへもあるべし
などいひし間、淺井なにがしちかくよりてかたらんとすれば、立どころにきえ{{ぐ}}となりてうせにけ
るとぞ。
みだれたる世には、かならず{{r|魔障|ましやう}}ありといへること有り、かやうのたぐひなるにや。されど此くせ者︀
はよき事を申侍れば、たゞ物にはあらざるべし。
{{仮題|投錨=世尊寺某額之事|見出=小|節=c-5-2|副題=|錨}}
先亡藤原某卿は、近代に名高き{{r|能書|のうしよ}}也。彼家にても行能以後の名翰也といへり。これによりてかなた
こなたよりさま{{ぐ}}の文字をたのみきたりてかゝしむ。ことに額を{{r|書|かけ}}るに妙處ありといへり。凡すこし
きの藝あるものも、人これをもてはやすれば、はやその藝を{{r|自負|じふ}}して、人々にとやかくとむつかしく
{{仮題|頁=200}}
やすからぬ事におもはするはつねのならひ也。されどおほかたはいやしき人のする所なり。此藤原卿
はしからず。天性心かろき人にて侍りければ、何事によらず人のたのむほどの事すみやかに達せられ、
ことに文筆の望みあるもの來れば、それに待給へとて、時をうつさずかゝれ侍る間、{{r|結句|けつく}}人おほく崇
敬して、彌々名もたかし。一日或人來りて、{{r|慧日寺|ゑにちじ}}といふ三字の額を所望せり。彼卿やすきほどの事
なり、それにまちたまへとて、件の三字をならべ書て出されければ、所望の人申けるは、つたへうけ
給はりしにまさりて、いとありがたき御ふるまひにも覺え侍る。ことに見申せば、{{r|客殿|きやくでん}}に御人の聲も多
くきこえ侍る、はかりたてまつるに{{r|御珍客|ごちんきやく}}と覺えて侍る。しかるを今日始めて{{r|御見參|ごげんざん}}に入、ことにむ
づかしきしなをたのみたてまつる事、{{r|以外|もつてのほか}}の{{r|率爾|そつじ}}にも思奉れど、こと人はたのみ奉るに足らず。とか
く時うつりまかりすぎ侍る處に、今早速に御筆をそめ下さるゝ事、{{r|言語道斷|ごんごだうだん}}かたじけなき仕合に思奉
り畢ぬ。その上此三字は{{r|字畫|じくわく}}に甲乙御座候。しかるを慧日寺と三字並べさせ給ふに、いづれもひとし
く見え侍る事、はゞかりながら古今にためし少く思ひ奉る。是も又{{r|堅額|たてがく}}にあそばされば、文字の甲乙
もあながちめにも立まじく思ひたてまつれど、それは{{r|勅額|ちよくがく}}の外にはあそばされがたく侍るやうにつた
へうけ給はり候。いづれの文字にてもあれ、横さまにならべさせたまふ事いとやすからぬ御事にも思
ひ侍ると、さま{{ぐ}}のこと葉をそへて褒美しければ、あるじの卿、それはさも候はめなれど、我らごと
きものゝ{{r|書字|かくじ}}のふるまひいと{{r|面|おもて}}つよき事にも侍る。されど所望のうへといひ、又いやしくも其家なれ
ば、身の{{r|堪否|かんふ}}はぜひなく侍る。およそ筆翰妙絕の人は、{{r|字畫|じくわく}}にきらひなく侍るやうにうけ給り侍る。
それぞれの文字は畫おほく、その文字は畫すくなく、あるひは文字のとりあひあしく、あるひはそれが
しが流義にかやうの筆をもちゐ侍るなど、さま{{ぐ}}の祕傳をそへて自負するものあり。是至れる人と
や申さん、又つたなきとや申べし。かやうの事、予は取らず。いかほどに姸をとりてつくろひたりと
も、其人のたけならでは見え侍らず。とかくむづかしき品を添侍らずして、{{r|器︀|うつはもの}}のまゝにやす{{く}}と書た
るがよろしかるべし。高野大師の御筆跡をうかゞふに、さま{{ぐ}}の{{r|異體|いてい}}をまじへさせ給ふ中、ことに
ふるくちぎれたる筆にてあそばしめ給ふとみゆる文字は、猶{{r|筆骨|ひつこつ}}のやんごとなき品あらはれ侍りて、
いみじくまねもなりがたく侍る。畢竟文字の大小にかぎらず、器︀のおよぶほどに書侍るがよしと承り
侍る。今慧日寺の文字をならべたるが書にくしといはゞ、もし又明日一峯寺といふ額を望む人あらん
に、いかゞはからふべきかと申されければ、まへの所望の人も口をつぐみて、{{r|感淚|かんるゐ}}をながして退出し
侍るとなり。{{r|能書|のうしよ}}の人なればにや、をかしきこたへをもせられ侍ると人々甲ける。在世に多くの額をか
き侍るに、皆いみじく人のもてはやし侍る。やんごとなき人なりしとぞ。
{{仮題|投錨=惠林院殿御事|見出=小|節=c-5-3|副題=|錨}}
先將軍よしたね公は、御こゝろ正直にしてやさしき御生れつきなり。武臣家僕のともがらは申におよ
ばず、公家の人々へも心をくばらせ給ひて、不便せさせおはします。されど亂世の國主たれば、將軍
{{仮題|頁=201}}
の御名ばかりにてよろづ下ざまのともがらはからひて、上意と號して我まゝをふるまふ間、これによ
りて御科なくして、人の口にかゝらせたまふ事もいさゝか侍りし。このゆゑに武臣のつみを大將軍へ
うらみて、いよ{{く}}騒動もしづまりがたしとみえたり。近比公方の御ありさま見奉るに、將軍は一ヶ
寺の長老にて、武臣は其{{r|塔頭|たつちう}}の寺僧︀のごとし。長老は貴とけれども、寺僧︀よこたはりて住持をもどき
侍りて、我まゝを行ふ{{r|風情|ぶぜい}}なり。或時大納言なにがしをめされて、閑所において御{{r|談笑|だんせう}}ありし次でに、
仰られけるは、およそ大人は書籍をみるにもとばしからず、天下のひろきをも一瞬に見る事かたから
ず、よろづ心にかなひて、四海︀のぬしたれば、おほくの人民日々にいたましき事をうたへきたるに、
その事耳に入て不便なれば、まのあたりならねば、あながち身にしみたる哀みもなし。{{r|畢竟|ひつきやう}}我がくる
しみにあはざるものは、人のかなしみをしらざる也。われ一とせ政元が事にくるしめるにより、下民
のいたはりを思ひなぞらへ侍る。是死を恐るゝにあらねども、ちかく{{r|方人|かたうど}}のなき折ふしは、心ばそ
きものなり。{{r|鰥寡孤獨|くわんくわこどく}}のもの平生ちからなくおもはん事おしはかれり。慈悲の心なきものは、いける
かひなし。いはんや天下をしらんものをや。第一不便を先とすべき物なり。つら{{く}}古今をかんがふ
るに、泰時、時賴は唯人にあらず。我朝の武賢といはんはかれらがふるまひたるべし。予壯年よりつ
ねに下僕を撫で匹夫を憐れむ心のみあれど、我身さへ心にまかせぬ世なれば、事行かでうち過侍る。
いましばし世のさまをうかゞひて、我志をとげまくおもふ事侍れど、月日は逝ぬ、年やうやくかたぶ
き行ば、終に其思慮を{{r|空|むな}}しうして、いきどほりを{{r|泉下|せんか}}にとゞむべしと思へり。人々も{{r|當時衰朽|そのかみすゐきう}}の身な
れど、みづからを察して心をあきらめらるべし。一日もいけらんうち、身に應じて人を扶助し給べし
と、しめやかに御雜談有ければ、彼{{r|亞相|あさう}}もつら{{く}}上意をうけたまはりて、かりぎぬ袖をしぼられ、
とかうの返答もなかりしとかや。まことに大樹の身としてかゝる御心ばへ世にありがたき事に侍る。
ゐなかへうつらせたまひしのちは、貴賤みなくらきともしびのきえたるやうに思ひ侍り。その折から
も人々へ御いとまごひありて、おほせおかれし事は、皆やさしき御ふるまひなりと、今の時まで申出
し侍る人おほし。
{{仮題|投錨=細川武藏入道事|見出=小|節=c-5-4|副題=|錨}}
いにしへ細川武藏入道常久は、知仁勇の三德を兼備して、四海︀第一の勇士なりといへり。いつの比なる
にや、{{r|鹿苑院殿|ろくをんゐんでん}}{{r|月見|つきみ}}の御會のむしろに{{r|候|こう}}して、君にあらっけなきいさめを申されけるに、公方しばらく御
ふくりふまし{{く}}て、{{r|御勘氣|ごかんき}}のきこえありければ、賴之も仰のむね至極して、是非なく外國へ{{r|蟄居|ちつきよ}}し、
後に入道して常久とは申けるとぞ。其後又{{r|宥助|いうじよ}}ありて、ふたゝび執事の職に任ずる事諸︀書のつたへ皆
異儀なし。されど此事につき甚だふかき意味ありといへり。そのゆゑは賴之はよしみつ公御幼稚のむ
かしより、天下の{{r|執權|しつけん}}をうけ給はりて四海︀の骨肉たれば、其威勢日々に重疊して天下の尊卑こと{{ぐ}}
くかれが爲に{{r|媚|こび}}をなし、奔走する事なのめならず。しかりといへども、賴之嘗て身の爲に驕りをなさ
{{仮題|頁=202}}
ず、{{r|庶民|しよみん}}を撫育してます{{く}}{{r|忠烈|ちゆうれつ}}をはげます。このゆゑに公方の御威光は、螢火のごとくにして、執
事の榮光は大陽世界をてらすがごとし。さるによりて執事つら{{く}}{{r|思慮|しりよ}}をめぐらし、君臣{{r|禮節︀|れいせつ}}の{{r|工夫|くふう}}
晝夜におこたる事なし。
ある夜深更におよびて、ひそかに御座ちかくしかうして、{{r|近習|きんじふ}}の人々を皆ことごとく退かしめて、御
ひざ元まではひよりて、さゝやき申上げられけるは、いま{{r|疋夫|ひつぷ}}尺寸の忠義をつくすに、身に取りて
{{r|過分|くわぶん}}のいきほひあり。是しかしながら、君恩のおもきがいたす所なり。しかりといへども、伏してこれ
をおもんみるに、臣として君候の寵遇にあまり、衆輩皆我を尊敬せば、君いましてなきが如し。久し
き時は終にみづから身を恥かしめて、そしりを人口に殘する時いたるべし。遠くおもんぱかるに、臣
たるの道、今尤しばらく僞りて身を恥かしめ、{{r|蟄|ちつ}}して君の御思慮の深きを諸︀人にしらしめば、君臣の
道熟して節︀に當るべし。君と僞りはかりて、次であしくあらけなきいさめを申上べし。その時{{r|御勘氣|ごかんき}}
の美談嚴重におほせ下されて、近習{{r|外樣|とざま}}の{{r|大名|だいみやう}}、{{r|高家|かうけ}}、{{r|頭人|とうにん}}、{{r|評定|ひやうぢやう}}以下のものまでも、臣をはづかしめ
給へる御よそほひをあきらかにしらしめたまふべしと、君臣合體の{{r|佯諾|やうだく}}をきはめて、右の御勘氣にお
よぶといふ事、たしかに天龍相國の記物の中にみえたりと云々。事實においてはむかしより今の世まで
のあひだにためしなかるべし。およそかやうのふるまひは、正成か賴之ならではおよぶまじき事に申
あへり。
{{仮題|投錨=虎關禪師事|見出=小|節=c-5-5|副題=|錨}}
東福︀寺の虎關禪師の門弟の中に、いときようなる僧︀一人侍りて、此人後には碩學のほまれもあるべき
と人みな申あへり。ある時{{r|學窓|がくそう}}の中にて道家の書の程をねんごろに見侍りて、是ならではと思ふ{{r|氣色|きしよく}}
見えけるを、虎關すき間より見給ひて、よびよせていはく、およそ大きなる學問になさんこゝろざし
あらば、必いづれのみちにてもあれ、注解になづみて是に時をうつすべからず。彼是に時うつり行ま
まに、終に老年におよぶ。先づ{{r|初心|しよしん}}のもの注に日を暮さずして、五經、三史、孔孟の{{r|經傳|けいでん}}をよみて、大
やうその理をあきらめたるにおいては、それよりひろく何にても益ある文をみるべし。それ{{ぐ}}の文
の中に、深き意味ありて、師傳をうけずしてはみづから{{r|解|げ}}しがたき所あらば、その處はうかゞふべし。
大かたの事のしれがたき所はすておきて、先へゆけば其理つひにはとけぬべし。かならずこゝもとの
詩文のはしのすこしきをあぢはひて、それに時刻をうつせば、大なる道なりがたし。大功は細きんを
かへりみずといふことわざをわするべからず。此文の中のそこ{{く}}には{{r|解|げ}}しがたき所あり、かの詩文
のいづれのことばはおぼつかなしとて、日をくらすべからず。文をおほくみれば、おのづからひとり
しらるべき事也。始めより一枚二枚のふみにても、のこらず{{r|見解|けんげ}}せんとする事なりがたかるべし。功
をつもればおのづからことわり分明なりと申されけるとなり。ひろく名をあらはす人は、各別の意味
ある事にぞ。{{nop}}
{{仮題|頁=203}}
{{仮題|投錨=昔武士文言美敷事|見出=小|節=c-5-6|副題=|錨}}
むかしの武士のかける文は、いさゝかの事にもやさしく、文言がちにて義理をこめてかきたりとみゆ。
今の世の文はしからず、多くはわらはべのふるまひのやうに覺え侍る。一とせみづからひそかに東國
へおもむき侍り、{{r|筥根權現|はこねごんげん}}にまうでて來由をたづね侍ると、弘法大師四體の經文、たかむらが書など
侍り。其の中に曾我の五郞時むねが在世に、當社︀の近邊失火におよびける折から、とぶらひ越たる文
とて侍る。
その文にいはく、
夜前之隣火忽消訖、貴寺安全之悅、千萬々々、委曲期{{二}}面謁︀{{一}}而已。
此事ばかり一紙に書て{{r|名乘|なのり}}をかけり。外の{{r|言葉|ことば}}をまじへざるは、尤しかるべきふるまひなりと覺え侍
る。扨彼山はいと長々しき坂のみありて、かちより行くにかなひがたし。おほく人夫をやとひて往還
の人路をしのぐ。予微僕して此小路に{{r|草臥|くたびれ}}侍るまゝ、此わたりの人三四人やとひ出して、これらを
ちからとして坂道をよぎれり。道すがら夫は何ものぞ、此近所の農人かと思ひ侍れば、さにあらず、御
はづかしながら、皆當社︀職のものにて侍れど、{{r|社︀|やしろ}}はむかしより{{r|衰微|すゐび}}して、神︀職のものは子孫はびこり
申間、田畠の所務ばかりにてはくらしがたく侍るにより、往來の{{r|夫力|ぶりき}}になりて{{r|渡世|とせい}}つかまつり侍ると
申ける間、いとかなしかりき。それよりかちより行て、かの夫をなだめ侍る。亂世つゞきたれば、當社︀
にかぎらず世皆かくのごとし。我國にむまるゝもの第一神︀社︀を崇敬する事をわするべからず。又先年
田舍にて楠が文なりといひて、書とめたるを見侍り。
{{left/s|1em}}
急投{{二}}飛戟{{一}}述{{二}}思懷{{一}}候訖。然者︀頃尊氏直義起{{二}}鎭西{{一}}發{{二}}蘇軍卒{{一}}、羣勇三十萬騎而、分{{二}}列於海︀陸二
道{{一}}、近日責上之風聲流聞矣。於{{二}}事實{{一}}者︀天下之大變不{{レ}}可{{レ}}延{{レ}}時、因{{レ}}之馳{{二}}向于兵庫{{一}}、可{{二}}防戰{{一}}之
旨、勅宣太以急也。正成情傾{{二}}軍慮{{一}}計{{レ}}之、官軍微卒而何豈當{{二}}大敵{{一}}哉。依{{下}}屢雖{{二}}諫奏{{一}}、君曾而
無{{中}}御許容{{上}}、空垂{{二}}涙痕{{一}}、今日發{{二}}京師{{一}}、赴{{二}}戰場{{一}}畢。嗚呼懸{{二}}命養由之矢前{{一}}、比{{二}}義紀信之忠{{一}}、欲
{{レ}}致{{二}}戰死{{一}}之條無{{二}}他事{{一}}、亦又元弘中自{{二}}
天子{{一}}
御勅與{{レ}}之、愛染明王爲{{二}}子孫武運{{一}}、宜{{レ}}安{{二}}置貴院{{一}}、路次迎佛之僧︀一人、到{{二}}于兵庫{{一}}、而可{{レ}}被{{二}}差
越{{一}}候。委曲期{{二}}其節︀{{一}}、可{{二}}濱說{{一}}者︀、謹︀言。
{{left/e}}
是は正成京より兵庫へ下りし比、{{r|菩提所|ぼだいしよ}}の{{r|坊主|ぼうず}}のもとへ送りたる文とみえたり。此外の物どもしるす
にいとまあらず。いとやさしきこと葉なるべし。
{{仮題|投錨=左大臣實宣公利口之事|見出=小|節=c-5-7|副題=|錨}}
後觀音院左大臣實宣公は、{{r|利口無雙|りこうぶさう}}の人にておはしけり。每度をかしき雜談のみ申さるゝによりて、
會合の人々も興を增して、いさゝかの事にも請待して侍る。去る比、ある亭へまかられ侍るに、其座
{{仮題|頁=204}}
に一{{r|向嫡流|かうちやくりう}}之僧︀堂々と座せり。左府の入來をみてしばらく座をくだりて、{{r|慇懃|いんぎん}}の法を謝して侍りける
に、左府今日の參會たま{{く}}也。折から亂世うちつゞきて、我輩つねにせぐくまり侍れば、退屈申計な
し。唯今は無禮講のむかしをうつして、やすく對談申べしとて、{{r|平臥|へいぐわ}}のさまにておはしければ、彼僧︀
もくつろいで侍る。左府のいはく、昔より今にいたるまで、おほくの{{r|止事|やんごと}}なき品々もほろびうせて、
跡かたなきもまた侍れど、佛法のみさかんして、いかなる{{r|横逆|わうぎやく}}のものも、おそろしくいさめる心をし
づむるには、佛道なり。まことに此國にかなひたる道にや、末ほど繁︀昌せり。たとへ一宿の旅人にも
先{{r|宗門|しうもん}}はいかやうの法をねがふなどといひてとがむ。いはんや外國のもの他しよにすみ侍るには、い
よいよ吟味せるとみえたり。扨々やんごとなき事に侍る。ことに御僧︀の{{r|法流|ほふりう}}は事すくなくして、卑賤
を度するに道ちかく覺え侍るなど{{r|挨拶|あいさつ}}ありければ、彼の僧︀まことにおろかなる宗門にて侍れど、末世
の人の{{r|無機根|むきこん}}なるには{{r|相應|さうおう}}して侍ると覺え候。すべて佛家には道ひろく事おほくすゝめたるは、{{r|濁世|じよくせ}}
にはかなひがたく、名のみこと{{ぐ}}しくて{{r|悟道|ごだう}}の人すくなし。我{{r|宗|しう}}は{{r|法然|ほふねん}}の支派にてよろづ愚にかへ
りてまことをすゝめしむ。{{r|彌陀|みだ}}一佛の外神︀といふも佛と申も、しんらまんざうおしなべて雜行と觀じ、
{{r|雜修|ざつしゆ}}と號して餘行をきらふ。今{{r|人界|にんかい}}へ生をうけ侍るは、{{r|如來恩德|によらいおんとく}}なり。此故に人生をうくれば
{{r|後世成佛|ごしやうじやうぶつ}}{{r|勿論|もちろん}}なり。されば在世に申念佛、おほくは{{r|報恩謝德|ほうおんしやとく}}にして、あながち未來のためにもあらず。今如來
の恩救報じがたきのみをなげく、なんぞ其あまりの品をもちゐん。念佛に{{r|萬象|まんざう}}をこめたまへば、雨ふ
らばふれ風ふかばふけ。此念佛をさへ申せば、外に味なし、おそるゝ所もなし、あやしむ事もなしと
すゝめ侍ると、一流のしなをつまびらかにして義をつくされけり。{{r|左府微笑|さふびせう}}して、まことに{{r|辨語分明|べんごぶんみやう}}
にして、{{r|勸化殊勝|くわんけしゆしよう}}の事に覺え侍る。みづからも此一宗に心をよせ侍れど、世々{{r|相續|さうぞく}}の{{r|宗門|しうもん}}なれば、今
さら受法せんも事あたらしく、且は親族の所存もはかりがたし。しばらくやみ侍る。扨萬法を念佛に
こめ、{{r|餘行|よぎやう}}をきらひておそるゝ事なしと承るに、いさゝか不審あり。品によりていかにもおそるゝ事
も侍るべしやとのたまへば、彼僧︀何をかおそれ何をかおぢ侍らん。念佛にこめ候物をと申されければ、
又左府の申されけるは、いや{{く}}しからず、いつぞや門前を通り侍りてみれば、寺のうしとらを恐れ
て{{r|在家|ざいけ}}のごとくにかきて侍る。是則{{r|鬼神︀明靈|きじんみやうれい}}のたゝりをおそれてしかある事也。すでに世間にひとし
くかき用ふる{{r|鬼門|きもん}}は{{r|雜行|ざふぎやう}}なるを、是計をもちゐらるゝは私なり。雜行雜修のことわり立がたしと申さ
れければ、かの僧︀もことばなくして、外をかへりみて他のうはさを申されける。座中の體をかしく侍
りし。
{{仮題|投錨=同公妙法院へ御招請事|見出=小|節=c-5-8|副題=|錨}}
此左府一とせの夏、妙法院の{{r|招請|せうじやう}}によりてまゐり侍られけるに、其座にやん事なき人四五人もおはし
て、{{r|連歌圍碁|れんがゐご}}などなぐさみ給ひける。その日あしたよりいとあつくしてたへがたければ、人々なぐさ
みのしなもとりおきて、後には只物語のみになりけり。日中に少しかたぶきて、{{r|乾|いぬゐ}}の山頂より雲おこ
{{仮題|頁=205}}
り出て、すでに四方の空くらくなり、いなびかりしきりにして、いかづちのこゑおびたゞし。後には
{{r|闇夜|あんや}}のごとくに成りていぶせくおそろしかりければ、人々興さめて、四方をながめたるよりほかはな
し。{{r|他所|たしよ}}より御見まひなど人はしかゝるほどにて、そこ{{く}}へおちたり、こなたへもおちたるなり、
此御所にはかはる御事もなきかといひて、下部やうの者︀もしばらくさわぎもしづまらず。天やうやく
はれたるまゝに、{{r|御門主|ごもんしゆ}}{{r|庄客|しやうきやく}}おしなべて、さて{{く}}今日の夕雨いかづちのおそろしさは、近年ためし
なき御事にて侍ると雜談ありしに、ある人末席より出て申されけるは、そも{{く}}いかづちと云事、さ
まざまの說おほく一決いたしがたきよしに侍る。あるひは天地の{{r|陽火|やうくわ}}はなはだしきがゆるに、自然と
雲氣{{r|湧出|ゆしゆつ}}してとゞろき、あるひは金を燒て水中に入れ侍るごとくといひ、雷神︀はいづれの世にはじま
り、{{r|稻光|いなびかり}}は東王公が{{r|所爲|しよゐ}}なり。あるひは佛家にさま{{ぐ}}の說を立て、又あるひは中天にけだ物ありて、
{{r|陽火|やうくわ}}におどろきおつると云々。かくのごとくさま{{ぐ}}の說あり。{{r|畢竟|ひつきやう}}いづれにてもあれ實は火なり。
おちたる所をみれど、ちやうちん鞠の勢なる火の{{r|轉|ころ}}びはしるのみにて、外はみえず唯くらき計也。そ
のうへ天地自然の{{r|猛火|みやうくわ}}なれば、えんせうの薰りのごとくして、こげたる物のにほひなり。{{r|陽火|やうくわ}}たかぶ
りて水すくなきゆゑに、其平を得ずして鳴る。鳴る時に中天のけだものおどろきて雲間よりふみはづ
しおちたるとみえたり。此說さもあるべきと申ける人ありしに、かたはらより又人出で、{{r|天地極火|てんちごくくわ}}の
說聞えたれども、けだものなりといふ事{{r|得心|とくしん}}なりがたし。いかにたけき獸なりとて、火の中に住むべ
きやうやある。そのうへ{{r|屋舎|をくしや}}樹木へおちてなに{{く}}の物をつかみたるといふは非なるべし。極火盛な
るがゆゑに、此火にふれたるものつかみさがしたるやうに、恐ろしくみゆるなるべしと申されけれ
ば、此義げにもなるべしやなど、さだめありけるに、左府申させ給ふは、いかづちの事にかぎらず、
かやうの類︀の目に見えぬものは、{{r|先|まづ}}むかしよりあるものなりと計こゝろえ侍るべし。さま{{ぐ}}のこと
わりをそへたらんに、たれか此批判をわくべき。これも一說也、かれも一說也と見て、實はきはまら
ざる物也。すべて何によらず、說々多き事は其實體しれがたきが故に、さある事なり。{{r|猛火|みやうくわ}}の中にけ
だものあるまじとも申がたかるべし。つたへきく肥前の國いづれの山とやらんに{{r|熱泉|ねつせん}}ありといへり。
此湯のあつき事たとふべき物なし。大魚をくさりにてつなぎ、彼湯に入て引上るに、その魚骨肉のわ
かちもなく{{r|飴|あめ}}の如くに解くるといふ。あつき程は是にて了簡すべし。彼{{r|無間|むげん}}の釜の湯も人を解き侍る
とはうけたまはらず。しかるを此熱湯の上に、ほたるのごとくなる虫ありてうかびありくと云。是外
の虫いかでか彼熱泉にすむべきなれど、又其熱泉より湧出る無分別の虫もあればぜひなし。いかづち
をけだものなりといふも、一槪にいなとも申されまじ。天地{{r|極火|ごくくわ}}のあつき中にも、{{r|嗚呼|をこ}}のけだものあ
りて住まばせんかたなし。かやうのみえぬ所のあらそひは、おほかた辯口のたくみなる人の方へ、理
も付もの也と申されければ、をかしき事をものたふなど、人々{{r|興|きよう}}じたまふとなり。
{{仮題|投錨=高師直不義事|見出=小|節=c-5-9|副題=|錨}}
{{仮題|頁=206}}
{{r|高武藏守師直|かうむさしのかみもろなほ}}が{{r|婬欲爲盤|いんよくしせい}}なる事をと{{く}}書きしろして世に{{r|傳|つた}}へたれ此外の不義はかりがたしとみ
えたり。ちか比ある武士、年久しく所持して侍るをかしき草子なりとて見せ侍り。その中には、師直
が一生の{{r|婬|いん}}事のしなを擧げて、同じく其女を記しとゞめたる物なり。始終見侍るに、世にいへる事は
十の物二三ばかりなるべし。中々かたはらいたくにくきふるまひ言葉にいひつくしがたし。當代いさ
さか遠慮の人々もあれば、其{{r|姓名|しやうみやう}}をしるし其しなをあらはしがたき事も侍る。就中にくきふるまひな
りと覺えしは、彼もろなほが家僕おほき中に、うつくし女房とつれたりしさぶらひをえり出し、その
女房共のかたちをみんために、年五十ばかりなる女房したゝめ、もろなほ室家のきげんよろしき女
房也と號して、かれらが方へ、何となくわたくしのとぶらひのやうにして、折々つかはしければ、
なじかはほんそうせざるべき。主君御出頭の上らふの御とぶらひなりとて、やがておくの間へ請じ入
れ、あるじの女房よそほひをかざりつゝ出てもてなし侍る。かくのごとくして彼よき女房の數を見つ
くし、もろなほに申ける間、師直よろこび、その後一兩月をすぎてかれらが許へいひつかはしけるは、
{{r|執事|しつじ}}さまの御奧よりたれがし{{く}}の內室に御用の事有り、はや{{く}}まゐられて御目見えいたされよと、
右の老女をつかはしける間、何の御用にて侍るやらん、かしこまり候と、いづれも御請を申て、皆師直
が方へ{{r|祗候|しこう}}したり。けふはれがましき御目みえなりとて、われおとらじとかざり出たれば、彼{{r|周|しう}}の
{{r|褒姒|はうじ}}、秦の{{r|花陽|くわやう}}、{{r|漢︀|かん}}の{{r|李夫人|りふじん}}、{{r|昭君|せうくん}}、{{r|貴妃|きひ}}がごときの美女、今爰に再現せるとあやしまれける。人々まばゆ
くして、彼女房どもの{{r|容貌|ようばう}}を二目と見るともがらもなし。やゝありて、奧より申出侍るは、唯今大
勢にて奧へ御目見えあるべき事しかるべからず。うへにも一人づつめしいだせと、{{r|御諚意|ごぢやうい}}ある間、い
づれの御かたにても、まづ一人まゐらせたまへとて、かの女房の中ひとりをともなひ、奧の座敷へと
ほりける時に、師直奧と口との間に一間をかこひかくれ居て、彼女房の足おと聞とひとしくたちいで
とらへて返し、あるひはけさうじなど{{r|尾籠|びろう}}をつくして、{{r|理不盡|りふじん}}のふるまひなれば、女房どもゝ是非な
く心ならずして、師直が所存にしたがひけり。かくのごとくして、おほくの女房とたはぶれつゝ、か
へしけるとぞ。その時のさまさこそは物ぐるはしくことやうにも侍るべしと、かたはらいたく覺え侍
る。女房どもかへり侍れど、かゝる事いひあかすべきにもあらねば、けふは御機嫌よろしといひつる
までにてやみにけり。その後は切々御めしあるといひてよびよせけるとぞ。唯此事をもらすべきにも
あらねど、天しり地知り汝知り我しれりといふ本文あれば、なじかは四知をはづるべき。自然として
かの女房の夫ども聞つけ、何となくよりあつまりて{{r|議定|ぎぢやう}}しけるは、そも{{く}}主君として臣を撫で、下
として上に忠節︀を盡す事、古來人生の大倫なり。その間にしなありて、あるひはすこしきの{{r|扶助|ふじよ}}に身を
かへ、あるひは大なる祿に命をうり、繁︀々のしなありといへども、その一命をたてまつる所の義は一な
り。是によりて、いさゝかの{{r|騷亂|さうらん}}にもいちはやく命を主君の前程にうしなひ、名を{{r|武口|ぶこう}}にとゞめん事
を思へり。うちつゞき軍戰かまびそしく、人々胸をひやし侍る折からなるに、主從のへだてありと
{{仮題|頁=207}}
て、かゝるふるまひ狂人にもおとれり。そのうへ現當二世かけてちぎれる女房を、やみ{{く}}ととられ
侍りては{{r|武名乞食|ぶめいこつじき}}にもおとりて覺え侍る。人々はいかにはからひ給ふ。われ{{く}}においては不日にお
しよせ腹きらせんと存ずる。すみやかに{{r|群議|ぐんぎ}}決し給ふべしとて、かたはらよりいきまきてのゝしるま
ま、一座のともがら尤と同じて、すでにおしよせんとざゝめきけるその中より、ある武勇者︀すゝみ出
て申けるは、人々の{{r|奮激|ふんげき}}ことわり至極たり。されどいましばらく{{r|慮|おもんばか}}りみじかし。そのゆゑは此座中の
人々の{{r|俸祿|ほうろく}}の甲乙ありといへども、皆主君奉公のともがら也。{{r|家人|けにん}}の妻子をやしなひ家僕をめしつかひ
て、主人に{{r|託|たく}}して威を世上にふるふ事、しかしながら主君の恩澤にして祿のいたす所なり。妻子家僕は
我が物なりといへど、其實は主人の扶助なり。しからば我らが女房は本主人のやつこにして、當時あ
づかりたりと了簡し、御用の折々は{{r|貢役勤仕|こうやくきんじ}}と心得て侍れば、いさゝかうらみなし。かならずわが者︀
と思ひとりたる心より、さま{{ぐ}}のわざはひいきどほりもおこる物なり。予がみにくき女房は、おの
おのの內室以前よりめさるゝ事たび{{く}}なれど、この{{r|料簡|れうけん}}をくはへ侍れば、うらみさらになしとまう
しければ、座中の奮激いたづらになりて、さて{{く}}かはりたる思慮かな。かやうのはからひは今日決
しがたし。しばらく後日を侍つべしといひて、果ては大きなるわらひになりて、人々立ちわかれけれ
ば、あへて一{{r|揆|き}}がましき沙汰もなかりけるとなり。まことに{{r|悟道|ごだう}}のあきらめなるべしと、同朋わらひ
しとなり。
{{仮題|投錨=赤松律師兵書之事|見出=小|節=c-5-10|副題=|錨}}
江州高島郡二尊寺といふ寺に、{{r|赤松律師|あかまつりつし}}が兵書のうつしなりとて、卷物侍り。その中にむかし九郞判
官義經、くらま山にて天狗より{{r|相傳|さうでん}}せられ侍るといひて、{{r|兵法口舌|ひやうはふくぜつ}}氣といふ事しるし侍り。則一つ書
にして、
{{left/s|1em}}
{{仮題|箇条=一}}早朝に小便をするに心を付侍るべし。沫のたつは吉事なるべし。沫不{{レ}}立日は深く用心すべし。
{{仮題|箇条=一}}他方へゆくに、湯、茶、酒をのみて出づべし。其時何にてものみたる物順にめぐるは吉事にたちて
よろし。逆にめぐらば出づべからずと云々。
{{仮題|箇条=一}}{{r|食|めし}}の湯に我影のうつらざる時は可{{レ}}忌。
{{仮題|箇条=一}}鼻のさきに、{{r|羽︀|は}}たてに筋あるはいむ事也。靑色なるは我を害せんとする人ありとしるべし。むらさ
き色は毒をかはんとするとしるべし。
{{仮題|箇条=一}}手のうちにつばきを吐て見るに、沫たゝばよし、不{{レ}}立はあしきと知るべし。
{{仮題|箇条=一}}目のうちに竪さまに筋あるに吉凶あり。目かしらにあるはよろこびなり。目尻にある時は三日の中
に大事にあふべきと知るべし。
{{仮題|箇条=一}}手のうちむら{{く}}とあかくなる事あり。是はけがれたるとおもひて身をあらためて、まりし{{r|尊天|そんてん}}を
念ずべしと云々。{{nop}}
{{仮題|頁=208}}
{{仮題|箇条=一}}手の中とありのとわたりとかゆくなりたらば、大事ありと知べし。但し右の手の中かゆくば吉也。
{{仮題|箇条=一}}耳俄に鳴る事あり。子寅辰巳午申の時ならば吉事なり。丑卯未酉戌亥の時はあしゝ。
{{仮題|箇条=一}}おとがひと手の脈を一度にうかゞふに、和合して同じやうにうつは吉、ちがひたるはいむべし。是
を{{r|生死兩舌|しやうしりやうぜつ}}の氣といへり。
{{仮題|箇条=一}}{{r|行道|ぎやうだう}}の先を、いたちの橫へとほる事あり。ひだりへとほらばくるしからず。右へ通らば其道ゆくべ
からず。
右の分ひらがなにてしるし置けり。是は武家によらず、すべて{{r|重寶|ちやうはう}}とみゆればしるし侍るもの也
{{left/e}}
{{仮題|投錨=軍中博奕之事|見出=小|節=c-5-11|副題=|錨}}
建武以後軍戰うちつゞき、武士立身の最中なれど、此{{r|砌|みぎり}}武藝の達人天下にとぼしきいはれはいかにと
了簡するに、{{r|博奕|ばくえき}}ゆゑとぞきこえ侍る。群卒{{r|帷幕|ゐばく}}の中のなぐさみは、大將より下つかた、{{r|與力足輕|よりきあしあがる}}{{仮題|入力者注=[#ルビ「よりき」は底本では「よきり」]}}の
者︀どもにいたるまで彼博奕をこのみて、あるひは一たてに五貫十貫{{r|沙金|しやきん}}五兩十兩をたてつゞけ侍る間、
山をあざむくほどの金銀も、暫時のほどに{{r|負|まけ}}侍る者︀、後は博用のたからも懸けて、あるひは{{r|武具馬具|ぶぐばぐ}}の
品こと{{ぐ}}くとられておもはぬ辛勞しけるもありといひつたふ。畠山某が手のもの、ある戰場へむか
ひけるに、甲ばかり著︀て{{r|直肌|すはだ}}の武者︀もあり、よろひ著︀ながら、{{r|太刀甲|たちかぶと}}に{{r|拂底|ふつてい}}したるものもあり。中下
の士卒の出立は、大かた不具にことやうなり。されどその時の高名おほくは彼不具の者︀にありとい
へり。是博奕にうち入て{{r|困窮至極|こんきうしごく}}の仕合なれば、此度一定必死とこゝろえ、此所をすゝがんとの一心
によりてなるべし。中昔德政といふその起り、おほくは彼たはふれが本元なりといひ侍る。應仁文明
の比の博奕には、人もさかしくなりけるにや、武具馬具に不具はなし。はじめのほどは金銀もたてつ
れど、次第に一錢の所持もなくなり侍れば、京の町人のたれがしが土藏をいま博奕のたて物にする人
も有り、寺僧︀{{r|神︀主|かんぬし}}の藏などを立てたる者︀もありけると也。勝たる時は{{r|藏代|くらしろ}}いか程とつもりて金銀をう
けとり、又負たる時はいつ{{く}}の夜、彼藏々のたからをうばひて遣すべしとさだめあひたるほどに、後
は其座に錢といふものは一錢もなくて、唯言葉のみにて勝負をしけるといひつたへたり。是則二六時
中の慰みなり。末代といひながらかゝるふるまひも有る事にや、をかしといふも餘りあり。かやうの
たはぶれに心おくれて、第一の家業をわすれ、ほれ{{ぐ}}として人にあざむかれ、疲のうへのつかれと
なりて、前後忘却の{{r|爲體|ていたらく}}あさましかりしふるまひなり。{{nop}}
{{仮題|ここまで=塵塚物語/巻第五}}
{{仮題|ここから=塵塚物語/巻第六}}
{{仮題|頁=209}}
{{仮題|投錨=卷第六|見出=中|節=c-6|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=或人行{{二}}不思議孝養{{一}}事|見出=小|節=c-6-1|副題=|錨}}
去延德初元の比ほひ、或{{r|武邊|ぶへん}}のさぶらひ匹夫よりはたらきいでて、十餘年が程に半國の領する身とな
りければ、家門さかえ{{r|所從|しよじう}}馬牛にとぼしからず。彼のもろこしの{{r|陳渉|ちんせふ}}がふるまひも及ばずながら{{r|彷彿|はうほつ}}
せり。此もの昔より、父母{{r|孝養|かうやう}}の志ふかく侍りしが、不幸にして子の富貴をまたで二親ともに果てた
りけり。當時は唯姉一人のみ存生せり{{r|者︀|ていれ}}ば、此姉を兩親とあがめて朝夕の心づかひおこたらず、{{r|增々|ます{{く}}}}
奔走をつくしけり。衣食居所のいみじさは、公方大人にひとしくもてなして、猶々これにも不足なり
とおもひとりて、いよ{{く}}{{r|崇孝深切|そうけうしんせつ}}の思慮をめぐらしけり。一日獨言で申侍るは、我親に孝の思慮ふ
かく侍れど、不運にして困窮のいにしへ二親死去せり。今姉ならでは兄弟もなし。衣服、食物、居所
のいみじきも身に應じてめづらしからず。つら{{く}}はかるに、{{r|人性|にんしやう}}のたのしび{{r|戀慕|れんぼ}}にしかず。我むか
しよりの苦樂のなかに、此一道ほどあかざる物はなし。我身は男なれば、此一事おもふまゝなり。姉
は女性なれば心のまゝならず、明暮さぞや心にかけらるべし。このたのしびを何とぞあたへたき事な
りと一義を決し、{{r|家來|けらい}}の內年若く無病にして、{{r|氣根無雙|きこんぶさう}}の{{r|强士|がうし}}を一人えらび出して、しばらく按摩と
いふ事をならはせけり。ある時此ものをよびて申侍るは、汝あながち按摩を{{r|琢︀磨|たくま}}せずともくるしから
ず、唯大やうをこゝろえてあねがもとに朝夕仕へて、いひしまゝをそむくべからず。常に持病と稱す
る間{{r|看護|かんご}}のために付置もの也。相かまへてはだへ{{r|肥瘦|ひさう}}をうかゞひて、若、{{r|病|やまひ}}疲きざすべきしなあらば、
その時は此方へ申べし。{{r|向來|かうらい}}予が{{r|扶助|ふじよ}}にてつかふる主人はあねなりと思ふべしと、{{r|庭訓|ていきん}}をふくめけれ
ば、委細畏り奉る。忠勤の守るうへは、いかやうにも{{r|御掟|ごぢやう}}にしたがひたてまつると申間、扨はうれし
き事也、あなかしこ、此事人にもらすなといひふくめて、あねがもとへつかはしけり。扨ちかくよりて
かやう{{く}}の仰にてまゐり侍る間、いかやうの御事なりとも仰下さるべしと、つゝしんで口上しけれ
ば、あね立いでて、扨々心を付られたまはる事古今ためしすくなし。折から此程{{r|持病|ぢびやう}}きざしてなやめ
り。ちかくまゐりてさすりてたべと申ける間、いひしまゝに立ちよりて、{{r|經絡|けいらく}}を按摩し侍れば、病す
みやかにいえたりとよろこびたり。あしたより夕べにいたるまでつかへける。はじめの程はかの姉も
{{r|慇懃|いんぎん}}がましくふるまひしが、後は不禮の{{r|爲體|ていたらく}}にて、こゝをもさすれとかしこをもなでよといひて、終
に彼男をはだかになして、我ふところの中へ入れけり。{{r|按摩師|あんまし}}もいぶせくめいわくながら、ぜひもな
くふところの內へ入りたれど、とし五十有餘の痩女なれば、いづくも{{r|皺|しわ}}たゝみ骨たかくしていとこの
ましからず。漸く有て休息仕度よしにて罷出、閑所へかへりて大息ついで難︀儀の{{r|爲體|ていたらく}}なりしに、又め
しよせらるゝといひて使來りければ、しぶ{{く}}ながらまゐりて、その役をつとめけるが、年月かさな
りければ、さしも無病の{{r|强力者︀|がうりきもの}}もよろ{{く}}とかじけて、楚人のむかしも思ひ出でられ侍る程なり。今
{{仮題|頁=210}}
はもはや御奉公{{r|御赦免︀|ごしやめん}}下され候へと、{{r|强而|しいて}}{{r|愁訴|しうそ}}におよびければ、さほど用事に立がたきほどならば、
向來よく{{r|衞生|ゑいせい}}の工夫をしてすこやかにならん時、又つかへ侍るべしといひて、いとまをつかひけると
ぞ。ふしぎなりし孝行也。按摩師も後は朋友にあかして申けるは、さて{{く}}此月ごろの難︀義いふべか
らず。合戰のはたらきに心をつくさば、子孫のためとも申すべし。あいなきもてなしにあひて、ため
しなき奉公もしつる物かなと、{{r|懺悔︀|さんげ}}しけるとぞ。
{{仮題|投錨=宗祇法師事|見出=小|節=c-6-2|副題=|錨}}
むかし{{r|宗祇法師|そうぎほうし}}{{r|廻國|くわいこく}}して、和朝こと{{ぐ}}く歷覽し、名所{{r|舊蹟|きうせき}}にいたりては、{{r|腰折歌|こしをれうた}}、{{r|連歌|れんが}}の{{r|發句|ほつく}}など
あぢはひけるときこえ侍る。此法師すべて風流のざれ物にて、發句などに文字おほく書きて、人に心
えず思はする{{r|短尺|たんじやく}}世におほく侍る。此ほどある人の見せ侍る短尺の句に、
日光山をてらするさくらかな
又
二十五日は天神︀のまつりかな
これらの句よくきこえて侍れど、{{r|不堪|ふかん}}の人さしあたりて、いとわきまへがたく思ひ侍ることありとい
へるはことわりなり。
又彼法師が書ける反故の中に、するがの國{{r|三穗|みほ}}の松原にいたりて、そのわたりの人にたづね侍るに、
此所の松は生ひいで侍るより、大木の後までいさゝかゆがみたる木はなし。皆すぐにたてり。是則名
物なりといひしが、まことの林の松どもおほくすなほなり。又伊勢の國に、いそ山といへるむらあり。
そのわたりに松のはやしあり。此所の木は生ひ立よりすぐなるはなし。土の上一寸ばかりの比より、
大小にいたりて皆風流に曲折ありていと興ありといへり。是則當所の名物なりとかや。いづれも曲直
ともわざとならずして、いとえならぬ松にて侍る。すべてむかしより、名物は草木にかきらず、皆や
んごとなく覺え侍るとしるしけり。
{{仮題|投錨=或人望{{二}}伊勢物語講釋{{一}}事|見出=小|節=c-6-3|副題=|錨}}
ちかき比東國の武士、あるやんごとなき歌人のもとへまゐりて、ゐなかめきたる物語などいひ出侍る
に、あるじもあづまの名所はいにしへより歌にもおほくよみ侍れば、いとなつかしといひて、たがひ
にかたりあひて興じられけり。その折ふし、彼ものゝふはゞかりおほき所望にも思ひ奉れど、伊勢物
語と申は、我國の草子にてやんごとなきしなおほくしるして侍り。唯よみたるばかりにてはこゝろえ
がたく侍り。東國にてはかやうのことわり{{r|釋|しやく}}してきかすべき人も侍らず。あはれ御いとまの折々御釋
ありてきかさせたまはゞ、いとありがたくも思ひたてまつるべしなど、かきくどきて申侍るに、あるじ
の歌人もいなびがたくて、やすきほどの事なり、いつ{{く}}の日とぶらひたまへと約せられければ、いと
かたじけなくも思ひたてまつるとて、かへり侍りしが、約束したる日になりて、あしたよりきたりて
{{仮題|頁=211}}
侍るに、あるじいでてかたのごとくもてなしなどせられて、ときうつりければ、やうやくひるのまへ
よりよみはじめて、ことわり分明に釋せられければ、ゐなか人もかうべをかたむけて、よねんなく見
え侍る、とてもの御事に、終日きかさせたまへ、ものゝふはかさねての約かねてさだめがたく侍ると
のぞみけるまゝ、あるじもぜひなくいひしにしたがひて、{{r|申|さる}}の{{r|刻|こく}}ばかりにいたるまで、座もたゝずし
てよみつゞけられければ、口もかわきいきもつきぐるしかりけるによりて、けふはこれまでなり、大
やういひほどき侍るといひてやみたまふに、彼ぶしまことに御窮屈のほど察し奉る。今日はわりなき
望みをも仕るものかな。さても業平と申人は、きゝしにまさりておとなしからぬふるまひにも侍る。
かやうの{{r|尾籠|びろう}}をつくされけるに、その世の人々は、何として此人をいましめたまはずや。但しいづれ
もおなじ{{r|尾籠|びろう}}の世なるにや、いと心えがたき事に思ひ奉る。しかれどもさいはひの人なるにや、天下
の人々にもゆるされ、後々まで其{{r|惡性|あくしやう}}をいみじく記せり。是唯人にはあらざるべし。若今の世に生れ
出侍らば、よも{{r|安穩|あんをん}}にては置侍らじ。向來女子などにみせまじき物は此草子なり。人々さまにもかゝ
るあしきふるまひをば、よきほどに好ませたまへ、今はゆるしげなし、かさねては聞侍るによしなし
といひて立出侍りしが、つひにまうでこざりけるとぞ、まことにをかしき事に侍る。
{{仮題|投錨=藤黃門雜談事|見出=小|節=c-6-4|副題=|錨}}
ちかき比、{{r|藤黃門|ふぢくわうもん}}なにがしの申され侍るは、近代畿內隣國の大亂つゞきて世の中おだやかならず。さ
れど{{r|佛說|ぶつせつ}}といふはたふときものとみえたり。おとゝしの{{r|夏中|げちう}}より、城北なにがしの寺に、住僧︀說法を
はじめて、諸︀人にすゝめ侍るに、此僧︀{{r|辯舌|べんぜつ}}人にすぐれ博學大智にして、火をも水にいおほするほどの
說僧︀なれば、{{r|都︀下|とげ}}こぞりあつまり、ゆう{{く}}として{{r|聽聞|ちやうもん}}しけり。{{r|法談|はふだん}}のさし口{{r|佛語|ぶつご}}を二十字ばかり擧
げて、それより{{r|他宗|たしう}}のいづれの語は我宗の何の所にあたれりと、{{r|自他配當|じたはいたう}}の理を{{r|攻|せ}}め、此間にさまざ
まの譬をまじへて、畢竟はまぼろしの世なれば、身をのどかにおもはずして金銀財寶をすて、佛事に
くやうし、他の世事をおもふ事なかれとて、いさめ侍るまゝ、にぎはしき町人職者︀{{r|止事|やんごと}}なき人の老母
まで、分限相應に每年あつめたるたからを寺へ送り、此錦は今の世にまれなる物に侍る、御寺へ寄附
したてまつる、{{r|幡天蓋|はたてんがい}}にせさせたまはれといふもあり、あるひは來る何月いづれの日は其父の年忌に
あたり侍る、二三夜の御佛事をいとなみたてまつらんとおもひ侍れど、又ゆくすゑに年忌もまれに侍れ
ば、七ヶ日御說法せさせ下さるべしといひて、おもひ{{く}}に財寶をなげうち侍れば、後は威勢くらべ
のやうになりて、佛法はよそになり行ける。まことに一家仁人ありて一國仁をおこし、一人{{r|貪戾|たんれい}}にし
て一國亂をおこすといへる聖言にもるゝ事なく、一人のわざ世の人におよぼす段至極たれば、此寺へ
はこびおくる物山の如くにして、むかしの貧僧︀いつしか{{r|珍膳妙衣|ちんぜんめうえ}}に飽きけり。いにしへ{{r|夢窓國師|むそうこくし}}を貴
族たちのたふとび給ひしも、かくやとあやしむばかりなり。然るに天性彼僧︀大欲のきこえありて、人
人にはいさぎよくすゝめ、涙をながさしめてもて運ぶ所のたからをひろひ集めて金銀にかへ、{{r|聚歛|しうれん}}の
{{仮題|頁=212}}
心{{r|汲々|きふ{{く}}}}として土藏につみかさねたれば、{{r|寺僧︀役者︀|じそうやくしや}}等にいたるまで、いさゝかほどこしもせず。このふ
るまひをつたへきく者︀は、あなたふとや、{{r|施物|せもつ}}をおろそかにせさせ給はぬ事、ふかきいはれもあるべ
し。さあるを上人の御袖の下にて、いのちをつなぐ寺僧︀小童が分として、口のさがなきふるまひ、ひ
とへに樹木の鳥のその枝をふみ枯するがごとしといひて、いよ{{く}}たふとみけるとぞ。ある夜{{r|法談|ほふだん}}の
まぎれに、いかなるもののしわざなるにや、柱に、
後のためたからをまけとすゝめつゝ跡よりひろふ僧︀のかしこさ
といふ歌をつけ侍るに、住僧︀もいさゝかこゝろにやかゝりけん、其後は法談もやめ隱居と號して、寺
を{{r|後住|ごぢう}}にわたし侍るとかたられき。
{{仮題|投錨=元興寺明詮事<sup>付</sup>楠推量之事|見出=小|節=c-6-5|副題=|錨}}
いにしへ{{r|元興寺|ぐわんごうじ}}の{{r|明詮|みやうせん}}といへる{{r|名知識|めいちしき}}は、三十有餘の{{r|晩年|ばんねん}}よりつとめて朝夕おこたりなかりければ、
後は比類︀もなき{{r|碩學|せきがく}}にいたりて、慈惠僧︀正とも法問せられ侍り。佛家の文こと{{ぐ}}くあきらめられけ
るとぞ。
そのむかしある{{r|殿閣|でんかく}}の軒の下にて、雨やどりせられける に、やのむねよりあつまり、軒よりおつ
る{{r|雫|しづく}}にて、下の石くぼみて侍るをみてさとられ侍るは、雨水といふ物よろづにあたりて碎くる、やは
らかなる物なり。されば功をつめば、此雫にてかたき石をもくぼめしむ。我おろかなりといふとも、
まめやかに勤めば、などかはいたらざるべきとおもひとり、此こころおこたらずして、終に其名を四
海︀にひろめたまへりとぞ。又むかしくすの木正成、春日の御やしろにまうでて、東大寺のうちのこら
ず見まはり侍るに、{{r|鐘樓|しゆろう}}のもとにかしこくみゆる人おほくあつまりゐて、此かねは、日本第一の大が
ねなり。三十人計りしておしたらんに、いさゝかうごく事もありなんやといへるに、又かたはらより
一人すゝみいでて、仰のごとく三十人ばかりのちからならでは中々うごくまじ。されどみづからは工
夫をもつて、一人して一日の中にはうごかし侍らんと申侍るを、そこになみゐたるもの大きにあざむ
きわらひて、いつもかやうのかしこがほなることをのたまへど、つひにその手もとをいまだ見申さずと
申侍れば、かの一人重ねて申けるは、仰尤の事なれど、遂に御所望もなき大事をかろ{{ぐ}}しく、こな
たよりいかでかあらはすべき。まことふしぎにおもひたまはゞ、明日にてもこれへつれだち侍りて、み
づからが申す{{r|如|ごと}}くにして、此かねうごきたらば、みづから所望のたからをこなたへたまはるべし。又
もしうごかしえずば、御のぞみにしたがひて、いかやうの物もたてまつらんものをといきまきて、後は
たがひにこと葉あらくなりて、{{r|僉議|せんぎ}}も決せざれば、正成もひさしく居るによしなし、一人工夫してう
ごかさんといふ所至極たり、おほかたさとり侍り、いみじき思慮かなとほめてかへりける。めしつか
ふものいとこゝろえずながら、宿所にかへりて、さて{{r|悟|さと}}らせ給ふ御ふるまひはいかやうの御事に侍る
や、うけたまはりたく思ひ奉ると申けるに、まさしげ申けるは、いとやすき事なり、かさねて參るべし、
{{仮題|頁=213}}
こゝろみて見せんといひて、四五日すぎてひそかに彼やつこどもをめしつれて、東大寺のしゆろうの
もとにいたりて、僕の中一人ちからつよきものをえりいだし、高さ二尺ばかりの箱をとりよせ、かね
の下におきて、彼うへにのぼりて、なんぢ此かねをおすべし、つよくおすべからず。いつもおなじこ
ろにおしては休み、おしてはやすみ侍るべし。その程をたがへず手のひらを鐘につけて、えいといひ
てはおし、えいといひてはおし侍るべし。かならずうごかずとてたいくつせず、いつも甲乙なく{{r|押|おす}}べ
しといひをしへて、巳の刻ばかりより押いだして、申の刻計までおこたる事なかりけり。されどかね
もうごくことなかりしに、正成今すこしの{{r|程|ほど}}おせよと下知しけるに、{{r|龍頭|りゆうづ}}のほどきり{{く}}となりけれ
ば、さればこそと思ひ侍るうちに、すこしづつ動きいでて、ゆら{{く}}とし侍れば、やつこどもきもを
けし、さて{{く}}おくふかき御はからひかなとて、かんるゐをながし侍るとぞ。是正成が例のふかき慮
り也。
さればすみやかにうごかさんとすれば、三十人ばかりのちからにもおよばざるかね、一人のちからを
もつて、功をつもればうごく事、三十人にもまされり。是{{r|懈怠|げたい}}なく篤實よりおこりてしるなり。か樣
の事つたへきゝ侍るに、其{{r|實否|じつぷ}}はしらねども、關東勢の大軍をわづかの手の者︀にてあひしらひ侍るは、
ふかき慮なるべし。
{{仮題|投錨=白河院依{{二}}逆鱗{{一}}令{{二}}雨獄{{一}}給事<sup>付</sup>承久一亂事|見出=小|節=c-6-6|副題=|錨}}
むかし古き文をよみ侍りけるに、その中にいはく、いにしへ白河院御在世のみぎり、法勝寺にて御願の
御經くやうあそばさるべしとて、吉日をえらばせたまひて、旣に來るいつの日は當日なり、御だうし
寺僧︀著︀座の公卿その外の役人等たれ{{く}}と、兼て御さだめまし{{く}}けり。さてその日になりてあかつ
きがたより雨そゝぎて、{{r|路次|ろじ}}の程難︀澁におよびければ、此日しかるべからずとて、御法事やみにけり。
さて又その日より、四五日もほどすぎて、いつの日よろしかるべしなどさだめさせたまひて、まへの
如くその御佛事の役々をきはめさせ給へば、人々も用意し給ひけるに、又其日も宵より雨天なりけり。
かくのごとくして、すでに兩日ともに御供養はやみにけり。又其後御日さだめありければ、又雨ふりけ
る事兩三度におよびけるとなり。院大きに{{r|逆鱗|げきりん}}いまして、憎︀き事なり如何せんとの{{r|勅諚|ちよくぢやう}}ありつれど、
誰人におほせて罪すべき事ならねば、{{r|公卿僉議|くぎやうせんぎ}}もいたづらになりて、事行ざりけり。いよ{{く}}はらだ
たせたまひて、つひに其の雨をうつはものに入れて禁獄せしめ給ひて、きびしく番をつけさせたまふ
となん。此事いとをかしく{{r|愚|おろ}}かにもきこえけれど、{{r|尤|もつとも}}御道理至極也と申す人もありとかや。そのいは
れは、大人小人によらず、一旦のいかりには、親子の差別もなく、朋友の信もなし。唯心氣のみさか
のぼりて、主君の命をもわすれ、人のいさめをもきゝいれざること、高貴卑賤をわかたず、世間みな一
同也。唯其人のたかきといやしきとによりて、あるひは身をかへりみて其怒りをおもてへうつさず、
胸のほどにこめてしばらく時をうつせば、すなはちいかりもやみて事なきものなり。されど是は大や
{{仮題|頁=214}}
うたかき人のふるまひなりとみえたり。又僕童下賤のともがらは、至ておろかなれば、その事にこら
へ難︀くして、いかりをそのおもてへうつして、はてはさまあしくなるをもかへりみず、仁義といふ事
もしらねば、まして法禮をもわきまへず、唯一遍の我意のみにて、心のまゝに口外へいだす。そのし
のぶとしのばざるとは、大方尊卑によるとみえたり。必ずつねに物さかしく、學窓にこもりて{{r|文義|ぶんぎ}}を
自負する人などに、身のわきまへをしらぬ事おほし。されどいたりて害ならぬ事には、あながちとが
めずもありなんや。皆人つねにやんごとなくみゆるも、時により折にふれては、いかりなくんばある
べからず。前にいへる院の御ふるまひの如きは、尤やさしくおほやけに思ひたてまつる。一天の御あ
るじとして、萬人のうへに仰がれさせたまふ御身の、たれをはぢてか御堪忍あり、たれに恐れてか御つ
つしみあるべきや。但しかくいへば、天子大人はあしき御ふるまひありても、くるしからぬにやと言
ふ人も有るべけれど、それは事により{{r|品|しな}}によるべし。雨ごときの物をおしこめさせ給ふ御こゝろは、
いとやさしくおぼしたてまつる。又ある人一日雨中のつれ{{ぐ}}物わびしとて、予がもとへまうできた
りてかたられしは、うへがたの御ふるまひ上らふめさせたまひて、よろづおろ{{く}}しくわたらせたま
ひつる世が、むかしわがてう王道の最中也。よりともきやうのはて給ひて後、承久にみかど御むほん
おこさせ給へども、事ゆかで終に遠つ島へうつさせ給へり。これ北條があくまで武權にほこり、朝憲
をさみしたてまつりしによりてなり。されどいますこしは、時節︀をはからはせ給はぬ御事口惜くも思
ひ奉る。天子の御身としていやしき武藝をもてあそび給ひ、おほやけならぬ御ふるまひ、人々もかた
ぶけたてまつりけるとぞ。此事世にふりて人ごとにしる所なれど、つれ{{ぐ}}なれば申侍る。むかし後
鳥羽︀院建久八年に、御くらゐを一のみや土御門院にゆづりたてまつり給ふ、是則後にあはの院と申せ
し御事也。そののちまた建曆元年に一院の御二のみや順德院に御讓國あり、これは一院の御愛子にて
わたらせ給ふ。そのゝち十一年をへて、承久三年に{{r|當今|たうぎん}}にはかに御くらゐをすべらせたまひて、御子
に讓りまゐらせ給ふ、よつて新院とぞ申ける。土御門の院をば中院と申奉る。一院と新院と御心をひ
とつにして思召けるは、賴とも兵權をとりて、天下をしづめしかば、法皇も御ちからおよばせたまは
でやみ給ひぬ。又其子ども皆ほろびぬ。今は左京大夫よしとき家人としておほせにもしたがはず、む
ねんのいたりこの事なり。すでに王法のつきぬるにこそと思召たちて、くわんとうをほろぼさるべき
になりぬ。其時中院のおほせに、是は時いたらぬ事なり、あしき御はからひかなと、ずゐぶんいさめ
申させたまひけれども、つひにかなはせたまはず。ひし{{く}}とおぼしめしたちて、諸︀こくのぐんぜい
をめされける。畿內きんごく皆{{r|馳參|はせまゐ}}る。近習の{{r|月卿雲客|げつけいうんかく}}も興あることにいさみあへり。すでに同五月
十五日、くわんとうの代官伊賀のはんぐわん藤原の光季{{仮題|分注=1|武藏守秀鄕後胤|伊賀守朝光子}}うたれけり。民部少輔大江親廣
法印{{仮題|分注=1|法名蓮頭大膳|大夫廣元子}}これも關東の代官として在京したりけるを、院へめされてまゐりける程に、くわんと
うへも、さりぬべきさぶらひどものかたへ、よし時うつべきよし院宣をなし下さる。かまくらにこの
{{仮題|頁=215}}
事きこえて、二位の尼よし時くわんとうへさるべきさぶらひをよびて、三代將軍の恩をわすれずば、
此たび忠をいたすべきむねを觸らる。侍ども一とうに、故殿のあとをむなしくなさん事いかでかなげ
かざるべき。今度においては身命をすて合戰をいたすべしと申す。さては時刻をのべて、あしかるべ
しとて、五月二日より{{r|當座|たうざ}}の勢をさしのぼせけり。東海︀道へは義時がちやくしむさしのかみ泰時、北
陸道は二男遠江守朝時、東山道は義時が舍弟相模守時ふさ、三手に二十萬八千餘騎にて攻のぼせ、近
江國にて一手になりて、六月十三日宇治瀨田より京へ入る。都︀には院の近習の人々、西國畿內の勢を
以て防がせらる。宇治へは甲斐宰相中將大將軍にて發向す。されども泰時大勢にて佐々木四郞左衞門
尉源信綱先陣として、河をわたりて合戰するほどに、同十四日に京方やぶれてちり{{ぐ}}に成り、{{r|敵對|てきたい}}
におよばず、あるひはうたれあるひはおちうせぬ。同十六日泰時入洛せり。おなじき七月十三日、一
院をば隱岐の國へうつしたてまつる。同二十日新院をば佐渡の國へ遷したてまつる。扨中院は此事に
御同心なくして、いさめ申させ給ひけれとて、みやこにとゞめたてまつりけるを、一院かくならせた
まふうへは、一人とゞまるべきにあらずとて、閏十月十日、中院あはの國へくだらせ給ひけり。も
つともかしこき御事なり。かくのごときの賢王にておはしましければにや、この御末の君、後には御
位にまし{{く}}けるこそ、いみじけれ。およそ延喜天曆のみかどをこそ、聖代とも申つたへ侍れど、土
御門院はそれにもなほまさらせたまふと思ひたてまつる。かゝるかしこき御ふるまひ、わがてうにた
めしなき御事也。その御むくいいみじくて、此みかどの御ながれすゑ{{ぐ}}まで御位をふませ給ふとぞ。
又よしときが事をにくませたまふも、御ことわりとは申すべけれど、此一亂も{{r|白拍子|しらびやうし}}龜ぎくがさゝへ
申たるより、事おこるといへり。そのうへかのよし時も、たゞ人にはあらず。軍勢をわけてのぼせけ
る時、舍弟時ふさは仰かしこまり候とて、あとをもみかへらずいさみすゝんでのぼり侍る。嫡子泰時
もおなじく父が命をかうぶりて進發せられけるが、禮義あつく思慮ふかき人なればにや、道のほど五
六里もうちたちて引かへし、いま一たびうかゞひ申たき御事はべりて、罷かへり申なり。いそぎ出さ
せたまへと申されて、其身は庭上にたちてぞ居られける。よし時何事にかとおどろきて、いそぎたち
いで對面ありしに、泰時御らんじて申されけるは、今度の御合戰は、一大事の御事也。よく再三御思
慮あそばさるべし。御てきと申は、一天の君なり。たとひ御ふるまひあしければとて、下として敵對
したてまつる事、一のとがあり。そのうへもし官軍にさきだちて、忝くも御{{r|鳳輦|ほうれん}}を{{r|進|すゝ}}めさせ給はゞ、
それとてもおそれず、射たてまつるべきや、此事{{r|愚慮|ぐりよ}}に{{r|落著︀|らくちやく}}つかまつらざるによりて、道よりかへり
うかがひ申所なりとて、しほ{{く}}とせられければ、義時大きに感悅して、よくも申されけり、わが子
ながらかやうのふるまひよのつねのおよぶべきにあらず、その事なり、もし官軍にさきだちて御鳳輦
をむけさせ給はゞ、それこそ當家運命のつきぬる所なり。相かまへて弓矢をきりすて太刀ををり甲を
ぬいで、いかやうとも御心のまゝに身をまかせたてまつるべし。もし又官軍ばかりさしむけらるゝに
{{仮題|頁=216}}
おいては、一日も早くもみおとし、すゝんで{{r|入洛|じゆらく}}あるべし、これまで也、倉卒うらたちたまへと申さ
れて、奧へ入られける間、泰時いまは心にかゝる事なし、いさめや人々とて、夜を日についで{{r|上洛|しやうらく}}せ
られけるに、はか{{ぐ}}しからぬ官軍、少々さしむけられける間、不日にもみおとし、本意をとげられ
けると也。
此一事を以てみれば、よし時父子も唯人にはあらず、たぐひなきふるまひ也。さればそのむくいに
や、子孫にかしこき人のみむまれ出でつゝ、九代までめでたかりけるを、高時といふいたづらもの世
世相續の家をほろぼし、身を一生の不覺にはづかしめ、名を後の代の人口にけがさるゝ事、是すなは
ち時也。口をしきふるまひかなと思ひ侍る。此事わたくしならず、ふるき文にしるしたれば、人みな
しる所也と申侍りき。
{{仮題|投錨=光明峰寺道家公東福︀寺御建立之事|見出=小|節=c-6-7|副題=|錨}}
ある人のいはく、むかし{{r|光明峰寺|こうみやうぶじ}}關白道家公{{r|圓爾大禪師|ゑんにだいぜんじ}}に{{r|歸依|きえ}}せさせたまひて、東福︀寺御こんりふあ
りしころ、{{r|番匠|ばんしやう}}{{r|役人|やくにん}}その外此いたなるに入るべきほどの入數をあしもつめさせそれ{{ぐ}}のも
のは何ほどのあたひにて成就すべきにやと、しな{{ぐ}}の事とひはからはせ給ひて、かれらがつもりけ
る金銀の數に一ばいしてたまはりけると申つたへたり。これによりて、彼寺のいとなみにかゝはるほ
どのもの、其身は申におよばず、妻子親族等まで、にぎ{{く}}しくよろこびあへる事かぎりなしといへ
り。しかうして事をはりて貴賤たふとみけるによりて、いまの世にいたるまで、はんじやうして火難︀な
し。凡佛道をねがひ一宇を{{r|建立|こんりふ}}せんと思ふ人は、まづかねてこゝろえて、かやうのためしを工夫すべ
き事なり。あたひをすくなくして、佛閣をいみじくせんとならば、先こんりふは{{r|無益|むやく}}なりといへり。
兩雄相ねたむ世のならひなれば、それ{{ぐ}}の造作をたれ{{ぐ}}はいか程にしてん、あたひはいかほどと
いひて、こと人にはからはせんに、たとへまのあたりの損亡有としりながらも、人にまけじとのゝし
るあひだ、あたひは次第にすくなくして、はては{{r|僞|いつは}}り、そのいとなむところはおろそかにして、遂に
心からの辛苦におよびて、胸にほのほをたく、これによりてそのほのほはたして佛閣にかゝる。これ
番匠人夫のともがら心からのくるしみなりといへど、まことは其願主のふるまひよからざるがゆゑな
りとぞ。さればとて{{r|彼等|かれら}}にうち任せてあたひをとらせなば、いかほどの望みをか、たくみて申すべし
と云人もあるべけれど、さはあるまじき事也。勿論人情あきたらぬ世のならひなれば、人々むさぼり
たるがうへにも、貨財をねがふはよのつねなり。されど又人性のもとは善なりといへる金言もあり。
うちまかせたる事に、わたくしはなりがたきものなり。さればそのいとなみのはじめより、それ{{ぐ}}
の役人に正直のきこえあるものを{{r|尋|たづ}}ねあつめて、{{r|彼等|かれら}}によくしめしてはからはせたらんに、いかでか
疎略するものあらんや。なまじひにその事したり顏に、たばかられじとふるまへど、まことはしらぬ
が本なれば、つひにはかられぬべし。總てはからざる火難︀にたび{{く}}あへるときこゆ寺舍は、皆人夫
{{仮題|頁=217}}
工商のいきどほりなりとみえたる。{{r|俗家|ぞくけ}}をつくるは、又いさゝかことなるはからひもあるとみえたれ
ども、おほやう寺舍こんりふの心えをもちたるが宜しかるべきといへり。後の世に寺社︀こんりふの願
ある{{r|人|ひと}}は、{{r|峰|ぶ}}殿の御ふるまひを{{r|忘|わす}}るべからずといへり。此事はかなき雜談なれど、むかしよりおほく
あなたこなたのがらんはやけほろぶるにも、かの寺は一{{r|炬|きよ}}のわざはひなしといひつたふる事侍れば、
さもあることにや。此峰殿はいにしへよりひと{{ぐ}}ほめ奉りし御事なり。御子もあまたまします御中
に、御ちやくしは九條殿關白敎實公、御二男二條殿關白良實公、御三男は一條殿關白實經公にておは
します。
一條殿最末にておはせども、御器︀用なりと大殿見まゐらせ給ひて、{{r|御嫡流|ごちやくりう}}たるべき{{r|由|よし}}御おき文をそへ
られ、一流の御文書等のこらず一紙にゆづらせ給ひをはんぬ。しかうして三流の御中に、今の世までも
一條殿家には、御才學もすぐれておはせば、大殿の御ゆづりもかしこく覺え侍るなど、ふるき文にも
しるし侍る。
{{仮題|投錨=中納言藤房十歲詩之事|見出=小|節=c-6-8|副題=|錨}}
{{r|萬里小路藤房卿|までのこうぢふぢふさきやう}}はいとけなきよりおほくの文ども明らめ給ひて、うへの御ためには又なき重臣にてお
はしけるが、一とせのいさめをもちゐさせ給はざりしかば、藤房ももはや浮世の望をたちて、ひそ
かに家を出でられ{{r|行方|ゆくかた}}しらずなり給ひけるが、終に堅固にして、{{r|遯|とん}}の道をたもちてをはられ侍けりと
ぞ。其むかしいとけなき時よりいとかしこくよろしき人なればにや、人々もほめられたりとぞ。十歲
の春、うへより人々へ、年のはじめの祝︀詠つかまつり侍るべしとおほせ下されけるに、あるひは金玉
のこと葉をはき、あるひは{{r|幽妙|いうめう}}をつくして、人々詩歌をつかうまつられけるに、藤房も十歲なれば、
はかばかしく{{r|上|うへ}}にもきこしめされざりつるに、詩つくりたてまつられたりけるとぞ。
春來品物都︀靑容 木母花開香正濃 今日太平三朝旦 家々醉賞更飛鍾
此詩をかきてしか{{ぐ}}の事よろしく奏せられければ、{{r|龍顏|りようがん}}ことにうるはしき御事に侍りて、此をさな
ものよろしくつとめしむべしなど、父卿へ仰せくだされ侍りけるとぞ。世に名を知らるべき人は、か
りそめの事にも唯ならず覺え侍る。此藤房卿{{r|遁世|とんせい}}の後、あなたこなたに{{r|隱|かく}}れて、上古の{{r|隱士|いんし}}の風をあ
ぢはひ給ひける。あなたこなたにてみたりしなどいひて、さま{{ぐ}}の說をいふ人もあれど、皆はかり
ていへるものなりとぞ。およそよき人はのち{{く}}にいたりて、{{r|多|おほ}}くあやしき事どもしるしそへて賞美
せる事おほし。先年ある人のもとにて、藤房をほめける卷物をみせ侍るに、其中みなあやしき褒美の
みにて、彼卿のためには面目ならぬ事ども有り。彼卿の德をしらぬ人のかける物にや。
{{仮題|投錨=松樹大夫官之事<sup>付</sup>江帥放言事|見出=小|節=c-6-9|副題=|錨}}
むかししら河の院の御時、人々に{{r|淸談|せいだん}}あるべしと{{r|勅諚|ちよくぢやう}}なされけるに、あるひと申されけるは、むかし
秦の始皇{{r|泰山封禪|たいざんほうぜん}}のまつりをせられけるとき、雨を松樹のもとにいとはれけるに、松俄に大木となり
{{仮題|頁=218}}
て雨をもらさずと云々。此時の褒賞に、大夫に被{{レ}}成けり。則五大夫と云て、是より我朝までにいひつ
たへて、松を大夫とよばるゝ事いみじき事なりと語られけるとなん。此事ふりて今めづらしからざれ
ども、{{r|非情|ひじやう}}を{{r|極官|ごくゝわん}}に任ぜしめらるゝ事を{{r|語|かた}}り合て興じ給ふけるとぞ。
{{仮題|分注=1|秦の大夫は、則三公也。常に心得る諸︀大夫に非ず。此方にて云、左右大臣の類︀なりと云。}}此時{{r|江帥|ごうそつ}}はいまだをさなくておはしけるが、折ふし列座せられて、此事をきゝて申されけるは、大
夫の松、和漢︀兩朝の間古今未曾有の重職たれど、又大きなるかきん也。其故は、上三皇五帝三王の御
世か、又は周公{{r|孔孟|こうまう}}如きの聖人に賞せられたりといはゞ、たとへ枝はびこらずとして雨を{{r|洩|もら}}すとも、
又三公の大夫にのぼらずとも、めでたき後世の規模たりともいふべし。何ぞや、{{r|桀紂|けつちう}}に倍せる惡王に
賞せられたるを面目といふべきや。是則始皇の宣によりて、萬年の寶樹たちまち枝{{r|朽|く}}ち葉しぼみ、其
名又萬世に汚さること其恥いふべからず。只色かへぬ萬年枝など云ては、賞すべき事也。予はかやう
の雜談に興せず、便なき說也と、臂をはり目を{{r|瞋|いか}}らかして放言せられたると也。{{仮題|分注=1|此事良基闕白殿|御日記にあり。}}尤{{r|江帥|ごうそつ}}の
說のごとく、{{r|的當|てきたう}}のことわり分明なりとて、後まで人口に有ていみじく覺え侍りける。大方惡人に褒
賞せられたるより、善人にわらはれたるが高運也とみえたり。かやうの事めづらしからねど、諸︀事の
工夫に便りありてよき手本也と云々。當代和朝の{{r|風滔々|ふうたう{{く}}}}と零落し、人僻み我曲れり。かゝる世の不義
の{{r|榮人|えいじん}}に押て賞せられける人おほくみえ侍る。さやうの人は、工夫を增して大夫官を了簡あるべき事
專用なり。
{{仮題|投錨=源九郞義經頓智之事|見出=小|節=c-6-10|副題=|錨}}
{{r|先|さきの}}公方御酒宴の後、或利口の近習者︀、戲に物語申けるは、源判官義經は古今第一の{{r|頓智連哲人|とんちれんてつのひと}}にて、
貴賤老少皆知る所にて御座候。一とせ吉野{{r|縣|あがた}}をしのび通られけるとき、或民屋のまへにわらはべあま
たあそびたはぶれける中に、十歲あまりのわらは、三四歲なる子を負うてあそばしめけるが、彼負は
れける子も負へる童も、互に{{r|伯父|をぢ}}々々と云てければ、九郞判官此事をきかれて{{r|莞爾|につこ}}としてわらひて、
嗚呼不義のやつばら哉といひて過給ひけり。人々心得ず思計にてとほりけるが、武藏坊辨慶は此事を
心得ずながら、故ある事にやと思ひ、ふかく案じ煩ひ侍れども、終に其{{r|刻得心|きざみとくしん}}なりがたかりけるとな
ん。扨其日もくるゝまゝに、旅屋を借りて宿し、終夜これを案じ、漸工夫ほどけて獨言にいはく、あ
あ判官義經君は百世にも超たる{{r|頓智|とんち}}の{{r|御生得|ごしやうとく}}たり。然といへども、當時不幸不運にしてかゝるあさま
しき御有樣、口をしく勿體なき事也。吾工夫君に不{{レ}}及{{r|事|こと}}はるかなりとて、其後は同朋共にかたりて、
互に感じ興じけるとなん。
彼たがひにをぢ{{く}}と云事を思案するに、假へば夫婦の中に男女二人の子ありて、其男子は母親に通
じて男子一人をうみ、又女子は其ちゝに通じて男子一人を生む。其父と娘と嫁してうむ子と、其母と
男子と嫁してうむ子と、二人を一所へ寄ていふ時は、則兩方共にをぢ{{く}}也。{{仮題|分注=1|猶能々分別すれ|ば、其斷分明なり。}}右にあそ
びて、たがひにをぢ{{く}}といへる二人の子は、如斯の類︀なりと云々。{{nop}}
{{仮題|頁=219}}
かやうのむつかしき工夫をも、指當りて速に{{r|自得|じとく}}せらるゝ事、{{r|當意卽妙|たういそくめう}}の{{r|利根|りこん}}なれども、其身の{{r|奢侈|しやし}}
{{r|惡粧|あくさう}}の事は曾てみえざりけるにや、人のいさのをも承引せられず、身の工夫もうすかりけるとみえて、
終には身を東奧の夷にたぐへて、{{r|骸|かばね}}を{{r|衣川|ころもがは}}のいさごにうづまるゝ事、口をしき事なりと、語り申ける
となん。
{{仮題|投錨=山名宗全與或大臣問答事|見出=小|節=c-6-11|副題=|錨}}
山名金吾入道宗全、いにし大亂のころほひ或大臣家に參りて、當代亂世にて諸︀人これに苦しむなど、
さま{{ぐ}}ものがたりして侍りける折ふし、亭の大臣ふるきれいをひき給ひて、さま{{ぐ}}かしこく申さ
れけるに、宗全たけくいさめる者︀なれば、臆したる氣色もなく申侍るは、君のおほせ事、一往はきこ
え侍れど、あながちそれに乘じて、例をひかせらるゝ事しかるべからず。およそ例といふ文字をば、
{{r|向後|きやうこう}}は時といふ文字にかへて御心えあるべし。それ一切の事はむかしの例にまかせて、何々を決行あ
るといふ事、此宗全も少しはしる所也。雲のうへの御さたも、伏してかんがふるに、{{r|勿論|もちろん}}なるべし。夫
和國神︀代より、天位相つゞきたる所の貴をいはゞ、建武元弘より當代までは、皆法をたゞしあらたむ
べき事なり。乍{{レ}}憚君公もし禮節︀をつとめらるゝに、いにしへ{{r|大極殿|だいごくでん}}のそこ{{く}}にて、何の法禮ありと
いふ例を用ゐば、後代其殿ほろびたるにいたりては、是非なく又別殿にて行はるべき事也。又其別殿
も時ありて若後代亡失せば、いたづらになるべきが、凢そ例と云は其時が例也。大法不易政道は例を
引て宜しかるべし。其外の事いさゝかにも例をひかるゝ事心えず。一槪に例になづみて時をしられざ
るゆゑに、あるひは{{r|衰微|すいび}}して門家とぼしく、あるひは官位のみ競望して其智節︀をいはず。如此して終
に武家に恥かしめれて、天下うばはれ、{{r|媚|こび}}をなす。若しひて古來の例の文字を今沙汰せば、宗全ごと
きの匹夫、君に對して如{{レ}}此同輩の談をのべ侍らんや。是はそも古來いづれの代の例ぞや。是則時なる
べし。我今いふ所おそれおほしといへども、又併後世に、われより{{r|增惡|ぞうあく}}のものもなきにはあるべから
す。其時の{{r|體|てい}}によらば、其者︀にも過分のこびをなさるゝにてあるべし。いまよりのちは、ゆめ{{く}}
以てこゝろなきえびすにむかひて、我方の例をのたまふべからず。もし時をしり給はゞ、身不肖なり
といへども、宗全がはたらきを以て、尊主君公皆{{r|扶持|ふち}}したてまつるべしと、苦々しく申ければ、彼大
臣も閉口ありて、はじめ興ありつる物がたりも、皆いたづらに成けるとぞ、つたへきゝ侍し。是か非
か。
本文にいはく
天文二十一年十一月日{{sgap|16em}}藤某判{{nop}}
{{仮題|ここまで=塵塚物語/巻第六}}
{{仮題|ここから=老人雑話/序}}
{{仮題|頁=220}}
{{仮題|投錨=老人雜話序|見出=中|節=r-j|副題=|錨}}
讀書友古と、まことなるかな、書は萬代の寶溫故知新なれば、むか
しがたりをめづらしとおもへばなり。爰に我曾祖︀父倚松庵先生
は、永祿八年乙丑にむまれ、寬文四年甲辰季夏下六日に沒す。壽す
でに百歲に滿てり。其始加藤肥州につかへ、其後森作州に遊事す。
醫術をもつて京師に居せり。誠に奇代の長壽なりとて、
後水尾上皇勅して御杖を賜ふとなり。{{仮題|分注=1|その時の和歌幷に辭|世の歌子孫に傳ふ。}}されば老
人の雜話を、伊藤宗恕書きとゞめられし一册あり。其書きたるを
見れば、老人に對話する心地して、閑居の友となり、古を追慕する
のみなり。宗恕壽八旬有餘、老人の孫婿坂口法眼立益これを繕寫
す。今年米年なり。壽を世々に傳ふにあらずや。われ又是を書して
古人の言葉を賞するのみ。
正德三癸己年暮春望日{{sgap|6em}}武陽 滄洲題{{nop}}
{{仮題|ここまで=老人雑話/序}}
{{仮題|ここから=老人雑話/乾之巻}}
{{仮題|頁=221}}
{{仮題|投錨=老人雜話|見出=大|節=r|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=乾之卷|見出=中|節=r-1|副題=|錨}}
{{left/s|2em}}
老人は江村專齋也。諱宗具、業醫。初加肥牧に事へ、後藤森作牧に事ふ。永祿八年光源院殿亂の
年生れ、寬文四年九月沒す。滿百歲也。
{{left/e}}
{{r|五山|ござん}}の大詩會を短册切と稱す。{{r|南禪寺|なんぜんじ}}傳長老の時、短册切の會あり。{{r|龍山賞雪|りうざんにゆきをしやうす}}と云ふ題にて詩を
{{r|作|つく}}る。其のち{{r|絕|たえ}}てこれなし。會の{{r|式|しき}}は五{{r|岳|がく}}の{{r|長老|ちやうらう}}及西堂に會し、早朝粥を供す。さて{{r|題評|だいひやう}}と云ふこと
あり。{{r|出席|しゆつせき}}の人各題一つを書て一座を互に回し、{{r|可然|しかるべき}}を其日の題に定るを云ふ。題定て後、その題を
{{r|上座|しやうざ}}の{{r|壁|かべ}}に{{r|貼|てん}}す。偖引合の紙を廣げ短册に切て、三枚{{r|重|かさ}}ね、面々の{{r|前|まへ}}に置く。硯、筆架、水滴等盡し
て面々に{{r|供|きよう}}す。詩成て{{r|草稿|さうかう}}を一座の衆回し見て後、{{r|淨書|じやうしよ}}して{{r|座心|ざしん}}の{{r|文臺|ぶんだい}}に{{r|載|の}}す。其後五{{r|岳|がく}}より一人づ
つ出て吟ず。五山の{{r|吟聲|ぎんせい}}各殊なり。詩事{{r|畢|をはつ}}て大饗あり。{{r|亂舞酒宴|らんぶしゆえん}}夜に{{r|入|いる}}とぞ。{{r|遊行上人|ゆぎやうしやうにん}}の始祖︀を一{{r|遍|ぺん}}
{{r|上人|しやうにん}}と云ふ。隆︀蘭溪に法を聞く。歌學に{{r|勝|すぐ}}れたり。是故に、今に至て其{{r|法流|ほふりう}}の者︀{{r|連歌|れんが}}をせり。昔或人
一遍上人を{{r|嘲|あざけつ}}て云ふ、{{r|躍|をどり}}念佛をなすは、佛の{{r|踴躍歡喜|ゆやくゝわんぎ}}と云へる意なるべし。然れども{{r|是|これ}}のみにて{{r|成佛|じやうぶつ}}
いぶかしと{{r|云|いふ}}。上人{{r|和歌|わか}}を以て{{r|答云|こたへていふ}}。
{{仮題|頁=222}}
{{nop}}
はねばはね{{r|躍|をど}}らば{{r|躍|をど}}れ{{r|春駒|はるごま}}の{{r|法|のり}}の{{r|道|みち}}にははやきばかりぞ
{{r|是等|これら}}の事{{r|書|か}}きたる書一{{r|卷|くわん}}ありとぞ。
{{r|多武峯|たふのみね}}の事、{{r|鎌足|かまたり}}{{r|入鹿|いるか}}を{{r|討|うた}}せんと{{r|欲|ほつ}}する時、帝と{{r|此山|このやま}}に{{r|入|いつ}}て{{r|談合|だんがふ}}す。是故に峯を{{r|談山|たんざん}}と云。鎌足を祠
て{{r|談山權現|たんざんごんげん}}と云。{{r|談|たん}}と{{r|多武|たふ}}と聲相近を、又入鹿を討て{{r|武功|ぶこう}}多しと云心にて、多武峰と云。
老人少年の時、{{r|洛中|らくちう}}に四書の{{r|素讀|そどく}}敎る人無之、公家の中、山科殿知れりとて三部を{{r|習|なら}}ひ、孟子に至て、本
を人に{{r|借|か}}し置たりとて終に{{r|敎|をし}}へず。實は{{r|知|しら}}ざる也。
右の時分、外家の道伯と{{r|云人|いふひと}}{{r|論語|ろんご}}を講談す。{{r|惺窩|せいくわ}}も惺窩の伯父宣首座{{仮題|分注=1|相國寺普光院|の僧︀薰の弟}}も、老人と同く每度
{{r|講席|かうせき}}に{{r|出|い}}づ。此時分{{r|妙心寺|めうしんじ}}の{{r|南化|なんくわ}}、{{r|天龍寺|てんりうじ}}の{{r|策彥|さくげん}}{{r|名|な}}あり。
五{{r|攝家正統|せつけしやうとう}}絕ゆる時は、{{r|淸華|せいくわ}}の家の人、又其れより下等の家の人なりとも{{r|嗣|つぐ}}こと例なり。親王家の人
を以{{r|嗣|つが}}しむること{{r|法|はふ}}に{{r|非|あら}}ず。其故は攝家の人は、初少將より{{r|歷昇|へのぼ}}るが例なり。{{r|方今|ほうこん}}近衞殿、一條殿、
親王家の人を{{r|以|もつて}}嗣がしむるは{{r|非|ひ}}也。上の私也。
{{r|立賣|たちうり}}の{{r|町人|ちやうにん}}{{r|所持|ところもち}}定家卿筆の{{r|新勅撰|しんちよくせん}}、細川{{r|幽齋|いうさい}}求められし時、{{r|直|あたひ}}白銀拾錠なり。其時第一の{{r|買主也|かひぬしなり}}。今
は{{r|烏丸|からすまる}}の家にあり。
{{r|宗祇|そうぎ}}は今より百四五十年以前の人也。其時會の{{r|給仕|きふじ}}などせし者︀に、成菴と云へるあり。老人は其{{r|成菴|せいあん}}
に會すとなり。{{r|連歌|れんが}}の式定りて、盛んになりたるは宗祇より也。{{r|其以前|そのいぜん}}は百句滿ること{{r|稀|まれ}}にて、只言
捨のやうに有しと也。
連歌師の次第
{{Wide|begin=1}}
<div style="line-height:1em;">
昌休─┐ ┌─昌叱{{仮題|系図分注=1|─────|紹巴の弟子}}┐ 昌琢︀ 昌程<br/>
┌───┘ │┌───────┘ <br/>
└─紹巴{{仮題|系図分注=1| |昌休|弟子}}─┘└─玄仍{{仮題|系図分注=1| |昌叱|の婿}} 玄的<br/>
</div>
{{Wide|end=1}}
{{r|貫之|つらゆき}}{{r|自筆|じひつ}}の土佐日記は、{{r|蓮華王院|れんげわうゐん}}の{{r|仕物|じふもつ}}也しを、{{r|定家卿|ていかきやう}}{{r|寫|うつ}}せる本、{{r|連歌師|れんがし}}{{r|玄的所|げんてきのところ}}にあり。今は加賀の
家藏となる。定家の{{r|寫本|しやほん}}全く自分の筆力にうつし、末二三葉をば、貫之が自筆の{{r|本|ほん}}の大さ字の形を
も{{r|模|も}}して{{r|書|かゝ}}れたり。是は後の世に、貫之が書法を{{r|不知者︀|しらざるもの}}、是を法とせん爲とて{{r|跋|ばつ}}に書く。是を以て見
れば、貫之が{{r|自筆|じひつ}}は、定家の時さへ至て{{r|稀也|まれなり}}と{{r|見|み}}えたり。今時往々に人の家に、貫之が{{r|眞跡|しんせき}}とて{{r|所持|しよぢ}}
するは{{r|可笑事也|わらふべきことなり}}。定家の時までは、{{r|貫之|つらゆき}}{{r|自筆|じひつ}}の本これあると見えて、其本の大さをも{{r|圖|づ}}してあり。貫
之の本は今は{{r|絕|たへ}}ぬ。定家の本は{{r|老人|らうじん}}度々見たりしに、貫之書法かはりたる字樣也。今時の贋物とは似
たる物に非ず。定家の本は今は加賀より八{{r|條殿|でうどの}}へまゐらすとぞ。
得長壽院は、今の三十三{{r|間堂|げんだう}}にあらず。{{r|鳥羽︀院|とばのゐん}}の御造營なれば、昔鳥羽︀に{{r|有|あり}}けんかし。{{r|蓮華王院|れんげわうゐん}}は
{{r|後白河院|ごしらかわのゐん}}の御造營にて、新千體佛を{{r|安置|あんち}}す。今の三十三間堂也。增鑒拾芥抄にも{{r|明|あきら}}か也。大佛の{{r|寺號|じがう}}は
方廣寺なり。{{nop}}
{{仮題|頁=223}}
二{{r|條院|でうゐん}}の小池の御所は、今の{{r|室町|むろまち}}の小池の町也。御所は{{r|應仁|おうにん}}の{{r|亂|らん}}の{{r|比|ころ}}燒失し、老人幼少の時は、小池
の跡{{r|遺|のこ}}れり。小池より{{r|泉|いづみ}}湧出て四條へながれ、今月鉾の町より西へ{{r|流|なが}}る。小池の邊には{{r|庭|には}}の石など{{r|殘|のこ}}
り、大松に藤などまつへる{{r|有|あり}}。二條殿は{{r|傍|かたはら}}に小さき屋を{{r|造|つく}}りて御座す。二條の御所に十境の名ある
も、此小池の{{r|御所|ごしよ}}也。信長の時に二條殿をば、報恩寺{{仮題|分注=1|今の近衞|殿屋舖歟}}を{{r|易|か}}へ地にして{{r|移|うつ}}し、小池の御所を取
立て、屋形を{{r|結構|けつこう}}し、小池に{{r|反橋|そりばし}}などをかけ、{{r|島丸通|からすまるどほり}}に東の{{r|壁|かべ}}をかけ、室町の東側の{{r|町家|まちや}}はありて、
町家の後に長壁をかけたり。門は南面也。此{{r|御所|ごしよ}}成就して、暫く信長住して、{{r|頓|やが}}て陽光院へ獻ず。陽
光院殿は後陽成院の御父也。{{r|春宮|とうぐう}}にて御卽位に{{r|及|およば}}ずして{{r|崩|ほう}}じ給ふ。陽光院御遷の時、老人も新在家六
町中の役に差れて{{r|供奉|ぐぶ}}したり。養安院玉翁も故ありしにや{{r|供奉|ぐぶ}}す。織筋の賽目隔子の服を著︀す。老
人と同年にて、十三歲の時なりと語られし。信長は此御所を陽光院殿へ進し、又{{r|如前|まへのごとく}}上京の時は
{{r|妙覺寺|めうかくじ}}に旅館︀す。妙覺寺は今の室町藥師町にあり。小池の御所の{{r|隣|となり}}なり。
老人幼なかりし時、延壽院玄朔は、已に壯年にて、故道三の{{r|世嗣|よつぎ}}とて、{{r|洛中|らくちう}}{{r|醫師|いし}}の上首也。人々敬慕
す。故道三は其時はや{{r|耳遠|みゝとほ}}く、療治もたえ{{ぐ}}にて隱居せる故也。玄朔盛んに療治はやりて方々{{r|招待|せうだい}}
す。その時は肩興と云物なくて、大なる{{r|朱傘|しゆがさ}}を{{r|指掛|さしかけ}}させ、{{r|高木履|たかぼくり}}にて{{r|杖|つゑ}}をつき、何方へも步行す。人
人羨むことにて有しとぞ。
{{r|公方靈陽院|くばうれいやうゐん}}殿、信長へ{{r|敵對|てきたい}}し、京盡く{{r|燒亡|せうまう}}せしは、老人九歲の時也。それより{{r|以後|いご}}の事は、{{r|大方|おほかた}}に
{{r|記憶|きおく}}すと語れり。時に八十九歲なり。實に承應二年癸巳なり。
秀賴五歲の時{{r|參內有|さんだいあり}}。伏見より{{r|行列|ぎやうれつ}}をなす。{{r|太閤|たいかふ}}二三日前に{{r|入洛|じゆらく}}ありて、{{r|中立賣|なかたちうり}}最上殿の屋敷に{{r|御座|おは}}
す。參內の日に迎に御出あり。{{r|室町通|むろまちどほり}}を南へ指す。{{r|見物群集|けんぶつぐんじゆ}}す。太閤立髮の馬に駕り、むりやうの
{{r|闊袖|ひろそで}}の羽︀織に{{r|鳥|とり}}を{{r|背縫|せぬひ}}にし、{{r|襟|えり}}は{{r|摺箔也|すりはくなり}}。底なしのなげ{{r|頭巾|づきん}}を着せり。馬の左右に五十人{{r|計|ばかり}}{{r|徒立|かちだち}}あり。
半町計間ありて、又者︀千人計從ふ。{{r|大佛邊|だいぶつへん}}にて秀賴公に御出合ひ、太閤興に乘移り、秀賴を前に置け
り。錢を筥へ入れば舞る人形を興の先にもたす。諸︀大名は大房の馬にのり、二行に{{r|供奉|ぐぶ}}す。是は{{r|聚洛|じゆらく}}
の{{r|城終|じやうをはつ}}て{{r|後|のち}}中一年ありての事也。
{{r|太閤|たいかふ}}肥前の名護屋に御座す時、{{r|吳松越後|くれまつゑちご}}と云能大夫御見舞に{{r|參|まゐ}}り、其時より能を御すきありて、御自
分にも度々なさるゝ事也。
太閤禁中において、能をなされし時、吳松は立合に能をせり。吳松能をする時は、太閤{{r|長柄|ながえ}}の刀を帶
し、{{r|虎|とら}}の皮の大巾着を下げて、橋かゝりの中程に立ながら見物す。能はてけるにも{{r|其儘|そのまゝ}}立給ふにより、
大夫裝束を著︀ながら、腰をかゞめて通りけるとぞ。
或時太閤馬に{{r|騎|のり}}て、烏丸通を參內す。新在家の下女四五人、{{r|赤前垂|あかまへだれ}}を掛て出て見物す。太閤{{r|馬上|ばしやう}}より
見て云、只今我{{r|內裡|だいり}}にて{{r|能|のう}}をすべし、皆々見物にこよと。
太閤禁中にて能ある時、{{r|猿樂|さるがく}}に被物下さるれば、同樣に出て{{r|拜領|はいりやう}}し、肩にかけて入給ふとぞ。{{nop}}
{{仮題|頁=224}}
太閤{{r|全盛|ぜんせい}}の時、何事も人のなすことをば、皆是をなせり。式法の歌の會あり。其時は{{r|裝束|しやうぞく}}にて{{r|上段|じやうだん}}に
座す。友古と云者︀御前に{{r|近|ちか}}づき、感じたる體にて{{r|退|しりぞ}}き、座中へ歌を唱ふ。皆友古が詠る也。
{{r|蒲生|がまふ}}は江州の士なり。{{r|佐々木承禎︀|さゝきじようてい}}の臣なりし。{{r|後|のち}}信長に事へ、又太閤に仕ふ。{{r|氏鄕|うぢさと}}は勝れたる人也。
始は勢州松坂にて十二萬石を{{r|所領|しよりやう}}す。夫より直に{{r|會津|あひづ}}百二十萬石を領す。太閤の時也。此時四十歲計
也。{{r|承禎︀|じようてい}}は江州一ヶ國を領して大名也。信長に{{r|滅|ほろぼ}}されて江州を{{r|取|と}}らる。承禎︀の子は四郞殿とて、太閤
の時は咄の者︀に成て知行二百石也。{{r|蒲生|がまふ}}は其臣たりしが、百萬餘石を{{r|領|りやう}}す。伏見などにて太閤の御前
に{{r|侍|はべり}}て、{{r|退參|たいさん}}の時、氏鄕昔を{{r|思|おもひ}}て、刀を{{r|持|もち}}て從はれし事ありしとぞ。蒲生江州にて承禎︀の臣たりし時
は{{r|日野|ひの}}を領す。氏鄕父は{{r|頑愚|ぐわんぐ}}にして天性{{r|臆病|おくびやう}}の人なり。其時俗間の小歌に、{{r|日野|ひの}}の{{r|蒲生殿|がまふどの}}は、{{r|陣|ぢん}}とさ
へ{{r|云|い}}やへをこきやると{{r|云|い}}しは、此人の事也。
赤松亂と云は、普光院殿を弑する時のこと也。始め{{r|山名|やまな}}と{{r|赤松|あかまつ}}と相並んで普光院殿に出仕す。或時庭前
に{{r|枯|かれ}}たる松有しを、山名見て云、あの赤松{{r|斬|きつ}}て{{r|捨|すて}}申さんと、公方の前にて云。赤松さしも{{r|歌學|かゞく}}に{{r|達|たつ}}し、
口利き者︀なれば、山なをかと{{r|云|い}}へり。山名にあてゝなり。是より{{r|彌|いよ{{く}}}}中あしく、終に普光院殿を弑す。
此赤松は{{r|圓心|ゑんしん}}が三男律師{{r|則祐︀|のりすけ}}が子孫也。滿祐︀と云。此事の首尾具に書に見えず、人の物語に云傳ふ
なり。
美濃三人衆とて、かくれなき{{r|武勇|ぶゆう}}の名ある者︀あり。信長の臣也。一人は稻葉一徹{{仮題|分注=1|今の能登守五代の|先祖︀右京の父也。}}一人
は氏家卜全{{仮題|分注=1|是に大垣|に居る。}}一人は伊賀伊賀守也。
齋藤內藏助は、{{r|春日|かすが}}の{{r|局|つぼね}}の父也。明智日向守家臣也。一亂に{{r|生捕|いけどら}}れて、大路をわたし誅せらる。
齋藤山城守は、山崎の油商の子也。父と妻とを{{r|率|ひき}}ゐて、美濃に往て住し、山城守を生む。遂に{{r|土岐|とき}}
{{仮題|分注=1|美濃の|國主}}に取入て仕へしが、{{r|土岐|とき}}末に成り、國も亂れけるに、如何したりけん遂に美濃の國主と成る。其
時の落書に、
ときはれとのりたちもせず四の袴三のはやぶれてひとのにぞなる
と云り。信長の婦翁なり。山城守が子に{{r|義龍|よしたつ}}と云あり。父に恨有て弟兩人を殺︀す。父の狩に出しをた
て出し父と{{r|合戰|かつせん}}す。{{r|山城|やましろ}}遂に子と對戰して討死す。{{r|義龍|よしたつ}}が子に{{r|龍興|たつおき}}と云あり。極て痴人也。此時に信
長遂に{{r|美濃|みの}}を奪取れり。
{{r|瀧川左近|たきかはさこん}}は、關の城、龜山の城、長島三ヶ所を{{r|所領|しよりやう}}す{{r|大名|だいみやう}}なり。{{r|太閤柴田|たいかふしばた}}を攻給ふ時、{{r|後卷|うしろまき}}をせんとす。
柴田敗らるゝを聞、太閤に{{r|降參|かうさん}}す。後三七殿と不和に成て合戰ありしとき、{{r|拔群|ばつくん}}の忠節︀を盡さんと思
ふ。{{r|蟹江|かにえ}}の{{r|城|じやう}}は{{r|東照宮|とうせうぐう}}の方也。此{{r|城主|しろぬし}}に內通して心替りをさせて、瀧川此城へ入らんとせし時、勢州
より船に{{r|乘|のり}}て{{r|往|ゆき}}けるに、俄に潮{{r|干|ひ}}て船{{r|著︀事|つくこと}}を得ず。左近は病中故肩興にてやう{{く}}城に入り、從ふ者︀
は多く入る事を得ず。船にて{{r|漾|たゞよ}}ふ內に、東照宮急に取かけて皆殺︀せり。瀧川はあつかひに成り味方に
屬し、太閤の方を又たばからんと{{r|約|やく}}して、命は助りけれども、餘り成事とや思ひけん、妙心寺に入て
{{仮題|頁=225}}
{{r|落髮|らくはつ}}出家す。後越前に往て死す。信長の時は、天下の政道四人の手にあり。柴田、秀吉、瀧川、丹羽︀
也。左近武勇は{{r|無雙|ぶさう}}の名ありて、度々關八州を引受て合戰す。關八州の者︀は瀧川の名を聞ても、おそ
れし程なりし。末に至て{{r|散々|さん{{ぐ}}}}の體也。
本多三也は、{{r|無隱|かくれなき}}武勇强直の士也。本多美濃守の家臣たり。後蒲生氏鄕に屬す。蒲生殿筑紫の岩石の
城を{{r|攻|せめ}}られし時、氏鄕{{r|貝|かひ}}を吹かれければ、三也云、腰拔の吹は{{r|鳴|な}}らぬ物ぞとて、引奪て音高く{{r|吹|ふく}}。歸
陣の後氏鄕是を{{r|意趣|いしゆ}}に思ひ、或時三也{{r|禁所|きんしよ}}にて鳥を{{r|打|うち}}たるを辭にして、三也{{r|屋鋪|やしき}}を取かこんで誅せん
とす。折節︀{{r|都︀筑|つゞき}}惣左衞門とて、東照宮{{r|摩下|きか}}の武士{{r|通|とほ}}り合せ其故を問ふ。しか{{ぐ}}と答ふ。大知音なれ
ば、{{r|鎗|やり}}一本を持て、三也宅へ{{r|驅入|かけい}}れば、攻る者︀氏鄕に{{r|注進|ちうしん}}し、此者︀どもに討取んやと云。如何有んと
て、二人ともに逃せよと云、遂に命を全うす。此{{r|都︀筑|つゞき}}は{{r|面相|めんさう}}{{r|天然|てんねん}}{{r|猿|さる}}に似たる人也。今に麾下に其子孫
有り。
二條の城は、關ヶ原陣{{r|過|すぎ}}て{{r|頓|やが}}て造れり。
鎧を着る事、昔は人{{r|不鍛鍊|ふたんれん}}にして、天井に{{r|釣|つり}}て、下より我身をいれしと云。人の{{r|笑草|わらひぐさ}}に云ふこと也。
{{r|武事鍛鍊|ぶじたんれん}}の人に問へば、急成時は{{r|釣|つり}}て置て、下より身をいるゝこと尤よろしとぞ。
元和三年の比、{{r|近江|あふみ}}の湖より星{{r|出|いで}}て、空にとんで數百丈にたなびきし事有、人皆{{r|彗星|すゐせい}}かと云。
{{r|慈照院殿|じぜうゐんどの}}の時、{{r|春日|かすが}}の局と云女あり。彼が{{r|所爲|しよゐ}}にて、{{r|應仁|おうにん}}の亂起り天下騒動す。近來の春日局の號は、
是を考ずして然るか。
丸山豐後有{{二}}{{r|武勇名|ぶゆうのな}}{{一}}、仕{{二}}備前富內少輔{{一}}、{{r|每|つねに}}直員不{{レ}}避{{二}}{{r|忌諱|きゐ}}{{一}}、一日大臣變、宮內少輔起更{{レ}}衣、加藤主膳執{{レ}}
刀近侍、主膳少輔所{{レ}}寵男色、豐後謂{{レ}}之曰、行便時雖{{二}}大人{{一}}豈不{{二}}氣泄{{一}}哉、勿{{二}}逼近{{一}}云、少輔聞{{レ}}之笑而
不{{レ}}止。
齋藤內藏助天性狼復の人なり。{{r|春日|かすが}}の{{r|局|つぼね}}の父{{r|明智|あけち}}が臣なり。信長も能知る。信長信玄を討て歸りて、富
士山を觀て云、內藏助は是をも{{仮題|編注=2|小芋|小さしイ}}と云んと云へりとぞ。內藏助は元來稻葉一徹の臣也。明智左馬之
助も同じ。日向守呼取て一萬石を與ふ。一徹怒て信長に{{r|愬|うつた}}ふ。日向守是より奧丹波へ遣し、{{r|加增|かぞう}}して
二萬石與へけるとぞ。
長尾謙信が、信玄をほろぼさん{{r|談合|たんがふ}}せんとて、{{r|紙子|かみこ}}一つ小脇指一腰にて、山越に越前の{{r|朝倉|あさくら}}が許へ往
くこと有とぞ。
信長、美濃齋藤が所へ婿入の時、{{r|廣袖|ひろそで}}の{{r|湯帷子|ゆかたびら}}に、{{r|陰形|いんけい}}を大に染付て着し、{{r|茶筅髮|ちやせんがみ}}にて往く。山城守
が家老等國境まで迎に{{r|出|いで}}て、其樣を見て{{r|膽|きも}}をつぶし、{{r|密|ひそか}}に云ふは、此樣の人に七五三の{{r|式法|しきはふ}}などは不
都︀合ならんとて、早使を返し、田舎家具の大なるなどを用意せよと云。信長宿に{{r|着|つき}}て、{{r|束帶|そつたい}}正しく{{r|調|とゝのへ}}
て山城に對面す。又驚き騷ぎ、もとの七五三の式法を用ゆ。此時山城{{r|嘆|たん}}じて云、我國は{{r|婿引出物|むこひきでもの}}に仕
たりと。其心は我子共など國を{{r|保|たも}}つことあたはじ。信長に{{r|取|とら}}れんと思ふ也。{{nop}}
{{仮題|頁=226}}
信長の士、市橋下總守は{{r|放狂|はうきやう}}の者︀也。若狹の武田家より信長へ使者︀あり。威儀{{r|正|たゞし}}くして廣間に{{r|控|ひか}}へた
り。下總のぞき見て、如何さま{{r|仕付方|しつけかた}}{{r|知|し}}り顏にて、見たくもなき奴也とて、使者︀の前に{{r|出|いで}}て、仰ぎ
臥て足を使者︀に向け、手を以て{{r|陰囊|いんなう}}を捫て、御使者︀是程の餅をばいかほどやらんと云へり。後信長聞
て笑て{{r|不止|やまず}}とぞ。
高麗陣の時、太閤{{r|日根野備中|ひねのびつちう}}を高麗へ使に遣す。備中{{r|甚|はなはだ}}貧く支度成がたし。三好新右衞門を媒介にて、
銀を黑田如水に{{r|借|か}}る。如水銀百枚を{{r|貸|か}}す。備中{{r|歸朝|きてう}}して新右衞門と同道し、如水へ{{r|往|ゆき}}て禮を云。銀百
枚外に拾枚を持參す。{{r|利息|りそく}}の心なり。如水對顏し、暫くありて人を{{r|呼|よび}}て、さきに人の{{r|吳|くれ}}たる鯛を三枚
におろし、其骨を吸物にして酒を出せよと云ふ。兩人心に不足す。酒{{r|訖|をはり}}て三好銀を取來て禮を云。如
水云、初より{{r|貸|か}}す心無し、{{r|合力|がふりよく}}の心なりとて、再三{{r|强|しひ}}ても取らず。二人甚だ{{r|感|かん}}じて歸りけるとぞ。
太閤小田原陣の前に、關東土地の圖を見る。東照宮近侍す。時に眞田阿波守末席にあり太閤云、阿
波來て圖を見よ、汝を中山道の先手に云付るといへり。此時は家康と{{r|同輩|どうはい}}に{{r|呼|よび}}て、圖を見せ給ふこと
國郡を何程拜領したらんよりも{{r|忝|かたじけな}}かりしと云。阿波守は伊豆守が父也。{{r|東照宮|とうせうぐう}}と意趣ありて、中惡き
人也。其後太閤阿波を近う召て云、汝家康へ禮に往て間をよくすべし、長き物には{{r|卷|まか}}れと云事あり、旅
にて不如意ならんとて、袷二拾進物までを遣され、富田左近を{{r|副|そへ}}て遣さる。太閤の仰なれば、東照宮
も是非なく對面せらる。後富田に逢て、東照宮云、先日の事は是非に及ばず。重て石川伯耆を此樣に
仰付られぬ樣に、取成し賴むとのたまふとぞ。此人又大に{{r|意趣|いしゆ}}ありて間惡し。然れども是も又小田原
陣中にて禮に被遣しとぞ。
志津ヶ嶽の時、櫻井左吉が高名{{r|比類︀|ひるゐ}}無。七本鑓にも勝れり。早く病死する故に人知らず。
太閤の別種同腹の弟を大和大納言殿と云。大和、紀伊、和泉三ヶ國に封ず。初め志津嶽の合戰、中川{{r|敗死|はいし}}
の時、見ながら{{r|救|すく}}はず、{{r|首尾|しゆび}}あしゝ。太閤怒て諸︀大名の座中にて、身と{{r|種|たね}}ちがつたりと宣ふとぞ。大
納言殿子無くして、秀次の子を{{r|養子|やうし}}とす。大和中納言と云。
長岡玄蕃云、吾れ關ヶ原の時、引て{{r|退|の}}く馬武者︀を見て{{r|廻|かへ}}せと云ければ、卽立歸てくむ。{{r|組|くみ}}しかれて{{r|已|すで}}
に首を取られんとせしに、郞等一人來つて引のけて、吾に首を取せけり。危き目を見たり。足をみだ
さず{{r|引武者︀|ひくむしや}}には、必{{r|廻|かへ}}せと云ふべからざる者︀也と云へりとぞ。玄蕃度々の功あるもの也。
關ヶ原の時、{{r|薩摩|さつま}}の島津兵庫{{仮題|分注=1|今の島津祖︀父|治部少輔也。}}{{r|引|ひき}}けるを、本田中書、井伊兵部見て、中書は其儘逃さんと云、
兵部は今あの逃る武者︀を{{r|逃|にが}}す所にては有まじとて、{{r|𢌞|かへ}}せと聲をかく。兵庫其まゝ取てかへし、鐵砲の
者︀に擊せけり。{{r|兵部|ひやうぶ}}は手にあたる、中書は馬にあたりて{{r|落|おち}}けりとぞ。
小田原開陣の後、太閤諸︀將を會して宣ふは、{{r|會津|あひづ}}は關東八州の要地、勝れたる大將を置て、鎭めでは
あたはぬ地也。{{r|各|おの{{く}}}}{{r|遠慮無所存|ゑんりよなきしよぞん}}を書付て見すべしと云。{{仮題|分注=1|今は左やうのことを入札と云。|その時分はかくし起請と云。}}細川越中守{{r|可然|しかるべし}}と云者︀
十に八九人。太閤ひらき見て云ふ、汝等{{r|愚昧|ぐまい}}甚し。吾天下をたやすく取こと理也。此地は蒲生忠三郞
{{仮題|頁=227}}
ならでは{{r|可置者︀|おくべきもの}}なしとて、忠三郞を置く。
太閤心も辭も行跡も、少も{{r|吝|やぶ}}さかなることなき{{r|生質|うまれつき}}也。然ども加藤遠江甲州一國を賜ひ、遠江死て卽
取上げ、其子に二萬石を與ふ。丹羽︀五郞左衞門に七十萬石を賜ふ。死て卽六十五萬石を取上げ、四萬
五千石を其子五郞左衞門に與ふ。蒲生飛彈に會津百萬石を賜ひ、四郞兵衞公事以後八十萬石を取上げ
ける。
山城の內山里と云所を、梅︀松と{{r|云|いふ}}坊主に預けらる。新に松を{{r|植|うゑ}}、程も無に{{r|松蕈|まつたけ}}生じたりとて獻上す。
太閤笑曰、吾威光誠にさもあらんと云。其より數度獻ず。實は他所より求て獻ず。太閤左右の者︀に云、
もはや松蕈獻ずることやめさせよ、生ひ過るとのたまふとぞ。
太閤初め{{r|微賤|びせん}}の時、衆中に{{r|刀|かたな}}を失ふ人あり。太閤貧きに因て人皆疑ふ。因{{レ}}之太閤城下の民家に至て
{{r|偏|あまね}}く問ひ、{{r|質家|しちや}}に有しを尋出し、{{r|鞠問|きくもん}}して姦人を{{r|執|とら}}へて、信長の狩に出る時訴らる。信長感じて初て
{{r|微祿|びろく}}を與ふとぞ。
志津ヶ嶽の{{r|軍|いくさ}}は、太閤一代の勝事、{{r|蟹江|かにえ}}の{{r|軍|いくさ}}は東照宮一世の勝事なり。太閤其時岐阜に在て、佐久間玄
蕃、中川瀨兵衞を{{r|攻|せむ}}るを聞き、飯︀を喫するを待たずして往く。途中百姓に令して{{r|粥|かゆ}}をたかしむ。東照
宮は、敵瀧川左近一益伊勢{{r|蟹江|かにえ}}の城へ取籠る由の注進を聞、{{r|沐浴|もくよく}}して有しが、浴衣を著︀ながら馬を出
す。纔に跡從ひ行者︀井伊兵部也。瀧川やう{{く}}船より上る。軍兵ども祕藏の小姓などは猶舟にあり。
東照宮の{{r|軍兵|ぐんびやう}}已に至て急に攻め、舟中の{{r|精︀兵|せいひやう}}多く討たる。左近わづかの兵を以て城に入、城たもつこ
とあたはず逃去。
東照宮、太閤に馬をつなぎ給ふ後、關八州を與ふと云へども、實は六ヶ國半也。常陸をば佐竹に{{r|與|あたふ}}る
也。
上野の佐野、{{r|殊外|ことのほか}}富饒の地也。太閤東照宮を關東に{{r|封|ほうじ}}て後、佐野修理大夫を此に封ず。修理多才のも
の也。上野半國を修理に與ふと云とも、佐野彼に屬すれば皆取たる同事也。
太閤、東照宮を關東に封じて後、甲州を信義不二の加藤遠江に與ふ。遠江高麗にて病死すと注進あり
て、{{r|卽日|そくじつ}}に淺野彈正に{{r|與|あた}}ふ。甲州は關東の押へ第一の要地也。
太閤小田原開陣の後、蒲生飛彈守を會津へ{{r|封|ほう}}ず。會津は大事の要地也。且上野より路通じて、若武藏
相模に事あれば、上野佐野より一{{r|檄|げき}}を傳へて、少も働さざるため也。
駿河一國十八萬石を中村式部に{{r|與|あた}}ふ。式部六千石宛十人にあたへ、其外多く人數を{{r|貯|たくは}}ふ。式部常に云
ふは、{{r|若|もし}}關東に事有時は、吾人數を率ゐて、豆州に{{r|出|いで}}て戰はん。城中に一人も殘さじ。太閤の人を呼
寄て城を守らしめんと。
石田治部少輔、太閤御存生の時、{{r|權柄|けんぺい}}を專にする故に、人を讒すること多し。是故に諸︀大名{{r|恨|うらみ}}有もの
少なからず。太閤{{r|御他界|ごたかい}}の明年に、伏見にて已に事起り、早石田が館︀へ押寄伐亡さんとて、{{r|今晩|こんばん}}か
{{仮題|頁=228}}
{{r|明晩|みやうばん}}かと云程に有しを、東照宮和議に入りて宣ふは、先左あらんことに非ず。治部を澤山に遣し置て、
少も國政に參與させじとて、途中を護して澤山に{{r|遣|つかは}}す。治部澤山にて二十萬石{{r|領知|りやうち}}す。此時治部を
{{r|伐果|うちはた}}さんとせし{{r|統領|とうりやう}}は、加藤肥後、福︀島左衞門、加藤左馬、竹中丹後等也。治部は東照宮の恩を蒙りた
る者︀なり。
藤堂和泉守、當家の者︀と云へども、諸︀臣を待すること太閤の流なり。{{r|暇|いとま}}を乞者︀あれば、明朝茶を申さ
んとて、其座にて{{r|佩刀|はいたう}}を與へ、{{r|往先|ゆくさき}}おもはしからずば、又吾許へ來れ申通ぜんとて、{{r|少|すこし}}も{{r|留|とゞめ}}ざりけ
り。一度他に仕へて亦來りければ、本地を與ふる者︀多かりしとぞ。
石田慶長庚子の一事、其時まで知る者︀なし。前知る者︀は加藤肥後守一人也。是故に東照宮、景勝追討
のために關東へ進發、時に肥後守達て留む。石田{{r|必|かならず}}{{r|異心|いしん}}あらんと云。東照宮{{r|信|しん}}ぜずして遂に發す。是
故に諸︀將皆從て{{r|往|ゆ}}き、肥牧一人國に歸る。
景勝追討の時、相從ふ大名七人、少名四十六人、惣て上方御譜代ともに五十三頭なりといふ。江戶一
日ほどいでて、小山に至て上方より注進あり、石田謀反し、日本一味すと。東照宮及諸︀將大に{{仮題|編注=2|震|驚イ}}て云
ふことあたはず。卽日江戶に{{r|歸|かへ}}りて{{r|評定|ひやうぢやう}}あり。上方御譜代家各一人{{r|宛|づゝ}}召出して略を{{r|問|とふ}}。答ることあた
はず。上方衆の中、只福︀島左衞門一人{{r|前|すゝ}}んで云。太閤遺言の如く、秀賴を立給はゞ、前手を致さんと
云。諸︀將是時に皆同す。左馬も言ことあたはず。福︀島{{r|言出|いひいだ}}して後、吾心も如此しと云。譜代の衆一人
も言出す者︀なし。只井伊兵部進んで云、我先手致さんと云。{{r|評定|ひやうぢやう}}畢て後、諸︀將皆云ふ、妻子人質と成
てあり。此爲なる程に、一旦{{r|僞|いつはつ}}て降參せんと云。東照宮{{r|許|ゆる}}す。諸︀將討立て上方へ上る。然れども東照
宮の後陣至らず。七月に事起りて、九月に漸至る。美濃{{r|靑野|あをの}}野ヶ原にて合戰有しに、初は治部方利有り。
後に筑前中納言殿岐阜を{{r|以|もつ}}て降參す。是故に{{r|敗軍|はいぐん}}す。
明智信長を弑する時、太閤は討手に出られ、高松の城より{{r|歸|かへ}}る。路次尼崎の寺に入て、法體して上り
給ふ。素衣白馬の心なり。其寺今に寺領ありとぞ。
太閤に諸︀大名出仕すれば多留て饗す。或は{{r|碁象戲|ごしやうぎ}}、或は{{r|亂舞|らんぶ}}、好に{{r|隨|したがつ}}て遊ぶ。太閤常に云、能き{{r|夢|ゆめ}}を
見する哉と口癖に宣ふとぞ。
太閤常に身を輕うす。{{r|德善院|とくぜんゐん}}諫む。太閤云、天下に我に勝る主なし、誰か謀反せんと。
肥後の天草宇土の城を、故肥後守攻らるゝ時云ふ、出て戰はん者︀一人も覺えず。南條{{仮題|編注=2|玄澤|玄蕃イ}}一人出づべ
し、各討取れと下知す。案の如く玄澤出て戰ふとぞ。{{r|宇土|うど}}の城は小西攝津守が居城なり。玄澤は小西
が臣、領知三千石なり。
陣小屋を取おきにして、馬二駄に付るやうに{{r|拵|こしらへ}}たるは、細川越中なり。一間半に五間也。柱は樫の木
を細くし、根に{{r|鐵|てつ}}を以石突︀をなす。上四方は桐油布也。本國と江戶と京と三ヶ所にこしらへ{{r|置|おき}}けり。
明智坂本に城を{{r|築|きづ}}く時、三甫と云者︀、波間よりかさねあげてや雲の峯といふ發句をす。明智{{r|脇|わき}}の句に、
{{仮題|頁=229}}
磯山つたひ茂る杉村と付る。明智歌學に達す。
小牧陣の時、先手より御馬を{{r|出|いだ}}されよと{{r|云來|いひきたる}}。太閤其時、伏見にて{{r|利休|りきう}}が茶の會の座にあり。{{r|路次|ろじ}}よ
り{{r|出|いで}}て尻をまくり、えいや{{く}}と云て、直に出陣し給ふ。
{{r|松永霜臺|まつながさうだい}}籠城の時、信長討手に太閤を遣す。箇條書を以注進す。某日外側を破る、某日二の丸を破る、
某日本丸を破る、某日霜臺が首を取ると、{{r|祐︀筆|いうひつ}}如何あらんと云。太閤云、かくせずば信長我を生さじ。
若ならずば死んと云。其日{{r|期|き}}の如く{{r|無理|むり}}に{{r|討破|うちやぶ}}り、首を筐に入て信長に報ず。信長云、是僞ならん。霜
臺は首に成ても、我前へ來る者︀に非ず。筑前{{仮題|編注=2|才智|上氣イ}}にて此事をなすと云。籠をひらけば果して然り。霜
臺つひに降せずして、鐵砲の{{r|藥|くすり}}に火をかけ自ら{{r|焚死|ふんし}}す。
太閤の柴田勝家を征する時、城に火の手上るを見て、其まゝ{{r|越中|ゑつちう}}へ赴き、佐々陸奧守を征す。勝家が
首を見ざれども、左樣のことをも何とも思はれざる也。神︀速無比の人なり。
堀左衞門、家に哭面の武士を{{r|扶持|ふち}}す。人不用の物と云。左衞門が云、{{r|弔|とぶらひ}}に遣すに{{r|可{{レ}}然|しかるべし}}。人の家に{{仮題|編注=2|長物|あまりものイ}}
はなきものとぞ。
堀左衞門傑出の人也。太閤甚愛す。早死す。太閤の心には、かれ死せずば關八州を{{r|與|あた}}へんと思へりと
ぞ。
大事の使を兩人に命ずる事も、左衞門なすこと也。家臣に堀監物と云者︀も勝たる者︀也。丹後父也。左
衞門死する時、{{r|跡目|あとめ}}の事遲々也。監物怒て云、左衞門多年の{{r|勳功|くんこう}}あり。跡目立られずば、某參て御前
緣を{{r|汚|けが}}さんと云。遂に{{r|跡無{{二}}相違{{一}}|あとさうゐなし}}。子は久太郞也。愚甚し。
太閤萬事早速也。或時{{r|右筆|いうひつ}}醍醐の{{r|醍|だい}}の字を{{r|忘|わす}}る。太閤{{r|指|ゆび}}を以て大の字を地に書して云、汝知らざるか
此の如く{{r|書|かく}}べしとぞ。又高麗の軍中に、奉書など下さるゝにも、繼たる紙に書、又は惡き所を墨︀にて
消し、是にて往けとて遣さるとぞ。{{仮題|分注=1|一本俊傑の人如此なる小技には|心はかけぬものとぞとあり。}}
太閤、柴田を討時、越前の{{r|國境|くにざかひ}}にて、{{r|毛受勝助|めんじゆかつすけ}}勝家に代て、金の幣を執て戰ふ。太閤はら{{く}}驅に往
て少ゆきあたり、やれとて{{r|人衆|にんず}}を呼び、{{r|備|そなへ}}をつくれ備をつくれと{{r|宣|のたま}}ふ。暫戰て毛受討死し、柴田退て
北の庄へ歸る。
姊川の合戰、東照宮の勝事也。信長、朝倉義景と{{r|對陣|たいぢん}}のとき、東照宮先陣を乞ふ。信長{{r|叱|しつ}}して云、田
舍者︀何とて{{r|能|よく}}せんと。東照宮{{r|固|かた}}く{{r|請|こふ}}。信長許す。卽時に川を渡して敵を破り給ふ。此時信長の前を去
る時、草履を{{r|橫|よこ}}ざまに御つけ有しとぞ。
信長甲斐の四郞と{{r|對陣|たいぢん}}の時、{{r|鳶|とび}}の{{r|巢|す}}の城を乘取ることを、酒井左衞門尉、信長に{{r|乞|こふ}}。信長{{r|叱|しつ}}して云、
又者︀の分として何とて能せんと。左衞門尉重ねて請はず。卽時に往て城を乘取とぞ。左衞門尉は東照
宮の家臣也。東照宮、甲斐、信濃、上野を所領し給ふ時、威勢獨盛也。今の{{仮題|編注=2|宮內父|四郞イ}}也。
東照宮語太吃す。人に對して常に善右衞門半右衞門とあり。善右衞門は阿倍伊豫守也{{仮題|分注=1|備中|守父}}半右衞門は
{{仮題|頁=230}}
{{r|牧野內匠|まきのたくみ}}也。此兩人出て{{r|應對|おうたい}}す。
{{r|信長|のぶなが}}、{{r|公方|くぼう}}を攻る時、{{r|公方|くぼう}}宇治の{{r|牧|まき}}の島の城にあり。時に{{r|五月雨|さみだれ}}しきりに、川水岸に餘る程也。信長
馬を水ぎはに立て、昔の梶原佐々木も鬼神︀にはあらじと云ふ。時に上流に馬武者︀一騎川へ打入るゝ者︀
あり。信長云、{{r|必|かならず}}梶川彌三郞ならん、他人にあらじと云。果して然り。佐久馬が軍これを見て、梶川
うたすなとて勢を{{r|盡|つく}}して打入れ、大に勝つ。彌三郞四五日前に、黑の馬を信長より拜領す。その時よ
り此事あらば{{r|先登|せんとう}}すべしと心に決す。彌三郞は甚{{r|博奕|ばくえき}}を好む者︀なりしとぞ。
太閤の時、又者︀の名高きは、刑部卿堀監物{{仮題|分注=1|左衞|門臣}}松井佐渡{{仮題|分注=1|肥後守|の臣}}
庄林隼人、鐵砲にて{{r|頭惱|づなう}}を擊拔れしは、伊勢の嶺の城を攻る時也。
秀賴伏見より{{r|上洛每|しやうらくごと}}に、御幸町通を來る。{{r|狹箱|はさみばこ}}の大さなる箱に、人形のあやつり有て、錢を入れば
{{r|轉倒|てんたう}}するを、每々步行の者︀負て興の先に行く。其時{{r|獨眼|どくがん}}の正宗、御幸町にて奪て取り、{{r|負|おう}}て{{r|輿|こし}}の先に行
きけるとぞ。伏見の豐後橋にて、東照宮の傘{{r|指|さし}}たる者︀と爭ひ取て、藤堂和泉指かけたるも正宗に同じ。
太閤、氏鄕を會津に封じて{{r|後出仕|のちしゆつし}}す。太閤他事を{{r|問|と}}はずして云、汝手を能く{{r|書|か}}けり、{{r|謠本|うたひぼん}}を一番{{r|書|かい}}て
{{r|吳|くれ}}よ、硯紙を{{r|持來|もちきた}}れと{{r|宣|のたま}}ふとぞ。君臣心安き間がらなり。
太閤或時宇喜多殿にて{{r|能|のう}}を見物し給ふ。庭に下り給ふ時に、東照宮下りて履を{{r|正|たゞ}}しうす。太閤手を以
て{{r|肩|かた}}を押へて、德川殿に履をなほさせ申すことよと宣ふとぞ。
氏鄕ある時諸︀士を饗す時、自から頭を{{r|裹|つゝみ}}て、{{r|風呂|ふろ}}の火を{{r|燒|たき}}しとぞ。
松平勘四郞忠勇の者︀也。今の山城守祖︀父也。山城守篠山城主。
額田小牧は皆尾張の內也。{{r|小牧|こまき}}は東、額田は西、{{r|額田|ぬかだ}}は太閤の陣なり。{{r|常眞|じやうしん}}{{r|大御所|おほごしよ}}は小牧にまします。
この時太閤方の先手蒲生飛驒細川{{仮題|編注=2|越中|山齋}}也。敵と相向ふの時、額田の東二里計に、{{r|二重堀|ふたへぼり}}といふ所にて、
越中は飛驒を捨ておひおろす。飛驒は路止て敵を{{r|拒|ふせ}}ぎ、太閤の陣へ來きすと也。亦{{r|長湫|ながくて}}と云は、此時太
閤方池田勝入、額田の北犬山に陣あり。犬山の東岩崎の城に、大御所方丹羽︀勘介籠る。犬山より額田
迄五里計り、勝入額田に{{r|往|ゆ}}き、太閤にまみえて云、能人衆を率ゐて三河に入り、敵の本鄕を{{r|燒討|やきうち}}にし
て、妻子を屠る程ならば、敵よも小牧にはこらへては居らじと申す。太閤云、思樣にはならじとて許
さず。{{r|勝入|しようにふ}}明日又{{r|往|ゆき}}て固く請て云ふ、今の計是に{{r|過|すぎ}}たるはなしと申す。太閤許す。勝入父子{{仮題|分注=1|勝九郞也三|左衞門父}}
共に發す。然れども岩崎の城を攻破らざれば、三河に入がたし。先岩崎に赴かんとす。勝入案內者︀な
れば、{{r|路次|ろじ}}の百姓に{{仮題|編注=2|運啓たらば、能せんと云觸れて|今度勝利あらば重く賞すべしとてイ}}、夜をこめて{{r|往|ゆ}}く。犬山岩崎の間に{{r|長湫|ながくて}}あり。勝
入の謀{{r|漏|も}}れて、大御所{{仮題|分注=1|大御所以下一本東照宮前夜より長湫に至給ひ勝入來るを今や{{く}}と待。勝入案內者︀なれば百姓等に此度の勝を得ば三年作り取にさせんといひつゝ長湫に至るに夜未だ明ず。東照宮方の軍勢しづまりかへつて
有、勝入の先手同勢をすぐつて東陣へ
とつてかゝる安藤帶刀云々につゞく。}}是を聞、前夜より長湫に至て、勝入の來るを待つ。尤案內者︀なれば、百
姓等に此度勝を得ば、三年作り取にさせんと云ふ。勝入長湫に至て{{r|夜未{{レ}}明|よいまだあけず}}。此時勝入の先手は、已に
岩崎に取かけ攻破と云。大御所方の軍勢しづまりて、先陣二番手の同勢を皆過して、本陣に{{r|取|と}}りかく。
{{仮題|頁=231}}
安藤帶刀先驅して、暗中に腰掛けたる法師武者︀を{{r|突︀|つ}}き{{r|斃|たふ}}す。勝入とは{{r|知|し}}らず、{{r|坊主首|ぼうずくび}}取りては{{r|面目|めんぼく}}なし
とて、また進んで子息勝九郞を{{r|擊殺︀|うちころ}}す。そのあとへ永井右近{{仮題|分注=1|信濃守|父なり}}來て、死首をやす{{く}}取て、後ま
で功にほこると云。此時森武藏守{{仮題|分注=1|勝入|婿也}}犬山より南にあり。三河に入、岡崎の城を取らんと思ふ心在て、
勝入を救はざりしが、急を{{r|吿|つげ}}ければ、是非なく北に向ふ。長湫へ二里計往つかずして、敵とくんで討
死す。本田八藏と云者︀首を獲しが、捨て小脇指ばかり取て歸る。武藏守と云ふことを知らざればなり。
後脇指を見知りたる者︀有て{{r|吿|つげ}}ければ、八藏又往て首を取らんとて、敵に逢て討ると。勝入敗死の後、榊
原式部、大須賀五郞左衞門、川を渡て敵に赴く。堀左衞門佐向て討破る。兩將こらへず、士卒を皆討
せて{{r|逃却|にげしりぞ}}く。井伊兵部來りければ、左衞問も新手を畏て退くとぞ。太閤此合戰の以後に、今度の戰我方
勝たり。大將三人{{r|討死|うちじに}}すといへども、首を獲ること{{r|數|かず}}多し。家康は自身戰、我は動かずとのたまふと
ぞ。或は云、勝入{{r|討|うた}}れたるは、一合戰して勝ち、後又敗軍して士卒を失ひ、つかれて獨歸るさに討れ
しとぞ。
額田の時、{{r|常眞|じやうしん}}大御所相{{r|謀|はかつ}}て云、一の宮{{仮題|分注=1|少かまへ|ありとぞ}}を守ずば、{{r|二重堀|ふたへぼり}}のはたらき成がたし。誰をか{{r|置|おか}}ん
と云。居て守らんと云者︀なし。太閤一撃に破らんことを{{r|畏|おそれ}}て也。時に菅沼氏{{仮題|分注=1|織部正|父なり}}進んで云ふ、我こ
こを{{r|守|まもる}}べし、{{r|守|まもり}}ならずば討死せんと云。遂に一の宮におく。太閤{{r|擊|うた}}ず。此菅沼一代の大功と成しとぞ。
細川越中守{{仮題|分注=1|山|齋}}終に戰功なし。一度信長{{r|死去|しきよ}}の年、甲斐國合戰に{{r|能陣|よくぢん}}を張れりとて太閤褒美す。この一
事のみと云。
明智初め細川幽齋の臣也。幽齋の家老米田助左衞門など惡しくあたりければ、明智こらへず信長に歸
し、遂に丹波一國{{仮題|分注=1|五十萬|石計}}近江にて{{仮題|編注=2|十萬石|十一イ}}を所領す。明智常に云、全く米田が{{r|蔭|かげ}}なりと。是故に山齋を
{{r|婿|むこ}}とす。
信長、明智に{{r|命|めい}}じて、太閤西國討手加勢に{{r|遣|つかは}}す。是故に軍勢を御目にかくると云に{{r|託|たく}}して、丹波より
{{r|上洛|しやうらく}}す。壬午六月二日也。實は信長を弑せん爲也。故に早々{{r|軍立|いくさだて}}して、大江坂を{{r|越|こえ}}て田の水{{r|白|しろ}}く見ゆ。
其より田の中とも云はず、眞直に早驅すと云。明智初め取みだす事共あり。五月{{r|愛宕|あたご}}に{{r|登|のぼり}}て{{r|連歌|れんが}}あり。
{{r|紹巴|ぜうは}}至る。明智{{r|遽|あわ}}てゝ人に問て云、本能寺の堀は深きかと。紹巴聞て云、{{r|物體|もつたい}}なき事を思召立やと云
へりとぞ。
明智、龜山の北、愛宕山のつゞきたる山に、城郭を{{r|構|かま}}ふ。この山を{{r|周山|しうざん}}と號す。自らを{{r|周武王|しうのぶわう}}に比し、
信長を{{r|殷紂|いんちう}}に比す。これ謀反の{{r|宿志|しゆくし}}なり。
筑前守は信長の手の者︀の樣にて、其上{{r|磊落|らいらく}}の氣質なれば、人に對して辭常におごれり。明智は{{r|外樣|とざま}}の
やうに、其上謹︀厚の人なれば、辭常にうや{{く}}し。或時筑前守、明智に云ふ樣は、わぬしは{{r|周山|しうざん}}に
{{r|夜普請|よぶしん}}をして謀反を{{r|企|くはだつ}}と人皆云ふ、如何と。明智答云、やくたいも無きことを云やとて、笑て{{r|止|や}}みにけ
りとぞ。{{nop}}
{{仮題|頁=232}}
高麗の役に、已に其都︀を攻め取て後、淸正{{r|前|すゝ}}み行事三十里計、諸︀軍都︀に居て守る。食已に{{r|盡|つ}}き、諸︀軍
堪がたし。皆云、{{r|都︀|みやこ}}を去て糧に{{r|就|つか}}んと。獨り加藤遠江云、淸正は{{r|已|すで}}に{{r|前|すゝ}}み行くこと卅里、今都︀を{{r|守|まも}}ら
ずして去る者︀は男はなるまじと。皆云、{{r|食|しよく}}なしと。遠江云、{{r|砂|すな}}を{{r|食|く}}はんと。皆云、{{r|砂|すな}}くはれじと。遠
江云、{{r|砂|すな}}の{{r|食|く}}ひ{{r|樣|やう}}あり、せがれどもしらじと。又福︀島に謂て云、一松、{{仮題|分注=1|左衞門大|夫小字}}いつのまに大きくなり
たるぞと。又備前中納言殿に謂て云、今迄は中納言樣と云き。{{r|自今|じこん}}以後中納言めと云べしと。其日の
{{r|晩|ばん}}、淸正歸て都︀より三里計に{{r|陣|ぢん}}を張り、{{r|使|つかひ}}を遠江方へ立て、我今此所を守て、敵を來さじ。安々と兵
糧を{{r|取寄|とりよす}}べしと云送る。誠に{{r|天命|てんめい}}也。
太閤の時分は、屋を{{r|造|つくる}}に{{r|指圖|さしづ}}と云ことを云はず、{{r|御繩張|おんなはばり}}と云ふ。太閤天下を得て後、御繩張ありし時、
{{r|水棚|みづだな}}の繩張を、人見て向ひへ短し、臺所に相應せずと云。太閤のたまふ、天下を得といへども、人の
手長く成べからず、向へ長くする理有べからず。
治部少輔亂の年、津田長門守{{仮題|分注=1|所領二|萬石}}と云人、{{r|鞍馬詣|くらまゝうで}}の歸さに、加茂にて女の{{r|乘|のり}}たる興をあけて見たり。
此女後藤長乘が妻也。光乘と云老人附たり。長乘が伯父也。長門が所謂を見て云、是は長乘が{{r|妻也|つま}}。長
門殿{{r|見知|みしり}}たり。{{r|比興|ひけう}}なることをあそばすと恥しめり。長乘は東照宮{{r|御懇志|ごこんし}}の者︀なれば、長門守身上あ
やふしと人皆云へり。其秋{{r|改易|かいえき}}せらる。東照宮亂やみて御上洛ありし時、桑名へ{{r|迎|むかひ}}に出て直に申上し
とぞ。
太閤、加藤左馬に{{r|出|いだ}}す{{r|感狀|かんじやう}}に、大名に臆病者︀ありと云ふことを書れたり。是は豐後に{{r|大伴|おほとも}}とて大名あ
り、是が事也と云。
淸正初め所領三千石、太閤に{{r|言上|ごんじやう}}し、肥後半國を{{r|討取|うちと}}り直に{{r|拜領|はいりやう}}す。二十五萬石計。
太閤の時分、{{r|伊賀|いが}}をば筒井伊賀守所{{r|領|りやう}}す。十萬石計也。{{r|脇坂甚內|わきざかじんない}}領知三千石なりし。太閤に言上して
往て{{r|討取|うちとる}}。
三好と人の云傳るは、三好修理大夫也。本は細川の家臣也。細川を{{r|滅|ほろぼ}}して一家繁︀昌す。修理大夫は光
源院殿亂以前に{{r|病死|びやうし}}す。此內に三人衆とて、おもたる三人の臣あり。三好日向守と云も其一人也。永
祿八年に義輝を弑せしは此三人衆也。修理を昔は人{{r|呼|よび}}て{{仮題|編注=2|將作|作佐イ}}と云しとぞ。三人衆とは不和なり。
松永霜臺は、三好が臣也、{{仮題|分注=1|修理大夫|の乳父也}}三人衆とは不和也。後信長に屬しけれども、信長美濃尾張の氣習に
て{{r|疎暴|そばう}}なれば、終に我身{{r|安|やす}}からじと思ふにや、大和志貴の{{r|毘沙門堂|びしやもんだう}}に城を{{r|構|かま}}へ{{r|謀反|むほん}}す。此時討手に城
介殿を遣す。城中人數{{r|少|すくな}}かりければ、大阪邊へ加勢を{{r|乞|こ}}ひ{{r|遣|つかは}}す。其使を{{r|執|とら}}へて城中の案內を{{r|能聞|よくき}}き、
加勢來れりとてたばかり、門を{{r|開|ひらか}}せて押入遂に城を落す。霜臺は{{r|秘藏|ひさう}}の茄子の茶入平蜘蛛と{{r|云|いふ}}{{r|釜|かま}}を打
碎きて、其のち自殺︀す。子をば右衞門大輔と{{r|云|いふ}}。大阪の方へ{{r|落|おと}}しけれども、{{r|路次|ろじ}}にて{{r|雜兵|ざふひやう}}に殺︀さる。
{{r|人質|ひとじち}}の子をば捨て謀反す。信長の方にあり、{{r|庶子也|しよしなり}}春松といふ。{{r|霜臺|さうだい}}{{r|亡|ほろ}}びて後、車にて{{r|大路|おほぢ}}を渡して、
六條河原にて{{r|誅|ちう}}す、年十三歲也。老人と同年なり。{{nop}}
{{仮題|頁=233}}
信長の{{r|時分|じぶん}}は、辨當と{{r|云物|いふもの}}なし。{{r|安土|あづち}}に出來し{{r|辨當|べんたう}}と云物あり。小芋程の內に諸︀道具をさまるといふ。
{{r|僞|いつはり}}ならんとて{{r|信|しん}}ぜぬ者︀ありしとぞ。又{{r|狹箱|はさみばこ}}と云ふ物なし。狹竹と云物を用ひたる也。狹筥は大阪の津
田長門守初て製するとぞ。
靈陽院殿は、{{r|光源院|くわうげんゐん}}殿の弟にて、南部一乘院の{{r|門跡|もんぜき}}にすわりておはす。三好が光源院殿を永祿八年に
弑せしより、一乘院殿なげき給ひて、方々の大名を{{r|賴|たのみ}}けれども{{r|承引|しよういん}}せず。岐阜に{{r|往|ゆ}}き信長へ言入れ{{r|給|たま}}
くは、信長尤やすき事なれ、天下を取て與へんとて、同道して{{r|上|のぼ}}り、三好が黨を討て、靈陽院殿を天
下の主と{{r|定|さだ}}め、本國寺に置て能守り給へとて、{{r|頓|やが}}て又岐阜へ歸れり。信長本國寺におはせし時、攝津
の邊池田伊丹など云ふ者︀等、禮を申て{{r|歸服|きふく}}す。信長岐阜へ{{r|歸|かへ}}られし{{r|後|のち}}、三好が餘黨尼崎邊に居たる者︀
ども、又發り來て本國寺を{{r|攻|せ}}む、是を本國寺合戰と云、永祿十一年比也。本國寺已に{{r|外郭|ぐわいくわく}}を攻め{{r|破|やぶ}}られ
て、{{r|藪一重|やぶひとへ}}になりけれども、初信長へ服したる伊丹池田等來て、三好黨を討亡して、遂に昌山{{r|恙|つゝが}}なし。
信長も早速驅來らるれども、旣に亂しづまりて後也。さて本國寺にも{{r|心元|こゝろもと}}なしとて、室町武衞陣に城
を{{r|築|つい}}て、昌山をすゑらる。今の武衞陣東側は{{r|石垣|いしがき}}なり、西側は{{r|町屋|まちや}}なり。家中の武士は、面々屋を構
へよとの事なれば、本國寺の{{r|宿坊|しゆくぼう}}を皆引取て家居とせり。信長靈陽院公方は恩有し人なり。然るに{{r|其後|そののち}}
信玄にたらされ、一味して信長に謀反す。信長其儘上りて、城を攻落す。公方{{r|逃|に}}げて宇治の{{r|牧島|まきしま}}の城
に籠れり。牧島の城は公方に屬したる小城なり。信長又進驅、牧島の城を乘破る。公方逃て、西國に
て、毛利を{{r|恃|たのみ}}て{{r|隱居|かくれゐ}}る。後太閤の御代に、傳を以て出られけり。公方の末とて、所領もいかめしから
んと思はれしに、{{r|讒|わづか}}に二百石をあたへて咄の者︀とす。後病死す。
信長城を{{r|武衞陣|ぶゑいのぢん}}に{{r|築|きづ}}き、{{r|公方|くばう}}をすゑて慶賀の能あり。老人も四歲ばかりにて、乳母に抱かれて見物す。
其日信長は小鼓を擊れしなり。長岡山齋は老人に歲長じ、六歲ばかりにて猩々を一番舞れし。其時歸
りに門外にて、盜に後ろの紐を切られしことを覺たりと語れり。其比は盜人刀のかうがい小刀抔を拔
取ことを得たり。是故に盜をぬきと云し。今のすりと云が如し。
太閤は明智が謀反の時は、高松の城に{{r|有|あり}}。備前は已にしたがへり。備前は宇喜多殿也。宰相殿は幼少
也。父は{{r|腰拔|こしぬけ}}て用に{{r|立|たゝ}}ず。家老に岡野豐前といふ者︀才ある者︀也、太閤に一味し、味方を{{r|致|いた}}さんといふ。
{{仮題|分注=1|此時宰相殿を婿に|せんと云約あり。}}是故に備前を{{r|通|とほ}}りて、備中高松の城へ{{r|取|とり}}かく。此城は毛利家の城にて、{{r|毛利|もうり}}の臣城を
構へて居る也。{{r|水攻|みづぜめ}}にして已に{{r|落城|らくじやう}}せんとする時、明智謀反の事{{r|注進|ちうしん}}あり。此故に和議にして大將ば
かり{{r|切腹|せつぷく}}し、諸︀卒を助けられけり。大將{{r|筏|いかだ}}に乘て腹切たりと云。明智事注進ありし、太閤はかり知れ
り。敵方も{{r|聞|きゝ}}たりと{{r|云|いふ}}は{{r|非|ひ}}なり。
{{仮題|ここまで=老人雑話/乾之巻}}
{{仮題|ここから=老人雑話/坤之巻}}
{{仮題|頁=234}}
{{仮題|投錨=坤之卷|見出=中|節=r-2|副題=|錨}}
佐々陸奧守は信長の{{r|譜代|ふだい}}の家也、柴田などと同じ。信長{{r|死去|しきよ}}の{{r|後|のち}}太閤{{r|討|う}}つ。降參して坊主に成りて大
津へ{{r|來|きた}}れり。此時太閤大津の城に居て、禮を{{r|受|う}}く。陸奧入道大津の{{r|城中|じやうちう}}にて、{{r|武道物語|ぶだうものがたり}}ありしに、淺
野彈正殿{{仮題|分注=1|紀伊守父治部と兩|輪の出頭人なり。}}を散々に{{r|叱|しつ}}す。武道の事、わぬしらの知ることに非ずと云。{{r|人聞|ひときい}}て{{r|後|のち}}にあしか
りなんと皆云ふ。太閤肥後半國を陸奧守に{{r|與|あた}}ふ。{{仮題|分注=1|半國に主計|殿の領也。}}入部の後{{r|一揆|いつき}}{{r|度々|たび{{く}}}}{{r|發|おこ}}り、{{r|樣子|やうす}}{{r|惡|あし}}かりければ
身上{{r|果|はて}}たり。彈正殿のさゝへも有しと云ふ。陸奧守入道號は道閑、尼崎の寺にて{{r|自滅|じめつ}}、尼崎に石塔{{r|有|あり}}
と{{r|云|いふ}}。
土佐は蓮池氏の人、昔より{{r|領|りやう}}して、近代まで{{r|其子孫|そのしそん}}あり。先祖︀、賴朝の弟土佐冠者︀希義を殺︀して、
{{r|土佐|とさ}}を{{r|取|とり}}し者︀也。近世長曾我部元親{{r|討滅|たうめつ}}して、土佐を領す。
大內介は、西國一の{{r|大名|だいみやう}}なりし。周防の山口の城に居る。紙を大明へつかはし、書物をすらせて{{r|取寄|とりよせ}}
けり。今に{{r|至|いたつ}}て山口本とも、大內本とも云。此臣に{{r|陶氏|すゑうぢ}}あり。{{r|陶|すゑ}}、{{r|後|のち}}に大內を取てのけ{{r|繁︀昌|はんじやう}}しけり。
大內子孫微にして、信長の時分まで有しとぞ。毛利元就、{{r|陶|すゑ}}{{r|尼子|あまこ}}{{r|等|ら}}を滅して大名と{{r|成|なり}}、元就の父を{{仮題|編注=2|弘|康イ}}
元と{{r|云|いふ}}。此時はいまた{{r|微々也|びゞなり}}。
伊豫は{{r|河野|かうの}}と云者︀{{r|領|りやう}}す。義經を伊豫守に{{r|任|にん}}ぜらるゝ時、{{r|誅伐|ちうばつ}}せらるゝこと有、義經一代の{{r|不覺|ふかく}}{{r|也|なり}}。其
子孫信長の時迄あり。
丹後には{{r|一色|いつしき}}とて{{r|屋形|やかた}}あり。信長天下を{{r|得|え}}て後、細川幽齋に丹後一國を{{r|與|あた}}ふ。一色をば婿にして、幽
齋所領の內纔に{{r|與|あた}}へて、弓の本と云城に居らしむ。信長{{r|死去|しきよ}}の明日、{{仮題|編注=2|幽|山イ}}齋御屋形を呼寄て、手擊にし
て城をも取れり。御屋形は幽齋の{{r|姊婿也|あねむこなり}}。其時に米田監物と云物刀を持來て、誤て幽齋右の傍に{{r|置|おく}}。
幽齋{{r|執|と}}らんとするに{{r|便|たより}}あしゝ。米田さとつて傍へゆく。{{r|次|つい}}でに、{{r|過|あやま}}ちのやうに、足にて{{r|刀|かたな}}を{{r|蹴|け}}て取な
ほす樣にて、左の{{r|傍|わき}}に置く。{{r|盃酒|はいしゆ}}の間に{{r|幽齋|いうさい}}とつて、{{r|拔擊|ぬきうち}}に{{r|斬|きつ}}てけるとぞ。
太閤高野山へ{{r|參詣|さんけい}}の時、{{r|割粥|わりがゆ}}を{{r|進|すゝ}}めよとのたまふ。{{r|暫|しばらく}}ありて料理人調て{{r|參|まゐ}}らす。太閤{{r|喜|よろこび}}て云、高野山
には{{r|臼|うす}}{{r|無|な}}き{{r|所|ところ}}也。我が割粥を{{r|食|くは}}んことを{{r|知|し}}りて持來る、料理人才覺の至也と云。實は{{r|持來|もちきた}}らず。{{r|俄|にはか}}に
多人數にて{{r|俎|まないた}}の上にてきざみ{{r|割粥|わりがゆ}}となせり。後に咄の{{r|次|ついで}}に{{r|申|まうし}}ければ、大に怒て云、無くはなしと云て、
常の{{r|粥|かゆ}}を出さんに、何の仔細かあらん。我力には一粒{{r|宛|つづ}}けづりて{{r|食|く}}ふも、心の{{r|儘|まゝ}}なれども、左樣のお
ごりけることはせぬもの也とて怒られしとぞ。
福︀島左衞門、加藤主計は、{{r|志津|しづ}}ヶ{{r|嶽|たけ}}の時分は二百石の身上也。志津嶽{{r|高名|かうみやう}}の後、七{{r|本鑓|ほんやり}}の衆中は大方
三千石被下、左衞門は五千石に成る。{{r|後|のち}}{{r|播州龍野|ばんしうたつの}}にて六萬石、又後尾陽にて二十萬石、後安藝にて五
十萬石に{{r|成|なる}}。{{r|福︀島|ふくしま}}{{r|志津嶽|しづがたけ}}軍法破りし罪に依て、{{r|刀脇指|かたなわきざし}}を{{r|取|とら}}れて、{{r|御勘氣|ごかんき}}{{r|蒙|かうふ}}りて居たりしが、隱出て高
名す。當時は太閤{{r|怒|いか}}り{{r|給|たま}}へども、實は{{r|喜|よろこ}}べる故、恩賞他に勝れたり。{{nop}}
{{仮題|頁=235}}
難︀波の{{r|役|えき}}、冬陣に大名中に白銀を{{r|分|わか}}ち{{r|下|くだ}}さる。加賀、仙臺、薩摩などは別しての大名なれば、
{{r|台德院殿|たいとくゐんでん}}より白銀三百枚、東照宮より二百枚、合五百枚づつ下さる。森作州等の大名には、二百枚と百枚と
合て三百枚下さる。作州は其時{{r|卽日|そくじつ}}に、京の町人より借りたる銀を{{r|償|つくの}}はれたり。人の{{r|感|かんじ}}たる事也。
{{r|信玄方|しんげんがた}}より昌山を誘て、信長は元來むごき人也。後に{{r|爲|ため}}{{r|惡|あし}}かりなん。今此方と一{{r|味|み}}し、攻め亡しなば、
後安堵せしめんと云。昌山{{r|不覺人|ふかくじん}}也、{{r|諾|だく}}して謀反す。昌山は{{r|人衆|にんじゆ}}も寡きによりて、京の口々を町人を
{{r|差遣|さしつかは}}して守らしむ。今の{{r|東洞院|ひがしのとゐ}}東かはゝ{{r|堀|ほり}}也。{{r|今出川口|いまでがはぐち}}も、今の所より西にあり。信長注進を聞き、
少も{{r|待|また}}ず{{r|上洛|しやうらく}}す。洛城へ直に寄せず、知恩院に{{r|陣|ぢん}}を取り、在鄕などを{{r|燒拂|やきはら}}はれたり。其內に西陣より
{{r|自燒|じせう}}をして、京の町三條より上は大方燒たり。{{r|町人等|ちやうにんら}}も其れより{{r|落|おち}}て、{{r|愛宕|あたご}}、{{r|高雄|たかを}}、{{r|中鄕|なかゞう}}なんど云所
へ、妻子ともに引越て隱居る。京の城もはだか城になり{{r|守難︀|まもりがた}}く見えしに、又あつかひに成て、宇治の
牧島の小城に往て居れり。又事發て、信長取かけ攻落す。公方は西國に往て、毛利を{{r|賴|たの}}み{{r|隱|かく}}れ居れり。
此時は信長岐阜におはし、未だ安土の城なし。扨越前の朝倉を攻て一門を討滅し、柴田を越前にすゑ
置、其後は東には信玄、西には大阪の城に、本願寺門跡{{仮題|分注=1|今の|祖︀父}}こもれり。兩方の{{r|働|はたら}}きに{{r|殊外|ことのほか}}苦勞す。一
年に兩度つゝ大阪寄ありけれども、且方多く、又は紀伊の地侍おほく擅越なる故、度々加勢し落着せ
ざりけり。漸々あつかひに成り、{{r|城|しろ}}を渡さんとしければ、又門跡{{仮題|分注=1|今の|親}}の子{{r|同心|どうしん}}せず。父とも{{r|不和|ふわ}}にな
り、一年程{{r|籠|こも}}れり。父紀州に居る故、紀州の加勢來らず。因之一年計ありて、又あつかひになり城を
渡せり。扨東照宮は濱松におはします。信玄方より度々攻寄られ難︀義なりしを、信長救はれけるによ
り{{r|別條|べつでう}}なし。{{r|駿府|すんぷ}}には穴山と云大名居れり。東照宮と共に信長に歸す。ある時、兩人同道して上京あ
りて、方々見物す。京より大阪和泉へ{{r|往|ゆ}}く。堺に御座す內、明智謀反して信長を弑す。是より兩人伊
勢路を越へ本國へ歸る。穴山路次にて一{{r|揆|き}}に殺︀さるゝと云、又東照宮の{{r|所爲|しよゐ}}なりとも云。さて駿府も
安く東照宮の御手に入る。甲州に河尻與兵衞と云者︀居けるが、是も東照宮討滅して取れり。甲州は
{{r|畢竟|ひつきやう}}信玄の子の代に{{r|亡|ほろ}}び、信長に攻付られ{{r|天目山|てんもくさん}}に自殺︀す。
森武藏守、{{r|本地|ほんぢ}}は美濃の金山と云所を七萬石{{r|所領|しよりやう}}す。信長の時、信濃川中島を{{r|與|あた}}ふ。往て間もなく一
揆{{r|發|おこ}}り、山も野も{{r|皆|みな}}敵也。{{r|人質|ひとじち}}五十人を前に立て、討拔けて本地に歸る。{{r|前代未聞|ぜんだいみもん}}の功名也。其路猿
ヶ峠と云所まて來り、もはや敵の追かくる念なかりければ、人質五十人を並て、武藏守こと{{ぐ}}く
{{r|手擊|てうち}}にせられしとぞ。
河井攝津守は、太閤の時の{{r|代官|だいくわん}}也。所領五千石。或人太閤に云、攝津守勘定を聞せられよと云。太閤
云、かれは能にすけり。先づ勘定無用也。遲からぬことよと{{r|宣|のたま}}ひしとぞ。
氏直と和儀を相傳ること{{r|綿々|めん{{く}}}}也。氏直方より云ば、{{r|諏訪峠|すはたうげ}}より東に八萬石の領地、氏直が領ならでは
{{r|叶|かなは}}ぬ所也。此を渡されば{{r|上洛|しやうらく}}せんと云。太閤{{r|與|あた}}へんと{{r|宣|のたま}}ふ。諸︀臣同ぜず。太閤云、八萬石の地を{{r|惜|をし}}み
諸︀卒を遠國の合戰に勞すること{{r|不便|ふびん}}なり。是を與へて後{{r|上洛|しやうらく}}せず、異變あらば其時軍を發せん。{{r|士卒|しそつ}}
{{仮題|頁=236}}
の{{r|力倍|ちからばいす}}べしと{{r|宣|のたま}}ふ、果して然り。
福︀島左衞門家臣に名高き者︀多し。福︀島丹後、村上彥右衞門、{{仮題|分注=1|後紀伊|に仕ふ}}大崎玄蕃、蒲田彌吉、可兒才藏、上
月、大橋、{{仮題|分注=1|茂左|衞門}}吉村、{{仮題|分注=1|又左|衞門}}抔は小姓達にて、當時彼等が數に入らず。
聚落以後、大阪に造作の事あり。其勘定日數をへければ、太閤見給ひて、汝等が勘定はかどらぬは、
定て材木等に利を得させんとならん。彼等が持る寶も、吾家にある寶も同じ。我用事有て取らんに、
誰れいなと云はん。早く事を計へと{{r|宣|のたま}}ふ。
信長の時は禁中の微に成しこと、邊土の民屋にことならず。{{r|築地|ついじ}}抔はなく、竹の垣に{{r|茨|いばら}}などゆひつけ
たるさまなり。老人兒童の時は遊びに往て、緣にて土などねやし、破れたる簾を折節︀あけて見れば、
人も無き體也。信長{{r|知行|ちぎやう}}などつけられ、造作など{{r|寄進|きしん}}ありし故に、少し{{r|禁中|きんちう}}の居なし能なりたり。是
によつて信長を{{r|御崇敬|ごそうけい}}ありて、高官にも{{r|進|すゝ}}めらる。禁中、信長の時より興隆︀すと雖ども、太閤の初め
までは、いまだ微々なり。近衞殿に歌の會などあるに、三{{r|方|ばう}}の{{r|臺|だい}}、色あくまで黑きに、ころ{{く}}とす
る赤小豆餅をのせて{{r|出|いだ}}されたり。然れども歌は今時の人に十倍す。
{{r|常磐井殿|ときはゐどの}}と云{{r|公家|くげ}}に、目見をのぞむ人あり。媒介の人云入れけれは、夏衣裳にては{{r|恥|はづ}}かしきと{{r|宣|のたま}}ふ。
苦しからずとて具して行たり。彼人も夏の裝束の事ならんと思ひしに、帷子も{{r|無|なく}}て、蚊張を身に{{r|卷|まき}}て
あはれしとぞ。信長の時分也。
觀世黑雪は宗雪が孫也。宗雪子無し。寶生太夫が子を養子とす。三郞と云。黑雪は三郞が子なり。宗
雪も三郞も、東照宮御ねんごろにて、兩人共に三河にて死す。今に至て觀世の家、御家の太夫なるは
此故也。相國寺石橋兩度の大能ありしに、初度は宗雪、後の度は三郞が太夫なり。是は百年計以前の
事也。脇は小次郞、大鼓は高安道善など出づ。小次郞一の弟子に堀池宗室と云ものあり。二日の能に、
張良を二度芝居より所望しければ、宗室にさせたり。
樋の口と云大鼓の上手、津國より來て京にて時めきける。道善よりはるかに後なり。太閤の時分なり。
樋の口が大鼓は老人も度々聞たり。石井了雲が姪に、石井傳右衞門と云ふ者︀あり。新在家南町に居る。
彼が亭にて拍子ありて、樋の口が擊けるをも聞く、是が聞をさめ也。了雲も擊たり。樋の口は太閤の
御前に御用ありて、拍子二番すぎて來る。笛は一增也。樋の口、一增に御老僧︀いざ一番仕らんと云。
一增は此時老人なりしとぞ。
一增は豐後の者︀にて、備中屋と云者︀也。一增京へ來てより、牛尾など云笛吹も音を入れけり。其比笛彥
兵衞木野など云ふ笛の上手ありしとぞ。桑垣元二と云ふ鼓者︀名高し。觀世又次郞などより先輩なり。
道成寺など有る時は、又次郞よりは桑垣が擊ちたる事おほし。桑垣は宮增が弟子にて男色也。鼓はす
ぐれざれども、物を知りたること比なし。
小次郞は信長の時分{{r|脇上手|わきじやうず}}也と云。信長の{{r|初|はじめ}}の{{r|比|ころ}}なり。小次郞が嫡子に彌次郞と云あり。是も脇の
{{仮題|頁=237}}
{{r|上手|じやうず}}にて、小次郞に{{r|劣|おと}}るまじと云。是は大德寺やらんに能ありて、{{r|歸|かへ}}るさに僕に{{r|殺︀|ころ}}されたり。勝れたる
{{r|男色|なんしよく}}也し。其弟に了室と{{r|云|いふ}}あり。近比まで存生す。是は{{r|脇|わき}}は下手なり。
太閤{{r|內裏|だいり}}にての{{r|能|のう}}度々の事也。其比{{r|謠|うたひ}}を{{r|作|つくり}}て、明智討高野詣などいふあり。高野詣には大政所の幽靈
出給ひて、あら有難︀の御弔やと云ことあり。太閤、東照宮、加賀大納言殿と三人狂言もあり。毛利輝
元{{r|鼓|つゞみ}}をうたれし事もあり。道智當手になることもあり。明智討に明智になるは、其比山崎に居りし太
夫吳松なり。
大藏道智は、元來猿樂の家にて南都︀に居る。道意は東洞院三本木に居る。道智は大鼓の{{r|上手|じやうず}}、道意は
{{r|小鼓|こつゞみ}}の{{r|上手|じやうず}}也。拍子かけ聲鳴音、殘所なき古今の上手也と皆人云へり。道智が弟にて、年は二十計も
下なれば、道意に鼓を習たるものは今も多しと也。道智が子は平藏とて、平藏が娣の子は源右衞門也。
平藏は{{r|早世|さうせい}}す。源右衞門鼓は大藏宗悅全取立たり。宗悅は六{{r|藏|ざう}}とて、今の長右衞門父也。{{r|伊勢|いせ}}の{{r|津|つ}}の
者︀也。道智{{r|參宮|さんぐう}}の{{r|次|ついで}}に鼓を聞て、よき鼓にならんとて{{r|敎|をしへ}}たる也。大鼓餘りに{{r|器︀用|きよう}}成によつて、平藏が
ために如何と思ひて、{{r|小鼓|こつゞみ}}に取立つ。
大藏道智は{{r|道意入道|だういにふだう}}と云者︀の子也。今春及蓮が弟也。道意は宮增が弟子也しを、{{r|道入|だうにふ}}{{r|同心|どうしん}}になくして、
宮增が師にて{{r|美濃權頭|みのゝごんのかみ}}が{{r|直弟子|ぢきでし}}となる。宮增は{{r|美濃權頭|みのゝごんのかみ}}が{{r|弟子|でし}}なり。
法華亂と云は、承應二年より百二十年計り以前のこと也。老人の父旣在など一二歲の比と{{r|聞|きこ}}えたり。
日蓮宗行はれて、京中に寺々多く成けるに、比叡山より盡く{{r|追放|つゐはう}}せんとす。法華宗是を{{r|拒|ふせ}}ぎ大なる合
戰有。今の新在家の者︀に、法花宗の檀那多し。合戰の時{{r|討死|うちじに}}したる人{{r|數多也|あまたなり}}。老人の外曾祖︀も討死し
けり。此時は{{r|公方家|くばうけ}}{{r|微々|びゞ}}にして、上輕き故に{{r|放埓|はうらつ}}成事多し。
公方大智院殿の比、阿波國にも公方家ありて、京と兩公方のやう也。阿波の公方軍を發して、京の公
方を攻に上ることあり。{{r|討負|うちま}}けて阿波へ歸るとぞ。老人少年のころは、{{r|俗|ぞく}}の{{r|諺|ことわざ}}に阿波衆の上りたる樣
ならんと云て、近比のことの樣に云へりとぞ。
公方慧林院殿馬をせむるとて{{r|落馬|らくば}}して薨ず。少年時也。
老人少年の時、{{r|洛中|らくちう}}{{r|愚者︀|ぐしや}}の名高き者︀、狂歌によめるあり。
觀又{{仮題|分注=1|觀世又|次郞}}や朱心{{仮題|分注=1|後に朱伯と云一漢︀の|一條囃知苦こと也}}祖︀竹{{仮題|分注=1|笛一增|が子}}に金山{{仮題|分注=1|碁|者︀}}{{r|田物|たもつ}}也けり{{仮題|分注=1|乞食の|狂愚也}}
飯︀尾彥六左衞門は、{{r|慈照院殿|じせうゐんどの}}の{{r|右筆|いうひつ}}なり。鳥養樣の書法は飯︀尾より出たり。倭歌も{{r|好|この}}み{{r|詠|よ}}めり。{{r|亂後|らんご}}
京都︀盡く{{r|燒亡|せうまう}}し、逃るを見て詠める、
住馴し都︀は野邊の{{r|夕雲雀|ゆふひばり}}あがるを見てもおつる涙よ{{仮題|分注=1|應仁記に|見えたり。}}
高麗の役に、{{r|太閤|たいかふ}}は肥前の名護屋に御座す。加藤淸正は高麗へ往く。肥後と薩摩との{{r|境|さかひ}}に佐布と{{r|云城|いふしろ}}
あり。{{r|年來|としごろ}}加藤與左衞門と云者︀に持せて此城に居らしむ。此時は與左衞門も高麗へ{{r|從|したが}}ひ往く。其あと
に薩摩地より一揆{{r|發|おこ}}り、佐布の城を取る。一揆の大將は{{r|梅︀北宮內左衞門|うめきたくないざゑもん}}、{{r|東鄕甚|とうがうじん}}右{{r|衞門|ゑもん}}と{{r|云者︀|いふもの}}なり。
{{仮題|頁=238}}
佐布の城の留守居に、井上彌一郞、酒井善左衞門と云者︀、たばかりて一揆の大將を{{r|討取|うちと}}り城を取りか
へす。{{r|天下無雙|てんかぶさう}}の功名也。此一揆故に太閤の高麗行も止みたる程の事也。井上酒井に殊外御褒美感狀
有。井上彌一郞は肥後にありて、知行千石也。肥後{{r|沒落|ぼつらく}}以後は、靑山大藏方{{r|隱居分|いんきよぶん}}にて居り、其子に
三百石を{{r|與|あた}}ふ。近比死して今は常庵が孫に成たり。井上酒井が功を感して、太閤{{r|高知|かうち}}をあたへんとの
たまへども、三成さゝへて{{r|止|や}}みけりとぞ。
世上に金銀澤山になる事、五十年以來のこと也。{{r|台德院|たいとくゐん}}殿の時、作馬不閑所持の雲山と{{r|云|いふ}}{{r|茶入|ちやいれ}}を、金
森黃金百錠に求む。台德院殿御聞有て、其價を與へんとのたまふ。{{r|折節︀|をりふし}}三十錠は有て、七十錠不足な
りと云。今の世と{{r|甚相違|はなはださうゐ}}す。南都︀東大寺の{{r|奉加|ほうが}}に、賴朝金五十兩{{r|寄進|きしん}}せんと云はれしかども、其年旱
にて{{r|調|とゝの}}はざりしと云ふこと東鑑に見えたり。
疔の藥を日本人にならひたる事奇効良方にあり。
明智謀反の時、家老には知らせ、{{r|諸︀卒|しよそつ}}には知らせず、西國立とみな心得たり。龜山より樫木原まで出
て、西國の方へ赴くやと思へば、直に京の方へ{{r|武者︀|むしや}}を{{r|推|お}}す。故に人皆{{r|不審|ふしん}}す。桂川を渡りて、初て{{r|觸|ふれ}}
をなす。{{r|未明|みめい}}に信長の{{r|御座|おは}}す{{r|本能寺|ほんのうじ}}{{仮題|分注=1|今の茶やが家ある所西|洞院通三條二町下る}}に推寄、信長{{r|御自滅|ごじめつ}}ありて火をかけたり。京中
には何事とも知らず。新在家は他所にかはり、四方にかきあげの堀有て、土居を築木戶ありて{{r|構|かまへ}}の{{r|內|うち}}
也。土居に上りて見る者︀は、明智が謀反ならんと{{r|推量|すゐりやう}}して云者︀もあり。{{r|紹巴|ぜうは}}は內意知られけれども、
何の左樣の事あらんと、人の云をも制す。昌叱は思ひ合せたることありと云ふ。さて本能寺に火を{{r|掛|かけ}}
てより、{{r|城介殿|じやうのすけどの}}の御座す{{r|妙覺寺|めうかくじ}}へ推寄する。其比は京の町家も、所々にわづかに有て{{r|障|さは}}ることなけ
れば、土居の上より分明に、{{r|水色|みづいろ}}の{{r|旗|はた}}妙覺寺の方へ來るが見えければ、さては明智謀反すと{{r|慥|たしか}}に皆知
る。妙覺寺は今の室町藥師町にあり。されども構無ければ叶はじと、南都︀の陽光院殿の御座す、{{r|小池|こいけ}}
の{{r|御所|ごしよ}}を借りて、城介殿移らる。陽光院殿{{r|禁中|きんちう}}へ御のきあり。{{r|烏丸|からすまる}}の方の門より出させ給ふに、肩興
も無ければ、人の背に負て往く。又公家の{{r|正親町殿|おほぎまちどの}}は、陽光院殿を見舞におはせしが、室町の方より
入る。陽光院殿旣に御出なり。敵急に攻ければ、出ることならで中にこもれり。{{r|能|よく}}其の時の樣子を見
て後に語れりとぞ。諸︀士は皆{{r|大庭|おほには}}に{{r|並居|なみゐ}}て、正親町殿菓子に{{r|昆布|こんぶ}}有けるを持出て、諸︀士に與へられし
に、其時顏色變じてしをれたるは、皆家に功有る歷々なり。意氣揚々たるは皆新參なり。{{r|顏色|がんしよく}}變じた
る者︀は討死す。意氣揚々たる者︀どもは、皆{{r|狹間|はざま}}をくゞりて逃れぬとぞ。扨正親町殿は、室町の方に、
一かは町屋のありけるに樂人の家あり。壁を{{r|乘越|のりこ}}えて樂人の家に入り、{{r|裝束|さうぞく}}を着し{{r|烏帽子|ゑぼうし}}をかぶりて
出づ。よつて公家なりとて、ゆるして通しける故に逃れたりとぞ。妙覺寺已に破れて、其儘明智より
紹巴へ使あり。町人に少もさわがぬ樣に云はれよとなり。さて{{r|安土|あづち}}へ取かけんとて、其日午前より東
に赴く。折節︀{{r|勢田|せた}}の橋を、近江士岡山と云ふ者︀燒落しける故、其日勢田に{{r|逗留|とうりう}}して橋を掛させ、明日
安土に往き、安土を取り、{{r|婿左馬|むこさま}}を人數三千程そへて安土に殘し、明智は七日に安土よりかへる。安
{{仮題|頁=239}}
土に有ける信長の者︀共をば、蒲生より一夜の中に、男女ともに引取上て置けるとぞ。扨明智安土より
歸る時、大和の國主{{r|筒井順慶|つゝゐじゆんけい}}を心もとなく思ければ、近江より直に大和路へ馬を向け、和議に成て六
ヶ國を順慶に遣し、明智が子を養子にする約束にて陣をひく。此時明智より{{r|紹巴|ぜうは}}へ、大和已に和議に
成り、{{r|洞|ほら}}ヶ{{r|峠|たうげ}}まで引取たりと云狀來るとぞ。明智大和路より引取り、下鳥羽︀に陣をとる。其時の藥院、
太閤にも明智にも別て懇なり。折節︀太閤へ見舞に往て西國に有けるが、登りて下鳥羽︀明智が陣所へ立
寄て、筑前守は此事を聞てはや上洛す、間は有まじと云ければ、明智あわてゝ、其夜雨のしきりに降
けるに、桂川を無理に越しける故、鐵砲{{r|玉藥|たまぐすり}}もぬれて用に{{r|立|た}}たざりしとぞ。然る所にはや太閤の{{r|先陣|せんぢん}}
池田勝入、高山右近、中川瀨兵衞三頭、山崎寶寺の邊まで押來れり。明智が兵を散々に打破る。明智
こらへずして、靑龍寺の城にたてこもるを取卷攻ければ、其夜忍び拔けて東行しけるが、山科越にて
百姓に殺︀さる。當分は知れず。やゝ日を經て死たる事{{r|隱|かく}}れなし。太閤は、明智敗北の後に上り給ふ。
筒井順慶{{r|日和|ひより}}を見けれども、つひに太閤に歸服せり。
太閤の時分、茶釜の名物は、{{r|菊水|きくすゐ}}の{{r|釜|かま}}とて菊と水とを紋に付たる釜あり。口廣くはた壹寸計のこりた
る程也。{{r|蓋|ふた}}は藥鑵の樣にうちきせ蓋なり。蒲生の家に有りし物とぞ。
今公方家に有し大講堂と云釜は、叡山より出たり。大講堂と云字を釜の腹に橫付に鍛付たり。丁酉炎上
に滅す。是も口濶し。
後京極殿の書給へる{{r|歌仙|かせん}}あり。中殿の{{r|色紙|しきし}}也。九條殿に今につたはれり。
梶井御門跡に世尊寺{{r|伊賴|これより}}の書ける{{r|朗︀詠集|らうえいしふ}}あり。佐理より六代目なり。佐理の朗︀詠より賞翫すとぞ。
太閤江州北の郡に御座す時、加藤喜左衞門と云人{{仮題|分注=1|淸正の|伯父}}太閤に云るゝは、我甥一人あり。{{仮題|分注=1|淸正の|こと也}}臺所に
置て飯︀くはせて給はれと云。太閤見給ひ、かしこく見ゆるとて五石{{r|與|あた}}ふ。程なく二百石與ふ。
本鑓のとき三千石を與ふ。又程もなく肥後二十五萬石を與ふ。
氏鄕も日野にて二萬石の身上也。太閤伊勢の松坂にて十五萬石を與ふ。後會津にて百餘萬石を與ふ。
氏鄕の近習の者︀、氏鄕に問うて云、太閤以後關白殿に馬を{{r|繫|つな}}がんやと。氏鄕答て云、彼愚人に從ふ者︀
誰かあらんと云。又問て云、天下の主たらんは誰ぞと。答云、加賀の又左衞門也と。又問て云、又左
衞門是を得ずば如何と。答云、又左衞門得ずば我得べしと。東照宮の事を問へば、云ふ、是は天下を
得べき人に非ず。人に知行過分に與る器︀量なし。又左衞門は人に{{r|加增分|かぞうぶん}}に{{r|過|すぎ}}て與る物きれ也。取べき
は此人なりと云へりとぞ。
加賀大納言、秀賴の守に付て大坂に居。此人其儘あれば東照宮御かまい有ること成がたし。或時東照
宮を{{r|害|がい}}する談合有しに、肥前守同心なし、其後加賀へ休息あれとすゝめて、東照宮大坂へ入る。是よ
り天下東照宮に屬す。
加藤淸正の先手の大將は、森本義太夫{{仮題|分注=1|五千|石}}庄林隼人{{仮題|分注=1|五千|石}}飯︀田角兵衞{{仮題|分注=1|五千|石}}三宅角左衞門{{仮題|分注=1|三千|石}}飯︀田三宅は普
{{仮題|頁=240}}
請奉行也。此兩人{{r|隱|かくれ}}なき武勇の者︀也。江戶に於て評議ありて、又者︀にたしかなる武勇{{r|誰|たれ}}かと云し時、
淸正の內飯︀田角兵衞也。高麗にて天下の人數を引𢌞したるは、古今に是なりと云。又吉村吉右衞門と
云者︀も、淸正の內武勇の者︀也。
石田三成常に云、奉公人は主君より取物を、遣ひ合せて殘すべからず。殘すは盜也。つかひ過して借
錢するは愚人也。
茶入高直に成たるも近來の事也。老人少年の頃は、世上おしなべて名物と云は、玉堂と云茶入と、利
休が圓座肩衝と計也。これも何程と云ことなく、無類︀の名物の樣に云也。其後相國寺にありし、名を
も相國寺と云唐の肩衝を、古田織部黃金拾一枚に求む。是高直の初なり。程もなく加賀へ千五百貫に
賣る。是は織部治部と間惡き故、勘定をせつかれて、勘定の爲に賣れし也。道哲親圓淨坊取次で、代
金を持來りし時、老人織部方に居合せたり。黃金六十枚と、蓮華王の茶壺一つ持來る。壺は此方より
所望の由なり。圓座肩衝は今江戶に有しが、丁酉の火事に燒失すとぞ。
日野肩衝は、日野唯心大文字屋にうり給ふ時、老人を呼で、此茶入黃金五十枚にうるべき約束す。少
味惡き事あるほどに、五十貫おとして四十五枚になりとも、美作殿などに御取あらば遣したき事なり。
自分に袖に入、持往見せよとの給ふ。見せけれども、{{r|代物調|だいものとゝのひ}}かねたるに因て首尾せず。遂に大文字
屋が手に落つ。
小倉の色紙は、元來伊勢の國司所持にて、{{r|屛風|べうぶ}}一雙に百枚押てありしを、{{r|宗祇|そうぎ}}の弟子宗長勢州へ下り
し時、一雙ともに國司與ふ。宗長{{r|辭退|じたい}}して一隻を留め一隻を受く。一隻は勢州にて火災に{{r|燒失|せうしつ}}す。一
隻遺て世に傳ふ。其れも三十枚ばかりあり。{{r|紹鷗|ぜうおう}}天の原の歌と{{r|八重葎|やへむぐら}}の歌とを表具し、掛物にすとな
り。
利休子道安茶の會に、老人五六年程つゞけて會す。{{r|鶴︀|つる}}の一{{r|聲|こゑ}}と云{{r|花入|はないれ}}に花をいけて、{{r|終|つひ}}に一度も掛物
のかゝりたることなかりき。今時道具種々つらね{{r|華美|くわび}}を爭ふは、{{r|心入|こゝろいれ}}各別の事也。其鶴︀の一聲は、今
公方家にありとぞ。
太閤の臣宮田喜八とて、{{r|武勇|ぶゆう}}第一の人あり。或時太閤吾が弓矢次第に盛なり、昔と今と如何と諸︀臣に
御尋あり。皆曰、三倍五倍と。太閤喜で云、十倍ならんと。竹中半兵衞獨り云、弓矢昔に{{r|劣|おと}}れりと。
太閤喜ばずして何とて{{r|角云|かくいふ}}との給ふ。答曰、宮田喜八死て以來甚だ劣れりと云。太閤歎息して誠に汝
が云通り也との給ふ。
{{r|宇喜田殿|うきたどの}}の事、元來{{r|備前|びぜん}}の士也。浦上と云者︀備前美作兩國の主也。宇喜田直家は浦上の家臣也。直家
惡性の者︀にて、國郡を持たる人と{{r|緣者︀|えんじや}}などに成て、後に殺︀して{{r|奪取事|うばひとること}}を度々する者︀也。浦上をも{{r|殺︀|ころ}}し
て、遂に備前美作兩國の主と成。八郞殿は直家が子也。太閤と間よく成ことは、太閤備中高松の城を
攻給ふ時、明智返逆のことを吿げ來り、引取りたきと思給へども自由にならず。此時八郞殿一味して
{{仮題|頁=241}}
力をそへらるゝに依て、高松の城主に腹切らせ、まきほぐして上京、其忠によりて間能なり。聟に取
給ふ、息女なかりければ、前田筑前守{{仮題|分注=1|加賀大|納言殿}}息女を養子にして、八郞殿を聟とす。此時分はまだ八郞
殿十歲ばかり也。直家も存生なりしかども、瘡毒に依り人前成り{{r|難︀|がたき}}に因り、八郞殿を國主分にて、五
萬石三萬石所領する家老共ありて、談合して高松の節︀も力をそへけると也。八郞殿太閤の{{r|智|むこ}}に成て{{r|復|また}}
官位に{{r|昇|のぼ}}り、宇喜田中納言殿と云。治部少輔亂まで、治部が方なる故に、東照宮の{{r|御利運|ごりうん}}に成て、八
丈が島へ遠流せらる。今に存生の由也。癸卯の年老人九十九歲にて物語なり。
金吾中納言殿は、{{r|政所殿|まんどころどの}}の姪也。政所殿御寵愛に太閤養子分になさる。始は微々成ことなれども、
{{r|筑前|ちくぜん}}一國を遣され、筑前中納言殿と云。治部が亂まで、二心なく伏見の城を攻落す。{{r|伏見|ふしみ}}の城は、其時
東照宮御持にて、鳥居彥右衞門{{仮題|分注=1|左京父|なり}}留守居して有けるを、金吾殿攻落せり。其時拔群の賞祿も有べ
きと思はれけるに、治部其顏色無きを見て心替り、治部が亂に關ヶ原にて{{r|東照宮|とうせうぐう}}に屬し、治部を{{r|攻滅|せめほろぼ}}
したる忠によりて、備前美作宇喜田殿のごとくに遣はされたる也。筑前はあがる由なり。長嘯の弟也。
家を嗣ぐ子なき故に跡たゝず。木下右衞門宮內などは其末也。
普光院殿の時、{{r|北野參詣|きたのさんけい}}に先を{{r|拂|はら}}ひけるに、或る少年馬より下りて、目屆きの所につくばひける。普
光院殿見給ひ、福︀阿彌と云同朋を遣して問はしむ。問ふべき詞なくて、相見ての後の心に{{r|競|くらぶ}}ればと云
歌の、下の句は何と申すぞと問ふ。少年答曰、{{r|誰|た}}が誠より{{r|時雨|しぐれ}}そめけんと云歌の、上の句は何と申す
ぞと答へけり。其由を申上る。普光院殿面白き者︀なりとて、召出して寵愛甚し。因之前年より寵愛の
小姓に心遠ざかりければ、其小姓恨て立退、嵯峨の邊に隱て居たり。方々尋ね求めけれども知れず。
亦或時公方嵯峨へ遊行ありしに、{{r|伽羅|きやら}}の遠くかをるを聞給ひ、此香外にあるべからず。此邊に不審な
る者︀あるか能尋見よとて人を遣す。或茅屋の內に、彼少年机の上に香を{{r|燒|た}}き閑にして有ける。公方直
に至り給ひて、前々のあやまりを免︀し、還り仕よと色々に仰せけり。兎角に及ばず頭を下げ涙を落せ
り。公方喜て酒を呼て{{r|杯|さかづき}}をさし、又かへさせ給て、日頃好める謠を一曲所望ありければ、姨捨の小謠
をうたひけるとぞ。公方いよ{{く}}感じ給ひて、寵愛昔に倍せり。
赤松普光院殿を殺︀せし時は、能ありて{{r|鵜飼︀|うかひ}}の中入に刺殺︀せりとぞ。此時公方の帶せし{{r|脇差|わきざし}}は、{{r|拔|ぬけ}}國光
と云名物也。本阿彌といふ同朋が脇差を日比あづかれり。死前に兩度拔て出たる{{r|科|とが}}にて禁獄せられけ
る。後に前表と知て{{r|拔|ぬけ}}國光と云。本阿彌日蓮宗に歸依すること此獄中よりとぞ。
叡山の僧︀寶地坊證信は、平家能登守の弟也。寶地坊に堅坐し、學問の大願を發し源平の亂を知らず。
後牒狀か返狀かをかゝれよとて窓より納るゝことあり。此時初て知れり。然ども坊を出て、三大部の
私記を著︀す。文義甚勝れたり。今に叡山に其坊有。今は寶地坊とは云はざるなり。
近衞龍山公は三藐院殿の父なり。{{r|衰微|すゐび}}の時薩摩に御座す。今用ふる肩絹半袴は龍山の初製也。素袍の
袖を取、其れに裂加る物也。{{nop}}
{{仮題|頁=242}}
雪踏はもとより有りて、革を加ることは{{r|利休|りきう}}よりと云傳ふ。
木綿{{r|踏皮|たび}}は今の{{r|製法|せいはふ}}の如くなるは、長岡山齋の母初めて製し、山齋の茶の會に出らるゝ時、足冷ると
てはかれしとぞ。
茶の會に{{r|丿|へち}}觀流と云あり。是は上京坂本屋とて茶の會を好む者︀あり。おどけたる茶の會を出す。初め
號を如夢觀と云、後に改めて{{r|丿|へち}}觀と云。一溪故道三の姪婿也。丿の字人の字の偏ばかり也。人に及ば
ぬと云意とぞ。{{r|宗易|そうえき}}より少後也。
香爐の茶會と云ことあり。主人炭をなほして後、長盆に香爐と香合と香筋とを置て出す。料理まだし
き時、是を出して{{r|勝手口|かつてぐち}}の障子をはたとたつる也。其時上客{{r|香爐|かうろ}}にある香を聞、左の袖より{{r|懷|ふところ}}に入れ
たきとめ、右の袖より出し、たきがらを懷中して次の人へ𢌞す。次の客また香合の香を銀盤へつぎ、
聞て左の袖より入れて、右へ出すこと初客の如し。末座に至り、たき終りて殘りたる一炷を香爐に置
き、上客に呈すれば、上客勝手口に置き、主人の爲にする也。客五人なれば香五片、六人なれば香六
片、香合に入るなり。大さは二分四方厚さは分半也。若し料理間もなく、又は客を試みんと思へば、
勝手口の障子を細目にあけて置く。其時は初よりつぎて出たる香ばかりを聞てまはし、勝手口へなほ
す法也。{{r|香爐|かうろ}}も必ず{{r|靑磁|せいじ}}のすぐれたるを用るにも非ふ、瀬戶などのこびたるなどよし、心得あるべし。
茶屋に棚ありて香爐を置き、香を{{r|炷|た}}く時、爐へは燒物をたかぬ法也。
伊豫の古寺より出たる中華名僧︀の詩卷、截て七幅とし世間方々に有之、脇坂淡牧に一幅有之、土井大
炊に一幅有之、是は茂古林と妙道と兩筆の物也。井伊掃部頭に一{{r|幅|ぷく}}これあり。これは定門の手跡{{r|卷軸|くわんじゆく}}
也。麩屋了佐所に有之とぞ。是は楚石也。
對馬より高麗へ四十八里、渡を經て{{r|釜山海︀|ふさんかい}}に着く。下官のもの是に居る。倭館︀と云ふあり。日本人是
に居る。釜山海︀より朝鮮の都︀に至まで二十日程、其間に{{r|東萊|とくねき}}と云所あり。上官の者︀居る。
惺窩翁に儒道の事少聞たる人は、細川越中、淺野采女、曾我丹波、小畑孫一、城和泉等なり。
惺窩存生の時、林道春圖書編を求め得しを聞て、數通の書を以て借られけれども、我手に入らざる由
にて終に{{r|借|か}}さず。惺窩翁人に語りて云、道春は非道の者︀也。圖書編彼が手に入ること分明也。僞て無
しと云は非道也。あれども借すことならずと云ふむごきより遙に劣れりとぞ。
吉田素庵にありし文章達德綱領十卷を、戶田以春と云者︀借りて、失へりと云て終にかへさず。今亡び
ぬ。
野槌に淸原極﨟とあるは船橋殿也。當時は皆稱して極﨟殿と云へり。外記環翠軒の曾玄孫の間也。
日向守明智云、佛のうそをば{{r|方便|ほうべん}}と云、武士のうそをば{{r|武略|ぶりやく}}と云。土民百姓はかはゆきこと也と名言
也。
太閤伏見在城の時、鐵砲四五十計放つ音す。座にある人皆々あやしむ。太閤云、大名共鳥など打に出
{{仮題|頁=243}}
て歸るさに、込たる{{r|玉藥|たまぐすり}}を打拔くならんとて、あざ笑て御座す。見に遣しければ{{r|果|はた}}して然り。此者︀共
聞て少氣味惡く思て、一兩日過て御前に出づ。太閤笑曰、此比の遊び面白かりきやと、少も心に{{r|掛|かけ}}た
まはぬ體なりとぞ。
太閤常にのたまふ。我に謀反するもの有まじ。我程なる主は有まじきほどにと。
舞を舞し女に、常磐と云もの、人{{r|招|まね}}けば何方へも來りけり。石田三成が息女也と云。さもありぬべし。
眞西山の孫女さへ歌妓となりしとぞ。
信長五十騎にて、今川義元が四萬の人衆を{{r|鳴海︀|なるみ}}にて敗り、義元が首を取るは、川尻與兵衞と云者︀也。後
信州にて死す。此時信長淸洲に在り、亂舞して先手より來る{{r|文筥|ふばこ}}をも開き見ず。皆負たりと推するな
り。馬を出して、熱田の神︀前にしばしまどろみて、夢覺たる體にて應ずる聲三たびなり。是武略也。
さて大雨のふるに馬を{{r|進|すゝ}}む。轡を{{r|控|ひかへ}}て諫むる者︀あり。其時{{r|鞍|くら}}の前輪をたゝいて、敦盛の人間五十年の
所を舞はれしとぞ。人皆さらばとて押かく。義元臺子にて茶會をする所へ、急に擊てかゝり勝利を得
たり。此時義元の勢四萬を七そなへに陣を{{r|立|たて}}たり。{{r|間道|かんだう}}より本陣へかゝりける故に、七そなへ空しく
なるとぞ。
{{r|淺井畷|あさゐなはて}}合戰の人名、今の肥前守{{仮題|分注=1|東照|宮方}}高山左近{{仮題|分注=1|太閤よりつ|けられし人}}山崎出羽︀{{仮題|分注=1|肥前守|兩大將}}丹羽︀五郞左衞門{{仮題|分注=1|治部方十萬石加賀|小松の城に籠居}}山口
玄蕃{{仮題|分注=1|治部方三萬石兄肥前守に攻落さ|れて死す大聖寺の城に籠り居る}}江口三郞左衞門{{仮題|分注=1|丹羽︀方の功|のものなり}}石田關ヶ原に大軍を立て居たる時、兄肥前守は
東照宮の方なれば、山口玄蕃を攻落し、又小松の城も攻て見けれども、敵强くして落し得ずして引退
き、關ヶ原の後卷をせんとて、廻らんとしけるが、また思案出來て、御幸塚︀と云所に人數少しのこし
て、{{r|軍|いくさ}}の{{r|樣子|やうす}}計ひがたしとて、本城へ引かんとせし時、路二筋あり。淺井畷は本城へ近うして小松の
城の近邊を過ぐ。山づたひの道は、小松へも遠く本城へも遠し。高山左近は山づたひの道を歸りて、然
べからんと云。山崎聞て怒て云ふ、淺井畷を歸らずば、男はなるまじと云。山崎は大身にて威强く、且
家の子なれば、其指圖に從て淺井畷を歸る。案の如く人衆を皆すごして、しつぱらひに長九郞左衞門
通りけるを目がけて、小松より江口三郞左衞門出て衝くづす。九郞左衞門敗北す。其時太田但馬と云
もの、返し合せて{{r|鋒|ほこ}}を合はす。上坂主馬と云者︀大男小姓也。二番手鑓をつく。此時返し合せたる者︀七
人、淺井畷の七本鑓と云也。丹羽︀方も五人計功名する者︀あり。さて互に引きけるとぞ。
江口は丹羽︀亡後に、越前の{{r|黃門|くわうもん}}君へ召出し一萬石所領す。越前の家の子に、高木勘平とて武勇の者︀あ
り。新參者︀の一萬石所領するを怒て、或時江口が{{r|膝|ひざ}}に{{r|迫|せま}}りよりて問ふ樣は、上方の{{r|武邊|ぶへん}}と云ふは、如
何樣なるを申すぞと問ふ。江口答て云、上方の武邊と云ふは、人に武へん者︀と云れて、此殿の樣なる
所へ召出されて、高知行取を申すと云。高木尾も無き體にて、うんと云て退くとぞ。もし江口其時我
が前々より武功など云立なば、我もそれ程の事をば、八百度もしたりと云はんと思ふ。江口は武のみ
にあらず、才もすぐれたる者︀にて{{r|能返答|よくへんたふ}}せり。{{nop}}
{{仮題|頁=244}}
明智亂の時は、東照宮堺に御座す。信長羽︀柴藤五郞に命じて、家康に堺を見せよとて附て遣す。實は
先きにて間を見て害する謀なりとぞ。東照宮{{r|運|うん}}つよくして明智が事{{r|發|おこ}}り、太閤西國より{{r|登|のぼ}}り給ふ時、
伊賀越に三河の岡崎に馳歸る。明智が事なくば東照宮危き御事也。
多賀信濃守は豐後守が子也鼻くた也。山崎合戰の時明智に屬すといへども、味方の{{r|負|まけ}}を早く知り、桂
川の渡し守に{{r|錢|ぜに}}拾貫與へて、信濃守者︀をば早く渡せと云て{{r|逃崩|にげくづ}}す人也。後に太閤に降參す。{{r|旗色|はたいろ}}を見
申たりとて褒美し給ふ。信州子なければ養子す。
丹羽︀五郞左衞門家臣に、成田十左衞門とて勝たる武士あり。七十萬石を取上げて、子の代に四萬五千
石になりし時、廣間にて十左衞門云は、我に一味せん者︀誰か有ると。座の人皆答へず。十左衞門云、
皆人に非ずと。後太閤へ聞えて伊勢にて誅す。
黑田如水病重く、死前三十日計の間、諸︀臣を甚罵辱す。諸︀臣驚て云、病氣甚く殊に{{r|亂心|らんしん}}の{{r|體|てい}}也。別
諫むべき人なしとて、其子筑前守に云ふ。筑前守如水の心に通ぜず。近づいて密に云ふは、諸︀臣畏れ
憂ふ、少し{{r|寬|ゆる}}くしたまへと。如水耳をよせよとて、小聲に云はれしは、是は汝がため也亂心に非ずと
ぞ。諸︀臣にあかれて、早く筑前殿の代になれかしと思はせん爲なり。
{{r|謙信|けんしん}}は全盛五ヶ國に手を伸ぶ。信玄は八ヶ國に手を伸ぶ。信長は十九ヶ國半、太閤は{{r|天下一統|てんがいつとう}}して力
餘れり。
惺窩淺野紀伊守殿にて、孟子一段を講談す。生於憂患而死於安樂と云ふ段也。講談後紀伊守殿云へる
は、我れ石田治部と間惡し。治部存生の中は、勵んで人に非を入れられず、身も{{r|健固|けんご}}也し。今治部死し
其上御所樣御ねんごろ、佐竹島津にも殊ならず。是に因て氣ゆるみ病氣{{r|却|かへつ}}て生ず。賢人の語少も{{r|相違|さうゐ}}
これなしと云はれしとぞ。
羽︀柴長吉は太閤の小姓、{{r|無比類︀美少年|むるゐなきびせうねん}}也。太閤或時人なき所にて近く召す。{{r|日比|ひごろ}}男色を好み給はぬ故
に、人皆奇特の思ひをなす。太閤とひ給ふは、汝が姊か妹ありやと。長吉顏色好き故也。
神︀馬彈正左衞門は、太閤の時分、播州邊の大名也。
一柳監物缺唇也。人指合を云へば事の外怒る、晉の符堅に似たり。
島田彈正法名由也{{仮題|分注=1|越前|守兄}}直士也。戶島刑部、井上主計を斬し後、城中にて各評論ありて、戶島が擧動殿中
に於て前代未聞の事也と云。由也座に在て云は、又重ても年寄衆を斬らんとならば、殿中ならでは成
まじと云。痛快々々。又或時老中會して、米{{r|高直|こうぢき}}にして萬民{{r|困窮|こんきう}}すとの評議あり。その時由也云、老
中の歷々、米の買置などめさる間、米何としても{{r|下直|げじき}}には成まじと云。誰買置れたると云はれければ、
{{r|先|まづ}}酒井讃岐殿からが買置きめさると云。其時讃州云、我{{r|聊此事|いさゝかこのこと}}なし。さらば深津九郞右衞門を呼とあ
り。深津來りて、曾て此事なしと云。由也居長高に成て、某月某日大豆何程買しを知たり。馬の口も
限あり、是は買置にあらずや、其外證據多しと云ひつめたり。如{{レ}}此の人今は{{r|不{{レ}}聞|きかず}}。{{nop}}
{{仮題|頁=245}}
鷹の事に能く通じたるは、古の根津と云ふ者︀也。鷹の羽︀を續ぐ事、根津が{{r|女|むすめ}}より起れりと云傳ふ。根
津が留守に鷹の羽︀を損ひて、別の羽︀を以て續ぎて置しを、根津歸て手に居ゑて不審をし、鷹常より羽︀
をひきて重しとて問出しけりとぞ。奇特なること也と云傳ふ。
高麗の書に鷹體總論と云あり。
相國寺普光院の宣長老は、董甫{{仮題|分注=1|大德寺|の僧︀}}の弟にて{{r|惺窩|せいくわ}}の伯父也。の僧︀當時五岳第一の學者︀也。宣かつてしゆん
首座{{仮題|分注=1|惺窩の|こと}}に逢ては、物が云れぬと云へり。其儘こみつけらるゝ故也。當時の人、宣を勝たる人と知る。
其人かく云故に、さては惺窩傑出なる人と云事を初て知れる也。
織田常眞家臣土方河內名高き者︀也。{{r|傍輩|はうばい}}岡田長門と云ふ者︀、太閤へ{{r|內應|ないおう}}せしこと露はれて、常眞手擊
せんとする時、此人世に{{r|勝|すぐ}}れたる{{r|剛|がう}}の者︀なれば、土方抱き付て斬らしけりとぞ。
北條が老臣松田尾張が嫡子笠原新六郞{{仮題|分注=1|他家に養|子となり}}異心ありて、太閤の方へ內應し、引入るゝ計をなす。二
男松田左馬助同心せず。去に因て{{r|座敷籠|ざしきろう}}に入れ置しを、ざしきろう內の者︀に云合せ、具足櫃の內に入て出、北條
が城に入て樣子を吿ぐ。其日はや大に{{r|知行|ちぎやう}}を與ふ。尾張大身にて持口廣し。是に因て騒動する所に、已
に取かけたるとぞ。後に太閤黑田如水に命じて、左馬助を{{r|誅|ちう}}せしむ。松田を誅せよと有しを、如水{{r|聞|きゝ}}
あやまりたる顏にて、尾張と新六郞とを誅す。太閤如水を{{r|責|せ}}む。聞あやまりたるとて、別の仔細なか
りし。是如水一生の勝事也。左馬助後に加賀大納言殿へ出て五千石を所領す、近比に死すとぞ。
信長は{{r|天性吝嗇|てんせいりんしよく}}の人也。相撲取の三番打したるに、燒栗一つ褒美に與ふる樣の人也。後に大名共を多
く{{r|斃|たふ}}し家を亡すは、我子共又は近習の出頭人に知行與へん爲なり。太閤其心に能通じて、我子無し御
次樣を我が子にいたしたきことに候。我れに下されよ。近江北の郡長濱十萬石を讓り申さんと云。信
長大に喜で、其方は何とせんと{{r|云|いふ}}。太閤云、御朱印頂戴申たらば、西國の二三ヶ國は、二ヶ月三ヶ月
の內に討取り候はんと申さる。さらばとて朱印を出し、{{r|竹中|たけなか}}半兵衞と云名將を{{r|副|そえ}}られ播州の方へ討立
たれし也。太閤手勢{{r|寡|すくな}}し、加藤左馬等も從ふとぞ。
東照宮の出來軍七ヶ度なり。靑塚︀、{{r|額田|ぬかた}}、{{r|長湫|ながくて}}、{{r|蟹江|かにえ}}、阿彌川、川鰭等也。
小田原陣の前年、{{r|東照宮|とうせうぐう}}のあつかひの時、本多作左衞門を遣す。
武士の名高き者︀、信長太閤の取立の者︀尤多し。其外に名高き者︀は、林長兵衞、堀監物、伊岐豐後。
{{r|善惡報應|ぜんあくはうおう}}の理決しがたし。細川の先不仁にして、子孫今に盛んなり。池田勝入は信長の乳母の子にて、
{{r|城介殿|じやうのすけどの}}{{r|常眞|じやうしん}}など同じ{{r|乳房|ちぶさ}}に育せし人なり。{{r|常眞|じやうしん}}に向て弓をひく理なし。{{r|小牧陣|こまきぢん}}に太閤の黃金五十枚
の賄にあざむかれ、常眞に敵をなす重惡の人なり。然れども其子備前、備中、播磨に手を伸べ、{{r|因幡|いなば}}{{r|伯耆|はうき}}
に手を伸る子孫もあり。加藤肥牧などは律義なりし人なれども、{{r|後已|のちすで}}に{{r|絕|た}}えたり。
{{仮題|ここまで=老人雑話/坤之巻}}
{{仮題|ここから=慶長見聞集/序}}
{{仮題|頁=246}}
{{仮題|投錨=慶長見聞集序|見出=中|節=|副題=|錨}}
武陽とよしまのかたはらに、はふれたるひとりの翁あり。ある夜
のねざめに思ひ出て、我永祿八乙丑の年生れしよりこのかた、慶
長十九ことし迄、世上のうつりかはれる事どもをかぞふるに、御
門御卽位三代年號改元五度、武將あらたにそなはり給ふ事十代、
其內愚老五十をへぬ。誰かこれをよろこばざらん。しかはあれど
も、是ぞと思ふ思ひ出はさらに一つもなし。うき世の望みあらま
しになし侍ること、誰も身はあはれなるさかひ成べし。其上有爲
のならひきのふ生れしもむなしくなり、けふ言葉をかはす人あ
すをしらぬあだなる命とはいつしかわきまふべき。世は澆季た
りといへども、かしこき人は三敎をもつばらとし給へり。かゝる
目出度時にあひ、身のおこなひもなく、いたづらに星霜を送り來
{{仮題|頁=247}}
ぬるのおろかさよ。されどもいんじをばとがめずとなれば、昔の
是非をとがめて益なし。是昔なればなり。きのふはけふの昔、けふ
はあすのむかしといへり。予が見聞たりしよしなし事を、つれづ
れの筆のすさびにしるし侍るなり。
{{仮題|ここまで=慶長見聞集/序}}
{{仮題|ここから=慶長見聞集/巻之一}}
{{仮題|頁=247}}
{{仮題|投錨=慶長見聞集|見出=大|節=|副題=|錨}}
{{仮題|投錨=卷之一|見出=中|節=k-1|副題=|書名=慶長見聞集/巻之一|錨}}
{{仮題|投錨=萬民のたのしびあへる事|見出=小|節=k-1-1|副題=|書名=慶長見聞集/巻之一|錨}}
見しは今、{{r|三浦|みうら}}の山里に年よりたる知る人あり。當年の春江戶見物とて來りぬ。愚老に逢ひて語りけ
るは、扨も{{く}}目出度御時代かな、我{{r|如|ごと}}きの土民迄も安樂にさかえ、{{r|美々敷|びゞしき}}こと共を見聞く事の有難︀
さよ、今が{{r|彌勒|みろく}}の世なるべしといふ。{{r|實々|げに{{く}}}}土民の云ひ出せる詞なれ共、全く私言にあるべからず。今
の世の人間は、三{{r|界無庵火宅|がいむあんくわたく}}を去てたのしびを極むる國に{{r|生|しやう}}をなせり。佛の世界にあらずんば、など
か我も人もかく有難︀き樂にあふべきぞや、{{r|盲龜|まうき}}の{{r|浮木優曇華|ふぼくうどんげ}}なるべし。
{{仮題|投錨=養心齋長命の事|見出=小|節=k-1-2|副題=|書名=慶長見聞集/巻之一|錨}}
見しは今、{{r|養心齋|やうしんさい}}といひて年のかぎりしらぬ老人、當年江戶へ來りたりしが、三百年以來の時代を見
たりといひてくはしく物語なせり。康安二年二月、都︀に{{r|惡星|あくせい}}{{r|出現|しゆつげん}}して天地{{r|變異|へんい}}せし事共多かりし。近
江の{{r|水海︀|みづうみ}}十丈程{{r|干|ひ}}たりけるに、樣々の不思議あり。{{r|先|まづ}}{{r|白髭明神︀|しらひげみやうじん}}の前なる沖に、まはり十ひろ計なる
{{r|瑠璃|るり}}の柱立てならべ、五丁ばかりのそり橋水の上に浮びたり。水底すみわたりて、竹生島よりみの浦の
{{仮題|頁=248}}
間に{{r|龍宮|りうぐう}}有て、金玉のうてな{{r|七寶莊嚴|しつぱうさうごん}}あきらかにあらはれ、{{r|龍神︀|りうじん}}の往來の{{r|爲體|ていたらく}}、手に鏡を取て見るが
ごとく、{{r|心言葉|こゝろことば}}も及ばれず。諸︀人見物せり、我も能見たりと{{r|委|くは}}しく語る。某聞て、其年號を考るに、慶長
十九當年迄は二百五十三年に成りぬ。是はふしぎ也。御身何とて長命成哉と問へば、老人答て、我常
に心安んずる、{{r|是養生|これやうじやう}}、{{r|白居易|はくきよゐ}}が詩にたゞよく{{r|心閑則|こゝろしづかなれ}}ば、身も涼しといへり。夫人間の{{r|壽命|じゆみやう}}は、天地
人の三六を合て、百八十歲のよはひをたもつ事、是定れり。然るに身の行ひ道にたがひて後、醫術を
盡すといへども、日{{r|暮|く}}れて道をいそぐに異ならず。すべて養生の道といふは、少年より老年に至る迄、
おこたることなきを以て聖人の道とせり。故に養生は損せざるを以て{{r|延年|えんねん}}の術とす。其上身をいとな
む事、第一食物、第二きる物、第三居所也。此の三つをつゝしめり。四百四種の病は、{{r|宿食|しゆくしよく}}を根本と
し、三{{r|途|と}}八{{r|難︀|なん}}のくるしびは、{{r|女人|によにん}}を根本とすと、南山大師の{{r|遺敎|ゐけう}}也。富貴にして苦あり、苦は心の
{{r|危憂|きいう}}にあり、貧賤にして樂みあり、樂は身の自由にありと、樂天がいひしも、誠に{{r|妙言|めうげん}}也。心の安き程
のたのしみ、たぐへてなし、たぐへてなし。{{r|彭祖︀|ほうそ}}がいさめに、{{r|服藥千朝|ふくやくせんてう}}より一夜の獨宿にはしかじと
云云。人間は衣、食、居、醫の四つをもちひ、精︀けを深くつゝしむに至ては、齡三百年いくべきと、
{{r|養生論|やうじやうろん}}に委しく見えたり。上古の人は無爲無事にして、天地陰陽の道に叶ひ、身をたもち天命を盡し
給へり。{{r|文選|もんぜん}}に身をおくに至ては理を失ふ、是を微にうしなふ、微を積みて損をなし、損を積みて衰を
なす、衰よりはくを得、白より老を得、老より終を得、{{r|悶|もん}}として{{r|端|はし}}なきが如しといへり。身の養生に至
ては其理を失ふ事わづかに少しきなる所より始て、其始終を知ることなき故に、身おとろふる。すく
やかなる時くすさゝれば病時悔︀る也。世の人のふるまひ、平生は{{r|油斷|ゆだん}}有つて、{{r|已|すで}}に{{r|存命不定|ぞんめいふぢやう}}となり、
俄に良藥を服すといへども、治る事かたし。{{r|渴|かつ}}に臨んで、井をほる事たゞに力を費す。あへて
{{r|雪髮銀絲|せつばつぎんし}}をまつ事なかれと、古人もいへり。かくよき道ををしふるといへども、我身に保つはまれ也。此翁
若きより今に至る迄、養生怠らず。故に二百餘歲を保ち來ぬ。何事も前方より用心なすべき事也と申
されし。
{{仮題|投錨=吉祥︀寺門前の草木佛寺をさへづる事|見出=小|節=k-1-3|副題=|書名=慶長見聞集/巻之一|錨}}
見しは今、江戶{{r|吉祥︀寺|きちじやうじ}}の境地{{r|在家|ざいけ}}離れたる古跡、此住地{{r|洞谷禪師|どうこくぜんじ}}と申て、法令世に超え、釋迦{{r|達摩|だるま}}の
{{r|變化|へんげ}}かと沙汰せらるゝ。{{r|有日|あるひ}}愚老此方へ參詣せしに、{{r|人倫|じんりん}}{{r|絕|たへ}}たる{{r|閑居|かんきよ}}物さびたる異地、山高くして
{{r|上求菩提|ぐぼだい}}をあらはし、谷ふかきよそほひは、{{r|下地衆生|げちしゆにやう}}を表せり。{{r|四神︀相應|しゞんさうおう}}の地をしめし、後に淺間山日光
山そびえ、東に筑波山西に富士山、箱根山、{{r|軒端|のきば}}につらなり、{{r|和光|わくわう}}の影もくもりなく、弘法を守護し
給ひ、{{r|月|つき}}、{{r|眞如|しんによ}}の光をかゝげ、前には{{r|生死|しやうし}}の海︀まん{{く}}として、{{r|波煩惱|なみぼんなう}}のあかをすゝげば、むしの
{{r|罪障|ざいしやう}}も{{r|消滅|せうめつ}}すと覺えたり。誠に有難︀き{{r|靈山|れいざん}}、谷めぐり岩松そばだつて、風、{{r|常樂|じやうらく}}の聲をなし、不變の色を
あらはすあたりに、ううる草木までも心あり顏也。然る處に、門前の傍に、草木のたぐひと見えて、
からき物どもあつまりこぞり居て、いしゆ爭ひをなす。愚老是を見て、誠に{{r|勸學院|くわんがくゐん}}の雀は{{r|蒙求|もうぎう}}をさへ
{{仮題|頁=249}}
づるとかや。草木{{r|經|きやう}}をとくといへるも是なるべし。大論には、禽獸魚虫、草木問答多く見えたり。末
世にもかゝる奇特有と思ひ、ひそかに忍び聞居しに、先{{r|胡椒|こせう}}出て申けるは、そも何某と申は事もおろ
かや、{{r|神︀農|しんのう}}の御代に、大唐四百餘州にてからき物を集めらるゝ、我にまさるものなし。古語に胡椒の
木よく多子を生ず。故に皇后の宮に慶して是を植ゑ、{{r|椒房椒|せうぼうせう}}寶共名付給ひぬ。扨又皇后の宮に椒を以
て壁にぬる。{{r|溫暖|をんだん}}にして惡氣をさくると云々。其上人間の諸︀病をおぎなふ良藥とて、日本國へ渡さる
る、からき事にも位にも誰か及ばん、恐らくとひたひにしわを打よせて、さも有げなる風情也。{{r|山椒|さんせう}}は
ゑみ顏にて、異國を見ねばそは知らず、本朝においてをや、我等と申は、關白殿近衞殿をはじめとし、
公家武家の面々達、{{r|御賞翫|ごしやうくわん}}あればこそ、りんこうじ、じやうこうじ、くはんせんなんどといふ爵を給は
るなり。よきへうたんなどに入れ、よるひる御腰をはなれず御自愛淺からず。其上くらまの木の{{r|芽漬|めづけ}}
と古記にほめられたるは、山椒の木の皮迄もはぎ取て{{r|煮︀|に}}しめ味ひ給ひぬ。是も山椒の威光にあらずや
と、目を見出してゐたりける。{{r|蓼|たで}}申けるやうは、某出生をたづぬるに、{{r|釋尊|しやくそん}}十大御弟子の中に、{{r|智惠|ちゑ}}
第一とほめられし{{r|文珠|もんじゆ}}の{{r|靈草|れいさう}}なればとて、りこん草と名付給ふ。かるが故に、末に至り{{r|弘法修行|こうぼふしゆぎやう}}のち
しや上人は、我等りこんにあやからんと、{{r|夏九旬|なつくじゆん}}の其間、からき{{r|難︀行|なんぎやう}}し給ひて、けたでといひて專用
也と、はをならしてぞ立にける。はじかみいふ樣、われは是{{r|忝|かたじかなく}}も{{r|彌勒|みろく}}の{{r|化草衆生|けさうじゆじやう}}いかでか信敬せざ
らん。それ正月七日をば、{{r|人日|じんじつ}}といひて人間の始れる日也。此日唐土、天笠、我朝內裏において七種
をあつめざふすゐを煮︀て其かざりにはじかみを一へぎ置きて、萬歲を祝︀ひ給ふ故に、{{r|人日七種|じんじつなゝくさ}}のさい
がう中において、一箇のしやう{{r|姜|が}}をこなかきすといへり。{{r|生姜|しやうが}}つひにらつをあらためずといひて、根
本知の位を捨てず。{{r|萬刧|まんごふ}}をふるとても自性かはらぬかんきやう也と、こぶしを握りて居たりける。か
らしは下座よりころび出て、いかに面々聞召せ、我等と申は寸尺にたらずさつふんにもはづれ、不肖
の身なれば、{{r|系圖位|けいづくらゐ}}も候はず、たとへを以て申す也。それ天下の寶となし給ふこがねは、黃なる色を持
來る故、黃金と名付、白き色をもつゆゑ{{r|銀|しろがね}}といふ。故に名は{{r|題號|だいがう}}にあらはるゝと古人もいへり。扨又
五味をかんがふるに、あまき故に{{r|甘草|かんざう}}と名付、苦き故に{{r|苦參|くしん}}、すき故に{{r|酸棗仁|さんさうじん}}、しほはゆき故{{r|鹽硝|えんせう}}、其
上辛子は{{r|無量壽佛|むりやうじゆぶつ}}の{{r|靈草|れうさう}}、西をつかさどる。からき中にもすぐれければからしといふはことわりなら
ずやと、せいにも似せぬこうざいは、ふるなの辯もかくやらん。然る處に米出て申けるは、我此場へ
出べき物にあらねども、各のあらそひを{{r|敎化|けうげ}}の爲に參じたり。それ{{r|非情|ひじやう}}草木は{{r|無相眞如|むさうしんによ}}の體にして、
一{{r|塵法界|じんほふかい}}の{{r|心地|しんち}}の上に、{{r|雨露雪霜|うろせつさう}}のかたちをあらはす。されども迷ふが故、一{{r|切衆生|さいしゆじやう}}にあぢはひあり。
佛には味ひなし。草木に味ひ有といへども、米には味ひなし。それいかにとなれば、{{r|古佛砂利|こぶつさり}}變じて
已に米と成と說かれたり。かるが故に、人間は米を{{r|𦬇|ぼさつ}}といふ。諸︀穀︀の中に米を以て第一とす。抑米を
作り{{r|始|はじ}}めし事、天笠にゆうのうと云し人作る。又{{r|毘沙門|びさもん}}作り始給ふ。田の神︀は{{r|本地毘沙門|ほんぢびしやもん}}也。
{{r|多門天王|たもんてんわう}}の城は、ベイシラマナ城とて、白米のふる都︀也。米を{{r|𦬇|ぼさつ}}といふ事、種の時文珠{{r|𦬇|ぼさつ}}、苗の時は{{r|地藏𦬇|ぢざうぼさつ}}、
{{仮題|頁=250}}
稻の時は{{r|虛空藏𦬇|こくうざうぼさつ}}、穗の時は{{r|普賢𦬇|ふげんぼさつ}}、飯︀の時は{{r|觀世音𦬇|くわんぜおんぼさつ}}、一{{r|體分身|たいぶんしん}}、皆{{r|毘沙門天|びしやもんてん}}にてまします。飯︀は
三{{r|寶|ぼう}}とて、過去、今世、未來三世の諸︀佛也。然るに五味と名付は、{{r|娑婆世界|しやばせかい}}の{{r|化名|けみやう}}なり。根本に至り
ては一味一法也。萬法一位に歸す。一位は無味々々は米に歸す。すべて口すさびに、五味と云言の葉
草もさもあれや、空のよねには味ひもなしとよみければ、かれらがまんやはらげて、白露はおのが姿
を其儘に紅葉におけば{{r|紅|くれなゐ}}の玉と詠ずる古歌の心かやと深く合點して、一處にころびあひてから{{く}}
と笑ふ。{{r|此|この}}聲吉祥︀寺にひゞく。門前の{{r|沙彌|しやみ}}是を聞き、何者︀ぞや、門前にて釋迦達摩の文句を引出し、
法令を沙汰するも所にこそよるべけれ。忝くも{{r|吉祥︀寺|きちじやうじ}}{{r|大禪|だいぜん}}智識ましますあたりにて、{{r|得道|とくだう}}がましき
{{r|言句|ごんく}}ふぜい、見ても聞きてもくさ{{く}}して、鼻持せられぬことぞとよ。萬法もと閑也。みづからいそが
はし。たゞ平等の一理にかなへるあり。其上かれをば三世佛もふしぎ、歷代の祖︀も{{r|不可得|ふかとく}}、況や{{r|非情|ひじやう}}
草木のたぐひ推參はいはすまじ、ひとすりに誠に赤がしの大きなるすりこぎを取りそへ、からきあま
きをわれいまだ知らず、皆すり合てあぢはふべしと。腕まくりして走りよれば、嵐に木の葉の散如く、
ちり{{ぐ}}になりてうせぬ。
{{仮題|投錨=江戶町瓦ぶきの事|見出=小|節=k-1-4|副題=|書名=慶長見聞集/巻之一|錨}}
見しは昔、當君江戶へ御打入より此かた、町繁︀昌し、家居多く出來たり。されども、皆草ぶきにて
{{r|燒亡|せうぼう}}しげし。然に慶長六年霜月二日の巳の刻、駿河町かうのじやう家より火を出す。此大燒亡に江戶
町一宇も殘らず。御奉行衆仰には、町中草ぶき故、火事絕えず。幸なる哉、此{{r|序|ついで}}に皆板ぶきになすべきよ
し御觸有ければ、町こと{{ぐ}}く板ぶきに作る所に、瀧山彌次兵衞といふ者︀、諸︀人に秀でて家を作らん
と工み、海︀道おもてむねより半分瓦にてふき、うしろ半分をば板にてふきたり。皆人沙汰しけるは、
本町二丁目の瀧山彌次兵衞は、家を半分瓦にて葺きたり。扨も珍しや奇特哉と人褒美して、{{r|異名|いみやう}}を半
瓦彌次兵衞といふ。是江戶瓦葺の始也。古歌に瓦の松、軒の瓦、瓦の屋などと詠ぜり。瓦屋を心かはら
やと心のかはるによせてよみたる歌あり。{{r|件|くだん}}の彌次兵衞が人に心かはら屋せし事、古今異ならず。昔瓦
始る事、唐國にて{{r|崑吾|こんご}}氏といふ者︀土にて作りはじめたり。扨又王元之が黃州竹樓の記に、{{r|黃岡|くわうかう}}の地に
竹多し。大きなるものは{{r|椽|たるき}}の如し。竹工是をわつて其節︀をゑりさけて、用ひて{{r|陶瓦|たうぐわ}}にかふ。比屋皆し
かなり。其價廉にして工はぶけるを以て也。此竹瓦の德{{r|興|けう}}おほし。夏は急雨に宜し、{{r|瀑布|ばくふ}}の聲あり。
冬は{{r|密雪|みつせつ}}に{{r|宜|よろ}}し、{{r|碎玉|さいぎよく}}の聲あり。琴をひくに宜し、{{r|琴調和暢|きんてうわちやう}}せり。詩を詠ずるによろし、詩韻淸絕也。
碁を圍に宜し、{{r|子聲|しせい}}丁々然たり。{{r|投壺|とうこ}}に{{r|宜|よろ}}し、{{r|矢聲|しせい}}{{r|錚々然|さう{{く}}ぜん}}たり。皆竹樓のたすくる所也。されば愚老
大和國を順禮せしに、宮寺などに、竹瓦多く見えたり。是又黃州の竹樓を學びけるにや。然者︀家康公
興ぜらるゝ江城の殿守は{{r|五重|ごぢう}}、{{r|鉛瓦|えんぐわ}}にてふき給ふ。富士山にならび雲の嶺にそびえ、夏も雪かと見え
て面白し。今は江戶町さかえ皆瓦ぶきとなる。萬廣大に有て美麗なる事前代未聞、あけくれ皆人見る
ことなればしるすに及ばず。{{nop}}
{{仮題|頁=251}}
{{仮題|投錨=江戶河口野地ほんぎの事|見出=小|節=k-1-5|副題=|書名=慶長見聞集/巻之一|錨}}
見しは今、江戶河口に洲崎有て鹽みちぬれば、船道を見うしなひ、舟を洲へのりあげ、風波に損ずる
也。瀨戶物町に、野地豐前といふ人あり。他に施す心ざし身のためにあらずやとて、天正十九卯の年
事也しに、洲崎にみをしるしを立つる。是を俗にほんぎといふ。舟人見て悅ぶ事限なし。惣じて水の深
き處をみをといふ。其しるしに立る木也。是をみをつくしと歌に多くよまれたり。身をつくすといふ
心也。難︀波江に始て立たると、土佐日記に見えたり。新後拾遺に、恨のみ深き難︀波のみをつくししる
しやいづくよる舟もなしと詠ぜり。いなさ細江にも讀たり。水に立るみをつくし、{{r|蘆間|あしま}}にまじる{{r|漂澪|みをつくし}}
とよめり。{{r|洲崎|すさき}}によする波のむら{{r|蘆|あし}}と云前句に、暮れかゝる舟やみををも知ざらんと{{r|昌叱|しやうしつ}}付けられた
り。扨又舟つなぐ木をばかし共はつ木ともいふ。古歌に、ぬれ衣今ぞはつ木にかけてなすかつぎして
けり{{r|與謝|よさ}}の{{r|海︀士人|あまびと}}、是は{{r|丹後|たんご}}也。かしふり立てくほりするといへり。くほりは舟つながんもよほし
也。{{r|梢|こずゑ}}を下にしてふり立る。されば霞のみをつくし朽ち殘ると詠ぜしに付て思ひ出せり。今は早野地
も死ほん木も朽ちて跡なし。然ども名は朽ちやらで殘りとゞまり、此洲を野地ほん木と名付て、出入
舟をさ今において是を尋る河瀨のあらんかぎり、此名立て朽つべからず。易に{{r|積善|せきぜん}}の家に必{{r|餘慶|よけい}}あり
と云々。人に能事をなしぬれば、却て我身におひ、末代子孫の面をよろこばしむると、我語りけれは、
老人聞て古德も仁を人に施べしといへり。諸︀人を親子の如く思ひ、{{r|慈悲深重|じひしんちよう}}に心を大に持ちぬれば、
{{r|神︀明佛陀|しんめいぶつだ}}の利生を得て、天道のかごにより、災をものがれ、善人の名を得、惡鬼も却てしゆごすと知
れたりと申されし。
{{仮題|投錨=將棊盤に迷悟をそなふる事|見出=小|節=k-1-6|副題=|書名=慶長見聞集/巻之一|錨}}
見しは今、江戶町城生といふ{{r|座頭|ざとう}}、古今の歌を一首も{{r|殘|のこら}}ず覺えたると語りいふ。予聞て誠しからずと
古今集をひらき、歌を一首得心しつれば、其つゞき歌の頭を殘らず覺えたり、頗る{{r|奇特|きとく}}也。扨又江戶
に奈切屋治兵衞といふ者︀と、われ將棊をさす。われ{{r|下手|へた}}にて常に負けたり。此者︀目を煩ひひしとつぶ
れ、盲目に成りぬ。われ逢てけろんして云、其方古しへ我と將棊を{{r|諍論|さうろん}}し、或時は駒をそばへ突︀よせ、
或時は駒をぬすみ人の目をくらませし其罰にて、目つぶれたるといへば、盲人聞て、われ盲目たり、
されど將棊は古にかはるべからず、其方駒の場所いづくをさし引と正直にことわるならば、今とても吾
勝つべしといふ。愚老聞て、其方目ある時負けたるさへ遺恨なるに、目くらにまくるものやあらんと
笑ひがてら、てう盤を引寄せ駒をならべ、{{r|飛車|ひしや}}の頭の{{r|步|ふ}}を我つきたるといへば、此ものは指の先にて駒
をちとさぐりちや{{く}}と步をつき、駒のあがりさがりするに、あたりをそんさゝずとつゝ取られつ、算
を亂しさしつるが、終には我負けたり。二十日程過ぎ盲人にあひて、先日の將棊は我角行をすて、金を
取たるゆゑ負けぬ。後悔︀千萬といへば、いや角行捨たるは、{{r|能|よき}}手也。其方步をつき{{r|桂馬|けいま}}をあがる故、
まけぬといふ。是をあらそひけるに、角行の手をも桂馬の手をも作りて見せたり。かゝる不思議あり
{{仮題|頁=252}}
といへば、或禪師是を聞て、さる事もありぬべし。されば物を覺ゆるに、品により人により、かはると
知られたり。それ算道し{{r|算勘|さんかん}}といひて、二つのわかちあり。算をよくおくといへ共、勘にうとき人あり。
勘有て算に下手あり。所謂二義をたつするに、算は{{r|鍛鍊|たんれん}}にあり。是歌よく覺えたる{{r|座頭|ざとう}}に同じ。勘は
工夫あり。是盲目の{{r|將棊|しやうぎ}}さしに異ならず。其工夫と云は、智を兼たり。故に算人世に多く、{{r|勘人|かんにん}}は
{{r|希有|けう}}也。是をふかく物にたとふるに、將棊は是本來の面目、三{{r|界|がい}}も{{r|衆生|しゆじやう}}も悉くもて、{{r|將棊盤|しやうぎばん}}の上に、そ
なはれり。扨又是を目前に比すれば、盤は月に似て其內に知れぬ。一物有名付てかつらの君とす。是
を歌人、目には見て手には取られぬ月のうちのかつらの如き君にぞありけるとよめり。此君王をたな
心に握るを將棊の上手、{{r|勘知|かんち}}の人とも{{r|悟道|ごだう}}の師とも號す。是は大切の{{r|法門|ほふもん}}、{{r|佛祖︀不傳以心傳心|ぶつそふでんいしんでんしん}}の旨な
くして至り難︀しといふ。我聞て將棊盤を月にたとへ{{r|王|わう}}を{{r|桂|けい}}に比するといふ共、皆もて相違せり。{{r|不審|ふしん}}
して云く、盤は方にして靜也。月は圓にして動く、是不合せり。答て、古語に方なる先は圓也、圓な
るはしは方也。又{{r|文中子|ぶんちうし}}に圓方動靜をもて天地の心を見ると云々。又問て云、將棊に二王あり、月に
一君あり比してたらず。答て心月を見ざるや。問て云、盤は一面月は二おもてたとへて餘れり。答て
和歌を詠ず、月は我ふたりの君のかたひらてあはせて見れば一おもて也。問て云、天心の二月いづれ
をめづるや。答て、己心の月を友とす。問て云、三{{r|界中|がいちう}}に二君あり、臣いづれにつかへん。答て、將
棊を見よ、賢臣{{r|二君|じくん}}につかへず。問て云、元來一物也、如何なるか是二王。答て、{{r|魔王|まわう}}は{{r|滅却|めつきやく}}し一佛
王に歸す。問て云、邪王一如なり、そもさんか{{r|滅不滅|めつふめつ}}。答て、{{r|水波不異|すゐはふい}}。愚老聞て、{{r|殊勝|しゆしよう}}と云てさり
ぬ。
{{仮題|投錨=下帶古にかはる事|見出=小|節=k-1-7|副題=|書名=慶長見聞集/巻之一|錨}}
見しは昔、愚老若き比迄は、はたの帶は{{r|麻布抔|あさぬのなど}}を四尺程に切り、中より二つにわり、割りたる方をば腰
へ廻し前にて結びたりしが、當世の{{r|下帶|したおび}}は替りたりといへば、若き人誠しからずと笑ふ。老人聞て、
古へもさる事やありけん、古今集わかれの歌に、した{{r|帶|おび}}のみちはかた{{く}}きつるともゆきめぐりても
あはんとぞ思ふ。此帶は{{r|腰|こし}}兩方へ引まはし、前にて結べば再びあふが如く、人にわかれても又めぐり
あはんと注せり。扨又途中に{{r|契戀|ちぎるこひ}}と云題にて、定家卿、道のべの井{{r|出|で}}の{{r|下帶|したおび}}引結びわすればつらし{{r|初草|はつくさ}}
の{{r|露|つゆ}}と詠ぜり。此歌の心は、淸友といふ人、大和國{{r|井出|ゐで}}の里をとほるに、道にめのと七八の姬をいだ
きて立ちけるを見て、其姬おとなにならば迎へん。其しるしにわが下帶をとき結びてとらせけるを、女
はわすれず待ちけれど、男はわすれてとはざりしに、女恨みて{{r|井出|ゐで}}の{{r|玉水|たまみづ}}に身を投ぜしとかや。是は大
和物語にあり。いとけなきより契る行末と云前句に、下帶を結びもはてずたえぬらんと、{{r|宗祇|そうぎ}}付けられ
たり。今は世上{{r|豐|ゆたか}}にて、皆人ねりはぶたへ抔のやはらかなる物を腰へ引まはし片結びになせり。又古へ
もかくありと聞えたり。俊賴の歌に、{{r|蘆|あし}}のやのしづはた帶の{{r|片結|かたむす}}び心やすくも打とくるかなとよめり。
賤はた帶はひとへに結ぶといへり。{{r|賤機織帶|しづはたおりおび}}は下人の帶とも記せり。一所に片結びにあふと歌にも詠
{{仮題|頁=253}}
ぜり。ひたち帶とは、{{r|鹿島明神︀|かしまみやうじん}}の祭に男女集り、契を定むる布の帶に名を書付、神︀前におきうらなひ抔
の樣にする事色々の說あり。古歌に、{{r|東路|あづまぢ}}の道のはてなる常陸帶のかごとばかりも{{r|逢見|あひみ}}てしがなとよめ
り。扨又下帶を雲雁菊にも詠ぜり。山本の雲の下帶長き夜にいく結びして雁も來ぬらん。又殘り床敷
菊の下帶共よめり。されば當世色好みの人達は、どんす、{{r|綸子|りんず}}、あやじゆす抔のはばひろ物を二ひろ餘
りにきり、腰へふたへにまはし後るにて片結びにとめ前へ長くさげ、{{r|海︀道|かいだう}}あるくとては裾をかゝげ、
{{r|股尻|もゝしり}}を人に見する、下賤小者︀のたぐひ迄もすると見えたり。古人のことばに、人まづしきは心と貧といへ
り。おのれが果報の程にふるまふならば事かく事有るべからず、過て用る故に不足たり。其上にごりた
る水にて足を洗へ、すみたる水にて{{r|纓|えい}}をすゝげとこそ申されしといへば、老人是を聞て、いや{{く}}彼等
がひが事とは云ふべからず。上を學ぶは下のならひぞかし。大名は申に及ばず、小名迄も今は{{r|諸︀侍|しよさぶらひ}}
{{r|華美|くわび}}を事とし、{{r|綾羅錦繡|りようらきんしう}}を身にまとへり。是によりて{{r|郞從|らうじう}}も分さい{{く}}に外見をかざり、{{r|形相|けいさう}}をつく
ろひ{{r|領納|りやうなふ}}する{{r|知行|ちぎやう}}をば皆衣裳にかへつくせり。今の時代、天下太平にして弓を袋に入れ、太刀を箱に
治め、たゞ世の風俗のみ專とし、{{r|萬美々敷|よろづびゞしき}}事{{r|前代未聞|ぜんだいみもん}}{{r|耳目|じもく}}を驚す計也。去程に民はゆたかならず。此根
源を尋るに、武家の{{r|華麗|くわれい}}衣服欲より起れり。愼しみ有べき事也とつぶやきけり{{r|然所|しかるところ}}に諸︀侍衣服過分
の由、{{r|公方|くばう}}に{{r|聞召|きこしめし}}、慶長十九に、當年御法度被仰出趣、衣裳の科{{r|混雜|こんざつ}}すべからざる事。
君臣上下各別たるべし。{{r|白綾|しろあや}}、{{r|白小袖|しろこそで}}、紫の袷、紫の{{r|裏|うら}}えり、{{r|無紋|むもん}}の{{r|小袖|こそで}}御免︀なき衆、{{r|猥|みだり}}に着用有べ
からず。近代{{r|郞從|らうじう}}諸︀卒綾羅錦繡等の服古法にあらず。甚是を制する者︀也と云々。是によつて其御法度
を守り、上下の衣服つゝしみをなし給へり。是に付思ひ出せり。昔賴朝公の時代弓箭をさまつて後、
諸︀侍綾羅錦繡を着用す。賴朝公或時筑後權守俊兼を召れけるに、俊兼御前に參上す。かれは常に華美
を事とする者︀也。只今殊に以て行粧をかいつくろひ、小袖十餘領を着、其袖つまを色々重ねたり。
{{r|武衞|ぶゑい}}是を見給ひ俊兼が刀を御覽の由仰也。卽參らする武衞、自分刀を取て俊兼が小袖の{{r|褄|つま}}を切しめ給ひて
後仰られて云、汝富才勘也。何ぞ儉約を不{{レ}}存や。千葉介常胤、土肥次郞實平が如き者︀は、{{r|淸濁|せいだく}}をわか
たざるの武士也、所謂所領は又俊兼ならぶべからず。然に各は衣服以下{{r|麁品|そひん}}を用ひて美麗を好まず。
故に其家富有の由聞えありて、數輩の郞從を扶持せしめ、{{r|勳功|くんこう}}をはげまさんとす。汝さんさいの費る
所を不{{レ}}知、甚だ過分の振舞也と仰有ければ、伺候の諸︀侍魂を消すと、古き文に見えたり。衣服のいまし
め古今ありと知られたり。國語に玉をあらため行をあらたむと云々。其身の程々に萬事行はざれば、
尊卑上下の禮を失ふ。過ぎたるは及ざるにはしかじ。たゞ{{く}}高き賤き{{r|分際|ぶんざい}}になりあうたる{{r|振舞|ふるまひ}}が見
よかるべし。{{r|衣食什物|いしよくじふもつ}}よのつねなる上に、ひが事せん人をぞ誠の盜人といふべきと有り。抄物に見え
たり。
{{仮題|投錨=人の振舞蛛に似たる事|見出=小|節=k-1-8|副題=|書名=慶長見聞集/巻之一|錨}}
見しは今、{{r|有爲無常|うゐむじやう}}の有樣日月天にめぐり生死を旦暮にあらはし、寒暑︀時を違へずして無常を晝夜に
{{仮題|頁=254}}
盡すといへども、ぜんごふ拙身なれば、是を驚きがたし。心前の發句に驚かぬ身を諫めつゝ落葉哉とせ
られしも、{{r|實|げ}}に{{r|殊勝|しゆしよう}}也。扨又いつなげきいつ思ふべき事なれば、後の世知らで人の過らんと、西行法師が
詠し歌をたゞ何となく思ひ出る折節︀、{{r|蛛戶口|くもとぐち}}に家をいそがはしくかくる。愚老是を見て誠に心なき{{r|非情|ひじやう}}
のたぐひぞかし。人出入の戶口とも知らずはかなき振舞なせり。かくは思へど、人又蛛に同じからず
や。{{r|僧︀正遍昭|そうじやうへんぜう}}は夕暮に蛛のいとはかなげにすがくを常よりもあはれに見て、さゝがにの空にすがくも
同じ事またき宿にもいくよかはへんと詠ぜり。{{r|實々|げに{{く}}}}人は閑ならざるを以て榮とし、苦しび多きを以て
たつとしとす。誠におろかなる振舞也。いかにもして、人は緣をはなれ身を閑にして事にあづからず
して、心を安くせんこそ暫くも樂しみといひつべけれ。愚老も此義を思ひつゞけて、つら杖をつく{{ぐ}}
と身のはかなさを蛛のふるまひ見てぞさとれると口ずさみ侍りぬ。人間おろかに明暮なせることわざ、
さぞな神︀佛はかなくや見給ふべき。
{{仮題|投錨=たばこの烟のむ事|見出=小|節=k-1-9|副題=|書名=慶長見聞集/巻之一|錨}}
見しは今、たばこといふ草、近年異國より渡り老若男女此草に火を付、烟をのみ給ひぬ。然者︀江戶町
に道安と云てはやりくすし有りけるが、夜晝あかずたばこの烟をすひたまふ。愚老これを見て、此た
ばこ何の藥やらんと問へば、道安答て昔から國にて藥をやいて其烟を筆管を以てのみたり。我朝の人
かしこくて金にて作りきせると名付。序例に云、人有て久嗽をやむ。{{r|肺虛|はいきよ}}して寒熱を生ず。{{r|欵冬|やまぶき}}花を
以て三兩芽をやいて、烟の出づるをまつて筆管を持て其{{r|烟|けぶり}}をすふ。口に滿つる時んば是をのむ。うむ
に至るときんばやむ。凡數日の間五七にしていゆることをなすと記せり。然共此たばこと云草醫書に
も見えず。藥とも毒とも知がたし。され共典樂衆を始、いづれものみ給ひぬ。當世はやり物なれば、
我も是を用ると返答せり。是愚なる事ぞや。{{r|論衡|ろんこう}}に益なきののうをなし、補なきの說といへる、猶夏
を以て爐をすゝめ冬を以て扇をすゝむるが如し。亦いたづらならくのみ云々。そのかみ{{r|神︀農|しんのう}}は千草を
さへ味ひ知て、今の世の人の爲に成給ひぬ。すべらぎのみつを其代の始にてと云前句に、藥の草葉種
はつくせじと兼載付られたり。然に日本は{{r|粟散邊地|ぞくざんへんち}}にして大國に比するには及びがたしといへども、
{{r|智惠|ちゑ}}第一の國といひならはし、文武を以て國を治め他國までも恐れ、絕ず御調をそなへ給へり。其上
{{r|當代|たうだい}}の{{r|名醫施藥院|めいゝせやくゐん}}、{{r|壽命院|じゆみやうゐん}}、{{r|驢庵|ろあん}}、{{r|以庵|いあん}}、招法印、{{r|延壽院|えんじゆゐん}}{{r|抔|など}}といひて餘多まします。是藥師の變化か
と沙汰せらるゝ。せめて此草をなも知らでは、異國の聞えしかるべからず。
{{仮題|投錨=道齋日夜雙紙を友とする事|見出=小|節=k-1-10|副題=|書名=慶長見聞集/巻之一|錨}}
見しは今、道齋といふ老人たゞひとり燈し火の{{r|下|もと}}に文をひろげて、見ぬ世の人こそゆかしき友ならめ
と、{{r|明暮|あけくれ}}になぐさむわざぞをかしう見えける。若き人是を見て、老て死せざるはこれ賊するといへる
{{r|本文|ほんもん}}有り。其上老の學文用にたゞず、たゞ{{r|朽|く}}ちたる木にして功のならざるに比す。老來て{{r|十字|じふじ}}{{r|見|み}}九つわ
するべし。學は少年に有る事をと云て笑ふ。老人聞てよき事またん身とも思はずと云前句に、老たれ
{{仮題|頁=255}}
ば何にしかじの世中にと{{r|能阿|のうあ}}付けられたり。學て時に是をならふとこそいへるなれば、老耳にはやく
もなし。あながちに學文するにはあらず。{{r|文選古詩|もんぜんこし}}に、生年不{{レ}}滿{{レ}}百常千歲の憂をいだく。晝短く苦{{二}}夜
長{{一}}何不{{二}}秉{{レ}}燭遊{{一}}と云々。扨又{{r|東坡|とうば}}は夜あそびする時は、五十年いきて百年いけるに同じと申されし。
愚老七十餘歲なり。終夜灯をかゝげて古の賢聖と{{r|閑談|かんだん}}し、今世の思ひ出、百五十年樂めり。年老心閑無{{二}}
外事{{一}}と三體詩に見えたるも面白し。昔をも遠くなさぬは心にてといふ前句に、しみさす文をひらき
てぞ見ると{{r|兼載付|けんさいつけ}}られしも、又をかし。{{r|後漢︀|ごかん}}の{{r|蔡邕|さいいふ}}が言葉に相まみえん事期なし。たゞ是{{r|書疏|しよそ}}以て面
にあつべしといへり。眼の相對する事{{r|眞實|しんじつ}}の友ならず。北窓古人の編一讀三四度、たゞ舊友に{{r|向顏|かうがん}}の
心ち侍る也。幼にしてまなぶ者︀は、日の出の光の如し。老て學ぶ者︀は{{r|灯|ひ}}を取てよる行くが如し。孔子も
四十五十にして聞ふる事なくんば、是又おそるゝに不足といへり。其上莊子は七十にして始て學を好
て名を天下に聞ゆ。{{r|荀卿|じゆんけい}}は五十にして始て來て學を好てながく{{r|碩儒|せきじゆ}}となる。{{r|朝|あした}}に道を聞きて{{r|夕|ゆふべ}}に死す
とも可也と申されし。されば{{r|榮啓期|えいけいき}}といふ者︀は、人男老の三樂を文にくはしくしるせり。われ又三つ
の樂みあり。扨又露の命のかゝるあはれさといふ前句に、昔だに聞くはまれなる年のおにと{{r|宗祇|そうぎ}}付け
られたり。人生七十{{r|古來稀|こらいまれ}}といへる名言を思ひ出て、{{r|杜子美|としび}}が時分だに七十に成るはまれなるに、宗
祇八十に餘れるをあはれといへる句なるべし。此人わが心に同じといふ。人聞て愚なるいひ事かな。
宗祇は古今まれなる連歌の名人、同じ心とははゞかりなからずやといふ。老人聞て、宗祇は歌人八十有
餘まで金句をはきて心を樂しめり。愚老一{{r|生涯賢聖|しやうがいけんせい}}の金言を聞てみづからが心をやしなへり。用る氣
味はかはるといへども、樂むこゝろは異ならずといへり。
{{仮題|投錨=花賣盜人をとらへる事|見出=小|節=k-1-11|副題=|書名=慶長見聞集/巻之一|錨}}
見しは今、庭に植ゑおく木だち色々ありといへども、椿にますはあらじ。其上勸學の文にも、草に{{r|靈芝|れいし}}
木に{{r|椿|つばき}}ありとほめられたり。椿には異名多し。やつをの椿、濱椿、玉椿、はた、山椿、八千とせ椿、
春椿、かた山椿、八嶺椿、つら{{く}}椿、いづれも古歌に見えたるが、いづみのつら{{く}}椿つら{{く}}に見
れどもあかぬこせのはるのはとよめり。此つら{{く}}椿のせつ樣々に記せり。當世皆人の好み給ひける
は白玉こそ面白けれと、尋求めて植る白玉椿やちよへてと詠ぜり。されば當年の春しろき花の咲きたる
椿一本持來て賣らんといふ。本兩替町に甚兵衞といふ人思ひ設けし事也と、此白玉椿を買ひとり、是こ
そ俗にいふ誠のほり出し也とて庭に植る。雨ふりければやがて花ぶさおつる。をしき物哉とて取あげ見
れば、花もさかざる木に白玉をそく{{r|飯︀|いひ}}にて付たり。たばかりにあひぬる事の無念さよと思ふ所へ、廿日
程過其花うり來て、白玉をめすならば持て參らんといふ。甚兵衞出合て後花うりぬす人よ、しやつ遁
すなとひしととらん、とくいましめよ繩をかけよ、{{r|御奉行所|ごぶぎやうしよ}}へつれてゆかんとひしめきけり。隣の正兵
衞といふ人是を聞き、いかに甚兵衞腹立はことわりなり。尤此者︀は盜人也。然共花盜人なればきやしや
なる人にあらずや。扨此ものが花賣盜人ならばかうたる甚兵衞も花の香ぬす人よ、それいかにとなれ
{{仮題|頁=256}}
ば、如何なるか是きやしやの賊と問ふ。答て曰、掬{{soe|べば}}{{レ}}水{{soe|を}}月在{{soe|り}}{{レ}}手{{soe|に}}、弄{{soe|べば}}{{レ}}花{{soe|を}}香滿{{soe|つ}}{{レ}}衣{{soe|に}}と古人もいへり。又歌
人は香をだにぬすめ春の山風と詠ぜり。花盜人やさしき人也といへば、甚兵衞聞て實々{{r|掬水|きくすゐ}}すれば、
月の威光をぬすみ、花を弄すれば花の香をぬすむいはれも月華のそく也。此道理に負けたりと花盜人
の繩を免︀されたり。
{{仮題|投錨=醫賊法印事|見出=小|節=k-1-12|副題=|書名=慶長見聞集/巻之一|錨}}
見しは今、{{r|玄德|げんとく}}と云{{r|藪藥師|やぶくすし}}無學にして法印の位に進み乘物にのり、われいみじげなる體たらくなせり。
人是を見て醫は意也とかや。德なくして高位にあるは、位をぬすむ人也とて、異名を{{r|醫賊法印|いぞくほういん}}といふ。
此人のみならず、俗出共渡世風流を專とし物をしらぬ人も、官位を望み乘物にのり威風をなし給へり。
爰に{{r|有職|いうそく}}の人の申されけるは、當世の人のていたらくをかへり見るに、己れ富たるにまかせ、心の儘
に{{r|振舞|ふるまひ}}世のはゞかりをも知らず。散帶禿髮の姿にて行義正しからず。かるが故に、仁義の道を知らず、
仁の道なくして人といひがたし。仁者︀は人也といひて仁の道をおこなつて後人と名をよばる。義は宜也
とて、萬事よくそれ{{ぐ}}によろしくするをいへり。皆人{{r|官祿|くわんろく}}を欲するがゆゑ、忠義を思はず萬をかざ
り其言葉すなほならず、上位に在ておごらず、下位に在て亂れずと、{{r|周易|しうえき}}に見えたり。いみじかりし
賢聖は時にあはざれば自らいやしき身と成て位をむさぼることもなく心をやすくす。高き位を望むも
次におろかなり。たゞ{{r|智惠|ちゑ}}と心とこそ世にすぐれたるほまれねがはしき事ならめ。されども己達せん
と欲せば、先づ人を達せよと{{r|先哲|せんてつ}}も申されし。おのれよりこのかみには體敬をいたし、おのれよりおと
とには{{r|愛顧|あいこ}}を盡し仁義を以て本とす。扨又心おろかに拙き人も家に生れあへば、高位にのばり望みを
きはむるも有るべし。又有德なる人をば果報目出度人也とてうやまへり。實にも是はことわり也。公
家、武家、俗出ともに位を望み給ふ人金なくて叶ひがたし。古き言葉に貧きと賤きとは人の惡む所と云
て富と貴は人の欲する所也。然共漢︀書に位の高からざるをばなげかざれ、智惠の廣からざるをばなげく
べしといへり。そのかみいざなぎいざなみの尊一女三男をうみて{{r|天降|あまくだ}}し給ふ。それよりこのかたわれ
人とあまたに成りぬ。おほよそ男の數十九億九萬四千八百二十八人、女の數廿九億四千八百二十人と
しるされたり。然時んばいやしむべき下なく貴ぶべき上なしといへども、富貴貧賤に生れ、あるひは
始はとんで終は貧にし、或は先たつとく後はいやしくなる、皆是過去のかいぎやうつたなき故也。古
へ{{r|行平|ゆきひら}}の中納言さすらへ人となり、わくらはにとふ人あらば{{r|須磨|すま}}の浦にもしほたれつゝわぶとこたへ
よとよみしも、いとあはれなることぞかし。又光源氏は春の夜のおぼろげならぬ契りゆゑ、年二十五
と申せしに、是もつの國須磨の浦へ流され、あまりつむなげきの中にしほたれて、いつまで須磨の浦
をながめんなどと詠じさせ給ひて、明けぬ暮れぬとおはせしが、歸京有て後は、太政大臣{{r|藤|ふぢ}}のうら葉
に太上天皇とかくのごとくのたのしびにあへり。高位下位に生れおとろへさかふる人間の有樣私なら
ず。佛も{{r|衆生|しゆじやう}}の{{r|業報|ごふはう}}をおさへて轉ずる事不{{レ}}能といへり。三{{r|世|ぜ}}{{r|了達|れうたつ}}の{{r|智惠|ちゑ}}を以て衆生業報の因緣を知見
{{仮題|頁=257}}
し給ひて、大集經の十來に、高性の者︀は{{r|禮拜|らいはい}}の中より來り、下賤の者︀は{{r|驕慢|けうまん}}の中より來るといへるな
れば、前世の罪を後悔︀すべし。今更作る事なかれ。たゞ自位に任じて天然の道をまもるにはしかじと
いへり。
{{仮題|投錨=江戶の川橋にいはれ有る事|見出=小|節=k-1-13|副題=|書名=慶長見聞集/巻之一|錨}}
見しは今、江戶に古より細き流たゞ{{r|一筋|ひとすぢ}}あり。此水神︀田山岸の柳原より出る也。慶長十一年春、{{r|玄仍|げんじよう}}
此流の{{r|邊|ほとり}}に來り、{{r|靑柳|あをやぎ}}の木ずゑよりわく流哉と發句をせられたり。{{r|實面白舊跡|げにおもしろきゆうせき}}後々未代迄も詩人歌人
此流にいかでか詠吟なかるべき。{{r|楊巨源|やうきうげん}}が詩に、水邊の{{r|楊柳鞠塵絲|やうりうきくぢんのいと}}、立{{soe|て}}{{レ}}馬{{soe|を}}{{r|煩|わづらはし}}{{レ}}君{{soe|を}}折{{soe|る}}{{二}}一枝{{soe|を}}{{一}}、{{r|只|たゞ}}春風の
最相惜むあり。{{r|慇懃更|いんぎんさらに}}向{{soe|つて}}{{二}}手中{{soe|に}}{{一}}吹{{soe|く}}といへり。此詩あはれなり。家づとにせんと一枝手折るを春風惜し
むやらん、わが手の中へ{{r|念比|ねんごろ}}に吹來ると作りたるを、朱子もほめたるとかや。然者︀此水御城堀のめぐり
を流て舟町へおつる。此流に橋五つわたせり。されども皆たな橋にて名もなき橋ども也。然者︀家康公關
東へ{{r|御打入|おんうちいり}}以後、から國の帝王より日本へ勅使わたる。數百人の唐人江戶へ來りたり。{{r|是等|これら}}をもてなし
給ふには{{r|雉子|きじ}}にまさる{{r|好物|かうぶつ}}なしとて、諸︀國より{{r|雉子|きじ}}をあつめ給ふ。此流の水上に{{r|鳥屋|とや}}を作り雉子を限
りなく入れ置きぬ。其雉子屋のほとりに橋一つありけり。それを雉子橋と名付たり。又其下に丸木を
一本渡したる橋有ければ、是をひとつ橋まろき橋共いひならはす。又其次に竹をあみて渡したる橋あ
り。是はすのこ橋竹橋とも名付たり。扨又{{r|御城|おしろ}}の{{r|大手|おほて}}の堀に橋一つかゝりたり。よの橋より大きなれ
ばとて、是をば大橋と名付たり。町には舟町と四日市のあひにちひさき橋只一つ有り、是は{{r|往復|わうふく}}の橋
也。{{r|文祿|ぶんろく}}四年の夏の{{r|比|ころ}}、此橋もとにて錢がめを{{r|掘出|ほりいだ}}す。{{r|永樂京錢|えいらくきやうせん}}打まじりて有しを、四日市の者︀共此
錢がめを町の{{r|兩御代官|りやうごだいくわん}}板倉四郞右衞門殿、{{r|彥坂小刑部|ひこさかこぎやうぶ}}殿へさゝげ申したり。夫より此橋を錢がめ橋と
名付たり。其見し棚橋共は皆朽果て、その跡堀川となり今は{{r|夥敷|おびたゞしく}}橋かゝりたり。されば昔のたな橋は
絕えて久敷成ぬれど、名こそながれて猶聞えけれのふる言の葉ぞ思ひ{{r|出|いで}}にける。今は東西南北の町に
大河多くみえけれども、皆堀川也。橋もかぎりなく出來たり、水底ふかうして此河に主ありて人を取
事度々なり。みな人沙汰しけるは、古き池にこそ主も有{{r|蛇|じや}}も住といひ傳へたれ。是は堀川なれば、河
すゞきか獺などにて有るべし。其上かはうそは老て{{r|河童|かつぱ}}と成て人を取ると古記にも見えたりといへば、
かたへなる人云、今江戶の橋廣大にして長く皆板橋に{{r|欄︀杆|らんかん}}、所々に{{r|銅|あかゞね}}のぎぼうし有て見よしといへど
も、橋の名を聞けばとなへいやしくゐなかびれてをかしかりき。古より聞き傳し名所の橋多し。{{r|唐橋|からはし}}は
山城に在り。見はし、內橋、雲のかけ橋は禁中の事とかや。古歌に{{r|若芽|わかめ}}かる春にもなれば鶯の木傳ひ
わたる天の橋立と詠ぜり。宇治橋、瀨田{{soe|の}}長橋、廣橋、細橋などいふこそ聞きもとなへもやさしき名也
とぞ。老人聞ていや江戶の橋の名笑ひ給ひそ。昔の橋の名も一つ橋、丸木橋、竹橋、中橋、堀江橋、皆
是名所にて歌によみたり。此橋の名今江戶の都︀に出來たれば、詩人歌人などか此橋に詠吟なかるべき。
其上古しへ由來有るにや、橋の異名多し。さゝやき橋は備後、くまのなる音なし川にわたさばや{{r|密語|さゝやき}}の
{{仮題|頁=258}}
橋のしのび{{く}}に。かたち橋{{r|作州|さくしう}}、かつま田の{{r|形|かたち}}の橋のいかねどもうき名は猶や世にとまるらん。お
もはく{{r|橋|ばし}}奧州、ふまばをし紅葉のにしき打敷て人もかよはぬおもはくの橋。とゞろき橋近江、あられ
ふる玉ゆりすゑて見るばかりしばしなふみそとゞろきの橋。{{r|淺水橋|あさみづばし}}越中、あさみづの橋の忍びぢわた
れどもとゞろ{{く}}となるぞわびしき。ちつか橋近江、君が代は千束の橋をいくかへりはこぶ{{r|御調|みつぎ}}の數
もしられず。くめぢ橋信濃、{{r|埋木|うもれぎ}}はなか虫はむといふなれば{{r|久米地|くめぢ}}の橋は心してゆけ。{{r|朽木橋|くちきばし}}奧州、ふ
みだにもかよはぬ{{仮題|編注=2|□|此間缺文}}と詠ぜり。橋の異名つくし難︀し。されば橋の德義をば佛法世法に多くしるされた
り。橋は{{r|勢至菩薩|せいしぼさつ}}の{{r|尊形|そんけい}}を表したまへるとなれば、衆生いかでか仰がざるべき。法華經七の卷に、{{r|如渡|によと}}
{{r|得船|とくせん}}とあり。もろ{{く}}の法門を說給ふも、{{r|衆生迷倒|しゆじやうめいたう}}の大川を越えて{{r|本分|ほんぶん}}の岸に到らしめんが爲の{{r|船橋|ふなばし}}
也と說けり。{{r|實々|げに{{く}}}}水波の難︀をのがれ、萬民とめる世をすなほに渡るはこれ橋の明德也。此江戶川に橋な
くんば幾千萬人川のみくづと成て、いたづらに命をうしなはん事必定、有がたき橋の威德也。然者︀先年
江戶{{r|大普請|おほぶしん}}の時分、日本國の人集てかけたる橋有り、是を日本橋と名付たり。又其川すそに空へ高き橋
有り是を天竺橋といふ。是等の橋は御代目出度時分{{r|新規|しんき}}に出來たるにより、いづれも名高き橋ども也。
{{仮題|投錨=東海︀にて魚貝取盡す事|見出=小|節=k-1-14|副題=|書名=慶長見聞集/巻之一|錨}}
見しは今、相模、安房、上總、下總、武藏、此五ヶ國の中に大きなる入海︀あり。諸︀國の海︀を廻る大魚
共、此入海︀をよき住所と知て集るといへども、關東の{{r|海︀士|あま}}取る事を知らず磯邊の魚を{{r|小網|こあみ}}、{{r|釣|つり}}を垂れ
取る計也。然處に、今武州江戶繁︀昌故、西國の{{r|海︀士|あま}}悉く關東へ來り、此魚を見て願ふに幸哉と{{r|地獄網|ぢごくあみ}}と
いふ大網を作り、網の兩の端に二人して持程の石を二つくゝり付、是を千貫石と名付、二{{r|筋綱|すぢなは}}を付、
長さ三尺程はゞ二三寸の木をふりと名付て、大網の所々に千も二千も付る。此{{r|槇|ふり}}といふ木、魚の目にひ
かるといふ。早舟一艘に{{r|水手|かし}}六人づつ七艘に取乘り、大海︀へ出て網をかけ、兩方へ三艘づつ引分て大
網を引く、一艘はことり舟と名付け、網本に在て左右の網の差引する。此網の內にある大魚小魚一つも
外へもるゝ事なし。海︀底のうろくづ迄も悉く引上る。扨又海︀底にある貝をとらんとて網を海︀へおろし大
網を引すゑて、舟の內にまき車を仕付、{{r|碇|いかり}}を打て網を引きぬれば、砂三尺底にあるもろ{{く}}の貝ども
を{{r|熊手|くまで}}にて引おとす。天地{{r|開闢|かいびやく}}より關東にて見も聞もせぬ海︀底の大魚、{{r|砂底|さてい}}の貝を取りあぐる。去程
に四時を待て波の上砂の上に出る魚貝ども、今は時を知らず常に服しぬれば、江戶にて初魚初貝の沙
汰なし。はや二十四五年この方、此地獄網にて取盡しぬれば、今は十の物一つもなし。{{r|數𦊙洿池|すうここち}}に入
ずんば、{{r|魚鼈|ぎよべつ}}勝げて{{r|食|くら}}ふべからずとは、孟子の言葉也。其上{{r|淮南子|ゑなんじ}}に流を絕ちてすなどる時んば、明
年に魚なしといへるも思ひ出てうたてさよ。もろ{{く}}の魚の中にも、{{r|取分鯛鱸|とりわけたひすゞき}}こそ床敷けれ。{{r|玉葉|ぎよくえふ}}に、
くるゝまに{{r|鱸|すゞき}}つるらし{{r|夕鹽|ゆふしほ}}の{{r|干瀉|ひがた}}の浦に海︀士の袖みゆと、爲家卿詠ぜり。扨又、行春を境の浦の{{r|櫻鯛|さくらだひ}}あ
かぬ形見にけふや引くらんとよめり。櫻鯛と名付け、春に用ひ給へるもいとやさしかりき。鰹しびは
每年夏に至て西海︀より東海︀へ來る。伊豆、相模、安房の海︀に釣りあぐる{{r|初鰹|はつがつうを}}{{r|賞翫|しやうくわん}}也。小田原北條家
{{仮題|頁=259}}
の時代、關東弓矢有て、每日戰ひやむ事なし。{{r|鰹|かつを}}は{{r|勝負|しようぶ}}にかつうをとて、古き文にも記し、先例有る
にやといひて、{{r|侍衆門出|さぶらひしうかどで}}の酒肴には鰹を專と用ひ給ひぬ。しびは味ひよからずとて、{{r|地下|じげ}}の者︀もくらは
ず。侍衆は目にも見給はず。其上しびとよぶ聲のひゞき{{r|死日|しび}}と聞えて不吉也とて、祝︀儀などには、沙汰
せず。然間{{r|海︀士鱑|あましび}}をつりては{{r|鹽引|しほびき}}にしてつかねおく所に、此魚肉ふかきによりて、{{r|頓|やが}}て蟲わき出づる。
其蟲みづから肉をくらひ肉をくひ盡て後は、死かたまつて又本の肉となる。{{r|異香|いかう}}あたりを拂てふかし。
此魚を信濃、上野、下野の山國へあき人持行き賣買す。此等の國の人賞翫他事なし。されば鱑つると古
歌に多くよみたり。{{r|藤江|ふぢえ}}の{{r|浦|うら}}{{r|藤井|ふぢゐ}}の{{r|浦|うら}}{{r|紀|き}}の海︀に詠ぜり。此國の浦里の人{{r|鱑|しび}}{{r|賞翫|しやうくわん}}としられたり。{{r|庭訓|ていきん}}
{{r|往來|わうらい}}に、生物には{{r|鯛鱸|たひすゞき}}は最前にほめて書出し、扨又{{r|鹽肴|しぼざかな}}には{{r|鮎|あゆ}}の{{r|白干|しらばし}}、{{r|鱑|しび}}の黑作りと記せり。黑作りの
事知らず。注にもあらず覺束なし。然に今の時代に至て{{r|鱑|しび}}は{{r|鰹|かつを}}よりも{{r|滋味|じみ}}まさりたりとて、皆人{{r|賞翫|しやうくわん}}
なり。下{{r|萬民|ばんみん}}猶しか也。人の好みも時代に依てかはると見えたり、ていれば、一季を待て來る魚さへ、
關東の海︀にはしばしもとゞまらずして去り行きぬ。今より末の世東海︀に生魚貝有べからず。遠國より
持參る{{r|鹽魚鹽貝|しほうをしほがひ}}をこそくはめ、され共川魚は昔にかはらず。{{r|若鮎|わかあゆ}}、{{r|初鮭|はつざけ}}を皆人賞翫し給ふ。關東に多
し。鮎は玉川、鮭はきぬ川にあり。建久五年甲寅正月十四日、佐々木三郞{{r|盛綱|もりつな}}{{r|生鮭|なまざけ}}を二つ賴朝公へ進
上す。越後の國の{{r|所領|しよりやう}}の{{r|土產|みやげ}}と云々。賴朝公殊にもて御自愛、一つは唯今伺候の輩にほどこさしめ給
ふと、古記に見えたり然るに初鮭は十年以前迄冬の末より取しが、今は秋のはじめにあり。近年初
鮭一喉は金五十両卅兩のあひすたれ。いにしへのたとへにこそ、一{{r|字|じ}}千{{r|金|きん}}{{r|春宵|しゆんせう}}一{{r|刻|こく}}{{r|直|あたひ}}千金などとあれ、
今は初鮭一喉價千金とやいはん。是も大海︀の生魚なきが故也。西國の{{r|海︀士|あま}}{{r|賢|かしこ}}くば關東萬民のわざはひ
也と、我いへば老人聞て、地ごく網に付て思ひ出せり。{{r|華嚴經|けごんきやう}}に佛敎の網を張り、{{r|法界|ほふがい}}の海︀を渡して
{{r|人天|にんてん}}の魚をすくひ、ねはんの岸におくと說給ひて、三界の{{r|群類︀|ぐんるゐ}}を誓ひの網にてすくはんとの{{r|方便|はうべん}}なる
に、{{r|今世|いまのよ}}{{r|地獄網|ぢごくあみ}}にて海︀中のうをくづまでも取盡す事、{{r|外道|げだう}}のなせるわざなるべし。扨又{{r|戈獵|よくれふ}}といふ事
あり。戈はいぐるみとよむ。矢のさきに網を付て魚をいくるむ。獵は狩する事也。論語に釣すれども網せ
ず。{{r|弋|よく}}す共{{r|宿|しゆく}}を射ずと云々。{{r|縱|たとひ}}釣をたれて魚を取とも、大網をたてきりて、有るかぎり取る事を{{r|戒|いまし}}め
給へり。{{r|弋|よく}}するとは弓射る事也。空を飛びなんどするをば射{{r|殺︀|ころ}}すとも、{{r|宿鳥|ねとり}}を射るは情なき由也。此心
を廣き網には魚ものがれずと云前句に、いる矢をもいぬる鳥には心せよと、宗祇付られたり。昔或人
ひつまりたる池水にすめる魚を取て大海︀へはなちける故、長者︀と成りたり。ちひさき形を請たる物也
とも、命を惜む事大山より重し。{{r|本草綱目|ほんざうかうもく}}に云、人魚あり形人に似て腹に四足あかひれの如し。よくし
やくを治す。海︀、山川にも人魚の網にかゝる、人{{r|恐|おそ}}れてくらはずと云々。佛は物の命を殺︀す事十惡五逆
の始にいましめ給ふ。古歌に、むくふべきつみの種をやむすぶらん{{r|海︀士|あま}}のしわざは網の目ごとにとよめ
り。おそろしき{{r|大殺︀生|だいせつしやう}}言葉に絕えたり。{{nop}}
{{仮題|ここまで=慶長見聞集/巻之一}}
{{仮題|ここから=慶長見聞集/巻之二}}
{{仮題|頁=260}}
{{仮題|投錨=卷之二|見出=中|節=k-2|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
{{仮題|投錨=夢に不思議ある事|見出=小|節=k-2-1|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
見しは今、上總國富津と云濱邊の里に、正左衞門と云漁翁有しが、江戶へ魚うりに{{r|切々|せつ{{く}}}}來る。此者︀言ける
は、今年有難︀き御靈夢を蒙りたり。{{r|阿彌陀金色|あみだこんじき}}の{{r|身相|しんさう}}を現じ{{r|來迎|らいがう}}有て、來々年の十月十五日にはかな
らず迎に來り、我を西方極樂へつれ立つべしとのたまふ。かたく約束申したりとて、夜晝怠らず念佛
をとなふ。扨知る人に逢ては其由を語り、來世にてこそ又逢はめといとまごひする。皆人聞きて沙
汰しけるは、正左衞門が申所さらにうたがひなしといへども、かゝるためしはいにしへを傳て聞かず、
おぼつかなしと云所に、老人聞て、去る事も有ぬべし。建久五年五月二日、鎌倉由井の浦邊の{{r|漁父|ぎよふ}}病
なうして{{r|頓死|とんし}}す。{{r|往生|わうじやう}}の{{r|瑞相|ずゐさう}}有と諸︀人こぞつて是を見るに、端座かづしやうしていさゝかも動搖せず、
生きたる者︀を見るがごとし。賴朝公此由を聞召し、{{r|隨喜|ずゐき}}の餘り梶原三郞兵衞景茂を以て尋ねしめ給ふの
所に、此男日比魚釣を以て世渡のはかりごとゝなす。たゞし其間に彌陀の{{r|名號|みやうがう}}を専ととなへ、後世をい
となむの由申と云々。扨又成元二年九月三日熊谷小次郞直家鎌くらを立て{{r|上洛|しやうらく}}す。是又直實入道
{{r|蓮生坊|れんしやうばう}}來十四日に京東山の麓に臨終すべき由をしめし下すの間、是を見とぶらはんが爲也。直家云、我
{{r|進發|しんぱつ}}の跡に此事御所中に披露すべき由申に依て、直家鎌倉を立て後此事{{r|披露|ひろう}}する。{{r|珍事|ちんじ}}の由各御沙汰共
有り。然るに因幡前司廣元朝臣云、兼て{{r|死期|しご}}を{{r|知|しる}}事{{r|權|ごん}}化の者︀にあらすば、うたがひ有るに似たりといへ
共、彼入道は{{r|世塵|せぢん}}をのがるゝの後、{{r|淨土|じやうど}}をごんぐし所願堅固にして{{r|稱念修行|しようねんしゆぎやう}}す、あふいで信ずべきか
と云々。然に十月廿一日東平太{{r|重胤|しげたね}}京都︀より鎌倉へ歸參す。則御所に召る。洛中の事を問しめ給はんが
爲也。{{r|重胤|しげたね}}先申て云熊谷次郞直實入道去ぬる九月十四日の未の刻をもて、しゆくゑんの期たるべきよ
し相ふるゝの當日に至て、京中{{r|結緣|けちえん}}の{{r|道俗|だうぞく}}東山の{{r|草庵|さうあん}}に{{r|群參圍繞|ぐんさんゐねう}}す。其{{r|時刻|じこく}}直實入道衣{{r|袈裟|けさ}}を着し、
{{r|禮盤|らいばん}}に{{r|上|のぼ}}り{{r|端座|たんざ}}してたなごころを合せて、{{r|高聲|かうじやう}}に{{r|念佛|ねんぶつ}}をとなへてしうしゆうす。兼ていさゝかも病氣
なしと東鑑に記せり。すでにかくの如き仔細有り。此正左衞門は{{r|穢土|ゑど}}をいとひ、{{r|淨土|じやうど}}を願ひ、一心
{{r|不亂|ふらん}}に彌陀をとなふるより外に他事なし、申所{{r|決定|けつぢやう}}{{r|成|な}}るべしといへり。やうやく三年の月日きはまり、
當年十月十三日十四日にも成りければ、正左衞門が死日こそはやめぐり來りたれ。是を見んとて、相
模國三浦より舟にて{{r|渡海︀|とかい}}し、安房、上總、下總よりも人參りて正左衞門が死さまを見んといふ。
{{r|此在所|このざいしよ}}小笠原安藝守といふ人の領地也。正左衞間が{{r|女房子共|にようぼうこども}}此{{r|地頭|ぢとう}}へ行き、さを聞名及ばれて候らん。はや
みとせの日數めぐり來て、明日は夫の正左衞門が死日にあたりたり。阿彌陀の迎に來り給はん事は不
定、さなくば正左衞門は一すぢに思ひきりたる事なれば、首をくゝるか海︀へ身をなげ候べし。我等が
異見叶ひがたし。ともかくも死なざるやうにはからひ給へ地頭殿と、なきくどき申ければ、地頭より使
を立られたり。明日正左衞門西方{{r|極樂|ごくらく}}へ行事誠しからず。夫世間の{{r|定相|ぢやうさう}}なき事をばによむげんはうや
{{仮題|頁=261}}
う{{r|如露亦如電|によろやくによでん}}と佛も說れたり。故に聖人に夢なしと{{r|文中子|ぶんちうし}}に見えたり。{{r|醫書|いしよ}}に五夢と記したるは是五
{{r|臟|ざう}}の病也。されば夢の{{r|中|うち}}の有無は有無共に無也。其上をのれば、{{r|明暮|あけくれ}}魚の命を殺︀し{{r|地獄|ぢごく}}の{{r|栖|すみか}}を願ひ、
くるしみの海︀にしづむべき{{r|造惡|ざうあく}}無善の者︀が、何{{r|善根|ぜんごん}}有てか極樂參り{{r|覺束|おぼつか}}なし。然といへども、阿彌陀
來りつれ立ならば是非に及ばず行候べし。さなくして川へ身をなぐるか首をくゝる事ならば、三年の
間きよごん者︀曲事たるべし。女房子共火あぶりはり付にかけべしと、さもあらけなく申されければ、正
左衞門聞て、是は思ひもよらぬ地頭殿の仰かな。阿彌陀の約束むなしくば、阿彌陀のきよごんにてこ
そ候べけれ。此正左衞門が恥にて有べからず、などか無理は行けん□。扨又如來{{r|不取正覺|ふしゆしやうがく}}の御せいや
く、あに{{r|虛妄|きうばう}}にあらんや。それ人間命を養ふ事わざ品々ありといへども、われ若年のいにしへより、
此浦にすなどつて一生{{r|惡緣|あくえん}}をむすび其罪おびたゞし。{{r|生死|しやうじ}}の海︀にちんりんし、六{{r|道|だう}}四{{r|生|しやう}}の{{r|業|ごふ}}のがれ難︀
し。然といへども{{r|寶王論|はうわうろん}}に、一{{r|念彌陀佛卽滅無量罪|ねんみだぶつそくめつむりやうざい}}と說き給ふ。{{r|法然上人|ほふねんしやうにん}}の御言葉に、{{r|往生極樂|わうじやうごくらく}}の爲
には、南無阿彌陀佛と申せば、疑なく{{r|往生|わうじやう}}するぞと思ひこりて申外に、別の{{r|仔細|しさい}}は候はず。此外に奧
深き事を存ぜば、二尊の御あはれみにはづれ本願にもれ候べし。念佛を信ぜん人は縱一代の御法をよ
くよく學ずとも、一文不知の{{r|愚鈍|ぐどん}}の身になして、あま入道の無智の輩におなじくして、智者︀の振舞を
せずして、たゞ{{r|一向念佛|いつかうねんぶつ}}すべしとのたまへば、愚なる身もたのもしきかな。八十{{r|億刧|おくごふ}}の生死のつみき
え、{{r|來迎引接卽得往生|らいがういんぜふそくとくわうじやう}}うたがひなしと云。十月十四日の夜も、明十五日にも成ぬれば、正左衞門を近
所大乘寺と云淨土寺へ行き、{{r|佛前|ぶつぜん}}に高く床をかゝせ、其上に{{r|上|のぼ}}つて西方に向ひたなごころをあはせ、
りんじう{{r|正念|しやうねん}}してしようみやう念佛十ぺん計となへ、聲とともに大往生をとぐ。動きはたらかず生た
る者︀の如し。{{r|貴賤老若群參|きせんらうにやくぐんさん}}し{{r|禮拜|らいはい}}せずと云事なし。是をみし人夢に不思議ありと物語りせり。
{{仮題|投錨=平五三郞形儀異樣の事|見出=小|節=k-2-2|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
見しは今、江戶繁︀昌にて、{{r|屋作|やづく}}り{{r|家風|いへふう}}尋常に、{{r|萬美々敷事|よろづびゞしきこと}}{{r|前代未聞|ぜんだいみもん}}なれば、{{r|田舍人|ゐなかびと}}見物に來りくんじ
ゆをなす。爰に{{r|室町|むろまち}}の棚に、平五三郞と云て心{{r|横道|わんだう}}なる人有り。此者︀つく{{ぐ}}思ひけるは、今江戶の
町我人の{{r|風體|ふうてい}}いしやういちじるしければ、田舍者︀はぢらひてあたりへ{{r|寄附|よりつき}}がたし。我そらばかをつく
り、田舎者︀を近付て物をうらんとたくみて、髮ひげむさ{{く}}とはえさせ、かみ{{r|頭巾|づきん}}を目の上まで引かぶ
り、つゞりたる古小袖のえりをふかく折て、{{r|衣紋|えもん}}引つくろひ{{r|木綿|もめん}}袴のよごれたるをむな高に着なし、手
に{{r|長數珠|ながじゆず}}をつまぐり、口に題目をとなへ見せ棚に打かゝり、そらいねぶりして居たり。知る人たち是を
みて、古き文に、官祿をよくする者︀は其詞かざる、忠義を思ふ者︀は其詞直なりといへるは、是にて{{r|思|おも}}
ひしられたり。平五三郞が作りばかの有樣あれ見よと、皆人ゆびさし口びるをうごかさゞるはなかり
けり。然に田舍人江戶を見物し、歸るさ在所へのみやげ物をかはんとて、{{r|室町|むろまち}}を見めぐりけるに、か
らあやの{{r|狂文|きやうもん}}、{{r|唐衣|からぎぬ}}、{{r|朽葉地|くちばぢ}}、{{r|紫|むらさき}}、どんす、りんず、{{r|金襴|きんらん}}、{{r|錦|にしき}}、色々樣々の美麗なる物どもをつみか
さね、ぶげんさうなる人たちのならび居て、何をかめす御用かと問ふ。田舍者︀の事なれば、はづかし
{{仮題|頁=262}}
がほにて物かはんといひ出さん事は思ひもよらず。見世の方をばまなじりにかけ腰をくゞめ、御免︀候へ
御免︀候へとふるへ{{く}}棚の前を通り行計にて、立とゞまり、物かふべき所なし。見れば是なる棚に長じ
ゆずをつまぐり、{{r|後世願|ごしやうねが}}ひと相見えて、まらうど一人有り。{{r|無骨|ぶこつ}}なる{{r|姿風情|すがたふぜい}}は我等が里のいくじなし
左衞門四郞によく似たり。此棚にて物をかはでは有るべきかと思ひ、是なるきるものむすめに似合た
り。ねはいかほどぞ{{く}}ととへども、此者︀時々目を開き耳をそばだて、あり{{く}}と云て口をあき、我
は耳が遠きと云て、又ねぶり、口に{{r|題目|だいもく}}をとなふ。田舍者︀是を見て、江戶の都︀にもかゝる姿ぶこつに
てばか者︀ありけるぞやと思ひ、なう{{r|棚主殿|たなぬしどの}}是なる{{r|着|きる}}物錢三貫に{{r|賣|う}}らしめ{{く}}と、耳の方へ口をよせて
よばはる。ねぶりをのこ是を聞き、此{{r|小袖|こそで}}一貫にもとくうりたし。扨三貫にうらんと云ならば、田舎者︀
こひそこなひと思ひてにぐべし。何々此きる物二貫にかひ度とや、やすく候、いや{{く}}と面をふり又
いねぶり、{{r|題目|だいもく}}をとなふ。田舎者︀是を見て我三貫と云しを二貫といふは、誠に耳がきかざるや、たぶ
らかさばやと思ひ、扨々おぬしはよくとくにも{{r|取|とり}}あはず、{{r|後世|ごせ}}の事のみ思ひ給ふ有がたき人なり。我里
の左衞門四郞と云人に、よく似させ給ひたり、誠の佛よといふ。其時ねぶり男目をひらきにつこと笑
ひ打うなづき、其事よ{{く}}、今は皆夢のたはむれ、我人あすをも知らぬうき世也。おわれの里の左衞
門四郞殿はおきやう{{r|宗|しう}}にておはするか、あらありがたや、{{r|正直捨方便|しやうぢきしやはうべん}}と一の卷に說たまふ。たとひお
きやう宗にあらずとも、神︀は正直のかうべにやどり給ふ。皆人の物うるを見るに、おぬしたちのやう
なる山家の人には、{{r|直|ね}}を高く云かけ、一貫のきるものを二貫三貫に大利を取て賣るおそろしや。神︀佛
のいましめをも思はず人をたばかるとがにより、地獄にて鬼にせめらるゝ事を知らず。われは平五三
郞といひて、江戶にて隱れなき{{r|後世願|ごしやうねが}}ひの正直者︀也。一貫の賣物に錢五十の利あればとくうり、二貫
の小袖に錢百文の利あれば、早くうり其の日の口を養ふ。とかく此口ある故、かゝる少しの利錢を人前
より取と思へば、一日も早くりやうぜん{{r|淨土|じやうど}}へ參りたしと願ぶ計なり。唯々{{r|正直正路|しやうじきしやうろ}}なる人こそ神︀な
れ佛なれ。何々此きるものおぬしの娘子似合たるとや、我もむすめをもちたり。誰とても子には着せ
て見たき物ぞ。おきやう御本尊おだいまんだら、此じゆずぞ{{く}}{{r|代物|だいもつ}}二貫はやすけれども、おぬし
{{r|眞人|まにん}}さうなる人なれば後迄の知る人に成べし。人には逢て見よ、馬には乘て見よと也。なんぞまれ用あ
らば、又も尋ね來り給へ。其しるべに此きるもの二貫文にまけ候ぞよと云てうりたり。おそろしき平
五三郞がたばかり、いふに絕えたり。されば人の心の{{r|好意|かうあく}}はなはだ常ならずし、{{r|白氏文集|はくしぶんしふ}}に見えたり。
白頭あらたなるがごとし。{{r|蓋|がい}}をかたむけていにしへのごとし。いかんとなれば、知るとしらざると也。
是雛陽が傳思ひしられたり。人はたくみにしていつはらんより、つたなうして誠有にはしかじ。扨又
{{r|虎班|こはん}}は見やすく、{{r|人|じん}}斑は見がたしとなり。知らぬ人には心ゆるし給ふべからず。
{{仮題|投錨=古き文に虛言ある事|見出=小|節=k-2-3|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
聞しは今、或人云けるは、{{r|和漢︀合運|わかんがふうん}}と號し、日本は人皇神︀武{{r|此方|このかた}}、慶長十六年迄の{{r|支干|しかん}}、年數世間の
{{仮題|頁=263}}
有樣うつりかはれる事迄も{{r|具|つぶさ}}に記せり。我是を見るに、{{r|慶長|けいちやう}}十年十二月十五日、南海︀八丈島邊に大山
一夜にわき出、今に其山有と書たり。ふしんに思ひ、近年八丈島渡海︀する者︀に、此義を尋るに、一圓
なき事也といふ。かく誠にもあらぬそゞろ事、末の世迄も云傳ふべし。扨又日本六十六ヶ國の郡、山、
海︀、草木、田畑、村里の事迄も如何なる人かよく知りて記したる文あり。其中に伊豆國は、三郡此外大島
ひる島有りと記せり。是に一つの{{r|相違|さうゐ}}あり。豆州の海︀には、大島、桑島、戶島、新島、幸津島、宮城
島、都︀島、三倉島、八丈島と名付、大きなる島九つあつて人里多し。されども{{r|蛭島|ひるがしま}}と云島はなし。然
るに{{r|平相國淸盛|へいしやうごくきよもり}}公平治の合戰に{{r|討勝|うちかち}}、源義朝公一類︀を亡ぼし、鎭西八郞爲朝右兵衞佐賴朝をば命をた
すけ遠島へ流罪せらるべしとて、日本の島々を是彼と尋給ひしが、右の書物をや見たりけん、爲朝を
ば伊豆の大島へ流されけるに、嘉應二年三十三歲にして島にて{{r|自害|じがい}}す。賴朝をば同國{{r|蛭島|ひるのしま}}へ流し給ひ
ぬ。其{{r|蛭島|ひるのしま}}と云は島にはあらず、田方の郡北條の{{r|近所|きんじよ}}に在る里の名也。然るに淸盛公の使者︀伊豆へ來
て、{{r|蛭|ひる}}の{{r|島|しま}}は是かと云々。賴朝は北條へ流され、二十一年の{{r|星霜|せいさう}}をむなしくおくり給ひしが、治承四
年平家{{r|追討|つゐたう}}の{{r|院宣|ゐんぜん}}を給はり、淸盛公をほろぼし、一天四海︀を治められたり。是ひとへに聞あやまつて
無き事を書傳し故、賴朝公德をうけ給ひたり。わざはひも幸も事世の不思議也。扨又唐國に禹が筆と
いふ、夏の禹王の時の{{r|能書|のうしよ}}也。{{r|黃帝|くわうてい}}の{{r|玄孫|げんそん}}あざ名は文命と申き。流るゝ水に文字を書に、水流れず。此
人天下の境、一{{r|切萬物|さいばんもつ}}を書記す。是を{{r|山海︀經|さんかいきやう}}と名付。是はたゞ人にあらず、{{r|權化|ごんげ}}の人なれば{{r|虛言|きよげん}}有るべ
からずと云々。人も知らざる事を我身いみじく心えたるよしして、{{r|口才利口|こうさいりこう}}がほせり。老人聞て、愚
なる事云事哉。{{r|和漢︀合運|わかんがふうん}}にかぎらず、いにしへより記し置きたる書物に{{r|相違|さうゐ}}多し。{{r|內典外典|ないてんげてん}}は廣き事
なれば一樣にあらず。三國共に{{r|摺本|すりほん}}などにもあやまり來れる事共有、とがむべからず。{{r|都︀|すべ}}て世間の事
は、{{r|定不定也|ぢやうふぢやうなり}}。惡とてもうれふべからず、善とても悅ぶべからず。天道は廣大にしててんねん也。此理
を{{r|分明|ぶんみやう}}せざる故に、萬に{{r|疑心|ぎしん}}有りといへり。
{{仮題|投錨=仲信入道辯を好む事|見出=小|節=k-2-4|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
聞しは今、江戶町に仲信と云人なまがしこき事計いへり。强く世間のげんさうをくわんずるに、{{r|飛花|ひくわ}}
{{r|落葉|らくえふ}}の風の前には、{{r|有爲|うゐ}}のてんべんをさとり、{{r|電光石火|でんくわうせきくわ}}の影のうちには、生死の{{r|去來|きよらい}}を見ると、皆人
{{r|柏崎|かしはざき}}の謠にうたひ給へるこそ殊勝なれ。されば天{{r|物|もの}}いふ事なうして、物々みな是をしめす。扨又孔子
物いはじと思ふと云時、子貢が云、門弟何をかのべん。子のたまはく、四時現はれ萬物生ずること、
天のなす所也と云。言葉はなくて色に見えけりといふ前句に、春秋をくさ木にうつす{{r|天津空|あまつそら}}と{{r|宗祇|そうぎ}}付
たり。然るに佛は見る事聞事に迷ふと、いづれの經にも說置給ふといへども、是に一つの相違あり。
見るはうつゝ迷ふべきに非ず、聞くは夢の如し、迷へるはことわり也。夫いかにといふに、佛は三{{r|界|がい}}
まよひのぼんぶを{{r|安樂世界|あんらくせかい}}へむかへんとて、八萬四千の{{r|敎化|けうげ}}を{{r|說|とき}}置給ふ。此有がたき{{r|御法|みのり}}を、智者︀上
人たちは種々樣々のたとへを引き、手を取り道引やうに、廿年三十年敎へ給ふといへども、{{r|流轉生死|るてんしやうじ}}
{{仮題|頁=264}}
の業はなせ共{{く}}あきたらず、{{r|淨土菩提|じやうどぼだい}}の{{r|妙樂|めうやく}}めでたかるべき事をも、迷ひの耳にて聞けば、白川をも
渡らざる旅人の物語とうたがひ迷ひせかせり。さて見るは、萬箇目前の{{r|境界|きやうがい}}、柳はみどり花はくれなゐ
{{r|疑心毛頭|ぎしんもうとう}}なし。後{{r|拾遺|しふゐ}}に、思ひねのよな{{く}}夢にあふ事を、たゞ片時のうつゝともがなと詠ぜり。扨又
面影のみはいかゞ賴まんと云前句に、繪にかゝぬ誠を見ばや彼佛と、法印行助付給ひぬ。然則ば迷は
ぬ目にて{{r|極樂|ごくらく}}のしやうごんのたのしみを一目見るならば、などか後世をねがはざるべき。故に古人は
千聞一見にはしかじとこそ申されしと云。老人是を聞て、夫れ人の心づかひおろかにしてつゝしめる
は、德のもと也。工にしてほしいまゝなるは失のもと也。{{r|夫佛法僧︀|それぶつぼふそう}}をあざむく者︀はむげん地獄のすも
りとなる。維名といつし者︀、僧︀をあなどりしかば、九十一ごふ蟲に生まれて苦しみをうくといへり、
{{r|後撰集|ごせんしふ}}に、なほき木にまがれる枝も有るものを、けをふききずをいふぞはかなきと、かなり{{r|高津親王|たかつしんわう}}{{r|詠|えい}}ぜり。
己が{{r|利根|りこん}}に迷ひ、毛を吹て{{r|過怠|くわたい}}のきずをもとめんとする人也。{{r|漢︀書|かんじよ}}にくだを以て天をうかゞひ、貝を
以て海︀をはかり、いをもつて鐘をつくといへるがごとし。{{r|奸智|かんち}}の者︀一人國にあれば、萬民のわざはひ
となる故に、正道を{{r|行|ぎやう}}ずる者︀は、{{r|佛意神︀慮|ぶついしんりよ}}に叶ひ、{{r|邪道|じやだう}}を行ずる者︀は、人の{{r|嘲|あざけり}}を請て咎を招く。百樣を
知て一樣を分がたきは、世のならひ也。腹中に味ふる事もなく、世上をはゞからず口にまかせ佛法を
そしり、うかべがほにくてい見苦敷覺侍り。其上{{r|不勘|ふかん}}にして歌を引事ひがこと也。住吉、玉津島、天
滿天神︀の神︀慮もおそろし。天道を恐れず佛說を輕じあざむく事、まづ世の{{r|外道|げだう}}いふにたらずと申され
し。
{{仮題|投錨=久齋天神︀まうでの事付宗圓入道事|見出=小|節=k-2-5|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
見しは今、江戶通町に{{r|久齋|きうさい}}と云針たて{{r|醫師|いし}}の有しが、去廿五日湯島の天神︀へ{{r|參詣|さんけい}}せしに、神︀田町にて
ざうりの緖をふみ切り、せんかたなくあたりを見れば、{{r|見世棚|みせだな}}にわらざうり一足さげ置たり。此棚へ
たちより、我天神︀へ參る者︀なるが、草履の緖をふみ切り、中途にて詮方なし。此ざうりかはん、さりなが
ら{{r|代物|しろもの}}持ちあはせず、借し給はぬかといへば、ざうり主此體を見て、わら草履一足安き價なり。其方に
あたふる、はきて天神︀へ{{r|參|まゐり}}給へと云。しらぬ者︀にやさしき志をかんじ、はきて天神︀へ參りたり。歸るさに
是なる町を見れば、爰かしこの家よりけてんがほにて人走出で、是なる家にあつまりて、扨も{{く}}
{{r|俄事笑止|にはかごとせうし}}やいたはしの事やと云て{{r|啼聲|なきごゑ}}する。久齋如何なる事ぞと思ひ立ちとゞまり、よく見れば、先程わ
らざうり{{r|貰|もら}}ひし家也。是は何事ぞ、問ばやと思ひ立寄り、此家に如何なる事の有りけるぞやと問へば、
此家主宗圓入道十四五の獨りむすこの有りつるが、俄に喉痺出來、喉つまり{{r|半時|はんとき}}の{{r|間|ま}}に死たりと云。
久齋人中を分入り、いかにや亭主、我先程天神︀へ參るとてわら草履貰し者︀、針たて醫者︀也。喉痺の煩に
て死たるとや、我針をたてむすこの命を助くべしといふ。親是を聞てよろこび、賴申す、はや{{く}}と云。
久齋巾着より針取出し一針さしければ、此者︀いきをつき出しよみがへりたり。皆々これを見て、扨も
不思議の出合にて命たすかりたる事、天神︀の{{r|御利生|ごりしやう}}かや、又は{{r|生藥師|きやくし}}の{{r|現來|げんらい}}かと思ひ{{く}}に沙汰する
{{仮題|頁=265}}
處に、かたへなる人申されけるは、かゝる{{r|奇特|きとく}}なる仕合、いづれ{{r|佛神︀|ぶつじん}}の御惠にて有べし。されば月は
四州を照し給ふといへども、分てはたゞ慈悲正直のかうべにやどり給ひぬ。扨また人を利するものは
天必是に幸す、人を賊する者︀は天かならずこれが爲にわざはひすといへり。慈悲ある人はよく{{r|天道|てんだう}}に
叶ひ自然に感をもよほせり。{{r|列女傳|れつぢよでん}}に陰德ある者︀は{{r|陽|やう}}是にむくゆ。德は不祥︀にかち百{{r|禍︀|くわ}}をのぞくと云
云。かるが故に陰德有者︀は、必{{r|陽報|やうはう}}{{r|有|あ}}り。楚の{{r|孫叔敖|そんしくがう}}は兩頭の蛇を見て殺︀し埋みたりしも、{{r|陰德|いんとく}}ある
に依て、はたして{{r|令尹|れいいん}}の官にのぼり、後は{{r|楚國|そこく}}の政を行ひしも陽報の理にかなひたり。扨又周の文王
の時、一國の民あぜをゆづること有り。はかなや今の國のあらそひと云前句に、いにしへの小田の畔を
もゆづる世にと、行助付給ひぬ。文王一人の德諸︀國にあまねきが故、萬人やさしき道をまなべり。古
き言葉に、國正しき時は天心したがふ。官淸きときんば民おのづから安しといへり。今の御時代君の
御心{{r|無欲|むよく}}にまし{{く}}て、{{r|賞罰|しやうばつ}}の間に私の御心なきが故、萬民是にはぢ{{r|欲心|よくしん}}うすくやさしき心也。此
{{r|宗圓|そうゑん}}わら草履一足、わづかの心ざしたりといへども、誠の{{r|慈悲心|じひしん}}たちまち通じ、{{r|現當|げんたう}}なるめぐみにあづ
かる事、是天地の神︀明の感ずる處にあらずや。
{{仮題|投錨=一里づかつき給ふ事|見出=小|節=k-2-6|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
見しは今、國治り土民迄も{{r|安樂|あんらく}}たり。{{r|世澆季|よげうき}}に及ぶといへども、君じんとくを、ほどこし給ふによつ
て、佛法王法ともに繁︀昌す。ありがたき御時代也。然ば日本五畿七道は、人王三十二代用明天皇御宇
に定まり、六十六ヶ國に分けらるゝ事は、四十二代文武天皇御宇也。道をば四十五代聖武天皇の御宇
に{{r|行基|ぎやうき}}{{r|菩薩|ぼさつ}}六町一里につもりて王城よりみちのく{{r|東濱|ひがしばま}}に至りて、三千五百八十七里に極め、又長門
{{r|西濱|にしばま}}にいたりて、一千五百七十八里に慥に圖書にしるし置給ふといへども、其境さだかならず。是に依
て當君の御時代に一里塚︀をつくべきよし仰出たり。されば日本橋は慶長八癸卯の年、江戶町わりの時
節︀新敷出來たる橋也。此橋の名を人間はかつて以て名付ず。天よりやふりけん地よりや出けん、諸︀人
一同に日本橋とよびぬる事、きたいの不思議とさたせり。然に武州は凡日本東西の中國にあたれりと
{{r|御諚|ごぢやう}}有て、江城日本橋を一里塚︀のもとゝ定め、三十六町を道一里につもり、是より東のはて西のはて
五畿七道殘る所なく一里塚︀をつかせ給ふ。年久治ならず、諸︀國亂れ{{r|邊土遠境|へんどゑんきやう}}せばくなる處に、曲たる處
をば見はからひ直につけ道をひろげ、牛馬のひづめの勞せざるやうに石をのぞき、大道の兩邊に松杉
を植ゑ、小河をば悉く橋をかけ大河をば舟橋を渡し、日本國中民間往復のたよりに備へ給ふ事、慶長
九年也。萬人喜悅の思ひをふくみ、萬歲を願ひあへり。有がたき將軍國王の{{r|深恩|しんおん}}、末代迄もいかで是
をあふがざらん。
{{仮題|投錨=眞言淨土法論の事|見出=小|節=k-2-7|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
見しは今、三緣山增上寺住持貞蓮社︀慈昌源譽普光觀智國師と申は、淨土の明智識にてまします。是
{{r|彌陀|みだ}}の來現か、{{r|善導法然|ぜんだうほふねん}}の{{r|化身|けしん}}かと沙汰し侍る。天にも師匠にあふぎ給へば、此國師を諸︀宗共に{{r|尊敬|そんきやう}}す。
{{仮題|頁=266}}
其上增上寺は{{r|公方家|くばうけ}}の{{r|御菩提寺|ごぼだいじ}}、{{r|佛閣|ぶつかく}}{{r|甍|いらか}}を並べ七實をちりばの、御{{r|建立|こんりふ}}誠に祇國{{r|精舍|しやうじや}}もかくやらん。
{{r|僧︀俗門前市|そうぞくもんぜんいち}}をなす。諸︀行無常の鐘の聲に、百八ぼんなうの生死の罪をめつし、すみやかにさとり得てねは
んの門にいたらざる人やあらん。されば此寺{{r|御普請|ごふしん}}の時分、人足共石をよわく引き土を少う持を國師
御覽じて、にくいかれらが振舞哉。いにしへも佛道修行として、きそう石を引き、うんかん土を運ぶ。
其上一{{r|向專修|かうせんしう}}といへば、是萬事に通ずる所の佛法の大意也。無法者︀をかしやくするは、是{{r|師家|しか}}の{{r|持戒|ぢかい}}
とせり。いで物見せんと大聲を立て眼をいからし棒を取て出給へば、とがあるもとがなき者︀も肝を消
し、嵐に木の葉の散る如く、四方八面へにげ行く。あらおそろしや俗儀のつよき增上寺の上人や、地
獄遠きにあらず、目の前の{{r|境界|ぎやうがい}}、{{r|惡鬼|あくき}}外になし、{{r|所化|しよけ}}共をかしやくせしくせとして、すでに人足ども打
ころされんとしたりといひて、ためいきつく事度々に及ぶと皆人云。老人聞て、尤此上人{{r|外相|ぐわいさう}}は
{{r|荒人神︀|あらびとがみ}}に見ゆれ共、內は慈悲にんにくの{{r|生佛|いきぼとけ}}にてまします。夫はいかにといふに、慶長十八年卯月十六日
の事なるに、常陸國三戶に於て{{r|菊蓮寺|きくれんじ}}といふ{{r|淨土坊主湯殿供養塚︀|じやうどばうずゆどのくやうづか}}に{{r|卒都︀婆|そとば}}を立置候處に、眞言宗三千
人程集り相談し、卒都︀婆を打つ折、其塚︀の上に高札を立る。抑時供養は湯殿大日より佛法大師相傳有
て、我宗に弘る儀式也。然るを淨土宗つとむる事、{{r|師敎相違|しけうさうゐ}}せり。是に依て卒都︀婆を折て捨る道理有
においては、塚︀本へ出合、一問答是非を決すべしと書て立る。{{r|菊蓮寺|きくれんじ}}是を見て、又塚︀本に返札を立る。
かの{{r|湯殿山|ゆどのさん}}は三身{{r|圓滿|ゑんまん}}の何ぞ淨土の供養をきらふや、其上{{r|塔婆|たふば}}にあたること五逆の人すでに佛身を損
す。如何々々と云て立る。夫より互に筆記を取かはす事數通に及べり。{{r|眞言宗|しんごんしう}}には{{r|筑波山|つくばさん}}、{{r|智足院|ちそくゐん}}を
頭として此いきどほりやむ事なくして、{{r|法論|ほふろん}}いたし勝負を決すべき旨しきりに申によつて、三戶少將
賴房卿より、佐野彌次右衞門、新家忠右衞門、此兩使{{r|眞淨|しんじやう}}の僧︀とさしそひ、江戶へのぼつて此旨御奉
行所へ申上られたり。各々沙汰し給ひけるは、智惠有といへどもいきほひに乘るにはしかず、{{r|識|しき}}有り
といへども、時を待つにはしかずと孟子に見えたり。{{r|今|いま}}{{r|淨土增上寺|じやうどぞうじやうじ}}の御威光は一天四海︀にあまねくお
ほひ、十宗において此德をあふぐ。其上將軍御信敬あさからず、下萬民に至るまでかつがうのかうべ
をかたぶけずと言ふことなし。しかるに增上寺へ、淨土一宗の{{r|御法度|ごはつと}}を將軍家より{{r|御黑印|おんこくいん}}を以ておほ
せ出さる。
{{仮題|投錨=淨土諸︀法度|見出=小|節=k-2-8|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
{{left/s|1em}}
{{仮題|箇条=一}}知恩院之事、立{{二}}置宮門跡領{{一}}、各別相定上者︀、不{{レ}}可{{レ}}混{{二}}雜寺家{{一}}、引導佛事等者︀、定脇住持、如{{二}}先
規{{一}}可{{レ}}被{{二}}執行{{一}}、於{{二}}十念{{一}}爲{{二}}結緣{{一}}、門主自身可{{レ}}有{{二}}授與{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}於{{二}}京都︀{{一}}、門中擇{{二}}器︀量之仁{{一}}、大人爲{{レ}}役者︀、可{{レ}}致{{二}}諸︀沙汰{{一}}、曾不{{レ}}可{{レ}}有{{二}}贔屓偏頗{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}碩學衆於{{二}}圓戒傳授{{一}}者︀、調{{二}}道場之儀式{{一}}、可{{レ}}令{{二}}執行{{一}}、淺學之輩、猥不{{レ}}可{{二}}授與{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}對{{二}}在家之人{{一}}、不{{レ}}可{{レ}}令{{レ}}相{{二}}傳五重血脉{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}淨土修學不{{レ}}至{{二}}十五年{{一}}者︀、不{{レ}}可{{レ}}有{{二}}兩脉傳授{{一}}、殊更於{{二}}璽書許可{{一}}者︀、雖{{レ}}爲{{二}}噐量之仁{{一}}{{仮題|入力者注=[#返り点「二」は底本では「三」]}}、不{{レ}}滿{{二}}廿
{{仮題|頁=267}}
年{{一}}者︀、堅不{{レ}}可{{レ}}令{{二}}相傳{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}糺明學問之年臘、增上寺當住幷其談義所之能化、以{{二}}兩判添狀{{一}}、可{{レ}}啓{{二}}本寺{{一}}、於{{レ}}令{{二}}滿足廿年之稽
古{{一}}者︀、可{{レ}}令{{レ}}頂{{二}}戴正上人之綸旨{{一}}、不{{レ}}至{{二}}廿年{{一}}者︀、可{{レ}}爲{{二}}權上人{{一}}、附十五年以來之出世之坐頭、可{{レ}}
有{{二}}正權之分別{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}非{{二}}古來之學席{{一}}者︀、私不{{レ}}可{{二}}常法幢{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}不{{レ}}解{{二}}事理縱橫之深義{{一}}、着相憑文之族、貪{{二}}着名利{{一}}、不{{レ}}可{{レ}}致{{二}}法談{{一}}、縱亦蒙{{二}}尊宿之許可{{一}}、雖{{レ}}合{{二}}
勸化{{一}}、空閣{{二}}佛經祖︀釋{{一}}、偏事{{二}}狂言綺語{{一}}、妄莊{{二}}愚夫{{一}}耳、剩自讃毀他、最是爲{{二}}法衰之因諍論之緣{{一}}、堅可{{二}}
制止{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}往來之知識等、其所之門中無{{二}}許容{{一}}、聊爾不{{レ}}可{{レ}}致{{二}}法談{{一}}事、
{{仮題|箇条=一}}若輩之砌、及十年致{{二}}學文{{一}}、其後令{{二}}退轉{{一}}之僧︀、望{{二}}色袈裟{{一}}者︀、依{{二}}其人體{{一}}、六十歲以後可{{レ}}許{{レ}}之、
但於{{二}}上人之義{{一}}者︀、可{{レ}}有{{二}}斟酌{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}爲{{二}}平僧︀分{{一}}、縱雖{{二}}老年{{一}}、不{{レ}}可{{レ}}致{{二}}引導{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}於{{二}}淨土宗諸︀寺家{{一}}者︀、縱雖{{レ}}爲{{二}}師匠之附屬{{一}}、恣不{{レ}}可{{二}}住職{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}就{{二}}相替古跡之住持{{一}}者︀、可{{レ}}令{{二}}血脉附法相續{{一}}、於{{レ}}爲{{二}}前住歿後之入院{{一}}者︀、至{{二}}流義之便{{一}}、可{{レ}}致{{二}}傳
受{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}紫衣之諸︀寺家之住持、致{{二}}隱居{{一}}之時、可{{レ}}脫{{二}}紫衣{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}大小之新寺、爲{{レ}}私不{{レ}}可{{レ}}致{{二}}建立{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}借在{{二}}家構{{一}}、佛前不{{レ}}可{{レ}}求{{二}}利養{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}於{{二}}智識{{一}}分{{二}}坐頭{{一}}者︀、以{{二}}血脉論旨之次第{{一}}、上下品可{{二}}相定{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}於{{二}}法問商量之座敷{{一}}者︀、以{{二}}學文之戒臘{{一}}、可{{レ}}定{{二}}上下{{一}}、其外之至{{二}}衆會{{一}}者︀、以{{二}}出世之前後{{一}}、可{{二}}着
座{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}於{{二}}所化寺僧︀之會合{{一}}者︀、選擇以上者︀、平僧︀之上、可{{二}}列座{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}平僧︀分中聲明法事等之役儀、有{{二}}其嗜{{一}}輩者︀、同臘內可{{レ}}居{{二}}上座{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}不{{レ}}辨{{二}}階級之淺深{{一}}、恣高{{二}}擧自身{{一}}、對{{二}}上座{{一}}致{{二}}緩怠{{一}}輩者︀、永不{{レ}}可{{二}}會合{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}諸︀寺家之住持、任{{二}}自己之分別{{一}}、背{{二}}世出之法義{{一}}者︀、爲{{二}}寺中之老僧︀{{一}}、兼日可{{レ}}加{{二}}異見{{一}}、不{{レ}}然者︀、可{{レ}}
屬{{二}}同罪{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}白旗流義諸︀國之末寺、隨{{二}}其大小{{一}}、集{{二}}調報謝錢{{一}}、三個年一度宛、以{{二}}使僧︀{{一}}可{{レ}}備{{二}}影前{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}出世之官物之事、綸旨之分、銀子二百文目、參內之分五百文目、若爲{{二}}兩樣同時{{一}}者︀、七百文目相定
上者︀、不{{レ}}可{{レ}}論{{二}}米穀︀之高下{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}末々諸︀寺家者︀、徒其本寺可{{レ}}致{{二}}任置{{一}}、若有{{二}}理不盡沙汰{{一}}者︀、可{{レ}}爲{{二}}本寺之私曲{{一}}事。{{nop}}
{{仮題|頁=268}}
{{仮題|箇条=一}}一向無智之道心者︀、等對{{二}}道俗{{一}}、授{{二}}十念{{一}}勸{{二}}男女{{一}}、與{{二}}血脉{{一}}寔以法賊也、自今以後、堅可{{二}}停止{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}惡徒出來、近年興{{二}}邪敎{{一}}、違{{二}}經文釋義{{一}}、私勸{{二}}安心{{一}}、闕{{二}}六字名號{{一}}、唯稱{{二}}三字{{一}}、廻{{二}}種々謀計{{一}}、令{{レ}}誑{{二}}
惑衆生{{一}}、是天摩之所行、速可{{レ}}令{{二}}追拂{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}號{{二}}靈佛靈地之修理{{一}}、不{{レ}}可{{二}}諸︀國勸進{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}如{{二}}舊例{{一}}、夏安居從{{二}}四月十五日{{一}}期{{二}}六月廿九日{{一}}、冬安居從{{二}}十月十五日{{一}}可{{レ}}至{{二}}極月十五日{{一}}、聊不{{レ}}
可{{レ}}有{{二}}延促{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}於{{二}}一夏中{{一}}、客殿之法問十則下讀、法問十一則無{{二}}闕減{{一}}、可{{レ}}令{{二}}決擇{{一}}、幷湯日之外、不{{レ}}可{{レ}}有{{二}}談場
懈怠{{一}}、冬安居可{{レ}}爲{{二}}同前{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}解間之事、春從{{二}}二月朔日{{一}}期{{二}}三月廿九日{{一}}、秋從{{二}}八月朔日{{一}}可{{レ}}至{{二}}九月廿七日{{一}}、如{{二}}兩安居物讀法問{{一}}、
不{{レ}}可{{レ}}有{{二}}懈怠{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}頌義十人以下之僧︀、不{{レ}}可{{レ}}爲{{二}}寮坊主{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}諸︀談所之所化、自今以後、縱雖{{レ}}令{{レ}}作{{二}}山老{{一}}、若共不{{レ}}可{{レ}}付{{二}}替因名{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}於{{二}}一寺追放之所化{{一}}者︀、諸︀談所之會合、不{{レ}}可{{レ}}有{{レ}}之事。<sup>付</sup>寺僧︀同宿等、可{{レ}}爲{{二}}同前{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}諸︀檀林所化之法度、悉以可{{レ}}復{{二}}從上{{一}}事。
右三十五個條之旨、永可{{レ}}相{{二}}守其趣{{一}}者︀也。
慶長十九年正月日{{sgap|16em}}增上寺觀智國師
{{left/e}}
かくのごとくの{{r|禁法|きんぽふ}}、淨土一宗に於て{{r|信敬|しんきやう}}せずと云事なし。故に淨土の佛法{{r|彌|いよ{{く}}}}繁︀昌他にことなり。扨
又慶長年中、公方樣より關東眞言宗へ八ヶ條の御法度仰出さるゝ其中に常に{{r|佛法興隆|ぶつぽふこうりう}}の宗として
{{r|如法|によほふ}}の{{r|行義|ぎやうぎ}}を專とすべしと有處に、{{r|修善禁法|しゆぜんきんぼふ}}のたしなみはなく、あまつさへ{{r|佛體|ぶつたい}}□性の{{r|卒都︀婆|そとば}}を折て捨
る事、惡逆無道はなはだし。世のにくむ所人の指さす所也。是ひとへに{{r|眞言宗|しんごんしう}}{{r|破滅|はめつ}}の{{r|前表|ぜんぺう}}{{r|成|な}}るべしと
申あへる處に、{{r|增上寺|ぞうじやうじ}}{{r|聞召|きこしめし}}釋尊四十九年の御說法も、たゞ一{{r|乘|じよう}}の法のみ有て、二つもなく又三つもな
し。此土西天一乘の法一相一味なれども、衆生の情欲異なるによつて、解する處の法門おの{{く}}しや別
有り。然るを{{r|邪人正法|じやにんしやうぽふ}}をとけば、正法も又{{r|邪法|じやほふ}}と成り、正人邪法を說ば邪法も則{{r|正法|しやうぽふ}}と成る。佛道の心
能く開きぬれば、世間の相皆一味の佛法也。爰を{{r|密宗|みつしう}}に一{{r|切衆生|さいしゆじやう}}草木國士悉大日と談ず。扨又淨土宗
には、八萬諸︀聖敎皆是阿彌陀と見奉る。{{r|他日|たじつ}}{{r|實體|じつたい}}の{{r|法門|ほふもん}}に至ては、{{r|色心實相|しきしんしつさう}}にして、
{{r|森羅萬象山河大地彌陀|しんらまんざうさんかだいぢみだ}}にあらずと云事なし。如此きんば自他の{{r|勝劣|しようれつ}}も有るべからず。{{r|自心他心|じしんたしん}}一まいにして{{r|凡聖不二|ぼんしやうふじ}}
なり。何をか求め何をか捨てん。新古今に、いづくにか我法ならぬ法や有ると、空敷風に問と答へぬ。
是唯有一乘の法の心を前大僧︀正{{r|慈圓|じゑん}}は詠ぜり。{{r|雙方|さうはう}}無用の{{r|諍論|さうろん}}なりとのたまへば、此{{r|法論|ほふろん}}無事に成り
ぬ。難︀有やこの{{r|國師慈悲平等|こくしゞひゞやうどう}}を宗とし、諸︀宗の心を我心とし給ふ。{{r|眞實修道|しんじつしゆだう}}の人は他人の是非をとが
めずといへる古人の言葉思ひ知られたり。夫{{r|多聞|たもん}}は{{r|戈|ほこ}}を横たへ{{r|愛染|あいぜん}}は弓に矢をはげ給ふ。是皆{{r|方便|はうべん}}の
{{仮題|頁=269}}
{{r|殺︀生|せつしやう}}にて、{{r|𦬇|ぼさつ}}の六道にもすぐれたるとかや。古語に心荒だつ時んば三{{r|寶荒神︀|ばうくわうじん}}、靜なるときんばほんう
の如來といへり。誠に聖國師にてましますたふとかりけり。
{{仮題|投錨=永傳師匠坊主を殺︀す事|見出=小|節=k-2-9|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
見しは今、上野國石根と云所に{{r|光圓寺|くわうゑんじ}}と云{{r|坊主永傳|ぼうずえいでん}}と云弟子を一人もてり。住持は七十餘り、弟子は
四十に及べり。師弟二人有けるが、弟子寺を早く請取べしといへども、老僧︀渡し給はず。有夜弟子師
匠の首をくゝり殺︀し、{{r|頓死|とんし}}也と{{r|檀那|だんな}}に知らする。然共{{r|天罸|てんばつ}}のがれがたく此儀あらはれ、弟子の首に繩
かゝり江戶へ來りたり。御奉行衆{{r|聞召|きこしめ}}し、五逆の罪人言にたえたりと仰有て、{{r|淺草原|あさくさはら}}にはたものにか
かりたり。是を見て、老人申されけるは、世に忠孝有て親しきは、君臣師弟父子の道にはしかじ。然
共欲心に迷ひしたしき中もかたきとなる。夫人間は天理自然の性を請、五常の道そなはらざるはなしと
雖、{{r|人欲|じんよく}}の私に引落され、樣々と{{r|惡念|あくねん}}{{r|出來無始|できむし}}よりなれたる所の惡逆をほしいまゝに作りて、われと
身をくるしめり。法華經に諸︀の苦みのよる處、{{r|貪欲|どんよく}}を本とせりと說り。一切の{{r|境界|きやうがい}}はわが心の善惡に
在り。迷ふときんば、{{r|塵々妄緣|ぢん{{く}}ぼうえん}}也。悟時は{{r|法々實相|ほふ{{く}}じつさう}}也。{{r|當來|たうらい}}の生所は{{r|只|たゞ}}今生の心にこのみてなす業
因果報にあらば、三{{r|毒|どく}}五{{r|欲|よく}}の惡業を好むは、三{{r|惡|あく}}四{{r|趣|しゆ}}の{{r|惡道|あくだう}}を願ふ。{{r|持戒修善|ぢかいしゆぜん}}を好むは、淨土天上の
{{r|善所|ぜんしよ}}を願ふ人也。扨又五常を專と行ひ給ふも是同じ。仁者︀{{r|閑|しづか}}也と云て、第一無欲成故心{{r|閑|しづか}}なり。不仁
者︀各利にふけり、心さわがしく𨻶なし。然に此弟子師匠を殺︀す源を尋るに、欲心より起る。五逆とは
{{r|親|しん}}、{{r|師|し}}、{{r|佛|ぶつ}}、{{r|羅漢︀|らかん}}、{{r|僧︀|そう}}を殺︀すをいふ。此罪作る者︀は、{{r|無間|むげん}}におつ。{{r|無間|むげん}}とは隙なしと書り。{{r|須臾|しゆゆ}}せつ
なの程も苦しみに{{r|隙|ひま}}なく、さか樣に落る事二千年也。一日ならず二日ならず{{r|無量無數却|むりやうむすうごふ}}の間くるしむと
いへり。{{r|佛神︀|ぶつじん}}にも祈︀り{{r|情欲|じやうよく}}をやめて、{{r|眞實解脫|しんじつげだう}}の門に入らん事こそあらまほしけれ。{{r|無始輪廻多生|むしりんゑたしやう}}に
{{r|流轉|るてん}}たゞ此一事也。人間の愼しみ欲心にしかじといへり。
{{仮題|投錨=江戶を都︀といひならはす事|見出=小|節=k-2-10|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
見しは今、天下治り將軍國王武州江城におはしまし、目出度{{r|御世上|みよのうへ}}なり。故に御門より慶賀をのべ給
ひ、每年{{r|勅使|ちよくし}}怠る事なし。慶長十一年{{r|近衞殿|このゑどの}}江戶へ御下りの時節︀、ねがはくは都︀にまだき花ぞ見んけ
ふくる方の春に行く身は。九條殿注戶に御座し立春に、あひとありぬ時を{{r|東|あづま}}の{{r|旅衣|たびごろも}}春を{{r|迎|むか}}ふる君がめぐ
みにと詠じ給ふ。此外{{r|月卿|げつけい}}、{{r|雲客|うんかく}}、{{r|殿上人|てんじやうびと}}、東國の山を越海︀を渡り、年每に江戶に{{r|下向|げかう}}有て、將軍を
{{r|尊敬|そんきやう}}し給ふ。海︀山もわれをばしるや{{r|東路|あづまぢ}}になれて{{r|往來|ゆきゝ}}の近き年々と、三條{{r|中宮大夫|ちうぐうのだいぶ}}よみ給ひぬ。然間
江戶を都︀と云ならはせり。{{r|眞齋|しんさい}}といふ人申されけるは、天に二つの日なし、地に{{r|二人|ふたり}}の王なし。其上
{{r|內裏|だいり}}を{{r|造進|ざうしん}}せず{{r|朝|あさ}}まつりごとなくして、都︀といはんはひが事なり。天下に王も{{r|一人|ひとり}}、都︀も一つならで
は有るべからずといふ。此義尤{{r|理|ことわり}}なり。然りといへども、天下を守護し將軍國王ましますところなど
か都︀といはざらん。されば鎌倉は賴朝公治承四年の冬の比より取立られし處也。古歌に、鎌倉や鎌く
ら山に鶴︀が岡柳の都︀諸︀越の里と詠ぜり。むかし將軍賴朝公在世の時、二ヶの都︀と號し、鎌倉を都︀と云
{{仮題|頁=270}}
ならはせし事、今の世に用ひざれども、鎌倉の人りんぐんりんがうへ行ては、田舍へ行て候と云、是
云傳へたる所の言葉、鎌倉の人は今に於ていへり。扨又{{r|東鑑|あづまかゞみ}}の文書を見しに、萬鎌倉よりの{{r|御法度|ごはつと}}以
下皆田舍へ{{r|觸遣|ふれつかは}}すべしとあり。其上我朝は{{r|天竺震旦|てんぢくしんたん}}の古き跡を尋て、其例を用ひ給へり、世界に王の數
一萬七千一十八王有と云々。そのかみ三皇五帝世ををさめ給ふ事、天の道に叶ひ人民の政道をおこな
へり。是天より{{r|與|あた}}ふる所の一人なるが故に、地に二人の王なしと孟子に見えたり。周の文王代を治め
{{r|赧王|たんわう}}迄十六代{{r|相續|さうぞく}}せしかども、其內にも七御門有て戰國七雄あり。帝の末子諸︀國にわかれ自立し、國王
と號し其國々の民をなで、政道有し事{{r|春秋|しゆんじう}}に委しく{{r|記|しる}}せり。{{r|項羽︀|かうう}}{{r|高祖︀|かうそ}}の戰ひ史記にあり五常も他國よ
りはじまれり。我朝には{{r|聖德太子|しやうとくたいし}}の御時より是を學び給へり。まもるに{{r|他國|ひとのくに}}の苦しさといふ前句に、
{{r|昔日|そのかみ}}は五つのおきてあらぬ世にと、{{r|紹巴|ぜうは}}付られたり。先聖孔子先師顏回の御顏大學寮にまします。供具
をそなへ詩を作り、春秋の{{r|禮贄|れいし}}を奉る。唐人のかしこき顏をうつしおきて聖の時とけふ祭る哉と詠ぜ
り。されば、大國には御門數多なるゆゑ、都︀も多しと聞えたり。然ば過去にほつしやうの都︀あり、未來
に無爲の都︀あり、天上にじやつくわうの都︀有り、水下に龍の宮古あり。かくの如くmi{{r|過去|くわこ}}{{r|未來|らい}}{{r|天上|てんじやう}}{{r|水底|すゐてい}}
迄も都︀あり。かるが故に、現在にも都︀あり。是ひたすらたのしむ所、繁︀昌の地を都︀とはいへる成るべ
し。扨又山野にも都︀あり。宗砌の發句に、秋の野は{{r|千種|ちぐさ}}の花の都︀かな。ひなの都︀と歌によみたるは、國
府也。又國の政する所を、田舍の都︀と記せり。又人々に付て都︀あり。野の末山の奧にも住ば都︀、すま
ざれば都︀も{{r|旅|たび}}也。然ば今江戶より京の人を召し、又御用を仰付らるゝ其{{r|御請|おんうけ}}返答にも御諚かしこまつて
可罷登候、御用とゝのへのぼせ候と言上する。また京の人江戶へ付いては、昨日罷上り候、今日のぼ
り候と申さゝる也。かく京の人をはじめ諸︀國より江城へのぼるといへば、江戶は都︀にあらずや。萬事
に隨て時々に進退有るべしとこそ古人も申されしか。其上{{r|尙書|しやうしよ}}に、周公基を{{r|始|はじ}}め東國の{{r|洛|みやこ}}に新邑を{{r|造|つく}}
ると云々。然るときんば、東國の洛古今漢︀和に其ためしあり。誠に有難︀き將軍國王の御時代、天下の
安樂思ひ知られたり。
{{仮題|投錨=當世らうさいはやる事|見出=小|節=k-2-11|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
見しは今、らうさいはやり、皆人煩へり。去程にくすしたちは此{{r|時花病|はやりやまひ}}をなほし{{r|手柄|てがら}}にせんと、術を
つくし良藥をあたへ給ふといへども治する事かたし。爰にくすしにもあらざる老人申されけるは、此
煩のおこりを伺ふに、{{r|風邪寒冷|ふうじやかんれい}}よりも出でず、心よりおこる病也。然間此病を心氣と名付たり。心を
いたましむる病也。さればいにしへ聖人世に出て義ををしへ道をたゞす時だにも、智はすくなく下愚
は多しといへり。ましてや今は{{r|末世混亂|まつせこんらん}}の時節︀なれば、智慧はすくなく、{{r|却而|かへつて}}{{r|愚痴|ぐち}}にして、我より上
を見てはうらやみ、心にかなはざる事をのみなげき、開事に迷ひ心{{r|散亂|さんらん}}して氣の煩ひなせり。たとへ
ば{{r|者︀婆|ざば}}{{r|扁鵲|へんじやく}}が來現し、{{r|醫術醫方|いじゆついはう}}を盡すといふ共、此病くすりにては治しがたし。たゞおのれが心をて
んじかへべき也。淵にのぞんて魚をうらやまんより、しりぞいてあみをむすばんにしかじ。堀川右大
{{仮題|頁=271}}
臣の御歌に、身を知らで人をうらむる心こそちる花よりもはかなかりけれと詠じ給ふ。扨又孔子は天
をも恨みず人をもとがめずといへり。氣の煩は氣をもてよく治すべし。縱ば鹽魚を鹽水にひたしぬれ
ば、よく鹽出るが如し。人何ぞ心をもて形の役とするや。
{{仮題|投錨=淺井源藏師の恩忘るゝ事|見出=小|節=k-2-12|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
聞しは今、江戶町に淺井源藏と云若き人いひけるは、をさなき{{r|比|ころ}}手習をしへし師匠今我にあひて、い
にしへ金銀米錢をもあたへ、深恩をなしたる樣に云る事、さらに覺がたし。我をさなき時にいたはる
事なく、却てにくみちやうちやくせられ物をば得かゝず、其しるしなしと云ふ。かたへなる人是を聞
て、おろか也とよ。{{r|源藏師|げんざうし}}の恩深き事其かぎり知られず。故に七尺去て師の影をふまずといへり。唐
にて師弟の契約するには、北方に向ていけにえをそなへ、茅をもて酒を供し、神︀を祭り{{r|誓文|せいもん}}をするに、
{{r|蘆毛馬|あしげうま}}の血と白鷄の血と合て飮ませ、ちかつて後師となり、弟子と成らざれば、師匠弟子をうつ。憎︀
むにあらず、よからしめんが爲ぞとよ。一字を學ぶ共たゞ{{r|寶珠|はうじゆ}}をうる心地有るべし。一字千金にもあ
たると云も、一點他生をたすくる道理有が故也。{{r|心地觀經|しんぢくわんぎやう}}に天地の恩、國主の恩、父母の恩、師匠の
恩、是を四恩と云り。是を知を以て人倫知らざるを鬼畜と名付く。少にしてまなんで老て忘るゝ是一つ
の{{r|費|つひ}}えなりと曾子は申されし。其上學道のしな多かるべし。物書事第一といふは見る事聞事書とゞむれ
ば、忘るゝ事なし。故に古人も手半學とはいへり。いづれの道を學ぶともをしへの筋をよくあらたむべ
し。師は針の如く弟は絲の如しと、{{r|天台大師|てんだいだいし}}はしやくし給へり。おろかに學ばゝ聞ても聞ざるにおな
じ。たゞ樹頭を風吹海︀底の群魚のうしほにしまざるが如し。却て惡弟は恥を師にゆづるとなれば、師
弟共に恥辱にあらずや。扨又君子は下問にはぢず、しかうして後下學して上達す。一人の{{r|胯|また}}をくゞつ
て千人の肩をこゆると也。荀子に靑は藍より出てあゐよりも靑し、氷は水是をなして水よりもさむし
といへり。學文よくつとむれば、弟子も師匠にまさる。{{r|能筆|のうひつ}}なれば帝王將軍の御手にもかゝる事筆道
にしかず。され共今神︀妙の名を得る事はかたし。我朝にて筆道にて名を得給ひしは、{{r|弘法|こうぼふ}}、{{r|道風|だうふう}}、
{{r|佐理|さり}}、{{r|行成|ぎやうせい}}、其外すぐれたるはなし。能筆ならずとも、たゞ俗にならざるやうに書ならふべき事也とい
へり。
{{仮題|投錨=下郞のいふ事世にひろまる事|見出=小|節=k-2-13|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
見しは今、江戶町に金六といふ者︀有り。{{r|大御所樣|おほごしよさま}}三河岡崎におはします時より、御存知の町の者︀なる
が、關東へ御伴申下り、江戶本町一丁目に居たり。御所樣外城へ出御の度每に、金六御城の大手御門
外につくばひぬ。御所樣御覽有て、{{r|頓|やが}}て金六と御言葉をかけられほゝゑみ給ひけり。金六竹杖をつき
御乘物の眞先に立ち海︀道の下知し、右ひだりの町を見廻し、上樣の御通りを町の者︀共に拜み奉れと云。
上樣御覽有て何とか思召しわらはせ給ふ。皆人是を見て、扨も金六は{{r|果報|くわはう}}の者︀かな。上樣の御自愛淺
からず、侍たらば過分の知行をも下さるべき者︀也と諸︀人云ひけり。然に金六日暮ぬれば、江戶町をめ
{{仮題|頁=272}}
ぐり、辻の火番をあらため火をけすか{{r|灯|とぼ}}する哉を見ては、此町に{{r|月行事|つきゞやうじ}}はなきか、何とて火番をかた
く申付ざるぞ、其家主をからめ{{r|籠者︀|ろうしや}}さすべしとをめきければ、町の者︀ども肝をけし御奉行衆の御とが
めかと、あわてふためき出て見れば金六也。夜更け人{{r|靜|しづ}}まつて戶あきたる家あれば、金六刀を拔持て
門に立ふさがり、如何に此家へ盜人入たるぞ、町の者︀ども出合討とめよとよばはりければ、四方の町
どうえうし{{r|槍刀棒|やりかたなぼう}}をひきさげ松明を手每に持て、盜人はいづくに有ぞととへば、家主出て盜人家の內
へはいらず、{{r|宵|よひ}}に忘て戶を明置たるといへば、皆さりぬ。下部の者︀共いひけるは、金六も町の{{r|者︀|もの}}、わ
れらが{{r|親方|おやかた}}どのも町人、皆人金六におぢおそれ給ふのおろかさよ、{{r|御奉行衆|ごぶぎやうしゆ}}の仰にてもなし、町の者︀も
たのまず、いらざる金六がせんじやう哉。夜每に町をさわがし諸︀人のわざはひとなる。其上{{r|町人|ちやうにん}}に
{{r|似合|にあは}}ぬ大かたなを肩に打かたげ、年は七十に餘り白がしらをふつて、每夜町をめぐる。かゝる{{r|性根|しやうね}}つよ
きえせもの世にも有けり。金六なくば夜番も心安かるべし、早くしねかしといふ。家主共聞て
{{r|言語同斷|ごんごどうだん}}{{r|曲事|くせごと}}を云者︀哉。此事金六殿聞くならば、おのれら籠に入べし。上樣は町繁︀昌し盜人火事なきやうに
と御あはれみ覺しめす。是によつて金六殿は上樣への御忠節︀に、夜每に町をめぐり給へるぞ。江戶町
の爲にたからになる人なれば、百迄も命ながかれとこそ思へとしかりぬ。されば下郞共人もたのまぬ
事にいらふをば、不入金六といふ。此言葉世上へひろまり、皆人云ひならばす。下人の口に戶はたて
られぬと俗にいふも加樣の事なるべし。
{{仮題|投錨=三島平太郞三年奉公の事|見出=小|節=k-2-14|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
見しは今、佐渡島正吉といふ遊女、かみがたより江戶へ下る時節︀、伊豆の三島に泊る。此里に平太郞と
いふ油うりあり。正吉を一目見しよりうつゝなき心の闇に迷ひ、是は{{r|天人|てんにん}}の{{r|影向|やうがう}}かや。{{r|玄宗皇帝|げんそうくわうてい}}の代
なりせば楊貴妃、漢︀の武帝の時ならば李夫人、我朝のいにしへならば陽成院の御宇出羽︀のよしざねが娘
小野小町といふとも、是にはいかで增るべき。形は秋の月、ゑめるまなじりには{{r|金谷|きんこく}}の花くんじ、此
油男の袖の移り香も、是他生のえんぞかし。されどもおよばぬ戀なりと身を打わびてたふれふし、今
をかぎりの有さまなり。友だちの油賣ども是を見ていさめけるは、おろかなりとよ平太郞、我々江戶
よし原町にて年月油をうり、ぢようらう町の作法を見しに、下のけいせいは一夜がしろがね十匁廿匁、
中は卅目一枚也。扨此正吉殿はおしやうくらゐの人たちなれば、金一兩が定まりにて、高きいやしき
ゑらびなくあふぞかし。平太郞は金持つまじ、あなかはゆげに、友だち共くわんじんして金一兩作り
出し、此度平太郞が一命を助くべきぞ、氣よわるな心づよく思へといふ。平太郞是を聞きかつぱと起
上り、あらうれしの人のをしへぞや、友達衆の{{r|勸進|くわんじん}}までも及ぶべからず、我此年月油うりため金一兩
持ちたるが、常にはたおびに結び付夜のねざめ晝の{{r|紛|まぎ}}れにも、此金をこそ一代のたからと思ひつれど
も、命のあらば又も金は持つべしと、此一兩の金を取出し、正吉殿に一夜あはんと云。正吉、平太郞
を見てあなみたもなのむくつけき男の有樣や、中々逢はざらまし物をと云て、簾中深くにげ入る。平
{{仮題|頁=273}}
太郞是を見てあら情なの正吉樣の御風情や、いもせの道といふ事はわたくしならず、いづもしの神︀のむ
すびあはせにて、高きいやしき隔なし。いかなる鯨のよる浦虎ふす野邊を蹈みわけ、{{r|草村|くさむら}}の露ときえん
も此道なり。たとひかたちこそ深山がくれのくち木なれ、こゝろは花になさばなりなん。古今いせ物
がたり源氏にも、か樣の事をこそ書かれたり。昔も思ひ深草の四位の少將は、心づよくも小町がもと
へ、九十九夜迄通ひけるとかや。われはせつなる戀なれば、いきてよもあすまで人はつらからじ、この
夕暮をとはゞとへかしとよみ給ひし式子內親王の御心もよそならず、中々に死なん。たゞいくれば人
の戀しきに、いやまだしなじ、あふ事もありと思へども、數ならぬ身はかひもなし。されば佛も{{r|最期|さいご}}
の一念に依て三界の生を引くと說給へば、死てたちまちに{{r|赤鬼|しやくき}}と成てわが{{r|怨念|をんねん}}をはらさんといふかと
見れば、狂亂の心つきて聲かはりけしからず、あらくるし目まひやむねくるしやと云。中たち是を聞き
哀にも又おそろしくもや思ひけん、正吉に此由を語る。正吉さればこそとよ、其男を見つればつら打
よごれ髮ひげむさ{{く}}とはえたるは、おどろのごとし。手にはひゞきれ足にはあかゞりゑめり。身に
著︀たる{{r|木綿布子|もめんぬのこ}}は油じみて肩さへもわかず。只是島のえびすとやらん中々聞も身の毛よだつといふ。
{{r|中立|なかだち}}聞て、なう此男の有樣おそろしや{{く}}、{{r|執心|しふしん}}鬼と成て狂亂し候ぞ。佛はけねん{{r|無量却|むりやうごふ}}と說給ひて
爰に死にかしこに生れ、鳥けだもの江河のうろくづに生をかへて、{{r|愛着|あいぢやう}}のきづなはなれがたし。只一
夜逢てかれが思ひをはるけさせ給へ。されば姿こそ島のえびすに似たれども、心言葉は花の都︀人やさ男
にて候といへば、正吉聞て心うくおもへども、媒のいさめに隨ひ、其夜平太郞と同じむしろにふす。
平太郞むつ事に、扨も{{く}}正吉樣に逢ひ奉る事の忝さよ有がたさよ、それ夫婦男女のかたらひを守ら
んとちかひ給ふ御神︀は、あしがら、箱根、玉津島、きふねや三輪の明神︀、殊にあからさまに正吉樣を
かいまみ、島大明神︀の御引合せぞや。一樹の陰の{{r|宿|やど}}り一河の流を汲む事さへ{{r|他生|たしやう}}の{{r|緣|えん}}と承る。まして
や天下無雙の音に聞えし正吉樣と、此あぶら男が一つ床にふしまゐらする事は、此世ならぬちぎり、
いく生のきえんぞかし。神︀や佛はよくしろし召れけん、此平太郞は夢にも知りま。ゐらせざりし。さぞ
な後の世も又後の世もめぐり逢て、ひとつはちすのうてなの緣と生れん事のうれしさよ。もし{{r|我|われ}}さきに
立ならば、同じはちすの半座をあけて待申さんとくどきけり。正吉はさもうるさくおもひ、とかく物い
はずうしろむきて、例ならぬ聲をなす。平太郞是を聞、御蟲いたくやおはすらん、あらせうしの折か
らやと、おきつふしつ是をなげく間に、はや夜も明行きぬればかなしびて、平太郞秋の夜の{{r|千夜|ちよ}}を{{r|一夜|ひとよ}}
になぞらへて、やちよしねばやとぞくせゝりける。正吉聞て秋の夜の長きも夏のみじかきも、あふ人が
らの心ぞかしといひて、夜の明るを待兼て、急ぎ江戶へと立出る。平太郞わかれをかなしみ、餘りの
せんかたなさに、正吉樣の御乘物をかゝばやとねがふ。君がてゝ君がはゝとやらんいふ人は、よくふ
かきばかりにてあはれも知らぬ人達なれば、此由を聞きねがふこそ幸なれ、はやかゝせよとて乘物を
かきて江戶へ來りぬ。扨又三年つきそひ、正吉が乘物をかきて江戶町をめぐる。皆人此平太郞を見て
{{仮題|頁=274}}
{{r|指|ゆび}}さして笑ひあへり。是ひが事也。昔もさるためしの候ひける。用明天皇さへ戀路に迷ひ、三年があ
ひだ牛をひき草をかり給ふとかや。草かりぶえといふ事、此時よりはじまれりと也。さのみ平太郞を
笑ひ給ふべからず。
{{仮題|投錨=歌舞妓大夫下手の名をうる事|見出=小|節=k-2-15|副題=|書名=慶長見聞集/巻之二|錨}}
見しは今、江戶吉原町にて、來三月五日かつらぎ大夫かぶきをどり有りと、日本橋に高札を立る。江戶
に名を得し女かぶき多しといへども、中にも葛城大夫は世にこえみめかたち{{r|優|やさ}}しく、ようがん美麗成
ければ、此かぶきをこそ見めと、{{r|老若貴賤|らうにやくきせん}}くんじゆし見物す。{{r|大夫舞臺|たいふぶだい}}へ出秘曲を盡し舞よそほひ、た
だ是れ天人の{{r|舞樂|ぶがく}}かや、{{r|少進法印|せうしんほういん}}今春八郞も及ぶべからず。{{r|大鼓|おほつづみ}}、{{r|小鼓|こつづみ}}、{{r|笛|ふえ}}、{{r|太鼓|たいこ}}の役者︀は男也。か
れら打合せ入亂たるこまかなるほど、{{r|拍子|ひやうし}}は天下に名を得たる四座の役者︀もまなぶべからず。彌兵衞
善內が狂言の{{r|風情|ふぜい}}、をどりはぬる{{r|亂拍子|らんびやうし}}は、鷺大夫彌太郞が{{r|式三番|しきさんば}}の足ぶみも、是にはいかでまさるべ
き。{{r|取分猿若|とりわけさるわか}}出て色々樣々の物まねさるこそをかしけれ。はうさい念佛、猿廻し、酒に{{r|醉|よ}}ふ{{r|在鄕|ざいがう}}の百姓、
かたこといひていくぢなき風情、ありとあらゆる物まね扨もよく似たる物哉。辯舌たれる事ふるなの
{{r|變化|へんげ}}かや。かゝる物まねの上手、あめが下第一の名人奇特ふしぎと皆人かんじたり。はや舞もをさま
る時分なれば、みな人名殘惜しく思ふ處に、風呂あがりの遊びをどりを芝居やぶりに仕るべしとこと
わる。是をこそ見めと待所に、大夫を初其外名をうる遊女ども、よはひ二八ばかりなるが、形たぐひな
ういとやさしきかほばせあい{{く}}しく、もものこびをなし、花の色衣を引かさね、二三十人伴ひ出て酒
宴し、一人づつ立て思ひ{{く}}の藝を一曲一かなでらうえいし、座{{r|靜|しづま}}つて其後大小の役者︀二人出て形儀
たゞしく、鼓をしんにかまへりつき顏にて打ならす。皆人ふしんに思ひ、なりをしづめて見る處に、
かつらぎ扇を取て、{{r|自然居士|じねんこじ}}の{{r|曲舞|くせまひ}}皇帝の臣下と{{r|謠出|うたひいだ}}したり。謠の役者︀自慢顏にてふしはかせ音曲を
專とたしなみ、誠に本の{{r|能大夫|のうだいふ}}のまねをして舞ひをさめければ、皆人是を見て、一度にどつと笑ひけ
り。故いかんとなれば、かれらがかぶき舞馬鹿のまねにて打おくならば、誠にかぶきの上手也。己がわ
ざに及びがたき本の能のまねをすれどもさらに似ず、かへつておのが家職まで下手と人に笑はれ、それ
より皇帝の葛城大夫と異名をよばれ、不繁︀昌に成りぬ。是のみならず萬の道、わが家の藝をかろく思ひ、
人の藝まで知り顏する故、おのが藝一段{{r|下手|へた}}の名をよばはるゝはこれよの常のならひ也。或人の云、
{{r|猿若利根才智者︀|さるわかりこんさいちしや}}にて琴、碁、書、畵をも學びえつべし。六{{r|藝|げい}}十{{r|能|のう}}のうちいづれ成とも一藝學ぶならば、一
代身上のたからをまうくべし。あはれ猿若が利根にあやからばやと思ひけるに、此猿若世に人の用ひ
給へる所の藝能をば、中々一つも學びえず。故にばか猿若がまねをなし、{{r|身命|しんみやう}}をかつ{{く}}つなぐとい
ふ。萬つたなくよこざまなる道は學びやすく、すなほにたゞしき道はまなびがたしと知れたり。{{nop}}
{{仮題|ここまで=慶長見聞集/巻之二}}
{{仮題|ここから=慶長見聞集/巻之三}}
{{仮題|頁=275}}
{{仮題|投錨=卷之三|見出=中|節=k-3|副題=|書名=慶長見聞集/巻之三|錨}}
{{仮題|投錨=古無僧︀母のために修行の事|見出=小|節=k-3-1|副題=|書名=慶長見聞集/巻之三|錨}}
聞しは今、或人語りけるは、{{r|古無僧︀|こむそう}}一人尺八を吹き、我門に立ちたり。一錢とらする所に、古無僧︀云、
われは門每にめぐり、母を尋ぬると云、ふしんなり、如何成人ぞととへば、古無僧︀答て{{r|生國|しやうこく}}は山城國の
者︀也。我奉公し、主人の供して豐後の國へ行けるに、親は身のなすわざもなく世に住侘びて、東の方
に{{r|栖|すみか}}求めんと父母ともなひ下りぬ。二とせが程、親の行衞をきかず。明暮戀しく思へども、心にまか
せぬ事にて相過る所に、三年{{r|已前|いぜん}}のはる知る人語りけるは、當年主人の供して江戶へ下り、主人より
去る所へ急用の使に行きけるに、其方{{r|母人|はゝびと}}{{r|路次|ろじ}}にてはたと行逢ひたり。母、袖にとり付き、古しへ我
子の新八と友達なれば、子に逢ふ心地こそすれと、ひたすらに{{r|愁歎|しうたん}}す。其方子の新八は豐後の國にあ
り、{{r|息才|そくさい}}にて奉公す。されども父母の行衞をしらずと云て、明暮歎くと云へば、母云、{{r|一年|ひとゝせ}}の秋{{r|夫|をつと}}病
死して別れたり。たのむ方なくいとゞ我子の行衞のなつかしさに、{{r|乞食|こつじき}}して上方へ{{r|上|のぼ}}る所に、箱根の
關にて女を通さずといへばせん方なく、あきれ{{r|果|はて}}、いきて苦みなげかんより谷へ身をなげしなんとお
もひつるが、命のあらば又もや子に逢はんと、{{r|箱根|はこね}}山を下り又江戶へかへり人に奉公し、命つなぐど
泣く。人々見ていたはしさに、共になみだをながしけり。われ主人のため急用のために使に行く。返
事{{r|遲々|ちゝ}}せば腹を切り追失はるゝか身安かるまじ。殘多けれども又こそあはめといへば、母は扨も情な
しとて、しばしと袖にすがり、はなすまじと人目もわかず泣きかなしめば、進退ならず{{r|迷惑|めいわく}}す。{{r|町海︀道|まちかいだう}}
のことなれば、とほる者︀ども何事かあると立{{r|止|とま}}り、兩人を中にとりまいて群集すること市のごとし。斯
ありて時刻移るの悲しさに、取付たる袂を引切て、あへなくもはしり過ぎ、跡の事はしらず。我奉公
の身やんごとなき仕合にて、{{r|母人|はゝびと}}の在所をも聞かず其方にかたるも面目なしといふ。我聞て父のこと
はなげきてもかひ有るまじ。生たる母の{{r|在所|ありか}}を尋ばやとおもひ、主人へ{{r|詫|わ}}びければ、情ふかき人にて
暇をいだされたり。{{r|卽刻|そくこく}}豐後の國を立ていそぐほどに、廿日といふに江戶へ付ぬ。母の行衞知りがた
ければ、ちひさき板に書付、我{{r|生國|しようこく}}山城の國むだきの郡小浮の里。名は新八をきな名は{{r|犬法師|いぬほうし}}、母を尋
ぬると書て、江戶海︀道の{{r|橋詰每|はしづめごと}}に札を立て置き、我は尺八を吹き{{r|習|なら}}ひ古無僧︀と成りて、江戶町の門每
に立めぐり尋ぬる事はや三年になるといへども、母の{{r|在所|ありか}}しらずとなみだを流す。これを聞て、{{r|男女|なんによ}}
皆あはれをもよほし袖をぬらしたり。かたへなる人云く、是に付てあはれ成事おもひ出せり。昔建仁
元年三月八日鎌倉將軍賴家公、{{r|比企|ひき}}判官{{r|能員|よしかず}}が宅に{{r|入御|じゆぎよ}}し給ひ、庭樹の花ざかりなるの間、兼て案內
を申の故也。爰に京都︀より{{r|下向|げかう}}の{{r|舞女|ぶぢよ}}有て{{r|微妙|びめう}}と號す。{{r|盃酌|はいしやく}}の間是を召出され歌舞の曲を盡す。
{{r|左金吾|さきんご}}しきりに是をかんじ給ふ。{{r|廷尉|ていゐ}}申て云、此舞女{{r|愁訴|しうそ}}の有によりて、山河もしのぎ{{r|參向|さんかう}}すと申す。金
吾聞召し其旨やがて直にたづねしめ給ふの所に、彼の女{{r|落淚|らくるゐ}}{{r|數行|すかう}}にしてさうなくこと葉を出さず。尋
{{仮題|頁=276}}
問度々におよぶの間、申上て曰、建久年中父{{r|右兵衞尉爲成|うひやうゑのじようためなり}}ねいじんのざんげんによりて、官人の爲
{{r|禁獄|きんごく}}せられ、しかうして奧州えびすに給はらんために是をはなちつかはさる。將軍家の{{r|雜色|ざつしき}}請取り申し
{{r|下向|げかう}}しをはんぬ。母は愁歎たへず、{{r|孤獨|こどく}}のうらみにしづむ。やうやく長大の今れんぼの切なる故、父
の存亡をしらんがために、始て{{r|當道|たうだう}}をなしつ東路に赴と申す。將軍聞召しふびんの次第なりとかんじ
給ふ。聞く輩悉もて{{r|悲淚|ひるゐ}}をもよほす。奧州へ人を遣し彼者︀尋ぬべき由仰出されしなり。其後に
{{r|尼御臺所|あまみだいどころ}}金吾の御所へ{{r|入御|じゆぎよ}}し給ふ。舞女を召され其藝をみ給ふの後、親をこふる志をかんじせしめ給ひ、奧
州よりの{{r|飛脚歸參|ひきやくきさん}}するほどは、{{r|尼御臺所|あまみだいどころ}}にこうずべきよし仰有て、則{{r|還御|くわんぎよ}}の御供す、ていれば、奧州
に遣はさる雜色の男、八月五日歸參す。舞女が父爲成亡のよしを申す。舞女聞てもんぜつす。同十五
日、舞女は{{r|榮西律師|えいさいりつし}}のぜんばうにおいて出家をとぐ。{{r|持蓮|じれん}}と{{r|改號|かいがう}}す。ひとへに父をとぶらはん爲なり。
尼御堂御{{r|哀憐|あいれん}}の餘り居所を深澤の里の邊りにおいて給はる。常に御持佛堂の{{r|砌|みぎり}}に參るべき由仰ふくめ
らるゝ。彼の女{{r|日比|ひごろ}}{{r|古部左衞門尉保忠|ふるべさゑもんのじようやすたゞ}}と{{r|密通|みつゝう}}し、ひよく{{r|連理|れんり}}の{{r|契|ちぎ}}りをなすところに、保忠は甲斐の國
にいたり、彼者︀の歸來るをまたず出家す。{{r|悲歎|ひたん}}にたへざるがゆゑなりと皆人かんるゐを流したり。然
に保忠甲斐より來り、舞女出家のよしを聞き、おどろき{{r|遺恨|ゐこん}}やむことなくて、彼{{r|禪門|ぜんもん}}に入り、舞女落
髮せしむる僧︀等を悉くてうちやくす。是に付て仔細ども有り略しぬ。扨又其方父は死に、母去々年迄
{{r|存命|ぞんめい}}なるとや、孝子の志をば天地も感じ{{r|佛神︀|ぶつじん}}もあはれみ給ふ。などか母人にめぐりあひ給はざらんと
なぐさめぬ、ていれば、古無僧︀三年町を尋れども、母の行衞なし。大名衆の{{r|屋形|やかた}}を尋ぬる所に、或
{{r|屋形|やかた}}の門外にて尺八を吹きたり。門番乞食は門內へ入るべからず{{r|御法度|ごはつと}}なりといふ。古無僧︀我は母を尋
ぬる者︀なりとしか{{ぐ}}のことを語る。番の者︀聞てはゝを尋ぬる志あはれなりふびんなり。此屋形の內
をば、我尋ねとらすべし、しばらく待たれよと云て屋內をはしりまはつて聞所に、或下女聞て、夫は誠か
年頃はいかほど名は何と云ぞ。男答て、年は甘歲計名は新八をさな名は{{r|犬法師|いぬほうし}}といふ。女聞てのうそ
れこそ我子よと云て、あわてふためき門外へかけ出る有樣、狂人の如く、子を一目みて、やれ法師よ
と走りよりていだきつき、是はゆめかやうつゝかや、もしさめなばいかゞせんと泣。子は父の事を云
出し、あはれ二親みるならば、いかゞ嬉しかるべきと共になく計なり。{{r|屋形|やかた}}の{{r|男女|なんによ}}集りて袖をぬらさ
ぬはなし。主人聞て、女に{{r|暇|いとま}}をとらせ、あまつさへ豐後迄の路錢をそへて出す。親子よろこび伴ひ本
へ歸りけり。孝子の志淺からず、佛神︀の御引合にやと、皆人なみだをもよほせり。
{{仮題|投錨=吉利支丹御法度の事|見出=小|節=k-3-2|副題=|書名=慶長見聞集/巻之三|錨}}
見しは昔、廿年以前の事にや有けん、他國より{{r|吉利支丹|きりしたん}}と云{{r|宗旨|しうし}}渡りて日本人多く此宗になる。是は
いかなる仔細ぞととへば、ていうすと云者︀、能く人を助け給ふ。神︀佛は人をたすくべからずと仇かた
きにいとひ捨る。その上命をおそれず仁義禮智信をもしらず、常に{{r|惡食|あくしよく}}を好み牛ぶたをかひおき是を
くらつて、{{r|惡道無道|あくだうぶだう}}にして心のまゝの振舞をなす。秀吉公聞召し{{r|夫|それ}}{{r|第六天|だいろくてん}}の{{r|魔王|まわう}}は{{r|欲界|よくかい}}の六天を皆我
{{仮題|頁=277}}
領して、中にも此界の{{r|衆生|しゆじやう}}の生死にはなるゝことををしみ、或は妻となり或は夫となりて是をさま
たげんとす。然によきを愛し惡をにくむ是仁の道なり。佛神︀をかろんずる{{r|徒者︀|いたづらもの}}とて、京三條河原に
五十餘人はた物にかけ給ふ。のびすはんの國下是しもこりず、いかにもして日本人を{{r|吉利支丹|きりしたん}}になし、
後は我國にせんとの謀ごとにて、當將軍の御時代に、又{{r|伴天蓮|ばてれん}}と云ふ{{r|坊主|ばうず}}を多く渡し長崎、京、伏見、
江戶に寺を立ておき、{{r|先|まづ}}{{r|非人乞食|ひにんこつじき}}をともなひ我宗になす。扨又日本人のつうじをかたらひ、其者︀に七
日づつの日を定て{{r|談義|だんぎ}}說する。夫日本人の尊み給ふ釋迦、阿彌陀、天照大神︀いづれの佛神︀も、古へは
皆人間なり。人のひとを助くること叶ふべからず。此世界をばていうすひらき給ふ。人間もていうす
作り給ふ。たとへば親の子を思ふごとく、ていうす人間をあはれみ、此宗ゆゑに死罪にはた物にかゝ
りたらん者︀は、忽天上へ生れたのしみにあふと語れば、{{r|無分別者︀|むふんべつしや}}何とか聞えて、皆此宗になる。秀吉
公聞召、それ我朝は{{r|神︀國佛法|しんこくぶつぽふ}}{{r|流布|るふ}}の國なり。是{{r|外道|げだう}}の妨なるべし。忝も佛法日本へ渡る事、如來めつ
後一千五百一ヶ年をへて、人皇第三十代欽明天皇の卽位十三年、壬申の年十月、{{r|百濟國|はくさいこく}}のせいめい王
より金銅の釋迦佛の像と、幷に{{r|經論|きやうろん}}を渡し給へり。夫よりはんじやうして、推古天皇この方彌さかん
なり。然るにかれらを殺︀すこと、{{r|世欲名利|せよくめいり}}の爲にもあらず。釋迦{{r|因位|いんゐ}}のとき、{{r|正法流布|しやうほふるふ}}のためには惡
僧︀を亡し、聖德太子、守屋を討給ひしも、佛法をひろめん爲ぞかし。其上{{r|密宗|みつしう}}に{{r|調伏|てうぶく}}の法とておこな
はるゝは、是惡心邪法を行ずる{{r|衆生|しゆじやう}}をば、{{r|秘法|ひほふ}}の力を以て{{r|降伏|かうぶく}}し、はやく打ころして後世に成佛せよ
との慈悲の方便ならずや。然るに{{r|一殺︀多生|いつさつたしやう}}の理ありと{{r|御諚|ごぢやう}}有て、ばてれんをば舟にのせこと{{ぐ}}く流
し、日本人のきりしたんころぶと云をば命をたすけ、ころばざるをば諸︀國にて死罪に行るゝこと、數
百人に及べり。江戶にては二十餘人、淺草原にて首を切り給ふ。
乾爲父坤爲母生其中間三才於是定夫日本者︀元是神︀國也。阴阳不測名之謂神︀聖之爲聖靈之爲靈誰不尊崇。
況人得生悉阴阳所感也。五體六塵起去動靜須臾不離神︀非求他人人具足箇箇圓成通是神︀體也。又稱佛國者︀
不無據。文云惟神︀明應迹國而大日本國矣。法華云諸︀佛救世者︀住於大神︀通爲悅衆生故現無□神︀力是金□
妙文神︀與佛其名異而其趣一者︀恰如符節︀上古緇素各蒙神︀助。航洋遠入震旦求佛家之法求仁道敎孜孜內外
之典籍將來未學師師相承的的傳受佛法之昌成超越異朝豈佛法之東漸乎。爰吉利支丹之徒黨適來於日本
非啻渡商船而通資賊叨欲弘邪法惑正法以城政號作已有是大禍︀之萌也。不可不制矣。日本神︀國佛國而尊
神︀敬佛專仁義之道匡善惡法有逆犯輩隨其重輕行墨︀劓剕宮大辟之五刑。禮云表多而服五罪多而利五有罪
之疑者︀乃以佛爲證誓是罪罰之條目犯不犯之區別纖毫不差。五逆十惡之罪人者︀佛神︀三寶人天大應之所棄
捐也。積惡之餘殃難︀逃或炮烙獲罪如是勸善懲︀惡之道也。欲制惡惡易積欲積善難︀保豈不如炳誡乎。現世猶
此後世奚遁閻老呵嘖三世諸︀難︀救歷代列祖︀不祭可畏可畏。彼伴天連徒黨皆反{{レ}}件政令嫌疑神︀道誹謗正正殘
義捐善見有戒人載傾載奔自拜自禮以是爲宗本懷非邪。何哉實神︀敵佛敵也。急不禁後世必有國家之患。殊
司號令不制之却蒙天譴矣。日本國之內寸土尺地無所措手足速掃攘之强有違命者︀可刑罪之。今幸受天之
{{仮題|頁=278}}
詔命主國城乘國柄者︀外題五常之至德內歸一代之藏敎。是故國豐民安。經云現世安穩後生善處。孔夫子
亦云身體髮膚受于父母不敢毀傷孝之始也。全其身乃是敬神︀早。彼邪法稱稱冐我正法世旣雖及澆季益神︀
道佛法紹隆︀之善政也。一天四海︀宜承莫知莫敢遺失。
慶長十八龍集癸丑臘月日
ありがたき{{r|御法度|ごはつと}}、上一人より下萬民に至る迄喜悅の思ひをなす。{{r|鳥類︀|てうるゐ}}{{r|獸|じう}}るゐ有性の外にもなんぞ是
をよろこばざらん。
{{仮題|投錨=上總浦にて黑船損する事|見出=小|節=k-3-3|副題=|書名=慶長見聞集/巻之三|錨}}
見しは古し、慶長六年の秋のころ、上總の國{{r|大瀧|おほたき}}の浦へ{{r|黑船|くろふね}}流れより、舟損す。是は{{r|呂宋國|るそんこく}}よりのび
すばんへ渡る船也。數々の物を積みたるは寶の山ともいひつべし。此{{r|荷物浦|にもつうら}}へ打上けるを、安房、常陸、
下總の者︀共集りてひろひ上れどもつきせずと風聞する。江戶町の者︀共十五以上六十以下の人迄も、上
總の浦へ走りよつて、{{r|此荷物|このにもつ}}を拾はんとする。此浦本多出雲守と云人の領地也。拾ふ事きんぜいと{{r|高札|かうさつ}}
を立てられたり。愚老も此荷物を拾はんと{{r|人並|ひとなみ}}に行けるが及ばずして、人のひろひたるものを、{{r|骨折|ほねをり}}
{{r|代|だい}}を出しもらひとり江戶へ歸る。つら{{く}}思ひけるに、此荷物京都︀にてうるならば、{{r|過分|くわぶん}}の金銀をと
り、我{{r|一期|いちご}}{{r|樂|たの}}しむべし、皆人持て行かざる先にと{{r|心懸|こゝろがけ}}、{{r|駄賃夜|だちんよ}}を日に次でのぼる。おなじき十月廿日と
申すには、京二條の問屋島屋與右衞門といふ人の宿につきたり。京の{{r|町人|ちやうにん}}あつまりて云ひけるやうは、
音に聞えし{{r|大黑船|だいこくぶね}}のひろひ{{r|荷物|にもつ}}こそはやのぼりたり。いざ是をみんと島屋が家へ數百人{{r|入込|いりこ}}み、內に
立つ所なくて門外に人の立ならびたるはたゞ是市の如し。われ是を見て、すは夜を日に繼で人より先
にのぼりたるは、これをこそ願ひつれ。けふは十月廿日えびすいはひ日に京着し、めでたき{{r|吉日|きちにち}}なり。
ねを高くうらんものをとこゝろうれしくて、寶の山に入りたるこゝちせり。忝くもえびす三郞殿と申
すは、いざなぎの御子、惣じて一女三男と申して、四人の御子おはします。日神︀月神︀そさのをひるこ是
なり。天照大神︀よりも三番めに渡らせ給ふ御弟なり。御名をば三郞殿と申奉る。又西の宮と申しき。
{{r|本地阿彌陀如來|ほんちあみだによらい}}にてまします。西の宮と申すなり東の國の人こそ西の宮とは申べけれ。南北の人も西の
宮と申すは是なり。又此御神︀を{{r|蛭子|えびす}}と申す仔細有り。是は神︀道の義おぼろげにて人知り難︀し。知たりと
ても云べからず。なかんづく市にえびすをいはひ奉る事いはれ有り。聖德太子と西の宮の御神︀御約束あ
りて、末代の衆生はういつ邪見を宗とすべし。國々の者︀集り雜言し、酒に醉ひなば惡事出來市みだり
がはしく成るべし。市たいてんせば、我願ひ空しかるべし。市の中にあとをたれてわうなんをはらひ、
賣人を救ひ給へとのたまへば、三郞殿りやうじよう有ていやしき賣人におもてをさらし、手ずさみに
成り給ひし{{r|衆生|しゆじやう}}をたすけおはします、{{r|難︀有御慈悲哉|ありがたきごじひかな}}とおもふ所に、宿のしまや此賣物をとり見遣りけ
れば、皆人云ひけるは、慶長元年丙申の九月八日土佐の國{{r|浦戶|うらと}}の湊より十八里沖に、{{r|夥敷|おびたゝしく}}{{r|黑船流|くろふねなが}}れ
上る。是はなんばんよりのびすばんへ渡海︀する賣船也。{{r|惡風|あくふう}}に逢ひ梶をそこなひ海︀中にとし月をふる
{{仮題|頁=279}}
故、糧なくして五百人死し、殘りて二百人生たり。此よし{{r|長曾我部|ちやうそかべ}}より吿來たる。其比秀吉公大阪におちやうそか
はします。急ぎ增田右衞門尉長盛をけんしとして{{r|指遣|さしつか}}はさる。大工に仰て船のたけを積らせ給へば、長
さ三十六間橫二十間也。梶の穴廣さ疊五{{r|疊敷|でふじき}}なり。此荷物積日記を尋出し見給へば、寶の山とも云つ
べし。西海︀大船二百餘艘に此荷物をつみ、增田右衞門尉奉行し、大阪の浦に{{r|着岸|ちやくがん}}す。秀吉御喜悅なゝ
めならず、此內に生れたるしやかふ十あふむの鳥二つあり。然れば{{r|當年|たうねん}}關東へより、船は土佐の船よ
り大きなるとかや、日本は小國なれば人集りて二十年三十年賣共買共、此{{r|黑船|くろふね}}の荷物盡すまじ。明日
にもなるならば、荷物山のくづれ落るがごとく來るべし。時に宿のしまやいひけるは、如何にや京の
町人達、元より此荷物關東にて拾ひ物なり。然といへども、此人京へのほりくだりの路錢を出して貰
ひ給ふと助言する。其助言にもつかざれば捨るには及ばずして、下り計の路錢にかへて東へ下りしは、
只今玉をふちに沈めたる心地、扨又寶の山に入て手を空しくして歸るにことならず。
{{仮題|投錨=源齋親子いさかふ事|見出=小|節=k-3-4|副題=|書名=慶長見聞集/巻之三|錨}}
見しは今、江戶萬町に{{r|源齋|げんさい}}といふ人親子いさかふ。親心いられたる人にて、子の六郞兵衞を杖をとつ
てしたゝかに打ちたり。六郞兵衞云、か程に腹が立ならば我は子也、とがむる人も有るべからず、只打
ころして親の本意をとげ給へといひてやむ事なし。となりの人來りて六郞兵衞をいさめていはく、い
にしへ{{r|伯瑜|はくゆ}}といふ人の母はきはめて腹あしく心たけくして、伯瑜をうつこといとけなき昔より成人す
るまで怠らず。母老て杖のよわるをかへつて悲しむ。かるがゆゑに、此人末代までも孝子の名を得た
り。扨又{{r|酉夢|いうむ}}父をうちしかば、{{r|天雷|てんらい}}下りてたちまち其身をさく。おやにはしたがふならひ、{{r|堪忍|かんにん}}し給へ
といふ。六郞兵衞曰く、夫程の理を此六郞兵衞しらぬ者︀とやおもふ、我親を打にぞ天雷も罰をあつ
べけれ、親に打ちころされんと云は孝也。親年寄るに隨ひて、萬ひがめりといさめをいへば、却て杖
にてうたれたり。然れば孟子は不孝に三つの品を上られたり。親のひがごとに隨ひていさめず、不義
におとしいる、是大不孝といへり。夫君親の忠孝と云は、あらそふべき時はあらそひ、したがふべき
ときはしたがふ故に、孔子のたまはく、君にしたがひたてまつるは、忠にあらず、親にしたがふは孝
にあらずと申されし。其上我子たりといへども、早家をもち妻子を持つ、四十に及び子をちやうちやく
せらるゝこと{{r|外聞實義|くわいぶんじつぎ}}を失ひたり。たゞ打ちころされんといふ。となりの人いはく、それ世上におもひ
おもわれすること、親子に增はなし。然共親が子を殺︀し子が親を亡す事、むかしもいまもある習ひな
り。志かなふときんば、{{r|吳越|ごゑつ}}も{{r|昆弟|こんてい}}たり、志かなはざるときんば、{{r|骨肉|こつにく}}もてきしうたりと、古しへの
人云へり。{{r|唐堯|たうげう}}は老おとろへたるはゝを尊み、舜は{{r|頑|かたくな}}なる父をうやまへり。孝經に父父ならずといふ
とも子子たらずんば有るべからずと云々。然ば六郞兵衞孔孟の金言をよく知りて、父をいさむるとい
へども、其深志をしらず。孟子の語に、父子にしたしみ有りと云へり。我身は頭より足の爪先まで父
母のうみ付たる物なれば一體なり。いさめて親きかずといふともほしいまゝにはからふべからず。其
{{仮題|頁=280}}
身をかへりみ、つゝしみて孝をせんには、父母は元より子をおもふ道なれば、父子の道立つべし。論
語に父母につかふまつること、能く其身を盡すと云々。{{r|仁王經|にわうきやう}}に{{r|六親不和天神︀|ろくしんふわてんじん}}{{r|不祐︀|ふいう}}と說けり。天地をい
たゞき給ふけんらう地神︀も地の重きことはなし。不孝の者︀ふむ跡{{r|骨髓|こつずゐ}}に通りかなしび給ふとなり。故
に佛はわれ一{{r|刧|ごふ}}において說くとも、父子の恩つくること有るべからずと說けり。一切の恩はおやの恩よ
りおこるとなれば、おそるべきは孝の道なり。昔{{r|嵯峨|さが}}の院の御時、{{r|治部卿|ぢぶきやう}}としかげがむすめの腹にを
のこ一人有り。彼は三つの頃より孝の志あり。五つの年より親をはごくみ、天道の惠みにあへる事う
つぼ物語にみえたり。史記に明君は臣をしり、明父は子をしるとや、故に慈父は無用の子を愛せずと
いへり。然れども父母{{r|常念子子|じやうねんしし}}{{r|不念父母|ふねんふぼ}}と說給ひて、親は子をおもふならひ子は親をおもはざる浮世
なるべし。其上世間に物を願ひてなることならぬことの二つの道有り、生れつかぬ富貴壽命など願ふ
は理にあらず。天命なれば望とも叶ひがたし。親に孝、君に忠をせんとおもふ事如何ほどもなる事な
りといさめければ、六郞兵衞聞て有がたき人のをしへ、我不孝故也と親に詫て中をなほり、親子むつ
まじくさかえり。
{{仮題|投錨=針の穴うがつ事|見出=小|節=k-3-5|副題=|書名=慶長見聞集/巻之三|錨}}
見しは今、世上の有樣尊きも賤しきも{{r|分際|ぶんざい}}に隨ひ持給へる道具、品々有る中に、家より大なるものな
し。針よりちひさき物なし。是男女の持ずして叶はぬ{{r|重寶|ちようはう}}也。家の內にあつて風雨寒暑︀をのぞき、{{r|萬|よろづ}}
{{r|調度|てうど}}を納るは、是家の{{r|德義|とくぎ}}なり。往昔は家もなかりしに、{{r|古人|こじん}}鳥の巢かくるをみて作り始めたり。人
の{{r|栖|すみか}}はあらぬ古しへと云前句に、天が下行方は今もかゝる世にと、{{r|紹巴|ぜうは}}付けられたり。然るに家は一
人の分限により大小善惡の差別有り、針はかはる事なし。扨針をつく{{ぐ}}と見るに、鐵をちひさう作
り立て、うつくしくすりみがく事、如何計の{{r|造作|ざうさ}}ならんとおもふ處に、失ひやすく又求るに其あたへ
安きこと貧者︀の幸を得たり。其上ちひさき針の事耳穴をあくる事ふしぎにおもひけるに、當年甚三郞
と云人{{r|上方|かみがた}}より江戶へ來り、みせ店に有て針のめど明くるをみるに、{{r|神︀變奇特|しんぺんきどく}}なり。世間に學ぶ道品
品多しといへども、針の穴明くる事は學びがたし。其{{r|針穴|はりのあな}}{{r|愚老|ぐらう}}目には中々見えず、女の有りしが細き
糸をちやくと通したり。是又ふしぎなりといへば、かたへなる人云く、昔{{r|黃帝|くわうてい}}の臣下に離と云ふひとは、
馬を千里の外に立て、あらそひて其眼の{{r|人見|ひとみ}}を弓にて射る。又{{r|淮南子|ゑなんじ}}に{{r|離朱|りしゆ}}は針の耳を百步の外にて
通すとあり。いにしへ{{r|神︀農|しんのう}}の御代には木の葉つゞてきたる衣裳を作り着ることは、黃帝の御時より
ぞはじまれる。扨又日本にて衣類︀裁縫の事は、人皇十六代應神︀天皇御宇に、{{r|百濟國|はくさいこく}}より女工はじめて
わたり、夫より衣裳をつゞり着たり。今も{{r|桑門|さうもん}}は着てんげり。{{r|椹|くはのみ}}もなくて靜なる山といふ前句に、{{r|衾|ふすま}}に
も落葉をきたる{{r|世捨人|よすてびと}}と{{r|兼載|けんさい}}付けたまひぬ。昔は寒につめられ死するゆゑ、土穴を掘りて入寒をふせ
ぐ。其頃の世には寒つよくせし時は、雪鬼とて土化生のもの國を廻りて雪をふらし人をとり、口に飮
と、故に相伴ふ人其鬼に穴はしらすな、能々隱せといはんとて、あなかしこくせよといへり。扨こそ
{{仮題|頁=281}}
{{r|祕事|ひじ}}なることをば{{r|穴賢|あなかしこ}}{{r|祕|ひ}}じと文にも書くなり。抑我國は天神︀七代地神︀五代迄は人王もなかりき。然るに
地神︀五代うがやふきあはせずのみことの御宇に、仁王はじまりて出來給ひぬ、神︀武天皇是なり。夫より
三十代にあたらせたまふ欽明天皇の御宇に、{{r|天竺國霖夷天王|てんぢくこくりんいてんわう}}の御息女、金宮皇后と申姬の桑の木船にの
り、常陸の國豐浦のみなとへ流れより、此所にてわたを仕出し{{r|方便|はうべん}}をなし給ふ。此義別紙に委く記し侍
る。然るに又不思議を古き文に曰、欽明天皇の御息女がぐや姬と申奉るは、常陸の國{{r|筑波山|つくばやま}}へ飛び給ひて、
神︀といはゝれ給ふ。國の人あがめ奉り、御供をそなへ{{r|神︀酒|みき}}を參らせ、{{r|尊敬|そんきやう}}申すことなゝめならず。或時
{{r|神︀詫|しんたく}}にのたまはく、我は是舊國のあるじ{{r|霖夷天王|りんいてんわう}}のむすめなり。是國は佛法流布の國なれば、人民を
守り{{r|衆生|しゆじやう}}さいどせん爲に來りたり。吾いやしき腹にやどることあらじとて、欽明天皇の御子となりた
るなり。我此國においてこがひの神︀となりたり。此豐浦にて綿といふこと仕出し、{{r|則各夜姬|さくやひめ}}我なり。
{{r|爰許|こゝもと}}の山もいさぎよからず、是より都︀近き富士山へよぢのぼりてとぞ、神︀はあがらせ給ふ。其後富士
山へ飛給ふ。竹取の翁達をがみ申しけり。筑波山の御神︀と{{r|富士權現|ふじごんげん}}とは御一體分身にて御座さんやう
神︀と成給ふ時は、{{r|本地勢至菩薩|ほんちせいしぼさつ}}の{{r|化身|けしん}}なり。かゝる{{r|佛菩薩|ぶつぼさつ}}の變化にて御座す間、道の人は綿絹をたつ
也。此恩德をおそるゝ故なり。扨又針の始る事は、聖德太子の御あね御前にたつた姬と申女人有り。天
皇の{{r|御息女|ごそくぢよ}}にてましませども{{r|片輪|かたは}}なる人なり。大內をおひ出され、こゝかしこを迷ひ行き給ふを、人
目見苦しとて小屋を作り姬を入置き、業の爲とて針といふこと、太子敎へ給ふ。夫よりはりといふこ
と出來たり。太子の御嫡女故、皆人{{r|姉小路|あねこうぢ}}の針と申傳へたり。人いかで生ながらさかしからん、姿こ
そ生れ付たらめ、學ばゝなどか賢きより賢にうつさばうつらざらん。{{r|縱根情愚鈍|たとひこんじやうぐどん}}なるといふとも、こ
のまばおのづからその道にいたりぬべし。{{r|紀昌射|きしやうしや}}を{{r|飛衞|ひゑい}}に學ぶ。{{r|衞|ゑい}}が云、先またゝかざることをまな
んで後に、射をいふべし。昌歸てその妻の{{r|機下|きか}}にえんぐわして、目を持てけんていを受け、二年の後
針の末まなじりにさかしまにすといへども、まじろがず。重て衞につく。衞がいふ未だし也。みること
をまなんでしかうして後に小を見て大のごとく、微を見ること著︀のごとくして、しかうして後に、我
につくべし。昌{{?|「?/毛」}}をもて{{r|虱|しらみ}}を窓にかけて是をしるしとす。{{r|四旬|しゞゆん}}の間やゝ大也。三年の後車輪の如く、
もて餘物をみれば、{{r|皆丘山|みなきうざん}}也。則えんかくの弓、{{r|朔蓬|さくほう}}のかんをもて是を射る。{{r|虱|しらみ}}のこゝろをつらぬい
てかけて絕せず。論語に三年まなんでよきに到らずんば可なりといへり人一度せば、おのれ千度し
てよくせんに、などか物をしらざらん。はいしやう書に泰山のあまじたり石をうがつ、たんきよくの
つるべ繩ゐげたをたつ、水は石のきりにあらず、{{r|索|なは}}は木ののこぎりにあらず、日せん度是をしてしから
しむなりといへり。{{r|萬久敷積|よろづひさしくつみ}}ておのづからなるとなり。針めど明ると計に限るべからず、きとくはみ
な{{r|稽古|けいこ}}にありと申されし。
{{仮題|投錨=法林寺說法を烏きく事|見出=小|節=k-3-6|副題=|書名=慶長見聞集/巻之三|錨}}
見しは今、天下治り國豐にして五常を專とし給ふ。なかんづく{{r|佛法繁︀昌|ぶつほふはんじやう}}ゆゑ諸︀宗の寺々に{{r|高座|かうざ}}をかざ
{{仮題|頁=282}}
り、{{r|檀那|だんな}}をあつめて{{r|談儀|だんぎ}}をのべ給へり。然る間、各一門を立て{{r|勝劣|しようれつ}}を{{r|諍論|さうろん}}し、五年六年の學僧︀は{{r|早|はや}}
高座にあがり說法し給ひぬ。十年十年{{r|修行|しゆぎやう}}の{{r|能化達|のうけだち}}は佛一代の{{r|聖致|しやうけう}}は胸中にをさめたりとの給ふ。
あまつさへ我智惠を人に知らせんとて、{{r|釋迦|しやか}}は{{r|愚鈍|ぐどん}}也、人には八萬藏經を物くどく說れたりといふ上
人もあり。うそをつかれたりといふ智識も有り。だるまの九年{{r|面壁|めんぺき}}扨も{{r|𢌞|まは}}り遠し。一座の{{r|座禪|ざぜん}}にくて
いこうの{{r|罪業|ざいごふ}}を滅す。先佛先祖︀皆心愚也と、{{r|釋迦達摩|しやかだるま}}をあざむき{{r|廣言|くわうげん}}をはき給ふ。然るに江戶{{r|法林寺|ほうりんじ}}
{{r|上人|しやうにん}}の{{r|談儀殊勝|だんぎしゆしよう}}のよし、其聞え有りしかば、{{r|諸︀宗|しよしう}}共に參詣す。{{r|上人|しようにん}}高座にあがり說法して云く、{{r|本來|ほんらい}}
の面目と云は、{{r|卽身卽佛|そくしんそくぶつ}}にして、外に佛なし。{{r|不立文字|ふりふもんじ}}にして{{r|經意|きやうい}}を用ひず。{{r|以心傳心|いしんでんしん}}に、{{r|有願|うがん}}は今
佛出世ならば、此法林寺一不審かけんに、中々一答もおよぶべからず、{{r|放言|はうげん}}したまふ{{r|折節︀|をりふし}}庭の樹のと
まり烏俄にかしましう鳴き出す。上人の御說法を鳴けつ所に、上人扨も惡き烏めかな、說法ものべられ
ぬとの給ふ座中にて、一人{{r|聲高|こわだか}}に、いや烏がわらふよと云ければ、{{r|聽衆|しやうしゆ}}聞て一同に、實にも烏がわら
ふよ鳴くよと云ひやまず。座中騷ぎどうえうする。上人もおもひの外なれば、けてんがほにてあきれ
果て無言にしておはせしが、しばらくありて、{{r|上人|しやうにん}}左の手に經を持、右の手に扇を開き高座に立て、や
れ鳴音しづまれ{{く}}と兩手をふつてまねき、{{r|跋扈|ばつこ}}とふみとゞろかし給ふ。{{r|聽衆|ちやうしゆ}}是をみて、あれ天狗の
はねひろげたるを見よとわらひ、一言づつとおもへども、千人計の聽衆なれば、寺內ひゞきわたり、一
人座を立かとみえけるが、一同に{{r|退散|たいさん}}して、上人ひとりすげもなく高座にのこり給ひぬ。かゝる仕合
合ひける烏俄に鳴出で、人の氣さはるは世のならひといひながら、上人の{{r|說法|せつぽふ}}の{{r|時節︀|じせつ}}、烏鳴あはせた
るは、法林寺御ふのあしき事なりと、愚老語りければ、爰にある{{r|禪師|ぜんし}}是を聞て仰けるは、いや{{く}}烏
鳴き知りてわらひたる事もあるべし。其上からすは是めいどのとり、能人の心をしりあだなる世をし
らせんとて、苦哉々々と鳴く。さればおもひとめてよ鳥の聲々と、{{r|牡丹花|ぼたんくわ}}前句をせられしに、法はた
だ何の世にもとくなれやと、聽□佛道を能心得て付られたるこそやさしけれ。蛤雀授とてはまぐりに
小鳥などが{{r|說法|せつぽふ}}を聽聞して{{r|得道|とくだう}}せし事、經にとかれたり。荀子に瓠巴琴をならせば{{r|潜魚|せんぎよ}}出て聞き、
{{r|伯牙|はくが}}琴をひけば六馬あふいで{{r|秣|まぐさ}}かふ。いにしへは魚虫鳥獸皆かくの如し。世は{{r|澆季|げうき}}なりといへども、日
月地に落ち給はず。こゝろ鳥類︀など聞しらざらん。すべて{{r|能化|のうけ}}のさはりはまんしんなり。形は{{r|出家|しゆつけ}}た
りといへども、內心には天狗入替り{{r|魔道|まだう}}に著︀していとまなまし。夫世間の諸︀事も其議を心得て、人に語
ることは安く、其語のごとく其事をなす事はかたし。{{r|儒者︀|じゆしや}}の中にも{{r|孔孟|こうまう}}などのごとくこゝろに五常を
そんする人もなし。今又{{r|諸︀宗|しよしう}}において佛敎を學する人も、その旨の義理をだに學び得つれば、おの{{く}}
滿足のおもひをなし給へり。故に{{r|學解|がくげ}}のまさるに隨ひて、がまんも又高し。{{r|本分|ほんぶん}}の大智にかなへる人
はまんしんをもおこすべからず、{{r|智惠|ちゑ}}をもたつとむべからず。元より人々{{r|如來|によらい}}の智惠{{r|德相|とくさう}}を{{r|具足|ぐそく}}ぞと
いへども、{{r|妄想顚倒|まうざうてんたう}}の病にさへられて{{r|現成|げんせい}}しがし。有所得のこゝろに任じて德行にほこる人は、魔道に
入ることのかれがたし。故に經にも法を得ることは安く法を守ることかたしと說れたり。其上末世の
{{仮題|頁=283}}
衆生古德の家風に同じがたし。上代の聖人は{{r|智行德|ちかうとく}}けけ、{{r|和光|わくわう}}の方便利益の{{r|因緣|いんえん}}誠にはかり難︀し。傳
へ聞く、惠ゑんのせいまん{{r|禪師|ぜんし}}は、うゑて松柏の葉をさんし渴して{{r|胴中|どうちう}}泉を飮ず。{{r|靑々|せい{{く}}}}たる竹を見や
んで、衣にくわして自在にねむるといひて、松の綠などを食し、のどがかわけば谷川の水をすくひて
のみ、常にあをき竹などあいし、竹を愛する業もつきぬれば、ほく{{く}}とねむりなどして、{{r|木食草衣|もくじきさうい}}
にありて一生涯を送られたり。ちよく道人はひめもす{{r|兩眼枯松|りやうがんこしよう}}にかけて米なきことをうれひず、たゞ
句をもとむと云ひて{{r|沈吟|ちんぎん}}し、鳥獸とこしなへにして、老生と閑なる山居といへり。是ほどに{{r|法味禪悅|ほふみせんえつ}}
の食をあいせば、佛道遠からじ。山里はひとりあるさへ淋しきに、ふたりある身のさぞうかるらんな
どと詠吟せられ、しかく{{r|眞如平等|しんによびやうどう}}なるがゆゑ、{{r|四生|しゝやう}}の{{r|群類︀非情|ぐんるゐひじやう}}に至るまでもすこしきへだてなし。老
の曰、道德ある人には陸を行に{{r|虎|とら}}も{{r|爪|つめ}}をさしおく、陣に入るに{{r|甲兵|かふへい}}も{{r|力杖|ちからづゑ}}身をおかさず。扨又{{r|修行|しゆぎやう}}
{{r|成就|じやうじゆ}}の僧︀、{{r|法幢|ほふどう}}をとるといふは、{{r|智劔|ちけん}}を以て一切{{r|群生|ぐんしやう}}をきりとらんがためなり。爰を{{r|禪宗|ぜんしう}}には{{r|吹毛|すゐもう}}の{{r|劔|けん}}
とあつかふ、{{r|淨土|じようど}}の{{r|祖︀師|そし}}{{r|善導|ぜんだう}}は{{r|利劔|りけん}}{{r|則是|そくぜ}}{{r|彌陀號|みだがう}}としやくしたまへり。今時の能化達者︀淸淨の{{r|佛法|ぶつぽふ}}を名
利のためにけがし、{{r|解脫|げだつ}}の行儀を{{r|渡世|とせい}}のはかりごとゝし、がまんのはたほこをたて、惡心の劔をみが
きせつかひのこゝろやすまず、{{r|勝劣|しようれつ}}を{{r|諍論|さうろん}}して、{{r|瞋恚|しんい}}をおこし、{{r|無始|むし}}のぼんのう{{r|妄想|まうざう}}よくなれたるこ
とをのみ好み、{{r|迷著︀|めいちやく}}のきづなはなれがたし。中々古人の家風に及びがたし。其ひれいあげてかぞふべ
からずとぞのたまひける。
{{仮題|投錨=延壽院養生うたひの事|見出=小|節=k-3-7|副題=|書名=慶長見聞集/巻之三|錨}}
見しは今、延壽院は當地の{{r|名醫諸︀人信敬|めいいしよにんしんきやう}}す。八十餘歲{{r|長命|ちようめい}}なり。{{r|養生故|やうじやうゆゑ}}ぞと人沙汰せり。然るにゑん
じゆゐん{{r|觀世大夫|くわんぜたいふ}}に{{r|謠|うたひ}}をけいこし、活計事の座席にて、かならずうたへり。{{r|家職|かしよく}}にもなき似合ぬ道を
すき、{{r|自慢顏|じまんがほ}}してうたひたまひぬと、皆人云。{{r|延壽院|えんじゆゐん}}きゝて、我ながら謠すきにあらず。夫人の養生
といふは寒ければ衣をかさね、あつければ衣をぬき、それ{{ぐ}}に應じ進退あるが、養生{{r|萬過|よろづすぎ}}たるはお
よばざるにはしかじ。されども義は時のよろしきにしたがふならひ、人酒飯︀もてなし、有る時には客
ぶりに飮食をすごす。{{r|夫|それ}}{{r|脾胃|ひゐ}}は食物ををさめ一身を養ふといへども、過ぬればはうまん食熱し呼吸常
ならずして、こゝろ安からざれば、{{r|脾胃|ひゐ}}の性たるこよくわんを好み、歌うたふとなれば、われ{{r|過食|くわしよく}}の時
に至りて歌うたふ。{{r|卽時|そくじ}}{{r|脾胃|ひゐ}}ゆるやかにして、肺の風門ひらけぬれば、五{{r|臟|ざう}}五{{r|腑|ふ}}も皆ひらけて三{{r|途|づ}}の
病さへ六賊たり。{{r|心腹|しんぷく}}いう{{く}}くわん{{く}}たりといへり。是を聞くより此方、弟子衆をはじめ諸︀人
{{r|饗膳|きやうぜん}}のうへには、かならず養生うたひと號して謠ひ給へり。當世のはやり養生謠の事なり。
{{仮題|投錨=江戶町にてむじんはやる事|見出=小|節=k-3-8|副題=|書名=慶長見聞集/巻之三|錨}}
聞しは今、關西、大阪、堺にてのはやりもの、關東江戶まで{{r|流行|はやり}}しは、たのもし{{r|無盡|むじん}}と名付て、ひんなる
ものが有程なる者︀をかたらひ、金を持寄り、座中へ出し、百兩も二百兩も積置き皆入札を入是を買ひ
とる。うとくなる者︀は、貧なる者︀に高うかはせ、每月金の利足をとるを悅び、貧なる者︀は持ぬ金を得る
{{仮題|頁=284}}
心地して歡ぶ。はやりものなれば、いかなる人も五十口三 口{{r|無盡|むじん}}に入り、扨又{{r|無盡|むじん}}好む人達は、一
人して百口も二百口もするなり江戶本石町四丁日の{{r|乳牛|にうぎう}}彥右衞門と云人は、二百二十口に入て無盡
中をかけまはり、賣買にひまなしと愚老に物語りせられし。いづれの人もかくの如く成るに依て、町
さわがしき事、{{r|是希代|これきたい}}のためし也。老人是をみて申されけるは、おのれが有を有にして他の有をむさぼ
らず。是先賢がいましめなり。夫無盡といふ事はひんなるものゝたくみ出せる惡事なれば、むじゆん
と名付たりしを、此わざわひ好む者︀が無盡と文字を書かへたり。{{r|韓非子|かんびし}}に{{r|矛楯|むじゆん}}の二字はほこたてと續
く、矛は人をさゝんとす、楯は人をふせがんとす、故に相違し、人と中あしきことをむじゆんといふと
注せり。是により無盡のある年はかならず國さわがしき事あり。{{r|好事|かうじ}}もなきにはしかじとこそいへ、
まして此事{{r|吉事|きつじ}}なるべしともおぼえずといふ。若き人達是を聞て、あざ笑し處に、當春の比より風聞
せしは、大阪にまします秀賴公無じゆんをたくみ給ふ。是により大阪へ御陣立有べしと、爰かしこに
てつぶやきけり。{{r|無盡|むじん}}買ひたる人は是を聞き、それ人間の{{r|私語|さゝやき}}らいのごとしとなり。{{r|好事|かうじ}}門を出ず惡
事千里を走るといへり。是こそまことに國の亂れなるべれ。われ{{く}}がはかり事願ふに幸ありとて、
每月無盡の{{r|寄合|よりあひ}}へ出あはず、賣たる人は此金をうしなはんことなげきかなしむ。此等の人、財を求る
時もわづらひ、守る時もくるしむ。失ひぬればいよ{{く}}憂ふ。たのしみとおもへるは、苦を樂とせ
り。財も不足とおもへるは、貧しき人にもすぐれたり。經に{{r|知足|ちそく}}の人は、地のうへに臥すとも安樂な
り。不知足の者︀は{{r|天堂|てんだう}}に處すれども、こゝろに叶はず。{{r|小欲|せうよく}}の人は貧といへども富めり。多欲の人は
富といへども貧といへり。誠に財多ければ、身を害すと見る古人のこと葉おもひしられたり。然れば大
國の比量を聞に、吳王劔かくをこのめば、百姓にはんさう多し。{{r|楚王|そわう}}{{r|細腰|さいえう}}を好めば、宮中に{{r|餓死|がし}}あり。
越王勇を好めば、此皆あやふき所に死をあらそふ。皆是{{r|所詮|しよせん}}なきこと好と云傳へり。扨又當年無盡は
やりしこと、偏に秀賴公むじゆんのもとゐ、よの中民百姓のすゐびすべき{{r|前表|せんぺう}}なり。是のみならず世
間になんなき事はやるは、惡事出來のもと成るべし。
{{仮題|投錨=關東衣服昔に替る事|見出=小|節=k-3-9|副題=|書名=慶長見聞集/巻之三|錨}}
見しは昔、關東にてのていたらく、愚老若き頃までは、諸︀人の{{r|衣裳木綿布子|いしやうもめんぬのこ}}也。麻は絹に似たればと
て、麻布を色々に染めわたを入、おひへと云て上着にせしなり。布は出所多し。木曾の麻布は信濃に
て{{r|織|おり}}、{{r|手作|てづくり}}は武藏によめり。おくぬの{{r|信夫|しのぶ}}文字ずりは、{{r|忍郡|しのぶごほり}}にておる。{{r|希有|けう}}の細布は、油中折に件の
布はうの毛にてなると云々。此說さま{{ぐ}}に記せり。扨又我若きころ三浦に六十ばかりの翁あり。語
りしは大永元年の春、武藏の國熊ヶ谷の市に立しに、西國のもの木綿種を持來りて賣買す。是を{{r|調法|てうはふ}}
のものかなと買ひとりて植つればおひたり。皆人是をみて、次のとし又西國の者︀持きたるを、三浦の
者︀ども熊ヶ谷の市に出て買取り植ぬれば、四五年の內三浦に木綿多し。三浦木綿と號し諸︀國に{{r|賞翫|しやうぐわん}}す。
夫より此方關東にて諸︀人木綿を着ると語る。然るときんば、木綿關東に出來始ること、大永元年より
{{仮題|頁=285}}
慶長十九年、當年迄は九十四年このかたとしられたり。愚老若き頃諸︀人のはかまもめんなり。今の時
代はあさなり。扨又此頃絹のうら付ばかまはやりぬ。およそはかまのはじまる事、{{r|天竺大羅國|てんぢくだいらこく}}といふ
國はしのく王と申す王おはします。ある時うるはしき女房餘所より來たれり。帝王近づけて后のおも
ひをなし給ふ。かのきさき{{r|懷胎|くわいたい}}し、頓て御產をとき給ふ。とり上げ見奉れば、王子にて渡らせ給ふ。御
門御{{r|歡|よろこび}}限りなし。彼后しきりにいとまを乞たひまふといへども出し給はず。后のたまはく、我は此國
のかたはらに黑鹿山といふ山あり。その山の主、鹿の王なり。我人間にたより{{r|佛性|ぶつしやう}}を得べきために、大
王に契を込め奉るなり。我本望是までなり。一人の王子出來させたまへば、身の幸是に過じとおもひ
侍れば、いとま申してさらばとてかきけす如くに失せにけり。此王子おとなしくならせ給ひ、隨て
{{r|諸︀藝|しよげい}}勝れ弓馬の道殊に達し給ふ。此王子の左の足ひたすらまだらなり。さながら鹿の毛を見るごとし。
是併鹿の腹に宿らせたまふ御しるしなり。扨こそ{{r|斑足王|はんそくわう}}とは名付けけれ。此足見ぐるしとて袴といふ
こと始りぬ。又馬などにのり給ふには、{{r|行縢|むかばき}}と云事を仕出しめされたり。此時より起る。鹿の夏毛な
どの皮にてもするなり。扨又或文に昔綿を多く入れて、夜の物とて夜着にする、是をおひへとも北の
ものとも名付たり。故如何なれば、裏に越後をするによりてなり。冬は北より來る、越後の國北なり。
其緣を取りておひへとも北のものとも名付たり。又異名を{{r|布子|ぬのこ}}とも{{r|綿入|わたいれ}}とも云也。此詞皆公家より出
たり。信濃布ははそく白し。雪にてさらす布なり。美濃布は上品と云て{{r|芹河|せりかは}}といふ所より出る。{{r|內裡|だいり}}
へ奉る。天子の御座すらんかんにある幕布なり。九の{{r|尋|ひろ}}有と云々。是は九節︀進といふ物語に記せり。今
やんごとなき御方は布子おひへのさたはしろしめされず。されば安房國と相模は年久敷弓矢をとり、終
に和平の義なし。天正十八年七月小田原ぼつらく以後天下一統となる。我房州へ行たりけるに、もめ
ん布を見せ棚につみかさねおきたり。是をかはんととりてみれば、橫せまく{{r|竪|たて}}長し。是は見始、何とた
ちぬふととへば、{{r|脇入|わきいれ}}してぬふと云。みれば實にも房州一國の人皆わき入して着たり。是等の事詮な
き義なれども、近き年中世上うつり替ること、今の若き衆しらざるゆゑ記し侍る。昔もさることやあ
りけん。{{r|狹布|けふ}}の{{r|細|ほそ}}布ははたばりせまくひろみじかく、古歌に、にしきぎはちづかになりぬみちのくのけ
ふのほそ布むねあはずしてとよめり。又あし絹はひろさたらずと詠ぜり。あだち絹、常陸紬、加賀絹、
伊豆の八丈絹など、大名衆其外にも{{r|有德|うとく}}なる人{{r|達|だち}}き給ひぬ。あや、どんす、{{r|練︀羽︀二重|ねりはぶたへ}}などの京染きた
るをみては、此人は京氣のものをきたりと云てほめうらやみしなり。きんらんにしきなどは、古き宮
寺のをさめ物を袋に縫て入置るを、祭のときかんなぎ持出るを目には見れども、身にふれがたし。そ
の時節︀は關東みだれ國郡在々所々まで私の弓矢をとり、爰かしこに關をすゑ海︀道往來安からず。され
ども高野ひじりおひをおひて關東へ下る。是は弘法大師修行のかたちを學べるひじりとて、弓箭の中
をもあけて通す。その{{r|笈|おひ}}の中にきんらんにしきのきれはじあり。此ひじり云けるは、是は高野山寺々
にて、三世の佛を{{r|繪像|ゑざう}}にうつしかけおき給ふ表具のたちのこしなり。此{{r|金欄︀|きんらん}}にしきを少しなりとも身
{{仮題|頁=286}}
にふれば、いみけがれをのぞく。かるがゆゑに佛神︀は常に御影をうつし給ふ。{{r|惡魔尼神︀|あくまやくじん}}はおぢをのゝ
くと語れば、此にしきの{{r|切|きれ}}を一寸二寸づつたかうかひて、をさなき人の守り袋のはしなどに{{r|縫付|ぬひつ}}けし
なり。扨又今は天下治り御代ゆたかにして、貴賤男女ともに昔見も聞もせぬ結構なる{{r|唐織|からおり}}を着給ふ。
わうしゑんが曰く、はたをになひ{{r|毳|けむしろ}}をきける者︀には、共にじゆんめんの麗密をいひがたしといへるが
ごとく、今の世に見る美々しき事どもをば、我等若き比の人達は夢にもしらず、人語るともいかで誠
にせん。古語に君子その室に居て其言を出すと、善なるときんば千里の外皆是に應ずと云々。誠に萬
里をへだつる他國も、近き我國のごとく往來たえず。去る程に唐國にては日本人の好める衣裳を色々
樣樣に{{r|工出|たくみいだ}}し{{r|織出|おりいだ}}して、每年相模の國うらが湊へ{{r|黑船着|くろふねつき}}、{{r|唐|たう}}と日本とのつうじ出合、賣買ゆゝしくぞ
おぼゆる。
{{仮題|投錨=壽用軒古歌を難︀ずる事|見出=小|節=k-3-10|副題=|書名=慶長見聞集/巻之三|錨}}
聞しは今、或人物語りに、それ和歌は長歌、短歌、せどう、こんぼん、{{r|折句|をりく}}など云て體多しとかや。
{{r|折句|をりく}}とは、{{r|唐衣|からころも}}きつゝなれにしつましあればはる{{く}}きぬる旅をしぞおもふ。此歌はかきつばたとい
うて五文字を句の上におきてよめり。是は名歌なりといふ。{{r|壽用軒|じゆようけん}}といふ人聞て、此歌よからずとあ
ざらひ笑ふ。人聞て其方は歌道を知らず。但し知て笑ふか、しらで笑ふかととふ。{{r|壽用軒|じゆようけん}}答て、我歌
の道をばしらねども、三十一字の數をばおばえたり。此歌字あまりなり。字あまりの歌はおもはしか
らずと、いにしへの歌人もいましめ給ひたるとかや。扨又前にあることばを又いふこと、言{{r|葉|ば}}の病と
いひて、當世は重言を大にきらふと云。かたへなる人聞て壽用軒の物知きそくまことしからず。件の
から衣の歌は{{r|業平|なりひら}}よめり。新古今集に見えたり。されば{{r|文宣王|ぶんせんわう}}の生知なりしもいにしへを捨ずを申さ
れし。重言字餘の歌も歌によるべかりき。{{r|源信明朝臣|みなもとのぶあきあそん}}の歌に、ほの{{く}}と有明の月の月影に紅葉吹き
おろす山おろしの風とよめるは、ほの二つ、月三つ、おろす二つ、風二つあり。その上三字{{r|餘|あま}}りたれど
も、名歌なるにや新古今集にのせられたり。河海︀に、君により、よゝよゝよゝとよゝよゝと、ねをのみ
ぞなくよゝよゝよゝとよみたる歌は、同字八つあり。との字のてには三つあれども、多きを手柄と讀
みたるにや。夫難︀波の{{r|謠|うらひ}}は{{r|祝︀言|しうげん}}なり。天下を守り治る{{く}}萬歲樂ぞ目出度々々々とうたへるはひがこ
となり。又萬のことぶきに珍重々々際限あるべからずとこそ、文にもしるせり。{{r|壽用軒|じゆようけん}}{{r|不勘|ふかん}}にして昔
をあざむくこといふにたへたり。{{nop}}
{{仮題|ここまで=慶長見聞集/巻之三}}
{{仮題|ここから=慶長見聞集/巻之四}}
{{仮題|頁=287}}
{{仮題|投錨=卷之四|見出=中|節=k-4|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
{{仮題|投錨=童子あまねく手習ふ事|見出=小|節=k-4-1|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
聞しは昔、鎌倉の{{r|公方|くばう}}{{r|持氏公|もちうぢこう}}{{r|御他界|ごたかい}}より、東國亂廿四五年以前迄、諸︀國において弓矢をとり治世なら
ず。是によつて其時代の人達は、手ならふ事やすからず。故に物書く人はまれにありて、かゝぬ人多か
りしに、今は國治り天下太平なれば、高きもいやしきも皆物を書きたまへり。尤{{r|筆道|ひつだう}}は是諸︀學のもと
といへるなれば、誰か此道を學ばざらんや。ゑいくわん法師は人木石にあらず、このめばおのづから
ほつしんすといへり。わかうしてならはざれば老て後くゆと、しばをんこう六悔︀の中に見えたり。然
れば天下をたもち國土を治せる君子は、文武兩道を學び給はずんば有るべからず。いさめをきかずんば
有るべからず。古文に文字は貫道の客なり。文と道と相はなるゝことをえず。文を以て道を達すると
きんば通ぜずと云事なしと云々。文を以てはんきの政を助け、武を以て四夷の亂を治む。此の道なく
して弓矢のはかりごとしやうばつ義理うとかるべし。かるが故に君子は文德を先とし、武力を後にす
と云へり。{{r|文武|ぶんぶ}}は車の兩輪のごとし。此兩道{{r|造次|ざうじ}}てんぱいおもひ給はゞ、子夏が賢意に叶ひ子路が仁
勇を繼給ひぬべし。四書五書軍書等に{{r|顯然|けんぜん}}たり。扨又下の下までも、物をかゝでは私用辨じがたし。
されば手のわろき人のはゞからず文書きちらすはよし。見苦しとて人に書かするはうるさしと、古人
云へり。たゞ{{く}}よくもあしくも物をば書くべき事也。されども能筆の文字かな遣ひの相違あるは、惡
筆にもおとれり。故如何といふに、惡筆は常なれば人見とがむる事なし。扨又惡筆の文字假名遣ひを
しりて書きたるは、奧ふかく{{r|心床|こゝろゆか}}しきものならし。
{{仮題|投錨=神︀田明神︀山王氏子の事|見出=小|節=k-4-2|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
見しは今、江戶町口川多しといへども、皆堀川にて御城の堀を廻り、日本橋へ流るゝ川是一筋本川な
り。然るに此川より北東は神︀田明神︀の{{r|氏子|うぢこ}}、西南は山王權現の{{r|氏子|うぢこ}}なり。今江戶町さかえ民安全にゆ
たかなる事、ひとへに神︀と君との道、直に國家を守給ふ御めぐみなるべしと申ければ、老人云、神︀を祭
る事神︀武天皇の御時より始れり。委く日本記に見えたり。忝も我朝は和光の神︀明先跡をたれて、人のあ
しきこゝろをやはらげ、佛法を信ずる便りとなし給ふ。本地の深き利益を仰ぎ、和光のちかき{{r|方便|はうべん}}を
信ぜば、今生にて{{r|福︀財安穩|ふくざいあんをん}}の望をとげ、來生には無爲常住のさとりをひらき給ひぬべし。神︀は非禮を
請給はねば、{{r|疎心|うときこゝろ}}なく、神︀のいますがごとく祭り給ふべし。然らば神︀に三熱のさた、世話に申しなら
はせり。天神︀七代地神︀五代の出世の後、其沙汰なし。扨又人皇よりこのかた{{r|見所|みどころ}}一ゑんなきことなり。
夢々おろそかに思ふべからず。神︀の神︀たるは人の禮によりてなり。人の人たるは神︀の加護によるがゆ
ゑ也。信ずべし神︀道の{{r|奧儀|あうぎ}}、{{r|深祕|しんぴ}}のべつくすべからず。
{{仮題|投錨=蜘山だちに似たる事|見出=小|節=k-4-3|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
{{仮題|頁=288}}
みしは今、時なる哉。夕凉しきはしゐしてながむれば、蜘{{r|虛空|こくう}}に糸はへて飛行の虫を止むる。されば
{{r|蟷螂|たうらう}}手をあげて{{r|毒蛇|どくじや}}をまねき、蜘蛛あみをはつて飛鳥をおそふとかや。ある詩に、蜘、山だちに似たり
と作られしは、をかしきたとへをひかれたり。昔將軍賴光公、瘡病をわづらひ給ふ。ある夜燈の影より
みれば、長七尺計の法師走り寄て、賴光へ繩をかけんとす。賴光公{{r|膝丸|ひざまる}}と云名劔を拔てはたと切りた
まへば失せぬ。血流るゝの跡をもとむれば、北野の後ろに大なる塚︀あり。かの塚︀へ入りたり。掘つて
見るに、四尺計なる山蜘なり。{{r|黑|くろ}}がねのくしにさし{{r|大路|おほぢ}}をさらし給ふ。是より{{r|膝丸|ひざまる}}を{{r|蜘切丸|くもきりまる}}と改號す。
此劔にて末代迄も御門世を治め給ひぬ。かゝるおそろしきくもいにしへは候ひしとなり。されども
{{r|蜘蛛|くも}}さがりて悅有と云ふ本文有り。故に人待つ夕暮近う軒にさがりたるを見て、我せこがくべき{{r|宵|よひ}}なり
さゝがにのくものふるまひかねてしるしもと、そとほり姬はよみ給ひけるとかや。人をもまたぬ愚老
が門のあたりに、くものいかぎりなくあり。是を日每にはらへども絕えず。人云けるは、蜘をころさ
ずばたゆべからずとなり。然れども佛は罪としりて蚊足をももがず。蟻の子ころす者︀猶地獄におつと
いましめ給ふ。又{{r|梵網經|ばんまうきやう}}に一{{r|切|さい}}の男女三{{r|界輪廻|がいりんゑ}}の{{r|四生|ししやう}}皆是我父母也。しかるをころし食するは、我父
母をころし食するなりと說給へば、目の{{r|慰|なぐさみ}}せんとて他生の苦をわきまへざるは{{r|愚痴|ぐち}}の至り也。其上觀
音は{{r|大悲分身化|だいひぶんしんけ}}をたれ蜘蛛と現じ給ふ事有り。{{r|吉備大臣|きびだいじん}}は元正天皇のけんたうしなり。在唐の時やば
だいの文を、唐帝より是を讀みとかずんば殺︀さんとなり。吉備是を見るに{{r|文義|ぶんぎ}}さとしがたし。蜘蛛糸を
引て是ををしゆる、則よむことを得たり。{{r|蜘|くも}}は是和州泊瀨觀音の{{r|冥助|みやうじよ}}によつてなり。糸をかけたる神︀
のさゝがにと云前句に、をしへある文字の數々あらはれてと、{{r|賢盛法師|けいせいほうし}}付給ひぬ。扨又山川大地何物
か{{r|實相|じつさう}}にあらざる。しんらまんざう{{r|悉|こと{{ぐ}}く}}{{r|佛心|ぶつしん}}なり。されどもくものいとにふれてえきなし、いかゞせん
とおもひしが、捨てゝ見よ野にも山にもいづくにも身一つすまぬ{{r|隱|かく}}れ{{r|家|が}}はなしとよみける歌を、おも
ひ出て、わらはの有りしにをしへて、竹の筒を持せ蜘を拾ひ入れて、虫ははふ方にゑありとて外へ捨つ
る。生ものをころさずしてわれ利を得たり。天運限りあれば、かならずうゑこゝえずと云へば、かた
へなる人是を聞て愚成る云事ぞや、くものいをやぶりたるもとがなるべし。その上おのが住みなれし
所をはなれ、親も子も妻もあるべし。{{r|愛別離苦|あいべつりく}}のことわり、人間にかはるべからず。などか是罪にあ
らずやと云。されども罪を作るに輕重あり。小罪をばなすとも大罪をばなす事なかれと、佛もいまし
め給ひしとなり。
{{仮題|投錨=山梨三郞とんせいの事|見出=小|節=k-4-4|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
世に住侘びて當年の春江戶へ來り、一所に宿をかり、{{r|傭夫|ようふ}}と成て其日々々の{{r|身命|しんみやう}}を送る所に、兄云樣、此
中病氣なり、床にふすならば宿かす人有るべからず、如何にもして古鄕へ歸り生所の土にならんと云
ふ。弟聞てあら{{r|笑止|せうし}}や、上州迄の路錢一錢もなし。一衣きたるまゝなれば、{{r|賣代|うりしろ}}返すべきものもな
し。友どちに詫て錢を借り、兄へ路錢に渡し、我同道致度はおもへども、此借錢を濟し、やがて跡より
{{仮題|頁=289}}
參るべしと暇乞して兄を出し、弟は兩日二人に雇れ、錢をとつてかりたる人へ返し、三日めに跡をし
たひ尋ね行所に、武藏こうの巢の里人云けるは、二日已前旅人日くれて此里に來り宿をかりつれど
も、病者︀と見えければ、宿かす人なくて辻に臥したり。いづくのものぞととへば、{{r|生國|しやうこく}}は上州山梨の
の者︀なり。江戶に三郞と云弟を一人持たり。定めて尋來るべしと云つるが、夜中に死たり。里人{{r|不便|ふびん}}に
思ひ、あれなる野邊に塚︀につき込たると語れば、三郞聞て、扨は疑もなき某が兄なり。掘出しひざの
上にかきのせ、願はくば{{r|佛神︀|ぶつしん}}の御惠みにて、今一度我に言葉をかはさしめ給へと、なきくどきかなし
む有樣、目もあてられぬ有樣なり。里人云やう、我も人も兄弟持ちたり。{{r|有爲無常|うゐむじやう}}のならひ{{r|跡|あと}}か先に
別れん事は{{r|治定|ぢじやう}}なれども、此兄弟のごとく誰か孝の志のあらん。人々我身に負たる物をと、ともに涙
を流さぬはなかりけり。其上夏の事、三日過ぎぬれば肉もくさり果づべきと思ふ所に、氣色少も變ら
ずたゞいきたるものゝ姿也。是は弟にあはんとおもふ兄の志し深きゆゑなるべし。此なげきに心なき
のべの草葉もしをれ、鳴く鳥虫の音も是をかなしむかと覺えたり。兄弟の志深ければ、おつる淚が口
に入てよみがへることもあるべしと云所に、海︀道とほる旅人立ちとゞまり申しけるは、昔もさるため
しあり。內大臣金房が{{r|御息|おんそく}}さごろも中將の{{r|妻|つま}}飛鳥井と聞えしは、死て七日めにその子きたりて母の別
れをかなしみ、塚︀より{{r|死骸|しがい}}を{{r|掘出|ほりだ}}しみれば、しゝむら朽ちず。其子天をあふぎ地に臥して、本の姿へ
{{r|魂|たましひ}}を入れかへさせ給へと{{r|佛神︀|ぶつしん}}にいのりければ、天に聲あつて孝子を感ずる故、本の姿に返しあたふ
るとよばはつて生返りたり。其時{{r|飛鳥井姬|あすかゐひめ}}、形見ともなでしこなくはいかでかは別れし人に又もあふべ
きとよみ給ふ。{{r|狹衣|さごろも}}物語に{{r|委敷|くはしく}}みえたり。兄は親にてあらずや、弟は子に替らず、至孝の志しをば天
地も神︀明も皆感應し給ふ、などかあはれみたすけのなかるべき。扨又人として此あはれをとはざらん
は、{{r|鬼畜木石|ちくぼくせき}}にてこそ有るべけれ。願はくば生返し、兄弟言葉をかはさせ給へと、里人集て我親子兄
弟の別れをしたふごとくなみだを流し、{{r|天道|てんたう}}三{{r|寶|ばう}}へいのれども、{{r|定業不轉|どやうごふゝてん}}のならひその甲斐なし。里
人薪を集めて灰になしたり。弟{{r|白骨|はくこつ}}を拾ひ首にかけもとゆひをきり、さまをかへ、高野山へ參り、兄
の{{r|菩提|ぼだい}}を長くとぶらふべしと、此在所を立たり。其折ふし我此里を通りしが、立止りて此人を見、此
もの語りを聞て、こゝろなき愚老も涙を催し侍りぬ。實にも兄弟となる事、三世のきえんなくして生
れあひがたし。孝悌は夫仁を行ふの本也。人として萬にあはれみかなしむこゝろなくんば、{{仮題|編注=2|何|本ノマヽ}}にそむ
けり。是人にあらず。{{r|虎狼|こらう}}も仁あると云て、虎狼も母の乳をのむ時はひざについてのむ。鳥は哺をか
へす。雁は兄より先へは行かず。歌にも、鴈のおとゞひつらを亂れぬとよめり。鳥類︀迄も仁を行ふ事
あげてかぞふべからず。孟子に仁の實は親につかふまつる是なり。義の實はこのかみにしたがふ是な
りと云へり。仁義の二つは親兄に孝悌あるを以てせり。兄にそむくは親にそむくに同じ。{{r|後漢︀書|ごかんじよ}}に兄
弟は左右の手也と云々。扨又仁は愛の理なりといへるなれば、他人をさへあいするは仁義也。まして
父母兄弟を愛せざらんや。此太郞三郞兄弟のちなみあはれなる事を、予見しまゝ書きとめ侍る。{{nop}}
{{仮題|頁=290}}
{{仮題|投錨=淸林和尙災難︀をのがるゝ事|見出=小|節=k-4-5|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
見しは今、{{r|下總|しもふさ}}國小弓の{{r|大嚴寺|だいがんじ}}は{{r|淨土宗|じやうどしう}}關東第一の學寺たり。先年此寺に{{r|安譽和尙|あんよをしやう}}と申す{{r|名匠|めいしやう}}ましま
す。五百人の{{r|所化|しよけ}}を集めて{{r|法幢|ほふどう}}をとり給ひぬ。中に淸林と云{{r|所化|しよけ}}、{{r|才智|さいち}}にして一事を聞て萬事を{{r|準|なぞ}}ら
ひ知る。學問世にすぐれて{{r|文殊|もんじゆ}}の{{r|智惠德相|ちゑとくさう}}を得たりと云ならはす。{{r|法問|ほふもん}}の時に至て、此寺のばんとうを
初め、{{r|老僧︀達|らうそうたち}}{{r|牙|きば}}をかみて、此淸林と論談するといへども、{{r|淸林佛祖︀|せいりんぶつそ}}の{{r|妙文明句|めうもんめいく}}をとつて合せ、一問答
に押つむる。或時は孔孟老莊の金句を以て答へ、或時は世俗の言葉目前の{{r|境界|きやうがい}}を以てしめし、狂言き
ぎよを以てさつし、言葉に花を咲かせ、理に玉をつらね、ふるなの辯をふるふ事以てたとふるにたら
す。故に老僧︀達しんいをおこし、夫智者︀は其功をたてん事を願ひ、威名を四方にたつせんとする處
に、あの淸林一人此寺に有故、我等が廿年三十年の修行もむなしく{{r|埋|うづも}}れ、{{r|見佛聞法|けんぶづもんほふ}}の人に無智におも
はる事の無念さ口惜さよ。あの小僧︀めをいかにもして寺中を追ひはらはゞやと、のゝしりあへり。古
語に尊きをばいやしきがそねみ、智者︀をは愚人がにくむといへる事おもひしられたり。ある時一老と
淸林と言葉どがめして、いさかふ。一老心いられたる人にて、あのたがし入道めと{{r|惡口|あくこう}}する。淸林も
腹こそ立ちつらめ、{{r|妻|め}}ぐし入道めと返答する。一老聞て言語に斷たる惡言かな。{{r|妻|め}}ぐし入道の仔細聞
くべしといふ。五百人の{{r|所化|しよけ}}此よしを聞き、あのたがし入道めを、年月日頃にくし{{く}}とおもひつる
に、かゝる惡言はく事、大巖寺末代{{r|未聞|みもん}}の惡僧︀たり。一老におそれもなく、却て{{r|災難︀|さいなん}}を申{{r|懸|かく}}る事、末
代迄も大巖寺をけがし、{{r|淨土|じやうど}}一{{r|宗|しう}}にきずをつくる事、惡逆無道其罪のがるべからず。只石子{{r|積|づ}}みに
するにはしかじと、五百人の{{r|所化|しよけ}}共石を持寄て庭につみ、已に淸林をかしやくせんとす。上人せんか
たなく、淸林を衣の袖の下へ隱置給へども、徒なる所化ども亂入てかなふべしとは見えざりける。上
人{{r|覺召|おぼしめ}}すやう、此淸林はこうさい{{r|辯舌|べんぜつ}}世に越え、{{r|當意卽妙|たういそくめう}}をばはき、きてん坊主なれば、君めぐしの
はつしやあらんと、上人淸林を引つれ庭へ飛でおり、まてしばし所化ども、{{r|雙方|さうはう}}たいけつし、妻ぐし
入道の仔細を聞き、非におつる所を以て、とかくに行ふべしと{{r|宣|のたま}}ふ。五百人の所化ども、此義尤と同
じ、大庭へ出て{{r|雙方|さうはう}}仔細をきく所に、一老申されけるは、あの淸林めは伊勢の國わたらひの郡山ぎし
と云里にて生れたり。親をば彌五郞といひて、其里の桶のたがを懸て{{r|身命|しんめい}}を送る。其たがしの子なる
が故に、たがし入道と云ひたり。扨妻ぐし入道の仔細聞べしといふ。淸林答へて、尤道理なり。され
ばこそ其方がてゝは{{r|妻|め}}をぐして汝生れたり。其めぐしの子成るが故めぐし入道と云。其時上人をはじ
め五百人の所化、きどく{{r|凡慮|ぼんりよ}}におよばぬ{{r|卽妙|そくめう}}なる返答、世にこえたるきてん坊主哉と感じ、一同にど
つとわらひて退散する。誠に佛道に叶へる人は、{{r|毒蛇|どくじや}}の口をのがれ矢石も身にたゝず、災難︀をのがる
るといへる事{{r|實義|じつぎ}}なり。孟子に、{{r|是非|ぜひ}}の心は智の{{r|端|たん}}なりと云々。智者︀は聰明叡智と云て、耳に聞き理
非を{{r|分明|ぶんみやう}}にして、それ{{ぐ}}に卽時に{{r|氣轉|きてん}}をめぐらす。かるが故に智と云字をばしりまうすと書きた
り。鏡の{{r|姸醜|けんしう}}を辨ずるがごとく、けんしう智者︀は萬にくらからず。論語に言をしらずんば人をしることなしと
{{仮題|頁=291}}
云々。扨又{{r|樊遲|はんち}}智をとふ。子答へて、人をしるといへり。{{r|安譽上人|あんよしやうにん}}は誠に智者︀にてよく人をしり給ふ。
五百人の所化ども、すでに石こづみにする處を、淸林は目聞心聞智者︀とよく知りて庭へとつて出され
たるは、師弟同心の智者︀にてまします。此淸林{{r|修行成就|しゆぎやうじやうじゆ}}の後、琴上人と申して關東にて{{r|法幢|ほふどう}}をとり、
智德れいげんにまします、他にことなることたとへがたし。今は京東山の黑谷に侍り給ひけり。
{{r|大御所樣|おほごしよさま}}{{r|殊更|ことさら}}もつて{{r|御信敬|ごしんきやう}}なり。諸︀人かつがふのかうべをかたぶけずといふことなし。{{r|當代|たうだい}}淨土の名智識
と聞えたり。
{{仮題|投錨=萬病圓ふりうりの事|見出=小|節=k-4-6|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
見しは今、人間萬事{{r|不如意|ふによい}}、月に{{r|浮雲有|うきぐもあり}}り花に風あり。歌に、うきはたゞ月に村雲花に風おもふに別
れおもはぬにそふ。愚老當年の夏のころ、何とやらん例ならずこゝろぼうぜんとありければ、往來の
人をみて氣もはるゝやとおもひ、街道を詠め居しに、ふりうりとて萬のものを賣らんとよばる。爰に
くすしひとり西大寺長命丸有り。{{r|萬病圓|まんびやうゑん}}うらんとよばはる。我醫師を呼入れ、夫人間の病といふは、
四百四病あり。內百一病は藥を以て治す、百一病は灸にて治す、百一病は針をもて治す、百一病は祈︀
禱を以て治すと、千金方に記せり。其上一病さへ治することかたし。如何にいはんや萬病をや。然れ
ども此藥萬病を治する醫法やある語り給へ。くすし答へて、かしこくも尋給へるものかな。おのが心ざ
しなければ不審すべき力もなきものなり。夫醫者︀と云は忝も藥師如來のへんげ、藥師は衆生の病を除
滅せんとの御ちかひなり。くすしの始る仔細は、天竺に{{r|耆婆|きば}}大臣藥師經をよみて傳へたり。我朝へ渡
る事は、りうじゆぼさつのひろめ給ふ。然る間くすしの{{r|師匠|しゝやう}}は、{{r|藥師祖︀師|やくしそし}}はりうじゆぼさつにてまし
ます。是{{r|衆生利益|しゆじやうりやく}}大慈大悲の御方便なり。我等ごときの藪くすしをも深くたつとぶべし。扨又命をや
しなふものは、病のさきに藥を求むと、{{r|潜夫|せんぷ}}ろんに見えたり。されば人間の病の數四百四病といへど
もいはれなし。{{r|病源論|びやうげんろん}}に{{r|中風|ちうふう}}の名計を四百四つ顯はせり。人氣無量なれば、氣に應じて病有り。{{r|萬病|まんびやう}}
{{r|囘春|くわいしゆん}}に{{r|委記|ゐき}}せり。又藥師三願經に萬病{{r|悉滅|しつめつ}}と云々。此意を以て萬病圓と名付たり。萬の病といふに
限りはなきとなり。すべて人病をうくること只心より受け、外より來る病はすくなし。有る文に藥を
のみて汗を求むるには印なきことあれども、一旦耻{{r|怖|おそ}}るゝ事あれば、必汗を流すは心のしわざなりと
知るべしといへり。夫人間の病といふは、血氣の二つより起る。先出氣と云は喜怒憂思悲恐驚是なり。
其土氣は無量にして、萬病悉く氣より生ず。又血筋は十二經、其筋限りなくわかつて{{r|脉中|みやくちう}}を血の順行
する事、長流水のごとし。されば氣とゞこほる時、血又とゞこほる。榮衞調を失する時、萬病生ず。
此萬病圓といふ血氣の良藥を調合し、人參國老を加へてあたふる。此二味先だち餘藥を導き、五臟、六
腑、足の爪先、かうべのいたゞきに至るまで、病のある所を尋さぐりて、寒をばあたゝめ熱をばさま
す。然る時に氣血のとゞこほりは、水の日輪にあへるがごとく消散する也。かるがゆゑに、{{r|血脉|けちみやく}}の
{{r|水道|すゐだう}}さはりなければ、氣血{{r|順還|じゆんくわん}}する事、{{r|頭上漫々|づじやうまん{{く}}}}{{r|脚下|きやくか}}まん{{く}}たり。此萬病圓を用ひ給ふ人はいかなる
{{仮題|頁=292}}
宿病なりとも、忽ちいえて天命を全くすべし。ゆいけう經に我は良醫の病を知て藥をはどこすがごと
し。服すると服せざると醫のとがにあらずと說かれたり。{{r|四季調神︀大論|しきてうじんだいろん}}に聖人は已病を治せず、未病
を治す。已亂を治せず、未亂を治すと云々。扨又{{r|扁鵲|へんじやく}}も、{{r|針藥|しんやく}}をしやうせざる病をば治せずといへ
り。所望ならば是萬病圓うるべし。かゝる妙藥をのまずして死せん事は、たゞ昆ろん山に入り{{r|玉|たま}}を得ず
してかへり、せんだんの林に入て枝を折らずして出るならば、後悔︀するともよしなかるべしと云。我
是を聞て、扨々難︀有藥の威德かな。墨︀老わづらはしき{{r|時節︀|じせつ}}、{{r|生藥師|いきやくし}}の現來ぞと{{r|殊勝|しゆしよう}}尊くおもひ、此萬
病圓を一貝かうて用ひれば、卽時に氣はれ{{r|皮肉|ひにく}}もうるはしく、こゝろ凉しく成りぬ。有がたや、萬病
氣より生ずるとは、今おもひ知られたり。
{{仮題|投錨=高屋久喜欲にふける事|見出=小|節=k-4-7|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
聞きしは今、江戶町に高屋久喜と云て{{r|有德|うとく}}なる人あり。{{r|藝能|げいのう}}もいらず、たゞ金持人こそ人なれと云て、
{{r|欲心|よくしん}}のみに明しくらせり。老人是を見て申されけるは、欲にはいたゞきなしとて、{{r|欲心|よくしん}}は其きはまる
所をしらず。たゞ人は外物をほしくおもはで、仁義をほしく{{r|思|おも}}ひとむれば、外物のほしきことは自然
なくなるものなり。古へ顏囘と云し人有り。{{r|高才|かうさい}}にて世に秀づ。敏︀にして又學を好み、後代の{{r|龜鑑|きかん}}に
そなはり給ふ。然るに惠子じよふしや百乘にして以て孟諸︀をすく、{{r|莊子|さうし}}是をみて其餘魚をすつ。實に
殊勝なる賢人のこゝろ也。人富といへども心に欲多し。名付て貧者︀とす。貧と云ともこゝろにたんぬ
とおもふを名付て福︀人とはいへり。扨又とんで禮を好みまづしうして道をたのしむは、せつさたくま
の人なり。行に餘力あるときんばすなはちもつて文を學ぶと、孔子はいへり。かねあらば猶道をまな
ぶべきことなり。
{{仮題|投錨=正慶齋他の筆跡をあざむく事|見出=小|節=k-4-8|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
聞しは今、正慶と云人云けるは、近年{{r|世間流布|せけんるふ}}する筆作のあたらしき{{r|抄物|せうもの}}ども、皆聖賢のいひ置たる
言葉を作りたる計にて、珍敷かはる句なし。其上詞ふつゝかの事のみあると難︀ぜり。かたへなる人聞
て、愚なる正慶の云事哉。人臣の忠を納る事、たとへば醫者︀の藥を用るがごとし。藥醫よりすゝむと
いへども、方はおほく古人より傳ふと、{{r|東坡|とうば}}はいへり。{{r|縱|たとひ}}正慶珍重詞を聞と云とも、それも皆いにし
への聖賢の人のいひ置たる詞の外は有るべからず。山谷こふくふに答て曰、古へのよく文章を作る者︀
は、誠によく{{r|陶冶|たうや}}して物をなす。古人{{r|陳言|ぢんげん}}をとつてかんぼくに入といへども、寶丹一粒鐵を點して金
と成るがごとしといへり。いづれも古き言葉を用ふれども、其こゝろあたらしくして古き樣にも見え
ず。是を分明する人まれ也。孔子のたまはく、述べて作らず信じていにしへを好むと云々。是に付て
おもひ出せり。長齋と云うて碁うつ人あり。常に我に三つ四つつよし。此長齋別の人と碁うつを我そば
にてみれば、見落し多くありてもどかはしくおもふ。さらばとおもひ長齋と我碁をうてば、我およば
ず。そば目八目と俗に云しを、其時おもひ知られたり。然則ば人の筆作をみて笑ふ。正慶我碁打に同
{{仮題|頁=293}}
じかるべし。{{r|碁助言上手|ごじよごんじやうず}}にありて更にえきなし。さればかしこき人は一理を以て萬事をつらぬき、一
心を以て諸︀事に通る。其理と云物則わがこゝろなり。こゝろの外に別に理なし。其理をよくをさむれ
ば物に不審は有るべからず。扨又正慶云、唐國より渡る文多し。一字として讀殘すことなしと{{r|廣言|くわうげん}}を
はき{{r|自讃|じさん}}す。然ば古き文にいはく、貞應元年の冬高麗の乘船越後の國寺泊の浦へ流れより、此荷物を
鎌倉將軍へさゝげ奉る。是を見るに、品さま{{ぐ}}知れぬ道具多し。されば形を以て大形はすゐりやう
に知られたり。其中に帶一{{r|筋|すぢ}}有り、絹を以て是をくむ。皮帶の中央に銀の{{r|札|ふだ}}有り、長さ七寸廣さ三寸
なり。其中に銘を注する事四字あり。世點茉族此四字の銘においては、文士參集せしめ見るといへど
も、是をよむ人なしと記せり。愚老幸かな、是を正慶に見せければ、讀事あたはず。兼ての{{r|放言|はうげん}}{{r|虛笑|むなしくわらひ}}
となりぬ。
{{仮題|投錨=江戶町衆乘物にのる事|見出=小|節=k-4-9|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
見しは昔、十年已前の事かとよ。江戶町のうちにひとりふたりのり物に乘り、異樣を好みよぜいして
往來するものあり。是をみて其町人は申に及ばず、よの町衆までも、他の{{r|非|ひ}}を{{r|疾|にく}}み腹をすゑかねて云
ける樣は、乘物にのる人は智者︀上人高家の面々、其外の人達にも位なくては乘りがたし。されば、江
戶町には奈良屋、樽屋、北村とて、三人の年寄あり。町の者︀がのるならば、先此等の人こそのるべけ
れ。人もえしらぬ町人の分として、上もおそれず世のひけんをわきまへず、推參やつめが{{r|振舞|ふるまひ}}かな。あ
はれ我人に路次にてさはれかし、こととがめして、よりあうて乘物をふみ破り自慢顏する男めを、海︀
道にふみころばし頭をもたげさせず、物はきながらむず{{く}}としやつらをふみたくり、土にまみれて
見たもなき姿を、往來の人に見せばやなんとてしかりつるが、今みればいかなる町人も乘と見えたり
といへば、かたへなる人の曰、義は宜也、時の宜にしたがふといへるなれば、當世流行物たれとても
乘りて見よきなり。さればせつなの榮花も、こゝろをのぶることわりを{{r|思|おも}}へば、{{r|無爲|むゐ}}のけらくにおな
じ。{{r|壽命|じゆみやう}}は{{r|蜉蝣|ふいう}}のごとし、あしたに生じてゆふべに死す。今時の風としてひつこみじあん一{{r|期|ご}}人にえな
らず、一生は夢のごとし、誰か百年を送らん。一日さへながらへがたき露の世にの前句に、友とぞ見
まし{{r|槿|あさがほ}}の花と兼載付給へるこそ殊勝なれ。松樹千年つひに朽ちぬ、{{r|槿花|きんくわ}}一日おのづから榮えたりなど
云て、高きも賤しきも{{r|乘輿|じようよ}}する所に、此由{{r|公方|くばう}}に聞召し、慶長十九年御法度被仰渡趣、
雜人ほしいまゝに乘輿すべからざる事
古來其人に依て、御免︀なく乘家有之、御免︀已後乘家有之、然るを{{r|眤近家老|じつきんからう}}諸︀卒に及ぶ迄、{{r|乘輿|じようよ}}誠にら
んすゐの至りなり。向後に於ては、國大名以下一門の歷々幷醫陰の兩道、或は六十以上之人、或は病
人等は御免︀におよばず乘るべし。國々の諸︀大名の{{r|家中|かちう}}に至りては、其主人{{r|仁體|じんてい}}をえらみ吟味をとげ、
是をゆるすべし。みだりに乘らしめばくせ事たるべき者︀也。但し{{r|公家|くげ}}、{{r|門跡|もんぜき}}、{{r|出家|しゆつけ}}の衆は、制のかぎ
りにあらずと云。是に依て今は諸︀人仔細なくして乘輿することあたはず。{{nop}}
{{仮題|頁=294}}
{{仮題|投錨=唐人と日本人問答の事|見出=小|節=k-4-10|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
見しは今、江戶町に五官といふ唐人あり。此者︀云けるは、世界廣き國の中に、此{{r|葦|あし}}原國は名にしおう
たる小國なり。{{r|其|その}}かみ一つの{{r|蘆生|ろせい}}たる故{{r|蘆原國|あしはらぐに}}と名付、又いざなぎいざなみの出世の{{r|時|とき}}、砂を集て山
となす、其砂の跡なるがゆゑ、{{r|山跡|やまと}}の國ともいふ。また日本の地形は蜻蜓といふ蟲の兩つばさのべた
るが如し、故に{{r|秋津島|あきつしま}}と名付たり。扨又天竺に一つの山あり。わしに似たる故、{{r|靈鷲山|りやうしゆせん}}と名付。{{r|天竺|てんぢく}}
には山一つを鳥にたとへ、日本國を蟲に{{r|譬|たと}}ふるも大に替りたり。仁國經に十六の大國五百の中國、十
千の小國無量{{r|粟散國|ぞくさんこく}}あり。世界にかくのごとくの大國有り、故に{{r|金翅鳥|こんぢてう}}といふ鳥は、其つばさ{{r|金色|こんじき}}な
り。{{r|兩翅|りやうし}}相去る事長さ三萬六千六百里あり。莊子に呼て大鵬と名付、大鵬つばさをのべて十州におよ
ぶともいへり。{{r|鷦鷯|みそさゞへ}}といふ小鳥深き井に巢をくふ。食する事一日に半粒をすごさず。{{r|舍那|しやな}}といふ鳥は
{{r|芥子|けし}}一粒を七日にめぐりきる、松の葉一つに九億の鳥ども集りて巢を作る。大國にはかゝる大小の鳥類︀
ありけり。此國はぞくさん國のうちにして、中にも粟なからほどの國なればとて、片州とは名付たり。
誠に見ても聞ても小國なりと笑ふ。日本人是を聞て{{r|愚|おろか}}なる五官のいひ事ぞや。世界に國多しといへど
も、{{r|天竺|てんぢく}}、{{r|唐土|たうど}}、{{r|日域|じちゐき}}をさして三國といふ。それはいかにとなれば、天竺を{{r|月氏|ぐわつし}}國と名付、唐土を
{{r|震旦|しんたん}}と號し、我朝は南州といひながら、辰巳にて日の境なる故、日輪をかたどりて日域と名付。ゆゑに
大唐を{{r|日沒所|ひのぼつするところ}}といひ、日本を{{r|日出所|ひのいづるところ}}といへり。扨又天竺にては{{r|陀羅尼|だらに}}をとなへ、震旦にては{{r|詩賦|しふ}}を
うたひ、我朝にては是を和らげて三十一字の歌とせり。然れば此國を倭國ともいへり。傳へまほしき此
大和歌といふ前句に、もろこしもはぢぬ計りの君が代にと、兼載つけ給へり。又大日の本國と云うて、
大日本とも名付られたり。靑海︀のうへに先此島うかみ出、其後天竺唐土其外萬國皆ひらけり。此三光
の惠なくして、いかで萬物生ずべきぞや。古歌にあはじしまおのころ島の顯れて、我すべらぎの御代
ぞ久しきと詠ぜり。其上我朝は神︀國たり、佛法繁︀昌せり。昔より三國つたふる法の水流れてすめる四
つの海︀なりとよめり。はんぎのまつりごとおだやかにして、慈悲の淸水上よりおつれば、下もにごら
ぬ流れをくむ。後深草の院の御歌に、石淸水ながれの末のさかゆるはこゝろのそこのすめるゆゑかも
と、詠じ給ふの有がたさに、あまねく{{r|仁義禮智信|じんぎれいちしん}}を專とし、國とみ民豐かにさかえ、一天に風治り、四
海︀浪おだやかなる事、誠に國は治めざるに治まるとは、今將軍の御時代なり。他國より{{r|御調|みつぎ}}の船每年お
こたる事なし。五官是を見るといへども、其わきまへもなくこと葉をもらすの愚さよ。小國たりとい
へども、三國超過する我朝也。十六の大國五百の中國にこえ、堯舜の御代にもまされるとかや。
{{仮題|投錨=道見夢物語之事|見出=小|節=k-4-11|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
見しは今、江戶寺町の{{r|門前|もんぜん}}に{{r|道見|だうけん}}といふ{{r|沙彌|しやみ}}あり。此沙彌いひけるは、我等此頃釋迦達摩の夢まぼろ
しに付そひ、いにしへしやばにて修行の有樣目の前に顯し、扨もの語りし給ふといふ。愚老聞て、是
はきとくなり、釋迦達摩の物語聞かん。道見答て、夫元來を尋ぬるに、こくうは鷄のかひこのごとく
{{仮題|頁=295}}
成るが、すめる物は自然におほうて天となり、にごれるものは下りて地となる。扨天地とひらけたり。
その中に理といふ一物あり。此理則陰ととりり五行とわかつて萬物生ず。されば此理體をば不生不めつ
の體とも、又は佛とも名付たり。然るに釋迦は五百ぢんてん久遠實成の古佛といへども、{{r|衆生|しゆじやう}}まよふ
故、利益方便にかりに分身して、しやば往來八千度、難︀行苦行の有樣を、目前にあらはせり。其後莊
王九年四月八日、天竺まかだ國くびらじやうにて賢國樹の木下にて、まやの右の脇より生せり。{{r|天龍|てんりう}}
下り水をそゝぎしかば、其時四方へ七步して天上天下{{r|唯我獨尊|ゆいがどくそん}}と指をさしゝよりこのかた、三十年修
行のていたらくを爰にあらはし、扨わづか成る{{r|方丈|はうぢやう}}に、八萬の大衆をとり入れ說法し給ふ。夫人間は
一日の內に八億四千念あり。念々につくりとづるは是三途のごうなり。かるが故に、けごんあごんほう
とうはんにやほつけねはんと、四十九年が間、人氣に應じて八億四千のけふくわんをとかれたり。又
或時は、世尊一花をねんじて衆生に示す。八萬の大衆、十大御弟子も是をば心得ず。もくぜんとふる處
に、{{r|迦葉|かせふ}}一人{{r|微笑|みせう}}せり。其時{{r|世尊不立文字敎外別傳|せそんふりふもんじけうげべつでん}}、まか{{r|迦葉|かせふ}}に附、屬といへる木は、時をしりてれい
らくし、{{r|時|とき}}をしりてひらく。是は元來古佛のこゝろ{{r|桃李|たうり}}ものいはずゑみを含む所、りよふせんの{{r|迦葉|かせふ}}
{{r|好知音|かうちいん}}の所なり。然れば{{r|世尊生者︀|せそんしやうじや}}必めつのことわりを衆生にしめさんが爲、七十九歲にてしやうそう
樹の元にして、かりに病の床に、{{r|頭北面|づほくめん}}西にして臥れたり。{{r|耆婆大臣|ぎばだいじん}}が醫術醫方もえきなし。ねはん
に入せ給ふべしといへば、一{{r|切衆生|さいしゆじやう}}、{{r|草木|さうもく}}、{{r|國土|こくど}}、{{r|螻蟻|ろうぎ}}、{{r|蚊虻|もんもう}}、{{r|蠢動|しゆんどう}}、{{r|含靈|がんれい}}のたぐひ迄も、集りて釋
尊まつごにいたり、佛にならんずる大事のさとりをやをしへ給ふべきと、耳のあかを拂ひ是を聞かん
と相待つ所に、{{r|世尊大音|せそんだいおん}}をあげ、一代五時せつけう、一{{r|字不說|じふせつ}}といひて、{{r|二月中|きさらぎなか}}の{{r|五日|いつか}}に{{r|入滅|にふめつ}}せり。
五十二類︀、{{r|非情草木|ひじやうさうもく}}、かうがのうろくづにいたるまでも、是を聞て力をおとし、佛に成るべき便りな
しとて、呆れ果てたる有樣なり。扨あるべきにもあらざれば、皆々たいさんしておのれ{{く}}が{{r|栖|すみか}}にか
へり、たゞあんかんと夜を明し日をくらす。然るに人皇三十七代けいてい天皇の御宇に當て、{{r|達摩|だるま}}天竺
より諸︀越に渡る。梁の武帝普通元年庚子の年なり。達摩は南天竺、香至國王第三の王子、釋迦より此年
に至て一千四百六十九年なり。此達摩の曰、我より以前釋迦と云人{{r|雪嶺|せつれい}}に行て、六年修行たへさせら
れしときく。此人定力がつよかりしにつき、かつきて、苔ひざをうがち、鳩、すめる耳ひたひに巢をく
ひつるが、雨氣などに鳩の鳴聲が時々は耳にかしましといはれたり。げにもさも有りぬべし。世尊六
さいしゆぎやう、明星げんずる時、こつねん大悟といひて、自己目前のさとりを得られた。我もちと
修行とやらんをして見んとて、達摩熊耳山中に入て眼を壁におしあて、九年有つれば、眼の上ぶたが
腐りたり。又ねぶたさのまゝ引きちぎり捨てられたともいふ。是は一口兩舌なり。扨又耳の左右を、あ
り、きり{{ぐ}}すが行きかよひて、おのれが{{r|栖|すみか}}とせしとなり。是も秋になれば、きり{{ぐ}}すの鳴聲がち
と耳にさはつたといはれた。然れば達摩九年面壁、ゐんらく三更の雨、きんくわい六月の霜と、六
{{r|根淨|こんじやう}}を得て、肉眼のまゝにて三千世界を一目に見、大乘の法門に於ては、{{r|直指人心見性成佛|ぢきしにんじんけんしやうじやうぶつ}}と談ぜり。
{{仮題|頁=296}}
かく明眼の人成るにより、今時さいかとうかなどの寺に、ゑぞう木像に作りてみえたる、おもてにくし
に、眼の大なる顏相、生身の達摩によくも似たり{{く}}と云て、から{{く}}とうちわらふ。皆人聞て世にもふ
しぎ成る道見が夢物語、有りがたしといへり。
{{仮題|投錨=當世男髭なき事|見出=小|節=k-4-12|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
見しは昔、愚老若き比關東にて、をのこの額毛頭の毛をば{{r|髮剃|かみそり}}にてもそらず、けつしきとて木を以て
はさみを大にこしらへ、其けつしき頭の毛をぬきつれば、かうべより{{r|黑血|くろち}}流れて物すさまじかりし
也。頭はふくべの如くにて、毛のなきを男の本意風俗とす。扨又髭はえたる人をば、面にく體髭男と
云てほむる故に、皆人髭を願ひ給へり。されば建久三年壬子十月三十日鎌倉に燒亡す。{{r|牧|まき}}三郞宗近が
家より出來たり。折節︀宗近他所にありしが、煙を見て走向ひ、きやうを取出さんと欲する間、左の方
のほう髭を燒と云々。諸︀人沙汰し給ひけるは、{{r|唐國|たうこく}}たいそうの髭は藥を給るの{{r|仁|じん}}にたち、我朝の宗近
が髭は經ををしむの志を現はす。燒所は同じけれども、用る所は相ことなるものは、宗近は髭を燒きて
舊記にのり、名譽をあらはせり云々。髭はえたる人はじまん顏して、氣晴︀れては風{{r|新柳|しんりう}}の髭をあらふ
と、作れる詩の心も面白し。昔賴義さだたふむねたふをせめられし時、度々に及んで十人の首を髭とも
に切りたる劍あり、故に髭切と名付。源氏重代の寶劔、奧州の住人文壽と云かぢゐたり。此等も髭のゐと
くならずやなどと云ひて、明けくれ髭をなであげなでおろしひねり給ひけり。又ひげはえぬをばをんな
づらと云てあざらひ笑ふ。{{r|催馬樂|さいばら}}にけふくならとは髭なきことゝ有り。萬葉に、かつまたの池はわれ
しる蓮なししかいふ君が髭のなきごととよめり。しかるに髭はえぬ男は一{{r|期|ご}}の片輪に生れけることの
無念さよ、女づらと見らるゝ口惜さよと人の餘所言いふをも、我髭のとがとはづかしさのおもひ內に
あれば、色顏にあらはる。されば天正の頃ほひ、小田原にて岩崎嘉左衞門、片井六郞兵衞といふもの、
ざれごとを云あがりいさかふ。嘉左衞門が{{r|髭|ひげ}}なし、六郞兵衞あの{{r|髭|ひげ}}なしと惡口しければ、卽時にさしち
がへ死たり。さる程に男たる人の髭なしといはるゝは、おく病者︀といはるゝ程のちじよくに思ひ給へ
り。故に髭なき男は、あはれ髭はゆるものならば、身をしろかへて毛髭をはえさせばやとねがひたる。
此十四五年此方頭に毛のなきを、{{r|年寄|としより}}のきんかつぶり、はへすべりなどと、あだ名を云て若き人達笑
ふ。扨髭はえたるつらはどんなるつら、えぞが島の人によく似たりと云ならはし、上下の髭殘さず{{r|毛拔|けぬき}}
にてぬき捨る。{{r|然間|しかるあひだ}}笠を著︀、頭包みたる人をみれば、法師とも男女とも見分がたし。されどもむかし
に返る事も有るべければ、異相なる人ありて、頭毛をぬき髭をはえさせたらんには、皆人髭はえて昔
男のなりひらとやいはん。
{{仮題|投錨=玄好法師能雨をしる事|見出=小|節=k-4-13|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
聞きしは今、さんぬる六月十五日炎天の事なるに、{{r|玄好法師|げんかうほふし}}と云人申しけるは、けふは頭うづきもた
げられず、わるゝ心ちこそすれ、明日は大雨ふらんといふ。愚老聞きて、夫れ人間の{{r|五體|ごたい}}は天地にかた
{{仮題|頁=297}}
どれり。故に天くもれば人の心もう{{く}}として頭うづく人もあり。是頭風の病なり。痾をのぞくとい
ふは魏の{{r|曾公頭風|そうこうとうふう}}を病時、{{r|陳琳|ちんりん}}といふ人頭風のやむ{{r|檄書|げきしよ}}を作りて曾公に見せしむ。是をみて藥用ひ頭
風平愈すといへり。醫者︀に聞て此藥を用ゆべし。扨又今日は白晝{{r|炎天|えんてん}}なり。旱ゆゑ頭いたみなば、
{{r|頭巾|づきん}}をかぶり給へ、昔大唐に大旱の有し事あり、人の頭を照りわり往來することなし。帝よりろさんじ
の{{r|惠遠禪師|ゑをんぜんじ}}を召れ{{r|雨乞|あまごひ}}を祈︀らせ給ふ時に、忝も帝御衣の袖を引きむしり法師が頭にかぶらせ、御手を
のべさせ給ひ水といふ字をあそばしけり。夫よりもうす始まれり。故に帽子の上のひたの姿水の形な
う。其方頭早にてうづくならば、只々頭巾をかぶり給へと敎へければ、玄好聞て、いや我頭は照る曇
るによらず頭うづけば、明日はかならず雨か雪かふると云。我聞きて夫は誠しからずとあらそひける
に、あくる日大雪ふり、後は大雨になりたり。此不審晴︀れがたしといへば、老人聞て、夫一年に四時
あつて寒暑︀時をたがへず。されども夏さぶくして{{r|雪雹|ゆきへう}}ふることあり。冬あたゝかなることあり。是等
は知れぬまれごとなり。いでさらば昔六月雪丸雪ふりたることどもを語りて聞かせん。人皇十一代垂
仁天皇十四年{{r|乙巳|きのとみ}}みちのくに赤雪降る。三十四代推古天皇二十四年{{r|丙戌|ひのえいぬ}}六月晦日大雪、三十六代皇極
天皇二年{{r|癸卯|みづのとり}}四月丸雪一寸降、天平四年{{r|壬午|みづのえうま}}六月奧州に赤雪あつさ二寸、同六月京中に飯︀ふる。寶龜
七年{{r|丙辰|ひのえたつ}}九月廿日石瓦雨のごとくに降る。同京中夜每に石ふる。仁和元年{{r|乙巳|きのとみ}}七月砂石ふる。延長八
年{{r|庚寅|かのえとら}}六月八日大雪、永長元年{{r|丙子|ひのえね}}五月五日{{r|雹|へう}}大如{{二}}{{r|梅︀子|うめのみ}}{{一}}。長治二年{{r|乙酉|きのとゝり}}六月二日紅雪五寸、保延三年
{{r|丁巳|ひのとみ}}黍ふる。其色黑く{{仮題|編注=2|葉|本マヽ}}ふるての葉のごとし。承久二年{{r|庚辰|かのえたつ}}雪ふらず。三年正月十一日薄雪降る。是
を初雪とやいはんと鎌倉中諸︀人沙汰せり。安貞二年{{r|戊子|つちのえね}}六月九日信濃高田庄に大雪、同十月十六日夜
石雨のごとくふる。件の石一つ鎌倉殿へ奉る。大柚のごとくしてほそ長し。寬喜一年{{r|庚寅|かのえとら}}六月九日濃
州に大雪ふる。同七月十六日霜冬のごとく降る。建長二年{{r|庚戌|かのえいぬ}}正月三日下總{{r|結城郡|ゆふきごほり}}に麥ふる。文永三
年{{r|丙寅|ひのえとら}}二月一日泥さがみに雨のごとく降る。永仁三年{{r|乙未|きのとひつじ}}四月廿四日丸雪降る。康安三年{{r|辛丑|かのとうし}}六月廿
二日大雪、文安元年{{r|甲子|きのえね}}三月二日大豆小豆ふる。世俗是を植るに生えたり。同年四月十日大丸雪ふる、
大梅︀子。文明九年{{r|丁酉|ひのととり}}七月紅雪一寸、水正十年{{r|丙子|ひのえね}}四月十一日大雪、大梅︀子。天正十九年{{r|辛卯|かのとう}}六月廿八
日大雪ふる。{{r|件|くだん}}のことは年代記{{r|東鑑|あづまかゞみ}}に見えたり。扨又玄好が頭にふしぎ有とて、此一人をえらみ出し
天下の人に論ぜんはひがごとなるべし。凡天道は廣大にして一人のために寒熱風雨を改めず。佛平等
說如一味雨隨衆生性所受不同と藥草ゆぼんに說かれたり。大雪に雨は分ちてふらねども受くる草木は
おのがしな{{ぐ}}と僧︀都︀源信詠ぜり。故に一{{r|切|さい}}善惡あつて{{r|思量|しりやう}}することなかれと古師もいへり。世間の
ならひとして道理に叶ひさうなることか、さもなく字面にあふべきことが相違し、違さうなることが、
{{r|啐啄|さいたく}}する事のみなり。狂歌に、{{r|長|なが}}からんさゝぎの花はみじかくて短き粟の花の長さよと詠たるは理を
盡せり。{{r|淮南子|ゑなんじ}}に云、菟子、根なくしておひ、蛇、足なくして行き、魚、耳なくして聞き、蟬、口なくし
て鳴く、皆是自然の道理なり。すべてあふもまうざう、あはぬもまうざう、此理心得なき人がもの言
{{仮題|頁=298}}
にふしんを立つる、知人に{{r|不審|ふしん}}なし。あへて{{r|妄想|まうざう}}なかれと申されし。
{{仮題|投錨=西譽一入道心おこす事|見出=小|節=k-4-14|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
見しは今、人間のたのしめる本を尋ぬるに、財寶にしかじ。故に福︀貴をねがひ身よろしく成にしたが
ひて欲心かさなり、{{r|今生|こんじやう}}にいつまでもあらばやと{{r|願|ぐわん}}をかけ、{{r|後生|ごしやう}}のことをばうとみはつるなり。或老
人申されけるは、浮世のはかなきことは夢まぼろしのごとし、日月の鼠とは無常の譬へなり。經に云、
王に逃人有醉象を以て是を追はしむ。にぐる道に枯れたる井あり。此井の中へこゝろならず落入り
ぬ。わづかなる草の有にとり付て、底へも落ちずかつ此草に取付ながら、井の底をみやれば、大蛇ありて
くらはんとす。然るに黑白の二鼠來て此取付たる草の根を代る{{ぐ}}かぶり喰ふ。此草の根絕果なんこ
と唯今なり。かゝる所に井の上に木あり、しづく口の中へ落入あまきことみつのごとし。この露のあま
きに着して彼是のうれひを悉わするゝと云へり。たとへば王とは我身の作る處のざいごふなり。すゐ
ざうとは無常の使なり。枯井は惡道なり。草の根は命の根なり。二鼠は日月なり、光陰なり、大蛇は
ごくそつなり。{{r|蜜滴|みつてき}}は五欲のたのしびなり。一切衆生罪あるも罪なきも無常の使の晝夜に追立もしら
ず、日月の身にせまることは、かの草の根よりも程なし。只今かの草の根のごとく、命根絕えなば、惡
道に落付て、ごくそつのかしやくを蒙らんと云事、人々しるといへども、かのみつてきのごとく、眼
耳、鼻、舌、身、意の六根ことふるゝ所の{{r|愛欲|あいよく}}にとんじやくして、只今なる苦しみ忘るゝといふたと
へなり。黑白の二鼠は、{{r|經論|きやうろん}}の說皆日月なり。此心を俊賴卿の歌に、我賴む草の根をはむ鼠ぞとおも
へば月のうらめしきかな。扨又後京極の歌に、後の世に{{r|彌陀|みだ}}の{{r|利生|りしやう}}をかぶらずばあなあさましの月の
鼠やとよみ給へり。誠に此ことわりを聞に付ても、道なき{{r|事|こと}}を辨へず、{{r|罪業|ざいごふ}}のみに明しくらせるは、是
愚なるこゝろなり。古人は淸貧にしてたのしみ、{{r|濁富|ぢよくふ}}にしてかなしび多しといへり。傳へ聞く、はうこ
じは持ちたる寶を船につみ海︀へ捨て、どくしんに打成て世をたのしび給ふ。扨又九年已前の事なりし
に、われ知る人多氣九郞左衞門と云ひし人は、江戶本兩替町に家屋敷有り、福︀德にしてしかも若き人な
りしが、湯島の寺におはしける{{r|稱往上人|しようわうしやうにん}}のけうげを聞き、{{r|後生|ごしやう}}こそ大切なれとて、持たる財寶打捨髮
をそぎおとし{{r|西譽一入|さいよいちにふ}}と改名し、{{r|念佛三昧|ねんぶつさんまい}}の{{r|行人|ぎやうにん}}となつて師弟ともなひ國々をめぐられしが、{{r|死期|しご}}を
待つこそおそけれとて、伊勢の國わたらひの郡ほだいせんといふ處にて、慶長十二年{{r|丁未|ひのとひつじ}}五月廿五日に
しやしんし、師弟同じ日果てられたり。皆人是を見、此由を聞てゑんりゑどごんぐ{{r|淨土|じやうど}}{{r|不惜身命往|ふしやくしんみやうわう}}西
方のけうげなれば、有がたしといひける處に、長生といふ人聞て、いや{{く}}此こゝろには大に相違せ
り。新古今に、うきながら猶をしまるゝ命かな後の世とてもたのみなければと、よめり。此歌{{r|殊勝|しゆしよう}}な
り。夫命といつぱ、三千大千世界にみちたる大切の寶なれば、我は此世に千年{{r|迄|まで}}もあらばやといふ。
愚老是を聞き、あら面白の御沙汰どもや。{{r|龐居士|はうこじ}}は世をのがれてたのしび、九郞左衞門は死て後の世を
たのしみ、長生は此世をたのしむ。いづれを是とやいはん非とやいはんと、此義をたつとき御僧︀に尋
{{仮題|頁=299}}
候へば、是非の理誰か是を定めん。いづれもたふとしとぞのたまひける。
{{仮題|投錨=諸︀士弓筆の道を學び給へる事|見出=小|節=k-4-15|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
見しは今、年久國治り萬民安穩に榮え目出度御時代なり。然處に當年秀賴公逆心に付て、江戶より御
出馬され大阪落城す。いよ{{く}}天下太平弓矢治り{{r|閑|しづか}}なる御世上なり。されども文武二道をわするとき
んば、必國亂るといへる本文有り。萬事常に油斷ありて其亂にのぞんでなさんとほつする事、軍みて
矢作るがごとし。然るに將軍家諸︀侍の{{r|御法度|ごはつと}}を大阪御城に於て仰觸らるゝ旨、則是をのせ奉る。
{{仮題|投錨=武家諸︀法度|見出=小|節=k-4-16|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
{{left/s|1em}}
{{仮題|箇条=一}}{{r|文武弓馬|ぶんぶきうば}}の道專可{{二}}相嗜{{一}}事。
文を左に武を右にするは古への法なり。{{r|兼備|かねそな}}へずんばあるべからず。弓馬は是武家の{{r|要樞|えうすう}}なり。兵
を{{r|號|なづけ}}て兇器︀とす。やむ事を得ずして用ゆ。治にも亂をわすれず。何ぞ{{r|修練︀|しうれん}}をはげまざらんや。
{{仮題|箇条=一}}可{{レ}}制{{二}}{{r|群飮佚遊|ぐんいんいついふを}}{{一}}事。
令條に載る所、嚴制殊に重し。好色にふけり{{r|博奕|ばくえき}}を業とするは、是亡國の基なり。
{{仮題|箇条=一}}背{{二}}{{r|法度|はつと}}{{一}}輩不{{レ}}可{{レ}}隱{{二}}置於國々{{一}}事。
法は、是禮節︀の本也。法を以て理を破り、理を以て法を破らず。法を背くの類︀其{{r|科|とが}}輕からず。
{{仮題|箇条=一}}國々大名並{{r|諸︀給人|しよきふにん}}、各相{{二}}抱士卒{{一}}有{{下}}爲{{二}}反逆{{一}}殺︀{{二}}害人{{一}}吿者︀{{上}}、可{{二}}追出{{一}}事。
夫野心をさし挿む者︀は、國家をくつがへす利器︀、人民を絕つの{{r|鋒劔|ほうけん}}也。あに許容するにたらんや。
{{仮題|箇条=一}}諸︀國居城雖{{レ}}爲{{二}}修補{{一}}、必可{{二}}言上{{一}}、況新規構營堅令{{二}}停止{{一}}事。
城の百{{r|雉|ち}}に過ぎたるは國の害なり。{{r|壘|とりで}}を{{r|峻|たか}}くし{{r|湟|ほり}}を{{r|浚|ふか}}くするは大亂の本なり。
{{仮題|箇条=一}}於{{二}}隣國{{一}}企{{二}}新義{{一}}結{{二}}徒黨{{一}}者︀有{{レ}}之、早可{{レ}}致{{二}}言上{{一}}事。
人皆黨あり亦達する者︀少し。是を以て或は君父に順はず、たちまち隣里に違ふ。舊制を專とせずし
て、何ぞ{{r|新義|しんぎ}}を企てんや。
{{仮題|箇条=一}}私不{{レ}}可{{レ}}結{{二}}婚姻{{一}}事。
それ婚合は阴阳和同の道なり、容易にすべからす。睽に云、寇あるにあらずんば、婚媾してんと志
し、將に返さんとすれども、{{r|寇|こう}}有則は時を失ふ。{{r|桃夭|たうえう}}に曰、男女正を以て婚姻時を以てすれば、國
に{{r|鰥|やもめ}}なる民なしと、緣を以て黨を成すは、是{{r|姦謀|かんぼう}}の本也。
{{仮題|箇条=一}}衣裳之料不{{レ}}可{{二}}混亂{{一}}事
君臣上下各別たるべし。{{r|白綾|しろあや}}、{{r|白小袖|しろこそで}}、紫の{{r|袷|あはせ}}、紫の{{r|裏練︀|うらねり}}、{{r|無紋|むもん}}の{{r|小袖|こそで}}、{{r|無紋|むもん}}の{{r|小袖|こそで}}、御免︀なき衆みだりに着用
有るべからず。近代{{r|郞從諸︀卒綾羅錦繡|らうじうしよそつれうらきんしう}}等飾服古法にあらず、是を制す。
{{仮題|箇条=一}}雜人恣に不{{レ}}可{{二}}乘輿{{一}}事
古來其人に依て、御免︀なく乘家有{{レ}}之、御免︀已後乘有之。然るを近來家老諸︀士におよぶまで、乘興誠
{{仮題|頁=300}}
に{{r|濫吹|らんすゐ}}の至りなり。{{r|向後|きやうこう}}においては國大名以下一門の{{r|歷々|れき{{く}}}}、幷{{r|醫陰|いいん}}兩道或は六十以上の人、或は病
人等は御免︀に及ばず乘るべし。其外{{r|眠近|ぢつきん}}の衆は御免︀以後乘るべし。國々諸︀大名の家中に至りては、
其主人{{r|仁體|にんてい}}を撰び{{r|吟味|ぎんみ}}をとげ、是を免︀すべし。みだりに乘らしめば越度たるべき也。但{{r|公家|くげ}}{{r|門跡|もんぜき}}諸︀出
世の衆は、制の限にあらず。
{{仮題|箇条=一}}諸︀國諸︀士可{{レ}}被{{レ}}用{{二}}儉約{{一}}事
富者︀愈ほこり、{{r|貧成者︀|ひんなるもの}}は及ばざる事を恥ぢ、俗の{{r|凋弊|てうへい}}是より甚しきはなし。{{r|嚴制|げんせい}}せしむる所也。
{{仮題|箇条=一}}國主可{{レ}}撰{{二}}{{r|政務器︀用|せいむのきよう}}{{一}}事
凡國を治むる道は人を得るにあり。明に功過をさつし、賞罰かならず當る。國に善人{{r|有則者︀|あるときは}}、其國
{{r|彌殷|いよ{{く}}さかん}}なり。國に善人なき則は、其國かならず亡ぶ。是{{r|先哲|せんてつ}}の{{r|明誡|めいかい}}なり。右可{{レ}}守{{二}}此旨{{一}}者︀也。
慶長十九{{r|極月日|ごくげつひ}}
{{left/e}}
かくの如くの{{r|御法度|ごはつと}}天下の諸︀侍違背せんと云事なし。いにしへ月氏國の{{r|照堯|せうげう}}、{{r|震旦|しんたん}}の{{r|魏文|ぎぶん}}、{{r|日域|じちゐき}}の
{{r|聖德|しやうとく}}是らの先德、文を以て世を{{r|治|をさ}}め給ひぬ。今の御時代{{r|普|あま}}ねく文を{{r|厲|はげま}}し、武をたしなんで五常を專とせ
り。其上將軍家佛神︀を信敬し給ふ。數百年天下治らざるに依て、日本國中の{{r|靈寺靈社︀絕果野干|れいじれいしやたえはてやかん}}の{{r|栖|すみか}}とな
る處に、絕えたるをおこし破損を再興有て、先例を尋とはしめ給ひ、皆悉{{r|御黑印|おんこくいん}}を以て{{r|寺領社︀領|じりやうしやりやう}}を出
さるゝ事、あげてかぞふべからず。夫{{r|天台山|てんだいさん}}は王威の鐘守として八百五十餘年におよび、我朝第一の靈
山也。此山めつばうせば、國家もめつばうせんと大師の給ひけるに、永祿年信長燒亡ぼし、旣に絕え
はてたる跡を、又あらためて寺領をあておこなはる。{{r|御敎書|みけうしよ}}に云、{{r|比叡山延曆寺|ひえいざんえんりやくじ}}領、近江國{{r|志賀郡|しがごほり}}內
所々都︀合五千石{{仮題|分注=1|目錄在|別書}}事、永代令{{二}}寄附{{一}}畢、全可{{レ}}被{{二}}寺務{{一}}之狀如{{レ}}件。
慶長十五年七月十七日山門三院{{r|執行代|しゆぎやうだい}}
右のごとく御政道たゞしくおはし候ゆゑ、佛法主法繁︀昌なし、四海︀遠く{{r|浪|なみ}}の上汝もおだやかに、萬民た
のしびあへり。{{r|詞花|しくわ}}に、君が代は白雲かゝる{{r|筑波根|つくばね}}の{{r|嶺|みね}}のつゞきの海︀となるまで、久しかれとぞ祝︀し
申しける。
{{仮題|投錨=ゆなぶろ繁︀昌の事|見出=小|節=k-4-17|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
見しはむかし、江戶繁︀昌のはじめ、天正十九年{{r|卯年|うどし}}夏の頃かとよ、伊勢與市といひしもの、錢瓶橋の
邊に、せんとう風呂を一つ立る。風呂錢は永樂一錢なり。みな人めづらしきものかなとて入り給ひ
ぬ。されども其頃は風呂ふたんれんの人あまた有りて、あらあつの湯の{{r|雫|しづく}}や、いきがつまりて物もい
はれず、烟にて目もあかれぬなどと云て、小風呂の口に立ふさがりぬる風呂を好みしが、今は町每に
風呂あり。びた十五文廿文づつにて入るなり。{{r|湯女|ゆな}}といひてなまめける女ども廿人三十人ならび居て、
あかをかき髮をそゝぐ。扨又其外に、ようしよくたぐひなく、こゝろさま優にやさしき女房ども、湯
よ茶よと云ひて持來りたはむれ、うき{{r|世語|よがた}}りをなす。かうべをめぐらし一度ゑめば、{{r|百|もゝ}}のごひをなし
{{仮題|頁=301}}
て男のこゝろをまよはす。されば{{r|太公望|たいこうばう}}が敵を計るに、利を好む者︀には{{r|財珍|ざいちん}}をあたへて是を迷はし、
色を好む者︀には{{r|美女|びぢよ}}をあたへて是をまどはせとをしへしも、おもひしられたり。よくあかぼんのうふ
かき吉原町の古狐にはばかされて、今宵こん明日の夜もこう{{く}}といひかたらひて、皆人あつ風呂を
吹きあへり。{{r|野干|やかん}}と書てむば玉と讀めり。狐は百歳をへぬれば、うばの姿になる故也。{{r|順|したがふ}}が{{r|和名|わみやう}}に鳥羽︀を
{{r|射干|うば}}とかく。此聲をもて野干と書といへり。白氏文集第四{{r|新樂府|しんがふ}}に、{{r|古塚︀|ふるつか}}の狐{{r|姙|にん}}じてしばらく老いた
り。好人と化して{{r|顏色|がんしよく}}よし。見る者︀十人に八人は迷ふといへり。誰はからるゝなるべきと宗長前句を
せられしに、さらに若狐のかよふ影にしてと、{{r|宗碩|そうせき}}付られたるも思ひ出せり。扨又狐と女とは元來一
生にして人をまどはす情有り。遊女を愛する事古今の例たりといへども、世にこえてもてあそぶとき
んば、いたづらに財をつくし、或は家を失ひ、或は命をやぶる、つゝしむべき事なり。
{{仮題|投錨=岡崎左兵衞音曲を好む事|見出=小|節=k-4-18|副題=|書名=慶長見聞集/巻之四|錨}}
聞しは今、尊きも賤しきも謠うたはぬ人なし。上かゝりをうたふ人あり、下がかりを好む人ありて、
こゝろ{{ぐ}}うたひ給へり。此頃は{{r|觀世左近大夫|くわんぜさこんだいふ}}かゝりとて皆人うたふ。此左近大夫は觀世の家始て、
{{r|前代未聞|ぜんだいみもん}}{{r|謠|うたひ}}の名人と天下において沙汰せり。然れば{{r|岡崎|をかざき}}左兵衞と云ふ人、愚老の宿へ來たり云やう、
{{r|昨夜|さくや}}其方所へ{{r|觀世左近大夫|くわんぜさこんだいふ}}來り、{{r|謠|うたひ}}あるよしほゞ聞て、やれ夫は誠か嬉しや謠を聞くべしと、是へ來
りたり。我此謠を聞覺え、水いらずの觀世ぶしを謠ひ、人にほめられ利口をいはんと思ひ聞所に、福︀
王大夫脇にて{{r|熊野|ゆや}}を一番うたひたり。此內に珍らしきふし一つもなし。あらなにともなや不審におもひ
しに、二番目左近子息三十郞{{r|忠度|たゞのり}}をうたひたりしが、聲もよくちと替るふしもありつるが、是計にて
は殘り多き事哉。今一番聞かばやと願ひしに、左近大夫又松風をうたひ出したり。あらうれしやはじ
めのゆやの時は、我此事聞きあへず宿より遠き道をいそぎ、息をもつきあへず來るゆゑ、むねとゞろ
き心閑ならねば、おぼろにこそきゝつらめ。此松風にて替るふしを覺えんと、耳をそばだてこゝろを
しづめてきゝしに、是にも珍らしき節︀面白き音曲一つもなし。何故に左近を謠の名人と天下にする事
ふしん千萬なりと云。愚老聞て、愚なる人の云事かな、世上に萬上手の名をうる事、その道をよく知る
人ありてほむる故に、あまねくその聞えあり。萬の道をば道が知ると云て、{{r|吉野龍田|よしのたつた}}の{{r|紅葉|もみぢ}}、{{r|須磨明石|すまあかし}}
の月の詠めは、其里人はしらねども、歌人是を知らざるほどに、ものゝ上手は下手にほめらるゝをかな
しみ、そしらるゝを却て悅び給へるといへば、{{r|有識|いうしき}}の人聞て、我聞及しは觀世左近大夫{{r|若年|じやくねん}}の頭、つ
くづくおもひけるは、我家の道萬事の品有て事廣ければ、さらに善惡の道理辨へがたし。古人も學ば
ずんば道を知らずといへり。論語に、切するがごとく琢︀するがごとく磨するが如くと云々。{{r|夫謠|かのうたひ}}の神︀
代より始まれりとなれば、もとを勤ずんば有るべからずと、先神︀道の仔細を尋ね、其後儒道歌道にもと
づき、佛道に心をつくし、{{r|悟道|ごだう}}はつめいして後、我家の道に取付、是を委しくせんさくするに、謠一番の
次第、ふしはかせをうかがふに、{{r|天地阴阳|てんちいんやう}}萬物に相應せずと云ふ事なし。謠といつぱ、かれい{{r|延年|えんねん}}の{{r|法|はふ}}、
{{仮題|頁=302}}
{{r|世|よ}}の爲人の爲、我家の道なれば{{r|分明|ぶんみやう}}せずんば有るべからずと、こゝろをくるしめ骨をくだき、日夜
{{r|朝暮|てうぼ}}、寸陰ををしみ分陰もけたいなく、年久敷是を{{r|詮索|せんさく}}し、言句の內をも惡をのぞき善をくはへ、きう
しやうかくちう五音の位に、直なるふし、そるふし、すくむふし、ゆるふし、のるふしの味ひを分明
し、末代愚人の爲とてあらためて句にしやうをさし直し、希代の名人なり。扨又口あひのてにはの
次第に四十五字の品あり。すべて五調子をしる事{{r|肝要|かんえう}}なり。なかんづく{{r|呂律|りよりつ}}を專とす。呂は{{r|歡|よろこび}}の聲、
律はかなしびの聲なり。羽︀黃越のみ{{r|調子|てうし}}は呂の音とす。是をば地につかさどる。其上一{{r|調|てう}}二{{r|機|き}}三{{r|聲|せい}}と
いふならひあり。座席をうかゞひ時の調子をうたひ出し、文句にこゝろを付、大夫を花のしんとし、
役者︀を{{r|下草|したくさ}}とこゝろえ、{{r|序破急|じよはきふ}}の位をそむかず、大竹のごとく直に、ふしすくなきを本意と謠ひ給へ
り。是に依て左近大夫を天下の名人と申傳へたり。僧︀{{r|祖︀可|そか}}が詩に、琴むげんに至りて聞者︀稀也。古今
たゞ一{{r|鍾期|しようき}}あり。いく度か{{r|陽春|やうしゆん}}の曲をぐする事をぎす。月きよだうにみちて指をくだす事おそしと作
れり。琴を彈き琴を聞くもの多けれども、至極の所に至りてはかならずまれなり。{{r|伯牙|はくが}}が琴の音聞知
るはたゞ鐘期一人のみなり。{{r|阳春|やうしゆん}}の曲は歌の極位にしてとなへがたし。謠も左近大夫がごとくうたふ
人有るべからず。是を又聞知る人まれなるべし。故に{{r|子期|しき}}去て{{r|伯牙|はくが}}{{r|絃|げん}}をたつ。そのかみ{{r|伶倫|れいりん}}と云人は
耳とき人にて、一里の外に蚊のをどる{{r|脚音|あしおと}}を聞く。黃帝みことのりして音律を作らしむ。こんろんざ
んの北に行て、かひこくに生たる竹をとり、ひちりきをつくり、{{r|鳳凰|ほうわう}}の聲を聞きて六律をなし六{{r|呂|りよ}}を
なす。十二律をもつて十二の樂を作りたり。此呂律に能く通ずれば、鳥獸の聲を聞きしる。公冶長は
鳥雀の聲をしり、りうさんふくは馬語に通ずる。我朝の仲國はさがの{{r|法輪|はふりん}}へ{{r|小督|こがう}}のつぼねを尋行き、
夫をおもひてこふると讀む、{{r|想夫憐|そうふれん}}といふ樂を聞知りたり。今の時代呂律を知る人も聞人もまれなる
べし。我身不能にして人の智惠ある事を知らずと、古人もいへり。{{r|觀世左近大夫|くわんぜさこんだいふ}}謠ふを、岡崎左兵衞
いかで聞知らんやと云り。{{nop}}
{{仮題|ここまで=慶長見聞集/巻之四}}
{{仮題|ここから=慶長見聞集/巻之五}}
{{仮題|頁=303}}
{{仮題|投錨=卷之五|見出=中|節=k-5|副題=|書名=慶長見聞集/巻之五|錨}}
{{仮題|投錨=日本橋市をなす事|見出=小|節=k-5-1|副題=|書名=慶長見聞集/巻之五|錨}}
見しは今、江戶町東西南北に堀川有て橋も多し、其數を知らず。扨又御城{{r|大手|おほて}}の堀を流て落る大河一
筋あり。此川町中を流て南の海︀へ落る。此川に日本橋只一筋{{r|架|かゝ}}りたり。是は往復の橋なり。町中ゆきか
ひの人此橋一つに集て往來なせり。夫世の有樣人の心かだましくして、萬に付て我はよかれ人はあしか
れとのみ思へり。去程に我心人に似ず人の心我に似ずして、{{r|邪念計|じやねんばかり}}にて一{{r|生涯|しやうがい}}を明し暮せり。然に日
本橋を見渡せば、よるとなくひるとなく、人の立ち並びたるはたゞこれ市の如し。され共是や此行く
も歸るも別れてはしるもしらぬもあふ橋の上に、立ちもとまらずしてくんじふの中をおぼえずしらず
行きちがひ、われよし人よしに此橋をすなほに渡る事、常のまがれる心には大きに相違せりといへば、
老人聞て、我も人も此橋{{r|群集|くんじふ}}の中を{{r|明暮|あけくれ}}通るといへ共、此心づきはなかりし。{{r|不審|ふしん}}尤{{r|殊勝|しゆしよう}}也。{{r|件|くだん}}の日
本橋は慶長八癸卯の年江戶町わりの時分、{{r|新規|しんき}}に出來たり。其後此橋{{r|御再興|ごさいこう}}は、元和四年戊午の年也。
大川なればとて、何中へ兩方より{{r|石垣|いしがき}}をつき出しかけ給ふ。敷板の上三十七間四尺五寸、廣さ四間二
尺五寸也。此橋に於ては晝夜{{r|二六時中|にろくじちう}}諸︀人群をなし、くびすをついで往還たゆる事なし。されば天理
と云て一つの{{r|理體|りたい}}あり。此理體を人間たもたぬは一人もなし。是はまがらずすなほにして{{r|平等|びやうどう}}なる{{r|體|てい}}
也。然れ共衆生の性欲に引きおとされて、彼本分の正理を失ひ、{{r|邪念|じやねん}}に{{r|著︀|ぢやく}}していとまあらず。孟子に
云、{{r|惻隱|そくいん}}の心は仁の{{r|端|たん}}なり。{{r|羞惡|しうを}}の心は義の{{r|端|たん}}也。{{r|辭讓|じゞやう}}の心は禮の端也。{{r|是非|ぜひ}}の心は智の{{r|端|たん}}也と云々。
是を四端と名付。いはゆる{{r|側隱|そくいん}}とはあはれみ悲しむ心、しうをとはおのれが惡をはぢ他人の惡をにくむ
心地、じゝやうとは我方へうくる{{r|名利|みやうり}}を辭し人にゆづる心、{{r|是非|ぜひ}}とは善をば善とし惡をば惡とわきま
ふる心也。此{{r|四端|したん}}は人心になくして叶はず。{{r|件|くだん}}の{{r|四端|したん}}をおこなふ時は、我身をすなほにをさめ人をも
をさめ、{{r|天下國家太平|てんかこくかたいへい}}也。され共{{r|眼耳鼻舌身意|がんにびぜつしんい}}の六賊に著︀して、一生涯彼{{r|惡業|あくごふ}}につながれ、{{r|生|しやう}}死のき
づなはなれがたし。然所に、件の日本橋にふみ入る人、老若男女、尊きも、賤きも智者︀も愚者︀も、お
しなべて心{{r|正路|しやうろ}}に有て、人よくわれもよくこの橋を渡る事私の力に有るべからず、{{r|菩薩|ぼさつ}}の{{r|法劔|ほふけん}}をも
つて罪業の{{r|大綱|おほづな}}を切拾給ふが故なるべし。夫は何にとなれば、橋は{{r|勢至菩薩|せいしぼさつ}}の{{r|尊形|そんぎやう}}を表し給ふと云
云。是ひとへに{{r|衆生利益|しゆじやうりやく}}の御{{r|方便|はうべん}}、一人ももらさず救ひ給はんとの御ちかひなり。かるが故に、佛法
を行ずる衆生普く{{r|菩薩|ぼさつ}}の{{r|蓮臺|れんだい}}に乘ず。海︀川にては{{r|舟橋|ふなばし}}を蓮臺とすと云々。{{r|如渡得船|によととくせん}}と說かせ給ふも
是なり。{{r|東坡|とうば}}が云く、舟をおなじうして風にあふときんば、{{r|胡越|こゑつ}}もあひすくはしむべき事、左右の手の
如しと云へるにことならず。つら{{く}}是を案ずるに、水は是聖人の心におなじうして正路をもとゝせ
り。水は{{r|方圓|はうゑん}}の器︀にしたがひ、人は善惡の友によるとなり。故に水よく橋を浮べ、橋よく人を渡す。
是善友にふるゝ明德成るべし。然るときんば、此日本橋は{{r|正路|しやうろ}}の鏡、萬物是に影をうつす。又まがれ
{{仮題|頁=304}}
る心をいさむる{{r|師橋|しけう}}にてあらずや。古き言葉に、あかゞねをもつて鏡としては{{r|衣髮|えはつ}}をたゞし、人を以
て鏡としては得失をしる。又心を以て鏡とするときんば、{{r|萬法|ばんぼふ}}をてらすといへり。其上鏡は百王の御
面をみそなはし、萬民正路をたゞすと云々。夫橋のはじまりは、支那よりしんたん國へ行く間にりう
さ河とて、長さ八千里流るゝ大河有り。三世の諸︀佛集つて此川に石橋をかけ給ひぬ。しやつけうと云
は是なり。扨又日本にては、伊勢の宇治橋がかけはじめなり。今賢君の御代なれば、臣も臣德をかゞ
やかし、橋も心のあれば、すなほに人を渡せる成るべし。心もし馳せさんぜは知つてしたがはず。つ
ねに心を師とし常に心を師とせざれ。すべからく諸︀人此日本橋を師とし鏡として常に心にかけおきな
ば、などかすなほに世を渡り給はざらん。
{{仮題|投錨=都︀人待乳山一見の事<sup>付</sup>宗齋事|見出=小|節=k-5-2|副題=|書名=慶長見聞集/巻之五|錨}}
見しは今、{{r|玉屋永壽|たまやえいじゆ}}と云ふ{{r|京|きやう}}の人、當年江戶へ下り云ひけるやうは、此邊に音に聞きし{{r|待乳山|まつちやま}}と云名
所有り。是を見物せんといふ。愚老知人なれば、{{r|同道|どうだう}}し淺草の里近くに小塚︀一つ有り、是ぞ{{r|待乳山|まつちやま}}と
敎ふる。{{r|永壽|えいじゆ}}此{{r|名所|めいしよ}}を一見し、東國へ下りての{{r|思出|おもひで}}なにかこれにはしかじ。されば{{r|新勅撰|しんちよくせん}}に、待ちやま
夕こえくれていほ崎の{{r|角田河原|すみだがはら}}に獨かもねんと、{{r|辨基法師|べんきほうし}}詠ぜり。此待乳山下總のうちの{{r|歌抄|かせう}}に入れ
られたり。武藏國に有事ふしん也といふ。里の翁答へて、尤三つの名所ならびて有りといへ共、庵崎
は下總に有り。待乳山は武藏に有り。此兩國のさかひを{{r|角田|すみだ}}川ながるゝ。是によつでよみ入れたる歌
も有りぬべしと云。永壽聞きて此角田川の邊にて武藏下總の國を見渡せば、此山より外に別に山なし。
はるけき野原也。實にも是をこそ待乳山とは云ふべけれ。され共、待乳山國かはつて同名多し。
{{r|續古今|しよくこきん}}に{{r|信土|まつち}}の山の{{r|葛|つた}}かづらと鎌倉右大臣詠ずるは紀伊也。大和、土佐、駿河にも讀みたり。扨又{{r|新古今|しんこきん}}に、
誰をかも{{r|待乳|まつち}}の山のをみなへし秋とちぎれる人ぞあるらし、小野小町よめり。{{r|續古今|しよくこきん}}に、かくばかりま
つちの山の{{r|時鳥|ほとゝぎす}}心しらでやよそに鳴くらん。{{r|天曆|てんりやく}}の{{r|御歌|おんうた}}此二首紀州なり。され共武藏にも詠ずるとか
や。たゞし{{r|女郞花|をみなへし}}時鳥を武藏によみたる事おぼつかなしといふ。里人答へて、{{r|後撰集|ごせんしふ}}に、をみなへし
匂へる秋の武藏野は常よりも猶むつましき哉。又、武藏野は歸る山なき時鳥秋はいづくに草がくれけん
とよみたり。{{r|領江齋|りやうかうさい}}の{{r|發句|ほつく}}に、武藏野や草より出る時鳥とせられたり。我いやしき身にて歌の道をば
知侍らず。所の申傳へかくのごとし。扨又此原を{{r|淺茅原|あさぢはら}}といふ。是も名所なり。あれに見えたる森の
中に古寺有り。是は{{r|角田河|すみだがは}}の{{r|謠|うたひ}}に作りたる梅︀若丸母の寺也。母{{r|爰|こゝ}}にて髮をそり{{r|妙喜|めうき}}と名付。里人あは
れみ草の庵をむすびおきければ、是にて{{r|念佛|ねんぶつ}}申しはてられたり。いにしへびくに寺なりしが、今は
{{r|總泉寺|そうせんじ}}と號し{{r|禪寺|ぜんでら}}也。又母ふところより鏡を取出し、是なる池へ捨てたる故、今に鏡の池と名付と委し
く語る。都︀人聞きて{{r|妙喜|めうき}}のいはれ{{r|哀|あはれ}}也。扨武藏の{{r|待乳|まつち}}山ちひさしといへ共、聞えは日本にひろごり、
名高き山也。あはれは猶も、武藏野の待乳の山の人ならば都︀のつとにいざといはましをといへる都︀人
こそやさしけれ。{{r|爰|こゝ}}に宗齋と云人是を聞きて、われ江戶に年久敷住みけれども、此あたりにまつち山
{{仮題|頁=305}}
とて都︀迄も音に聞えし山有べしとも覺えず。不審に思ひ、是を人に尋ぬれば、淺草の里ばなれにちひ
さき塚︀あり。是ぞ待乳山と敎ふる。宗齋聞きてから{{く}}と打笑ひ、是はしやうてん塚︀とて、むかしよ
り塚︀の上に小社︀有り。塚︀本に小寺有りしが、近年は絕えてなし。是は{{r|地形|ちけい}}よりも高し。上に{{r|聖天塚︀|しやうてんづか}}と
てすこしき塚︀あるにより、此所をしやうてん塚︀と名付。我こそ此塚︀のいはれよくしりたれ。武藏の國
は平地にて、詠める山のなければとて、此聖天塚︀を山といはんは、さぞな都︀人も聞きて千金、見て一
毛とかや笑ひ給はん事の恥かしさよと云ふ。かたへなる人是を聞きて、おろかなる宗齋のいひ事ぞや。
いでさらば待乳山の由來を語て聞かせん。{{r|抑|そも{{く}}}}{{r|淺草寺|あさくさでら}}の觀世音は昔日當所の海︀中より出現し給ふ前、
{{r|方便|はうべん}}に此山一夜の內にゆしゆつす。推古天皇の{{r|御宇|ぎよう}}とかや。是を金龍山と名付。故に{{r|金龍山淺草寺|きんりうざんせんさうじ}}と
號す。又富士山は孝靈天皇御宇一夜にゆしゆつす。此二山は地より生出たり。又{{r|天竺|てんぢく}}五大山二つにわ
れ、片われ飛て常陸國{{r|筑波山|つくばさん}}となり、かたわれは大和の吉野山となる。此二山は天よりふりたり。され
ば右の四山は我朝において{{r|奇妙|きめう}}の{{r|靈山|れいざん}}なり。金龍山の實名を歌にやはらげて、待乳山と詠ぜり。扨又
宗齋江戶にてもろ人の山の詠をしらざるや。見渡せる山々には、安房にもとな山、上總に{{r|鬼淚山|きるゐざん}}、下
總に{{r|海︀上|うなかみやま}}、常陸に{{r|筑波山|つくばやま}}、下野に{{r|日光山|につくわうざん}}、越後に{{r|三國山|みくにやま}}、信濃に{{r|淺間山|あさまやま}}、上野に{{r|赤城山|あかぎやま}}、甲斐に
{{r|白根嶽|しらねだけ}}、相模に{{r|箱根山|はこねやま}}、伊豆に{{r|御山|おやま}}、駿河に{{r|富士山|ふじさん}}、此十二ヶ國の名山を武藏二十一郡のめぐりにたて、
軒ばに立て、武藏野もさすがはてなき日數にや富士のねならぬ山も見ゆらんと、{{r|宗久法師|そうきうほうし}}はよみ給ひ
ぬ。天原なる月のながめはいづくもおなじといひながら、さらしなにて見る月こそ、いとゞあはれは
まさらまし。花は吉野もみぢは{{r|立田|りつた}}、{{r|唐國|からくに}}まで音に聞えし富士の山も、武藏野にての詠こそなほも面
白けれ。江戶の城は{{r|昔|むかし}}{{r|太田備中守道眞入道|おほたびつちうのかみだうしんにふだう}}、同じく{{r|左衞門大夫忠景道灌入道|さゑもんのたいふたゞかげだうくわんにふだう}}はじめて{{r|郭|くるわ}}となすと云傳
へり。{{r|道灌|だうくわん}}{{r|江戶|えど}}{{r|河越|かはごえ}}兩城を持ち、三十餘年弓矢のほまれ久しかりき。道灌は文明十八年七月二十六日
五十六歲にして主君{{r|上杉定正|うへすぎさだまさ}}の爲に害せられぬ。扨又江河兩城は、{{r|上杉修理大夫朝興公|うへすぎしゆりのだいぶともおきこう}}先祖︀の家老太
田{{r|道眞|だうしん}}といふ者︀、はじめて{{r|郭|くるわ}}となすと、{{r|慥|たしか}}なる文に記せり。道眞は道灌が父なるとかや。{{r|然則|しかるとき}}は{{r|江城|かうじやう}}
のはじまりは慶長十九當年の頃迄は、百七八十年以前としられたり。道眞當城を取立て、先西南の角
にやぐらを一つ立つ、是を富士見やぐらと名付く。古詩に{{r|西樓|せいろう}}に月落ちてと作れる{{r|朗︀詠|らうえい}}に、北斗の星
の前には旅鴈橫たへ、南樓の月の下には{{r|寒衣|かんい}}を{{r|擣|う}}つなどと吟ぜり。されば唐の{{r|內裏|だいり}}には、王の御涼み
處をば高樓と名付て、高くけはしく{{r|作|つく}}る也。君常に彼樓に住給ふによつて、朕といふ。此樓四方に有
り。東に有るをば{{r|陽樓|やうろう}}、{{r|東樓|とうろう}}ともいふ。是は花見の樓也。南に有るをば南樓といひて涼み樓也。西に
有るをば西樓と云也。是は月を眺め給ふ樓也。北に有るをば{{r|陰樓|いんろう}}といへり。雪見の樓也。常の樓をち
んなどといはんには、{{r|亭|ちん}}此字しかるべきなり。いづれもやすみ所也。樓の字はたかやぐらとよめり。
窓には{{r|西嶺千秋|せいれいせんしう}}の雪をふくみ、門にはとうご萬里の舟をつなぐと作れり。我{{r|庵|いほ}}は松原つゞき海︀ちかく
富士の高ねを軒にこそみれなどと詠吟せられし、其ふじ見やぐら慶長年中まで殘りて有しを、宗齋は
{{仮題|頁=306}}
江戶の人にてふじ見やぐらの名をばよくしり、其やぐらへものぼりつれ共、心つたなきにより富士を
ばいまだ見ざりけるや。{{r|人|ひと}}{{r|生|せい}}をうくるといへ共、いたづらに{{r|星霜|せいさう}}を送り、{{r|圓月|ゑんげつ}}にむかふといへども、
こしやのごとくにして、其{{r|明|めい}}なる事をもしらず。誠に人中の木石ともいひつべし。今又江戶の{{r|家作|いへづく}}り
尊もいやしきも心あらん人は、家をば夏をかたどり南へむけ、窓を西へあけて三國一の{{r|名山|めいざん}}、新古今
に、時しらぬ由はふじのねいつとてか{{r|鹿子|かのこ}}まだらに雪のふるらんと、あけくれたえぬ{{r|詠|なが}}めせり。
{{r|新後拾遺|しんごしふゐ}}に、ふじのねをふりさけ見ればしら雪の尾花につゞく武蔵野の原。夕かげはあまたの國に移りけり
武藏野ちかきふじの三日月とよめり。これらの歌本歌なるがゆゑ、{{r|大原|おほはら}}千{{r|句|く}}に、武藏野やいつをかぎ
りの道ならんと云前句に、ふじをみる{{く}}かりふしの夢。扨又{{r|紹巴昌室|ぜうはしやうしつ}}兩吟千句に、さかひも遠くむ
かふ富士の根と云句に、武藏野や草を枕の明けはてゝと付られたり。されば古今の{{r|連歌師達|れんがしたち}}富士とい
ふ前句あれば、やがてむさしとつけ給ふ。江戶の{{r|境地|きやうち}}山を見ずと宗齋云へるは、誠に鳥はなく聲をも
つて其名をあらはし、人は一言をもつて{{r|胸中|きやうちう}}をあざけるといへる、古人の言葉思ひしられたり。
{{仮題|投錨=東國に德義おほき事|見出=小|節=k-5-3|副題=|書名=慶長見聞集/巻之五|錨}}
聞しは今、{{r|宗用軒|そうようけん}}と云西國人云ひけるは、關東は下國ゆゑ{{r|土水|どすゐ}}の性惡し。故に草木の性もよわく、五
穀︀の味ひ萬物皆悉く惡し。人も又しか也。扨又關西は{{r|土水|どすゐ}}のせい勝れたるにより萬物又同じ。其上そ
め物、織物、萬の藝者︀、坂より西に出來ると云ふ。關東衆聞て耳にやかゝりつらん、愚なる關西人の
云事哉。但關東は萬物惡しと云本文有て難︀ずるや。{{r|先哲|せんてつ}}も東は乳味とほめ、千草萬木やしなひの方に
て味ひよしと云々。かるが故に、一切萬物はやく生長す。其上五穀︀を{{r|東作|とうさく}}して{{r|西收|せいしう}}すとこそ、古人も
申されし。いでさらば關東目出度德義をあらかじめ語りて聞かせん。{{r|先|まづ}}春陽の德はなはだ深し。{{r|呂律|りよりつ}}
の{{r|調子|てうし}}を用ひ給へる事、呂の聲は東春を司どる。萬物出生祝︀言也。律の聲は西秋にして死に取るうれひ
也。故に人に{{r|陽氣|やうき}}をうくべき爲{{r|東枕|ひがしまくら}}せり。{{r|禮記|らいき}}に、寢は東首と有り。孔子も東首し給へり。人間のみ
にかぎらず、一切衆生東國に生れはやく陽氣を請け、{{r|壽命|じゆみやう}}をのぶる事悅びても猶餘り有りぬべし。日月
星もとうがくに出づるを生のはじめとし、さいがくにかたぶくを死のをはりといへり。天地人の三德
皆かくのごとし。然ば關東に出生し諸︀國へひろまる物、すべて綿、うるし、馬、鷹、金銀、其上佛法と
うぜんに有りと云て、智者︀の出づる國也。孟子に智者︀は知事あらずと云事なしと云々。さればむかし
を傳へ聞きしに、人間寒につめられ悉死す。又恙と云虫人を食ふ故に、諸︀人土穴をほり{{r|隱居|かくれゐ}}たり。是
によて人を訪ひて無事なる事をばつゝがなきといふ。此二字の{{r|沙汰|さた}}{{r|戰國策|せんごくさく}}に見えたり。又一說に㺊
の字とする時は、人を食ふ{{r|惡獸|あくじう}}也といへり。然所に、{{r|天竺洞中國|てんじくどうちうこく}}のあるじ、霖夷大王の御息女金色皇
后と申姬君、桑木の舟に乘り、われ{{r|佛法流布|ぶつぽふるふ}}の國へ行き、人民を守り衆生をさいどせんと、此{{r|秋津洲|あきつしま}}
{{r|常陸|ひたち}}の國{{r|豐良|とよら}}の湊へながれつき、此所にてかひこと云事を仕出し、{{r|綿絹|わたぎぬ}}といふ物出來、人間のはだへ
をあたゝめ、姬は後、筑波山の神︀、蠶神︀と成り給ひぬ。かひこの神︀是なり。{{r|欽明|きんめい}}天皇御宇とかや。此姬
{{仮題|頁=307}}
{{r|勢至菩薩|せいしぼさつ}}の{{r|化身|けしん}}、有りがたき仔細をのべ盡しがたし。{{r|庭訓往來|ていきんわうらい}}に常陸紬、上野わた、おくうるし、
いづれも{{r|名物|めいぶつ}}にて昔は每年{{r|御門|みかど}}へ奉る。扨甲斐の駒、長門の牛、奧州の金、備中の鐵と記されたり。
いにしへは御門へ每年八月{{r|御牧|みまき}}の{{r|駒引|こまひ}}きとて、武藏、上野、信濃、甲斐より一年に御馬百餘疋奉る。
{{r|駒引|こまひき}}の歌に、武藏野を分けこし駒の幾かへりけふ紫の底に引くらん。上野や出しもおそき{{r|有明|ありあけ}}の{{r|影|かげ}}み
ぬ月の末の駒ひき。{{r|相坂|あふさか}}の關の岩かどふみならし山立出づるきり原の駒。是は信濃の駒引也。時來ぬ
と民もにきはふ秋の田の{{r|穗坂|ほさか}}の駒をけふぞ引くなる。是甲斐のほさかの駒三十疋八月十七日に奉る。
其內に四つの{{r|爪|つめ}}白き名馬一疋有り。神︀通埵と名付、{{r|聖德太子|しやうとくたいし}}{{r|守屋|もりや}}{{r|退治|たいぢ}}の時、此駒にめされたると也。
長門の牛とは東大寺の柱を引きたる車牛也。額玉搔とてひたひに玉あり。長門しろたの庄より出でた
り。我朝に金出來はじめは、{{r|天平|てんぴやう}}二十年の春、奧州{{r|信夫郡|しのぶごほり}}にて掘出し、皇へさゞけ奉る。重寶に思召し
{{r|大伴家持|おほともやかもち}}に歌めされければ、すべらぎの御代榮えんと{{r|東路|あづまぢ}}のみちのく由に{{r|金|こがね}}花咲くとよめり。鐵は備
中{{r|細谷|ほそたに}}川と云所にてほりはじめたり。歌に、まがねふく{{r|吉備|きび}}の中山かすむらん烟も雲も春としもなし。
是は鐵の事也。たとへば、馬と牛、金と鐵を並べおき、人にえり取にせさせんに、馬を置き牛をば取
りがたし。金をおき鐵を誰かとらん。鷹は人皇十五代神︀功皇后御宇かうらいこくより渡る。其後せい
れうと云者︀つかひはじめたり。然ば{{r|奧州|あうしう}}{{r|松前|まつまへ}}の鷹は、かうらい國又えぞが島より渡る{{r|逸︀物|いちもつ}}の鷹なる故
に、每年將軍へさゝげ奉る。されば{{r|鳩屋|はとや}}の鷹と云事あり。古歌に、出羽︀なるひらがのみたかたち歸り
おやのためには鷲もとるなりとよめり。此歌の心は、昔出羽︀の{{r|平賀|ひらが}}よりいちもつなりとて鷹を御門へ
まゐらする。此鷹はなれて八幡山へ行き、鳩のいくらも有る中に、まじはりつれてあるきたり。後には
鳩も鷹もつれて失せけり。其後日數へて此鷹{{r|內裏|だいり}}へ飛來り、遍身に近付奉る。鳩も八幡へ歸りたり。
其後出羽︀より{{r|注進|ちうしん}}仕りけるは、先年{{r|內裏|だいり}}へ參らせたりし鷹、巢おろしの鷹なりしが、子を取て後、其
母鷲にくはれたりしが、當年其巢鷹鳩をつれて來り、此母取し鷲の住む山に入て、鳩とあひともにわ
しをくひころし、其後は鳩も鷹も失せたりとぞ申しける。それより此鷹を鳩屋と名付させ給ひて、鷹
{{r|飼︀|かひ}}に預け給ひけり。{{r|鳥類︀|てうるゐ}}五{{r|通|つう}}をしるといふこと、是にて思ひしられたり。扨又{{r|禮記|らいき}}に、仲春の日{{r|鷹化|たかくわ}}
して鳩となる。{{r|仲秋|ちうしつ}}の日鳩化して鷹と成と云々。かやうの仔細により鷹と鳩と同じ心成りやおばつか
なし。鷲は一羽︀に千里飛といへり。古歌に、又もよにはねを並ぶる鳥もあらじ上見ぬ鷲の雲のかよひ
ぢとよみしに、かゝる不思議の鷹も有りけり。故に出羽︀の巢鷹今もつて{{r|逸︀物|いちもつ}}也。しかれば當君の御時
代に至て、天下太平に治り國土あんをんなり。其上關東諸︀國に金山出來、民ゆたかにさかえ、あまねく
金を取あつかへり。なかんづく佐渡より出る金銀、每年二百駄三百駄江城へ持ちはこぶ事夥し。寶の
山といひつべし。然に江州相坂よりこなたを關東と云ひ、坂よりあなたを關西と{{r|行基菩薩|ぎやうきぼさつ}}定め置給ふ
を、よそ國の大小をうかゞふに、陸奧一國計も關西には越えぬべし。如何にいはんや、相坂より東の國
をや。小を以て大をあなどらじとこそ、古人も申されし。昔より今にいたる迄、{{r|武將|ぶしやう}}天下をあらそひ、
{{仮題|頁=308}}
關東と關西の合戰{{r|聞傳|きゝつたへ}}ていく度ぞや。一度も西國衆利をえず。是關東の{{r|侍|さぶらひ}}文武弓馬に達し心たけきが
故也。そのかみ、弓は信濃國よりはじまり、{{r|鐙|あぶみ}}は武藏より出來たり。是によつて信濃の{{r|眞弓|まゆみ}}むさしあ
ぶみと歌におほく詠ぜり。昔は其國にはじまる物、每年{{r|御門|みかど}}へ奉る。是一條のぜんかふの御說也。坂
東目出度威光あげてかぞふべからず。然る間天下長久に治め給ふ將軍國王、昔も東國の洛にまし{{く}}
て、他國までしたがへ給ひし事、{{r|漢︀和|かんわ}}の{{r|舊記|きうき}}に見えたり。將軍號はじまる事、人皇第十崇神︀天皇御宇
十年癸卯年也。此帝御年百二十歲をたもち給ひぬ。扨又當君江戶へ御移りは、天正十八寅の{{r|初秋|はつあき}}也。
年をおひて町はんじやうする事、上代にもためしなし。さかゆる{{r|家居|いへゐ}}四方にかさなると云前句に、う
つすよりはや都︀なるさまなれやと、{{r|宗養|そうやう}}付られたるも、江戶町のやうに思ひ出られたり。今又將軍東
國洛に新邑を作りおはします。國おだやかにして萬民よろこびの思ひをなす事、あたかも春風發生の
ごとし。有がたき御時代成るべし。
{{仮題|投錨=才兵衞諸︀藝を俄に學ぶ事|見出=小|節=k-5-4|副題=|書名=慶長見聞集/巻之五|錨}}
見しは今、江戶町に{{r|木村才兵衞|きむらさいべゑ}}と云人、如何なる仕合にや、此比俄に富みてときめきあへり。此人藝
者︀にあひて云けるは、我人に交はり、なまじひに座席につらなるといへ共、{{r|萬無能故恥辱|よろづむのうゆゑちじよく}}多し。あま
つさへ伴にきらはれ無念至極也。今日より藝能まなぶべし。然ば十能七藝有とかや、其中にあまねく
人の用ふる藝より習ひはじめん。おなじくば{{r|師匠|しゝやう}}へ金を{{r|合力|がふりよく}}し、早く能者︀にならばやと云ふ。師聞き
ておろかなる才兵衞の願ひ事や、金にて藝を知るならば、{{r|福︀財|ふくざい}}の人皆物知にやならん。いにしへ{{r|賢聖|けんせい}}
も貧にして學をこのんで其名をえ給へり。故に{{r|秀句|しうく}}は必{{r|飢寒|きかん}}にありと云々。去程に、食過ぎぬれば學
文うすく、酒に醉ひぬれば心{{r|狂亂|きやうらん}}すと、古人いへり。富る人はたつとからず、智有る人こそたつとけ
れ。其方{{r|藝能望|げいのうのぞ}}みならば、たゞ志をつむにはしかじ。くわんがくのぶんに、{{r|無學|むがく}}の人は物にひすれども
たえてなし。{{r|糞土|ふんど}}にもおとれりといへり。{{r|禮記|らいき}}に人まなばされば道をしらずと書かれたり。世間の人
我きらひの藝を、人の上手にするをばいらざるやうに思ひ、一向に用ひずして、我すきの藝を人の上
手にいたすをばゆゝしく思へり。是愚なる心也。いづれの藝も上手にあれば益有るべし。昔の學人を
傳へ聞きしに、炎暑︀の折々は、夜涼の時にいたりて紅螢をひろひ、{{r|寒天|かんてん}}の節︀には雪窓に向て{{r|膏油|かうゆ}}をた
いて、もつてひかげをつぎ、三{{r|餘|よ}}{{r|寸陰|すんいん}}ををしむ。されば古人は月々にきたひ年々に練︀といへども、學き
はめがたしといへり。{{r|縱|たとひ}}其身生つきよくとも、{{r|賢聖|けんせい}}の道を學ばずば成るべからず。いはんや生付あし
く愚ならばもちろん也。萬物をおぼえんには、聞書といひて、われしらざる事を聞ては、一言づつも書
きおく事也。聞時學ばざれば、過て後悔︀ゆと古德もいへり。水つもるときんば{{r|淵|ふち}}となり、學つもるときん
ば聖となる。ざいはうをもとむるにも、一度にもとめんとしては叶ひがたし。もんぜんの言葉に、千里
は足下よりおこる、山はみぢんより成るといへるなれば、諸︀藝を一度には學びがたし。まづ一藝をも
とめ、月日を重ね功をつまずしてはなりがたしとぞいさめられたる。{{nop}}
{{仮題|頁=309}}
{{仮題|投錨=花折る咎に繩かゝる事|見出=小|節=k-5-5|副題=|書名=慶長見聞集/巻之五|錨}}
見しは今、春三月五日の事かとよ。湯島のかたはらに櫻花さかりに見えたり。是は江戶{{r|御代官|ごだいくわん}}の花
園、花守には{{r|馬場多左衞門|ばゞたざゑもん}}、{{r|古戶三|ふるどさん}}右{{r|衞門|ゑもん}}とて兩人有りけり。然に愚老湯島の寺に所用有てわつぱを
遣はす所に、此花、道のほとりに咲き亂れたるを見て、家つとにやせんと思ひ、一枝{{r|手折|てを}}りけるに、
兩人の花守是を見付、やれ花ぬす人よいづく者︀よ、しやつ{{r|逃|のが}}すなと、ぼうを引さげ追つかけてさん
ざんにちやうちやくし、よくいましめよとくびに{{r|綱|つな}}さして、あらうれしやな、{{r|明暮|あけくれ}}に兩人花を守れど
もしるしなければもるかひもなし。ねがふに幸、是を主君へ忠節︀にせんと、櫻木にゆひつけ木の本を立
さり、見て思ひ出せる事の有て、偖をかしくも有りけるぞや、春くれば花のもとにてなはつきてと、
多左衞門申されければ、三右衞門聞きて、ゑぼし櫻と人や見るらん。誠に能の狂言によく似たり{{く}}と
いひて笑ひ給ふ。わつぱ是を聞き、ぶちしばられ喉がつまりうではきれ入り、死ぬる思ひわびたりと
てもかひ有まじ。今の{{r|狂句|きやうく}}の返歌をして、此人々に言葉をかはし詫びばやなんと思ひ、春くれば花の
もとにてなはつけてゑぼし櫻と人やみるらんと申ければ、花守たち是を聞きて、今我々が口ずさみを何
が面白さに、きやつめは口まねしけるぞやと問ひ給ふ。わつぱ聞て、かく繩にかゝる身として御花守
の{{r|御詠歌|ごえいか}}を、其おそれもなくばひまゐらせて吟ずる事{{r|御腹立|ごふくりふ}}はことわり也。去共歌の道なれば、御奉
行衆もゆるし給ふべし。たつとからずしてうへ人にまじはるも、是和歌の德とかや。そのうへ一毛大
山とは歌道に有事なりと、古師も申置かれたり。今の歌を{{r|詠吟|えいぎん}}有つて御覽候へ、繩つきてのきを引の
けて、けと云一字替て、わつぱがよみたる返歌也。{{r|鸚鵡|あふむ}}がへしの歌のさまかくのごとし。御奉行衆も
さぞ御存知なれ共、わつぱが心をひきみんため御たはふれにとはせ給ひ候かや。{{r|花守達|はなもりたち}}是を聞て、{{r|實|げに}}
もやさしきとがめかな。雲の上にありし昔のふるごとも聞きつるやうに覺えたり。され共今の歌は我
等が心中を思ひやりての返歌也。さて又汝がおもはくを一言つらねよかしと仰也。わつぱ聞きて、し
らざりき花の本にてなはつきてかくゑぼしきて櫻見んとはと申ければ、花守達聞きて、すがたやさしき
わつぱなれば、花をぬすみ江戶町にてうらんとこそ思ひしに、やさしくも言のはをつらねけるこそふ
しぎなれ。さありとても、古語に日月は一物のために其明をくらまさず、明主は一人の爲に其法をま
げずといへり。{{r|御法度|ごはつと}}{{r|背|そむ}}きし花盜人に繩かけて、わたくしにはゆるしがたし。なんぢが主は何者︀ぞ。
わつぱ聞きて、主の名をたとひ死罪に及ぶともなのらじ物とは存ずれども、花をみては枝を折るなら
ひ、色を見てはあくをさすとかや。あらけなき花守達の御きしよくも、今は少やはらぎて見え候へば、
わつぱが主は、江戶伊勢町のかたはらに居住仕る{{r|三浦屋淨心|みうらやじやうしん}}と申者︀にて候。花守聞て、いそぎいせ町
へ使をたてられたり。とがの仔細の有りければ、{{r|年寄|としより}}五人組引つれて、御代官の{{r|花山|はなやま}}、湯島へ急ぎ參
るべしと、{{r|愚老|ぐらう}}の{{r|所|ところ}}へ{{r|御使立|おんつかひた}}つ。われ此事をば夢にもしらず、{{r|御奉行|ごぶぎやう}}より召されけるは、いかなる{{r|科|とが}}ぞ
とむなさわぎし、あわてふためき湯島の花山へ參り、多左衞門三右衞門兩人の御前に、面をうなだれつ
{{仮題|頁=310}}
くばひたり。御奉行衆御らんじて、三浦屋淨心とはきやつめが事か。此{{r|花盜人|はなんすびと}}は汝が小者︀か。御代官
の花ぞのにて花をぬすめとをしへけるや。{{r|文選|もんぜん}}の言葉に、{{r|瓜田|くわでん}}にくつをいれず、{{r|李下|りか}}にかぶりをたゞ
さずとこそあれ。花をあいする者︀は根をあらさず、雪を愛する者︀は庭をふまず、大切に{{r|思召|おぼしめ}}し垣こめ
給ふ花園にふみ入て、落花らうぜきいふに絕えたり。しう{{ぐ}}共に{{r|先|まづ}}{{r|籠者︀|ろうしや}}さすべしと、三右衞門申さ
れければ、多左衞門聞て、いやさやうにゆるがせに沙汰いたさば、{{r|向後|きやうこう}}の{{r|狼藉|らうぜき}}絕ゆべからず。でうぐ
わんせいえうに、{{r|賞罰|しやうばつ}}はかろくおこなふべからずと云々、其上一善賞するときんば衆善すゝみ、一惡
はつするときんば衆惡おそる。かれら二人のとがをいましむるは、萬人をたすけん爲なり。則爰にて首
{{r|刎|は}}ねて捨つべしとさもあらけなき仰也。{{r|愚老|ぐらう}}{{r|肝|きも}}をけしたましひも失せはて、{{r|斯|かく}}有るべきと思ひなば、中
途よりいづくへもちくてんすべきを、かなしやな愚人夏の虫飛で火に入るとや、賴むかたなくせんかた
なく、あたりを見れば天神︀の御社︀近く立給ふ。常にたのみをかけ申せし{{r|大慈大悲|だいじだいひ}}の{{r|御結緣|ごけちえん}}などかむな
しからん。此度わうなんのさいをのぞき給へ、{{r|南無天滿大自在天神︀|なむてんまんだいじざいてんじん}}と心中に深く{{r|祈︀誓|きせい}}をかけ、おそれ
をのゝく計なり。天神︀別當はしり出申されけるは、いかにや花守達きこしめせ、此わつぱ花を手折て
るゐせつのせめにあふとかや、さればそせい法師の詠に、見てのみや人にかたらん櫻花{{r|手每|たごと}}に折て家
つとにせんと、古今集に見えたり。酒をこのむ{{r|猩々|しやう{{ぐ}}}}はもたひのほとりにつながれ、花をあいせし此わ
つぱは櫻木の本につながれて、やさしくも言の葉をつらねたるとや。紅は園に植ても隱なし。昔もさ
るためし有り。{{r|家隆︀|いへたか}}の子息の{{r|禪師|ぜんじ}}{{r|隆︀尊修行|りうそんしゆぎやう}}の時、ある地頭のせんざいの櫻花を、一枝をりし其{{r|科|とが}}により
からめられて禪師、{{r|白波|しらなみ}}の名をば立とも吉野山花ゆゑしづむ身をばうらみじとよみたまへば、あるじ
聞きて哀なりとてなはをゆるしてけり。夫歌はたけき武士の心をやはらげ、神︀明の{{r|冥慮|めいりよ}}にもかなひ、
{{r|鬼神︀|きじん}}も{{r|忽然|こつぜん}}と{{r|納受|なふじゆ}}して、ゆうくわいの災をのぞくとかや。古語に{{r|盜人錦|ぬすびとにしき}}ある事を見て、人あることを見
ず、故に是をとる。左のごとく、此わつぱ花ある事をみて、御花守達ましますを見ず、故に捕はるゝ。
花にふかき{{r|執心|しふしん}}やさしきみやび也。{{r|紹巴|ぜうは}}の{{r|發句|ほつく}}に、{{r|姿|すがた}}には似ざりし花の心かなとせられしも思ひ出で
られたり。古歌に、山人の薪に花を折りそへてさまにもおはぬ心見えけりと詠ぜり。{{r|小人|せうじん}}は人の一惡
を見て百恩を忘れ、君子は人の一善を見て百惡の恨を忘るといへり。此者︀かたちにも似ず花をあいし
歌をよみ、やさわつぱなれば、かはゆげに繩をゆるし給へと有りしかば、御奉行衆ふびんにやおぼし
召されけん、仰せられけるは、此わつぱやさしくもこと葉をつらねたり。寺の前のわらんべはならは
ぬ經をよむといへば、さぞなしうは歌をよむらん、一首仕れ、此難︀をゆるすべしとの御事也。愚老是
を聞き、あら有がたの御慈悲やな、是はひとへに天神︀の御りしやうぞと、{{r|威光|ゐくわう}}を深くあふぐなる。され
共歌の事はえたらん人にこそ候はめ。愚老が今の言葉の末、いかで御花守達の御心にかなふべきと思
ふうちより{{r|念願|ねんぐわん}}し、神︀に祈︀りをかけまくも、{{r|卑詞|ひし}}一首を{{r|卒|にはか}}に{{r|綴|つゞ}}つて以てあせ水をながし、ふるへ{{く}}
かくぞ申しける。{{r|千早振|ちはやふる}}この{{r|神︀垣|かみがき}}の花の元にかゝるもとけてみしめ繩哉。御奉行衆は聞召し、{{r|主從|しうじう}}わ
{{仮題|頁=311}}
び歌をつらねけるこそやさしけれ。死罪に及ぶべけれ共ゆるし給ふとゆふしでの、{{r|繩|なは}}をとく{{く}}、汝
が家に歸るべしとの仰也。あら有りがたの{{r|忠峯|たゞみね}}が長歌に、身は下ながら言の葉を、{{r|天津空迄|あまつそらまで}}聞えあげ
と書きたるも、今身の上に知られたり。しうじう{{r|虎口|こゝう}}をのがれ、{{r|私宅|したく}}にかへり悅びぬ。
{{仮題|投錨=樂阿彌乞食の事|見出=小|節=k-5-6|副題=|書名=慶長見聞集/巻之五|錨}}
見しは今、{{r|樂阿彌|らくあみ}}とて江戶をあるく{{r|乞食|こくじき}}あり。{{r|狂言綺語|きやうげんくぎよ}}をいひて人の心をなぐさめ、扨また{{r|隱家|かくれが}}は心
の內に有る物をしらでや山のおくに入るらんとよめる古き歌に、ふしを付けてうたひ、町をあるきめぐ
れば、一日に錢を百も二百ももらふ。或時樂阿彌町へ出て云やう、我けふのもらひを半分とらせ{{r|小者︀|こもの}}を
やとはんといふ。樂阿彌が錢もらふ事かくれなければ、{{r|賃取|ちんとり}}出てやとはるゝ。樂阿彌は常に赤手ぬぐ
ひにて頭をつゝみ、そうじてけうがる姿也。{{r|小者︀|こもの}}をつれ小歌をうたひ町をまはり、萬の{{r|殘飯︀|ざんぱん}}魚の{{r|切屑|きれくづ}}
何にても人のくるゝ物を取て持せ、日も暮れぬれば半分小者︀にやり、半分にてはおのれが一日の口を
やしなひ、扨手を打ちたゝいて、{{r|爰|こゝ}}の辻かしこの道のほとりに臥て夜をあかす。又或時は樂阿彌小者︀
をもやとはずひとりあるきをなし、錢を一貫ばかりもち首へかけて步く。人是を見て、扨は樂阿彌はか
しこくなり、欲をもしりたるかと思ふ處に、{{r|樂阿彌|らくあみ}}{{r|傳馬町|でんまちやう}}へ行き、毛よき馬をかり、鞍おかせ萬づ道具
をかりあつめ、日本橋に立出大音あげて云ふやう、今日は二十四日樂阿彌が{{r|愛宕|あたご}}まうでなり。{{r|小者︀|こもの}}
{{r|中間|ちうげん}}をやとはんとよばはる。日本橋の事なれば、{{r|賃取共|ちんとりども}}我も{{く}}といふまゝに百人ばかりあつまり、樂阿
彌をおつとりまいてつらふりあげ聲を立、やとはれんといふ。樂阿彌四方を見まはし、すくやかなる若
き者︀侍がましき者︀共をかいえり{{く}}錢をとらせ打立つ。其日のせいぞろへを往來の人がとゞまつてく
んじゆをなして見物する。{{r|先|まづ}}{{r|鑓持|やりもち}}、長刀、持弓、てつぱう、はさみ箱、さしかへの刀擔がせ、あたり
に{{r|若黨|わかたう}}四五人つれ、我身は馬に打乘て{{r|兩口|もろぐち}}とらせ、{{r|愛宕|あたご}}へ{{r|參詣|さんけい}}するこそをかしけれ。しらぬ他國の
{{r|道行|みちゆく}}人は、大名の御通りとておそれをなしてぞとほしけり。{{r|愛宕|あたご}}の山にのぼりては、何事にても{{r|樂阿彌|らくあみ}}が
願ふ事こそなけれとて、大酒のみて日くるれば、{{r|愛宕|あたご}}の山を{{r|下向|げかう}}して、日本橋につきにけり。馬より
おり、{{r|樂阿彌|らくあみ}}はいとま申して、{{r|賃取達|ちんとりたち}}さらば{{く}}と手を打て四方へ散つてを失せにける。町の人々是を
見て、誠に{{r|樂阿彌|らくあみ}}とはよくこそ名をば付けたれと、いはぬものぞなかりける。{{r|爰|こゝ}}に{{r|有識|いうしき}}の人是を見て、
夫人間と生をえたらんかひには、いかにもして世をのがれん事こそあらまほしけれ。{{r|法華經|ほけきやう}}にもろ{{く}}
の苦みのよる所、どんよくをもとゝせりと說けり。此樂阿彌が{{r|境界|きやうがい}}士農工商の者︀にもたづさはらず、
{{r|樹下|じゆげ}}、{{r|石上|せきじやう}}、{{r|道路|だうろ}}の{{r|辻|つじ}}を{{r|栖|すみか}}とし、飢寒を忍び難︀き故、町を廻りむさぼる心有といへども、世に有人の
はなはだしきにはまさりなるべし。扨又{{r|惡衣|あくい}}{{r|惡食|あくしよく}}をはづる事なかれと、聖人のたまへり。善にはすゝ
みやすく惡には遠ざかる事なれば、世をのがれてこそ道は求めやすからめ。昔有る僧︀、{{r|高野山|かうやさん}}は{{r|末世|まつせ}}
の{{r|隱所|いんじよ}}として、{{r|結界淸淨|けつかいしやう{{ぐ}}}}の{{r|道場|だうぢやう}}たりとて、此山に{{r|庵室|あんじつ}}を結び、誠に三{{r|會|ゑ}}のあかつきを待ち給ふかと思
ふ處に、此僧︀のがれても同じうき世と聞物を、いかなる山に身をかくさましと、{{r|是法法師|ぜほふほうし}}のよみし歌
{{仮題|頁=312}}
を、たゞ何となく吟ぜしが、つく{{ぐ}}と思ひ出て、實に由は淺きに{{r|隱家|かくれが}}のふかきや心なるらんと、山
を出で諸︀國あんぎやし、それ{{r|世間|せけん}}の{{r|無常|むじやう}}は{{r|旅泊|りよはく}}の歌にあらはれ、{{r|有爲|うゐ}}の{{r|轉變|てんぺん}}は{{r|草露|さうろ}}の風にめつするが
ごとし。千里も遠からず。野に臥し山にとまる身の、是ぞ誠の{{r|栖|すみか}}なるといへり。それ佛法を求る事、
山林にも{{r|市朝|してう}}にもかぎるべからず。故に{{r|小隱|せういん}}は山にかくれ、大隱は市にかくるゝと云々。{{r|鴨|かも}}の{{r|長明|ちやうめい}}の
{{r|方丈記|ほうぢやうき}}に、魚は水にあかず。魚にあらざれば、其心をしらず。{{r|閑居|かんきよ}}の{{r|氣味|きみ}}も又おなじ。すまずして誰か
さとらんと申されし。然ば佛は人間のたのしびを、一代ざうきやうにあまねく記しおき給ふ。しんち
くわんぎやうに、{{r|極藥非極樂心有極樂|ごくらくひごくらくしんうごくらく}}と有り。{{r|空也上人|くうやしやうにん}}の{{r|歌|うた}}に、{{r|極樂|ごくらく}}ははるけき程と聞きしかどつと
めていたる所なりけりと、千載集に見えたり。扨又あみだ{{r|佛|ぶつ}}は、是より{{r|西方|さいはう}}十萬{{r|億土|おくど}}に極樂淨土をか
まへ給ふといへども、{{r|去此不遠|きよしふをん}}と說き給へば、こゝをさること遠からず。又{{r|觀經|くわんぎやう}}に、{{r|諸︀佛如來是法界|しよぶつによらいぜほふかい}}
{{r|身入一切衆生心想中|しんにふいつさいしゆじやうしんさうちう}}とあれば、{{r|己身彌陀唯心極樂|こしんみだゆゐしんごくらく}}也。あらありがたの樂阿彌がとんせい、まめやかな
る{{r|意樂|いげう}}や。
{{仮題|投錨=土風に江戶町さわぐ事|見出=小|節=k-5-7|副題=|書名=慶長見聞集/巻之五|錨}}
見しは昔、江戶に{{r|土風|つちかぜ}}たえず吹きたり。さればれう吟ずれば雲おこり、とらうそぶけば風さわぐ。か
かるためしの候ひしに、江戶に{{r|土風|つちかぜ}}吹けば町さわがしかりけり。此風を、他國にては{{r|旋風|つむじかぜ}}といふ。此
字めぐる風と讀みたり。又つむじの毛のごとく土をまいて吹きければ、つむじ風共俗にいふ。{{r|治承|ぢしよう}}年
中六月十四日、都︀に旋風おびたゞしくふきて、じんをく多くてんだうす。風は中の{{r|御門京極|みかどきやうごく}}の邊よりお
こつて、{{r|未申|ひつじさる}}の方へ吹行く。{{r|平門|ひらもん}}むね門など吹拂て五丁十丁もて行きなげ打し、{{r|梁|うつばり}}、けた、桂、こま
ひ、たるきなどはこくうにさんざいして、{{r|爰|こゝ}}かしこへ落ち、人馬六{{r|畜|ちく}}多く打殺︀されたる事古記に見えた
り。扨又此風土をうがつ故にや、關東にては土くじりといふ。萬葉に、六月の土さへさけて{{r|照日|てるひ}}と讀
めり。土さくるともあり。土くじりとはをかしき名なり。{{r|取分江戶近邊|とりわけえどきんぺん}}に吹風也。草の名も所によりて
かはりけりといふ前句に、{{r|難︀波|なには}}の{{r|蘆|あし}}は伊勢の{{r|濱荻|はまをぎ}}と{{r|救濟|きうさい}}付られしも、今思ひ出せり。されば{{r|藻鹽草|もしほぐさ}}に、
風の{{r|異名|いみやう}}さま{{ぐ}}記せり。若此內に土くじりと云風や有とよみて見れば、つじといふ風の名あり。是
は谷の河風なりと註せる、かなに書て正字しれず。神︀風とは伊勢の國也。よつて神︀風とは神︀のおほん
めぐみは廣くかぎりなくして、大空のあまねくきはまりなきがごとくと云々。猶{{r|委|くは}}しく十四卷神︀の所
に記せり。山ごしもねごしも風の名也。海︀ごしとは風の名にて、又名所也。歌に海︀ごしの{{r|明石|あかし}}の松に
{{r|音信|おとづれ}}て、もりさる舟も出づるとぞおもふとよめり。おきのはやてと云ふものも風の名也。あなしは
{{r|戌亥|いぬゐ}}より吹風、しぶくは海︀の嵐と註せり。しまきは橫ぎる風なり。はやちは神︀のふかせ給へる風なり。
あゆの風は、{{r|北陸道|ほくろくだう}}の風、{{r|時津風|ときつかぜ}}は{{r|四季|しき}}のうちに、いづれにても一しきりあらく吹風をいふとなり。吹
きふけばというても風なり。歌に、吹きふけば山田の庵に{{r|音信|おとづ}}れていなばぞ人を守りあかしけると詠ぜ
り。あすか風、{{r|初瀨風|はつせかぜ}}、いかほ風、以上三つは名所の風也。{{r|風祭|かぜまつり}}とは、とわたる舟やぬさをとらなんとよ
{{仮題|頁=313}}
みて、風神︀に祈︀をかくる、花にも詠ぜり。こち、薰風、{{r|野分|のわき}}、{{r|木枯|こがらし}}などは四季に吹風なり。風の異名あげ
て記しがたし。是をかぞふれば百二十あり。此外嵐の異名、また多し。此內にも土くじりといふ風は
なし。然に江戶あたりに吹土くじりといふ風は、雲の氣色もなく音もせずして俄に地より吹立、土を
まきつゝんで空へ吹上れば、たゞくろけむりのごとし。皆人是を見て、すは火事こそ出來たれ、やけ
立烟を見よと騷ぎてんだうする。町の{{r|御掟|おんおきて}}の事なれば、家々より手桶に水を入れ、引さげ{{く}}持行事
は、先立てはたじるしを持ち、火本は爰やかしことはしりまはる內に、土けぶりはきえてそらごとな
りといへば、さげたる桶の手持もなく、旗をまいてかへりしは、見てもをかしかりき。昔は江戶近邊
神︀田の原より板橋迄{{r|見渡|みわた}}し、竹木は一本もなく、皆野らなりしが、今江戶さかゆくまゝ、あたりの野
原三里四方に家を作りふさぎ、{{r|海︀道|かいだう}}には{{r|眞砂|まさご}}をしき、土のあき{{r|間|ま}}なければ、土くじりはいづくをか吹く
らん、町しづかなり。
{{仮題|投錨=勸進能見物の事|見出=小|節=k-5-8|副題=|書名=慶長見聞集/巻之五|錨}}
見しは今、江戶町{{r|繁︀昌故|はんじやうゆゑ}}{{r|勸進能|くわんじんのう}}每月每日おこたる事なし。此あはれを誰かとはで有るべきと、
{{r|老若男女貴賤|らうにやくなんによきせん}}くんじゆをなして目を悅ばしめ、あまりの面白さにをのゝえも朽ちぬべしと見物せしに、{{r|能|のう}}
七番あり。中にもあはれなるは、{{r|杜若|かきつばた}}、女のすがたになり、{{r|業平|なりひら}}の{{r|形見|かたみ}}のかぶりからぎぬを取出し、い
にしへを語るこそふびんなれ。{{r|卒都︀婆小町|そとばこまち}}百年のうばとなり、{{r|乞食|こつじき}}の有樣あはれなり。又{{r|舟辨慶|ふなべんけい}}に、
{{r|平知盛|たひらのともゝり}}幽靈に成つて義經を海︀にしづめんと、夕波に浮び出でて{{r|戰|たゝか}}ひ給へる{{r|怨念|をんねん}}のいたはしさよと、
なみだをながし袖をしぼらぬはなかりけり。{{r|爰|こゝ}}に{{r|春庵|しゅんあん}}といふ知人、愚老なくを見てあざらひわらふ。
我すこし氣にかゝり腹立まゝに、其方心つよくしてあはれも知らず、かへつて笑ふにやといへば、
{{r|春庵|しゆんあん}}聞て、昔が今に至まで、{{r|草木|さうもく}}ものいふ事なし。人死して二度かへらず。けふの{{r|能|のう}}には、{{r|卒都︀婆小町|そとばこまち}}
一番誠の事を作りたり。小町は{{r|美人|びじん}}にて、しよ人に戀ひられしかども、百年の老婆とおとるへはて、
{{r|關寺|せきでら}}の邊を{{r|乞食|こつじき}}し、一世のはぢをさらしたるこそをかしけれ。夫能と云事は、{{r|世間|せけん}}のなぐさみ{{r|笑草|わらひぐさ}}を作
り、そらごとをうたひまねをなす所に、誠と思ひ皆人なく事魚鳥にも心おとりたり。魚鳥をとらんと
て{{r|釣|つりぼり}}にゑをさし、網をはり、わなのあたりにゑをまきたばかれども、誠と思ふ魚鳥は、千の內に一つ
九百九十九は人のたばかりと知てとられずといふ。われ聞て、誠に{{r|道理至極|だうりしごく}}せり。人はかしこく魚鳥
はおろか成と思へども、取るはすくなくとられぬは多し。扨又能を見て愚になく者︀は千人が中に九百九
十九人、賢にてなかぬは春庵一人也。實に草木いかで人とならん。死たる人二度歸るべからず。我も
人も鳴きつる淚益なしといへば、老人聞て、春庵は{{r|世間|せけん}}の{{r|風流|みやび}}をも知らざる無道人也。さればむかし
{{r|諸︀越|もろこし}}に{{r|鹿戀春女|ろくれんしゆんぢよ}}と云女あり。女子を一人持てり。此むすめ身まかりて後、塚︀に一夜の程に、草一本生
ひたり。母是を見るに、別れしむすめのなまめきたると見て、急ぎよりて見れば女にはあらず草也。そ
れにより、此草を{{r|女郞花|をみなへし}}と名付。郞の字を形とよみ、女をむすめとよむ事此いはれなり。いにしへ草
{{仮題|頁=314}}
木顯れ人に言葉をかはし、人死で{{r|靈魂|れいこん}}現ずる事、{{r|內典外典|ないてんげてん}}に多記せり。{{r|夫謠|それうたひ}}は世の風俗として、心有
人やさしく作れる其あはれをもしらず、難︀ずる事たゞぶんちうにことならず。其上しゆんあん小町が
姿を笑ふ事物をしらず。小町は{{r|妙音𦬇|めうおんぼさつ}}の{{r|化身|けしん}}とこそ、古き文にも見えたれ。日本紀に、小町は
{{r|小野良實|をのよしざね}}がむすめ也。十三の年さがの{{r|帝|みかど}}に參りて、{{r|采女|うねめ}}の役をつとめけるが、見めならぶ人なし。さがの天
皇のきさきのれつに御さだめあり、十七にして{{r|女御|にようご}}に參る所に、父の良實におくれぬ。あくる年の春
一{{r|周忌|しうき}}過ぎて參るに、御定有しに、兄におくれぬ。又明年の一{{r|周忌|しうき}}過ぎて參るべかりしに、{{r|御門|みかど}}{{r|崩御|ほうぎよ}}
なり、是不吉の事也とて、大內を出され、都︀の內に好色の女と成て業平と行逢うて、程なくかれ{{ぐ}}
に成りければ、其後北山の{{r|獵師|れふし}}に相具して世を渡るわざなかりければ、後は{{r|三井寺邊|みゐでらへん}}を{{r|乞食|こつじき}}し、あは
れなる有樣也。六{{r|宮|きう}}の{{r|數|かず}}に入り、十善の位にそなはるべき身が、さもなくてもゝとせのうばとなり、
{{r|關寺|せきでら}}のかたにまどひあるき、{{r|蓮臺野|れんだいの}}のあたりにて身まかり、道のべにかうべをさらす事、是世間の{{r|無常|むじやう}}
まぼろしのあだなる色をしらせんための{{r|方便|はうべん}}なるとかや。高野山の僧︀もぼんなうそくぼだいといへる
法門を聞て、誠にさとれる{{r|非人物|ひにんぶつ}}なりとて、かうべを地に付け三度{{r|禮|らい}}し給ひたり。小町を笑ふ事愚也
といふ。春庵聞きて、{{r|煩惱卽菩提|ぼんなうそくぼだい}}の{{r|法門|ほふもん}}有難︀や、{{r|出離|しゆつり}}をもとむる智識は、そとば小町の{{r|謠|うたひ}}也。
{{r|善惡不二|ぜんあくふじ}}の{{r|理|ことわり}}を得たりといへり。
{{仮題|投錨=屛風齋心まがる事|見出=小|節=k-5-9|副題=|書名=慶長見聞集/巻之五|錨}}
見しは今、江戶町にへいふ齋と云人有り。此人云けるは、我心元來よりまがりたり。されば七尺の
{{r|屛風|へいふ}}もまがるによつてすなほな也。是をすぐに立れはまがつてころぶ、我心まつたくへいふにひとし
きが故、へいふ齋と名付。{{r|淨名經|じやうみやうきやう}}に{{r|衆生無始|しゆじやうむし}}より常にまがつてすぐならずと說かれたり。或人たつ
とき{{r|能化|のうけ}}に問ていはく、如何なるか是本來の直。{{r|道師|だうし}}答へて{{r|恒河|ごうが}}九{{r|曲|きよく}}といへり。是尤しゆじやうなり。
然に世上の人は、{{r|直顏|ちよくがん}}にて心まがれり。我はまがりてかへつて心すなほ也。世は皆醉へりわれひとり
さめりなどと{{r|利口|りこう}}をいひ、常の家風賢人がましくて、{{r|靈相|れいさう}}を學び{{r|自慢顏|じまんがほ}}せり。老人是を聞て、言葉の
もらし易きはわざはひをまねく{{r|媒|なかだち}}なり。言葉をつゝしまざるは破れの道なり。其上{{r|曲直|きよくちよく}}は其品にこ
そよるべけれ、實此人醉て覺めざるに似たり。{{r|王光祿|わうくわうろく}}は屛風の如し。くつきよくして俗にしたがふ。
よく風露をおほふといへり。この心は我身をまげて時にしたがふ故にへいふのごとし、まがらねば世
にたゝれぬと云義なり。聖人のたとへかくの如し。{{r|屛風齋宏才利口|へいふさいこうさいりこう}}に有て、となへることは誠なりとい
ふとも、身のおこなひなくしていかで賢人とひとしからんや。論語に、仁者︀は山をたのしむ智者︀は水
をたのしむと云て、{{r|山水靜動心|さんすゐせいどうこゝろ}}に有るのみにあらず、天地萬物こと{{ぐ}}くそなはれり。其身すぐにし
て影まがらず。其政たゞしくして國みだるゝ事なし。古德も{{r|益者︀|せきしや}}三{{r|友損者︀|いうそんしや}}三{{r|友|いう}}をあかせり。{{r|內典|ないてん}}には
善友親近第一とすと說けり。まがれる心もをしへにしたがはゞ{{r|直|すぐ}}なるべし。{{r|尙書|しやうしよ}}に{{r|木繩|きなは}}にしたがふと
きんばたゞしく、君いさめにしたがふときんば聖なりといへり。たとひをしへなく學ばずとも、善
{{仮題|頁=315}}
惡は友によるとも見えたり。善友にともなふは麻の中のよもぎの直きがことし。{{r|惡友|あくいう}}にちかづく者︀は
おどろの中のけいきよくのごとしといへり。{{r|宗祇|そうぎ}}都︀の會所をあづかり給ふ{{r|祝︀詞|しゆくし}}の{{r|發句|ほつく}}に、世にたつも
麻にまじはる{{r|蓬|よもぎ}}かなと、せられしこそ{{r|殊勝|しゆしよう}}に思ひ侍れ。其人をしらずんば其友を見よ、其君をしらずん
ばその臣を見よと孔子はいへり。{{r|惡人|あくにん}}のまねとて人を殺︀さば惡人なり。{{r|舜|しゆん}}をまなぶは舜の德也。{{r|賢愚|けんぐ}}
{{r|曲直|きよくちよく}}其行にしたがふべし。然時んば人は賢にふれていやしきにふるゝ事なかれ。花中の{{r|鶯舌|あうぜつ}}は花な
らずしてかんばしといへり。
{{仮題|投錨=よし原町の橋渡りかねたる事|見出=小|節=k-5-10|副題=|書名=慶長見聞集/巻之五|錨}}
見しは今、江戶によし原町とて{{r|傾城|けいせい}}町有て、家々門々に女房ども容色をかざり立てならびたるは、
たゞ{{r|天人|てんにん}}の{{r|影向|やうがう}}し給へるかとて、{{r|貴賤老若|きせんらうにやく}}此町へ入ての有樣たとへんやうもなし。そらだきの匂ひ四
方にくんじ、並び居たるおも{{r|姿|すがた}}たんくわの口つきあい{{く}}しく、{{r|桃李|たうり}}のよそほひふようのまなじりい
とやさしく、綠のかんざし雪のはだへ、花のかほばせあいきやう有て、もゝの{{r|媚|こび}}ひとつとしてかくる
事なし。{{r|楊貴妃李夫人|やうきひりふじん}}は見ねばしらず、いかで是にはまさるべき。たつときも{{r|賤|いやし}}きもこうしよくにふ
けり、此町へ行かよひ、其身々々のぶんざいに、たくはへおきたる{{r|家財|かざい}}を皆{{r|盡|つく}}し、身のはて樣々にぞ
見えける。{{r|左傳|さでん}}に六{{r|逆|ぎやく}}のいましめの中に、{{r|淫|いん}}の義を{{r|破|やぶ}}るとあり。誠に此まどひの道に入つては、智者︀
も愚者︀も義を知るもしらぬも替る事なし。{{r|灯|ともしび}}に入る夏の虫、つまをこふる秋の鹿、山野のけだ物がう
がのうろくづに至るまでも迷ひ、心を盡し命を失ふ習なり。さればよし原町へ行道に、堀川二筋有つ
て橋二つかゝりたり。こなたなるをしあん橋といひ、あなたなるをばわざくれ橋と名付。此橋の名い
かなる仔細ぞととへば、諸︀人よし原町床しさに、心うかれなにとなくこの橋本まで來るといへ共、さ
すが此橋渡る事大事に思ひ、渡るべきか渡るまじきかと{{r|薄氷|はくひやう}}をふむ心地して立とゞまり、しばらく
{{r|思案|しあん}}をなす所に、いんよく深き人は渡りて行き、いや大切なりと思案し、渡らで歸る人もあり。是に
{{r|依|よ}}つて{{r|思案橋|しあんばし}}と云。扨又一町ほど過行、よし原町の近所に又橋一つあり。此橋本へふみかゝりては思案
にもおよばず、わざくれと云て皆人渡る故、わざくれ橋と云。此二つの橋の名よし原通ひの人集てつ
けたる名也。夜となくひるとなく橋の音とゞろき{{r|往還|わうくわん}}絕えず。老いたるも若きも尊きもいやしきも、此
道にふみまよひ、よし原町に集る事たゞごとならず。老人是を見て申されけるは、それ{{r|人間生死|にんげんしやうじ}}をは
なれ、げだつのいんに入り難︀き事、{{r|色欲|しきよく}}に迷へるが故なり。{{r|法華經|ほけきやう}}に身分をもつて{{r|毒蛇|どくじや}}の口中に入ど
も、{{r|女犯|によぼん}}をおかさゞれ。{{r|毒蛇|どくじや}}は一身を害すれば一生を損ず。{{r|女人|によにん}}を一度おかせば、五百生をそんずと
說けり。昔{{r|志賀寺|しがでら}}の上人は{{r|智行德|ちかうとく}}たけ{{r|修善|しゆぜん}}の{{r|尊宿|そんしゆく}}にておはしけるが、{{r|京極|きやうごく}}の{{r|御息所|みやすどころ}}を{{r|御車|みくるま}}の{{r|物見|ものみ}}のひま
より、此上人御目を見合給ひてうつゝなき心迷ひ、本尊に向ひくわんねんの床の上にも、{{r|妄想|まうさう}}の化のみ
立ちそひ、{{r|稱名|しやうみやう}}のこゑの中にも、たへかねたる大いきのみぞつかれける。かくてはあらじと此上人鳩
の杖にすがりたゞひとり、京極の御息所に參り給へば、御息所御覽じて、われ故に上人まよはせ給へ
{{仮題|頁=316}}
ば、{{r|後世|ごせ}}の{{r|罪|つみ}}誰が身の上にとまるべき。{{r|露計|つゆばかり}}の情に言葉をかけば、なぐさむ心もこそあれとおぼしめし、
上人是へと召されければ、上人わな{{く}}とふるひて、御簾の前につくばひ居て、只さめ{{ぐ}}と泣き給
ふ。{{r|御息所|みやすどころ}}御手をみすの內より出でさせ給ひたれば、{{r|上人|しやうにん}}御手にとりつき、初春の{{r|初子|はつね}}のけふの玉は
はき手にとるからにゆらぐ玉の{{r|緖|を}}とよみければ、やがて{{r|御息所|みやすどころ}}取敢ず、極樂の玉のうてなの{{r|蓮葉|はちすば}}にわ
れをいざなへゆらぐ玉の緖とあそばして、聖人の御心をぞ、なぐさめ給ひける。かゝる{{r|道心堅固|だうしんけんご}}の聖
人さへも、とげがたき{{r|發心修行|ほつしんしゆぎやう}}の道なるに、{{r|家|いへ}}{{r|富|と}}み世をたのしむ若き人、{{r|浮心|うかれごころ}}のきづなはなれがた
し。{{r|返々|かへすがへす}}も此道つゝしむべき事なりと申されし。
{{仮題|投錨=歌舞妓をどりの事|見出=小|節=k-5-11|副題=|書名=慶長見聞集/巻之五|錨}}
見しは今、江戶にはやり物品々有りといへ共、よし原町のかぶき女にしくはなし。されば昔、ぎわう、
ぎによ、ほとけ御前などといひて、{{r|舞曲世上|ぶきよくせじやう}}に名をえし美女有りしが、女のかたち其まゝにて、白き
すゐかんをきて舞ひければ、{{r|白拍子|しらびやうし}}と名付。いうにやさしく候ひしと也。{{r|諸︀越|もろこし}}には、ぐし、やうきひ、
わうせうくんなど、皆白拍子と聞えたり。扨又{{r|慶長|けいちやう}}の比ほひ、出雲の國に小村三右衞門といふ人の娘
に、くにといひて、かたちいうに{{r|心樣|こゝろざま}}やさしき遊女候ひしが、{{r|柳髮風|りうはつかぜ}}にたをやかに、{{r|桃顏露|たうがんつゆ}}をふくめ
るふぜい、舞曲花めきて、もゝのこびをなせり。{{r|音聲|おんせい}}雲にひゞき、こと葉玉をつらね、春風あたゝか
にして、聞人迄もおぼえず、せんだんの林に入るかとあやしまる。此{{r|遊女男舞|いうぢよをとこまひ}}かぶきと名付てかみをみ
じかうきり、をり{{r|髷|わげ}}にゆひ、さやまきをさし、{{r|小野對馬守|をのつしまのかみ}}と名付、今やうをうたひ{{r|舞女|ぶぢよ}}のほまれ世に
こえ、顏色{{r|無雙|ぶさう}}にして袖をひるがへすよそほひに、見る人心をまどはせり。それを見しよりこのかた
諸︀國の遊女其かたちをまなび一座の役者︀をそろへ、笛、たいこ、{{r|鼓|つゞみ}}をならしねずみきどを立て、是を
諸︀人に見する。中にも名をえし遊女には、{{r|佐渡島正吉|えどしましやうきち}}、{{r|村山左近|むらやまさこん}}、{{r|岡本織部|をかもとおりべ}}、{{r|小野小大夫|をのこだいふ}}、でき島長
門守、{{r|杉山主殿|すぎやまとのも}}、{{r|幾島丹後守|いくしまたんごのかみ}}などと名付。これらは一座のかしらにて、かぶきのをしやうといへるな
り。扨{{r|中橋|なかばし}}にて、いく島丹後守かぶき有りと{{r|高札|かうさつ}}を立つれば、人あつまつて貴賤くんじゆをなし、出
づるをおそしと待つ所に、をしやう先立てまく打上げ、はしがかりに出づるを見れば、いと花やかな
る出{{r|立|たち}}にて、こがねづくりの刀わきざしをさし、{{r|火打袋|ひうちぶくろ}}へうたんなどこしにさげ、{{r|猿若|さるわか}}を{{r|伴|とも}}につれ、
そゞろに立うかれたる其{{r|姿|すがた}}女とも見えず、たゞまめ男なりけり。いにしへ{{r|陰陽|めを}}の神︀といはれしなりひ
らの{{r|面影|おもかげ}}ぞや。しばゐさじきの人々は{{r|首|かうべ}}をのべ{{r|頭|かしら}}をたゝいて、我を忘れてどうえうする。{{r|舞臺|ぶたい}}に出づ
れば、いとゞ猶近まさりする顏ばせは、誠にやうきひ一度ゑめば、六宮に顏色なしといへるが如し。
ふようのまなじりたんくわのくちびる、花を飾りたるかたち、是を見てはいかなるたふのさはに{{r|引籠|ひきこも}}
り、{{r|念佛三昧|ねんぶつさんまい}}のかふろ上人、{{r|天台山四明|てんだいさんしめい}}の洞に一{{r|心|しん}}三{{r|觀|ぐわん}}を{{r|宗|むね}}とし給ふ{{r|南光坊|なんくわうばう}}{{r|成|なり}}とも、心まよはでは候は
じ。ひきよくを{{r|盡|つく}}す舞の袖、ようがんびれいにやさしきは、よしつねの思ひ{{r|人|びと}}、{{r|舞|まひ}}の{{r|上手|じやうず}}と聞えつるい
そのぜんじがむすめしづか御前や、もろこしのくわうていの{{r|戀|こ}}ひ給ひしたいしよく官のおと姬も、
{{仮題|頁=317}}
是にはいかでまさるべき。かゝるいつくしき立すがたに見ほれまよはぬ人は、たゞ{{r|鬼神︀|きじん}}より猶おそろ
しや。其外花をそねみ月をねたむほどの{{r|女房|んようばう}}、同じやうにしやうぞくせさせて、よはひ二八ばかりな
るが、みめかたちゑにかくとも筆におよびがたきほどなるが、花の袂をかさね玉のもすそをつらね、五
十人六十かうしよくをことゝして、きやしやなる花の{{r|色衣|いろぎぬ}}に、まなばん、{{r|古伽羅|こきやら}}、{{r|紅梅︀伽羅|こうばいきやら}}をたきし
めし、かぶきをどりて一同に{{r|袂|たもと}}をかへす扇の風に、匂ひは四方にかうばしや。春のそのふにてふ鳥の
ちりかふ花にうかれつゝ、ぱつとたちては入りみだれ、さいうにわかてる{{r|舞|まひ}}の{{r|袖|そで}}、{{r|是|これ}}や{{r|五節︀|ごせち}}の{{r|舞姬|まひひめ}}も
かくやとこそはおもはるれ。{{r|史記|しき}}に{{r|長袖|ちやうしう}}よく舞ひ、多錢よくあがなふといへるも思ひしられたり。扨
又しやうぎに腰をかけ、ならび居つゝもつれじやみせん、歌をあげてはかき返し、いまやうの一ふし
かや。夢のうき世にたゞくるへ、とゞろとゞろとなるいかづちも、君と我との中をばさけじと、中にを
しやうの舞ひあそぶ、すがたやさしき花のきよく、是や{{r|誠|まこと}}の{{r|天人|てんにん}}のえうがうあるや、{{r|天津風|あまつかげ}}雲のかよ
ひぢ吹きとぢよ{{r|乙女|おとめ}}のすがたしばしとゞめんと、{{r|名殘|なごり}}ををしむ{{r|舞歌|ぶか}}のきよくも、はやいりあやに成り
ぬれば、つゞみたいこや笛の音の、ひやうしをあはする足ぶみに、心は空にうかれ男、{{r|今生|こんじやう}}は夢のう
き世なり、命もをしからじざいはうもをしからじと、{{r|貴賤老若|きせんらうにやく}}此道にすきてほれ人となれり。古語に一
たびかへりみるときんば城をかたぶけ、二たびかへりみるときんば國をかたぶくるといへり。されば
佛は一{{r|念|ねん}}五百{{r|生|しやう}}、けねん{{r|無量刧|むりやうごふ}}と說けり。又{{r|寶積經|ほうしやくきやう}}に、一たび{{r|女人|によにん}}を見れば眼のくどくをうしなふ。た
とひ{{r|大蛇|だいじや}}をば見るとも、女人をば見るべからずとのいましめなり。扨また{{r|外面|げめん}}はぼさつにて、內心は
やしやのごとしとも說かれたり。まことに女のおもてはぼさつに似て、心は鬼なるぞや。伊勢物語に、
むぐらおひてあれたる宿のうれたきにかりにも鬼のすだくなりけりとよみしも、女を鬼といへるとか
や。男をまよはす{{r|魔王|まわう}}なれば、女にこゝろゆるし給ふべからず。
{{仮題|ここまで=慶長見聞集/巻之五}}
{{仮題|ここから=慶長見聞集/巻之六}}
{{仮題|頁=318}}
{{仮題|投錨=卷之六|見出=中|節=k-6|副題=|書名=慶長見聞集/巻之六|錨}}
{{仮題|投錨=江戶にて老若つゑつく事|見出=小|節=k-6-1|副題=|書名=慶長見聞集/巻之六|錨}}
見しは今、江戶にて六七年以來高きもいやしきも杖をつく。扨又桑の木は{{r|養生|やうじやう}}によしとて皆人このみ
ければ、木こり{{r|爪木|つまぎ}}をこる者︀が、{{r|深山|みやま}}をわけて是を尋ね、せなかにおひ馬につけて江戶町へうりに來
る。{{r|當世|たうせ}}のはやり物よせい道具なればとて、若人たちかひとりて、{{r|炎天|えんてん}}の道のよきにも杖をつき給ふ
事、誠に人の非間世のおきてをもはゞからざる{{r|振舞|ふるまひ}}云にたえたり。{{r|樂天|らくてん}}が詩に{{r|朝來|てうらい}}鏡に向て{{r|多疑|たぎ}}を生
ず。白髪せんきやう我は是たそ。{{r|竹馬春秋|ちくばしゆんじう}}{{r|猶|なほ}}昨日、{{r|何|いづ}}れの年の雪のばんとうの糸をそむと作れり。此心を
和歌に、乘捨し昔の竹の馬もがな老のさか行く杖とたのまんと詠ぜり。{{r|了角|あげまき}}の童子をさして竹馬の年
といへり。されば杖つく事昔より仔細有つてつくとしられたり。龍杖とは、{{r|費長房仙翁|ひちやうばうせんおう}}にあひて{{r|仙|せん}}を
まなぶ。{{r|仙翁|せんおう}}一つのつぼの中に長房を引入て、{{r|仙術|せんじゆつ}}ををしへけり。{{r|仙翁|せんおう}}がつぼの中には日月の光空に
やはらぎ、四方に四季の色をあらはし、百二十丈のくうでんろうかく有、天にしやうじつ舞遊び、かう
がんえんわう聲やはらかにして、池にはぐぜいの舟をうかべり。其{{r|壺中別世界|こちうべつせかい}}にて{{r|人間世|にんげんせい}}にあらず。壺
中の{{r|天地乾坤|てんちけんこん}}の外と作れるも是也。佛の{{r|境堺|きやうがい}}なる故也。長房此つぼを出て家に歸る時、{{r|仙翁|せんおう}}靑き竹杖
を一つ長房にあたへたり。此竹杖を葛陂と云所にて捨てければ、忽にこの{{r|杖龍|つゑりよう}}と化してのぼる。詩文
に杖の異名多し。あげてかぞふべからず。扨又歌道に用ひ來れる{{r|卯杖|うづゑ}}とは、正月{{r|初卯|はつう}}の日の{{r|節︀會|せちゑ}}に用
ふる、長さ五尺三寸なり。八千べん君が爲にと{{r|神︀山|かみやま}}の{{r|白玉椿卯杖|しらたまつばきうづゑ}}にぞきると詠ぜり。みつゑ共云。い
はひの杖とは、古歌に、つきもせぬいはひの杖を龜山の尾上行きてきるにこそあれとよめり。山人の杖
とは、{{r|拾遺|しふゐ}}に、相坂をけふこえくれば山人の千年つけとや杖をきるらんと詠ぜり。つら杖とは、つくづ
くとしも物思ふころと云ふ前句に、つら山は打なげきぬる折々にと、玄仍付給ひぬ。{{r|狩杖|かりづゑ}}とは、此比
兼如の席に杖つくと云前句に、狩場と付ければ、{{r|狩杖|かりづゑ}}ははらひ杖にて有るべしと申されければ、其句
かへりたり。棒しもとは人を打杖、あふごとは、物になふ杖を名付、拐とかけり。いせものがたりに
あふごをかごとよめり。などてかく{{r|逢期|あふご}}かたみに成りにけん水もらさじとむすびしものを。ばちは{{r|鼓|つゞみ}}
を打つ杖、そくぢやうは{{r|東司|とうし}}の{{r|具|ぐ}}也。{{r|毬杖|ぎつちやう}}は正月是を用ふる。{{r|柱杖|しゆぢやう}}とはかしやうと云虫の中の骨なり。
其虫の骨をひやうする也。しつべいは{{r|禪家|ぜんか}}に用ふる人を打杖也。しやくぢやうは{{r|𦬇|ぼさつ}}の持ち給へり。弓
杖は的に用る。竹馬杖とは{{r|了角|あげまき}}の童子をさす。竹馬を杖ともけふはたのむかなわらはあそびを思ひ出
でつゝとよめり。はとの杖とは老人の杖の頭に鳩の頭をきざみてつく事、鳩は物にむせぬ鳥也。老人
それにあやかり、物にむせじとのまじなひ也。{{r|新後拾遺|しんごしふゐ}}に、八幡山神︀やきりけん{{r|鳩|はと}}の杖老いてさか行
く道のためとてと詠ぜり。梨の杖とは、ほそ長く梨をむくに頭の方よりむきて杖をのこす法なり。人
にたぐへては梨のごとく杖つく共いへり。或說にさうれい{{r|中陰|ちういん}}の磚義あり、父にはさんいの色を著︀て、
{{仮題|頁=319}}
{{r|桐|きり}}の木の杖をつき、母にはしさいの色を著︀て竹の杖をつくともあり。ほとんど杖には桑を用ふと云々。
老いたる人は杖つき虫の身をかゞめるごとく{{r|行步自由|ぎやうぶじいう}}ならず、故に老人には昔より杖をゆるし給へる
いはれ有り。{{r|禮記|らいき}}に五十にして家に杖つく、六十にして鄕に杖つく、七十にして國に杖つく、八十に
して朝に杖つくといへり。みちぬべき年の末々悅びのと云前句に、杖もゆるさん{{r|九重|こゝのへ}}の內と{{r|紹巴|ぜうは}}付け
たり。若き人はつゝしみ有べき事也。
{{仮題|投錨=大鳥一兵衞組の事|見出=小|節=k-6-2|副題=|書名=慶長見聞集/巻之六|錨}}
見しは今、{{r|大鳥|おほとり}}一{{r|兵衞|べゑ}}と云若き者︀有り。士農工商の家にもたづさはらず、{{r|當世異樣|たうせいゝやう}}をこのむ若黨と、
伴ひ男のけなげだてたのもし事のみ語り、常にあやうき事を好んで、町人にもつかず侍にも非ずへん
ふくの人なり。若き者︀共是を聞て、一兵衞と云者︀は、人賴むならば命の用にも立つべしといふ。世に
たのもしき人こそあれと云て、まねかざるに來り{{r|期|ご}}せざるに集り、筒樽を持寄て知人となる。此一兵
衞知ざる人をば男の內へ入るべからずと、居たる跡をばほこりを拂てなほり、同座すれば立しりぞく。
子華子に云、子車氏がゐのこ、其色もつぱらにして黑し、一度子をうんで三つのゐのこ有り、其二つは
則{{r|粹|すゐ}}にして黑し。其一つは則まだらにして白し。其おのれが類︀にあらざる事をにくんで是をかみころ
す。其おのれにおなじき者︀をば、是をやしなふ事たゞつゝしみて其やぶらん事を恐ると、いへるにこ
とならず。又若き{{r|殿原達|とのばらたち}}は一兵衞をまねきよせ物語せよとあれば、馬といはゞ蛇に綱を付ても乘べし、
すまふならば鬼ともくまん、{{r|兵法|ひやうはふ}}ならばしらはにて太刀打せんなどと、{{r|利口|りこう}}をいへば{{r|引出|ひきで}}物をとらせ、
{{r|明暮|あけくれ}}伴ひ給ふ事だゞ虎を愛してみづからうれひをまねく成るべし。古人の言葉に{{r|好友|かういう}}にともなへば
{{r|芝蘭|しらん}}の室に入るがごとく、{{r|惡友|あくいう}}にちかづくときんば、鮑魚のいちぐらに入るがごとしといへり。故に善
惡のかげひゞきのごとし。いさめる者︀はかならずあやうき事有り。夏の虫飛んで火に入る。爰に北河
權兵衞と云人{{r|罪|つみ}}有り。{{r|被官|ひくわん}}を手打にせし所に、石井猪︀助と云者︀わきよりはしりよつて、權兵衞をさしこ
ろす。此者︀をからめ仔細をとへば、別のゐこんなし。我權兵衞がわかたうと知音なり、互に命のよう
に立べしと兼約せし故也と云。皆人聞て、かやうのいひあはせ世にためしなきいたづら者︀、火あぶり
にすべしときせられければ、猪︀助四方をはつたとにらんで、侍と侍が云あはせ一命を捨つる程の義理
だてを、いたづら者︀とはひがごとなり。然ば大鳥一兵衞とて名譽のをこの者︀世にたのもしき知人あり。
此人と盃を取かはしたる若き者︀、{{r|死生|しゝやう}}もしらぬふてきなるあふれ者︀、江戶中に千人も二千人も有るべ
し。其者︀共の知音の中われにひとしかるべしといふ。諸︀侍是を聞き、若き者︀を{{r|召使|めしつか}}ひせつかんに及ぶ
時に至ては、たゞ龍の{{r|髭|ひげ}}をなでてたましひをけし、虎の尾をふみてむねひやす心地有て安からずとい
へり。江戶{{r|御奉行衆|ごぶぎやうしう}}聞召しおどろきさわぎ、先一兵衞をからめ、くびがねをかけ、かなほだしをうち、
{{r|問注所|もんぢうしよ}}におき、かれを見るに、よの男に一かさ增して足の{{r|筋骨|すぢぼね}}あら{{く}}とたくましうして、二王を作
り損じたる{{r|形體|けいたい}}なり。扨{{r|同類︀|どうるゐ}}{{r|有|あ}}るべしとて大名小名の家々町中までもさがし出し、首を切てさらす事
{{仮題|頁=320}}
限りもなし。大名衆の子供たちをば命をたすけ、奧州つがる、はつふ、そとの濱、西はちんぜい、
{{r|鬼海︀島|きかいがしま}}、北は越後のあら海︀、{{r|佐渡島|さどがしま}}、南は大島、戶島、八丈へながし給ふ。扨一兵衞をばすねをもみひ
ざをひしぎ、夜る晝問へども{{r|同類︀|どうるゐ}}をばいはずしてにつこと打笑ひ、愚なる人々かな、からだをせめて、
など心をばせめぬぞといへば、にくきやつが、くわうげんかなとて、{{r|荒手|あらて}}を入れかへて五日七日十日
二十日水火のせめにあて、{{r|樣々|さま{{ぐ}}}}に{{r|推問|すゐもん}}、がうもんすれども、更にくるしむ氣色なく、其心あくまでふ
てきにして、誠に血氣の{{r|惡者︀|わるもの}}也。そら笑ひするつらだましひ、せいりきこつがら人にかはつて見えにけ
り。皆人せむべきやうなしとて、あきれはて居たりしに、一兵衞云けるは、何とやらんいま程はあたり
しづまり物さびしければ、物語しておの{{く}}にねぶりさまさせ申すべし。われ武州八王寺の{{r|町酒|まちざか}}やに
有て酒をのみしに、{{r|古無殿|こむそう}}の一人{{r|尺八|しやくはち}}を{{r|吹|ふ}}いて門に立ちたり。我此者︀をよび入れ、あら有難︀の{{r|修行|しゆぎやう}}や、
御身ゆゑある人と見えたり。世におち人にやおはすらんと酒をもてなし、此一兵衞も若き比は尺八を
吹きたり。{{r|古無殿|こむどの}}の尺八{{r|一手|ひとて}}望みなりといへば、此者︀{{r|曲|きよく}}を一{{r|手|て}}吹きたり。我聞て打笑ひ、しりをくり
あげ尻を打たゝいて、古無殿の尺八ほどはわれしりにても吹くべしといへば、古無大きに腹を立て、
{{r|無念至極|むねんしごく}}の惡言かな。われいにしへは{{r|四姓|しせい}}の{{r|上首|じやうしゆ}}たりといへども、今は{{r|世捨人|よすてびと}}となる。然ども{{r|先業|せんごふ}}をかへ
り見、貧賤をなげかずして{{r|佛道|ぶつだう}}の{{r|緣|えん}}に取付、{{r|空門|くうもん}}に思ひをすまし、內に{{r|所得|しよとく}}なく外に所求なく、身を安く
して、{{r|普化上人|ふけしやうにん}}の跡をつぎ、一代{{r|敎門|けうもん}}の{{r|肝要出離解脫|かんえうしゆつりげだつ}}の道に入り、修行をはげますといへども、
{{r|惡逆無道|あくぎやくむだう}}の一言にわれしんいのほのほやみがたし。すがたこそ替れども所存において替るべきか。{{r|是非|ぜひ}}{{r|尻|しり}}に吹
せて聞べしといふ。此一兵衞も尤しりにて吹くべしといへば、互にかけ物をこのみしに、{{r|古無|こむ}}云ひけ
るは{{r|親重代|おやぢうだい}}に傳はる{{r|吉光|よしみつ}}のわきざし一腰持ちたりとて坐中へ出す。此一兵衞も{{r|腰|こし}}の刀を出すべし。此
刀と申すは、われしたはら鍛冶を賴み、三尺八寸のいか物{{r|作|づくり}}にうたせ、二十五までいき過ぎたりや、一
兵衞と名を切付、一命にもかへじと思ふ一腰を出す。町の者︀共兩方のかけ物を預り、一兵衞が尻にて吹
く尺八きかんと云ふ。其時我古無が尺八おつとつてさかさまに取りなほし尻にて吹きければ、皆人聞
て、實に古無が口にて吹きたるより、一兵衞が尻にて吹きたるが增りたるといへば、われ此あらそひ
にかちたり。各かやうの事にそにんあらば、八王寺町の者︀共へ尋給へと云。皆人聞きて、扨こそ一兵
衞木石にても非ず物をいひそめけるぞや。{{r|爰|こゝ}}に{{r|彥坂|ひこさか}}九兵衞と云ふ人たくみ出せる駿河とひとて、四つ
の{{r|手足|てあし}}をうしろへまはし一つにくゝり、せなかに石を{{r|重荷|おもに}}におき、{{r|天井|てんじやう}}より繩をさげ中へよりあげ一
ふりふれば、たゞ車をまはすに似て、{{r|惣身|そうしん}}のあぶらかうべへさがり、油のたること水をながすが{{r|如|ごと}}し。
一兵衞今ははや目くれたましひもきえ果てぬと見えければ、すこし{{r|息|いき}}をさすべしと繩をおろし、とひ
へ水をそゝぎ、口へ{{r|氣藥|きぐすり}}を入れ、扨もかひなし一兵衞同類︀をはやく申せいはずんば又あぐべし。なん
ぢせめ一人にきすといへば、其時一兵衞いきのしたよりあらくるしやかなしや候。いかなるせめにあ
ふとてもおつまじきとこそ存ずれ共、此駿河とひにあひていかでいはでは有るべきぞ。それがし知人
{{仮題|頁=321}}
數しらず。先紙を百枚帳にとぢ持來り給へ。{{r|同類︀|どうるゐ}}殘りなく申上書付べしと云。望のごとく帳をとぢ筆
取出て、扨同類︀はと問ば一兵衞が存知の人々を殘なく申べしとて、日本國の大名衆をかぞへたつる。
{{r|御奉行衆|ごぶぎやうしゆ}}聞召し、とふにたえたるいたづら者︀{{r|先|まづ}}{{r|禁獄|きんごく}}さすべしと引立て{{r|籠|ろう}}に入る。もんぜんの言葉に、む
かでは死に至れども、うごかずといへるは、此者︀の事也と諸︀人云ひあへり。
{{仮題|投錨=罪人共籠中法度定むる事|見出=小|節=k-6-3|副題=|書名=慶長見聞集/巻之六|錨}}
見しは今、大鳥一兵衞と云者︀、江戶町に有て世にまれなる{{r|徒者︀|いたづらもの}}、是によつてきんごくす。仔細は前に
委記せり。然に一兵衞{{r|籠中|ろうちう}}東西をしづめ大音あげていふやう、なにがし{{r|生前|せいぜん}}の{{r|由來|ゆらい}}を人々に語て聞せ
ん。武州大鳥と云{{r|在所|ざいしよ}}に、りしやうあらたなる十王まします。母にて候者︀、子のなき事を悲み{{r|此|この}}
{{r|十王堂|じふわうどう}}に一七日{{r|籠|こも}}り、まんずる{{r|曉|あかつき}}{{r|靈夢|れいむ}}のつげあり、くわいたいし、十八月にしてそれがしたんじやうせし
に、こつがらたくましくおもての色赤く、むかふば有て髮はかぶろにして立て三足{{r|步|あゆ}}みたり。皆人是
を見て、{{r|惡鬼|あくき}}の生れけるかと驚き、{{r|旣|すで}}にがいせんとせし處に、母是を見て云ひけるやうは、なうしば
らく待給へ、思ふ仔細有り。是は十王へ申子なれば、其しるし有ておもての色赤し。{{r|傳聞|つたへき}}く、老子は
神︀武天皇御宇五十七年に當てそこくへたんじやう、支那は{{r|周|しう}}の二十二代{{r|宣王|せんわう}}三年丁巳九月十四日也。
{{r|胎內|たいない}}に八十一年やどり、白髮に有つて生れ給ひぬ。故に老子と號す。{{r|成人|せいじん}}の後、身の{{r|長|たけ}}一丈二尺、
{{r|龍眼|りようがん}}にしてひたひ廣く{{r|金色|こんじき}}なり。耳ながく目ふとく眼に光りあり。くちびる大にして{{r|紋|もん}}あり。齒は四十
八有り。足のうらに紋あり。手の內の{{r|筋|すぢ}}直にしてまがらず、其形尤{{r|奇異|きい}}なり。かやうのためしあれば
鬼神︀にても候はじ。たすけおき給へと申されければ、我をたすけおきをさな名を十王丸といべり。其
十王の二字をへんじて一兵衞と名付事、十{{r|方地獄中唯有|ばうぢごくちうゐう}}一兵衞無二又無三の心なり。されば{{r|籠內|ろうない}}をば
{{r|地獄|ぢごく}}、外をしやばと{{r|罪人|ざいにん}}云ふ、是道理也。しやばよりあたふる手一合の食物を、朝五夕晩五夕是を丸
して、ごき穴より此くらき地ごくへなげ入るを、數百の罪人共是をとらんとどうえうする。がうりき
なる者︀共は他の食をうばひとる。無力の者︀わづらはしき者︀共は、あたふる食をえとらずしてつかみあひ
はりあひする事、{{r|餓鬼道|がきだう}}の有樣なり。つら{{く}}是を案ずるに、それがし{{r|裟婆|しやば}}にて十王といはれし身が、
此地ごくへ來る事いんぐわれきぜんのことわりのがれがたし。然りといへども、佛は{{r|極樂|ごくらく}}のあるじと
し、十王は地獄の主と成る事、是{{r|順逆|じゆんぎやく}}の二{{r|道|だう}}、{{r|魔佛|まぶつ}}{{r|一如|いちによ}}にして、{{r|善惡不二|ぜんあくふに}}の道理也。{{r|釋尊|しやくそん}}たうりてん
に御座て、十方の{{r|諸︀佛𦬇|しよぶつぼさつ}}集り給ふ中において、{{r|地藏𦬇|ぢざうぼさつ}}につけてのたまはく、{{r|未來惡世|みらいあくせ}}の衆生をば、汝
にふぞくす。惡道へ落し給ふことなかれと有りしにより、或はえんま王となり、{{r|中有|ちうう}}の罪人をたすけ、
或は十王と成て六道の{{r|群類︀|ぐんるゐ}}をとぶらはんと每日地獄に入り、{{r|衆生|しゆじやう}}の身がはりに立て苦しみを請、諸︀々
の罪人をすくひ給ひぬ。經に一{{r|切衆生五逆罪|さいしゆじやうごぎやくざい}}を作る共、十王を信ぜば地獄に入り罪人にかはつて苦を
うけん事{{r|決定|けつぢやう}}也と說かれたり。それ娑婆において泰時が記したる{{r|成敗|せいばい}}の{{r|式目|しきもく}}は、日本國の{{r|龜鑑題目|きかんだいもく}}十
三人奉行の內仁知をかね、六人に文章を書事、六地藏六觀音を表す。十三人の奉行は十三佛とす。將
{{仮題|頁=322}}
軍を{{r|閻|えん}}魔王につかさどり、善惡理非をさたする事{{r|閻魔|えんま}}の帳に罪の輕重を付るを學ぶ。是{{r|今生後世利益|こんじやうごせりやく}}
{{r|方便|はうべん}}{{r|自業得果|じごふとくゝわ}}の道理をたゞし、終には佛道に引入る方便とす。然るにわれ{{r|娑婆|しやば}}に有つてむじつのざん
により、此地ごくに來る事、右の{{r|經久|つねひさ}}の{{r|如|ごと}}く各々に成りかはつて我くるしびを請け、籠中の罪人をす
くはんための方便なり。いかで罪をまぬかれざらん。{{r|自今|じこん}}{{r|以後|いご}}において十王地獄の{{r|法度|はつと}}を定むべしと
云。籠中の罪人此由を聞き、有がたし尤と同じ、夏の事なれば南の風おもてごきあなあかりをかたど
り、たゝみ三疊かさね、其上に一兵衞をなほし、今日より地獄のあるじえんま十王樣とぞあふぎける。
其時十王ゑみを{{r|含|ふく}}み、もとより{{r|宏才利口者︀|くわうさいりこうもの}}地ごくの法度を定る。第一よこはし付たり{{r|高雜談|たかざふだん}}、然るに
われしやばの{{r|法度|はつと}}を見しに、けんくわ口論をば{{r|理非|りひ}}共に非におつ是非なり。地ごくの法度は理ある者︀を
ば十王があたりにゆるかしくおくべし。{{r|非有者︀|ひあるもの}}をば食事をとゞめ、かはやのねにおくべしと云ふ。然
間地獄しづか成事前世未聞、是一兵衞が{{r|威德|ゐとく}}なるべし。
{{仮題|投錨=くろつくみ比丘の事|見出=小|節=k-6-4|副題=|書名=慶長見聞集/巻之六|錨}}
見しは今、佛法繁︀昌故、江戶寺々に說法あり。{{r|老若貴賤參詣|らうにやくきせんさいけい}}の袖つらなりくんじふせり。愚老も神︀田
の{{r|淨西寺|にやうさいじ}}の{{r|談義|だんぎ}}を{{r|聽聞|ちようもん}}し、歸るさにかたはらを見ればほそき山道有り。此末に山居の寺有りと聞き、
なぐさみがてら、此寺を見んと{{r|草村|くさむら}}を分行所に{{r|禪宗|ぜんしう}}の小鹿あり。{{r|人倫|じんりん}}{{r|絕|た}}え、あたりに{{r|古狸|ふるたぬき}}一つ二つ見え
たり。狸は晝穴にねて夜る出て人をまよはすとかや。此たぬき晝出てあるく。古歌に、人すまで鐘も音
せぬ古寺に狸のみこそ鼓うちけれと、よめるも思ひ出せり。我{{r|住持|じうぢ}}に逢て山居さびしき體さつし申た
りといへば、老僧︀聞てさびしきが{{r|我宗|わがしう}}の本意なりと返答なり。我いはく、今江戶町繁︀昌故、佛法もさ
かんにして諸︀僧︀寺々にて{{r|檀那|だんな}}を{{r|集|あつ}}め{{r|談義|だんぎ}}をのべ給ひ、爰に{{r|淨西寺|じやうさいじ}}の上人智德世にこえ、釋迦一代の
{{r|法門|ほふもん}}を手びろく說法し給ふ。今日なかんづく{{r|禪法|ぜんぼふ}}を{{r|沙汰|さた}}したまひたり。夫本來面目を知らんとほつせば、
{{r|先|まづ}}{{r|父母|ふぼ}}{{r|末生已前|みしやういぜん}}を知るべし。然るに{{r|世尊靈山|せそんりやうせん}}に有つて、一枝のこんはらげを{{r|拈|ねん}}じて、大衆にしめす。
{{r|迦葉|かせふ}}獨はがん{{r|微笑|みせう}}す。{{r|是|これ}}{{r|不立文字|ふりふもんじ}}{{r|敎外別傳|けうげべつでん}}にして、大切の法門なり。{{r|達摩|だるま}}は{{r|直指人心見姓成佛|ぢきしにんじんけんしやうじやうぶつ}}と談
じ、{{r|趙州|てうしう}}は有にあらず無にあらずといひて、心々に{{r|悟|さとり}}をあらはせり。{{r|龐居士馬祖︀|はうこじまそ}}に問て云、{{r|萬法|ばんぽふ}}と侶
ざるもの是なん人ぞ。祖︀の云ふ、汝一口に{{r|西江水|せいかうすゐ}}を{{r|吸盡|すひつく}}させんを行て、則稱に向ていはんと返答せり。
{{r|居士|こじ}}は此水をのみえずして地ごくに落ちたり。此坊主は西江水を一口にのみ盡し、{{r|海︀底|かいてい}}の{{r|沙石|させき}}をあり
ありと見て心{{r|淸涼|せいりやう}}たり。其上四大海︀の大魚小魚悉くわが腹に入て、共に{{r|成佛|じやうぶつ}}せりと{{r|放言|はうげん}}はき給ひぬと
語りきれば、{{r|禪師|ぜんじ}}聞きて、{{r|夫|か}}の{{r|釋尊|しやくそん}}一代の法門は一{{r|口|く}}一{{r|呑|とん}}にして一{{r|味|み}}の法たりといへども、日本におい
ては十{{r|宗|しう}}に分つて{{r|宗々|しう{{く}}}}{{r|法門|ほふもん}}かくべつたり。しかるに、末世において一宗の{{r|敎法|けうぽふ}}を修行成就する事一人
も有るべからず。其宗の義理をかたはし聞き覺えて早まんきをおこし、佛法知りがほして{{r|高座|かうざ}}にあが
り{{r|說法|せつぽふ}}す。故に{{r|能化|のうげ}}のさはりはまんしん也。今時の僧︀皆{{r|名利|みようり}}のためにほだされて{{r|苦|く}}の{{r|法門|ほふもん}}をさへづり、
{{r|無道心|むだうしん}}にしてねんじゆをくりまんしんおこすにより、十七八九は必{{r|天魔|てんま}}と成てかへつて佛法をばめつ
{{仮題|頁=323}}
せんとす。我朝の柿本の{{r|紀僧︀正|きそうじやう}}と聞えしは智德れいげんの聖にて有しが、{{r|大法慢|だいほふまん}}をおこし、日本第一
の天狗あたごさんの{{r|太郞坊|たらうぼう}}是なり。{{r|昔日不立文字敎外別傳|せきじつふりふもんじけうげべつでん}}などといひし{{r|禪|ぜん}}の{{r|祖︀師|そし}}は、先敎意をよく胸
にをさめて、其上{{r|釋迦|しやか}}{{r|智音底|ちおんてい}}の言葉をのべられたりいかで末世の僧︀、是をしきとくせん度に思ひあは
する事有り。{{r|唐國|たうこく}}に{{r|猩々|しやう{{ぐ}}}}と云者︀は、人の面にして身は{{r|猿|ましら}}に似たり、よく物いふ。古語に猩々よく物い
へども{{r|走獸|そうじう}}をはなれず。扨又我寺のあたりにふる狸古狐多く有て、暮れば人の形に化して夜每に來てわ
れに言葉をかはすといへ共、是も獸をばのがれず。{{r|山海︀經|さんかいきやう}}に、黃山に{{r|鸚鵡|あうむ}}と云鳥あり。其かたち{{r|鶚|みさご}}に
似て、靑き羽︀赤きくちばし人の舌のごとくにて、よく物いふと云々、萬の聲を聞きて其まねをなす。
歌にあはれともいはゞやいはん言の葉をかへすあふむの{{r|同|おな}}じ心をとよみたり。{{r|禮記|らいき}}にあうむよく物い
へども{{r|飛鳥|ひてう}}をはなれずといへり。日本にもくろつくみと云小鳥、諸︀鳥のなく聲を聞きて其まねをなす。
是がをかしさに籠に入て皆人飼︀ひ給へり。きんじうに此類︀多かりき。皆是似たる物也。{{r|蝙蝠|かはほり}}と云物は
鳥と虫との形に似て、其身黑くくさくして{{r|闇所|あんしよ}}を好む。或時は{{r|土穴|どけつ}}に入り、或時は雲ゐを飛行し□を
なして人をあざむく。かるがゆゑに、契經に{{r|末世|まつせ}}の{{r|比丘|びく}}にたとへて、僧︀に似て僧︀にあらざるを、へんぷ
くの{{r|比丘|びく}}と名付、{{r|佛藏經|ぶつざうきやう}}には{{r|鳥鼠比丘|てうそびく}}とも說かれたり。此虫百年の後、{{r|白蝙蝠|しろかはほり}}と成つて、さかしまに
木の枝、{{r|岩岸|いはぎし}}にかゝつて人のたゞしく行くを見て、却て倒行と思ふ。然に我{{r|宗|しう}}、{{r|禪|ぜん}}の{{r|沙門|しやもん}}廿年三十年
佛法{{r|修行|しゆぎやう}}し、本来の{{r|面目|めんぼく}}と云ものは何者︀ぞ{{く}}と尋来れども、其{{r|形目|かたちめ}}にも見えず、聞くにも聞えず、手に
もとられず。{{r|佛祖︀|ぶつそ}}もかれをしきとくするによしなし。佛さへあらはしがたきまことにてと云句に、人
にしたがふ心なりけりと{{r|紹巴|ぜうは}}付けたり。然に{{r|他宗|たしう}}の{{r|坊主|ばうず}}{{r|禪法|ぜんぼふ}}を唱ふる事、たゞ是くろつぐみが鶯の聲
を聞きて{{r|法花經|ほけきやう}}とさへづり、とけんの聲を聞きては{{r|時鳥|ほとゝぎす}}と鳴く。されども誠の鶯時鳥には爭およばん
や。かんてうには{{r|蝙蝠比丘|へんぷくびく}}あり。本朝にはくろつぐみ{{r|比丘|びく}}あり。萬事わがたもつ所の道を思ひ、他をあ
ざむく事なかれと物がたりし給ひぬ。
{{仮題|投錨=品川の塔風にそんずる事|見出=小|節=k-6-5|副題=|書名=慶長見聞集/巻之六|錨}}
見しは今、品川に五{{r|重|ぢう}}のたふ有り。里の翁語りけるは、昔{{r|鈴木道印|すゞきだういん}}と云有德なる町人立たり。{{r|幸順|かうじゆん}}と
云息あり。{{r|父子連歌數寄|ぶしれんがずき}}なり。其{{r|比|ころ}}都︀に{{r|權大僧︀都︀|ごんだいそうづ}}心敬と云{{r|連歌師|れんがし}}あり。道印父子と知音なり。心敬東
に下り侍し時、海︀づら近き宿りにて、{{r|朝霜|あさしも}}はひさき風吹濱邊哉、東にあまた年をおくりし比、月こよ
ひ月に忘るゝ都︀哉。白川のせきを見侍る時、關も關{{r|梢|こずゑ}}も秋の木ずゑ哉。東に侍りし次の年、初冬の比、
めぐるまを思へば去年の{{r|時雨|しぐれ}}哉。品川九本寺にて、九つのしなかはりたるはちすかなと發句有りしに、
人聞きて、河に{{r|蓮|はちす}}、{{r|珍事|めづらしきこと}}と沙汰しければ、極樂のまへにながるゝあみだ川はちすならではこと草も
なしと、心敬{{r|證歌|しようか}}を引かれたり。心敬と道印父子他にことなる知音故、品川にては每年心敬の下向を
待ちかね、京にて心敬は、秋來るをおそしと待ちていそぎ品川へ下り、{{r|明|あけ}}くれ連歌せられたりと語る。
我聞て道印父子七堂がらんを{{r|建立|こんりふ}}し{{r|福︀德|ふくとく}}のしるし見えたり。扨又連歌數寄といひしかど、{{r|下手|へた}}故にや
{{仮題|頁=324}}
道印とも幸順とも名付たる發句付合、古き文に一句もなし。其ころ都︀に其名聞えし連歌師{{r|專順|せんじゆん}}、{{r|智薀|ちをん}}、
{{r|宗祇|そうぎ}}、{{r|紹永|せうえい}}などあり。詩は詩人に向て吟ずといへるなれば、心敬京都︀に有つて右の連歌とは詠吟なく、
東のはてなる品川の{{r|鱸|すゞき}}を懷み、年々{{r|遠國|をんごく}}の山をこえ海︀を渡て、はる{{ぐ}}來ぬる{{r|旅衣|たびころも}}、心敬の{{r|所存|しよぞん}}計り
{{r|難︀|たが}}しといへば、里の翁聞て旅人の不審尤也。されば心敬は{{r|鱸|すゞき}}なますを好み、秋風たてば{{r|鱸|すゞき}}つりに品川へ
下り給ひぬと返答する。われ聞て其方は年にも似ぬ{{r|戯語|げご}}をいふ人かなと笑ひければ、翁聞きていやい
にしへもさることあり、{{r|張輪|ちやうりん}}と云者︀、古鄕の鱸のなますをくはでと願ひければ、おしはかりて、秋風
に鱸のなます思ひ出て行きけん人の心地こそすれとよみたり。此古歌の心をや思ひ出でけん、品川のわ
らはべの{{r|落首|らくしゆ}}に、年每に秋風たてば品川の鱸をつりに下る心敬とよみければ、此歌にはぢ、其後は心
敬下り給はず。されば歌に、鱸つるさほのたわみのをゝよわみ波のたよりによせてこそひけ、と詠ぜり。
鱸を名所に多くよみたり。{{r|續草庵和歌集|しよくさうあんわかしふ}}に、あさなぎにすゞきつりにやあはぢがたなみなきおきにふ
ねもいづらん。是は草の名十よめり。鱸つる更井の浦、すゞきつる{{r|藤江浦|ふぢえのうら}}、きの國にも讀めり。{{r|玉葉|ぎよくえふ}}に、
鱸つる{{r|干瀉|ひかた}}の浦の{{r|海︀士|あま}}の袖、鱸とる{{r|海︀士|あま}}の{{r|小舟|をぶね}}のいさり火とも詠ぜり。昔堀川江城において千句あり。
連衆は心敬、宗祇、元祐︀、道印、幸順、印幸なり。{{r|開題|かいだい}}の發句に、幸順、春も來て歸らん雪の朝哉とせ
られたり。扨又幸順はいかい{{r|數寄|すき}}にや有りつらん、ほこのうらに書殘したる付合あり。櫻井元祐︀は{{r|生國|しやうこく}}
{{r|下總船橋|しもふさふなばし}}の人連歌師なり。都︀へ上り連歌に長ずるが故、{{r|參內|さんだい}}せられたるとかや。{{r|下向|げかう}}に品川幸順宿へ
立寄り給ひき。此人{{r|上|のぼ}}りにはまづしき體なりしが、いしやういちじるかりければ、幸順出逢興じて、
あやしや御身誰にかりきぬといへば、此小袖人のかたよりくれはとりと、やがて元祐︀付けたり。{{r|然者︀|しからば}}
幸順七堂がらんを立てられしが、悉く風にそんじ、{{r|塔|たふ}}一つ{{r|計|ばかり}}は如何なる{{r|上手|じやうず}}の工みが立てけん、風に
も損ぜず。此塔は文安三丙寅年成就せしとなり。つき鐘にも、{{r|年號切付|ねんがうきりつけ}}見えたりしが、當年風に損じ
たりと委しく語る。愚老聞きて、有がたや道印塔を立て置き、自他の利益をなせり。寺塔に向へばお
のづから{{r|罪業除滅|ざいごふぢよめつ}}すと經に說きたり。昔寺の始る事漢︀の明帝の時、佛法漢︀土に渡る。此時寺を立る。寺
は佛の{{r|廟|べう}}也。{{r|白馬寺|はくばじ}}と號し佛法をあがめたまふ。我朝に寺塔はじまる事欽明天皇の{{r|御宇|ぎよう}}、大和久米寺お
なじく塔をも立てられし。是{{r|寺塔|じたふ}}の始なり。大日經に、塔の{{r|深祕至極|しんぴしごく}}ありと云々。然に慶長十九年甲
寅年八月二十八日{{r|未刻|ひつじのこく}}大風吹きて、此塔百六十九年を{{r|盛|さかん}}にして滅する時節︀に{{r|遇|あへ}}りといへば、品川の人
云ひけるは、此塔品川の{{r|名物|めいぶつ}}、{{r|所|ところ}}のかざりなるを惡風そんさすもの{{r|哉|かな}}と風を恨む。我聞きてそれはひが
事也。古歌に、いづくにて風をも世をもいとはまし吉野のおくも花は散りけりと詠ぜり。かるが故に
咲けばちる{{r|理|ことわ}}りしらぬ花も{{r|哉|がな}}とせられたる專順の心を、品川の里人はづべし。たゞ{{く}}{{r|時刻到來|じこくたうらい}}は
恨みて益なしといへば、海︀道とほる老人聞きて、いや{{く}}品川の{{r|里人|さとびと}}風を恨るこそあはれなれ。
{{r|王元之|わうげんし}}が詩に、りやうちうの{{r|桃杏|たうきやう}}まがきにえいじてなゝめなり。さうでんす{{r|商州刺史|しやうしうしゝ}}の家、何事ぞ春風ゆる
しえざる。鶯に和して吹たる數枝の花と作りたり。此詩誠に{{r|哀|あはれ}}なり。二本の{{r|桃杏籬|たうきやうまがき}}にうつろひし、や
{{仮題|頁=325}}
うじう{{r|刺史|しゝ}}が家のかざりなるを、何故し春風は情なく爲の飛來る花の枝を吹き折るぞと{{r|歎|なげ}}きしも、品
川の里人風をうらむにあひおなじ。やさしく有りけりといへり。
{{仮題|投錨=仙榮碁すきの事|見出=小|節=k-6-6|副題=|書名=慶長見聞集/巻之六|錨}}
聞きしは昔、{{r|園碁|ゐご}}の道は{{r|堯舜|げうしゆん}}の時分より有りとかや。我朝には{{r|吉備|きび}}大臣{{r|遣唐使|けんたうし}}の比まであらずとしら
れたり。されば碁の{{r|上手|じやうず}}は人の石の善惡を分別して、わが利を得給へり。然ば基を能くうつ人は{{r|萬|よろづ}}
{{r|損益|そんえき}}をしり、物每に案ふかゝるべしと思ふ處に、{{r|下手|へた}}にかしこき人有り。{{r|上手|じやうず}}に愚人有り。むかしわれ
知人なりし眞野仙樂齋は、關東にて碁の上手といはれしが、よの事はかたくなにゆくりなき人にて候
ひし。又伊豆國下田と云在所に、山田と云者︀あり。此者︀萬にたらざりけるゆゑ、皆人ばか山田と名を
よべば、なにぞとこたへて腹立る事をしらず。され共基をばよくうちたり。先年{{r|北條氏直公|ほうでうゝぢなほこう}}存世の時
分、其ばか山田所用有りてや、折々小田原へ來り、{{r|舟方村|ふなかたむら}}に宿有りしに、其比小田原に武與左衞門、須衞
木、齋藤などといひて基よく打者︀共あり。ばか山田にたがひせんの碁、いづれも{{r|眞野|まの}}には三つ四つの
碁也。これらの人やれ下田のいくぢなしのばか山田の、舟かた村へ來り居ると云ぞ、急ぎつれてこよ、
くまじきと云とも頭をもたげさすな、首に繩を付て引てこよとてつれよせ、集て打けれども、終に碁に
は打負けずと語れば、人聞きて孔子のたまはく、狂にして直ならず、伺にして{{r|愿|げん}}ならず、悾々として
信ならず、吾是を知らずと云々。此三つは惡くとも又とりえ有る所あらば、せめての事なり。若さも
なくば何のやうにもたゝぬ{{r|捨者︀|すてもの}}、孔子も如何共すべきやうなしと云々。此山田は、碁を打一道のとり
えあり。笑ふべからずといへり。{{r|彼馬鹿|かのばか}}山田今江戶へ來り、石町の六郞右衞門が處に有りて入道し、
{{r|仙榮|せんえい}}と名付けたり。今の上手には二つの碁なり。此者︀碁ずきにてあひてをきらはず夜晝わかで打ちけ
り。或時{{r|仙榮|せんえい}}碁打所へ、兄の六郞左衞門病死、唯今成るべし、急來れとつぐる。仙榮聞きて、此碁打は
たさずして兄の死めにいかであはんやといふ間に、死たりとわらへば、人聞きて物にすき勝負をあらそ
ふには{{r|賢愚|けんぐ}}によらず、むかしもさる事あり。嗣宗と云人は、七賢の內の{{r|隨一|ずゐいち}}、もとはばくえきをこのみ
いぬるをも忘れ食をもわすれ、終夜{{r|脂燭|しゝよく}}を盡し、ばくえきす。此人父死すとつげ來る。相手さてはや
めんといふ。嗣宗大事の勝負なり。たゞはたさんとて親の{{r|死目|しにめ}}をしらず。かゝる徒なる人も氣を轉じ
かへ、後は賢人と名をよばれ、金句を云おき、人の爲に成り給ひぬ。仙榮も後は如何なる者︀になり、如
何樣なる金言をいひのこさんもしらずといふ。或時仙榮鼻紙を十帖{{r|慈悲|じひ}}なる人より得たりとて持てあ
るき人に見せ、鼻紙かけに碁を打つべしといふ。我も人も是がをかしさによび入れ、人集つて四つ五つ
せいもくおき、鼻紙がけにうたんとて、手を見、石をつきよせ集つて{{r|助言|じよごん}}をいひ、ともかくもして打勝
つて、ばか仙榮を笑はんとせしかども、碁には{{r|賢|かしこ}}くして却て紙をとられ、こなたがばかに成りし事の
無念さよといへば、仙榮聞きて、いや方々は勝つべきと思ふ故にまくる。我はまけじと用心する故に勝
つ。おの{{く}}の寶をたくはへ給ふも、得失の心持は、わが{{r|碁|ご}}{{r|打|う}}つに定めて{{r|同|おな}}じ事成るべし。得をばおこ
{{仮題|頁=326}}
る事なくしてわざはひの來らん事をつゝしむ。失をよくつゝしめば必得來るべしといふ。せいは道によ
て賢とかや。{{r|橘中仙|きつちうせん}}と云は、昔橘の木をわりて見れば、中に仙人有り。碁を打つて居たり。其仙人は
{{r|商山|しやうざん}}の四{{r|皓|かう}}にてぞありけるとなん。花橘のうちかをるかげと云前句に、仙人や碁に生死を忘るらんと
宗砌付けられたり。碁には仙人も愚人も他念を忘るゝ事變らずと知られたり。されども或文に、{{r|圍碁|ゐご}}し
ゆごろく好みて明し暮す人は、四十五{{r|逆|ぎやく}}にも勝れる惡事と書きたれば、此者︀の{{r|罪業鐵札|ざいごふてつさつ}}にも付所やな
からん。そのうへ仙榮鼻紙がけを好み欲心に著︀する事、ばくえきは佛ふかくいましめ給へり。地獄の
{{r|栖|すみか}}をまねく者︀也といへば、仙榮聞きてわれ明暮碁にすく。{{r|是觀念也|これくわんねんなり}}。はながみを見せねば、碁相手な
し。石の上にも世をぞいとへると云前句に、{{r|亂碁|らんご}}に我生死のあるを見てと、{{r|權大僧︀都︀|こんだいそうづ}}心敬付る。然者︀
人の石死する時、欲心に亡ぶる事をあはれみかなしむ。我石死する時みやうじう{{r|當來|たうらい}}を悅び、無常を
觀ずるといふ。愚老此{{r|是非|ぜひ}}{{r|分明|ぶんみやう}}ならず。或時{{r|禪師|ぜんじ}}に此義を尋ねければ、師答て仙榮が觀念{{r|殊勝|しゆしよう}}なり。昔
{{r|達摩|だるま}}{{r|天竺|てんぢく}}にて修行の時、無智の僧︀二人有り。彼僧︀碁をうつより外はなし。見る人是をにくみ聞者︀かれ
をそしる。{{r|達摩|だるま}}此事をしづかにうかゞひ給ふ時、二人の僧︀答て云、{{r|黑死|くろし}}する時は黑ぼんなうのうする
事を悅び、{{r|白死|しろし}}する時はびやく{{r|煩惱|ほんなう}}のうする事を悲しみて、無常ぼだいを觀ずる也と申しけるが、みや
うじうの時{{r|紫雲|しうん}}たな引き、{{r|聖衆來迎|しやうしゆらいかう}}有て{{r|往生|わいじやう}}のそくわいをとげたり。{{r|觀念|くわんねん}}をもて往生する事うたがひ
なし。仙榮が返答有がたし。昔しんの{{r|王質|わうしつ}}といふ者︀薪をきりに山に入りけるに、仙人碁をかこみて居
たる所に行きぬ。しばらく斧をひかへて是をみるに、仙人なつめのごとくなる物を王質にあたへぬ。是
をくひけり。さて日暮れ薪きらんと思ひ、斧をもたげければ、え{{r|朽|く}}ちたゞれぬ。{{r|恠|あや}}しみて家に歸りて
見れば面影もなくあれはてぬ。知人一人もなし。不思議に思ひて人にとへば、われ七世のむかし王質
といふ者︀有りて、山に入りて歸らずと語りけり。七世の孫にてぞ有りけるとなん。古今集に、故鄕はみ
しこともあらず斧のえの朽ちし所ぞ戀しかりけるとよめり。碁に他念をわするゝ事、古今ことならず。
{{仮題|投錨=當世人の工み益なき事|見出=小|節=k-6-7|副題=|書名=慶長見聞集/巻之六|錨}}
見しは今、江戶町に{{r|大谷隼人|おほたにはいと}}と云者︀有り。此人世に珍らしき事をたくみ出して、人にほめられん事を
のみいみじく思へり。或時うすきねを川邊へ持出て水車を作り米うつ事をせしに、諸︀人米を持寄て白
米にうたせつるが、えきなきにや重て人是をまなばず。又或時はせんたう風呂をたて、衣類︀をばかき
に繩を付、天井へ引上げておき、こふろの內に火をあかし、湯をも內にてつかふ事をせしかども、是をも
人{{r|學|まな}}ばず。扨又すゐふろと云物を我たくみ出したるといひて人に見する。是には德有りとて皆人每に
まなび、今家々に見えたり。是{{r|計|ばかり}}は隼人が工み{{r|奇特|きとく}}なり。此すゐふろ上がたには有るべからず。いで
是をこしらへ船につみ、關西へ持行き、{{r|京堺邊|きやうさかひへん}}にて賣るべしと、俄に用意す。老人見て、いや{{く}}
すゐ風呂と云物はむかしより上方に有事なれども東國になし。是を隼人みるか聞くかして、江戶にてこ
しらへはじめたり。{{r|後漢︀書|かんじよ}}{{r|朱浮|しゆふ}}が傳にれうとうにゐの子あり。子をうめり。白頭ことなりとして是を
{{仮題|頁=327}}
{{r|獻|けん}}ず。行きて河東に{{r|至|いた}}つてたんしを見れば皆白し。恥ぢていだいて歸る。かるがゆゑにみづからよし
とほこるを{{r|遼東|れうとう}}の{{r|豕|ゐのこ}}といへり。其方かみ方へ持行き、京堺家每に有るすゐ風呂見るならば、恥ぢて江
戶へ持歸るべし。萬珍らしき事をば、當世やうとてかしこき人の今工み出せるやうに思へり。それも
皆{{r|智惠|ちゑ}}有る昔人のたくみなれど、はじめある物はかならずをはり有る習ひ、或時はとなへうしなひ、或
時は其跡中絕せしを、又あらためてまなべり。一{{r|得|とく}}をあいして餘の失を忘れ、一失をきらひて餘の得を
忘るゝは人の常の心なり。故に智者︀は千度おもんぱかつてかならず一失あり、愚者︀は千度おもんぱか
つてかならず一得有り。古人はあらためて{{r|益|えき}}なき事をば、あらためぬをよしとすとこそ申されし。此
心論語にも見えたり。萬珍敷事をもとめ異樣を好むは淺才の人かならず有る事なり。ある書にわが惡
を云ふ者︀はわが師なり。わがよきをいふ者︀はわが賊なりと記せり。子路は人の吿るに過をもつてする
{{r|則|ときんば}}悅ぶと申されし。わづかの德をほむるにより、まんしんをおこす。ほむる下にかならずそしり有る
べし。其上{{r|末世|まつせ}}の人下智下劣にして{{r|奇特|きとく}}なる工みなりがたし。物每に{{r|興|けう}}あらせんとする事はあいなき
ものなり。興は自然に出來るが面白し。たゞつひえもなくて物がらのよきが能きなり。扨又今珍らし
き事樣々あれども益なしとて、やがて捨つる、それこそ誠にかしこからぬ當世人の{{r|工|たく}}み成るべし。
{{仮題|投錨=江戶町の水道の事|見出=小|節=k-6-8|副題=|書名=慶長見聞集/巻之六|錨}}
見しは昔、{{r|江戶町|えどまち}}の{{r|跡|あと}}は今大名町に、今の江戶町は十二年以前まで{{r|大海︀原|おほうなばら}}なりしを、當君の{{r|御威勢|ごゐせい}}に
て南海︀をうめ{{r|陸地|くがぢ}}となし町を立て給ふ。然るに町ゆたかにさかゆるといへども、井の水へ鹽さし入り、
萬民是をなげく。君聞召し、民をあはれみ給ひ、{{r|神︀田明神︀|かんだみやうじん}}{{r|山岸|やまぎし}}の水を北東の町へながし、{{r|山王山本|さんわうやまもと}}の
流を西南の町へながし、此二水を江戶町へあまねくあたへ給ふ。此水をあぢはふるに、たゞ、{{r|是藥|これくすり}}の
いづみなれや、五{{r|味|み}}百{{r|味|み}}を{{r|具足|ぐそく}}せり。色にそみてよし、身にふれてよし、飯︀をかしいでよし、酒茶に
よし。それ{{r|世間|せけん}}の水は必大海︀に入る。一切の善は必{{r|法性|ほつしやう}}に歸すと云々。此水大海︀へいらずして悉く人
中に流入る。元來此水は{{r|明神︀山王|みやうじんさんわう}}の{{r|御方便|ごほうべん}}にて、氏人をあはれみわき出し給ふといへども、人是をしら
ず。其上此流の中間に{{r|惡水|あくすゐ}}有りて、流をけがすにより、徒に水{{r|朽|く}}ちぬ。然るに今相がたき君の御めぐ
みにより、中間の{{r|濁水|だくすゐ}}をのぞき去つて、{{r|淸水|せいすゐ}}を萬人に{{r|與|あた}}へ給ふ。古語に、せんきうの水淸けれども山
がらす流をけがすと云々。せんきうより流出づる河は、仙人集つて{{r|仙藥|せんやく}}をあらひすゝぐ故に、河流を
{{r|汲|く}}む者︀迄長命なり。所に其川の中間にかけ山の鳥、其流をあぶる時水却つて毒とへんずといへり。
{{r|新續古今|しんしよくこきん}}に、君をこそ神︀もあはれと{{r|石淸水|いはしみづ}}外より出でぬ流と{{r|思|おも}}へばと詠ぜり。誠に流を汲んで水上を知
るといへる、古人の言葉思ひあたれり。其上日本國の人あまねく此水をあぢはへり。神︀と君{{r|慈悲|じひ}}{{r|平等|ひゞやうどう}}
の御心より流れ出づる{{r|淸水|しみづ}}、誰かかつがう{{r|信敬|しんきやう}}せざらん。傳へ聞く、いにしへ{{r|後漢︀|ごかん}}の{{r|武師將軍|ぶしゝやうぐん}}は城中
に水盡き、かつにせめられける時、刀を岩石にさしゝかば、たちまち泉わき出で、人民命をつぎたり
しに、江戶の流ことならずや。扨又昔、藥の泉出來たるためし有り。{{r|雄略天皇|ゆうりやくてんわう}}の{{r|御宇|ぎよう}}に、美濃國{{r|本巢|もとす}}
{{仮題|頁=328}}
の{{r|郡|こほり}}にふしぎなる泉わき出づる。老いたる者︀此水をのみぬれば。老を忘れ、わかきにかへる心いさぎよ
く、夜のね覺もなく老をやしなふゆゑ、{{r|養老|やうらう}}の水と名付けたり。いはんやわかき身に藥と成つて命長
くさかえ、萬民樂にあへり。今天下太平目出度{{r|御時代|ごじだい}}なれば、{{r|仙家|せんか}}の水の流を汲み、皆人一{{r|舌|ぜつ}}の上に
{{r|萬德|まんとく}}の{{r|藥味|やくみ}}をなめ、{{r|壽命長遠|じゆみやうちやうゑん}}ならん事を悅びあへり。
{{仮題|投錨=江戶町境論の事|見出=小|節=k-6-9|副題=|書名=慶長見聞集/巻之六|錨}}
見しは今、世間の知人あまた有りといふ共、{{r|親|した}}しかるべき{{r|隣近所|となりきんじよ}}の人なり。{{r|不慮|ふりよ}}なるいひごと惡事出
來の時は、{{r|奉行所|ぶぎやうしよ}}へ召され、左右のとなりの者︀は知つたるかと御尋ね有つて、隣の者︀のいひ口を{{r|正路|しやうろ}}
となし給ふ。下郞のたとへに、遠くの親子より近くの他人といへるは{{r|寔|まこと}}に{{r|實義|じつぎ}}なり。めをといさかひ
も女はかならず隣をたよりとする習ひ有り。然らば江戶町わりは十一年{{r|已前|いぜん}}の事なり。其比賣買に金
一兩二兩の屋敷は、今百兩二百兩五百兩のあたひする、町さか行くまゝ、皆人屋敷を高くつきあげ家を
あたらしく作りなほす。昔の境ぐひを尋ぬるに、ほそきくひを立置きつれば、皆くさりて其印一つも
なし。然る間{{r|寸地分地|すんちぶんち}}の境をあらそひ、人每に云事して近き隣も心遠くへだたりぬ。されば通町小西
三右衞門、宮本市兵衞と云人、{{r|屋敷境|やしきさかひ}}をあらそふ處に、{{r|町衆出合|まちしういであひ}}兩屋敷の{{r|本間|ほんけん}}を打つて見れば、三右
衞門屋敷一寸たらず。市兵衞屋敷柱の內に一寸のあまりあり。町衆云ひけるは、{{r|過分|くわぶん}}の出入かと思ひ
つるに、たゞ一寸のちがひなり。市兵衞前々よりあやまり來り家を作る事なれば、三右衞門{{r|堪忍|かんにん}}し給
へ。わづかの事にいさかひ、{{r|末代|まつだい}}隣と中惡くせんは愚なるべしと云ふ。三右衞門聞きて町衆の{{r|御異見|ごいけん}}
さる事なれども、われ{{r|此面五間|このおもてごけん}}うらへ町なみの屋敷を各々御存{{r|知|こと}}の如く、{{r|當年|たうねん}}{{r|過分|くわぶん}}の金にて買ひとり
今{{r|新屋敷|しんやきし}}を作りなほす。此屋敷は孫、ひこ、やしはごの末々までもつたはる五間の屋敷に、一寸のき
ずつけん事思ひもよらず。かしこき人はあたふる物をさへことによりてとらず。むらうたうと云は、糸
の一{{r|筋|すぢ}}針一本も主ある物をば取るべからずと佛もいましめ給ひたり。いはんや此一寸の地は金にて買
ひとりたる人の地をほしがるは{{r|非道也|ひだうなり}}。曲れる人の隣にすぐなるそれがしむつびがたし。しきりに此
一寸の地をわれに{{r|堪忍|かんにん}}せよとは、各は欲を{{r|離|はな}}れたる人々、誠の{{r|生佛|いきぼとけ}}にてかくのたまふか、此三{{r|界中|がいぢう}}に
欲をはなれたる人間一人も有るべからず。其上天よりあたふる寶をとらざれば、却つてわざはひをう
くといへる本文ありと云て、一寸の地を取りかへしたり。皆人{{r|沙汰|さた}}しけるは、元より一寸は三右衞門
地也といへども、わづかの寸地をあらそひ取りかへしたるは人欲ふかきによつて也。{{r|運命論|うんめいろん}}に云、
{{r|張良|ちやうりやう}}、{{r|黃石|くわうせき}}の符をうけて三略の說をしゆしてもつてぐんゆうにあそぶ。其言や水をもつて石に投ぐるが
ごとし。是を受ことなしと云々。誠に三右衞門に異見、水を石になげ入るがごとし。說文に{{r|度量衡|どりやうかう}}粟
をもつて是を生ず。十粟一分となし、十分を一寸となし、十つ寸を一尺とすと云々。此寸地を積りぬ
れば、粟百粒のあらそひわづかの事なりといひてあさらひ笑ふ。老人聞きて申されけるは、いや{{く}}一
寸のわが地を三右衞門取返したること本意に叶ひたれ。古人の言葉に、惡人のほろぶるをいたみおも
{{仮題|頁=329}}
ふは、鼠の死ぬるをかなしむが如しといへり。然るときんば、道理なくして人の物とるをよしと思ふ
は、鼠の物くらふをあいするがごとし、是本意にあらず。道理とひが事をならべんに、誰か道理につ
かざらん。その上よき者︀にはよみんぜられ、よからざる者︀にはにくみんぜらる。是聖人のをしへ也。扨
又天理に私の心なし。一{{r|毫|がう}}の{{r|人欲|にんよく}}私なしといひて、無理に人の物をほしがるはひが事なり。夫聖人の
道は見るべきをば見てみまじき事をば見ず。聞くべき事をば聞きて聞くまじき事をば聞かず。いふべ
き事をばいひていふまじき事をばいはず。とるまじき事をばとらず、取るべきことをばとる。一つも
道理にたがふ事なし。或人道を行くに金を見付けながら、是をとらず。{{r|供人|ともびと}}見て、何とて是をば取給
はぬぞといへば、天しり地しり汝しりわれしる。主にしられぬ物をばいかで取るべきとて終に取らず。
{{r|四知|しち}}をはづるとは是をいふ。人はたゞ心のうちにある五{{r|常|じやう}}七{{r|情|じやう}}をよくをさめて、たゞしくせんには{{r|如|しか}}
じ。{{r|先哲|せんてつ}}もあやまつてあらためざるをとがといひ、あやまつてよくあらたむるを善の大なるといへり。
然る間、君子はふたゝびあやまちせずとなり。そのうへ{{r|綸言|りんげん}}再びしがたしといへども、あやまりては
則あらたむるにはゞかる事なしとあり。ことわるべきにあたつてことわらざれば、かへつて亂をまね
く、屋敷の境には、ふときくひを打おくべき事なりといへり。
{{仮題|投錨=江戶にて金の判あらたまる事|見出=小|節=k-6-10|副題=|書名=慶長見聞集/巻之六|錨}}
見しは昔、江戶町にて金に判する人、四{{r|條|でう}}、{{r|佐野|さの}}、{{r|松田|まつだ}}とて此等三人也。{{r|砂金|さきん}}を吹きまろめ、一兩、一
分、一朱、朱中などと、目をも判をも紙に書付取渡する事、天正十八{{r|寅|とら}}の年より未迄六年用ひ來る。{{r|此判|このはん}}
{{r|自由|じゆう}}にあらずとて、{{r|後藤庄三郞|とうしやうざぶらう}}と云ふ人、京よりくだり、おなじひつじの年より金のくらゐを{{r|定|さだ}}め、
一{{r|兩判|りやうばん}}を作り出し、金の上に{{r|打判|うちはん}}有つて是を用ふる。又近年は一{{r|分判|ぶはん}}出來て、世上にあまねく取あつ
かへり。されば愚老若き比は、一兩二兩道具のはづし金を見ても、まれ事のやうに思ひ、五枚三枚持
ちたる人をば、世にもなき長者︀{{r|有德者︀|うとくしや}}などといひしが、今はいかやうなる{{r|民百姓|たみひやくしやう}}にいたる迄も金
を五兩十兩持ち、扨又ぶげんしやといはるゝ{{r|町人連|ちやうにんれん}}は五百兩六百兩もてり。此金家康公御時代より諸︀
國に金山出來たり。又萬民金持事は、{{r|秀忠公|ひでたゞこう}}の御時より取あつかへり。そのかみ金は奧州より出來は
じまりぬ。然るに{{r|出羽︀|では}}{{r|陸奧|むつ}}{{r|押領使|あふりやうし}}{{r|鎭守府將軍|ちんじゆふしやうぐん}}{{r|藤原朝臣基衡|ふぢはらのあそんもとひら}}は、世にこえたる福︀德の人なり。奧州{{r|平泉|ひらいづみ}}に
廣大なる{{r|堂塔|だうたふ}}を{{r|建立|こんりふ}}し、たくはへ置きたる{{r|珍寶|ちんぽう}}を殘さず、{{r|皆|みな}}{{r|佛師運慶|ぶつしうんけい}}に取らする。{{r|鷲|わし}}の{{r|羽︀|は}}、あだちぎぬ、
{{r|狹布|けふ}}のほそぬの、{{r|信夫|しのぶ}}もぢずり、{{r|白布|しらぬの}}、ぬかべの{{r|駿馬|しゆんめ}}、七{{r|間|けん}}まなか有る{{r|水豹|あざらし}}の皮六十枚、すゞしのき
ぬ一品ばかりを舟六艘につみて渡す。其{{r|注文|ちうもん}}第一に{{r|砂金|さきん}}百兩と記せり。其頃迄は金まれなりと知られ
たり。扨又賴朝公天下を治め給ふによつて、{{r|基衡|もとひら}}が{{r|子息|しそく}}{{r|秀衡入道|ひでひらひふだう}}{{r|出羽︀奧州|ではむつ}}の{{r|年貢|ねんぐ}}と號し、金四百五十
兩鎌倉殿へ奉る。頼朝公御覽有て{{r|希有|けう}}に思召し喜悅なゝめならず。此內を急ぎ{{r|御門|みかど}}へ{{r|進|しん}}ずべき由{{r|仰|おほせ}}也。
建久元年十一月十三日賴朝公{{r|上洛|しやうらく}}のみぎり、{{r|三井寺|みゐでら}}平家のために一宇も殘らず{{r|灰燼|くわいじん}}となる。{{r|靑龍院|せいりようゐん}}は
八幡殿のことに御きゝやうし給ひ、{{r|御髮|おんはつ}}を{{r|埋|うづ}}まるゝと云々。是によつて此寺の{{r|修理料|しゆりれう}}として十二月八日
{{仮題|頁=330}}
賴朝公{{r|御劍|ぎよけん}}一{{r|腰|こし}}、{{r|砂金|さきん}}十兩ほどこさしめ給ふ事を記せり、ていれば建久四年みづのとの丑十月十一日、
鎌倉中の{{r|法度|はつと}}を定めつる文に、○炭一駄代錢百文○薪一駄卅束、但し三ばづけ代百文○かやぎ一駄八束
代五十文○わら一駄八束代五十文〇ぬか一駄代五十文、くだんの{{r|雜物|ざふもつ}}近年かうぢきにして法に過ぎた
り、賣人に下知すべき者︀也と云々。是は天正十九當年迄三百六十二年以前の事也。今の賣買にたくらぶ
れば、錢のあたひは少もかはらず。昔金一兩の代に米錢のさた古き文をも見ず。天正年中の{{r|比|ころ}}金一兩の
代に米は四石、{{r|永樂|えいらく}}は一貫、但しびた四貫にあたる。三十餘年以前の事也。其比金一兩見るは、今五
百兩千兩見るよりもまれなり。然れば、今は國治り民{{r|安穩|あんをん}}の御時代、皆人金澤山に取あつかふといへ
ども、あたひは古今同じ事にてめでたき寶なり。夫れこがねの{{r|正體|しやうたい}}は、打つても碎きても、火に入り水に
うもれ、まんごふをふるとても{{r|色性|いろしやう}}かはらず。かるが故に、佛をこんがうふえの{{r|正體|しやうたい}}とはいへり。
{{仮題|投錨=箱根の海︀兩國の中に有る事<sup>付</sup>同號の名所の事|見出=小|節=k-6-11|副題=|書名=慶長見聞集/巻之六|錨}}
見しは今、愚老箱根地を通りけるが、{{r|逆緣|ぎやくえん}}ながら、{{r|泰庶山金剛王院|たいしよざんこんがうわうゐん}}へ{{r|參詣|さんけい}}せしに、聞きしにこえてた
つとく有りがたき{{r|靈地|れいち}}也。うしろには高山{{r|峨峨|がゞ}}とつらなり、{{r|眞如|しんによ}}の{{r|月影|つきかげ}}をやどす。前には{{r|生死|しやうじ}}の海︀ま
んまんとして、波ぼんなうのあかをすゝぐかと覺えたり。{{r|本尊|ほんぞん}}は{{r|文珠師|もんじゆし}}{{r|利𦬇|りぼさつ}}にておはします。{{r|衆生|しゆじやう}}をけ
どし給へば、うゐの都︀と名付、關東第一の{{r|靈山|れいざん}}なり。文應元年八月廿八日鎌倉の將軍箱根において御
ほうへいし給ふ。山の{{r|衆徒|しゆと}}ら湖の上に舟をうかべ、延年すゝいはつ廻雪袖をひるがへし、{{r|歌舞|かぶ}}の{{r|伎樂|ぎがく}}を
盡す。{{r|御遊覽|ごいうらん}}の事{{r|古記|こき}}に見えたるも思ひ出侍りぬ。{{r|實朝公|さねともこう}}の歌に、玉くしげ箱根の海︀に{{仮題|編注=2|けえ|本ノマヽ}}ありや二國
かけて中にたゆたふと詠ぜり。此歌の心をうかゞふ、海︀より東は相模、西は伊豆の國なるべし。然るに、
名所集には、此水海︀を相模の內に入れられたり、此說{{r|覺束|おぼつか}}なし。扨又宋朝のけいれんが詩に、ぞうし
ようぜつにうする富士がん根にわだかまつて、直に三州の間におすと作れり。此兩山二國三國にひろ
ごりならびて高き山也といへば、里の翁聞きて、富士は三國のうちにありといへども、歌には駿河の富
士とよみ、箱根の水海︀も二國の中にあれども、相模の國に詠ずる事、小を捨て大に付くが故の名也とい
へり。又{{r|續後撰|しよくごせん}}に、箱根路を我越えくれば伊豆の海︀や{{r|沖|おき}}の小島に波のよるみゆとよめり。此歌の心
{{r|相違|さうゐ}}せり。伊豆の海︀箱根路よりは見えがたし。{{r|沖小島|おきのこじま}}と詠みけれども、伊豆の海︀北の海︀邊に島は一つも
なし。{{r|足柄箱根路|あしがらはこねぢ}}をこえ山中を下り、三島を行き過ぎ、駿河の國{{r|浮島|うきしま}}が{{r|原|はら}}にて伊豆の海︀は見ゆる。此歌
人は箱根路をも通らずして聞き傳へてよみけるか、又は歌の五文字を書きちがへたるにや。伊豆の國南
の海︀には大島も小島もありといへば、かたへなる人聞きて、愚かなる人の{{r|歌物語|うたものがたり}}こそほいなけれ。此歌
は{{r|鎌倉右大臣|かまくらのうだいじん}}よみ給ふ。玉葉集にも{{r|載|のせ}}られたる{{r|名歌|めいか}}、{{r|短才|たんさい}}にしてある深き心をはかりしらんや。月影
に海︀の千里の詠してと、古歌によめるは千里の外迄も見ゆる由、是和歌の{{r|風流|ふうりう}}なり。其上、{{r|沖小島|おきのこじま}}、
{{r|浮島|うきしま}}、{{r|足柄|あしがら}}、{{r|三島|みしま}}、{{r|大島|おほしま}}は國替へておなじ名の名所あれば、歌も又しかなり。{{r|千載集|せんざいしふ}}に、さつまがた
おきの小島にわれありとおやにはつげよ八重の{{r|潮風|しほかぜ}}とよめるは{{r|薩州|さつしう}}、{{r|隱岐|おき}}の小島の濱びさしと詠ずる
{{仮題|頁=331}}
は隱州、さて又丹後豐前にもよみたり。{{r|新勅撰|しんちよくせん}}に、{{r|足柄|あしがら}}の關路越え行くしのゝめに一村かすむ浮島が
原と詠ぜり。足柄は相模、浮島は駿河なり。萬葉にとぶさたてあしがら山に舟木きる木にきりかけて
あたら舟木を。是は{{r|筑前觀音寺|ちくぜんくわんおんじ}}{{r|沙彌滿誓|さみまんせい}}よめり。續千載集旅の歌に、{{r|陸奧|みちのく}}はよを浮島も有りといふせ
きこゆるぎのいそがざらなんと、小町詠ぜり。浮島は奧州、こゆるぎのいそは{{r|相模|さがみ}}なり。あはれなる
三島の神︀の{{r|宮柱|みやばしら}}{{r|只|たゞ}}爰にしもめぐり來にけり。{{r|安嘉門院|あんかもんゐん}}伊豆の三島を詠めり。{{r|新古今|しんこきん}}に、三島江や霜も
まだひぬ{{r|蘆|し}}の葉に{{r|角|つの}}ぐむ{{r|程|ほど}}の春風ぞふく。是は攝津國なり。{{r|續後撰集|しよくごせんしふ}}に、三島の浦のうつせ貝とよみし
國、いまだかんがへずと歌集にも記せり。{{r|新拾遺|しんしふゐ}}に、三島野やかた尾の鷹とよめるは{{r|越中|えつちう}}なり。雪消え
て大島しろき朝なぎに{{r|篠|しの}}の葉うかぶ沖の{{r|釣舟|つりふね}}と詠ぜしは伊豆、新勅撰に、都︀にもいそぐかひなく大島の
なくのかげぢは鹽みちにけり。是は備前、新千載に、大島岑に家居せましをとよみしは大和、つくし
ぢやかたの大島と詠ぜしは周防、かくのごとく國かはつておなじ名所多ければ、歌も分明しがたし。
すべて古歌をそしりあざむく事、北野の{{r|神︀慮|しんりよ}}もおそろし、ゆめ{{く}}{{r|難︀|なん}}ずる事なかれといへり。
{{仮題|ここまで=慶長見聞集/巻之六}}
{{仮題|ここから=慶長見聞集/巻之七}}
{{仮題|頁=331}}
{{仮題|投錨=卷之七|見出=中|節=k-7|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
{{仮題|投錨=初雪を常に詠る事<sup>付</sup>役行者︀の事|見出=小|節=k-7-1|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
見しは今、江戶の{{r|境地|けいぢ}}山海︀の{{r|眺望比類︀|てうばうひるゐ}}なかりけり。中にも、見る度に珍しければ富士のたけいつも初
雪の心地こそすれと口すさび、僧︀士の古風思ひ出で侍りぬ。夫世に人の{{r|賞翫|しやうくわん}}し給ひける、色品々の{{r|風流|ふうりう}}
{{r|限|かぎ}}りなしといへども、中にも雪月花こそわきてことなる{{r|詠|ながめ}}なれ。され共雪はきえ月はかけ花はうつろ
ひ常ならずして人の心苦しめり。然共、富士の雪は時をしらずと思ひしに、古歌に、富士の根にふり
おく雪は{{r|六月|みなづき}}の{{r|十五|もち}}日にけぬれば其夜ふりけりとよみたれば、さもやと思ひ詠るに、十五日にも消る
間なし。{{r|新千載集|しんせんざいしふ}}に、けぬが上に珍しげなく積るらし富士の高根に今朝の初雪と詠ぜり。{{r|昔|むかし}}{{r|氷室|ひむろ}}の雪
を{{r|御門|みかど}}へ御調物に奉る。是を{{r|主水|もんど}}受取る。富士、丹後の{{r|頂|いただき}}山、山城の松が崎より上る。古歌に、{{r|氷|こほり}}ゐて
{{r|千年|ちとせ}}の夏も消えせしな松が崎なる{{r|氷室|ひむろ}}と思へばと、詠ぜり。扨又建長の比ほひ鎌倉において{{r|六月炎暑︀|みなつきえんしよ}}
の節︀に當て富士の雪を召しよせ、{{r|珍物|ちんぶつ}}にそなへ給ひしが、民の煩ひとて後やめられたり。鎌倉より富
士見えぬる故也。されば賴朝公の歌{{r|勅撰|ちよくせん}}に多く見えたる中に、{{r|後撰集|ごせんしふ}}に、富士の{{r|根|ね}}をよそにぞ聞きし
今はわが思ひにもゆる烟なりけり。{{r|新古今|しんこきん}}旅の歌に、道すがら富士の烟も分ざりき{{r|晴︀|はる}}る{{r|間|ま}}もなき空の
けしきに。此二首は、前右大臣賴朝詠じ給ひぬ。今江戶に住む人には家を南向に作り、西へ窓をあけ、
{{仮題|頁=332}}
高嶺の雪を居ながらに{{r|明暮|あけくれ}}絕えぬ詠めせり。晴︀れたる雪は夏の富士の{{r|根|ね}}と云前句に、武藏野のみどり
の末や天の原と、{{r|智溫法師|ちをんほうし}}給ひぬ。{{r|續|しよく}}千{{r|載集|ざいしふ}}に、言の葉もおよばぬ富士の高根かな都︀の人にいかゞ語
らんとよめり。三{{r|國無雙|ごくぶさう}}の{{r|名山|めいざん}}都︀人{{r|東|あづま}}に下り、時しらぬ山の雪を見て、目をおどろかし給へるもこと
わり也。さんぬる年八條殿江戶へ御{{r|下向|げかう}}、富士を見給ひて、から人の歌にありとも見せばやなまこと
の富士の山のすがたをとよみ給ふ。{{r|玉葉集|ぎよくえふしふ}}に、目にかけていくかになりぬ{{r|東路|あづまぢ}}や三國をさかふ富士の
{{r|柴山|しばやま}}と詠ぜり。此山三州のあひだにあり。扨又萬里が詩に、皆雪にして雲なし。天それみね、夏寒う
して{{r|常住|じやうぢう}}冬をしらずと作れり。此山は{{r|人王|にんわう}}七代{{r|孝靈天皇|かうれいてんわう}}の御宇に、一夜に{{r|湧出|ゆしゆつ}}せしとなり。又或說に
此富士の山は人王二十二代{{r|雄略天皇|ゆうりやくてんわう}}の御時一夜に出來たり。{{r|高|たかさ}}一{{r|由旬也|ゆじゆんなり}}。雲霞にかくれ見付たる人な
かりしに、人王四十二代{{r|文武|もんむ}}天皇の{{r|御宇|ぎよう}}にえんの{{r|行者︀|ぎやうじや}}見付、此山をふみそめ給ひしよりこのかた、皆
人{{r|登|のぼ}}る。中空より下はこんりんざいより出で、中空より上は天よりふりたり。{{r|然間|さるあひだ}}{{r|天地和合|てんちわがう}}の山とい
へり。{{r|文人|ぶんじん}}{{r|歌|か}}人此山をほめて作られし事あげてかぞふべからずといへば、老人聞きて此{{r|役行者︀|えんのぎやうじや}}は{{r|舒明|じよめい}}
{{r|天皇|てんわう}}六年{{r|甲午|かふご}}正月{{r|朔日|ついたち}}たんじやうす、大和國{{r|葛城上郡茆原村|かつらぎかみのこほりうばらむら}}の人、{{r|俗姓|ぞくしやう}}は{{r|賀茂氏|かもうぢ}}也。三歲の時父にお
くれて、七歲迄は母の惠みにて成人す。孝子の志淺からず。童子の名をば小角といふ。五色のうさぎ
にしたがつて{{r|葛城山|かつらぎやま}}のいたゞきに{{r|登|のぼ}}り、{{r|藤衣|ふぢごろも}}に身を隱し、松のみどりに命をつなぎて、{{r|孔雀明王|くじやくみやうわう}}の法
をしゆぎやうする事三十餘年、りうじゆ{{r|𦬇|ぼさつ}}にあひて五字三{{r|密|みつ}}の{{r|法水|ほふすゐ}}を傳へ給へり。{{r|伊駒|いこま}}、{{r|二上嶽|ふたかみだけ}}、
{{r|大嶺|おほみね}}を行きめぐり、{{r|葛城山|かつらぎやま}}の{{r|岩屋|いはや}}に有つて{{r|秘法|ひふ}}を行ひ給ひし時は、{{r|鬼神︀|きじん}}を{{r|使者︀|しゝや}}とし水をくませ、薪をと
らせ、{{r|諸︀越|もろこし}}へも渡りけるにや、{{r|道昭和尙|だうせうをしやう}}勅を請けて法をもとめに唐へ渡りし時、{{r|行者︀|ぎやうじや}}にあひたりとい
へり。葛城一言神︀のざんげんにより伊豆の大島へながされては、海︀の上をあるき富士の{{r|高嶺|たかね}}に通ひ給
へり。昔らかんたち水步のくつをはき、水上を渡りたる事をこそ聞傳へたれ。{{r|行者︀|ぎやうじや}}かゝるふしぎ有る
により、御門聞召し{{r|急|いそぎ}}{{r|勅使|ちよくし}}立て都︀へ{{r|召|めし}}かへされたり。日本において{{r|壽命|じゆみやう}}の人なりといへり。
{{仮題|投錨=夕顏の宿りの事<sup>付</sup>江戶屋形作りの事|見出=小|節=k-7-2|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
見しは昔、{{r|當君|たうくん}}武州江戶へ{{r|御打入|おんうちいり}}は、天正十八寅の初秋なり。其頃までは高きもいやしきも、松の柱、
竹のあみ戶、むぐらの庵、蓬が{{r|宿|やど}}、草ぶきの{{r|小家|こいへ}}がちなる軒のつまに、咲きかゝりたる夕顏の{{r|白|しろ}}き花
のみにて、かやり火のふすぶるもあはれに見えておほかりし。扨又ひかる源氏のいにしへを六十{{r|帖|でふ}}に
委しくあらはせり。よもぎふの卷には、源氏よもぎふの宿へかよひ給ふ事をかけり。源氏の御歌に、
尋ねても我こそとはめ道もなく深き{{r|蓬|よもぎ}}のもとの心をと、よみ給ふ。故に末つむ花をよもぎふの宿といへ
り。狐の{{r|栖|すみか}}と成りて、うとましうふくろふの聲を朝夕耳ならしつゝとかけり。又{{r|夕顏|ゆふがほ}}の卷には、源氏の
思ひ{{r|人|びと}}夕顏の花の咲きたる宿におはしけるにより、夕顏のうへと申す也。をりてこそそれかとも見め
たそがれにほの{{ぐ}}しろき花の夕顏、などと詠めさせ給ひて、五{{r|條夕顏|でうゆふがほ}}の宿へ通ひ給ひし{{r|慈鎭|じちん}}の歌に、
しづのをがけぶりいぶせきかやり火にすゝけぬ物は夕顏の花と、{{r|拾遺風體抄|しふゐふうていせう}}に見えたり。いにしへは、
{{仮題|頁=333}}
いと物あはれなる事ども有しぞかし。扨又中昔の事にや有りけん、有る人{{r|繪書|ゑかき}}を{{r|賴|たの}}み、はんじやうの
{{r|家居|いへゐ}}、又わびしき庵の體を好みければ、望に{{r|任|まか}}せて家をゆゝしうかき、{{r|棟|むね}}に{{r|庭鳥|にはとり}}のあがりたる體を書き、
又草の庵に夕顏のはひかゝり、わびしき{{r|體|てい}}を書きしと也。今江戶町の{{r|家作|やづく}}りを見れば、二階三階のと
ちぶきかはらぶきにて軒高ければ、庭鳥のはねは中々およびなし。むねには{{r|鳶|とび}}、{{r|鷺|さぎ}}、こうなどが巢を
かけてみゆる。扨又諸︀侯大夫の{{r|屋形作|やかたづく}}りを見るに、たゞ小山のならびたるがことし。むね{{r|破風|はふ}}ひかり
かゞやく。其內に龍は雲に乘じて海︀水をまきあげ、くじやくほうわうはつばさをならべて舞さがる。
是をふりさけみんとすれば、{{r|天津光|あまつひかり}}うつろひまばゆくして、其かたちさだかに見えがたし。軒のめぐ
り門のほとりには、虎が風に毛をふるひ、獅子がはかしらする{{r|風情|ふぜい}}、誠に生きてはたらくかと、身のけよ
だち、あたりへよりがたし。かゝる廣大なる御時代にもあひぬる物かな。
{{仮題|投錨=江戶町に金札立おく事|見出=小|節=k-7-3|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
見しは今、江戶町の門々に天下一萬能齋日本無雙者︀扁齋などと異樣なる名を付て、金札に書付、海︀道に
立ておきたり。{{r|有識|いうしき}}の人申されけるは、人にまさらん事を思はゞ、學問をなして其智を人にますべし。
然るときんば善にほこらず、是學問のちから也。此高札を見て思ひ出せる事有り。{{r|鴨|かも}}の{{r|長明|ちやうめい}}が海︀道{{r|路次|ろじ}}
記に、うつの山を越れば{{r|蘿|つた}}かへで茂り昔の跡たえず。彼業平が{{r|修行者︀|すぎやうじや}}に言傳しけんほど、いづくなら
んと思ひやる道のほとりに、札を立てたるを見れば、{{r|無緣|むえん}}の{{r|世捨人|よすてびと}}有るよしを書けり。道より近きあ
たりなれば、ちと入りてみるに、わづかなる{{r|草庵|くさのいほり}}の內にひとりの僧︀有り。{{r|畫像|ぐわざう}}の{{r|阿彌陀|あみだ}}を一ぷく
{{r|懸置|かけお}}き、其外{{r|更|さら}}に見ゆる物なし。{{r|發心|ほつしん}}のはじめを尋ぬれば、{{r|當國|たうごく}}の{{r|者︀也|ものなり}}。さして思ひいたれる心も侍ら
ず。其身堪へたる方なければ、理をくわんずるに心くらく、佛を念ずるに{{r|性物|しやうもの}}うし。{{r|難︀行易行|なんぎやういぎやう}}の二つ
の道ともにかけたりといへども、山中に有つてねぶれるは、里に有つて{{r|務|つと}}めたるにはまさる由、或人の
をしへを聞きしより、此山に庵を結びあまたの年を送る由を答ふ。{{r|許由|きよいう}}が{{r|頴水|えいすゐ}}の月にすみし、おのづ
から一{{r|瓢|べう}}のうへは、{{r|殊更|ことさら}}烟たてるよすがも見えず。{{r|柴|しば}}折りくぶるなぐさみ迄も思ひ絕えたるさま也。
身を{{r|孤山|こざん}}の{{r|嵐|あらし}}の底にやどして、心を{{r|淨城|じやう{{く}}}}の雲の外にすませる、いはねどしるく見えて、{{r|中々|なか{{く}}}}あはれに
心深しと書きて、世をいとふ心のおくやのこらましかゝる{{r|山邊|やまべ}}の{{r|住居|すまひ}}ならではと詠ぜり。かくのごと
きの扎をこそ、聞きても見まくほしく{{r|殊勝|しゆしよう}}に思ひ侍れ。わが{{r|名譽|めいよ}}を金札にあらはし、海︀道に立ておく
事、世のひけんをもはゞからざること云ふに絕えたり。昔{{r|唐國|たうごく}}には{{r|智人高位|ちじんかうゐ}}に至る。されば{{r|城北七里|じやうほくしちり}}
{{r|昇仙橋|しようせんけう}}あり。{{r|馬相如|ばしやうじよ}}と云者︀都︀を出て{{r|學問所|がくもんじよ}}へ行く時、此橋の柱に題して云、{{r|大丈夫駟馬|だいぢやうぶしば}}の車に乘ぜず
ば、二度此橋を過ぎじと云々。心は我{{r|學問|がくもん}}をとげて高位の身と成つて、しばの高車にのぼる身とならず
ば、二度此橋を渡らじとちかつて{{r|橋柱|はしばしら}}に書付て行きけるが、終には思ひのごとくなりけるとなん。
{{r|堀川|ほりかは}}百首の橋のたいの歌に、思ふ事橋のはしらに書き付て、昔の人はくらゐましけりと、{{r|匡房|たゞふさ}}詠めり。古
語に人のおのれをしらざるをうれひざれ、おのれが人をしらざる事をうれひよといへり。{{r|萬|よろづ}}に上手と
{{仮題|頁=334}}
いはれし人は、われと威風をなのらねども、世上にひろく沙汰せり。少智の人は身をほめ他をそしりて
我名をわれとあげんとする、是ひが事なり。しれらんをばしれりとせよ、しらざらんをばしらずとせ
よ、是しれるなりといへり。いづれの道も一道を學びうる事かたし。いはんや{{r|萬能齋|まんのうさい}}と名付くるはひ
が事也。扨又{{r|耆扁|ぎへん}}と名付る醫師は、{{r|耆婆扁鵲|ぎぼへんじやく}}此二名を一名に付けたるに、やきはは{{r|天竺阿闍世王|てんぢくあじやせわう}}の時の
{{r|名醫|めいい}}也。平生ひそかに{{r|藥王樹|やくわうじゆ}}の枝を{{r|持|ぢ}}して、人の五{{r|臟|ざう}}の{{r|病根|びやうこん}}を照し見て是をくづせり。詳に{{r|耆婆經|ぎばきやう}}に見
えたりと云々。扁鵲は周の末の戰國の時の名醫なり。{{r|楊子|やうし}}に、扁鵲ろじんにして、醫、ろに多しと云
云。へんじやくはろこくの人にて{{r|良醫|りやうい}}の名をえたり。{{r|其時節︀|そのじせつ}}世間のくすし皆、{{r|我|われ}}はろの國の生れの者︀
也と、人に信仰せられんとせしと也。すべてまねものをうらんとては、よき人の名をかる。是{{r|淺智|せんち}}のはか
りごと、愚人のあざけりを、古語に{{r|記|しる}}されたり。{{r|傳聞|つたへきく}}、{{r|老子|らうし}}、{{r|孔子|こうし}}、{{r|顏回|がんくわい}}なども、異樣なる名をば付給は
ず。人の名は外よりあらはすの本意なり。我と我名をあらはすはまことしからず。{{r|先哲|せんてつ}}もわれをしら
ずして外をしるといふ事、有るべからずといへり。故に己をしるをものしる人と、古き文にも見えた
り。
{{仮題|投錨=諸︀國に金山有る事|見出=小|節=k-7-4|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
聞しは昔、日本にて黃金見はじめし事は、{{r|人王|にんわう}}三十四代{{r|推古|すゐこ}}天皇{{r|御宇|ぎよう}}十三年乙丑のとし、かうらい國
よりはじめて渡りたり。扨又我朝にて黃金ほり出す事は、人王四十五代{{r|聖武|しやうむ}}天皇{{r|御宇|ぎよう}}、{{r|天平勝寶|てんぴやうしようはう}}元年
己丑年奧州よりはじめて{{r|御門|みかど}}へ奉る。銀は人王四十代{{r|天武|てんむ}}天皇の御宇三年甲戌の年、{{r|對馬國|つしまのくに}}よりはじ
めてさゝぐると、いづれも古記に見えたり。されば大和國に{{r|金御嶽|かねのみたけ}}といふ名所有り。古歌に、我戀のか
ねのみたけの金ならばみろくの世にもあはましものをと詠ぜり。又、しろがねの{{r|目貫|めぬき}}の太刀をさげはき
てならの都︀をねるはたが子ぞとよみしぞかし。かやうの{{r|理|ことわり}}を聞きしに、昔はこがね{{r|銀|しろがね}}まれなりとしら
れたり。{{r|春宵|しゆんせう}}一{{r|刻|こく}}あたひ千金とは{{r|東坡|とうば}}もやさしく譬へられたり。{{r|然處|しかるところ}}に{{r|當君|たうくん}}の御時代には、諸︀國に金
山出來、金銀の{{r|御運上|ごうんじやう}}を{{r|牛車|ぎうしや}}に引きならべ、馬に付けならべ、{{r|每|まい}}日おこたらず。なかんづく{{r|佐渡島|さどがしま}}は
たゞ金銀をもつてつき立てたる寶の山なり。此金銀を一箱に十二貫目入合百箱を五十駄つみの舟につ
み、每年五艘十艘づつ{{r|能|よき}}波風に佐渡島より越後のみなとへ著︀岸す。是を江城へ持運ぶ。おびたゞしき
事昔をたとへてもなし。民百{{r|姓|しやう}}までも金銀をとりあつかふ事有りがたき御時代なり。{{r|金|かね}}の{{r|御|み}}たけの歌
の心なれば、誠に今がみろくの世にやあるらん。佛の世ならずば萬民いかでたのしまん。千{{r|世|よ}}萬{{r|世|よ}}も久
しかれとぞ申しあへり。
{{仮題|投錨=江戶町の道どろふかき事|見出=小|節=k-7-5|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
見しは今、江戶町の道雨少しふりぬれば、どろふかうして往來安からず。去程に{{r|足駄|あしだ}}のはの高きを皆
人このめり。{{r|猩々|しやう{{ぐ}}}}は{{r|酒履|さかぐつ}}を好み、江戶の人は{{r|沼履|ぬまくつ}}を好む。人猩かはれども、用る所は和漢︀{{r|異|ことな}}らず。比
しも春なれや、つばめさいげんなく飛來て、道のぬかりを{{r|運|はこ}}ぶ。されば{{r|靈陵山|れいりようざん}}と云所に、石有り。雨ふれ
{{仮題|頁=335}}
ば其石つばめと成て飛び、晴︀るれば又石となるとかや。歌に、ふれば鳥{{r|降|ふら}}ねば本の石となる雨はつばめ
のなみだなりけりと詠ぜり。扨又見ればつばめの一つれの聲と云前句に、石をうつ{{r|雫|しづく}}もふかくふる雨
にと、{{r|宗尹|そういん}}付け給ひぬ。演雅の詩に、つばめは居所なくしてけいしする事いそがはしと云々。{{r|愚老|ぐらう}}つ
れづれの{{r|餘|あまり}}に、つばくろめいくらの家を作るとも道のぬかりは{{r|運|はこ}}びつくさじと口ずさみ、{{r|海︀道|かいだう}}を詠め
居しに、とほる人を見れば、{{r|新|あた}}らしき小袖にをりめだかなる{{r|上下|かみしも}}を{{r|著︀|き}}、道のぬかりをたどり行きしが、
荷おひ馬にはたと行きあひ、けあげのどろをいとひがほにて、あなや{{く}}と云ていそぎかたはらへよけ
んとせしを、馬かた是を見、いたづら者︀にて馬に鞭をはたとあつる。此馬おどろきはねければ、どろ
水を此人に思ふまゝにぞあびせたる。のりごはなる上下も泥染となり、打しをれみともなき有樣は、
{{r|高野證空上人|かうやしようくうしやうにん}}の京へのぼる道にて馬の日引たる男に行逢うて、堀へおとされ腹あしくとがめしも是には
しかじ。此人腹を立て、にくいやつめが馬のおひやうかな。此よごれたるいしやう{{r|上下|かみしも}}をわきまへさ
すべしとしかる。馬かた聞きて、あらをかしの人の{{r|腹立|はらだち}}や、物もいはざる{{r|畜生|ちくしやう}}をあひてになしてのざふ
ごんかや。御身はいしやう美々しくえもんけだかく引つくろひ、{{r|上下|かみしも}}を著︀て{{r|人體|にんてい}}がましく見えけるが、
馬車にものらずして、泥をいとふのをかしさよと、手を打ちたゝいて笑ひ行く。此人聞きていとゞ腹は
立ちけれども、いたづら者︀の馬かたをあひてになすべきやうもなし。それよりつらく見えけるは、{{r|往來|わうらい}}
の人が立ちとゞまり、やれをかしや、泥まみれのをのこを見よとくんじゆして、指をさしてあざ笑ひ、
海︀道に立ちふさがり、しばしは通路ぞなかりける。此人腹をすゑかね{{く}}て四方をにらんで云ひける
は、泥によごれたる我姿が、をかしく有りてや笑ふらん。相手に主はきらふまじと、刀をぬいて切つて
まはり死なんと云ひて狂ひければ、{{r|見物衆|けんぶつしゆ}}は{{r|肝|きも}}をけしあわてふためきにげんとするに、ぼくり{{r|足駄|あしだ}}に
まとはつてひとり{{r|轉|ころ}}ぶぞさいごなる。四五百人の見物衆が、人の上に人が重り、{{r|臥|ふ}}しつ{{r|轉|まろ}}びつおきあ
がらんと、泥にまみれてあがけども、皆うつぶきに重りて頭ももたげず尻もあがらず、どろの中へ{{r|面|つら}}
をつきこみ、手足にてどろをこねかへし、ひとり{{く}}はひあがる姿を見れば、土にて作りし{{r|辻地藏|つじぢざう}}の
雨にうたれて、あさましげに眼ばかりぞきらめきける。ちひさき子供は上よりおされどろを口よりのみ
入れて、いきをえせねば皆死にたり。{{r|親兄弟|おやきやうだい}}は是を取りあげなきかなしめる有樣を見るに、かはゆく
有り、をかしくもあり。かゝる仕合候ひけり。扨其人は先へも行かず跡へも歸らず、{{r|面目|めんぼく}}なげに立ちわづ
らひ、いきがひなくぞ見えにける。萬のまうごにはあふとも、愚人の一{{r|怒|ど}}にはあはざれといへる古人
の言葉、思ひ知られたり。大日經に一念のしんいには、{{r|倶胝劫|ぐていごふ}}の{{r|善根|ぜんごん}}をやきうしなふと說かれたり。
されば他人の過を見ては、かへつて身上を{{r|愼|うゝ}}しむべき事也。およそ大事は{{r|小事|せうじ}}よりおこると、{{r|貞觀|ぢやうぐわん}}
せいえうに見えたり。道のあしき{{r|時分|じぶん}}、荷おひ馬にあひなば、遠くよけべき事也と皆人いふ。年寄り
たる{{r|翁|おきな}}海︀道を通りしが、此由を聞き立ちとゞまつて云けるは、いや{{く}}用心するとも{{r|過去|くわこ}}の{{r|業因|ごふいん}}は{{r|迯|のが}}る
べからず。人にあしくあたれば、必後の世にそれがためにあだをうく。{{r|生有物|しやうあるもの}}をころせば必後の世に
{{仮題|頁=336}}
おのれ害せられぬ。昔天笠に大王有り、たつとき上人有りとて迎へをつかはさる。此王{{r|明暮|あけくれ}}{{r|碁|ご}}{{r|數寄|すき}}に
て臣下を集め打給ふ時、上人參り給ひぬと申れば、碁に{{r|切手|きれて}}あるをきれとのたまひけるに、此上人の
首をきれとの{{r|宣旨|せんじ}}と聞きなして、則聖の首を討ち切りぬ。碁果てゝ其上人こなたへとのたまふ。宣旨
にまかせ{{r|聖|ひじり}}の首を切りたると申す。大王大きにかなしび、佛になげかせ給ふ時に、佛ののたまはく、
昔國王はかはづにて土中に有り、上人はもと農夫なり。然に春田をかへす時、心ならずからすきにてか
はづの首を切りぬ。其因果のがれずして切られぬ。{{r|因果|いんぐわ}}はかやうなる物ぞとをしへ給ふ。扨又彼兩人
の{{r|亂逆|らんぎやく}}元來をうかゞひ見るに、馬おひは、いにしへ{{r|奧州|あうしう}}の{{r|金賣吉次|かねうりきちじ}}か{{r|小冠者︀|こくわじや}}九郞義經の{{r|變化|へんげ}}、どろ
まみれの男は、平家の{{r|侍關原與市|さぶらひせせはらよいち}}なり。{{r|因果|いんぐわ}}のがれがたしと云て過行きぬ。皆人聞きて、{{r|實|げ}}にさもや
あらんと笑ひて{{r|退散|たいさん}}せり。
{{仮題|投錨=氣ちがひ者︀かへつて誠をいふ事|見出=小|節=k-7-6|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
見しは今、江戶舟町に鈴木久兵衞といふ人の子に才三郞と云者︀、四五日物いふ事常に相違せり。氣ち
がひたるかと、親、心もとなく思ひしに、當年八月二十八日午刻空しづかにして風音もなきに、此者︀立
て大聲をあげ、すは、大風吹いて來て家ころぶぞ、つかひ柱をかへやれ、ころぶぞ、われ柱におされ
て死ぬるぞ、たすけよ人集まれと、家の中をかけまはり飛びめぐり步きてんだうするを、親兄弟其外
十人計りつき取りとゞむるに、力ことの外に有つてかなはず。家の中{{r|鳴音|なりおと}}しんどうする。それがし家
{{r|近所|きんじよ}}なれば何事ぞと走寄つてとゞむるに叶はず。一時過{{r|未|ひつじ}}の{{r|刻|こく}}に至て、{{r|俄|にはか}}に大風ふき來て町の家はたゞ
しやうぎだふしのごとし。{{r|大名衆|だいみやうしう}}の{{r|屋形宮寺|やかたみやてら}}一{{r|宇|う}}も殘らず。增上寺の山門、{{r|誓願寺|せいぐわんじ}}の山門もころぶ。其
外數百年を經たる品川の塔もそんじたり。かくのごときの大風老人も覺えずといふ。彼氣ちがひ者︀一
時の後、俄に吹出づる大風を知りたるはふしんなり。然ば昔、鎌倉將軍實朝公の時代、{{r|建保|けんぽう}}四年丙子
八月二十八日大風吹き、{{r|堂舍|だうしや}}損じたる事を記せり。ねんだいきにも見えたり。又予九歲の{{r|比|ころ}}天正元年
癸酉の年八月二十八日未の刻三百五十八年に當て、月日もたがはず大風吹きたり。是も{{r|年代記|ねんだいき}}に有り。
扨又慶長十九甲寅當年八月二十八日未の刻四十二年にめぐり當つて、{{r|月日時刻|つきひじこく}}たがはず三度まで大風
吹きたる事きどくなり。故にしるし置き侍るなり。
{{仮題|投錨=角田川一見の事|見出=小|節=k-7-7|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
見しは今、天下をさまり目出度御代なれば、{{r|公家殿上人|くげいてんじやうびと}}迄もあまねく江戶へ下り給ひぬ。此都︀人云、此
邊に{{r|角田川|すみだがは}}とて音に聞えし名所あり。武藏と下總のさかひをながれぬ。いにしへ{{r|在原中將|ありはらちうじやう}}二{{r|條|でう}}の{{r|后|きさき}}に
參りし事おほ君にもれ聞え、{{r|遠流|をんる}}の身となりひらは、東國角田川に來りぬ。此河の邊に京にては見な
れぬ鳥有り。{{r|渡守|わたしもり}}に問ひければ、是なん{{r|都︀鳥|みやこどり}}といふを聞きて、名にしおはゞいざことゝはん都︀鳥わが思
ふ人はありやなしやととよみしぞかし。{{r|新古今|しんこきん}}に、おぼつかな都︀にすまぬ都︀鳥ことゝふ人にいかゞこた
へしとよめり。{{r|俊成卿|しゆんぜいきやう}}の{{r|女|むすめ}}の歌に、いにしへの秋の空まですみだ川月に{{r|言|こと}}とふ袖の露かなと詠ぜり。扨
{{仮題|頁=337}}
又しづむや魚の見えずなり行くと云前句に、名もしるき鳥のうかべる角田川と{{r|宗長|そうちやう}}付けたり。{{r|昌休|しやうきう}}東
國一見の時角田川の邊に至りて、秋風やこととふ舟の{{r|渡守|わたしもり}}、とせしとかや。歌人は居ながら名所を知る
といへども、いかで見る{{r|程|ほど}}には有るべきぞ。{{r|東|あづま}}へ下りての思ひ出、何か是にはまさらんと、此名所を
一見し給ひ、{{r|近衞殿|このゑどの}}の御歌に、こたへせばわが出てこし都︀鳥とりあつめてもことゝはましをとよみ給
ふ。{{r|八條殿|はちでうどの}}、角田川すむてふ鳥の名にしおふ都︀人もやたえず來ぬらん。また三條中納言、角田川くる人
每に昔より言葉の花の都︀鳥哉。{{r|阿野宰相|あのさいしやう}}、吹風もをさまれる世に角田川わたさぬ𨻶や波の舟人、また
{{r|莊嚴院|さうごんゐん}}、かき{{r|流|なが}}す水のあはれの{{r|古|いにし}}へを見れば衣のすみだ川かな。{{r|玄仍|げんじよう}}の{{r|發句|ほつく}}に、盛りかととはゞや花
の都︀鳥、{{r|昌琢︀|しやうたく}}、名にしおはゞかすまじ月の角田川と申されし。諸︀人の詠あげて盡しがたし。然に{{r|龜|かめ}}や{{r|道閑|だうかん}}
と云京の知人當年はじめて江戶へ下りしが、音に聞えし角田川の名所いかやうなる面白き事や有ると
とふ。愚老聞きて、惣じて{{r|何|いづれ}}の名所も面白き事はあらねども、{{r|舊跡|きうせき}}をば詩人歌人尋ね給へり。扨又角田川
の寺の庭に、{{r|謠|うたひ}}に作りたる{{r|梅︀若丸|うまわかまる}}塚︀有てしるしの柳有り。見物衆は塚︀のあたりの芝の上に{{r|圓居|まとゐ}}して、歌
を誦し詩を作り酒盛する所に、此寺の{{r|坊主|ぼうず}}{{r|大上戶|おほじやうご}}にて、爰やかしこの{{r|酒宴場|しゆえんば}}へ飛入り走入つて、五盃
十盃づつ呑む事數をしらず。何よりもをかしきは、此坊主角田川の{{r|謠|うたひ}}きりはしを一つ二つ覺え、平家と
らも舞ともわかず{{r|稱名|しようみやう}}ぶしに打上げてうたふ。されども{{r|短|みじか}}くうたふに{{r|興|けう}}有て皆人笑ふ。道閑聞きて、わ
れ{{r|上戶|じやうご}}なり、いでさらば角田川へ行き、其坊主と酒宴せんといふ。われ聞きて、其方角田川見物なるべか
ず。此坊主{{r|始|はじめ}}て一見の人をよく見知つて、歌をしよまうする。よくもあしくも文字さへつゞき詠みぬれ
ばよろこぶ。よまざれば{{r|惡口|あくこう}}をはき寺のあたりを拂つて追出し、當座の恥辱をあたふる。其方は{{r|宏才|くわうさい}}
{{r|利口|りこう}}たりといへども、歌の道をば文字の數をも{{r|知|しら}}ず、思ひ{{r|止|とゞ}}まり給へ。{{r|道閑|だうかん}}{{r|閉口|へいこう}}し、つく{{ぐ}}案じ、此
名所見ずば京の知人、我が心つたなしといはん。其上思ふ仔細有りと、小舟にさをさし角田川へ行く。
寺の庭なる梅︀若丸の塚︀を見物する所に、案の如く坊主出逢うて、旅人は都︀の人と見えたり、當地はじ
めて一見の人々は、よくもあしくもおしなべて、歌をよませ給ひぬと、硯短册紙を持出てしきりに所望
す。道閑いはく、都︀の者︀をよく見知り給へるの{{r|奇特|きとく}}さよと、おくせず筆を取り、うめわかまるのつか{{r|柳|やなぎ}}
すみだ河原の{{r|涙|なみだ}}かなと書きて、坊主に見する。此坊主歌よむやうは{{r|知|しら}}ねども、發句と歌文字の數をば
覺えたり。此句をよみて指を折り、又ほくしては指を折り、しばし案じて云けるは、いかにや都︀人、此句
の文字をかぞふるに、發句には七文字多し、歌には七文字たらず、不審なりととふ。道閑答へて、是は歌
にあらず、發句にあらず、扨又なが歌にあらず、みじか歌にもなし。この頃都︀にはやりし中歌也とい
ふ。坊主聞きて、田舎者︀さやうの事を{{r|知|しら}}ずして、尋申る{{r|面目|めんぼく}}{{r|灰|はひ}}にまびれたりといふ。道閑聞きて、知つ
てとふは禮なりといへば、左樣にもまつたくぞんせずと返答する。{{r|京田舍人|きやうゐなかびと}}の{{r|出會珍|であひめづら}}しきあいさつ、
聞捨てがたく記し侍る。
{{仮題|投錨=關八州盜人狩の事|見出=小|節=k-7-8|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
{{仮題|頁=338}}
見しは昔、關東に盜人多く有つて諸︀國に{{r|横行|わうかう}}し、人の{{r|財產|ざいさん}}をうばひとり民をなやまし、旅人の{{r|衣裝|いしやう}}を
はぎとる。かれを{{r|在々所々|ざい{{く}}しよ{{く}}}}にて捕へ首をきり、はたもの火あぶりになし給へどつきず。然處に、下總
の國向崎といふ{{r|在所|ざいしよ}}の{{r|傍|かたはら}}に、{{r|甚內|じんない}}といふ大盜人有りしが、{{r|訴人|そにん}}に出て申しけるは、關東に頭をする大
盜人千人も二千人も候べし。是皆{{r|古|いにしえ}}名を得しいたづら者︀、風魔が一{{r|類︀|るゐ}}らつはの子孫どもなり。此
者︀どもの{{r|有所|ありか}}殘りなく存知たり、案內申すべし、盜人{{r|狩|がり}}し給ふべしと云。江戶御奉行衆聞召し、願ふに幸
哉と仰有つて、{{r|誅伐追討|ちうばつゝゐたう}}の爲人數を{{r|催|もよほ}}し、向崎甚內を先立て、關東國中の盜人を狩り給ふ。{{r|爰|こゝ}}の村、か
しこの里、野の末、山のおくに隱れ居たりしを、せこを入れて狩出し、あそこへ追つめ{{r|彼處|かしこ}}にせめよせ
殺︀し給ふ事、たとへばいにしへ賴朝公富士のまきがりし、數のかせきをころし給へるがごとし。關東
の盜人殘なくたやし給へば、世中靜なる所に、向崎甚內は盜人がりの大將給はりたるとて、いたづら者︀
を多く{{r|扶持|ふち}}する、香餌の許にけんぎよのあつまるがごとくなれば、たゞ大名の{{r|爲體|ていたらく}}にて國々を{{r|廻|めぐ}}る。
先年秀吉公の時代に、諸︀國の{{r|大名|だいみやう}}{{r|京伏見|きやうふしみ}}に{{r|屋形作|やかたづく}}りし給ひ、日本國の人の集りなり。石川五右衞門と
云ふ大盜人、{{r|伏見野|ふしみの}}のかたはらに大きに屋敷をかまへ{{r|屋形|やかた}}を作り、{{r|國大名|くにだいみやう}}にまなんで、晝は{{r|乘物|のりもの}}にのり
鑓長刀弓鐵砲をかつがせ、海︀道を行廻りおし取し、よるは{{r|京伏見|きやうふしみ}}へ亂入り、{{r|盜|ぬす}}みをして諸︀人をなやま
す。此事終には顯れ、石川五右衞門は京三條河原にてかまにていられたり。今又向崎甚內がふるまひ
も是によく似たりと皆人云ふ所に、爰{{r|彼處|かしこ}}よりさいげんあく、盗人をとらへ引きて江戶へ來る。いかな
る者︀ぞと問給へば、是は向崎が{{r|被官|ひくわん}}、かれは甚內がけんぞく也と云。{{r|御奉行衆|ぶぎやうしゆ}}聞召しとかくにきやつは
大盜人諸︀人のみせしめとて、向崎を捕へ首につなさし馬にのせ旗をさゝせ、江戶町を引めぐり、淺草原
にはりつけにかけ給ふ事、慶長十八{{r|丑|うし}}の年なり。{{r|淮南子|ゑなんじ}}に、よくおよぐ者︀はおぼる、よく乘る者︀はお
つ。おの{{く}}其よくする所を以て却て、自わざはひをなすと云へるが如く、此者︀終には盜人の罪をえた
り。夫よりこのかた國々日を追ひ月をふるに隨つて、戶ざさぬ御世となり、東海︀道東山道の旅人迄も
腰に金をつけ、かたに錢をかつぎあるくにさはりなし。御代の寶をはこぶ{{r|驛路|うまやぢ}}と云ふ前句に、{{r|白波|しらなみ}}のた
たぬ山をば{{r|夜|よる}}越えてと{{r|專順|せんじゆん}}付け給ひぬ。古歌に、今もかも戶ざしはさゝぬ旅人の道ひろき世に{{r|相坂|あふさか}}の
關と、よめるも思ひ出でにけり。かゝる{{r|直|すぐ}}なる御時代にあひぬる物哉と悅びあへり。
{{仮題|投錨=ふうふいさかひの事|見出=小|節=k-7-9|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
見しは今、江戶はたご町に助四郞と云者︀ふうふいさかひ、のくべきといへば、のかれじといひてやむ事
なし。人聞きて世間に女をめとるに五不取と云て五つの品有り。三不去と云て三つの品有り。七去と
云て七つの品有る事をあらはせり。婦に七去とは、父母にしたがはざるを去る、子なきを去る、{{r|淫|いん}}なる
を去る、うはなりねたみするを去る、{{r|惡疾|あくしつ}}有るを去る、多言なるを去る、物をかくし盜するをば去る、
これ孔子の語なり。然則ば助四郞仔細ありてこそ去らめ、のかれじとは{{r|避|ひが}}事也といふ所に、此女町の
兩御代官へ參りて庭中に申しけるは、我身男に二十年つれあひ{{r|致|いた}}し、十二になるをのこ一人、七つに
{{仮題|頁=339}}
なるむすめ一人、又當年くわいにんいたし、三人の子供の母を去るべきと申す。いたづら男を召よせ
られ御沙汰に預るべしといふ。兩御代官聞召し夫婦のいさかひ家々に有る事也。女の男にしたがふ事、
{{r|若草|わかくさ}}の風にしたがふがごとしと文集に見えたり。扨又女は三從とて、一世の間家をもたず一{{r|期|ご}}人に
したがふと也。いとけなうして親にしたがひ、中にして男にしたがひ、老いて子にしたがふ。是を女
に三つの家なしとこそ申されし。男には兎にも角にも隨ふべき事也と仰せられければ、女、たのむ木
の本に雨のたまらぬ心地して、袖をしぼりなく{{く}}歸りぬ。
{{仮題|投錨=寒嶺齋眞似賢人の事|見出=小|節=k-7-10|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
見しは今、かんれいといへる人、近年江戶町にありしが、此人心はつたなくて外見更に人に似ず。ひ
とへに異相を學び、{{r|才智利口|さいちりこう}}に有つて云ひけるやうは、{{r|伯夷|はくい}}、{{r|叔齊|しゆくせい}}、武王につかへず{{r|首陽山|しゆやうざん}}に入つて
{{r|蕨|わらび}}をくらふ。{{r|麻子|まし}}が云、君達は如何なる賢人なれば{{r|山溪|さんけい}}を愛するや。伯夷が云、武王不義なる故に、周
の粟を食せずわらびを食すと云。麻子が云く、{{r|普天|ふてん}}の下{{r|王土|わうど}}にあらざる事なし、{{r|率土|そつど}}の{{r|民|たみ}}{{r|王臣|わうしん}}にあら
ずと云事なし。なんぞわらびを食するや。是を聞きて二人わらびを食せず、七日のうちに{{r|餓死|がし}}す。是を
麻子がせめと云傳へり。そのかみ傳へ聞く、賢人おほしといへども、かく心おろかにしてうゑ死たる者︀
を{{r|末代|まつだい}}に至て賢人と沙汰する人、是又伯夷叔齊とおなじき{{r|愚癡|ぐち}}の人なり。{{r|小隱|せういん}}は{{r|陵藪|りようそう}}にかくれ、大隱
は{{r|朝市|てうし}}にかくる。されば心ふかくも身をかくす山と云前句に、花さけばうき世の人になりはてゝと、
{{r|宗祇|そうぎ}}付けられたり。此句誠に世を捨てたる句なり。世をのがるゝ事たゞわが心に有りと云ひて、或時は詩
を作り、或時は枯木に花の咲くやうなる物語のみせり。故に此人を賢人といふ。老人聞きて、愚なる
云事ぞや、大才博學に書を覺え、詩文を作り、辯舌たれる計にて賢人とは心得べからず。{{r|世說|せゝつ}}に云、
{{r|褚季野|ちよきや}}物いはずといへども、四時の氣又備はると云々。季野はかる{{ぐ}}と物いはぬ人なれども、心中に分
別のわきまへ有り。{{r|胡曾|こそう}}が詩に、{{r|首陽山|しゆやうざん}}は倒れて平地となるとも、はくいしゆくせい賢名は{{r|失|う}}すべか
らず。是誠の賢人也とこそ作りたれ。{{r|先哲|せんてつ}}の言葉にも、外に{{r|賢善精︀進|けんぜんしやうじん}}の相を顯す事をえざれ、內にこ
れをいだけばなりといへり。此人{{r|寒嶺|かんれい}}と名付たりしは、傳へ聞く、賢人寒山にひとしきとや。{{r|寒山|かんざん}}
{{r|拾得|じつとく}}は{{r|散聖|さんせい}}なり。もろこしに{{r|出生文珠普賢|しゆつしやうもんじゆふげん}}の{{r|化身|けしん}}、いかでおそれざらんや。{{r|外相|げさう}}れんちよくにして賢相を
まなぶと云とも心は{{r|奸賊|かんぞく}}たり。{{r|心事境界|しんじきやうがい}}さびずして賢人といひがたし。左樣の家風にこそ等閑の言句
もうるはしく有るべけれ。寒山はわが心月に似て、へきたんすんで高潔たりと云て、ぢんあいをは
らつて見られた。拾得はせいじんにてまします。わが心月にひせず、かへつて{{r|圓欠|ゑんかん}}ありといはれた。
爰は{{r|半月|はんげつ}}の時も有り、{{r|滿月|まんげつ}}の時も有つた時がゑんかんともにかけぬるよ。賢人の心を歌に、まろくて
もまろくあれかし我心かどの有るには物のかゝるにとよみければ、又聖人の心をまろかれと思ふ心の
かどにこそありとあらゆる物はかゝれりと詠ぜり。實まろかれと思ふこそ一つの角よ。去程に賢人は
時を知て國につかへ、時を見て山に入り、{{r|樹下石上|じゆげせきじやう}}に有つて心を安くし、{{r|萬事無心|ばんじむしん}}一{{r|釣竿|てうかん}}、三公にもか
{{仮題|頁=340}}
へず此江山などと云て、たゞおのれが心をやしなへり。けいかうは山澤にあそびて魚鳥を見れば、心
たのしむと申されし。{{r|陸機文|りくきぶん}}の賦に、石、國を包みて山高く、水、珠をいだいて川こびたりと云々。人
も內に德あれば智をふかくかくすといへども、形にあらはるゝ所常の人にかはりてよきといへり。扨又
聖人に心なし、萬人の心をもつて心とす。塵にまじはつて{{r|蓮|はちす}}の泥にそまぬが如し。{{r|寒山|かんざん}}は淸月を詠む
物のひりんにたえてなし。吾をして如何かとかんといへり。拾得は吾心水に比せず却つて{{r|淸濁|せいだく}}有り。先
心事より{{r|掃除|さうぢよ}}して見れば、世々の秋天月も又塵と申されし。{{r|眞實|しんじつ}}の{{r|內證|ないしよう}}は同じといへども、賢人は淺
く聖人は深しと千古の記する文にも有り。左傳に少が長をしのぐと云々。{{r|文選|もんぜん}}に云く、桀が犬{{r|堯|げう}}を吠
えしむべし。{{r|跖|せき}}が客由をさらしめつべしと云々。此句の昔を以て今をさつするに、{{r|寒嶺|かんれい}}、{{r|伯夷|はくい}}{{r|叔齊|しゆくせい}}をと
がむるは、桀が犬の類︀ひなるべしといへり。
{{仮題|投錨=南海︀をうめ江戶町立て給ふ事|見出=小|節=k-7-11|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
見しは昔、{{r|當君|たうくん}}武州{{r|豐島|とよしま}}の{{r|郡|こほり}}江戶へ御打入よりこのかた町{{r|繁︀昌|はんじやう}}す。しかれども地形廣からず。是に依て
とよしまの{{r|洲崎|すさき}}に、町をたてんと仰せ有つて、慶長八卯の年日本六十餘州の{{r|人步|にんぷ}}をよせ、{{r|神︀田山|かんだやま}}をひ
きくづし、南方の海︀を四方三十餘町うめさせ、{{r|陸|くが}}地となし其上に在家を立て給ふ。昔{{r|平相國|へいしやうこく}}淸盛公
{{r|津|つ}}の{{r|國|くに}}ひやうごの浦に新京をたてんと、七ヶ國の人夫を集め、島をつき給ふに、崩れて島{{r|成就|じやうじゆ}}しがたし。
其後石面に一{{r|切經|さいきやう}}を書寫し、其石にてつきければ、誠に{{r|龍神︀|りうじん}}納受し給へるにや、島成就し、是に依て
{{r|經島|きやうじま}}と名付たり。其島の上に三町ほどの在家を立て、末代に名を殘し給ひぬ。是を今の豊島にくらぶ
れば、十にしてわづか其一つに及べり。此町の外家居つゞき、廣大なる事、南は品川西はたやすの原、
北は神︀田の原、東は淺草まで町つゞきたり。豐島の名におひ民ゆたかにさかゆる事、それしんたんの
都︀は家居百萬間とかや、中々是を比ぶるにたらず。天地かいびやくより慶長迄の世をかんがふるに、
此御代にはしかじ。上一人の御惠み深ければ、下萬民皆{{r|榮華|えいぐわ}}にほこる。君が世は千世に一たびゐる塵
の白雲かゝる山となるまで、久しかれとぞ祝︀し侍る。
{{仮題|投錨=人有りてねざめを侘る事|見出=小|節=k-7-12|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
聞しは今、吉野勘兵衞と云人、あかつきのねざめ{{r|侘敷|わびし}}くして、まうねんさま{{ぐ}}起ると云。かたへな
る人聞きて、たゞ{{く}}道を學び給ふべし。學ぶ道なければあかつきのねざめ侘しき物也。{{r|妄念|まうねん}}をはら
ふ{{r|中立|なかだち}}、學道よりよろしきはなし。勘兵衞聞きてわれ{{r|鈍性|どんせい}}也。學ぶ共益有るべからずといふ。老人云、
それ十{{r|能|のう}}七{{r|藝|げい}}とやらん其外道樣々の品多かるべし。萬事ふるゝ事に益有り。一道まなぶときんば其道
したしき友となり、影のかたちにしたがひ、ひゞきのこゑに應ずるがごとく、まどろめば夢に見え、さ
むれば眼にさへぎり、手にふれ身にそふ心地して、此道の友{{r|明暮|あけくれ}}はなれがたし。昔守翁といひつる
{{r|繪師|ゑし}}龍をすきて書きつれば、龍、{{r|姿|すがた}}を目前にあらはす。此心を引きかへて、見ゆらめや心の松に時鳥と
{{r|宗牧|そうぼく}}せられたり。生れてたつとき人なし。ならひえぬれば智德となる。{{r|初心不勘|しよしんふかん}}にして心なしと見ゆ
{{仮題|頁=341}}
る人も、よき一言といふ事有る物也と、本文にも見えたり。人每に我がこのむ事には失を忘れて愛
し、わがうけぬ事には失をもとめてなんぜり。いづれの道もよく學び給はゞ名をうべしといさめけれ
ば、爰に{{r|禪師|ぜんじ}}の有りしが是を聞きて、いや{{く}}方々云ふ所本意にあらず、是皆世間をいとなむ風俗に
して、{{r|菩提|ぼだい}}を期する志しはかつてなし。世の{{r|無常|むじやう}}をくわんずるに、なすわざ皆いたづら事、ねてもさ
めても{{r|妄想|まうざう}}に著︀して、{{r|生死|しやうじ}}の道に迷ひあかせり。眞實の益をもとめんは{{r|佛道|ぶつだう}}也。人に善惡の性有り。
{{r|惡緣|あくえん}}たる六塵の境にたいすれば{{r|妄業|まうごふ}}つくりやすし。勝緣たる三寶のきやうにむかへば、{{r|妙用|めうよう}}あらはれや
すし。よしなき世間のことわざに{{r|妄執|まうしふ}}をまさんよりは、{{r|經卷|きやうくわん}}を見て大乘のえきを信ぜんにはしかじ。
何事もふるゝ所に心付く物なれば、かりにも不善を遁れ、あからさまにも{{r|聖敎|しやうけう}}に一句を見れば、{{r|多念|たねん}}の
非を知るが故に、まうねん去つて心{{r|閑|しづか}}なり。扨又孟子に、鷄鳴きておく、じゝとして善をする者︀は舜
が徒也。鷄鳴いて起き、{{r|孳々|じゝ}}として利する者︀はせきが徒なり。{{r|舜|しゆん}}と{{r|跖|せき}}との分をしらんとほつせば他な
し。利と善との間なりといへり。此利善の間を分明すれば、よるのねざめもあるべからずと申されし。
{{仮題|投錨=當世しれぬ俗言の事|見出=小|節=k-7-13|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
聞しは今、或人云けるは當世心得ぬ{{r|俗言|ぞくげん}}多し。中にも主人を{{r|檀那|だんな}}といひ、{{r|等閑|なほざり}}なるを{{r|如在|じよざい}}といひ、鎧を
{{r|具足|ぐそく}}といふ。されば舞は中古かしこき人作りけるにや、世上にあまねく翫び給ふせつたいに、
{{r|佐藤庄司次信忠信|さとうしやうじつぎのぶたゞのぶ}}が爲に、具足を二領をどし立る。又たかたちに鈴木三郞{{r|御|お}}ぐそく一領給はり討死せんと舞
ひ給ひぬ。これらの言葉古き文の義理にそむき、文字のよみも相違せり。夫文道は公家武家學び給へ
る所なり。猶もつて今は天下治り國民豐にして、下々迄も筆道をたしなみ、文字の正理を正し、{{r|言句|ごんく}}
のせんさく有りといへども、右の詞をばあへて以て咎むる人なし。文にも記し言葉にもいひかはし給
ひぬ。かやうのそゞろ事更に益なしと云ふ。老人聞きて、いにしへも今も理もなき事をとなへ、名目
計にて云傳ふるよしなし事多し。是尋常の習ひとがむべからず。我朝は萬事{{r|唐國|たうごく}}の例を用ひ來るとい
へども又相違もあり。唐に御の字をば天子にのみ用る。今日本には上下に渡る。然共我朝にも昔より
今に至迄、御の字を禁中には用ひ給ひぬとかや。扨又貞水元年武藏守平泰時が作りたる{{r|式目|しきもく}}に、
{{r|御成敗|ごせいばい}}の式目と御の字を置く事、將軍の{{r|御成敗|ごせいばい}}にて私の義にあらざればなりと注せり。其頃まではかくぞ
候ひける。樣と云ふ字も我若き時分、關東にて上なる人に用ひしが、當世は上下に用る。されば古歌に
{{r|箸鷹|はしたか}}の身寄のかたの雪消えて貝崎の羽︀や{{r|白符|しらふ}}なるらんとよめり。鷹に身より只崎と云ふ羽︀有。鷹の右
のかたばみより左の方は只崎也。去りながらまた、箸鷹の身寄只崎定らず大宮人は右にすゑけりと詠
める歌もあり。其故如何となれば、往古には天子{{r|御狩|みかり}}の御時、{{r|月卿雲客|げつけいうんかく}}右にすゑて{{r|供奉|くぶ}}し給ふ。左は
右より諸︀事不自由也。其後武家鷹逍遙と成て左にすうる。是は刀をぬくべき爲也。義をたゞし給へる
公家武家の間にさへかくの如きの相違有り。是のみならず、昔の書物にもちがふ事多しといへども、
今さらとがむる人なくとなへ來ると知られたり。ほとんど世上の人口あざむくは大いなるひが事也。
{{仮題|頁=342}}
すべて{{r|往事|わうじ}}をとがめ益なかるべし。
{{仮題|投錨=盲目遠路をしる事|見出=小|節=k-7-14|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
見しは今、江戶町に{{r|下岡才兵衞|しもをかさいべゑ}}と云ふ人、京へ{{r|上|のぼ}}る。始ての道なればよきつれもがなと云ふ所に、
{{r|座頭|ざとう}}聞きて、われ此度官の爲上洛仕る。けちえんにめくらを同道有てたべかしといふ。才兵衞聞きて道
しれるつれをこそ願ひつれ。めくらは却つて道のさまたげと思へども、{{r|結緣|けちえん}}なりとて同道し、品川に
著︀きたり。然るに川崎への{{r|駄賃|だちん}}錢出入に付て、才兵衞馬主と問答し{{r|斷|ことわり}}やむ事なし。{{r|座頭|ざとう}}聞きてあら詮
なき問答哉、川崎迄の駄賃定りて候程に、われは代物を渡し馬を取りたり。{{r|馬方|うまかた}}申すごとく錢を渡し
道を急ぎ給へといふ。才兵衞聞きて、座頭めくらなれば、京迄の遠路駄賃差引をばわれに聞かずしてわ
たす事、{{r|不屆者︀|ふとゞきもの}}也としかる。座頭聞きて、我はじめての上洛なれば、江戶より京迄道のつもり{{r|馬次|うまつぎ}}の
在所を人によく尋ね覺えたり。其上一里に付て代物十六文づつの定りにてかくれなし。御存じなくば
語りて聞かせ申さん。江戶より二里參りて{{r|品川|しながは}}、是より二里半行て{{r|川崎|かはさき}}{{仮題|分注=1|二里|半}}{{r|神︀奈川|かながは}}{{仮題|分注=1|一里|半}}ほどがへ{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|戶塚︀|とづか}}
{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|藤澤|ふぢさは}}{{仮題|分注=1|三|里}}{{r|平塚︀|ひらつか}}{{仮題|分注=1|一|里}}{{r|大磯|おほいそ}}{{仮題|分注=1|四|里}}{{r|小田原|をだはら}}{{仮題|分注=1|四|里}}{{r|箱根|はこね}}{{仮題|分注=1|四|里}}{{r|三島|みしま}}{{仮題|分注=1|一里|半}}三{{r|枚橋|まいばし}}{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|原|はら}}{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|吉原|よしはら}}{{仮題|分注=1|三|里}}{{r|蒲原|かんばら}}{{仮題|分注=1|一|里}}{{r|由井|ゆゐ}}{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|淸見|きよみ}}{{仮題|分注=1|一|里}}{{r|江尻|えじり}}{{仮題|分注=1|三|里}}{{r|府中|ふちう}}{{仮題|分注=1|一|里}}{{r|鞠子|まりこ}}{{仮題|分注=1|一|里}}
{{r|岡部|をかべ}}{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|藤枝|ふぢえだ}}{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|島田|しまだ}}{{仮題|分注=1|一|里}}{{r|金谷|かなや}}{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|新坂|につさか}}{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|懸河|かけがは}}{{仮題|分注=1|二里|半}}{{r|袋井|ふくろゐ}}{{仮題|分注=1|一里|半}}{{r|見付|みつけ}}{{仮題|分注=1|三|里}}{{r|濱松|はまゝつ}}{{仮題|分注=1|三|里}}{{r|前坂|まへざか}}{{仮題|分注=1|一里|半}}{{r|荒井|あらゐ}}{{仮題|分注=1|一|里}}{{r|白須賀|しろすが}}{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|二河|ふたがは}}{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|吉田|よしだ}}{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|御油|ごゆ}}{{仮題|分注=1|一|里}}
{{r|赤坂|あかさか}}{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|富士川|ふじかは}}{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|岡崎|をかざき}}{{仮題|分注=1|三|里}}{{r|池鯉鮒|ちりふ}}{{仮題|分注=1|三|里}}{{r|鳴海︀|なるみ}}{{仮題|分注=1|一里|半}}{{r|宮|みや}}{{仮題|分注=1|七里|舟}}{{r|桑名|くはな}}{{仮題|分注=1|三|里}}四ヶ{{r|市|いち}}{{仮題|分注=1|三|里}}{{r|石樂師|いしやくし}}{{仮題|分注=1|一里|半}}しやうの{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|龜山|かめやま}}{{仮題|分注=1|一里|半}}{{r|關|せき}}の{{r|地藏|ぢざう}}{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|坂|さか}}
{{仮題|分注=1|二|里}}{{r|土山|つちやま}}{{仮題|分注=1|三|里}}{{r|水口|みなくち}}{{仮題|分注=1|三|里}}{{r|石部|いしべ}}{{仮題|分注=1|三|里}}{{r|草津|くさつ}}{{仮題|分注=1|四|里}}{{r|大津|おほつ}}{{仮題|分注=1|三|里}}京迄道合百二十四里也と云。才兵衞聞きて、盲目{{r|奇特|きとく}}に道を覺えた
るといへば、座頭聞きて、此上は京迄{{r|駄賃|だちん}}の{{r|差引|さしひき}}をばめくらに御まかせ候へとて{{r|遠路駄賃|ゑんろだもん}}の{{r|問答|もんだふ}}も
なく、目有人が目くらに敎へられ、江戶より京迄のぼり付きたり。さればいにしへ、燕、蜀兩國の戰
ひ有りしとき、一{{r|盲衆盲|まうしうまう}}を引くとこそ聞きつれ。{{r|盲人|まうじん}}が{{r|明眼|めあき}}を導く事世に稀なりといへば、老人聞き
て愚なる云事哉。虫さへ道を敎ふるいはれ有り。{{r|吉備大臣|きびだいじん}}は元正天皇のけんたうし也。{{r|在唐|ざいたう}}の時、
{{r|野馬臺|やばだい}}の{{r|文|ぶん}}をよまんと欲す。文義さとしやすからず。{{r|蜘蛛|くも}}、糸を引きて道を敎ふる。則ち讀む事を得た
り。扨又{{r|木人|ぼくじん}}道を敎ふるためし有り。{{r|諸︀越黃帝|もろこしくわうてい}}の御代に{{r|蚩尤|しいう}}と云へる者︀、たくろく山のはんせんと云
ふ所にて、三年の間黃帝と戰つて、蚩尤すでに亡びんとする時、口より霧をはきて天下を暗ます故に、
東西を失ふ。黃帝{{r|工夫|くふう}}をもつて{{r|風后|ふうこう}}と云ふ臣下に命して{{r|指南|しなん}}の車を作り、其上に{{r|木人|ぼくじん}}有つてゆびを南
にさして敎ふる。帝の{{r|軍兵方角|ぐんびやうはうがく}}を知つて{{r|蚩尤|しいう}}をほろぼす。是木人のをしへ也。故に{{r|指南|しなん}}と書くは此いは
れ也と云ふ。かたへなる人聞きて、また針有つて人に道を敎へたる事有り。われ先年伊豆の國より伊
勢へ渡海︀す。其海︀の間に駿河、遠江、三河、尾張四ヶ國有りといへども、舟をかくる湊なし。故にこ
ちの{{r|順風|じゆんふう}}をえて夜晝三日に伊勢の湊へ{{r|著︀岸|ちやくがん}}す。若其うち風かはりぬれば、伊豆へもどるかさなければ
舟をそんさす。日本海︀中にたぐひなき大事の渡也。然るに我乘つたる舟、日中に乘出し夜に入て大雨
しきりにふり、俄にあらき風四方よりもみあはせ帆を吹きおろし、波にゆられてしばしたゞよひ前後
{{r|方角|はうがく}}を失ひ、今の風は{{r|舳|へ}}より吹たりと云者︀有り、おも{{r|梶|かぢ}}とり{{r|梶|かぢ}}より吹きたると云者︀もあり。たゞ波の
{{仮題|頁=343}}
そこにしづむ心地せし所に、かんどり{{r|磁石|じしやく}}を持ち舟そこに入り火を{{r|燈|とも}}し、水に針をうかべて見れば、南
を敎ふる。皆人悅び、風はかはらず東風也といふ。其時舟中の人々悅び、順風にほをあげ風波の難︀を
のがれ、伊勢の湊へ翌日{{r|著︀岸|ちやくがん}}す。是ひとへに針のをしへなり。かく木、針すら人に道を敎ふるためし
有り。人はたゞ心ををさむべし。賴朝公は關東に有つて西海︀の平氏を亡ぼし、謀を萬里の外に運らし、
天下を治め給ひぬ。かしこき人は{{r|柴|しば}}の{{r|庵|いほり}}の內に居ながら後世の道をよくしる。萬法共に目をもて見んと
するは愚也。たゞ一心の{{r|工夫|くふう}}にあり。目くらはうつくしき色をも見ず、つんばは{{r|面白|おもしろき}}聲をも聞かず、是
は形にある{{r|片輪|かたは}}也。扨又形のみに限らず、心に智惠なければ心も片輪にして{{r|聾盲|ろうまう}}のごとし。{{r|阿那律|あなりつ}}は
眼つぶれて後三千界を見ること、たなごころの內なる物を見るが如し。閉{{レ}}目則見、開{{レ}}目則失の古き
言葉、今思ひあたれりとまうされし。
{{仮題|投錨=よし原に傾城町立る事|見出=小|節=k-7-15|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
見しは今、江戶繁︀昌故、日本國の人參り{{r|家作|やづく}}りなすによりて、三里四方は野も山も家を作り、{{r|寸土|すんど}}の
あきまなし。然に東南の海︀ぎはによし原有り。色このみする{{r|京田舎|きやうゐなか}}の者︀共此よし原を見立て、けいせ
い町をたてんと、よしの{{r|苅跡|かりあと}}{{r|爰|こゝ}}やかしこに{{r|家作|やづく}}りたりしは、たゞ{{r|蟹|かに}}の身のほどに穴をほり、住居たる
がごとし。古歌に、{{r|蘆原|あしはら}}の{{r|苅田|かりた}}のおもにはひちりていなつきがにや世を渡るらんとよみしも、此
{{r|傾城町|けいせいまち}}にこそあれと笑ひたりしが、日を追ひ月を重ぬるに隨つて、此町繁︀昌する故、草のかり屋を破り、
西より東、北より南へ町割をなす。先づ本町と號し、京町、江戶町、伏見町、境町、大阪町、墨︀町、新
町と名付け、家居びゝしく軒をならべ板ぶきに作りたり。扨又此町を中に籠めて其めぐりにあげや町
と號し、{{r|幾筋|いくすぢ}}共數しらず橫町をわり、のうかぶきの舞臺を立ておき、每日{{r|舞樂|ぶがく}}をなして是を見する。
此外{{r|勸進舞|くわんじんまひ}}、{{r|蛛舞|くもまひ}}、{{r|獅子舞|しゝまひ}}、すまふ、じやうるり、いろ{{く}}樣々のあそびしてぞ興じける。{{r|柴|しば}}の見物
をかごとになし、僧︀俗老若貴賤此町に來りくんじゆす。ちからをもいれずして人をまどはすけいせい
のはかり事思ひの外也。昔いこくの事なるに、いうわうをかたぶけ奉らんとて、狐、美女に變じてき
さきとなり、{{r|烽火|ほうくわ}}を見て笑ひ、百のこびをなしければ、{{r|御門|みかど}}うれしき事に思召し、それ故にいうわう
終にほろびはて給ひぬ。彼女{{r|尾|を}}三つある狐と成つてこう{{く}}と鳴きて古き塚︀に入りたり。狐、人をと
らかすには必びじんと成つて顏色よく、かしらは雲のびんづらとへんじ、おもてはうつくしきよそほ
ひとなり、みどりのまゆ花のかほばせをうなだれ、こつぜんに一度笑へば千萬のわざありとかや。女
は陰なり、狐におなじ。いづれも夜をこのむ。かるが故に、古歌にもおほくよみそへて、古狐、老狐、
ひる狐、わか狐などと見えたり。ふる塚︀の狐のかはく色よりも人の心のむくつけきかな。人もみなあな
しら{{ぐ}}し老い狐いとしもひるのまじらひなせそとよめり。誠に江戶よし原のひる塚︀には、天地も動
き目に見えぬ{{r|鬼神︀|おにがみ}}も{{r|來現|らいげん}}有りつべしといへば、有識の人申されけるは、夫人は見るに迷ふならひ、い
かにいはんや、江戶吉原の若狐にまよはぬ人有るべからず。されば{{r|出家|しゆつけ}}は佛のかたちを學び給へば、
{{仮題|頁=344}}
誠に{{r|殊勝|しゆしよう}}有りがたくおもひ侍る。其上一子出家すれば九{{r|族|ぞく}}天に生ずと說かれたり。又人有て七寶のた
ふばをたてん事、高三十三天に至るといふとも、一日の出家の{{r|功德|くどく}}にはおよびがたしといへり。され
ども心は俗出家同じかるべし。{{r|色欲|しきよく}}に迷ふ{{r|凡夫|ぼんぷ}}なれば、出家は里を遠くはなれ、{{r|山居閑居|さんきよかんきよ}}が本意成る
べし。佛法我朝にはんじやうする事は、第三十二代のみかど用明天皇御宇なり。此帝三寶を{{r|信授|しんじゆ}}し給
ふ事言葉にのべ盡しがたし。常の{{r|御詠吟|ごえいぎん}}に、智者︀は秋の鹿鳴きて山に入り、愚人は夏の虫飛んで火にや
くと、のたまひけるこそ有難︀けれ。ぼんなうは家の犬、うてども門をさらず。{{r|菩提|ぼだい}}は山のかせぎ、ま
ねけども來らずといへり。佛、鹿と成りて衆生を利{{r|益|やく}}し給ふ事有り。是により{{r|鹿野苑|ろくやをん}}と名付けたり。出
家は鄕里をさり山里にかき籠りて佛につかうまつりてこそ、つれ{{ぐ}}もなく心のにごりもきよまる心
地有るべけれ。{{r|戒行|かいぎやう}}もかけ內證も明ならずしては、{{r|所得|しよとく}}の{{r|施物罪業|せもつざいごふ}}にあらずと云ふ事なし。南山の
{{r|道宣律師|どうせんりつし}}は十{{r|方世界女人有所|ぽうせかいによにんあるところ}}に則{{r|地獄|ぢごく}}有りといへり。{{r|阿含經|あごんきやう}}に一たび女人を見れば、ながく三{{r|途|づ}}の業を
むすぶ。いかにいはんや一度犯しぬれば{{r|無間地獄|むげんぢごく}}に{{r|墮|お}}つと說かれたり。然に末代の人は、性なく欲ふ
かく、德うすく智淺くして、先賢の敎古聖のいましめにかなふべきとも見えず。{{r|今生|こんじやう}}の{{r|名利名聞|みやうりみやうもん}}を
{{r|明暮|あけくれ}}心とせり。{{r|頭|かしら}}をそりても心をそらず。されば、{{r|墨︀染|すみぞめ}}に心のうちはそらずして世わたり衣きぬ人ぞな
きと歌人もよみしぞかし。三{{r|毒|どく}}五{{r|欲|よく}}をほしいまゝにして、かつて生死はなれがたし。{{r|東坡|とうば}}が詩に、桑
下あに三宿のしたひなからんやと作れり。{{r|沙門|しやもん}}をば出家と名付る上は此二字に辱ぢざらめや。出家を
くはしくいはゞ、三{{r|界|がい}}の{{r|火宅|くわたく}}を出づるを云ふと也。出家は王者︀をけいせず、父母をも拜せずと{{r|惠遠法師|ゑゝんほうし}}
のたまひし。經にも忍を捨て無爲に入る、是{{r|眞實|しんじつ}}の{{r|報恩者︀|はうおんしや}}と說けり。悉達太子はだんとくせんに入り、
{{r|迦葉|かせふ}}そんじやはけいそくざんに入り給ひぬ。佛法の大意は{{r|生死流轉|しやうじるてん}}をたち、菩提の{{r|妙果|めうくわ}}を期すべしとい
へり。{{r|遁世|とんせい}}は出家の{{r|行儀|ぎやうぎ}}也。扨又身は家に有て、心家を出づるといふは、形は塵にまじはりて心ざし
道をしたふ、是誠の{{r|道人|だうじん}}古往にもまれなり。まして末代に至つてをや。見る事聞くことにまよふ{{r|人界|にんがい}}
なれば、世をのがれ佛道をもとむるが本意なるべし。{{r|法華經|ほけきやう}}五卷に、入里乞食將一比丘と說かれたり。
此文をふかくわきまふべき事也といへり。愚老聞きて、實に{{r|殊勝|しゆしよう}}なる物語、出家の事はさておきぬ。
頭に雪をいたゞく身も、此うかれめを見ては思ひの外なる心出來る。此{{r|道|みち}}りつぎの外といひならはせ
り。況んや若き人たちに彼遊女を見することは、猫のつなをはなちて{{r|生魚|なまうを}}を見するにことならずや。
{{仮題|投錨=近年國大名數多滅亡の事|見出=小|節=k-7-16|副題=|書名=慶長見聞集/巻之七|錨}}
聞しは昔、關東北條左京大夫平朝臣氏康公は、伊豆、相模、武藏、上總、下總、上野を治め、常陸下
野へ手をかけ、關八州に威をふるひ、{{r|文武至剛|ぶんぶしがう}}の名將たり。其比{{r|氏康|うぢやす}}に{{r|敵對|てきたい}}の人々、安房に
{{r|里見左馬頭義弘|さとみさまのかみよしひろ}}、當陸に{{r|佐竹太郞信重|さたけたらうのぶしげ}}、{{r|下野宇都︀宮彌|しもつけうつのみやゝ}}三{{r|郞國綱|らうくにつな}}、越後に{{r|長尾平景虎|ながをたひらのかげとら}}、甲斐に{{r|武田源信玄|たけたみなもとのしんげん}}、駿河に今川
義元、東西南北に敵有つて戰ふ。{{r|諸︀侍|しよさぶらひ}}義を守り節︀を{{r|重|おも}}くし、名を惜み命をかろんじ、いさみすゝんで
死をあらそひ、うちつ討たれつ、{{r|敵御方|てきみかた}}の{{r|骸骨|がいこつ}}地にしき、血は野草をそめ、鬨の聲矢叫びの音しんど
{{仮題|頁=345}}
うしやむ時なし。然る處に弘治二丙辰の年{{r|扱|あつかい}}有つて、氏康、信玄、義元、三人の{{r|中|なか}}無事に成りぬ。其上
{{r|氏康|うぢやす}}の子息{{r|氏政|うぢまさ}}は信玄のむこになり、義元{{r|息|そく}}{{r|氏眞|うじざね}}は氏康のむこに定め、信玄{{r|息|そく}}{{r|義信|よしのぶ}}は義元のむこに定
め、三方へ御こし入れて、北條、今川、武田の三家一{{r|味|み}}に成りぬ。此無事の仔細三人の大將言葉に出
さずといへども、心底には{{r|何|いづ}}れも天下に望をかけ、無事になると知られたり。{{r|關東侍|くわんとうんざむらひ}}は先例を思ふ故
にや、小身なる人も天下に望をかくる。然に義元は{{r|駿|すん}}、{{r|遠|ゑん}}、{{r|三|さん}}の軍兵二萬五千を{{r|引率|いんぞつ}}し、駿府を打立ち京
都︀へ{{r|攻上|せめのぼ}}る。尾州に入り、諸︀勢打散つて{{r|亂妨|らんばう}}なす。義元は松原にて酒もりし給ふ所に、織田三郞信長
六七百の人數にて{{r|馳向|はせむか}}ひ、御方にまなんでおしよせ、尾張の國でんがくがくぼど云所にて、{{r|永祿|えいろく}}三年
庚申五月十九日義元は信長の爲に亡び、同八年五月十九日{{r|公方光源院義輝公|くばうくわうげんゐんよしてるこう}}は三好が爲に{{r|生害|しやうがい}}なり、
{{r|三好修理亮|みよししゆりのすけ}}{{r|子息|しそく}}{{r|左京大夫|さきやうのだいぶ}}天下を二代持つ。然るに信長、美濃、尾張、三河、三國の勢を{{r|引率|いんぞつ}}し、西國
へせめのぼり、同十一年十月十五日{{r|入洛|じゆらく}}、其以後公方義昭公再び{{r|歸洛|きらく}}し給ふ。同十二年に三好父子は
信長に誅せられ、{{r|氏康|うぢやす}}は{{r|元龜|げんき}}元年十月三日病死、氏眞は{{r|伯父|をぢ}}{{r|信玄|しんげん}}に追出せられ{{r|後|のち}}{{r|卒|そつ}}す。{{r|太郞義信|たらうよしのぶ}}は父
信玄にころされ、信玄は{{r|天正|てんしやう}}元年四月十二日{{r|病死|びやうし}}す。景虎は同六年三月十三日{{r|卒去|そつきよ}}す。されば{{r|氏康|うぢやす}}、
{{r|信玄|しんげん}}、{{r|景虎|かげとら}}此三人の內一人存命においては、信長めつばうたるべきに、信長天運つよき故也と諸︀人さた
せり。同十年三月十一日勝賴同太郞信勝父子は信長公のためにほろび、同年六月二日信長公三位中將
信忠父子は明智日向守光秀がために滅亡し、同月十三日に光秀は羽︀柴筑前守秀吉に討たれ、
{{r|柴田修理亮勝家|しばたしゆりのすけかついへ}}、{{r|織田三七信孝|おださんしちのぶたか}}は秀吉のために誅せられ、其後京亂しづまりぬ。同十八年七月十一日氏政は
{{r|秀吉公|ひでよしこう}}のために{{r|切腹|せつぷく}}し、{{r|氏直|うぢなほ}}は高野山にいり、同十九年十一月四日{{r|卒逝|そつせい}}す。關白秀次公は文祿四年七月
十五日高野山において太閤のために{{r|切腹|せつぷく}}し、{{r|義昭公|よしあきこう}}は慶長二年八月二十八日にこうじ給ひぬ。秀吉公
は同三年八月十八日{{r|他界|たかい}}也。{{r|愚老|ぐらう}}永祿年中に生れてよりこのかた、天下に望をかけ給ふ大名右に記す
ごとく二十一人、此內十四人は{{r|弓箭|ゆみや}}にて卒し、七人は{{r|病死|びやうし}}也。扨又右之內八人は{{r|果報|くわはう}}めでたう天下に
義兵をあげ、武將の位に卽き給へり。されども內六人は弓箭にて果て給ひぬとかたれば、老人聞きて申
されけるは、論語に人遠きおもんぱかりなきときんば必ちかきうれひ有りといへり。一生の間身終る
まで{{r|思慮|しりよ}}なき時は、必一日{{r|片時|へんし}}の內にも禍︀あるべし。人間はかなき有樣、譬へば夏の蟬時しりがほに
鳴くを、うしろに{{r|蟷螂|たうらう}}おかさんとす。雀又いぼじりを守る。其木の下に{{r|童|わらわ}}弓を引きて射んとよる。足
もとに{{r|深谷|ふかきたに}}有るをしらず、身をあやまてり。皆是まへの理を思ひて後のがいをかへりみずと、おんせ
うけうが云ひおきしも、いま思ひ知られたり。
{{仮題|ここまで=慶長見聞集/巻之七}}
{{仮題|ここから=慶長見聞集/巻之八}}
{{仮題|頁=346}}
{{仮題|投錨=卷之八|見出=中|節=k-8|副題=|書名=慶長見聞集/巻之八|錨}}
{{仮題|投錨=壽庵はやり醫師の事|見出=小|節=k-8-1|副題=|書名=慶長見聞集/巻之八|錨}}
見しは今、江戶町に壽庵と云はやりくすし有り。此{{r|醫師|くすし}}{{r|脉|みやく}}を試みては、{{r|煩已前|わづらひいぜん}}の事、當今のいたみ、以
後に有るべき事まで委しくいふに、十に七つ八つは誠に有る故に、壽庵の藥を願ひ用ひていき{{r|藥師|やくし}}か
と諸︀人{{r|信敬|しんきやう}}す。是誠に不思議也。今は天下の名醫江戶に數多ありといへども、脉を取つて壽庵の如く
{{r|奇特|きとく}}を云ふ人なしといへば、かたへなる人聞きて、此壽庵おひ立ちより今迄の事を我よく知つたり。
此人は文字計を漸く書き覺えたり。もとより醫學はなし。されば世々色々の{{r|術治|じゆつぢ}}ありて、けぼうがし
ら、うしろ{{r|佛|ほとけ}}などと云ふ物を持ちぬれば、{{r|奇特|きとく}}を云ふとかや。又かき{{r|判|はん}}を見ては其身の一代をかんが
{{r|陰陽師|おんやうし}}とて{{r|吉凶|きつきよう}}を占する事、唐國にては{{r|邵公節︀|せうこうせつ}}、日本にては{{r|淸明|せいめい}}、是らの人の道を傳へて{{r|深祕|しんぴ}}の義有
り。此道をよく學びたる博士は何事もたなごころににぎるがごとし。然共末代に至て知る人まれなる
べし。扨又名醫と聞えしは{{r|天竺|てんぢく}}にては{{r|耆婆|ぎば}}、大唐にては{{r|扁鵲|へんじやく}}、日本にては{{r|淸麿|きよまろ}}などの流を汲みてくす
しと號す。故に人の近付くべきは、いしや、智者︀、福︀者︀と古人もいへり。くすし脉をこゝろ見て{{r|病源|びやうげん}}を知
る仔細有り。されども脉中に{{r|過現未|くわげんみ}}、明らかに顯るゝ事はおぼつかなし。其上くすしは人の{{r|死生|しせい}}を{{r|請|うけ}}お
ひ給ふ事大事にてあらずや。病者︀よりも醫の心やすかるまじ。安かる人は醫たるべからず。病を治せ
ざればいしや人をころす。是に過ぎたる人間の一大事何か世に有るべきぞや。醫といつぱ意也とこそ
申されしに、醫學なき人の藥あたふるは、ばくちうちのさいをなぐるがごとし。{{r|寒熱|かんねつ}}の二つのおこり
まさに知がたし。寒にひえを重ね、ねつに熱を重ねんはあやふき事なれば、醫學なき人の藥は中々の
まぬにはおとり成るべきか。{{r|藥|くすり}}人を殺︀さず、いしや人をころすと古人もいへり。{{r|其上|そのうへ}}、{{r|下醫|かい}}は藥を毒
とし、{{r|中|ちう}}醫は藥を藥とつかひ、上醫は毒を藥に用ふるとかや。智者︀の作る罪は大にして地獄におちず、
愚者︀の作る罪は小にして、必地獄に{{r|墮|お}}つといへるがごとし。然に病をりやうする{{r|良醫|りやうい}}は脉の{{r|虛實|きよじつ}}をよ
くこゝろみて、しかうして{{r|後|のち}}{{r|藥方|やくはう}}をあたふるが故に、病いえずといふ事なし。{{r|敗鞁|はいこ}}の皮までも用ふる
事{{r|醫師|くすし}}の{{r|良|りやう}}也といへり。扨又常さまの人も養治をしらではいたづら事成るべし。病は必口より入ると
なれば、禁好物合食禁をしらんがため也。たとひどくやくも知つてふくすれば毒にならずと、あるく
すしの申されけるとぞ。耳にとどまりていみじくおぼえ侍れ。食は人の命也。よく味ひ調へぬれば大
德とす。故に{{r|世俗|せぞく}}にも命は食に有りといへり。良藥は口ににがくしてしかも病に理有り。忠言は耳に
さかひてしかもこうを{{r|利|り}}せり。醫學なき壽庵の藥用ひて益なかるべし。扨又{{r|典藥|てんやく}}とは{{r|御門|みかど}}の御醫師を
名付たり。{{r|當時|そのかみ}}良醫を{{r|施藥院|せやくいん}}と名付くるいはれ有り。天下に{{r|不肖|ふせう}}の者︀多し。大病を受けて大醫の藥を
望め共叶はず。其爲に上代には天子より{{r|醫料|いれう}}とて別に知行を下されて、{{r|藥代|やくだい}}なしに彼{{r|無力者︀|むりよくしや}}に藥をあ
{{仮題|頁=347}}
たへらるゝ所を以て施藥院とは申す也。萬民をあはれみ給ふ君の御{{r|慈悲|じひ}}淺からず。今の時代迄其名有
りといへども、{{r|題號|だいがう}}のしるしなし。不肖者︀大病不便の次第也。たゞひとへに佛神︀を祈︀るより外有るべ
からず。
{{仮題|投錨=宗順だみたる聲を笑ふ事|見出=小|節=k-8-2|副題=|書名=慶長見聞集/巻之八|錨}}
聞しは今、杉木宗順と云ふ京の人、江戶へ下り云ける樣は、關東は聞きしよりも見ていよ{{く}}下國に
て、萬いやしかりき。{{r|人形|ひとがた}}かたくなに言葉なまりて、なでふことなきよろこぼひてなどと、かた言計
をいへるにより、理きこえがたし。拾遺に、東にてやしなはれたる人の子は、舌だみてこそ物はいひ
けれと詠ぜり。扨又{{r|宗碩|そうせき}}かたつ{{r|田舎|ゐなか}}はとはるゝもうしと前句をせられしに、何とかはだみたる聲のこ
たへせんと宗長付くる。宗長は生國關東の人なれば也。都︀人とふもはづかし、舌だみてうきことわりを
何とこたへんとよみしも實にことわりなり。取分べいといひべらと云ふこそをかしけれ。是に付ても
わが住みなれし{{r|九重|こゝのへ}}の都︀さすが{{r|面白境地|おもしろきやうち}}なり。人王五十代桓武天皇の御宇十三年甲戌十月廿一日に、
山城の國をたぎの郡に都︀を遷されたり。男女のそだちじんじやうに、言葉やさしく有りけりといふ。
{{r|關東衆|くわんとうしゆ}}是を聞き、おろかなる都︀人の云事ぞや、國に入つては俗をとひ、門に入つてはいみ名をとふ。是
皆定まれる禮也。しらぬ國に入り其國の言葉をしらずんば、とはぬはひが事也。孔子は生れながら物を
しれる智者︀なり。孔子も{{r|大廟|たいべう}}に入つて祭にあづかられたる時に、{{r|事每|ことごと}}にとはれしとかや。舜も大智の
聖人にてましませ{{r|共|ども}}、萬に物を人にきかしめ給ふ。知つたる上にもとふが智者︀の心也。然るに關東の
諸︀侍昔が今に至る迄仁義禮智信を專とし、文武の二道をたしなみ給へり。民百姓に至るまで{{r|筆道|ひつだう}}を學
び、文字にあたらざる詞をばあからさまにも{{r|稱|とな}}へず。此宗順は文字{{仮題|編注=2|はんや|はんにやカ}}に暗ければ、義はんやにく
らくして、却つて他をなんぜり。文字は貫道の器︀也。器︀なくしてよく此道に達すると云ふ事、あにそ
れしからんや。されば伊勢物語によろこぼひてと書かれしはよろこびてなり。なでふことなきとはさ
せることなきといへる事也。べいは可くの字也。言葉の續きにより、べしともべらともいへり。古今
集に、秋の夜の月の光の淸ければ{{r|暗部|くらぶ}}の山もこえつべらなりと詠ぜり。そのうへ知つて問ふは禮也と
こそ、古人も申されし。ましてやしらずして他を難︀ずるは、ひが事なりといへり。
{{仮題|投錨=世念入道常を知る事|見出=小|節=k-8-3|副題=|書名=慶長見聞集/巻之八|錨}}
見しは今、{{r|世念|せねん}}と云ふ知人常に{{r|後世|ごせ}}を願ひ給へり。或時愚老をいさめて云く、其方後生の道を知給は
ぬ事のうたてさよ。御寺へ參り佛の有難︀き敎を聞き給へ。{{r|能化|のうけ}}樣のきのふの{{r|御說法|ごせつぽふ}}に、朱に近付く者︀
は赤く、墨︀に近付く者︀は黑くなる。佛道に近づく者︀はかならず佛になると敎へ給ふこそ有がたく思ひ
はべれ。其方は物を書き常に{{r|雙紙|さうし}}をよみ給へるが、其{{r|雙紙|さうし}}に無常のことわりは候はずや。我物をば書
かざれ{{r|共|ども}}、{{r|謠舞|うたひまひ}}などの浮世のあだなる事を聞くに付けても、よその事とは思はず、たゞ身のうへと心細
く、なみだながれ袖をぬらすといふ。愚老聞きて、誠に有りがたき世念のいさめ成るぞや、或夜のね
{{仮題|頁=348}}
ざめに、世間の移り變れる事ども思ひ出づれば、{{r|往事|わうじ}}べうばうとして凡て{{仮題|入力者注=[#「凡」は底本では「几」]}}夢に似たり。{{r|樂天|らくてん}}が詩に、
{{r|老眼|らうがん}}早く覺めて、常に夜を殘すといへるもことわり也。世念我を諫めて、雙紙に{{r|無常|むじやう}}の{{r|理|ことわり}}はなきかと問
ひつる事のはづかしさよ。實に{{r|前大僧︀正慈圓|ぜんだいそうじやうじゑん}}の歌に、皆人のしりがほにしてしらぬ哉かならずしぬる
習ひありとはと詠ぜり。思へば過ぎにしかたの戀しさのみぞせんかたなし。いにしへ見なれし{{r|人達|ひとたち}}の
先立るのうらめしさに、指を折つて數ふるによみ盡しがたし。されば、思ひ出づる一つ二つの涙かはと
{{r|宗碩|そうせき}}前句をせられしに、指を折つても跡はおぼえずと宗長付給ひしも身にしられたり。つら{{く}}是を
案ずるに、{{r|金剛不懷|こんがうふくわい}}の{{r|經文|きやうもん}}に、{{r|一切有爲|いつさいうゐ}}の法は{{r|夢幻|むげん}}と說かれたり。夢や夢うつゝや夢とわかぬかないか
なる世にかさめんとすらん。是{{r|維摩經|ゆゐまきやう}}に、此身夢のごとしといへる心を{{r|赤染衞門|あかぞめゑもん}}は詠ぜり。萬事は夢
の中のあだし身なりと打さめて、こよひが早くあけよかし、もとゆひきりてさまをかへ、衣を墨︀に染
なして、世を厭はんと思へども、其夜が明けぬれば、見る事にふれ聞く事にしふぢやくして、舊緣のつ
なぐ所はなれがたく、六{{r|塵|ぢん}}の{{r|妄境現|まうきやうげん}}じ、いたづらに{{r|煩惱業|ぼんなうごふ}}をつくり、其中三{{r|惡|あく}}八{{r|難︀|なん}}のよしなき所を見
出して、恐れくるしみて日を暮す計也。古き歌に、いく度か身のうき時は人每に末もとほらぬ世をい
とふらんと詠じしもいとはづかし。{{r|天竺|てんぢく}}の北にあたつて雪山と云ふ川に{{r|寒苦鳥|かんくてう}}と云ふ鳥あり。此鳥巢
をもたずして、よるはこほりに羽︀を閉られて苦しみ、明けなば巢作らん{{く}}とよすがらなく。夜も明
けぬれば出づる日に氷のとくるを悅びて、羽︀をのべ身をあたゝめてくるしみを忘れ、又日暮るればく
るしみを得て一世を送るとなり。さあれば我と此鳥とはすがたはかはれども、心のおろかなる事は只
一生にて有りけるぞや。心ひとしき心成けりと云前句に、先の世の深きえにしの生れきてと{{r|心前|しんぜん}}付け
給へるもよそならずと、{{r|過去|くわこ}}の{{r|因果|いんぐわ}}をかなしび、さぞな{{r|當來|たうらい}}の{{r|生所|しやうしよ}}も同じむくいにてぞ有らんとなげ
く所に、或禪師の云、{{r|尤|もつとも}}{{r|寒苦鳥|かんくてう}}よる鳴く事{{r|治定|ぢゞやう}}、扨又此鳥晝になれば今日死をしらず、明日の死を
しらぬ身の、何故に栖を作りて{{r|無常|むじやう}}の身を{{r|安穩|あんをん}}にせんやとなく。是皆{{r|經文|きやうもん}}なり。{{r|後京極攝政|ごきやうごくせつしやう}}の歌に、あ
さなあさな雪の{{r|深山|みやま}}になく鳥の聲に驚く人のなき哉と詠ぜり。扨又我朝に{{r|佛法僧︀|ぶつほふそう}}と云ふ鳥有り。古歌
に、わが國はみのりの道の廣ければ鳥も{{r|唱|うた}}ふに{{r|佛法僧︀|ぶつほふそう}}かなとよめり。{{r|鳥類︀|てうるゐ}}さへかくのごとし。
{{r|有爲無常|うゐむじやう}}の有樣{{r|朝露|てうろ}}におなじ。人間まよふが故に爰を{{r|常住|じやうぢう}}と思ひ、{{r|會|ゑ}}をよろこび{{r|離|り}}をうれふ、是おろかなり。死
をば生の時かなしび、{{r|離|り}}をば{{r|會|ゑ}}の時うれふべし。まよふときんば{{r|方寸|はうすん}}千里の外、さとるときんば十{{r|方|ぽう}}
{{r|世界|せかい}}にあまねし。{{r|流轉生死|るてんしやうじ}}は{{r|愛欲|あいよく}}を{{r|根本|こんぽん}}とせり。新古今に、{{r|有|ある}}はなくなきは{{r|數|かず}}そふ世の中にあはれいづ
れの日までなげかんと、小町は女なれども{{r|生死|しやうじ}}のことわりをわきまへてかく詠ぜり。{{r|本來|ほんらい}}{{r|無|む}}一{{r|物|もつ}}の法
に至りてはもとむべき道理もなく、はらふべきぢんあいもなし。大海︀にしてちりをえらばず、{{r|有情非情|うじやうひじやう}}
{{r|同時成道|どうじじやうだう}}とひつそくして佛意にそむかず、{{r|直指|ぢきし}}たんでんのりにかなふ。一{{r|處明|しよめい}}のとき{{r|萬處空|ばんしよくう}}たり。三
{{r|世了時|ぜれうじ}}三{{r|世同|ぜどう}}なりといへり是を聞くに、誠に{{r|修正甚深|しうせいじんしん}}なるけうげぞや。
{{仮題|投錨=江戶町にて正學坊立行の事|見出=小|節=k-8-4|副題=|書名=慶長見聞集/巻之八|錨}}
{{仮題|頁=349}}
見しは今、{{r|正學坊|しやうがくばう}}といふ{{r|抖擻|とそう}}の{{r|行人|ぎやうにん}}、{{r|當秋|たうしう}}の頃江戶町をめぐりしが、口のうちに火をたきて見する。是
を見んとこなたかなたより伊勢御はらひを持出て渡せば、それに火を付て口のうちにてたきしは、み
るもあやふく不思議に有りつるなり。扨{{r|立行|りつぎやう}}をせんとて、本傳馬町佐久間が家のよこ町にて、水桶を
いたゞき家にあがり、けふの八つ時より明日の八つ時まで立つべしといふ。{{r|折節︀|をりふし}}其夜大雨大風しきり
にしてしやぢくをながし、家をも吹きころばすほどの大風なり。{{r|寸善尺魔|ずんぜんしやくま}}とて、{{r|天魔破旬|てんまはじゆん}}もかゝる所を
こそうかがふものならめと、皆人公ひし處に、又いたづらなる若き者︀共此{{r|行人|ぎやうにん}}を見おどさんと、{{r|向|むかう}}の家
の戶をひらき窓をあけて見ゐたりしに、此行人風にもころばず水桶をいたゞきて立つたり。夜明けて
見れば、大きなる御幣をそばに立ておきしが、雨にもぬれず風にもそんせず其儘也。{{r|行力|ぎやうりき}}つよきには
かゝる不思議ある物かと皆人云ふ。老人云く、我も人も三{{r|世|ぜ}}諸︀佛の{{r|功德|くどく}}そなはらざるはなしといへ共、
{{r|妄想不淨|まうざうふじやう}}の{{r|塵|ちり}}にまじはりて{{r|着心|ぢやくしん}}をなし、{{r|生死|しやうじ}}のきづなはなれがたし。佛は此塵を拂つて{{r|前生|ぜんしやう}}の{{r|智惠|ちゑ}}を
みがけり。ぐわんは是智惠の劔、よく煩惱のきづなをきる。ぎやうは是{{r|前生|ぜんしやう}}の火、たちまちに生死の
さかひをやきうしなふ。などか奇特なからんといへり。
{{仮題|投錨=能玄法印が宏才益なき事|見出=小|節=k-8-5|副題=|書名=慶長見聞集/巻之八|錨}}
見しは今、能玄法印といひて{{r|宏才|わうさい}}なる人有り。此者︀云ひけるは、それ世界において{{r|胎卵濕化|たいらんしつけ}}の
{{r|四生樣樣|ししやうさまざま}}有る中に、人間にますはなし。然間、一切{{r|生類︀|しやうるゐ}}人におそれずと云ふ事なし。故に人はいき物の頂上
とす。されば人の身の內よりしらみと云ふ蟲わき出で、其蟲又人の肉を{{r|食|くら}}つて一世を送る。是{{r|因果|いんぐわ}}の道
理有るが故也。昔{{r|晋|しん}}の{{r|桓蘊|かんをん}}と云ふ貴人有り。{{r|王猛|わうまう}}と云ふ者︀に逢うて{{r|當世|たうせい}}の事を語る。猛、虱を{{r|捫|ひね}}り語り
たり。然るを{{r|傍若無人|ばうじやくぶじん}}と云ふ詞是より始まる。{{r|異名|いみやう}}を{{r|半風|はんぷう}}とす。古句に、{{r|窓前|そうぜん}}に半風を攝と云々。{{r|演|えん}}
雅の詩に、しらみは湯のわくを聞きてなは{{r|血食|けつしよく}}すといへり。扨又{{r|蚤|のみ}}人を食うて夏をどる共書けり。是
に付て思ひ出せり。{{r|天竺|てんぢく}}に{{r|獅子|しゝ}}と云ふは獸の王也。獅子すでに死すといへども、百{{r|獸猶|じうなお}}其{{r|威|ゐ}}をおそれ
て其肉をくふ事あたはず。身の中に蟲を生じみづから其肉をくらふ。是を{{r|獅子身中|しゝしんちう}}の蟲と云ふ。人の
みづから其身をそんざすにたとふ。{{r|人王|にんわう}}{{r|經|きやう}}に委しく見えたり。{{r|人間|にんげん}}と{{r|獅子|しゝ}}、{{r|形|かたち}}かはるといへ共、{{r|心性|しんせい}}の
{{r|威德|ゐとく}}はことならず。{{r|過去|くわこ}}の{{r|因緣|いんえん}}しりがたし。然るに今生のえいえうは夢なりと我悟つて無常のことわ
りを忘れず、{{r|後世|ごせ}}の事のみ{{r|明暮|あけくれ}}心にかけ、其上のみしらみころす事、五{{r|逆|ぎやく}}第一の{{r|罪業|ざいごふ}}成る故、一代こ
ろす事なしといふ。愚老聞きて、是は如何なる仔細ぞととへば、{{r|能玄|のうげん}}いはく、{{r|夫|それ}}いきとしいける物な
がきはみじかきをのみ、大きなるはちひさきをくらふといへども、いづれか人をおそれざるべき。然
るにのみしらみ人のしゝむらを{{r|食|くら}}つて、一生涯をたもつ事おぼつかなき故、{{r|過去|くわこ}}{{r|因果經|いんぐわきやう}}をおもん見る
に、{{r|昔鬼|むかしおに}}と人との戰ひ有り。人の心たけきが故、鬼をこと{{く}}くほろぼせり。{{r|夫|それ}}玉しひは三{{r|魂|こん}}七{{r|魄|はく}}と
て數おほしと聞えたり。鬼にはこんはくしやくとて三つの玉しひあり。こんはめいどにおもむけば、
赤白の二渧はしやばにとゞまる。赤はのみとなり白はしらみと成りて人間の肉を喰ふ。是因果の道理
{{仮題|頁=350}}
なり。扨又のみしらみをころすが故、人また地ごくにて鬼にくらはるゝ。是のみならず、一{{r|切衆生|さいしゆじやう}}の
有さま我人をうしなへば、かれ又我をがいす。經にも一切衆生六道に{{r|輪廻|りんゑ}}する事車輪のごとしと說れ
たり。のみしらみをころす人、{{r|生々|しやう{{く}}}}{{r|世々|せゝ}}因果遁れがたしといふ。皆人聞きて、{{r|蚤虱|のみしらみ}}の仔細能化のをしへ
をもいまだ聞かず。然共法印の物語道理至極せり。有難︀しと云けるに、老人有しが聞きて、愚なる法印
の云事ぞや。人間の肉をくらふ蟲{{r|蚤虱|のみしらみ}}に限るべからず。□蟲と云ひて皮肉の間にあり。しやくしゆ{{r|寸白|すんばく}}
などと云て色々樣々の蟲有り。髮に住む蟲は黑し。土中に住む蟲は土を{{r|食|くら}}ひ、木に付く蟲は木をかみ、
かやにつく蟲はかやをくらふと云ひければ、法印返答につまり、利口ほどもなく却て赤面し給へり。
{{仮題|投錨=梅︀庵生靈を祭らざる事|見出=小|節=k-8-6|副題=|書名=慶長見聞集/巻之八|錨}}
聞きしは今、七月の事成に、皆人{{r|連座|れんざ}}して地獄よりしやうりやう來れる事をとり{{ぐ}}に沙汰せらるゝ。
七月十四日の暮には、地ごくの罪人ども罪ゆるされしやばへ來り、親類︀えんるゐどものもてなしにあ
ひよろこびあへる事{{r|治定|ぢゞやう}}なり。一年招月ながされ給ひての年の七月十四日に、中々に無身なりせば古
鄕へ歸らんものをけふの暮かたとよみければ、此歌を{{r|御門|みかど}}聞召しおよばれ、不便なりとて罪ゆるされ歸
國し給へり。扨又しゆんざうすといへる{{r|名智識|めいちしき}}、山城の瓜となすびをそのまゝに{{r|手向|たむけ}}になすぞ賀茂川
の水とよみて、しやうりやうに手向給ひければ、云はるゝこそ道理至極なれ。われも人も見ぬものが
たりせしと申されし。
{{仮題|投錨=圓心齋善にも惡にもつよき事|見出=小|節=k-8-7|副題=|書名=慶長見聞集/巻之八|錨}}
見しは今、江戶{{r|寺町|てらまち}}の近所に{{r|圓心齋|ゑんしんさい}}といひてうとく成る人有り。此者︀云やう、我えせたるあたりに居
住し、よるひる鐘太鼓の音しやうみやうの聲、聞くも耳かしましや。此圓心は錢金の沙汰こそきかまほ
しけれと、明暮願ひ事するにより、人あだなを付けて金願ひの圓心と云慣はす。されば思ひあはする事
有り。いかにいひてかおどろかすべきと云前句に、罪有りや{{r|法|のり}}の聲をもいとふらんと兼載付給へるは、
未來をよくかんがへ見て、{{r|是等|これら}}の人のうはさをいへる成るべし。然に{{r|淨土坊主|じやうどばうず}}圓心にけうげ申されけ
るは、其方{{r|縱欲|じうよく}}にふけり他にほどこす心ざしなし。人ざいををしむ。財寶は菩提のさはり也。佛は
{{r|身三|しんさん}}、{{r|口四|くし}}、{{r|意三|いさん}}とて十の{{r|戒|いま}}しめを立てられたり。爰を或る{{r|能化|のうけ}}の歌に、十惡のたちならびたる其中に欲
にまされるせいたかはなしといましめ給ひて、人間の金たくはふるを欲心と云ひて第一に嫌はれたり。
左傳に象齒あればもつて其身をやく、寶あれば也といへり。富貴の家をば鬼是をねたむ。報命つくる
時其福︀身にしたがふ事なし。福︀多ければ罪もまたおほきがゆゑに、{{r|來生|らいせ}}にはかならず地獄に入る事う
たがひなし。昔{{r|天竺|てんぢく}}に{{r|佛阿難︀|ぶつあなん}}をぐして道を通り給ふに、草村の中に穴有り。其中に金有り。是を佛御
らんじて{{r|毒蛇|どくじや}}有りとのたまふ。阿難︀是をさとりて大毒蛇也とうけがひ給ひぬ。或人是を見れば、蛇に
あらず金有りければ悅びて是を取る。此事おほやけ聞召されければ、力なく參らする。猶も殘りてぞ有
らんとて責をかうぶる時にこそ、佛の毒蛇とのたまひしを思ひあはせたれ。金がほしくば後世を願ひ
{{仮題|頁=351}}
給へ。{{r|西方極樂|さいはうごくらく}}へ{{r|參|まゐ}}り給はゞ、望みのまゝの金をえ、永くたのしむべし。小利大損なる事何ごとか是
にしかん。故に歌人は、後の世の永き寶と成る物は佛にみがく金なりけりと、よみたりと申されけれ
ば、圓心聞きておろかなる{{r|御僧︀|おそう}}のけうげや、此{{r|欲界|よくかい}}へ生れたる{{r|凡夫|ぼんぷ}}を欲心をはなれよとはひがこと也。
三賢十聖の{{r|菩薩|ぼさつ}}さへもつて法欲いまだ盡きざる故、{{r|妙覺|めうがく}}の大智あらはれず。春日大明神︀の御たくせん
に、他國よりわが國、他の人よりわが氏子と、神︀佛さへ欲心はかくの如し。如何にいはんや{{r|薄智底下|はくちていか}}
の人間をや。其上佛は衆生を一子と說き給へば、人間の苦をのがれたのしみを請ふ事は佛の大慈大悲
也。然るを人間の福︀をもとむるを制する事は何の故ぞや。圓心よりも淨土坊主こそ欲ふかき人達なれ。
それいかにとなれば、十方佛土の中にも、金は西をつかさどると聞きて、四方極樂へ生れこがね佛と
ならばやと、かねを耳かしましう{{r|叩|たゝ}}いて、明暮願ひ給ふ。誠に是こそ{{r|妄念|まうねん}}くさき念佛、目にも見えぬ十
萬億土の願ひ、千中無一萬不一生とは爰を善導もいへる成るべし。扨又阿彌陀は六十萬億なゆだごふ
がしやゆじゆんの金色の如來にてましますと聞き、猶其上にもくうでんろうかくこがねを以てこんり
ふし、{{r|七寶|しつぽう}}の植木庭の眞砂地迄もこがねをしきもてあそび、阿彌陀こそ{{r|縱欲|じうよく}}にふけり給へり。かるが
{{r|故|ゆゑ}}にといていはく、こがねは後世の{{r|障|さは}}り、いかなるか是{{r|金色|こんじき}}の{{r|如來坊主|によらいばうず}}。答へて、蛇は是鐵をきらふ
但尾にけんあり。又問うて云く、夫は蛇身是は佛身。答へて、毒藥變じて藥と成ると申されければ、圓心
聞きてかうべを傾け、{{r|御法門|ごほふもん}}有難︀といふ。其時坊主又いはく、其方此年月金をほしと思ひつる{{r|惡業|あくごふ}}は
しゆみよりも高く、善心はみぢん{{r|程|ほど}}のたくはへもせず。然りといへ共、一念善心をおこせば{{r|無量|むりやう}}のざい
しやうもせうめつし、一度{{r|菩提心|ぼだいしん}}をおこせば、三世の諸︀佛ずゐきし給ふといへば、{{r|御敎化|ごけうげ}}いよ{{く}}有
難︀しと、夫より圓心{{r|後世|ごせ}}を願ひ出、{{r|後生|ごしやう}}三{{r|昧|まい}}に身をなせり。物かならず先づ朽ちて後に蟲生ずと、{{r|東坡|とうば}}
の云へるごとく、はじめは金ねがひの圓心と云しが、今は{{r|後世|ごしやう}}願ひの圓心といはれ給ふの有難︀さよ。
{{r|大疑|たいぎ}}の下に必大悟有りと、{{r|先哲|せんてつ}}の云置きしも思ひしられたり。扨又{{r|緣|えん}}なき衆生をば惡より善に引導せよ
と說けり。又{{r|維摩經|ゆゐまきやう}}に、欲の{{r|鉤|つりばり}}をもて引きて佛道に入ると也。誠に惡に强き人は善にもつよしといへ
るは圓心の事なるべしと、皆人{{r|沙汰|さた}}せり。
{{仮題|投錨=江戶の堺地世にこえたる事|見出=小|節=k-8-8|副題=|書名=慶長見聞集/巻之八|錨}}
見しは今、あきつ洲國々の名所{{r|舊跡|きうせき}}其數をしらず多しといへ共、中にも{{r|須磨|すま}}、{{r|明石|あかし}}、{{r|難︀波|なには}}、{{r|住吉|すみよし}}ちか
の鹽がま、松島、小じまの詠こそ猶も面白けれ。定家卿の歌に、春よいかに花鶯の山よりも霞ばかり
のしほがまの浦と詠ぜり。又松島やをじまいかにと人とはば其まゝかたることのはもがなと、西行法
師よめり。され共江戶海︀邊の眺望に是をくらぶれば、千分にして餘は其一つにもあたはず。然ば江戶
の堺地海︀上まん{{く}}として{{r|碧浪|へきらう}}天をひたせり。朝には漁舟けぶりを拂つて出で、夕には滿舟こゝろよう
して歸る。其外旅の{{r|波路|なみぢ}}を分け出づる舟入る舟數をしらず。東坡が詩に、一葉萬里の路たゞ一{{r|帆|ぱん}}の風
にまかすといへるも面白し。へい{{く}}たる野のかたへに{{r|蘆分小舟|あしわけをぶね}}さをさして、尾花の波にうかぶこそ、
{{仮題|頁=352}}
秋はえならぬ{{r|詠|ながめ}}なれ。武藏野や草葉みながらおく露に末はるかなる月を見る哉と、千載集に見えたり。
{{r|玄仍|げんじよう}}、豊島の{{r|海︀原|うなばら}}見渡して、靑海︀や{{r|續|つゞ}}く武藏野春の草とせられたり。又{{r|兼如|けんによ}}江戶の川邊を見て、みる
がうちに{{r|蘆邊|あしべ}}つのぐむ{{r|干潟|ひがた}}哉と云るも又をかし。此河の水上を尋ぬるに、{{r|阿武隈川|あぶくまがは}}、おもひ河、{{r|渡瀨|わたらせ}}
川、きぬ川、とね河、此五つの大河{{r|栗橋|くりはし}}の上にて落合ひ、一つに成て武藏と下總のさかひ{{r|角田川|すみだがは}}をなが
れて、此江戶湊川へ落つ。のぼればくだる小舟の棹のいとまぞなかりける。扨御城は西にあたり、石垣お
びたゞしく、御殿は南向に立給ふ。大木古木ならぶ木の間よりも、高やぐら角やぐらあらはれ、{{r|殿主|てんしゆ}}は雲
ゐにそびえ松風はおのづから萬歲をよばふかとあやしまる。又郭外には諸︀大名高廣たる{{r|屋形作|やかたづく}}りむね
をならべ、町は軒をならべ{{r|家居|いへゐ}}ゆたかに烟立ち、民のかまどはにぎはへり。見渡せる{{r|舊跡|きうせき}}には、淺草
に觀音、湯島に天神︀、神︀田に大明神︀、{{r|貝塚︀|かひづか}}に山王權現、櫻田山に愛宕、何も{{く}}あらたにましませば、ま
うでの{{r|袖|そで}}、晝夜共に貴賤くんじゆをなせり。又{{r|諸︀宗|しうしう}}寺々の古跡には、{{r|增上寺|ぞうじやうじ}}、{{r|吉祥︀寺|きちじやうじ}}、{{r|廣德寺|くわうとくじ}}、
{{r|彌勒寺|みろくじ}}、{{r|東光院|とうくわうゐん}}、{{r|常樂寺|じやうらくじ}}、{{r|本願寺|ほんぐわんじ}}、此外寺町と號し、寺院僧︀坊は東西南北に門をならべ、時々の{{r|鐘鼓|しやうこ}}おこた
らず。{{r|見佛聞法|けんぶつもんほふ}}袖を連ねくびすをついで人跡絕えず。是なんてう四百八十寺の{{r|遠景|ゑんけい}}にもすぐれ、大
湖三萬六千{{r|頃|けい}}にもこえたり。されば慶宗といふ旅人當所はじめて一見し、江戶の景風おのづから時を
えたり。櫻田淸水又尤奇也。紅楓の山色、士峰の雪、春夏秋冬四つながら猶よろしと書きて、愚老に
見せられたり。實に面白き客僧︀の言葉かな。淸水が門に立て夏かと思へば、時しらぬふじの雪を見、櫻
田に有て{{r|長閑|のどけ}}き春かと思へば、紅葉山を詠め、四時かはらぬ眺望委細を是にしるさば、車にのすとも
あげてかぞふべからず。言語を絕するむさしの江戶の{{r|境地|さかひち}}を、心有る人に見せばやとぞ思ひ侍る。
{{仮題|投錨=關東海︀にて鯨つく事|見出=小|節=k-8-9|副題=|書名=慶長見聞集/巻之八|錨}}
聞きしは今、唐國にて鯨鯢と云魚は長さ數千里あり。波をたゝいて雷をなし、沫をはきて雨霧をなす。
舟をものむと也。四足の魚と古記に見えたり。扨又日本に鯨と云魚有り。けい{{ぐ}}のたぐひと知られ
たり。長さ三十ひろ五十ひろ有り。日本に是に過ぎたる{{r|生類︀|しやうるゐ}}なし。愚老若き{{r|比|ころ}}關東海︀にて鯨取る事な
し。死したる鯨東海︀へ流れよるを、人集つて肉を切取り、皮をば煎じて油をとる事度々に及ぶ。然ば昔
{{r|貞應|ぢやうおう}}二年五月鎌倉近邊の浦々へ、名をも知ぬ大魚死て浪に浮び、{{r|三浦崎|みうらさき}}、{{r|六浦|むつら}}の海︀邊へ流れよる。鎌
倉中にじうまんす。人こぞつて是を買取り、家々に是をせんじて油を取る。異香りよかうに滿てり。士
女是を{{r|旱魃|かんばつ}}の{{r|兆|きざし}}と云ふ。此魚の名知らず。{{r|先規|せんき}}になし。是たゞ事ならずと文に記せり。貞應の比まで
關東海︀に鯨有る事を人知らざる也。今は鯨江戶浦まで來て、うしほを空へ吹上ぐるを見れば、海︀上にや
く{{r|鹽屋|しほや}}の烟かとうたがはる。是は息をする魚にて、海︀底に計は居られぬと知られたり。古歌に、うし
ほ吹く鯨の息と見ゆる哉沖に一村夕立の雲、是はつのゝ浦によめり。江戶浦にては、沖に幾村立雲と
こそ詠じ侍らめ。鯨を{{r|銛|もり}}にてつくに鯨とるといふ。鰹は鉤にてつるなるを鰹とるといふ。是{{r|海︀士等|あまども}}の
そゞろごとゝ思ひしに、{{r|八雲抄|やくもせう}}に鯨とる鰹とるとよめり。鯨大魚なれ共、伊勢尾張兩國にてつく事有
{{仮題|頁=353}}
り。是より東の國の{{r|海︀士|あま}}は、つく事を知らず。然に文祿の比ほひ、間瀨助兵衞と云ひて、尾州にて鯨
つきの名人相模三浦へ來りたりしが、東海︀に鯨多有るを見て、願ふに幸哉ともり網を用意し、鯨をつく
を見しに、鯨、子を深く思ふ魚也。故に親をばつかずして子をつきとめいかしおく。二つの親子をおの
が腹の下にかくし、おのが身を水の上に浮べ、劔にて肉を切りさくをわきまへず親子共に殺︀さるゝ、
哀なりける事共也。心有る人は二目共見ず。{{r|殺︀生|せつしやう}}このむ人は慈悲の心なき故世のあはれをも知らず、罪
のむくいをもわきまへざるのおろかさよ。そとの濱にうたふと云ふ鳥は、砂のなかに子をうみてかく
す。{{r|獵師|れふし}}母鳥のまねをしてうたふとよべば、子はやすかたと鳴きてはひ出づるをとる。其時母空にこ
なたかなたへつきあるき、鳴く涙血の雨とふりかゝり、身を損ざす。故に{{r|蓑笠|みのかさ}}を著︀てとるとかや。古歌
に、子を思ふ淚の雨の笠の上にかゝるも{{r|侘|わび}}しやすかたの鳥とよめり。かく子を悲む鳥類︀も有りけり。た
だつれなきは獵師のこゝろなり。此助兵衞鯨つくを見しより、關東諸︀浦の海︀士迄もり網を仕度し、鯨
をつく故に、一手に百二百づつ每年つく。はや二十四五年{{r|此方|このかた}}つきつくし、今は鯨も絕えはて、一年
にやう{{く}}四つ五つつくと見えたり。今より後の世鯨たえ果てぬべし。かくのごときの{{r|大殺︀生|だいせつしやう}}、{{r|天竺|てんぢく}}
{{r|諸︀越|もろこし}}にも聞き及ばず。一寸の蟲に五分の魂有りと俗にいへるなれば、五十ひろ百ひろ有る鯨の魂いかば
かりならん。{{r|梵網經|ぼんまうきやう}}に、われ一切萬物に隨つて生を請ずと云ふ事なし。故に六{{r|道|だう}}の{{r|衆生|しゆじやう}}は皆是わが父母
也。然るを殺︀し食するは、父母を殺︀してくらふと說かれたり。一生の身をたすけんとて{{r|多生|たしやう}}の苦を思
はず、ほしいまゝなる{{r|生死妄業|しやうじまうごふ}}に着し、{{r|流轉|るてん}}のさかひをはなれざるは{{r|愚癡|ぐち}}の至也。故に非を知つてあ
らたむるを賢き人といへり。いきとしいける物、命を惜む事大山より重し。佛は十惡罪のはじめに、殺︀
生を出せり。五戒も{{r|殺︀生戒|せつしやうかい}}を第一とす。此殺︀生の{{r|根源|こんげん}}を尋ぬるに、慈悲心なく欲よりおこる。三{{r|毒|どく}}と云と、
ふも{{r|貪欲|どんよく}}を第一とせり。鯨殺︀す人{{r|生死|しやうじ}}の海︀にちんりんし、六{{r|道|だう}}四{{r|生|しやう}}の{{r|業|ごふ}}をのがれがたしといへり。
{{仮題|投錨=江戶町大燒亡の事|見出=小|節=k-8-10|副題=|書名=慶長見聞集/巻之八|錨}}
見しは昔、江戶に大火事出來して、慶長六年{{r|霜月|しもつき}}二日の四{{r|時|どき}}也。駿河町かうのじやうと云ふ者︀の家より
火を出し、{{r|折節︀|をりふし}}風に{{r|飛火|とびひ}}して、爰彼處よりやけ立つ。烟塵は目鼻口に入て前後をわきまへず。老人女人を
さなき者︀は皆やけ死にたり。去程に{{r|家藏財寶|いへくらざいはう}}{{r|燒捨皆人|やきすてみなひと}}から手をふつて、わがつらも人のつらも灰に打よ
ごれ、居所もなく立ち{{r|煩|わづら}}ひ、袖寒くして餘の物うさに、命さへあれば{{r|海︀月|くらげ}}も骨にあふとかや。わが戀
は海︀の月をぞ待ちわぶる{{r|海︀月|くらげ}}も骨にあふ世有りやと、古歌を思出て慰み事のみ云ひたりし。能き事もあ
しき事も六十年には必廻りくると俗にいへば、若き人達は聞覺え置くべき事也といへば、老人云、建
久二年辛亥三月三日鎌倉鶴︀岡の宮においてりんじの祭りおこなはる。賴朝公御社︀參に依て御{{r|所中|しよちう}}へ諸︀
侍參集す。{{r|江間殿|えまどの}}越前守、伊豆守、小山左衞門尉、同七郞、三浦介、畠山次郞、和田左衞門尉、伊藤四
郞、葛西兵衞尉{{r|以下|いげ}}の{{r|宿老|しゆくらう}}共侍所に候ずる其中に、廣田次郞{{r|邦房|くにふさ}}と云者︀有。{{r|傍輩|はうばい}}共に語て云、明日鎌
倉に大なる火災出來、{{r|若宮幕府|わかみやばくふ}}其外の諸︀家はとんど一字も其難︀{{r|免︀|まぬ}}かるべからずらいふ。是は大和守維
{{仮題|頁=354}}
業が{{r|息男|そくなん}}也。各此由を聞きて沙汰し給ひけるは、其{{r|家葉|かえふ}}をつぎ{{r|內典外典|ないてんげてん}}を學し、天下に其名有りと云
共{{r|天眼|てんげん}}はえがたからんか、更に以て誠しからずと云て、是をおどろかず、却てわらふ人多し。然に明
くれば四日丑の刻に至て、小町大路邊に火事出來{{r|折節︀|をりふし}}南風しきりに吹出で飛散し、江間殿、相模守、
村上判官代、{{r|比企左衞門尉殿|ひきさゑもんのじようどの}}、佐々木三郞昌寬、仁田四郞以下諸︀侍の屋形一宇も殘らず、其よえん若
宮の馬場本の{{r|塔婆|たふば}}にうつり、此間に幕府も同じく失火す。若宮の神︀殿、{{r|廻廊︀|くわいらう}}、經所、供僧︀、宿坊悉以
て此災をのがれず。是によつて近國の御家人馳來て{{r|群集|くんじゆ}}す。二品若宮火災にたんそくし給ふ。二品寅
の刻に藤九郞甘繩の宅に{{r|入御|じゆぎよ}}し給ふ。炎上の事によつて也。およそ{{r|邦房|くにふさ}}が言葉たなごころをさすがごと
しと諸︀人申しあへり。若宮火災の事、幕下ことにたんそくし給ふ。鶴︀岡にまゐりわづかに礎石ををが
み御ていきふと云々。然に今江戶には名をうるはかせ多し。それ{{r|陰陽頭|おんやうのかみ}}は天地和合さうこくさうじや
うようしよくをわが物にしる人也。此等の人に近付、常に聞置くべき事也と申されし。扨又江戶の火
事其日の事なりしに、下總の國ぎやうとくと云在所有り。此所にて日中に空を見れば、黑烟の中より
何共しらず長一丈餘りなる生物一つ飛さがる。{{r|行德|ぎやうとく}}の者︀共肝をけしあらおそろしき物かなとて、家の
內へにげ入りしに、海︀道へ落つるをみれば、七尺の屛風也。爰に善福︀齋と云江戶の人、此所に有合ひ、
此屛風を見て云けるは、是は江戶とほり町に片倉新右衞門と云人の屛風也。繪にはかぶきをどりを書
き慥に見しりたりと云ふ。行德の者︀共聞きて、實に武藏の江戶にあたり大火事見えたり。ほくそ飛びて
こくうに散亂し、たゞくれなゐの大雪ふるがごとし。火の息はつよきものかな、七尺の六枚屛風はる
かの國を隔て、飛事世にも{{r|奇特|きとく}}有りと云。善福︀江戶へ歸り、屛風下總の行德へ飛びたる事、{{r|治定|ぢゞやう}}我見た
りと人每に語る。聞人まことしからずと云て笑ふ。善福︀腹をたて、七尺の屛風も火事にはなどか飛ざら
んと云て、是をあらそふ。かたへなる人の云く、世に語りつたふる事誠はあいなきにや、おほくは皆
きよごん也。され共{{r|權者︀|ごんじや}}{{r|化人|けにん}}のたゞにあらざる物の傳記共不思議多かるべし。扨又下さまの人の物語
は耳おどろく事のみあり。よき人はあやしき事をば語らず。故にまことしき虛言をば語るとも、いつ
はりがましき誠をば語りて益なしといさめられたり。此詞尤信用すべし。其後われ此びやうぶの事を行
德の里人に聞きつれば誠也と云。然どもきよごんがましき事なれば、當時善福︀人のあざけりとなる。是
鏡なり。縱治定の事なりとも、せんなき事をば語りて益なかるべし。
{{仮題|投錨=村岡茂兵衞あるじまうけの事|見出=小|節=k-8-11|副題=|書名=慶長見聞集/巻之八|錨}}
見しは今、江戶とほり町或人のもとに思ふどち六人さしあつまり、世上の事身の上までも心に殘さず
語る處に、村岡茂兵衞と云人云けるは、世に貧程つらき物はなし。いかにと云に、去々年りやうがへ
町の理助武左衞門兩人へさる客の相伴に行きもてなしにあひたり。此兩人{{r|福︀祐︀|ふくいう}}たるにより、大きに書
院を立てたゝみ屛風美々敷、庭に植木有つて深山を見るがごとし。扨美膳の次第料理のこる所なし。
其上茶つぼの口をきり極上をたてられたり。世にあらば誰もかくこそあらまほしけれ。われ果報つたな
{{仮題|頁=355}}
き故願ひてかひなし。然れども人のもてなしにあひて、それを報ぜざれば心にかゝる。愚不肖なれば、
住居はわびても苦しからず。第一{{r|椀|わん}}{{r|折敷|をしき}}もたず{{r|萬足|よろづたら}}ざる事のみ多し。其上われ料理かたをしらず。去
去年より心計にて打過る事無念口惜といふ。權左衞門といふ人聞て、三年心がかりのいたましさよ。た
だ二人也、よび給へ。それがし{{r|椀折敷|わんをしき}}をばかすべしと云ふ。又一人われ酒作り也。上々の□酒を三升德利
一つ合力すべしといふ。又一人われさかな町に有り。何時なりともあたらしき肴つかはすべしと云ふ。
愚老聞て、此程{{r|旦那|だんな}}{{r|坊主|ばうず}}{{r|能茶|のうちや}}一袋くれられたり、則其茶を持參すべしといへば、又一人料理をば某にま
かせ給へ、縱何なしともしほらしく仕立出すべし。其上われ能きみそを持合せたり。古人云、味噌は
百味のおや雜掌に尤第一なりと云々。およそみそといふ事を香といふ、仔細有り。源氏にいはく、香
づくしにひぐらしといふ香の名有り。又{{r|公卿殿上人|くぎやうてんじやうびと}}はみそをひぐらしとのたまふ也。雜人中人のこと
ばにみそを蟲と云ふ。是はひぐらしといふ名をもて、香といひ蟲といふ也。源氏の香づくしの中にひぐ
らしと云香は、匂ひもすぐれてしみ入りたる香也。物に移りて匂ひもふかし。其心を取てひぐらしと名
付たり。日ぐらしは蟲の名也。始は蟬也。きぬをぬいて後を日ぐらしといふ也。是によつて、蟬は夏
の季也。{{r|日晩|ひぐらし}}は秋の{{r|季|き}}也。去程に連歌に、蟬と日ぐらしは同じ物哉。故に折のうちをきらひ、{{r|懷紙|くわいし}}をか
へて用る。竹林抄に、秋くるからに袖はぬれけりと云ふ前句に、日ぐらしのなけば{{r|空蟬|うつせみ}}音をたえてと能
阿法印付給ひぬ。{{r|殆|ほとんど}}みそは一切の物に染て匂ひ吉く味ひよき故に香と名付たり。みそはやさしく、源
氏物語にもしるされたり。我みそを持參すべしと云ふ。茂兵衞聞きて、あら嬉しや仕度せんと宿に歸り
家を見れば、悲しき哉や、おのづから朽ち殘りたる門柱わが家いかで立て直すべきと詠る古歌も、身
の上と思ひ出で侍りぬ。草屋の片はしを四疊敷、よし垣にしつらひ、壁のくづれを所々ぬり直し、ほ
ごにて腰ばりし、あたりのすゝを拂ひ、{{r|天井|てんじやう}}見苦しとてよしをあみて上をかくし、ぬれえん長さ一間
橫二尺、靑竹にてすのこをかき、ちひさう庭を萩にて垣こめ、草花を植置き、秋の暮つ{{r|方端|かたはし}}{{r|居|ゐ}}して
月を詠れば、土かべのぬり殘したる窓までももらさずやどる秋のよの月とよみし歌も、哀に思出けり。
大かた座敷出來ぬと、兩人へ三日以前に來明々十五日の晩御食申べしと、使札をつかはす。兩人忝候來
十五日の晩必參るべしと返札有り。茂兵衞よろこびこの催し晝夜心がくるに𨻶なかりけり。はや十五
日にも成りければ、五人の友達衆約束たがはず皆みな來り集りて取持給へり。扨料理も出來日も八つ
時分也。はや御出候へ、御時分よく候と人を遺す。理介返事に、昨晩も御念入られ御使今朝より御時
分待ちかね申たり。只今參るといふ。茂兵衞聞きて理介殿御時分待兼候とは滿足也。はや御出成るべ
し。やれ{{く}}とくしるなべかけよ、なますをあへよ、料理のかげんよかるべし。此理介殿をばりつぎの
助とこそ申すべけれとほむる所に、使又云ふやう、武左衞門殿は今朝いづくへか御出で行先もしらず。
定めて知人の所にて例の酒宴して醉にまどひ、夜に入歸り給ふべしと、內の者︀共申す由を云ふ。茂兵衞
聞きて肝をけし、こはそも何事ぞ、夫は誠か、昨晩使の返事にも、必明晩參るべしと申つるが、但失
{{仮題|頁=356}}
念したるか、扨もほれ者︀かな、うつけ者︀哉。此武左衞門は誠の{{r|不届|ふとゞき}}左衞門也。やれ不屆が行衞を早々
行きて尋ねよ{{く}}と腹立所へ、理介來りたり。茂兵衞彌心いられ、理介殿は御出也。不屆左衞門が行
衞をいそぎ行きて尋よ{{く}}と、重々使を立れ共{{r|行方|ゆきがた}}しらず、待つ所に、はや日は七つさがり也。不屆左
衞門來て云ふやう、今ばんの御食はたと失念し、神︀田町知人の所へ行きけるに、酒宴の場へふみかゝ
り、今朝より暮まで數盃たべよひ候へ共、參りたると云。茂兵衞氣をそんざし、火をともし膳を出す。
不屆左衞門は膳に向ひはしを取りたるが柱に打かゝりいねぶり、片箸をばたゝみにおとし、片はしを
ば膳に散し、時々大いびきかき目をさましては、ひとりくり{{r|言|ごと}}いふ。漸食過ぎ理介云けるは、{{r|萬御念入|よろづごねんいり}}
のこる處なき御もてなし故、御食よくたべたり。武左衞門殿は御酒氣、御亭主は下戶にてましませば、
大盃にて一盞にくださるべしと、汁椀にて一つのみ、はや湯を御出し候へといふ所に、不屆左衞門目を
さまし、食をばたべず共、酒においては理介におとるべからずと云もあへず打臥し、前後もわきまへ
ず。友だち衆是を見て、茂兵衞殿{{r|腹立理|はらだちことわり}}也。人をもてなさんには高きも賤きも心安からず。其上客お
そく來る時は誰とても心いられ氣をそんざす物也。前車のくつがへるは後車のいましめとかや。われ
人わきまふべき事なりといへり。
{{仮題|投錨=雲藏こつじきの事|見出=小|節=k-8-12|副題=|書名=慶長見聞集/巻之八|錨}}
見しは今、{{r|雲藏|くもざう}}と云若き者︀、江戶町に有りけるが、神︀田町の{{r|眞行寺|しんぎやうじ}}と云寺へ行き、住持に逢て云ける
は、それがし親こんかきにて身上かたの{{r|如|ごと}}く送りしが、三年{{r|已前|いぜん}}に死にわかれ、{{r|家跡職請取|いへあとしきうけと}}りこんや
を仕り候が、いやしき{{r|職|しよく}}にて手にのり付、染物に身をよごし、冬は水づかひに手足ひえ、彼是いやな
るわざにて心にそまず。させる得もなし。中々あそびたるがましなどと云うて月日を暮らし、今われ
まづしくなり、親ゆづりの家屋敷けんぞくをも皆賣盡し、妻をもさり、たゞひとり身となり、一衣き
たる計にてさむく候へば、{{r|古紙衣|ふるかみこ}}を一つたまはつて風をふせぎ、御寺の{{r|沙彌|しやみ}}に成り候べしと云ふ。老
そう聞きて思ひよらざる申事哉。惡弟をたくはふる者︀は師弟地ごくにだす。よき弟子を養ふ者︀は、師
弟佛果に至る。{{r|禍︀福︀|くわふく}}は門なし、唯人の招所にあり。其上{{r|紺搔|こんかき}}はいやしきしよくにあらず、{{r|目出度|めでたき}}仔細
あり。こんかきのおこりを語つて聞かせん。是は{{r|奧州信夫|あうしうしのぶ}}といふより始る。彼しのぶと云所に、一人
の{{r|侍|さぶらひ}}有り、都︀へのぼり{{r|大宅|おほやけ}}の事につかふまつるに依て、いとまを得ず、年月を送る程に、古鄕へ下る
事かき絕えたり。彼が妻の女遠き都︀の住居を思ひやり、男を戀ひてひめもすと泣暮し、夜もすがら泣
明す。其涙次第にこらへてくれなゐに成りてこぼれける。白き袷小袖にかゝりて{{r|染色|そめいろ}}になる。又へい
しゆのごとし。是を其國の人見移し、賢き者︀有りてすりと云事に成し、人多く着てんげり。次第にする
程に、信夫ずりと云て都︀へ上る。是を御門へさゝげ奉る。みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに亂れそ
めにし我ならなくにとよめる歌是也。其後世の人かしこく成り、すりと云よりたよりて紺と云事にな
し、又紋と云物を{{r|絞|しぼ}}り出したり。前はあゐ計にて着る物染しが、後は{{r|染殿|そめどの}}というて紅なんどにて染る
{{仮題|頁=357}}
也。あやおりと云ふ事又出來、いしやうの紋を織付たり。然に帝の御衣に{{r|紋|もん}}を織る仔細あり。正月よ
り十二月に至て三十六重の御衣を織る、一月に三あてにくばつて三十六也。是を十日づつめす也。正
月一日より十日迄{{r|召|めさ}}るゝ御衣をば、{{r|子|ね}}の日の御衣とて小松を織り靑色也。{{r|中旬|ちうじゆん}}にめす御衣は、若菜の御
衣とて{{r|七草|なゝくさ}}を織り、小袖むらさき也。{{r|下旬|げじゆん}}には霞の衣とて{{r|空色|そらいろ}}に織り白し。かくのごとく十二月を注
るし織る也。扨又后の御衣のこと、月に一つづつ一年に都︀合十二重也。爰を以て十二{{r|一重|ひとへ}}と申す也。
惣じていしやうに紋を出す事、紺かき綾おり目出度ものなり。然處に、汝人間の一大事家職を{{r|疎|おろ}}そか
に思ふが故、今其姿に成り果てたり。けちえんに因果の{{r|理|ことわり}}を語りて聞かせん。夫三{{r|世流轉|ぜるてん}}二十五{{r|有|う}}の
有樣、山野のけだ物恒河のうろくづ、生としいける物はじめもなくをはりもなく、{{r|生々世々|しやう{{ぐ}}せゝ}}車のめぐ
るが如く、六{{r|趣四生|しゆしゝやう}}を出やらず苦みをうくる處に、いかなる{{r|宿善|しゆくぜん}}やもよほしけん、今、人と生る事{{r|多生|たしやう}}
の善因深きに依て也。あふぎても猶餘り有りぬべし。提謂經に、人間の{{r|生|しやう}}を受くることたとへをとる
時、天の間に針を立おき、天より糸をくだして、大風の吹く時彼針の耳の穴に、糸を入る事は有れども、
{{r|人身|にんしん}}を受くる事猶かたしと說き給ふ處に、請けがたき人と生れ、まづしうしていけるかひなし。佛は
人間を一子の如くあはれみかなしみ思召し、{{r|現世無非樂後生善所|げんせむひらくごしやうぜんしよ}}とまもりたまへる所に、不如意すれ
ば、佛の御惠みにもはづれたり。{{r|妙樂大師|めうがくだいし}}人間に八ヶの大事をあげられたり。一日の大事は{{r|食物|しよくもつ}}、一年
の大事は衣服、一{{r|期|ご}}の大事は{{r|住所|ぢうしよ}}、男子の大事は{{r|敵人|てきじん}}、{{r|女人|によにん}}の大事は{{r|難︀產|なんざん}}、百姓の大事は{{r|地頭|ぢとう}}、財寶の
大事は盜賊、後生の大事は地獄といへり。汝是ほど目出度住所に有りといへども、身のわきまへを{{r|知|し}}
ず、いたづらに數日を送る事いふに絕えたり。すべて身上の大事といふは家職なり。それ{{r|座頭|ざとう}}は平家
を語つて世を送り、大夫は舞をまひてきやうがいをやしなひ、此ぼうずは經をよくよみ、此大寺の主
たり。其方おやは家のわざをよくなしたる故富みたり。汝は家のしよくを忘るゝ故に其姿に成りたり。
{{r|今生|こんじやう}}まづしければ{{r|後生|ごしやう}}又しか也。かるが故に、佛は未來の果をしらんとほつせば、現在の因を見よと
說かれたり。むざんや汝生々世々くるしみを請くべしと仰せければ、雲藏なく{{く}}門外へ{{r|出|いで}}こつじき
して世を送る。左傳に其父薪をさく、其子おひになふ事あたはずといへり。是は子として父の跡をつ
ぐ事あたはざる者︀をいふ也。此句をもつて父の跡師匠の跡をよく傳ふるを{{r|負荷|ふか}}といへり。生れおとれ
る子はあはれなりといふ前句に、此世より後の世や猶うからましと{{r|宗養|そうやう}}付給ひぬ。皆人{{r|雲藏乞食|くもざうこつじき}}を見
て、これこそわれ人の子供の鏡なれと云うて、子供せつかんには雲藏と異名をよぶ。扨又人の子の不屆
をみても雲藏とあだなをよぶ。當世のはやりことばなり。是に依てかしこき子供は、雲藏と名をよば
れじとつゝしみをなすと見えたり。
{{仮題|投錨=愚なる子供のうはさの事|見出=小|節=k-8-13|副題=|書名=慶長見聞集/巻之八|錨}}
見しは今、知人多し。此等の人江戶はんじやうの町に有て目出度{{r|榮|さか}}え、{{r|死期|しご}}に至て若き子供に{{r|家屋敷|いへやしき}}
{{r|財寶|ざいはう}}をさしそへゆづり卒去す。其子供家財を請取といへども、たゞいたづらに年月を送り、五年三年の
{{仮題|頁=358}}
內に財寶皆々つかひつくし、あまつさへ借金有て、家屋敷を賣りすてちくてんするも有り、或は人につ
かはれ、或は乞食するも有り。是如何なれば、今はくわれいの時代なれば世の風俗をことゝし、{{r|分際|ぶんざい}}
に過ぎたる振舞なせるが故也。われ是を見て涙をながし、誰が身の向後もかくこそあらめ。論語にい
はく之を愛し能く勞する事なからんやと云々。これは孔子の語也。子をあいするともをしへよとの義
なり。我も人も子をあはれむ計にてをしへもなく、おのが心にまかせそだつる故、仁義孝弟の道をもし
らず。身の向後をもわきまへざる故也。右の金言を思ふにつけても、愚息一人有り。幼少なればいさ
むるとてもかひ有るまじとなげき思ふ餘りに、言の葉を一首つらね、是かれと物によそへて百首よみ
ぬ。是人の爲にあらず、みづからが心をなぐさむる筆のすさみに書き加へ侍る。愚老卒して後、{{r|若|もし}}思ひ
出でやせんとなり。
{{仮題|投錨=愚息敎歌百首|見出=小|節=k-8-14|副題=|書名=慶長見聞集/巻之八|錨}}
{{left/s|2em}}
おさなきはたゞ何事もうちおきてよみ書のみの手習ひをせよ
わらはべのとはず語りに口きゝて戯れするはにくしうるさし
{{r|稚|をさな}}きがやうじつかはず爪きらず髮をもゆはぬさまはつたなし
稚きは{{r|立居|たちゐ}}あるきをしとやかに言葉すくなにやさしかれとよ
善惡のなにはのことも稚きはをしへを聞くぞかしこかりける
いやしきに伴ひぬればおのづから{{r|姿|すがた}}ことばもともにいやしし
主親へあふぎはなかみわたすともいだす法あり人にたづねよ
おろかなる身なりと思ひくたすなよ道を學ぶは根氣にぞよる
かりそめもそらごとなせばくせとなり誠をいへど僞りになる
道しれるひとりの下でよくまなべ後は數多のかたをこゆべし
心えぬことをばはぢず人にとへしりたりとてもとふは禮なり
我ための一けいあらば心がけあまたの道をおもひばしすな
よき事を心にかけてくせにせよ{{r|後思|のちおも}}はねどくせはわすれず
友人としたしみありてかたるとも心のおくはいひ殘すべし
色かたち見て何かせんその人の{{r|言葉|ことば}}を聞きてよしあしをしれ
道をよくまなびいさめを聞くとても後思はねばきかず學ばず
いやしくも道有る人をあがむべし名高きとても無知は{{r|賤|いや}}しし
國に入り門に入るにも{{r|禮義|れいぎ}}ありしらずば入にとひておこなへ
我身をばいやしみことを輕くせよ人をば重くあがむるぞよき
友人の誠有るにはしたひよれいつはりあらば遠ざかるべし{{nop}}
{{仮題|頁=359}}
なす事のなくてあそびを好みなば{{r|後乞食|のちこつじき}}のわざをなすべし
やみもせぬ{{r|前|まへ}}のりやうぢをゆだんすな{{r|油斷|ゆだん}}の{{r|敵|てき}}にかつ{{r|藥|くすり}}なし
ゑせ{{r|者︀|もの}}に{{r|逢|あ}}ふは{{r|其日|そのひ}}のけがとしりことを{{r|咎|とがめ}}ずそこを立ちのけ
かたき持曲れる人とたんりよなる人にはかりの道づれもすな
衣裝をばよきを{{r|好|この}}まで見苦しくなくさへあらば{{r|大|おほ}}かたにせよ
{{r|耳|みゝ}}に{{r|聞|き}}きまなこに{{r|見|み}}たる{{r|色聲|いろこゑ}}を{{r|腹|はら}}にあぢはひむねにをさめよ
富るともおごりばしすな榮ゆるはおとろふる世の習ならずや
一日の身のいとなみを安からずおもはゞやすく年をへぬべし
なすわざはよきにもとづき世を送れ死るきは迄身を離れねば
{{r|寶|たから}}をばふかくかくしてみするなよぬすみをするは{{r|眼|まなこ}}なりけり
{{r|神︀佛|かみほとけ}}ゐますがごとくをがみせば二{{r|世|せ}}の{{r|願|ねが}}ひはむなしかるまじ
知るしらず人の憂ひを聞くならばともになげくぞ仁の道なり
人の上しりがほすれど身の程をしらぬ者︀こそ世にはおほけれ
身の程の振舞するぞ見てもよし過ぐれば人のそしりあるべし
{{r|破|やぶ}}れをばすこしき{{r|時|とき}}にこしらへよ{{r|打|うち}}おきぬれば{{r|大|おほ}}ぞんとなる
ことわらん事をとゞけずうちおけばのち災の有るべしとしれ
人あまたまじはるならば何事も他に任するをよしとしるべし
{{r|誠|まこと}}しきうそは{{r|語|かた}}ると{{r|見聞|みき}}くともいつはりげなるまこと{{r|語|かた}}るな
一言に心のうちのしらるればものいひいだすまへをつゝしめ
{{r|前|さき}}の世の{{r|契|ちぎり}}あはれめ{{r|君|きみ}}と臣またのちの{{r|世|よ}}もめぐりあはめや
ばくちうち喧嘩を好みきよごんいふ人をば隔て睦ぶべからず
よき{{r|友|とも}}は{{r|智者︀|ちしや}}いしや{{r|福︀者︀老者︀|ふくしやらうじや}}には{{r|近|ちか}}くよりそひ親しみをなせ
よきにつきあしきに付て親子をばおもひ他人は思はぬとしれ
世のなかの人を親子と思ふにぞにくしとひとりすつる者︀なし
{{r|養生|やうじやう}}をよくするたびにわすれずはわれとくすしで病有るまじ
よき事を內のものにはして見せよ上をまなぶは{{r|下|しも}}のならひぞ
家主は朝とくおきて內そとを見めぐりてのち身のかまへせよ
{{r|日|ひ}}くれなば{{r|火|ひ}}の{{r|用心|ようじん}}をいひつけよ{{r|下部|しもべ}}の者︀のゆだんがちなる
{{r|物|もの}}ごとに下女は{{r|當意|たうい}}をあがなひて後のわざはひ思はぬとしれ
老いたるを敬ひしもをあはれみてかりにも人に無禮ばしすな{{nop}}
{{仮題|頁=360}}
我家へ人きたりなばこゝろよく{{r|言葉|ことば}}をかはしむつましくせよ
よき事もあしき事をもかゞみぞと人を見わけて我身をはしれ
わが妻をば常にいさめよともすればねたき心のねざし出るに
身におはぬ福︀は願ふとかひあらじ世は皆{{r|前|さき}}のむくいとをしれ
いのるともいのらずとても直なる{{r|人|ひと}}をば{{r|神︀|かみ}}のまもるとぞきく
ひとりある女のきはと二人居て語るあたりへよらぬことなり
日々に{{r|我|わが}}身の上をのみかへりみて人をおろかに思ひばしすな
しるをしり知らずはしらず有るやうに{{r|語|かた}}る人にぞ睦び易けれ
我{{r|業|わざ}}をかろく思ひておこたらばおもきなげきに長く逢ふべし
よき事と思ひて人のなすげいをわがきらひとて誹りばしすな
大きなる事をなすには{{r|物|もの}}ごとのすこしき事は打ちすてゝおけ
つゝしみもなくて{{r|言葉|ことば}}をもらす人のちの{{r|破|やぶれ}}をまねく成るべし
我人によくあたりなば人われに其ほどこしをせではおくまじ
{{r|世|よ}}の{{r|人|ひと}}にわろくいはれずわれ一{{r|期|ご}}よくさかゆるは{{r|孝|かう}}の{{r|第|だい}}一
一錢をかろく思はでたくはへよちりつもりては山とならずや
よそ事をわろく云ひなす其人は我身の上もいふとしるべし
ともかくも人の諫めを聞くぞよきはかりがたきはわが心なり
ことたらぬ{{r|身|み}}をななげきそ{{r|世|よ}}に{{r|獨思|ひとりおも}}ふやうなる人しなければ
なすわざもわろくば品をかへてまし是をかしこき人といふ也
物しらぬ人こそ世には多からめ笑ふはおのれしらぬなりけり
たかからぬ{{r|位|くらゐ}}なげきそわが智惠のひろからざるを{{r|深|ふか}}く{{r|悲|かな}}しめ
{{r|古鄕|ふるさと}}もあしくばよそへとくかへよ一{{r|期|ご}}のだいじ住處なり
よしあしの人の心は物いはず目に見ぬとても友にしらるゝ
{{r|家作|いへづく}}りつかひ{{r|道具|だうぐ}}も{{r|身|み}}のほどにしおきたるこそ{{r|心|こゝろ}}にくけれ
なすわざのいとまのあらば願はくは{{r|和歌|わか}}を{{r|學|まな}}びて心なぐさめ
ふうふ{{r|中|なか}}よきは{{r|他人|たにん}}も{{r|見|み}}て{{r|床|ゆか}}しへだての{{r|有|あ}}るは{{r|聞|きく}}もいたまし
{{r|垣|かき}}に{{r|耳|みゝ}}{{r|空|そら}}に{{r|眼|まなこ}}のありとかやかくすことをばふかくつゝしめ
{{r|堪忍|かんにん}}の一つによりてさし出づる百のいかりはしづまりぬべし
{{r|世|よ}}のなかに{{r|鬼神︀|おにがみ}}よりもおそるべき物は{{r|道理|だうり}}をしらぬ人なり
物每に仁義{{r|作法|さはふ}}の有るなればしらずば人のまじはりなせそ{{nop}}
{{仮題|頁=361}}
{{r|善事|よきこと}}を人にほどこし身にうくることをじするを{{r|義|ぎ}}の{{r|道|みち}}としれ
まづしきは願ひすくなし富みぬれば望み多くて身をぞ苦しむ
ひとりして{{r|美食|びしよく}}このむはつたなしやあまた{{r|伴|ともな}}ひ味ひをなせ
かほもちを常によくせよあしければ{{r|海︀道|かいだう}}にても人の目にたつ
老いたるを笑ひばしすな年よればかつは{{r|好味|かうみ}}の有る物ぞかし
上を見て世をなうらみそわれよりも下をあいして心なぐさめ
{{r|宵|よひ}}にねてとらにおくれば一{{r|日|にち}}の{{r|身|み}}のさいはひは{{r|多|おほ}}く有るべし
{{r|辻路次|つじろじ}}で人にあふとも{{r|見|み}}のがさず{{r|禮義|れいぎ}}をなして行き別るべし
我爲になす{{r|善根|ぜんこん}}はつみと成り{{r|他|た}}にほどこすは大くどくなり
よき人の中にまじはれためざるにまがる心もすなほ成るべし
思はずもけふ{{r|幸|さいはひ}}に逢ふならばるすわざはひの有るべしとしれ
何事もそのと計にこゝろえず一つによりて百をしるべし
人の物ほしくおもはゞ我物を人ほしがるを思ひあはせよ
{{r|養生|やうじやう}}をつねにこゝろを安くせよよはひのぶるにます藥なし
香花を親に手向はいけるごとつかふまつりてかう{{く}}をせよ
げいのうは有りとなし共人はたゞ心ひとつをよくをさむべし
生は死と兼てさとればにはかなる{{r|期|ご}}にいたりても驚きはなし
いたづらに{{r|明|あか}}し{{r|暮|くら}}さじ月花に{{r|心|こゝろ}}をよせて{{r|世|よ}}のあはれしれ
{{r|後|のち}}の{{r|世|よ}}にぢごくの{{r|有|あ}}りと{{r|聞|きく}}なればいけるあひだに{{r|用心|ようじん}}をせよ
{{r|何事|なにごと}}も上をおそれて{{r|大切|たいせつ}}に{{r|身|み}}をつゝしみて一{{r|期|ご}}さかえよ
{{left/e}}
{{仮題|ここまで=慶長見聞集/巻之八}}
{{仮題|ここから=慶長見聞集/巻之九}}
{{仮題|頁=362}}
{{仮題|投錨=卷之九|見出=中|節=k-9|副題=|書名=慶長見聞集/巻之九|錨}}
{{仮題|投錨=江戶町衆はさみ箱かつがする事|見出=小|節=k-9-1|副題=|書名=慶長見聞集/巻之九|錨}}
見しは昔、慶長三年の事かとよ、夏の{{r|暮|くれ}}かた四五人{{r|門立|かどだち}}して涼し處に、{{r|小者︀|こもの}}にはさみ箱かつがせ{{r|海︀道|かいだう}}
を通る人有り。あらふしぎや大名にはあらず{{r|伴|とも}}する者︀もなし、誰にてましますらんと能く見れば、江戶
本町のなまりや六郞左衞門なり。我も人も是を見て、{{r|扨々|さて{{く}}}}きやつは出過者︀、ぜんたい國大名のまねをし
て、はさみ箱をかつがせとほるぞや町人のぶんとして似合はぬ振舞かな、よもおのれがにてはあらじ、
{{r|大名衆|だいみやうしう}}のはさみ箱をやかりつらん、たそがれ時なれば人はしらじと、世勢をするのみたもなさよ。我等
が前を過ぐる時はづかしくや思ひけん、頭をもたげず通り行うしろすがたのをかしさよ。只是大名と太
郞冠者︀が{{r|狂言|きやうげん}}に{{r|能似|よくに}}たりと、指をさして笑ひたりしが、今は高きも賤きも皆はさみ箱をかつがする、
是のみならず、{{r|當世|たうせい}}の{{r|風俗|ふうぞく}}昔に{{r|替|かは}}り{{r|美々敷事|びゞしきこと}}のべ盡すべからず。
{{仮題|投錨=老樂齋身持を沙汰する事|見出=小|節=k-9-2|副題=|書名=慶長見聞集/巻之九|錨}}
見しは今、{{r|老樂|らうらく}}といひて年よりたる{{r|下郞|げらう}}有り。若き{{r|比|ころ}}骨を{{r|碎|くだ}}きて{{r|身上|しんしやう}}をかせぎ錢をたくはへて後、
{{r|山城|やましろ}}の國愛宕山のふもと谷水といふ{{r|在所|ざいしよ}}のほとりに居住して有りしが、每月朔日一度づつ{{r|世間|せけん}}の{{r|身持|みもち}}を
{{r|沙汰|さた}}する。此{{r|物語|ものがたり}}を聞く人はかならず福︀者︀となりて、{{r|長|なが}}くえいぐわにあふべしといひならはす。我{{r|其|その}}
{{r|比|ころ}}京へ上りたりしが、此由を聞き願ふに{{r|幸哉|さいはひかな}}、さやうの事ならば關東より{{r|態々|わざ{{く}}}}上りても是を聞かでは有
るべきかと、月の{{r|朔日|ついたち}}を待ちえて、いそぎ谷水といふ{{r|在所|ざいしよ}}を尋行きしに、この{{r|談義|だんぎ}}を{{r|聽聞|ちやうもん}}せんと、
{{r|老若男女|らうにやくなんによ}}{{r|群集|くんじゆ}}す。八十有餘の翁びんひげ白髮なるが、三尺ほど高き{{r|床|ゆか}}にのぼりて云ふやう、それ{{r|佛法|ぶつぽふ}}
{{r|世法|せほふ}}は車の{{r|兩輪|りやうりん}}のごとく鳥のりやうよくにたとへたり。然に{{r|佛法修行|ぶつほふしゆぎやう}}と云ふは若き{{r|比|ころ}}けうげを廿年三十
年{{r|修行|しゆぎやう}}し、後の世にこがね佛と成つてたのしみにあはん事をよく{{r|推量|すゐりやう}}したるを、{{r|智者上人|ちしやしやうにん}}とはいへり。
{{r|爰|こゝ}}に{{r|春屋和尙|しゆんをくをしやう}}と申してたつとき人まします。{{r|檀那|だんな}}問ひけるは、{{r|極樂|ごくらく}}へとく參りたしといふ。{{r|和尙|をしやう}}一首
を詠ず。つみとがのおもきをすくふ{{r|方便|はうべん}}は{{r|極樂|ごくらく}}よりも{{r|地|ぢ}}ごく成りけり。ぼんなうの大海︀に入らずんば
{{r|菩提|ぼだい}}の國をうべからず。先{{r|地|ぢ}}ごくに入るべしとのたまふ。是もつとも{{r|殊勝也|しゆしようなり}}。又或人善をば何となす
べきやらんと問ふ。僧︀答へて、{{r|殺︀生|せつしやう}}せよせつしやうせよ、殺︀生をなさば地獄に入る事矢の如しといはれ
たり。是も有がたし。されば佛は{{r|現在|げんざい}}の{{r|過|くわ}}を見て{{r|過去|くわこ}}{{r|未來|みらい}}を知ると說かれたり。然るときんば、{{r|現在|げんざい}}
にて三{{r|世|ぜ}}{{r|明白也|めいはくなり}}。{{r|今生|こんじやう}}まづしければ{{r|後生|ごしやう}}またしか也。故に{{r|佛法世法|ぶつぽふせほふ}}は車の{{r|兩輪|りやうりん}}といへり。扨また世法
修行と云ふは、{{r|身體|しんたい}}はつぷを父母に{{r|請|う}}けし形をかへず、そのまゝにて{{r|若|わか}}き{{r|比|ころ}}より老いてたのしむべき
事を{{r|修行|しゆぎやう}}せり。身體あへてそこなひやぶらざるを孝のはじめなりと、{{r|孝經|かうきやう}}にもかゝれたり。{{r|樂天|らくてん}}が云
く、一{{r|期|ご}}のはかりごとは{{r|幼稚|えうち}}に有りと也。{{r|道品々|みちしな{{く}}}}にかはるといふとも、他の寶をかぞへて半錢の得あ
るべからず。たゞわが身をかへりみ{{r|油斷不機根|ゆだんふきこん}}にして立身なりがたし。人となる者︀は安からず。安か
{{仮題|頁=363}}
る者︀は必人とならず。錢をたくはへて後、{{r|現世安樂|げんぜあんらく}}の{{r|福︀人|ふくじん}}とよばれんは佛の位にひとしからずや。我
等かた{{ぐ}}請けがたきぼんぶ、{{r|人身|にんしん}}をこゝにうけて一世たのしみにあふ事、たゞ是錢にしくはあらじ。
され共是をうる事かたし。{{r|爰|こゝ}}に{{r|貧者︀|ひんじや}}くらまのびしやもんへ{{r|參籠|さんろう}}し福︀を祈︀りける處に、しやだんよりむ
かで一つはひ出でたり。是はいかなる{{r|仔細|しさい}}ぞと神︀主に問へば、あのむかでの{{r|𨻶|ひま}}もなく手足をうごかす
をみよとの敎へなり。是に付ても皆人{{r|宿|やど}}に{{r|晝寐|ひるね}}して心安く有るべき身が、是まで遠路をはこび給ふ心
ざしかへす{{ぐ}}も有がたくたのもしく覺え侍る。遠き所もいで立つ足もとよりはじまると、古人の申
置きしも{{r|立身|りつしん}}の{{r|肝要|かんえう}}、いさめを云へる成るべし。山もふもとのちりひぢより起つて{{r|天雲|あまぐも}}のたな引く迄
おひのぼるがごとし。されば{{r|堺|さかひ}}にもずや{{r|宗安|そうあん}}といひてうとくなる人有り。此人に貧者︀あひて云けるは
金を願へども來らざるはいかにと問ふ。{{r|宗安|そうあん}}答へて、{{r|先|まづ}}錢を願ふべしといふ。實に錢はねがひ安かるべ
し。一錢かろしといへ共重ぬれば貧しき人を富める人となす。扨又京たちうり{{r|宗和|そうわ}}が所にて、{{r|碁會|ごくわい}}有り。
{{r|本因坊|ほんいんぱう}}と{{r|利玄|りげん}}との{{r|碁|ご}}うちみだれ興に乘じ、{{r|利玄|りげん}}一{{r|手|て}}打ちて尾張の國うつみの浦に大網をおろしたりと
申しければ、{{r|本因坊|ほんいんばう}}一手打ちて、一目づつもはまをたしなめといはれたりと人かたる。{{r|本因坊|ほんいんばう}}の云へ
るこそ{{r|金言|きんげん}}なれ。此{{r|心持|こゝろもち}}有る故に、利玄に{{r|半石|はんせき}}つよく、{{r|名人|めいじん}}のほまれ天下に聞え有り。此人{{r|算砂|さんさ}}と名
付たるは、猶以{{r|殊勝|しゆしよう}}也。いさごをかぞふるならば其中にかねをひろふべし。{{r|古記|こき}}にも{{r|砂石|させき}}をひろふ者︀
必{{r|金玉|きんぎよく}}をうべしといへり。されば{{r|沙汰|さた}}の二字はいさごをえるとよめり。それいかにとなれば、金とい
さごと取まじへ、それ{{ぐ}}にえりわけ、金の道理を取て非のいさごをえらび捨て、{{r|是非分明|ぜひぶんみやう}}也。然に
今日の{{r|世法|せはふ}}{{r|旁々|かた{{ぐ}}}}{{r|德分|とくぶん}}に五ヶ條の{{r|金言|きんげん}}を沙汰する者︀也。是をよく聞覺えつかの{{r|間|ま}}も忘るゝ事なかれ。
一、第一{{r|人間|にんげん}}の{{r|定命|ぢやうみやう}}百歲其上{{r|不定|ふぢやう}}の事
一、第二{{r|家職|かしよく}}に{{r|油斷|ゆだん}}なき事
一、第三一錢をつかふに安からざる事
一、第四みぢんつもつて山となる事
一、第五しやつくわくが身をつゞむるも、一たびはのべん爲なり。然に錢有て用ひざらんは、
{{r|有財餓鬼|うざいがき}}となづく。其上われだによく物くひ、心安くあらばと願ふは、たゞぶんちうのごとし。{{r|小人|せうじん}}は獨た
のしむ、君子は衆とたのしむと古人も云へり。是を耳のそこによくとゞめなば、德の來る事火のかわけ
るに付、水のくだるにしたがふが如し。などか{{r|富貴|ふうき}}の家にいたらざるべき、あなかしこといひければ、
皆人聞きて有難︀しとて{{r|退散|たいさん}}せり。
{{仮題|投錨=鰒の肉に毒ある事|見出=小|節=k-9-3|副題=|書名=慶長見聞集/巻之九|錨}}
見しは今、{{r|知人|ちじん}}四五人同道し{{r|愚老所|ぐらうのところ}}へ尋ね來り給ひぬ。われ出逢たまさかの御出何をかもてなし申さ
ん、あたらしき{{r|肴|さかな}}はなきかとひとりごといへば、客の中に一人申されけるは、{{r|亭主|ていしゆ}}は我等を{{r|馳走|ちそう}}ぶり見
えたり。餘の物は{{r|無用|むよう}}、皆々{{r|鰒|ふぐ}}汁{{r|好物|かうぶつ}}なれば、{{r|肴町|さかなまち}}に鰒有るべし。たゞ鰒汁よといへる處に、又一人鰒
{{仮題|頁=364}}
汁のもてなしならば、{{r|鶴︀白鳥|つるはくてう}}にもまさり成るべし。たゞ鰒のあつ物よと口々にいへり。{{r|愚老|ぐらう}}聞きて鰒
汁安き{{r|御所望也|ごしよまうなり}}。然共{{r|爰|こゝ}}に{{r|物語|ものがたり}}の候、我知人に{{r|中嶺源|なかみねげん}}右{{r|衞門|ゑもん}}と云ふ人、常に鰒汁を好みしが、{{r|去年|こぞ}}の
{{r|夏|なつ}}鰒{{r|肝|きも}}にあたつて血をはき忽死にたり。愚老それを見しより、鰒はおそろしく候。又{{r|當年|たうねん}}{{r|傳馬町|てんまちやう}}にて、
彥三と申者︀鰒を好みしが、ある時{{r|干鰒|ほしふぐ}}をくひ死たり。扨又此程こあみ町にて鰒をくひ、親子けんぞく
七人家一つにて死たり。是を見しよりわれおくびやう心にや、鰒の沙汰を聞けば身の毛よだつ也。此度
鰒汁をば免︀るし給へと申しければ、其中に竹田庄右衞門と云{{r|年比|としごろ}}五十{{r|計|ばかり}}の老士聞きて、亭主の申す處
{{r|理|ことわり}}しごくせり。唯今思はずしらず鰒のさた有りしに、若き衆たはぶれ事に{{r|所望|しよまう}}なり。我も此{{r|已前|いぜん}}人の
相伴に鰒汁をくひつるが、くふうちにも少心にかゝり、食して後も何とやらん忘れがたかりし。鰒を食
しては酒をのみたるがよきと聞きつれば、われ下戶なれ共酒を多くのみたりしに、却て酒に醉ひて胸
とゞろく。是は鰒故か酒故かとしばしが程心えなく思ひつれば酒さめたり。鰒食しては誰がおもはく
も同じかるべし。然るときんば客に鰒をもてなす{{r|亭主|ていしゆ}}は{{r|無分別者︀|むふんべつもの}}成るべし。鰒無用と申されければ、
若き{{r|衆|しう}}{{r|是非|ぜひ}}のさたなし。爰に或老人此物語を聞きていひけるは、{{r|醫書|いしよ}}に鰒は大溫肝に毒ありとしるし
たり。然るに去年{{r|通|とほり}}町にて人々{{r|寄合鰒料理|よりあひふぐれうり}}せしが、此鰒人ためならずとて手づから生鰒をあらひ、肝を
取て捨て血あひ骨迄も切捨て、みどころ計をよくこしらへ、にごり酒に一時ひたし料理して、八人{{r|寄合|よりあひ}}
しよくせしに、其內五人は則時に死、三人は十日程病みて後{{r|本復|ほんぷく}}す。此人々町にても人にしられたる
人也。鰒をくひあまた死にたると{{r|沙汰|さた}}あらば、かばねの上の{{r|恥辱|ちじよく}}なるべし。時のくひちがひとてさた
もせず。上代と{{r|末代|まつだい}}は人の性も違ふ故か、{{r|肉|にく}}計くひて人多く死する事必定なれば、鰒を食して益有るま
じくかく、{{r|愚|おろ}}かなる人を佛は{{r|譬|たと}}へて、經に犛牛尾を愛するが如しと說かれたり{{仮題|入力者注=[#「犛」は底本では「(牙+攵)/耳」]}}。此牛の尾に{{r|劔|けん}}有り。
是を牛ねぶれば舌きれ血出る、血の味ひすうして甘し。是によつて好みて尾をねぶり、終には舌破れて
死すと說けり。牛は{{r|畜生|ちくしやう}}たるにより物をしらず。それ欲のきはめは命に過ぎたる物なし。天下にかへ
ざる大切の命を持ちていける間よろこばず、{{r|毒魚|どくぎよ}}と知つてふくすは、世のしれものなりと申されし。
{{仮題|投錨=兼然法師元日をよろこばざる事|見出=小|節=k-9-4|副題=|書名=慶長見聞集/巻之九|錨}}
聞きしは今、江戶町に{{r|兼然法師|けんねんほうし}}と云人云けるは、世間の人萬物いはひさらに道理なし。諸︀人年の內より
春の來るをおそしと待つ事如何なる{{r|仔細|しさい}}ぞや。紀伊が歌に、はかなしやわが世も殘りすくなきに何と
て年のくれをいそぐぞとよめり。また{{r|基俊|もととし}}、いづくにもをしみあかさぬ人あらじこよひばかりのことし
と思へばと詠ぜり。然に皆人{{r|極月|ごくげつ}}廿九日{{r|晦日|みそか}}に成りぬれば、元日の祝︀の{{r|爲|たね}}にとて{{r|魚鳥畜類︀|ぎよてうちくるゐ}}の肉を{{r|用意|ようい}}
す。是は何事ぞ、經に肉を食する口は{{r|死尸|しゝ}}を捨る{{r|塚︀|つか}}なりと{{r|戒|いまし}}め給へば、却てわざはひをまねくにあら
ずや。{{r|節︀分|せつぶん}}の夜大豆をまき、{{r|明春|みやうしゆん}}元日にはまづ{{r|年神︀|としがみ}}を祝︀ひ、{{r|詩人歌人|しゞんかじん}}は詩を作り歌をずし{{r|連歌|れんが}}をつらね
悅びのみいへり。是又{{r|心得|こゝろえ}}がたし。{{r|俊成卿|しゆんぜいきやう}}{{r|述懷|じゆつくわい}}の歌に、澤におふる{{r|若菜|わかな}}ならねどいたづらに年をつ
むにも袖はぬれけりと詠ぜり。元日人來て愚老を若く成たるといふ、{{r|仔細分別|しさいふんべつ}}なし。言葉計のあらま
{{仮題|頁=365}}
しはうしと云前句に、身をいはふ{{r|初春每|はつはるごと}}に老の來てと{{r|宗砌|そうぜい}}付給ひぬ。我は去々年よりも去年、こぞよ
りもことし、年をとり重るに隨て、{{r|眉|まゆ}}白くなり{{r|腰屈|こしかゞ}}み、眼かすみ耳聞えず萬苦み重る事、{{r|惜|をし}}みても餘り
あるは{{r|年|とし}}の{{r|暮|くれ}}、うらみてもうらめしきは年の初也。{{r|拾遺|しふゐ}}に、かぞふればわが身に積る年月を送りむかふ
と何急ぐらんと、{{r|兼盛|かねもり}}よめり。人間春を{{r|重|かさ}}ね月日を過す事、たとへば{{r|屠處|としよ}}の{{r|羊|ひつじ}}のごとし。{{r|步々|ほゝ}}死に近
し。故に{{r|兼然|けんねん}}春をいはふ事なしと云ふ。我聞きておろかなる{{r|法印|ほういん}}の云ひ事ぞや、{{r|節︀分|せつぶん}}の{{r|夜|よ}}{{r|鬼|おに}}は外へ福︀
は內へとをさめ、{{r|煎大豆|いりおほまめ}}をかぞへ、舟をゑがきて敷などするを、なやらふ鬼やらひ共{{r|歌連歌|うたれんが}}に詠ぜり。是
は{{r|大內|おほうち}}にてのまつりごと萬民是をまなべり。天下において春の初のことぶき、是仁義のもと{{r|人倫|じんりん}}のた
もつ所の命也。古歌に、むつきたつ春のはじめにかくしこそあひしゑみては年はけめかもと詠ぜり。年
のはじめしたしき中あひ見えていはふ事、{{r|壽命延年|じゆみやうえんねん}}の法也。天子も元正の{{r|寅|とら}}の時淸凉殿東庭へ出御有
つて星を拜し給ふ。すべらぎの星をとなふる雲の上に光のどけき春は來にけりと詠ぜり。ぞくしやう
を拜し{{r|災難︀|さいねん}}を{{r|除|のぞ}}く{{r|趣|おもむき}}は、大地ずゐしやうしに見えたり。雲の上に聞えあげよとよばふらん年のはじめ
の{{r|萬代|よろづよ}}の聲とよめり。旗をふりて萬代の聲と萬歲をとなへ給ふと也。正月の神︀は{{r|女體|によたい}}ばんご大王の
{{r|乙姬|おとひめ}}にてまします。{{r|本地文珠師利|ほんぢもんじゆしり}}ぼさつ御名は待連神︀と申也。一{{r|切|さい}}草木{{r|國土|こくど}}いきとしいける物{{r|有情非情|うじやうひじやう}}
迄も、春の來るをよろこばずと云ふ事なし。春は東よりはじまる故、草木春をつかさどる、陽に向へる
花木は春に逢ふ事安し。まして人間においてをや。正月{{r|朔日|ついたち}}の{{r|御節︀會|ごせちゑ}}に{{r|子|ね}}の日の祭りとて、{{r|諸︀卿達|しよきやうたち}}集
つて二枝の松を持寄て、朔日{{r|辰|たつ}}の時是を植ゑ、神︀歌をうたひ政をなし給ふ。扨又白散と云{{r|藥|くすり}}を正月
{{r|朔日|ついたち}}一人是をのめば一家{{r|無病|むびやう}}、一家のめば一里{{r|無病|むびやう}}と云々。元日の祝︀言目出度仔細あげてのべ盡すべから
ず。昔{{r|天竺佛性國|てんぢくぶつしやうこく}}に一人の{{r|大外道|だいげだう}}有り、名付て{{r|大量王|だいりやうわう}}といふ。三{{r|界|がい}}にあらゆる所の大外道にて、{{r|佛神︀|ぶつしん}}
三{{r|寶王法|ばうわうはふ}}をけがしさまたぐる者︀也。その國にいます加璃帝王彼雲王をせめ殺て、肉をげんたんと云ふ藥
にねりて、{{r|國土|こくど}}の人民に與へ給ふ。是を{{r|食服|しよくふく}}する者︀悉若きに返り、病有る者︀は則ちいゆ。國土{{r|豐饒|ほうねう}}に
して{{r|長命富貴|ちやうめいふうき}}也。天より請次て三國に是を用る。正月七日を五{{r|節︀供|せつく}}の第一として七種の糝する事、彼
大曇王が{{r|肉皮|にくひ}}を切集めて{{r|肉遠丹|にくゑんたん}}にせし{{r|姿|すがた}}也。是を食して一{{r|切|さい}}の人民の{{r|命|いのち}}を延ると云々。{{r|惣|そう}}じて五{{r|節︀句|せつく}}は
曇王が政也。正月七日を{{r|人日|じんじつ}}と云ひ、三月三日を{{r|仙源|せんげん}}と云ひ、五月五日を{{r|端午|たんご}}と云ひ、七月七日を七夕
と云ひ、九月九日を{{r|重陽|ちやうやう}}といふ。皆其日々々に{{r|仔細|しさい}}有り。元日を{{r|祝︀|いは}}ふ事、{{r|漢︀土|かんど}}には詩を作り和國のこと
わざには歌をよむ事常也。三元悅びの言の葉をば高も賤も詠じ給へり。{{r|尋常|じんじやう}}の詞も和歌に用ひて思ひ
を述れば{{r|感應|かんおう}}有りとかや。おろかなりともよし和歌と云前句に、春秋のあはれをしらぬ身はかなしと
{{r|紹巴|ぜうは}}付給ひぬ。予も又人の數ならねど心ざしさえ{{r|難︀|がた}}きあまりに、{{r|蜂腰|ほうえう}}卑詞を語りて{{r|當春|たうしゆん}}の元日に、日
の本や{{r|人|ひと}}の國までけふの春と申し侍りぬ。新古今に、けふといへば{{r|諸︀越|もろこし}}までも行く春を都︀にのみと{{r|思|おも}}
ひけるかなと詠ぜり。{{r|昌琢︀|しやうたく}}の{{r|發句|ほつく}}に、老木にも花さく春のめぐみ哉とせられたり。{{r|法印|ほういん}}老いたりとも
いかで春をよろこばざらん。悅ぶ氣の前に幸の來る事、{{r|內典外典|ないてんげてん}}に多く記せりと、皆人も申されけれ
{{仮題|頁=366}}
ば、{{r|法印|ほういん}}返答なかりし。
{{仮題|投錨=武藏と下總國さかひの事|見出=小|節=k-9-5|副題=|書名=慶長見聞集/巻之九|錨}}
見しは今、{{r|角田川|すみだがは}}は武藏と下總のさかひをながれぬ。されば河なかばよりこなたには石有るあなたは
みなぬまなり。{{r|爰|こゝ}}に淺草の者︀云ひけるは、下總の國に石なき事を、淺草の童部どもあなどり笑つて、
五月になればゐんぢせんとて舟に石をひろひ入れ、河向ひに見えたる{{r|牛島|うしじま}}の里の{{r|汀|みぎは}}へ舟をさしよせ、
{{r|牛島|うしゞま}}の{{r|童|わらじや}}どもをつぶてにて打勝ちて利口を云つて、年々笑ふ。古歌に、うなゐ子が打ちたれ{{r|髮|がみ}}をふり
さげて向ひつぶての袖かざすなりと{{r|詠|よみ}}しは、下總の國{{r|牛島|うしじま}}の童子どもの事かと思ひ出せり。{{r|去程|さるほど}}に牛
島のわらは是を{{r|無念|むねん}}に思ひ、常に{{r|武藏|むさし}}の石をひろひぬすみおき、五月{{r|淺草|あさくさ}}の子共側の舟に取乘來る時、
牛島のわらは岸根に出てゐんじをする。其岸へ打ちたるつぶて{{r|頓|やが}}てこなたの{{r|岸|きし}}へよると語る。{{r|愚老|ぐらう}}聞
きて、木石心なしといへども花實の時をたがへず。武藏の石は下總の地にとまらず。かくのごとくの
國境を如何成るか、よくしりて分られたる事の不思議さよといへば、老人云り、石に{{r|性有|せいあ}}り水に音有り
と古人も申されし。此國を六十六ヶ國に分る事は、{{r|行基菩薩|ぎやうきぼさつ}}國々の水をのみ分給へば六十六{{r|味|み}}也。然
る間、六十六ヶ國に定め給ふ事、忝も{{r|文武天皇|もんむてんわう}}の{{r|御宇慶雲|ぎようけいうん}}の{{r|比|ころ}}ほひ也。此行基ぼさつはそのかみ三十
九代{{r|天智天皇|てんちてんわう}}の御時たんじやうしてよりこのかた、{{r|天武天皇|てんむてんわう}}、{{r|持統天皇|ぢとうてんわう}}、{{r|文武天皇|もんぶてんわう}}、{{r|元明天皇|げんみやうてんわう}}、
{{r|元正天皇|げんしやうてんわう}}、{{r|聖武天皇|しやうむてんわう}}、{{r|孝謙天皇|かうけんてんわう}}迄八代の御代を經たりと云々。八十二歲にて{{r|入滅|にふめつ}}す。和泉の國{{r|大鳥|おほとり}}の郡の
人{{r|高志氏|たかしうぢ}}、{{r|百濟國王|くだらこくわう}}の{{r|流也|りうなり}}。聖武の時代に、{{r|大僧︀正|だいそうじやう}}と號す。{{r|孝謙|かうけん}}の{{r|御宇|ぎよう}}に{{r|菩薩號|ぼさつがう}}をおくり給ひぬ。日
本において{{r|壽命|じゆみやう}}の人也。扨又國かはれば人形心聲言葉もかはる。{{r|鳥類︀|てうるゐ}}、{{r|畜類︀|ちくるゐ}}、{{r|虫魚|ちうぎよ}}、{{r|草木|さうもく}}、{{r|山川|さんせん}}、土
石に至るまで國々によつてかはる事、今さら{{r|不審|ふしん}}までも有るべからずと申されし。
{{仮題|投錨=半藏筆を捨つる事|見出=小|節=k-9-6|副題=|書名=慶長見聞集/巻之九|錨}}
見しは今、{{r|佐々木大學助|さゝきだいがくのすけ}}と云人、{{r|山上半藏|やまかみはんざう}}と云者︀に申されけるは、近日大阪へ{{r|御陣立|ごぢんだて}}の御ふれ有り、{{r|能|よき}}
よろひは持ちたるが、かぶと氣に入らず。御目をかけらるゝ大名着料のかぶと多く有り、一押{{r|所望|しよまう}}の
狀を遣すべし、其方{{r|能筆|のうひつ}}なれば書きてたべと硯を出す。半藏筆をとり、扨かぶとゝいふ字をばいづれ
を書候べしといふ。大學助聞きて、われ不文字也、かぶとゝいふ文字數多あらば、{{r|何|いづれ}}成とも書給へ。半
藏聞きて、されば{{r|甲冑|かつちう}}の二字を日本にてはかぶととよろひとよみ來る所に、{{r|禮記|らいき}}の書には甲をよろひ冑を
かぶとゝよみ候。此二字のよみさかさまに{{r|漢︀和相違|かんわさうゐ}}せり。然るに日本讀によむ人有り。{{r|禮記|らいき}}{{仮題|入力者注=[#ルビ「らいき」は底本では「らいれ」]}}のよみこそ
本なれと用ひ給へる方も有り。人々心にかはる。すべて此かぶとの文字に相違あらん時は、ひたすら
筆者︀のあやまりにこそなり候べけれと、筆を捨て{{r|退出|たいしゆつ}}す。われ此義を能筆の人に語りければ、老士聞
て、日本は{{r|萬唐國|よろづからくに}}の例を學ぶといへども、又相違の義多し。あげて記しがたし。されば遠州につさか
といふ里に、{{r|當年|たうねん}}{{r|仔細|しさい}}有つて{{r|數多所|あまたところ}}より江戶御城へ申來る文に、日坂、新坂、入坂、外坂と書きたり、
正字覺束なし。是に依つて、此中此里の{{r|御制札|ごせいさつ}}にも假名に書遣したり。正字は其在所の者︀知るべし。
{{仮題|頁=367}}
しかればかぶとゝ云ふ字、甲冑二字の外に多し。{{r|執筆|しゆひつ}}の{{r|半藏|はんざう}}不文字にて是を知らざるや。{{r|縱|たとひ}}正字を知
るといふとも、さし當て用の事あらば、假字に書いてよるしかるべし。{{r|難︀字|なんじ}}を書きて讀とかずは、其
用{{r|調|とゝの}}ひがたし。扨何の益あらんと申されし。
{{仮題|投錨=年物語にけんくわの事|見出=小|節=k-9-7|副題=|書名=慶長見聞集/巻之九|錨}}
見しは今、江戶通町に{{r|喜齋|きさい}}と云老人有り。新五郞といふ若き{{r|知人|ちじん}}あひて云ひけるは、御身そくさいに
て長命をたもち給ふ。扨御年はいかほどぞととふ。老人聞きて腹をたて、牛馬のうりかひにこそ年の
尋はする物なれ。ほれ者︀うつ氣{{r|者︀|もの}}也とさん{{ぐ}}に惡口する。{{r|新五郞|しんごらう}}聞きて年の尋に{{r|御腹立|ごふくりふ}}實々是は
{{r|御道理至極|ごだうりしごく}}、我{{r|若輩|じやくはい}}にていひあやまり{{r|許|ゆる}}させ給へと、詞をやはらげたぶらかし云ければ、老人いよ{{く}}
腹をたて、さやうに道理を分る奴めが、年の尋はきつくわい也と、心いられたる老人にて、こぶしを握
つて新五郞がしやつらをはりければ、鼻のあたりやいたみつらん、鼻血ながれて見えにけり。新五郞
{{r|無念|むねん}}にや思ひけん、はり返さんとちからを出し、鼻のあたりを心がけさん{{ぐ}}にはりければ、又老人の
はなよりもくろ血たりてぞ見えにける。去程に此人たちつかみあひはり合ひて、上をしたへとせし程
に、ふたりの人の姿をみれば、たゞくれなゐの小袖をきたるふぜい也。其{{r|町人|ちやうにん}}があつまり{{r|月行事先立|つきゞやうじさきだ}}
て云けるやうは、此程{{r|御服町|ごふくちやう}}のたなにて{{r|與三郞|よさぶらう}}と云者︀柳枝をけづるとて小刀にて指をきり、少し血の
出たるさへ{{r|御奉行所|ぶぎやうしよ}}にて{{r|疵帳|きずちやう}}に付けられたり。かほどまで血をあやめし人達なれば、御奉行所へつれ
て行き、きず帳に付べしと云ふ。あたりの町衆是を聞き、御服町の與三郞は小刀にてもきれ、それは
{{r|切疵|きりきず}}なれば、手おひ帳に付られたり。是はこぶしきずなれば鼻のそここそ痛みつらめ、はなの穴より血
は出でたり。あたり{{r|腫|は}}れたる{{r|計|ばかり}}なるを{{r|手負帳|ておひちやう}}には付がたし。以後に{{r|訴人|そにん}}有りとても、あたりの{{r|町衆|まちしゆ}}も
見たりといひて相談してぞさりにける。かたへなる人此けんくわを見て申されけるは、老人に對して
戲語を云ふは、先づもてあやまり也。されば{{r|先哲|せんてつ}}の{{r|遺文|ゐぶん}}を見るに、心上にやいば有つておほくは人命を
やぶる。川下に火有りてこれがために人身をそんずといへり。是すなはち{{r|忍災|にんさい}}の二字をさす也。一旦
のいかり{{r|堪忍|かんにん}}しぬれば、心上の刄をまぬかれ、水火をふまずして{{r|災難︀|さいなん}}のうれひなかるべし。然間小人
は{{r|遠慮|ゑんりよ}}なきをうれふと云々。世間は虎おほかみもなにならず人の口こそ猶さがなけれと{{r|詠|えい}}ぜり。{{r|養生|やうじやう}}
に耳目は是うれひをなす、{{r|口舌|こうぜつ}}はわざはひをなすと也。又云、口は是わざはひの門、舌は是わざはひの
{{r|根|ね}}、{{r|萬般|ばんぱん}}のわざはひ皆{{r|口舌|こうぜつ}}より出るといへり。{{r|獺|かはをそ}}と云ふけだものはたはぶれくるひあそび、はてには
一方くひ殺︀す。かるが故にたはぶれして後に{{r|腹立|はらだつ}}人をば、をそのたはれといふ。古歌に、世中はをそ
のたはれのたゆみなくつゝまれてのみすぎわたる哉とよめり。戲言なれども思ふより出といへるなれ
ば、出言につゝしみなきは愚なり。老者︀を敬し少者︀をあはれむは、是義なり。此理知らざる故のわざは
ひなりと申されし。
{{仮題|投錨=江戶町衆花をあいする事|見出=小|節=k-9-8|副題=|書名=慶長見聞集/巻之九|錨}}
{{仮題|頁=368}}
見しは今、江戶の町人とめるもまづしきも心やさしくありけり。わづかなる庭のほとりにも、花木を
植置き詠給へり。誰とてもかゝるみやびこそねがはしき事ならめ。一花開くれば四方の春{{r|長閑|のどか}}にて、
紅花の春のあした、こうきんしうのよそほひかや。りうこうそんが詩に、{{r|洛陽|らくやう}}三{{r|月|ぐわつ}}{{r|春錦|はるにしき}}の如しと作れり。
げにも花故に里も鄙びねば、江戶はさながら花の都︀、匂ひ芬々として、わうさきるさに花のすり{{r|衣|ごろも}}、
{{r|色香|いろか}}に染まぬ人もなし。傳へ聞く、だいご{{r|雲林院|うりんゐん}}の花は{{r|九重|こゝのへ}}の匂ひくんず。其{{r|比|ころ}}は君も君たる故、政た
だしく{{r|佛法王法|ぶつぼふわうはふ}}さかんにして、花も香をまし色も妙也。此花を見る人は、憂ひを忘れ悅びあへり。
{{r|去程|さるほど}}に忘憂花合歡櫻と、皇より號し給へり。今又目出度御時代なれば、花も心有てや匂ふらん。若俄に
山風野風吹來て妙なる花をやちらさんと、硯薄紙をくわいちうし、花の下の{{r|狂仁|きやうじん}}雲に似、霞の如し。
心々に詩をうそぶき歌をずし給へり。是に付ても、いにしへ{{r|詩人歌人|しじんかじん}}の花の詠こそ面白けれ。{{r|躬恒|みつね}}が
歌に、いもやすくねられざりけり春の夜は花の散るのみ{{r|夢|ゆめ}}に見えつゝと詠ぜり。{{r|西行法師|さいぎやうほうし}}、ねがはくは
花の下にて春しなんその二月の{{r|望月|もちづき}}の{{r|比|ころ}}と、よみしもいとをかし。{{r|樂天|らくてん}}が詩に、はるかに人家を見て、
花あれば{{r|便|すなは}}ち入る、{{r|貴賤|きせん}}と{{r|親疎|しんそ}}とを論ぜずと作れり。{{r|紹巴|ぜうは}}の{{r|發句|ほつく}}に、武藏野もはてあらん花の{{r|吉野山|よしのやま}}。
又{{r|智薀|ちをん}}は花一{{r|木植|きう}}ゑぬ都︀の宿もなしとせられしも、今江戶町の樣に思ひ出でられたり。昔或{{r|王|わう}}、都︀の
內の{{r|家居每|いへゐごと}}に花を植ゑてあいし給ふ。夫より{{r|花洛|くわらく}}と云事始りぬ。{{r|古今集|こきんしふ}}に、見渡せば柳櫻をこきまぜ
て都︀は春の{{r|錦|にしき}}なりけりと、{{r|素性法師|そせいほうし}}{{r|詠|えい}}ぜり。{{r|昔都︀|むかしみやこ}}に櫻町の中納言と云人は、櫻を愛し給へり。猶も吉野
の櫻を移し四方に植ゑおき、其中に屋を立て住給ひければ、皆人此町を櫻町と云。中納言をば櫻町の中
納言とぞいひける。七日に花の咲きちるを歎き、たいさんぶくんを祭り給へば、三七日よはひをのべた
りければかくぞ思ひつゞけて、{{r|千早振|ちはやふる}}{{r|荒人神︀|あらひとがみ}}のかみたれば花もよはひをのべにける哉と詠ぜり。皆人
{{r|今宵|こよい}}は花の{{r|下臥|したぶし}}しておぼろ月夜にしく物はなしと{{r|打詠|うちなが}}め、ねぬる夜を花の{{r|思|おも}}はん{{r|朝|あした}}哉と聽雪せられしも、
花に來てねぬる者︀をば花も大切におもはんと云心かや。され共、花見にと{{r|家路|いへぢ}}におそく歸るには待つ時
すぐといもやいはましとよみしも又をかし。誠に人の心のうき立つ物は春の氣色也。宗砌の{{r|發句|ほつく}}に、い
づれ見ん花の{{r|俤月|おもかげ}}のかほとせられたり。てうとくりんがこうせいろくに、春の月をもてあそぶに、秋の
月にもまされりといへり。月さへ春は秋にまされりなどと、思ひ{{く}}心々にふる事をまじへいひかた
らひ、{{r|木本每|このもとごと}}にやすらひ花を友と明し暮し給へり。或人是を見て申されけるは、夫人のおそるべきは、
{{r|執着愛念|しふぢやくあいねん}}也。{{r|生死|しやうじ}}の久く{{r|流轉|るてん}}する事あいよくのいたす處也。{{r|古今集|こきんしふ}}に、大かたは月をもめでじ是れぞ
このつもれば人の老となるものと詠めり。此歌をよく{{r|沈吟|ちんぎん}}せば、人の{{r|敎誡|けうかい}}のはしたるべし。草木{{r|經|きやう}}を
とくと云は、{{r|春花咲秋紅葉|はるはなさきあきもみぢ}}する是をしへ也。たゞ人は無常の身にせりぬる事を心にひしとかけて、
つかの間も忘るまじきは此一事也。さあらば此世のにごりもうすくなり、{{r|佛道|ぶつだう}}を{{r|勤|つと}}むる心もまめやか
成るべし。{{r|執心|しふしん}}をたち{{r|色欲|しきよく}}をやめて、{{r|眞實|しんじつ}}の{{r|解脫|げだつ}}の門にいらん事こそねがはしき事ならめ。心を物にと
どむるときんば、{{r|微物|びぶつ}}といへども{{r|以|もつ}}て病とす。されば{{r|謝良佐|しやりやうさ}}は{{r|程子|ていし}}のよき弟子也。一つの硯を持て寶
{{仮題|頁=369}}
としけるを、程子物をもてあそべば志をうしなふといひければ、{{r|良佐|りやうさ}}{{r|汗|あせ}}をながして其まゝ硯を{{r|捨|す}}てた
り。志を寓すると、とゞむるの二つをよくわきまふべき事也。いにしへの{{r|莊周|さうしう}}は{{r|片時|へんし}}のねぶりのうち
に、{{r|胡蝶|こてふ}}と成つて百年が間、花の園に{{r|遊|あそ}}ぶと見て{{r|覺|さ}}めぬ。{{r|詞花|しくわ}}に、{{r|百年|もゝとせ}}は花に宿りて明しけん此世は{{r|蝶|てふ}}の
夢にこそあれとよめり。又人に見えなば夢よことわれと云前句に、たが玉かあはれこてふとなりぬら
んと、{{r|宗祇|そうぎ}}付られたるこそ{{r|殊勝|しゆしよう}}なれ。この句にもとづき察するに、江戶の{{r|町衆|まちしゆ}}には、胡蝶や生れ來ぬら
ん、{{r|莊周|さうしう}}や{{r|分身|ぶんしん}}したりけん、花のもとの{{r|狂仁|きやうじん}}はかなき夢のたはぶれをなせり。{{r|新古今|しんこきん}}に、ながむとて花
にもいたくなれぬれば散るわかれこそかなしかりけれと詠ぜり。かく色にめで、香にそむることをも
とゝしてよき道をしらず、人間は{{r|色欲|しきよく}}の二つに{{r|迷|まよ}}へり、おそるべし。此{{r|執心執着|しふしんしふぢやく}}をはなれ{{r|浮世|うきよ}}を夢とさ
とり、{{r|身命|しんみやう}}をまぼろしのごとく思ひて世をいとひ、{{r|出離|しゆつり}}げだつの道に入給へかしとぞ申されける。
{{仮題|投錨=新福︀寺諸︀國くわんじんの事|見出=小|節=k-9-9|副題=|書名=慶長見聞集/巻之九|錨}}
見しは昔、江戶{{r|町屋敷|まちやしき}}のわりあましに{{r|洲崎|すさき}}有りしを、{{r|新福︀寺|しんぷくじ}}と云{{r|坊主|ぼうず}}此洲を{{r|屋敷|やしき}}に{{r|拵|こしら}}へ寺を建てお
く。此{{r|坊主|ばうず}}つく{{ぐ}}案をめぐらし云けるやうは、夫江戶は天下のみなもと{{r|諸︀侍|しよさふらひ}}の集るちまたといへ
ども、八幡の宮立なし。われ此洲を石にてつきたて、其上に新八幡宮{{r|武士|ぶし}}の{{r|氏神︀|うぢがみ}}を{{r|建立|こんりふ}}すべしと云て、日
木六十六ヶ圖を大ぬさをかつぎ𢌞り、{{r|大名小名|だいみやうせうみやう}}の家々{{r|村里濱邊|むらさとはまべ}}の{{r|在所|ざいしよ}}迄も、殘りなくくわんじんする。
それははや七八年以前よりのはかりごとぞや。いまだ{{r|宮柱|みやばしら}}一本のしたくも見えず。{{r|史記|しき}}に大行はさい
きんをかへりみずと云々、如何なる小事にかゝはり{{r|延引|えんいん}}ふしぎ也。但廣大なる工故、こんりふなりが
たくや有りぬらん。昔賴朝公{{r|治承|ぢしよう}}四年の冬鎌倉へ打入り、{{r|先鶴︀岡|まづゝるがをか}}の{{r|若宮|わかみや}}を建て給ふ。同五年に至て、
仰には{{r|當宮|たうみや}}去年かりに{{r|建立|こんりふ}}そこつの義なれば、松を柱かやの{{r|軒|のき}}を用ひらるゝ、{{r|若宮再興|わかみやさいこう}}有るべしとて、
武藏の國{{r|淺草|あさくさ}}に{{r|鄕司|きやうじ}}と云大工の{{r|棟梁|とうりやう}}を召され、{{r|梶原|かぢはら}}平三{{r|景時|かげとき}}、{{r|土肥次郞實平|とひじらうさねひら}}、{{r|大庭平太景能|おほばへいたかげよし}}昌寬等を奉
行として、花構の義をなし{{r|專神︀威|もつぱらしんゐ}}をかざり、{{r|養和|やうわ}}元年七月廿日{{r|寶殿棟上|ほうでんむねあげ}}の{{r|儀式|ぎしき}}ありと云々。此宮を
{{r|末代|まつだい}}迄も{{r|關東|くわんとう}}の弓矢の{{r|鎭守|ちんじゆ}}にいはひ奉る。ていれば、{{r|新福︀寺|しんぷくじ}}先大かたにも社︀を建給へかしといふ。傍へな
る人云、それはまだ遠き引句なり。夫人の家ををさむる{{r|次第|しだい}}は內より外におよぼし、近きより遠きに
およぼすと、先哲も申されし。是{{r|金言|きんけん}}也。されば十年{{r|以前|いぜん}}の事かとよ、櫻田山へ{{r|愛宕|あたご}}飛び給ふと{{r|風聞|ふうぶん}}
する。是は{{r|希代不思議|きだいふしぎ}}哉と、われも人も此山へのぼりて見れば、草村の中にたゞ{{r|幣帛|へいはく}}ばかりを立置き
たり。其後草のかり{{r|屋|や}}を結び御幣ををさめ、{{r|愛宕|あたご}}をしゆご申せしが、今みればしやうごん{{r|殊勝|しゆしよう}}におは
します。扨又{{r|神︀田山|かんだやま}}の{{r|近所|きんじよ}}本鄕といふ{{r|在所|ざいしよ}}に、昔より{{r|小塚︀|こづか}}の上にほこら一つ有りて、{{r|富士|ふじ}}{{r|淺間|せんげん}}立たせ給
ふといへ共、{{r|在所|ざいしよ}}の者︀{{r|信敬|しんきやう}}せざれば、他人是をしらず。然所に近隣こまごめと云里に人有て、せんげ
んこまごめへ飛來り給ふと云て塚︀をつき、其上に草の庵りを結び、御幣を立ておきつれば、まうでの
{{r|袖群集|そでくんじふ}}せり。本鄕の{{r|里人|さとびと}}是をみて、わが{{r|氏神︀|うぢかみ}}をとなりへとられうらやむ計也。今見れば、こまごめの
{{r|社︀|やしろ}}建直しあけの玉がき前に{{r|大鳥井|おほとりゐ}}立て、しやうごん{{r|殊勝|しゆしよう}}に有て、皆人是へ參る。神︀は人のうやまふに
{{仮題|頁=370}}
よて威をますと云事思ひ知れたり。れいげんあらたにおはしますと云ならはし、近國他國の{{r|老若貴賤|らうにやくきせん}}
皆悉くこまごめの富士せんげんへ{{r|參詣|さんけい}}し、六月一日{{r|大市|おほいち}}立て{{r|繁︀昌|はんじやう}}する事{{r|前代未聞|ぜんだいみもん}}なり。かくのごとき
の二つの大圓鑑日前に有て、新福︀寺{{r|明暮|あけくれ}}拜すといへども、其わきまへなきをいかゞせん。古語にがつ
はうの木も毛末よりおこるといへるなれば、まづわづかに草のかりやしろを結び、{{r|御幣|ごへい}}なりともたて
おき、そんじようそこに{{r|新八幡宮|しんはちまんぐう}}御立有と、日本橋のほとりに{{r|高札|かうさつ}}立ておくならば、江戶は{{r|物見|ものみ}}たけき
所にて{{r|貴賤群集|きせんぐんしふ}}をなし、はんじやういやましならん事をしり給はぬのうたてさよ。
{{仮題|投錨=聲佛事をなす事|見出=小|節=k-9-10|副題=|書名=慶長見聞集/巻之九|錨}}
見しは今、江戶町に{{r|幾|いく}}右{{r|衞門|ゑもん}}と云人有り。{{r|謠|うた}}ひを{{r|明暮|あけくれ}}にうたへり。しる人有りていさめけるは、其方
{{r|謠|うたひ}}をふかくならひ給ふは、{{r|藝者︀|げいしや}}になりたき望かや。さればある歌に、おんぎよくはたゞ大竹のごとくに
てまつすぐにしてふしすくなかれとよめり。其方の謠を聞けば、{{r|上|かみ}}がかりに{{r|似|に}}ず{{r|下|しも}}がかりにもあらず、
ふし{{r|多|おほ}}くしてことば直ならず、かなはぬ{{r|藝|げい}}をば打捨て、よの藝をならひ給へ。賢よりかしこからんと
ならば色をかへよと、{{r|子夏|しか}}は申されしに、がひさわにもとりえとて、人には必生つき一つは有る物也と
いふ。{{r|幾|いく}}右{{r|衞門|ゑもん}}答て、{{r|御異見|ごいけん}}{{r|尤|もつとも}}{{r|道理至極|だうりしごく}}せり。去りながらわれまつたく{{r|藝者︀|げいしや}}の望にあらず。然に{{r|寒山|かんざん}}
と云ひし人は、常に手にはゝきをさげて五ぢんろくよくの{{r|塵埃|ぢんあい}}をはらへり。我は{{r|謠|うたひ}}をけいきよくの口
舌にあつらへて{{r|胸塵|きようぢん}}をはらふ。其上謠のおこりを尋ぬるに、{{r|地神︀|ちじん}}五代あまてるおんかみの御時、天の
{{r|岩戶|いわと}}の前にて、{{r|八百萬神︀|やほよろづかみ}}あそび{{r|神︀樂歌|かぐらうた}}をそうし給ひしよりはじまれりと也。是昔神︀代のまなびなる故、能
謠をば何たる祭り{{r|祈︀禱|きたう}}よりも神︀は請給ふとかや。扨又{{r|猿樂|さるがく}}と云事は、{{r|人皇|にんわう}}五十代の帝{{r|桓武天皇|つかんむてんわう}}の
{{r|御宇|ぎよう}}、ひえいざんのふもと{{r|坂本|さかもと}}に猿三疋{{r|寄合|よりあひ}}、二疋は{{r|舞樂|ぶがく}}をなし一疋は樂に合て手をたゝく。是則ち
{{r|山王權現|さんわうごんげん}}の{{r|示現|じげん}}なれば、或大臣是を學ぶ。四{{r|座|ざ}}に{{r|定舞樂|さだめぶがく}}をなし能と雖するは、四天王をかたとれり、其子孫金
剛、{{r|金春|こんはる}}、{{r|觀世|くわんぜ}}、{{r|寶正|はうしやう}}是也。人間のはじまり{{r|戀無常佛法世法|こひむじやうぶうぽふせはふ}}有りとあらゆる道理をわきまへ、{{r|過現未|くわげんみ}}
迄もくわんずる事、此一曲の德ならずや。されば{{r|高德下賤|かうとくげせん}}の{{r|座席|ざせき}}にも{{r|千秋|せんしう}}萬歲の悅びをうたひ給ふ事、
世もつてさらに盡すまじ。又{{r|老若酒宴遊樂|らうにやくしゆえんいうらく}}にじようじて同音にうたひ給ふ時には、{{r|自他|じた}}のしうたんを
のぞき、たしやう一ぺんの所得道也。扨又夜つれ{{ぐ}}の折から一曲をかなでし時に、百八ぼんなうの雲
はれ、{{r|五濁|ごじよく}}の水かげ淸く{{r|眞如|しんによ}}の月ほがらか也。されば謠をうたふ事人間のみにかぎるべからず。花に
鳴く鶯水に住む{{r|蛙|かはづ}}の聲を聞けば、いきとしいけるものいづれか歌をよまざりけると、顯昭文に書かれ
たり。爰をもつて{{r|文選|もんぜん}}には、{{r|聲曲|せいきよく}}有るを詠といひ聲曲なきを謠とは云へり。謠歌と書てはくせゝり歌と
よむ。謠うたふともよめり。皆人の歌ひ給ふ{{r|高砂|たかさご}}に{{r|有情非情|うじやうひじやう}}の其こゑ皆歌にもるゝ事なし。{{r|草木土沙|さうもくどしや}}
{{r|風聲水音|ふうせいすいおん}}{{r|皆是佛事|みなこれぶつじ}}をなせり。是を名付て經とすとしやくし給へりと云。皆人此物語を聞きて、{{r|實|げに}}も謠はあ
またの德義ありけるぞや。春の林の{{r|東風|こち}}にうごき、{{r|秋|あき}}の虫の北露に鳴くも、皆謠のすがたならずや、
有がたしといへり。{{nop}}
{{仮題|頁=371}}
{{仮題|投錨=唐船造らしめ給ふ事|見出=小|節=k-9-11|副題=|書名=慶長見聞集/巻之九|錨}}
見しは昔、{{r|慶長|けいちやう}}年中家康公唐船を造らしめ給ひ、淺草川の{{r|入江|いりえ}}につながせ給ふ。かゝる大船をつくり
海︀にうかべる事、{{r|汀|みぎは}}にては人力も及びがたかるべし。いかやうなる手だて有て出るや、{{r|更|さら}}に分別にお
よばず。先年{{r|江戶御城石垣|えどごじやういしがき}}をつかせらるゝによつて、伊豆の國にて大石を大船につむを見しに、海︀中
へ石にて島をつき出し、{{r|水底|みなそこ}}深き岸に舟を付、陸と舟との間に柱を打渡し舟をうごかさず、{{r|平地|へいち}}のご
とく道をつくり石をば臺にのせ、舟のうちにまき車を仕付て綱を引き、陸にて{{r|手子棒|てこぼう}}を持ちて石をお
しやり舟にのする。舟中にまき車の工み{{r|奇特|きとく}}也。古歌に、我{{r|戀|こひ}}は{{r|千引|ちびき}}の{{r|石|いし}}のなくばかりと詠るは、千
人して引く石をちびきの石といへり。今の時代には{{r|大名衆|だいみやうしゆ}}西國の大石を大舟に積江戶へ持來て、千人
引は扨おき、三千人五千人引の石を幾千とも數しらず引給ふ事おびたゞしかりけり。扨又唐船海︀中へ出
す事、海︀に{{r|綱引|つなひき}}まき車も立て難︀し。{{r|陸|くが}}にて{{r|手子|てこ}}ぼうも及ぶべからず。されば昔{{r|實朝|さねとも}}の時代鎌倉{{r|由井濱|ゆゐのはま}}に
おいて唐船を作らしめ給ふ。是に{{r|仔細|しさい}}あり。{{r|奈良|なら}}より{{r|陳和卿|ちんくわけい}}と云者︀鎌倉に{{r|參著︀|さんちやく}}す。是は{{r|東大寺|とうだいじ}}の大佛
を作りたる宋人なり。されば{{r|東大寺|とうだいじ}}{{r|供養|くやう}}の日、{{r|右大將家奈良|うだいしやうけなら}}へ{{r|進發|しんぱつ}}此寺へ{{r|御參詣|ごさんけい}}けちえんせしめ給ふ
の次でに、賴朝公{{r|和卿|くわけい}}に{{r|對面|たいめん}}有て、{{r|後世|ごせ}}の道を聞せしめんが爲、しきりに以て命ぜらるゝといへども、
{{r|和卿|くわけい}}が云、{{r|貴客|きかく}}は多く人命をたゝしめ給ふの間、{{r|罪業|ざいごふ}}是重し、{{r|値遇|ちぐ}}し奉り難︀し、其はゞかり有と云々。
依てつひに謁︀し申さず。然共{{r|當時|たうじ}}{{r|將軍實朝|しやうぐんさねとも}}に於ては、{{r|權化|ごんげ}}の再誕{{r|恩顏|おんがん}}を拜せん爲{{r|參上|さんじやう}}をくはだつるの
由是を申す。則ち{{r|筑後|ちくご}}の{{r|左衞門尉朝重|さゑもんのじようともしげ}}が宅を{{r|轉|てん}}ぜられ、{{r|和卿|くわけい}}が{{r|旅宿|りよしゆく}}とす。先{{r|大膳大夫廣元朝臣|だいぜんだいぶひろもとあそん}}を{{r|御使|おんつかひ}}
としてつかはさる。其後{{r|和卿|くわけい}}を{{r|御所|ごしよ}}に召され{{r|御對面|ごたいめん}}有り。{{r|和卿實朝|くわけいさねとも}}を三度拜し奉り、すこぶる{{r|沸泣|ていきふ}}す。
{{r|將軍家|しやうぐんけ}}其禮をはゞかり給ふの所に、和卿申て云、{{r|貴客|きかく}}はいにしへ{{r|宋朝育王山|そうてういわうざん}}の{{r|長老|ちやうらう}}たり。時にわれ
{{r|門弟|もんてい}}に列すと云々。實朝{{r|仰|おほ}}せられて云、此事さんぬる{{r|建暦|けんりやく}}元年六月三日{{r|丑|うし}}の{{r|刻|こく}}將軍家{{r|御|ぎよ}}しんの間に、{{r|尊僧︀|そんそう}}
一人{{r|御夢中|ごむちう}}に入て此趣をつげ奉る。{{r|御夢想|ごむさう}}の事あへて以て御言葉に出されずの處に、六ヶ年におよび
て{{r|忽|たちまち}}以て{{r|和卿|くわけい}}が{{r|申狀|まうしゞやう}}に{{r|符合|ふがう}}す。{{r|仍|よつ}}て{{r|御信仰|ごしんかう}}の外他事なし。然處に將軍家{{r|先生|せんしやう}}の{{r|御住所|ごぢうしよ}}育王山を拜し給
はんが爲、{{r|諸︀越|もろこし}}に渡らしめ給ふべき由思召立によつて唐舟を{{r|修造|しゆざう}}すべき由、彼和卿宋人に仰付られた
り。{{r|御供|おんとも}}の人六十餘{{r|輩|はい}}に定め、{{r|結城朝光|ゆふきともみつ}}是を{{r|奉行|ぶぎやう}}す。{{r|相州武州|さうしうぶしう}}しきりに是をいさめ申さるゝといへど
も、{{r|御許容|ごきよよう}}にあたはず舟の沙汰に及ぶ。漸唐船出來し、彼舟を出さん爲、{{r|建保|けんぽう}}五年四月十七日{{r|數百輩|すうひやくはい}}
の匹夫をもろ{{く}}の御家人等に仰付、彼船由井の濱に浮べんとぎす。實朝公御出有てかんりんし給ふ。
{{r|信濃守|しなのゝかみ}}{{r|行光|ゆきみつ}}今日の{{r|行事|ぎやうじ}}として、諸︀人是を引事午の{{r|刻|こく}}より申のなゝめに至る。然ども此所の{{r|爲體|ていたらく}}唐船
出づべき海︀浦にあらずと諸︀人申ければ、將軍も見捨て{{r|還御|くわんぎよ}}し給ふ。此舟いたづらに砂の上に{{r|朽|く}}ちそん
ずと古記にみえたりといへば、人聞て唐舟作るは{{r|地形|ちぎやう}}と{{r|湊|みなと}}をもつぱら見立る。鎌倉の浦は常に汀の波
高く、{{r|遠淺海︀|とほあさうみ}}にして小舟の出入も安からず。いかに況や唐舟をや。天下の主の{{r|御威勢|ごゐせい}}にても出づべか
らず。{{r|宋人|そうひと}}も{{r|番匠|ばんじやう}}も舟を陸にて作る事のみ思ひて、海︀へ出すべき事を{{r|辨|わきま}}へざるは愚の至なり。{{r|陸|くが}}より
{{仮題|頁=372}}
{{r|唐船|からふね}}を海︀へうかべる{{r|方便|はうべん}}なくして出でがたし。夫大石に足はなしといへども、舟におきぬれば{{r|大海︀|たいかい}}萬
里を過ぐる、是も{{r|方便|はうべん}}に依つて也。先年作らしめ給ふ淺草川の{{r|唐舟|からふね}}は、伊豆の國{{r|伊東|いとう}}といふ{{r|濱邊|はまべ}}の
{{r|在所|ざいしよ}}に川あり。是こそ唐舟作るべき{{r|地形|ちぎやう}}なりとて、其濱の砂の上に柱をしき臺として、其上に舟の敷を
置き、半作の比より砂を掘上げ{{r|敷臺|しきだい}}の柱を少しづつさげ、堀の中に舟をおき、此舟海︀中へ浮べる時に
至て{{r|河尻|かはじり}}をせきとめ、其河水を舟のある堀へ流し入れ、水のちからをもて海︀中へおし出す。此たくみ
を昔鎌倉の人はしらざるにや。
{{仮題|投錨=柹に異名ある事|見出=小|節=k-9-12|副題=|書名=慶長見聞集/巻之九|錨}}
見しは今、木の實樣々有る中に、かきは{{r|異名|いみやう}}多し。木練︀、木淡、{{r|熟柹|じゆくし}}、しぶ{{r|柹|かき}}、めうたん、{{r|串柹|くしがき}}、
{{r|柹餅|かきもち}}は{{r|古來仕出|こらいしいだ}}せり。つるし柹は近年出來たるが、犬鼻とは惡柹の名也。色品により味ひもかはれり。
されば{{r|濃州|のうしう}}に大なるじゆくし有り。{{r|大御所樣|おほごしよさま}}{{r|御自愛淺|ごじあいあさ}}からず。故に人はうびして{{r|御所柹|ごしよがき}}といひならは
す。然ば{{r|愚老|ぐらう}}さる{{r|屋形|やかた}}へ{{r|伺候|しこう}}の{{r|折節︀|をりふし}}、主人の御前へ{{r|杉箱|すぎばこ}}を五あたらしく葢を釘にて打付持出る。
主人云、{{r|上書|うはがき}}に進上御所柹百入と書付候へ{{r|執筆|しゆひつ}}かゝんとせしに、まてしばし是は{{r|御年寄衆|おんとしよりしゆ}}へ進上也。
上書に御所柹とはおそれすくなからずや。たゞじゆくしと書くべきかと家老を召て問ひ給ふ。{{r|家子|いへのこ}}申
て云、熟柹と書ては常の柹と{{r|覺召|おばしめ}}さるべし。此大柹を御所柹と天下にさたし、{{r|進物|しんもつ}}の{{r|上書|うはがき}}に皆遊ばし
候、苦しかるまじと申ければ、則書付送り給ひぬ。主人念を入給ふもすこぶる{{r|神︀妙|しんめう}}也。長臣申つるもし
か也。され共この{{r|兩條分明|りやうでうぶんみやう}}しがたしと、朋友の中にて{{r|愚老|ぐらう}}語りければ、一人云けるは、此柹は{{r|美濃|みの}}の
國より{{r|每年|まいねん}}江戶へ奉る故、餘へもらす事を{{r|禁制|きんせい}}し、此國にて{{r|信敬|しんきやう}}の{{r|異名|いみやう}}也。其あまる所世上にひろま
りぬ。ほとんど皆人のとさんなどに御所柹と號する事はゞかり有るべきか、ていれば{{r|御年寄衆|おんとしよりしゆ}}の中に
一人、其つゝしみ有て御所を略し、熟柹到來と返札有るならば、{{r|諸︀士|しよし}}いかでおそれなからんやといへ
ば、又一人云、いや世上の人口を一人してあざむかん。{{r|屈原|くつげん}}が世こぞつて皆{{r|濁|にご}}れり、我ひとりすめり、
衆人皆{{r|醉|ゑ}}へり、我獨さめりといふに{{r|似|に}}て、{{r|賢人|けんじん}}がましからんか、屈原は此言葉故に{{r|流罪|るざい}}せられたり。
いま{{r|目出度|めでたき}}御時代にて、{{r|諸︀侍|しよさぶらひ}}仁義を專とし文を學で物を知給ふといへども、知らざる體につゝしみあ
り。此かきのみならず、世間にいひ傳ふるそゞろごと多し。文字も一{{r|點|てん}}のあやまり有て{{r|漢︀和相違|かんわさうゐ}}の有
事を、今{{r|下學集|かゞくしふ}}などにおほく記し出せり。此等の一字{{r|兩樣|りやうやう}}の異逆それをそれと知りながら、古風をと
がめず今をもすてず、兩字共に皆人用ひ給へり。すべて儀といふも事の字義にしたがひ、一樣に定お
くべからずと{{r|孟子|まうし}}に見えたり。萬事はわが心に{{r|具足|ぐそく}}せり。たゞ時のよろしきにしたがふを善とすと古
老いへるなれば、あながちにとがめて益なしといふ。老人聞て夫みきとは酒の名也。{{r|三木|みき}}とかく一說
有、又{{r|神︀酒|みき}}と書り。此故にや神︀へ{{r|供|きよう}}する時はみきといふ。御供みごくといふ{{r|崇敬|そうきやう}}の故也。いはゆる御の
字は天子の外に用ひがたし。御門の奉供をば{{r|供御贄|くごにへ}}と{{r|號|がう}}す。されば、{{r|磯菜|いそな}}品多き中に伊豆の國のあま
のりは{{r|名物也|めいぶつなり}}。{{r|甘苔|あまのり}}{{r|紫苔|むらさきのり}}共書けり。治承の比ほひ、{{r|賴朝|よりとも}}公天下を治め{{r|武將|ぶしやう}}にそなはり給ふに依て、
{{仮題|頁=373}}
{{r|翌年|よくねん}}の{{r|春|はる}}{{r|豆州|づしう}}より、ぐごの{{r|甘苔|あまのり}}と號しかまくら殿へ奉る。賴朝{{r|聞召|きこしめ}}し是は伊豆の國より{{r|御佳例|ごかれ}}として、
{{r|每年|まいねん}}{{r|御門|みかど}}へさゝぐる{{r|供御|くご}}のあまのり、{{r|則|すなはち}}御門へ奉り給ふ。又{{r|腹赤|はらか}}のにへとは魚也。九州{{r|宇土郡|うどごほり}}{{r|長濱|ながはま}}よ
り帝へ奉る。{{r|景行天皇|けいかうてんわう}}の御時はじまる。{{r|元日節︀會|ぐわんじつせちゑ}}に奉供事は{{r|聖武|しやうむ}}天皇の御宇に{{r|始|はじ}}まる。下々において
くひやう取渡御書御敎書と號す。然に{{r|御所|ごしよ}}とは{{r|公方|くばう}}の御名也。{{r|末代|まつだい}}に至ては{{r|御所柹|ごしよがき}}と云傳るとも、
{{r|當御時代|たうごじだい}}において{{r|御所柹|ごしよがき}}と號し、どさんなどにほどんどはゞかり{{r|少|すく}}なからずやと申されし。
{{仮題|投錨=遊女共江戶をはらはるゝ事|見出=小|節=k-9-13|副題=|書名=慶長見聞集/巻之九|錨}}
見しは今、江戶{{r|繁︀昌|はんじやう}}にて諸︀人ときめきあへる有樣、高きも賤も、老いたるも若きも、かしこきも愚なる
も、彼まどひの一つやんごとなし。されば吉原町を見るに、遊女共我おとらじとべにおしろいをかほ
にぬり門每に立ちならびたるは、誠に六宮のふんたいの{{r|顏色|がんしよく}}も是にはまさらじといへば、{{r|中立|なかだち}}聞きて
なう御身たちはしろしめされずや、ふんたいをめさるゝはかたち愚なる人のはかり事也。此{{r|上﨟衆|じやうらふしゆ}}の外
に和尙さまと名付、容色{{r|無雙|ぶさう}}の{{r|美人達|びじんたち}}おはしますが、此人々は生れながらの色かたち其まゝにて、ふ
んたいと云事をば名をもしり給はず。其{{r|面影|おもかげ}}花にも月にも{{r|譬|たと}}へがたし。はら{{く}}とこぼれかゝりたる
びんのはつれより、ほのかに見えたる{{r|眉|まゆ}}の匂ひ、ふようのまなじり、たんくわの{{r|唇|くちびる}}、心{{r|言葉|ことば}}もおよば
れず。{{r|金翠|きんすゐ}}のよそほひをかざり{{r|桃花|たうくわ}}の{{r|媚|こび}}をふくみ、人目をよぎておくふかく{{r|屛風|べうぶ}}きちやうの內にまし
ます。{{r|御面影|おんおもかげ}}あからさまにかいま見る事もかたし。せめて御身達に玉簾の𨻶よりもれ出る衣のかをり
計をそとふれさせまゐらせばや。つたへ聞く、{{r|業平|なりひら}}の中將にちぎりをむすぶ女三千七百三十三人侍る
うちに、べつして十二人を書きあらはし侍る中に、{{r|紀在常|きのありつね}}のむすめ第一に書れたりしも、此{{r|上﨟衆|じやうらふしゆ}}によ
もまさらじ。{{r|此和尙|このをしやう}}さま達の{{r|御姿|おんすがた}}をばかんの{{r|李夫人|りふじん}}をうつせし畵工もゑがくべからず。梅︀が香を櫻の
花に匂はせて柳が枝にさかせたらんこそ、此姿にもたとふべけれ。昔かぐや姬といふ美人有りしが、
是に皆心まどはせり。此姬のいはく、我に逢みん人は{{r|龍|たつ}}の首に{{r|五色|ごしき}}に{{r|光|ひか}}る玉あり、それを持來りたま
へ。{{r|諸︀越|もろこし}}に有るひねずみの{{r|皮衣|かはごろも}}を取りてたべ。天竺こうがの底に有るこやす貝を取て給べ。東の海︀に
ほうらいと云山有り、それに銀を根とし金をくきとし白き玉を實として立る木あり。一枝折つて給は
らんと仰有りしかば、皆人聞きて世にも有る物なればこそ、かぐや姬のこのみ給へるとて、こま、{{r|諸︀越|もろこし}}、
天竺へ寳をもたせ人を數多遣はして、是彼と求め來るを姬に奉れば、是にはあらず益なしとのたま
ふ。また{{r|金銀珠玉|きんぎんしゆぎよく}}にて物の{{r|上手|じやうず}}に玉の枝を作らせ送給へば、誠かと聞きて見つれば言の葉を飾れる玉
の枝にぞ有りけるとて、終に人間に逢給はずして、天人と成て天上へあがり給ひぬと、竹取物語に見
えたり。若此かぐや確にやたとへん。たゞ是天人の{{r|影向|やうがう}}し給ふぞとかたれば、皆人聞て其{{r|面影|おもかげ}}を一目見
ばやと心空にあこがれ浮立雲のごとくなり。{{r|去程|さるほど}}に此遊女を諸︀人に見せ心をまどはせんとはかり事を
めぐらし、{{r|能|のう}}かぶきの{{r|舞臺|ぶたい}}を爰かしこに立ておき、そんじようそれさまの御能有り、かぶき舞有りと高
札を立ておけば、是を見んと{{r|貴賤|きせん}}くんじゆをなす處に、{{r|笛太鼓|ふえたいこ}}つゞみ{{r|謠|うたひ}}のやくしやをそろへはやし立
{{仮題|頁=374}}
つる時に、をしやうぶたいへ出ひきよくを盡す遊舞の袖、是や{{r|誠|まこと}}の{{r|天人|てんにん}}ぞと皆人見ほれまよひて、此世
は夢ぞかし、命も{{r|惜|をし}}からじ、寶もようなしと、蓄へ持ちたる財寶を皆盡し果て、そのうへはせんかた
なく人をすかして錢金をかり、身のおき所なうしてかけおちする者︀もあり、ばくちすご六を打ちて御
{{r|法度|はつと}}におこなはるゝも有り、{{r|主親|しうおや}}の{{r|貴命|きめい}}にそむきちくてんするもあり、盜みをなして首切らるゝも有
り、女をさしころし{{r|自害|じがい}}し共に死するもあり。下べの者︀は其家のふだいにつかはるゝも有り。身のは
て色々樣々也。{{r|此由|このよし}}{{r|御奉行衆|ごぶぎやうしう}}{{r|聞召|きこしめし}}、とかく彼らを江戶におくべからずと女の數をあらため給ふに、を
しやうと號する{{r|遊女|いうぢよ}}三十餘人、その次の名をうる{{r|遊女|いうぢよ}}百餘人、皆こと{{ぐ}}く{{r|箱根|はこね}}{{r|相坂|あふさか}}をこし西國へ{{r|流|なが}}
し給ふ。{{r|實|げ}}にや此道は智者︀も愚者︀もかはる事なし。{{r|戰國策|せんごくさく}}に{{r|男色|なんしよく}}老をやぶる、{{r|女色|ぢよしよく}}舌を破るといへり。
此道ふかくつゝしむべき事也。{{nop}}
{{仮題|ここまで=慶長見聞集/巻之九}}
{{仮題|ここから=慶長見聞集/巻之十}}
{{仮題|頁=374}}
{{仮題|投錨=卷之十|見出=中|節=k-10|副題=|書名=慶長見聞集/巻之十|錨}}
{{仮題|投錨=淨和軒觀音へ日まうでの事|見出=小|節=k-10-1|副題=|書名=慶長見聞集/巻之十|錨}}
見しは今、江戶いせ町に{{r|高岡淨和軒|たかをかじやうわけん}}と云{{r|知人|ちじん}}子を二人持り。{{r|淺草觀音|あさくさくわんおん}}へ日まうでして、子共の命長か
れと祈︀る。然に子一人死にたり。され共觀音へ參る事常のごとし。{{r|愚老|ぐらう}}云けるは子供の命を祈︀り給へ
ど一人の子は死にたり、夫にてもいんぐわをわきまへ給はずや。{{r|壽命|じゆみやう}}の{{r|長短福︀德|ちやうたんふくとく}}の大小是皆前世の
{{r|業因|ごふいん}}にこたへたる{{r|定業|ぢやうごふ}}なりといさめければ、{{r|淨和軒|じやうわけん}}聞て先の子の死たる事、觀音を{{r|恨|うら}}み申べからず。わ
れ二人を祈︀りつる事二{{r|念疑心|ねんぎしん}}におつれば也。いま一人を祈︀るは一念なれば、などか{{r|御惠|おんめぐみ}}にあづからざ
るべき。觀音品の明文にしゆおんしつたいさんと說給ふ、觀音妙智力とて妙の力にて世間の苦を{{r|救|すく}}ひ
給ふ、猶{{r|賴|たの}}み有り。{{r|定業亦能轉|ぢやうごふやくのうてん}}はぼさつのちかひなり、大聖のせいやくあに{{r|虛妄|きよまう}}にあらずやといふ。誠
に信心有難︀き人にこそあれと愚老云ければ、或{{r|能化|のうけ}}のたまはく、觀音は{{r|大慈大悲|だいじだいひ}}の{{r|𦬇|ぼさつ}}にて一{{r|切衆生|さいしゆじやう}}を
平等にすくひ給ふ。{{r|慈|じ}}といふは父の子を思ふかたち、悲と云は母の子をかなしむすがた也。一度も
{{r|觀音|くわんおん}}を念ずれば、諸︀々の苦をはなれ願ひをみてり。まして{{r|每日|まいにち}}詣でて念ずる{{r|功力|くりき}}をや。{{r|佛𦬇|ぶつぼさつ}}の御身體は
たとへば鏡のごとし。向ふ者︀まことを以て祈︀らば{{r|利生|りしやう}}有るべし。{{r|踈心|そしん}}をもつていのらば利益有るべか
らず。是{{r|鏡|かゞみ}}の{{r|影|かげ}}あきらか成るがごとし。{{r|世間|せけん}}の{{r|目前|もくぜん}}にさへ多くもつて奇特あり。{{r|似我|じが}}と云蟲有り、{{r|件|くだん}}
{{仮題|頁=375}}
の蟲は{{r|蜂|はち}}の一{{r|類︀|るゐ}}也。{{r|毛詩|もうし}}に云、{{r|螟蛉子有|めいれいこあり}}螺羸是を{{r|朝野|てうや}}に負と云々。彼はち他の蟲をふくんで我が巢の
中に入て呪して{{r|似我々々|じが{{く}}}}といへば、すなはち蜂に成るなり。かるが故に、似我々々といふ也。われにに
よによといのる心也。{{r|眞言|しんごん}}の{{r|呪|じゆ}}とは、皆{{r|正覺|しやうがく}}の{{r|佛|ほとけ}}の名也。是を{{r|衆生|しゆじやう}}となへて{{r|正覺|しやうがく}}をなせよと敎給ふ。
衆生をしへのごとく是を{{r|數遍|すへん}}となふれば正覺をなすも、たゞ此{{r|似我々々|じが{{く}}}}の我にによ{{く}}と度々呪願す
れば、蜂になるが如しといへり。呪とはしゆぐわんとて佛の願ひ也。{{r|諸︀佛|しよぶつ}}の名を衆生となへて佛にな
れかしと願ひ給ふを呪といふ。{{r|南無觀世音|なむくわんぜおん}}と一度となふれば、{{r|今生|こんじやう}}の願ひをみてるのみならず、{{r|來生|らいせ}}
には必觀音のれんだいに乘じてながくたのしびにあへり。大慈大悲のせいぐわんには、枯れたる木に
も花さき實のなるとかや。{{r|淸水觀音|きよみづくわんおん}}の御歌に、たゞたのめしめじが原のさしも草我世の中にあらんか
ぎりはの{{r|御慈詠|ごじえい}}、{{r|有難︀|ありがた}}やあふぐべしたふとむべし。
{{仮題|投錨=城言坐頭片いしなる事|見出=小|節=k-10-2|副題=|書名=慶長見聞集/巻之十|錨}}
聞しは昔、{{r|愚老|ぐらう}}若き{{r|頃|ころ}}{{r|坐頭|ざとう}}平家を語る、其中に{{r|右兵衞佐賴朝公|うひやうゑのすけよりともこう}}、伊豆の國の{{r|目代八牧判官平兼隆︀|もくだいやまきはんぐわんたひらのかねたか}}を夜
討にし義兵を擧し事を、諸︀國の{{r|坐頭|ざとう}}八牧判官とかたりけるに、{{r|城言|じやうげん}}といふ一人の坐頭有てやすぎ判官
と語る。此すぎとまきとの{{r|兩說|りやうせつ}}をやゝともすれば問答しつるが、一人の{{r|坐頭|ざとう}}{{r|片意志|かたいし}}者︀にて、わが{{r|師匠|ししやう}}
{{r|城慶坊|じやうけいばう}}は{{r|生國|しやうこく}}伊豆の人にて、やすぎの事をよく知て敎へなりとて語りやまず。皆人じやうごは坐頭と
あだ名を付て笑ひたりしといへば、{{r|壽齋|じゆさい}}と云人聞て、いや一人の{{r|坐頭|ざとう}}やすぎと語るも仔細有るべし。
此兩說おぼつかなし。今人每に賞ひ給へる{{r|盛衰記|せいすゐき}}{{r|平家物語|へいけものがたり}}に八牧と記し、{{r|東鑑|あづまかゞみ}}には山木とかき、扨又
或文には{{r|矢杉|やすぎ}}と記せり。いづれもすり本にて{{r|古今|ここん}}用ひ來れり。然るときんば、正字確ならず。是に付
て思ひ出せり。{{r|本田出雲守|ほんだいづものかみ}}と云入四五年{{r|以前|いぜん}}{{r|上總|かづさ}}の國中おだきと云所{{r|知行|をちぎやう}}し、をたぎとは何と書く
ぞととはれければ、里の{{r|翁|おきな}}答て、{{r|仔細|しさい}}はしらず昔より小瀧と書くといふ。{{r|出雲守|いづものかみ}}聞て小を捨て大をとる
と古人もいへり。前々はさもあれ今より大瀧と書くべしと申されければ、{{r|地頭|ぢとう}}の氣にしたがひ大瀧と
書く。{{r|在所|ざいしよ}}の者︀共げにも小より大がまさりなるといひたるとかや。是義は時の{{r|宜|よろ}}しきにしたがふ心也。
すべてたしかなる文に矢杉と記すといふ共、あまねく人の云傳ふる八牧を用ひてよろしかるべし。是
のみならずいにしへよりあやまり來れる事多し、{{r|夢々|ゆめ{{く}}}}とがむべからず。{{r|古歌|こか}}に秋の夜は春日わするゝ
物なれや{{r|霞|かすみ}}にきりはちへまさるらんと詠ぜり。此歌ちへと{{r|得心|とくしん}}してはことわり聞えがたし。され共ち
へに{{r|仔細|しさい}}ありと云人もあり。又或人申されしは、立といふ字を昔見誤まり、かなよみにちへととなへ
來れるにや、立にて此歌の{{r|義理|ぎり}}すなほに聞えたり。扨又{{r|鶉|うづら}}の字を日本の{{r|俗鳥|ぞくてう}}と作す、是もあやまり來
れり。{{r|此類︀|このるゐ}}多し、あげてかぞふべからず。しかるに右の{{r|兩說|りやうせつ}}を察するに、杉と牧とはすがた似たる字
也。又假字に書きてもまきとすぎは見まがへるなれば、{{r|筆者︀|ひつしや}}書きあやまりたるにや、たゞとにもかく
にも{{r|世上|せじやう}}にひろくさたするをとなへてよかるべしと申されし。
{{仮題|投錨=伯齋東國一見の事<sup>付</sup>武州淺草がうじ事|見出=小|節=k-10-3|副題=|書名=慶長見聞集/巻之十|錨}}
{{仮題|頁=376}}
聞きしは今、{{r|伯齋|はくさい}}と云{{r|關西|くわんさい}}人云ひけるは、{{r|我|われ}}東國を大かに見たりしが、{{r|宮寺|みやでら}}に大きなるは一つもなし。
{{r|鎌倉鶴︀岡|かまくらつるがをか}}の{{r|古宮|ふるみや}}たゞ一つ有りけれ共、大社︀とはいひがたし。{{r|五山|ごさん}}を{{r|尋行|たづねゆ}}き見れ共名のみ計の{{r|小寺也|こでら}}也。
昔かまくらはんじやうなれば、大寺大社︀も有りぬべし。{{r|文治|ぶんぢ}}五年六月{{r|鶴︀岡塔供養|つるがをかたふきやう}}の{{r|事|こと}}{{r|古記|こき}}にあり。其
塔も損ずる、大佛あれ共堂はなし。此大佛殿は{{r|建武|けんむ}}二年八月三日大風に破損す。關東{{r|下手|へた}}大工立しゆ
ゑ風に皆損じたり。扨又奈良の大佛殿は{{r|聖武|しやうむ}}天皇御宇天平壬午十四年より{{r|御建立|ごこんりふ}}、同十七年八月二十三
日先しき地のだんをかまへ佛のうしろに山をつき、同十九年九月二十九日佛を{{r|鑄|い}}奉る。孝謙天皇の
{{r|御宇|ぎよう}}{{r|天平勝寶|てんびやうしようはう}}{{r|元|ぐわん}}年其こう終る。三年の間八ヶ{{r|度|ど}}{{r|鑄|い}}なほし、同十二月七日供養有り。佛の御長十六丈金銅
るしやな{{r|佛|ぶつ}}の{{r|像|ざう}}を安置し給ふ。此佛の{{r|御法有難︀|みのりありがた}}き事{{r|花嚴經|けごんきやう}}にのべ給へるとかや。然に{{r|安德|あんとく}}天皇御宇、
{{r|治承|ぢしやう}}四年庚子十二月二十八日、{{r|平相國入道前業|へいしやうこくにふだうぜんごふ}}の{{r|惡行|あくぎやう}}により、四百三十年有つて{{r|大佛殿|だいぶつでん}}もえくひとな
る所に、しゆんせう坊重□{{r|上人|じやうにん}}法皇の命旨を承り、{{r|壽永|じゆえい}}二年癸卯四月十九日に、{{r|大宋國陳和卿|だいそうこくちんくわけい}}をしては
じめて本佛の{{r|御頭|みぐし}}を{{r|鑄|い}}奉らしむ。同き五月二十五日に至て{{r|首尾|しゆび}}す。三十餘日{{r|冶鑄|やじゆ}}十四度にようはんし
て功成りをはんぬ。{{r|文治|ぶんぢ}}元年乙巳八月二十八日に{{r|太上法皇|だじやうほふわう}}てづから{{r|御開眼|ごかいげん}}、時に法皇{{r|數重|すぢう}}の{{r|足代|あしろ}}によ
ぢのぼり十六丈の{{r|形像|けいしやう}}を見あふぎ給ふ。{{r|供奉|くぶ}}の{{r|卿相|けいしやう}}{{r|以下|いか}}目{{r|眩|くろめ}}き足ふるひて皆{{r|半階|はんかい}}に{{r|止|とゞ}}まる。{{r|供養|くやう}}せしむ
る{{r|昌導|しやうだう}}は{{r|當寺|たうじ}}の{{r|別當法務僧︀正定遍|べつたうほふむそうじやうぢやうへん}}、{{r|呪願|じゆぐわん}}の{{r|師|し}}は{{r|興福︀寺別當|こうふくじのべつたう}}{{r|權僧︀正信圓|ごんそうじやうしんゑん}}、{{r|講師|かうし}}は同き寺{{r|權別當|ごんのべつたう}}
{{r|大僧︀都︀覺憲|だいそうづかくけん}}すべてぞくする處也。納衣一千口也。{{r|其後|そのゝち}}{{r|上人|しやうにん}}{{r|往昔|わうせき}}の{{r|例|れい}}を尋ね大神︀宮に參り{{r|造寺|ざうじ}}の{{r|祈︀念|きねん}}を致すの所
に、風の社︀の□によてまのあたりに二{{r|顆|くわ}}の{{r|寶珠|ほうじゆ}}を得たり。{{r|當寺|たうじ}}の{{r|重寳|じうはう}}とし{{r|勅封|ちよくふう}}の藏にあり。建久六年
乙卯二月十四日{{r|巳刻|みのこく}}、將軍家鎌倉より{{r|御上洛|ごしやうらく}}し給ふ。是南都︀{{r|東大寺|とうだいじ}}{{r|供養|くやう}}の間{{r|御結緣|ごけちえん}}有るべきによて也。
{{r|御臺所|みだいどころ}}ならびに{{r|男女|なんによ}}の{{r|御息|おんそく}}等{{r|進發|しんぱつ}}し給ふ。{{r|畠山次郞重忠|はたけやまじらうしげたゞ}}先陣と云々。三月十一日將軍家馬千{{r|疋|びき}}を
{{r|東大寺|とうだいじ}}にほどこし入せしめ給ふ。{{r|義盛景時|よしもりかげとき}}昌寬等是を{{r|奉行|ぶぎやう}}す。およそ{{r|御奉加八木|ごほうがはちぼく}}一{{r|萬石黃金|まんごくわうごん}}一千兩{{r|上絹|じやうけん}}一
千{{r|疋|びき}}と云々。將軍家{{r|大佛殿|だいぶつでん}}に御參、{{r|爰|こゝ}}に{{r|陳和卿|ちんくわけい}}は{{r|宋朝|そうてう}}の{{r|來客|らいかく}}として和州{{r|工匠|こうしやう}}に應じ、およそ其るしや
な佛の{{r|修餝|しうしよく}}を拜しほとんど、びしゆかつまの{{r|再誕|さいたん}}といひつべし。よて將軍{{r|重源上人|ぢうげんしやうにん}}を中使としてちぐ
{{r|結緣|けちえん}}のために和卿をまねかしめ給ふ所に、{{r|國敵|こくてき}}を{{r|退治|たいぢ}}の時多く人の命をたち{{r|罪業|ざいごふ}}深重也。論ずるにおよ
ばざるの由{{r|再三|さいさん}}す。將軍かんるゐをおさへ、{{r|奧州征伐|あうしうせいばつ}}の時着し給ふ所の{{r|甲冑|かつちう}}、ならびに{{r|鞍馬|あんば}}三{{r|疋|びき}}金銀
等を{{r|和卿|くわけい}}に送らる。{{r|和卿甲冑|くわけいかつちう}}を給り、{{r|造營|ざうえい}}の{{r|釘料|くぎれう}}としてがらんに{{r|施入|せにふ}}す。其外{{r|領納|りやうなふ}}するにあたはず悉
もて是をかへし奉ると云々。然に此大佛三百七十餘歲をふる所に、永祿八乙丑の年、{{r|松永彈正少弼|まつながだんじやうせうひつ}}又
燒けほろぼしたり。此{{r|大佛殿|だいぶつでん}}數百年をふるといへども終に風には破損せず、二度ながら灰となる。さ
れば{{r|關西|くわんさい}}の{{r|寺社︀|じゝや}}は{{r|能|よ}}く{{r|工|たく}}み立たる故風にも損せずるふりたる大がらん多し。南都︀七大寺を初め京の五山
四ヶの{{r|本寺|ほんじ}}三十三間堂、{{r|祇園|ぎをん}}、{{r|淸水|きよみづ}}、{{r|東寺|とうじ}}、{{r|嵯峨|さが}}何れも{{く}}廣大なる伽藍有り。{{r|去程|さるほど}}に{{r|關東|くわなとう}}は是を見
て目をおどろかすといふ。老人聞て{{r|伯齋|はくさい}}の物しりきそくこそほいなけれ。扨こそ古人もほしいまゝに
言葉をもらすは失のもとなりといへり。四ヶの{{r|本寺|ほんじ}}は{{r|關西|くわんさい}}に有りとかや。{{r|延曆寺|えんりやくじ}}{{r|園城寺|をんじやうじ}}は近江の國な
{{仮題|頁=377}}
り。江州は關東にあらずや。{{r|後拾遺|ごしふゐ}}に、{{r|相阪|あふさか}}は{{r|東路|あづまぢ}}とこそ思ひしに心づくしの{{r|關|せき}}にぞありける。又
{{r|風雅集|ふうがしふ}}に、{{r|御調物|みつぎもの}}たえず備ふる{{r|東路|あづまぢ}}の{{r|瀬田|せた}}の{{r|長橋|ながはし}}音もとゞろくと{{r|兼盛|かねもり}}{{r|詠|えい}}ぜり。よくわきまへたる事は、必
口重く、とはぬ限りはいはぬこそいみじけれ。されば昔{{r|關東|くわんとう}}{{r|弓箭|きうせん}}有つて國亂れふるき{{r|寺社︀|じゝや}}共{{r|灰燼|くわいじん}}とな
る。然るに賴朝公{{r|治承|ぢしよう}}四年十月六日鎌倉へ{{r|打入|うちい}}る。先はるかに{{r|鶴︀岡|つるがをか}}八{{r|幡宮|まんぐう}}ををがみ給ひ、同十七日に
{{r|鳥居|とりゐ}}を立られたり。扨{{r|若宮御建立|わかみやごこんりふ}}有るべしとて大工を{{r|尋|たづ}}ね給ふ所に、{{r|武藏國|むさしのくに}}{{r|淺草|あさくさ}}に{{r|卿司|がうし}}といふ{{r|工匠|かうしやう}}の
{{r|棟梁|とうりやう}}有り。是を召され{{r|養和|やうわ}}はじまる{{r|丑|うし}}の{{r|年|とし}}{{r|此宮建立|このみやこんりふ}}し給ふ。四面のくわいらうあり。作り道十餘町て
うまう{{r|殊|こと}}に{{r|勝|すぐ}}れたり。慶長十九當年迄四百三十五歲に當りぬ。{{r|續古今集|しよくこきんしふ}}に、{{r|宮柱|みやばしら}}ふとしき立て萬代に今
ぞさかえん鎌倉の里と、{{r|鎌倉|かまくら}}右大臣よめり{{r|新拾遺|しんしふゐ}}に、{{r|鶴︀岡|つるがをか}}{{r|木高|こだか}}き松を吹く風の雲ゐにひらく萬代の聲
と、{{r|右兵衞督基氏|うひやうゑのかみもとうぢ}}詠ぜり。然るに{{r|當代|たうだい}}中井大和守と云ふ大工の{{r|棟梁|とうりやう}}有り、京大佛殿江戶駿河の{{r|殿主|てんしゆ}}を
も立て{{r|上手|じやうず}}の名をえたり。大和守大阪{{r|御陣|ごぢん}}へ{{r|馳參|はせさん}}する所に、{{r|軍中|ぐんちう}}にさいづちの指物あり。諸︀人是を見
て扨もめづらしき{{r|指物哉|さしものかな}}。是たゞものに有るべからず。天下に其名をうる{{r|工|たくみ}}大和守としられたり。
かれがつちにあたる所せいろう{{r|矢倉|やぐら}}はいふもさらなり、{{r|岩垣鐡門|いはがきてつもん}}もみぢんにくだくべしと{{r|諸︀侍|しよさぶらひ}}はうび
し{{r|前代未聞|ぜんだいみもん}}の{{r|名工|めいこう}}也。大和守鎌倉{{r|八幡宮|はちまんぐう}}を見て申しけるは、社︀のかつかふ{{r|大工|だいく}}の{{r|秘術七寶|ひじゆつしつぼう}}しやうごん
しきしやうの{{r|次第|しだい}}をば{{r|口舌|こうぜつ}}にてのぶべからず、筆にも記し{{r|難︀|がた}}し。いはんや{{r|末代|まつだい}}において是を學ぶ人有
るべからず。たゞ目をおどろかす{{r|計|ばかり}}也。されば{{r|繩|なは}}をけづると云ふ事有り。{{r|堯|げう}}の代に{{r|匠石|しやうせき}}と云ふ工あ
り。又{{r|野人|やじん}}と云白土ぬり有り。或人此ふたりを賴み{{r|屋|や}}作りしらかべをぬる所に、{{r|亭主|ていしゆ}}扨も上手のかべ
ぬりかなとあふのきに成つてほめける時に、かべぬりへらをちやくと{{r|亭主|ていしゆ}}の{{r|鼻|はな}}の先に白土を付る、薄
きはへの羽︀の薄さに付る。是を{{r|湯水|ゆみづ}}にてあらひぬぐひすれ共落ちず。家主めいわくするに、工見てさ
らばわれ釿にてけづりおとさんと云ふ。あぶなく思へ共よんどころなし{{r|賴|たの}}むと云ひければ、{{r|鼻|はな}}の皮を
もきらず土をけづり落したり。それより蠅けづりと云事天下において{{r|沙汰|さた}}せり。然るに我{{r|朝|てう}}{{r|武藏|むさし}}の國
のがうしは{{r|匠石|しやうせき}}がゆかりにてこそ有るべけれ。其上おほくの工有つて{{r|品々|しな{{く}}}}に心をつくし、{{r|神︀妙不思議|しんべうふしぎ}}
を殘す事言葉にのべがたしとぞほめたる。{{r|萬|よろづ}}の道をば道が知ると云て、其家々の者︀ならずしてよくは
知りがたし。おろかなる人は{{r|難︀|なん}}を求めて言葉を工みにし、いさゝかの事をもいみじと{{r|自讃|じさん}}し、かへつ
てあざけりとなる事を知らず。是{{r|淺知|せんち}}の有ることなりといへり。
{{仮題|投錨=藤次よき栖をもとむる事|見出=小|節=k-10-4|副題=|書名=慶長見聞集/巻之十|錨}}
見しは昔、{{r|上野|かうづけ}}の{{r|國|くに}}{{r|岡根|をかね}}と云ふ{{r|山里|やまざと}}に、藤次と云て身まづしく{{r|姿無骨|すがたぶこつ}}なる者︀有りしが、六七年前江戶
へ來り、{{r|志葉|しば}}の町はづれにちひさき{{r|草|くさ}}の{{r|庵|いほり}}をむすび月日を送りしが、年をおひ其身よろしくなり、今
は江戶さかゆる町にて{{r|家屋敷|いへやしき}}を求め、{{r|萬什物|よろづじふもつ}}をたくはへ人のまじはりをむつまじくす。{{r|常|つね}}の{{r|振舞|ふるまひ}}こと
{{r|人|ひと}}に{{r|勝|すぐ}}れたりと諸︀人にほめられ、目出度ぞさかえける。{{r|賤|いや}}しき身とて思ひ捨てめやと云前句に、立ち
よる人をいとはぬ花の{{r|蔭|かげ}}と{{r|兼載|けんさい}}{{r|付給|つけたむ}}へり。此者︀{{r|古鄕|ふるさと}}に{{r|居|を}}るならば{{r|一期|いちご}}まづしく、心おろかに有はつべ
{{仮題|頁=378}}
き身が、{{r|生所|うまれどころ}}なれ共見捨て{{r|繁︀昌|はんじやう}}の江戶へ來り、人の{{r|形儀作法|ぎやうぎさはふ}}を見習ひ{{r|仁義|じんぎ}}の道を學び、{{r|今人|いまびと}}といはる
ること是よき{{r|住所|すみか}}にあるが故也。{{r|人間|にんげん}}は{{r|天理|てんり}}といひて此理をもたぬ人はあらねども、それを{{r|分明|ぶんみやう}}せざ
りによつて、{{r|萬|よろづ}}にまよへり。其上心おろかなる人學ばずんば道を知りがたし。{{r|先哲|せんてつ}}も一{{r|期|ご}}の{{r|大事|だいじ}}は
{{r|住所|すみか}}といへり。{{r|實|げ}}に{{r|人間一期|にんげんいちご}}たのしむべき{{r|栖|すみか}}を{{r|肝要|かんえう}}と求めずして、{{r|生所|うまれところ}}をしたひ{{r|舊緣|きうえん}}につながれ、いた
づらに一{{r|生涯|しやうがい}}をおくり{{r|暮|くら}}すは{{r|常|つね}}の{{r|習|なら}}ひなり。{{r|孟母|まうぼ}}と云は、{{r|孟軻|まうか}}が母也。母、{{r|家|いへ}}を{{r|墓所|ぼしよ}}のちかくに作る。
{{r|軻|か}}いとけなうしてたはふれに{{r|葬送|さうそう}}の事を{{r|明暮|あけくれ}}なす。母是を見て、此所しかるべからずと市のかたはら
に住す。{{r|軻|か}}又{{r|賣買|ばい{{く}}}}の事を學ぶ。母{{r|玆|こゝ}}も{{r|益|やく}}なしとくわんがくゐんの{{r|傍|かたはら}}に住す。{{r|學者︀達出入|がくしやたちいでいり}}にしよじやく
をもてあそぶを見て、{{r|軻|か}}是を學ぶ。時に{{r|學半|がくなかば}}に母の家に來る。母の云く、學びえたりやと問ふ。{{r|軻|か}}{{r|半學|なかばまなぶ}}
とこたふ。その時母はた物を{{r|織|お}}りけるが、中より切つて見せたり。軻是を見て、{{r|頓|やが}}て{{r|心得學堂|こゝろえがくだう}}に歸つ
て學をきはめ天下一の{{r|學匠|がくしやう}}となる。扨又頭武と云つてしらみは{{r|住所|すみか}}によつて色々なり。{{r|首|かうべ}}に住むはく
ろし。身に住むはしろし。ぢやうこうはかやを食してかうばし。かくのごとく人も{{r|住所|すみか}}によつて
{{r|惡人共智者︀共|あくにんともちしやとも}}成るべし。{{r|花山院御製|くうざんゐんぎよせい}}に、木のもとを{{r|栖|すみか}}とすればおのづから花見る人と成りぬべきかなと詠
じ給ふ。扨又{{r|昌叱|しやうしつ}}、{{r|侘|わ}}びて住むとも都︀也けりと前句をせられしに、{{r|遠近|をちこち}}の花の{{r|梢|こずゑ}}をみぎりにてと{{r|紹巴|ぜうは}}
付けられたり。かゝる{{r|目出度|めでたき}}{{r|江戶|えど}}の花の都︀をよそに見て、かた{{r|田舎|ゐなか}}に住みはてんはおろか成る心にあ
らずや。
{{仮題|投錨=熊居助身のわきまへなき事|見出=小|節=k-10-5|副題=|書名=慶長見聞集/巻之十|錨}}
見しは今、小坂熊居助と云者︀、{{r|明暮|あけくれ}}世を{{r|恨|うら}}み人をうらやみて云ひけるやうは、この{{r|比|ごろ}}たてばかたをな
らべ、ゐればひざをくみし、友人も俄におのれいみじげなる{{r|風情|ふぜい}}、見ても聞きてもきのどくや{{r|腹立|はらだち}}や
と、ひゐする人をうらやめり。是ひが事也。おのれすなほならねば人の賢を見てうらやむは{{r|尋常|じんじやう}}也。
{{r|過去|くわこ}}の{{r|善惡|ぜんあく}}の{{r|業因|ごふいん}}によりて今世のひんぷく{{r|苦樂|くらく}}有り。{{r|惡念化|あくねんくわ}}して地ごく{{r|鬼畜|きちく}}と{{r|現|げん}}じ、善因つもつて
{{r|淨土|じやうど}}ぼだいとあらはる。{{r|後漢︀書|ごかんじよ}}に人の恨る所は天のさる所也、人の思ふ所は天のくみする所也と云々、
歌に、おのが身のおのが心にかなはぬを思はば物を思ひしりなんと詠ぜり。誠に我身を心に任せぬ世
の習ひなれば、まして人をうらむるはおろか也。{{r|先哲|せんてつ}}もまさるをもうらやまざれ、{{r|劣|おと}}るをもいやしむ
なとこそ申されし。{{r|古歌|こか}}に、世やはうき人やは{{r|辛|つら}}き{{r|海︀士|あま}}のかるもにすむ蟲のわれからぞうきとよめり。
{{r|子夏|しか}}がいはく、{{r|死|し}}{{r|生命|せいめい}}に有り、{{r|富貴天|ふうきてん}}に有りと也。皆是{{r|過去|くわこ}}のいんなるべし。扨又{{r|末代|まつだい}}のくわをしら
んとほつせば{{r|現在|げんざい}}のいんを見よと也。かくのごとくわきまへしりぬれば、三{{r|世|ぜ}}くらからず。
{{仮題|投錨=神︀田大塚︀にて行人火定の事|見出=小|節=k-10-6|副題=|書名=慶長見聞集/巻之十|錨}}
見しは昔、{{r|慶長|けいちやう}}二年の{{r|比|ころ}}ほひ{{r|行人|ぎやうにん}}江戶へ來り云樣、神︀田の{{r|原|はら}}、{{r|大塚︀|おほつか}}の本にて來六月十五日{{r|火定|くわぢやう}}せんと
ふれて町をめぐる。{{r|漸|やうや}}く{{r|定日|ぢやうにち}}もきはまりぬはば。{{r|老若男女|らうにやくなんによ}}{{r|大塚︀|おほつか}}とのち、有り難︀き事にや、是を拜まんと
{{r|貴賤群集|きせんくんじゆ}}し、廣き{{r|野原|のはら}}も所せきたちどなかりけり。{{r|塚︀本|つかもと}}に{{r|棚|たな}}をゆひて{{r|行人|ぎやうにん}}あがり、其下に{{r|薪|たきゞ}}をつみ火
{{仮題|頁=379}}
を付け{{r|燒立|やきた}}つる處に、{{r|行人|ぎやうにん}}{{r|火中|くわちう}}へ飛入たるともいふ。飛びかぬるを{{r|弟子|でし}}の{{r|行人|ぎやうにん}}共そばよりつきおそむ
たる共いふ。我も{{r|慥|たしか}}には見ざりけり。次の口{{r|朋友|ほういう}}とうちつれとぶらひ行き大塚︀のあたりを見るに、人
氣はひとりもなく跡には{{r|骨交|ほねまじ}}りの{{r|灰計|はひばかり}}殘りたり。又かたはらに{{r|蟻|あり}}さいげんなう見ゆる。古歌に、みな
月や{{r|照日|てるひ}}のうつのあわれのみよあもの{{r|通路|かよひぢ}}行きちがふ也とよみしも{{r|思|おもひ}}出せり。東西へ行き南北へはしる
{{r|行方|ゆくかた}}あり歸る栖あり。たゞきのふ{{r|此所|このところ}}へ集しわれ人に{{r|異|こと}}ならず。蟲にはなにたる物か生れ來て{{r|步|ある}}く。
足の下に{{r|如何計|いかばかり}}の{{r|蟻|あり}}をかふみころしつらん。きのふ{{r|行人|ぎやうにん}}と共にやけ死にたる蟻ごうがしやよりも多か
るべし。此{{r|蟻|あり}}は{{r|燒|やけ}}殘り也。妻を尋ね子を尋ぬると覺えたりと笑へば、友人聞きて、愚なる云事哉。其
方蟻をふみころす事{{r|慈悲|じひ}}なきによつて也。いきとしいける{{r|物|もの}}{{r|前世|ぜんせ}}の兄弟{{r|生々|しやう{{く}}}}の父母也。一{{r|切|さい}}のものを
わが{{r|親子|おやこ}}のごとくおもはんにいかで{{r|殺︀|ころ}}さん、{{r|善業|ぜんごふ}}のみなもとは{{r|慈悲|じひ}}をもつてむねとすといへり。其上
{{r|五戒|ごかい}}のはじめに{{r|殺︀生戒|ぜつしやうかい}}を第一とす。{{r|此戒|このかい}}を{{r|破|やぶ}}る事{{r|慈悲|じひ}}なき故也。{{r|慈悲|じひ}}有る人をば{{r|佛|ほとけ}}もあはれみ神︀も
{{r|納受|なふじゆ}}たれ、其人のかうべにやどり給ひぬ。{{r|經|きやう}}に一足千蟲を殺︀すと說かれしは、其方の事なるべし。{{r|昔|むかし}}{{r|或|あ}}
る{{r|沙彌蟻|しやみあり}}一つ水にながるゝをみて取りあげいかしけるによつて、{{r|今生|こんじやう}}の命をのびたると古記に見えた
り。きのふの{{r|行人|ぎやうにん}}けふ{{r|白骨|はくこつ}}となるを見て、誰か是にちやくしんをなさゞらん。此{{r|觀念|くわんねん}}をなさん時、む
し{{r|生死|しやうじ}}のさいしやう悉くめつすべし。此故に慧心{{r|僧︀都︀|そうづ}}はふじやうくわんをなさんと思はゞ、常に{{r|塚︀|つか}}の
ほとりに行きて{{r|死人|しにん}}の{{r|尸|かばね}}を見よとのたまひき。夫れ{{r|四種|しゝゆ}}の{{r|葬禮|さうれい}}とて、{{r|火葬|くわさう}}、{{r|水葬|すゐさう}}、{{r|野葬|やさう}}、{{r|土葬|どさう}}といふ
事あり。人をやく{{r|事|こと}}は{{r|人王|にんわう}}四十二代{{r|文武天皇御宇|もんむてんかうのぎよう}}四年の春{{r|元興寺|げんこうじ}}の{{r|道昭入滅|だうせうにふめつ}}、これ日本{{r|火葬|くわさう}}の始也。{{r|朝|あした}}
に{{r|紅顏|こうがん}}有つてせいろにほこるといへ共、身は{{r|忽|たちまち}}に{{r|化|くわ}}して{{r|暮天數片|ほてんすうへん}}の{{r|煙|けぶり}}と立ちのぼり、{{r|骨|ほね}}は{{r|空|むな}}しく{{r|留|とゞま}}つ
て{{r|卵塔|らんたう}}一{{r|掬|きく}}のちりとなる。是{{r|生死|しやうじ}}の習ひ{{r|有爲|うゐ}}てんべんのことわり也。{{r|莊子|さうし}}に形は{{r|誠|まこと}}に槁木のごとくな
らしめつべしや、しかうして心まさに{{r|死灰|しくわい}}の如くならしめつべしやと云々。{{r|萬|よろづ}}{{r|心念|しんねん}}のおこるは{{r|陽氣|やうき}}の
生じて{{r|發動|はつどう}}するゆゑなり。それをよく{{r|閑|しづか}}にをさめて{{r|枯木|こぼく}}のごとくひえたる{{r|灰|はひ}}のごとくせよと云莊子が
{{r|心法|しんぼふ}}也。{{r|本來|ほんらい}}の{{r|面目|めんぼく}}と云ふも外になし。わが心ををさむるにあり。人死して{{r|白骨|はくこつ}}となり{{r|蟻|あり}}人に似たる
と{{r|計|ばかり}}見て{{r|無情|むじやう}}をわきまへざるはおろか也。一{{r|切生類︀|さいじやうるゐ}}蟻に至る迄も心を付て能く見給へ。子を思ひ、{{r|親|おや}}を
なつかしみ、夫婦{{r|伴|ともな}}ひ、妬み怒り、欲あり、命を惜む事{{r|人間|にんげん}}にたがはず。故に一{{r|切|さい}}の{{r|有情|うじやう}}を見て無事
をもくわんぜず{{r|慈悲|じひ}}の心なからんは、{{r|鬼畜木石|きちくぼくせき}}也。人虫ことなれ共其志は{{r|同|おな}}じ。無益の事をなし年月
を送るは、{{r|抂|まげ}}て一生を過ぎて{{r|蟻磨|ありうす}}を廻るに似たり。此心{{r|文選|もんぜん}}にも{{r|陳翰|ちんかん}}が{{r|大槐官記|だいくわいくわんき}}にも有り。{{r|流轉生死|るてんしやうじ}}の
{{r|緣|えん}}たる事は多く{{r|後世|ごせ}}ほだいの{{r|便|たより}}となる事は{{r|稀|まれ}}にもなく、{{r|當來|たうらい}}の{{r|生所|しやうしよ}}を思はざるは愚なり。{{r|仁政|じんせい}}の道に
叶ひ給はゞ、おのづから{{r|和光|わくわう}}の深き意をもしり、{{r|佛陀|ぶつだ}}の廣き惠みをも信じ、{{r|經文|きやうもん}}のかすかなる{{r|趣|おもむき}}をも
悟り給ひぬべしと云へり。誠に有がたき{{r|朋友|ほういう}}のいさめとこそ思ひ侍れ。
{{仮題|投錨=江戶ちまた說の事|見出=小|節=k-10-7|副題=|書名=慶長見聞集/巻之十|錨}}
聞きしは今、江戶に於てさる{{r|屋形|やかた}}へ過ぎし夜{{r|大名衆|だいみやうしゆ}}集り給ひ、{{r|酒宴|しゆゑん}}の上、{{r|盃|さかづき}}に付て{{r|口論|こうろん}}有り。{{r|互|たがひ}}にか
{{仮題|頁=380}}
たなを拔合せ、一方には弓のうでを打ち落され、あまつさへ又面を二刀切られ給ひぬ。{{r|獨|ひとり}}は手も{{r|負|お}}ひ
給はず。皆人中へ入れて兩方へ{{r|引分|ひきわ}}け、夜中に乘物に乘り{{r|屋形|たかた}}へ歸り給ひしが、手負ひたる大名の方よ
り夜中におしよする由聞えしかば、一方には門をかため今や{{く}}と待ちたり。あたりの{{r|大名屋形|だいみやうやかた}}にも
夜もすがらさわぎおびたゞしかりしが、過ぎし夜は何事もなし。此{{r|大名衆|だいみやうしゆ}}は天下において五人三人の
うちの{{r|頭|かしら}}大名にてましませば、此けんくわ後は何とかをさまらん。兩やかたに{{r|人數取籠|にんずとりこも}}り、{{r|甲冑|かつちう}}を帶
し{{r|弓鐵砲|ゆみてつぱう}}の{{r|用意|ようい}}有つて上を下へ騷ぐといへ共、門を打て出入なし。その上此人々の一{{r|門|もん}}{{r|廣|ひろ}}し、
{{r|親類︀緣類︀|しんるゐゑんるゐ}}に至るまでも{{r|內々|ない{{く}}}}の{{r|仕度|したく}}有りとかや。{{r|如何成|いかな}}る大事が出來ぬべきと、よる者︀も{{く}}此事いひやまず。
され共われ{{r|兩屋形|りやうやかた}}の{{r|中|うち}}に{{r|知人|ちじん}}なければ、{{r|大名衆|だいみやうしゆ}}の{{r|事|こと}}{{r|町|まち}}の者︀にかゝらずと聞き居たり。其後此{{r|喧嘩|けんくわ}}の事
人に尋ねければ、町にて此ほど{{r|沙汰|さた}}せし{{r|大名衆|だいみやうしゆ}}のけんくわ一{{r|圓|ゑん}}なき事也。何者︀か此{{r|惡事|あくじ}}を云ひ出しけ
ん、江戶より外へ出づる口は{{r|品川口|しながはぐち}}、{{r|田安口|たやすぐち}}、{{r|神︀田口|かんだぐち}}、{{r|淺草口|あさくさぐち}}、{{r|舟口|ふなぐち}}共に五口有り。江戶町より一日の
うち外へ出行く者︀、{{r|幾千萬共數|いくせんまんともかず}}しらず。さぞ此{{r|惡事|あくじ}}日本國へ聞えつらん、{{r|好事|かうじ}}もなきには如じとこそ
いへ、かゝる{{r|惡說|あくせつ}}是{{r|天魔|てんま}}の{{r|所行|しよぎやう}}成るべし。以來人の云事を誠と思ひかたるべからずといへば、老人の
有りしが聞いて、いや人の{{r|物語|ものがたり}}を聞いていはじと云ふは愚也。昔より記し置いたる抄物も、皆人の物
語を聞きて書きおきたり。此四五日江戶町にて{{r|沙汰|さた}}せし{{r|大名衆|だいみやうしゆ}}の{{r|喧嘩|けんくわ}}のみ{{r|多|おほ}}かるべし。然るは{{r|盛衰記|せいすゐき}}
を見るに、平家のちやく{{く}}小松內大臣重盛公の{{r|子息|しそく}}{{r|權助|ごんのすけ}}三位中將{{r|惟盛|これもり}}は、{{r|讃岐|さぬき}}の{{r|八島|やしま}}の{{r|戰場|せんぢやう}}をのが
れ出て三{{r|所權現|じよごんげん}}をじゆんれいをとげ、{{r|那智|なち}}の{{r|浦|うら}}に來て松の{{r|皮|かは}}をけづり、一首の和歌をぞ殘されける。生
れ來て終にしぬてふことのみぞさだめなき世に定めありける。{{r|元暦|げんりやく}}元年三月廿八日生年二十二歲と書
きおき、{{r|那智|なち}}の{{r|浦|うら}}にて{{r|入水|じゆすゐ}}し終んぬ。又{{r|或說|あるせつ}}に、中將殿を{{r|那智|なち}}のきやくそうあはれみて、瀧の奧山中
にあんじつを結びかくしおき、是にて果て給ひぬ。又{{r|或說|あるせつ}}に、{{r|中將殿|ちうしやうどの}}は三山を{{r|參詣|さんけい}}し、都︀へ上りとらは
れてかまくらへ下る時、飮食をたち、十一日といへば、{{r|相模|さがみ}}の國{{r|湯本|ゆもと}}のしゆくにて卒し給ひぬ。但し
是はせんちうきに有りと書きたり。此中將の果てし處を、此{{r|物語|ものがたり}}の內に三{{r|說|せつ}}迄記せり。此物語は{{r|相國|しやうこく}}
{{r|入道淸盛公|にふだうきよもりこう}}の事を書きはじめ、なかんづく公家の事を委しく記したれば、都︀あたりにて書きたると覺
えたり。然ば中將殿都︀にて捕はれ給ひなば、世に{{r|隱|かくれ}}有るまじきに、三說しるしたるもふしん也。又
{{r|平家物語|へいけものがたり}}は{{r|信濃入道行長|しなのにふだうゆきなが}}作りて{{r|生佛|いきぼとけ}}と云ふ{{r|盲|めしひ}}に敎へ、ふしを付てかたらせたり。此入道も人の{{r|云傳|いひつた}}へを
や記したりけん、此物語も盛衰記に{{r|相違|さうゐ}}の事多し。扨又源平の事を{{r|謠舞|うたひまひ}}に作りたり。是も右の兩書物
にちがふことのみあり。如何なる文を見たるや、是又おぼつかなし。かくのごとく說多ければ虛言さ
ぞ多からん。然るときんば、いづれをか虛とし、いづれを實とせん。此程江戶町のざうせつ多かるべし
といへり。
{{仮題|投錨=江戶大橋に每日刀市立事|見出=小|節=k-10-8|副題=|書名=慶長見聞集/巻之十|錨}}
見しは今、江戶{{r|大橋|おほはし}}のあたりに何となく{{r|賣刀|うりがたな}}を持出しが、近年は{{r|貴賤|きせん}}くんじゆし{{r|刀市|かたないち}}立て、刀を拔連
{{仮題|頁=381}}
れ物すさまじき{{r|體|てい}}也。かたき持ちたる人此道通りてえき有るまじ。其上{{r|大盜人|おほぬすびと}}多く立交はり、人の
{{r|財珍|ざいちん}}をうばひ取るをとらへ、{{r|御奉行所|ごぶぎやうしよ}}へつれて行けば、火あぶりはり付にかけ給ふ。扨又{{r|小盜人|こぬすびと}}は腰に
さげたる{{r|火打袋|ひうちぶくろ}}いんろう刀のさげ{{r|緖|を}}など切取るをとらへ、手足の{{r|指|ゆび}}をもぎて{{r|日本橋|にほんばし}}にさらしおく。か
く{{r|罪科|ざいくわ}}の{{r|輕重|けいぢう}}に{{r|隨|したが}}ひて罪におこなひ、其上盜人の{{r|宿同類︀|やどどうるゐ}}迄も御せんさく有て{{r|同罪|どうざい}}になし、諸︀國の
{{r|御法度|ごはつと}}右の如くなれば、今はぬす{{r|人|びと}}絕えはで天下おだやかに、諸︀人{{r|正直|しやうぢき}}けんぱふを心に嗜み、仁義を本と
し{{r|佛法|ぶつぽふ}}を{{r|信敬|しんきやう}}し目出度{{r|世上|せじやう}}也。{{r|孟子|まうし}}に{{r|堯舜|げうしゆん}}の仁はあまねく人を愛せず、賢を親する事をすみやかにす
と云々。{{r|堯舜|げうしゆん}}{{r|程|ほど}}の君もなけれ共、世間の者︀を皆あいする事はなし。賢人をしたしみ持ちて、それ{{ぐ}}に
國の{{r|政道|せいだう}}をさわがせ給へるによつて、世も太平にて{{r|萬民豐|ばんみんゆたか}}にさかえたり。{{r|史記|しき}}に千金のかは{{r|衣|ごろも}}一{{r|狐|こ}}の
{{r|腋|えき}}にあらず、{{r|臺樹|だいしや}}之根は一木の枝にあらず、三代の間は一士の智にあらずと也。誠に今代々の{{r|將軍|しやうぐん}}相
つゞき國を治給ふ事一人の{{r|智惠|ちゑ}}にあらず。{{r|名目|みやうもく}}も多く出來、政を行ひ給ふ故なるべし。其上太平の
{{r|御代|みよ}}には弓を{{r|袋|ふくろ}}に入れ{{r|太刀|たち}}を箱にをさむとかや。大橋に市を立ぬき刀くせ事{{r|停止|ちやうじ}}の旨仰出されたり。
{{r|竹林抄|ちくりんせう}}に、包むとすれど名はしられけりといふ前句に、武士の此時弓を袋にてと{{r|專順|せんじゆん}}付られたるも、今爰
に思ひ出けり。{{r|誠|まこと}}に有がたき君の御時代と萬民よろこびあへり。
{{仮題|投錨=他のあざけりをしらざる事|見出=小|節=k-10-9|副題=|書名=慶長見聞集/巻之十|錨}}
見しは今、天下治り國民{{r|豐|ゆたか}}にして{{r|有難︀|ありがた}}き御時代に生れあひたり。{{r|諸︀人|しよにん}}仁義を專とし{{r|慈悲|じひ}}あいきやうを
もとゝし給ふ。仁と云は父の子をいつくしみ思ふかたち、母の子をかなしむ姿也。{{r|佛敎|ぶつけう}}にも{{r|慈悲心|じひしん}}{{r|則|そく}}
{{r|佛心|ぶつしん}}と說き給ふ。{{r|慈悲|じひ}}あらん人をば{{r|親踈|しんそ}}をいはず親のごとく思ひ、恩あらん{{r|輩|ともがら}}には{{r|貴賤|きせん}}を論ぜず{{r|主從|しうじう}}
の{{r|禮|れい}}をいたす、是仁の道也。{{r|猶|なほ}}以て君子は{{r|情|じやう}}ふかく慈悲有るべき事也。{{r|情|じやう}}には命を捨て恨には恩をわ
する。是よのつねの習ひ、上に義あれば下あへて服せざる事なし。{{r|孟子|まうし}}にそくいんの心は仁の{{r|端|たん}}なり
と云々。仁、心にあれば、用外にあらはるゝ者︀也。{{r|爰|こゝ}}に或君子まします、いときなき御時より{{r|愚老|ぐらう}}を
あはれみ{{r|思召|おぼしめし}}、{{r|遠國|ゑんごく}}より每年江戶へ{{r|御下向|ごげかう}}の{{r|砌|みぎり}}、予{{r|參向|さんかう}}いたす所に、老いたる身なれば死ても有るか
と思召出さるゝに、そくさいなるよと{{r|仰|おほせ}}也。{{r|忝|かたじけなく}}も賤き身が如何なる先世の{{r|御緣|ごえん}}を結び、御れんみん
に{{r|預|あづか}}り候ぞと涙を流し申す計也。昔{{r|文王|ぶんわう}}{{r|城洛|じやうらく}}に行くに老馬{{r|臥|ふ}}してあり。帝いかなる馬ぞと問ひ給ふ。臣
下答て、よはひ老いたりとて捨つると申す。王あはれんで此馬を養ひ給ひければ、四方の{{r|古老|くわう}}是を聞き
て帝にしたがふ者︀三十餘國也。今われ{{r|老馬|らうば}}のごとし。君の{{r|御惠|おんめぐ}}みに預る事{{r|古今|ここん}}ことならず。又{{r|或時|あるとき}}
{{r|愚老|ぐらう}}{{r|鳩|はと}}の杖にすがり{{r|御屋形|おんやかた}}へ{{r|御見廻|おんみまひ}}申したり。君仰に云、{{r|老足|らうそく}}にて町より{{r|是迄遠路|これまでゑんろ}}をはこぶ志{{r|感悅|かんえつ}}に
{{r|思召|おぼしめ}}す。折しも今日は{{r|寒天|かんてん}}、見るに、{{r|翁薄衣|おきなはくい}}にしてふびんの{{r|次第|しだい}}也。さぞな{{r|路次中|ろじちう}}寒からんと、君{{r|上|うへ}}にめ
されたる{{r|帋子|かみこ}}を脫せ給ひ、{{r|年寄|としより}}の身は風しみ易し、是を着て{{r|寒風|かんぷう}}をよき{{r|私宅|したく}}に歸り候へと下されたり。
{{r|拙者︀|せつしや}}是をいたゞき{{r|感淚|かんるゐ}}{{r|肝|きも}}にめいずる計也。私{{r|宅|たく}}に歸り妻子共に此由を語り、いやしき身を上としてあは
れみ給ふ{{r|御情|おんなさけ}}山海︀よりもふかしと、たゞ袖をぬらすより外はなし。仁者︀は人をあいすと{{r|孔子|こうし}}のたまひ
{{仮題|頁=382}}
しも思ひしられたり。{{r|昔良將|むかしりやうしやう}}の兵を用ゐる時にたんらうを一河の水に{{r|味|あぢは}}へり。{{r|士卒|しそつ}}是をかんじ君の
爲に死をかろんず、{{r|誠|まこと}}に{{r|恩愛|おんあい}}のふかき{{r|滋味|じみ}}のおのれにおよぼすをもつて也。{{r|愚老|ぐらう}}つれ{{ぐ}}に思ふ事を
書くまゝに、餘りに物にいひはやりてかやうの事迄記し侍る事、他の{{r|嘲|あざけり}}をかへり見ざるか、されば古き
{{r|連歌|れんが}}に、年こそ今は立ち歸りけれと云前句に、老いぬればいときなかりし心にてと{{r|救濟|きうさい}}付給へるも、翁
が心におなじ。老いて二度ちごになると{{r|世俗|せぞく}}にいへるがごとし。捨てえぬ身こそ袖はぬれけれと云前
句に、たどるまに年は老いにき歌の道と宗砌付給へり。其上われに等しき友もなし、{{r|桃李|たうり}}物いはねば、
せめては{{r|獨言|ひとりごと}}に思ふ事などかいはでたゞにややみぬべき。老いたる{{r|形|かたち}}をば見る人是をううとみ、聞く人か
れをにくむ。{{r|年寄|としより}}をわらはん人の{{r|行末|ゆくすゑ}}の命ながかれ思ひしらせんと、古き歌をも思ひ出で侍りぬ。予老
いおとろへ、いきの松原いきてかひなき{{r|命|いのち}}何かくるしからん。{{r|情|なさけ}}は中にうごけば{{r|言葉|ことば}}は外にあらはる
る世のならひと、見捨て聞きすてらるべし。
{{仮題|投錨=湯島天神︀御繁︀昌の事|見出=小|節=k-10-10|副題=|書名=慶長見聞集/巻之十|錨}}
見しは昔、{{r|湯島天神︀|ゆしまてんじん}}の御社︀あれ果て、{{r|社︀壇|しやだん}}はむぐらの下に{{r|埋|うも}}れ、{{r|社︀頭|しやとう}}はひとへに{{r|塵|ちり}}に交はり、神︀は{{r|威|ゐ}}
を失ひ{{r|祭禮禮典|さいれいれいてん}}も時を{{r|忘|わす}}れ、{{r|權實靈社︀|ごんじつれいしや}}も{{r|泥土|でいど}}にくちぬ計にて、{{r|和光同塵|わくわうどうぢん}}の{{r|結緣|けちえん}}も餘り有る計也。かゝ
る所に神︀ぞましますと云前句に、捨てぬべき{{r|塵|ちり}}の{{r|浮世|うきよ}}に交りてと、{{r|專順|せんじゆん}}付けたるも思ひ出でけり。然
に{{r|當君|たうきみ}}江戶へ打入り給ひしよりこのかた、民{{r|豐|ゆたか}}に{{r|繁︀昌|はんじやう}}他に異なり。ていれば{{r|今|いま}}{{r|湯島|ゆしま}}の{{r|社︀|やしろ}}へ{{r|祈︀|いのり}}をかけ{{r|往|ゆ}}
きかひする事さりもやらず、{{r|社︀壇|しやだん}}の{{r|塵|ちり}}をはらひいがきをみがき如在の{{r|敬|けい}}見えたり。{{r|靈驗|れいけん}}あらたにおはし
ますと云ひならはし{{r|詣|まう}}でおこたらず、{{r|取分每月|とりわけまいげつ}}の{{r|緣日|えんにち}}其{{r|前日|ぜんじつ}}一夜{{r|籠|こもつ}}て、十八{{r|時中|じちう}}は{{r|貴賤|きせん}}くんじゆをな
す。{{r|現當|げんたう}}二{{r|世|せ}}の{{r|願望成就|ぐわんまうじやうじゆ}}し{{r|祭禮|さいれい}}の袖つらなりて{{r|海︀道|かいだう}}に{{r|寸土|すんど}}見えず。{{r|去程|さるほど}}に{{r|下向|げかう}}の人々は道をたがへ
てかへさせり。{{r|天神︀別當|てんじんべつたう}}申されけるは、そのかみ天神︀はつくしだざいふにてこうぜらる。{{r|時平|しへい}}が{{r|無實|むじつ}}
のざんそう{{r|御恨海︀|おんうらみ}}よりも深く山よりも高し。此{{r|怨念|をんねん}}を達せんと{{r|思召|おぼしめ}}し都︀へ飛來り、{{r|大嶺|おほみね}}のたけにのぼ
り{{r|唐笠|からかさ}}{{r|程|ほど}}の雲を先にたて{{r|虛空|こくう}}をへんまんし、百千萬億らいでんしんどうし都︀をくつがへさんとし給へ
ば、{{r|洛中洛外|らくちうらくゞわい}}の{{r|貴賤男女|きせんなんによ}}たましひきえはてぬ。{{r|御門|みかど}}大きにおどろき思召し、ひえい山法性{{r|坊|ばう}}の{{r|僧︀正|そうじやう}}を
急ぎ召されければ、僧︀正かんたんをくだき{{r|御祈︀誓|ごきせい}}有るによつて、{{r|天地變異|てんちへんい}}もしづまりぬ。{{r|村上|むらかみ}}天皇の
{{r|御宇|ぎよう}}{{r|天曆|てんりやく}}元年丁未九月九日{{r|天神︀北野|てんじんきたの}}へせんぐう、{{r|正曆|しやうれき}}四年癸巳五月廿日{{r|正|しやう}}一{{r|位|ゐ}}{{r|太政大臣|だじやうだいじん}}{{r|大相國|だいしやうこく}}と{{r|贈︀官|ぞうくわん}}
有り。然るに鎌倉殿{{r|御成敗|ごせいばい}}の{{r|式目|しきもく}}のおく書{{r|起請文|きしやうもん}}に諸︀神︀をのせらるゝ事、{{r|梵天|ぼんてん}}は三{{r|界|がい}}の主也。{{r|帝釋|たいしやく}}は
{{r|欲界|よくかい}}のしゆごたり。四{{r|大天王|だいてんわう}}はしゆみの四{{r|州|しう}}をつかさどる主也。{{r|惣|そう}}じて日本國中六十{{r|餘州|よしう}}大小の{{r|神︀祇|しんぎ}}と
有るは殘さゞる儀也。{{r|殊|こと}}には{{r|伊豆箱根兩所權現|いづはこねりやうしよごんげん}}{{r|三島大明神︀|みしまだいみやうじん}}此三社︀は關東の{{r|惣社︀|そうしや}}、{{r|八幡大菩薩|はちまんだいぼさつ}}は{{r|關東武士|くわんとうぶし}}
の{{r|氏神︀|うぢがみ}}、{{r|天滿大自在天神︀|てんまんだいじざいてんじん}}は{{r|鎌倉|かまくら}}の{{r|鎮守|ちんじゆ}}なるが故也。{{r|總|すべ}}て{{r|起請文|きしやうもん}}に其所のちんじゆ{{r|氏神︀|うぢがみ}}を{{r|入|い}}るゝ事定れる
法也。それ{{r|起請文|きしやうもん}}は意のまことを引きおこし{{r|諸︀神︀|しよじん}}をくわんじやうする也。{{r|昔|むかし}}{{r|諸︀社︀|しよしや}}の{{r|神︀官神︀人|しんくわんしんじん}}ら{{r|起請文|きしやうもん}}書
きつる事有り。{{r|他|た}}の{{r|社︀|やしろ}}を{{r|停止|ちやうじ}}し、{{r|關西|くわんさい}}は{{r|北野關東|きたのくわんとう}}は{{r|荏柄|えがら}}に於て書かしめ給ふ。是大神︀の{{r|明德|めいとく}}也。{{r|往事|わうじ}}
{{仮題|頁=383}}
{{r|鎌倉|かまくら}}{{r|繁︀昌|はんじやう}}する事ひとへに{{r|荏柄天神︀|えがらてんじん}}の{{r|御威光|ごゐくわう}}と知られたり。扨又{{r|湯島天神︀|ゆしまてんじん}}は當君{{r|江戶御打入|えどおんうちいり}}{{r|以前|いぜん}}よりの靈、
今{{r|江戶|えど}}日を追ひ年を重ぬるに隨つて{{r|繁︀昌|はんじやう}}する事、いにしへ{{r|鎌倉殿|かまくらどの}}{{r|御在世|ございせい}}にことならず。然ば{{r|湯島天神︀|ゆしまてんじん}}
の{{r|鎮守|ちんじゆ}}とや申さん。其上{{r|天神︀|てんじん}}は{{r|文道|ぶんだう}}の{{r|大祖︀|たいそ}}{{r|風月|ふうげつ}}の主たり。此{{r|御神︀|おんかみ}}の御あはれみをば草木迄もかつがうの
思ひ淺からず。中にも松梅︀は天神︀御慈愛の木也。唐國にて梅︀を{{r|好文木|かうぶんぼく}}と名付くる事、とうしんの王に
あいていと申王まします。此王書をよみ給へば、春にあらざれ共梅︀ひらく又{{r|靈巖寺|れいがんじ}}の松はげんしや
う{{r|三藏渡天|さんざうとてん}}に{{r|隨|したが}}つて松の枝西にかたぶきぬ。又我朝にて梅︀櫻松きどくをあらはせり。それ天神︀は{{r|時平|しへい}}
の大臣のざんそうによりつくしへさせん、{{r|延喜|えんぎ}}元年正月廿九日あんらくじに移らせ給ふ。住みなれし
{{r|古鄕|ふるさと}}の戀しさに、{{r|常|つね}}に都︀の{{r|雲|くも}}を{{r|詠|なが}}め給へり。{{r|比|ころ}}は二月の事なるに、{{r|日影長閑|ひかげのどか}}に照しつゝ{{r|東風|こち}}吹きけるに
思召出で、こちふかばにほひおこせよ梅︀の花あるじなしとてれるな忘れそと{{r|詠|えい}}じ給ひければ、{{r|天神︀|てんじん}}の
{{r|御所|ごしよ}}たかつじ東の{{r|紅梅︀殿|こうばいでん}}の梅︀の枝さけ折れて、{{r|雲井|くもゐ}}遙かに飛行きてあんらくじへぞ{{r|參|まゐ}}りける。櫻も{{r|御所|ごしよ}}
に有けるが、御歌なかりければ、梅︀櫻とておなじまがきのうちにそだち、おなじ{{r|御所|ごしよ}}に枝をかはし有
りつるに、いかなれば梅︀は{{r|御言葉|おんことば}}にかゝり、われはよそに{{r|思召|おぼしめさ}}るらんと{{r|恨|うらみ}}奉りて、一夜が中に{{r|枯|か}}れに
けり。御歌に、梅︀は{{r|飛|と}}び櫻は{{r|枯|か}}るゝ世の中に何とて松のつれなかるらんと遊ばしければ、松は一夜の
うちに筑紫へ{{r|飛|と}}びて{{r|參|まゐ}}りたりけるが故に、老松の{{r|明神︀|みやうじん}}とはいはゝれたるとかや。{{r|天神︀|てんじん}}のたまはく、我
いたらん所にはかならず{{r|老松|おいまつ}}の{{r|種|たね}}をまかする神︀詫有りて、{{r|天曆|てんりやく}}九年三月十二日{{r|北野右近|きたのうこん}}の{{r|馬場|ばゞ}}に、一
夜に松千本{{r|生|お}}ひたり。{{r|委|くは}}しく{{r|緣起|えんぎ}}に有り。又御歌に、梅︀あらばいかなる{{r|賤|しづ}}がふせやにもわれ立ちよら
ん{{r|惡魔|あくま}}しりぞけとの{{r|御神︀詠|ごしんえい}}、有難︀き御誓ひ也。或時人{{r|尋來|たづねき}}て、{{r|紅梅︀殿|こんばいでん}}より飛び參りたる{{r|西府|さいふ}}の梅︀はい
づれなるらんと、口々に云て見まはる所に、いづくともしらず、十二三ばかりなる童子來り、或古木の
梅︀のもとにて、これや此のこち吹く風にさそはれてあるじ尋ねし梅︀のたちえはと{{r|打詠|うちなが}}めて{{r|失|う}}せにけり。
{{r|北野|きたの}}の{{r|天神︀|てんじん}}の御やうがうと{{r|覺|おぼ}}えて、各々かつがうのかうべを傾ぶけ給ひけり。是により松梅︀をば
{{r|御神︀木|ごしんぼく}}と{{r|諸︀人|しよにん}}あがめ給へり。其上{{r|神︀社︀佛事|じんじやぶつじ}}の{{r|外|ほか}}耳にふれ目に見る事、いづれか{{r|大慈大悲|だいじだいひ}}のせいぐわんにも
るゝ事や有る。木の本かやの本に至るまで、{{r|和光|わくわう}}のすゐじやくの居にあらずや。故に{{r|經|きやう}}に{{r|神︀佛|しんぶつ}}一{{r|致|ち}}
{{r|水波|すゐは}}のごとしと說かれたり。かゝるしんりきを誰かあふがざらん。
{{仮題|投錨=長光法眼世をへつらふ事|見出=小|節=k-10-11|副題=|書名=慶長見聞集/巻之十|錨}}
見しは今、江戶町に{{r|長光法眼|ちやうくわうほうげん}}と云人有りしが、{{r|俄|にはか}}に其身{{r|福︀有|ふくいう}}にして、{{r|家作|やづく}}り{{r|美々敷|びゞしく}}{{r|衣服|いふく}}いちじるく、
有る時は{{r|乘物|のりもの}}、或時は{{r|乘馬|じやうば}}して往來をなし、成るにまかせて雲の上までも上るべき{{r|振𢌞|ふるまひ}}なせしが、ほ
どもなくおとろへ{{r|果|は}}て世上をへつらひかなしめり。{{r|知人|ちじん}}見ていさめけるは、{{r|肩|かた}}をそびやかしへつらひ
笑ふ、{{r|夏畦|かけい}}よりもやめりと{{r|曾子|そうし}}はいへり。其方今ひんにてましますとも、さのみなげき給ひそとよ。身
あればくるしみあり。心あればうれひあり。{{r|此苦|このく}}を{{r|佛|ほとけ}}は火にたとへられたり。人としてのうある者︀は
天のかごにより、人としてさい有る者︀はなげきによる。{{r|萬|よろづ}}にさきのつまりをるはやぶれに近き道也。月
{{仮題|頁=384}}
みちてかけ物さかんにしておとろふ習ひ、其上{{r|富時|とむとき}}へりくだらざればまづしき時{{r|悔︀|くゆ}}るといへり。扨又
まづしうしてへつらふ事なく、とんでおごる事なし。かるが故に君子はゆたかにしておごらず、小人
はおごつて{{r|豐|ゆたか}}ならずと、古人は申されし。馬はやせて{{r|毛長|けなが}}し、人はひんにして智みじかしといへるな
れば、身の{{r|程|ほど}}をわきまふべき事也。たとひおもてに{{r|好相|かうさう}}を備へ、りようらきんしようを身に纒ひたる
共、心おろかにましまさば、{{r|虎皮|こひ}}に{{r|犬糞|けんふん}}をつゝめるがごとし。故に人はおのれをつゝまやかにしてお
ごりをしりぞきて{{r|財|ざい}}をたくはへず、世をむさぼらざらんこそいみじかるべけれ。昔より{{r|賢|かしこ}}き人のとめ
るはなし。べんくわが持ちし玉は石かはらに似たりといへ共、三{{r|代|だい}}に出てつひに光りにあふ事を思へ
ば、{{r|賴|たの}}む{{r|袖|そで}}の白玉と{{r|詠|えい}}ぜり。孔子曰、昔はわれ其言を聞きて其功を信じき。今われ其人を見て其行を
見る。予において是を{{r|改|あらた}}むと申されし。たゞ身の程をわきまふべき事也。{{r|人間萬事|にんげんばんじ}}さいおうが馬と云
事、是は{{r|宋人|そうひと}}{{r|晦機師|かいきし}}の{{r|頌|しよう}}の{{r|句|く}}也。{{r|人間萬事塞翁|にんげんばんじさいおう}}が{{r|馬|うま}}、枕を{{r|軒|のき}}の{{r|頭|かしら}}に{{r|推|お}}して雨を聞きてねぶると云云。此
{{r|句|く}}の心は、{{r|人間|にんげん}}は{{r|萬事|ばんじ}}善も必しもよきにあらず惡も必しも惡ならず、悅ぶべからず、{{r|悲|かな}}しむべからざる
の{{r|義|ぎ}}也。{{r|淮南子|ゑなんじ}}に云、{{r|塞上|さいじやう}}に一{{r|翁|おう}}あり馬を失ふ。人皆是を{{r|弔|とぶら}}ふ。翁が云、惡きもなんぞ必しもあしか
らんといふ。{{r|數月|すげつ}}有つて此馬をひきゐて來る。人{{r|皆|みな}}是を{{r|賀|が}}す。翁が云、善も必しもよきならんやと云
ふ。翁が子このんで馬を乘り、落ちて{{r|臂|ひぢ}}を{{r|折|を}}る。皆人是を{{r|弔|とぶら}}ふ。翁が云、{{r|惡|あく}}もなんぞ必しも惡ならん
と云ふ。一年有つて{{r|胡國|こゝく}}大きに{{r|亂|みだ}}るゝ。{{r|壯年|さうねん}}の者︀{{r|戰|たゝか}}ひ皆悉く死す。此翁が子ひとり{{r|臂|ひぢを}}折りたる故に{{r|戰|たゝか}}
ひに出ず{{r|命|いのち}}を{{r|全|まつた}}うする事を{{r|得|え}}たり。是に{{r|依|よつ}}て是を見れば、誠に{{r|善惡|ぜんあく}}はかられず。{{r|世俗|せぞく}}の{{r|口號|くちずさみ}}に、此{{r|句|く}}
を{{r|吟|ぎん}}ず。すべて世の{{r|理|ことわり}}悅ぶべからず悲むべからずと諫められたり。
{{仮題|投錨=花の詠に品かはる事|見出=小|節=k-10-12|副題=|書名=慶長見聞集/巻之十|錨}}
聞きしは今、{{r|安齋|あんさい}}と云人いふやう、世に人のあそび給ひけるは、雪月花にしくはなし。中にもわれは
{{r|四時|しゞ}}ともに{{r|色香|いろか}}{{r|妙|たへ}}なる花こそ{{r|面白|おもしろ}}けれ。され共{{r|散|ち}}るわかれを悲しみ、{{r|咲|さ}}かぬまをおそしとなげき、
{{r|菊後梅︀前花|きくごばいぜんはな}}を待つ心、{{r|釋迦|しやか}}みろくの{{r|間|あひだ}}と詩に作りたるも、我心におなじ。{{r|天智天皇|てんちてんわう}}{{r|近江國|あふみのくに}}{{r|志賀|しが}}の郡{{r|大津|おほつ}}
の{{r|宮|みや}}にまします時、{{r|四季|しき}}に花咲く櫻を植ゑおき{{r|詠|なが}}めたまふ。是を{{r|志賀|しが}}の{{r|花園|はなぞの}}といへり。かばかり
{{r|目出度|めでたき}}櫻今の世にもねがはしき事ぞかし。{{r|歐陽公|おうやうこう}}花を{{r|種|う}}うる詩に、{{r|淺深|せんしん}}の{{r|紅白|こうはく}}よろしく相まじふべし。
{{r|先後|せんご}}なは宜しく{{r|次第|しだい}}に{{r|植|う}}うべし。我{{r|四時|しじ}}酒をたづさへさらんとほつす。一日をして花ひらけざらしむる
ことなかれといひしも、誠に{{r|優|やさ}}しき心也。{{r|自然齋|じねんさい}}の{{r|發句|ほつく}}に、咲かぬ{{r|間|ま}}をなぐさめぐさの花もがなとせ
られしも{{r|殊勝|しゆしよう}}也。昔人は{{r|色|いろ}}ことなる{{r|品々|しな{{ぐ}}}}の{{r|詠|えい}}にも、似物を花と{{r|名付|なづ}}けて{{r|詩人歌人|しじんかじん}}の{{r|詠吟|えいぎん}}せり。雲を見
て{{r|圓德法印|ゑんとくほういん}}の歌に、おしなべて花の盛になりにけり山の{{r|端|は}}ごとにかゝるしら雲。是を{{r|雲|くも}}の花といへり。
波を見て{{r|伊勢|いせ}}が歌に、波の花おきから{{r|咲|さ}}きてちりくめり水の春とは風やなるらん。是{{r|波|なみ}}の花と也。雪
を見て{{r|友則|とものり}}の歌に、雪ふれば木{{r|每|ごと}}に花の咲きにけりいづれを梅︀とわきてをらなん。是雪の花といへり。
扨又そうけい{{r|連無|れんむ}}が詩に、富士山を見て、六月の雪花そせいをひるがへすと作りたるも{{r|面白|おもしろし}}といふ。
{{仮題|頁=385}}
{{r|古庵|こあん}}といふ人聞きて、{{r|安齋|あんさい}}{{r|古歌|こか}}を{{r|覺|おぼ}}えて花をのみ{{r|色々樣々|いろ{{く}}さま{{ぐ}}}}にあいし給へるといへ共、世のならひとして
色ある物つひにはきえ失せぬ。われはとこしなへに{{r|散|ち}}らぬ花をこそ{{r|詠|なが}}むれといふ。{{r|安齋|あんさい}}聞きて是は
{{r|不思議|ふしぎ}}也、いづれの花ぞと問ふ。{{r|古庵|こあん}}答へて、其方の{{r|詠|ながめ}}もわが{{r|詠|ながめ}}もおなじ詠也。され共、{{r|見所|みどころ}}に{{r|相違|さうゐ}}有
り。それいかにとなれば、{{r|安齋|あんさい}}は{{r|目前|もくぜん}}の花を見るによつてちる。我は其{{r|言葉|ことば}}の花をながむる故に{{r|散|ち}}ら
ず。歌に、如何にしてことばの花の殘りけん移ろひ{{r|果|は}}てし人の心にと{{r|詠|えい}}ぜり。又、をしめども{{r|散|ち}}る
{{r|紅葉|もみぢ}}なりけりと云{{r|前句|まえく}}に、いつも見る心の花に{{r|伴|ともな}}ひてと、{{r|宗祇|そうぎ}}付け給ひぬ。是皆{{r|自己目前|じこもくぜん}}の{{r|見所|みどころ}}にかは
りあり。{{r|古今和歌集|こきんわかしふ}}に、それ{{r|大和|やまと}}歌は人の心を{{r|種|たね}}として{{r|萬|よろづ}}の{{r|言|こと}}のはとぞなれりけると書かれしは、
{{r|月花|つきはな}}をめで鳥をうらやみ{{r|霞|かすみ}}をあはれみ{{r|露|つゆ}}をかなしみ、{{r|昔|むかし}}{{r|神︀代|かみよ}}より今に至る迄、{{r|萬|よろづ}}の{{r|言|こと}}の葉をよみおき給
へ共、{{r|風情|ふぜい}}つくる事なし。此{{r|言葉|ことば}}の{{r|林|はやし}}の花は咲きしよりちる事なく、{{r|種|たね}}にたねの{{r|數|かず}}そひ枝に枝ひろご
り、{{r|世界|せかい}}にみちてよとともにくんず。いにしへ歌の{{r|聖|ひじり}}と聞えし{{r|柹本人丸|かきのもとのひとまる}}、ほの{{ぐ}}と{{r|明石|あかし}}の浦のあ
さ{{r|霧|ぎり}}に島がくれ行く舟をしぞ思ふとよまれたるは、{{r|三世不可得|さんぜふかとく}}の{{r|道理|だうり}}をあらはせるとかや。{{r|能因法師|のういんほうし}}
{{r|伊豫|いよ}}の國へ下りし時、雨をいのりて、{{r|天河|あまのがは}}なはしろ水にせきくだせあまくだります神︀ならばかみとよ
み給ひければ、たちまち大雨ふりしぞかし。{{r|西行法師|さいぎやうほうし}}の詠に、{{r|埋木|うもれぎ}}の人しれぬ身としづめども心の花
は{{r|殘|のこ}}りける哉とよみしをこそ{{r|信用|しんよう}}すべけれと、{{r|互|たがひ}}に{{r|證歌|しようか}}を引きて{{r|意趣|いしゆ}}をあらそふ。老人聞きて、いや
いやいづれの詠も{{r|誠|まこと}}にあらず。{{r|自他|じた}}のしやべつあるは{{r|妄想|まうざう}}也。{{r|眞實|しんじつ}}の{{r|道理|だうり}}といふは、{{r|自己目前|じこもくぜん}}一枚と
見るまなこに、{{r|自他|じた}}のへだてあるべからずといへり。
{{仮題|投錨=老いて小童を友とする事|見出=小|節=k-10-13|副題=|書名=慶長見聞集/巻之十|錨}}
夫{{r|貧家|ひんか}}には{{r|親知|しんち}}すくなく、いやしきには古人{{r|疎|うと}}しといへる古き{{r|言葉|ことば}}、今予が身の上にしられたり。
{{r|老悴|らうすゐ}}とおとろへ、いよ{{く}}友ぞうとかりける。童子をかたらひまことならざる昔を{{r|語|かた}}り友となせば、昔を
{{r|語|かた}}り盡さずんば有るべからずといひてやむ事なし。いたくいひし事なれば、{{r|或時|あるとき}}は{{r|黃葉|くわうえふ}}を金なりとあ
たへてすかし、或時は顏をしかめ、がごうじとおどせ共問ひやまず。其せめもだしがたきによつて、小
童をなぐさめんがため、{{r|狂言|きやうげん}}きぎよのよしなしごとを書きあつめたる笑ひ草、{{r|讃佛乘|さんぶつじよう}}の因とも成るべ
きか。又近き年中{{r|世上|せじやう}}のうつりかはれる事共を愚老見聞きたりし故、此物語のはじめ{{r|每|ごと}}に{{r|見聞|けんもん}}の二字
をおき、{{r|古今|ここん}}ことなる事をすこしもかざらず{{r|言葉|ことば}}をくはへず、其{{r|時々|とき{{ぐ}}}}の{{r|有體|ありてい}}をしるし侍れば、やさし
き{{r|風俗|ふうぞく}}{{r|面白事|おもしろきこと}}候はず。是世のため人のためにもあらず、たゞみづからが心をなぐさめん爲なれば、
{{r|淸書|せいしよ}}にも及ばず{{r|草案|さうあん}}のまゝにて打ちおき侍りぬ。然共、{{r|古今集|こきんしふ}}に{{r|行末|ゆくすゑ}}は我をも忍ぶ人やあらんむかしを
思ふ心ならひにと{{r|詠|えい}}ぜし歌の心もあり。され共、{{r|古語|こご}}に言葉すくなきはあやまちすくなきとこそ申さ
れしに、まのあたりの{{r|塵語|ぢんご}}を拾ひ、{{r|世間|せけん}}の{{r|物語|ものがたり}}の中に思出づるにまかせ、心得ぬ{{r|古人|こじん}}の言葉を書き加
へ、長々敷{{r|戯言|たはふれごと}}をつゞつてもつて{{r|禿筆|とくひつ}}をそめ、{{r|冷灰|れいかい}}の{{r|胸次卑懷|きやうじひくわい}}をあらはすこと、さぞひが事侍らん。
誠にかたはらいたくひとへに{{r|鸚鵡|あうむ}}の物いふに似たり。{{r|後賢|こうけん}}のあざけりあにざんきをあらはす也。しか
{{仮題|頁=386}}
はあれ共、人たる身は安からずといへり。{{r|此翁|このおきな}}は{{r|無智愚鈍|むちぐどん}}にして人たらぬ安かる身なれば、{{r|難︀波江|なにはえ}}の
よしあしとも{{r|誰|たれ}}かは是をはめそしらん。古き歌に、{{r|何事|なにごと}}も思ひ{{r|捨|す}}てたる身ぞやすき老をば人の待つべ
かりける。{{r|實|げに}}やおろかに送りこし春秋の{{r|霜|しも}}の{{r|色|いろ}}はまゆの上にかさなり、よはひは山の{{r|端|は}}の月よりもか
たぶき、身は{{r|狩場|かりば}}の{{r|雉子|きゞす}}よりもつかれ、なげきこりつむすゑも、今{{r|薪|たきゞ}}{{r|盡|つ}}きなん時至りぬれば、世の{{r|望|のぞみ}}
一{{r|塵|ぢん}}もなし。たゞ一{{r|息|そく}}の絕えなんを待つばかり也。つら{{く}}{{r|往事|わうじ}}を思へばきのふのごとし。{{r|後果|こうくわ}}を{{r|期|き}}
すればあすを賴みがたし。たもちこしいそぢは、{{r|只夢|たゞゆめ}}に住みて{{r|現|うつゝ}}とす。扨又ろせいは夢のうちに五十
年のたのしびにあひて、何事も一{{r|炊|すゐ}}の{{r|夢|ゆめ}}の世ぞとさとり得しこそ、げに{{r|殊勝|しゆしよう}}なるべけれど、予もまこと
しくそゞろごとを書置きぬれども、まさに{{r|生死長夜|しやうじちやうや}}の夢は{{r|覺|さ}}めがたし。{{r|淨|きよ}}き心にあらざれば、{{r|口號|くちずさみ}}{{r|侍|はべ}}
る、よしあしの人のうへのみいひしかど言葉にも似ぬわが心かな。{{r|于時|ときに}}{{r|慶長|けいちやう}}十九年のとし{{r|季冬|きとう}}後の五
日記{{レ}}之{{r|畢|をはんぬ}}。{{nop}}
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{{仮題|箇条=一}}、本編には浮世の有樣第三册・第四册・第五册(前)を採收す。
{{仮題|箇条=一}}、本書載する所は、大率文政十二年より天保九年に至る雜錄にして、就中文政十
二年大鹽の功業に關する事、同十三年京都︀大地震の事、改元勘文の事、本願寺一
件、天保元年琵琶湖水落し事件、同二年勢多川浚渫の事、京畿の變災、毛利領中百
姓一揆に關する事、同三年鼠小僧︀の判決、同六年・七年に亘る仙石家大騷動、天保
六年長崎唐人騷動の事等は最も詳密にして異彩あり。當時の人情・風俗を窺ふべ
き絕好の史料たるを疑はず。
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諒せよ。
{{left/e}}
{{仮題|ここまで=浮世の有様/2/解題・例言}}
{{仮題|ここから=浮世の有様/2/分冊1}}
{{仮題|頁=8}}
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{{仮題|投錨=京都︀地震實錄|見出=中|節=u-3-1|副題=(文政十三年)|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}
古より天變地妖あり。其數多くして其災も亦大なりと雖も、{{r|就中|なかんづく}}地震よりも甚しき
はあるまじき事と思はれぬ。{{仮題|投錨=往古の地變|見出=傍|節=u-3-1-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}其故如何となれば、昔よりして山の崩るゝも、津浪の來
れるも、回祿の災あるも、多くはこれよりして、なり出る事あり。傳記に載する所、
其四五を擧げて是を言はゞ、先づ日本紀に、「天武天皇七年、筑紫國地裂、廣二丈、長
三千餘丈、民屋多仆壞。是時百姓一家有{{二}}岡上{{一}}。以{{二}}其岡崩處{{一}}遷、然家旣全而不{{レ}}破。家
人不{{レ}}知{{二}}岡崩家避{{一}}。但後知以大驚焉。同十三年冬、山崩河涌、諸︀國舍屋・寺塔破壞、而人
民六畜多死。伊豫國溫泉沒而不{{レ}}出。土佐國田苑五十餘萬頃沒而爲{{レ}}海︀。是夕有{{二}}鳴
聲{{一}}、如{{レ}}鼓。聞{{二}}東方{{一}}。伊豆島西北二面、自然增{{二}}益三百餘丈{{一}}、更爲{{二}}一島{{一}}。如{{二}}鼓音{{一}}者︀神︀
{{仮題|頁=9}}
造{{二}}此島{{一}}響︀也」。
淸和帝貞觀五年六月、大地〔震〕、翌年五月富士山燒く。
東山院寶永四年大地震、同十一月富士山燒く。近世に至りても、淺間・島原・象瀉・北越
等の變、何れ地震せざるはなし。され共是等は皆王城を去る事遠き國々なり。王城
の地にして斯かる變のありしは、人皇五十代桓武天皇遷都︀より九代の帝、光孝天皇
仁和二年七月二日大地震打續き、{{仮題|投錨=鬼|見出=傍|節=u-3-1-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}中旬の頃には、洛中に鬼出でて人を取喰つて、七月
一ケ月地震ゆり續き、晦日に至り大風吹きて、八月朔日より漸々穩になりしといふ。
{{left/s|1em}}
此鬼は、目・口鼻・耳の類︀、惡くき相の數を盡し、之に加ふるに角を以てして、畫き
なせる鬼にてはなし。大江山・伊吹山・戶隱山の鬼といへるに同じうて、何れも其
節︀に暴惡をなせる盜賊の事なり、怪む事なかるべし。又前太平記に、源賴光を惱
ませしといへる土蜘蛛も、盜賊の事なり。賴光は其頃の武將なれども、昔は今の
如くに大勢の臣下附纏ふ事にてもなく、事ある時は將軍一騎駈けをなし、平日{{r|步|ある}}
けるにも、僅か四五人ならではつるゝ事なかりしと覺ゆ。{{仮題|分注=1|賴光より七代を經て、土佐坊昌俊が堀川の夜討にても
知るべし。賴朝の代官として、伊豫守義經、天子守護の身分にて、其節︀義經の側に
は、愛妾の靜一人にて、男子は厩の喜三太一人なり。これにて昔の樣思ひやるべし。}}されば彼土蜘
蛛も、賴光瘧を病んで勞れぬる噂を聞き、側に人なき折を考へ、忍入りしを、賴光
に見咎められ、手疵負ひて逃れ去りしを、彼四天王と呼ばれぬる勇士共の、跡を
追ひて北野にて捕へ來りしなり。これより賴光の瘡愈えしといへるも、全く憤
發より治せし事にて、これ迄蜘蛛になやまされぬるには非ず。時の武將にして
主從五人和泉守保昌と共に、賊の大勢楯籠る山寨に入つて、これを退治する程の
人、なにしにこれらの事あらんや。之に限らず、凡て其勇を稱せんとて、却つて
其人を辱かしむる事多し、心して見るべし。又陸奧の安達原の鬼といへるは、お
{{仮題|添文=1|んな|に}}の下略にして、女の事なり。官女などの罪あるは、古へ皆みちのくへ流され
て、皆何れも賤の手業になれざるに、何一つ仕覺えし事なく、姿を取亂しやつれは
て、食につきぬるが、旅人に取りすがれるなど、前後に家なき彼の黑塚︀の事なれ
ば、物すごき事ならんと思はる。淸少納言が枕草紙に、「物すごきものは、老女の
濃く粧ひせしと、冬の夜の月なり」と書きぬれ共、姿あかつき、おどろなる髮取亂
{{仮題|頁=10}}
し、身につゞれまとひしが、飢ゑつかれ、人を見て喰ひ付きなば、首筋より水かけ
らるゝ心地すべく思はる。是等を土蜘蛛の類︀と又混ずべからず。
{{left/e}}
其後も地震度々有りし事なれ共、よく人々の知りぬるは、太閤秀吉公の伏見桃山の
城に居給ひし時、大地震にて所々大いに崩れ、關白には門の扉をはづし、この上に
坐して、{{r|漸々|やう{{く}}}}としのがれし事あり。此節︀男女仰山に死に失せて、差當り女中に事を
缺かれしにぞ、京都︀・島原・伏見・撞木町等にて、怪我なく死殘りし遊女を抱へ込みて、
女中に召し遣はれし事あり。此時京都︀にても、人家大いに破れ、三條・五條の橋も崩
れて、死人・怪我人多かりしといふ。其後の大地震といへるは、寶暦元年の事にて、
此時も大いに家藏をゆり倒し、死人・怪我人多くありて、其跡六十日計り、日々幾度
となくゆり續けしが、次第々々にかるくなりて、漸々と納りしとなり。かゝる先例
も聞傳へぬる事なれば、「此度の地震此くの如くならば、今暫くはゆるべし、最早格
別の事もあるまじく」と、八月の初よりは、人々地震に慣れて、平氣にて日を送る樣
になりぬ。
{{仮題|細目=1}}
寬政十年六月、{{仮題|投錨=薙刀鉾折る|見出=傍|節=u-3-1-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}祇園祭の節︀、故無くして薙刀・鉾途中より折れぬ。山鉾の多き中にて
も、此鉾は取分け故有る事にて、是を引き出さゞる內には、餘の鉾を引行く事成り
がたき事なり。故に人々多くは心にかゝりぬる由なりしが、其年の七月二日申の
刻、雷火にて大佛の燒失せしに、今年其年より三十三年に當りて、又祇園祭に其鉾の
故もなくして、松原通りを引行く時、途中より折散りしが、七月二日に至り、月日刻
限迄も變る事なくして、かゝる大變ある事、これ只事にあらず、大佛の祟れるにや。
伊勢の別宮炎上せしも、かゝる前表を知らしめ給ひしにやなどと、種々の風說なり。
{{left/s|1em}}
{{仮題|投錨=內侍所の穢|見出=傍|節=u-3-1-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}
浪華江戶堀一丁目中筋屋藤兵衞母は、京都︀の產れなる七十になれる母親の、近き
頃より病にかゝりて臥しぬるに、二日の大變を聞き、心ならずとて、四日より京
都︀へ上り、廿日に歸り來りしが、これが京都︀にて聞き來りしは、何か內侍所に穢
れし事ありし故、普請新たに建替へしに、阿彌陀寺村藪の中を伐墾き、其土を取つ
て新たに淸き土に仕かへしに、阿彌陀寺村といへるは、元來阿彌陀寺といへる寺
{{仮題|頁=11}}
これ有り、其藪は古へ墓地なりしとぞ。かゝる所なれば、五輪など掘出せるに、
これを隱くして其土を入れし故、其祟ならんとて、今度新に上賀茂の河原より、
土を運べる事なりとぞ。其眞僞は知らざれども、聞きしまゝを記し置きぬ。
{{left/e}}
此日四條通り、{{仮題|投錨=不思議の難︀を免︀がる|見出=傍|節=u-3-1-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}烏丸東へ入る薙刀・鉾の町にては、祭禮の節︀の物入の算用をなさんと
て、鉾を預れる家に町人中集りて、其算用をなし、酒など飮みて居たりしが、今少し
にて算用片付きぬる事なれども、此日は別けて暑︀さの堪へがたきに、各〻酒を飮み
し事なれば、愈〻暑︀さの堪へがたければ、何れも「湯あみして來るべし。然かして夕
飯︀をもたべ、夫より仕殘りの算用をなすべし。夜に入らば少しは風も出て、冷しく
なりて宜しかるべし」とて、各〻其家々に歸り、未だ湯あみをもせで有りぬる內に、右
の大地震にて、薙刀・鉾の入りし藏一番に崩倒る。若し何れも今暫く此處にあらば、
一人も無事なる人はあるまじきに、何れも幸にして此難︀をのがれぬと云へり。{{仮題|分注=1|こは賀茂
丹後が旅宿とは、家四軒目に當る家の藏の此藏、三軒目の家へ倒れかゝり、三軒目の藏は隣家に倒れかゝり、
丹後も大いに狼狽せしとて、其有樣を委しく同人よりきゝめ。町人共此藏の中にて、算用してありしといふ。
鉾の道具悉く微塵に
くだけしといふ。}}かゝる大變なれば、宗廟の回祿、薙刀・鉾の折れしなど、其前表なき
にしもあらず、と覺ゆれども、大佛の崇りに至つては、取るに足らざる愚昧の說と
思はる。されども當時の樣を委しく書殘さんと思へる故に、かゝる用なき事迄も
書附けぬ。かゝる大變に遭ひて死ぬも生くるも、其人々の運・不運にはあれ共、常に
心落著︀きて、かゝる變に遭ふとも狼狽する事なくば、心神︀明らかにして、兩眼よく
物を分ち、これを避くるの道あるべし。縱令これらが爲めに命を失ふ事ありとも、
精︀神︀落著︀きて、狼狽する事なくば、見苦しく取亂す程には至るまじくと覺ゆるぞか
し。後世語り傳へて人々の心得となすべし。されども此書は世間へは忌み憚る事
をも記しぬれば、必ずしも他見する事なかるべし。
{{仮題|細目=1}}
一、初めに京都︀よりの書狀を一々に記しぬるも、これを照らし覽ば、自ら地震の有
樣を知るに足ればなり。亦其文面にて、人々の剛臆も顯れ、自然と心得べき事もあ
りて、これを證せんと思へばなり。
一、文の中にも、門徒坊主が常住不變の淨土を思へるなど、心にもあらぬ嘘を殊勝
{{仮題|頁=12}}
らしく云越せるに、法華坊主が地震の{{r|直中|たゞなか}}に、はや{{r|泣言|なきごと}}いひて無心をなし、そろ{{く}}
勸進の下拵をなしぬるも、つら憎︀きにぞ、これを後の世迄も、笑ひ草にと書附けて
置きぬ。
一、本文の中に、予が聞ける事をも委しく記し置きぬ。これもそれも、より{{く}}にて
確なる人に聞きて、少しも疑はしき事にはあらず。
一、龜山には親類︀多く、自ら人の往來も多き故、これも委しく記し置きぬ。其外所
所の變ありしも、其國々の人に逢うて慥なる事のみを記す。
一、本文に云へる如く、所司代の一騎がけなりしは、よき心掛にて、さもあるべき事
なり。大勢の家來一人もつゞく事なく、大うろたへなりし事を、京童の物笑ひとは
なりぬ。夫れ士たる者︀は、常に忠義を事として、治に居て亂を忘るゝ事なく、文武
に心身を練︀磨せば、事に臨んで狼狽する事はあるべからず。七萬石の家中に、主を
大切と思ひ、これに附添ふ人一人もなかりし事、恥づべき事にあらずや。これらを
聞くに附けても、士たる者︀はよく{{く}}心得べき事なり。
一、淺間燒・島原崩れ・北越の地震等、別記あり。是等と{{r|照|てら}}し覽ば、自ら心得となる事
あり。常に是等をも見置きて、不時の變に遭ふとも、必ずしも心を取亂して、恥を
受くる事なかるべし。
一、享保の浪華・天明の京都︀・江戶の文政の回祿等、別に記錄あり。是等も常に心得
て置くべし。
京都︀の大變
一、{{仮題|投錨=京都︀の大火|見出=傍|節=u-3-1-f|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}夜前八つ時ゟ、四條麩屋町南西角より出火、西へ四軒計り、東へ三四軒移り、東
北風强く、麩屋町通り南へ燒廣がり、兩側共一丁計り燒失、五つ時火鎭まり申候。
七月朔日{{sgap|16em}}{{仮題|添文=1| 大七|京飛脚}}
{{仮題|細目=1}}
同地震
一、當月二日未刻ゟ發、一旣に洛外伏見街道町續近在、人家・土藏崩れ、怪我人數不{{レ}}知、
市中一統、往來又は地面廣き所へ、板・疊等敷き、油火多く持難︀く行燈・提燈等にて明
{{仮題|頁=13}}
かしを取り、日覆・雨具掛け凌ぎ、飯︀事休候事六ケ敷候。東西本願寺、其外寺社︀大損
じ、御所堺町御門ゆりくづれ、五條橋詰半丁餘り大崩れ、誠に大騒動、荒增書記申候。
右之通京都︀より申來り候。已上。
七月四日{{sgap|16em}}同
{{仮題|細目=1}}
一、昨二日七つ時ゟ大地震にて、夜九つ過迄相止み不{{レ}}申、尤諸︀商賣勤まり難︀く、家々
疊抔大道へ出し、大に騷候趣、只今京都︀より申來候。右に付飛脚方下り、諸︀用向今
日は無{{レ}}之、此段御斷申上候。
{{仮題|添文=1| 小和田屋利衞門|京飛脚}}
一、伏見街道は、{{仮題|投錨=伏見の地震|見出=傍|節=u-3-1-g|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}京橋乘場邊家損候趣。夫より海︀道板橋邊ゟ上、所々之家倒れ有{{レ}}之。
黑門上町五六軒損有{{レ}}之、小兒一人知れ不{{レ}}申由、一の橋より上、大佛正面迄、人家多倒
れ、此內十七八歲の娘一人卽死。五條橋東詰北がは燒餅や倒れ、怪我人有{{レ}}之。是よ
り寺町三條ゟ上、猶急に有{{レ}}之由、寺々の塀門損じ多く、三條蹴上げ十七八軒倒れ、此
內老人卽死、八坂塔倒れ、猶又兩御堂樣少々損じ、竝に佛光寺樣同斷。烏丸松原西北
角兩三軒倒れ、丹州龜山樣御火の見大に損じ、醒井わつたや町淨土寺倒れ、七條御
花畑半丁計りしをれ、今夕に至り未だ少々宛地震の氣あり、老若男女にかゝはら
ず、大道に日覆致し、野宿同樣。尤牛馬往來無{{レ}}之、死人之儀も多く有{{レ}}之趣に候へ共、
未だ委しく相分り不{{レ}}申候。猶委敷事は追々相知れ申候。先荒增右之通書付、御覽に
入申候。
七月四日{{sgap|20em}}小和田屋利衞門
一、{{仮題|投錨=京都︀の地震|見出=傍|節=u-3-1-h|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}京都︀昨四日に至てもゆり止み不{{レ}}申由、尤夜四つ時迄同斷。伏見表、又々昨四日
兩度大にゆり、大地ひゞきわれ申候由、申來候。
七月五日{{sgap|22em}}同
一、當地之地震每度預{{二}}御尋{{一}}忝奉{{レ}}存候。當二日申刻ゟ西刻迄に、大地震四度來り、諸︀
方の土藏一軒も不{{レ}}殘及{{二}}頽破{{一}}、家建も大損じ、中々家內に居候事出來不{{レ}}申、皆々大道
{{仮題|頁=14}}
に日覆致し、二日夜より大道へ出、休息致候處、三日・四日も兩日に大地震凡十四度
も參り、大騷動前代未聞之事に御座候。今日抔も大分震ひ、七つ時分治り候模樣也。
倂附合中には、怪我人等も無{{二}}御座{{一}}候間、此段御安心可{{レ}}被{{レ}}成候。承り候處、一條堀
川には蕎麥屋堀川に崩入り、客人六人卽死、淸水舞臺前參詣人過分死失、其外所々
にて死去之輩御座候由也。委敷儀は追々可{{二}}申上{{一}}候。
七月五日{{sgap|24em}}林鷹治郞
{{仮題|細目=1}}
御翰忝奉{{二}}拜見{{一}}候、如{{二}}貴命{{一}}未殘暑︀强候處、倍〻御壯健可{{レ}}被{{レ}}成{{二}}御座{{一}}之由、奉{{二}}雀躍{{一}}候。
然者︀近火の儀に及{{二}}御聞{{一}}、尙又二日ゟ大地震の變動、當地別て强く有{{レ}}之、御見舞とし
て御深切御尋、忝仕合に奉{{レ}}存候。追々御聞の通、大變驚入申候。乍{{レ}}併三十九年以
前島原崩の節︀、{{仮題|行内塊=1|下拙廿二才|罷成候故、}}能存居申候。其節︀の模樣に能似たる事にて、數日に及び可
{{レ}}申考、次第輕く相成儀と奉{{レ}}存候處、是迄は考通り、今六日迄も少々宛、かすかに三
五度有{{レ}}之候。只今模樣に候はゞ、安心に至候哉と、皆々申居、町家さま{{ぐ}}風評仕
候て不穩候。御察可{{レ}}被{{レ}}下候。兼々御無音仕候て、時々御尋不{{二}}申上{{一}}、失禮御用捨可
{{レ}}被{{レ}}下候。何角萬端過書町方御世話罷成、何分宜敷奉{{二}}願上{{一}}候。右御答御禮旁〻早々
以上。
七月六日{{sgap|24em}}{{仮題|添文=1| 賀茂丹後|四條東洞院旅宿}}
四日出の御文、六日に相とゞき、有がたく拜しけり。仰の如く當年は殘暑︀つよ
くおはしまし候得共、いよ{{く}}御兩所樣にも御きげんよく御便り承り、山々悅び入
けり。次に此方皆々無事に相くらし居申候。憚ながら御きもじやすく思召可{{レ}}被
{{レ}}下候。扨又二日の地震の儀は、御地にても珍らしきやう仰下され、當地はけしから
ぬ大變にて、私方借家も甚だそんじ、心配仕候。町內にても家三げんたふれ、五條
にても二けんたふれ、其外家たふれ申候事おびたゞしき御事にて、卽死人先々四五
十人計りは御座候よし、今に{{く}}每日少々づつゆり、心ならぬ御事に御座候。尤家・
藏のつぶれ申候事は、筆紙につくしがたく、尙々跡ゟ、又々くはしく申上けり。
{{仮題|頁=15}}
千切屋への御文さつそくに相とゞけ申上けり。申上度御事はたくさんに御座候
得共、何か取込、まづは御禮御返事かた{{ぐ}}申上度、筆末ながら、恭衞樣へも御申上
下され候やう願上けり。先はあら{{く}}めで度かりし。
七月八日{{sgap|24em}}{{仮題|添文=1| 津國屋 さい|伏見街道五條上森下町}}
御文下され、有がたく存上りし。如仰暑︀さつよくおはしまし候得共、どなた樣に
も御きげんよく入らせられ、{{仮題|投錨=○慮もじハ慮外、しんもじハ親切ノ意|見出=傍|節=|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}御めでたくぞんじ上けり。此方みな{{く}}ぶじに暮
し居申候間、慮もじながら、御心易思召下さるべく候。さやうに候得ば、二日七つ
時の大地しんにて、家々所々そんじ、又々けが人もたんと{{く}}御座候得共、此かた
の邊は、けがもなく、悅入けり。御しんもじに御尋ね下され、かたじけなく悅入
けり。あなた樣にも、定めし御おどろき可{{レ}}被{{レ}}成と存上りけり。しかし御けがも
なく悅入けり。御無沙汰のだん、幾重にも御免︀るし下され候やう願上けり。先
は御禮御返事まで申上けり。めで度かりし。
文月十日{{sgap|24em}}{{仮題|添文=1| 千切屋まちゟ|左門前}}
{{仮題|細目=1}}
京都︀出火
一、{{仮題|投錨=出火|見出=傍|節=u-3-1-j|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}九日夜四つ時、寺町頭鞍馬口下小家ゟ出火、四つ半時火鎭り申候。同曉七つ半
時頃、新町一條下る有栖川宮樣御役人{{r|長家|ながや}}ゟ出火、半時計り燒け、火鎭まり申候。昨
十日迄、京都︀地震相止不{{レ}}申候。尤九つ時抔は餘程きびしく、其外ゆり候事は度々の
趣申參候。
七月十一日{{sgap|24em}}小和田屋利衞門
{{left/s|1em}}
尙々彥根一向々々中地しんにて、何のあたりなきよし申參候。御同前に歡入まゐらせ候。大津も京都︀よ
りは、かろく候よし申候。
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
兩度の御文のやう忝さ、御申のごとく殘暑︀つよく候處、其御程、御揃ひ何の御障り
なく、めで度ぞんじ上候。土用中御見舞申入候御返事、ことに其御元ゟも、うるか
澤山に送り下され、忝く、長々と賞翫たのしみ可{{レ}}申やう忝存候。扨は去る二日の大
{{仮題|頁=16}}
地震、其御地はかろく御座候よし、安心いたし候。當地のやうす、追々御きゝ御案
被{{レ}}下候よし、やま{{く}}忝存候。誠に前代未聞の御事、はなしにもきゝ申さぬおそろ
しさ、中々筆におよびがたし。まづ御所方・堂上方・二條の城、すべて御築地廻り、土
藏は大かたそんじ不{{レ}}申はなくて、けが人・死人おびたゞしく、おひ{{く}}いろ{{く}}あ
はれなる咄ども承り候。此方家內中一人もけがなく、お竹方・お久方・其外えんるゐ
中、無事に候まゝ、御安堵可{{レ}}給候。此方家もゆがみ、かはらおびたゞ敷ちり、天井な
ど落懸かり、土藏はかべ兩方へひゞき落懸かり候ゆゑ、土落させ、まづ怪我の出來
ぬ用心いたさせ候。職人手傳等やとひ申事一向出來がたく、是にはこまり入申候。
藏の內の諸︀道具、みな{{く}}座敷へはこび出置き、あつさのせつさん{{ぐ}}困り入りた
るものに御座候。其上大地震のち晝夜幾度となく、日々どろ{{く}}ゆさ{{く}}、二三日
は何十遍と申ほどゆり申候。中々家の內に居候事あぶなく、屋敷內にあき地の有
所は疊敷き、雲天井の所へ出居、夜を明し申候。町家など、町內の中などへ疊敷き、
むかひ側ゟ細引はり、すだれ・のれん、夜分は蚊帳つり、家々のまへに野宿いたし候。
町々の高張挑燈、家々のちやうちん夥しくとぼし、長さ一丁・二丁も續き、夫は美事
にて、船のやうにみえ候よし、町內のせまき所は、近所の廣き所、又は河原へ出か
け、家內ふ{{r|〆|しま}}りの所、又盗賊又は火つけのひやうばんにて、一向々々やかましく、拍
子木おと、火の用心ふれ、武家よりも夜晝まはりしげく仰付られ、嚴しき事にて、二
條御城も石垣四五十間崩れ落ち、高塀倒れ、城內あらはに外廻りる見え申候由、大
廣間と申す千疊敷も、潰れ候との沙汰にて、其外寺々、土塀・廻り石燈籠・右碑の倒れ
ぬはなく、北野神︀前のとうろうなど殘らずたをれ候よし、大佛の石かけ三つ計大道
へゆり出し、耳塚︀も上の臺一つ飛散り候よし、{{仮題|分注=1|上の屋限石計、目方|四百貫目有と云ふ。}}一條戾り橋半分落ち、
其近邊麵類︀屋座敷堀川の深みへ落ち込み、またあたご山大荒にて、寺院二三軒も谷
底へ落ち、丹州龜山の天守落候よし、色々ひやうばんに御座候。今九日、去る二日ゟ
は八日めに相成候得共、いまだやみ不{{レ}}申候。今朝など、飛で出候やうな地震一つ御
座候。當地には、か樣な事無{{レ}}之所と存居候處、散々恐ろしき事にて、此節︀は人々腹
中あしく、食事すゝみかね候やら、夜分とくとやすみ申さず、人氣もうろ{{く}}とい
{{仮題|頁=17}}
たし居申候。まづは御返事ながら、あら{{く}}地しん御はなし申入候。どなた樣よ
りも御そへ筆の樣忝、まづ{{く}}御案じ下されまじく候。めで度かりし。
文月九日したゝめ {{仮題|行内塊=1|鷹司殿諸︀大夫宅は|寺町御門之內也}}富島左近將監
愚子岩二郞・お竹・おひさへも御加筆のやう忝、申聞せ可{{レ}}申候。此方浪江へわけて御
そへ筆のやう忝、まづ{{く}}兩人共無事に、此間の地震も、折節︀小兒湯をつかひかけ申
候處にて、大に{{く}}びつくり、我等と兩人にて小兒かゝへ、裏の栗の木の根へ立退き、
玄關前廣く御座候ゆへ、二夜計りは玄關前にて暮し申候。恐ろし{{く}}地獄遠きに
あらず。餘り長壽も入らぬもの、家も藏もとんと當てにならぬ世の中に御座候。
此節︀町々諸︀商賣共止、にげ仕度のみに御座候。
{{left/s|1em}}
尙々時期殘暑︀御いとひ專一に奉{{レ}}存候。如何成宿世の因緣乎、年寄去年より度々
の大難︀、此度は別而氣落いたされ候てをられ候。皆樣へ宜敷數御傳可{{レ}}被{{レ}}下候。
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
口上
五月は罷出、不{{二}}相變{{一}}御信心の御世話、辱奉{{レ}}存候。御母樣へ御厚禮被{{レ}}爲{{二}}申上{{一}}{{仮題|左線=可}}被下
度、御召使の御女中へも宜敷御禮賴上候。殘暑︀强く御座候得共、御母樣始、貴公樣御
安全、可{{レ}}被{{レ}}成{{二}}御暮{{一}}、珍重の御儀に奉{{レ}}存候。松榮樣別紙同樣宜敷賴上候。貫主ゟ宜
申上候樣被{{二}}申付{{一}}候。此地七月二日未之下刻・申之上刻地震にて、東西七間半・南北七
間之臺所、西へ三尺程傾き、內之諸︀道具不{{レ}}殘取出、戶・障子はづし置候。二間半に二
間の院代部屋つぶれ、瀨戶物類︀・茶漬茶碗・菓子椀・膳・椀の類︀破損仕り、庵者︀住居と
雪隱二ヶ所潰れ、諸︀道具・小棟迄不{{レ}}殘破損、井桁外へ{{仮題|左線=くへ}}、井中もくへ候哉、水大に濁
り、二日之夜は朝迄一寸も寢ず、高張表へ四本、裏へ二本立て、三・四・五日・今六日迄、小
地震打續き、漸今日は納候樣に被{{レ}}存候。無{{二}}怪我{{一}}、御休意可{{レ}}被{{レ}}下候。此後諸︀堂の修復
再建、御見知之通無{{二}}檀家{{一}}、御朱印は居所計り、末寺は音妙庵・元政寺等之無檀地、掛る
島もなき難︀澁に御座候。
一、此度は長崎へ唐船が四艘程も著︀船之由、毛せんなど若下直に候はゞ、二枚御寄
附賴上度、色は何にてもよし、無地にてもよし、花色なぞもやう御座候てもよろし
{{仮題|頁=18}}
く、胡椒も少々賴上候。御母樣松榮樣に御相談可{{レ}}被{{レ}}下候、賴上候。早々以上。
七月六日 {{仮題|添文=1| 寶塔寺日旺代筆|伏見深草}}
{{仮題|細目=1}}
{{仮題|投錨=京都︀諸︀所の損害|見出=傍|節=u-3-1-k|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}
一、御所御殿廻り少々損じ候由、堺町御門崩れ、鷹司樣・九條樣・其外御公家樣方、塀
大損じ、御殿廻は聞不{{レ}}申候。二條御城石垣崩れ、東大手門崩れ、南手之中程にて石
垣一尺計下り、四方之塀は皆々壁落ち御城內相見え、御所司・兩御奉行所大損じ、獄屋
敷獄家の壁落ち、科人見ゑ申候。北野天神︀鳥居落ち、奇妙成は、中程にて上之石留
り有候。今一つ奇妙は、廻廊︀之內少も損不{{レ}}申候。其外瑪瑙之燈籠抔崩れ、西六條
御殿廻大損じ、狩野家抔之結構成襖・上段之間抔之畫も皆破れ、大臺所大損、雜物入
之藏崩れ、本堂五寸こけ候由に申候。興正寺樣塀崩れ、對面所崩れ、其外所々損じ、
東六條は元ゟ燒地にて少之事、乍併枳殼御殿塀倒れ、御殿廻り大損じ之由、大佛殿
誠に大き成塀之下之石こけ出で、耳塚︀上は落ち、臺はゆがみ候。五條橋下邊大損じ、
半丁計家崩れ、洛中・洛外藏は不{{レ}}殘、偶〻殘る所之藏は、壁割れて何之間にも合不{{レ}}申
候。町家崩れ候處は數不{{レ}}知、けが人數不{{レ}}知、死人凡百人計と申事に御座候。其外
{{r|〆|しま}}り之{{r|出來|でき}}ぬ家は數不{{レ}}知、宮・寺之筋れ候處は無{{レ}}之候得共、稀に御座候。大宮通雪た
や町、淨土寺本堂へたり申候。何事も聞くと見るとは大に違ひ、左程には無{{レ}}之物に
候得共、此度之損じは、人の噂よりも御覽になり候はゞ、大變に御座候。此頃にては、
少々收り候得共、矢張えい山・愛宕等地鳴いたし、時々ゆり申候。二日・三日・四日は
大道住居、又は野宿、藪の中へ宿り候など、いろ{{く}}に御座候。倂やぶへ這入り候
者︀は、蜂にさゝれ、蛇に喰はれなどせし者︀も澤山に御座候。地震最中人々のなきご
ゑ、何とも申しやうも無{{レ}}之事に御座候。
上樣にも、御所之內之廣場へ、御出被{{レ}}遊候由、是は人の風聞に御座候。
{{仮題|添文=1| 孫七|}}肥前屋
{{仮題|細目=1}}
華墨︀被{{レ}}下、辱拜見仕候。然者︀當方大變に付、早速御尋被{{レ}}下候段、御深切之程忝奉{{レ}}存
候。先以御本山樣御別條無{{二}}御座{{一}}候段、難︀{{レ}}有奉{{レ}}存候。乍{{レ}}倂御眞影を御守護にて、御
{{仮題|頁=19}}
門跡樣三日三夜之間、御白砂に被{{レ}}爲{{レ}}入候段、實に前代未聞之儀奉{{二}}恐入{{一}}候事に御座
候。尤御殿廻りは、餘程の御破損に御座候得共、先以て兩御堂は御別條無{{二}}御座{{一}}候。
扨又拙方之儀は、乍{{二}}兩人{{一}}無{{二}}別條{{一}}候得共、拙は胸痛之病性故、大に動じこまり入罷
在候。乍{{レ}}倂今日は少々宜き方にて御座候。尤今以てやはり一時々々には少づつ地
震にて、晝夜に十二三遍は鳴動いたし申候に付、扨々不安心の物に御座候。大に病
性にこたへ申候。娑婆と申所は、扨々不定のさかひにて御座候。早く常住不變の淨
土へ參り度き者︀に御座候。か樣の時は深く御慈悲を喜び能在候。扨雨人も歸るな
と被{{二}}仰付{{一}}候段、御同慶被{{レ}}下忝奉{{レ}}存候。扨拙も三日夕船にて下り可{{レ}}申と奉{{レ}}存候處、
右之大變にて、尤も當方も五六間程の土塀倒れ、其外にも所々破損に付、夫々修復等
も申付け、荒方直し置き不{{レ}}申候ては、出坂も難︀{{レ}}致奉{{レ}}存候に付何れ盆後早々の出坂
に相成可{{レ}}申候。委曲御面會に御禮可{{二}}申上{{一}}候得共、先は御答旁〻如此に御座候。早
早已上。
七月七日 {{仮題|添文=1| 寬善坊|西六條宏山寺}}
扨千本通抔には、昨日頃に至り、六軒も家一時にたふれ、人も七八人も損じ申候由、
扨々油師相成不{{レ}}申事、尤も御地も餘程御珍敷地震之由、{{r|嘸|さぞ}}御驚と奉{{レ}}存候。昨夜承り
候處、若州之方は十八ヶ村泥海︀と相成候由。所々大變に御座候事。
{{仮題|細目=1}}
御狀忝く拜見仕候。先以殘暑︀甚敷御座候得共、彌〻無{{二}}御障{{一}}珍重奉{{レ}}存候。誠に承候得
者︀、御地も少々地震ゆり申候樣承り、嘸々御驚可{{レ}}被{{レ}}成奉{{レ}}存候。扨又京都︀は、二日の
七つ時、誠に古來稀なる大地震にて、大に驚入候。乍倂家內皆々無{{二}}別條{{一}}逃申候間、
其段乍憚御安心思召可{{レ}}被{{レ}}下候。扨ゆり直し皆々あんじ、二日・三日・四日の夜は、加
州屋敷の芝原にて、町內皆々同宿仕り、漸く昨日五日ゟ少々腹のびく{{く}}も納り、
夜前ゟ家內へ歸り居申候。誠に百歲之老人も是迄箇樣の地震覺え不{{レ}}申由、扨神︀社︀・
佛閣・人家・藏入之損じ、誠に{{く}}おびたゞ敷事に御座候。御所邊は筋塀竝にくゞり
皆々こけ、誠に氣の毒なる物に御座候。此方も少々戶袋・戶棚・へっつひ道具少々損
じ御座候。子供抔は早々向屋敷へ逃候間、とんと怪我不{{レ}}仕候間、乍{{レ}}憚御安心可{{レ}}被
{{仮題|頁=20}}
{{レ}}下候。右申上度、尊顏上萬々御禮御咄可{{二}}申上{{一}}候。
{{left/s|1em}}
地震之跡頓と染物出來不{{レ}}申、甚困り入申候。{{仮題|投錨=震後竊盜放火流行す|見出=傍|節=u-3-1-l|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}龜甲佐殿染小家潰れ、大怪我いたさ
れ、大困りにて御座候。頃日は盜人やら火付やらにて、頓と商賣手に付不{{レ}}申候。
七月六日 {{仮題|添文=1| 柿屋忠兵衞|河原町}}
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
當二日七つ時より京都︀大地震に付、所々大損じ候事書記し難︀く、御所樣始め神︀社︀・佛
閣、外方町裏・裏屋敷少も損不{{レ}}申事なし。今に折々中位なるどろ{{く}}・小どろ{{く}}數〻
覺え不{{レ}}申、誠に恐入候。然し下拙宅格別損じ不{{レ}}申候得共、土藏さつぱり間に合不
{{レ}}申、一ヶ所は四つに張裂け、誠に大難︀澁仕候。無難︀なる道具類︀預け度候にも、大方損
じ土藏計り也。漸く此節︀大抵なる土藏へ預け、殘りは宅へ成丈け入置候得共、火の
用心致{{二}}心配{{一}}、一向職人などは仕事手に付不{{レ}}申樣申居候。
一、酒屋樽損じ、酒流し候事。 一、紺屋藍つぼわれ候事。 一、瓦屋瀨戶燒所
釜類︀、
右數不{{レ}}知、此節︀屋根瓦直し候にも、瓦屋に瓦破れ候て、とんとなし。京都︀にて土藏
倒れ候分計三萬七千計。其外瓦大輪落損候は數に入不{{レ}}申、夫に此頃に成りて、折節︀
たふれ候藏御座候。家小屋たふれ候事、此數不{{レ}}知候得共、怪我人は數不{{レ}}知候得共、
是右之割には少々なり。當町には一人もなし。今に少なる地震時々御座候。恐れ
恐れ{{く}}、
七月十一日 扇谷權右衞門
{{仮題|細目=1}}
御狀忝く拜見仕候。御表益〻御安靜に被{{レ}}遊{{二}}御揃{{一}}、珍重奉{{レ}}存候。然者︀金子一步、外
に金一朱、御見舞として送被{{レ}}下、干瓢澤山、不{{二}}相變{{一}}御厚志に御思召被{{レ}}下候段、難︀{{レ}}有
受納仕候。家內共大に悅居申候。扨當地大地震、此{{仮題|左線=ふじ節︀}}曾に參、定めし御聞之通、
二日ゟ今日迄留り不{{レ}}申、八日晝前より八つ時分迄三べんゆり、夜九つ過より明迄七
遍、九日晝後二遍、暮過より明迄三べん、十日晝前後夜三べん、十一日四つ時分三遍、
晝まへ後二へん、暮五つ前二へん、夜更けて四遍、七つまへ大地震一べん。右之仕
{{仮題|頁=21}}
合故、先月廿九日四條大火ゟ七日迄、何事も出來不{{レ}}申。七日ゟ机出し候得共、右之
仕合故、手に付き不{{レ}}申、右之中へ九日一條新町鞍馬口出火、十日丸太町・瓦町・高倉
佛光寺上る處出火。箇樣に何角取交候故、只うろ{{く}}と計り致居申候。
一、此度之荒は、北野天神︀御境內が第一と奉{{レ}}存候。石燈籠不{{レ}}殘。石之鳥居、
{{仮題|投錨=北野の鳥居破損|見出=傍|節=u-3-1-m|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}
{{仮題|入力者注=[#図は省略]}} 此所よりはすに、雨方共をれたまゝ立て有。
表の鳥居笠石開き、
一、祇園鳥居は別條なく、石燈籠百三十六無事なるはなし。
一、大佛宮、智積院、同家中門塀皆々崩れ。
一、耳塚︀、寶石飛び、火袋より下悉くねれぢたり。{{仮題|投錨=耳塚︀の石飛ぶ|見出=傍|節=u-3-1-n|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}
右之外、御所樣初、御城、石垣・高塀北南廿間餘崩れ、西筋鐵門たふれ、其外寺町通寺
寺、西東寺町塀に無事なはなし。
粟田・淸水燒物釜不{{レ}}殘潰れ、是は餘程大金之由。五條坂茶碗の破た事大金{{く}}。
一、西本願寺藏三つ、東本願寺東殿、高塀、其外大荒、町々家藏の潰れ多く、京中藏に
無事なはなし。
一、熊谷平一郞殿、此間奉公に、安井前ゟ丁稚參り、其よく日、松原柳馬場南東角高塀
つぶれ、下に敷かれ死す。親元に段々掛合金子三兩出し、內證にて相濟。右物入
心遣ひ之段、氣の毒に奉{{レ}}存候。御馴染故一寸申上候。箇樣の類︀は澤山な事。
一、當月五日、御公儀へ死人の書上げ七百人餘と申す事。右にて御察可{{レ}}被{{レ}}成候。
一、愛宕・高尾は今に山鳴り、山には人なし、參詣人なし。
一、四十年まへ、八十年まへ、大地震有{{レ}}之候得共、此度の地震は格別にて、昔太閤桃
山に御在城之砌、大地震にて、三條・五條の橋ゆり落ち、右之地震此方と申事、恐ろし
き事、荒增申上候にて御察し。下拙共も、箇樣の樣子にては、盆後にも納り不{{レ}}申候。
{{仮題|頁=22}}
命有{{レ}}之候へば、何れとか可{{レ}}仕存罷在候。
一、此品麁末に候得共、御祝︀儀之印迄、御目に掛け申候。何分右之仕合にて、うろ{{く}}
仕居申し、何事も盆後可{{二}}申上{{一}}候。箇樣之荒れに候得共、所々大寺・宮之本殿は無{{二}}別
條{{一}}。町家にて藏・石燈籠は皆々損じ、此節︀作事方一時に相成、手傳一人が五百文、大工・
左官三人前・四人前出し候てもなし。宜敷物は作事方・油・らふそく・酒の類︀。倂きは
にて錢拂はぬ者︀、多く有{{レ}}之樣察入候。御案內之惡筆之上、此節︀は只手もふるひ、文
面も分り兼ね可{{レ}}申、御察し御笑覽々々々。
七月十二日 {{仮題|添文=1| 中村長秀|三條寺町}}
{{仮題|細目=1}}
當月六日・九日兩度之尊翰、昨十日落手拜讀了。如{{二}}貴諭{{一}},殘暑︀難︀{{レ}}消御座候得共、貴樣
愈〻御安康可{{レ}}被{{レ}}成{{二}}寺務{{一}}、珍重之至に奉{{レ}}存候。隨而、小生漸々無異消光候條、御案じ
被{{レ}}下間敷候。扨當地當二日大地震に付、每々態々御尋被{{レ}}下、御厚情之段奉{{レ}}謝候。當
院ゟも早速にも申遣度候得共、誠以甚だ取込、何分行屆不{{レ}}申候。扨野院儀も、兼而
檀徒側ゟ御聞分も御座候哉、方丈築地不{{レ}}殘、廟所向誠以大崩、不{{レ}}殘こみじに相成り、
其外門內・外高塀・門番所、其外供待、玄關の高塀及び便所、大庫裏・小庫裏、總瓦不{{レ}}殘
ずり落、土藏は半崩、米藏相崩、其外庭廻高塀は勿論、竹垣等、石垣迄、不{{レ}}殘{{レ}}相崩れ、
今日に至り地震不{{二}}相休{{一}}、此上如何に相成候事哉と、日々不安心之至に御座候。留守
中故甚以心配いたし候。乍{{レ}}倂御表役人中追々參り見分、當八月法事前迄には、荒增
は片付候樣、掛合中に御座候。夫故誠以繁多にて困り入申候。其外山中常住向は
不{{二}}申及{{一}}、諸︀院不{{レ}}殘大小之崩れ御座候。一々中々以{{二}}筆紙{{一}}難︀{{レ}}盡候。餘は當院之御行
事にて御知可{{レ}}被{{レ}}下候。貴地は格別之儀無{{二}}御座{{一}}、先々御安心之御事に御座候。
七月十三日 {{仮題|添文=1| 麟祥︀院|明信寺中}}
{{仮題|細目=1}}
一、地震左之通、
十三日巳之刻大一。同亥子之刻、同斷。同丑刻大三中。十四日・十五日は格別之響︀
なく。十六日朝卯辰之間大一。{{nop}}
{{仮題|頁=23}}
其餘とん{{く}}いたし候得共、さしたる儀も無{{二}}御座{{一}}候間、先づ安心仕候。右之段申上
度、餘は後音可{{二}}申上{{一}}候、已上。
七月十七日 林鷹治郞
一、今朝承り候處、昨日之大雨にて、伏見街道五條下る二丁目・三丁目は、水之深さ
四尺餘と申事にて、床に溢れ、二三人も死人有{{レ}}之候由。尤も同所東に音羽︀川と申す
小川有、深さは矢張加茂川同樣にて御座候處、昨日之大雨にて加茂川洪水にて、音
羽︀川へ溢れ下り候水、自然と同所へ溢れ候事と承事に御座候。二條之御城西手石垣
凡七八間通り崩れ堀に陷り、實に其響︀雷の如しと申す事也。二條は現に見聞いた
し候人之物語にて、決して先日已來風評いたし候。丹後・但馬之荒之空談之類︀には
無{{二}}御座{{一}}候に付、乍{{レ}}序一寸申上候。其餘は昨日申上候通に御座候。
一、地震雨の次第左に、
昨夜亥子の刻、中一。今朝より暮に掛ては、一向覺え不{{レ}}申候。雨は昨宵連夜ゟ今晝
迄、晝後は一端止候得共、兎角曇天にて困り入申候。倂雨は先納り居申候。右大略
申上度、餘は追々可{{二}}申上{{一}}候。已上。
七月十九日 林鷹治郞
{{left/s|1em}}
二白、昨日の大雨にも、當町內、其外懇意先、何も無難︀之由、御賢慮易思召可{{レ}}被{{レ}}下
候。倂地震之上の大雨故、京中之人は實に靑い面と申す事也、御推察可{{レ}}被{{レ}}下候。
{{left/e}}
一、此間中之晴︀雨、地震は昨夜迄に申上候通り、其後は夜前九つ時迄曇天也、雨なし。
子の刻より雨降り、通宵いたし、今四つ時に漸く止む也。倂し曇天、夫より九つ時
より少し雨、七つ前止み、只今にては晴︀候模樣也。地震は、昨夜初更前大地震、一、同
夜七つ時、中一、同七つ半、同斷、今辰の刻大地震、{{仮題|分注=1|二日已來|之事也。}}同午刻、中一、同午下刻、同
斷、同未刻同斷。先此通り、但びり{{く}}は不{{レ}}絕御座候。今晝少し過ぎ雷鳴、內を明け
兩三度飛出し候事有{{レ}}之候。右申上度、早々已上。
七月廿日 林鷹治郞
{{仮題|細目=1}}
扨先日より只心ならぬ有樣之區へ、一昨十八日・十九日之大雨にて、所々大きに損じ、
{{仮題|頁=24}}
又當二日よりの損じたる家々、先人之住居は片付候得共、諸︀道具抔戶板を以て假家
拵へ候處へ、右之大雨にて難︀儀なる事、誠に氣之毒の次第也。十八日・十九日は、晝
夜に八九度づつ又々地震ゆる也。何共氣味之惡き御事に御座候。淸水の廊︀下少々
すだり候よし、音羽︀山少々崩れ候由、承候。右に付、伏見街道は海︀道ぢやと申也、見
に行く人も有{{レ}}之候得共、拙宅も御存之通り車之輪形にて、水大溜りの所へ、內へも
少々は入さうにて、中々外へは出る事叶はず。西洞院通、又堀川、右兩所は當四月
の水にも同樣之事に御座候。{{仮題|投錨=〔原註〕西洞院堀川等の水、四月と有れども、是は五月かと覺ゆ此時も、堀川と賀茂川と兩川にて人死十八人有りしと云。|見出=傍|節=|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}先日も申上候通、地震之節︀は繪本に有候通之有樣な
れ共、此度は大雨之中之地震に候得ば、如何成り候哉と、互に顏見合す顏は、當世浮
世繪書も及ばぬ有樣、あわて廻る所は、鳥羽︀繪にならば書もならうか、<sup>下略、</sup>
七月廿日 半兵衞
{{仮題|細目=1}}
一、地震、昨日は地響︀計りにて、格別無{{二}}御座{{一}}候樣覺え申候。一昨夜初更二つ、中一。
同四つ時迄小四つ、今未の刻中一、尤今朝五つより八つ時迄びり{{く}}は八九遍程、今
酉の下刻小一、びり{{く}}は夕方より只今迄四五度計り。
七月廿二日夜五つ過認む 林鷹治郞
廿四日中・小、合七つ。廿五日、中・小、合九つ。<sup>內二つは中之少增し。</sup>
右申上度早々已上。
卄五日 鷹治郞
{{left/s|1em}}
廿六・七・八日も、晝夜度々之地震にて、廿九日明け七つ時ゟ、大雨・大雷鳴・電光甚
だしく、夜明けて止み、廿九日は大惡日なれば、之にて事濟せし事ならんと思ひ居
りし處、申の刻ゟ又大雨・大雷、日暮に至り止みしかば、最早地震もよもや有るま
じと思へるに、初更に至り中位なる地震にて、地鳴・山なり等も折々有り、晦日も
同樣にて、時々ゆら{{く}}・ドウ{{く}}・トントン{{く}}と云ふ音して、地震有り、八月朔
日に月も替りし事なれば、仔細あらじと思へるに、ゆさ{{く}}・ドロ{{く}}・トン{{く}}
にて午の刻地震。
{{left/e}}
一、地震之儀、今以相續き、日々少々宛御座候內、五日・六日に二つ計り宛中印有{{レ}}之、
{{仮題|頁=25}}
同八日度々有{{レ}}之內、中之大七つ有{{レ}}之、先此間中の玉にて御座候。今九日は辰中刻小、
其後は格別之儀無{{レ}}之、右爲{{二}}御知{{一}}申上度、如{{レ}}此に御座候。已上。
八月九日 林鷹治郞
{{仮題|細目=1}}
寺町通り石藥師御門下る西側に、{{仮題|投錨=押小路家地震の爲僥倖を得|見出=傍|節=u-3-1-o|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}押小路大外記殿といへる殿上人有り。至つて貧
窮の暮しにて、愍れなる有樣なりしに、地震にて屋敷大破に及び、淺間しき有樣な
れども、是を普請する手當もなく、聊の金借れる方もなければ、詮方なくて、普請の
事を公議へ願ひ出でられしにぞ、これを聞濟まし有しか共、御所を始め、二條の御
城の大破に及びしをも、直に御修復もなき程の事なるに、堂上一統大破にて、何れ
もこれを願ひ立てらるゝにぞ、急には取掛りがたくてや、其儘に爲し置かるゝにぞ、
押小路殿には、種々にして風雨を防がんとせられしかども、打續き度々の地震に悉
く崩れ、今は{{r|突︀張|つゝぱり}}以て之を持たす事もなり難︀く、居處さへもなき程に成行きしにぞ、
大工を招き、「斯かる樣に成行きしかば大いに困り果てぬ。此古木を用ひて、居處と
飯︀焚所さへ有れば、夫にて宜しきが、何程にて出來なるや」と、尋ねられしに、之を積
りて、しか{{ぐ}}の由答へしかば、夫にて普請の事申附られしに、斯かる困窮の事な
れば、「先金を受取らではなり難︀し、渡し給へ」と云ひぬるにぞ、聊の手當とてもなき
事なれば、{{仮題|投錨=古證文現はる|見出=傍|節=u-3-1-p|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}詮方なくて途方に暮れられしかば、大工云へる樣は、「斯くては外に詮す
べなし。然し土藏一ケ所無難︀なれば、これを賣拂ひ給はゞ、可なりの御住居にはな
るべし」と申しぬる故、外に致方なければ、「しかすべし」と、其手積をなし、藏の內よ
り物取出し、反古など取調べられしに、智恩院の古證文一通あり。其文言に云ふ、「四
條繩手に於て四町四面の地面、慥に預り候處實正なり、何時にても御入用之節︀には、
返濟可{{レ}}申由」なり。是迄數百年來此證文有る事を知らず、故に如何なる事共分かり
難︀き事なれ共、斯かる證書の事故、早速所司代へ之を持出で、宜しく御計らひ被{{レ}}下
候樣願はれしに、所司代申さるゝには、「斯かる慥かなる證書これ有る上は、直に御
掛合ひあるべし。若し故障の筋もあらば、其上は此方の計らひたるべし」と答へら
れしかば、右證文を以て、押小路殿より、直に智恩院に掛合有しか共、同寺にても一
{{仮題|頁=26}}
向申傳へし事もなく、是を知れる者︀更になしと雖、無{{二}}相違{{一}}證書なる故、舊記悉く取
調べしにぞ、其事相分りぬ。こは古への事なりしが、繩手三條邊は大和小路とて、河
原にて人家は申すに及ばず、畠さへこれ無く、至つて惡地なる故、之を發開する事も
なかりしかば、旅人・乞食の類︀常に此所に行倒れぬるにぞ、其頃は押小路の領地なり
しが、{{仮題|投錨=繩手三條邊昔は惡地なりし事|見出=傍|節=u-3-1-q|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}聊の益とてなく、每々行倒者︀の取片付けに困じ果てられしかば、幸ひ智恩院
の近邊故、右地面を同寺へ賴み預けられしと云ふ。斯かる地面の事なれば、再び取
返す心得もなく、其儘に打捨て、云傳ふる事もなく、今にては大いに繁昌の地とな
りしかども、後に至りこれを知る人さへなき樣になりしなるべし。智恩院にても
此事明白に分りしかば、「何時にても御返し申すべければ、御受取り有るべし」との
答へなるにぞ、押小路殿には、夢見し如く、思ひ寄らぬ家督に有附き給ひぬ。然るに
繩手三條下る所より祇園新地・四條芝居の邊、凡て京都︀川東にて、當時繁昌の所を引
拔四丁餘方、新に地頭替りし事なるにぞ、所の者︀ども、何れも寄合をなし、「堂上の領
地となりては、已後何事に寄らず迷惑の事多くあるべければ、いづれも申合はせ地
面買取るべし」とて、金子六千兩より追々に直上げし、一萬兩迄附上しかども、押小
路殿には是を{{r|諾|うべな}}はず、此度改めて右の地面引當に知恩院へこれを預け、金子二千兩
借り度き由、{{r|掛合|かけあ}}はれしに、同寺にても、これまで數百年の間右地子を取收めし事
なる故、早速に是を{{r|諾|うべな}}ひ、其金を出せしと云ふ。至つて繁昌の土地故、右二千兩の借
金は程なく相濟み申すべき事にて、永々押小路家の家督とはなりぬ。地震なくば
此事も知らで、これまでの如く貧困に暮さるべき事なるに、地震の大變に因りて、斯
かる幸を得し人も一奇事と云ふべし。天保二辛卯の秋の頃にいたり、誠に困窮に
迫り、如何ともしがたき所にて、かゝる幸を得られしと云ふ。近來珍らしき幸福︀な
りとて、其噂高かりき。
禁裏御所、御門・御築地等壁落ち屋根損じ、所々これ有りと雖、格別大損じには非ず
と云ふ。
仙洞御所、御築地悉く倒れ、大破損にて、御內を見透しぬる故、幕にて圍ひ有りと云
ふ。女御御所は、格別損じなく、御築地も其儘にて有りぬる由。{{nop}}
{{仮題|頁=27}}
有栖川宮、土藏一ケ所崩れ、北の方の塀倒れしと云ふ。
京極宮・閑院宮、何れも大破損の由。
關白樣・九條樣・一條樣・二條樣・近衞樣大いに損じ、其外堂上方一統大破にて、大い
に御殿を損じ、塀・門等の崩れざるはなし。六門悉く破損すと雖も、堺町御門・寺町
御門尤も甚しと云ふ。寺町通寺々の門・塀、一として倒れざるはなく、其碎けぬる樣
を見るに、大道へ豆腐を打付けし如しと云ふ。本堂も大體ゆがまざるはなく、瓦を
飛ばし、壁は大方落ちしと云ふ。二條御城西手の御門、下石垣三尺計り地中へゆり
込み、御門は屋根くだけ散りて、人の尻餅をつきしと云へる樣に成りて有りと云ふ。
此門の北手四五十間計り、南手にて十四五間石垣崩れ塀倒る。又城の南面は、一統
に七八寸計りも地中へゆり込み、石垣の半ばにて所々石飛出で、東の門崩れて有り
と云ふ。塀・矢倉等悉くゆがみ土落ちて有り。右の如くなれば、城中も大破にて、黑
書院{{仮題|分注=1|千疊敷と|云ふ。}}崩れしと云へり。其外近邊の屋敷悉く塀倒れ家損じ、城外廣小路所々
地裂け、大なるは一尺、小なるは三四寸、深さ大抵三尺計り有りとなり。地震ゆる
と其儘、{{仮題|投錨=所司代禁裏に伺候す|見出=傍|節=u-3-1-r|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}所司代松平伯耆守{{仮題|分注=1|丹後國宮|津城主。}}には、馬に打乘り、御城內へ馳入られしが、家來一
人も出で來らざるにぞ、夫より只一騎禁裏御所へ馳付け、六門をも乘越え、{{仮題|分注=1|天明の大火に
龜山侯には下馬札に火事羽︀織を打掛けて乘込まれ
しと云ふ。此度は其儘にて乘打せられしとなり。}}御臺所御門前に馬を乘放して參內有り。天
子の御機嫌を伺ひて出られしに、未だ口取さへ出で來らざりしとなり。夫より直
に、仙洞御所へ參內有りしに、漸々と此所にて家來追々馳來りしと云へり。地震三
更過より追々ゆるやかになりしかども、{{仮題|投錨=流言飛語にて人心恟々|見出=傍|節=u-3-1-s|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}絕間なく震動する事なるに、明日朝に至り、
何者︀とも知れず、「今日申の刻には、又もや大地震ゆり戾し有りて、京中{{r|顚|くつかへ}}るべし、
若しさなければ火事有りて、悉く燒失せて殘る家なし」など、專ら流言せし事なれば、
前日の地震に何れも心顚倒へせし事なれば、老若男女上を下へと騷動し、神︀を祈︀り
佛を念じ、泣き喚く聲のかしましく、誠に哀れなる有樣なりしかば、直に議奏・所司代
等より觸を出し、「右の如き噂致しぬる者︀有らば、直に召捕りて出すべし」と、嚴しく
仰渡されしに、其日何事もなかりしかば、少しは人々心を安んぜしか共、何分にも
幾度といふ限りもなく、晝夜共に大小の地震震ひぬる故、何れも薄氷を踏む心地な
{{仮題|頁=28}}
るに、{{仮題|投錨=竊盜放火|見出=傍|節=u-3-1-t|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}家も藏も{{r|締|しま}}りなき事なれば、盜賊・火附大勢徘徊し、所々にて物を取られ、一日
の內幾所となく{{r|附火|つけび}}有りて、其騷々敷事、之を譬ふるに物なし。所司代・町奉行等よ
り嚴敷手當有りて、兩三人計りは召捕られしか共、少しも始めに異なる事なければ、
又々嚴しき觸有りて、「夜分無提燈にて步行きぬる者︀は、士・町人に限らず一々召捕る
べし」と也。此事所司代より殿下へも御達し有りて、たとへ宮家の御家來たりとも、
無提燈なるは一々召捕らへらるゝ樣に成りぬるにぞ、少しは穩かになりしと云ふ。
され共地震止む事なく、世間至つて騒々敷き事なれば、町奉行より內々御賴の由に
て、木村・小堀・角倉等よりも役人を出して、市中を巡らし非常を戒め、所司代は二日
より七日迄禁裏へ{{r|詰切|つめきり}}なり。其餘禁裏・仙洞の御附きも終始詰切にて守護し奉ると
云ふ。愛宕山は所々崩れ、坊二つ計りは谷底へつり付き、茶店の類︀一つも殘れるは
なく、嵐山も裂け、天龍寺の上なる山も同斷にて、平地も所々裂けぬるよし、家藏の
破損擧げて{{r|算|かぞ}}へ難︀し。
{{仮題|細目=1}}
浪華福︀島鳥羽︀屋儀兵衞、折節︀上京にて本能寺へ滯留中、此地震に出遇ひぬ。同人の
噂に、{{仮題|投錨=六日間陛下庭上に御し、所司代守護し奉る。|見出=傍|節=u-3-1-u|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}七月七日廣橋一位殿本能寺へ墓參にて、禁中の樣子を御咄しあり。主上・上皇
共、二日の地震をば御庭なる築山に出御ありて御避給ひ、公卿・殿上人も殘らず御側
に伺候す。所司代にも「近く參りて守護し奉れ」との勅命にて、御築山の元に坐して、
晝夜の差別なく、七日迄座を動く事なし。七日に至り、「裝束手丈夫に仕替申すべし」
との勅命にて、其後暫休息すべき由勅命有りしと云ふ。天子にも七日迄庭上に座
を鎭め給ひ、二三日は一向供御も召上らず、典藥より練︀藥・煎藥等を奉りて、是を召
上がられ、御手水の節︀には、非藏人四五人にて之を助け奉りし事なりとぞ。公卿百
官何れも、二三日は練︀藥・洗藥等にて、しのぎ給ひしと語り給ひしと云ふ。
{{left/s|1em}}
又少しも座を動き給はざりしとも云ふ。庭上に其儘はだしにて飛下り給ひしな
どとて、種々の巷說あれども、これに從ひ難︀し。廣橋殿本能寺にて物語せられし
を、取りてこゝに記るしぬ。
〔頭書〕所司代には、近く參りて守護し奉れとの勅命故、玉座近き事なれば、圓
{{仮題|頁=29}}
座を敷く事もなり難︀く、七日まで土の上に坐せられしと云ふ。二日地震最中、二
條城に入りて、夫れより禁裏・仙洞へ參內の事、あつぱれ所司代を勤めらるゝほど
有りて、かく有る可き事なり。然るに家中には大いに狼狽のみにて、一人も主に
つく家來の一人も無かりしは、如何なる事ぞや。平日何のために扶持せらるゝ
事にや。かゝる騷動の中にて、若し主人に過ちあらば如何にせんと思へるにや、
不覺悟の事どもなり。
{{left/e}}
かくて地震日々ゆり動く事、{{仮題|投錨=靑蓮院宮の參內|見出=傍|節=u-3-1-v|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}其數多き事なれば、京中の町人何れも、門中・河原等へ
疊を持出で、幕・風呂敷・戶板等にて、己れ{{く}}が家の間口丈けの構へをなし、杙を打
つて蚊帳をつりなどして、薄氷を踏む心地なるに、粟田靑蓮院宮樣、日暮過ぎて參
內せんとて、供人もしろにどて、先へ高張を燈させ、寺町通を北へ、「脇へよれ、よけよ、
控へよ」抔と、聲荒らかに、供の者︀共掛けしかば、大道住居の町人共大いに腹を立
て、「此騷動の中にて、人を拂ふは、どなたなるや」と云しかば、「靑蓮院の宮樣なり。
早く除よ」と云ぬるにぞ、「宮樣にもせよ、如何なる御方にても、此騒動に左樣の儀相
成らざれば、其方より途を除けて早く通られよ。老人・子供・病人なれば、少しも動か
し難︀し」と、口々に呼ばはりて、少しも頓著︀せざるにぞ、侍共大いに怒りぬるを、宮
には、輿の內より、「よけて通るべし、人に{{r|過|あやまち}}さすべからず」とて、行過給ふに、所々
にて蚊帳の釣手に引當り引掛りなどすれば、「こは產婦の今頻︀に惱めるなり、除けて
通られよ」なぞ、聲高に罵るにぞ、高張を倒し、輿を下げて、これをくゞりつゝ行過
ぎ給ひしを、鳥羽︀屋儀兵衞本能寺より此樣を見て有りしが、人も必死の場所に望
み腹をきはめぬれば、何にても恐しき物なし、其節︀の人々の勢ひ甚しき事なりし
とて語りぬ。
{{仮題|細目=1}}
二日の地震よりして、日々數多の震動止む事なく、其間には、叡山・愛宕山等鳴動し
て、一統少しも心を安んずる事なきに、十八・十九兩日共、一天瀧の漲り落るが如く
に大雨降り、雷鳴甚しく、如何に成行く事ならんと、皆々恐れをなしぬ。みる間に
大道一面川の如く成りしが、賀茂川は素より、淸水の瀧の流れ、音羽︀川といへるに、
{{仮題|頁=30}}
一時に水漲り落ちて、伏見街道五條下る邊にては、四尺餘平地の上に水流れ、地震
にて損ぜし家に、大雨にて水內へくゞり、{{r|何處彼處|どこかしこ}}となく雨漏りて、これに困窮な
る上、又もや洪水床の上二尺餘に及びしかば、其狼狽これを譬ふるに物なし。倂人
死は僅か三人なりと云ふ。定めて怪我せし者︀も多からんと覺ゆ。堀川にては、本
國寺藪へ切れ込みし故、下邊大に助かりしと云ふ。倂し七條の邊は、何れも床の上
へこえしと云ふ。倂し家々の損じ大層の事なりとぞ。
{{仮題|細目=1}}
伏見は、二日の地震にて家も處々損じ、其後日々幾度となくゆり動きぬれども、京
都︀程にはなしと云ふ。十九日の洪水も、暴かに宇治川水高く、京都︀と兩方よりの流
れにて、暫しは水につかり、床上一尺餘に及び、如何せんと騷動する內、槇の島より
南へ切れ込みて、南一面の水と成りて、淀の方へ流るゝにぞ、淀にては床の上三尺に
も及び、大變の事なるに、伏見は大いに水引いて、同所より淀の小橋邊迄は、裳をかゝ
げて川中を步まれる程になりぬ。小橋より伏見迄五十丁の間は、常に水深く瀨强
き事なれば、登り船には、{{r|何時|いつ}}にても小橋よりして引手をましぬる事なるに、其後は
水少き故、伏見の乘場迄は船著︀け難︀しと云へり。
{{仮題|細目=1}}
二日の地震にも、牧方の上手より所々堤等裂け崩れ、家・藏等も倒れ、淀も同樣なれ
ども、伏見よりも手輕き樣に思はる。鳥羽︀街道の堤三十間計り、三尺程地中へ搖込
み、小家少々損ぜしと云ふ。其外芥川・江口等にても、小家塀抔ゆり倒れしに、近邊
なる茨木・高槻等は少しも損ずる事なく、結句伊丹にては、石の鳥居・石燈籠・土藏等
をゆり倒せしと云ふ。西宮・尼ケ崎なども少々損ぜしと雖、これ等は未だ確かなる
事を聞かず。
{{仮題|細目=1}}
大坂にては、餘程震動せしかども、十二年前卯六月十二日にゆりし地震よりは、少し
手輕き樣に思はる。其節︀の地震には、住吉の石燈籠・南都︀の春日の燈籠をゆり倒し、
近江にては、人家・寺院等多く倒れ、地裂けて泥を吹出し、死人・怪我人有る事仰山な
{{仮題|頁=31}}
りと云ふ。此度に於ては、住吉・春日は云ふに及ばず、難︀波新地邊にては、誠に聊かの
震ひにて、{{仮題|投錨=大坂は微震|見出=傍|節=u-3-1-w|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}住吉・堺等は、尙更手輕き事にして、「今の〔は〕地震にては無かりしにや」と云
へる程の事なりしとぞ。されども浪華にては、京都︀の響︀と見えて、八日の夜三更・五
更と兩度ゆり、十日午の刻一度、十一日夜四更一度、これは二日此方の地震なり。夫
れより折々、地響︀の樣にて幽かにびり{{く}}する事折々覺ゆ、十九日酉の刻一度、廿日
辰の刻一度、廿三日未の刻一度震ひぬれ共、格別の事にてはなし。{{仮題|分注=1|卄九日寅刻より大雨・大|雷電、辰上刻止む。}}
十八・九兩日の大雨、京地に同じけれども、少しも雷鳴なし。大川筋常水より高き事
五尺計りにて、聊かも水の患ひなし。同日池田川洪水、順禮橋流失、{{r|人死|ひとじに}}・怪我人餘
程有つて、田地をも損ぜしと云ふ。福︀井と云へるは、勝尾寺の麓にて、地面も餘程
高き所なるに、床より上に水つきし事一尺餘と云ふ。富田相村等も、床の上一尺餘
の水なりしと云ふ。
宇治も、地震にて所々損ぜし由。{{仮題|投錨=大津も微震|見出=傍|節=u-3-1-x|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}大津は、格別の損もなく、地震も至つて輕く、大津
と京との道の半ばよりして、大津方は何事もなく、京都︀の方は、家も倒れ大いに破損
して有りと云ふ。
鷹が峯にては、幅一間餘に長さ三十間餘の所、地面引くりかへりしと云ふ。こは浪
華江戶堀一丁目中筋屋藤兵衞親類︀の屋敷なり。其餘家藏一つとして無事なるは無
しと云ふ。
{{仮題|細目=1}}
十八日の洪水の節︀、淸水本堂へ取掛かる所廊︀下少々すり落ちて、二間餘りも損じ、
地主權現も其節︀損ぜしと云ふ。廿二日祇園下河原七觀音の本堂崩れ倒る。同日高
臺寺の庫裏倒れ、人死有りし由なれども、上向は內分にて濟ませしと云ふ。十八日
の洪水に、下津より少し下にて堤切込み、山崎一面の木浸しに成り、寶寺八幡宮邊の
町家迄、床上三尺餘の水なりしと云ふ。明信寺弟子宗愛が云へるには「地震にて破
損せしを角力に見立て番付にせしに、御室は西の關にて、明信寺は關脇なりし」と
ふ。{{仮題|投錨=二條城の修復料|見出=傍|節=u-3-1-y|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}又同人が咄に、「一條御城の修復二十五萬兩、御室の修復六萬兩と、大工棟梁
中井岡次郞が凡その積なり」と云へり。餘は是にて知るべし。京地大地震八十年
{{仮題|頁=32}}
已前に有りし時も、五十日計りゆり續きしが、次第に輕く成りて納りし由なり。此
度の地震も、かゝる先例あれば、また暫らくは搖るべし抔云ひて、八月の{{r|差入|さしいり}}にも
なりしかば、皆々地震に馴れて、人氣も落ちつく樣になりぬ。此度地震の爲に變死
せし者︀四百三十八人なれ共、病人・產婦の類︀は、これに驚きぬるより變症を生じ、死
せる者︀追々多く、小兒は癇を發し、妊娠は悉く墮胎す。醫と產婆と、これが爲に日
日奔走して寸暇なしと云へり。
{{仮題|細目=1}}
浪華國島より上京して、富小路殿姬君小宰相典侍と申奉る、御局へ八年餘も勤めし
女有り。{{仮題|投錨=地震の際禁裏の實況|見出=傍|節=u-3-1-z|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}此者︀御見舞見物旁〻此度上京して、禁裏・仙洞、其外所々方々、地震にて損じ
たる樣を委しく見來りぬとて、委しく語れるを聞くに、二日の夜は、「天子始め奉り、
御庭の住居なるに、漸々と夜氣を避くる覆ひ出來しは、玉座のみ計りにて、太子・女
御の御上には、傘差懸けて夜を明かしぬ」と云ふ。典侍及び諸︀公卿等は、其儘にて
夜をし給ひしとなり。女御樣御藏一つ崩れしと云ふ。內侍所へ不淨の土入れしと
云ふは實說にて、又百人餘の人夫にて取捨等事なりとぞ、普請奉行の罪遁れ難︀き事
なれども、天子もこれを憐れみ給ひて「これを罪する事なかれ」との叡慮の由。又「此
度地震にて變死せし者︀共の弔をなし遣せ」とて、寺々へ勅命有りしと云ふ。
{{仮題|細目=1}}
昔吉備公入唐の節︀、{{仮題|投錨=琵琶の怪說|見出=傍|節=u-3-1-A|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}彼地より持歸られし紫錦藤にて作れる琵琶あり。
{{仮題|分注=1|紫錦藤は阿蘭陀木にて、藤の大なるなりと云ふ。}}常の琵琶三つかけし如く大なるが、之を彈ずる時は、怪しき事有つて不吉な
りとて、出雲大社︀へ奉納になりしと云へり。然るに當仙洞には、音樂を好み給ふ故、
國造に命じ、此圖を寫さし獻覽の上、其琵琶を取寄せ給ひ、長く留め置かるゝとて、
三年に及びしに、大地震其祟にや抔、專ら風說あるにぞ、「早く取りに來れ」との勅命
にて、大社︀より九月朔日是を受取りに上京せしと云ふ。これ等は王位輕るきに似
たり。一つの琵琶何ぞ此くの如き變を仕出すに及ばんや、怪むべし。只其形白木
の古びし如くにて、てんしゆに皮を當て、龍虎を其皮に畫けるにぞ、龍虎の琵琶と
も云ふとなり。{{nop}}
{{仮題|頁=33}}
{{仮題|細目=1}}
此度の大地震不思議なる事三つ有り。{{仮題|投錨=三不思議|見出=傍|節=u-3-1-B|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}北野天神︀の本社︀拜殿計りは少しも動く事な
かりしと、西六條茶室の庭先、緣より一間餘を隔てたる石燈籠の屋根、かむり笠の格
好なるが、內へ飛込み、茶室の床の壁を橫に打拔き、水屋へ落ちしが、下に茶碗あり
しに、其上へ落掛りしに、其茶碗少しも損ぜずして、大なる屋根石其上にすわり有
りしとぞ。餘り不思議なりとて、其石を以て壁の破れに合せ見るに、きつしりとし
て、此石通拔けし外に少しの損じもなしといへり。又烏丸の出水には、東向の藏の
少しも損ずる事なくして、北向になりしと云ふ。此藏は後年咄の種に其儘になし
置くといへり。
地震追ひ{{く}}少くなり、鳴動する事も次第に薄らぎぬる樣になりて、或は二日・三日
に一二度位の事なりしに、九月十一・十二・十七・廿三・廿六日等には、餘程大なる地震
にて、人々膽を消しぬといへり。十月の末に至れども、折り{{く}}地震・山鳴等有りと
云ふ。
十月六日酉の刻、同八日寅の刻、兩度共七月二日以來の大地震にて、京・伏見・龜山等
にては、大いに恐れ、大道へ疊持出し、暫らく其上に居て、一人家に有る者︀なかりし
と云ふ。全く七月の地震にこりし故なるべし。され共暫しの間にて兩度共相止み
ぬ。大坂にても餘程の震ひなりし。
十二月廿八日酉の刻、少地震、同廿九日午の刻少地震す。大坂此くの如くなりしか
ば、京都︀も定めて震ひし事ならんと思はる。程過ぎてこれを聞きぬるに、七月二日
已來の大地震なりしと云へり。
{{仮題|細目=1}}
出雲國大社︀琵琶 叡覽の事
天奏柳原頭辨御書寫
天日隅宮實物之內、琵琶一面、今般被{{レ}}入{{二}}叡覽{{一}}、則令{{二}}奏達{{一}}候處、殊に御滿足之御事候。
宜{{二}}申達{{一}}御沙汰候、仍如{{レ}}斯、謹︀言。
二月十八日{{sgap|16em}}隆︀光{{nop}}
{{仮題|頁=34}}
國造北島館︀
大社︀寶物琵琶上京之次第頭書
天日隅宮寶物之內、龍虎琵琶一面、御叡覽可{{レ}}被{{レ}}爲{{レ}}在旨、文政十一戊子二月、天奏柳
原頭辨殿ゟ書翰到來、早速佐草數之進・□彈正兩人上京被{{二}}仰付{{一}}、諸︀事相伺候處、琵琶
之事實委敷御尋之上、何分畫圖可{{二}}差出{{一}}旨、被{{二}}仰渡{{一}}、兩使歸國有{{レ}}之、廣瀨土佐之介
<sup>江</sup>被{{二}}仰付{{一}}、同九月二日ゟ、會所に於て書寫奉り、同月下旬、使者︀高尾市雄を以て差
出、奏達被{{レ}}爲{{レ}}在候處、頻︀に御勅望に仍而、關白殿より所司代へ被{{二}}仰渡{{一}}、關東へ御
示合之上、御老中より國守へ被{{二}}仰渡{{一}}、同十二月朔日、佐草・□兩使を以差出、早速奏
達有{{レ}}之候處、正月六日長橋局へ持參可{{レ}}仕旨に付、兩使持參差出候處、畫圖に御引合
御叡覽被{{レ}}爲{{レ}}有候處、毛頭無{{二}}相違{{一}}、關白殿・親王方、其外御參內之公卿・殿上人、追々拜
見被{{二}}仰付{{一}}、琵琶は勿論、畫圖之寫方、甚被{{レ}}爲{{レ}}叶{{二}} 御叡慮{{一}}、畫工之家名迄も、委敷可{{二}}
書出{{一}}旨被{{二}}仰付{{一}}、
主上始、御參內之公卿方御一統、御稱美被{{レ}}爲{{レ}}在、實に和漢︀に稀成珍器︀、田舍に稀成畫
筆と云、旁〻御感心不{{レ}}淺旨、天奏ゟの御沙汰也。琵琶は神︀田大和之介へ目利被{{レ}}爲{{二}}
仰付{{一}}、大內に御預り、御修復被{{レ}}爲{{二}}仰付{{一}}、追々御試之上、追て御沙汰可{{レ}}被{{レ}}爲在旨に
て、兩使へ御暇被{{二}}下置{{一}}、丑三月朔日歸宅也。猶琵琶之事實は、三代實錄・禁祕抄等に
詳也。
目利書
{{left/s|1em}}
槽 紫藤。 腹板 鹽冶。 唐頭 花櫚。 海︀老尾 黃楊。轉手 紫藤。
覆手 紫藤。
{{left/s|1em}}
右は古代之作有{{レ}}之候處、 凡百八十年計前に、總體御修復相成候事と奉{{レ}}存候。
乍{{レ}}恐右之通拜見仕候に付、奉{{二}}申上{{一}}候。 已上。
文政十二年丑二月{{sgap|12em}}神︀田大和之助
{{left/e}}{{left/e}}
謹︀案{{二}}三代實錄貞觀九年之條{{一}}、冬十月四日己巳、從五位下掃部頭藤原貞敏︀卒。貞敏︀
者︀、刑部卿從三位繼彥之第六子也。少耽{{二}}愛音樂{{一}}、好學{{レ}}鼓{{レ}}琴、尤善彈{{二}}琵琶{{一}}。承和二年
爲{{二}}美作掾兼遣唐使准判官{{一}}。五年到{{二}}大唐{{一}}達{{二}}上都︀{{一}}。逢{{下}}能彈{{二}}琵琶{{一}}者︀劉二郞{{上}}。貞敏︀贈︀{{二}}
{{仮題|頁=35}}
砂金二百兩{{一}}。劉二郞曰、禮貴{{二}}往來{{一}}、請欲{{二}}相傳{{一}}、卽授{{二}}兩三調{{一}}、二三月間盡了{{二}}妙曲{{一}}。劉
二郞贈︀{{二}}譜數十卷{{一}}。因問曰、君師何人、素學{{二}}妙曲{{一}}乎。貞敏︀答曰、〔是〕我累代之家風、更
無{{二}}他師{{一}}。劉二郞曰、於戲昔聞{{二}}謝鎭西{{一}}、此何人哉、僕有{{二}}一少女{{一}}、願令{{レ}}薦{{二}}枕席{{一}}。貞敏︀答
曰、一言斯重、千金還輕。旣而成{{二}}婚禮{{一}}。劉娘尤善{{二}}琴笋{{一}}。貞敏︀習{{二}}得新聲數曲{{一}}。明年聘
禮旣畢、解{{レ}}纜歸{{レ}}鄕。臨{{レ}}別劉二郞設{{二}}祖︀筵{{一}}、贈︀{{二}}紫檀〔紫〕藤琵琶各一面{{一}}。是歲大唐大中
元年、本朝承和六年也。云々。
又禁祕抄玄上之條。累代寶物也。置{{二}}中殿御厨子{{一}}。根源樣人不{{レ}}知{{レ}}之。掃部頭貞敏︀渡
唐之時、所{{レ}}渡琵琶二面、其一歟。紫檀{{r|直甲|ヒタカフ}}也。大宋人云、紫檀者︀大樣不{{レ}}可{{レ}}過{{二}}六七寸{{一}}、
直甲之條不{{レ}}信云。但此甲非{{二}}只物紫檀{{一}}也。凡此琵琶、云{{レ}}體云{{レ}}聲、不{{レ}}可{{レ}}說{{二}}未曾有物{{一}}
也。云々。由{{レ}}是觀{{レ}}之、三代實錄中悉具せり。禁祕抄には、玄上のことありて、紫藤の
ことなし。されど古來より二面の寶器︀なれば、至靈も何れ劣らぬ御重玩は、いはで
も實に有難︀きことなり。但玄上の事は種々異說もありて、猶炎上に半ば燒失のこ
とも、諸︀書にみえたるに、此御器︀の依然と世に遺りたるこそ、いみじくも尊からめ。
且此度叡覽に奉り、御寵榮に御祕庫中に藏め給ふこと、大日須宮國造の縣然たれば
なり。太平の御代かゝる{{r|例|ためし}}は、唐・天竺にもなき目出度き國のいさをしならずや。出
雲國造は、天穗日命の後胤なり。日本紀に、高皇產靈尊大己貴尊に勅して曰く、「汝
が祭禮を{{r|當主|つかさどる}}者︀は天穗日命是なり」と詔あり。穂日命より今に至る迄、不生不滅に
して、父{{r|身退|みまか}}れば衣冠正しく座せしめ、食膳常の如く備へ侍る時に、子は大門より
出で大庭へ行き、神︀火を續ぐ。彼宮にて祭禮事畢りたりと吿來るとき、父の國造北
門より出だして葬の事をなす。嗣子は入替りて、酒宴をなすこと常の如くにてあり
ける。其神︀火を以て膳夫調へ祭る。是によりて父の喪もなく、酒肉を{{r|絕|た}}つことも
なく、五服の忌もなく、悲歎することもなく、誠に聖門の哀の道もなく、神︀道忌の法
も{{r|捨|す}}たれたるに似たれども、凡そ身體髮膚は皆父母の遺體にして、譬へば木の實の
生々窮まらざるが如く一體なるべし。されば後無きを不孝とするの戒めも、思ひ
合せらるゝことにて、此理を能く考へ知り給はゞ、父母の孝より起つて、神︀慮にも人
道にも背かざるべし。誠に殊勝の神︀勅遺風なり。佛家の種子を斷つこそ、さぞな神︀
{{仮題|頁=36}}
慮にも聖敎にも{{r|違|たが}}ひぬべしと思はれ侍る。{{仮題|投錨=出雲國造の家官位を受けず|見出=傍|節=u-3-1-C|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}然るに、國造は敍爵と云ふ事もなく、公
侯貴人と雖、獻酬の禮もなし。{{r|偶〻|たま{{く}}}}人其殘瀝{{仮題|編注=1|餘|喰カ}}殘を喰へば、唇缺け齒落つ、若し誤ま
つて沓を踏めば、忽ち足すくむ。國造之れを許すと云へば、則愈るとぞ。すべて神︀官
の仕へ崇敬すること、實に神︀の如くにす。昔後醍醐天皇、御祈︀の爲に官位を授給は
んとて、尋仰られけるに、穂日命四十八世孫國造孝時勅答に、「夫れ國造は、辱くも天
照大神︀の勅を受けてより以來、神︀々相續で、神︀火を鑽り、神︀水を稟けて、未だ流俗に
混ぜず、神︀水は天穂の眞水、今に至て源流斷えず、神︀火は天照大神︀より{{r|受繼|うけつい}}で、今
日に至る迄消滅せず、而して此の身穗日命一體なり、故に往古より官位なし」と申
し奉りし也。昔は一國造たりしが、孝時に三子あり、嫡子淸孝多病にして子無し。
二男千家の祖︀孝宗亦不肖にして父に從はず。{{仮題|投錨=千家と北島|見出=傍|節=u-3-1-D|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊1|錨}}故に三男北島の祖︀貞孝家督を續ぐに
定まりける。時に祖︀孝が母孝時を諫めて曰く、「淸孝多病なりと雖嫡子たれば、願は
くは一代神︀職を續ぎて後貞孝に神︀火を繼がしめ給へかし」と、孝時これを諾し、建武
三年淸孝神︀火を繼ぎて後に、父の命を背き、職を二男孝宗に讓る。貞孝後に奏聞を
經て、父の讓狀に任かせ、神︀火を相受く。是より兩國造に分れ、年中の行事祭禮總
べて月々代る{{ぐ}}行ふ也。
{{仮題|細目=1}}
地震之節︀役錄{{nop}}
{{Interval|width=20em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@所司代 七萬石 {{仮題|添文=1| 松平伯耆守|丹後宮津}}@大御番頭 一萬石 新庄主殿頭
@大御番頭 一萬五千石 內藤豐後守@{{仮題|行内塊=1|二|條}}條御殿預 四百石 三輪市十郞
@御鐵炮奉行 三百廿石 松平市右衞門@{{仮題|行内塊=1|二|條}}御藏衆 百五十俵 佐々竹三四五郞
@同御藏衆 百五十俵 石寺八藏@同御門番 二百俵 石渡龜治郞
@同御門番 百五十俵 水野藤十郞@御目附 間部主殿頭
@御目附 木下左兵衞@御町奉行 三千五百石 小田切土佐守
@御町奉行 二千石 松平伊勢守@br
@禁裏御附 二千五百石 野一色信濃守@同 二百俵 堀尾土佐守。
@仙洞御附 千石 永井筑前守@同 五百石 御手洗出雲守。
@禁裏御賄頭 二百俵 比田川定次郞
}}
{{nop}}
{{仮題|頁=37}}
{{仮題|行内塊=1|禁裏御所方竝山城大川筋|御普請御用兼帶御代官}}六百石、外 小堀主稅
{{Interval|width=20em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@{{仮題|行内塊=1|淀川過書|船支配}} 二百俵 角倉爲二郞@{{仮題|行内塊=1|同御代官|兼帶役}} 二百石 木村宗右衞門
@{{仮題|行内塊=1|桂川筋賀茂|川堤奉行}} 廿人扶持 角倉帶刀@{{仮題|行内塊=1|御代官大津|町奉行兼帶}} 二百俵 石原淸左衞門
@{{仮題|行内塊=1|御代官御茶|御用掛兼帶}} 五百石 上林榮次郞@{{仮題|行内塊=1|御茶御用|掛り}} 三百石 上林又兵衞
@伏見御奉行 一萬石 本庄伊勢守@br
@交代御火消 {{仮題|行内塊=1|十五萬千二|百六十八石}} {{仮題|添文=1| 松平甲斐守|郡山}}@同 六萬石 {{仮題|添文=1| 本多下總守|膳所}}
@同 十萬三千石 {{仮題|添文=1| 稻葉丹後守|淀}}@同 五萬石 {{仮題|添文=1| 松平紀伊守|龜山}}
@同 三萬六千石 {{仮題|添文=1| 永井飛驒守|高槻}}@br
@御大工頭 {{仮題|行内塊=1|五百石四|十人扶持}} 中井岡治郞@同棟梁 百石 辨慶仁右衞門
@同 三十八石 矢倉又右衞門@同 七十五石 池上直三郞
}}
{{left/s|3em}}
右之外北面・醫師・與力・同心之類︀之を略す。御城內にも餘程死人・怪我人ある
由、されども是は深く祕して有る事なりとぞ。故に詳に知り難︀し。
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
京都︀大地震之次第。{{仮題|行内塊=1|是は早速に板行にて|賣步行きし書附なり。}}
一、去る七月二日七つ時、大地震ゆり出し、其嚴敷事言語に述べ難︀く、都︀は今も大地
に入るかと疑はれ、家々の土藏は潰れ、或は壁崩れ、又は裂割れて、凡そ京中の土
藏一ケ所も滿足なるは有間じく、端々の家一時に崩るゝ音誠に夥しく、洛中・洛外
家每に疊を大路に投出したれば、吾一と屈蹲踞りて、其儘此夜を明したり。此日
晝夜大小となく震ふ事、凡そ一時に、二十ケ度より三十ケ度づつ震ふ。故に老人・
小兒或は女、東西の廣野又は東川原へ、逃出ること夥し。內に殘る者︀は大路に疊
を敷き、戶・障子にて圍ひ、こゝに蹲踞りて、三日・四日の夜を明かす。五日には少
し又おだやかなり。然れ共今に一時に七八度より十二三度づつふるひ申候。
{{nop}}
{{仮題|ここまで=浮世の有様/2/分冊1}}
{{仮題|ここから=浮世の有様/2/分冊2}}
{{仮題|頁=38}}
{{仮題|投錨=文政十三年地震|見出=中|節=u-3-2|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}
{| border="1" style="border:1px;border-collapse:collapse;"
|-
| style="width:18em;" | || style="width:1em;" | || style="width:18em;" | {{resize|150%|座本 嵐切ツ太郞}}
|-
| colspan="3" style="text-align:center;" |
{{resize|75%|昔咄と思掛けなき今度の大變天地震動晝夜烈しき虛空の物音 }}<br/>
{{resize|75%| 壁も瓦も落ちて碎けて殿舍もかたむき大地も裂けて吹出す泥水}}<br/>
{{仮題|行内塊=1|size=100%|頃は文政|六月の始}} {{resize|200%|大地震花洛聞書}} 由里續<br/>
{{resize|75%|神︀社︀佛閣は公家も町家も上下の騒動家に傳はる古物もみぢんと}}<br/>
{{resize|75%| 成つたる名家の藏々倒れて已前に奇瑞を顯はす小鍛冶の長刀}}<br/>
|-
| style="vertical-align:top;" |
<sup>由利出宰相不塚の吳方</sup> 齋南富士九郞<br/>
<sup>震動次郞家成</sup> 夫亦由留藏<br/>
<sup>へたくた成平</sup> 目斗宇五九郞<br/>
<sup>うろたへ照手の前</sup> 桑原勇次郞<br/>
<sup>足元千どり</sup> 立たり居之助<br/>
<sup>家もとの垣平</sup> 由利田折助<br/>
<sup>慈眞坊行典</sup> びつくり佐四郞<br/>
<sup>大橋由留木左衞門</sup> 渡り兼太郞<br/>
<sup>壁もおちた</sup> 闇割田倉藏<br/>
<sup>ふるひや萬次郞</sup> 靑井頰太郞<br/>
<sup>唐絨灰快子</sup> 其儘捨太郞<br/>
<sup>娘あしなえ</sup> こけつまろびつ<br/>
<sup>碎由戶庄司</sup> 柱茂弓藏<br/>
<sup>始終會々路</sup> 止む野尾松江<br/>
<sup>一統修理之進</sup> 地築能四郞<br/>
<sup>足弱假居之助藪影</sup> 蚊ケ谷喰夕右衞門<br/>
| rowspan="4" | || rowspan="3" style="vertical-align:top;" |
<sup>藪の內群集兵衞</sup> 込ツ田蛇十郞<br/>
<sup>動々鳴戶之助</sup> 恐猪︀三郞<br/>
<sup>家藏ひずみの三郞</sup> 雨賀森藏<br/>
<sup>寺町一藤太</sup> 倒田平藏<br/>
<sup>老母四つ葉井</sup> 片意地勇吉<br/>
<sup>みぢん古隼人</sup> 鳥邊野荒藏<br/>
<sup>傾城龜山</sup> 丹波の琴治<br/>
<sup>庭にかり居姬</sup> 十方に吳松<br/>
<sup>永居の雪隱</sup> 不案新四郞<br/>
<sup>割手飛駄兵衞</sup> 大谷水八<br/>
<sup>奧方おどろき</sup> 澤久賀國奈郞<br/>
<sup>西陳大荒惣太</sup> 機から落太郞<br/>
<sup>八坂の塔六</sup> 多折茂仙藏<br/>
<sup>故障の內侍</sup> 東寺の藤藏<br/>
<sup>內藏之助菱成</sup> 道具目無太郞<br/>
<sup>いがみの門太</sup> 御室仁王門<br/>
<sup>崩留三位師家</sup> 突︀張り幸四郞<br/>
|-
| 長歌 這出道十郞
|-
|
淨瑠璃 竹本切太夫<br/>
同 竹本蚊や太夫<br/>
三味線 音茂千吉<br/>
|-
| 狂言作者︀ || 頭取
|}
{{nop}}
{{仮題|頁=39}}
破損之事誠に夥しと雖、其一二。
{{left/s|1em}}
{{仮題|箇条=一}}、大佛大石かけ、さし直し一丈餘の石ころげ落つる。○耳塚︀五輪土中へうづもる。
○三條大橋破損。○白川橋くづるゝ。○同茶屋つぶるゝ。○木屋町積木こと
ごとく崩るゝ。○大德寺大にあるゝ。{{仮題|分注=1|此外遠方の寺社︀の事は、|未だ音づれをきかす。}}○總じて、神︀社︀・佛閣の
石燈籠、又は玉垣、或は寺々の石塔、こと{{ぐ}}くたふるゝ。其外寺社︀、貴賤の家々
破損之事は一々記すにいとまあらず。誠に都︀は大騒動、前代未聞の事どもなり。
{{left/s|1em}}
右は遠方の人々都︀に御親類︀有之、日夜音信案じ給ふ人々のため、槪略を書記し
たるなり。中々其騷動は都︀にのぼりて見分し給ふべし。
{{left/e}}{{left/e}}
{{仮題|入力者注=[#図は省略]}}
七月二日七ツ時ヨリ松原河原ニ於テ三夜之間夜通仕候間夕方にげ{{く}}敷御出可被成候
{{仮題|行内塊=1|ジドロ|サイク}} {{resize|150%|{{r|大亂陀彌動不寢|おゝらんだゆさ{{く}}ぶね}}}}
{{仮題|入力者注=[#図は省略]}}
{{仮題|行内塊=1|size=100%|乍憚|口上}} {{仮題|行内塊=1|size=100%
|一此度地土路細工天地自然のからくりにて寺社︀の石燈籠鳥居は
|不殘ゆり落し土藏は菱のごとくゆがめ築地高壁一時にゆりたを
|し古き家たいはいがまんの細工に取組三日めに至り出火用心の
|ため町中一統水鐵炮にて水氣の立登り火事の沙汰も相納り家根
|瓦修復に差掛り忽大工日雇の人間は一人にて二人前の働を御覽
|に入れますれば豐に萬歲の程奉祈︀上候 已上
}}
{{nop}}
{{resize|150%| 月 日 大婦志作}}
{{仮題|添文=1| 大地震{{仮題|行内塊=1|忠臣藏|九段目}}拔文句|文政寅とし七月新版}}
{{Interval|width=20em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@{{仮題|行内塊=1|風雅でもなくしやれでもなく、| 藪へ這入る山科の百姓。}}@{{仮題|行内塊=1|そりや眞實か誠かと、| 八坂の塔のこけた評判。}}@{{仮題|行内塊=1|詞もしどろ足元もしどろにみゆる、| ふりうりの商人。}}
@{{仮題|行内塊=1|思へは足も立兼ねて、ふるふ格子を漸々と、| 四五日ゆり續けに水汲老人。}}@{{仮題|行内塊=1|御見舞のおそいは御用捨、| ゑん國よりの書狀。}}@{{仮題|行内塊=1|ほんにかうとはつゆしらず、| ぎをんの鉾の折れた前評。}}
}}
{{仮題|投錨=惡洒落文字|見出=傍|節=u-3-2-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}
{{Interval|width=20em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@{{仮題|行内塊=1|これあげられぬとさし出す。| 癪起した人へ萬金丹。}}@{{仮題|行内塊=1|ほしがる處は山々、| われ落つた名寺の瓦。}}@{{仮題|行内塊=1|乘物かたへにまたせ只ひとり、| 參內有御大身。}}
@{{仮題|行内塊=1|此程の心づかひ、| 七月二日より每日ゆりつゞけ。}}@{{仮題|行内塊=1|たすきはづして飛んで出る、| びつくりした下女。}}@{{仮題|行内塊=1|恥しいやら恐いやらどうも顏が上げられぬ、| 鹿島のことぶれ。}}
}}
{{仮題|頁=40}}
{{Interval|width=20em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@{{仮題|行内塊=1|谷の戶明けた鶯の梅︀見付けたるはゝを顏、| 少し治まつた都︀の人氣。}}@{{仮題|行内塊=1|昔より今に至るまで、| 伊勢の燒けたはしらせぢやと云ふ老人。}}@{{仮題|行内塊=1|御尋ねに預り御恥づかし、| 町家の天幸者︀。}}
@{{仮題|行内塊=1|水門・物置・柴部屋迄、| あけたての損じ}}@{{仮題|行内塊=1|思ひよらぬ、| 藪へ遁入る京の山猫。}}@{{仮題|行内塊=1|ヲヽ夫にこそ手だてあれ、| 河原へ疊敷さて出て居る町人。}}
@{{仮題|行内塊=1|思ひがけなき御上京、| 見舞に登つたしつやみ。}}@{{仮題|行内塊=1|用心嚴しき、| 四門に詰むる大勢。}}@{{仮題|行内塊=1|今日參る事餘の儀に非す、| 催促がてら見舞に來る金貸し。}}
@{{仮題|行内塊=1|障子殘らずばた{{く}}{{く}}、| 地震最中。}}@{{仮題|行内塊=1|御用意なされ下さりませ、| 神︀社︀に御千度が始まるの。}}@{{仮題|行内塊=1|敷居と鴨居にはめ置いて、| 割れた戶を無理に入れ寝る。}}
@{{仮題|行内塊=1|聞いてはつとは思ひながら、| 伊勢きく上方の噂。}}@{{仮題|行内塊=1|あすの夜船に下るべし、| 京の臆病者︀。}}@{{仮題|行内塊=1|樣子に依つては聞捨ならぬ、| 上に取引有る下の人。}}
@{{仮題|行内塊=1|開き見ればこはいかに、| 雷かと思うた障子の內。}}@{{仮題|行内塊=1|娘はわつとなき出し、| びつくりころ{{く}}女共。}}@{{仮題|行内塊=1|拳放れて取落す、| 水汲丁稚の釣瓶。}}
@{{仮題|行内塊=1|仕樣もやうもない{{r|哩|わい}}な、| くへ込むだ所々の井戶。}}@{{仮題|行内塊=1|うんと計りにがつばと伏し、| 道行く老人。}}@{{仮題|行内塊=1|尋常に座をくみ手を合せ、| 寺々の和尙だち。}}
@{{仮題|行内塊=1|御深切の段千萬忝く存じまする、| 諸︀國より見舞人。}}@{{仮題|行内塊=1|日本一の阿呆の鑑、| 桑原々々というた人。}}@{{仮題|行内塊=1|名殘惜しさの山々を、| 京半分見物して下る道者︀。}}
}}
{{nop}}
地震にて損じた家は明けたまゝ戶ざさぬ御代と世直りやせん
此度の大地震にて、天子玉座を離れ、御庭に出御なりて、夜を明し給ふ程の事にて、
一統道路に迷ひ、數百の變死これ有り、之を聞くさへも膽{{r|潰|つぶ}}れ侍るに、其中にて、斯
かる戲れ言を板行になして、商ひて錢をむさぼる國賊あり。かゝる者︀共何んすれぞ
此變に命を失はざりし事にや。憎︀むべし{{く}}。
{{仮題|細目=1}}
鹿島常陸神︀
<sup>名代</sup>香取下總神︀
其方儀、往古より地震押への爲、鎭座被{{二}}仰付{{一}}候處、一昨年越後國牧野備前守領分地
震有{{レ}}之、老中領分之辨へ無{{レ}}之、猥に震崩し、人馬數多致{{二}}死亡{{一}}、旣に公儀より、備前
守へ拜借被{{二}}仰付{{一}}候程之儀、{{仮題|投錨=惡洒落文字|見出=傍|節=u-3-2-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}乍{{レ}}去神︀代之勤功被{{二}}思召{{一}}、其儘に被{{二}}差置{{一}}候處、此度洛中
大地震にて、奉{{レ}}驚{{二}}帝都︀{{一}}、且又二條御城所々令{{二}}破損{{一}}、御場所柄共不{{レ}}辨致方、其方あら
ん限は、右體之儀有{{レ}}之間敷筈之處、畢竟手ゆるく候故之儀、不束之儀に付、差控被{{二}}
仰付{{一}}候。右伊勢神︀託に於て、出雲神︀出座、伊勢神︀申{{二}}渡之{{一}}、御目附西宮夷三郞。{{nop}}
{{仮題|頁=41}}
{{仮題|細目=1}}
石野要人
<sup>名代</sup>那順野伊四郞
其方儀、鹿島常陸神︀爲{{二}}配下{{一}}、地震橫行之儀、爲{{レ}}致間敷筈之處、中世已後數多地震有{{レ}}之、
其方ゟ申付候甲斐無{{レ}}之迚、先年水戶中納言殿掘捨可{{レ}}被{{二}}申付{{一}}候處、格別之御用捨に
て其儘に被{{二}}差置{{一}}候處、右樣之儀共致{{二}}忘却{{一}}、剩鯰を差免︀し置、越後竝洛中共兩度大地
震相企候段、畢竟其方常々出しきに不{{レ}}申、瓢簞同樣之心得方、重々不埒之儀に付、野
見玄之介を以、こつぱひにも可{{レ}}致筈之處、常陸神︀より申立候筋も有{{レ}}之候に付、此度
之御沙汰に不{{レ}}及、土中へ押込申付候。
{{仮題|細目=1}}
川住儀八父隱居
<sup>大なまづ事</sup>地震
其方儀、往古於{{二}}大海︀{{一}}令{{二}}橫行{{一}}候に付、蒲燒にも可{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}之處、格別之以{{二}}御憐愍{{一}}、鹿
島常陸神︀蟄居可{{レ}}被{{レ}}在候處、其後も古歌の定をも不{{二}}相守{{一}}、刻限之差別も無{{レ}}之、種々
之病等流行爲{{レ}}致、諸︀人及{{二}}難︀儀{{一}}之段、不怪の儀に付、先年水戶家ゟ要人へ糺之砌、重
くも可{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}之處、格別の趣を以て、其儘に被{{二}}成置{{一}}候得共、猶又相鎭可{{レ}}有{{レ}}之處、
近頃越後國竝洛中及{{二}}亂妨{{一}}、地中ゟ土砂等吹出し、全く彌勒出世之年限をも不{{二}}相待{{一}}、
泥海︀に可{{レ}}致心底に相聞え、旁〻不埒に付、改め鹿島常陸神︀へ相預け、奈洛へ蟄居申付
候事。
{{仮題|細目=1}}
赤井穂四郞
其方儀、近來每夜徘徊いたし候に付、諸︀人怪み惡說申觸らし、上方筋之地震も、其方
不{{レ}}存旨陳じ候得共、却て世上には、右前表之趣申候。奢に長じ目立候光り方、明星
をも蔑に致し、其上不行跡、天文方へ申渡、糺明可{{レ}}有{{レ}}之處、高橋作左衞門牢死後、何
も星家不案內之趣に付、其沙汰に不{{レ}}及、依{{レ}}之急度光り、
{{left/s|1em}}
右於{{二}}評判所々{{一}}夫々申渡有{{レ}}之。此節︀地震番所にて寫者︀也。{{nop}}
{{仮題|頁=42}}
是は道修町近江屋忠衞門方に在りしを寫し取る。是等別して不埒のしやれにて、
恐入るべき事どもなり。
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
龜山大變
一昨二日夕七つ過頃大地震、{{仮題|投錨=龜山の地震|見出=傍|節=u-3-2-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}御殿向所々大損、河原町御番所打倒れ、三宅御番所高
塀同斷、其外町家三宅町にて八軒、柏原町十三軒潰れ申候。三宅御番所より東にて
は、一軒も無難︀之家無{{レ}}之、大方住居は不{{二}}相成{{一}}候由。其上怪我人多く、卽死四人、河
原町宇津根邊潰れ家餘多の由、野原庄之進川添に有{{レ}}之長き米藏打潰れ候由、誠に前
代未聞之事に御座候。且地震夜中三四十度計も鳴動いたし、中にも兩度程餘程之
地震御座候。今朝に至り鳴動不{{二}}相止{{一}}、誠に恐敷事に御座候。倂し今朝は穩に相成、
折々少々づつの響︀にて、漸く人心地に相成申候。先づ家中向は無{{二}}別條{{一}}、且御親類︀
樣方御無難︀に候間、御安心可{{レ}}被{{レ}}成候。又々諸︀向御繕ひ、御普請御物入と相成、恐入
候儀に御座候。猶追々可{{二}}申上{{一}}候。先づ只今迄承り候儀、荒增申上候。可恐々々。
七月四日 瀧田庄太夫
{{仮題|細目=1}}
過屆
{{Interval|width=20em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@一、町在崩家 四十一軒@一、死人 四人
@一、怪我人 五人@一、損所 五十ケ所
}}
{{left/s|1em}}
右之外堤缺、道損じ、小家・土藏數を知ざる位なり。餘程の損耗なり。先達て認候
は、御城下計り故、違候ゆゑ、此書付の通御寫し、小林氏へ御見せ可{{レ}}被{{レ}}下候。町
在〆如{{レ}}此に御座候。右之通御承知可{{レ}}被{{レ}}下候。其外少々の損じ、壁落などおびた
だしく候。前代未聞也。
七月七日 酒井左五衞門
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
御玉章拜誦仕候。如{{レ}}仰殘暑︀强く御座候處、御擧家樣御壯健被{{レ}}成{{二}}御凌{{一}}、奉{{二}}恐賀{{一}}候。然
者︀先頃當地大地震之樣子被{{レ}}成{{二}}御承知{{一}}、預{{二}}御紙面{{一}}難︀{{レ}}有奉{{レ}}存候。其御地は、格別之
{{仮題|頁=43}}
地震も無{{レ}}之由、致{{二}}承知{{一}}、夫故御尋も不{{二}}申上{{一}}候。當地町家には、潰家四十軒計り、壓
死人・怪我人等も少々有{{レ}}之候得共、一類︀中初、私宅格別之破損所と申すは無{{二}}御座{{一}}候
間、乍{{レ}}憚御安慮可{{レ}}被{{レ}}下候。右御禮爲{{レ}}可{{レ}}得{{二}}貴意{{一}}如{{レ}}此に御座候。恐惶謹︀言。
七月十三日 大竹吉右衞門
{{仮題|細目=1}}
貴札拜見仕候。未だ殘暑︀强く御座候處、益〻御壯健、奉{{二}}恐賀{{一}}候。隨て私方皆々無異相
勤候間、乍{{レ}}憚御休意可{{レ}}被{{レ}}下候。扨又當月二日大地震に付、早々爲{{二}}御見舞{{一}}預{{二}}御紙面{{一}}、
忝存候。先づ家中一統格別大損は無{{二}}御座{{一}}候得共、少々宛は家竝に損申候。私方親
類︀之內、別條無{{二}}御座{{一}}候間、是又乍{{レ}}憚御安心可{{レ}}被{{レ}}下候。町家大荒にて、柏原・三宅兩
町にて、家數三十軒計り倒れ、其外家每に大損、未だ地震相止不{{レ}}申、甚珍敷事に御坐
候。其御地にては、御別條も無{{二}}御座{{一}}候樣子承り候故、御尋も不{{二}}申上{{一}}、御無沙汰仕候。
先は右御禮御答旁〻爲{{レ}}可{{レ}}得{{二}}貴意{{一}}如{{レ}}此に御座候。尙追々可{{二}}申上{{一}}候。已上。
七月十九日 樫田藤治
{{仮題|細目=1}}
一筆啓上仕候。未だ殘暑︀强く御座候得共、御家內樣方御揃彌〻御壯榮可{{レ}}被{{レ}}成{{二}}御坐{{一}}、
珍重御儀奉{{レ}}存候。隨而當方無異罷居候間、乍{{レ}}憚御休意思召可{{レ}}被{{レ}}下候。然者︀先達て
は、京都︀ゟ當地殊之外大地震にて、當所城中家少々損所も有{{レ}}之候得共、けが人は無{{二}}
御座{{一}}、町家多分大崩有{{レ}}之、卽死・けが人も有{{レ}}之、未だ少々之地震日々三四度程有{{レ}}之、
夫故兎角不安心に御座候、其砌は御見舞御紙面被{{二}}成下{{一}}、難︀{{レ}}有奉{{レ}}存候。御地は無{{二}}御
別條{{一}}之趣、御同慶奉{{レ}}存候。早速御禮可{{二}}申上{{一}}筈に御座候處、盆前ゟ私儀不快にて、引
籠罷在候に付、御報も延引仕候。此段御高免︀可{{レ}}被{{レ}}下候。以{{二}}御影{{一}}拙家無異、私儀も
此節︀にては追々全快仕候間、乍{{レ}}憚御安心思召可{{レ}}被{{レ}}下候。且又養父一回忌、養母三
年、當月廿日佛事仕度候間、遠方御苦勞之御儀に御座候得共、御出被{{レ}}下候樣奉{{二}}願上{{一}}
候。別段申上候筈に御座候へ共、此度之幸便に付申上候。右申上度、御報旁〻如{{レ}}此に
御座候。恐惶謹︀言。
八月二日 長谷川十內{{nop}}
{{仮題|頁=44}}
{{仮題|細目=1}}
貴札拜見仕候。秋冷相催候處、被{{レ}}成{{二}}御揃{{一}}益御安康被{{レ}}成{{二}}御座{{一}}、珍重奉{{レ}}存候。隨而小
子宅何れも無事罷在候間、乍{{レ}}憚御安意可{{レ}}被{{レ}}下候。其後は打絕え御安否も不{{二}}相伺{{一}}、
何共背{{二}}本意{{一}}候條、奉{{二}}恐入{{一}}候。何分小生足痛も未だ聢と不{{レ}}仕、夫故氣分不{{二}}相勝{{一}}、不
{{レ}}計御不沙汰申上候。何分にも御高免︀被{{レ}}下度候。扨又去る二日、御聞及通、京地ゟ龜
山、寔に前代未聞大地震、兩三夜計り門住居にて夜明し仕候。其後迚も、枕高うして
寢候事も出來不{{レ}}申、于{{レ}}今至り晝夜に七八ケ度宛日々ゆり申候。併し差したる儀で
は無{{二}}御座{{一}}候得共、何分最初之手ひどき地震に恐入、扨々困り入申候。右に付、早速
御尋被{{二}}成下{{一}}、早々御返答差上可{{レ}}申之處、前段之有樣、延引相成候。吳々御高免︀奉{{レ}}希
候。先は右御受旁〻如{{レ}}此に御座候。恐惶謹︀言。
七月廿一日 西垣丈助
別紙申上候御內政樣へ宜しく御傳聲被{{レ}}下度奉{{レ}}願候。妻よりも御ふみ差上申度筈之
處、益前より中暑︀、且地震びつくり仕候て哉、不{{二}}相{{r|勝|スグレ}}{{一}}龍在候、無{{二}}其儀{{一}}、私より右之
段御斷申上吳候樣申出候。右之段御內政樣へよろしく御斷被{{二}}仰上{{一}}被{{レ}}下度奉{{二}}願上{{一}}
候。扨私儀も、六月出勤、{{r|漸々|やう{{く}}}}十日計り相勤め、直に引能能在候處、于{{レ}}今引籠保養仕
居候に付、くはしき御事は見不{{レ}}申候得共、忰共見受候趣、
{{left/s|1em}}
{{仮題|箇条=一}}、柏原町家數八十七八軒之處、十八軒潰れ申候外は、不{{レ}}殘大ゆがみ、其後追々之地
震にて、五軒計り又潰れ申候。卽死人三人、怪我人十人計りと申事に候。
{{仮題|箇条=一}}、三宅町家數八十計之處、十二軒潰れ申候。いがみ、への字形に相成候家數廿四
五軒計、卽死人三人、怪我人十五六人と申事に候。其外町方家中共大體への字形
に相成候家數夥敷事に御座候由。荒增承り候事申上候。已上。
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
浪華龜山の用場に出役の役人宍倉只衞門、主用に付、八月五日立にて、龜山へ到り、
同八日に歸來りしが、彼地今以て晝夜に八九遍計り地震之あり、日々二つ三つはひ
どくこたゆる地震有りと云ふ、此度の地震にて、所々損ぜし有樣目を驚かす事なり
とて、詳しく其有樣を語りぬれども、餘りくだ{{く}}しければ、其二三を擧げて之を
{{仮題|頁=45}}
證すべし。
{{left/s|1em}}
{{仮題|箇条=一}}、{{仮題|投錨=蟲の知らせ|見出=傍|節=u-3-2-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}柏原町醬油屋、此家の〔{{仮題|分注=1|主人|脫カ}}〕至つて好人物にて、家業を出精︀し、儉約を守りぬる故、
商賣大に繁榮し、積財する事多し。龜山より京都︀へ出づるに、大江坂といへる峠
有つて、至つて道惡しく、人馬の常に往來に惱めるにぞ、此者︀財を散じて、衆人の
爲に其道を造り、又貧人等には相應の施しをもなしぬるに、近頃病臥して有りし
にぞ、之が親類︀より娘を見舞{{仮題|分注=1|病人の娘|なり。}}として、七月朔日に差越しぬるにぞ、之を留
置きて、介抱をなさしむ。二日の朝に至りて、此娘云へるやうは、「一寸御見舞に
參りしなれば、滯留するの心組もなく、著︀替一つを持たざれば、今朝內へ還り、滯
留の心積して程なく來るべし」とて、家に歸り、「今日は何とも心惡しくて、先の家
に居る事心ならざれば、今日一日は內に有りて、明日より參るべし。今日の處は
斷りやりて給はれ」と、兩親を賴みしに、兩親これをうけがはずして、「病人の介抱
させんとて留めぬるに、今日は行かじ抔いへるは、其方の氣儘といへるものなり。
病人の事なれば、嘸待侘びて有べし。早く參るべし」とて、無理に追遣りしに、間
もなく大地震にて、病人・其娘、外にも家內一人、都︀合三人、此家崩れて卽死せしと
云ふ。其親大に後悔︀して、「かゝる事の心に徹して、行く事をいなみぬるを、無理
に追ひやりて、親の手にて殺︀しぬるに等し」とて、大に歎げきぬるよし。
{{仮題|箇条=一}}、三宅町茶屋鍵屋といへる有り、地震ゆると其儘、老人・夫婦・息子等散り{{く}}にな
りて、裏表へ逃出でしに、嫁は懷妊にて月重りし事故、逃げ後れぬるにぞ、息子も
之を案じ、門口迄跡戾りすると、家內の逃出づると一時なりしに、今一足の事に
て、其家崩れ、妻はこれに打たれ手足共所々へ飛散り、腹破れて飛出しと云ふ。
夫は一旦無事に逃出せしに、これを助けんとて、跡戾せし計りにて、命に別條は
なしといへども、大いなる怪我をなして、廢人と成りしと云ふ。
{{仮題|箇条=一}}、或家には、晝寢せんとて、夫婦と子供兩人梁の下に休みしが、此日は分きて暑︀さ
の堪へ難︀くて、寢る事なり難︀かりし故、暑︀を避けむとて、主は子を抱きて表の方
へ出でぬ。妻も引續き起出で、行水の料にせむとて、手桶取つて井の元へ行きぬ。
右の子も母親の跡に附添ひて裏へ出でぬるに、井にかゝりて、未だ水を汲上げざ
{{仮題|頁=46}}
る內に、地震にて其家崩れ、梁寢處へ落ちて、布團を貫きしと云ふ。これらは暗
にして其難︀を逃れしにて、幸と云べし。
{{仮題|箇条=一}}、{{仮題|投錨=僥倖|見出=傍|節=u-3-2-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}或家の家內、小兒を寢させんとて、之に添臥し、小兒と共に睡りて有りしに、地
震ゆり出で、其家をゆり潰す。地震勢にてかくなりし事と見えて、兩人の上に疊
一疊裏返りて覆ひ懸りし故、潰れたる中に有りて、親子共命を全うせしと云ふ。
是等の事にて、其幸・不幸を察し、其餘は推量りて知るべし。
右大地震にて家を倒し瓦を飛ばし、何れも大に狼狽して心顚倒せし事なれば、「助
けて給はれ」といへる聲の、人の耳に入りて、是を救出せしは、遙に時過ぎし事な
りと云ふ。
又此度倒れし家を見るに、瓦葺の家は悉く微塵に碎け落ちて、死人・怪我有りしが、
藁葺の家は、多くは椀をふせし如くに成りて、形崩れざる家多しと云ふ。總べて天
地の間に於て、物の十分なるは無く、火に良きは水に惡しく、此に良きも彼に惡
しゝ。事々物々に一失一得有る事なれば、中庸を心として、常々工夫有りたき者︀
なり。又兵家者︀流に於ても、種々の論有れども、山城に籠り嶮岨を固めとすれば、
一夫之を守りて萬夫も進み難︀きの德有れ共、兵糧運送の難︀きと、水道を斷切らる
るの患有り。平城は是等のなやみなしと雖も、四方に敵受るの損有りて、何れも
深き心得の有りぬる事なり。「山に寄り山によらず、水に寄り水に寄らず」といへ
るにも、味ある事なり。心してよし。
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
貴札拜見仕候。秋冷に相成候處、御家內樣御揃彌〻御壯健被{{レ}}成{{二}}御凌{{一}}、珍重之御儀に
奉{{レ}}存候。然者︀、先頃此許大變に付、早速爲{{二}}御見舞{{一}}御紙上被{{レ}}下、被{{レ}}爲{{レ}}入{{二}}御念{{一}}候儀、忝
次第に奉{{レ}}存候。誠に前代未聞之儀にて、何も仰天仕候得共、親類︀中無難︀にて、大慶
仕候。其後兎角少々宛の儀日々四五度も有{{レ}}之候處、先一昨日頃よりは相鎭り申候。
此段御安心可{{レ}}被{{二}}成下{{一}}候。私儀も地震前ゟ腹合惡敷く、漸〻兩三日以前ゟ快氣仕候。
夫故御禮答も大延引、此段御宥免︀可{{レ}}被{{二}}成下{{一}}候。右御挨拶、乍{{二}}延引{{一}}如{{レ}}斯に御座候。
恐惶謹︀言。{{nop}}
{{仮題|頁=47}}
八月十二日 梶村昌次
{{仮題|細目=1}}
一筆啓上仕候。追々秋冷彌增候處、御全家被{{レ}}爲{{レ}}揃益御安康可{{レ}}被{{レ}}成{{二}}御凌{{一}}、珍重の
御儀に奉{{レ}}存候。隨て黃薇國在番中は、不{{二}}相變{{一}}數々預{{二}}御紙上{{一}}、辱仕合に奉{{レ}}存候。御
蔭にて詰中無{{レ}}滯相仕廻引取申候。其砌は船中と覺悟究置候處、參候家來兩人共船
甚不得手、併し衆評難︀{{二}}默止{{一}}旨相聞、其上地震之年柄、同役家內ゟも{{r|直|は}}たと差留越し、
私事も二月頃ゟ持病之攣痛甚敷く、駕籠にゆられ候も難︀澁故、片上ゟ成り共と存候
得共、{{仮題|投錨=備中は震せず|見出=傍|節=u-3-2-f|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}諸︀方ゟ申越、無{{レ}}據陸地引取る都︀合に仕、夫故御館︀へ御尋申上候事も出來不{{レ}}申、
近頃殘念至極に奉{{レ}}存候。おはつ樣へも宜敷く御斷被{{二}}仰上{{一}}可{{レ}}被{{レ}}下候。先達ても珍
敷御作拜見、絕{{二}}感慨︀{{一}}申候。地震も備中はゆり不{{レ}}申、先は京都︀・龜山が强き事と被{{レ}}存
候。併し城中・家中先無難︀、委敷事は只右ゟ御承知{{仮題|編注=1|可|衍カ}}{{レ}}被{{レ}}下候事と被{{レ}}存候間、不{{二}}申上{{一}}
候。{{仮題|投錨=○只右ハ只右衞門ナドノ略ナラン|見出=傍|節=|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}僕事も右駕籠に被{{レ}}當、呼吸寒迫、十間計り步行仕候事も苦しみ、五七日は押し
て罷在、無{{レ}}據引籠保養仕候。御存之通、少し宛の食事も望なく、肝癪計に{{仮題|左線=肥}}え申候。
深見謙藏と申す醫師に掛り、段々療用仕、此節︀は先づ快方に向候。一旦は大差込參
り體弱り、迚もと存じ、辭世迄仕候事、どうやらかうやら反古と相成候樣にて、失{{二}}面
目{{一}}候。併し先々右體故御安心可{{レ}}被{{レ}}下候。小子耳のタブ後へ廻るに付、貧相と被{{二}}仰
笑{{一}}候事有{{レ}}之。此度備中ゟ龜山へ、「大地震夢にも知らぬ因果者︀みゝのたぶをや何と
みるらん」。備中へ三度詰に參りしが、あげくには笠岡と云處にて、論出來る、まか
るとて、「旅の世にまた旅に來て旅に行くこれや三度の印なるらん。」大地震の川柳
傳へては、「此上は奈良へ遷座の思召」。「あめつちの動く名歌は御感なし」。「阪元はな
んとがよかろと公家評議」。龜山にかへりて松茸の少き事を聞き、「松茸が閉門する
や大地震」。辭世のいれ荷のをかしければ「死る迄いれのくるこそ氣疎けれじせい
僞せとも成るもをかしき」實に此節︀は快方にて、執筆右之次第、乍{{レ}}憚御安意可{{レ}}被{{レ}}下
候。おはつ樣御案被{{レ}}下間敷、被{{二}}仰上{{一}}可{{レ}}被{{レ}}下候。足下御戲書誠に以て奇々妙々、奉{{二}}
感吟{{一}}候。尙珍敷事も候はゞ、爲{{二}}御聞{{一}}可{{レ}}被{{レ}}下候。右は何か御禮、時候御安否相伺旁〻
如{{レ}}此に御座候。恐々頓首。{{nop}}
{{仮題|頁=48}}
菊月十五日 和田平右衞門
{{仮題|投錨=文政十三年諸︀國の大變|見出=中|節=u-3-3|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}
七月二日京都︀の地震と同刻に、{{仮題|投錨=肥後の阿蘇山崩れ津浪|見出=傍|節=u-3-3-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}肥後國阿蘇山崩れ、人家・田畑悉く潰れ、人を損ずる
事擧げて數へ難︀く、阿蘇の一郡大いに荒果てゝ、此崩れぬる勢に、海︀邊は大津浪に
て、人も家も悉く流れ亡せしと云ふ。こは江戶堀木屋一郞右衞門が咄にて、則ち同
人が親類︀の船も、彼地に居合せ、此大難︀に遇ひて、其船みぢんに碎けしと云ふ。斯か
る大變の始末は、其後間もなく肥後の屋敷へ國元より出役せし役人有りて、これも
船中にて難︀風に遇ひ覆らんとせし故、大に困窮す、程なく主用も濟みぬれ共、かゝ
る有樣なれば、國元へかへる事を案じぬるとて、委しく語りしと云ふ。外役人の船
一艘覆りしが、これは水練︀達者︀なる故、海︀上を泳ぎて命助りしと云ふ。
{{resize|75%|〔頭註〕阿蘇一郡大に荒れしと云ひしかども、是は格別の事にて無かりしと云へり。}}
{{仮題|細目=1}}
同五日・六日・八日・九日、防・長・藝の國々大風雨にて、船多く碎けて、大騷動せしと云
ふ。浪華にては、九日午刻過より時々少雨降りしのみにて、只京都︀の響︀折々こたへ、
少々づつの地震有るのみなりしが、此日彼地は別きて大雨にて、雨の大きさ茶碗の
如く、風甚しくして、予が知れる人の乘りし船も打破れしが、幸にして助かり歸りぬ
る者︀など有りて、恐しき事共なり。
同二日、雲・伯・因・備の前州近來の大地震なりと云ふ。されども何も損ぜし處なしと
云ふ。{{仮題|投錨=中國の地震|見出=傍|節=u-3-3-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}これも京と同じく申の刻のよし。大抵咄を聞くに、浪華と同樣のゆりと思
はる。又備前・播州等は十八日洪水なりと云ふ。
{{left/s|1em}}
〔頭書〕かくの如く諸︀國地震甚しき事なるに、作州は其中に在る國なるに、實に聊
かの事にして、今のびり{{く}}とせしは地震にてはなかりしやと、疑はしき程の事
にて、是を知らぬ人多しと云ふ。
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
十四・五・六・七日、筑前大風雨にて、一國洪水の由、十八日出之相場飛脚に申來りしと
云ふ。筑前斯くの如くなれば、筑後は餘程地形も低ければ、猶甚しかるべしとなり。
{{仮題|頁=49}}
こは米相場する者︀の云へる事にて、二百十日・廿日共に、大坂にては何一つ申分もな
く侍るにぞ、米相場引立て、人の金銀を奪はんとて、かゝる風說する事にや有らむか
と、疑はしかりしが、後筑前屋敷にて聞侍るに、彼地七日七夜大雨降續き、地上の水
一丈三尺にして、洪水の變を訟ふる飛脚さへ出し難︀く、漸く三日目に仕立てられし
と云ふ。其節︀には水を渡れるに、人の乳上迄有りしと云ふ。大豆畑二萬石計の處
流れ失せしと云ふ。され共米に障れる程の事は無しといへり。
豐前小倉屋敷より申來れるに、「七月彼國風雨洪水にて、大に田地損ぜし」となり。豊
後邊七月八日大風吹きしと云ふ。
{{仮題|細目=1}}
七月十八日の洪水に、攝州高槻領も三ケ處切れ込み、物頭侍足輕等日々百五十程場
所に幕を張り、陣笠・股引にて土・砂・石等を運び普請すと云ふ。
十月廿二日大風日暮より尤甚しかりしが、{{仮題|投錨=暴風|見出=傍|節=u-3-3-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}此日遠江灘にて船百五十艘計難︀船し、鰤
の番船など江戶湊にても覆りしと云ふ。
十一月廿三日大風晝夜烈しかりしが、此夜西の宮沖にて二十四五艘の船援り、人死
多しと云ふ。西の宮計りにてさへ此くの如くなれば、外にも此類︀多かるべし。又
米を積める船十艘大坂川口にては破船すと云ふ。
{{仮題|細目=1}}
又十二月朔日夜丑の刻より、{{仮題|投錨=和歌山火|見出=傍|節=u-3-3-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}紀州和歌山出火、內町・かくみ町中程疊屋裏より出火、折
節︀東風强く、本町二丁目も燒拔け、夫より米屋町不{{レ}}殘匠町半分、本町一丁目・二丁目
不{{レ}}殘大火、萬町かしや町へ燒拔、內大工町半分燒、凡十五町の燒ぬけ、午の刻迄燒る、
誠に近年の大火にて御座候。
十二月二日午刻。
右紀州飛脚より申來りしを記せるなり。
{{仮題|細目=1}}
夫吾國は神︀國にして、往古より三種の神︀寶を以て天下を治め給ひ、神︀々萬民を惠み
守り給ふ事なるに、禰宜・社︀人の類︀大に道に背き、非人・乞食の如く鈴を振つて、人の
{{仮題|頁=50}}
門口に立ちて一錢・一握の米錢を乞へる事、{{仮題|投錨=神︀道者︀の乞食|見出=傍|節=u-3-3-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}誠に淺ましき有樣なりしに、文政五壬年
よりして、右手に鈴をくゝり付け、左の手には太鼓・銅鐵子を持ち、腰に笛を挿し、脇
の下に、方なる箱に紐付けて、之を首に懸けて脇ばさみ、夜中一人にて三四人の囃
子をなし、祓讀みて步ける樣、河原者︀の八人藝又は七化など云へるが如し。神︀道は
正直を源とする事なるに、人をあやかし米錢を貪れる事、大に法に背きぬ。後に此
業尤甚しく成つて、白晝に之を爲し步き、中には夫婦連に子供迄引連れ、可笑き囃
子方にて人に思ひ付かせんとす。淺ましき業なり。此故に神︀慮にも叶はざると見
えて、其年八月より大に疫癘流行し、暴かに吐瀉甚しく、急なるは半日、緩なるも三
日め程には死失せぬ。{{仮題|投錨=ころり流行|見出=傍|節=u-3-3-f|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}世俗三日ころりとて大に恐れあへり。之を大體始めにして、
其翌年は丹後・紀伊・大和・伊勢・備中・伊豫等に、百姓の一揆起り、七月に至り諸︀國に筍
を生じ、世間至つて騷々しく、大いに人殺︀あり。同月廿二日、筑後にては、百目に餘
れる霰降りて地を埋むる程に至り、八月十七日江戶大風、石を飛ばし家を倒す。九
月廿七日・十月廿四日、大坂大雨・大雷なり。是れ等を始めとして、年々世間騒々し
く、天變地妖打續きぬるやうになりぬ。歎かはしき彼等が所行、神︀慮をも恐るべき
ことなり。
{{仮題|細目=1}}
今年丹後丹波の間なる嶮難︀の山々岩石等を切聞き、{{仮題|投錨=丹後丹波間の水運開かる。|見出=傍|節=u-3-3-g|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}兩方へ流るゝ川々を、横に切開
きて、其流を一つになし、運送自由なるやうになりぬ。され共險岨にて如何共なし
難︀き處八丁有りて、之をば人馬にて運送すと云ふ。斯くの如くなれば、日本の地方
東西二つに切れ離れて、漸く八丁の續きなれば、地脈の通ひこれ計なり。如此事神︀
慮に叶はざるにや、伊勢の回祿、京都︀の地震等有るなるべしなどとて、專ら京都︀に
ては風聞すと云へり。{{仮題|投錨=米買占め|見出=傍|節=u-3-3-h|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}
丹波の內保井谷といへるは、杉浦若狭守と云へる旗本の陣屋有り、米買占めの事に
て一揆起り、九郞兵衞と云ふ者︀の家を打碎き、處々大に亂妨せしといへり。
十二月八日、江戶淺草御藏前、同十日下谷とやらん餘程大火の由。同廿三日・廿五日
にも餘程燒失せしと云ふ。{{nop}}
{{仮題|頁=51}}
{{仮題|細目=1}}
歌は世につるゝものとて、古より云習はせ、童謠の前兆を示す事など諸︀書にも之を
詳にす。近來流行れる歌に味ありて面白きは更になく、何れも遊里・芝居等より流
行り出でて、{{仮題|投錨=愚劣なる流行唄|見出=傍|節=u-3-3-i|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}皆々淫事をあから樣にうたひぬる事の淺間しき事に思ひしに、又これ
に加ふるに癡人の獨語を以てして、小長・男女の別なく、間拔たる音にて之を唄ひ、大
に流行す。此癡人といへるは、靭太平濱なる干鰯仲仕にして、一人の母親あり。其
詞に曰く、「伊三子は{{仮題|分注=1|名を伊三郞|と云ふ}}阿呆でも、親養ふわいなァ」、「虎屋の饅頭二文で買ふと
は、ソリヤむりぢやいなァ」、「親の敵をうたいでおこかいなァ、なるものかいなァ、伊
三子の腹ぢやもの」。大抵此類︀なり。されども皆筋立し事なり、大西の芝居にて此
者︀の眞似をなしてより、ます{{く}}大流行となる。淫事を唱ふよりは增ならんと覺
ゆれども、其音聲餘りに耳立てやかましき事どもなり。癡人の獨語かく流行せる
事大奇事と云べし。
{{仮題|投錨=文政十三年改元勘文|見出=中|節=u-3-4|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}
庚寅改元勘文 <sup>附地震日記</sup>
年號勘文
年號事
天保<sup>切討</sup> 尙書曰、欽崇{{二}}天道{{一}}、永保{{二}}天命{{一}}。<sup>仲虺之誥。</sup>
嘉享<sup>切繦</sup> 晉書曰、神︀祇嘉享、祖︀考是皇、克昌{{二}}厥後{{一}}、保{{レ}}祚無{{レ}}彊。<sup>明堂降神︀歌。</sup>
萬德<sup>切墨︀</sup> 文選曰、萬邦協和、施{{二}}德百蠻{{一}}、而肅愼致{{レ}}貢。<sup>檄蜀人。</sup>
保和<sup>切波</sup> 周易曰、乾道變、各正{{二}}性命{{一}}、合{{二}}大和{{一}}、乃利貞。<sup>上家傳。</sup>
安延<sup>切無形</sup> 禮記正義曰、武王承{{二}}文王之業{{一}}、故安樂延{{レ}}年。<sup>文王世子。</sup>
{{仮題|添文=1| 式部大輔菅原爲顯|桑原}}
年號事
監德<sup>切祴</sup> 尙書曰、天監{{二}}其德{{一}}、用{{二}}集大命{{一}}、撫{{二}}綏萬方{{一}}。<sup>大甲上。</sup>
嘉延<sup>切甄</sup> 文選曰、寤寐嘉猷、延佇忠實。<sup>永命九年策秀才文。</sup>{{nop}}
{{仮題|頁=52}}
萬延<sup>切緜</sup> 後漢︀書曰、豐{{二}}千億{{一}}之子孫、歷{{二}}萬載{{一}}而永延。
嘉永<sup>切璟</sup> 宋書曰、思皇享{{二}}多祐︀{{一}}、嘉樂永無{{レ}}史。<sup>樂志。</sup>
寬安<sup>切看</sup> 荀子曰、生民寬而安。<sup>致仕篇。</sup>
{{仮題|添文=1| 文章博士菅原以長|高辻}}
年號事
天敍<sup>切無形</sup> 尙書、有典勅{{レ}}我、五典勅{{レ}}我、五典五惇哉。<sup>○誤字あるべし。</sup>
嘉延<sup>切甄</sup> 藝文類︀聚曰、祥︀風協順降{{二}}社︀自{{一レ}}天、方隅淸謐嘉祚日延、與{{レ}}民優游享{{レ}}壽萬年。
嘉德<sup>切祴</sup> 春秋左氏傳曰、上下皆有{{二}}嘉德{{一}}、而無{{二}}違心{{一}}。
萬和<sup>切摩</sup> 文選曰、布{{レ}}政垂{{レ}}惠、而萬邦協和。
元化<sup>切瓦</sup> 晉書曰、元首敷{{二}}浩化{{一}}、百僚股肱幷忠良。
{{仮題|添文=1| 文章博士菅原在文|唐橋}}
{{仮題|細目=1}}
寬安 初難︀
寬安號有{{二}}緩舒安佚之意{{一}}。又安字在{{レ}}下之號有{{二}}舊言之事{{一}}。且音響︀亦不快之旨、舊難︀不
{{レ}}少。每度出現不{{レ}}被{{二}}採用{{一}}{{仮題|入力者注=[#底本では直前に返り点「一」なし]}}者︀、有{{二}}其謂{{一}}歟。宜{{レ}}有{{二}}群議{{一}}。
實堅
寬安 陳
被{{二}}難︀申{{一}}之旨非{{レ}}無{{二}}其謂{{一}}。此號先哲亦難︀{{レ}}之。雖{{レ}}然字義非{{二}}一隅{{一}}、各有{{二}}其所{{一レ}}當歟。音
響︀之嫌疑亦聲韵全同。前修文、有{{二}}擧奏之輩{{一}}。虞廷之嘉謨曰、寬而栗。孔門明訓曰、
寬得{{レ}}衆、且夫文思安々者︀、堯天之德容、安貞之吉者︀、坤地之元氣、最於{{二}}紀元{{一}}各爲{{二}}佳
字{{一}}、被{{二}}擧用{{一}}何事之候<sup>波平哉</sup>。宜{{レ}}在{{二}}上宣{{一}}。
永雅
寬安 重難︀
寬安之號、所{{レ}}被{{二}}陳申{{一}}雖{{レ}}有{{二}}其謂{{一}}、皇太后宮大夫藤原朝臣被{{レ}}難︀之旨、殆當{{レ}}然候。通聲
之俗難︀{{レ}}强、雖{{レ}}不{{レ}}足{{レ}}論、衆口所{{レ}}唱渉{{二}}患難︀{{一}}。兩字連續之上者︀、音響︀殊不{{レ}}快候。爰按{{二}}引
{{仮題|頁=53}}
文{{一}}、雖{{レ}}爲{{二}}怡然{{一}}、於{{二}}聖代{{一}}者︀百歲叟可{{レ}}欲{{レ}}起、所{{レ}}謂野無{{二}}遺賢{{一}}是也。而爲{{二}}其書{{一}}也、子類︀
爲{{二}}其篇{{一}}也、致仕旣及{{二}}度々群議{{一}}、不{{レ}}被{{二}}登庸{{一}}、亦宜矣。偏可{{二}}被{{レ}}閣候{{一}}歟。
顯孝
寬安之判
寬安之號、非{{レ}}無{{二}}存旨{{一}}、此號之議暫可{{レ}}被{{レ}}閣{{レ}}之、 齊信
嘉延 初難︀
嘉延雖{{レ}}爲{{二}}佳號{{一}}、音響︀聊不{{二}}優美{{一}}歟。且嘉字嘉吉已後久不{{レ}}被{{二}}採用{{一}}。以{{二}}他號{{一}}被{{レ}}擇可
{{レ}}然候<sup>波牟哉。</sup>
永雅
嘉延 初陳
嘉延之號、嘉吉之後不{{レ}}被{{レ}}用{{二}}嘉字{{一}}之旨、雖{{レ}}被{{二}}申難︀{{一}}、言化字大化之後歷{{二}}千餘歲{{一}}而被{{レ}}用{{二}}
文化{{一}}、已爲{{二}}美號{{一}}、且藝文類︀聚之本文、前後審觀{{二}}太平之氣象{{一}}、況今當{{二}}臘月{{一}}、建{{二}}斯新元{{一}}、
被{{レ}}易{{二}}舊號{{一}}者︀、詩中所{{レ}}謂率土同{{レ}}歡、和氣來臻。應驗又奚疑乎。
基豐
嘉延 重陳
嘉延號之事、被{{二}}難︀申{{一}}之旨、雖{{レ}}非{{レ}}無{{二}}其理{{一}}、權中納言源朝臣如{{下}}陳答被{{二}}稱美{{一}}引文{{上}}者︀、
古今通規也、殊於{{二}}延字{{一}}者︀、聖朝佳號不{{レ}}少、衆賢之所{{レ}}知、今更不{{レ}}及{{二}}申述{{一}}、又音響︀之事、
非{{二}}大患{{一}}者︀、何有{{二}}用捨{{一}}乎。一天下被{{二}}通用{{一}}之號、豈以{{二}}小難︀{{一}}哉、論{{二}}大功{{一}}者︀不{{レ}}錄{{二}}小過{{一}}、
大美者︀不{{レ}}疵{{二}}細琲{{一}}、不{{レ}}抅{{二}}小嫌{{一}}可{{レ}}被{{二}}採用{{一}}歟。宜{{レ}}在{{二}}上宣{{一}}。
顯孝
嘉延之判
初陳・再陳之旨趣、旣是燦然。斯展{{二}}翰林之勘文{{一}}、熟誦{{二}}音賢之詩詞{{一}}、今屬{{二}}佳節︀{{一}}、殊有{{二}}
其寄實{{一}}。可{{レ}}謂{{二}}義善之號{{一}}候。 齊信
嘉德 初難︀{{nop}}
{{仮題|頁=54}}
嘉德號、後漢︀嘉德殿不快之事不{{レ}}一、因{{レ}}之高祖︀父已來屢申{{二}}難︀言{{一}}、且德字先々因{{レ}}有{{二}}被
{{レ}}仰之旨{{一}}、前賢後哲多述{{二}}所存{{一}}、實有{{二}}其謂{{一}}。旁可{{レ}}被{{レ}}閣{{二}}此號{{一}}歟。
基豐
嘉德 初陳
嘉德號、嘉德殿火災之事、强不{{レ}}可{{レ}}抅{{二}}年號之旨{{一}}、難︀陳事舊訖。且德字雖{{レ}}有{{二}}二代法言{{一}}、
厥後每度被{{二}}擧用{{一}}之上者︀、無{{二}}仔細{{一}}乎。近至{{二}}正德{{一}}有{{二}}數號{{一}}、況引文疊字、而字義殊勝。
尙書曰、予嘉{{二}}乃德{{一}}、曰篤不{{レ}}忘。被{{二}}採用{{一}}有{{二}}何難︀{{一}}哉。 實堅
嘉德 重難︀
嘉德號、陳答之趣頗被{{レ}}盡{{二}}其理{{一}}之上者︀、不{{レ}}能{{二}}淺慮之難︀{{一}}、疊字最雖{{レ}}可{{レ}}崇、旣先賢火災
妖孽之難︀不{{レ}}少。殊德之字舊難︀、更不{{レ}}及{{レ}}吐{{二}}僻言{{一}}。況上下其以爲{{二}}難︀字{{一}}乎。又引文諸︀
候之儀也。雖{{レ}}非{{レ}}無{{二}}先蹤{{一}}、旁不{{二}}庶幾{{一}}候。 顯孝
嘉德 重陳
嘉德號、權中納言源朝臣被{{二}}難︀申{{一}}旨趣、雖{{レ}}有{{二}}其謂{{一}}、異朝不快號用{{二}}我朝{{一}}度々例也。却
吉例多候。德字雖{{レ}}有{{二}}舊難︀{{一}}、皇太后宮大夫藤原朝臣如{{二}}陳答{{一}}、數度被{{レ}}用之上者︀、可{{レ}}無{{二}}
巨難︀{{一}}哉。且此二字就{{レ}}中神︀妙之間、古來不{{レ}}棄{{レ}}之選進、可{{レ}}爲{{二}}此號之規矩{{一}}哉。殊本文
疊字先哲所{{レ}}執也。又按{{二}}史記{{一}}曰、長承{{二}}聖治{{一}}、群臣嘉德、實可{{レ}}謂{{二}}美號{{一}}、被{{二}}擧用{{一}}可{{レ}}然歟。
光成
嘉德 三陳
嘉德號之論難︀、其說各有{{レ}}理。雖{{レ}}然如{{二}}引文{{一}}、上下嘉德而民和、則何禍︀災之憂。史記
曰、妖不{{レ}}勝{{レ}}德遂修{{レ}}德有{{レ}}成。且選{{二}}元號{{一}}用{{二}}疊字{{一}}爲{{レ}}善。此號最可矣。宜{{レ}}在{{二}}上宣{{一}}。
資善
萬和 難︀
萬和號、萬字先賢多難︀{{レ}}之。且此號出久矣。而不{{レ}}被{{二}}登庸{{一}}。竊意有{{二}}其故{{一}}歟。旁以不{{二}}庶
幾{{一}}候。 實揖
萬和 陳{{nop}}
{{仮題|頁=55}}
萬和之號、被{{レ}}難︀之旨雖{{レ}}有{{二}}其謂{{一}}、萬和之二字出{{二}}文選文{{一}}、符{{二}}合子聖代{{一}}。五行大義曰、陰
〔{{仮題|分注=1|陽字|脫カ}}〕欲{{レ}}化、萬物和合也。然秋來地屡動、是陰陽不{{レ}}和也。當時四海︀昇平、萬邦仰{{二}}皇
化{{一}}者︀、萬和號協{{レ}}吉、被{{二}}採用{{一}}可{{レ}}然候歟。 家厚
嘉享 難︀
嘉享號、考{{二}}所{{レ}}引文{{一}}、晉家受{{レ}}命、明堂降{{レ}}神︀歌也。於{{二}}卽位紀元之號{{一}}者︀、最爲{{レ}}宜。今因{{二}}
變異{{一}}而改{{レ}}元。取{{二}}他號之宜者︀{{一}}、以可{{レ}}有{{二}}擧用{{一}}歟。 資善
嘉享 陳
嘉享之號、難︀言之趣、細論{{レ}}之、則雖{{レ}}如{{レ}}可{{レ}}然。豈唯可{{レ}}泥{{二}}受命之初{{一}}乎。本文之中、克昌{{二}}
厥後{{一}}一句、本{{下}}周頌讚{{二}}美文王{{一}}之詞{{上}}、續{{レ}}之以{{二}}保祚無彊之句{{一}}。如{{レ}}此之歌、每唱{{二}}詠之{{一}}、
以祈︀{{二}}皇祚之悠久{{一}}者︀、臣庶之常情也。且近者︀天明改元、被{{レ}}用{{二}}寬政{{一}}。其引文非{{レ}}關{{二}}炎
上之事{{一}}。今復本文雖{{レ}}不{{レ}}因{{二}}變異之故{{一}}、被{{二}}登用{{一}}不{{レ}}可{{レ}}有{{二}}巨難︀{{一}}候<sup>波牟。</sup>
具集
安延 難︀
安延號、此文之起、文王病事也。尤可{{レ}}被{{レ}}憚哉。文應度旣有{{二}}其沙汰{{一}}之由、<sup>經光</sup>記置候。
加{{レ}}之、<sup>家父</sup>申{{二}}所存{{一}}候間、旁難︀{{二}}採用{{一}}候。 光成
安延 陳
安延之難︀、頗有{{二}}其謂{{一}}。雖{{レ}}然尙書註曰、以{{レ}}道惟安寧、王之德謀欲{{二}}延久{{一}}、以{{レ}}之考{{レ}}之、不{{三}}
亦爲{{二}}佳號{{一}}乎。宜{{レ}}任{{二}}群議{{一}}。 實揖
安延 重難︀
安延之號、權中納言藤原朝臣被{{二}}陳申{{一}}之旨、雖{{レ}}有{{二}}其理{{一}}、聊此申{{二}}別難︀{{一}}。抑經典歷史其本
文不{{レ}}爲{{レ}}不{{レ}}少。而此引文僅用{{二}}正義{{一}}。若不{{レ}}滿{{二}}人意{{一}}歟。又延字在{{レ}}下近例、寬延之末有{{二}}
地動之事{{一}}。於{{二}}斯度{{一}}先可{{レ}}被{{レ}}避{{レ}}之乎。 具集
安延之判、
安延之號、兩難︀能述{{二}}其意{{一}}。此外猶有{{二}}可{{レ}}議之事{{一}}。宜{{レ}}被{{レ}}論{{二}}選他號{{一}}。
齊信{{nop}}
{{仮題|頁=56}}
天保 難︀
天保雖{{二}}佳號{{一}}、與{{二}}天方艱難︀之天方{{一}}、音響︀相近、如何候<sup>波牟。</sup> 家厚
天保 陳
被{{レ}}難︀之趣雖{{レ}}有{{二}}其謂{{一}}、字音相近者︀、於{{二}}年號{{一}}强不{{レ}}及{{二}}其沙汰{{一}}之旨、先輩<sup>茂</sup>申候歟。況音
訓共優美之由執申人々<sup>茂</sup>有{{レ}}之候。天保二字、遠則天曆・康保、近則天和・享保、爲{{二}}聖代
之嘉蹤{{一}}。且書曰、天廸格保。是周公旦述{{下}}皇天眷{{二}}顧成陽{{一}}至{{上}}於{{二}}{{仮題|入力者注=[#底本では直前に返り点「二」なし]}}保安{{一}}之詞也。又曰、天
壽平格、保又有{{レ}}殷。文公且稱{{二}}殷代{{一}}、國安而民治之謂也。皇天之保古愈灼、國家之禎︀祥︀
更臻。宜{{レ}}被{{二}}登用{{一}}哉 永雅
天保 二陳
保天號。陳答其理最當矣。天淸{{仮題|編注=2|陽|恐陰字}}萬物之主宰也、保養也。以{{二}}天德{{一}}保{{二}}養萬物{{一}}、則詩所
{{レ}}謂符{{二}}天保定爾之意{{一}}、實美號之淸選者︀乎。 實堅
天保之判
天保取{{二}}仲虺之誥之文{{一}}以立{{二}}元號{{一}}。彼篇王者︀敬{{レ}}天安{{レ}}命之道至矣盡矣。聖經之要言、
明主願可{{レ}}被{{二}}採用{{一}}也。然則以{{二}}嘉延・天保之兩號{{一}}令{{二}}奏聞{{一}}候<sup>波牟。</sup> 齊信
詔書
詔、感{{二}}禎︀祥︀{{一}}而建{{レ}}號、前史之所{{レ}}記。因{{二}}變異{{一}}而改元、後王之所{{レ}}則。朕謬以{{二}}菲薄{{一}}、曾爲{{二}}
元首{{一}}、恭守{{二}}三器︀{{一}}、謹︀御{{二}}四海︀{{一}}。雖{{レ}}盡{{二}}夕惕乾々之心{{一}}、雖{{レ}}致{{二}}鷄鳴華々之思{{一}}、政令不{{レ}}節︀乎、
敎化不{{レ}}行乎、此歲東西或殃、累{{レ}}時民庶難︀{{レ}}穩。何圖{{二}}宗廟{{一}}有{{レ}}事、人火延及。京師吿{{レ}}變、
地震非{{レ}}輕。宮闈彌懷{{二}}危懼{{一}}、上下益加{{二}}驚愕{{一}}。朕之不逮、何以是裁。今會{{二}}廷臣{{一}}、與{{レ}}衆同
議、年擇{{二}}嘉號{{一}}、新發{{二}}恩令{{一}}。其改{{二}}文政十三年{{一}}、爲{{二}}天保元年{{一}}。大{{二}}赦天下{{一}}。今日昧爽以
前、大辟以下、罪無{{二}}輕重{{一}}、已發覺・未發覺・已結正・未結正、咸皆赦除。但犯{{二}}八虐{{一}}、故殺︀・
謀殺︀・私鑄錢・强竊二盜、常赦所{{レ}}不{{レ}}免︀者︀、不{{レ}}在{{二}}此限{{一}}。又復{{二}}天下今年半徭{{一}}。老人及僧︀
尼年百歲以上、給{{二}}穀︀四斛{{一}}。{{仮題|入力者注=[#底本では直前に返り点「一」なし]}}九十以上三斛。八十以上二斛。七十以上一斛。今也玄陰
將{{レ}}謝{{レ}}蹤、靑陽且布{{レ}}和。庶乘{{二}}此時令{{一}}、宜與{{レ}}物更始。普吿{{二}}遠近{{一}}、俾{{レ}}知{{二}}朕意{{一}}。主者︀施行。
{{nop}}
{{仮題|頁=57}}
天保元年十二月十日
二品行中務卿<sup>臣</sup>詔仁親王 宣
從四位上行中務大輔<sup>臣</sup>卜部朝臣行學奉、
正四位下行中務少輔<sup>臣</sup>卜部朝臣久雄行、
{{仮題|投錨=奧書|見出=傍|節=u-3-4-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}
{{left/s|3em}}
年號勘文一本、借{{二}}京師友人{{一}}、而忽卒寫取畢。且黃昏窗闇不{{レ}}能{{レ}}無{{二}}魯魚{{一}}者︀也。
別有{{二}}宣下恩赦之次第之一本{{一}}。入{{レ}}夜因{{二}}使者︀到{{一}}、返{{レ}}之訖。凡斯條之次第旣具{{二}}
諸︀書{{一}}。故返與亦無{{二}}遣恨{{一}}者︀歟。
天保二年卯三月 源長涉(花押)
{{left/e}}
{{left/s|1em}}
上卿 二條左大臣齊信公
桑原式部大輔爲顯卿
勘者︀ 高辻式部權大輔以長卿
高橋少納言 在久卿
一會傳奏 德大寺皇太后宮大夫實方卿
奉行 柳原頭右中辨隆︀光朝臣
二品行中務卿臣韶仁親王<sup> 有栖川宮</sup>
從四位上行中務大輔<sup>臣</sup>卜部朝臣行學卿<sup> 藤井</sup>
正四位下行中務少輔<sup>臣</sup>卜部朝臣久雄卿
{{left/e}}
{{仮題|頁=58}}
{{仮題|投錨=地震日記|見出=中|節=u-3-5|副題=(文政十三年)|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}
{{left/s|3em}}
地震日記 {{仮題|行内塊=1|渉云、此記可{{レ}}謂{{二}}審具{{一}}。然不{{レ}}書{{二}}九天重闕及二條|城壘之頽仆{{一}}者︀、恐{{レ}}觸{{二}}忌諱{{一}}也。記者︀深慮可{{レ}}想矣。}}
連日地震、國典所{{レ}}記皆爲{{二}}詳悉{{一}}。而爾來諸︀書所{{レ}}記槪多{{二}}疎漏{{一}}、爲{{レ}}可{{レ}}憾耳。去
年大震、予親載在{{二}}左記{{一}}。今更刪{{二}}其繁{{一}}、作{{二}}地震日地{{一}}。 梅︀川重高記<sup>洛人</sup>
{{left/e}}
文政十三年秋七月{{仮題|添文=1|丁巳|二日}}、申下刻、地大震。從{{二}}西北{{一}}來其響︀如{{レ}}雷。自{{レ}}申迄{{レ}}卯十八度、
官舍・民屋破壞頽仆、或有{{二}}壓死{{仮題|編注=1|日|者︀カ}}{{一}}。{{仮題|添文=1|戊午|三日}}辰刻、大震二度。至{{レ}}夜六度。至{{レ}}旦四五度。
自{{二}}己未{{一}}至{{二}}庚酉{{一}}凡每時震、或微或甚。{{仮題|添文=1|壬戌|七日}}五度。{{仮題|添文=1|癸亥|八日}}、午刻・未刻・子刻各一度。寅刻
大震一度、中震一度。{{仮題|添文=1|丙寅|十一日}}夜四度。初一度甚、此時亦所々破損。六月下浣以來至{{二}}今
日{{一}}初雨。 {{仮題|添文=1|庚午|十五日}}亥半刻一度。 {{仮題|添文=1|辛未|十六日}}申刻一度。{{仮題|添文=1|壬酉|十八日}}暴雨。{{仮題|添文=1|甲戌|十九日}}暴雨洪水、音羽︀川崩
溢。酉半刻大震。乙卯半刻强震、雨未{{レ}}止此日淸水寺廊︀庶顚倒。{{仮題|分注=1|七間二尺|五寸。}}{{仮題|添文=1|丁丑|二十二日}}未刻一度。
{{仮題|添文=1|庚辰|二十五日}}三度。 癸未夜大雨大雷。時々地震。{{仮題|添文=1|乙酉|三十日}}暮時一度。
八月戊{{仮題|編注=1|日|三日子カ}}夜微震六度。後大震一度。{{仮題|添文=1|己丑|四日}}寅刻・午刻各一度。申刻三度。{{仮題|添文=1|庚寅|五日}}暮一
度。{{仮題|添文=1|辛卯|六日}}丑時强震一度。亦微。{{仮題|添文=1|癸巳|八日}}旦二度。午時・申時各〻一度。小動二。戌半
刻一度。{{仮題|添文=1|乙未|十日}}夜二度。{{仮題|添文=1|戊戌|十三日}}巳時震雷聲。{{仮題|添文=1|已亥|十四日}}丑時震。
九月朔丙辰寅時一度、今日三度。{{仮題|添文=1|壬戌|七日}}丑刻一度。{{仮題|添文=1|丙寅|十一日}}戌刻一度。{{仮題|添文=1|戊辰|十三日}}夜二度。
{{仮題|添文=1|己巳|十四日}}三度、夜一度。{{仮題|添文=1|壬申|十七日}}々剋一度、戌刻二度。{{仮題|添文=1|庚辰|廿五日}}四度。或小、或大。{{仮題|添文=1|辛巳|廿六日}}深霧、
辰刻三度、巳刻二度、各〻號。
冬十月辛丑二度、夜自{{レ}}酉至{{レ}}戌三度、後亦二度。
十一月{{仮題|添文=1|庚申|六日}}戌下刻大震、後小動三度、亥上刻一度、後至{{レ}}旦三度。{{仮題|添文=1|庚辰|廿六日}}夜五度。昨
今雪降。
十二月{{仮題|添文=1|戊子|四日}}曉一度。{{仮題|添文=1|甲午|十日}}詔書改文政{{二}}十三年{{一}}爲{{二}}天保元年{{一}}、依{{二}}地震{{一}}也。{{仮題|添文=1|壬子|廿六日}}酉時强
震一度、至旦四度。 {{仮題|添文=1|癸丑|廿九日}}午刻强震一度。
{{nop}}
{{仮題|頁=59}}
{{仮題|投錨=本朝地震記|見出=中|節=u-3-6|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊2|錨}}
本朝地震記
此書は始めに地震の諸︀說を擧げ、次に神︀武天皇より以來文政迄、凡二千五百年餘の
間大地震の年月を記し、且文政寅年七月の地震の始末を記したれば、後世に殘し置
きて子孫の心得にもなるべき書なり。
{{left/s|1em}}
葉月の始め庵の柱に寄りて、寶曆の古へのなゐ、其名殘も{{仮題|編注=1|とか|十日カ}}まりときけば、今
たび如何にや如何にと、我も人もおぢ恐れしに、僅三十日まりにて、やう{{く}}に
穩かなりしは、げに四方の海︀波豐けき大御代の御いさを高くもあるかなと、獨言
いふ折、柴の戶押して客の來入り、其一言を此卷の始めに書てよといふ。いとも
あいなきたゞごとにしてあれど、是がまに{{く}}筆とるものは、
洛下隱士何がし誌
{{left/e}}
本朝地震記 平安城 豊時成編
夫地といふ文字、往昔は塞に作る。これ會意なり。史記・漢︀書に、墜に作る。震は動
なり、亦怒なりとも謂へり。天は動く、四時を爲し、地は靜にして萬物を養ふ。然
りと雖、天は左に廻り、地はまた右に旋りて止まず。例へば人船中に在りて窓を閉
ぢて坐すれば、其船の自ら行くを知らざるが如し。此故に天も動き、地も亦循環し
て、{{r|徐々|そろ{{く}}}}動く者︀也といへり。但し地の體は北を陽とし、南を陰とす。山嶽多くは北
にあり。天の體は南を陽とし北を陰とす。故に日輪は南に{{r|行|め}}ぐる。是天地圓渾相
連りし圓なり。されば古語にも、地一尺減ずれば則一尺の天を生ず。本來面目無
し、南北何れの所にかあらん。猶鷄卵の黃なるが如く、其形まんまるが故に、是を
地球といふ。其周り大方は皆九萬里といへり。又諺に、「六海︀三山一平地」といへり。
是海︀は十分の六分、山は十分の三分、地は十分の一分、是故に塞をもつて地の字と
するは、其あひたる意なり。されば地震するものは、陽氣陰の下に伏して、陰氣に
迫り昇る事能はず、是に於て地裂動き震するに至る。これ陽氣其所を失うて、陰氣
塡がるゝが故なり。亦地中に蜂の巢の如き穴あり。然して後水くゞり、陽氣常に出
入す。陰陽是にて相和し其宜しきを得るを常とす。若し陽氣滯りて出る事能はず、
歲月を積重るに隨ひ、地膨れ、水くゞる故に、井戶涸れ時候殊の外溫きなり。之を譬
{{仮題|頁=60}}
へば、餅を炙るに火の爲に張れ起るが如し。爲に地震ふときは、蒼天も低くなり、衆
星も大さ常に倍すと云へり。これ地昇り天降るにあらず、雨降らんとするときは、
山を見るに甚だ近く見ゆるが如し。陽氣陰を伏し、地を裂きて天に發出するが故
に、地中震動す。是れ則ち地震なり。其始め震ふ者︀甚だ猛烈なり。是れ地中陽氣一
塊に發するの證なり。また次に震ふものは緩かなり、先の陽氣地中に殘れるが少
しづつ發出の所以なり。されば一天中の世界なれ共、中華に震ひて本朝に動かず。
日本震ひて唐土また動かず。一國中に限り他國に出でず。或は江戶靜にして、浪速
に震ひ、大坂豊にして、京都︀動く。是地中の陽にて地膨るゝと膨れざるとの故なり。
地中に起りし陽氣、其所より發せんとする故に、甚だしきものは地裂け、山崩るゝ事
之あり。一村にありても、其あたりの多少あるは、是亦地の堅きと堅からざるとの
故なり。凡そ初て大に地震する時は、海︀汀に沼涌上り、津浪山の如く泝る。奧州の
洪水、遠州今切など是なり。又大地震の後、月を重ねて震ひ止まざるは、未だ陽氣
の出盡さゞる故なり。其甚しきものは、山燒出るといへり。されば我朝昔よりの地
震を考ふるに、人皇の始め神︀武天皇より三百九十餘歲を經て、孝靈帝五年乙亥の年、
近江國地一夜に裂けて、湖となり、同時に駿河國富士山一夜の間に涌出し、豆・相・甲・
武の四州震動すること夥しと雖も、富士も琵琶湖も神︀代よりある事は、已に赤人が
歌、其外萬葉集中の歌に詠めり。夫より六百六十餘歲を經て、人皇廿代允恭帝五年
丙辰七月廿四日地震して、宮殿・舍屋を破る。其後百九十餘年を經て、三十九代推古
帝七年乙未四月廿七日、地大に震ふ。後七十餘年、同四十代天武帝白鳳四年乙亥十
一月十日地震。同十三年戊寅十月四日、筑紫國地裂るゝ事三千丈餘。其幅三丈計り、
此時民屋夥しく壞れ、山嶽大に崩る。同十九年甲申十一月七日、山崩れ河涌きて、諸︀
國舍屋・寺塔破壞して、人民・六畜夥しく死す。此時伊豫國の溫泉破れて再び出でず。
土佐國の田畑五十餘萬壞れて蒼海︀となる。此夜東方に鼓の如き鳴聲あり。尤も震
動晝夜止まず。此時伊豆の島二つに割れて、西北に分かる。島山增し加ふる事三
百餘丈。さきに鼓の如き響︀は、神︀此島を造り給ふ動きならんといひ傳ふ。それより
廿二歲を經て、同四十二代文武帝慶雲四年丁未六月五日大地震。此時大空に、長さ
{{仮題|頁=61}}
八丈・橫三丈にて三面鬼の形の雲現はる。夫より三十四歲を經て、四十五代聖武帝
天平十六年甲申正月七日に地震、美濃殊に甚し。百十三歲の後、同五十五代文德帝
齊衡三年丙子三月八日、畿內地震して民屋を倒す。同五十七代の帝陽成帝元慶三年
己亥九月廿九日大地震。五年の後、同五十代光孝帝仁和三年丁未七月晦日の夜、大地
震して、星隕つるゝ事雨の如し。夫より五十年を經て、同六十一代朱雀帝天慶二年
己亥四月二日大地震。此時主上は殿を去り給ふ。淸凉殿の庭上に五疊の幄舍を建て
坐し給ふよし、平家物語に見えたり。夫より三十四年を經て、同六十四代圓融院貞
元々年丙子六月十八日大地震、古今未曾有の變異にて、二百餘日震ふ。夫より六十
五年を經て、六十九代後朱雀帝長久二年辛巳夏大地震、此時洛東岡崎法勝寺八角九
重の大塔倒る。後四十五年を經て、白河院永保三年に建つ。夫より百三十四年を經
て、同八十代高倉帝安元二年丙申四月八日地震、其音雷の如し。四年を經て治承三
年己亥十一月七日にも地震。夫より九年、同八十二代後鳥羽︀院文治元年己巳七月
九日午の時大地震。其時白河六勝寺倒る、八角の塔は上六重は振り落す。三十三
間堂十七間の間倒る。皇居を始め、在々神︀社︀・佛閣・民屋の壞づる音、恰も雷の如く、
立昇る塵埃は黑烟の如く天を蔽うて、日影を見る事能はず、山崩れ川を埋み、海︀を
たゞよひ、濱にひたし、大地は稻妻の如く裂けて、水涌出で、磐石割れて谷に轉び、人
民・六畜死する事數を知らず。此時白河法皇は熊野へ御幸あつて御花參らせ給ふ折
柄にて、觸穢出來にけりと、急ぎ御與に召され、辛じて都︀六條殿に還幸なり、南庭に
假殿を設けて御座とし給ふ。主上は實興に御して池の汀に御幸なる。夫より九年を
經て、建久五年甲寅閏八月廿七日地震。又六十一歲を經て、同八十八代後深草正嘉
元年丁巳、鶴︀ケ岡八幡宮震動。七月廿三日大地震。夫より七十四歲を經て、同九十
一代伏見帝永仁元年癸巳歲四月廿三日大地震、壓死する者︀三萬餘人。三十一年の
後、九十九代後醍醐帝正中元年甲子十一月十五日大地震。此時江州竹生島半分破
れて湖中へ沒す。五十七年經て、一百代後圓融帝、南朝永和二年丙辰四月廿五日、
地震して民屋を倒す事あり。其後二十年を經て、百一代後小松帝應永九年八月・十
三年正月・同十四年二月・同十七年庚寅正月廿一日、已上四ケ度大地震。此時天地
{{仮題|頁=62}}
ともに鳴響︀す。夫より廿一年を經て、百三代後花園帝永享四年四月十一日・同九月
十六日地震あり。此時は尤甚し。夫より十七年を經て、文安五年戊辰地震。此年
洪水・流行病、猶又飢饉にて、古今の凶年なり。夫より十五年を經て、康正元年乙亥
十二月晦日地震大なり。夫より十一年の後、百四代後土御門帝文正元年丙戌十二
月廿九日大地震。翌年應仁の大亂起る。夫より廿三年を經て、明應二年甲寅五月
七日地震。同四年乙卯八月鎌倉大地震。又十四年の後、百五代後柏原帝永正七年
庚午八月七日の夜大地震。其後七十五日打續き震動して猶止まず。
{{仮題|分注=1|〔頭書〕此時堂社︀・佛院・樓閣・民屋顚倒すること其員を知らず。}}攝州天王寺石華表・石垣壞る、山々崩るゝ事夥し。同月廿七日遠州の海︀濱
洪濤打來り、數千の在家・土地共に海︀に流れ、死する者︀一萬餘人、陸地三十餘町海︀とな
る。是より今切と名附くと應仁記に見えたり。夫より三十七年を經て、百六代後奈
良帝天文二年丙辰二月十三日夜地震、此時星隕ちて海︀に沈むと云ふ。同十三年地震。
夫より廿八年を經て、百七代正親町帝天正十三年乙酉十一月廿九日大地震。夫より
九年を經て、百八代後陽成帝文祿四年乙未七月三日、午時より天遽かに曇り、飈頻︀
りに吹き、毛の雨を降す事夥し。同月十二日夜山城・大和・近江・丹波・河內・攝津夥し
く地震す。伏見桃山城も所々破壞す。其外寺社︀・民屋・山嶽の崩るゝ音宛も百千の雷
の如し。此時洛東大佛壞る。夫より三十五年を經て、百十代後水尾帝明正七年庚午
正月七日、相州小田原大地震。又十七年經て、後光明帝慶安元年戊子四月廿二日大
地震。同二年江戶大地震。夫より十一年經て、百十二代後西院帝寬文二年壬寅五月
朔日地震して、東山豐國の廟壞る。夫より廿二年を經て、百十三代靈元帝天和三年
癸亥四月五日、下野日光山、同時江戶大地震あり。同十月大隅國地震して海︀陸とな
る。夫より廿年を經て、百十四代東山帝元祿十六年癸未十一月廿三日關東大地震。
以後二百餘日震ふと云へり。夫より三年を經て、寶永四年丁亥六月十八日、下野猿
が股の土手大地に入る事數十丈。同年十月四日大坂大地震、壓死山をなすといふ。
此時、紀州・三州・勢州・津々浦々靑き沼涌上り、津浪起りて、死する者︀萬を以て算ふ。
同月廿二日富士山震動して、近國灰降る。夫より十八年を經て、百十五代中御門院
享保十七年九月廿六日、肥前長崎晝夜八十餘度震ふ。同十一年丙午三月十九日夜、
{{仮題|頁=63}}
越前勝山辨慶ヶ嶽震ひ、凡十八間四方岩石二つ、二里八町の間飛んで大河を堰留め、
洪水溢れ、人民牛馬死する事數を知らず。其時彼麓の二ケ村三百餘軒沼の池となる。
廿五年の後、百十七代桃園帝寶曆元年辛未二月廿九日京都︀大地震、破壞殊に夥しく、
其後七月迄震ふといふ。同四月廿五日越後國高田地震、西の刻より丑の刻迄三十餘
度震ふ、山嶽・人屋崩れて死する者︀一萬六千餘人。同六年大坂梅︀田墓所寶永四年に死
したる者︀の五十年忌、諸︀宗より萬燈供養あり。廿一年の後、百八十代後櫻町帝明和三
年丙戌正月廿八日、奧州津輕靑森邊、大地震にて津浪あり、人民死する者︀數を知らず。
近くは文化元年甲子三月、羽︀州秋田大地震、象潟山崩れ死亡多し。又文政五年壬午
六月十二日、京都︀地震、此時江州八幡在殊に嚴しきよし。同十一年子十一月十一一日、
朝五つ時、越後國三條見附、長岡・與板・和木野町等、十里計り四方大地震、其時出火あ
りて橫死の者︀三萬餘人、牛馬六千計り、神︀社︀・佛閣・大厦・民家の破壞其數算ふべから
ずといふ。凡往昔よりの地震猶は諸︀國に有るべけれ共、只書典に載せたるのみを記
す。日時若し違ひあらば幸に之を許せ。扨も今年文政十三年庚寅七月二日、朝より一
天晴︀にあらず曇るにあらず、俗にあぶら照といへるけしきにて、蒸炎昨日に增さり、
凌ぎ難︀かりしが、漸くに七つ頃となれば、軈て暑︀氣も少しは去るべきなりと思ひ居
たる折から、雷聲の如き他々と響︀くと等しく、夥しく地震出す。是は如何にと、衆人
驚く間もなく、引續きたる大地震、見る{{く}}家藏の震動する事、宛も浪の打來るが如
く、其上土藏・高塀、或は石燈籠、又器︀物・道具の崩破る音、千萬の雷頭上に落掛かる
が如く、往來の人は大道に蹲り、家に有る者︀疊にひれ伏し、今や棟梁の爲に壓死する
かと膽を消し、人々生きたる心地なかりしが、甚しく震ふ事引續き三度、稍暫くして
少し穩かになりしかば、家每に疊を大道へ投出し、互に引連ね我一にこれに逃出し、
誰云合ふとなく、須臾の間に洛中・洛外町々家裡に殘る者︀稀にして、老若男女・貴賤尊
卑の差別なく、皆々大道に膝を連ねしは、寶曆の昔はいざ知らず、八十年來珍らしき
事なりけり。{{仮題|分注=1|頻︀聚國史光孝天皇元慶三年八月五日地震の條に曰く、此夜|大地震、京師人民出{{レ}}自{{二}}盧舍{{一}}、居{{二}}于街路{{一}}と見えたり。}}扨京都︀の人家或は倒れ、
又柱歪み、天井落ち、或は竈の壞れたる尤も多く、土藏は殊更にあたり烈しくして、
矢庭に震崩したる多く、其外四壁落ち大輪碎けて是が爲怪我人數多あり。凡京中
{{仮題|頁=64}}
の土藏に、一ケ所として滿足なるはなく、されども誰か是を補はんといふ者︀なく、
取除んと思ふ者︀もなくて、只大道にひれ伏し、神︀佛名號を唱ふ。適、主家又は近邊の
緣家の安否を訪ふ者︀、皆陣笠・胸當にて奔走す。地震は初の如くにあらざれども、只
{{r|虺|くわい}}々と鳴つて震ふ事須臾に數ケ度、凡翌三日朝迄に百廿餘ケ度震ふといへり。され
ば此夜は家々の馬提燈を燈して、大道に夜を明かす。かくて三日の朝は、雲晴︀れ渡
り日光明かなれば、流石大道の住居も見苦しとて、銘々家裡に入つて、漸く僅かに其
破壞を繕ふ。此日地震ふ事猶止まず。凡一時に七八度より十ケ度づつに及ぶ。此夕
も七つ時より、同じく今宵も大道に夜を明かさんと、疊を連ね屛風を引き、上には雨
覆をなし、町幅狹き所には、向ひより互に繩を張り、竹を渡し、上には筵又は合羽︀等
を引覆ひ、皆々前夜の如く夜を守る。又恐怖の甚しきは、市中に居るは{{r|危|あぶな}}しとて、
東山の野邊・或は鴨河原・西の野へ席を構へ、食器︀を運び出して難︀を避くる人も夥し。
此夜曉かた僅に雨降ると雖、朝に至て晴︀る。地震ふ事少し、穩なりと雖、一時に六
七度に及ぶ。此夜も猶大道に出ると雖、夜氣感冐せん事を恐れて、前夜の如くには
あらず。然れ共皆々端近に圍繞して、{{r|嚴|きび}}しからんには、大道に逃げ出でん用意なり。
是より日々震ふ事數少く、十四五日頃には一晝夜十五六度・廿度に及ぶ。扨京都︀の
人家大小共破損せざるなければ、急に其修理をなさんとすれども、大工・左官は固よ
り、手傳人夫に至る迄、迚も家々に充つる事難︀ければ、數度呼出しに及べども、容易
に出來らず、適〻來ると雖、一日來れば二日來らず、二日かゝれば五日休むが故、修理
も全からず、漸〻竹・材木をもて假に突︀張し、或は繩もてつなぎ置くもあり、又は一向
に人夫も來らざるは、止む事を得ず其儘になし置くも多し。是等は元來始めは滿
足と見えて、人に誇り顏にいひたる藏抔、連日の震ひに追々破損し、思ひもよらず
一時に崩れて、其響︀近鄰を騷がす。其後十七・十八日兩日大雨ありしに、雨濕通りて、
又も土藏頽れ傾き、或は殘りたる大輪落るも多し。故に人心何となく恐怖止まず、
日夜安き心もあらずして、只安全をのみ願ひしに、元より泰平の大御代、殊更公に
も諸︀社︀・諸︀山に御祈︀を命じ給ふよし、因りて七月の末つ方には、稍震ひの數も減じ、今
八月初旬には一晝夜僅に五六度となりしは、最も有難︀き聖代と、萬民擧つて喜びを
{{仮題|頁=65}}
なし侍る。あなかしこ。
{{left/s|1em}}
此一帖は、些も世の弄びの爲め記すに非ず。遠國邊境にては、樣々に風評なすが
故、京都︀に緣者︀又は知己ある人々は、日夜安心をなさゞる由を聞けり。因りて其
のあらましを記し、猶遠境の人をして安からしめん事を願ふのみ。
{{left/e}}
{{仮題|ここまで=浮世の有様/2/分冊2}}
{{仮題|ここから=浮世の有様/2/分冊3}}
{{仮題|頁=65}}
{{仮題|投錨=寶曆十一年大坂町人金仰附けらるゝ事|見出=中|節=u-3-7|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}
○寶曆十一辛巳年十二月十六日、大坂町人中へ御用金被{{二}}仰付{{一}}候之寫。
御役人
{{left/s|7em}}
{{仮題|字上数=7|箇条=十人御目附 }}{{Interval|margin-right=1em|array=三枝帶刀樣 御勘定組頭吟味 小野左太夫樣}}
{{仮題|字上数=7|箇条=書留役 }}{{Interval|margin-right=1em|array=向山源太夫樣 倉橋與四郞樣}}
{{仮題|字上数=7|箇条=御勘定 }}{{Interval|margin-right=1em|array=宮川小十郞樣 富見源三郞樣 渡邊伊兵衞樣}}
{{仮題|字上数=7|箇条=御徒目附 }}{{Interval|margin-right=1em|array=豐田藤五郞樣 淸水又八樣}}
{{仮題|字上数=7|箇条=普請方 }}{{Interval|margin-right=1em|array=中村丈右衞門樣 菊池惣內樣 保田定一郞樣 仁木鄕助樣}}
{{仮題|字上数=7|箇条=御小人目附 }}{{Interval|margin-right=1em|array=淸水又市樣 平野作十郞樣 內山彌八樣 松川小八樣
平野西右衞門樣 小倉勇藏樣}}
{{仮題|字上数=7|箇条=西御町御奉行 }}{{Interval|margin-right=1em|array=奧津能登守樣}}
{{仮題|字上数=7|箇条=西御組與力 }}{{Interval|margin-right=1em|array=田坂直右衞門樣 吉田勝右衞門樣 安井新十郞樣}}
{{left/e}}
覺
一、金何程 何屋誰{{nop}}
{{仮題|頁=66}}
一、金何程 何屋誰
米相場之儀に付、其方共右御用金被{{二}}仰付{{一}}候旨、三枝帶刀、小野左太夫を以、御城代松
平周防守殿へ、江戶表ゟ被{{二}}仰越{{一}}候。依{{レ}}之此段可{{二}}申渡{{一}}旨、周防守殿被{{二}}仰聞{{一}}候。何れ
共身分に應じ御用被{{二}}仰付{{一}}候儀、誠以冥加之至に候條、難︀{{レ}}有奉{{レ}}畏、御請印形仕、來る
午正月十日切に、我等役宅へ可{{二}}持參仕{{一}}候。
巳十二月十六日
但半金當十二月廿六日納。今天保八酉迄七十七年に成也。
一、金五萬兩宛
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@{{仮題|添文=1|鴻池屋善右衞門|今橋二丁目}}@{{仮題|添文=1|鴻池屋松之助|和泉町}}@{{仮題|添文=1|平野屋五兵衞|今橋壹丁目}}@{{仮題|添文=1|三井八郞右衞門|高麗橋一丁目}}
@{{仮題|添文=1|加島屋喜齋 |玉水町| 改久右衞門}}@{{仮題|添文=1|鐵屋庄左衞門|瓦町一丁目}}@{{仮題|添文=1|布屋十三郞|內兩替町}}@{{仮題|添文=1|倉野治郞左衞門|新難︀波西之町}}
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一、金二萬五千兩宛
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一、金一萬五千兩宛
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一、金一萬兩宛
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@{{仮題|添文=1|鑰屋茂兵衞 |道修町一丁目}}@{{仮題|添文=1|內田屋惣兵衞|同町}}@{{仮題|添文=1|泉屋助右衞門|同町二丁目}}@{{仮題|添文=1|錢屋太兵衞|鹽町}}
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{{仮題|細目=1}}
覺
一、金何程 何屋誰
今度米相場之儀に付、御用之品有{{レ}}之候間、書面之金高可{{二}}差出{{一}}候。日限之儀者︀、廿八
日限に半金、殘り金來る午正月十五日限に候。尤金銀之內にて可{{二}}差出{{一}}候。何れ共
自分に應じ御用被{{二}}仰付{{一}}候儀、誠に以て冥加之至、難︀{{レ}}有可{{レ}}存候。以上。
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@{{仮題|添文=1|嶋屋市右衞門|北濱一丁目}}@{{仮題|添文=1|源江屋勘兵衞|平野町一丁目}}@{{仮題|添文=1|小西長左衞門|同町}}@{{仮題|添文=1|河內屋又兵衞|南渡邊町}}
@{{仮題|添文=1|長濱屋治右衞門|近江町}}@{{仮題|添文=1|苧屋喜兵衞|高麗橋三丁目}}@{{仮題|添文=1|袴屋善兵衞|道修町一丁目}}@{{仮題|添文=1|岩田屋喜兵衞|出口町}}
@{{仮題|添文=1|鹽屋茂兵衞|堂島{{?}}町}}@{{仮題|添文=1|鹽屋庄二郞|北濱二丁目}}@{{仮題|添文=1|板屋孫三郞|長堀十丁目}}@{{仮題|添文=1|平野屋嘉右衞門|四軒町}}
@{{仮題|添文=1|天王寺屋忠兵衞|上人町}}@{{仮題|添文=1|山家屋權兵衞|肥後島町}}@{{仮題|添文=1|金屋徳兵衞|順慶町一丁目}}@{{仮題|添文=1|鐵屋新六|播磨町}}
@{{仮題|添文=1|川崎屋武兵衞|吉野屋町}}@{{仮題|添文=1|高松屋惣右衞門|炭屋町}}@〆二十六人。
}}
{{left/e}}
一、金三千兩宛
{{仮題|頁=68}}
{{left/s|2em}}
{{Interval|width=10em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@{{仮題|添文=1|若林淸九郞|油町二丁目}}@{{仮題|添文=1|伏見屋吉右衞門|淡路町一丁目}}@{{仮題|添文=1|紅粉屋長兵衞|北濱二丁目}}@{{仮題|添文=1|一物仁右衞門|新靱町}}
@{{仮題|添文=1|近江屋藤八|北濱一丁目}}@{{仮題|添文=1|海︀部屋善治|平野町二丁目}}@{{仮題|添文=1|茨木屋安右衞門|同町}}@{{仮題|添文=1|樫木屋半右衞門|長濱町}}
@{{仮題|添文=1|古座屋次郞右衞門|新靱}}@{{仮題|添文=1|山城屋長兵衞|相生西之町}}@{{仮題|添文=1|河內屋仁左衞門|淡路町一丁目}}@{{仮題|添文=1|富田屋四郞五郞|北濱一丁目}}
@{{仮題|添文=1|千草屋惣十郞|梶木町}}@{{仮題|添文=1|海︀部屋淸三郞|高麗橋三丁目}}@{{仮題|添文=1|辰巳屋善右衞門|道修町三丁目}}@{{仮題|添文=1|太刀屋庄兵衞|瓦町一丁目}}
@{{仮題|添文=1|近江屋仁右衞門|瓦町一丁目}}@{{仮題|添文=1|近江屋八左衞門|同町}}@{{仮題|添文=1|近江屋與兵衞|瓦町二丁目}}@{{仮題|添文=1|虎屋喜兵衞|油掛町}}
@{{仮題|添文=1|泉屋源太郞|岡崎町}}@{{仮題|添文=1|森本屋吉右衞門|本天滿町}}@{{仮題|添文=1|升屋長右衞門|吳服町}}@{{仮題|添文=1|酢屋治右衞門|淡路町一丁目}}
@{{仮題|添文=1|河內屋茂兵衞|平野町一丁目}}@{{仮題|添文=1|米屋佐兵衞|齋藤町}}@{{仮題|添文=1|紙屋吉右衞門|今橋一丁目}}@{{仮題|添文=1|播磨屋五兵衞|島町二丁目}}
@{{仮題|添文=1|河內屋善六|宗是町}}@{{仮題|添文=1|大和屋加右衞門|淡路町二丁目}}@{{仮題|添文=1|天王寺屋杢兵衞|通書町}}@{{仮題|添文=1|平野屋又右衞門|今橋一丁目}}
@{{仮題|添文=1|油屋四郞兵衞|高麗橋三丁目}}@{{仮題|添文=1|油屋治兵衞|上人町}}@{{仮題|添文=1|油屋善兵衞|同町}}@{{仮題|添文=1|升屋治兵衞|通書町}}
@{{仮題|添文=1|助松屋新二郞|尼崎町二丁目}}@{{仮題|添文=1|肥前屋半兵衞|同町}}@{{仮題|添文=1|加賀屋七郞兵衞|伏見町}}@{{仮題|添文=1|鉛屋吉左衞門|備後町一丁目}}
@{{仮題|添文=1|伊勢屋兵右衞門|淡路町二丁目}}@{{仮題|添文=1|小西角兵衞|同町一丁目}}@{{仮題|添文=1|近江屋太右衞門|道修町二丁目}}@{{仮題|添文=1|近江屋喜兵衞|同町}}
@{{仮題|添文=1|天王寺屋伊右衞門|梶木町}}@{{仮題|添文=1|尼崎屋市右衞門|同町}}@{{仮題|添文=1|奈良屋藤兵衞|道修町一丁目}}@{{仮題|添文=1|小山屋吉兵衞|內平野町}}
@{{仮題|添文=1|加賀屋三郞兵衞|平野町一丁目}}@{{仮題|添文=1|伊勢屋久兵衞|京橋四丁目}}@{{仮題|添文=1|布屋六郞兵衞|內兩替町}}@{{仮題|添文=1|布屋三右衞門|安土町二丁目}}
@{{仮題|添文=1|傳法屋五左衞門|江戶堀三丁目}}@{{仮題|添文=1|山口屋伊兵衞|松本町}}@{{仮題|添文=1|山口屋庄兵衞|鹽町四丁目}}@{{仮題|添文=1|苧屋佐兵衞|高麗橋三丁目}}
@{{仮題|添文=1|綿屋吉兵衞|道仁町}}@{{仮題|添文=1|松屋利兵衞|石灰町}}@{{仮題|添文=1|小橋屋四郞兵衞|鹽町四丁目}}@{{仮題|添文=1|河內屋久左衞門|唐物町一丁目}}
@{{仮題|添文=1|奈良屋忠兵衞|北久太郞町三丁目}}@{{仮題|添文=1|平野屋平左衞門|白髮町}}@{{仮題|添文=1|平野屋市兵衞|同町}}@{{仮題|添文=1|平野屋吉兵衞|中津町}}
@{{仮題|添文=1|錢屋彌三右衞門|鹽町二丁目}}@{{仮題|添文=1|平野屋三右衞門|禰宜町}}@{{仮題|添文=1|布屋嘉兵衞|本町二丁目}}@{{仮題|添文=1|山城屋三郞兵衞|順慶町四丁目}}
@{{仮題|添文=1|龜屋仁兵衞|同町}}@{{仮題|添文=1|阿波屋吉兵衞|中筋町}}@{{仮題|添文=1|河內屋吉右衞門|南瓦町二丁目}}@{{仮題|添文=1|綿屋伊兵衞|高津町}}
@{{仮題|添文=1|辰巳屋仁兵衞|新難︀波東之町}}@{{仮題|添文=1|辰巳屋喜兵衞|同町}}@{{仮題|添文=1|釜屋庄助|釜屋町}}@{{仮題|添文=1|和泉屋利助|茂左衞門町}}
@{{仮題|添文=1|近江屋助左衞門|堂島三丁目}}@{{仮題|添文=1|升屋茂兵衞|同町}}@{{仮題|添文=1|吉文字屋利衞門|堂島五丁目}}@{{仮題|添文=1|伏見屋三右衞門|船大工町}}
@{{仮題|添文=1|俵屋吉兵衞|樋上町}}@{{仮題|添文=1|堺屋利兵衞|天滿船大工町}}@{{仮題|添文=1|鳥羽︀屋三郞兵衞|樋上町}}@{{仮題|添文=1|大塚︀屋市郞兵衞|船大工町}}
@{{仮題|添文=1|蓮屋善右衞門|天滿九丁目}}@{{仮題|添文=1|丸屋市兵衞|天滿西樽屋町}}@{{仮題|添文=1|綿屋三右衞門|又治郞町}}@{{仮題|添文=1|文字屋文四郞|長栖町}}
}}
{{nop}}
右之內三十人は御歸し被{{レ}}遊候。〆五十八人。
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
覺
一、金何程 何屋誰{{nop}}
{{仮題|頁=69}}
今度米相場之儀に付、御用之品有{{レ}}之候間、書面之金高可{{二}}差出{{一}}候。日限之儀は、來る
十六日限り、半金殘り金來る廿九日限りに候。尤金銀之內にて可{{二}}差出{{一}}候。何れ共
身分に應じ御用被{{二}}仰付{{一}}候儀、誠以て冥加之至、難︀{{レ}}有可{{レ}}存候。以上。
午正月四日
一、金五萬兩
{{left/s|2em}}
{{Interval|width=10em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@{{仮題|添文=1|米屋平右衞門|內平野町}}
}}
{{left/e}}
一、金一萬兩
{{left/s|2em}}
{{Interval|width=10em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@{{仮題|添文=1|炭屋五郞兵衞|瓦町一丁目}}
}}
{{left/e}}
一、金五千兩宛
{{left/s|2em}}
{{Interval|width=10em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@{{仮題|添文=1|和泉屋治郞衞門|平野町二丁目}}@{{仮題|添文=1|小橋屋利兵衞|鹽町四丁目}}@{{仮題|添文=1|油屋新助|備後町濱}}@{{仮題|添文=1|津國屋九兵衞|幸町一丁目}}
@{{仮題|添文=1|樋上町|鳥羽︀屋三郞兵衞}}@和泉屋甚吉@〆六人。
}}
{{nop}}
午正月五日被{{二}}仰付{{一}}候御書付、昨四日之通之日限。
{{left/e}}
一、金三千兩宛
{{left/s|2em}}
{{Interval|width=10em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@{{仮題|添文=1|鐵屋重右衞門|備後町一丁目}}@{{仮題|添文=1|綿屋武兵衞|白子町}}@鹽屋平四郞@堺屋とよ
@川崎屋仙藏@{{仮題|添文=1|肥前屋又兵衞|北濱二丁目}}@{{仮題|添文=1|泉屋長右衞門|船町}}@{{仮題|添文=1|絹屋利右衞門|齋藤町}}
@{{仮題|添文=1|川崎屋八兵衞|瓦町二丁目}}@{{仮題|添文=1|阿波屋佐右衞門|南堀江}}@{{仮題|添文=1|松島屋安右衞門|梶木町}}@大和屋宇之吉
@{{仮題|添文=1|尼屋四郞右衞門|北小幡町}}@{{仮題|添文=1|加島屋十郞兵衞|玉水町}}@{{仮題|添文=1|炭屋安兵衞|安土町一丁目}}@{{仮題|添文=1|錢屋權兵衞|備後町二丁目}}
@{{仮題|添文=1|伊勢屋平兵衞|瓦町二丁目}}@{{仮題|添文=1|海︀部屋善治|平野町二丁目}}@{{仮題|添文=1|利倉屋與兵衞|北久太郞町二丁目}}@{{仮題|添文=1|油屋吉兵衞|百間町}}
@{{仮題|添文=1|播磨屋五兵衞|藤右衞門町}}@{{仮題|添文=1|高三喜兵衞|南本町二丁目}}@{{仮題|添文=1|大坂屋又二郞|釜屋町}}@{{仮題|添文=1|奈良屋惣右衞門|本町二丁目}}
@{{仮題|添文=1|橘屋九郞兵衞|鮫谷二丁目}}@{{仮題|添文=1|近江屋半兵衞|北久太郞町}}@{{仮題|添文=1|八幡屋治郞兵衞|鹽町三丁目}}@{{仮題|添文=1|川崎屋吉郞兵衞|炭屋町}}
@{{仮題|添文=1|菱屋宇右衞門|南久太郞町三丁目}}@{{仮題|添文=1|山本屋源右衞門|唐物町三丁目上半}}@{{仮題|添文=1|金屋嘉兵衞|德壽町}}@{{仮題|添文=1|河內屋源左衞門|山本町}}
@{{仮題|添文=1|毛綿屋源左衞門|西高津町}}@{{仮題|添文=1|毛綿屋四郞兵衞|同町}}@{{仮題|添文=1|奈良屋太郞兵衞|本町二丁目}}@{{仮題|添文=1|綿屋甚兵衞|天神︀筋町}}
@{{仮題|添文=1|安田屋半三郞|彌左衞門町}}@{{仮題|添文=1|加島屋淸三郞|北富田町}}@{{仮題|添文=1|蓮屋善右衞門|天満九丁目}}@藤屋六郞兵衞
@{{仮題|添文=1|今津屋貞印|堂島中三丁目}}@{{仮題|添文=1|綿屋幸七|旅籠町}}@{{仮題|添文=1|大和屋藤四郞|小森町}}@{{仮題|添文=1|川崎屋三右衞門|瓦町二丁目}}
@〆四十四人
}}
{{nop}}
〆百七十四萬六千兩
{{left/e}}
{{仮題|頁=70}}
右銘々被{{二}}仰付{{一}}候以後、
一札
{{left/s|1em}}
{{仮題|箇条=一}}、此度就{{二}}米相場之儀{{一}}、出銀被{{二}}仰付{{一}}、難︀{{レ}}有奉{{レ}}存候。私儀御大名樣方仕送り仕罷在候
に付、右出銀被{{二}}仰付{{一}}候を申立、爲替金竝御仕送り金等、相滯らせ申間敷旨、被{{二}}仰
渡{{一}}、奉{{レ}}畏候。御屋敷方は不{{レ}}及{{二}}申上{{一}}、町方金銀取引通用不{{レ}}滯樣に可{{レ}}仕候。此段心
得違爲{{レ}}無{{レ}}之被{{二}}仰渡{{一}}、奉{{レ}}畏候。御請證文仍而如{{レ}}件。
月 日 町人<sup>名判</sup>
{{left/e}}
御口上にて被{{二}}仰渡{{一}}候は、
此度御用金被{{二}}仰付{{一}}候に付、{{仮題|投錨=三千兩出金の能力なきものには用金を仰附ず|見出=傍|節=u-3-7-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}小身上之者︀へも可{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}哉と存、金銀を不通用に致候
相聞え候。右御用金は、三千兩以上不{{二}}出兼{{一}}者︀へ被{{二}}仰付{{一}}候儀にて、三千兩以下
之小身上之者︀へは不{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}事に候間、小身上之者︀共、安堵致、金銀不通用不{{レ}}仕樣、
末々迄とくと可{{二}}申渡{{一}}旨、被{{二}}仰渡{{一}}候事。
午正月
於{{二}}南組總會{{一}}、御年寄中御口上にて、右之通被{{二}}仰渡{{一}}候。
{{仮題|細目=1}}
此度御用金被{{二}}仰付{{一}}候儀、三千兩以下之者︀へは不{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}候間、金銀引取通用不{{二}}相
滯{{一}}樣に可{{レ}}仕旨、先達て被{{二}}仰渡{{一}}候處、御用金被{{二}}仰付{{一}}候哉と存、金銀取引・爲替等不通
用に仕、竝先達而御用金被{{二}}仰付{{一}}候町人も、早速皆納仕候はゞ、又々御用金被{{二}}仰付{{一}}
候哉と存、相延候趣、被{{レ}}達{{二}}御聞{{一}}候。右御用金之儀は、右之外は最早不{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}候間、
町人貯居候金銀取引・爲替等通用不{{二}}相滯{{一}}樣可{{レ}}仕旨、竝先達御用金被{{二}}仰付{{一}}候町人は、
當月中に隨分出精︀仕、早々皆納仕、猶又取引・爲替等通用相調候趣、書付を以追々申
上候處、正月十六日右之金子致{{二}}持參{{一}}候。被{{二}}仰付{{一}}船場町之內にて、二十四町御呼出、
一町に金二千六十兩づつ御貸渡被{{二}}仰付{{一}}候。夫れより追ひ{{く}}右之通りに、出金を
町々へ貸付被{{二}}仰付{{一}}。乍{{レ}}併後々程金高減少被{{レ}}遊候。三鄕町中所々へ御貸付付{{仮題|入力者注=[#底本では直前に返り点「一」あり]}}候。
御買米被{{レ}}{{仮題|入力者注=[#底本では直前の返り点「レ」は返り点「二」]}}仰猶ほ右之町々之內、二度御貸付出候ところも有{{レ}}之、右證文一札左のご
{{仮題|頁=71}}
とし。
差上申一札之事
{{left/s|1em}}
一、私共町々へ、{{仮題|投錨=金子を町町に融通して買米を仰付く|見出=傍|節=u-3-7-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}金千三百七十四兩宛御渡被{{レ}}下候間、何づく米にても、去年米の切手
買入可{{レ}}申候。尤も切手は五斗入・四斗入・三斗入と藏々により、俵數不同有{{レ}}之候
間、四斗入は二百五十俵にて百石、三斗入は三百俵にて百石と相心得、何町誰方ゟ、
何國米何石、代銀一石に付何程之切手、何枚買入候段、年寄連判之書付を以て、早々
御屆可{{二}}申上{{一}}は、以{{二}}切手{{一}}本紙に寫、可{{二}}差上{{一}}旨被{{レ}}仰、奉{{レ}}畏候。
右之外に金六百八十六兩宛御貸渡被{{レ}}成候間、拜借金と名目を付、何れ成共借渡可
{{レ}}申候。先は借渡利銀之儀は、一少半迄は相對次第借付申べく旨、被{{二}}仰渡{{一}}、難︀{{レ}}有、
是又奉{{レ}}畏候。御請證文仍而如{{レ}}件。
寶曆十二壬午正月 何町町人代兩人印
同町年寄誰印
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
覺
{{left/s|1em}}
{{仮題|箇条=一}}、金千三百七十四兩
○代銀八十二貫四百四十目。能登樣御押切御印。
右は米相場之儀に付、其元ゟ出金之內、爲{{二}}買米代{{一}}、書面之金高、於{{二}}御奉行所{{一}}、町內
へ借用被{{二}}仰付{{一}}、難︀{{レ}}有請取申處實正也。追而御奉行所ゟ被{{二}}仰渡{{一}}次第、返濟可{{レ}}申
候。利分之儀は、銀一貫目に付一ケ月に一朱宛之積、每年七月・十二月兩度無{{二}}遲滯{{一}}
相渡可{{レ}}申候。爲{{二}}後證{{一}}仍而如{{レ}}件。
年號月日 如{{レ}}前連印
{{仮題|行内塊=1|size=100%| |何屋誰殿|何屋誰殿}} {{仮題|添文=1| 六人連判|總年寄}}
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
覺
一金六百八十六兩{{nop}}
{{仮題|頁=72}}
此銀四十一貫百六十目。如前印。
{{left/s|1em}}
右は米相場之儀に付、其元ゟ出金高之內、書面之金高於{{二}}御奉行所{{一}}、町內へ借用被{{二}}
仰付{{一}}、難︀{{レ}}有請取申處實正也。追而御奉行所ゟ被{{二}}仰渡{{一}}次第、返濟可{{レ}}申候。利銀之
儀は、銀一貫目に付一ケ月一朱づつ之積に、每年七月・十二月兩度に無{{二}}遲滯{{一}}相渡
可{{レ}}申候。爲{{二}}後證{{一}}仍而如{{レ}}件。
年號月日 如{{レ}}前連印
何屋誰殿
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
差上申一札之事{{nop}}
{{left/s|1em}}
{{仮題|箇条=一}}、此度私共町內へ金子何程御渡被{{レ}}下買米被{{二}}仰付{{一}}候故、何國米何石、代銀一石に付
何程にて買入申候御事。
{{仮題|箇条=一}}、右米切手何枚御封印にて御渡被{{レ}}成、奉{{二}}預置{{一}}候。乍{{レ}}去銀子爲{{二}}返用{{一}}、右切手質物
差入候儀は、勝手次第に候間、質入に仕候はゞ、何町誰方へ質物に差入置候段御
屆可{{二}}申上{{一}}旨、竝右米他國へ相拂候儀、是又勝手次第に候間、左候はゞ、何國へ賣
拂候筈に候條、米藏出之仕度趣御屆可{{二}}申上{{一}}旨、早速切手之封印御切可{{レ}}被{{レ}}下候旨、
勿論出精︀仕、早く致{{二}}藏出{{一}}賣拂候はゞ、爲{{二}}御褒美{{一}}御貸金之方は其儘に御借居に被{{二}}
仰付置{{一}}、追而金主へ相戾候節︀は、前{{r|廉|かど}}に可{{レ}}被{{二}}仰渡{{一}}旨、尤買米代とて請取金高は、
米賣拂次第金主へ可{{二}}差返{{一}}旨。
{{仮題|箇条=一}}、他國へ不{{二}}相拂{{一}}米之分は、追て御沙汰有{{レ}}之候迄、何ケ年も圍米に被{{二}}仰付{{一}}候間、ふ
け搗之厭は、私共手當可{{レ}}仕儀に付、追て新米に買替、可{{レ}}然時節︀は、申出御指圖を請
可{{レ}}申候。萬一買替之時節︀に、若損銀有{{レ}}之候共、其損失高は、御借付之別分を以相
償候樣に、心得可{{レ}}申候。
右之通被{{二}}仰渡{{一}}候上は、買替之時節︀後れ致{{二}}損銀{{一}}候共、其段不{{レ}}及{{二}}御沙汰{{一}}、一町にて
償可{{レ}}申候旨、將又賣出し銀有{{レ}}之分は、其町々之德分に被{{二}}仰付{{一}}候旨、右之心得を
以隨分出精︀可{{レ}}仕候。尤他國へ遣し賣拂候共、右同樣に相心得可{{レ}}申候。
{{仮題|箇条=一}}、米藏出致候はゞ、藏屋敷之切手持參仕候節︀、御奉行樣より被{{二}}仰渡{{一}}候員米切手之
{{仮題|頁=73}}
由、可{{二}}相斷{{一}}候。都︀て買米切手之儀は、米藏出仕候上、藏屋敷ゟ御奉行所へ差出候
樣に、名代藏元へ被{{二}}仰付置{{一}}候趣、此段被{{二}}仰聞{{一}}候由、
{{仮題|箇条=一}}、御貸渡金之儀は、先達て被{{二}}仰渡{{一}}候通、拜借金と名目を付、先々利銀之儀は、一步
半迄に、相對次第貸付可{{レ}}申候。右は金子に致{{二}}附金{{一}}、拜借金と申なし、借渡候儀、
決て仕間敷候。若右體之儀有{{レ}}之於{{二}}相顯{{一}}は、急度御咎可{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}旨。
{{仮題|箇条=一}}、買米代、竝御貸附金共に、銀一貫目に付、一ケ月一朱づつ之利銀、每年七月・十二
月兩度に御取立、於{{二}}御奉行所{{一}}、直に金主へ御渡させ可{{レ}}被{{レ}}成旨。
右之段被{{二}}仰渡{{一}}候趣、逸︀々承知仕、難︀{{レ}}有奉{{レ}}畏、御請證文仍而如{{レ}}件。
年號月日 {{仮題|添文=1| 何屋誰|何町十人總代}}
何屋誰
{{仮題|添文=1| 何屋誰|同町年寄}}
右被{{二}}仰渡{{一}}候趣、私共奉{{二}}承知{{一}}、依{{レ}}之奧印仕候。以上。
三鄕總年寄
{{left/s|2em}}
{{仮題|添文=1|今井與三右衞門|天}} {{仮題|添文=1|中村左近右衞門|天}} {{仮題|添文=1|渡邊又兵衞|南}} {{仮題|添文=1|野里屋四郞左衞門|南}}
{{仮題|添文=1|永瀨七郞右衞門|北}} {{仮題|添文=1|江川庄左衞門|北}}
{{left/e}}
御奉行所
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
二月十一日、{{仮題|投錨=買米の藏出し|見出=傍|節=u-3-7-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}御買米致候町々年寄・町人御召被{{レ}}成、被{{二}}仰渡{{一}}候は、御買米早々藏出致可
{{レ}}申候。尤藏之儀は、町內にても、何方にても、勝手次第可{{レ}}致候、藏出致候はゞ、右之趣
致{{二}}案內{{一}}、切手封印御切可{{レ}}被{{レ}}下候。其上詰替申候はゞ、此方より俵數見分に遣し、封
印可{{レ}}致由被{{二}}仰渡{{一}}候。
右之通に被{{二}}仰付{{一}}候に付、追々藏出所々に借藏致、詰かへ申候。然る處諸︀方借り藏
藏屋敷高直に相成候に付、此度町々買米此節︀藏出仕候に付、貸し藏之分、敷銀格別
高直に貸付候段。達{{二}}御聞{{一}}、不埒に不{{二}}思召{{一}}候。縱是迄相對を以貸付置候共、過分之藏
敷に候分、常體之通に引下げ候樣に可{{レ}}仕旨被{{二}}仰渡{{一}}、奉{{レ}}畏候。此段町人共一統奉{{二}}承
知{{一}}候。敷銀過分貸付候儀仕間敷候。{{nop}}
{{仮題|頁=74}}
二月廿一日
二月廿八日夜に入、御用金被{{二}}仰付{{一}}候町人共へ、於{{二}}總年寄{{一}}被{{二}}仰渡{{一}}候は、先達而御用
金被{{二}}仰付{{一}}、追々致{{二}}出銀{{一}}候分、段々貸付被{{二}}仰付{{一}}相濟申候。此上當分御用も無{{二}}御座{{一}}
候に付、跡金勝手次第に可{{レ}}仕由、猶又重而御用之儀有{{レ}}之候はゞ、前廣に可{{レ}}被{{レ}}仰由。
江戶御役人樣巳十二月三日大坂御著︀。
午三月七日御用相濟、大坂御發駕、江戶へ御歸り。{{nop}}
{{仮題|投錨=浮世の有樣|見出=大|節=u-4|副題=卷之四|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}
{{仮題|投錨=天明三年上州山津浪|見出=中|節=u-4-1|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}
原田淸右衞門 御代官所
上州群馬郡
高六百石餘 川島村{{仮題|分注=1|江戶ゟ三|十一里}}
高八百石餘 北牧村{{仮題|分注=1|江戶ゟ三|十七里}}{{nop}}{{仮題|投錨=上州群馬郡川島村北牧村山津浪|見出=傍|節=u-4-1-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}
右二ケ村同國吾妻川通に有{{レ}}之。去八日四つ時山津浪、溏岩・火石等夥敷押出し、川
島村木工橋御關所、北牧村家居・田畑不{{レ}}殘流失仕。尤山手に少々家居相殘候迄にて、
流人數相知不{{レ}}申、存命之者︀有{{レ}}之間敷と推察仕候計にて、萬一農業罷出候哉、又者︀馬
草刈罷出候者︀は相殘り可{{レ}}申哉、相知不{{レ}}申。縱相殘罷有候とても、當時渴命及可{{レ}}申候
外無{{レ}}之候旨、注進申出候。
七月{{nop}}
{{仮題|頁=75}}
{{仮題|投錨=天明三年淺間の噴火|見出=中|節=u-4-2|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}
{{left/s|1em}}
{{仮題|箇条=一}}、中仙道輕井澤・沓懸・追分・板鼻、右四ケ所之儀者︀、{{仮題|投錨=淺間山噴火|見出=傍|節=u-4-2-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}淺間山大燒震動雷電仕、當月七
日夜ゟ大石竝砂、凡一尺一寸程降積り候由、輕井澤之者︀之儀者︀、同日夜ゟ燒石砂
降り懸り、家居燃上り、一宿不{{レ}}殘燒失仕候由、尤怪我人・死人等之儀難︀{{レ}}計御座候由、
委細之儀者︀猶又相糺可{{二}}申聞{{一}}旨、遠藤兵右衞門相屆候間申上候。已上。
七月十二日
{{仮題|箇条=一}}、中仙道信州輕井澤宿、{{仮題|投錨=輕井澤の被害|見出=傍|節=u-4-2-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}淺間山麓に御座候。去月廿九日、淺間山大燒にて震動雷
電夥敷家居鳴渡り、百姓共追々立退候處、當月七日四つ頃ゟ土石夥敷降り懸り、年
寄又八と申者︀之屋根へ、右之石と火玉落懸り卽時燒上り、夫ゟ四五ケ所程一圓に
燃え上り、一宿不{{レ}}殘燒候趣に御座候。名主六右衞門と申者︀父子、水帳其外御用書
物等取出度、命限り相働き外とへ取出候處、かむり候竹笠・蓙兩度右土石落懸り打
倒れ申候。漸く起上り逃去候由、六右衞門娘・妹・下女兩人、何方へ參候哉、夜中之
儀故不{{二}}相知{{一}}候。定而石に打れ相果候かと之儀に存候と、六右衞門申候。其外怪
我人・死去人之程難︀{{レ}}計御座候。
{{仮題|箇条=一}}、信州沓掛之宿者︀、{{仮題|投錨=沓掛の被害|見出=傍|節=u-4-2-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}追分宿淺間山麓にて、前書之通輕井澤宿同樣の大變に相聞候
得共、宿中不{{レ}}殘何方へ逃去候哉、彼地陣屋へ一向否不{{二}}申出{{一}}候。樣子相知不{{レ}}申候
由、手代共罷越見分等仕候儀も不{{二}}相成{{一}}候。
{{仮題|箇条=一}}、上州板鼻宿ゟ訴出候者︀、{{仮題|投錨=上州板鼻宿の被害|見出=傍|節=u-4-2-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}五月廿八日・六月廿八日・當月五日、淺間山燒、吹{{二}}出灰・石
子{{一}}霜程降り候處、當月六日暮六つ時ゟ八日未之刻迄、晝夜共震動雷電仕、無{{二}}絕間{{一}}
石砂降申候。午之刻ゟ申の刻迄二時半程、闇夜之如く灯燈を燈して用事致申候。
凡石砂深さ一尺一寸程降り積り、溜り一尺四五寸有{{レ}}之候。驛家之分は御傳馬役
相勤候者︀二分、其外裏屋小家數多押れ候旨訴出申候。畑作物は不{{レ}}及{{レ}}申靑葉無{{レ}}之、
差當り馬の飼︀料無{{レ}}之難︀儀仕候と訴出申候。
中仙道信州・上州四ケ宿、此度淺間山石砂ふり、就中信州三宿之儀者︀退轉同前に相
成候趣に御座候得共、今以燒靜不{{レ}}申、彼地に罷越候手代共、見分に罷越候儀も相
成不{{レ}}申間、追々委細之儀は追而可{{二}}申上{{一}}候得共、先右之段御屆申上候。巳上。{{nop}}
{{仮題|頁=76}}
右御代官遠藤兵右衞門樣ゟ御用番様へ御屆之寫也。
{{left/e}}
右、天明三癸卯年の大變なり。此節︀の有樣之を譬ふるに物なく、別して吾妻川には
崩れたる泥土の中に、人馬・鳥獸の別ちなく、家と共に山津浪に押流され、泥中の中
に火燃えつゝ、人畜の別ちなく、泣叫びて流れ行く樣哀にも恐しく、之を助くるに
{{r|手術|てだて}}なく、誠に佛家にいへる地獄の有樣も斯くや有らんと思はれしとなり。此時山
の崩れぬる響︀、京師・浪華等へも應へて、戶・障子き渡りし事なりとぞ。
{{仮題|投錨=寬政七卯年御鹿狩御役人附|見出=中|節=u-4-3|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}
寬政七卯年三月五日
御鹿狩御役人附
千住宿より小金原・日暮村御立場迄四里二十八町、御成道御普請之あり。{{仮題|投錨=鹿狩|見出=傍|節=u-4-3-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}尤道幅三
間、橋
新宿川御假橋 長さ六十八間 幅三間。
松戶宿利根川御船橋 長さ凡百廿間、<sup>但し上州船廿七艘。</sup>
松戶宿松龍寺山迄新御殿御茶屋、此處にて狼烟を揚げ大造なり。
御普請總掛り 御郡代 久世丹後守
御代官 菅沼安十郞
同 大貫治左衞門
同 三河口太仲
同 竹垣三右衞門
御當日勢子人足、武藏・安房・上總・下總・常陸凡そ十萬人なり。
右五ケ國勢子人足七手に相分れ、{{仮題|投錨=勢子の員數|見出=傍|節=u-4-3-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}一組に世話人二十人づつ付き、一の手世話人・幟等
に至る迄白印にいたし、二の手は黑七組七色に相分て、東は銚子にて限り、南は房
州境、北は取手布川を限り、遠方は一同に二里づつ連續なり。御立場北の方川越新
田境御小屋四十坪餘二行に建つ。是は前々日・前日、大御番頭・御書院御番頭・御小性
御番頭・御旗本衆一萬五千人餘御詰、此口へ狗競を懸く。二十町餘の御立場より太
鼓にて懸引くなり。{{nop}}
{{仮題|頁=77}}
御立場小富士山と申し奉る{{仮題|分注=1|高さ五丈餘、山上八一四方に|御上り口、小柴にて築立つる}}
小富士山八間四方の御矢倉{{仮題|分注=1|高さ五尺四方御手|幡五色の吹流し}}
御當日前夜千住宿ゟ御立場迄の間、高張を附け、十町の間に篝を焚く。{{r|明|あけ}}六つ時松
戶宿へ將軍樣御著︀、其夜御立場人足持口々々三百ケ所にて篝を焚く。此篝の中に
節︀の付きたる靑竹を焚き、此靑竹にて人足の眠を覺まし候なり。
右五ケ國村々、幟一本・高張一本、名所を印し可{{レ}}致{{二}}持參{{一}}御觸れ、商人見物御免︀。
御當日御供諸︀大名衆・御旗本衆。
い印 小笠原近江守 馬十疋 三百七十七人{{仮題|投錨=隨從の大名旗本|見出=傍|節=u-4-3-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}
ろ印 松平下總守 同 三百八十一人
は印 近藤石見守 同二十疋 四百八人
御書院番頭
に印 淺野壹岐守 馬十二疋 四百二十七人
ほ印 諏訪若狹守 同 三百八十八人
へ印 長谷川丹後守 同 三百三十六人
と印 中坊近江守 同廿五疋 三百二十七人
ち印 駒木根大內記 同 三百九十五人
り印 勝田安藝守 同廿三疋 四百六十一人
御小性御番頭
ぬ印 安藤伊豫守 馬二十疋 三百四十二人
る印 前田安房守 同廿五疋 三百八十五人
を印 大久保豐前守 同 三百十四人
か印 坪內美濃守 同十三疋 三百廿三人
よ印 松平信濃守 同十八疋 三百八十七人
た印 內藤甲斐守 同十二疋 三百六人
御先手御鐵炮頭
れ印一 牧野織部正 馬一疋 六十九人{{nop}}
{{仮題|頁=78}}
御先手御弓頭
れ印二 市岡丹後守 馬一疋 六十五人
れ印三 奧田主馬 同
御先手御鐵炮頭
そ印一 水野若狹守 馬 九十三人
そ印二 松平舍人 同 六十五人
そ印三 松平左金吾 同 六十九人
つ印 御使番十四人 同九疋 二百四十三人
な印一 伊澤內記 同一疋 六十二人
な印二 山本伊豫守 同 百十一人
な印三 彥坂九兵衞 同 八十九人
御持筒頭
ら印一 室賀圖書 馬一疋 百廿二人
ら印二 戶田藏之助 同 百四十七人
御先手御弓頭
む印一 建部大和守 馬一疋 百二十人
む印二 內藤伊織 同
新御番頭
う印一 柴田修理 馬二疋 百五十人
う印二 中奧御番衆 同 五十八人
の印一 水谷兵庫 同 百五十人
の印二 松平小十郞 同 二百八十五人
く印 中奧御小性 同八疋 二百九十六人
百人組頭
ま印 津田山城守 馬一疋 二百四十八人
け印 渡邊平十郞 同 二百四十九人{{nop}}
{{仮題|頁=79}}
御徒步頭
ふ印一 岡部內記 馬一疋 三十六人
ふ印二 深尾八太夫 同
ふ印三 馬場大助 同
ふ印四 丸毛勘右衞門 同
ふ印五 吉松治右衞門 同
御小十人頭
こ印一 鵜飼︀新三郞 馬一疋 八十八人
こ印二 土屋源四郞 同 八十七人
こ印三 桑山猪︀兵衞 同 八十四人
こ印四 新見長門守 同 八十一人
大御番頭
て印 菅沼織部正 馬十一疋 四百四人
あ印 建部內匠正 同九疋 四百三人
さ印 松平但馬守 同十三疋 六十四人
き印・<sup>一カ</sup> 御大目附 同十五疋 六十四人
き印・<sup>ニカ</sup> 御目附方 二百人
き印・<sup>三カ</sup> 御醫師 五十人
前々日・前日御{{仮題|編注=2|給|詰カ}}の諸︀士方御焚出、松戶宿大坂屋庄兵衞方へ仰付けらる。尤も御當
日御供衆は外焚出なり。
焚出人足
一、二尺釜六十、此焚人足六十人此湯廻し人足二十人{{仮題|投錨=焚出人足|見出=傍|節=u-4-3-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}
{{left/s|2em}}
{{Interval|width=10em|margin-right=1em|array=
水廻し人足四十人 火焚人足二十人 洗ひ米廻し人足四十人
槇運び人足二十人 飯︀持出し人足二十人 飯︀荷持其外用意人足四十人
}}
{{nop}}
〆二百八十人
{{left/e}}
外に米洗ひ人足八十人、是は前々日米洗に付き焚出小屋へ運び人足の積りなり。{{nop}}
{{仮題|頁=80}}
飯︀一度分 百七十荷 {{仮題|行内塊=1|此人足三百四十人|但し新調の酒樽へ詰むるなり。}}
三月四日夜九つ時出御、五日夜九つ時還御。
御物數
{{left/s|1em}}
{{仮題|投錨=獲物|見出=傍|節=u-4-3-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}{{Interval|margin-right=4em|sep-char=@|array=
@鹿五つ 御上 鹿一疋 松平伊豆守
@同一疋づつ {{仮題|添文=1| 本間勘助|御書院番勝田安藝守組}} 小倉永次郞 杉浦又左衞門 {{仮題|添文=1|靑野直吉|| 突︀留}}
@同一つ {{仮題|添文=1|拓植又左衞門|御勘定| 生捕}}@同 {{仮題|添文=1|大倉又太郞|御鳥見| 生捕突︀留}}@同 {{仮題|添文=1| 上田乙之助|大御番松平下野守組}}
@同 {{仮題|添文=1|牧野內匠|中奧| 突︀留}}@同四つ {{仮題|添文=1|久世丹後守|御勘定奉行| 同}}@同七つ {{仮題|添文=1|姓名不知| 突︀留}}
@同一つ {{仮題|添文=1|山木若狹守|御小性| 同}}@同 {{仮題|添文=1|吉田金二郞|御鳥見|同}}@同 {{仮題|添文=1|同人|| 生捕}}
@同二つ {{仮題|添文=1|宮井三左衞門||生捕}}@同一つ {{仮題|添文=1|三淵伯耆守|御納戶}}@同 {{仮題|添文=1|四手組出役|| 生捕}}
@同五つ 御犬嚙殺︀@同一つ {{仮題|添文=1|金澤瀨兵衞|御勘定組頭| 生捕}}@同 {{仮題|添文=1|久世丹後守|御勘定奉行| 同}}
@同 {{仮題|添文=1|山本長左衞門|大御番<br/>松平下野守組| 生捕}}@同 {{仮題|添文=1|同人|| 突︀留}}@同 {{仮題|添文=1|吉澤內記|御小納戶| 突︀留}}
@同 {{仮題|添文=1|安藤次兵衞|御書院番頭<br/>妻木佐渡守組| 同}}@同 {{仮題|添文=1|靑木小左衞門|同<br/>勝田安藝守組| 同}}@同 {{仮題|添文=1|本多安之助|同| 組留}}
@同 {{仮題|添文=1|三河口太仲|御代官| 突︀留}}@同 {{仮題|添文=1|金澤瀨兵衞|御勘定| 同}}@同 {{仮題|添文=1|杉本五郞左衞門|御小性組<br/>山田肥後守組| 同}}
@同 {{仮題|添文=1|駒木根大內記組|御書院番| 生捕}}@同 {{仮題|添文=1|三河口太仲|御代官| 生捕}}@同四十六 {{仮題|添文=1|姓名不{{レ}}知|| 打倒}}
@猪︀一つ宛 {{仮題|添文=1|天野權十郞|御小納戶| 射留}}@同 {{仮題|添文=1|多賀大助|御小性組<br/>松平紀伊守組| 同}}@同 {{仮題|添文=1|久保田左近|御書院番<br/>勝田安藝守組| 同}}
@同 {{仮題|添文=1|細井豐前守|御小性| 同}}@ {{仮題|添文=1|天野彌五兵衞|御小納戶| 突︀留}}@同 {{仮題|添文=1|能瀨因幡守|御小性| 同}}
@同 {{仮題|添文=1|竹本次左衞門|御小納戶| 同}}@ {{仮題|添文=1|松平備後守|御小性組子頭| 同}}@同一つ {{仮題|添文=1|姓名不{{レ}}知|| 打殺︀}}
@同 {{仮題|添文=1|山名丹後守|| 突︀留}}@同 {{仮題|添文=1|能瀨因幡守|| 同}}@同 手負行倒
@同 {{仮題|添文=1|姓名不知|| 突︀留}}@兎 {{仮題|添文=1|柘植又左衞門|| 生捕}}@同 {{仮題|添文=1|姓名不{{レ}}知| 御勘定| 御鳥見}}
@雉子一つ 同斷行倒@狸三つ {{仮題|添文=1|大岩又太郞|御鳥見| 打倒}}@狐三つ {{仮題|添文=1|姓名不{{レ}}知| 同| 同}}
}}
{{nop}}
{{仮題|頁=81}}
都︀合百十疋
〔姓名不知とは百姓の分なり〕
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
享和元辛酉年十二月四日夜八つ時前、小雨降雷鳴、天王寺塔三重目へ雷落ち、夫より
雷火全堂へ移り、十七棟燒失。
同二年住吉炎上。
同年六月廿八日・同廿九日兩日風雨烈しく、{{仮題|投錨=攝津河內洪水|見出=傍|節=u-4-3-f|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}七月朔日より洪水攝・河に溢れ、村々二百
餘ケ所水入。
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=10em|margin-right=1em|array=
河州交野郡八ケ村 若江郡廿六ケ村 茨田郡十二ケ村
河內郡四ケ村 澁川郡十ケ村
2:攝州東成郡・西成郡にて十二ケ村 島上郡廿七ケ村
}}
{{nop}}
總村合二百三十七ケ村
總高十二萬三千五百五十五石四斗三合
{{left/e}}
{{仮題|投錨=享和二年鐵石軒の話|見出=中|節=u-4-4|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}
享和二壬戌年かと覺ゆ。京都︀出水の西なりしが、鐵石軒といへる火打鍛冶あり。
長壽の人のよし聞きしゆゑ尋ねし處、百十七歲の時なりしに、大抵七十計りの人と
見ゆ。{{仮題|投錨=長壽の火打鍛冶|見出=傍|節=u-4-4-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}三つ・四つ火打を求めて、「何なりとも書きて得させよと」いひて、用意せし紙を
出だしぬれば、「易き事なり。拙きを構ひ給はずば認め申すべし」とて、{{仮題|編注=1|如南山壽|壽如南山カ}}福︀如{{二}}
東海︀{{一}}などいへる事を書きぬ。外に變りし事なけれども、行步の自由ならざると、目
少しく惡くして細き事は書難︀くして、鐵石軒吉久書といへる事は、息子に代筆をな
さしむ。斯かる賤しき身なれども、幸に長壽せし故に、貴人方の訪ひ給ひ、又歌など
贈︀り給へり。これを見給へとて、誇り顏して白木の箱を出しぬる故、之を見るに、親
王・攝家、其外堂上方の御詠にて、皆鐵石軒を祝︀するとあり。彼がいへる如く、長壽の
德なるべし。斯く長命なる人は格別なるものにて、幼年より輕業を渡世にして暮
{{仮題|頁=82}}
せしに、四十の年に至り、若き時の如くからだの自由になり難︀く、筋骨もこはばり
て、はなれ業の危き樣に覺ゆるにつけて、生涯の{{r|世渡|よわたり}}に成り難︀き事を始めて悟りぬ
れども、外に仕覺えし事なければ、如何なる事をかなさむと心を配りしに、ふと安
藝の廣島には輕業せし時、火打鍛冶の家に宿りし事ありて、退屈なる時向ふに行き
て、向ひ槌打ちし事あり。此事を思ひ出で、火打を打つ事は隨分なるべしと思ひ付き
て、之を始めしとなり。九十七八の頃、近邊に九十計りの{{r|婆|ばゝ}}ありしを迎へ取りて、
妻となしぬれども、{{仮題|分注=1|初の妻は七十餘の時死せし故、|暫くやもめにて居しとなり。}}之も亦九十七八にて死にし故、夫よりや
もめ暮しなりしとぞ。子といへるも七十餘にて、孫は五十に近く、其外玄孫なども
ある由なれ共、外に出で家にあらざりし故、家內幾人といへる事は知らざれども、誠
に京師などにては珍しき長壽なり。
{{仮題|細目=1}}
文政五壬午年三月、{{仮題|投錨=英吉利船房州に來る|見出=傍|節=u-4-4-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}エゲレス船安房の沖に來る。漁船之を見付けて直に訴へぬる
にぞ、近邊數里の間嚴重に備立して、夫より漁人を以て、如何なる事にて來りしと
尋ねありしかども、少しも分ちがたく、直に漁人を一人船に引込みし故、如何なす
事やらんと、安き心もなかりしに、種々饗應なし薪水をきらせしかば、「之を惠み吳
れよ」といへる事の模樣にて分りしかば、其の如くして遣し給ひしとぞ。{{仮題|分注=1|船は二艘にて近づきしは一
艘のよし、其節︀の噂に、エゲレス、「これより江戶へ何程ありや」と尋ねしかば、「凡そ百五十里もあるべし」と
答へしに「僞る事なかれ。十里ならではなし」といひし由、實に薪水をきらせしにや。又隙を窺ひに來りしに
や其實計り
がたしとぞ。}}
{{仮題|投錨=文政五年日本橋渡り初|見出=中|節=u-4-5|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}
同年六月五日、日本橋普請出來に付き、奧州南部領森岡哥戶村にて、高二千石計り
持ち候百姓{{r|渡初|わたりぞめ}}をなす。其者︀共左の通、{{仮題|投錨=日本橋渡初|見出=傍|節=u-4-5-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}
{{left/s|2em}}
{{Interval|width=14em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@山崎淸左衞門<sup>百四十三歲</sup>@同妻 嘉{{仮題|編注=1|澤|津カ}}<sup>百三十九歲</sup>@忰 源藏<sup>百十二歲</sup>
@同妻 さき<sup>百九歲</sup>@孫 源之丞<sup>九十八歲</sup>@同妻 かじ<sup>九十三歲</sup>
@孫 淸之助<sup>七十一歲</sup>@同妻 はな<sup>六十八歲</sup>@玄孫 淸左衞門<sup>四十三歲</sup>
@同妻 まつ<sup>三十九歲</sup>
}}
{{left/e}}
{{left/s|1em}}
是迄も長壽の人といへば、多くは奧州より出づ。其國大にして良の隅に當り、邊
{{仮題|頁=83}}
鄙なるが故に、人の心も自ら裕に情欲少き故なるべし。先年永代橋の渡初にも、
百六十餘・百五十餘の夫婦百四十計りの子供夫婦を召連れて渡りしも、奧州の人
なりしとぞ。
{{left/e}}
家光公御上洛の時、{{仮題|投錨=百七十餘歲の老人口取す|見出=傍|節=u-4-5-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}御馬の口取をなし、馬子唄を謠ひて上りしは、百七十餘にて參
河の國の人なる事は、昔より言傳へて人の知る所なり。或人、如何すれば其の如く
長壽するやと尋ねしに、外に術なし。只麁食を節︀にして三里に灸するのみと、其灸
は、
{{left/s|2em}}
{{Interval|width=10em|margin-right=1em|array=
朔日{{仮題|行内塊=1|左九|右八}} 二日{{仮題|行内塊=1|左十|右九}} 三日{{仮題|行内塊=1|同|同}} 四日、{{仮題|行内塊=1|左十一|右十}} 五日{{仮題|行内塊=1|左十|右九}}
六日{{仮題|行内塊=1|左右|共九}} 七日{{仮題|行内塊=1|左九|右八}} 八日{{仮題|行内塊=1|左右|共八}}
}}
{{left/e}}
壯年の時、人に敎へられてより怠らずこれをすゑしとぞ。斯くのごとく灸すゑし
とて、ことごとく長壽すべき者︀にはあらねども、一たび敎へられぬれば、其事直を
守る心正なるが故に、情欲の爲に勞することなく、無爲めにして長壽を得しものな
るべし。
{{仮題|投錨=本願寺の事|見出=中|節=u-4-6|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}
寬政より享和に至り、{{仮題|投錨=西本願寺騒動|見出=傍|節=u-4-6-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}西本願寺に大騷動の事あり。此節︀の門跡といへるは、至つて
愚人なるより事起り、祖︀師親鸞の掟に背き新義といへる事を始む。こは門主の過
を拵へて、之を{{r|言種|いひぐさ}}にして之を押して隱居せしめ、河內國八尾の顯照寺、己が
て之を代らしめむとて深く謀りし事なりしが、彼の宗門は他宗と違ひ、俗人迄何れ
も法義に凝り固まる宗門なれば、半ばは之を{{r|諾|うべな}}はで、古義・新義など名目を付けて、
內輪割れをなし大に騒動す。家老共始め多くは顯照寺へ加擔し、偶〻門主方なるは
之を押込めて、故なきに之を罪に落すにぞ。東本願寺よりして法義の違へる事を
差込まれぬるに、內輪にても大もめになりて、公儀の御裁許となりしが、奸惡の者︀
共召捕へられ、夫々御仕置あり。新義といへる事、門主には知らぬ事なりしとて、や
うやう申拔けしが、顯照寺がたくみ露顯せし故、之を座敷牢を造りて是に押込め、是
に組せし家老始め皆夫々に罰せらる。西本願寺は斯かる騒動なるに、東本願寺に
ては大層なる普請追々に成就し、此頃專ら表通の普請なりしが、立派に建上り、衆人
{{仮題|頁=84}}
目を驚かせしに、文政六癸未年十一月十五日西の下刻、狐の爲に燒失す。其始末を
尋ぬるに、近年我意につのり、六條邊は伏見稻荷の氏地にて、祭禮の節︀には是迄聊
の鳥目〔{{仮題|分注=1|頭書に、鳥目幾一實|文なりとぞとあり。}}〕を捧げし事なるに、{{仮題|投錨=東本願寺の燒失は稻荷の祟|見出=傍|節=u-4-6-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}{{r|暴|にはか}}に之を止め、東六條其地面に住める
町家の者︀共に神︀棚を取拂はせ、諾はざる家々には、人を遣りて神︀の扉を悉く釘にて
打付けさせ、西山邊にて別莊を拵へぬるが、森の中に狐を祀りし祠ありしを之を毀
ちて捨てさせぬ。其後或堂上方と、西山の何とやらんいへる所へ、慰に參るべき由
約し奉りて、堂上には直に行き給ひし由なるに、少し後れて六條を出でしが、終に
先方へ行く事を得ずして、{{r|夜通|よどほし}}に多くの供廻と共に、田畠の中をうろつきて明くる
朝に至りても、行列仔細らしく田畠の{{r|畦|あぜ}}を幾度となく、ぐる{{く}}廻り居るにぞ、其邊
の百姓共の之を見兼ねて、「最前より同じ處をいつ迄も何故廻り給ふぞ。其所は道
にてはなし」といへるにぞ、これ迄狐に{{r|化|ばか}}されて斯かる樣なりしが、生如來始め何れ
もやう{{く}}と心付き、百姓共に金を遣りて、「此事必ず取沙汰をなし吳るゝ事なかれ」
とて、深く包み隱せしが、此事皆世間に知れて、一統に大笑するやうになりぬ。斯か
る事之あり間もなく大火事に遇ひしに、彼の廣大なる建物より、家老どもの屋敷ま
で燒失せぬるに、近邊の町家一軒も燒くることなく、寺中を限りし事にて、龜山の
火見、其の外所々方々より之を見るに、風四方より吹き付けて、火は少しも外へ散
る事なく、眞直に立登りて、一と時に足らぬ間に燒盡せしも怪しむべし。この火を
消さんとて、門の上などへ大勢上りしが、火下より燃え上り、外よりも吹き付くる
にぞ、火氣に堪へ難︀くて下らんとするに道なく、途を失ひて據なくも、上より皆飛
びぬるに、屋根裏また途中などには鳥の巢をかけ、不淨にて穢さゞるやうに、悉く
鐵網を張りし事なれば、皆々此網に止まりて、見る間に燒けて狂ひ死す。されども
餘り堅固に仕立てたると、遥かの上の事なれば、詮方なくて何れも{{r|見殺︀|みごろし}}にせし事な
りといふ。外より之を見ては、目もあててられぬ有樣なりしといへども、肉身の如
來の爲に命を隕し、彌陀の來迎あるべき事と、死せる身には安心決定せし事ならむ
と思へるもをかし。
文政十一戊子四月、關東筋洪水の節︀、本願寺の材木所々へ伐出してありしが、矢矧
{{仮題|頁=85}}
の橋へ流れ掛りし故、橋落ちてこれが爲に多くの人死失せしといふ。
同年の事なりしが、江州彥根領伊勢境の山より、本願寺普請に付き、材木を買ひて
伐出せしに、如何に工夫すれども、五六丁餘の所、田の中を引かざれば出でざる故、
如何とも詮方なく、種々評定をなし、村役人共なしぬれ共、田も稻も損じぬれば上
へ屆け、「其段聞濟の上にて引出さむ」といふになりぬ。然るに本願寺の家來いへる
やうは、「上には定れる年貢滯なく出しさへすれば、夫にてよき事なり。刈捨てたる
稻の損は本山より償ふべければ、之を屆くるに及ばず。稻刈捨て出すべし」とて、{{仮題|投錨=本願寺の狼藉|見出=傍|節=u-4-6-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}道
筋一間餘り五六町の所へ靑稻を刈りて材木を引出す。此事彥根へ聞えぬるにぞ、「不
埓なる狼藉、其者︀召捕るべし」とて其仕度ありしに、風を喰つて逃げ去りぬ。是迄も
江州は門徒宗多き所にて、每年年貢をば等閑に不納致し、頻︀りに本山へ金錢を持
行くにぞ、役人中常々之を制すれ共、彼の宗徒の凝り固まりしは甚しき事にて、地
頭の命令を用ひず、忍び{{く}}に持出で遣りぬる事を深く憤りぬる折柄、斯かる事仕
出しるぬにぞ、大に憤り、已來領內の者︀、本願寺へ金錢遣し候事は勿論、參詣致しぬ
る事も差し止められ、隱れて參詣せし者︀は、嚴重の仕置せらるゝ樣になりぬ。斯くて
本願寺へ、「右狼藉は如何なる心得にや」とて、嚴しき掛合に及ばれしに、一言の申し
譯けなく誤り入りし事なりとぞ、左もあるべし。夫よりして「本願寺の者︀共、已來領
內に入るゝ事相成らず」とて、嚴しき法度立てられしとかや。この咄は備中新見留
守居役小山三藏といへるは、元來彥根藩の者︀にて、同人親類︀より申し來られしとて、
この事を語りぬ。
本願寺普請に付きて、地築せむとて下地の燒土を取捨て、新に淸き土入替へむと思
へるにぞ、「東山豊國大明神︀の上手なる松ケ谷の土は、至つて宜しき土なり」といへる
者︀ありしかば、「さらば其土にせむ」といふ事になりぬ。松ケ谷といへるは、大佛妙法
院の御領にて、則ち宮樣の上より豐國神︀君の上手をいへり。斯くの如くなれば、早
速に、宮の坊官松井因幡といへる者︀に賴み入れて、「よき價に其土買取らん」といへる
にぞ、「如何してよからむ」と決定成りがたく、此男元來明神︀を信じ、聊の事にても是
に伺ひ、其指圖にて決しぬる者︀故、此事を明神︀へ{{仮題|分注=1|狐を神︀に祀|れるなり。}}伺ひしに「此事至つてし{{く}}
{{仮題|頁=86}}
宜しからず。思止まるべし」となりしかば、之を斷りぬるに、本願寺にては、何分にも
此所の土よしといへる事なれば、價を多く出しても苦しからずとて、過分の金を出
して之を求めむといへるにぞ、因幡も欲にひかされて之を諾ひしに、夫より日々人
夫出來りて土を取りしが、一人大なる壺一つ掘出す。「こは金の入りし壺なるべし。
銘々分取にすべし」など云ひ爭ひ、三人打寄りて其蓋を取らむとせしに、三人とも悶
絕す。其節︀は都︀合七人して土を運び出せし由なるにぞ、四人の者︀は少し隔りてあ
りしが、{{仮題|投錨=明智の崇|見出=傍|節=u-4-6-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}此有樣を見て、早速水を吹掛けなどして介抱せしかば、漸〻と息出しぬれど
も、一人も物いふ事能はず、からだもすくみて自由ならざるにぞ、これ只事にあら
ずとて何れも大に恐れ、三人を助けて早々に歸りぬるが、出入共因幡へ屆けぬるに
ぞ、「病人ありて只今より引取れる由」を斷りぬるにぞ、「如何せし」とて之を尋ねし故、
右の始末を語りしといふ。因幡大いに驚き、「然らば暫く控へ居るべし」と、此者︀共を
留置き、其所を見屆けて後人夫をば返しぬるに、因幡も夫より病付きて、五體すくみ
言ひがたく、大いに苦しめる樣になりぬるにぞ、彼の明神︀へ人を走らせ伺はせける
に、「斯かる事ありぬる故惡しとて、止めぬるをも聞かでかくなり行きぬ。{{r|夫|かの}}掘出せ
しは明智左馬助の塚︀なり。其方計りにあらず、三族を絕やさるべし」といへるにぞ、
何れも大いに驚き、種々の所をなせども、聊も{{r|驗|しるし}}ある事なし。此事、宮の御耳にも入
りしかば、辱くも自ら御祈︀あつて、彼の靈をなだめ給ひしが、此驗にや三族には及
ばざりしかども、因幡を始め七人の人夫悉く取殺︀されしといふ。其谷の入口に農
家一軒山番の如きあり。昔は七八軒ありしが、次第に絕え失せて此家のみに成りし
よし、この家の主召出され、「何にてもいひ傳にて聞覺えし事はなきや」と御尋ありし
に、此者︀、「幼き頃迄は二軒なりしが、これも間なく絕え果てゝ私方計りになりぬ。私
とても幼少にて親に離れし事なれば、精︀しき事は存ぜず候へども、左馬助計りにあ
らず、凡て明智の一類︀を、此谷に葬られしといふ。塚︀印には何の木とやらん植ゑて
ありといひ聞かせしが、塚︀は素より知る事なく、木の名さへ忘れぬる由」申せしと
かや。
{{left/s|1em}}
明智の一類︀此所へ葬りしといふ事、逆叛人なるが故に、傳記に載する事なければ、
{{仮題|頁=87}}
今に之を知れる人なかりしが、左馬助が如きは智仁勇を兼備へし大將にて、古今
に稀なる英雄なれば、今日に至りても其靈ありぬるも理りに侍る。其餘の輩此
所へ葬りしといへるも、不審なる事にはあれども、秀吉とは素より朋輩の事にて、
此人、天のなせる人德ありと雖も、大業の成りし事、全く明智が信長を害せしよ
り{{r|就|な}}りし事なれば、秀吉公の密に此等の屍を此所へ葬られし事にやあらんか。
さもなくして餘人の斯かる事をなしぬる有らば、秀吉程の人、之を捨置かるゝ事
あらむや。忽ち召捕られて、彼の輩と同樣に刑せらるべき事に思はる。怪むべし。
左馬助は三宅彌平次といへる浪士にて、{{仮題|投錨=明智左馬助|見出=傍|節=u-4-6-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}浪々の間江州邊にありて、彼の入江長兵
衞と親しく、伊吹山の狩に、白狐の懷{{r|妊|みごも}}るを打殺︀せるに、入江之を止めんとして、
却って親子子朝とも狐の眷屬に{{r|化|ばか}}されしを、彌平次、又其狐をも捕へて之を殺︀しぬ。
其後明智光秀に仕へ、戰場に臨む每に武功を顯し、大いに立身して光秀が股肱・耳
目たり。斯かる英雄をして、光秀が如きに仕へしめし事、惜むべき事なれ共詮すべ
もなし。されども忠義を全うし、叛逆の節︀も之を諫めぬれども、其聞かざるを見
て是れに從ひ、安土城を攻落し、大津の戰に堀久太郞を破り、湖を馬にて渡し、其の
馬を憐んで{{r|印|しるし}}を殘し、城外にて乘り放し、城に入つて後、天下の重器︀の持傳ふべき
を、悉く秀吉に贈︀りぬ。此人、麾を拂つて籠城に及ばゝ、此城早速に落つる事もな
く、花々しき合戰もなるべきに、運を見切りて尋常に切腹し、每事に行き屆きぬる
名將なり。故に叛逆せし光秀が內にて、左馬助・內藏助などは隨一の者︀なれ共、今
日に至りても人皆之を稱す。夫れ人は天地淸濁の氣を受くるによつて、是れに厚
薄ありて才・不才ありと雖も、左馬助となるも長兵衞となるも、其心正しくして、
志の立つと立たざるとにあり。其心正しければ、よく五常の道をも辨へぬれば
人欲の私なく、事に臨んで迷ひを取り、恥を遺す事あるべからず。左馬助に限ら
ず、古來の英雄を慕ひ、其人にならんと思はゞ、其志によりて其人になるべし。其
心正直ならずして、事每に迷ひを生じ人欲に惑へる者︀は、其心常に亂れて長兵衞
が右に至る事能はじと思はる。此等の事を見聞くに付けても、常に氣を練︀り切磨
の功を積みて、長兵衞たる事なかれ。又肉身の彌陀如來をも恥かしく思ふべし。
{{left/e}}
{{仮題|頁=88}}
同十三庚寅年正月の事なりしが、丹州龜山領佐伯の宮に、幾百年を經しとも知れざ
る松の大木あり。本願寺本堂の棟木こむとて、之を求めむといへるにぞ、龜山の
本町吉野屋庄助といへる者︀、{{仮題|投錨=本願寺本堂棟木の用材|見出=傍|節=u-4-6-f|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}之を請負ひて其木を伐倒し、保津川とて桂川の川上ま
で此材木を引出だし、其川筋を流さむとて、川迄三里計りも隔りし所を引出さむと
せしに、斯かる大木なれば容易に動き難︀きにぞ、大勢の人夫をかけ、この木へ車を
敷きて出さむとせしに、其車忽に碎けて、龜山鹽町といへる所の厩の和吉といへる
者︀、是に敷かれて微塵に碎け死し、其餘怪我人多くありしとなり。斯かる事にて之
を出し難︀きにぞ、之を請負ひし庄助は、手附の金は勿論木を引出しぬるに及びし故、
半價をも取入れぬるが、斯かる事にて此木を出す事なり難︀きにぞ、其金を以て出奔
す。四五人も是に{{r|步乘|ぶのり}}せし者︀のありしが、一錢も是等の手には入る事なき事なれ
ども、之を伐出さるゝに付き、過分の物入ありし事故、其者︀共より之を償ひぬるに
ぞ、佐伯の何某・吉田の何某など、身代を仕まひぬる程の事に及びしといふ。是も如
來の御恩德なるべし。
同年閏三月十二日の夜、本願寺材木小屋出火して、大方に仕上げ置きし材木を燒失
ひぬ。{{仮題|投錨=本願寺作事小屋燒失|見出=傍|節=u-4-6-g|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}火事の節︀には、其{{r|邊|あたり}}にて狐多く啼きしといへり。此日同じ刻限に當り、土佐
國にて買求め、未だ山中に積置ける材木の悉く燒失せしといふ。此事日數立ちて
委しき事聞えし。怪むべき事に侍る。
四年前死失せし西本願寺は、彼の古義・新義の事に大騷動せし僧︀なりしが、斯かる騷
動について過分の物入ありし事故、{{仮題|投錨=本願寺の負債|見出=傍|節=u-4-6-h|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}大に借金をなし、一向に拂ふ事なければ、何れよ
りも嚴しく催促ある中にも、大佛妙法院宮樣にては、賽錢引當に金借りて延引に及
べるにぞ、妙法院の宮樣よりは、{{r|半被|はつぴ}}著︀たる下郞の四五人も、之を守らせらるゝに
ぞ、本願寺も是には大に困り果て、參詣の者︀共へも面目なく思ひぬるにぞ、門徒をせ
たげ金を取出し返せしといふ。斯かる有樣なれども、家老・用人其外役掛の者︀共は、
下地より私欲にて大に富奢りぬるが、斯く混雜の中故愈〻門徒講中・夷講中者︀などを
たらし賺して、私する事多けれども、役に携る事なき家來共は、何れも其日を暮し
かぬる程なる難︀澁なれども、少しも之を惠める心なく、剰へ儉約にて{{r|人減|ひとべらし}}なりとて、
{{仮題|頁=89}}
千四五百計りの家來、半過は暇を出し、何れも門徒中を無心に{{r|步行|ある}}きしが、別けて
浪華へは乞食の如き六條浪人妻子引連れ、一錢・一飯︀の合力を受け步行きしといふ。
斯くの如くに家來共をば流浪せしめつゝも、彼の暗主には、弓馬・劒槍に長ぜし浪人
者︀を抱へ、{{仮題|投錨=本願寺主の淫樂|見出=傍|節=u-4-6-i|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}的を射、馬をせめ、酒宴・遊興に長じ、頻︀に島原に通ひ、多く妾を抱へ、妾な
らざるも己が心に叶へる召使の女は、悉く之を犯し、近習を相手に芝居をなして樂
しむなど、釋氏の流を汲める者︀にして、其行之を譬ふるに物なし。鸞師肉食・妻帶を
己より始めて、其門流之を許さると雖も、彼は後世此戒保ち難︀くし、法を犯せる者︀の
多からむ事を厭ひ、これが欲情をはたさる迄に、斯かる宗門を建立せし事なるに、
この事{{r|許|ゆ}}りてありぬればとて、妾を抱へ遊女を淫し、武を勵み人を{{r|騙|だま}}して、己が奢
り遊興に遣ひ棄つる金取集めよとは、いひし事にてはあらじ。此暗主、文政十丁亥
の冬死去せしを、同十一戊子年正月十六日、表喪をなさむとて、十五日初更本堂迄
出棺す。{{仮題|投錨=同寺主の葬式|見出=傍|節=u-4-6-j|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}寺々は其格式に依つて堂上にあれども、平僧︀は何れも堂下より門內にあ
り、暇乞又は其式を拜まむとて、參詣人數萬人門內に居餘りて、門外に充滿して少
しの{{r|身動|みうごき}}きも成り難︀きに、この夜は寒氣別けて烈しきに、初更一天かき曇り、大雨・
大雷に大騷動に及び、人々思掛なき事なれども、如何とも仕難︀く、されども是に堪へ
難︀く、逃れ出でむとする事故、彌が上に倒れ掛りて死人・怪我人多し。明くる日に至
り、七條花畑にて火葬になす。これと共に其人の衣服・珠數・袈裟・衣は申すに及ばず、
書物・器︀財に至る迄、其身一代祕藏せし物、何に寄らず燒捨つる事なりとぞ。沐湯の
不淨水を、{{r|手筋|てすぢ}}求めて之を戴かむとて爭ひ受けて、之を飮める者︀多く、火葬せし灰
少し計り貰ひ受くるには、金子百疋づつにても、少し後れては之を受くる事も難︀
く、僅かの間に其灰盡き果てぬる事なりといふ。中にも哀れなるは、七條花畑とい
へるは、元より本願寺の地面なりと雖も、此處を燒場になさむとて、舊臘廿日頃に
至り、人家七十軒を傾けさせて之を取拂ひぬ。七十軒にては人數少くとも三百計
りはあるべし。最早餘日もあらずして年の改まる事なれば、いづれも事多き時節︀
なるに、差當り思はしき家なきは、斯かる{{r|忙|せば}}しき時に至り、親類︀などへ散り{{く}}に
なりてつぼめるあるべし。中には貧窮にして、家借りて移りぬる力もなくて困窮
{{仮題|頁=90}}
し、途方に暮るゝ者︀も多かるべし。彼一人に係りて、多くの人の愁ひ苦しむ事、幾百
ぞや。斯かる事は俗人も忍びざる事なり、況して釋氏に於てをや。其外油小路通
葬禮の道筋、一日の間牛馬車を止めぬる金三百兩を出せしといふ。斯くて其明日
に至り、非人共へ千貫文の施行せしとて誇れるもをかし。此度暗主死去に付き、葬
式の入用門徒をせぶり廻り、仰山の入用故夫にても足る事なければ、所々にて金子
借り廻りぬ。{{仮題|投錨=本願寺に就いての批判|見出=傍|節=u-4-6-k|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}夫れ婚・葬は人の大禮にして、匹夫と雖も志ある者︀は金借りて、之を整
へるを恥とする所なり。俗家と違ひ釋氏の事なれば、其門徒の布施物を受けぬる
事なれば、少しの心得ありても、斯かる事には及ばざる事なれども、これに付けて
も其爪を延ばしぬる事と思はる。予淨光寺に到りて、其非なる事一々にいひ竝べ
之を誹謗せしに、彼の徒も應ふる事能はざりしが、「一代祕藏せし物は勿論、衣服迄
も澤山に殘りて、下々に殘りては勿體なくて、其信薄ければ態と人の尊びぬる樣に、
物の數を減ずるとて、先代より斯くの如し」と言譯せしにぞ、なほも釋氏の法に背き
ぬるとて大笑せし事なりし。松永彈正は三好長慶に仕へしが、長慶も曲者︀なりし
かども、彼が好智に惑はされて、次第に之を取立て、後には家の大事をも打任せぬ
るにぞ、久秀時を得て、長慶が子の山城守を毒殺︀し、後には主家の權を奪ひ、足利將
軍義輝公を攻殺︀し、大志を抱ける程の曲者︀なれども、信長と戰を催して、信貴の本
城へ籠城し、落城に臨んで天下に名高き平蜘蛛といへる釜の、敵の手に渡たるを嫉
たしと思ひ、其の釜を打碎きて自害せし事ありて、其器︀の小なる事{{仮題|編注=1|を|衍カ}}天下の物笑と
なりし事なるに、是には遙にまさりて、多くの寶器︀を燒捨つる事、釋氏の身にして、
法に背き、其器︀の小なるとやいはむ、欲深きとやいはむ。之を譬ふるに物なし。親
鸞・蓮如等に斯かる事ありしと思へるにや。斯くても其法に叶へる事と思へるか。
憎︀むべし{{く}}。應仁より天正に至るまで天下大に亂れ、上、將軍の權なく諸︀侯も勢
を失ひ、小も志を得ては大を倒し、君臣・父子・兄弟に至る迄、互に國を爭ひて利の爲
に人倫を紊る。此時を幸として、本願寺の一派大に勢を振ひ、富樫介を打亡ぼして
より、加州一國を押領し、能登・加賀等をも攻取るに至り、越前の淺倉義景と緣組し
て、是に力を合せ、勢州長島にても近國を切從へむとす。織田信長之を憤りて軍勢
{{仮題|頁=91}}
を差向け、其身も後詰せしに、散々に打負けて、織田大隅守信廣・同半左衞門尉秀成・
同孫十郞信次・同市介信成・同四郞三郞信昌、同じく大將分に於ては氏家常陸介友國
を始め柴田・佐久間が一族、この所にて討取られ、淺井・朝倉、叡山などと心を合せて
信長に敵し、大に將卒を失ひ、是が爲に深く苦しめられし事なれば、之を信長の憎︀
みしも理なり。又志を得て宮內大臣に進み、天子守護の職分・武家の棟梁として、私
の恨なく共、斯かる兇惡の者︀を誅する事なからむや。信長程の英傑も之を亡ぼす
事能はざりしは、{{仮題|投錨=本願寺門徒の信仰熱烈なる事|見出=傍|節=u-4-6-l|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}彼の徒一和にして命を失ふ事を厭はず、死ぬも生くるも如來への
御恩報じ、上人の爲に討死せば必定往生疑なしとて、矢石を少しも恐るゝ事なく、衆
人心一致して、進退自ら度に叶へるにぞ、之を果す事ならずして、其間に明智が爲
に信長も弑せられし故、事なく助かりしは彼の徒の幸といふべし。後世に至り鈴
木飛驒守・同苗孫市などが功を稱し、飛驒が如きを軍師と稱へて、彼の門徒等迄も孔
明の如くに思へるも{{r|可笑し|をか}}。斯く心一致せし人數を引廻せるは、兒輩も之をよく
すべし。笑ふべし{{く}}。
東本願寺燒火の夜より新嘗會始まりぬとて、洛中へ御觸あり。これは天子二夜・三
日の間、自ら神︀明の御祭をなし給ふ事にて、洛中・洛外此祭の間は、寺院の鐘をも禁
ぜられ、若し失火ある時は、火元は勿論其町の年寄迄も、遠島になる事なりとぞ、已
に二條殿にも、昔は御築地の內なりしが、此御神︀事に火を過つてより、今の如く今出
川の御門外へ移され給ひ、百萬遍も斯かる事にて洛中にありしを、今の如く白河邊
へ移されしといふ。斯かる御掟ある事なるに、御所に御差支ありて、新嘗會御延引
との御觸を、火事直中に仰出されしといふ。如何なる御差支にや之を知らず。
淨土宗の鼻祖︀源空を師として、其流を汲みて一向の一派を立てぬる事なるに、先年
も淨土眞宗などいひ出でて、恩義をも打忘れ我慢に募る所よりして、師と賴みぬ
る淨土宗を相手として爭論をなし、法外の事などあり。源空をば天子御歸依遊ば
ざれ、法事每に贈︀號を增し給ひ、上人・大師等を經て六百年の忌に當れる時、菩薩位に
至り、法事の節︀は、何にても天子の御施主なりといふ。{{仮題|投錨=淨土宗との爭論|見出=傍|節=u-4-6-m|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}彼の徒之を羨しく思ひて、五
百五十回忌に大師號を願ひ出でぬるに、增上寺より之を拒み其事成り難︀く、大に面
{{仮題|頁=92}}
目を失ひし事なり。其節︀公儀よりの仰渡され左の如し。予彼の輩と敵々にあらざ
れば、之を嘲けること大人氣なしと雖も、彼の宗の根本斯くの如くにして、世に害
ある事多きにぞ、筆の序に書記しぬる者︀なり。
本願寺開祖︀年回に付、大師號願出候節︀之被{{二}}仰渡{{一}}左之通。
東西本願寺
興正寺
其外
此度親鸞聖人五百五十回忌に付、大師號之儀願候處、{{仮題|投錨=親鸞大師號許可せられず|見出=傍|節=u-4-6-n|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊3|錨}}所司代申渡之趣、開祖︀遠回に
付、大師號之儀追々被{{二}}相願{{一}}候處、範宴善信事者︀優婆寒{{仮題|編注=2||脫カ}}同樣之事に付、大師號被
{{レ}}願候儀者︀可{{レ}}{{仮題|編注=1|入|被カ}}{{二}}憚入{{一}}事に候。
右之外御口達にて仰渡旨、源空上人ゟ勘氣被{{レ}}請候身分に付、淸僧︀と難︀{{レ}}申事に付、御
差留は無{{レ}}之候得共、親鸞上人と被{{レ}}唱候事<sup>茂</sup>、遠慮可{{レ}}然旨被{{二}}仰渡{{一}}候。
午四月
{{仮題|ここまで=浮世の有様/2/分冊3}}
{{仮題|ここから=浮世の有様/2/分冊4}}
{{仮題|頁=92}}
{{仮題|投錨=小笠原家事件|見出=中|節=u-4-7|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
{{仮題|添文=1| 小笠原主殿頭|小笠原大膳大夫名代}}
其方家老小笠原出雲所行不{{レ}}宜旨、{{仮題|投錨=小笠原主殿逼塞|見出=傍|節=u-4-7-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}在所家老共申聞、在所へ呼出候處、却而出雲申旨
致{{二}}信用{{一}}、一應之糺にも不{{レ}}及、在所家老共退役之儀、同人へ爲{{二}}取計{{一}}候次第に至候段、
思慮も無{{レ}}之いたし方に付、旦又家老共打揃、他領迄罷越輕卒之至り不埒に候。先年
も家老共元締方不{{レ}}宜趣相聞、其方家督候時、御沙汰も可{{レ}}有{{レ}}之處、又々此度之始末
重疊不調法之事に候。重くも可{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}候得共、當年日光御法會之砌、先祖︀之御奉
公筋目を被{{二}}思召{{一}}御有免︀を以逼塞被{{二}}仰付{{一}}候。
{{仮題|添文=1| 小宮四郞左衞門|小笠原大膳大夫家老}}
伊藤六郞郞衞{{nop}}
{{仮題|頁=93}}
小笠原藏人
二木勘右衞門
{{仮題|投錨=小笠原家老仕置|見出=傍|節=u-4-7-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
右之者︀共、主人大膳大夫、小笠原出雲申旨致{{二}}信用{{一}}、退役申付候而も輕卒之振舞不埒
に候。役儀被{{二}}召放{{一}}蟄居可{{二}}申付{{一}}候。右之外差控、他國いたし候者︀共<sup>茂</sup>、吟味之上相
應之答可{{二}}申付{{一}}候。
右之趣、御用番於{{二}}土井大炊頭宅{{一}}、老中列座、大炊頭申渡。大目附有田播磨守・御目附
內藤隼人正罷越。
文化十二乙亥年八月十三日
文政十三寅年五月廿九日
{{仮題|添文=1| 小笠原應助|小笠原大膳大夫家老|}}
{{left/s|1em}}
{{仮題|投錨=同|見出=傍|節=u-4-7-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
其方儀、家老役も相勤候者︀不{{二}}行屆{{一}}取計方、畢竟不取締之趣に相聞え、依{{レ}}之家老役
取放、隱居被{{二}}仰付{{一}}者︀也。
{{left/e}}
{{仮題|添文=1| 長尾仁右衞門|同人家來留守居}}
{{left/s|1em}}
{{仮題|投錨=小笠原留守居の家來仕置|見出=傍|節=u-4-7-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
其方儀、留守居役も相勤候者︀、御尋有{{レ}}之科人御預之儀も不{{二}}心付{{一}}、私之取計にて國
許へ差送、道中にて病死候を隱置、其後當人御呼出と承り驚入、當惑之上二三度
病氣と僞り、又者︀謀計思付、三四年前召仕候若黨伊八を相賴、病死之體に拵置、右
之趣申出候に付、早速太田備後守殿ゟ檢使差遣候處、右謀計之事故被{{二}}見顯{{一}}、一言
之申披無{{レ}}之、剩へ後藤玄貞相賴置、病死に申立させ、公儀をも不{{レ}}恐之段、重々不
屆之至に付、中追放被{{二}}仰付{{一}}者︀也。
{{仮題|添文=1| 後藤玄貞|同人家來醫師}}
其方儀、{{仮題|投錨=小笠原家來醫師の仕置|見出=傍|節=u-4-7-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}醫師者︀右樣之儀に候はゞ、訴訟をも可{{レ}}致處、無{{二}}其儀{{一}}、剩へ長尾仁右衞門
へ組し候段、不行屆之事に候。依{{レ}}之押込被{{二}}仰付{{一}}者︀也。{{nop}}
{{仮題|頁=94}}
{{仮題|添文=1| 依田義十郞|同人家來留守居}}
松崎半右衞門
伊東半右衞門
叱り 那須何左衞門{{仮題|投錨=同留守居仕置|見出=傍|節=u-4-7-f|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
緖方茂平次
山下勘左衞門
池田權三郞
{{仮題|添文=1| 澁田見源吾|用人}}
〔小笠原應助方に三四年以前若黨奉公相勤候伊八、當時築地に而病死〕
{{仮題|添文=1| 伊八|家主}}
其方儀、存命に候はゞ三貫文過料申付者︀也。{{仮題|投錨=同若黨の仕置|見出=傍|節=u-4-7-g|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
{{left/e}}
追院 {{仮題|添文=1| 法泉寺惠雲|豐前國小倉}}{{仮題|投錨=法泉寺惠雲追院|見出=傍|節=u-4-7-h|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
右者︀寺社︀奉行松平伊豆守宅に而被{{二}}仰渡{{一}}候。
右御尋御呼出之科人は、改派一件の由なり。
右は小倉の町人、寺と公事の事あり。公訴に及び、公儀より右の者︀、小笠原へ御預
と成りぬ。されども{{r|頓|とん}}と御{{r|招出|よみだし}}もなくて、空しく日數暮行くにぞ、此者︀大に退屈し、
頻︀りに國元の事の案じらるゝとて、寺內分にて歸し給はれといへるを、役人共の含
みにて、內々にて下しやりぬ。其後にて急の御召出之あるにぞ、本人病氣の由公儀
を僞り置き、早々追人を走らしむるに、其町人小倉近き所にて病死せし故、追人の
者︀も空しく歸り來て其由をいふ。屋敷にても今更詮方なく、四度計り病氣いひ立
てゝ相斷りぬれども、斯くて濟むべき事ならねば、伊八といへる八百屋相賴み病人
となし、右病人死去の由屆出でぬ。囚人の事なれば檢使來りしに、右伊八死人の眞
似をなしてありしかども、素より眞實の死人ならざれば、檢使之を怪しみ咎めて、
{{仮題|頁=95}}
臍へ大なる灸をすゑさせしかば、{{仮題|投錨=若黨伊八の罪狀|見出=傍|節=u-4-7-i|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}是に堪へかね死人逃出でしにぞ、姦計悉く露顯に
及びしが、右の落著︀左の如くなりしとぞ。伊八は其場にて召捕られ入牢せしが牢
死せしとなり。淸和源氏の嫡々新羅義光の後胤、家柄も今にてはさつぱり明きが
らと成り、小笠原の暗弱、家中は大馬鹿。憐れむべし{{く}}。
{{仮題|投錨=蘭醫シーボルト事件|見出=中|節=u-4-8|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
{{left/s|5em}}
御天文方高橋作左衞門ゟ、阿蘭陀醫シーボルトへ、
御城內の圖面竝武器︀等遣し候一件に、同意いたし
取計候通詞御仕置。
上杉佐渡守へ
{{仮題|添文=1| 吉雄忠二郞|阿蘭陀小通詞}}
{{left/e}}
{{left/s|1em}}
右之者︀、不屆之品有{{レ}}之永牢申付候。{{仮題|投錨=通詞吉雄忠次郞仕置|見出=傍|節=u-4-8-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}長崎表に者︀難︀{{レ}}被{{二}}差置{{一}}筋に付、其方へ引渡候
間、在所へ差遣、流人之取扱に而、生涯取籠置候樣可{{レ}}被{{レ}}致候。尤受取方竝途中手
當等之儀は、筒井伊賀守可{{レ}}有{{二}}承合{{一}}候。
文政十三庚寅五月
{{仮題|添文=1| 吉雄忠二郞|阿蘭陀小通詞助| 寅四十四歲}}
總而日本人ゟ阿蘭陀人へ音信贈︀答者︀、容易に不{{二}}相成{{一}}段辨乍{{二}}罷在{{一}}、去戌年江戶詰
中阿蘭陀人參府に付、{{仮題|投錨=同請書|見出=傍|節=u-4-8-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}天文方高橋作左衞門願申上、對話いたし候節︀に附添參り、通
辯いたし候上者︀、同人儀外科シーボルトと懇意を結び、書籍等贈︀答致候者︀、早速
其筋へ可{{二}}申立{{一}}處、等閑に相心得、剩へ長崎表へ歸著︀後、シーボルトゟ作左衞門へ
書籍等相送候を取次候段、御用筋と心得違候迚右始末、通詞之身分別而不屆に付、
永牢申付、上杉佐渡守へ引渡遣す。
右之通被{{二}}仰渡{{一}}奉{{レ}}畏候。爲{{二}}後日{{一}}如{{レ}}件。
寅五月廿一日 吉雄忠二郞判{{nop}}
{{仮題|頁=96}}
前書之通、大久保加賀守殿御指圖によつて、吉雄忠二郞儀、主人佐渡守へ御渡之
上、在處へ差遣し、流人之取扱に而、生涯取籠置候樣、被{{二}}仰渡{{一}}私共へ被{{レ}}成{{二}}御引渡{{一}}、
其旨主人へ可{{二}}申聞{{一}}旨被{{二}}仰渡{{一}}、奉{{レ}}畏候。爲{{二}}後日{{一}}如{{レ}}件。
{{仮題|添文=1| 板屋隼人<sup>判</sup>|上杉佐渡守內}}
岩城伊豫守樣へ御預 {{仮題|添文=1| 馬場爲八郞|阿蘭陀大通詞| 寅六十二歲}}
前田大和守樣へ御預 {{仮題|添文=1| {{仮題|左線=稔}}部市五郞|同小通詞末席| 寅四十五歲}}
右之通、此節︀御裁許相濟候。
{{left/e}}
一、本多之家中關所破之一件者︀、未落著︀不{{レ}}仕候由、長崎奉行御勤役中に者︀御裁許も
付兼候由にて、{{仮題|投錨=本多の家中關所破|見出=傍|節=u-4-8-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}先達而御持頭御轉役有{{レ}}之、此末差控等にも可{{二}}相成{{一}}哉、酒井樣之御懸
りにて、先者︀穩之方に屬し可{{レ}}申風評にて御座候。酒井樣にも自分も家中抔にも內々
にて、左樣之事も有{{レ}}之たる儀も有{{レ}}之べく抔之御舌音と申事にて御座候。
{{left/s|1em}}
右は長崎御奉行御交代の節︀、家來の內長崎の遊女を受出し、長持に入れ候て御關
所を越え、江戶表にて小借家に差置候處、大いに身の出世と心得受出され來りし
に、御小身の家來、畢竟御役柄故、家中も宜しきと申す迄にて、江戶表にては甚不恙
の暮故、大いに思はく違ひし事なれば、頻︀に歸國いたし度、此事主人へ願ひぬれど
も相成らざる旨にて、「强ひていひ出づるに於ては手討になすべし」とて、之を{{r|脅|おど}}し
ぬる故、據なく公儀へ驅込み願をなして露顯せしといふ。此類︀外にもありとい
へり。
{{left/e}}
文政十三庚寅六月朔日朝四つ時登城之節︀、水野出羽︀守殿ゟ大小名へ御達之儀有{{レ}}之
由にて、大小名、出羽︀守殿門前に相集られ候內、石川左金吾殿馬繫有{{レ}}之候處へ、土屋
相模守殿步行にて被{{レ}}通候。尤大勢人込合候故、石川殿馬之口取馬之尻を被{{レ}}撲傍へ被
{{レ}}除候內、相模守殿{{r|出會頭|であひがしら}}に馬刎擧り走り出し、相模守殿を散々に踏付候て、土屋ど
の處々怪我有{{レ}}之、{{仮題|投錨=土居相模守馬に蹈まる|見出=傍|節=u-4-8-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}其儘出仕無{{レ}}之被{{二}}引取{{一}}候。尤世上御落命之由申合候へ共、首之骨
違ひ腰痛大に被{{レ}}致、早速養生有{{レ}}之候由、右始末早速に左金吾殿被{{二}}聞召{{一}}候得共、翌二
日以{{二}}使者︀{{一}}相模守殿へ御斷に被{{二}}差遣{{一}}候得共取上無{{レ}}之、夫ゟ自分三度日々斷に被{{レ}}出
{{仮題|頁=97}}
候。土屋殿も水野出羽︀守殿へ被{{レ}}伺、脇坂殿ゟ御演舌を以、石川殿斷相立候事。誠に
大名之馬に被{{レ}}踏候儀珍敷事と申噂致候。石川殿は三千石也。
{{left/s|1em}}
右酒井左衞門殿屋敷へ參候書狀の寫なり。石川殿にはよく{{く}}丁寧の人柄と思
はる。使者︀を以て相勵り、先方{{r|取上|とりあげ}}之なしとで自身に三度迄行かれしは、餘り人
柄過ぎて怪むべし。一應斷いひて先方に取上なくば、馬と口取を渡し、頓著︀なく{{r|詠|なが}}
め居てよかるべき事ぞかし。又土屋殿御老中へ伺はれしも、其恥を公にせむと
思へるにや。怪むべし{{く}}。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=享和三年英船長崎に來る|見出=中|節=u-4-9|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
享和三癸亥年八月の事かと覺えし。長崎へイギリスの賊船出來れり。時の御奉行
は千二百石を領して松平圖書頭といひ、外國より每年に多くの入船之ありて、繁昌
の湊なれば、{{仮題|投錨=英船長崎に來る|見出=傍|節=u-4-9-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}萬一外國より隙を窺ふ事もあらんと、不意に備ふる御手當之あり。總
て九州の諸︀侯はこの役を{{仮題|編注=1|・|蒙カ}}りぬ。其中にても、肥前と筑前とは、一年代りにて、{{r|西泊|にしどまり}}
とて、長崎の湊口なる御番所へ二千人の人數を籠めて、其備ある事なりとぞ。斯く
て其船出來りしにぞ、いつも阿蘭陀船入津する頃なれば、これとのみ心得、沖の方
なる島山等へ居ゑ置ける遠見より注進するにぞ、此方よりも阿蘭陀人を船に{{仮題|編注=1|・|乘カ}}せ、
之を見屆けの役人を出し旗合せをなす。阿蘭陀の旗といへるは、靑赤白三色の旗
にして、この方より之を立てゝ見せぬれば、彼の船にても同じ旗を立つる事にて、
この旗合濟みて入船を許さるゝ事故、いつもの如くに心得て、此方の船にこの旗を
立てゝ見する。旗合せの合ひ難︀き故、之を怪み思ひぬれば、蘭人の船、先の船へ乘
付けて之を見屆けむとせしに、蘭人兩人を捕へて其船へ引入れ、之を人質に取りて
返す事なかりしにぞ、この方の役人共、大に恐れ早々逃歸りて、其由御奉行へ注進
せしにぞ、これより大騷動に及び、早速に鍋島の役所へ、取逃さゞる樣に其備すべ
しといひ渡されしに、年來斯かる役儀を蒙りぬれども、遂に是迄何事もある事なか
りしにぞ、筑前と交代する時計り、互に二千人の行粧を繕ふ迄にして、費を厭ひぬ
る所より、{{仮題|投錨=鍋島家の失態|見出=傍|節=u-4-9-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}纔百人計りの人數にて當所を守り、其餘は內分にて皆々城下へ引取りぬ。
是迄年來斯くの如くにて濟み來りぬるにぞ、此度も纔百人計りの人數なれば、是が
{{仮題|頁=98}}
後を立切りぬる手配も成り難︀く大狼狽に及び、直に本城へ其由を達しぬ。斯くの
如くなれば、御奉行にも大に心をあせり、氣を揉まれけれども、小身の事故、譜代の
家來なるは聊にて、餘は渡り者︀計りにてはか{{ぐ}}しき者︀もなく、之を引くるめしと
ても、僅の小人數なればせん方なし。斯かる有樣なれば、何分にも人數揃ふ迄は、之
をつり付置き、蘭人をも{{仮題|編注=1|其|取カ}}戾さゞればなり難︀しと評定せる內に、彼の異船よりは小
船を下し、長崎湊內を乘廻し、野菜を取り人家へ{{仮題|編注=1|込|入カ}}りて家財硏石を奪取りなどすれ
ども、{{仮題|分注=1|是は市中にてはなし、|在村にての事なり。}}之を捕ふる事も能はず。斯くて異船に捕はれたる蘭人を
取戾せとて、{{仮題|投錨=通詞末永の功名|見出=傍|節=u-4-9-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}御奉行より命ぜられしかども、何れ{{仮題|編注=2|・|もカ}}恐れて行惱みし中にて、通詞末永
甚左衞門といへる者︀、進んで行かむといへるにぞ、是に兩組の同心を添へられ、
{{仮題|分注=1|同心も皆尻込せしといふ。}}野菜物・牛などを持たせやりぬるに、此者︀共小船にて異船へ乘移り、應對に
及びて蘭人を取戾し來りしかば、跡にて御稱美に預り、末永は永代小通詞、兩組同心
{{仮題|編注=1|を|衍カ}}も永代宜しき役を{{仮題|編注=1|免︀|許カ}}ぜられしといふ。今は故なく蘭人をも取返しぬれば、鍋島の
人數來らば、之を燒討にすべしとの評定なれども、往來程隔たりし事なれば、人數
間に逢ひ難︀く、イギリスの船は西泊の外に二日程居て歸り去りしといふ。何れも
之を知りつゝも詮方なくて之を見遁がしぬ。大村侯大勢を引連れ、早速駈付けら
れしかども、最早遙の沖へ出行きし後にして、詮方なかりしといふ。{{仮題|分注=1|〔頭註〕大村には事ある時は、直に駈
付け御奉行所を預り、奉行には後を大村に渡置き
て出陣をなし、諸︀軍を指揮することなりとぞ。}}斯かる事なれば、御奉行には公儀へ對し申
譯なき事なれば切腹し給ひしが、斯樣なる越度によりて切腹する事なれば、御役
所を穢す事恐れ多しとて、{{仮題|投錨=奉行圖書頭切腹|見出=傍|節=u-4-9-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}庭へ荒筵を敷きて切腹致されしにぞ、知行も其儘にて
子息へ家督仰付けられしとかや。{{仮題|分注=1|〔頭註〕圖書殿の次には、曲淵甲|斐守殿長崎の御奉行なりし。}}鍋島よりは其備行屆か
で、異船を取逃せし事當家の罪にして、斯かる事に成行きし事なれば、之を氣の毒
に思はれて、其節︀金千五百兩の香奠を進ぜられ、永々一ケ年に三百兩づつを贈︀らる
る樣になりしとなり。此度の越度によつて、鍋島家は五十日の閉門仰付かる。
{{仮題|分注=1|〔頭註〕鍋島も當主切腹ありしと云。}}是迄年々事なき故、人數を{{r|減|へら}}して濟來りしに、此度斯かる事出來りしは、
鍋島家の不運とはいひながら、治に居て亂を忘るゝの所より、斯かる恥をも引出す
やうになりぬ。彼の家は古へ大に武功ある家なるに、いかなれば亂を忘れて斯かる
{{仮題|頁=99}}
事に及びしにや。其後には公儀よりも嚴重の御手配にて、西泊より遙の沖にある
所の山島等へ、悉く石火矢{{仮題|分注=1|エゲレス來れる迄は、西泊より|沖には石火矢の備なしといふ。}}を居ゑられて、異船何艘出來り
しとて、之を討洩らさゞるやうの御手當になりしとなり。
{{仮題|細目=1}}
文化元甲子年、オロシヤ船長崎へ出來りしに、當年は筑前の番に當りしが、前年の
事ありしに懲︀りて、此度は嚴重に備へ、異船に際まり、御奉行よりの差圖あれば、直
に其船を燒討にすべしと、足輕共の腰に何れも燒藥を著︀け、是に火を付けて異船に
飛移り、{{仮題|投錨=露船長崎に來る|見出=傍|節=u-4-9-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}體を燒草にして相働けとて、其用意をなし、臺場々々には悉く石火矢を仕
懸けて、嚴重の備なりしが、此度のオロシヤは、少しくわるびれたる事なく、六ケ年
前松前に出來り、交易の事を願ひしに、交易の願ならば、長崎に參りて願ふべしと
の、松平越中侯より下されし御書を持來りし事なれば、交易の事計りを願ひなば、御
聞濟もあるべき由なるに、凡そ世界の中にて日本程宜しき國はなき事なれば、何卒
心腹の好結びたき故に、此度腹心の者︀をといふ事なり。斯樣にして出來れる者︀共
は、彼の地にても歷々の諸︀侯の由、故に少しもわるびれし事なく、よく日本の事に
通じぬる上に、日本の人を六人迄連れ來りしとなり。斯かる願なれば、御聞屆之な
く、獻上の品々をも御差戾になりしかども、遠方を持參りし事なれば、持歸る事な
り難︀しとて、{{r|數之|しば{{ぐ}}}}を願ひ、强ひて受給ふ事なければ、此處に打捨て歸るべしとい
にぞ。公儀に之を御受ありし體にて、殘らず之をば通詞共へ下され、公儀よりも眞
綿二百本遣されて歸りしといふ。何れも前にもいへる如く、何によらず日本の事
に通じ、詞はいふに及ばず、假名・眞字等をも達筆に書きしといふ。其後に至り蝦夷
松前等を騒動せしめしは、全くオロシヤの屬國にして、オロシヤにてはなかるべし。
オロシヤ人は至つて溫順なる者︀なりしとて、{{r|委細|くはし}}く長崎商人方升屋猪︀石衞門
{{仮題|分注=1|姓は四方田といへり}}いへる者︀に聞けるまゝを、こゝに記し置くものなり。
{{仮題|投錨=相馬祭|見出=中|節=u-4-10|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
奧州相馬の城下より三里餘を隔てぬる山に、古來より平將門を祀りぬ。公を憚り
て{{r|表向|おもてむき}}には妙見と稱し、之を相馬中の氏神︀とす。願ある者︀は必ず馬を奉納する事古
{{仮題|頁=100}}
例にて、{{仮題|投錨=相馬の氏神︀は將門|見出=傍|節=u-4-10-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}山內仰山に馬ありといふ。この祭禮の節︀、侯在城なれば候を始め一家中殘
らず、甲冑を帶し騎馬白刄を橫たへ、彼の社︀山より十町計りを隔てたる村へ陣し、
家中殘らず野陣をなし、四方一面に篝を焚き、見物四方に滿ちて數十萬に及ぶとい
ふ。侯出陣の節︀、三獻の禮ありて奧方酌を取り、飮み終つて其盃を打破り、直に馳
出す事なりとぞ。{{仮題|投錨=同祭禮|見出=傍|節=u-4-10-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}是に先ちて三日已前より兵學の師、彼の山に到り陣備をなす。
其備年每に異るといへり。他國より見物に到りし者︀も、酒一樽を携へ御出陣を賀
するとて、何れの陣所へなりとも行きぬれば、之を喜び上下混じて終夜酒宴をなし、
明方に至り序破急の貝を吹出せば、直に用意をなし、急の貝を相圖に何れも本陣に
集まり、侯と共に社︀の方へ馳行くに、山內の陣所より大勢の勢子に割竹を持たせて、
そこらこゝらを叩き立て、多くの馬を追出し、山より數丁の鳥居筋を追立てぬるに
候を始め一家中、道の左右を固め鯨聲を揚ぐる事なりとぞ。されども勢子を始め
此馬を叩く事は成り難︀く、只{{r|無上|むしやう}}に脇を叩き立てゝ追詰めて、大なる埓の中へ追込
め、程能く追入れしをば、之を乘り伏せ繩を付けて、又悉く本の山に牽來り、本社︀の
前に於て一方は候を始め一家中竝居、一方には百姓一樣に竝居て馬市をなし、右の
馬共悉く百姓より上に買上になる。是が{{r|直|あたひ}}の高下を論ずる事、至つてかしましゝ
といふ。其馬殘らず買取つて、直に其席に於て、又侯より奉納ありとなり。斯かる
仰山なる神︀事の軍陣の備あるは、吾が國に於て外に類︀なし。奉納濟みて後、山內に
構へし陣所に体らひ酒宴などありて、引取られぬる事なりとぞ。{{仮題|分注=1|〔頭書〕斯かる大そうの事故、神︀事は每年の事
なれども、斯家なる備あるは大抵六ケ年に一度位ありといふ。斯く軍陣の備をなし神︀へ奉納を
名として馬を儲へ置きぬるも、全く不時の變に備ふるの爲なるべし良き心懸といふべし。}}斯かる神︀
事なれば十里・二十里の外よりも、大勢見物に行く事なりといふ。
又常州水戶の領內にては、士農に限らず刀劒を拔持ちて、一統に神︀輿に供奉し、社︀
內に大篝を焚きぬるを、{{仮題|投錨=水戶領內の神︀事|見出=傍|節=u-4-10-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}銘々刀にて其火を切る事なる故、「何の學びにや」と之を尋ぬ
るに、神︀火に之を觸れぬれば、「年經ても其刀錆ぶる事なし」とて、古來より斯くする
事といふ。外より見物するに、何れも刀を振廻す事なれば、恐しき祭なりとて、衣笠
虎溪がこれを語りぬ。其餘嚴島の神︀事などは大層の事なり。されどもこれは尋常
の神︀事なり。相馬の神︀事の仰山なると水戶の火を切るとは、天下に類︀なしといふ。
{{仮題|頁=101}}
さもあるべし。
文化の末の頃かと覺ゆ。相州小田原の城主大久保相模守殿の足輕に、これも名を
忘れぬるが、{{仮題|投錨=大久保相模守足輕の敵討|見出=傍|節=u-4-10-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}何か朋輩と口論をなし、相手を斬殺︀し、其場より出奔せしが、上より嚴
しき手當ありて召捕られ入牢す。然るに此者︀、理なく牢を破りて逃げ去りし故、之
を捕ふるの手配に及びしに、是に殺︀されし者︀の忰より、敵討の儀を願ひ出でぬ。兄
は養子にして當年十七歲、弟は實子にて十一歲位かと覺えしが、此等が願を聞屆あ
りしにぞ、直に兄弟連立ちて敵を尋ねむとて、辛苦艱難︀{{r|具|つぶさ}}に之を嘗め盡せり。五六
年の星霜を經て、やう{{く}}と常州水戶の御領內にて、町人となつて隱れ住むを見出
し兄弟して之を打ちおほせぬ。敵も曲者︀にて對立とやらん以て、{{仮題|投錨=○對立は衝立ノ事か|見出=傍|節=|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}暫し之を防ぎしか
ども、身に寸鐵もなければ、やみ{{く}}と討たれしとなり。これが妻なる者︀も、夫の一
大事故之を支へし故、二三ケ所手疵負はされしといふ。斯くて兄弟より地頭へ敵
討の始末を屆けぬるにぞ、直に檢使ありて、夫より小田原へ御掛合になりしにぞ、
小田原よりも役人出來りて、兄弟の者︀を受取つて引取られしが、首尾よく敵討ちお
ほせぬるを稱美ありて、兄弟とも知行を給はり、侍に取立てられしといふ。
文政六壬未年四月上旬の事なりしが、水戶の御家老中山備前守殿家來に、地方割を
勤むる島村孫右衞門といへるは、知行四百石にして當年四十五歲になりぬ。又落
合五島兵衞とて知行二百五十石にて定府なるが、當年五十三歲なりといへり。此
等兩人心を合せ、不忠働き巧言令色を事として、主人を欺き己を利する事のみなる
にぞ、一統に之を惡みぬれども、時の權威に恐れて、之を如何ともする事能はざり
しに、{{仮題|投錨=根本國八の忠義|見出=傍|節=u-4-10-f|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}備前守の子息道之助といへる、附人なる根本國八とて、十石に三人扶持にて
近習役勤むる者︀あり。彼等兩人を其儘になし置きては、當家の爲になり難︀しとて、
右兩人の罪の箇狀一々に之を書殘し置きて、兩人とも立派に斬殺︀し、直に切腹して
相果てしといふ。行年二十歲、義光院忠誠勇心居士と號す。此人元來同藩渡邊善
右衞門といへる者︀の二男にて、根元惣左衞門養子となりしといふ。其志を稱すべし。
{{仮題|投錨=文政十年高松の仇討|見出=中|節=u-4-11|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
文政十丁亥の年閏六月十一一日、江州膳所の浪人、讚州高松に於て兄の敵を討つ。此
{{仮題|頁=102}}
敵といへるは、{{仮題|投錨=膳所の浪人讚岐にて兄の敵を討つ|見出=傍|節=u-4-11-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}元來高松の町人にて硏屋を職とする者︀なるが、之を修行せむとて京
都︀へ出で、其後膳所に行きて寺院に滯留をなしてありしを、右兄弟が兄の賴み寺故
墓參の度每比者︀とし出合ひ、佳持よりも御家中の方々に「刀の硏ぎ給ふあらば、此者︀
へ硏がせて給は{{仮題|編注=1|れ|衍カ}}るやう、御引合せ下さるべし」など賴まるゝにぞ、後には心易くな
りて、折々これが方へも出來りぬ。斯くて硏屋を業とするに、寺にありては不都︀合
なれば、町に出でよ、家借りて遣らむとて何事も引受けて、是が世話をなし遣りぬ
るに、此者︀酒色に耽り其職も勤むる事なき故、己が世話をなせし者︀、斯かる有樣に
ては濟み難︀しとて、度々異見を致し、妻を持たせなば、斯樣にもあるまじと思へる
にぞ、先年此家に召遣ひし下女を勸めて其者︀の妻となさしむ。斯くても色狂ひ止
まざる故、或時其人硏屋へ行きぬるに、折節︀主は宿に居らず、是が妻夫の身持良か
らぬ事を打歎きて、密に之を吿げぬるが、內分の事故さゝやきて咄しぬるを、折節︀
主歸り參り、怪しく思ひ立聞せしが、己が事をあしざまにいへる{{r|端々|はし{{ぐ}}}}の耳に入りぬ
る故、「さては此者︀、己が方へ召遣ひ妾とせし女を、我にあてがひ、我が留守を考へ來
りて、不義をなすと見えたり」と、大に憤りしが、少しも其色を見せずして、今歸り來
りし樣にて、これが前へ出來り{{r|四方山|よもやま}}の咄をなして、其日は別れしが、四五日を經て
妻の首を斬つて、之を風呂敷に包み、其人の家に行きしに。何心なくいつもの通りに
打解けて咄しぬ。硏屋がいへるには、「此間さる方より刀一腰硏ぎに來りし故、之を
硏上げしに、天晴︀の業物にて餘り見事なれば、之を見せ奉らむとて持參せし」とて、箱
より出しこれ御覽ぜよとて、刀拔きて見するにぞ、之を見むとて{{r|俯|うつぶ}}ける所を、眞二
つに討放し、風呂敷に包みたる妻が首を結び付け置きて、早々に出奔す。此事上聞
に達し、檢使立ちて之を見分されしに、斯かる死樣なれば、忽阿房拂となりぬ。二
男は同國水口の家中に養子に至り、三男未だ年少にして兄よめと共に、家にありし
が、斯かる有樣なれば、人々之を嘲り笑ひ、親類︀と雖も恥しき事なれば、是に構へる
者︀なし。水口へも此事聞ゆると、其儘養子を不緣して返せしといふ。斯くて兄弟
は詮方なく、夫より所々方々と、兄の敵を尋ね廻り、五六年を經て讚州へ渡りしに、
途中より防州岩國とやらんの浪人の虛無僧︀に出會ひ、是と親しくなりて、敵討に出
{{仮題|頁=103}}
でし事を語りぬるにぞ、此者︀、「我も元來侍の事なれば助太刀してやらむ」とて、讚{{仮題|編注=2|岐|州カ}}
を尋ね步行きしといふ。扨も硏屋は膳所を出奔し、久しく江戶に忍びしが、餘程年
數も立ちぬる故、頻︀に國の懷かしくなりし故、近き頃歸り來りしが、敵を持ちぬる
身の事なれば、油斷なり難︀きにぞ、在所へ引込み渡世してありしを尋ね出されて、
敵討せられしといふ。斯くて其由、所より早々高松へ屆出でしかば、早速に檢使立
ちて之を糺し、本多の浪人敵打に相違なければ、高松より膳所へ三人とも送り屆け
らる。元來ゝ屋が膳所に足を止むるやうになりし事、彼等が兄の大恩といふべし。
いかに硏屋思慮なき匹夫なりとて、一通りなるさゝやき{{r|咄|ばなし}}聞きしのみにて、殺︀すに
は及ぶまじき事なれ共、斯かる武邊に疎き馬鹿士なれば、實に不義の行ありし事も
計り難︀し。硏屋とても恩人の事故、大抵の事ならば堪忍すべき事なるに、必ず止み
難︀きゆゑあるぬる事なるべし。岩國の浪人、兄弟を助けて敵討てる時に至り、手を
下す事はなかりしかども、其家の表を固めて、何かと心を添へて遣りぬれば、敵の
方にはこれにても三分の{{r|弱|よわ}}みとはなるべし。斯く手配りをよくして、町人一人を
兄弟して討取りし事、勝負其初に顯然たれば、兄の敵を討ちおほせたる迄にて、事
事しく評判する程の事にはあらざれども、敵討などいへる事、近來は至つて稀なる
事故、專ら噂ありし事なりし。
{{仮題|投錨=文政十年大坂大火|見出=中|節=u-4-12|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
同年二月五日の夜、暮過の頃より、道頓堀出火ありて近邊迄燒來れるに、大西の芝
居は未だ果てずして切狂言の最中なる故、{{仮題|投錨=道頓堀の火事|見出=傍|節=u-4-12-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}其火事を隱して場錢を取らむとて、木戶
の欲心にて逸︀早く錢を集め廻りしが、斯かる群集の中にて、何れも狂言に見とれ、一
人も火事に心付く者︀なかりしに、程なく此芝居に火燃え付きしかば、何れもこれに
驚き、我れ一に狹き木戶口又は米屋の入口等より逃出でむとするにぞ、彌が上に踏
倒され、死人・怪我人數多くある中にも、男子に死せるは{{r|少|すくな}}にして、大方は女計りな
りしが、中には懷妊して八月位の女の踏殺︀されしあり。是等は斯かる身にして、斯
樣の場所に來れる事大膽なりといふべし。木戶の者︀共は、火事を隱して錢取り盡
しぬる上、皆々一番に逃去り、諸︀人を助けむともせざりし事、重罪の至なり。物見
{{仮題|頁=104}}
見物の中に、斯樣の芝居は分けて婦女の好める事にして、これに{{r|現|うつゝ}}なる者︀多く、親
夫の前をも憚らずして、「彼の役者︀は我が最員なり。これは好きなり」などとて役者︀
の評判をなし、己が最員なりといへるを惡しきなどいへる者︀あれば、面色火の如く
なりて之を爭ひ、斯かる者︀の常として、兎角に狂言の{{r|淫|みだ}}れたる所に心を留め、終に
は{{r|不正|あし}}き事をなしぬるも少からざる事なり。これに限らず、多くの人立の中へ行
{{仮題|編注=2|ける|くカ}}事をば戒むべき事なり。人の親としては、其子に五常の道を常に敎へ込みて、
其子をして世の中の廢れ物となさしむる事なかれ。{{nop}}
{{仮題|投錨=文政十二年各地の水災|見出=中|節=u-4-13|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
文政十二丑年七月十八日勝山洪水、明和九辰年の洪水よりは、少し劣りぬるやうな
れども夥しき洪水にて、{{仮題|投錨=各地の洪水|見出=傍|節=u-4-13-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}御城{{r|腰郭|こしぐるわ}}より町家床の上迄も水上り、町領中とも餘程損じ
ぬる由、伊東平右衞門・井上釗藏等より申越しぬ。
因幡にては堤二十間計り切込み、田地凡そ二十萬石計り水損の由。
紀州にても洪水、紀の川常水より水增す事一文八尺、人家・田地等大に損じぬるよ
し。丹波竝河、八木等へ切れ込み、人家少し損じ、人死も少々之あり。家財を運び除
けむとて、最初取除けし米俵の上に、三歲になれる小兒を括り付けて置きしに、大
なる蛇三つ迄是に纏ひ付きて、大に泣き叫びぬるを、母親やう{{く}}に馳付け、之を
取捨てしかども、其命危しといふ事なりしが、如何なりし事にや。
京都︀も洪水、風烈しく家の瓦を吹飛ばせしといふ。
近江湖、風烈しく{{r|暴|にはか}}に水減ずる事三尺、其水淀川へ吹落し、伏見・淀の間にて堤鳥羽︀
の方へ切れ込み、淀の大橋落ち、市中に二ケ所迄大河の如き水溜り出來て、船なく
ては越し難︀く、暴に船渡となりて、廿六日に此町を通りしもの、此渡に二百文を出
せし者︀ありぬ。十八日より九日を經て斯くの如し。其外南山城にても所々切れ込
みしといふ。
江戶にても八月十日、玉川堤切れ、四谷へ溢れ一面の水となり、{{r|立慶橋|りうけいばし}}・八代洲河
岸二筋になり溢れ流れて、人死少々有りしといふ。
{{nop}}
{{仮題|頁=105}}
{{仮題|投錨=文政諸國風俗|見出=中|節=u-4-14|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
衣笠虎溪は阿波德島の人なり。元來京都︀出生にて、十二歲より江戶へ出で、靑雲の
志を抱きて諸︀國を經歷し、二三度づつも至らざる國とても〔{{仮題|分注=1|なく|脫カ}}〕終に阿波を住居と
定めぬれ共、常に其國にある事なし。されど其志を得ること能はざるにぞ、其思絕ち
ぬ。此人圍碁を能くす。故に之を天祿と{{r|諦|あきら}}めて天下を遊行すといふ。文政十三寅
八月、浪華の客舍に於て病に臥し、予が治療を求む。往いて其人を見るに、少しく
衆に異なる所ある故、國々の弓矢の風を尋ねしに、若き時薩州に三年滯留せしが、至
つて堅き國風にて容易に他國よりは入込み難︀く、{{仮題|投錨=衣笠虎溪が各地の風俗談|見出=傍|節=u-4-14-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}至つて武を磨きし事なるに、近頃
彼の地に到りしに、大に柔弱になりて國風衰へ、他國より入次第にして、藝妓・遊女
の類︀方々より入込み、白晝に市中を徘徊し、總て其風儀長崎に等しくなりしといふ。
肥後は家格正しく、其國風古に異ならずとなり。
土佐は今に古風廢る事なく、妻を娶るに長高く尻大なるを選びて、容顏の美を選ぶ
事なく、{{r|大柄|おほがら}}にして、力量あれば輕き身分の女にて、大身の妻とならるゝ事なりと
ぞ。此家にては正月十一日には、每年家中一統甲冑を著︀し、其身々々の分に應じ
供を引連れ、馬上にて登城する事なるに、若し{{r|主|あるじ}}病に臥して登城なり難︀ければ、其
妻甲冑を著︀し、馬に乘り長刀を脇挾みて、夫の代に登城する事なりといふ。尤も武
家にては斯くありたき事なり。凡そ神︀功皇后を始め奉り、木曾義仲が愛妾巴・城の
板額・富田信濃守の妻・山口右京亮が乳母など其數多くして、悉く之を擧ぐるに暇
あらず。心得あるべき事なり。
長門は至つて柔弱の國風に見ゆれども、元就の餘風殘りしと見えて、家中に女の稽
古場ありて、一家中の女子長刀・柔術等を勵み、日々出精︀する事なりとぞ。日本の國
國に於て、女の稽古場ありて武を勵みぬるは、此國計りなりといへり。
仙臺は、大國にして城下も廣く、他國より入込み滯留せしとても、其樣子早速には
分ち難︀く、薩州の如き風儀なしといふ。
江州の彥根は、大に古風を守り詞・衣服等、都︀近くに有りぬるに、少しも其風に移ら
ず、武備よく備はりし事なりといふ。先年子武者︀修行せる者︀に聞きし事ありしが、
是がいへるも同じかりし。{{nop}}
{{仮題|頁=106}}
神︀君よりして武田・北條の名ある浪人共選んで、直政に附けられ、直政・直高何れも秀
でし豪傑なりしが、其餘風今に殘れる事と思はる。家に法度ある是にて思ふべし。
出羽︀山形・肥前島原の兩侯江府見附の御番を命ぜられ、文政十三寅年六月の事なり
しが、山形當番にて同家用人間瀨市左衞門と申す者︀、何故とも知らず、夜中相番の
者︀四人を、蒲團の上より寢込に突︀殺︀し、六人に手疵を負はせしに、其內一人、手疵受
けながら之を組止めぬ。明朝早々御檢使立ち、當人は亂心といふ事になして、亂心
ながら入牢となりしといふ。大切の御役先にて斯かる事仕出せる事なれば、山形
侯の首尾にかゝるべし。いかゞ御さばきになる事にや。
{{仮題|細目=1}}
同じき頃の噂なりしが、明石屋敷へ江戶町人より先年出銀せしかども、頓と返す事
なく、利銀さへも手を付け申されず候故、貸人是が爲に身分立行き難︀く、飢觸に及
ぶ程の事なる故、種々歎きけれども頓著︀なく、心强く手切れの返事なりしにぞ、此
者︀詮方なくて、同屋敷にて先達て公儀より御養子入らせらるゝに付、新に掘られぬ
る御飮水の井戶へ身投せしが、五日過ぎて死骸浮上りし故、其{{r|掛|かゝり}}の役人、大勢押込
まれしといふ。此者︀明日に至りても家に歸らざる故、妻子屋敷へ尋ね來りしに昨
日何時頃に歸りしに相違なしといへる事故、道筋より心易き方々の大抵心に、當れ
る限を、尋ね盡しても知るゝ事なく、昨日內を出掛けに、此度は是非譯付け申さず
候ては引取らぬ事故、障を入るとも譯付け引取るべければ、其旨心得べしと申置き
て出でし故、是非御屋敷に居るべしとて、吟味を願へども、急度歸りしに相違なし
と申募られしが、五日にして此事知れぬ。これを聞けるにも憐を催す程の事なり。
命を捨てしはよく{{く}}の事と覺ゆ。不仁の事といふべし。此事家內より公儀へ願
ひ出でし由、如何なる御捌になれるにや。
{{仮題|投錨=文政十二年大鹽の功業|見出=中|節=u-4-15|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
近年西御町奉行の組下に、弓削新右衞門{{仮題|分注=1|〔頭註〕弓削新右衞門は、諸︀御用調役支配・|地方唐物取締定役右、御役兼帶して勤む。}}といへ
る與力の、邪威を振ひ下を苦しめ、頻︀に賄を貪り、罪なきも罪を得、財を掠め取られ、
入牢して非命に死し、{{仮題|投錨=弓削新右衞門の罪狀|見出=傍|節=u-4-15-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}罪なくして遠流・追放せらるゝ者︀多く、別して唐物掛など、故
{{仮題|頁=107}}
もなきに多く召捕られ、入牢して財を掠め取らるゝにぞ、六七年前には道修町藥種
屋仲間一統に申合せ、長崎にて御改めあり、役所より手板付きしを、御法通に取捌
きぬるに、斯くては{{r|商|あきなひ}}も成難︀しとて、商賣を止めて悉く鎖しぬる事あり。其餘種々
の姦惡ありて、是が手先に使へる垣外といへるは、千日・天王寺・飛田・天滿等にあ
る非人頭にて、之を四ケ所と唱へ、捕者︀其外與力・同心の手先に使ひぬる事なるに、
其中にても飛田の淸八・天滿の吉五郞などいへる者︀、弓削に使はれて姦惡甚しく、此
等が勢、町家の者︀共當り難︀く、金持てる町人などへ無心を申掛け、之を聞入るゝ事
なければ、忽ち思寄らぬ辛き目に遇ひぬ。又市中にも猿・犬などとて弓削へ入込み、
あらゆる人々の害となるべき事を取拵へていへる中にも、新町にて八百屋新兵衞・
土佐堀にて葉村屋喜八などいへるは、相應家督ある身分にしてこの業をなし、兩人
とも非人淸八・吉五郞等と兄弟分となり、この者︀共申合せ、己一人人に內々にて金取
りて、博奕を{{r|免︀|ゆる}}して致させ、公儀へは今何處にて何某が家にて博奕うてる由を訴へ、
外三人の者︀より之を召捕る。互に斯くの如くなりしかども、人之を知る事なく、斯
くの如くにても、右の者︀共へ賴込める者︀多かりしとなり。斯樣に互に申合せて、利
を貪る事故、其者︀共銘々に利益多く、世に害ある事甚しかりしが、東御奉行高井山城
守殿組下の與力に、{{仮題|投錨=大鹽平八郞弓削の一類︀を召捕る|見出=傍|節=|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}大鹽平八郞{{仮題|分注=1|〔頭註〕大鹽平八郞は、諸︀御用調役目附・|地方・盜賊方唐物取締定役、右兼帶。}}と性質直にして少し
く文武に心得あるものありて、八百屋新兵衞・葉村屋喜八・飛田の淸八など召捕りて、
嚴しく之を責めしかば、弓削が惡事一々に相顯れぬるにぞ、之を召して其罪を糺さ
るべきなれ共、其折節︀西御奉行內藤隼人正殿御交代にて、文政十二丑の三月御發
駕ありしにぞ、弓削も伏見迄之を送り奉りし故、歸り來りし夜、直に明朝早々急の
御召なる由なり。本人は斯かる程の事とも思はず、明朝出でて之を申{{r|掠|かす}}めむと思
ひぬれ共、直に入牢の樣子なれば、親類︀中打寄り、八百屋・葉村屋召捕られ、此等より
して惡事明白に知れぬる上は、其罪遁れ難︀く、御仕置を蒙りては家名斷絕に及び、親
類︀中迄大に面目を失ふ事故、{{仮題|投錨=弓削の最期|見出=傍|節=u-4-15-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}早く切腹すべしとて之を取卷き、一統より勸めぬれど
も、腹を切りかねしかば、皆々打寄り、無理に其腹へ突︀立て、刀を引廻し之を介錯し、
是が若黨も召捕られぬれば、白狀によりて如何なる事に及ばむも計り難︀しとて、之
{{仮題|頁=108}}
をも直に其席に於て無理に腹切らせしとなり。斯かる科人なれば取逃しては成り
難︀く、若し延引に及びなば召捕來るべしとて、捕手勝手へ詰め、屋敷の四方を固め
しとなり。
弓削一件に付きては種々の取沙汰ありしかども、餘りに事多ければ之を略す。
斯くて淸八・新兵衞など嚴しく拷問にかけられしかば、惡事悉く白狀に及びぬる中
にも、七八年前の事なりしが、天王寺より{{r|巽|たつみ}}に當り小堀口とて在所ありぬ此所の
寺へ盜賊入りて、{{仮題|投錨=弓削一類︀の罪狀|見出=傍|節=u-4-15-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}住持・小僧︀・下男外より住持の妹とやらん折節︀止宿してありしに、右
四人共殺︀害し、金錢を取りし事ありしが、其賊一向に知れざりしに、此淸八が{{r|業|わざ}}な
りしとかや。斯樣に盜賊方の手先に使ふ者︀の斯かる事など、年來知れざりしにて、
弓削の惡しかりし事を思ひやるべし。此者︀、非人の身にして前にいへる四ケ所の
頭にて、家に巨萬の金銀を積み、大小・馬具の類︀より茶器︀・衣服・家具等に至る迄家內
の{{r|奢|おごり}}、之を譬ふるに物なく、大坂町中に別莊を構へ、所々に四五人の妾宅を設け、非
人の身にして御奉行所に出づる節︀と雖も、半町計り手前迄駕に乘り、手下七八人も
召連れぬ。斯かる樣なれば平日己が私用にて出づる節︀など、少しも土を踏む事な
く、內には常に釜をかけ酒肉に飽き、時々與力・同心など、是に招かれて饗應せられ
ぬる事などありしとかや。こは加島屋勝助といへる人の、之を審に聞きしとて予
に語りぬ。されども其中にて天下に類︀なき物は、羅紗にて拵へしばつち四五足あ
りし由を聞けりといひぬるもをかしかりき。天下の役に連れる身にして、非人の
家にて馳走せらるゝにて、何事も弓削が行狀思ひやるべし。淸八・新兵衞の兩人は、
千日に於て獄門に架けられしが、葉村屋喜八は外に御吟味のある由にて、其後永く
牢中にありしが牢死せしとなり。
八百屋新兵衞・淸八など召捕られ、夫より直に、猿をなして、これ迄役筋へ入込みし
者︀共、一人も殘らず皆々召捕られて入牢せしが、是等は牢中の罪人共打寄り、何れも
嚴しく責め惱ませし上にて、{{仮題|投錨=罪人罪人を殺︀す|見出=傍|節=u-4-15-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}帶にて是を縛り、牢の角に逆に括付け、或は糞を食はせ
髮を悉く引拔き、目玉をくり拔き、齒を拔き、手足の爪を拔きなどして、大方牢中に
て殺︀されしが、偶〻助かりて{{r|宿下|やどさ}}げになりしも、病臥して床を離るゝ事能はず、追々
{{仮題|頁=109}}
に死失せて、助かりしは至つて稀なりしといふ。斯く猿などするは、揚屋・置屋・生
洲・料理屋・風呂屋などに多くある事にて、斯樣の者︀共大勢召捕られ、其家付立にな
る家每の帳面御調ありし處、大坂中の寺院に遊女に馴染持たざるはなく、{{r|肴|さかな}}食はざ
るは一人もなく、{{仮題|投錨=寺院の腐敗|見出=傍|節=u-4-15-f|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}鷄を殺︀させ、鰻・すつぽんの類︀に至るまで、何れも之を喰ふ事甚し
く、この事委しく顯れしかども、猿狩の最中なれば、態と其儘捨置かれしに、天滿
山吉五郞といへるは、如何なる事にや召捕らるゝ事なくてありしが、{{仮題|分注=1|此等を吟味する時は、一人も不埓な
きものあらざれば、淸八一人に其罪をおほせ、自分愼
めるやう御憐愍の事なりと、專ら其節︀の風聞なりし。}}是迄の如く不法の事なり難︀きにぞ、淸八と
いへるは、此者︀の兄にして先達て獄門となりし事故、何れも大鹽平八郞の計らひな
れば、{{仮題|投錨=惡徒大鹽を調伏す|見出=傍|節=u-4-15-g|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}いかにもして此人を{{r|亡|うしな}}ひ、是迄の如く我儘働きたく思ひぬるにぞ、北野村不
動寺の隱居、同寺門前の側にて妾宅を構へ、妾が名前にて遊女三四人を抱へ、茶屋
商賣をなし、己も常に此家にあつて姦惡甚しく、斯かる惡僧︀なれば是迄も親しく交
はりしといへり。此僧︀を賴みて大鹽を調伏せむと賴みぬるに、是が力には及び難︀
く思ひしにや、浦江村正傳の僧︀を賴み、此坊主之を諾ひ歡喜天に祈︀りしが、此事露
顯に及び、吉五郞を始め悉く召捕られ、同人が妻子・妾不動寺の梵妻に至る迄殘らず
入牢す。斯くて吉五郞を責問はれしに、此者︀兄淸八と申合せ、公儀を{{r|騙|かた}}り役人風を
なし、讚岐・播磨等へ下り、博奕場にて金をゆすり、其外不法の惡事多く、これも千日
に於て獄門に架けらる。此者︀兄弟三人なりしが、申合せ所々へ押入盜賊をなせし
といふ。今一人の兄といへるも、先年首刎ねられしとなり。斯くてこの跡付立とな
りしが、兄淸八に異なる事なく、金銀財寶大限計り難︀く、其中に一つ臘色に塗つて、
五重に重ね、大體藥箱の如くにして、下一重に底ありて、四重には底なく、內は凡て銀
を張り詰め、四重には底每に銀にて簀を拵へ、蒸籠のごとくなりといふ。何とも分
り難︀ければ、「此箱は何に用ひるぞ」と尋ありしに、「生洲より鰻の蒲燒を入れて取寄
せる箱にして、其鰻の何時までもさめざる樣、下の箱には沸湯を入れて置く事なり」
とぞ。是にて其{{r|傲|おご}}り思ひ計るべし。不動寺の隱居は牢死をなし、浦江の僧︀は如何申
譯せし事にや、免︀されて寺に歸りしとなり。{{仮題|分注=1|〔頭註〕浦江の坊主助かりし由、うはさありしがさにあらず。御仕置ありしといふ。さもあるべき事なり。}}
斯くて何かと其後も騷々しき事多かりしかども、御政道の正しきを市中一統に
{{仮題|頁=110}}
悅びぬる事なるに、辱くも貧人御救の事仰出ださる。其御觸にいふ。
演舌書
{{left/s|1em}}
當表者︀、{{仮題|投錨=貧人救助の御觸|見出=傍|節=u-4-15-h|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}富庶繁華之土地にて、工商之者︀何成共所業、商賣を出精︀骨折いたし候はゞ、
渡世出來易き儀は他處と勝り候故、富人者︀論なく、下戶之家々も其利を利とし、其
樂を樂み、父母を養、子孫を{{r|鞠|はぐくみ}}、衣食之資に不自由無{{レ}}之哉に候得共、竈凡十萬近く
も有{{レ}}之、其內には老衰にて子も之なく、幼少にて親に相離れ候零丁・孤獨の類︀、其
餘孫子多く自力に難︀養候得共、親類︀・緣族無{{レ}}之候に付、其身之困窮愁苦を吿者︀な
{{仮題|編注=1|く|きカ}}程の貧人有{{レ}}之間敷共難︀{{レ}}被{{レ}}決。若右體之貧人有{{レ}}之候はゞ、米穀︀諸︀式豐給之時節︀
にても、其身・其家丈者︀實に飢餓之荒年も同事にて、誠可{{レ}}憐事共に候。不賴之工商
老若、身持不行跡等ゟ父祖︀之家業を失ひ、或は非分之巧事に心力を盡し、{{r|反|かへり}}而流浪
漂泊いたし刑戮を免︀居候者︀とは一向譯違、前書之貧人者︀不幸之良民に付、已來手
當救方可{{レ}}有{{レ}}之候間、無屹度三鄕町に相調、右體不幸之良民有{{レ}}之候はゞ、時々御役
所へ可{{二}}申立{{一}}候。吳々貧苦に迫候共、不幸之良民に無{{レ}}之者︀は、篤と入{{レ}}念、混雜不
{{レ}}致樣取調可{{レ}}申儀、尤肝要候事。
{{left/s|1em}}
右文政十二丑十月廿四日、町々年寄宅へ翌廿五日九つ時、北組總會所へ年寄直
に罷出候樣、名前當之廻文到來に付、同日罷出候處、月番總年寄永瀨七郞左衞
門殿ゟ御演舌にて、東御奉行高井山城守樣御下知を以、同組與力大鹽平八郞樣
ゟ、總年寄を以、無屹度町々取調、右貧人之有無、來月三日迄に可{{二}}申上{{一}}候樣被{{二}}
仰渡{{一}}候趣にて、右演舌書を以被{{二}}申渡{{一}}候事。借りて之を寫す〔{{仮題|分注=1|以上齋藤町の控を|借りて之を寫す。}}〕
{{left/e}}{{left/e}}
右の通仰出され候故、町每に之を取調べぬるに、貧苦に迫り難︀澁する者︀限なしと雖
も、不賴の輩のみにして、又{{r|偶|たま}}に良民と{{r|覺|おぼ}}しきが困苦に迫れるあれども、兄弟・伯父・
從弟などありて、此等が不實なるもあり。又ありと雖も不恙にて救ひ難︀く、されど
も貧しき{{r|暮|くらし}}せるとも、便るべき親類︀あるは申出で難︀くて、大坂三鄕の町內より申出
でしは一人もなく、福︀島・下原・高津・新地などの端々の町々より、追々に召連れ出で
しかば、夫々御糺の上、御救ひ下し置かる。公儀より斯くの如くなし給へるにぞ、
其町內にても之を捨置き難︀く、何れも合力をなしぬるといへり。其後も兩度迄{{r|篤|とく}}
{{仮題|頁=111}}
と調べて申出でよと、御沙汰ありしとなり。{{仮題|投錨=大鹽の好評|見出=傍|節=u-4-15-i|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}斯くの如くなる御仁政行はるゝ事故、
一統太平を唱へ、大鹽を神︀佛の如しとて有難︀がりき。尤も斯くあるべき事なり。
{{仮題|分注=1|〔頭書〕良民の貧に迫れる、所々より連れ出でしが七人の由、是も皆七十計りの老人にて、步みて出づる事なり
難︀く、駕にて召連れ出でしかば、一人前に大低日々七分程に當てゝ、御助救ひ年に三度程に下さるゝ趣にて、
其町家主等を心添遣すべき由仰渡されしにぞ、七人の者︀共、御奉行所に於て大に有難︀がり、歡び泣に泣き立て
しとなり。さもあるべき事なり。十萬計りの竈ありて、斯かる繁華の土地なれども、不幸の良民といへるは、
やう{{く}}斯樣の事にて、貧窮人限なしと雖も、皆々無賴の者︀共にて、己が心得惡しき所よりして、貧しく成行
ける者︀共計りなりされども斯かる御仁政にて、御調もある事故、惡徒等も自ら恐れ愼む樣に成行く事、全
く大鹽の功と雖も、上に賢君なくして斯樣に之を用うる事なくば、其功
盡し難︀し。高井君よく其人を用ひ給へる事、賢き御奉行なればなり。}}
{{仮題|投錨=切支丹の類︀族仕置|見出=傍|節=u-4-15-j|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
十二月五日切支丹の類︀族六人御仕置あり。兩三年前より大鹽氏に見顯されて、斯
く御仕置となりぬ。全く是も此人の功なり。{{仮題|分注=1|切支丹一件、餘り長|ければ別記とす。}}
堺御奉行水野遠江守殿、御召に依つて出府あり。何人にても堺の御奉行出府又は
交代の間は、大坂より御支配なるに、此度是も大鹽氏、彼の地にて姦惡ある與力伊
東吉右衞門・戶田丈右衞門を押込め、是に立入り惡事{{r|工|たく}}みぬる茶屋市兵衞、
{{仮題|分注=1|大坂八百屋新兵衞・葉村屋喜八等と同じ。}}竝に同人別家兩人を召捕り入牢せしむ。御奉行には、出府せられし儘御
轉役にて、久世伊勢守殿御交代となる。茶屋市兵衞・別家兩人は、未だ入牢にて家內
悉く付立なるが、伊東は免︀され、戶田は隱居となりしとなり。是に付きて戶田・伊東
等の門に落首して張付けしといふ。
{{left/s|1em}}
お前計りが隱居して、{{仮題|投錨=落首|見出=傍|節=u-4-15-k|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}茶市はかはゆうないかいな。朝夕責めのたは言にも、とだ
樣呼んでと泣くはいなう。
伊勢樣の御蔭でいとはぬけました、堀と山とがあんじられます。
〔堀山何某といへるも、善からぬ事有るにやと思はる。{{仮題|分注=1|此等の事は、加茂弘作|よりくはしく聞けり。}}〕
{{left/e}}
斯くて大坂の御政道、斯樣に嚴重になりしかば、京都︀にても狩野萬五郞といへる與
力追放せられ、其餘役儀召放されし者︀多く、伏見・南都︀にても、同樣の事にて罪せら
れし人多かりしといふ。御町奉行高井山城守殿を頭に戴きて、其指圖を受くる事
とは雖、{{仮題|投錨=大鹽の大功|見出=傍|節=u-4-15-l|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}實は大鹽一人の計らひによる事にして、其風所々に移るやうに成行きぬる
も、全く大鹽が大功といふべし。{{仮題|分注=1|〔頭書〕桑原權九郞も何かよか|らぬ事ありて押込められぬ。}}扨又淸八・吉五郞等が妻子
殘らず追放になりしが、素より非人とは雖、是迄多くの人を掠め惱まして、取集めた
る金銀にて奢り暮らせしに、木綿の袋に椀一つ・箸一膳づつ入れて、之を其首に掛け
{{仮題|頁=112}}
させて、追拂はれしとなり。其餘總て不埒なる者︀共多きにぞ、一統に大に恐れ慄ひ
しとなり。元來非人共の身分にて、町家同樣に二階造に家を立て、悉く瓦葺にして
土藏銘々に持ちしかば、斯くては如何なる御咎に遇ふも計り難︀しとて、未だ上より
御沙汰なき內、何れも申合せ、藏家を毀ち柱掘建にして、低き小家立となしぬるにぞ、
左樣あるべき事なりとて、御答もなくて止みぬ。これ迄町へ出で不法の事のみな
りしが、其後は左樣の事もなくて、一統に町家の者︀共大に喜びぬる樣になりぬ。別
て道修町などにては、是れ迄每度困窮せし事なりしに、筋なきに取上げられし金銀、
思掛なくして年を經て、御下げになりぬるも多かりしにぞ、全く大鹽樣の御蔭なり
と、神︀の如くに尊みぬ。{{仮題|投錨=市人皆大鹽の仁政を感謝す|見出=傍|節=u-4-15-m|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}予が心易き伏見屋嘉右衞門といへる者︀、昨日町內より御役
所へ出づる事ありし故、其者︀に代りて態々大鹽樣を拜みに行きしといへり。忠義
を盡して仁政を施しぬれば、萬人其澤を蒙り、恩に感ずる事斯くの如し。
當所に限らず寺院の住僧︀不行狀なる事は、能く世間にても知りぬる事なるに、近來
猿共の狩盡されしにて、其罪明白に知れぬれども、寺院殘らず斯くの如くなる事故、
一々に之を罪する時は、天下に坊主種の盡きて、差當り葬等に差支へぬる故、しば
しが程は其儘に拾置かれしが、丑の十二月十日御觸書出づる。其文に曰く、
〔本文重複に付略す。浮世の有樣一ノ四二一頁參照〕
右の御觸に驚き、俄に梵妻に暇を遣せし寺もあり。{{仮題|投錨=僧︀侶の狼狽|見出=傍|節=u-4-15-n|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}又京都︀其外しるべのある方へ、
女を預けぬるもあり。中には只一通り觸流しの樣に心得て、之を頓著︀する事なく、
相變らず不埒なるもありて、{{仮題|投錨=二三を除く外は皆破戒の僧︀のみ|見出=傍|節=u-4-15-o|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}一々に其罪を糺す時は、其行狀正しき僧︀は、大坂中に
て二三ケ寺ならではなき事故、悉く之を召捕る時は、葬禮に事缺けぬる故、右御觸
出でし後に不埒なる寺々六十ケ寺計り、篤と其罪を聞糺し置きて、夜中密に大鹽の
宅に召寄せ、々罪の次第相記せし封書を夫々相渡し「恙度{{r|御糺|おたゞし}}仰付けられ候筈の
處、憐愍を以て其罪を是に記せり。若し申開く筋あらば承るべし」とありしにぞ、次
へ下り、何れも之を開き見るに、銘々身に{{r|覺|おぼえ}}ある事、委しく書記しありぬるにぞ、何
れも一言の申譯なく、一統に「恐入りし旨」申出づるにぞ、「さあるべき事なり。何れも
其罪輕からずと雖も、此度憐愍を以て免︀るし遣るべし。若し又此後、聊にても心得
{{仮題|頁=113}}
違ひ不埒の事あるに於ては、嚴科に行ふべし。能く{{く}}心得よ」とて之を許し歸さ
れしにぞ、何れも虎口を逃れたる心地にて引取りしとぞ。斯くても尙行狀を改む
る事なき寺々を、{{仮題|投錨=破戒の僧︀侶仕置|見出=傍|節=u-4-15-p|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}冬より春へかけて三十餘ケ寺召捕になりしが、其後に至りても追
追に捕へらるゝ者︀ありて、數十人に及ぶといへり。中にも最も甚しきは、
一心寺 之は天王寺の南なり。遠金屋みつといへる茶屋の娘を妾となし、己れ茶
屋をなす。是さへ甚しきに、其寺內に住める花屋の娘、外方へ幼年より子に遣せし
に、先方に大に之を寵愛し、今は成人しぬれば、其子に{{r|妻|めあ}}はせんと思ひぬるに、下
賤の者︀の習とて、俄に其娘を取戾したくなりしかば、娘に篤と實親より申含め、之
を諾ふ事なからしめ、先方へ引合ひ返し吳れぬるやうにといひぬれども、幼年より
子に貰ひ、今成人に及び物に用立つ樣になりて、取返さむといへるは不埒なる申分
なりとて、之を返す事なかりしかば、此事一心寺に咄しぬるにぞ、之を取戾しやら
むとて、先方へ一心寺が挨拶せしにぞ、先方には親仕方を憤りぬれども、出家の挨
拶に免︀じて之を{{r|免︀|ゆる}}し、其娘を一心寺へ渡せしに、直に寺に連れ歸り、是をも己が妾
となし、寺に隱し置きて實親にも返さずといふ。其餘姦惡の事尙多しといへり。斯
樣の事、一々公に聞えぬる事なれば、捕手を遣されしに、其樣子を見ると其儘、右
の女を連れて裏の藪をくじり逃げ去りしが、京都︀へ上り勸修寺殿へ駈込み、附髮を
なし藤島將監と名乘り、右の女を連れて夜店見物に出でしを見付けられて、兩人と
も召捕られしが、勸修寺殿御內藤島將監へ對し、無禮なりなどいひて大に斷はりし
が、附髮を引取られて繩を掛けられしといふ。誠に重罪の{{r|奴|やつ}}なり。
曼陀羅院 生玉{{r|馬場先|ばゞさき}}の揚屋寺富といへる方の娘を妻とし、己れ年來茶屋なして
ありしが、女子一人を儲く。此娘に其茶屋を讓り、夫婦連にて高津へ隱宅を構へ、鳥
屋を始め{{r|鶩|あひる}}・鶏の類、買に來れる者︀あれば、出家の身分にて鳥をしめ殺︀して商ひぬ。
至罪といふべし。
圓頓寺 北野村にて法華宗なり。此寺無檀地なるに、堂島の相場屋河內屋善兵衞と
いへる者︀、代々此寺を信じ、此寺河內屋にて相續すといへり。然るに當時の善兵衞
母{{仮題|分注=1|年五十計り|といふ。}}を年來姦淫し、是迄寺の立行く程の世話をなして貰ひぬる上に、此母よ
{{仮題|頁=114}}
りも是迄數百金の金を取入れぬといふ。近き頃善兵衞方にて金子百五十兩紛失し
て知れざる事あり。外より賊の入りし體にてなければ、內々召造へる者︀共に疑を
かけ、大金の事なれば捨置き難︀く、其旨上へ屆け出でぬ。間なく圓頓寺召捕られ、後
家も入牢せしに、御吟味にて後家より盜出し、此坊主に遣りし事明白なるにぞ、邪
淫の上斯かる事あり。後家も斯かる惡事を重ねぬる上、公儀迄もたばかりし罪甚
しといへり。
善通寺 北野村不動寺の西隣にて禪宗なり。近所に寺の貸家ありて、之を支配さ
せぬる者︀の妻と姦通し、其餘不埒の事多しといふ。其女は則ち同寺門前なる酒屋の
娘なり。
金臺寺 {{仮題|分注=1|寺號の文字如何書ける事にや知らざる事|多し。故に其違へるを怪しむ事なかれ。}}慥に此寺の事のやうに覺ゆ。梵妻に茶屋
をなさしめ、娘を藝妓に出し、息子を肴屋になし、不行狀の事甚しといへり。
谷町筋の南に、天正寺{{仮題|分注=1|是も文字は如何書ける事にや知らず。醫|師北山壽庵が臺の不動明王ある寺なり。}}の南へ筋向の寺の由、予に咄
せる人も其寺號を忘れしといへるが、此寺の住持も梵妻の事ある故、之を召捕らむ
とて捕手向ひしに、折節︀近邊所々の住持共大勢集りて、酒肉取散らし博奕をなして
有る所にて、何れも大うろたへなりしが、悉く召捕られしといふ。捕手も存寄らぬ
事故に、大に驚きし程の事なりしといへり。
建國寺 天滿川崎禪宗なり。一旦出奔せしが、格別の事あるまじと思ひしにや、歸
り來りて召捕らる。是に先達て梵妻子供など入牢す。是に限らず梵妻・梵子は何
れも召捕られ悉く入牢なり。
慈光寺 北野村大融寺の東にて尼寺なり。此住持大工と姦通し子二人生むといふ。
召捕られ入牢せしが、五月二日より高麗橋詰にて三日晒され、大坂三鄕御拂となる。
慈安寺道頓堀の南千日にあり。法華宗なり。是も梵妻の事にて住持・老僧︀兩人
ともに召捕られ入牢す。之を御吟味ありしに、「私の墮落せしは近頃の事にて、是は
御破損奉行飯︀島惣左衞門殿の所爲なり」と云へるにぞ、其譯を御尋ありしに、「元來
此寺の祠堂金三百兩、御破損奉行飯︀島惣左衞門・一場藤兵衞・池田新兵衞三人連印に
て借受けしが、其金を貸したる故に、新町の揚屋より飯︀島、慈安寺を招き馳走をな
{{仮題|頁=115}}
し、其上にて無理に肉を喰はせ遊女を與へし」となり。之に依つて據なく墮落させら
れしといふ。斯くて期日に至り、「其金返し給はれと雖も、返す金なしとて一切頓著︀
せざるにぞ、大に困り果て、右の金は檀家より當寺普請の手當に納めありしを、私
の了簡計りにて用立てぬるに、此節︀普請入用ありとて種々嘆き出でしかば、いかに
いふとも返す金聊もなし。强ひて取りたく思はゞ公儀へ願ひ出づべし。此方より
も其方が墮落せし事を申すべしと、法外の事申さるゝにぞ、詮方なく胸をさすり怺
へしが、今以て其金其儘に捨置かるゝ」といへり。此金も一場・池田等連印なれども、
飯︀島一人之を取込み遣はれしといふ。此事慈安寺白狀に及びぬるに、外にも何か
善からぬ事あつて、飯︀島・市場兩人は網乘物にて江戶へ召され、飯︀島は病死、市場は
切腹せしなどと風聞あり。池田も後より召されしが、是は如何なりしや知らず。
{{仮題|分注=1|〔頭書〕尼僧︀一人日本橋の南詰にて晒さる。專ら一心寺の妾なりし由|をいひしが、別の者︀なりしといふ、されども其くはしき事を知らず。}}
滿願寺 當國多田より北野大融寺へ出開帳にて來りしが、折節︀御蔭參始まりし故、
之を見向く者︀も更になし。此住持、中山寺の麓なる柳屋の娘を小性に仕立て連來
り居りしが、此事露顯に及びかしば、此娘を南都︀の方へ隱しぬ。然るに是にても隱
し置き難︀き由申來りしとて、密に南都︀へ行きて其娘を受取り、京都︀の{{r|知邊|しるべ}}に之を預
けむと志し、行きぬる道にして捕へられ、兩人とも入牢せしとなり。
大融寺 北野村、女犯にて入牢。
不動寺<sup>隱居</sup> 右は前にいへる如く、門前にて梵妻と一處に居て、遊女を抱へ置屋を
なせしが、吉五郞に賴まれし事より顯はれ、入牢々死。
幡龍寺・長久寺・法海︀寺・法心寺、此等は皆牢死の由、宗光寺は此樣子を聞くと其儘、寺
を賣つて逃れしといふ。西福︀寺・藤井寺・本傳寺・良光寺等は出奔して行衞知れず。
上方寺も暫く影を隱しぬ。大敎寺・圓通院も御咎を蒙り、北濱村松林寺も同斷の由、
天滿寺町にて舊惡はあれども、當時老僧︀にて據なく無事なりし故、御答受くる事な
かりしは、蓮華寺・法聚院の二ケ寺のみなりといへり。小橋上寺町・中寺町・下寺町に
ても、一統の樣に取沙汰はあれども、其委しき事を知らず。予が聞ける所、當地に
於て斯くの如し。當四月下旬千日に於て獄門に掛りし僧︀あり。其寺號を知らず。
{{仮題|頁=116}}
是は人の妻と不義をなし、其妻より金を盜み出させしといふ。追々其罪定まり多
くは流罪となりぬ。河內屋善兵衞の後家は、御憐愍にて晒さるゝ事なく三鄕拂と
なりぬ。{{仮題|分注=1|〔頭書〕日本大龍寺・浦江正閑寺等女犯墮落の事あり。北野天心庵も女犯にはあ|らざれども、此掛りにて咎めらる。正閑寺は牢死、大龍寺は流罪となる。}}京都︀にても、
大坂の御仕置響︀き渡りて、妙心寺・本國寺・本能寺・智恩院・黑谷南禪寺等にて多く召
捕られ、{{仮題|投錨=京都︀僧︀侶の仕置|見出=傍|節=u-4-15-q|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}流罪となりし者︀大勢あり。東福︀寺に最も數多くありし由なれども、是は風
をくらひて大方出奔せしといふ。本願寺にても召捕られしといふ。此宗門は肉食
妻帶をなす宗旨なるに、召捕られぬるはよく{{く}}不埓の事なるべし。又智恩院寺中
の住持、三條橋詰にて晒されし上にて、「寺法通りに行ふべし」とて、本山へ御渡にな
りぬるを受取り、之を丸裸になし下帶迄も取拂ひ、干かます一尾是が口へ{{r|銜|くは}}へさせ、
坊主兩人割木を持ち、本堂のぐるりを三遍四つ這に這はせ、行止まれば竹にて叩き、
立たむとすれば之を叩き、街へしかますを取落し、手にて取つて口に食はむとすれ
ば其腕を叩き、取落せるも口にて之を街へ取る事なりとぞ。斯くて後、門前迄四つ
這に這はせ行き、是が腰繩を解きて{{r|叩拂|たゝきはらひ}}にせしといふ。折節︀大坂より上り、智恩
院へ參詣して之を見し者︀、精︀しく語りぬるを聞けり。近來至つて人氣も惡しく成
り、世間大に行詰り姦惡の輩多かりしに、一々其者︀共の刑せられ、剩へ國初已來潜
み隱れて行ひし切支丹の根葉もなく刈盡し給ひ、又邪法姦惡の僧︀侶迄、皆其罪に行
はれて、{{仮題|投錨=高井山城守致仕|見出=傍|節=u-4-15-r|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}萬民太平を唱へぬる有難︀き御代なりき。斯くて御町奉行高井山城守殿に
は、七十に近き老年の上、近頃病に罹りぬるにぞ、江戶に於て療養致したしとて、其
旨願ひ出でられしに、早速に御聞屆あつて、「勝手に引取り心任せに養生をなし、全
快の上再び上りて勤め申すべき由」と、是まで先例になき有難︀き台命を蒙り、首尾至
つて宜しき事なりといふ。{{仮題|投錨=大鹽平八郞の致仕|見出=傍|節=u-4-15-s|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}八月下旬大坂を發駕ありしにぞ、大鹽平八郞も未だ初
老にも至らざれども、病身を申立て隱居をなす。諸︀人之を惜みあへり。功成り名
遂げて身退きしは、能き心得にして天道に叶ひぬるといふべし。此餘尙種々の噂
を聞ける事もあれども、餘りくだ{{く}}しければ之を略する者︀なり。{{仮題|分注=1|〔頭書〕大鹽の功大なりと雖も、諸︀人大鹽
のみを稱して高井君を稱するに至らず、大鹽も功を高井君に歸せば、却つて奧床しく思はるゝ事なるに・士功
あれば之を大夫に歸し、大夫功あれば之を諸︀侯に歸し、請侯功あれば之を天子に歸すの本文に背けり。惜いかな。}}
{{nop}}
{{仮題|頁=117}}
{{仮題|細目=1}}
{{left/s|1em}}
後漢︀書に、法は海︀の如くすべし。海︀は避け易くして犯し難︀しといふ。是れ古今
法を立つるの格言といふべし。鄭の子產は賢大夫なり。死に臨んで法を猛にせ
よとて水火の論を設く。是れ能く時勢を察すればなり。室新助が公儀へ記し奉
りし獻可錄の中にも、此語を引きて記し奉りし事あり。幸に其語を爰に記して、
予が辨をば略しぬ。其文に曰く、
一、兩年已來別而火付・盜賊多く罷成候。小身の侍家竝町人等の家には、每度火
を放或は盜賊仕候得共見付不{{レ}}申候故、其分に仕置候。其內見付て公儀へ申上候者︀
十分一も無{{レ}}之。{{仮題|投錨=獻可錄|見出=傍|節=u-4-15-t|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}是は第一追歲困窮仕候故にて御座候得共、又者︀近年盗賊の御刑
罰、緩かに罷成候故に御座候。世上にも御仕置餘り御慈悲過候樣に取沙汰仕候。
右申上候通、一步先をも考不{{レ}}申候樣成愚案の輩に候故、{{r|黥|いれずみ}}・{{r|笞|むち}}等の刑に被{{レ}}行候て
も、少も懲︀候意は無{{レ}}之候。出牢仕候ても、其日の內にもはや盜も仕り火をも付申
候。十が八九見付られ不{{レ}}申候故、惡人の僻に其を賴に存候て、曾て畏申意は無{{レ}}之
候。是等の輩、世に徘徊仕候ては、火付絕え申間敷奉{{レ}}存候。絕不{{レ}}申候ては火災
止み申儀は有{{レ}}之間敷奉{{レ}}存候。旣に人家墻をこえ鎖を切候て、入申程の者︀に候得
者︀、物を取不{{レ}}取にも盜物の多少にも寄不{{レ}}申儀に御座候。箇樣の類︀は一別に罪科
に仕度ものに奉{{レ}}存候。是を免︀るし置候ては、自餘の害に相成候得者︀、一殺︀多生の
道理たるべく奉{{レ}}存候。鄭大夫子產が相果申時分、己に代り申す子大叔と申もの
に申置候は、法は必猛にすべし。火は烈きによる。人是を恐れて火に入て燒死
ぬる人は少なし。水はぬるきによりて近づき安き故に、民なれ輕んじて溺死す。
此後我に代りて政道を取らば、必猛にせよと申置。子大叔是を不{{レ}}用して法を寬
に仕候得者︀、郡國盜多く罷成候故、其時後悔︀仕候由、左傳に相見え申候。寬・猛二つ
の詮議は古來有{{レ}}之儀に候得共、兎角時により可{{レ}}申儀に奉{{レ}}存候。たとへば醫の療
治仕候に、邪氣强候得者︀必瀉參を用候て、攻撃仕候て邪氣を取、其後溫補仕候。
勿論瀉參は長くは難︀{{レ}}用候得共、邪氣指塞甲時は、攻擊劑にて無{{レ}}之候得者︀邪氣去
り不{{レ}}申候はでは、溫補可{{レ}}仕樣も無{{レ}}之候。{{nop}}
{{仮題|頁=118}}
一、後漢︀書に、法は海︀の如くすべし。海︀は避易而難︀{{レ}}犯と有{{レ}}之候。古今不易之名言
共可{{レ}}申儀に奉{{レ}}存候。海︀は廣大明白なるものに候故、海︀は踏損ひ候て、はまり申者︀
無{{レ}}之候。是海︀はよけ易き者︀に御座候。然れ共落つれば必ず死申候故、中々侮︀り
犯し難︀、溝・堀などは行先に有{{レ}}之候故、良〻もすれば踏損ひ候とてはまり易く、し
かもはまり候ても必死不{{レ}}申候故、其跡より又はまり申候。斯樣に御座候ては、自
然と諸︀人法を輕んじ候樣にも罷成候故、法をば海︀の如く大筋を急度立置、其外瑣
細に無{{レ}}之樣に仕れとの儀に奉{{レ}}存候。已上。
三月 室新助
室新助は號を鳩巢といひ、新井筑後守白石と年齒少し異なりと雖も、時を同じう
し、公儀に御用ありし儒者︀にして、獻可錄は公儀御尋に答へ奉りし書なり。
漢︀高祖︀、關中に入りて法を三章に定めしは、秦の煩苛を省き其民を懷けむと欲し
てなり。孔明が蜀を攻取つて法を嚴しくせしは、其民を伏せしめむと欲すれば
なり。政を執れる人、能く心得ありたき事なり。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=天保元年增上寺の紛擾|見出=中|節=u-4-16|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
寅正月京都︀智恩院、彼の宗門元祖︀忌の法事半ばに、江戶より急ぎ御召にて下りぬ。
當時不如法の僧︀徒大勢召捕らるゝ折なれば、是も其事にや抔とて、諸︀人大に怪み種
種の風說有りしが、全く是は左樣の事にてはなく、江戶增上寺に於て、所化の僧︀共と
寺中道達と爭論の事ありて召されしといふ。其樣子を尋ねしに、所化といへるは
國々より佛學修行に出でたる僧︀にして、其始めは味噌摺をなし、雜事に逐廻はさる
る事なれ共、{{仮題|投錨=增上寺の紛擾|見出=傍|節=u-4-16-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}積學の上にて道德を備へぬるは、大寺院の住職となり、增上寺・智恩院
も、此內より出づる事なれば、其席常に道達の上座なりといへり。又道達は常に寺
中に住みて、佛事誦經の節︀は鉦・太鼓どらの類︀を撞つ役にて、是は役者︀と立てゝ生
涯之を勤め立身する事成りがたき者︀にて、別けて色衣等著︀する事なりがたき者︀な
り。故に東照宮の御掟にも、其事を悉しく相記し給ひし事有りといふ。され共常
に寺中に住める者︀なれば、自ら所化に對し失禮の事多く、剩へ近頃方丈を取込み、色
衣をも著︀用する事を許され、席もこれに准じて所化と對座するやうになりて、無禮
{{仮題|頁=119}}
度々に及びぬるにぞ、所化一統に之を憤りぬれども、彼是申立つれば、方丈の罪遁
れ難︀き事なれば、之を罪に陷るゝ事を氣の毒に思ひぬるにぞ、之を怺へぬるに、道
達共愈〻我意に募り、無禮の增長せしにぞ、今は捨置き難︀しとて、此事方丈迄願ひ出
でぬるに、方丈には素より道達を量屓に思ひ、斯かる法に背ける程の事なしぬる事
なれば、又所化五人とやらんを罪に落して追放せしといふ。是に於て所化一統大
に憤り、東照宮の御掟に背きぬる趣を申立て、公訴に及びしかば、方丈は勿論是に
同意せし者︀、關東十八檀林の中にも三人ありしが、何れも押込められしかば、其罪
遁れ難︀き事を辨へぬるにや。{{仮題|投錨=方丈縊死|見出=傍|節=u-4-16-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}方丈は首縊りて死し、右三人は切腹して相果てしと
いふ。道達も夫々御仕置蒙りしとなり。斯かる事に及びしかば、公儀の御法事勤ま
り難︀く、一日も捨置き難︀き御事故、知恩院は御召に預りし事なりとぞ。昨年來斯く
騷々しき中に、三月下旬より御蔭參{{仮題|分注=1|別記あ|り。}}始まり、七月二日京都︀大地震にて、十月に
至れども地震止まず、{{仮題|分注=1|別記あ|り、}}其外諸︀國風雨・洪水等の變あるに、其中にて折々不如法
の惡僧︀共を、遠島仰付けられぬるなど有りて、公儀にも御事多き事なりしか共、米
穀︀程よく熟して、萬民太平の澤を蒙るに至れり。
{{仮題|投錨=天保元年琵琶湖水切落し事件|見出=中|節=u-4-17|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
關ケ原御合戰に東照宮石田三成を誅し給ひ、「騷々しき時節︀なれば、帝都︀を守護し早
く叡慮を安んじ奉るべし」とて、福︀島正則に命じ速に上洛せしめ給ひしに、大津に於
て伊奈圖書君命を蒙りて、關所を構へて之を守りしが、正則が家來の、使して一人
供に後れて通りしを、無理に番人共の馬より引下せしにぞ、之を憤り主の正則に追
付きて、使せし口上を傳へ、身の暇を受けて引返し討果さむとせしを、正則之を止
めて、終に伊奈に切腹せしむ。其始末、關原軍記・藩翰譜等に詳なれば之を略す。伊
奈に代りて石原淸左衞門を以て、代々大津の御代官となし給ひしといふ。此御代
官屋敷に隣りて、井伊兵部少輔直政にも、六町四方の地面を給ひて是が屋敷となる。
其後世治まり、天下神︀君に歸して直政に彥根の城を給ひ、湖水の儀は京都︀守護の要
害なれば、{{仮題|投錨=湖水は帝都︀守護の要害|見出=傍|節=u-4-17-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}之を其方に任せらるゝとて、總て湖上の事は、井伊家存寄に相計らひ申
さるゝ事にて、京都︀守護の事に付きて、種々の御內命御墨︀附等之ある事なりとぞ。
{{仮題|頁=120}}
北近江より湖へ流れ落つる川々の筋にて、一二里或は三四里程づつにて、所々の領
分犬牙の如く入組み、水上彥根領にして、其次は大和の郡山領、其次は公領、其次は
どこそこなどとて、大に混雜なれども、彥根初代二代の間は聊の公事訴訟もなく、外
外にては亂後新に領地を給ひし事なれば、常に境目等の爭論絕間なきに、彥根計り
斯くの如く能く治まれるにぞ、公儀にても之を御稱美ありしかば、入部の上斯かる
御噂もありし事なれば、能く{{く}}心得て無事を計るべしと、申されし程の事なり
しに、三代目に至りて大公事をなせし事あり。其故を尋ぬるに、前にいへる如く川
筋に於て、所々の領分入組ありて、洪水每に水損の患あつて、何れも是に困じぬる
故{{r|暫|しば{{く}}}}〻彥根と公事をなすと雖も、是に勝つ事能はざれば、私領の分申合せ御代官石
原に勸め込み、一統之を腰押して大公事となり、雙方公儀へ願立てぬ。此頃は三代
將軍の御治世にして、{{仮題|投錨=井伊家と大津代官との訴訟|見出=傍|節=u-4-17-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}板倉內膳殿御老中を勤められしが、能く東照宮の御內命御墨︀
附等の譯を知りて居らるゝ故、{{仮題|分注=1|此公事川筋の事に始まり、湖上の事に及び、彥根の船湖上往來して、|大津に於て賣買・交易・運送の事を禁せむ抔云る事に及びしといふ。}}
御老中列席に於て、彥根より願出でし者︀に向ひ、湖上の儀は帝都︀要害の場所にして、
御內命御墨︀附等も之ある事なるに、外より彼是申立つべき事にあらず。{{仮題|入力者注=[#底本では直後に「始めかぎ括弧」なし]}}「何故石原
淸左衞門を拜領して、存分には致されざるや」と申されしに、餘の御老中には何れも
口を{{r|噤|つぐ}}み居られしといふ。彥根も是迄此事を申募りぬれども、大切の御墨︀附斯か
る輕々しき事に出すべき事にあらざれば、之を出す事なく、石原には其事彥根より
申しぬれども、「湖上は公領の事なり。彥根にかゝはりし事にあらず。御墨︀附といへ
るも僞なり」と、之を信用せずして申し募りしに、內膳殿の詞にて、彥根いよ{{く}}强
く成り、「石原を拜領すべし」と申立てしにぞ、石原は永代大津の御代官を命ぜられ、
急度由緖も之ある趣なれども、{{仮題|投錨=彥根勝訴|見出=傍|節=u-4-17-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}之を召還されて餘人を代らしめ給ひ、公事十分に彥
根の勝となる。江戶へ{{r|大廻|おほまはし}}する荷物等、京より大坂へ下し、紀州路を廻もて送るよ
りは、大津へ出し湖上を經て少し陸地を運びぬれども、伊勢桑名より積みぬれば、
難︀船も少く便利宜しきとて、京都︀に限らず丹波・丹後より送り出せる荷物澤山の事
にて、之を湖上{{仮題|編注=1|の|をカ}}運送しぬるに、彥根領中長濱其外二ケ所の湊ありて、百艘の船を
浮べ、大津の方へ行く時は、木炭の類︀澤山に積みて、歸りに荷物を積みて、往來とも
{{仮題|頁=121}}
船を空しうする事なく、大津よりの船は荷物を積みて長濱へ到りぬれども、歸船は
空船にして、聊の木炭をも積ましめずといへり。石原には公事に依りて召返され
しが、其人死去せしかば、其子に再び大津の御代官を命ぜられ、夫より今に至るま
で之を勤む。されども斯樣の大變に及びし後故に互に心よからず。殊に大津に於
て、{{仮題|投錨=彦根と大津の確執|見出=傍|節=u-4-17-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}彥根の屋敷・御代官の屋敷に隣りぬ。其方內に住める町家六丁計りは、御代官の
支配を受くる事なければ、公領・私領と分れ、每々境目等の爭論絕ゆる事なかりしに、
十八年前互に和睦をなして、宇治銚子口鹿飛を切開き、湖水の水を落しぬれば、湖
上三尺計りも水減じて是へ{{r|植出|うゑだし}}をなす時は、三十萬石計り公儀の御益となり、彥根
領も之を植出し、其上伊吹山の麓其外所々に於て、澤・沼等の水はけ惡しき處の水さ
ばけて、彥根にても十萬石餘も益ある事なれば、之を申合せ、雙方より此事申立て
ぬるに、{{仮題|投錨=湖水切落についての訴訟|見出=傍|節=u-4-17-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}「湖水の儀は帝都︀要害の場所なり。之を切開き湖水減ぜば、王城の要害手薄
く相成るべし。如何心得らるゝや」と、御老中より申されしかば、雙方一言の申譯な
く、何れも差控を窺はれしが、「其儀に及ばず」とて相濟みぬ。されども領中過分の益
ある事なれば、この事なしたき心止まず。然る處膳所領中百姓太郞兵衞といふ者︀、
其後之を思立ち、又願出で、「自力を以て致したし」と申立つるにぞ、{{仮題|分注=1|彥根より再び申出づる事成り難︀ければ、
者︀の腰押し候金銀何程入用ありとも、此方に
引受くへしとて、頻︀にこれを勸めしといへり。}}公儀にも是御聞屆有つて、宇治已下の流下に御
利害ありしかども、攝・河川筋の村々一統に不承知を申立てぬる故其事止みぬ。斯
くて其願出でし者︀も病死せしが、其遺言にて、「我れ今死すれども、之を葬る事なく假
に埋置き、子孫數代を經るとも我が志を繼ぎて、幾度もこの事願立て、其願成就せ
し上にて葬をなすべし」となり。其子其志を繼ぎ、先年再び願出でぬれども、此時も
攝・河の村々、命にかへて一統不承知を申立てぬ。其故は湖上三尺の水減じ、川筋三
尺の水增さば、是迄さへも常に水の爲に苦しめらるゝ事なるに、定めて攝・河村々は
悉く流失せぬべし。近江にて三十萬石の御益ありとも、攝・河にて三十萬石の損あ
り。其上大勢命にかゝり、難︀澁に及びぬる故なりとぞ。然るに是も亦死し、遺言し
て假覆なるが、文政十三庚寅年、其子亦之を願出でし由にて、公儀より御勘定方御
見分にて、攝・河川筋村々へ御利害之ありと雖も、一統不承知を申立て、何れも命を
{{仮題|頁=122}}
捨つる覺悟なるにぞ、一日鹿飛銚子の口左右へ、八間づつ切開かるゝ由の御觸なり
しが、之を御引上になり、再び{{r|御觸直|おふれなほし}}あり。其文に曰く、
{{left/s|1em}}
此度從{{二}}江戶表{{一}}依{{二}}御下知{{一}}、{{仮題|投錨=御觸|見出=傍|節=u-4-17-f|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}江州勢多川自普請所再見分爲{{二}}糺方{{一}}御勘定方被{{二}}差遣{{一}}取
調有{{レ}}之、右自普請相願候場所之儀は、有形附洲之箇所而已、纔に{{r|上浚|うはざらひ}}致候迄之儀
にて、總體川床浚候共運ひ、殊に銚子口座飛達へ{{r|差綺|さしいろひ}}候筋にては無{{レ}}之候間、勢多
川筋附洲之分、上浚致候迚、川下に到り格別落水相嵩候程之儀は有{{レ}}之間敷候間、
其段流末村々之者︀共へ厚申諭候處、一同致{{二}}承伏{{一}}候間、市中川添町々相糺可{{二}}申聞{{一}}
候事。
寅十月
乍{{レ}}憚口上
{{仮題|箇条=一}}、江州勢多川附洲上浚差支有無之儀御糺に付、町內町人共相糺候處、左之通申上
候。{{仮題|投錨=御觸についての答申|見出=傍|節=u-4-17-g|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}右上は浚に付、落水多少之程難︀{{レ}}計、差支之有無何れ共御答申立がたく、乍{{レ}}併
川添濱借家有{{レ}}之候町內之儀故、度々洪水にて難︀澁仕居候折柄之儀に付、萬々一此
上落水{{r|相嵩|あひかさみ}}候ては、彌〻難︀澁相增可{{レ}}申哉共奉{{レ}}存候得共、是等は全見越之儀に付、
川上在々一統承知之上者︀御多分に隨ひ度段、町人共一同申立候に付、此段以{{二}}書付{{一}}
御答申上候。已上。
船町年寄
總御年寄中
右淡海︀の水を落し新田開發の一件は、備中新見藩中小山三藏に聞けり。此人元
來彥根家中にして、故ありて新見の家來となれり。右自普請の願、數萬金の入用あ
る事なれば、膳所領の百姓{{仮題|分注=1|深見村太郞|兵衞者︀。}}一己の力にて、いかに思ふとも成るべき事に
あらず。斯かる大名の{{r|後立|うしろだて}}ある故なり。黃金の費何萬ありとも、彥根より之を出
し、たとひ程よく成らずとも、之を患ふる事なかるべし。「たとひ如何なる事あり
とも、少しも難︀儀せしむる事なく、彥根に於て安穩に暮さるゝ樣致しやるべし」と
て、內分にて始終力を添へらるゝ事なりといへり。さもあるべき事と思はる。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=井上河内守の惡行|見出=中|節=u-4-18|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
{{仮題|頁=123}}
先年遠州濱松の城主井上河內守出府の節︀、本庄の方とやらんに鷹野に行きしに、或
下屋敷に屋敷守の家計り一軒あつて、外に人家とてもなく、至つて廣うして物靜か
なる所なりといふ。河內守には僅五六人の近習計りを召連れて、この所へ入來り、
何れも跡に殘し置きて、只一人此內へ入りしに、此家夫婦のみの{{r|暮|くら}}しなるに、折節︀主
は外へ出でて其妻計りなりしかば、{{仮題|投錨=井上河内守の邪淫|見出=傍|節=u-4-18-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}河內守此女に迫りて邪淫せむとせしに、是に從
はざれば、「刀を拔き斬殺︀すべし」などと、之を脅し押倒して之を犯さむとす。斯かる
折節︀、其夫歸り來り、此體を見て大に怒り、河內守を取つて突︀飛ばしぬるにぞ、河內
守大に憤り、其者︀を斬らむとす。この時近習入來り、之をとりさへぬれども、其者︀
少々手疵負ひしといふ。{{仮題|分注=1|其女は、先年河內守の奧に奉公せし事|ありとも風聞す如何ありしにや。}}斯くて近習の者︀共、河內守
を宥め其男へ斷りぬるに、この者︀之を諾はず、「我が留守に河內守參られ、我が妻を
邪淫し、其折節︀歸りぬる故是を咎め支へしに、却つて我を殺︀さむとして、斯く手疵
を受けし」旨、公儀へ委細申出でしかば、井上は大に不首尾となり、「大名の邪淫前代
未聞」とて、其惡評至つて高かりしが、之に依りて其後奧州棚倉へ所替仰付けられ、
小笠原主殿頭には肥前唐津へ所替となり、水野左近將監には濱松へ所替となりぬ。
棚倉は奧州の內にても至つて惡しき所にて、彼の國は米穀︀澤山にて、至つて宜しき
國なるに、其中にて米さへろくに生ぜざる地面多くして、萬事不自由の所なりとい
へり。井上は古へ武功多き家にして、世の知る所なるに、斯かる事を仕出し、遠く
先祖︀を辱かしめ、惡名を末代に殘しぬる事、恥づべき事にあらずや。
{{仮題|投錨=棚倉藩士の惰風|見出=中|節=u-4-19|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
唐津は棚倉と違ひ、至つて繁昌の地にして、四方便利も宜しく近邊に長崎などあり
て、候にも御用を勤めらるゝ事故、すべて國中文化盛に開けて、町人・百姓に至る迄
學問・武藝等を専ら嗜みぬる土風なるに、{{仮題|投錨=小笠原家中は皆無學文盲|見出=傍|節=u-4-19-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}彼の棚倉より引移られし人達は、家老始め
一家中總て無學文盲にして、上下の禮儀も分ち難︀く、言語も分らざる事多く、夏など
は{{r|大絞|おほしぼり}}の浴衣の袂なきに袴を著︀けて、夫々の役所へ詰め、常に手拭にて天窓を包み、
白晝に屋敷門前或は町中などに立ちながら、{{仮題|編注=1|煎賣|煑カ}}の饂飩・蕎麥などを買喰ひし、諸︀役
人つまらぬ觸を出しなどして、町人・百姓にこだはられ、國政頓と立ち難︀くをかしき
{{仮題|頁=124}}
のみ多し。{{仮題|投錨=同家中の失體事|見出=傍|節=u-4-19-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}或時町家へ家中の若侍八人連にて至り、酒を飮みてありしに、其家の
主と心易き虛無僧︀の用事ありて出來りしに、客ある樣子なれば、入つて用事を辨へ
むや、歸りて又來らむやと、しばし門邊に思案してありしを、其者︀共之を見付け、「武
士の咄を立聞する段不埒なり」とて、內へ引きずり込みて、散々に之を罵り、斬つて
捨てむといへるにぞ、虛無僧︀有體に之を申譯すれ共、一向に聞入れずして、一人刀を
拔いて斬懸けしを何の苦もなく其刀を打落す。之を見て七人の者︀共、皆刀を引拔き
斬つて懸りしを、悉く打落し一々其刀を奪取り、其取りたる刀を以て其旨を訴へ、「最
早此方より免︀す事なし」とて、大に憤りぬるにぞ、何れも刀は奪取られ散々に打擲
の上大に恥をさらしぬるが、今更詮方なくて八人の者︀共、低頭・平身して種々之を詫
ぶれども、更に之を聞かざれば、何れも大に困窮し、其家の主を賴み種々斷りて、
やう{{く}}と免︀されしといふ。此虛無僧︀は筑前の浪人のよし。
又何れの國にても年貢上納せざる內は、商人に米を賣拂ふ事は法度なれども、地頭
を侮︀り困窮せし者︀共の斯かる業をなしぬる故、之をなさせじとて、領中を目附兩人
づつ幾群ともなく見巡りぬるに、或時俵二俵を荷ひて、町へ出づる者︀に出會ひぬる
故、これを咎めしに、{{仮題|投錨=同目附農民に辱めらる|見出=傍|節=u-4-19-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}「是は米にてはなし」とて、其所を馳せ過ぐる故、兩人之を追ひ
かけて改めむとし、其者︀に迫りしかば、其者︀其俵を下し棒を外づして打つて懸る故、
兩人の目附も刀を拔いて打合ひしが、何の苦もなく刀を打落され、兩人共半死半生
に打据ゑられ、刀をば二腰ともに之を蹈みゆがめて其所に捨置きぬ。兩人とも痛
苦に堪へ難︀けれども、人目に懸りては己が身分に係りぬる故、やう{{く}}と起上りて
辛うじて內へ歸りしが、之を見し者︀ありて、程經て其噂ありしかば、暇を出されし
といふ。
又{{r|町廻|まちまはり}}の役人、{{r|馬子|まご}}の無禮を咎め之を捕へむとせしに、其馬子大に惡口してこれと
摑み合ひしが、馬子に叶ひ難︀き樣子なれば、刀を拔いて斬つて懸りしに、これも刀
を引たくられ、己が刀にて散々にむね打に打据ゑられ、其刀をば石に叩き付け、刃
を悉くつぶし溝の中へ投込みて逃げ去りしといふ。
又城下の者︀共、鍋島家の領內今里へ行きて博奕をなし、日を經て歸り來らぬ者︀ある
{{仮題|頁=125}}
由を聞出し、之を召捕らむとて彼の地へ到り、其所へ屆くる事なく、直に其家へ蹈込
みこれを召捕らむとせしに、狼藉者︀なりと博奕打共打寄つて、捕手の者︀共を打倒し
て、之を搦め置き、「御家來五人其餘番人共、當所へ出來り狼藉せし故、之を召捕り置
きぬ。受取りに參らるべし」とて、嚴しく唐津へ掛合ひしかば如何とも爲し難︀く、「此
事表立ちては當家の恥辱なれば、何卒內分に成し下されよ」とて、種々に相斷りて事
濟になりぬ。されども斯かる{{r|淺漬|あさま}}しき事なれば、其評判甚しかりしといふ。是迄小
笠原の家來至つて人少なりしに、此度唐津へ所替に、長崎御用の手當など事の缺け
ぬる故、足輕多く抱へ込みぬるが、領中にて町人・百姓より之を召抱へむとすれ共、
可なり小身を持ち、{{仮題|投錨=同家中のよからぬ理由|見出=傍|節=u-4-19-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}聊にても其產ある者︀共は輕卒たる事を恥ぢて、之を諾ふ者︀なき
故、馬子・日雇など其日を暮らしかねぬる者︀共の刀を差す事の嬉しく、常々頭を下げ
し町人・百姓の上に立て、權威ぶらむ事を欲する惡徒共、多く召抱へられしかば、
よいよ見苦しき事多しといふ。又若き侍共は、每夜市中を徘徊し、人の妻・娘などの
往來するを引捕へ、常に理不盡に邪淫すといへり。元來小笠原の勝手向宜しから
ざるに、所替等の物入多く、其上前にいへる如く、家來始め諸︀役人共、皆々菽麥を辨
ぜざる程の愚人共なれども、私欲奸智は長けて多く上の物を私すといふ。斯くの
如くなれば、六萬石の身代にて三十五萬兩の借金あり、公金尤多く所々名目の金も
少からず、町人より借入れしは三分の一に足らずといふ。斯かる中にては銘々己を
利する分別を專らとせしに、出羽︀庄內酒井左衞門殿より養子入らせられしが、此人
家督あるや否、直に家老諸︀役人に至るまで不忠の者︀共悉く押込め、夜中出羽︀より附
添ひ來りし腹心の家來兩人宛召連れ、{{仮題|投錨=同養子の風儀取締|見出=傍|節=u-4-19-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}家中より町家に至るまで忍びやかに步行し、
家中の者︀共の{{r|不埒|ふらち}}なるは、見付次第に之を咎め姓名を糺して之を罪せらる。斯く
の如く嚴重に致さるゝ事故、近來風儀も追々改まり、少しく借財の主法もつきかけ
しといふ。{{r|一切|ひときり}}は家中の者︀共、此主を毒害せむと工めるなど、種々の取沙汰ありし
かば、井戶に錠をおろさせ腹心の者︀之を守り、日々の膳部も奧にて煑焚ありし事と
聞けり。さもあるべき事と思はる。彼の地の者︀共三四人に聞きけるに、そのいへ
る所同じき故、聞ける儘を書付けぬ。{{nop}}
{{仮題|頁=126}}
{{仮題|投錨=勢多川浚渫|見出=中|節=u-4-20|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
天保二辛卯二月八日御觸の寫
此度江州勢多川附洲浚糺方之儀に付、追々承糺候處、兩川口淺瀨に相成候而者︀、市
中衰微之基に相成候旨、{{仮題|投錨=川浚の御觸|見出=傍|節=u-4-20-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}一同相歎居候趣、無{{レ}}據筋に相聞候に付、先達而申渡置候通、
淀川・神︀崎川・中津川筋者︀不{{レ}}及{{レ}}申、當表諸︀川海︀口迄御救浚之儀、江戶表へ申上候處、
此度勢多川・宇治川・淀川等一時に浚方被{{二}}仰出{{一}}候間、先市中相歎居候。海︀口・安治川
口ゟ手始いたし、迫々大浚申付候間、此旨可{{レ}}令{{二}}承知{{一}}候。
右之趣從{{二}}江戶表{{一}}仍{{二}}御下知{{一}}申渡候條、御仁惠之程難︀{{レ}}有三鄕町中江可{{二}}申間{{一}}候。
演舌 {{仮題|行内塊=1|江戶堀五丁目|同 三丁目}}
一、當廿一日・廿三日當通達組にて、銘々共兩町竝外組にても、兩三町宛總會所へ御
呼出之上、川崎治左衞門殿・永瀨七郞右衞門殿被{{二}}仰聞{{一}}候者︀、此度兩川口始川々大浚
{{r|御目論見|おんもくろみ}}有{{レ}}之に付而者︀、{{仮題|投錨=同口達|見出=傍|節=u-4-20-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}町々に而地低之場所竝家普請等に而地上げ可{{レ}}致樣之場所
等致{{二}}請落{{一}}、右浚方之土砂爲{{二}}貰受{{一}}可{{レ}}申。尤大浚之に儀付、土砂多分之事に候得者︀、成
丈け貰受方相增候樣、組合町々へ被{{二}}相進{{一}}可{{レ}}申。尤浚方者︀最初川口ゟ段々上筋川と
浚方に相成候に付、貰受之儀は其町々最寄浚之節︀、爲{{二}}上げ{{一}}候儀に有{{レ}}之間、其心得に
て前以組合限貰受土砂・坪數相認め、銘々共る掛り總年寄中へ差出候樣可{{レ}}仕旨被{{二}}仰
聞{{一}}候。
{{left/s|1em}}
但右御申渡之後、川崎治左衞門藏御宅へ罷出、尙又就{{二}}右心得方之儀等{{一}}相尋候處、
別に仔細も無{{レ}}之、此度者︀格別土砂多儀に付、於{{二}}町々{{一}}隨分致{{二}}出精︀{{一}}、縱令格別地低
に無{{レ}}之共、空地等有{{レ}}之場所へ者︀貰請置、追而普請等有{{レ}}之候節︀、相用候樣にも在
{{レ}}之度、且大道抔者︀高き方、水捌も宜敷道理に付、箇樣之砌大道之不陸等一樣に相
直し候樣有{{レ}}之度儀に付、其心得を以一統へ相談し候間、可{{レ}}然段被{{二}}仰聞{{一}}候。尤此
儀者︀表向御申聞之儀に者︀無{{レ}}之、御內意に有{{レ}}之候事。
{{left/e}}
川浚土砂市中竝町續在方之者︀へ差遣候儀、兼而砂船之者︀共ゟ願有{{レ}}之筋も有{{レ}}之、百
坪已下之願者︀不{{二}}差遣{{一}}。勿論百坪已上にても貰土砂願高之半坪者︀、川浚土砂差遣、殘
之分者︀砂屋共に可{{レ}}致{{二}}{{r|相對|あひたい}}{{一}}旨申渡候仕來に候得共、此度大浚目論見に付て者︀、少〻に
{{仮題|頁=127}}
ても手近之場所へ土砂爲{{レ}}捨候はゞ、格別浚方之{{r|便利|べんり}}に相成、且浚方も十分に行屆候
筋に付、市中川々大浚之節︀者︀多少に不{{レ}}拘差遣可{{レ}}申。尤大浚中に限り、兼而砂屋共
願有{{レ}}之半坪、砂屋共へ與不{{レ}}及{{二}}相對{{一}}、不{{レ}}殘川浚土砂のみ可{{二}}差遣{{一}}候間、町々申合大道
其外地低之場所等、可{{二}}相成{{一}}丈け見繕可{{二}}申立{{一}}旨申通し、取調早々可{{二}}申聞{{一}}事。
此度勢多川浚之儀に付、攝・河村々竝三鄕町中之者︀共、歎訴いたし候淀川筋之儀、累
年土砂埋り、次第に川床高相成、兩川口之儀も追年淺瀨に相成、干汐之節︀者︀諸︀廻船
之向折々入津差滯候儀も有{{レ}}之候哉に相聞、申立之趣全謂儀共不{{二}}相聞{{一}}候に付、格別
之御仁惠を以、勢多川浚之有無、攝・河村々三鄕町中歎訴之筋に無{{二}}御拘{{一}}、諸︀民御救之
ため淀川筋上流ゟ神︀崎川・中津川を始、兩川口迄大浚、竝右川之兩緣之堤嵩置腹付等
之御普請、別段之御入用を以被{{二}}成下{{一}}度段、此度江戶表へ被{{二}}仰上{{一}}候處、勢多川・宇治
川・淀川共、一時に浚方被{{二}}仰付{{一}}候段、御下知有{{レ}}之候に付、此節︀專右御目論見御取調
中に有{{レ}}之候。尤御入用銀之儀者︀、兩御役所御溜銀之內を以、過分之金高御目當有{{レ}}之
候得共、何分{{r|大層|たいそう}}之御普請に付、右御目當銀而已にて者︀、思召通十分之御浚御普請向
御行屆在{{レ}}之間敷哉と、御心配有{{レ}}之事に候。元來此度之儀者︀攝・河之諸︀民を始、三鄕町
中之者︀共、永々安堵繁昌いたし候樣との厚御憐愍・御仁惠ゟ、被{{二}}思召立{{一}}候御趣意に
て、全成功之處を深御心配之儀に有{{レ}}之、此方共に於ても、御仁心之程を乍{{レ}}不{{レ}}及奉{{二}}感
心{{一}}儀にて候。大坂三鄕町中二百餘年不{{二}}相替{{一}}連縣と繁昌いたし、銘々安穩に致{{二}}渡世{{一}}
候儀者︀、偏に御上之御仁德故之儀にて、町中一同兼て冥加之程を難︀{{レ}}有可{{レ}}奉{{レ}}存儀者︀
勿論之事にて、且又大坂之儀者︀、江州湖水之末流宇治川を始、其外川々落込口源不
{{レ}}盡之淀川末流海︀口に在{{レ}}之、本領無雙之都︀會之地とは誰々も相心得可{{レ}}申儀に候處、
諸︀人存之通、追年川筋次第に押埋川床高相成、勿論兩川口之儀者︀、別而無{{二}}御手拔{{一}}御
浚方有{{レ}}之候得共、何分多年晝夜之無{{二}}絕間{{一}}上流ゟは押下げ、海︀手ゟは淘り上げ候而
土砂にて湊口一體淺瀨に相成候故、無{{レ}}據御手入之儀も、{{r|水尾|みを}}筋之外者︀御行屆無{{レ}}之
樣成行候儀者︀自然之道理に付、大造之儀とて被{{二}}思召{{一}}候得共、此度大浚被{{二}}成遣{{一}}候は
ば、諸︀廻船連送之無{{レ}}滯相成、此上町中追々繁昌{{r|彌增|いやまし}}、縱令此後川筋大水之節︀迚も、兩
川緣之堤損所不{{二}}出來{{一}}候得者︀、攝・河川綠三百餘ケ村之百姓共儀も安堵いたし、益〻御
{{仮題|頁=128}}
上之御仁政を難︀{{レ}}有可{{レ}}奉{{レ}}存儀に可{{レ}}有{{レ}}之と之思召を以、前書大浚御普請向をも被{{二}}仰
上{{一}}候事に有{{レ}}之候間、右體御誠意御仁惠之程を難︀{{レ}}有奉{{レ}}存、御國恩之冥加を存、銘々
子孫へ福︀力を殘陰德之志有{{レ}}之、右御救浚御普請向之御手傳申上度存寄候者︀共も有
{{レ}}之候はゞ、無{{二}}遠慮{{一}}書付を以可{{二}}申上{{一}}事に候。尤町人共へ上げ金等可{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}御素
意に者︀無{{レ}}之候得共、御人用銀迚も{{r|大層|たいそう}}之儀に付、殊之外御貿慮を被{{レ}}爲{{レ}}衞候候にて、
格別之御仁惠無{{二}}御據{{一}}手薄之御普請に可{{二}}相成{{一}}哉と取調掛被{{二}}仰付{{一}}候。此方共に於
ても、如何計殘念に奉{{レ}}存候儀に付、一應町人共へ前書之次第申諭、存寄をも承候樣
可{{レ}}致旨、御奉行へ申上候上、諸︀株・諸︀問屋・諸︀仲間之者︀を始、三鄕市中志之者︀共へ、此
段申達候間、厚御仁惠御實意を能々致{{二}}會得{{一}}、銘々誠實之心得を以、篤と致{{二}}勘辨{{一}}可{{二}}
申聞{{一}}旨、夫々<sup>江</sup>可{{二}}相達{{一}}候事。
{{left/s|1em}}
但諸︀株・諸︀問屋・諸︀仲間之內に者︀、此節︀御手當申上度趣相願候志之面々も相籠り可
{{レ}}有{{レ}}之候間、右之向<sup>江</sup>者︀、最早此度之不{{レ}}及{{二}}通達{{一}}儀に候。其邊斟酌可{{レ}}有{{レ}}之候事。
{{仮題|添文=1| 圓山藤三郞|大浚掛り}}
由比一郞助
{{left/e}}
右御演舌書を以、當十四日當鄕於{{二}}總會所に{{一}}、總年寄中ゟ右之通此度川々大浚に付而
者︀、御上樣別而御心配厚御趣意之趣、町々行屆候樣可{{二}}申聞{{一}}旨被{{二}}申渡{{一}}候間、右厚き
思召、大坂市中、在々共永年繁昌之素、銘々篤と會得勘辨可{{レ}}有{{レ}}之事。
天保二辛卯年二月十四日{{sgap|16em}}年寄
家持中
家守中
借家中
右の通の御觸ありて後、御融通方十人兩替、其餘大家にて金持の分三十六人選み出
し、西御奉行所へ召され、掛の與力・總年寄等より冥加金上納すべき由、利害ありしか
ば、{{仮題|投錨=冥加金の上納|見出=傍|節=u-4-20-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}銘々身の分限に應じ之を上納す。鴻池善左衞門・加島屋久右衞門の兩人は、金子
千三百兩を奉り、加島屋作兵衞・升屋平右衞門八百兩づつ出し、島屋市兵衞・加島屋
十郞兵衞・山家屋權兵衞三百兩づつ出し、島屋市五郞は二百兩出せしといふ。
{{仮題|頁=129}}
{{仮題|分注=1|〔頭書〕始三十
六人召出され次に七人・五人、夫
より追々に召出されしといふ。}}予が聞けるは斯くの如し。其餘も定めて同樣の事なるべ
し。其外町々の甲乙によりて、町人・借家人一統に申合せ、銀子三貫目出せるもあり、
又二貫目・一貫目・八百目・五百目・三百目、其町の分限に應じて上納せしといふ。{{仮題|分注=1|〔頭書〕別召出
になりて、金子上納せしは格別の事なり。其餘一通の町人は、大抵重敷地の坪割にて、一坪に付可程とい
ふ割合なり。借家の方は、町々の振合に依りて、表借家百文、裏にて五十文、又に間口一間に付き百文、五間
の家なれば五百文、裏家百文宛と定めし町もあり。又町人共僅の金子を差上げ、借家の者︀より過分に上納さ
せむとて、金二步・一步・二朱・一朱出せなど、權柄に觸廻りし町などもありしが、これらは年寄・町人中不當
の致方なりとて、借家中之を諾はず
して、世間の通に出しぬるもあり。}}又總て株ある輩は、廻船・廻米船・樽船・檜垣・炭・薪水扱仲間
に至る迄、每株に冥加金を上納するにぞ、此金高凡そ十萬兩に及ぶべしと風說なり。
又川浚中大坂三鄕町中より每町に十人宛の人足を出す。年限凡そ十二三年もかゝ
るべきとの{{r|積|つもり}}なりといふ。{{仮題|投錨=砂持人足|見出=傍|節=u-4-20-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}又川々を浚へし砂を每町に頂戴致し、地形を直しぬる
樣にと、總年寄より內意之あり、每町に二百艘・三百艘、少きは百艘づつ申受くる樣
になりぬ。又砂持人數十人に限るべからず、隨分出精︀致し候樣にと內意之あるに
ぞ、年寄共相談にて、年寄共より銀三枚又は二枚・一枚づつ上納し、御手傳人足町々
騒ぎ立て、{{仮題|投錨=御手傳人足|見出=傍|節=u-4-20-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}多きは二三百少きは五十人計り、皆一樣の{{r|揃|そろひ}}の半纏・股引・板〆縮緬・天鵞
絨等の手搔・手すきに、花笠をかむれるあり。又は思ひ{{く}}に華美を盡し、何れも目
を驚かせる出立なり。船印には天滿組・北組・南組と三鄕の印を付し、{{r|幟|のぼり}}を船に押立
て五色の吹貫吹流し、何れも四五間もありぬ。竿に付けぬるに千なり瓢簞・如意・半
月・滿月・花籠・風車・與之助狐・藥玉等思ひ{{く}}に仰山なる山車をつけ、鉦・太鼓にて囃
し立て、二三日も午前より大坂中を踊り步行て、其日になりぬれば、多くの船にて
押行く樣、さながら船軍の如し。{{仮題|分注=1|〔頭書〕仰山なる船印を押立て、多人數の騷々しき有樣、|船軍の如き有樣見るも怪しく忌はしき事どもなり。}}始めよ
り「遊山船遠慮に及ばず、男女とも場所の見物勝手次第たるべし」となれば、之れを見
むとていづれも見物に行きぬるに、大坂中の船一船もなく、之れを借らむとすれば、
三日も五日も前かたより賴置きて、漸々と借受けらるゝにぞ、川は船に塞り陸は往
來群集して、大いに押合ふ事なるに、中には種々のにわかなどなして行きぬるもあ
り。伏見町唐物仲間より御手傳に出でしは、何れも唐物を用ひ、すべて唐人の出立
にて、上官になりしものは羅紗の衣裳に牡丹には珊瑚珠・ギヤマンを用ひ、蝶など
の形になし、曲衆を持たせ、長き煙管を持ち、童子にとほめがねを持たせ、行列美々
{{仮題|頁=130}}
しく出立ちて場所に到り、曲条に腰をかけ、烟草を吸ひし由にて大いに咎められ、
其の場より直に追ひ還さる。何者︀の業にや伏見町唐物屋の門に、落首を書きて張
り付けぬ。
唐人が追ひかへされて不首尾町羅紗もない事毛氈がよい
衣裳の華美を咎められし故なり。斯くの如く追々衣裳等を禁じ、二三日も手前よ
り所々踊り步行き、場所に到りてもなは{{r|踊|をぢり}}をなし、踊り草臥れて肝心の砂を持つ者︀
稀なりしかば、其驕り怠りを咎められ、踊り步行きぬる事は勿論、鳴物をも禁ぜら
れしかば、夫より進んで出でむといへる者︀なき樣になりしといふ。蜂須賀には在
國にて病氣なりしかば、有馬入湯を願ひ奉り、大坂の屋敷へ著︀かむとせしに、遠方
より川口の有樣を見て大に驚き、海︀上に碇を下し船を止め置き、早船を以て之を見
屆させて漸々と入津し、細川は參勤なりしが、此有樣に驚き先例もあらぬ事なるに、
堺へ入津せしといふ。予も五月十日船にて家內引連れ見物に行きしに、大に群集
せし事なりし。其場所の人を積り見しに、凡そ六萬計りもありと覺ゆ。尙追々に
出來れる者︀限なし。されども其場廣き事なれば、押合ひて步行になやめるは道筋
計りなり。善きにつけ惡しきに付けて、忌諱をも憚らで種々の戲をいひつる曲者︀
あり。其一二を記す。
{{left/s|1em}}
{{仮題|行内塊=1|天下|太平}}國恩湯 {{仮題|行内塊=1|船の滯り、さしつかへ、|濱の痛み治する妙藥。}}
抑〻此御藥の儀は、第一に仁政を强くし、上を淨くし下の{{r|痛惱|いたむなやみ}}を治し、陰氣を去り
陽氣を益し、{{r|潮津|しほつ}}の海︀路を浚へ、瀬に凝たる惡き土砂を除き、地を開き難︀風を{{r|除|のぞき}}、
船差支滯りをよく通ぜしめ、塞ぎたる人氣を治し、黄白の{{r|廻|まは}}りを善くし、膽を安ん
じ、總て下の煩ひを助け、益〻泰平にして長久なさしむる事神︀の如し。又婦人・小兒
の類︀ひは、親・夫常々心を用ひ、怠なく服さしむべし。心を正直にして邪氣の愁な
し。最も晝夜・朝暮に是をせんじ服し、御藥の難︀有を仰くべし。尙此餘功能數多な
れども、筆紙に盡しがたし{{仮題|編注=1|を|衍カ}}是に略す。
{{left/s|2em}}
一、此御藥は諸︀國に出店有{{レ}}之、大坂表は勿論、遠近の津々・浦々・山林・幽谷追
追繁昌に相成申候。
{{left/e}}{{left/e}}
{{仮題|頁=131}}
大坂仁惠町ゟ繁昌皆方 安堵仕町
御免︀ 市中堂 有賀恭助
右加島屋吉左衞門より借りて之を寫す。これ等はまだしもよきたはれ事なり。下
に記せるは、板行になして市中を賣り步行けるを書付けぬ。
{{仮題|行内塊=1|大坂|町中}}川口砂持{{仮題|行内塊=1|ふるけれ|ど忠九の}}拔文句{{nop}}
{{Interval|width=12em|margin-right=1em|sep-char=▲|array=
▲{{仮題|行内塊=1|風雅でもなく| しやれでもなく、}}▲{{仮題|行内塊=1|そろひのはつび著︀る| 町の會所下役。}}▲{{仮題|行内塊=1|とたんの拍子に、| }}▲{{仮題|行内塊=1|◎まうけする| 尻なしの甚兵衞小屋。}}
▲{{仮題|行内塊=1|詞もしどろ| 足どりも、}}▲{{仮題|行内塊=1|治三子の腹| ぢやいナト{{く}}{{く}}。}}▲{{仮題|行内塊=1|やアざは{{く}}と| 見苦しい、}}▲{{仮題|行内塊=1|乘合船の| ばゝかゝ。}}
▲{{仮題|行内塊=1|とんと畫に| 書いた通り、}}▲{{仮題|行内塊=1|新山より淡路島| 見る風景。}}▲{{仮題|行内塊=1|今日のしぎ| かく有らんと思ひ、}}▲{{仮題|行内塊=1|辨當して見に行く| 京の客人。}}
▲{{仮題|行内塊=1|次手にかうぢやと| 足さきで、}}▲{{仮題|行内塊=1|蛤取つていぬる人。| }}▲{{仮題|行内塊=1|遊興に耽り、| }}▲{{仮題|行内塊=1|うつくし者︀づれと| 遊山船。}}
▲{{仮題|行内塊=1|あの如く一致して| 丸まつた時は、}}▲{{仮題|行内塊=1|川筋賑やひ| 天神︀祭の如し。}}▲{{仮題|行内塊=1|日本一の| あはうの鏡、}}▲{{仮題|行内塊=1|質置て形りゆすりすぎ| 上の衆に叱られる者︀。}}
▲{{仮題|行内塊=1|訪ねて| こゝへ來る人は、}}▲{{仮題|行内塊=1|砂持見にくる近在の人。| }}▲{{仮題|行内塊=1|難︀儀となりしは、| }}▲{{仮題|行内塊=1|三月廿七日川口見に下つて| 淀で難︀船に遇うた人。}}
▲{{仮題|行内塊=1|是は思ひもよらぬ、| }}▲{{仮題|行内塊=1|夏のまうけ| 取越す木綿屋。}}▲{{仮題|行内塊=1|とめてもとまらぬ、| }}▲{{仮題|行内塊=1|紅すりの揃拵へる| 町々の若者︀。}}
▲{{仮題|行内塊=1|こぶしはなれて| 取落す、}}▲{{仮題|行内塊=1|どんどこ船の| 櫂遣ふ人。}}▲{{仮題|行内塊=1|ほんにかうとは| 露知らず、}}▲{{仮題|行内塊=1|掛茶屋の物が賣切れ| ひだる腹でいぬる人。}}
▲{{仮題|行内塊=1|お尋ねに預り| お恥かしい、}}▲{{仮題|行内塊=1|所々の開帳。| }}▲{{仮題|行内塊=1|冥加の程が恐しい、| }}▲{{仮題|行内塊=1|道々あきんとの| 金まうけ。}}
▲{{仮題|行内塊=1|うつりかはるは| 世の習ひ、}}▲{{仮題|行内塊=1|きのふ迄大海︀であつたに| 大なる島になり山が出來る。}}▲{{仮題|行内塊=1|昔より今に| 至る迄、}}▲{{仮題|行内塊=1|安治川開發よりの| 賑ひ。}}
▲{{仮題|行内塊=1|早う御渡し| 申したさ、}}▲{{仮題|行内塊=1|船に乘らぬ先に| 錢とる川口の渡場。}}▲{{仮題|行内塊=1|水門柴部屋| 物おきまで、}}▲{{仮題|行内塊=1|おひ{{く}}出來る普請。| }}
▲{{仮題|行内塊=1|幸今日は| 日柄もよし、}}▲{{仮題|行内塊=1|三月八日より| 川浚へ始まる。}}▲{{仮題|行内塊=1|ヱ、| 有り難︀し{{く}}、}}▲{{仮題|行内塊=1|町々へ百坪づつ| 下さる土砂。}}
▲{{仮題|行内塊=1|おもしろい、| }}▲{{仮題|行内塊=1|船でやたらに| おこる人。}}▲{{仮題|行内塊=1|仕やうをこゝにて| 見せ申さん、}}▲{{仮題|行内塊=1|かんくつてはり込む| 町々のそろへ。}}
▲{{仮題|行内塊=1|又吹出す、| }}▲{{仮題|行内塊=1|潮時にふへる| 島の中のたまり水。}}▲{{仮題|行内塊=1|ひゝはりと| しばりし竹を、}}▲{{仮題|行内塊=1|たんと砂持| 强い人。}}
▲{{仮題|行内塊=1|押しとめられて、| }}▲{{仮題|行内塊=1|せひても| あるけぬ群集。}}▲{{仮題|行内塊=1|ハヽア| 嬉しや本望や、}}▲{{仮題|行内塊=1|かし船や| えらばやり、}}
▲{{仮題|行内塊=1|ほしがる所は山々、| }}▲{{仮題|行内塊=1|茨・住吉の八つ橋| さかりのかきつばた。}}▲{{仮題|行内塊=1|出行く足も| 立どまり、}}▲{{仮題|行内塊=1|掛茶屋の群集。| }}
▲{{仮題|行内塊=1|そりや眞實か| まことかと、}}▲{{仮題|行内塊=1|安治川堤| 御蔭の如し。}}▲{{仮題|行内塊=1|心殘して立出づる、| }}▲{{仮題|行内塊=1|茨・住吉で高い| 物食ていぬる人。}}
▲{{仮題|行内塊=1|口へこそ出し給はね、| }}▲{{仮題|行内塊=1|淋しい野崎觀音さん。| }}
}}
{{nop}}
卯の春に山を築地の賑ひは民の樂しみなほ重ぬらん{{nop}}
{{仮題|頁=132}}
{{仮題|入力者注=[#図は省略]}}
{{仮題|頁=133}}
{{left/s|1em}}
{{仮題|分注=1|〔頭書〕五月頃より川口砂持の場所へ海︀龜二頭出來る。至つて溫順の物なりといふ。大勢の人寄集り其腹
を見んとて、十人計りにてこれ返さむとするに、少しも動かざる故、是に酒を與へ海︀上に放ちやりしに
又出來りて、其邊の溜水に住みて、二つともに動く事なし。其首は牛の如しといふ。七月に至り玉子を生
む。大さあひるの玉子に等しく、御奉行より命ありて之を取らせられしに何れも皆孵へりぬ。市中にも取
來りて之を飼︀ひ置きぬるものあり。其首常の龜よりは至つて大きく甲に入る事なく、手足も同じ樣にして
長く水掻ありて指分つ事なしといへり。〔治三子ノ腹ノ註ナランカ〕
}}
右の板行とほかに、川口浚へぬる圖面などを賣り步行しが、たちまち板木御取上
げになりて、おとがめを蒙りしといふ。中にも最も甚だしきは、御奉行の門へ張
札・落首等をなせしといふ。川口浚へぬる場所の假小屋へ張付けしといへる落首
を聞きしに、
大鹽の引きたるあとは川ざらへ下は砂もち上は金持
是等は最も甚しき事といふべし。
{{left/e}}
斯くて何れも力を盡して砂を持連び、海︀中を埋めぬれども、一夜の內に潮さし來り、
波にて砂をゆり流し、勞して其功なき事なるにぞ、思ひ{{く}}に四斗樽・明き俵・蜜柑
籠等に砂を盛りて、其儘埋めぬるに、石屋仲間、兵庫・御影邊よりも、船にて石を持來
りて土砂留をなす。
公儀より船方へ申付けられ、夫れ{{ぐ}}に石を上納なさしめ、また諸︀國へ廻船せし歸
りには、何船にても少々づつの石を、一統に持ち歸るべしと命ぜられしといふ。砂
持に出ても目立ちぬる働せし者︀には、鳥目・酒等を下され、働く事なくして踊り遊
べる者︀どもをば、別に引き止めて當り前の砂を持たせられ、大いに叱らるゝことな
りとぞ。
右川浚一件は、西御町奉行新見伊賀守殿御掛なり。御同人には文政十二〔{{仮題|分注=1|年脫|カ}}〕四月
より大坂へ來られしが、天保二年辛卯八月十七日御奉書にて、五日の仕度道中常例
の通との仰付けられのよし、廿一日川口築地見分あり。今日迄に三方六百間の石
垣成就し、石垣に添ひ三間に一本づつの松木を植ゑ、三尾木等をも悉く打廻し、新
地中の小川橋等迄殘る所なく出來せしかば、{{仮題|投錨=奉行新見伊賀守昇進|見出=傍|節=u-4-20-f|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}「此所は今日限になすべし。明日より
は內川のみの浚せよ」と申渡され、明くる廿二日發駕あり。歸府の上御側御用取次
格に仰付けらる。是迄先例に之なき立身なりといふ。大坂へは是迄堺御奉行勤め
られし久世伊勢守殿、台命を蒙り來り給ひ、川浚引續いて之あり。{{nop}}
{{仮題|頁=134}}
巳の春迄にて大浚止む。何程浚をなしても、直に元の如くに埋もれぬる故、如何と
もなし難︀しと見えたり。天保五甲午の春三月に至り、大坂中へ右冥加金差上候御
褒美を下さる。予も二十文頂戴をなしぬ。
{{仮題|投錨=京都火事|見出=中|節=u-4-21|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊4|錨}}
{{仮題|行内塊=1|○前文缺|クカ、}}時節︀無{{二}}御座{{一}}候。又々舊冬ゟ寺々出火有{{レ}}之、近所も每々にて于{{レ}}誠困り入申
候。先冬ゟ時日迄にて左の通、
{{left/s|3em}}
十二月十二日曉
大龍寺之{{r|辻子|つじ}}北隣{{仮題|行内塊=1|御存之通四條|寺町東へ入所}}
大地也 淨信寺{{仮題|行内塊=1|本堂・車裏とも不|{{レ}}殘燒失大火。}}
同十六日
同じ辻子
大地也 西林寺{{仮題|行内塊=1|本堂計不{{レ}}殘|燒失大火。}}
廿九日
高倉五條
宗仙寺{{仮題|行内塊=1|本堂・庫裏と|も不{{レ}}殘。}}
大火 右隣の寺も右同斷。
正月三日
上の町天神︀北隣
了蓮寺{{仮題|行内塊=1|本堂計。|是は中途にてもみ消申候}}
同日
下の町
長寺・正圓寺{{仮題|行内塊=1|右同斷| }}
四日
善長寺{{仮題|行内塊=1|右同斷| }}
同日夜四つ時過
下の町{{仮題|行内塊=1|寺町綾|小路也。}}{{nop}}
{{仮題|頁=135}}
{{仮題|行内塊=1|大地也|大火也}}松光寺{{仮題|行内塊=1|本堂庫裏とも|不{{レ}}殘燒失。}}
{{left/e}}
{{left/s|1em}}
右之通每日々々、其外西寺町上寺之內邊之小寺夥敷。扨々困り入申候仕合に御
座候。早々鎭り候樣奉{{二}}祈︀入{{一}}候。以上。
{{left/s|1em}}
前文京都︀より年始狀之裏書也。何も付火にて其者︀召捕られぬ。生國加賀之者︀に
て近年益〻佛法盛に相成候事忌々敷思ひ、本山之大地多き處なれば、先京都︀之寺
寺を燒拂、夫より諸︀國之寺々をも燒拂候樣之由、天保三壬辰早春之珍事也。於{{二}}大
坂{{一}}も稻荷濃人橋にて人殺︀有。年禮に出て伏見堀に倒れ込み死せる有。三十石。
〔{{仮題|分注=1|船脫|カ}}〕くつがへり九人溺死。久寶寺町酒家三男大釜に落入り煎殺︀さる。石川五
右衞門已來の事也。十日蛭參詣大に群集押倒され、けが人多有{{レ}}之よし、江戶も
元日・二日に火事有と云。春來大抵こんな者︀也。御覽之上此狀御返し可{{レ}}被{{レ}}下候。
以上。
{{left/e}}
伊東樣
私在所備中國松山城下侍屋敷ゟ去月廿六日午の刻出火。風烈に而及{{二}}大火{{一}}、外曲
輪內侍屋敷迄燒込、翌廿七日卯上刻火鎭申候。燒失左之通、{{nop}}
{{Interval|width=14em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@2:一、侍屋敷<sup>但長屋共</sup> 八十九軒@一、學問所 一ケ所
@一、會所 一ケ所@一、門 二ケ所
@一、厩 一棟@一、番所 三ケ所
@一、橋 一ケ所@一、<sup>家中</sup>土藏 三十五ケ所
@一、<sup>家中</sup>物置 廿六ケ所@一、町家 五百九十四軒
@一、<sup>町家</sup>土藏 百一ケ所@一、<sup>町家</sup>物置 九十六ケ所
@一、辻番所 五ケ所
}}
右之通御座候。尤城內別條無{{二}}御座{{一}}候。人馬怪我無{{二}}御座{{一}}候。此段御屆申上候。
以上。
{{left/e}}
{{仮題|ここまで=浮世の有様/2/分冊4}}
{{仮題|ここから=浮世の有様/2/分冊5}}
{{仮題|頁=135}}
{{仮題|投錨=天保二年雜記|見出=中|節=u-4-22|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}
西橫堀京町橋東詰北へ入る所尼崎屋長兵衞借屋に、鹿崎屋伊助といへる者︀あり。
此者︀四五年前迄は、齋藤町に住して加島屋伊助といひ、船町加島屋幸七出入の者︀な
{{仮題|頁=136}}
りしが、至つて姦惡にして、種々のよからぬ事を工み、本家に對しても不埓なる事
多く、{{仮題|投錨=鹿島屋伊助|見出=傍|節=u-4-22-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}其上妻の病死せし後は、骨肉を分けし十六歲の娘に邪淫をなし、禽獸にも劣
りし者︀なるにぞ、本家よりも家號取上げて、出入を差留められぬ。五年計り已前よ
り橫堀に宅變し、始めは油・下駄・草履など商ひしが、變宅の後は、灰屋の株を求めて
灰を商とす。此家元來宿犀米屋など住居せしかども、十年餘に三入の變死ありて
何れも縊首して死し、二人目の縊首が書置に、「二階よりして頻︀に我に縊首せよと勸
めぬる者︀ある故、據なく其事に及びぬる由」の書置なりしとなり。斯くの如く不祥︀
の家なれば、誰ありて其家借れる者︀なし、久しく空家にてありしかば、家主長兵衞
も之を困りしかば、「三年の間無家賃にて貸すべし」といへるにぞ、之を幸として借り
受けて變宅せしといふ。齋藤町に住せし時、娘との不義世評高くなりしかば、懷妊
せし小兒を墮胎せしめ、娘を奉公に出し後妻を設け、間なく女子出生し、天保二辛
卯年、此兒三歲になりぬ。正月六日の事なりしが、伊助は忰{{仮題|分注=1|先妻の子にして二|十歲計りなり。}}と共に、
四日より紀州の親類︀の方へ赴き、夫より所々{{r|商|あきはひ}}の得意先を巡りぬ。留守は後妻と
三歲の女子に、廣島より出來り近き頃召抱へし僕と三人のみなりしに、此僕不良の
賊心を生じ、六日夜主人母子を殺︀害し、金三步・錢五貫文其外衣類︀・手道具の類︀を盜み
取り、外より盜賊入りし體にもてなし、自若としてありしが、直に御吟味になり召
捕られ、高麗橋にて三日の間晒されて、竹鋸の上礫に懸けらる。留守中に妻子殺︀害
せられ、斯かるためし世に多くある事にもあらず。之を聞ける人每にあはれの心
を生ずる事は、自然と人情の然らしむる所なるに、「これ迄積惡の{{r|報|むくい}}、斯くぞあるべ
き事なり」とて、伊助が舊惡に花咲きて、骨肉を懷{{仮題|編注=2||〔妊脫カ〕}}せし事など專ら噂をなし、誰あり
て、伊助を不便なりといへる者︀なし。伊助が如きは人外なれば、之を論ずるも益な
し。されども人々平常の行を心得て、每事に愼むべき事なり。同夜せんだん木筋
に縊死あり。高麗橋筋に盜賊あり。今日年越にて天下一統に祝︀する日なるに忌は
しといふべし。
同廿四日麴町犬齋橋筋より一筋西の辻西へ入る所裏{{仮題|分注=1|同町福︀島屋何某|が借家なり。}}井中へ、黑猫誤つ
て陷り死す。借家の家內、朝に水を汲まむとて井に到り、之を見付けて大に騒ぎ、十
{{仮題|頁=137}}
二三計りの女子、井中に投身してありといひて叫びつゝ、家に歸りて打倒れぬるに
ぞ、其聲に駭き、其家は勿論長屋一統、井中を見るに其女のいへる如く、十二三歲の
女子と見えしかば、其由を家主へ屆けぬるにぞ、直に年寄へ訴へぬるにぞ、年寄も
町代と共に之を篤と見聞し、其由奉行所へ申出でしかば、檢使兩人早速に入來にて、
人夫を以て之を引上げしに、{{仮題|投錨=卒爾の訴|見出=傍|節=u-4-22-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}黑猫の溺死して尻の上に向ひ、其尾の前髮の如くに見
えしにぞありける。檢使以の外憤られ、「斯樣の事あらば早速に引上げ、とくと養生
をも加へ、能く{{く}}糺せし上にて申出づべき事なるに、卒爾の至、此方共引取りし
とて、頭へ何共申樣なし」とて、以の外に叱り付けらる。さもあるべき事なり。町內
一統一言の申譯なく、{{r|平詫|ひらわび}}に詫びぬれども、檢使之を許さず、「何分にも引取るべし」
とて、其場を立去られしが、辻一つ越えて北の方へ曲るや否や、兩使も怺へかねて、
互に面を見合せ笑を忍ぶ事ならざりしといふ。これまで{{r|可笑|をかしさ}}を忍び叱り付けてあ
りし中にも、可笑しきを怺へし事、役目なれば苦しき事になん有りぬべく思はる。
斯かる卒爾の事なりしかば、三日計りも引しらひ、やう{{く}}にして事濟みになりぬ。
其間猫の死骸を捨つる事もなり難︀くて、是にむしろを著︀せ番人を付けしといふ。
此町の年役といへるは、吉川屋武助といへる者︀にて、商買は質家なり。大馬鹿の名
を揚げぬ。斯かる卒爾のためし古より未だ聞かず。後代とてもありぬべしとも思
はれず、{{r|可笑|をかし}}き事なり。
龜山にては正月六日の旭二つに見え、十五夜の月眞中に筋ありて、二つを合せたる
が如く、{{仮題|投錨=各地の變異|見出=傍|節=u-4-22-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}十八日夜、保津川の下より山本村の方へ、四斗樽に等しき光り物三つまで
飛行きし。烏・雉子の類︀大に騷ぎ地震せしといふ。京都︀にても、正月七日には餘程
强く震ひ、同十八日も同斷、廿四日・二月朔日などは至つて烈しく、其餘三日目・五日
目位にて、一日に少きは三度、多きは七八度大小ゆらざる事なく、又晴︀雨每に必ず
震動ありといふ。
浪華にては三月八日より川浚始まる。市中三鄕より冥加として上納せし金子、凡
そ九萬五千兩餘といふ。其外每町に浚上げし砂、百坪父は五十坪づつを申受け、又
川浚場所に於て、砂運送の御手傳として、每町に五十人・百人宛の人夫を出し、中に
{{仮題|頁=138}}
は町中人を拂ひて二百・一一百・五六百人も出づるありて、{{仮題|投錨=大坂川浚の狀況|見出=傍|節=u-4-22-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}一樣の襦袢・股引・{{r|紅絞|べにしぼり}}・鬱
金・淺葱等に緋縮緬の襷を掛け、中には悉く縮布を用ひしもあり。伏見町邊唐物仲
間には、一樣に毛氈・羅紗等を切裂きて、總て唐人の行粧をなして出でぬ。これは目
立ちぬる故御咎を蒙りぬ。大坂三鄕三組に分ち、其印の幟を建て町每の印には纏
を用ひ、山車は半月・千なり瓢簞・藥玉・與之助風車・五色の吹貫・吹流を船每に押建て、
川口に之を繫ぎ置きて、砂持又踊れる樣を見るに、さながら軍陣の如し。之を見物
の人々大勢{{r|集|つど}}ふ事なれば、さながら合戰の如し。且〔{{仮題|分注=1|々脫|カ}}〕六七萬の人數集まりぬ。蜂
須賀は海︀上船を留めて進む事能はず、遠見の早船を出し其樣を見屆けしめて、漸々
と心を安んじ入津するに至り、細川は恐れて是に近づく事なくして、堺へ船をつけ
しといふ。前代未聞の事なり。是にて其大騷なる事を知るべし。初の程は每船に太
鼓・鉦を叩き大に騷ぎしが、後には之を禁ぜられ、船印も何町々々といへる幟計りに
て、大騷なる指物・船印を停止となり、踊をも禁ぜられしかば、砂持に出づる者︀も減
少し、追々暑︀に向ひぬるにぞ、見物に行ける人も至つて減少に及びぬ。
昨年十月の事なりしが、中國の御城米を三百石・千三百石の船に積込み江戶へ下り
しが、志州名切島にて、其御城米を奪取り、船をば石を積みて海︀中へ沈めて、難︀船の
樣になしぬ。此島は公領にて近江{{r|信樂|しがらき}}御代官多羅尾氏の支配にして、自國の事な
れば鳥羽︀の{{r|預|あづかり}}といへり。夫より難︀船の趣、信樂へ申來りしかば、早速手代
村上□□□なる者︀見分に罷越して之を糺しぬるに、{{仮題|投錨=名切島住民の不埒|見出=傍|節=u-4-22-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}難︀船に相違なき由なれば、所の役人は
申すに及ばず、鳥羽︀の郡奉行迄の印形を取りて、右船頭を引連れ大坂へ來りしに、
大坂に於て之を吟味有りしに、奪取りし始末、船頭より白狀に及びぬる故、再吟味
の爲め十二月廿七日出にて、村上は志州へ下りぬ。
{{left/s|1em}}
これ迄年每に、名切島にて難︀船五六十艘づつあらぬ年とてはなしといふ。され
ども眞實の難︀船は五六艘に過ぎず。餘は船頭と馴合ひ、難︀船の樣をなして奪取
り、偶〻之を諾はざる船頭ある時は、殘らず打殺︀しぬる事とぞ。此度御城米を奪
はむといへるにぞ、庄屋久右衞門といへる者︀、これ迄年々斯かる業をなしぬれど
も、未だ公儀の御城米を奪ひし先例なし。こは外々の事には{{r|類︀|たぐ}}ひ難︀し。若し露
{{仮題|頁=139}}
顯せば、何れも命を失ふべし。此事は思ひ止まれとて、之を制しぬといふ。され
ども年寄を始め一統の者︀共、口を揃へ斯かる業をなすには、公儀なればとて何の
恐るゝ事あらむ。久右衞門も年寄つて元氣衰へぬれば、彼にかま〔は〕ず奪取るべ
しとて、いかに制すれども之を聞かで其事に及びしといふ。然るに信樂より手
代下り、難︀船に定まりて引取りしかば、何れも久右衞門を誹謗せしとなり。斯か
る程の惡事なれば、誰いふとなく勢州の惡漢︀共、之を知りて十人計り黨を結び、
公儀の御役人と僞り吟味に至りしにぞ、島中一統之を陳ずれども之を許さず、「江
戶表へ召捕り行かむ」といへるにぞ、今は詮方なく金子百兩を賂ひて內濟を願ひ、
漸く島人も安堵すといふ。素より{{r|騙|かたり}}の事なれば、首尾よくかたりおほせぬる故、
早速に引取りしといふ。斯くて勢州に於て又も外の惡漢︀共申合せ、再び始の如
き樣にて名切島へ渡り、嚴しく吟味する故、「再吟味迄ありて事濟みし由」言譯せし
に、「此方より外に公儀より役人來りし事なし。夫は定めて騙なるべし。急度吟
味を遂げて、其者︀共をも共に召捕るべし」とて、誠しやかにいひ募れるにぞ、詮方
なくて又金子を賂うて漸々と相濟みぬ。其跡にて島中寄合をなし、「斯樣に度々
金子を取られぬれば、骨折も空しく成つて何の益もなき事なり。斯かる樣なれ
ば、又如何なる事をいひ來むも計り難︀し。たとひ公儀の役人にもせよ。此後出
來る事あらば、悉く討殺︀して海︀へ投入るべし。何れも能く{{く}}心得居て、出來り
なば太鼓・鉦にて相圖すべし。一統に出合ひて其事に及ぶべし。必ず{{く}}手筈を
違ふ事なかれ」とて、何れも議定せしといふ。
{{left/e}}
信樂の手代には、斯かる事ありとは夢にも知らで、勢州より船に乘り志州へ渡りし
に、正月六日未だ夜深にて丑の刻頃に其島に著︀きしにぞ、方角も分難︀き程の事なれ
ば、{{仮題|投錨=名切島の住民信樂の手代を打擲す|見出=傍|節=u-4-22-f|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}人家に立寄り門を敲き、「庄屋久右衞門へ案內せよ」といひぬるに、內より是に答
へぬるやう、「我は近き頃、他國より此島へ來りぬる故、所の案內はいふに及ばず、庄
屋の名をも知らず。外にて尋ねられよ」といへるにぞ、詮方なくて又外の家を敲き
しに、同樣の返答故、又外の家を叩き起しぬれども、是も亦同樣の事なるにぞ、手代に
は足輕兩人・長吏兩人、主從五人にて渡りしが、何れも大に怒り、「其島に住みて庄屋
{{仮題|頁=140}}
を知らぬ事のあるべきや。僞をいへる事の不埒さよ」と〔{{仮題|分注=1|て脫|カ}}〕番人をして之を打た
せぬるにぞ、此者︀大聲を發し、「人殺︀なるぞ、何れも出會ひ我を助けよ」と叫びぬるに
ぞ、{{仮題|投錨=島民足輕ならびに長吏を殺︀す|見出=傍|節=u-4-22-g|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}兼ねて申合せし事なれば、太鼓・鉦を打鳴らし、人數を集めて五人の者︀を取卷い
て、{{r|乍|たちま}}ち足輕一人・長吏一人を打殺︀す。手代種々にいひ聞かすれども更に耳にも聞
入れず、斯かる事に及びぬる故、止む事を得ずして刀を拔きて振廻しゝかども、大
勢に敵し難︀く、天窓に二ケ所の疵を蒙り、股を二ケ所・面に二三ケ所の手疵を負ひ、
總身を打叩かれ、{{r|這々|はふ{{く}}}}の體にて其場を逃去りしかども、如何とも詮すべなく、濱邊
に到り倒れて死せし如くにてありしに、大勢之を尋ね來り、海︀へ投入るべしといへ
るにぞ、最早逃るゝに道なき故、覺悟を定めいへるやうは、「汝等公儀の御城米を盜み
し上、斯かる狼藉に及び、愚にも身を全うせんと思へるにや。。我は公儀より吟味の
爲め入込みし者︀なり。今更命を〔{{仮題|分注=1|惜脫|カ}}〕む〔{{仮題|分注=1|べ脫|カ}}〕きやうなし。兎も角も計らへよ。さ
りながら元來米を盜み取りし事故、其米別條なくば、何も命にかゝはる程の事はあ
るまじく、頭取りし者︀兩三人は其罪逃れ難︀ければ、遠島位にはなるべし。今我を殺︀
しなば、一統に死罪なるべし。我れ命を惜むにはあらず。殺︀さむと思はゞ速に殺︀
すべし」といひぬれば、「此期に及び命助からむとて、入らざる口を費す事なかれ。早
く打殺︀し海︀に投ぜよ」とて、何れも其事に及ばむとせしに、老分の者︀共、之を聞分け
て、「命を失ふ事なくば許しやるべし。露顯せし上は頭取し者︀流罪は詮方なし。命に
はかへ難︀し。助けやれ」とて制せしにぞ、漸くと殺︀す事を止まりぬ。兼ねて一人に
ても助け置きては、後日の妨なれば悉く殺︀すべしとの定なる故、人數の手分をなし
て、尋ね廻りし故、山中にして足輕を探し當りぬるに、是も命を突︀出し、「兎も角もす
べし。汝等僅か此方共計りの人數と思ふべけれども、其方共の惡事露顯せし故、大
勢を以て四方を取卷きてあれば、我を殺︀しゝとて、其罪逃れ難︀く一統の命に拘はる
べし。元來米の事のみなれば、命に懸かる程の事にはあらざるに、罪を重ねて命を失
ふ事、自業自得といふべし。{{仮題|投錨=足輕の奇智|見出=傍|節=u-4-22-h|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}早く我を殺︀して其罪を重くせよ」といひぬるにぞ、何れ
も「命を失ふ程の事にあらずば彼を助くべし。彼を殺︀しゝにて、命取らるゝも無益
なり」とて殺︀さゞりしといふ。斯かる大變なれば、隣村より鳥羽︀・信樂へ早速注進に
{{仮題|頁=141}}
及び、鳥羽︀よりも早速に手當ありて公儀へ訴へ、信樂よりも直に元〆木村右近右衞
門・杉本權六郞の兩人、大勢引連れて驅著︀きぬ。公儀よりは伊勢藤堂家へ仰付けら
れ、千人の人數を以て濱手を固むべしとなりしに、鳥羽︀の郡奉行迄同意にて、「難︀船
の印形せし程の事なれば、等閑の事にあらず」とて、「海︀陸の固め千人にては不足な
れば、三千人にて相固め申すべし」とて斷り奉りて、其備嚴重なりしといふ。斯く
て名切島の者︀共都︀合七百人を召捕り、{{仮題|投錨=島民七百人吟味|見出=傍|節=u-4-22-i|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}勢州へ引來り之を吟味なしぬるに、七百人の
內に最も罪重き者︀四百人、其外御城米と知りぬるも、知らずして買ひぬるも、志州・
勢州等にありて其掛なれば、これ等をも召捕られぬ。又船頭は伊豫の者︀にて、未だ
志州へ來らざる已前、紀州に於て御城米を分ち賣りぬる故、此〔{{仮題|分注=1|を脫|カ}}〕買ひし者︀共へ
も、所の役人附添ひて下りぬるに、伊豫より呼下され、斯く大勢の者︀共を入置く牢
とてもなければ、卒に人家カル說〕假牢にしつらひ之を入れ置きぬ。江戶よりも追々
御役人出來られぬる故、公儀御役所をしつらひ、これに滯留あり。役所計りも公儀
を始めとして、信樂・藤堂などよりも其役所あり。又村々より附添の者︀共、地頭より
の役人など、夫々に{{r|宿|やどり}}を定め、至つて大騷の事なるに、名切島の者︀共、一村の中にも
同名の者︀多くありつて、「何村八兵衞を呼出せ」といひ付けぬれば、多くの八兵衞出來
り、大勢〔{{仮題|分注=1|の脫|カ}}〕事故一々面を見覺え難︀く、混雜するのみにて吟味行屆き難︀く、大に困
じ果てられしに、{{仮題|投錨=勘定奉行の出張|見出=傍|節=u-4-22-j|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}江戶より御勘定奉行來られて、之を數十組に分ち、「何十何番目の
八兵衞・何番目の組の彌兵衞を呼出せ」とて、一々帳合に引合はせ吟味ありしかば、是
にて少しは吟味の道付きしとなり。海︀中へ沈めし船をも、人夫を以て引上げしと
いふ。斯かる大そうの事なりしかば、一日の雜費も莫大の事なりといふ。追々吟味
をなして江戶表へ罪人共を送り下せるも、至つて仰山なる御手當なりといふ。
{{left/s|1em}}
信樂の御代官多羅尾氏の元〆木村右近右衞門といへるは、家相家の賀茂丹後を
信じ、其指圖を受けて人の相を改め、御代官其外一家中も悉く之を改めぬるにぞ、
御代官始め丹後とは至つて心易きにぞ、折節︀肥前松浦にて、庄屋何某が忰倉吉と
いへる者︀、同人方へ便り來り、「上方に於て身を納めたき由」を賴みぬるにぞ、幸に
庄家の子にして、算筆をも能くする事なれば、木村へ談じ「輕き奉公にても、又は
{{仮題|頁=142}}
養子にても苦しからねば、之を世話なし吳るゝ樣に」と談ぜしに、木村早速に諾ひ
ぬ。「然らば來年卯の正月は月もよき事なる故、貴家〔{{仮題|分注=1|へ脫|カ}}〕つかはすべし」とて、其約
をなしぬるに、志州の變起りて木村を始め彼の地へ赴きし事故、詮方なく、「五月迄
には事濟に及ぶべければ、五月に至りて行くべ{{仮題|編注=1|き|しカ}}」と定めしに、一件一向に埓明か
ずして、これも亦成り難︀きにぞ、幸ひ家相の事にて、信樂・日野・八幡邊に用事出來
せしかば、右倉吉を近江に遣しぬるにぞ、此事信樂御代官所にて、同人が聞來り
しを記せるなり。何れ八月迄も掛かるべき事に思はるれば、引越は九月にすべ
しと約定せしといふ。
{{left/s|1em}}
前にいへる村上何某は、元來信樂にて醫師の子なりしが、士を好みて五六年前
より手代となり、志州へ到り大難︀を受け、辛うじて命は助かりしかども、數ケ所
の疵を蒙り癈となりしといへり。
{{left/e}}{{left/e}}
四月七日の事なりしが、蝦夷・ソウヤ・カラフト邊の沖に當りて、{{r|卒|ひはか}}に小山の如くな
る者︀見ゆるにぞ、文化の初にも斯かる事ありて、何事にやと思ひしに、イギリスの
賊船出來りて、大に亂暴せし事ありしかば、此度も油斷なり難︀しとて、松前より出
役の奉行櫻田久米藏、嚴重に濱手の{{r|固|かため}}其備をなす。然るに次第々々に近づき、九日
に至りては鮮かに分りぬるに、大なる異船に人數千計りも乘りしやうに、思はれし
かば、{{仮題|投錨=外國船の亂暴|見出=傍|節=u-4-22-k|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}船に乘りて此方よりも出張せしに、其船次第に沖の方へ引去るにぞ、之を追
懸けしに思寄らざる石火矢を打懸けられ、散々に敗走せしかば、異船勝に乘つて引
返し直に上陸をなし、濱手の人家を放火して切りまはるにぞ、櫻田も早々逃去りし
かば、直に奉行所へ入りて、松前の圍米は申すに及ばず、金銀・諸︀道具悉く船へ取入
れ、櫻田が若黨一人と蝦夷人一人とを擒にし、異人の過ぐる所悉く放火して船へ乘
込みしが如何なる故にや。蝦夷人をば小船に乘せて放ち返せしといふ。
{{left/s|1em}}
櫻田如何に軍事に疎き男にもせよ。小山の如き大船を、うか{{く}}と追懸くる事も
あるまじく思はる。是は定めて異船よりも小船を出し、之をつり付けしなるべ
し。是にうか{{く}}賺されて石火矢にて打ち拉がれしなるべし。何れの道にも無
謀の不覺といふべし。
{{left/e}}
{{仮題|頁=143}}
斯かる有樣なれば、直に軍使を以て江府へ注進ありしに、佐竹・南部・津輕等へ廿五
日に御暇を給はり、廿六日直に出立して各〻自國を固めらる。津輕に〔{{仮題|分注=1|は脫|カ}}〕折節︀大病
に臥して居られしかども、おして出立ありしといふ。
{{left/s|1em}}
出羽︀庄內酒井左衞門殿の大坂藏敷に、勤番せし人の中に、近茂平とて物頭を勤む
る人あり。{{仮題|投錨=近茂平の談話|見出=傍|節=u-4-22-l|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}此度酒井家にも出張あるが故に、茂平をも急に召還さる。前文の始
末は、此屋敷へ國元よりいひ越しぬるを聞きて記せるなり。此茂平がいへるに、
「先年賊船來りし時も蝦夷へ出張せしかども、異船は疾くに歸り去りし跡を、久し
く固めぬる事故、至つて徒然なるに、蝦夷人共種々の物を持來りて之を商ふに、異
國の物にして一々珍らしく、直も至つて下直なる故、種々の不益なる物など買調
へて、歸る頃には三百目計りの借銀をなしぬ。又此度も雁も鳩も立ちし跡に出張
をなし、又借銀をなす事のつらしとて、悔︀み言いひつゝも下りしが、これが國元
へ下り著︀きぬる頃には、最早諸︀家ともに陣拂になり〔{{仮題|分注=1|し脫|カ}}〕由申來り、蝦夷へは松前
の分家に玄蕃といへるが出張にて、之を固めらるゝ」といへり。先年の事もあれ
ば、大抵之れを心得て、何れに〔{{仮題|分注=1|か脫|カ}}〕上陸して賊をなせる事なれば、賊をおびき上
げて其後を斷切り、元船を打破る手段もあるべき事なるに、石火矢に膽を取拉が
れ散々に敗走し、斯かる不覺を取りし事歎ずべき事なり。
{{left/e}}
大和國日靈には、「山上にある所の水神︀の社︀の錠前、故なきに開き金幣と大神︀宮の御
祓と中に入りて、水神︀の神︀體は外に出しありし」とて、昨年御蔭參の最中に、之を專
らいひ{{r|流行|はや}}らせ官へ達して、新に宮を造替へしかば、大勢參詣ありて至つて繁昌を
なす。斯かる事なれば、大和一國大に浮かれ立ちしに、米穀︀・紅花・綿等に至るまで、
倍々の豐年なりしかば、{{仮題|投錨=御蔭踊|見出=傍|節=u-4-22-m|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}{{r|御蔭踊|おかげをどり}}とて昨年十月の初より踊り出し、地頭の年貢も物買
へる價も、其儘になし置き浮かれ廻りしが、當年に至り益〻甚しく、大家の女、願人坊
主に著︀きて出走し、或は其所にて不義・{{r|淫|いたづら}}の事、妻も娘も大方之をなさゞるはなく、
親も夫も之を制する事{{r|克|あた}}はず、其有樣詞には演べ難︀しといふ。近來大和川の流に
宇治橋を架け、橋の前後に旅籠五六十も建竝べ、紅絞り襦袢・手拭等一樣の仕立にて
駕籠を進め、三寶荒神︀の馬を引連らね、其先には相の山を拵へ、お杉・お玉ありて三絃
{{仮題|頁=144}}
を彈けば、新に朝熊の萬金屋を寫し、廿五ケ年隔て、外宮の宮を建て、山上には大な
る茶屋・宿屋を建連ね、すべて伊勢を寫しぬといふ。四月十五日には予が知れる者︀
是に參詣せしが、其頃は別けて賑しかりしといふ。然るに同月下旬に至り、地頭よ
り寺社︀奉行出張にて、宇治橋・萬金丹・茶店・社︀人の家等悉く之れを打碎きしといふ。
こは地頭へも屆けずして、我儘に立てし故とも、又伊勢より差障りしともいへり。
五月節︀句前より攝津國箕面中山の邊、御蔭踊流行出たし、灯燈・幟・衣裳の類︀、追々大
坂へ注文し、男女混雜にて二百・三百宛、植付をもなさで踊り步行しといふ。怪しむ
べき事なり。
御蔭參も、早春には四國・九州・中國等より相應に出でし樣子なれども、昨年に比す
れば十分一にもあらず。近き頃予が知れる者︀疫死せるあり。一人は白子裏町出雲
屋六兵衞妻、歸後三日計りにして死し、一人は福︀島にて海︀老屋佐市といへる質屋な
り。是は道中より病みて三十日計りにして死す。坂の下の宿屋にて明石の士に攝
州富田京屋何某が荷持、首斬られしといふ。こは此不法の事をなせる故、據なく斬り
しといふ。功德なりしとぞ。
京都︀・龜山等の地震、春來二三四五日目に或は三度・五度・七度づつもありて、中には
折々嚴しきもありといふ。{{仮題|投錨=地震|見出=傍|節=u-4-22-n|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}大抵雨降らむとする前、晴︀れむとする前に多しといふ。
五月八日には大に震ひ、十六日には昨七日以來の大地震にて、京・龜山とも一人も殘
らず大道へ逃出でしといふ。
大坂にても二月朔日初更地震あり。同五日巳の刻少しく震ひ、三月五日子の刻に
震ひ、五月五日辰の刻にも震ひし由なれ共、予は道を步行きて之を覺えず。同八日
二更大地震、昨年七月二日の如し。同十六日未下刻大地震、是も八日に等しき上に
震ふ事長かりし。恐るべき事なり。
四月廿二日の夜、美濃國笠松といへる所大雷にて、川を隔てゝ相對する兩村悉く家
の天變を倒し、{{仮題|投錨=美濃國笠松|見出=傍|節=u-4-22-o|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}偶〻倒れざる家には、屋上に船の如何して上りぬるにや。屋上に止まり、是
が爲に棟折れぬるあり。又三抱も四抱も五抱もありぬる大木の、半より折れ根よ
り引拔くるなど、目も當てられぬ有樣にて、膽潰れし事なりといふ。斯樣の大變な
{{仮題|頁=145}}
れども、此二ケ村計りにて隣村には何事もなく、小家一つも別條なしといふ。斯程
の大變なれども、二ケ村にて死人兩人にて怪我人もなかりしといふ。鷲も是にあ
てられしと見えて、片羽︀翼根本より切れて落ちしといふ。雷計りにて斯樣に破損
する事はあるまじく覺ゆれば、龍の天上せしにやなどとて、其所の噂なりしといふ。
播州網干の者︀江戶より歸り來り、其所の樣を見しとて、予が知れる方に立寄りて、
舌を卷いて語りしといへり。
{{仮題|細目=1}}
松平出羽︀侯新川開發に付領中への觸書の寫
大川筋追々高く相成、近年に至候ては纔之出水にも損所多、此上連に川底上り候て
者︀、如何體の水難︀可{{レ}}有{{レ}}之哉難︀{{レ}}計、甚御氣遣に被{{レ}}思候。仍而此度出雲郡出西村ゟ下
庄原村へ新川御普請御議定被{{二}}仰出{{一}}、{{仮題|投錨=松平出羽︀侯新川開發の御觸|見出=傍|節=u-4-22-p|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}當春ゟ御取掛りに相成、誠に御入國已來之大普
請、右に付て者︀是迄御公役等之御出金に相倍し、夥敷御物入に候處、打續年柄不{{レ}}宜。
其上江戶表御屋形御普請御公役を初、廉立候臨時御物入差添、近年田畑不熟不{{レ}}少御
損耗彼此に付、新川御普請之儀者︀可{{レ}}成丈被{{二}}差延{{一}}、是迄種々當分之御手入にて御猶
豫雖{{レ}}有{{レ}}之、此節︀に至候て者︀甚危く相聞、川下郡中之安危に係はり候儀、元來大川筋
は大層なる御田地之當中を相通候處、萬一水害有{{レ}}之候而者︀、人命者︀勿論御田地にも
相掛り、大切至極之儀、最早片時も難︀{{二}}默止{{一}}場に至り、御支配之御手繰に無{{二}}御顧{{一}}御
議定被{{二}}仰出{{一}}候。然る上者︀萬端嚴敷御儉約不{{レ}}被{{二}}相用{{一}}候而者︀、御支配向難︀{{二}}立行{{一}}御難︀
澁に至り可{{レ}}申、御取締第一之儀、東西共に心配可{{レ}}仕旨被{{二}}仰出{{一}}候。右に付御入用格
別に相省候樣、諸︀役所へ委曲談{{レ}}之候。
卯二月十六日
右御書付之趣、被{{レ}}得{{二}}其意{{一}}觸{{二}}下中へも{{一}}可{{レ}}申候。以上。
二月廿二日 堀彥右衞門
高木權平
{{仮題|添文=1|淸水寺| 年行事}}
右御書付之趣、可{{レ}}被{{レ}}得{{二}}其意{{一}}候。已上。{{nop}}
{{仮題|頁=146}}
{{仮題|添文=1|淸水寺|年行事}}
乘相院
{{仮題|細目=1}}
書狀の寫 前文略
一、出雲郡大川替、十郡人夫二十餘萬、當四月迄に被{{二}}仰付{{一}}候。秋又三十萬程も被{{レ}}遣
候由、三四年之間五六百萬人も入候事歟。誠に大振向候。尤川敷家三十家計・寺四
ケ寺・田地六千石程、川敷之者︀悲歎之至り、倂此度者︀是迄例もなき御仁心之儀を以、
寺竝塔堂の分者︀上ゟ御建立被{{二}}成遣{{一}}、右川敷に相成候者︀へ二萬貫文被{{二}}下置{{一}}、十郡へ
利なし五萬貫文御貸付、年賦にて御取立、二萬貫文之儀者︀被{{レ}}下切り上納に不{{レ}}及。
當四月中も御國中貧民へ五萬貫文被{{二}}下置{{一}}。則一人前一貫二十五文也。右樣當年者︀
御仁心之御惠有{{レ}}之、一統難︀{{レ}}有奉{{レ}}存候。貴裕樣も當時他國に御滯留候共、畢竟御國
人に候得者︀御悅可{{レ}}被{{レ}}成奉{{レ}}存候。餘者︀拜顏萬話と申留候。頓首。
月 日 觀照房
性三御房樣
{{仮題|細目=1}}
元五祿壬申年五月八日
{{left/s|2em}}
{{仮題|行内塊=1|嚴有{{仮題|編注=1|大君|衍カ}}十三回御忌之節︀、日本諸︀宗江府御召に依りて法筵之あり、本願寺より知空(光龍寺)と申
す代番罷下り、諸︀寺諸︀山より守護札差出し候へども、本願寺のみ差出申さゞる譯、御老中大久保加賀守
殿より御取次を以て、趣意申出候樣に付、廣間書之寫。}}
{{left/e}}
書此度御大切之御忌に付、{{仮題|投錨=本願寺廣間|見出=傍|節=u-4-22-q|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}日本諸︀宗之寺院御召被{{レ}}爲{{レ}}在候。依{{レ}}之諸︀寺・諸︀山ゟ守護札
被{{二}}差出{{一}}候處、於{{二}}拙寺{{一}}者︀無{{二}}其儀{{一}}如何之儀に哉、御尋被{{レ}}遊奉{{レ}}得{{二}}其意{{一}}候。夫當宗旨
者︀淨土眞宗と稱へ、人皇八十九代龜山院勅免︀に而、都︀中に於て天下安全御祈︀願所
被{{レ}}爲{{二}}建置{{一}}候。開山親鸞聖人存生中無類︀之奇特有{{レ}}之候故、諸︀宗智者︀達被{{レ}}立{{二}}不審{{一}}、
種々難︀問有{{レ}}之候得共、諸︀神︀・諸︀菩薩之本意を被{{二}}說示{{一}}申候。殊更正讚淨土經に念佛成
佛是眞宗と釋尊說置給ふ。此文面に因而淨土眞宗之勅許被{{レ}}爲{{レ}}在候由、<sup>中略、</sup>凡一切
萬法之中、念佛成佛・極樂不退之眞實・報土之往生を遂候も、眞宗之經法なる故と申心
にて候。阿彌陀如來者︀、三世十萬諸︀佛・諸︀神︀之師匠法{{仮題|編注=1|皇|界カ}}之根元、一天三千大世界之中
{{仮題|頁=147}}
に唯一之御大將、今日本にて人間之始天照大神︀之御事にて御座候。依而上天・下界十
方無量、一切諸︀佛・諸︀神︀・神︀明・星宿等、皆々阿彌陀佛之御子・御弟子・分身開闢に候。依
{{レ}}去眞向尊像者︀日神︀大神︀宮の御德を奉{{レ}}仰候も、直拜は無禮之儀故移取、阿彌陀佛と
一體なる事を爲{{レ}}知候にて御座候。夫人間者︀元來三毒とて、貪・嗔・癡に佛性之精︀神︀を
惱し亡す大毒心有{{レ}}之候。我一流者︀因果を識候事肝要に致し候。何事も因果と存候
得者︀世に一つとして遺恨無{{レ}}之候。何事に不{{レ}}依、今身に報ひ候善根者︀、我過去に爲し
置候處之種々報來にて御座候。<sup>中略。</sup>元三毒煩惱枝葉之數八萬四千之惡煩惱と成候
を、彌陀如來悉皆退治有{{レ}}之候。其上功德善根を與へ成佛令爲候故、五劫之間思惟坐
禪工夫も被{{レ}}遂、四十八願を起給ひ候。然らば如來一切之衆生大願を立、衆生成佛之
願行不{{レ}}取正覺之御誓を奉{{レ}}願、攝取不拾之利益にて、罪深き女人等障多、煩惱不知凡
夫迄、速に三界・六道之生死火宅出離・往生極樂令{{レ}}爲事、他力法とは申候。自力法は凡
夫容易に難︀{{レ}}遂候。彌陀之他力易行者︀、貴賤男女・心亂不斷を不{{レ}}論、罪之深きを不{{レ}}厭、奉
公業體に無{{レ}}暇輩も、亦一文不通・願行不勤・經說見分難︀く、道理に不{{レ}}叶人々に者︀似合
たる法にて御座候。自力は譬千里有る道を五百里・三百里行て、其所に行滯而、先へ
不行者︀は一足も不行者︀と同事にて御座候。如來他力本願者︀慈悲方便、之三つを滿足
し給ひ、萬善・萬行・萬法之主にて候故、千里彼方ゟ此方なる成三毒之凡夫を極樂世界
に令{{二}}往生{{一}}給ふにて候。念佛行者︀をば八萬四千之光明之中に納取、罪劫を消滅し功
德の主と成給ひ候。<sup>中略、</sup>然りとて親鸞獨念佛を尊み、彌陀を尊信致候に者︀無{{二}}御座{{一}}、
天竺・大唐・日本諸︀宗何れも其宗々之知識を極め、是迄ぞと云へる所、其心之奧旨に至
て可{{レ}}被{{レ}}在{{二}}御覽{{一}}候。彌陀者︀無量諸︀佛一行萬法之肝心にて御座候。<sup>中略、</sup>畢竟念佛と云
ひ妙法蓮華經と云ふ主人公、無爲眞人本來面目種々名を付候得共、他事更に無{{レ}}之候。
天竺龍樹菩薩と申は、十地薩陲にて千部論を作候て、八宗と分け、知之至り道之極
りに候得共、智惠も行も悉放捨、一筋に彌陀を願、念佛三昧を被{{レ}}勵候。十住毘婆沙論
世に殘り、天台大師は法華經六十卷之注を書、全法華宗を建立、法華經一卷妙法蓮
華と釋始められ、以下八卷共八品六萬九千三百八十餘字文非{{二}}他事{{一}}候。西方彌陀を
尊み念佛唱よとに候。摩訶止觀中に顯然に候。依而傳敎大師も外天台を立、內彌陀
{{仮題|頁=148}}
佛を念ぜられ候。慈覺大師は自ら如來尊像を造り、持佛堂に安置被{{レ}}爲候。弘法大師
學道此日本に第一驗候。神︀變通力無類︀に候。彌陀念佛を被{{レ}}信候事、尤嚴重に而、世
之人所{{レ}}知に候。達磨大師以心傳心・不立文字・敎外別傳之悟道に候得共、見性悟道と
申は則彌陀を奉{{レ}}見に非ず。坐禪正意之臺に一念南無阿彌陀佛と唱へ、淨土對面彌
陀を奉{{レ}}見と被申、自身得道にて一心不亂に念佛三味を遂給ひ候。其餘碩學・明聖皆
皆念佛被{{レ}}唱候。<sup>中略、</sup>さる程に念佛行者︀は摩尼珠を求るに悉叶が如く御祈︀禱之御事、
唯今に至り別に何{{仮題|編注=1|を|もカ}}新、印札に拵差上可{{レ}}申儀も無{{二}}御座{{一}}候。今天下〔{{仮題|分注=1|に脫|カ}}〕於而門主
ゟ札・守獻ぜられず候者︀、家之式宗之作法を相守、此度とても札・守等出し不{{レ}}申候。
乍{{レ}}然開山聖人數ケ條之式法被{{レ}}定候內、別而三ケ條肝要之敎を覺悟仕候。此三ケ條
當流之守札と存候。第一諸︀佛・諸︀神︀・諸︀菩薩不{{レ}}可{{レ}}疎。是皆彌陀之分身・御弟子・垂跡隨
相也。所々鎭守氏神︀等之修理興行祭禮之砌、諸︀人同前少も麁略に不{{レ}}存。隨分御馳走
可{{レ}}致候。第二諸︀宗・諸︀法不{{レ}}可{{二}}誹謗{{一}}。其故は三國に弘る所之諸︀宗千百十宗、是一切萬
法一如にして、更に差別無{{レ}}之候に付、諸︀宗を謗候時者︀、釋迦を謗候道理に而、則阿彌
陀佛を謗申に同樣可{{レ}}爲事。第三に領主・地頭之合を蔑に致申間敷、深く公を尊み御
意を違背不{{レ}}申、御政道に不{{レ}}背、親へ孝、君へ忠、五常を相守世間傍輩へ僞邪・表裏を不
{{レ}}構、正法を本と可{{レ}}致候事、尙又開山親鷲聖人は、天津兒屋根命末孫、大織冠之御子房
前太政大臣淡海︀公御子孫、長岡左大臣內麿公之玄孫、皇太后宮大進有範公御子にて、
初天台に列、慈鎭和尙之弟子となり、其後黑谷法然上人に隨身にて、倶に念佛三昧を
弘められ候。親鸞北の方は月輪殿御娘玉日姬と申候。夫れ夫婦和合之道者︀私ならず。
是萬法根元にて天は父、地は母也。其中に生を受る者︀皆天地之子也。一天之御主帝
王を奉{{レ}}初、御夫婦坐まさねば御子孫絕たせ給ふ。則此日本天照大神︀御父母伊弉諾伊
弉册尊夫婦之道を初め給ふゟ、此國に生れたる者︀、全佛道は神︀道之障りとなる者︀に
ては無{{レ}}之候。神︀明菩薩は則國土之事にて、上一天國王ゟ下萬民に至る迄、佛法正意
爲る彌陀之本願に貴賤・男女之差別無{{レ}}之、女犯・肉食更に往生之妨に不{{二}}相成{{一}}候。但邪
淫とて眞實之緣に非る事は、佛戒にて經說に迷前、男女有り、悟後男女なしと釋せら
れ候事、能々御得心御玩味可{{レ}}被{{レ}}成候。依{{レ}}去態々一宗を被{{レ}}建、道俗男女に等しき御
{{仮題|頁=149}}
佛跡を以、無邊之衆生濟度有{{レ}}之日本之大導師にて御座候。就{{二}}御尋{{一}}{{r|粗方|あらかた}}相認差上
候。宜御披露賴上候。已上。
{{仮題|添文=1| 光隆︀寺知空<sup>在判</sup>|本願寺門主代番}}
世間に流布して法談する廣間書といへるは、御法事を僞りて、右馬頭樣御病氣に付、
御祈︀禱せしといふ天照大神︀の御歌の上の句を、みだたのむとかへ、その外抱腹に
たへざる事多し。これは眞の廣間書なりとて、友人野口姓が予に見せぬるにぞ、
筆の序に寫し置きぬ。この坊主、時宜を考へ利口に言ひまはせし事、彼が才といふ
べし。
{{仮題|細目=1}}
四月廿三日越中富山二千軒餘の町家、{{仮題|投錨=越中富山の大火|見出=傍|節=u-4-22-r|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}九分餘り燒失し、城中悉く燒失せぬ。家中屋
敷も同樣の事にて、やう{{く}}家老の家二軒燒殘りしに、侯は火を避けられてこの家
に假住居ありといふ。寶庫も悉く火入り、丸燒になられしといふ。
六月廿六日江戶大雷、{{仮題|投錨=江戶大雷|見出=傍|節=u-4-22-s|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}八町堀にて女髮結おやすと申す者︀の家へ落掛り、四人家內の
所兩人卽死。靈岸島にて增五郞といへる者︀、折節︀中暑︀にて打臥し居たる所へ落ち
て、此者︀卽死。五島屋敷玄關其外所々十八ケ所へ落ちて、人死廿餘人ありといふ。
{{left/s|1em}}
{{仮題|分注=1|〔頭書〕去る六月當地大雷之御見舞被{{二}}仰越{{一}}、早速師家へ御披露申候。近年{{仮題|編注=2|之|者︀カ}}雷有{{レ}}之候得者︀、兎角落雷多御
座候得共、當年者︀度々者︀雷無{{レ}}之候へ共、六月廿六日八つ半過ゟ春頃迄、初者︀無{{レ}}雨雷計り西北之間ゟ鳴出
候樣に相覺、東方鳴行鳴出暫過大雨にて、光目をつらぬき所々に落雷仕、人十八九人卽死・怪我人多有、是
迄相覺不{{レ}}申候事に御座候。乍{{レ}}併師家御近邊者︀何事も無{{二}}御座{{一}}候。別而鳴も强無{{レ}}之候由被{{レ}}仰候。拙宅近
邊は誠に鳴强、近邊へ者︀落雷仕候得共怪我無
{{レ}}之大悅仕事に御座候。御安心可{{レ}}被{{レ}}下候。<br/>
植田源八<br/>
山本半九郞樣<br/>
右源八所者︀新橋邊なりと、ふ。}}
{{left/e}}
當年は春より天氣殊の外片よりしが、別けて三月半より雨降りしが、其月中雨天續
にて偶〻雨なきも晴︀天といふはなく、曇天の〔{{仮題|分注=1|み脫|カ}}〕なりしが、四月に至りてもなほ雨
繁く、二十〔{{仮題|分注=1|日脫|カ}}〕頃迄常に雨降りしが、夫よりして雨なく、五月に至り稻〔植〕付くる
節︀には、{{仮題|投錨=大坂氣象變異|見出=傍|節=u-4-22-t|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}所により水拂底の場所あり抔いひしに、五日・十二日・十五日・十九日・廿日・廿
一日・廿四日・廿五日・廿六日・廿七日・廿八日・廿九日・六月朔日・三日・四日・五日・六日・十
日・十一日・十二日大雨降りしが、其後は折に烟草四五ふくもすへる計りの雨、折に
{{仮題|頁=150}}
はありと雖も、天氣續にて暑︀氣例年に異なり、至つて堪へ難︀く、川々水減じ、江戶堀・
伏見堀等小川は、水盡きて船の通路もなく、同月半よりしては朝夕に雲やけして、
日の色も靑かりしが、近在には折々夕立の模樣あれ共、大坂に於ては頓と雨なく、人
身蒸さるゝが如く燃ゆるが如く、何れも毒熱に苦みしに、七月廿六日未の刻、雷鳴四
五聲ありて暫く夕立ちぬ。同廿七日は二百十日なるに、少しも風の憂なく至つて穩
かなり。廿八日曇午の刻より大雨降出で終夜降續き、廿九日朝止みしが、巳の刻に
少雨降り午の刻より大雨降出し初更迄降續きぬ。農家にては天黃金を降らすとい
ふ。八月朔日終日夜に至る迄、少しく風吹きぬれども物に障れる程にてもなし、同
十五日の月も快晴︀にして近年覺えざる事なり。當年は御蔭當り年故、至天下一統豐
年なりといひしが、其言に違はで稻・綿は申すに及ばず、其餘の作物悉く能く{{r|實|みの}}り
ぬ。然るに七月下旬の頃。京都︀西六條山科の掛所に櫻花咲きぬとて、之を不思議の
事なりとて、{{仮題|投錨=所々草木の變態|見出=傍|節=u-4-22-u|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}大坂よりも態々上京せし者︀などあり。總べて草木痛みて枯れむとす
る前には、時を失ひて斯る例ある事なるに、別して當年の暑︀さに痛める事にして、
怪むに足らざる事といふべし。之を始として八月始には、難︀波なる農家に作れる
南蠻黍に饅頭を生じ、又同じ木にさゝぎを成らし、北野村にては同じ木の實の先な
る毛の上に綿をふかし、川口村大神︀宮の宮地なる蘇鐵に花貫を生じ、一は方八寸計
りの玉の形をなし、一は劒先御祓の形をなす。これ一木に生じて二つを一つにし
て詠むる時、狐の形すなどいひぬるに、尼崎にては植木に多く結びぬる實の中に、
二つ計り桃實裂け開きて綿をふかす。其外艾に綿を生じ、芋に花を咲かす。予 芋花
と艾にふきし綿といへる見たり。芋の花は折々咲ける事にて、此花咲きぬる家に
は必ず不吉ありとて、人々之を嫌ふ事にて珍しからざる事なり。艾は長けぬれば
多く蟲の付きぬる物にして、枝の本間に泡の如くに液溜れる物なり。當年の旱に津
液沸湯甚しく、これの凝りて綿の如くなりし物なり。是に限らずなんばきびの饅頭・
桃實の綿など、何れも草木の病にして、何もよき事にはあらず。蘇鐵も花實を生ず
れば其生ぜし方は悉く枯るゝものなり。{{仮題|分注=1|〔頭書〕川口村といふは、本庄の渡を越えて一町計り行けば其村にて、大神︀宮は庄屋の屋敷地にあり。此庄屋
近來大に困窮に及びし故に、其宮大破損なりしが、此度蘇鐵を見物に行きし人々の賽錢にて、立派に建立なる
事なりといふ。本庄の渡賃常に日々一貫餘の錢を儲くる事なるに、蘇鐵見物に行ける樣になりて、一日に十
{{仮題|頁=151}}
二三貫ありて船四艘に
て渡しかねしといふ。}}下其外北野村の蘇鐵・肥後の屋敷の蘇鐵・櫻・新町・裏町松湯の櫻など、
何れも花咲きぬるにぞ、不思議なる事に思ひ、是等を見むとて見物群をなしぬ。是
等の事に付きても、御蔭なり不思議なりとて奇怪の說をいひ囃す曲者︀あり。又如
何なる事かあらむ恐るべし惜むべし。
七月十五日の朝の事なりしが、當國灘魚津村{{r|變|へん}}なる事なせし者︀有り。船大工政五
郞と申す者︀、{{仮題|投錨=灘魚津村の珍事|見出=傍|節=u-4-22-v|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}近村の百姓ゟ西瓜買込受賣致し候て、七月十四日節︀季に相成、右西瓜
代百姓方ゟ取に參候得共不{{二}}相拂{{一}}、百姓方ゟ段々催促の上言募り、終には叩合ひ、右
政五郞を餘程打据ゑ候ゆゑ、口惜く無念の餘り、翌十五日朝ゟ拔身の物をはづし、
竹の先に仕込槍の形にいたし、自分家內に湯をたぎらし、若敵とふ者︀あらば、右に
へ湯をかけ可{{レ}}申かまへにいたし居候處、右政次郞甥の子兩人連、門邊を打通候處を
呼掛け、弟の方を井方へ投込み、右槍にて上ゟ突︀候處を兄の方助けたまはれと止め
候を、又兄を一槍に突︀殺︀し夫ゟ隣家へ駈込、內儀朝飯︀をたべ候處を突︀殺︀し、其物音
にあたり近邊の者︀逃出し候ゆゑ、狼藉者︀方々へかけ廻り狂ひ步行き候處、村中之住
人有馬宗益と申醫師、餘程之手利にて右狼籍者︀をからめ取り、漸騷動鎭り申候事。
右狼藉者︀船大工政五郞年三十七八歲。卽死甥の子兄十一歲。大疵同弟八歲。卽死
隣家內儀二十七八歲。有馬宗益二十七八歲。
右有增申上候。無{{二}}相違{{一}}事に御座候。
同七月廿三日曉五つ時過、江府に於て江川太郞左衞門御手代公事方柏木林之助とて
三十八歲になれる者︀、五十日已前ゟ病氣にて引籠被{{レ}}居候處、ふと逆上之餘り及{{二}}狼
藉{{一}}終に咽を突︀切腹被{{レ}}致候始末、{{仮題|投錨=江川太郞左衞門手代柏木林之助の亂心|見出=傍|節=u-4-22-w|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}同人子息健吉九歲未だ寢間に伏し候儘これを斬殺︀、
同老母卽死。是者︀小普請淺野隼人組森秀一郞殿母之由、遠緣に付林之助方へ參被{{レ}}居
候て居宅前にて死す。同人下女卽死二十五歲。是者︀朝飯︀を焚掛け、釜のまへに罷在
候處うしろより被{{二}}斬掛{{一}}逃出、居宅界にて死す。雨森茂一郞三十歲卽死。是は居宅
ゟ駈出し玄關前にて死す。大手疵同人內方二十三歲、中手疵同人下女かね十九歲、
同人子息市之助八歲。卽死山田左市郞三十九歲。是者︀大疵に付療治いたし候得共
養生不{{二}}相叶{{一}}一時に死す。大手疵同人內方二十六歲。卽死同人子息伊之助七歲。
{{仮題|頁=152}}
卽死望月鵠助。是者︀劒術達者︀に付取押へ可{{レ}}申存寄にて、大小を帶し六尺棒を持出
被{{二}}立向{{一}}候處、直樣棒中程ゟ被{{二}}切落{{一}}刀へ手をかけ候處切掛られ大疵にて死す。大
手疵御役所下小遣ひ與之助四十九歲。是者︀湯呑所にて朝飯︀のこしらへ致居候處、後
ゟ切掛られ役所へかけ込候處、尙又被{{二}}切掛{{一}}養生不{{二}}相叶{{一}}死す。大手疵雨森茂十郞
六十五歲。是者︀津輕殿より取鎭に鳶人足大勢加勢罷出候砌、茂十郞殿家內ゟ被{{レ}}出
候を、亂心者︀と見違へ鳶口を頭へ被{{二}}打込{{一}}總身打疵數ケ處。以上。
{{仮題|細目=1}}
同年七月の事なりしが、肥後熊本の藩中に澤田啓助とて、當年十六歲になる人あり。
幼うして父を失ひ兄母〔{{仮題|分注=1|に|カ}}〕育せらる。{{仮題|投錨=澤田啓助母子の非凡|見出=傍|節=u-4-22-x|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}此人至つて才子にて諸︀藝ともに衆人〔{{仮題|分注=1|に脫|カ}}〕
超ゆるが、中にも別けて學問に長じぬるにぞ、人皆其名を云はで學者︀々々と綽名し
て呼びぬる由、斯かる生立なれば至つておとなしく、物每に愼み深き事なりといへ
り。然るに子供仲間にて、其才を嫉み大勢申合せ、常に喧嘩口論を設け、惡口・雜言
甚しき事なれ共、少しも之を頓著︀せず知らぬ顏にて家に引取りしが、日々學校より
の歸懸には斯くの如くなる故、餘りに堪へ難︀き事に思ひし〔{{仮題|分注=1|に脫|カ}}〕や、學校に出づる中
にも己れと親しき朋友の四人ありしに、是等を呼び止めて、「此硯と筆・墨︀は足下へ形
身なり。机は誰、文庫は誰、本は誰に參らすべし。此左傳はどこそこにて借りしな
れば、之を返し給へ」など賴みぬるに、何れも何をいへる事やらむと怪み思ひしに、
歸路に至りしかば、例の如く大勢の附纏ひ頻︀に惡口をなしぬるにぞ、知らぬ顏して
行きぬるを、一人後より刀の鞘を取つて{{r|捻|ねぢ}}上げ、こじりがへしに打倒さむとするに、
十四歲になれる松浦何某とやらんが忰、横の方へ立廻り、己が手に唾を吐きて、之を
嘗めさせむとするにぞ、直に拔打に松浦を立派に斬殺︀し、返す刀に後なるを斬らむ
とせしかども、松浦が斬倒されしを見ると、其儘大勢の子供等我先に逃行きしかば、
如何ともなし難︀く、{{r|篤|とく}}と松浦に止めを刺し、やう{{く}}として家に歸りぬ。「兄は江府
勤番の留守なれば、母の前にてしか{{ぐ}}の由をいひ腹を切るべし」といへるにぞ、「尤
もの事なり。人を殺︀して生くしべき理なし。倂し腹の切樣心得ありや」と尋ねしに、
「心得申す」由答へしかば、「然らば其用意せよ」とて其備を設け切腹なさしめしとい
{{仮題|頁=153}}
ふ。此家に召使へる下女・下男の類︀、事の始末人のよく知れる事なれば、「上へ達して
御裁許を受け給へ。命失ふべき事にあらず」とて一統無理に之を止め、其手にすが
りしかども更に聞入るゝ事なし。「母子とも流石に士の妻子たり、成長の後には急
度上の用に立つべき人なるに惜しき事せし」とて、之を憐まざる者︀なかりしといふ。
又此母といへるは、至つて珍らしき女なりといへり。或時此家の馬を若侍共申合
せ借らむといへるを啓助が兄{{仮題|分注=1|此家の嫡|子なり。}}之を斷りぬ。然るに彼者︀共其貸さゞるを憤り、
大勢黨を催し來り、押して理不盡に厩へ到り馬を引出し、大に狼藉に及びぬるにぞ。
之を如何に制すれども兼ねて仕組し事にして、愈〻不法募れるより大に怒り、弓矢
取つて一々に之を射殺︀さむと已に大事に及ばむとす。母親其子を制し置き、其矢
表をば己が身を以て防ぎ置き、大勢の惡徒と口論をなし、つひ〔{{仮題|分注=1|に脫|カ}}〕これ等〔{{仮題|分注=1|を脫|カ}}〕屈
せしめ押返せしといふ。天晴︀士の妻なりとて世評高かりしとなり。右啓助に喧嘩
を仕懸け逃げ歸りし子供等の親々は、何れも其子供等の御暇を願ひ、悉く勘當せら
れて、八月中旬皆々浪華に來れりといふ。
伊東修理大夫の分家に、伊藤主膳とて五千石を領する御旗本あり。{{仮題|投錨=伊藤主膳の不法|見出=傍|節=u-4-22-y|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}下屋敷に於て
これ迄雁・鴨の類︀を殺︀生し、密に之を町人共へ賣拂はれしといふ。元より江戶十里
四方は殺︀生禁制の場所なるに、斯かる不埒の事をなし、後には鐵炮にて打殺︀すやう
になりぬ。或日餌蒔せしに鶴︀來りて餌に付きしかば、之を鐵炮にて打ちしに、其鶴︀
手負ひながら隣なる寺の庭へ落ちて死せしといふ。伊藤より中間を其寺へ遣し、其
鶴︀渡すべしと權柄に申遣せしに、御法度の鐵炮を以て御法度の鶴︀を殺︀し、家來を案
內もなく寺中へ踏込ませ、此方より不法を咎めぬるに、權威を以て奪はむとす。重
重不法の致方なれば、此旨寺社︀奉行へ相屆くるの由にて、一大事に及ばむとするに
ぞ、伊藤も今は詮方なく種々之を斷りぬ。されども之を聞入れず。されども此事
屆けらるゝ時は、家に係れる事故に只管に詫しかば「然らば誤り一札を認められよ。
夫にて穩便にすべし」といへるにぞ、詮方なくて之を認めしかば、是にて相濟し侍ら
むといへる故、伊藤にて安心してありしに、此寺より右の鶴︀に彼の一札を添へて、
しか{{ぐ}}の由を訴へ出でぬるにぞ、御吟味になりしが、古今例なき事なれども、是
{{仮題|頁=154}}
にて家を{{r|斷|たや}}す事も不便に思召されしにや。「鶴︀にてはあるまじ。白鳥を打ちしなる
べし」とありしかども、訴人せし坊主より、{{仮題|入力者注=[#底本では直後に「始めかぎ括弧」なし]}}「急度鶴︀を打ちし事に相違なし」と申募るに
ぞ、「主膳に於て斯かる不法の事あるべき樣なし。定めて家來共の仕業ならむ」と、其
罪を輕めむと仰ありしかば、主膳には左樣なる由を申しぬれども、家來の中に一人
も其罪を引受け、主人を救はむとする者︀なく、何れも覺えなき由申上ぐるにぞ、其罪
逃れ難︀く播州赤穗の城主森勝藏へ{{r|御預|おあづけ}}となりしが、終に五千石の知行召放され、本
家修理大夫へ御預となり、{{仮題|投錨=主膳の最後|見出=傍|節=u-4-22-z|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}嫡子も何れにか御預なりしが、當人の事故闕所追放と
なり、二男・三男も同樣になりしといふ。元來主膳には善からぬ人と見えて、先年も
博奕をなし、其時にも已に家に係る程の事なりしに、家の長臣に忠義の者︀あつて其
罪を引受け、切腹をなして無難︀に逃れしといふ。斯樣の事にて主人に代りし事な
れば、表向にては公儀を憚る事ありとも、其妻子を不便を加へ、急度恩を施すべき
事なるに、五千石の長臣なれば、定めて百石餘も取れる事ならむに、其知行を取上
げ、僅か三人扶持にせしといふ。斯かる不仁の人物故、此度主人に代れる者︀一人も
なく、斯かる事に及びしといふ。定めて隣なる寺とも境を共にせし事なれば、常々
不法の事ある故、之を幸に訴人せしなるべし。されども出家の所行にあらず。此
坊主も姦惡の者︀なり。惡むべし{{く}}。此時の落首を聞きしに、
五千石伊藤は鶴︀に打込んでこれぞてんぽの元祖︀なりけり
これ天保元年の事なる故、鐵炮を「てんぽ」と持込みし者︀なり。修理大夫の{{r|人勾|ひとかどわかし}}・主
膳の鶴︀殺︀、本家といひ分家と云ひ、同年に不法の事を仕出し、天下に大たはけの名
を揚げぬる事とて、兒女までも之を嘲りぬ。
七月十八日より毛利大膳大夫領中に、百姓一揆起りて大に騷動す。其故を尋ぬる
に、{{仮題|投錨=毛利領中百姓一揆の由來|見出=傍|節=u-4-22-A|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}元來長門・周防兩國を領し、至つて勝手向も宣しく、諸︀侯の中にても斯かる身代
のよきは、至つて稀なる程なりしに、近來奢に長じぬるにや。至つて困窮に及びし
處より、種々の新法を立てぬる中にも、領中所々に役所を立て、國中の產物何に寄
らず悉く價易く買上げて、之を大坂に船にて積上せ賣拂ふ事になりぬ。斯くの如
くなれば、是迄農商の利とせし事は悉く上の益となりて、下々大に困窮に及びぬる
{{仮題|頁=155}}
上に、諸︀運上の取立多く、其外{{r|富|とみ}}、又大市とて、福︀引に等しき大博奕を{{r|免︀|ゆる}}し、甚しさに
至りては穢多に迄、{{仮題|投錨=毛利の惡政|見出=傍|節=u-4-22-B|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}格式を許し槍を持たせぬる抔、何れも益を取つて免︀せし事なり
といふ。斯かる有樣なれば、自ら穢多共の權威を振ふやうになりて、常に町・在に
出でて無法の事多しといふ。今年は伊勢へ御蔭參の六十一年目に當り、天下一統
の豐作にて、これ全く御蔭故なりとて、百姓一統大に悅び、其{{r|最寄|もより}}々々に一群づつ
寄り集まりて、御蔭踊をなしぬるに、產物役所・勝手方等にては、今年凶年にて米價
尊くならざれば、是迄買入れし產物・米等にては大に損となる事故、何れも凶を祈︀り
ぬるが阿武郡の沖に當りて{{仮題|編注=1|あいをの浦|藍島カ}}といふ所あり。{{仮題|分注=1|中の關より五|里下といふ。}}昔より此處に龍
神︀住し不淨を忌む。此淵へ藁にて蛇の形を作り、牛の生皮を剝ぎ取つて、此二つを沈
めぬれば、{{r|大荒|おほあれ}}に荒れ出でて、大風を吹かせぬるといふ。旣に四五ケ年前の九州の
大風にも、米を高くせむとて、下關の惡商此事をなせしとて專ら噂せし事なるが、此
度は彼の產物掛の役人共相談をなし、七月十八日未だ夜の明けざる中に、此事をな
さむとて、萬一人に怪まれむ事もあらむかと、數十人供廻にて槍を持たせ駕籠に乘
り御供にて出行きぬ。斯かる惡事なれば、誰いふともなく百姓共の耳に入りしかば、
何れも大に憤り、宮市といへる所に待伏して之を捕へむとす。斯かる事ありとは、
夢にも知らず、大勢の供廻にて出來りしを見ると其儘、打倒し叩き{{仮題|編注=1|す|てカ}}追散らし、駕
籠の中より引出し散々に打擲し、直に繩にて引くゝり荷物の吟味せしに、牛の生皮
ありしかば、此者︀を樹上につり上げつり下し、打叩きて責めしかば、初の程はいはざ
りしが、後には一々白狀に及びぬるにぞ、さらば產物役所は勿論其掛の者︀共、一々
叩き潰すべし。先づこれまで其事に就き頻︀りに私をなし、不義に富みし庄屋・年寄
共より毀ち始むべしとの評定に及ぶ。兼ねて村中に事あらば太鼓を打つべし。之
を聞かば直に寄集まるべしとの申合あるにぞ、宮市にて天神︀山といへるに寄集り、
太鼓を打ちしかば、其音を聞くも聞かぬも馳集り、人數三萬に餘りしといふ。中に
は庄屋共の制し止めて、從ふ事なき村なども少々はありしかども、從はざるは悉く
突︀殺︀すべしとて、少々殺︀されし者︀もありといふ。斯かる勢なれば一統に申合せ、產
物掛に少しにても故ある者︀は勿論にて、其外是迄米を買占めし者︀共、一々紙に之を
{{仮題|頁=156}}
記し其道筋の順を立て、夫より三田尻へ出で、城下に到り道々の家を毀ち、道々の
村々を從へ行くべしと一決し、掛引多人數故、太鼓にては行屆きかぬれば釣鐘にす
べし。是も小なるは益なしとて、五六里も隔りし寺に大なる{{仮題|編注=1|を|衍カ}}鐘のありぬるを借
りに行きしに、坊主之を否みしかば散々に打擲し、理不盡に奪來りしとなり。斯く
て城下に到り願立の趣五ケ條あり。
{{left/s|1em}}
一、銘々寒暑︀の厭なく農業出精︀し候も、何卒豐作致し、年貢上納滯りなく仕候て、其
餘を以て親・妻子を養ひ申すべしと存候處、{{仮題|投錨=百姓訴願の五箇條|見出=傍|節=u-4-22-C|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}凶年を祈︀り斯樣の事を仕出だし候事、
天理・人事に相背き申候。これと申すも元來米相場之あり、日々の上げ下げ種々
の風說をなし工み僞り多く候へば、是よりして善からぬ事出來致し候故、已來米
相場停止の儀御願申上候事。
一、產物役所の儀は、近年迄之なく候處、斯樣の新法を立てられ、何に寄らず下々
の物悉く下直に御買上に相成り、農商とも一統に困窮に及び候故、役所御引拂銘
銘勝手に商致し候樣の事。
一、{{r|富|とみ}}を免︀され御領中一統に之あり候て、{{仮題|投錨=○とみハ富くじノコト|見出=傍|節=|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}富の爲に一統に困窮いたし候故、已來
富を停止せられ候事。
一、一統に大市をなし、是にて困窮に及び候故、已來是をも禁ぜられ候事。
一、銀札近年不通用に相成、銀一貫目に札一貫六百目の引替にて、下々大に困窮
いたし候故、下地の如く通用にて引替等之あり候樣致したき事、
{{left/e}}
右の趣意を願立にて、宮市にて產物掛りは申すに及ばず、米買占めし者︀共悉く打毀
ち家には悉く柚を入れ、「倒れぬれば怪我人・死人あるべし。家を倒れざる樣にすべ
し」とて、柱々の眞にて僅一寸計りづつ伐殘し、諸︀道具は打碎き衣類︀は引裂き、金錢は
池に沈め銀札は燒捨て、夫より三田尻へ出でて悉く其の如くす。斯かる程の事に及
びぬれども、惡みぬる人をも殺︀す事なく、一揆の中より兩人目計り出づる頭巾を
冠り、其上に深編笠を著︀て長き棒を持ち、「只今汝が家を{{r|毀|こぼち}}に來りぬれば、老人・小供・
病人などあらば、此等に怪我させざる樣、早々に立退くべしと觸廻りし」といふ。覺
ある者︀は手早く家を明けて逃去りしもあり。此觸に驚き逃げ出づるもあり。又
{{仮題|頁=157}}
{{r|言譯|いひわけ}}をなさむとて、動く事なくて怪我せし者︀もあり。前以て手早く大事の者︀を取出
し、外へ持行きて預けし者︀もありしかども、此事露顯に及び其家を打碎きし上にて、
預りし人の家をも打碎かむといへるにぞ、皆々大に恐れ預りし品々、何れも大道へ
投げ出し其難︀を逃れしといふ。其餘富める家酒屋等には何れも飯︀を焚き續け一揆
に與へ、酒屋は悉く酒を飮盡されしといふ。宮市・三田尻等は繁華の地故、何れも奉
行の役所あつて、一人は出でて利害を說き、「願の趣一々聞屆け執成し遣すべし」とい
へ共、{{仮題|投錨=奉行の狼狽|見出=傍|節=u-4-22-E|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}「是迄每々產物の事に就きて願出でしか共、追つて沙汰すべしなどとて、一向に
其沙汰なく斯樣の場に迫れり。急度證文を認め印形を致し、其方之を受合ひ候か。
左なきに於て〔{{仮題|分注=1|は脫|カ}}〕靜まらず」といへるにぞ、詮方なく奉行も逃去りしといふ。一人
の奉行は大に恐れ、病氣なりとて出でざりしとなり。斯かる有樣なれば、始めより
追々萩へ注進ありと雖も、一向に役人出來る事なかりしが、漸々にして物頭兩人・
代官十八人出來りしが、代官の中にて兩人少しく才ありしが、林喜八といへる代官、
大なる紙に願の筋は一々申立て、御聞屆あるやう取計らひ遣すべし。萬一相違の
筋あつて御聞屆之なきに於ては、此方共の屋敷を悉く打碎くべし。其時少しも手
向ひせず、聊か申譯なし。何分靜るべしとて、大文字に之を記し、又半紙數十枚に
其通り書記し、一揆の中へまき散らせしかば是にて靜りしといふ。頂上には一揆十
萬に餘り、宮市・三田尻・大野・山口等にて人家多く打碎きぬ。されども餘りに人を殺︀
せしはなしといふ。しかし穢多の村々を悉く打碎き、大勢を打殺︀せしといふ。是迄
不法の事多ければなり。五日にしてやう{{く}}靜りしといへる事なれども、八月朔
日三田尻を浮べしといへる船の大坂へ著︀きしが、其頃迄もやはり騒動すとて、木屋
伊兵衞方にて語りしといふ。旣に昨年も山代とて紙の出づる所あり。藝州との境
なるが、此邊にて二郡申合せ一揆をなし、萩へ出で强訴せむとす。是も產物買上
にて、下方大に困窮に及びぬる故、之を止めらるゝ樣との事なりしが、此處より萩
へ出づる迄に、分家の德山侯の城下を通りぬる故、德山にて之を押へ、「願の趣取次
いで遣すべければ、これより引取るべし」とて、城下の寺々へ止宿せしめ、馳走して
返されしといふ。其願聞屆ありしとも、なしとも、頓と沙汰なしと雖も、此二郡にあ
{{仮題|頁=158}}
る所の產物役所には、其後役人一人も詰むる者︀なくて、其後は勝手に此二郡とも商
せしといへり。{{仮題|投錨=小笠原侯宿泊に窮す|見出=傍|節=u-4-22-F|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}宮市騷動の最中に、唐津の小笠原、交代にて此{{r|宿泊|しゆくどまり}}に入込まれし
かども、大家は毀たれ、毀たれざるは一揆の仕出しをなして、一軒も宿する家なく、
又人足に出づる者︀一人もあらざれば、據なくて跡の宿迄引返されしといへり。
{{left/s|1em}}
右一件は、御靈筋淡路町屋敷の九郞兵衞といへる者︀、九州・中國等へ商をなし、掛
を取りに到りしが、九州を先にして歸路防長の掛を集めむと思ひしに、歸には右
の騷動にて詮方なく、下の關より船に乘りて、掛をも得取らで歸りしとて此事を
語りしと、玉水町奈良屋作兵衞といへる酒屋心齋橋筋南久太郞町木屋伊兵衞と
て諸︀道具を商ふ者︀共、何れも彼地の商を專らになしぬる故、彼方より來れる者︀多
し。これがいへるを聞取つて記し置きぬ。毛利も舊家にて、元就に至りて十餘
州を切從へ、中國に威を振へる故、其餘風家に殘りて、近頃家名を墜さゞりしに、
斯かる苛政に依りて百姓の一揆起り、大に恥をさらしぬるに至る。笑ふべし。
{{left/e}}
八月下旬、彼地の船頭登坂にて、政事當職の家老毛利藏主を始め、諸︀役人悉く退役
申付けられ、家老益田播磨當職となる。牛皮を沈めむとせし發頭人三人、網駕籠に
て城下へ引かれ、相場・富・大市も停止となり、銀札も相當の通用となりしといふ。此
度の一揆起りし發端は、{{仮題|投錨=毛利藏主の退役|見出=傍|節=u-4-22-G|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}周防の吉敷郡にて、則ち毛利藏主が領分なりといふ。幸に
候在國なりしかば、速に埓明きしとなり。
八月十日頃、長州の內德須千崎等に一揆起り、これも同樣の願なりといふ。此所紙
を拵ふる所なりとぞ。{{仮題|投錨=所々の一揆|見出=傍|節=u-4-22-H|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}同廿日頃より三田尻より廿餘里上にて、藝州境なる大島と
いへる所蜂起すといふ。此內にても久賀・小松などいへる所は、木綿多く出せる所
の由、一揆せし趣意は何れも同樣の事なりといふ。
右一揆の始末、事長ければくはしくは別記とす。
豊前小倉十月に大霰降り、掛目十二三匁ありといふ。{{仮題|投錨=小倉の大霰|見出=傍|節=u-4-22-I|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}
出羽︀にては福︀俵降りしといふ。{{仮題|分注=1|福︀俵とは如何なる物とも分りがたし。穗たは|らの事ならむか。定めてくにことばならむ。}}{{仮題|投錨=出羽︀の福︀俵|見出=傍|節=u-4-22-J|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}
押小路大外記殿、洛外に於て四町四面の地面を得。{{仮題|分注=1|地震記にくはし|く其譯を記す。}}
西本願寺改革と稱し、不正の山子を工み數萬の金銀・財寶を得たり。惡むべし。{{仮題|投錨=本願寺の不正|見出=傍|節=u-4-22-K|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}{{nop}}
{{仮題|頁=159}}
{{仮題|細目=1}}
板坂卜齋物語といふ物にいはく、九月朔{{仮題|分注=1|慶長五|年。}}西の丸御隱居曲輪へ御出候石川日向
守家成、「今日は西塞がり惡日に候。御合戰の{{r|御首途|おんかどで}}如何」と申上候へば、「西を治部少
塞ぎ候間、今日明けに參り候」と御意、{{仮題|投錨=家康惡日を忌まず|見出=傍|節=u-4-22-L|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}其晩神︀奈川・二日藤澤・三日小田原云々といへ
り。是は關ケ原の御出陣の事なり。此書は板坂卜齋宗高といふ人、東照神︀祖︀君に仕
へ奉りて、明暮記せる書なり。卜齋が後は今も尙板坂卜齋といひて、我が紀の殿人
にてあるなり。
又同書に、{{仮題|投錨=家康の侍になせる敎訓|見出=傍|節=u-4-22-M|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}大御所樣、小身なる侍共に常々御敎訓には云に、「昔よりの譬に犬に三年
人一代、人に三年犬一代と申候。犬なりときたなくいはれ、三年しまついたし候へ
ば奉公もなり、傍輩に無心も謂はず、一代人倫の{{r|交|まじはり}}にて通り申候。酒宴好み振舞
ずき致し、むざとつかひ崩し候へば、三年はさて{{く}}欲心なき奇麗なる人やと譽め
候へども、軈てすり切り人馬も持得ず、人の物を借りて返さず、出陣の供も成り兼
ね、一代世間に犬畜〔{{仮題|分注=1|生脫|カ}}〕といやしめ笑はれ候。之を人に三年犬一代と申候。常々
酒飮み料理ずきいたし、武道をわきへ致し候輩は、犬畜生同前なりと申す譬なり」と、
常々仰せられ候。
右、伊勢國本居宣長が著︀はせし玉勝間といへる文の中に、引けるを書拔きぬ。
{{仮題|細目=1}}
{{仮題|投錨=朝廷祖︀廟の事|見出=傍|節=u-4-22-N|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}
淸和之節︀御座候處、益〻御多勝可{{レ}}被{{レ}}遊{{二}}御座{{一}}奉{{レ}}賀候。然者︀無{{レ}}據內々心得置度見合
之儀有{{レ}}之候而、別紙之件々御手筋御座候はゞ、御聞合者︀相成申間敷哉申試候。外に
京邊之故人も無{{レ}}之候に付不{{レ}}得{{レ}}止申上候。定而禁祕之御事に候哉。又々一向御菩
提捌所にて相濟候事哉。此處承度候。何卒宜敷希上候。早々頓首拜。
{{left/s|1em}}
一、本朝祖︀祭之式、若{{r|何成|いかなる}}書に出候哉。
一、禁中に者︀御祠廟有{{レ}}之者︀に候哉。
一、七廟之神︀主御祭有{{レ}}之候ものに候哉。
一、七世御以上之神︀主者︀桃廟に被{{レ}}爲{{レ}}遷、七世之考妣主にて十四膳之御進饌有{{レ}}之
候哉。又者︀百二十代之神︀主考妣主にて御一膳づつなれば、二百四十膳被{{レ}}爲{{レ}}獻候
{{仮題|頁=160}}
哉、是者︀中々御間處も煩敷と疑惑致候。何れ御桃廟か又者︀寄位牌など樣之御法制
有候哉。
一、又者︀一向泉涌寺・般舟寺{{仮題|分注=1|此寺は不{{レ}}承候得共、御位牌所|の由承候。何れに御座候哉。}}|などへ御任被{{レ}}爲{{レ}}置、當時にて
は御祠堂も無{{レ}}之者︀に候哉。又泉涌寺等にて孟蘭盆等之節︀、右二百四十膳奉{{二}}進饌{{一}}
候哉。御祔位共に三四百も奉{{レ}}獻候哉。
右之次第、內々にて御聞繕筋相成候はゞ、忝仕合に御座候事。
四月二日 野口市郞右衞門
山路恭保樣
{{仮題|箇条=一}}、本朝祖︀祭之式若何なる書に出哉事。
伊勢大神︀宮四度幣儀、延曆儀式帳・儀式・延喜式以下諸︀書註{{レ}}之
六月・十二月等神︀今食儀
一代一度大嘗祭儀
十一日神︀嘗祭儀
以上、儀式・延喜式・西宮記北・山抄・江家次第、以下諸︀書註{{レ}}之。
內侍所御神︀樂儀
江家次第・雲圖抄以下諸︀書註{{レ}}之
賀茂祭儀
儀式・延喜式・西宮記・江家次第以下諸︀書註{{レ}}之。
同臨時祭儀
政事要略・西宮記・北山抄・江家次第・年中行事祕抄以下諸︀書註{{レ}}之。
石淸水臨時祭儀
江家次第・年中行事抄以下諸︀書註{{レ}}之。
同放生會儀
年中行事・諸︀家私記等註之。
此外臨時三社︀奉幣・宇佐宮・香椎廟奉幣儀等事、諸︀書ニ散見ス。{{仮題|行内塊=1|臨時山陵|使亦同}}
國忌儀、{{仮題|行内塊=1|歷代廢置不{{レ}}同。}}{{nop}}
{{仮題|頁=161}}
延喜式・西宮記・北山抄・江家次第以下諸︀書註{{レ}}之。
荷前儀
儀式・延喜式・西宮記・北山抄・江家次第以下註{{レ}}之。
{{仮題|箇条=一}}、禁中ニハ御祠廟有{{レ}}之モノニ哉之事。
內侍所ニ神︀鏡ヲ祀ラレ候外、御祠廟之類︀無{{レ}}之。
{{仮題|箇条=一}}、七廟ノ神︀主事及七世以上之神︀主御饌等事。
一條禪閤兼良記云、今案、天子七廟、或有{{二}}九廟之說{{一}}。故陽成天皇以前、或八廟、或
七廟、其數不{{レ}}定。然光孝以來定爲{{二}}九廟{{一}}。其中以{{二}}天智{{一}}爲{{二}}太祖︀廟{{一}}。蓋天武・天智皆
舒明之子。然文武至{{二}}廢帝{{一}}天武之裔卽位、天智之流如{{レ}}絕。爰光仁天皇爲{{二}}田原之皇
子{{一}}、而因{{二}}群臣推戴{{一}}得{{レ}}登{{二}}帝祚{{一}}。於{{レ}}爰天智之流勃興。加{{レ}}之天智天皇始制{{二}}法令{{一}}。謂{{二}}
之近江朝廷之令{{一}}。天下百世因准{{レ}}之。爾來至{{レ}}今皆天智之一流、而爲{{二}}太祖︀不遷之廟{{一}}、
豈不{{レ}}可乎。又光仁已爲{{二}}中興之主{{一}}。故爲{{二}}第二世{{一}}。桓武創{{二}}平安京{{一}}、故爲{{二}}三世{{一}}。光仁・
桓武比{{二}}周之七廟文世室・武世室{{一}}。所{{レ}}謂劉子駿九廟之說也。其餘隨{{レ}}世互有{{二}}廢置{{一}}。
然而仁明・光孝・醍醐、其德蓋{{二}}天下{{一}}不{{レ}}忍{{二}}毀去{{一}}。是以、後世聖君遺詔不{{レ}}立{{二}}山陸國忌{{一}}。
其意者︀不{{レ}}可{{レ}}過{{二}}七廟{{一}}故也。但三女主猶可{{レ}}得{{レ}}毀{{レ}}之。鳥羽︀炎子毀{{二}}穩子之國忌{{一}}、寬
元通子去{{二}}安子之國忌{{一}}者︀也。又按、履脫爲{{二}}上皇{{一}}則不{{レ}}置{{二}}國忌{{一}}。又有{{二}}遺詔{{一}}。
{{left/s|1em}}
右兼良公說、本朝制粗〻如{{レ}}此。但廟ノ字・毀ノ字等ハ、唯漢︀土ノ文ニ從テ被{{レ}}註タ
ル也。其實ハ廟ハ無{{レ}}之、山陵ヲ祀ラルヽ也。{{仮題|分注=1|山陵ヲ毀ツ事、元|ヨリコレナシ}}年終ニ荷前ノ幣ヲ奉
ラレ、國忌ヲ置ルヽ分ヲサシテ、七廟トモ九廟トモ稱シ奉ラレタル也。
{{left/e}}
中古以來何レノ帝モ遺詔アリテ、國忌・山陵ヲ止メラル。仍而佛家ノ法ニ從テ寺
院ニ奉{{レ}}葬リ、神︀主ハ各〻其寺院ニ安置シ供養シ奉ル也。
有德ノ帝ハ別ニ神︀祠ヲ建テ崇奉ラル。是ハ元ヨリ百世不遷ノ廟ニテ、所{{レ}}謂九廟
等ノ外也。
御饌ヲ供スル事、神︀祠ニ崇奉ラルヽハ、各〻其祠官是ヲ供シ奉ル。寺院ニ葬奉ラ
ルヽハ其寺僧︀供進ス。山陵ノミ有ルハ別ニ御饌ヲ供進スル事ナシ。往古ヨリ如
{{レ}}此。{{nop}}
{{仮題|頁=162}}
{{仮題|箇条=一}}、孟蘭盆會之事。
本朝ノ古例、盆供ヲ寺院ニ送リ、佛ニ供養シテ祖︀先ノ冥福︀ヲ祈︀ル也。祖︀先ニ饌ヲ
供スル儀ニハ非ズ。佛家ノ本說モ卽如{{レ}}此。
{{left/s|1em}}
孟蘭盆會經、{{仮題|分注=1|取{{レ}}要|註{{レ}}之。}}
至{{二}}七月十五日{{一}}、當{{下}}爲{{二}}七代父母・現在父母厄難︀中{{一}}、具{{二}}百味五果{{一}}、以著︀{{二}}盆中{{一}}、供{{中}}養
十方大德{{上}}。佛勅{{二}}衆僧︀{{一}}、皆爲{{二}}施主{{一}}咒願{{二}}七代父母{{一}}、行{{二}}禪定意{{一}}、然後受{{レ}}食。是時目
連母、得{{レ}}脫{{二}}一劫餓鬼之苦{{一}}。{{仮題|入力者注=[#底本では「劫」の直後に返り点「一」あり]}}
{{left/e}}
近世中元ニ祖︀先ニ饌ヲ供シテ祭ルヿ、時俗ノ流風ニテ佛說ニモ非ズ、本朝ノ古例
ニモアラズ。十二月晦日ニ亡魂ノ來ルトテ祭ル事、假名ノ抄等ニ多ク所見アリ。
{{仮題|分注=1|報恩經ニ見ル由|也。可{{レ}}尋{{レ}}之。}}中元ノ頃亡魂ノ來ルコト、正シキ古書ニハ所見無{{レ}}之。{{仮題|分注=1|後世僞作ノ書
所々ハ往古ヨリ此事ノアル由註セル
モアレドモ猥ニ信ズベキニ非ズ。}}當時般舟三昧院・泉涌寺等ニテ孟蘭盆ノ時、御歷代ノ
神︀主ニ御饌ヲ供スル事有{{レ}}之哉否不{{レ}}知{{レ}}之。若シ是アリトモ、時俗ニ從ヘル寺僧︀ノ
私意ヨリ出デ、本朝ノ制度ニハ非ルベシ。
但各〻其家々ニテ、父祖︀ヨリ如此祭リ來レル事アラバ、今廢スベシト云フニハ
非ズ。祖︀宗ノ法ニ從テ可也。
{{仮題|箇条=一}}、般舟三昧院事。
元伏見里指月ニアリ。後土御門院、文明年中御建立アリテ御內佛ヲ安置セラル。
其後天正年中、秀吉公城ヲ伏見ニ築ク時、コレヲ京師ニ移ス。御歷代ノ神︀主アリ
テ、專ラ追福︀ノ法事ヲ修セリ。 以上
{{left/s|1em}}
一翰致{{二}}啓上{{一}}候。秋冷相催候處御全家被{{レ}}爲{{レ}}揃、愈〻御壯榮被{{レ}}成{{二}}御入{{一}}珍重奉{{レ}}存
候。先達而者︀被{{レ}}入{{二}}御念{{一}}候御書中、殊一種被{{二}}贈︀下{{一}}御丁寧之御儀、忝御蔭向申
候。將又御知音之方ゟ被{{二}}御賴{{一}}之由、本朝祖︀祭式之儀取調進上いたし候樣承知
仕候。早速可{{二}}申入{{一}}之處、賴置候方彼此隙取、其上拙家愚孫久々不{{二}}相勝{{一}}取紛、
大に及{{二}}遲引{{一}}候。御宥恕可{{レ}}被{{レ}}下候。則此度別紙進上いたし候。御落手可{{レ}}被{{レ}}下
候。右乍{{二}}延引{{一}}貴答迄如{{レ}}此に御座候。恐惶謹︀言。{{nop}}
{{仮題|頁=163}}
八月三十日 富島左近將監
小山三藏樣
祖︀祭式勘物之事、儒家にても委敷難︀相分、寺島俊平ゟ堂上竹屋正四位下右兵衞
佐光樣朝臣へ御賴申入御認被{{レ}}下候。御菓子樣之品にても進上申候方に候はゞ、
猶又跡ゟ可{{二}}申入{{一}}候間御心得置可{{レ}}被{{レ}}下候。以上。
左將監
三藏樣
右野口市郞右衞門ゟ被{{二}}相賴{{一}}候候付新見留守居小山三藏を相賴み、同人妻
之伯父鷹司殿諸︀太夫富島左近將監ゟ相調吳候也。
{{left/e}}{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
{{仮題|投錨=長壽者︀|見出=傍|節=u-4-22-O|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}
松平伊豆守殿御領分三州井戶郡小塚︀村百姓萬平{{仮題|分注=1|二百七十五歲。|慶長七年の生。}} {{仮題|分注=1|〔頭書〕前にいへる三代將軍家光公御上洛の節︀、御馬の
口取せしといへるは此萬平が事なりといふ。慶長七年の生
とあれば二百三十歲なり。二百七十五歲といへるは如何。}}
此度有姬樣御下向御供被{{二}}仰付{{一}}。右有姬樣御事鷹司樣之御姬君にて、御歲六歲に被
{{レ}}爲{{レ}}成、此度西御丸へ御輿入、九月十五日御著︀府。西御丸へ先年有栖川樣姬君樣御
輿入之節︀、右萬平御供仕御吉例を以、此度も御供被{{二}}仰付{{一}}候由承申候。
八十ケ年已前に御先代樣御遠忌之節︀、右萬平白髮を截り奉{{二}}差上{{一}}候。從{{二}}公儀{{一}}高三
十石被{{二}}下置{{一}}、此度二十石增、都︀合五十石之頂戴に可{{二}}相成{{一}}噂に御座候。
旅宿へ折々罷越候傳右衞門と申す者︀、伊豆守樣御屋敷へ罷出、右萬平を見受候趣、
同人より直に承り申候。
{{left/s|1em}}
右は勝山町和泉屋才右衞門忰善二郞と申す者︀、公事差添人にて出府いたし、其者︀
より勝山へ申遣し候書付の寫なり。
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
前にもいへる如く東本願寺燒失に付、公儀より右材木を尾張の領內にて、御寄附あ
るにぞ、尾張は素より東門徒のみの所なれば、本山の事とさへいへば、命をも惜ま
ざる輩なれば、百姓・獵師の分ちなく何れも力を盡し、銘々其業を捨てゝ力を盡し、嶮
難︀の場を材木を伐つて濱手迄引出す。此事容易にはなり難︀き事なりといふ。然る
{{仮題|頁=164}}
に右材木一本も京都︀へは上す事なく、尾州の役人と本願寺家老下津間と申合せ、江
戶に廻して悉く其材木を賣拂ひ、其價を二つ分にして各〻之を取込みしといふ。尾
州の者︀共{{r|本山參|ほんざんまゐき}}をなして見れども、{{仮題|投錨=東本願寺家老の不法|見出=傍|節=u-4-22-P|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}大層にこれまで積出せし材木、一本も上れる事
なきにぞ、之を不審に思ひしかば、其吟味をなせしかば、忽ち右の惡事露顯せしかば、
大に憤り、「銘々家業を捨てゝ、親・妻子をも苦勞せしめ、血の淚汗を流して體をも厭ふ
事なく働をなして、聊も本山の爲になる事なく、斯かる不埒の致方其儘になし捨置
き難︀し」とて、一統申合せ尾張の役人を申受けむといふ。又本山へも大勢上りて、「下
津間を申受しべし。斯かる事に及びぬれば東派に心なし。是より西門徒になるべ
し」とて、大に騷動するに至る。玆に於て下津間を召捕り吟味せしに、其事明白に相
分りぬる上に、先年材木に火を付けて燒きたるも此者︀の業にして、下地に餘れる程
材木を取集め、是にて大に金を私し、又もや此度の事に及ばむとて火付せしといふ
重罪の事なり。辰二月下旬には、門跡江戶へ拜禮に下るとて專ら其用意をなせし
に、斯かる騷動に至りし故、其事を止め病氣なりとて引籠る。下向といへるにぞ、
江戶よりも講中の者︀共大勢迎に來り、大坂近國よりも大勢供せんとて上りしに、斯
かる事なれば何れもすご{{く}}と歸りぬ。又門跡下向に付きて、江戶に於て公儀は
申すに及ばず、諸︀家へ獻る土產物仰山の事なれば、諸︀商人共、本願寺諸︀役人共へ種
種賂をなして賴み込み、種々の土產物受合ひ、夫々に仕込みて前以て江戶へ下せし
に、下向止めになりしかば、此者︀共皆々損となりて、大勢の者︀共一錢をも得る事な
く、雜用にたふれぬる中にも、菓子屋には百貫目餘の菓子を注文せられ、前以て江
戶へ下し置きしに變改せられ、忽ち身の置所なき樣になりしといふ。これ全く生
如來の御慈悲心によれる事なり。又西本願寺にては、斯くの如く同流の東本願寺
難︀澁に及び、{{仮題|投錨=西本願寺の陋劣|見出=傍|節=u-4-22-Q|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊5|錨}}尾州の門徒共の志を動かしぬる所へ附込み、法談をよくするちよんが
れ坊主共を大勢尾州へ下し、之を引入れむとす。誠に惡むべき事にして、凡俗の惡
商にも劣れる振舞といふべし。{{nop}}
{{仮題|ここまで=浮世の有様/2/分冊5}}
{{仮題|ここから=浮世の有様/2/分冊6}}
{{仮題|頁=164}}
{{仮題|投錨=天保三年雜記|見出=中|節=u-4-23|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}
{{left/s|4em}}
天保三壬辰正月五日の日付にて、京都︀より年始狀の裏に記し越しゝ、出火
の樣子左の通。
{{left/e}}
{{仮題|頁=165}}
舊冬十二月十二日曉、大龍寺之{{r|辻子|つじ}}北隣御存之通四條寺町東へ入處、淨信寺といへ
る大地本堂・庫裏共不{{レ}}殘燒失、大火也。{{仮題|投錨=京都︀出火の書狀|見出=傍|節=u-4-23-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}同十六日同辻子西林寺といへる大地、本堂計
不{{レ}}殘燒失、大火也。同廿九日高倉五條宗仙寺本堂・{{r|庫裏|くり}}共不{{レ}}殘燒失。右隣之寺も同
斷、大火也。正月三日上の町天神︀北隣了蓮寺本堂計、是は中途にてもみ消申候。同
日下の町、長寺・正圓寺右同斷。四日善長寺右同斷。同日夜二更過下の町{{仮題|分注=1|寺町綾小|路也。}}松
光寺と云大地。本堂・庫裏共不{{レ}}殘燒失、大火也。
{{left/s|1em}}
右之通每日々々其外西寺町上寺之內邊之小寺夥敷、扨々困り入申候仕合に、御座
候。早々鎭り候樣奉{{二}}祈︀入{{一}}候。已上。
{{left/s|1em}}
右の趣申越候處、悉く附火にて正月下旬其者︀召捕られ二月刑せらる。大坂本
町の惡徒なりしといふ。
{{left/e}}{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
大坂にても二月廿八日辰の刻、堀江出火あり。同日午の刻より阿波橋筋讚岐屋町
出火方一町計り。{{仮題|投錨=大坂の火事|見出=傍|節=u-4-23-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}同日安治川にも少々燒失すといふ。同廿九日酉の刻より新町大
火。三月朔日晝前に至りて漸々と收りぬ。同日阿彌陀院寺內なる觀音堂も燒失す
といふ。夫よりして日々三五ケ所程づつ少々の火事所々方々にあり。是は格別の
事にてもなしと雖も、十二三日計り騷々しき事なりし。
春來罪人も至つて多く、火罪・磔等も多くあり。又市中にて夜々追剝出で、往來の人
を剝ぎ取るなど、傍若無人の有樣なりといふ。又天滿六丁目にて老婆一人{{r|裏住|うらすまひ}}せ
るあり。三月中旬の事なりしが、紙屑買來りし。右の老婆呼入れて、其身に纏ひぬ
る衣を脫ぎ、丸裸になりて、「其著︀物を買吳れよ」といへるにぞ、紙屑買も大に驚き、「氣
候不順にて此節︀は取分け寒き事なるに、{{仮題|投錨=哀なる老婆|見出=傍|節=u-4-23-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}其著︀物を賣拂ひて、外に著︀物の{{r|代|かはり}}ありや」と
いへるにぞ、「外にある程の事ならば、何しに裸にはならむや。見らるゝ通り貧苦に
迫り、何も角も悉く賣拂ひ盡して、此外には何一つ賣れる物とてはなし。是非とも
に此著︀物買ひてよ」といへるにぞ、紙屑買も大に憐を催し、「吾れ紙屑を買はむとて、
鳥目八百文を持てり。{{仮題|投錨=奇特の紙屑買|見出=傍|節=u-4-23-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}未だこれより紙屑買求に行ける事なれば、悉くは放ち難︀し。
{{仮題|頁=166}}
此內五百文を貸すべし。急に之を返さむと思ふべからず。少しも苦しからず。さ
れども心に斯かる事ならば、一文・二文にても苦しからねば、時節︀を以て返すべし」と
いへるにぞ、老婆大に悅び、涙を流して有難︀がりしといふ。斯かる裏家の小家なれ
ば、其噂高く取々評判せしに、其表家に高利の金を貸附けて渡世とする不良の者︀あ
りて、{{仮題|投錨=非道の高利貸|見出=傍|節=u-4-23-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}前以て右老婆に三百文の錢を貸せしあり。されども斯かる有樣なれば、其錢
を未だ返さでありしかば、幸の事に思ひ其錢を受取らむと、之を責めはたりしかば
老婆大に恨み憤り、紙屑買の情を受けし始末と、此者︀の不仁なる始末とを悉く書記
し、{{仮題|投錨=老婆の縊死|見出=傍|節=u-4-23-f|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}其書付を口に街へて其夜自ら縊れ死せしといふ。斯くて檢使を受けしに、其事
明白なれば、直に右の高利貸は召捕られて入牢し、右の紙屑買何れの者︀とも知れざ
れば、公儀よりして其筋に之を御糺ありて召出され、何か御聞糺ありし上にて、「彼
の老婆獨身にして身寄の者︀一人もなし。其方彼に情をかけし事、深き關係なるべ
ければ、とてもの事に死骸をも葬り遣すべし」と申付けられしかば、直に之を御受申
し、鳥目七貫文持行きて之を葬りて遣りしといふ。奇特の事といふべし。右高利貸
は闕所となりて三鄕を御拂とある。{{仮題|投錨=高利貸の最後|見出=傍|節=u-4-23-g|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}妻子の物は悉く其者︀共へ下され、當人の物計
り闕所となりしに、有金六十貫目其外衣類︀・諸︀道具澤山にありしを、右の紙屑買を御
呼出となりて、悉く下し置かれしといふ。さも有るべき事なり。
{{仮題|細目=1}}
備中松山出火、三月廿六日なり。
去月十四日之貴札、同廿七日相達、辱拜見仕候。輕暑︀之砌御座候へ共、御淸家被{{レ}}爲
{{レ}}揃、愈〻御安泰被{{レ}}成{{二}}御起居{{一}}目出度御儀に奉{{レ}}存候。隨而草家打揃息才罷在、小兒共
氣丈成人仕候條、{{仮題|投錨=備中松山大火|見出=傍|節=u-4-23-h|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}乍{{レ}}憚御安意可{{レ}}被{{レ}}下候。然者︀如{{二}}貴命{{一}}去々月廿六日午下刻、多賀源
左衞門と申仁ゟ出火いたし、折節︀西南風烈敷大火に相成、是迄未曾有之大變に御座
候。倂愚宅者︀風上に相成、別條無{{二}}御座{{一}}罷在候間御放念可{{レ}}被{{レ}}下候。誠に當地眼目
之所不{{レ}}殘燒失仕、旅人抔も承り候ゟは驚入候樣子に御座候。且屆書差越候間、是に
て御推察可{{レ}}被{{レ}}下候。五月三日出之書狀也。佐木辨內。
屆書之寫{{nop}}
{{仮題|頁=167}}
私在所備中國松山城下侍屋敷ゟ去月廿六日午の下刻出火、風烈に而及{{二}}大火{{一}}外曲輪
內侍屋敷迄燒込翌廿七日卯上刻火鎭り申候。燒失左之通。
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=14em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@一、侍屋敷{{仮題|行内塊=1|但長|屋共}}八十九軒@一、學文所 一ケ所@一、會所<sup>同</sup> 一ケ所
@一、同 二ケ所@一、厩 一棟@一、番所 三ケ所
@一、橋 一ケ所@一、<sup>家中</sup> 土藏 三十五ケ所@一、同物置 廿六ケ所
@一、町家 五百九十四軒@一、町家土藏 百一ケ所@一、町家物置 九十六ケ所
@一、辻番所 五ケ所
}}
右之通御座候。尤城內別條無{{二}}御座{{一}}、人馬怪我無{{二}}御座{{一}}候。此段御屆申上候。
以上。
{{left/e}}
私事も讚州金比羅へ參候はんと、先月廿五日松山迄參り候處、廿六日の晝過ゟ大火
にて、家中計七十六軒、町迄に三百程夜なかまでにやけ申候。まことにゐなかには
めづらしき御事に御座候。それゆゑこんぴら參はやめにいたし、當月十日にかへ
り申候。又々らい春參詣いたし申すつもりに御座候。まづ{{く}}佐木は殘り申し候
得共、おゑきの親里七郞おぢの所二軒やけ申候て、ぞんじよらぬ大物入に、こまり
入り{{?}}候云々。
<sup>鳥羽︀</sup> とへゟ
{{left/s|1em}}
右燒失の數、屆書とは大に少し。定めて大總に書上げしものならむと思はる。
松山は予十三歲の時、金比羅參詣の歸に通りし事あり。僅か二千軒餘の城下な
れば、何れにしても大火といふべき事なり。
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
三月上旬より五十日の間、京都︀大佛養源院・本能寺・畜生寺等開帳、何れも信長・秀吉
等の遺物なれば、{{仮題|投錨=京都︀大佛等の開帳|見出=傍|節=u-4-23-i|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}都︀鄙大に群をなして參詣の人、日々大抵二三萬にな{{仮題|編注=1|れ|りカ}}しといふ。
同時高臺寺も開帳、これも政所の遺物多き事なれば、同樣の群集にて大當なりしと
いふ。
大坂に於ては、四月下旬より川浚御手傳始まる。昨年伏見町唐人揃華麗なりとて、
大に咎められしかば、夫よりして人氣大に挫けしに、衣類︀の華美を止められ、木綿
{{仮題|頁=168}}
ならではなりがたく、{{仮題|投錨=大坂川浚の手傳|見出=傍|節=u-4-23-j|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}其外船印・太鼓・鉦等をも停止仰付けられしかば、後には頓と
出づる者︀なき樣になりぬるにぞ、當年は昨年に引かへて、衣類︀も隨分華やかにすべ
し。鉦・太鼓も苦しからず、賑々しくなして出づべしとの事なるにぞ、市中一統大
浮かれに浮かれ出し、絹布はいふに及ばず、羅紗・猩々緋の類︀を以て衣服・襷等をな
し、男女混雜して浮かれ廻り、騷々しき事これを譬ふるに物なし。斯くの如き樣に
て六月の初迄打續きしが、夫より諸︀神︀社︀の祭禮始まりしに、引續きだんじり多く引
廻り、高麗橋筋四軒町に於て天滿市のかはのだんじりと、同所川崎のだんじりと大
喧嘩をし、兩方怪我人多くありしが、漸々引分かれしに市のかはのだんじりを、天
神︀橋を引通りしに橋板五間計踏落し、だんじりも人も川中へ陷り流れしが、仕合と
岸に近き邊なるに、{{仮題|投錨=祭禮の喧嘩|見出=傍|節=u-4-23-k|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}宵の間の事なりしかば、多くの助船、炬松・篝等を照らして、白晝
の如く之を助けしかば、死人は聊の事なりといふ。されども怪我人至つて多かり
しといふ。子供仰山にだんじりに附纏ひてありしかども、四軒町の喧嘩の節︀、怪我
せむ事を恐れ雙方共、皆々連れかへりて、小兒は一人も川中へ落ちし者︀なかりしと
いふ。又六月五日三十石〔{{仮題|分注=1|船脫|カ}}〕三艘覆り人多く死す。{{仮題|分注=1|橋の落ちしは、六月十|九日暮過の事なり。}}
京都︀祇園祭禮の節︀、{{仮題|投錨=祇園祭禮の喧嘩|見出=傍|節=u-4-23-l|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}{{r|神︀輿舁|みこしかき}}と警護と大喧嘩ありて、神︀輿を町中にすゑ置き大に取合
せしが、神︀輿昇兩人打殺︀され、雙方大に怪我人あり。怪我人は警固の方至つて多か
りしかども、死人はなかりしといふ。斯樣の事先例なし。關東へ伺となりしといふ。
當年は至つて雨繁く、別けて四月・五月より六月十六日迄は雨天甚しかりしに、六月
十七日も雨降りて御靈祭禮漸と岡を渡ありし位の事なり。尤も雨天打續きし故、
洪水にて川渡なし。{{仮題|投錨=御靈祭禮|見出=傍|節=u-4-23-m|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}十八日に至つては天氣大に晴︀れて、旱打續き暑︀氣尤も堪へ難︀
く、川々濁水に及び、水の手惡しき用地などは、頓と致方なしなどといひぬるにぞ、所
々に於て雨乞などありしに、八月五日辰の刻に至り大雨降出し、午の刻少し小雨に
なりて、日暮迄時々降止{{r|數|しば{{く}}}}なりしが、日暮れて後雨止みぬ。同六日申の刻大夕立に
て雷鳴四五大に發聲せしが、海︀部堀中の橋北詰藏の庇へ落ちしといふ。同八日は、
二百十日に當れども至つて穩かにて、同放生會二百廿日等も、少しも風の變〔{{仮題|分注=1|な脫|カ}}〕く
雨も程よく降りて、{{仮題|投錨=天下一統の豐作|見出=傍|節=u-4-23-n|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}天下一統の豐作となりぬ。姦惡の輩凶年を祈︀れ共、昨年の騒動
{{仮題|頁=169}}
に懲︀りしと見えて、牛皮沈水の沙汰をも聞かず、京都︀龜山等は七月廿九日・八月朔日
大雨なりしといふ。勝山なども同樣の早にて、備前へ流れ落つる川水至つて少く、
船の通路なし。ここ迄迄樣の事はなき事なりしといふ。これも八月朔日頃より大
雨降出し、大に豐作なりといふ。
七月中旬より九月上旬にかけて、小盜人大に徘徊し、三五人程黨を結びて所々に押
入り、{{仮題|分注=1|尤も貧家計|りなり。}}大に騷々しき事なるに、{{仮題|投錨=盜賊巾著︀切|見出=傍|節=u-4-23-o|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}巾著︀切仰山にありて所々人立の所にて、往
來の懷中・下げ物・婦人の簪・笄の類︀を奪取り、傍若無人の有樣にて、取られし者︀之を
憤り其者︀を捕ふれば、惡徒大勢寄來りて其者︀を打擲し不法の有樣なり。近來巾著︀
切・小盜〔{{仮題|分注=1|人脫|カ}}〕、博奕打の類︀は召捕られぬれば、佐渡へ遣されて金掘をなさしめられし
事なるに、斯かる者︀共彼の地に遣しぬればとて、金掘の働をばえせずして、却つて
不良の事のみをなすにぞ、自ら土地の風儀惡しくなりぬる故、{{仮題|投錨=同制裁|見出=傍|節=u-4-23-p|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}此後は{{r|佐渡下|さどおろし}}の事彼
地の御奉行より斷り來りしといふ。斯くの如くなれば召捕らへ入牢せしめぬると
て、首切る程の事にもあらざれば免︀し出され、忽ち其日よりして元の巾著︀切となり
て惡をなしぬる故、總年寄の口達にて、取られし證據明白にさへあらば、打寄り叩
き殺︀せしとて、上に御構なき由を、町々の年寄共へ內意ありしとなり。夫より人氣
大に勇み立ち、所々に於て巾著︀切大勢を叩き殺︀せしかば、九月中旬には世間穩にな
りぬ。
九月初より堺にては住吉の御旅所に、百姓共廿人計り出來り、御千度と稱して怪し
げなる踊なせしが、後に市中一面になり每夜大踊をなす。{{仮題|投錨=住吉の踊|見出=傍|節=u-4-23-q|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}其樣白き木綿の衣裳を
著︀て、頭に火を燈したる蠟燭を立てゝ、浮かれ踊る事なりといふ。初の程は斯くの
如き事なりしに、後には羅紗・猩々緋・縮緬・天鵞絨の類︀にて衣裳をなし、大浮かれに
浮かれ踊るを、御奉行よりも之を制する事なく、却つて奉行所へ出來りて踊れかし
と外より內々の噂ありしといふ。又日延を願出でしかば、「日限に及ばず行く所迄行
くべし。踊り止まば夫を日限とすべし。夫迄勝手次第に踊るべし」と、與力よりい
ひ渡せしといふ。怪むべき業なり。こは順慶町播磨屋庄兵衞とて、彼の地に緣あ
る者︀の方にて確かに聞けり。堺にても「こは狐の宮上りにあやかさるゝ事ならむ」
{{仮題|頁=170}}
と、心ある者︀共は專ら評判すといへり。
{{仮題|細目=1}}
天保三辰年八月十九日町奉行榊原主計頭樣被{{二}}仰渡{{一}}
申渡書
異名 鼠小僧︀{{仮題|投錨=鼠小僧︀の判決書|見出=傍|節=u-4-23-r|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}
無宿{{仮題|添文=1| 治郞吉|辰三十六才}}
其方儀、十年已前未年已來、所々武家屋敷二十八ケ所度・數三十二度塀を乘越、又者︀
通{{仮題|編注=1|才|用カ}}門ゟ紛入、長局奧向へ忍入、錠前をこぢ明け、或は土藏之戶を鋸にて挽切、金七
百五十一兩一分・錢七貫五百文程盜取遣捨候後、武家屋敷へ這入候得共、盜不{{レ}}得候
處被{{二}}召捕{{一}}、數ケ所に而致{{レ}}盜候儀は押包み、博奕數度いたし候旨申立、右依{{レ}}科入墨︀之
上追放に相成候處、入墨︀を消紛し猶惡事不{{二}}相止{{一}}、猶又武家屋敷七十一所・度數九十
度、右同樣之手續に而長局奧向へ忍入、金二千三百三十四兩二步・錢三百七十二文・
銀四匁三步盜取、右體趣仕置に相成候。前後之盜ケ所都︀合九十九ケ所・屋敷百三十
二度之內、屋敷名前失念又者︀不{{レ}}覺、金錢不{{レ}}得{{レ}}盜<sup>茂</sup>有{{レ}}之、凡金高三千百二十一兩二
步・錢九貫二百六十文・銀四匁三步之內、右金五兩・錢七百文者︀取捨、其餘者︀不{{レ}}殘酒食
遊興又者︀博奕を渡世致、同樣在方所々<sup>江茂</sup>持參不{{レ}}殘遣捨候始末不屆に付、引廻之上
於{{二}}淺草{{一}}獄門申付候。
右御詮議掛り與力
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=9em|margin-right=1em|array=
杉浦紀十郞 三村吉兵衞 中島嘉右衞門 {{仮題|添文=1| 神︀田武八|同心}} 高木又兵衞
橋本左平治 近藤八兵衞 立羽︀榮五郞 神︀田吉十郞 櫻田八十右衞門
}}
評判
右異名鼠小僧︀引廻之節︀・{{r|顏|かほ}}に薄化粧を致し、著︀服者︀上に黑麻帷子、下に更紗、帶は
八{{r|端|たん}}にて珍敷事也。
又芝居者︀之內に者︀、右小僧︀に大恩義を受たる者︀多しといふ。夫故にや十九日・一日
芝居休といふ。
又品物は{{r|薩張|さつぱり}}盜取らず、且又町家へは一度もあたり不{{レ}}申、武家屋敷計りへ這入り
{{仮題|頁=171}}
金銀錢のみ取り候大盜、近來の珍事なり。
{{left/s|1em}}
右田中耕八兵衞より委曲申越候趣、相記し置き候なり。諸︀大名悉く右盜人に
過ひ候事{{r|淺猿|あさま}}しき事なり。世の中に大名程、役に立たぬ者︀はなし。其祿を食
む士共是にて推計るべし。嗚呼太平なるかな。笑ふべし{{く}}。
{{left/e}}{{left/e}}
九月十一日勝山大風雨、{{仮題|投錨=勝山大坂の大風雨|見出=傍|節=u-4-23-s|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}{{r|暴|にはか}}に五尺計り出水にて、梁掛り中仕三人流死すといふ。此
日大坂も同樣の風雨にて洪水なり。川口の築出・天保山の石垣大に損じ、新に植ゑ
たる竝木悉く倒る。西宮にては陂塘悉く波にて引潮に取行きしとなり。
鼠小僧︀といへる賊の事は、是迄專らいひ觸らして其噂高き事にて、久富覺了が娘鷹
司の姬の附人となりて、蜂須賀へ入輿なりしが、蜂須賀の奧向へは兩度迄入りしと
いふ。大坂川口與力首藤四郞右衞門が實況を慥に聞きしとて、予に語りぬるには、
すべて賊へ仰渡されの始末にて、賊を召捕つて差出したる諸︀侯の名をば忘れしが、
何分小大名の樣に覺えたり。{{仮題|投錨=鼠小僧︀捕縛談|見出=傍|節=u-4-23-t|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}此賊、此屋敷奧向へ忍び入りしを、更に之を知る者︀な
かりしに、一人の女ふと目を覺して、密に殿へ吿げしかば、其殿起出でて近習の者︀
共を引起し、召捕にかゝりしかば、賊は少しもわるびれたる事なくて、「是迄斯樣に
盜して世を渡りぬる事なれば、召捕へらるゝ事は素よりの覺悟なり。されども陪
臣の手には決して捕へらるまじく思ひしに、大名の直に召捕へらるゝ事故、此場を
逃るゝの心なし。故に少しも{{r|手向|てむかひ}}せざれば早く繩掛けよ」とて、尋常の事なりしと
いふ。夫より公儀へ御差出となりて、御吟味ありしにぞ、これ迄忍び入り盜み取り
し屋敷を悉く白狀せしかば、其屋敷々々の留守居を悉く召出さる。盗取られし屋
敷屋敷留守居共は、鼠小僧︀といへるは、是迄江戶中大に評判ありし盜人にて、此度
召捕られしかば、其噂高きにぞ、「一々彼の賊白狀をなして、此方共の屋敷にて物取
りし事相分りて、公儀より御糺あるべし、如何樣に御糺ありとも左樣の覺之なき由
に申すべし」とて、留守居一統の申合なりしといふ。果して白狀の上、何れも呼出さ
れしが、不外聞の事なれば、定めて一應にては申すまじく、斯かる事もあらむかと
思召されし事にや、留守居共一人々々、{{r|間|ま}}を違へて召出し御尋ありしに、何れも兼
ねて申合せし事なれば、「知らぬ事にて賊に遇ひし事、更になし」と申募りしに、中に
{{仮題|頁=172}}
一人は包み難︀しと思ひしにや、有の儘に申上げ、一人は、「成る程先年左樣なる事も
御座候ひしか共、畢竟表方の事にては之なく、奧向の金子にて、取られしとて苦しか
らぬ金子故、御屆申さゞりし」といひしとぞ。金子に入らぬ金子・取られて苦しから
ぬ金子といふ事もあるまじく、{{r|可笑|をかし}}き答なりといふべし。右兩人斯樣に申上げし
かば、外々の留守居も今は包難︀くして、皆々有體に盜まれし趣申上げ、事明白に分
りしといふ。
十月下旬勝山の家老戶村惣右衞門、江戶より歸り來りしかば、賊を召捕らへし諸︀侯
の名を尋ねしに、松平宮內少輔なりといへり。
{{left/s|1em}}
右の始末、餘りに拙くてをかしさ堪へ難︀きにぞ、落首をよみてこゝに書いつけ侍
る。{{仮題|投錨=鼠小僧︀に就て落首|見出=傍|節=u-4-23-u|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}
{{left/s|2em}}
鼠てふわがかひとりの小{{r|盗賊|どろぼ}}に弓矢の手竝見さがされぬる
金取られ淚ながらに押し包む其こゝろ根のをかしくぞある
百の諸︀侯盜まれし數は百廿二二三度逢ひし馬鹿も有るらむ
捨札に晒せるはぢの大名は世々をふるとも消ぬるものかは
武威は無威武德は不德と知られけり盜賊に逢ふ間ぬけ大名
ねずみ捕りし猫にひとしき大名を鬼神︀の如くいふも可笑
鼠てふ賊捕へしとだいみやうは治世なるかな治世なるかな
{{left/e}}{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
琉球人來朝、當四月彼の國を出帆して、十月廿日大坂薩州の藏屋敷へ著︀す。正使の
船は小笠原大膳大夫命ぜられて之を出し、{{仮題|投錨=琉球人の來朝|見出=傍|節=u-4-23-v|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}副使の船は松浦肥前守・龜井能登守より
之を出し、下官の船は佐土原より之を出し、何れも家々の船印を立て、薩州の家老
之を警固し、町奉行所よりも與力・同心大勢、船にて之を固め、薩州の屋敷船上りの
場所は、東西共に矢來にて結切り往來を固む。兩側ともに見物の男女大に群集し
て、川中迄船を浮べて是に充滿す。町每に木戶を締切り、{{仮題|分注=1|川筋計り|なり。}}橋の近きは悉く往
來を止め、至つて嚴重の事なり。同廿四日屋敷より船にて伏見へ上る。同樣の事
なり。川筋は勿論伏見迄見物打續きしといふ。又伏見・醍醐等へは宮樣・御攝家・堂
{{仮題|頁=173}}
上方御見物に御出あり。仙洞樣にも密〔{{仮題|分注=1|々脫|カ}}〕御幸ありしといふ。薩州侯には九月廿
日頃より伏見の屋敷にて待合されて之を引連れ、三日先へ立つて、參府ある事なり
といふ。御老中にては松平周防守殿、この掛を命ぜられて、立派に屋敷の普請をな
し、新に球人を入るゝ座敷等を建てられしに、九月晦日、御同役水野越中守殿より
出火にて悉く類︀燒す。球人參府迄には本の如くに普請仕上げざればなりがたき事
故、大混雜なりといふ。正使は薩摩にて死にしかば、副使繰上げになりしといふ。
外にも途中にて死人三四人もありし由、總人數九十七人なりといへり。
九月より十月下旬に至るまで風邪一般に流行、{{仮題|投錨=風邪流行|見出=傍|節=u-4-23-w|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}戶每に一人も病臥せざる者︀なし。月
は異なりと雖も、大體天下一統の事なりといふ。
十月兵庫高田屋〔嘉兵衞〕オロシヤに往きて、是迄每度米を交易せし事露顯す。こは
オロシヤより度々日本へ來り、{{仮題|投錨=高田屋嘉兵衞交易露顯|見出=傍|節=u-4-23-x|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}交易の事を願へども聞入なき故、「然らば何故日本人
は我が國へ來りて交易するや。我が國にては之を許してなさしむる事なるに、我
が國より日本へ來れる事を許されざる事、其理に背ける由」申すにぞ、「日本より是迄
遣したる事、更になし」と答ありしに、「高の字の親の船印にて斯樣々々の船なり」と
いへるにぞ、御吟味ありしに、高田屋が仕業にて松前候の計らひなる由分明に分り
しといふ。こは阿蘭陀人より委しく申出でしといへる由、木屋二郞右衞門が咄なり。
閏十一月中旬の頃より、伏見町の者︀竝に明神︀おろしと稱して、狐を祀れる者︀などの
いひ出でし由にて、當月廿六・七・八日三日の間に、船場殘らず燒失すべしと大にいひ
觸らし、何れも是におだてられ、晝夜とも安き心なく騷々しき事なりしもをかし。
近來盜賊頻︀に徘徊し、{{仮題|投錨=盜賊の徘徊|見出=傍|節=u-4-23-y|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}白晝に小家の留守を考へ、錠前をこぢ明け物盜み取る。白晝
斯くの如くなれば、夜は最も甚しといふ。齋藤町にても小家のみ十四五軒にも入
りしが、後には何れも申合せ心を配りしにぞ、篠崎長左衞門が借家・三井三之助が借
家と二軒へ入り〔{{仮題|分注=1|し脫|カ}}〕何れも召捕りて差出す。騷々しき有樣なり。
{{仮題|投錨=天保四年雜記|見出=中|節=u-4-24|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}
天保四癸巳年
{{仮題|投錨=琉球人出帆|見出=傍|節=u-4-24-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}
正月四日、琉球人江戶より歸り來り、同八日出帆す。{{nop}}
{{仮題|頁=174}}
春來大罪を犯す者︀多く、所々に毒殺︀等ありて、火罪・磔絕ゆる間なし。歎ずべき有
樣なり。
酒井雅樂頭四つ足門を建てゝ、{{仮題|投錨=酒井雅樂頭閉門|見出=傍|節=u-4-24-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}井伊掃部頭に咎められ、水戶侯より{{仮題|編注=1|祭當|本ノマヽ}}入て返答な
りがたく、早々門を潰して閉門なりといふ。
三月京都︀東本願寺、江戶へ下り、四月木曾路を歸り上りしを、百姓・町人大勢見物に出
でしに、四月九日大地震にて山崩れ、巖石飛落ちて人多く死す。夫より尾張の領地
に入り來りし處、昨年の材木一件にて百姓大勢一揆をなし、銘々竹槍を持ち紙幟を
樹て、門跡へ直に對面し、家老下津間兩人を受取り打殺︀さむとて大騷動す。內通の
者︀ありて、此事前以て知れしかば、二三日前に家老共は、下賤に身をやつし逃れ歸
りしといふ。一揆の者︀共、尾州より召捕られ大勢入牢す。本願寺は夫より城下に
到りしに、法義の事にて尾州講中より差込まれ、返答をなす事能はず、這々の體に
て歸京すといふ。{{仮題|投錨=本願寺の珍事|見出=傍|節=u-4-24-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}又八月上旬より本山の普請棟上始まりしにぞ、大勢群集して參
詣す。然るに門倒れて是にしかれ、兩人死する者︀あり。怪我人其數知れず、大騷動せ
しといふ。此妖僧︀の爲に天下に傷害せらるゝ者︀少なからず。憎︀むべき事なり。
一、奸人、公家衆を欺き引出して、三本木料理屋に於て芝居をなさしめ、密に疊一枚
金二百疋づつに賣付け、大勢見物を引受けしといふ。是れ公家の風野鄙になりて、
近來好んで芝居なして之を樂しみとなすといふ。{{仮題|投錨=公家衆の芝居|見出=傍|節=u-4-24-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}惡徒に欺かれ忍出で、密に芝居せ
し等、以の外の事なりといふ。疊を賣り金を取れる事など、公家は一向に知る事な
し。奸人共忽ち召捕られ入牢せしとなり。古今未曾有の事共なり。
一、四月九日午の刻大地震、四年前の大地震よりも强き樣に覺ゆ。同日申の刻少震、
同酉の刻大に震ふ。{{仮題|投錨=地震|見出=傍|節=u-4-24-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}同十五日初更地震す。京都︀は當所より震强く、其數も亦多かり
しといふ。同廿五日申の刻大風、瓦を飛ばし樹枝を折る。
當年は米價高く一揆等にて騷々しく、{{仮題|投錨=後車戒|見出=傍|節=u-4-24-f|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}何か事多き故に、後車戒と題して一歲の事記
しぬれば、總ての事は是に讓りてこゝに略しぬ。長州の一揆も大變の事にて煩雜
なるが故に、此書には略記して、{{仮題|投錨=戮倒產物役所|見出=傍|節=u-4-24-g|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}別に戮倒產物役所と題して委しく記し置きぬ。其
餘の事も總べて辰・巳兩年の事は、右の二書に書添へて置きぬ。之を見てその詳な
{{仮題|頁=175}}
る事を知るべし。
{{仮題|投錨=天保五年雜記|見出=中|節=u-4-25|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}
天保五甲午年
當年も昨年よりの續にて、騷々しき事のみなれば、後車戒の卷末に書續け置きぬ。
{{仮題|投錨=天保六年雜記|見出=中|節=u-4-26|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}
天保六乙未年
春より寒氣烈しく、家によりては四月に至れども、尙炬燵ある程の事なりし。三月
十三日暴雨大雷、大坂にて三ケ所、龜山にて五六ケ所、京都︀にて五六ケ所落つる。
總て舊冬よりして雨降らず。此時の雨暫時なれども、少しく濡になりしといふ。龜
山などは、正月中旬の頃より井水悉く盡きて、飮水に事を缺き諸︀人大に{{r|困|くる}}しむとい
ふ。{{仮題|投錨=三日ばしか|見出=傍|節=u-4-26-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}斯くの如く時候不順なれば、諸︀國一樣に風疹を病む。世人之を名づけて三日
ばしかといふ。桃花漸く三月の半過に至りて盛んなり。{{仮題|分注=1|〔頭書〕三月十二|日暴雨大雷。}}七月に閏月あ
れば、時候の後るゝはさもあるべき事なれ共、麥・菜種など至つて不作なり。四月朔
日申の刻より雨降出し、四日の夜まで降つて至つて大雨なり。二日の夜は大風な
りし。
三月十七日寅の刻、堀江宇和島橋南詰出火、南堀迄燒拔くる。方四町計り。
同廿三日、{{仮題|投錨=各地の出火|見出=傍|節=u-4-26-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}天滿源藏町失火、同廿四日晝過より{{r|雜喉場|ざこば}}失火、方四町計り。今日迄に所
所に少々づつの手過あり。京都︀・江戶其外東海︀道の宿々・播磨等所々に大火あり。
加州金澤最も大火なりといふ。
四月廿一日寅の刻地震、當月は雨天續なり。五月十五日洪水
六月、肥前鍋島の城殘らず燒失。{{仮題|分注=1|〔頭書〕肥後國八代にて|家中同士大騒動あり。}}
同廿九日辰の刻より大雨大賞終夜大風して海︀上{{r|大荒|おほあれ}}破船其數知れず。仙臺の船
計りも三十餘艘覆る。奧州津波。大坂にても所々の堤切込み、川水一時に增す事四
尺計り。
土用中天氣申分なく照り續き、氣候至つて宜しく豐年の樣子なりしに、堂島の奸商
頻︀に流言をなし、{{仮題|投錨=奸商の流言|見出=傍|節=u-4-26-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}「北國洪水、土用中雨續にてやう{{く}}三日ならでは天氣なし。斯く
ては皆無ならむ」などいひ觸らし、頻︀に米價を引上ぐる。同晦日より七月二日まで
{{仮題|頁=176}}
至つて冷かなり。洪水出づ。
七月十四日、天滿樽屋橋出火。
同十四日、江戶に於て姬路家中山本三右衞門女親の敵を討つ。
十八日、福︀島眞砂橋南失火。十九日迄は時候少しも申分なし。今日より暴に冷か
なりしかば、好商大に時を得て、頻︀に米價を引上ぐる。
閏七月五日夜より風吹出し、六日午の刻より風雨烈しく、夜に入り彌〻甚しく、所々
の堤切込み人家大に損ず。{{仮題|投錨=各地の風雨|見出=傍|節=u-4-26-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}天保山も一面の水となり、南方の石垣大に崩る。此日海︀
上一樣に大荒にて、備前・備中・播州地最も甚し。破船・人死大層の事なりしといへり。
七月上旬より大和八木とやらんいへる所に、黑犬牡牝狂犬となりしが、後には郡山
へ出來りて人を喰ふ事四十六人、{{仮題|投錨=郡山の狂犬狩|見出=傍|節=u-4-26-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}其中六人は卽死にて、一人は其死骸さへ知れざり
しといふ。之に依つて郡山一家中、弓・鐵炮・槍・長刀等を持ち、領中の狩人は申すに
及ばず、百姓・町人に至るまで悉く騷立ち狩立てしかども、容易に手廻る事なくして、
漸と閏七月廿三日に至りて二匹の犬を打殺︀せしといふ。僅か二匹の狂犬をさへ、
斯樣に騒動して漸と五十餘日を費し、辛うじて打殺︀しぬ。若しも人間兩三人にてあ
ばれ廻らば、嘸大騷動に及びなむと思はる。笑ふべき事なり。{{仮題|分注=1|〔頭書〕郡山家中の者︀も大|勢噛みつかれしといふ。}}
筑前侯には、勝手向宜しからざる所より領內の醫を引出し、四百五十石を與へ士に
取立て、白津用左衞門と名乘らせ勝手方を命じ、萬事是が計らひにて領中に課役を
申付け、{{仮題|投錨=筑前侯の勝手向不如意|見出=傍|節=u-4-26-f|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}大坂にて館︀入の町人鴻池・加島屋を始め、悉く此等を踏倒し、{{仮題|分注=1|〔頭書〕筑前より役人來り、大坂の館︀
入を倒せしは閏七
月の事なりし。}}新に天王寺屋忠左衞門・{{r|錺|かざり}}屋六兵衞・出雲屋孫兵衞などいへる者︀を引
出し、新法を立てしに、忽ち領中に變を生じ、百姓一揆の催あり。大坂へ運送せし米
も直安にならでは買人なく、忽ち大手支となりぬ。{{仮題|投錨=四藏物|見出=傍|節=u-4-26-g|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}是迄は大坂にて四藏物と稱し、
筑前・加賀・安藝・長州をば代る{{く}}建物なりしに、此度銀{{仮題|編注=1|主|本ノマヽ}}を悉くへたり。年々上し
來りし十萬石餘の米を{{r|納家物|なやもの}}となし、勝手に賣捌かむとせしかども堂島の手を離
れて納家物の事なれば、一度に多く買ふ者︀なく、其上直段をも相場よりも五六匁づ
つ落さる。されども賣らざれば、江戶の仕送もなりがたく、之を賣りしとて少々づ
つの事なれば、大に手支に及ぶ樣になりて、必死とつまらざるやうになりて、家老
{{仮題|頁=177}}
はいふに及ばず、白津用左衞門も忽にしくじりぬ。さればとて人氣一統に損ねぬ
る上なれば、今更如何ともなし難︀くて、大に困れる有樣なり。笑ふべき事なり。
八月中旬奧羽︀大雪降る。此頃迄も北國・東國總て風水の變あり。「北國は土用中降續
き、やう{{く}}三日ならでは天氣宜しき事なく、其上風水の變ある故皆無なり」などい
ひ觸らし、{{仮題|投錨=風水害に依りて米價騰貴|見出=傍|節=u-4-26-h|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}段々と米價を引上げしに、此節︀に至り北國七分作の取入ならむといふ事、
慥に世間の人も、聞知れる樣になりしかば、忽ち事をかへて、「是迄豐作なりと云ひし
九州・中國等取入れぬるに、思の外實入なかりし」など言觸らし、又々米價を引上げぬ
る樣になりて、肥後米九十二三匁となる。餘は是にて知るべし。奸商の業惡むべ
し惡むべし。
同八月の事なりしか、美濃一國百姓一揆を起し、公領・私領ともに御陣屋・城下等へ
竹槍にて詰寄る。{{仮題|投錨=美濃國の百姓一揆|見出=傍|節=u-4-26-i|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}こは御代官靑木何某・大垣・加納其外の役人・庄家など馴合ひ、川筋
是迄水損ある故、堤の普請をなし、已來少しも水損の患なき樣にせむとて、夫々の
領內へ悉く課役をかけ金子三千兩取集め、二千兩を各〻懷になし、千兩にて渡し普
請をせしといふ。然るに當秋洪水出でしに、新に築きし堤悉く切れて、水損是迄に
十倍す。こゝに至つて役人共の私欲明白に相分り、百姓一統起り立ちしといふ。
さもあるべき事なり。終に私欲せし者︀共數十人、關東へ引かれしといへり。
十月廿一日夜、安堂寺町・八百屋町より失火、南長堀へ燒拔け、北順慶町南側迄、東は
橫堀を越え谷町より東へ燒拔ける。
同十一月廿二日二更より、東町橋東曲りの邊より失火、本町筋南側東迄殘らず燒失。
御城代中屋敷北手三分通燒失、此處にて火鎭まる。{{仮題|投錨=大坂失火|見出=傍|節=u-4-26-j|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}南は兩替町迄燒拔け、御祓筋よ
りは農人橋筋へ燒出し、北側殘らず燒失、御城代中屋敷にて止まる。
近來所々火付多く騷々しき事共にて、火付致し候者︀四十人計りも、召捕られしとい
ふ噂あり。町々の番も是より至つて嚴重となる。
{{仮題|細目=1}}
但馬出石城主仙石道之助{{仮題|分注=1|知行五萬八千石。仙|石權兵衞が家なり。}}家老仙石左京、先君越前守殿を毒殺︀し、又
當主をも殺︀し、己が子を以て主家を押領せむと謀り、大勢同意の者︀を拵へ、已に大變
{{仮題|頁=178}}
に及ばむとす。其事露顯いたし公儀御裁許となる。種々の風說あり。村岡山名の
家老澤山義兵衞より委しく聞ける事あれども、{{仮題|投錨=仙石左京の謀叛|見出=傍|節=u-4-26-k|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}事煩しければ之を記すに及ばず。斯
かる大變なれば、定めて外より委しく書記す事あるべし。こは神︀谷轉召捕られて
後、追々公儀の御手に渡り、夫々御吟味中の事を、江戶より申越しぬる書付の寫に
して、其始めなれば事を分つに至らず。
{{仮題|添文=1| 仙石左京|國家老}} {{仮題|添文=1| 神︀谷七五三|江戶詰年寄}}
{{仮題|添文=1| 神︀谷轉|御分家仙石彌三郞殿附人<br/> 神︀谷七五三弟}}
右轉儀、致{{二}}出奔{{一}}一月寺門弟に相成、友鵞と致{{二}}改名{{一}}虛無僧︀に相成候を、筒井伊賀守
殿組之者︀召捕、揚り屋へ入る。右之左京家老職相勤、其外年寄と唱へ重役荒木玄蕃
を初多人數相黨、同心無{{レ}}之者︀役儀取放し或高減、亦者︀永之暇申付、自分子息者︀松平
周防守殿御舍弟松平主稅殿と緣組いたし、其息女を貰ひ候手續を以、去る子年出府
之節︀、金子千兩音信に差出し御役家へ取入、左京威勢增長仕候上、彼綠續を以左京
目通り仕候趣、然處仙石家勝手役河野某と申者︀、左京謀惡年寄中へ內密申吿候段、左
京承及候由、河野氏の少々仕落を沙汰し暇申付る。神︀谷轉此河野と無二之懇意故、
內密之事申遣候段、此節︀左京へ相吿候者︀有{{レ}}之、復河野氏も早速召捕入牢申付、嚴敷
責問候處、轉ゟ申越候樣始末申立候間、轉儀早々國元へ罷越候樣、江戶表へ申來候
に付、轉者︀內通露顯を察し、其夜出奔行衞未不{{レ}}知、同人兄神︀谷七五三國元へ呼寄せ
行衞嚴敷尋申付、尙又江戶表へ申來る。轉儀は麻布六軒町柔術之師澁川伴五郞世
話を以て、一月寺へ致{{二}}法入{{一}}虛無僧︀と成居候を聞屆け、左京指圖を以江戶留守居依
田市右衞門・河野丹治ゟ、筒井伊賀守殿用人へ轉召捕引渡之儀懸合賴入則六月十三
日橫山町往還にて被{{二}}召捕{{一}}、仙石家へ引渡に被{{二}}申付{{一}}候。轉儀右之樣子申立、於{{二}}奉行
所{{一}}吟味受度旨强而申立る。是不{{二}}容易{{一}}筋に付、揚り屋入被{{二}}仰付{{一}}、當時內糺中に有{{レ}}之、
越前守去る子年於{{二}}國元{{一}}俄に致{{二}}病死{{一}}候始末、左京毒殺︀仕候儀に有{{レ}}之、當主幼年に付
是又毒殺︀之上、左京自分之子息を可{{レ}}致{{二}}家督{{一}}謀計にて、旣に隨意之者︀夫々立身させ、
忠義之者︀は追々役儀召放し、隨意之者︀へは金銀を貸遣し立身爲{{レ}}致、其上領分へ者︀用
金申付、多分之金子取立相貯有{{レ}}之謀惡之旨申立。{{nop}}
{{仮題|頁=179}}
右之通有{{レ}}之風聞記し差上申候。已上。 岡幸藏
九月五日呼出
{{left/s|2em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
{{仮題|行内塊=1|仙石左京|家老}} 山本新兵衞 {{仮題|行内塊=1|荒木玄蕃|年寄}} 岩田靜馬 岩井源四郞
長谷川淸右衞門 小川八右衞門 鵜野甚助 生駒主計 本間源太夫
市浦良藏 大鹽甚太夫 田中伊兵衞 久保吉九郞 中西儀右衞門
西村門平 佐治左吉 廣田幾二郞 宇野長兵衞 麻見四郞兵衞
猪︀俣源二郞 村瀨岩二郞 西田善七 堀田喜十郞 早川保助
白井廣之助 酒勾淸兵衞 岩田丹太夫 中澤喜右衞門 西山平右衞門
杉山平兵衞 鷹取已百 2:杉原官兵衞{{仮題|添文=1|但病氣に付き|差添人付}} 長谷川勢右衞門
2:中西義右衞門 {{仮題|添文=1|靑木彈右衞門|左京家來}} 西頭喜七
}}
以上三十七人、{{仮題|行内塊=1|江戶仙石屋|敷留守居}}依田市右衞門附添出る。
{{left/e}}
御懸り 脇坂淡路守殿
{{仮題|添文=1| 神︀谷轉事<sup>當時友驚</sup>|浪人}} 右者︀松平備中守殿へ閏七月ゟ御預け。
留守居 安田莊五郞 預り人 澤池權太夫 手替り 鈴田彌太夫
右友鵞召連差添出る。
九月十一日松平伊豫守殿へ御預之者︀共
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
仙石左京 市浦良藏 荒木玄蕃 松山平兵衞 長谷川勢右衞門
酒勾淸兵衞 杉浦官兵衞 鵜野甚助 廣田幾太郞 山本耕兵衞
}}
以上 右伊豫守殿御留守居山田權右衞門被{{二}}召出{{一}}御預申守。
{{left/e}}
九月十二日呼出御調入牢人
{{仮題|添文=1|大塚︀甚太夫| 六十八歲|}} {{仮題|添文=1|西村門平|| 六十歲}} {{仮題|添文=1|鷹取巳百| 六十四歲}} {{仮題|添文=1|早川保助|| 五十三歲}}
同十三日入牢人
{{仮題|添文=1|岩田靜馬|| 四十五歲}} {{仮題|添文=1|杉原官兵衞|| 六十八歲}} {{仮題|添文=1|靑木彈右衞門|| 六十歲}} {{仮題|添文=1|山本耕兵衞|| 三十歲}}
同十九日入牢人
{{仮題|添文=1|岩田丹太夫| 五十一歲}}
同二十日同斷{{nop}}
{{仮題|頁=180}}
{{仮題|添文=1|鵜野甚助|| 四十五歲}}
以上追々御調有{{レ}}之<sup>九月廿八日巳刻</sup>
櫻田方角{{仮題|分注=1|仙石道|之助代}} 九月十三日 牧野越中守
九月十五日 <sup>不快</sup> 松平周防守 助御用番 大久保加賀守<sup>周防守殿出勤迄</sup>
十月周防守御役御免︀帝鑑間被{{二}}仰付{{一}}、十一月閉門。
同十二月九日落著︀
{{仮題|行内塊=1|美濃守事|仙石道之助}} {{仮題|添文=1|名代| 能勢惣右衞門}}
家政不行屆家來御仕置被{{二}}仰付{{一}}、知行二萬八千石減知被{{二}}仰付{{一}}。
{{仮題|行内塊=1|松平周防守}}{{仮題|添文=1| 千村彈正少弼|名代}}
隱居蟄居被{{二}}仰付{{一}}家督領知替之儀、追而嫡子左近將監へ被{{二}}仰付{{一}}、居屋敷三日之內引
拂被{{二}}仰付{{一}}候。
閉門 {{仮題|添文=1| 左近將監|周防守忰}} {{仮題|添文=1| 深津彌七郞|名代}} {{仮題|添文=1| 松平主稅|若寄合}} <sup>名代</sup>{{仮題|添文=1|{{仮題|囲={{sgap|5em}}}}|原本闕ク}}
隱居蟄居被{{二}}仰付{{一}}、知行家督之儀追而忰可{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}候。
{{仮題|添文=1| 曾我豐後守|御勘定奉行}}
御預け御免︀閉門
{{仮題|投錨=判決|見出=傍|節=u-4-26-l|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}
死罪獄門 仙石左京 {{仮題|行内塊=1|八丈ケ|島遠島}} 忰小太郞
死罪 岩田靜馬 鵜野甚助
重追放 靑木彈右衞門 杉原官兵衞
中追放 大森登 山本耕兵衞 岩田丹太夫
輕追放 淸水半左衞門 惠坂文右衞門
申口不{{二}}相分{{一}}に付、揚り屋へ差遣し。山田八左衞門
鷹取巳百 {{仮題|添文=1| 西村斧七|臺所奉行}} 主人へ引渡相應に咎申付候
構無{{レ}}之 {{仮題|添文=1| 生駒主計|御家老}} 荒木玄蕃 酒勾淸兵衞
一月寺へ引渡可{{レ}}任{{二}}寺法{{一}} 神︀谷轉事<sup>友驚</sup>
{{left/s|1em}}
右於{{二}}評定所{{一}}脇坂中務大夫・榊原主計頭・內藤隼人正・神︀尾豐後守・村瀨平四郞立會、
中務大夫申渡。
{{left/e}}
{{仮題|頁=181}}
{{left/s|2em}}
{{仮題|分注=1|○編者︀云、この後に捨札の寫其他あり、この騒動の事は後に再び詳しき記事ありて、そこのものと全く
重復する故削略せり。}}
{{left/e}}
十二月下旬、{{仮題|投錨=仙洞の御所賊に奪はる|見出=傍|節=u-4-26-m|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}仙洞樣より禁裏樣へ進ぜられ候御文を、使者︀途中にて賊の爲に奪取ら
る。前代未聞の事也。所司代・兩町奉行より嚴しき手當なれ共、賊相知れずといふ。
{{仮題|投錨=天保七年雜記|見出=中|節=u-4-27|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}
天保七丙申年
正月十日・廿五日今宮蛭子・天滿天神︀等にて、上町の惡徒沒落せし主家の女を見世物
に出し、陰門を晒し見物をして不良の業をなさしむ。其女之を大に歎き沸泣して
斷ると雖も、孤なるが故に之を呵責して、其業をなさしむといふ。惡むべき事なり。
二月上旬阿波座にて、廿九歲の男四歲の女子を犯し入牢す。其頃に至りて上町の
惡徒も召捕らる。此餘にも斯樣なる邪淫數多ありしといふ。斯くの如くなる事故、
アテヽンカといふ節︀にて、{{仮題|投錨=アテヽン節︀|見出=傍|節=u-4-27-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}甚しき淫歌流行し、町奉行より差留めらる。
同廿二日・三日兩日に、三度江戶大火。
{{仮題|編注=2|同三月|本ノマヽ}}十五日、昨年仙石一件に付、周防守奧州棚倉へ所替命ぜられ候に付き、井上
河內守殿館︀林へ來られ、松平左近將監殿濱田へ所替となる。
同廿四日申の刻大に暴風雨半時計り、四月二日申の刻大風雨。
三月十六日、松平肥前守殿江戶發駕にて、川崎驛小休にて宿札を掛くる。折節︀一橋
卿大師へ御參詣あるにぞ、御家來の由にて田中熊藏・當麻平兵衞といへる者︀、組の者︀
六人召連れ本陣へ入來り、宿札御目障に相成る故取拂ふべき由申付くる。されど
も今小休の時刻なる故、{{仮題|投錨=一橋家來の狼藉|見出=傍|節=u-4-27-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}之を斷りしかば大に怒り、本陣の者︀共を大に打擲し、刀に
手を掛け宿札を土足にて踏倒し、大に狼藉に及びしかば、肥前守より留守{{仮題|編注=2|屋|居カ}}羽︀室市
右衞門を以て一橋へ掛合に及びしに、左樣なる姓名の者︀、此方家來になしとの其返
答なりしかば、水野越前守殿へ其旨屆けられしといふ。大騷動なりしとなり。
{{仮題|細目=1}}
{{left/s|5em}}
享和二壬戌年伊州・西美濃江州・城州・攝河泉大洪水荒增聞見書之寫
幷京都︀大變
{{left/e}}
{{仮題|頁=182}}
一、去る六月廿七日夜ゟ雨降出し、廿八日・廿九日兩晝夜暫時之無{{二}}小止{{一}}暴雨暴風に
而、別而廿九日東北風强く乾風〔{{仮題|分注=1|に脫|カ}}〕相成、又々北東風に{{r|直|なほり}}候て益〻烈しく、伊州・西
美濃・江州・城州・攝・河・泉所々大洪水・出水大荒と相成、{{仮題|投錨=近畿地方の風水害|見出=傍|節=u-4-27-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}田畑は勿論寺社︀・人家押流し、
溺死・怪我人等夥敷有{{レ}}之趣、七夕迄追々承り及候處。東海︀道は鈴鹿山麓處々、北は中
仙道伊吹山麓處々山拔・山崩等有{{レ}}之、夥敷水吹出し、湖東之川も一同に出水、別而橫
田川筋・野洲川に夥敷、其餘之川々一統に出水にて所々方々堤切或は前落・切込等、
何方迚も無難︀之地無{{レ}}之由、水口ゟ東五日夕方迄聢か〔{{仮題|分注=1|と脫|カ}}〕路路も無{{レ}}之に付如何に
候哉、一向樣子不{{二}}相知{{一}}候。石部・草津宿等大荒にて、廿九日夜半頃草津川草津宿內
へ切込、本陣竝問屋等流失、潰家等四百軒餘、溺死夥敷候由。
{{left/s|1em}}
但旅人の溺死六七十人之由申候得共、流れ候向は一向に人數不{{二}}相知{{一}}、或は旅人は
流れ亭主逃退候族、溺死之掛り合に相成候を憚不{{二}}申出{{一}}候向も有{{レ}}之哉にて、家內
溺死三四百人と計申居候由。
{{left/e}}
中仙道にても、愛知川高宮・武佐・守山其外彥根御城下御領內、右同樣に荒損候由、依
て醒ケ井・柏原ゟ野洲川筋所々切込候內、{{仮題|投錨=中仙道の風水害|見出=傍|節=u-4-27-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}出庭・三宅・今宿へ切込强く、別而新川と相
成、本川筋却而水少相成候由、右之溢水守山宿ゟ今宿等多分流失・溺死人等も有{{レ}}之、
怪我人等も多有{{レ}}之由、右之水末赤野井・杉江・下物、南にては品中村・吉田等一面に水
押切開一つに相成候由。
{{left/s|1em}}
但阿州侯、當朔日大津御止宿之筈に候處、御通行不{{二}}相成{{一}}、武佐に三日御逗留、{{r|在道|ざいみち}}
御通り赤野井邊ゟ船にて大津まで御出浮被{{レ}}成候由、殊之外御難︀澁之由申居候。
水勢之烈敷儀者︀、守山宿稱名寺と申寺も流失、右之寺之釣鐘流れて杉江村湯川筋
へ流れ來、半ば土砂に埋れ有{{レ}}之、則見分之者︀見屆歸候處、凡長さ四尺計・差渡し二
尺五六寸も可{{レ}}有{{レ}}之哉に申候。石部宿一院之鰐口虹梁と共に、伏見へ流れ來候よ
りも、水勢烈敷有{{レ}}之候。又彥根御城下大石橋幅三間餘も有{{レ}}之候由、是又湖水へ
流出候由、其餘寺社︀・人家・建物等夥敷湖へ流れ出候數、限も不{{レ}}知候由申候。
{{left/e}}
右之通、湖水東之地方一面之水にて湖水連續致し、江陽之地にて悉湖に相成候哉と
待之事之由御座候。尤江北志津ケ嶽・姉川邊も出水、勿論大溝・高島・今津・貝津之邊
{{仮題|頁=183}}
も出水に候得共、湖水之溢水多候由。膳所の城も所々破損、北向・東向之分者︀白壁と
申者︀は無{{レ}}之、石垣等も損候由に御座候。大津表も地低之處者︀、湖水床之上下一二尺・
三尺にも及び候。立退候者︀も有{{レ}}之由、右者︀纔之儀にて、地高之處は石垣之上少々越
候迄にて相濟候得共、常水ゟは夥敷高水にて、逢坂山も山崩にて暫通路難︀{{二}}出來{{一}}、脇
道ゟ通ひ候由、右之外田上邊・右山邊處々山川有{{レ}}之地、悉出水不{{レ}}致所も無{{レ}}之、瀨田
の大橋も旣に危候處被{{二}}防留{{一}}候由〔{{仮題|分注=1|にて|脫カ}}〕無難︀有{{レ}}之由、石川筋黑津・關津之邊不{{レ}}{{仮題|編注=1|怪|輕カ}}出水
之由候得共、御供ケ瀨・獅々飛等之切所々々に被{{レ}}支候而、江州地方之出水急に落兼
候哉。勿論宇治・伏見・淀抔は聞ゆる水の名所にて候故、不{{レ}}輕出水に候得共、兼而覺
悟も有{{レ}}之出水と雖も、{{r|湛水|たゝへみづ}}にて水勢寬候故哉、宇治は大橋落候のみにて、端々人
家流失・溺死等は少々相聞え候。俄之出水故哉、堤切込候而も不{{レ}}及{{二}}堤之上{{一}}、七八尺・
一丈之水巨掠之大池一面に海︀の如く、川むかひ黃檗五ケ庄・六地藏・指月等悉一丈・二
丈と申高水にて、豊後橋も落候〔{{仮題|分注=1|も脫|カ}}〕同前、往來出來不{{レ}}申候。京橋中出島之邊は家之
上を船往來いたし候由、本陣・大家之向者︀二階住居いたし居候得共、皆々桃山の方へ
立退候由、淀は大橋之上にて八幡領切込、大橋者︀無難︀、小橋は南之方落候て通路不{{二}}
相成{{一}}。勿論御城之邊二丈餘之高水、御櫓二重目を越候由、御廣間・御居間邊襖引手之
上六七寸上迄水付候由、御船にて御住居、御家中も同樣船にて住居之由。然共積年
水に馴鍛鍊之事故、淀御城下に者︀一人も溺死も無{{レ}}之由、木津川出崎・橋本・葛葉其邊
堤之上一丈七八尺と申事にて、川向山崎邊にては離宮御神︀前迄水付之由、山崎町々
神︀足邊床上下迄水付候て、往來は出來不{{レ}}申。山崎ゟ西尙更一面之水にて大海︀のご
とく有{{レ}}之由、高槻邊・神︀崎川・中津川等所々切込、高槻は御城御門倒候由申候得共、實
說如何御座候哉。佐田・仁和寺・默野と申邊半道計も切込、河內國一面之水押にて所
所村々流失候由、宇治・伏見濱邊之逆水、木津川を溯候て河內へ出候由も申候。大坂
にても天滿橋・天神︀橋・葮屋橋等落候樣子は、荒々西廻り丹波路を越候て參候飛脚咄
候よし、荒々承及候得共、川陸通路無{{レ}}之に付、委敷樣子者︀不{{二}}相聞申{{一}}候。先々江州出
水之荒增あら{{く}}如{{レ}}斯御座候。是迚も委細之儀者︀一向不{{二}}相聞申{{一}}候。已上。{{nop}}
{{仮題|頁=184}}
{{仮題|細目=1}}
京都︀大變
七月晦日午時、{{仮題|投錨=京都︀の風害|見出=傍|節=u-4-27-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊6|錨}}西院村之邊ゟ丑寅之方一天曇り、烈敷白雨之氣色に相成候處、未申
之方ゟ丑寅之方へ向、惡風吹黑雲舞下り、千本通新屋敷邊、夫ら下立賣カ中立賣之
間大荒にて、家餘程吹崩し、勿論屋根之向は大體不{{レ}}殘吹めくり、夫ゟ東へ吹、一條通・
小川通角門抔引さけ、金もの等悉引拔、其近邊之家五六軒吹倒、段々に東之方へ吹、
近衞家御臺所大に損じ、二條家此頃普請御座候處、新御殿大半崩れ、久我家之屋根
大に損じ、折節︀普請御座候由にて、屋根へ上り居候者︀五六人卽死いたし候。冷泉家
之土藏之屋根銅にて包み有しを、一枚も不{{レ}}殘吹めくり、其外御殿向大荒れ、右近邊
之堂上方五六ケ所大損とて、夫ゟ今出川出町田中村へ吹拔、所々大損じ人馬等怪我
有{{レ}}之由、夫ゟ叡山へ吹付、虛空へ黑雲舞上り申候。尤所々にて怪我人夥敷有{{レ}}之、其
外戶・障子・屋根・俵物類︀色々樣々のもの卷上げ、瓦・屋根板飛致候事、誠に木の葉を
散らす如くにて、大騷動前代未聞の事に御座候。倂本家之邊は風も吹不{{レ}}申、何の障
も無{{レ}}之候て一同大慶仕候。右風筋は殊に火事場の如くにて、追々見舞之人走著︀申
候。尤西院村之方ゟ叡山へ向只一吹にて、暫時之間にて白雨も無{{レ}}之雲晴︀申候。全
く天狗の所爲と被{{レ}}存候。餘り珍事故御噂得貴意候。此度之{{仮題|編注=1|浩|洪カ}}水と同樣にて、噂
ゟは不{{レ}}輕大荒にて御座候。
{{left/s|1em}}
右風水の二大變は、予が在京せし時のことにして、直に見聞せし事なり。今悉く
其二事を書記せる父の手に入りぬる故、此所へ寫し置くものなり。
{{left/e}}
{{仮題|ここまで=浮世の有様/2/分冊6}}
{{仮題|ここから=浮世の有様/2/分冊7}}
{{仮題|頁=185}}
{{仮題|投錨=浮世の有樣|見出=大|節=u-5a|副題=卷之五(前)|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}
{{仮題|投錨=天保五年江戶大火|見出=中|節=u-5a-1|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}
{{仮題|投錨=江戶の大火|見出=傍|節=u-5a-1-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}
{{left/s|2em}}
天保五年二月七日、晝八つ時頃、神︀田佐久間町一丁目より出火、北風烈しく大
火に相成り、翌八日朝六つ時過ぎ鎭火。
{{left/e}}
{{Interval|width=15em|margin-right=1em|array=
3:一、火元佐久間町一丁目、時計師關市郞・三絃師何某、兩人の中に候へども、相分りか
ね申し候。 br
2:一、同所一丁目・二丁目・裏通河岸。 br
2:一、和泉橋南、元誓願寺町・豐島町殘らず。籾藏は殘る。 br
一、佐野大隅守殿 一、富田中務殿 一、石尾彥四郞殿
一、梶川淸三郞殿 一、市橋主膳頭殿 一、大澤彌三郞殿
一、森川由三郞殿 一、川口茂右衞門殿 一、細川長門守殿
一、淺草御門內迄 一、馬喰町一丁目 一、{{仮題|行内塊=1|小傳馬町・大傳馬町|牢屋敷邊殘らず。}}
2:一、神︀田紺屋町二丁目、地藏橋にて留る。片側殘る。 一、{{仮題|行内塊=1|本白銀町四丁目・本石町|二丁目より、四丁目迄。}}
一、{{仮題|行内塊=1|室町三丁目より、通一丁|目東側殘る。}} 2:一、{{仮題|行内塊=1|四日市河岸靑物町・材木町一丁目より、|三丁目・塗師町三丁目・一一丁目東側迄。}}
3:一、照降町・堀江町・暮屋町・長谷川町・富澤町・久松町・村松町・米澤町・兩國橋迄、
一、{{仮題|添文=1|牧野遠江守殿|高砂橋東}} 一、水野右京亮殿 一、小笠原大膳大夫殿{{仮題|行内塊=1|中屋|敷}}
一、船越駿河守殿 一、松本重治郞殿 一、津越中守殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷}}
一、一ツ橋樣中屋敷少々 一、牧野越中守殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷|少々}} 一、{{仮題|添文=1|水野壹岐守殿|飛火にて}}
一、新大橋過半 一、紀州樣中屋敷 一、{{仮題|行内塊=1|酒井出雲守殿|濱町蠣殼町}}
一、奧山主稅之助殿 一、本田肥後守殿 一、戶田大學殿
一、戶田近江守殿 一、宇野治郞右衞門殿 一、黑川內匠殿
一、{{仮題|添文=1|松平宮內少輔殿|土井堀}} 一、松島町 一、安藤內藏之介殿
一、永井求馬殿 一、大澤右近殿 一、吉良式部殿
一、大澤彌三郞殿 一、酒井雅樂頭殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷}} 一、道灌堀
一、松平越中守殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷}} 一、安藤對馬守殿 一、箱崎町
}}
{{nop}}
{{仮題|頁=186}}
{{Interval|width=15em|margin-right=1em|array=
一、戶田采女正殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷}} 一、土井大炊頭殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷}} 一、松平伊豆守殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷}}
一、久世謙吉殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷}}一、田安樣中屋敷は殘る 一、靈岸島殘らず
}}
{{nop}}
(但し松平越中守樣下屋敷類︀燒、御殿向き殘る。靈岸島と湊橋の間町屋少々殘る。)
{{Interval|width=15em|margin-right=1em|array=
一、北八町堀 一、{{仮題|添文=1|松平中務少輔殿||但し松平越中守殿殘る}} 一、九鬼大隅守殿
一、茅場町殘らず 一、牧野山城守殿{{仮題|行内塊=1|但し御財橋・中橋燒落ちる。}}
一、松平右近將監殿{{仮題|添文=1|中屋敷}} 一、松平阿波守殿 一、井伊掃部頭殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷}}
一、堀田式部殿 一、堀田主馬殿 一袋平內匠殿
一、{{仮題|行内塊=1|高橋・稻荷橋・中橋燒落ちる}} 一、{{仮題|行内塊=1|細川采女正殿|鐵炮洲船松町二丁目}}
}}
{{nop}}
同月八日
一、朝横山町出火、是は直に鎭火。土藏へ火入る位の事と、或人申され候。
一、あは{{仮題|左線=田舍越}}るか。
同月九日
一、暮六つ時頃、吳服橋外檜物町より出火。西南の風强く、曉八つ時頃鎭火。
西は堀を限り、北は一石橋・日本橋邊の河岸を限り、南は槇町邊を限り、東は燒け
殘り本町を掛け燒失。
{{left/s|2em}}
同月十日、辰の口西丸御老中松平伯耆守殿より出火。北風烈しく、大火に相成
り曉八つ時頃鎭火。
{{left/e}}
{{Interval|width=15em|margin-right=1em|array=
一、{{仮題|添文=1|松平伯耆守殿|飛火}}{{仮題|行内塊=1|長屋少々|殘る}} 一、松平丹波守殿 一、松平伊豫守殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷長|屋殘る}}
一、林肥後守殿 一、松平和泉守殿 一、松平能登守殿
一、松平三河守殿 一、京極大膳殿殿 一、松平土佐守殿{{仮題|行内塊=1|長屋少々|殘る}}
一、松平阿波守殿{{仮題|行内塊=1|長家少々|殘る}} 一、筒井伊賀守殿{{仮題|行内塊=1|東側長屋|殘}} 一、鍛冶橋御門燒{{仮題|行内塊=1|橋共}}
一、數寄屋橋御門燒{{仮題|行内塊=1|飛火|にて}} 一、{{仮題|行内塊=1|南槇町二丁目より、南傳馬|町一丁目より三丁目迄}} 一、桶町一丁目・二丁目
一、南大工町一丁目・二丁目 一、南鍛冶町一丁目・二丁目 一、五郞兵衞町一丁目・二丁目
一、具足町・柳町 一、京橋 一、銀座一丁目より四丁目迄
一、尾張町一丁目・二丁目 一、竹側町 一、出雲町
一、西紺屋町一丁目・二丁目 一、八間町西側殘らず 一、三十間堀{{仮題|行内塊=1|一丁目より|八丁目迄}}
}}
{{nop}}
{{仮題|頁=187}}
{{Interval|width=15em|margin-right=1em|array=
一、木挽町一丁目より七丁目 一、堀相模守殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷}} 一、板倉阿波守殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷}}
一、西尾隱岐守殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷}} 一、細川越中守殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷}} 一、諏訪伊勢守殿
一、松平周防守殿 一、狩野晴︀川 一、{{仮題|添文=1|芝田{{仮題|囲={{sgap|4em}}}}老|    蟲損}}
一、柳生但馬守殿 一、仙石彌太之助殿 一、松平陸奧守殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷}}
一、加納遠江守殿 一、宮原彈正殿 一、小口信濃守殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷}}
一、奧平大膳大夫殿 一、八丁堀殘らず 一、伊達紀伊守殿
一、新庄勝三郞殿 一、本田下總守殿 一、相川橋落ちる{{仮題|行内塊=1|但築地殘|らず}}
一、松平土佐守殿{{仮題|行内塊=1|中屋敷}} 一、松平備後守殿 一、松平飛驒守殿
一、桑山靱負殿 一、久松伊豫之介殿 一、稻葉金兵衞殿
一、橫田三四郞殿 一、中山主計殿 一、築地本願寺
一、小田原町一圓 一、紀州樣中屋敷 一、伊藤監物殿
一、安井元藏殿 一、本多八藏殿 一、戶川龍之助殿
一、石川强右衞門殿 一、花房長左衞門殿 一、三枝傳三郞殿
一、竹內惣左衞門殿 一、岩瀨市兵衞殿 一、上杉喜三郞殿
一、山本藤二郞殿 一、牧宇助殿 一、和田中務殿
一、松平淸之丞殿 一、木下嘉代之助殿 一、石川藏太郞殿
一、二の橋落ちる 一、稻葉貞之丞殿 一、多賀吉左衞門殿
一、渡邊久藏殿 一、大橋隼人殿 一、仙臺橋落ちる
一、脇坂中務殿 一、仙臺樣{{仮題|行内塊=1|御殿向き表|長屋殘る}} 一、芝口一丁目・二丁目
一、{{仮題|行内塊=1|芝口東木戶にて燒け留まる}}
}}
{{nop}}
〆
同月十一日
一、朝京橋出火。是は土藏火入ると、或人申され候。一軒にて鎭まる。
一、晝九つ時頃小石川水戶樣の御屋敷燒失。如何程の燒けか、委しく相分り申さず
候。未だ建ち揃ひ居り申さず候由。早朝も長家少々燒失御座候。
一、同刻駿河臺・小川町出火。幅は之なく候へども、二三丁燒候歟、飛火とも申事に御
{{仮題|頁=188}}
座候。奴人共風下に相當り申候へ共幾多間合有{{レ}}之、別火共申事に御座候。
一、暮過ぎ水道町服部坂御旗本位の御屋敷燒失。
同月十二日
一、船火事。
同十三日
一、夕七つ時過、本鄕追分片町と申所出火。暮時鎭火。其以前迄は風烈敷御座候處
靜に相成候間合、又夜に入風に相成り候間合能、纔にて相濟申候。
右此中火事の模樣如{{レ}}此御座候。一體甚以て物騷にて、附火所々に有{{レ}}之趣、近方麴町
抔も一昨朝も附火少々燒け候趣、扨々氣味惡敷恐敷事に御座候。日々風立ち騷々敷
事に御座候。何卒是切にて靜に相成所奉{{レ}}祈︀候。外方より御承知も可{{レ}}被{{レ}}成と奉{{レ}}存
候へ共、珍敷大火故寫し差上申候。御留守居樣・御內方樣方、未だ委敷御承知も不
{{レ}}被{{レ}}成候、{{仮題|囲={{sgap|5em}}}}申上候、被{{レ}}懸{{二}}御目{{一}}可{{レ}}被{{レ}}下候。書損數々可{{レ}}有{{二}}御座{{一}}候。{{仮題|囲={{sgap|2em}}}}
{{仮題|投錨=天保六年仙石騷動|見出=中|節=u-5a-2|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}
仙石身□武士
天保六年未七月
仙石彌三郞 {{仮題|行内塊=1|寄合衆|高四千七百石}}
<sup>附人</sup>神︀谷轉<sup>當時改名友驚</sup>
{{left/s|3em}}
右轉儀仙石道之助江戶奧詰年寄神︀谷七五三弟にて、當時致{{二}}出奔{{一}}、一月寺門弟
に相成友鵞と改め、虛無僧︀に罷成候を、江戶御町奉行筒井伊賀守殿御組より
召捕、當時揚り屋入に成申候。
{{left/e}}
右の趣意御糺に相成、轉より申立候は、當時仙石道之助幼年の處、家老職の內、仙石
左京我儘を以て、{{仮題|投錨=轉の揚り入屋|見出=傍|節=u-5a-2-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}年寄共重役荒木玄蕃を始め、左京隨意無之者︀は、役儀等取放、或は
減高、亦は永之暇申付、自分忰小太郞と申者︀へ、松平主稅樣{{仮題|分注=1|寄合衆高|五千石}}より緣組致、息
女を貰ひ受、同所手續を以、松平周防守樣へ館︀入致、御內々御面會も度々有{{レ}}之趣、依
{{レ}}之左京威勢增長致候。然る處、仙石家勝手役相勤候河野瀨兵衞と申者︀、左京謀惡の
儀年寄中へ內密申吿候段、左京へ物語候者︀有{{レ}}之、右瀨兵衞勝手向不行屆の段申付、
{{仮題|頁=189}}
差換へさせ申候。尤右瀨兵衞儀、私舊友にて、兼て懇意に致候に付、右左京行狀竝
に我儘の存心等、文通仕に付、又々此段、左京へ爲{{二}}相知{{一}}候者︀有{{レ}}之、卽日瀨兵衞を嚴し
く入牢爲{{レ}}致、拷問に及び候由、因て私へ申{{二}}白狀{{一}}候始末申立候哉と乍{{レ}}恐奉{{レ}}存候。猶
左京我儘の儀は、故隱居播磨守病死後、當主幼年、旁〻前段の通り、夫々重役・年寄共隨
意之者︀共へは立身爲{{レ}}致、不順の者︀は、追々重科申付候段、全忰小太郞を以家督に可
{{レ}}爲{{レ}}致深望と奉{{レ}}存候。
{{left/s|1em}}
但右轉申立一條は、趣意而已にて、具に難︀{{二}}書認{{一}}儀ども夥しきに付略{{レ}}之、尤河野瀨
兵衞拷問之上及{{二}}白狀{{一}}、轉に左京始末申遣し候に付、早速轉儀國元へ差越し候樣、
江戶表へ申來候に付、其夜俄に出奔致、行衞不{{二}}相知{{一}}候に付、兄神︀谷七五三を國元
へ呼寄、嚴敷責問候上、素より江戶地に罷在候旨、依{{レ}}之江戶表へ穿鑿、{{仮題|囲={{sgap|2em}}}}麻布
六軒町柔術之師匠澁川伊太郞世話を以て、一月寺へ法入いたし、虛無僧︀に相成候
段相知れ、仙石家江戶留守居依田市左衞門・河野丹次より御町奉行筒井伊賀守樣
用人へ賴込、轉儀を橫山町往來に於て召捕られ候上、仙石家に引渡可{{レ}}申旨申渡候
處、前段之趣意申立於{{二}}奉行所{{一}}吟味請度、再三申立候に付、不{{二}}容易{{一}}筋に付、揚り屋入
被{{二}}仰付{{一}}、御糺しに相成申候。
{{left/e}}
閏七月仙石道之助より差出候書付
一、私家來神︀谷七五三舍弟神︀谷轉と申者︀、{{仮題|投錨=仙石道之助神︀谷轉を乞ふ|見出=傍|節=u-5a-2-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}去午二月廿五日出奔仕候處、不屆之儀御
座候に付、奉行所へ御屆之上、尋申付處、召捕兼候間、同三月十七日御奉行筒井伊賀
守へ召捕引渡之儀申達候處、當四月廿日同人方へ召捕、吟味有之處 當國下總國一
月寺入弟仕、友鵞と改名、彼是申立候樣も御座候やに候處、私方に罷在候節︀之所業
{{r|而已|のみ}}にて、他の引合無{{二}}御座{{一}}、不屆者︀に付、召捕後、早速私方へ引渡と相成不{{レ}}申候て
は、家政取締にも拘候間、何卒私方へ引渡相成候樣仕度、此段申上候。已上。
閏七月廿一日 仙石道之助
{{仮題|行内塊=1|但於{{二}}此方{{一}}も御詮議之筋有{{レ}}之候間、當分難︀{{二}}相渡{{一}}、追て御沙汰有{{レ}}之候御返答。}}
天保六年未八月七日酉中刻、寺社︀奉行井上河內守殿より被{{レ}}成{{二}}御逹{{一}}儀有{{レ}}之候間、只
今一人河內守殿御宅へ可{{二}}罷出{{一}}旨、切紙到來。尤脇坂中務大輔殿被{{二}}仰付{{一}}候と申來
{{仮題|頁=190}}
候。依{{レ}}之御請差出添役罷出候處、於{{二}}御評席{{一}}中務大輔殿・河內守殿、御列座にて左
之通。
申渡
{{仮題|行内塊=1|居城上總夷隅郡大多喜高二萬石| 松平備中守家來}}
岡本源五左衞門
仙石道之助元家來神︀谷轉事、當時上總國三黑村普化宗松見寺看住友鵞を家來へ預
く、右は越前守殿へ伺之上、申渡候間可{{レ}}得{{二}}其意{{一}}候。
{{left/s|1em}}
但、道之助家來、其外誰にても、面談・文通等不{{レ}}爲{{レ}}致。尤預り罷在候家來の者︀、吟
味の筋尋候儀は勿論、咄合等も決而致すまじく候。
{{left/e}}
一、仙石道之助元家來神︀谷轉事當時上總國三黑村普化宗松見寺看住友鵞儀私家來
之者︀へ御預け被{{二}}仰付{{一}}旨。昨夜井上河內守ゟ家來之者︀召呼、申渡候。此段御屆申上
候。以上。
八月八日 松平備中守
一、私家來元へ御預け被{{レ}}成候仙石道之助元家來神︀谷轉事。當時上總國三黑村普化宗
松見寺看住友鵞儀、於{{二}}井上河內守宅に{{一}}請取、途中無{{二}}異儀{{一}}屋敷へ引取申候。此段爲{{二}}
御屆{{一}}使者︀を以申上候。以上。
同日 松平備中守
一、今四つ時、轉請取候に付、河內守態々罷出候處、夜八つ半時迄に、友鵞御引渡手
數相濟、七つ半時居屋敷へ引取、裏門より入。右出役手札差し出し參り候事。
{{仮題|添文=1| 御預人 伊澤權太夫|松平備中守家來}}
{{仮題|添文=1| 朝倉彌太夫|手代}}
覺
{{Interval|width=12em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@一、騎馬 二人@一、醫師 一人@一、徒目附 一人@一、徒士 四人
@一、足輕小頭 一人@一、足輕 八人@一、駕籠{{仮題|行内塊=1|網懸け申|さず}} 一挺
}}
右之通に御座候。以上。
八月八日{{nop}}
{{仮題|頁=191}}
{{仮題|添文=1| 岡本源五左衞門|松平備中守家來}}
右書附、御懸り水野越前守殿へ差出す。猶又御用番松平和泉守殿、轉儀無{{レ}}滯引取の
書付差出す。前後切紙を以遣す。
{{left/s|1em}}
{{仮題|箇条=一}}、井上河內守殿より轉へ申達
其方儀吟味中、松平備中守家來へ預遣候。但預中、備中守家來共へ、吟味の節︀、決
して口外致し申すまじく候。
{{仮題|箇条=一}}、同日、松平備中守家來岡本源五左衞門へ、河內守殿・中務大輔殿より被{{二}}相達{{一}}候趣、
{{仮題|箇条=一}}、友鵞預けに相成候上は、御老中方へ御屆可{{レ}}被{{レ}}致候。
{{仮題|箇条=一}}、友鵞儀淸僧︀に付、魚物は不{{二}}相用{{一}}、預り中手當竝被{{二}}取扱{{一}}方格別重く無{{レ}}之樣、可{{レ}}被{{二}}
相心得{{一}}候。
{{仮題|箇条=一}}、友鵞差置小屋、其外手當の儀、文化五年の砌、戶澤大和守方へ預け者︀有{{レ}}之間、委
細承合せ取計方難︀{{レ}}決儀は、奉行所へ被{{二}}問合{{一}}方々可{{レ}}有{{レ}}之候。
{{仮題|箇条=一}}、就{{二}}右御請{{一}}立歸候上、夫々小屋等に手當差急ぎ申付、明日友鷲御引渡可{{レ}}被{{レ}}成候
間、晝頃可{{レ}}被{{二}}罷出{{一}}候。
八月七日
{{仮題|箇条=一}}、仙石道之助へ中務大輔殿より道之助續書差出候樣被{{二}}仰渡{{一}}、仙石家留守居依田市
左衞門より以{{二}}書付{{一}}差出す。
{{left/s|6em}}
{{Interval|width=18em|margin-right=2em|array=
{{仮題|行内塊=1|故掃部頭直禮妻は仙石故播磨守久道妻姉}} 井伊掃部頭 br
{{仮題|行内塊=1|故雅樂頭娘故播磨守久道妻}} 酒井雅樂頭 br
{{仮題|行内塊=1|故內藏頭路政妻仙石故播磨守妻姉}} 松平安藝守 br
{{仮題|行内塊=1|故紀伊守光成女は仙石故兵部大輔忠淸妻}} 松平伊豫守 br
{{仮題|行内塊=1|養母方伯父}} 松平伊豆守 br
{{仮題|行内塊=1|左衞門尉嫡子從弟}} 酒井左衞門尉 br
{{仮題|行内塊=1|養母方從弟}} 阿部能登守 br
{{仮題|行内塊=1|養母方伯父}} 中川修理大夫 br
{{仮題|行内塊=1|故主計頭正良妻故播磨守久道妻の姪也}} 井上河內守 br
}}
{{nop}}
{{仮題|頁=192}}
{{Interval|width=18em|margin-right=2em|array=
故大和守正俊妻仙石故信濃守政房女 戶澤大和守
故佐渡守宣成妻ハ播磨守久道妻の姉 牧野山城守
故近江守貞淳妻仙石故越前守政辰の女 本庄伊勢守
養母方叔父 小笠原近江守
右同斷 津輕左近將監
}}
{{left/e}}
右之通道之助續合に御座候。以上。
{{仮題|添文=1| 依田市左衞門|仙石道之助家來}}
{{仮題|箇条=一}}、八月八日井上河內守殿より、留守居年寄同人宅へ罷出候樣、御達有{{レ}}之罷出候處、
左の通被{{二}}申渡{{一}}候。
{{left/e}}
{{Interval|width=18em|margin-right=4em|sep-char=@|BR=empty|array=
@未八月十七日巳刻、江戶表ゟ出石表へ早
飛脚到來。翌十八日巳刻出石發足。<br/>
{{仮題|添文=1| 麻見四郞左衞門|當時無役}}<br/>
{{仮題|添文=1| 小川八左衞門|目附}}<br/>
@{{仮題|添文=1|{{仮題|行内塊=1|家老}} ○仙石左京| 仙石道之助家來}}<br/>
{{仮題|行内塊=1|同}} 仙石主計<br/>
{{仮題|添文=1| 荒木玄蕃|當時年寄役}}<br/>
酒勾淸兵衞
}}
同十九日曉七つ時仙石左京列 西村門平
發足下段に相認候役 ○岩田靜馬
○植松十郞左衞門 {{仮題|添文=1| ○宇野甚助|小性頭用人}}
○右之仁合六人發足 大塚︀甚太夫
同日夕八つ時過發足
{{Interval|width=10em|margin-right=2em|sep-char=@|array=
@ 早川保助@ 荒木玄蕃@ 生駒主計
@{{仮題|添文=1| 渡邊淸助 |喜左衞門忰}}@ 酒勾淸兵衞@{{仮題|添文=1| 鷲見九郞左衞門|附添}}
@{{仮題|添文=1|○鷹取已伯|醫師}}@ 白井笹之助@{{仮題|添文=1| 麻見彌兵衞|齋助父隱居}}
@ 中西策@{{仮題|添文=1|○西岡斧七|臺所役}}@{{仮題|添文=1| 湯谷古□|醫師}}
@{{仮題|添文=1| 間中連 |御關所證文頭}}
}}
〆十三人
右は出石よりの認書
右之者︀共吟味之筋有{{レ}}之間、早々呼寄、著︀次第差出可{{レ}}申候。已上。{{nop}}
{{仮題|頁=193}}
{{left/s|1em}}
{{仮題|箇条=一}}、仙石道之助殿家來、仙石左京・生駒主計・荒木玄蕃・酒勾淸兵衞儀、伊豫守家來の者︀
へ御預被{{二}}仰付{{一}}候旨、昨夕脇坂中務大輔より家來の者︀御召被{{二}}仰渡{{一}}、伊豫守生國の
儀に付、此段私より御屆申上候。以上。
九月六日 {{仮題|添文=1| 赤座七郞左衞門|松平伊豫守內}}
{{仮題|箇条=一}}、私家來共の內、寺社︀奉行脇坂中務大輔より、吟味の筋御座候に付、在所に罷在候
分は、申遣候。著︀揃次第、可{{二}}申達{{一}}旨申渡御座候に付、申遣候處、在所にて承知以
前、右家來共の內渡邊淸助と申す者︀、爲{{二}}療養{{一}}他國仕罷在、來立延引仕、外出府の
者︀共追々到著︀仕に付、中務大輔へ、家來者︀より申{{レ}}達候處、昨五日、同人宅へ呼寄せ、
吟味有{{レ}}之、猶又今日差出候處、吟味中、仙石左京・生駒主計・荒木玄蕃・酒勾淸兵衞
と申者︀、松平伊豫守家來に預り申渡候段、附添差出候家來の者︀へ申渡有{{レ}}之候に付、
此段御屆け申上候。已上。
九月六日 仙石道之助
{{仮題|箇条=一}}、仙石道之助家來、岩田靜馬・靑木彈左衞門・杉原官兵衞・宇野甚助・山本耕兵衞・西岡
斧七儀、伊豫守家來の者︀へ御預け被{{二}}仰付{{一}}候旨、昨夕脇坂中務大輔樣より家來の
者︀を召し呼び被{{二}}仰渡{{一}}候。伊豫守在國の儀につき、この段私より御屆け申上候。
以上。
九月八日 {{仮題|添文=1| 今岡長八 |松平伊豫守內}}
{{仮題|箇条=一}}、去る八月追々御屆申上候通、私家來の內、脇坂中務大輔方にて吟味中、松平伊豫
守家來へ預け申渡有{{レ}}之、右之外、尙又昨十二日差出候處、大塚︀甚太夫・西村八平・鷹
取已伯・早川保助と申者︀、吟味中揚り屋入差遣候旨、差添差出候家來の者︀へ申渡御
座候に付、此段御屆け申上候。以上。
九月十二日 仙石道之助
{{仮題|箇条=一}}、仙石道之助殿家來十人、伊豫守家來の者︀へ御預け被{{レ}}成候處、右之內、岩田靜馬・
靑木彈右衞門・杉原官兵衞・山本耕兵衞儀、御吟味中揚屋入被{{二}}仰付{{一}}候旨、昨夕脇坂
中務大輔樣於{{二}}御宅{{一}}被{{二}}仰渡{{一}}候。伊豫守在國の儀に付、此段私より御屆申上候。
以上。{{nop}}
{{仮題|頁=194}}
九月十四日 {{仮題|添文=1| 今田長八|松平伊豫守家來}}
但追々到著︀の者︀共、仙石道之助より屆書差出、伊豫守家來より、同樣揚り屋入御
預り書付差出候。文面同樣に付略{{レ}}之。
{{left/e}}
九月六日御呼出し
{{left/s|2em}}
{{Interval|width=10em|margin-right=2em|sep-char=@|array=
@{{仮題|添文=1| 靑木彈右衞門|江戶詰}}@{{仮題|添文=1| 杉原官兵衞|同}}@{{仮題|添文=1| 山本耕兵衞|同}}@br
@{{仮題|添文=1| 岩田丹太夫|在所之分}}@{{仮題|添文=1| 德永半左衞門|同}}@{{仮題|添文=1| 惠崎五左衞門|同}}@br
@{{仮題|添文=1| 山田八左衞門|年寄}}@{{仮題|添文=1| 大森登|同}}@{{仮題|添文=1| 仙石小太郞|同}}@br
}}
〆九人
當時役人
{{Interval|width=10em|margin-right=2em|sep-char=@|array=
@{{仮題|添文=1| 仙石左京|家老}}@{{仮題|添文=1| 岩田靜馬|年寄}}@{{仮題|添文=1| 仙石小太郞|同}}@{{仮題|添文=1| 靑木彈左衞門|同}}
@{{仮題|添文=1| 大森登|同}}@{{仮題|添文=1| 山村貢|同}}@{{仮題|添文=1| 山田八左衞門|同}}@{{仮題|添文=1| 杉原官兵衞|同}}@br
@{{仮題|添文=1| 本間市左衞門|小性頭用人}}@{{仮題|添文=1| 宇野甚助|同}}@{{仮題|添文=1| 齋藤岩雄|同}}@{{仮題|添文=1| 堀久米|同}}
@{{仮題|添文=1| 長岡右仲|同}}@{{仮題|添文=1| 服部彌兵衞|同}}@{{仮題|添文=1| 荒木甚兵衞|同}}@{{仮題|添文=1| 本間左仲|同}}
@{{仮題|添文=1| 井上三郞左衞門|同}}@{{仮題|添文=1| 杉原三郞左衞門|同}}@{{仮題|添文=1| 倉品左之助|同}}@{{仮題|添文=1| 河合庄左衞門|同}}
@{{仮題|添文=1| 依田市左衞門|同}}@{{仮題|添文=1| 岩田虎之助|同}}@br
@{{仮題|添文=1| 本間左仲|側用人}}@{{仮題|添文=1| 依田市右衞門|御城使}}@{{仮題|添文=1| 河野丹次|同}}
}}
天保六未年正月、於{{二}}出石{{一}}、左京取計を以、年寄共其餘役人答申付候次第、
{{仮題|添文=1|酒勾淸兵衞 | 家老職高八百石}}
{{left/e}}
其方儀、去る辰年正月六日、大殿樣へ、{{仮題|分注=1|御隠居|なり}}重役竝役人の內不正事・不直の趣、荒木玄
蕃・仙石主計・原市郞左衞門申合、徒黨連印を以致{{二}}上書{{一}}候處、右は全、讒訴之段、御察
鑑被{{レ}}成、不屆至極、早速御呼出し、御糺明可{{レ}}有{{レ}}之處、左にては、重科の御沙汰にも相
成、舊家家柄の儀、不便に被{{二}}思召{{一}}、格別厚御仁惠被{{レ}}下在候趣を以、隱居蟄居被{{二}}仰付{{一}}、
忰どもへ、家督申付候處、去々巳六月元家來當時浪人河野瀨兵衞儀構の場所をも不
{{レ}}憚江戶表へ罷越、同姓共へ右出書同樣、其外自分考の風讒取交へ、文意相巧、及{{二}}讒
訴{{一}}、猶又生野地役人渡邊角太夫より、不{{二}}容易{{一}}向き瀨兵衞同樣被{{二}}申立{{一}}無役儀、公邊
{{仮題|頁=195}}
御沙汰にも相成處、右無御構去年年正月十六日、民國大殿様於御前先般上書の趣、可
{{レ}}被{{二}}相尋{{一}}の趣、聊も譯立候答も無{{レ}}之、不都︀合至極恐入候段、又は此上御慈悲筋相願
候間、寔に以て大膽不忠・不義の至、殊更重役・役人共の內、及{{二}}讒訴{{一}}候始末、武士道不
{{レ}}辨、重々不都︀合に付、切腹可{{二}}申付{{一}}の處、先祖︀代々忠勤を存じ、旁〻廣大の御仁惠を以、
死罪一等を下し、剃髮の上、國へ差遣し候間、急度相愼可{{二}}罷在{{一}}候也。
{{仮題|添文=1| 荒木玄蕃 |當時隱居| 千八百石家老職}}
{{仮題|添文=1| 生駒主計 |家老家柄當時用人| 千石}}{{仮題|投錨=○生駒一本仙石と有り|見出=傍|節=|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}
{{仮題|添文=1| 原市郞左衞門 |用人}}
右者︀使者︀頭役岩田丹太夫、目附磯村次左衞門、平士堀源作・中西儀左衞門罷り越し申
し渡し候同夕九人共御用召に付。
{{仮題|添文=1| 酒勾薰|淸兵衞忰}}
御自分父淸兵衞儀不屆の儀有{{レ}}之、其上御自分儀も、思召も有{{レ}}之候に付、急度被{{二}}仰
付{{一}}方も可{{レ}}有之處、格別御仁惠を以、知行被{{二}}召放{{一}}、隱居蟄居被{{二}}仰付{{一}}、忰久太郞へ御繫
扶持十人被{{レ}}下、小人町明屋敷へ引移候樣被{{二}}仰出{{一}}候。
荒木信太郞
申渡同斷、御繫扶持二十人被{{レ}}下、服部彌兵衞屋敷へ引移被{{二}}仰付{{一}}。
{{仮題|添文=1| 生駒富太郞|主計忰}}
申渡同斷、名字御取上げ、同斷二十人扶持被{{レ}}下、谷野才兵衞明屋敷へ引移被{{二}}仰付{{一}}。
原市郞左衞門
扶持十人被{{レ}}下、小人町引移被{{二}}仰付{{一}}。
{{仮題|添文=1|磯野六郞次|主計弟}}
隱居被{{二}}仰付{{一}}忰へ五十俵五人扶持。尤幼年の內は七人扶持被{{レ}}下、小性頭に被{{二}}成下{{一}}、
河野瀨兵衞跡屋向きへ引き移り被{{二}}仰付{{一}}、
土待雄之進
隱居被{{二}}仰付{{一}}、忰へ百石被{{レ}}下、馬廻二番組へ入。{{nop}}
{{仮題|頁=196}}
金澤源之丞
御役御免︀同斷組入
{{仮題|添文=1| 荒木甚兵衞|四百石}}
用人役御免︀目附格
{{仮題|添文=1| 神︀谷七五三|百四十石}}
蟄居、忰へ三十俵三人扶持被{{レ}}下小性頭次席。
仙石平之助
蟄居、隱居被{{二}}仰付{{一}}。
辰正月十二日出石にて右仕置有{{レ}}之。
{{left/s|3em}}
右之書付出石表より內々承候趣、本書仙石主計と有{{レ}}之候得共、其後生駒と有
{{レ}}之候。此書付表に名字取上げと有{{レ}}之に付、以來生駒と相認候と被{{レ}}察候。
乍{{レ}}恐以{{二}}書付{{一}}奉{{二}}願上{{一}}候。
{{left/e}}
{{left/s|1em}}
{{仮題|投錨=一月寺寺社奉行に書を捧げて神︀谷友鵞の無罪を辯ず|見出=傍|節=u-5a-2-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}
仙石道之助殿元家來神︀谷轉事、當時一月寺末上總國三黑村松見寺看住友鵞儀、當
四月廿一日、兩役寺より京都︀明暗寺へ宗用申付、書狀を爲{{レ}}持飛脚屋作左衞門方へ
遣し候途中、町御奉行組同心、其外共多勢にて、不意に差し懸り、差押へ候體故、
一月寺役僧︀代の由再三申し聞候へ共、彌〻不法に打ち懸り、又は馳せ付け候者︀も有
{{レ}}之、不{{レ}}得{{二}}止事{{一}}暫らく打返しける。用事有{{レ}}之候て一月寺番所へ同道の上、可{{レ}}承
旨度々申候を、不{{二}}承屆{{一}}理不盡に押倒し、繩懸け候間、仙石家へ可{{レ}}渡段申聞候間、
家法も有{{レ}}之事故、一先づ一月寺番所へ同道の上、何樣とも可{{二}}相成{{一}}と申し候處、其
儘筒井伊賀守樣御番所へ引連れ、卽刻入牢被{{二}}仰付{{一}}、當時御吟味中に御座候。一體
普化宗の儀は、慶長年中新に御掟書被{{二}}成下{{一}}候處、尙又延寶年中、小笠原山城守樣・
板倉石見守樣・太田攝津守樣於{{二}}御列座{{一}}、武門不幸の士共門弟に相成、修行の後に
致{{二}}歸俗{{一}}候由、其中に者︀、往古より由緖有{{レ}}之士の筋目も有{{レ}}之、士の家名・血脈斷絕
無{{レ}}之樣、永く天下武門の助けと相成、其子孫に至り、御用にも可{{レ}}立者︀に有{{レ}}之候へ
ども、實は御奉公にも罷成候間、家法正しく仕候樣被{{二}}仰渡{{一}}、宗法の御書付頂戴、愈〻
{{仮題|頁=197}}
以{{二}}相屬宗令{{一}}、無{{二}}油斷{{一}}正意硏究仕候。武門不幸の士共を撫育致、再仕官に爲{{二}}立歸{{一}}
候を專務とも懸け候儀に御座候。右神︀谷轉事友鵞儀、主家の安危を考、忠志を含
罷在候を、先に不良者︀の巧みに落入、意願の空しく成行候者︀、主家の動靜無{{二}}覺束{{一}}、
一先退身も致し、去年四月中入{{二}}素願{{一}}候に付、糺之上古法の通、門弟に致し、其後、
人少なき故役僧︀の見習申渡當三月中松見寺看住申付候。將又國々奸惡の暴臣有
{{レ}}之候時は、一途に忠誠を存候士共は、返つて無{{レ}}之三合罪に落入候より、義氣薄ら
ぎ、忠烈の志を忘れ邪曲を習、終には一家の大事に及候類︀、古人の傳說に承傳、且
孤忠の情願頻︀に不便に存候。旁〻右友鵞一身の儀は何卒御慈悲を以て、御奉行所
に於て、御吟味の上、落著︀被{{二}}仰渡{{一}}被{{レ}}下候樣、去五月九日筒井伊賀守樣御番所へ御
慈悲願書差上候へども、御取用に不{{二}}相成{{一}}、無{{二}}是非{{一}}引取、思慮仕候處、公邊奉{{レ}}懸{{二}}御
吉方{{一}}儀、何共奉{{二}}恐入{{一}}候に付、ふと心付、仙石家友鵞罪科の輕重、內々承合候處、一
通り吟味筋有{{レ}}之ものにて、格別の罪科無{{レ}}之き趣故、一旦一月寺弟子に致し候因
も有{{レ}}之候間、彼家にて吟味濟候上は、同人身分一月寺に貰ひ候て、剃髮に致度願
書差出候處、道之助殿內見の上、出石表へ申遣し、可{{レ}}及{{レ}}答旨にて、餘程の日數に
相成候へ共、何の沙汰も無{{レ}}之候間、一昨十九日仙石家へ罷越水候處、出石表ゟ申
越趣も有{{レ}}之、承容難︀{{レ}}致候間、相斷候段、道之助殿取り申し候趣、河野丹次申聞候。
右の趣にては、何とも仕方無{{レ}}之故、友鵞一人に限り候儀に無{{レ}}之、普く武浪の危窮
を救ひ候宗意にて、兼々被{{二}}仰渡{{一}}候御趣意も有{{レ}}之候處、學文の次第、理不盡の取押
方、殊一月寺番所へ同道致し吳れ候樣、再應相願候でも、不{{二}}承容{{一}}、繩を懸け引連れ
候段、全く下賤同樣の扱方。此體成行候ては、乍{{レ}}恐御控の趣難︀{{二}}相立{{一}}、於{{二}}一宗{{一}}は深く
奉{{二}}恐入{{一}}候儀にて、往々一宗滅亡の非にも相成やと、一統相歎き痛心仕る儀に御
座候。何卒格別の御慈悲を以、宗法古來の通相立候樣、被{{二}}成下置{{一}}、右友鷲孤忠の
意念も通り候儀候て、猶更難︀{{レ}}有仕合せに奉{{レ}}在候。此段、幾重にも御慈悲の御沙
汰奉{{二}}願上{{一}}候。以上。
天保六年未六月 {{仮題|添文=1| 愛璿 |一月寺番所役僧︀}}
寺社︀御奉行所{{nop}}
{{仮題|頁=198}}
乍{{レ}}恐以{{二}}書付{{一}}奉{{二}}願上{{一}}候。
{{仮題|箇条=一}}、拙寺末上總國三黑村松見寺看住友鵞儀宗用に付、差出候途中、同人、主家に於て、
不埒の儀有{{レ}}之由にて、町奉行組同心、其外多勢不意に差押候體故、一月寺役僧︀代
の內、再三申斷、諸︀用有{{レ}}之候て、一月寺番所へ同道の上、可{{レ}}承段申聞候得共、更に
承受不{{レ}}致、理不盡に繩懸り、其儘右主家へ可{{レ}}渡趣故、尙又宗法も有{{レ}}之候に付、是
非一旦、一月寺番所へ致{{二}}同道{{一}}、可{{レ}}被{{レ}}下樣申聞候處、筒井伊賀守樣御番所へ引れ、卽
日入牢被{{二}}仰付{{一}}、當時御吟味中に御座候、右轉事友鵞、主家へ忠節︀の旨を含み罷在
候間、全く身命惜入宗致し候者︀に無{{レ}}之、只々奸心の惡計に落入候ては、主家の浮
沈無{{二}}覺束{{一}}、一途の忠誠を存じ込み候間、兼て武浪の隱家宗風と承候。偏に孤忠を
助け候心底にて、願出候者︀にて候。乍{{レ}}恐東照宮樣初知之御深慮も被{{レ}}爲{{レ}}在、被{{レ}}爲{{二}}
立置{{一}}候宗門の意、餘にも相叫候に付、糺の上、證人取{{レ}}之抱へ置候得ば、萬一主家
へ引渡等に相成候ては、忠義空しく相成候により、不便の至、何卒格別の御慈悲
を以、友鵞儀身分の儀は、於{{二}}御奉行所{{一}}御吟味被{{二}}成下{{一}}候樣、筒井伊賀守樣御番所
に、先達て願書差出候得共、御取用に不{{二}}相成{{一}}、願書御戾し被{{二}}相成{{一}}候。其外仙石家
へ、內談等仕候處、不{{二}}行屆{{一}}、無{{二}}是非{{一}}當御奉行所へ御慈悲願書旁〻差し出し候段は、
先達て具に奉{{二}}申上{{一}}置候處、今以て御沙汰無{{レ}}之、且仙石家に於て、舊家の老臣忠臣
の者︀共四五人、奸邪逆臣の取り計ひに而、滅知・籠居等に相成候者︀の內、去月中死
罪に相成候者︀も有{{レ}}之由風聞有{{レ}}之候上は、奸臣時を得て忠節︀非道に死歿致、暴惡
增長、邪曲超過の上は、國の亂をも引出すに至可{{レ}}申哉、虛無僧︀共儀は、天下の家臣
諸︀士の席に定置候故、表は僧︀形にして、內心に武事を不{{レ}}忘、日本國中往來自由被
{{レ}}免︀、修行仕候內、深き心得方も有{{レ}}之、國々の邪正・諸︀々の風儀篤と令見聞には、品
により達申上、天下の御大事にとて、身命を投儀、宗門の極意に御座候。神︀谷轉
事友鵞、忠誠の者︀に見込み候筋も有{{レ}}之候故、御慈悲願書奉{{二}}差上{{一}}候儀に而、萬一主
家へ御引渡に相成候へば、慶長已來被{{二}}下置{{一}}候御掟之旨、更に不{{二}}相立{{一}}、普化一宗の
者︀共覺悟仕候外無{{レ}}之候。天下武門の助と相成り候宗意、萬端被{{レ}}爲{{二}}思召{{一}}、格別御
{{仮題|頁=199}}
仁惠を以、轉事友鵞身分の儀は、於{{二}}御奉行所{{一}}御吟味被{{二}}成置{{一}}候様、猶更奉{{二}}願上{{一}}候。
已上、
天保六未年七月九日 前同斷
宛名前同斷
乍{{レ}}恐書付を以奉{{二}}申上{{一}}候。
一、拙寺末上總國三黑村松見寺看住友鵞儀、仙石道之助殿元家來神︀谷轉と申者︀にて、
町御奉行筒井伊賀守樣より召捕候處、追々申上候通、主家へ御引渡に相成候ては、
轉忠志も空敷相成、主家共已難︀{{レ}}計、殊種々世上之風聞も有{{レ}}之、且轉事友鵞儀、兼
て認置候書面、外に仙石左京不屆之箇條認候書面有{{レ}}之。封印付置候へ共、友鵞今
般當御奉行所へ願書奉{{二}}差上{{一}}候に付、爲{{二}}心得{{一}}披{{レ}}封致{{二}}一覽{{一}}、不{{二}}容易{{一}}儀兼て心懸、
出石表の儀、實否承り度く、人を差出置猶靜承り候儀に有{{レ}}之、聞合書面と符合致
候儀も有{{レ}}之、且又仙石家の舊臣荒木玄蕃・仙石主計・酒勾淸兵衞・原五郞左衞門、右
四人の者︀共、去辰正月中隱居、當時家老仙石左京不心得取計方等の儀に付、諫書
差出し候處、四人の者︀共、同月廿二日滅知の上隱居申付、愼逼塞・蟄居申付置間、每
每釘締番付け置き候內、辰三月中病死致し候者︀も有{{レ}}之、奧附麻見四郞左衞門儀は
去巳九月中、河野瀨兵衞出府の上、播磨守殿奧方、竝道之助殿實兄能登守殿等へ、
諫書差出候筋、尤に存候。出石へ使者︀勤候處、役儀取放ち隱居申付、悴へ扶持米
遣し置き、年寄本間左仲儀も、再度使者︀勤め候處、役儀取放河野瀨兵衞儀は、去辰
正月中、荒木玄蕃外三人より、左京取計方不心得の次第、國中上下一統極々及{{二}}難︀
澁{{一}}候故、諫書差出候處、蟄居等申付、瀨兵衞儀も、城下に居候はゞ、萬一四人と文
書等にても通じ候て、夫より事可{{レ}}起と追拂申付、其後出石にて入牢に相成居候處、
當六月下旬死罪に相成、內々に候得共、友鵞儀も、仙石家へ被{{二}}引渡{{一}}に相成候て、
將又非道死の儀不便の至り、殊に忠誠之士數人、無實の罪に落命の儀、深く歎か
はしき儀に御座候。一體宗法の心得方も有{{レ}}之、困々虛實、其外共見聞致、疑の儀
等有{{レ}}之候て、其品により奉{{二}}申上{{一}}候樣、且友鵞忠志も相知の筋故同人認候書面一
{{仮題|頁=200}}
通、竝左京箇條一通見捨切にも難︀{{レ}}仕、入{{二}}御內覽{{一}}候、乍{{レ}}去友鵞始、忠志の者︀共、却て
不忠に相當候儀も有{{レ}}之候ては、是又不便の儀御座候間、何卒御仁慈の御沙汰被{{レ}}下
度、偏に奉{{二}}願上{{一}}候。已上。
七月廿一日 前同斷
宛前々同斷
{{left/e}}
{{仮題|投錨=諷刺|見出=傍|節=u-5a-2-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}
{{left/s|2em}}
{{仮題|行内塊=1|目蠻|印方}} 糺明丸 調合所 {{仮題|行内塊=1|但州出石}} 鷹取已伯傳法
{{仮題|行内塊=1|附一人の外同諸︀奉行|一切立合なし}} {{仮題|行内塊=1|芝口一丁目}}童野半曰老人
効能 {{?}}
一、第一砒霜石・{{r|斑猫|はんめう}}等の毒に當りたるを治す。一、隱居・當主には一包にて卽効
あり。一、幼主にはきゝめ惡し。一、家中の痛みに好し。一、隱謀の病には五千
兩・六千兩用ひて好し。一、無理に頭を剃られたるに用ゐて髮の毛生ゆる事妙
なり。{{仮題|投錨=〇こむニ虛無僧︀をキカセタリ|見出=傍|節=|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}こむ瘡には油斷すべからず、外へ擴がらぬ內用ひて好し。一、筋目
無き女の懷妊には黃金湯にて用ふべし。一、金屛風などは用ひて試むべし。但
し見極めねばかへつてあし。一、力瘤の痛みに好し。一、後室の風聞惡しきを
直す。一、近親の心痛に好し。一、食物は平生に心付候へば、頓死・頓病の憂ひ
なし。但し道中別けて心を付くべし。一、出家・社︀人は手足を延べて暫く休息
すべし。
{{仮題|箇条=一}}、此仙藥は、往古奧州仙臺原田氏の遺方にして、無類︀の祕藥なれども、此方を受
續ぐ者︀無くして、久しく絕えたりしを、近年但州出石の人、左京なる者︀、此方を
擴めん事を工風して、石州濱田の士鐵藏其匕加減を以て、調略なす所なり。此
度減祿・退役、素姓を糺し、細密に吟味を遂げ、諸︀人の見懲︀しめの爲め、世上に擴
むるものなり。
仙石道之助元家來神︀谷轉事友鵞、取計方之儀に付、見込之趣申上候書付。
脇坂中務大輔{{nop}}
{{仮題|頁=201}}
{{left/e}}
仙石道之助元家來神︀谷轉事、當時上總國三黑村松見寺看住友鵞、引渡方の儀に付、
井上河內守より取計方相伺、評定所一座へ評議に御下被{{レ}}成候處、兩奉行共と同役見
込一決不{{レ}}仕、銘々存寄之趣、此廿二日申上候儀に御座候。然る處、當月廿一日、一月
寺役僧︀友鵞、所持罷在候書面の通りにて、道之助家老仙石左京取計方等品々申立候
書付類︀、河內守方へ差出、右にては、道之助家政向甚混亂致し居候は、無{{二}}相違{{一}}候へ共、
當時伺書差上げ、未だ模樣も相分不{{レ}}申內、右體の書面差上候は如何と、河內守厚く
心配仕り、私へ內談有{{レ}}之、心配致し候は、尤もに候へども、當時進達不{{レ}}致、追て御指
圖始末に依り、今般の書面夫れ{{ぐ}}御心得にも相成候儀有{{レ}}之候ては、恐入候事故、
何れ入{{二}}御披見{{一}}候方可{{レ}}然旨及{{二}}挨拶{{一}}、右に付、今廿三日書面類︀進達仕候。右に付、猶厚
勘辨仕り候處、今般の如く、一月寺役僧︀共、深蹈込一途に友鵞を精︀忠の者︀と見込、相
{{r|圍|かくま}}ひ、始末に寄候ては、一宗破滅の基と申立奉行所吟味相願候を、直に仙石家へ引
渡候ては、假令實は友鵞不屆無{{レ}}紛共、疑甚難︀{{レ}}晴︀處よりして、虛無僧︀共承伏仕まじく
候。勿論下方の者︀共、承伏・不承伏に依り、奉行所の取計方懸念致し候筋は、毛頭無
{{レ}}之候へども、忠義と掟とを蹈に致し、專ら正論と心得候て、申立候を、邪正辨別も不
{{レ}}爲{{レ}}致取計にては、奉行所の大法更に被{{レ}}行不{{レ}}申候間、何れ友鵞は、私共懸りにて吟
味の積り相成不{{レ}}申候ては難︀{{レ}}成儀と見居候。尤もさ候はゞ、道之助家政向の儀は、是
非相糺不{{レ}}申候ては難︀{{レ}}成樣可{{二}}成行{{一}}候懸念も有{{レ}}之候へども、此上友鵞吟味の模樣に
依り、同人不屆に相決候はゞ、素より異論無{{レ}}之候得共、萬一左京吟味いたし不{{レ}}申候
ては、難︀{{レ}}成樣の場合に至り候はゞ、其邊を以取計方をも相伺可{{レ}}申、其上無{{二}}餘儀{{一}}場合
に候はゞ、一山一宗の事にて、增上寺山內の一件等吟味致し候近例も有{{レ}}之候得共、
倂先は奉行所にて、一家中限の儀を、悉く打出し吟味に及候は素好の御取計に者︀無
{{レ}}之候間、何卒其砌は左京へ同意の者︀共は、道之助方にて仕置爲{{二}}申渡{{一}}、友鵞主家を逃
去候不埒も、是亦奉行所にて內仕置申付候はゞ、自ら一家中の混亂も相治り可{{レ}}申哉
にて、勿論夫とても未だ見越の事故、吟味の上、友鵞一人の不埒に相決候か、或は左
京等以の外之不屆とも悉く吟味致し候樣可{{二}}相成{{一}}哉。何分にも取極候儀は難︀{{レ}}上候
得共、先は前文の趣に取計尙爲{{二}}御取締{{一}}萬端家政向の儀は近親の內相談致し候はゞ、
{{仮題|頁=202}}
此節︀の趣は靜謐に相成可{{レ}}申哉。さ候得ば、河內守相伺候趣は、早速御下知有{{レ}}之候
方にも可{{レ}}有{{二}}御座{{一}}哉と奉{{レ}}存候。右體遮て私より申上候は、如何に御座候得共、右之
見込不{{二}}申上{{一}}、候而者︀、御指圖の御含にも相成まじくと奉{{レ}}存候に付、私限此段別紙を
以申上候。
七月廿三日
一、同年十二月九日御逹書
仙石道之助{{仮題|投錨=仙石家處分|見出=傍|節=u-5a-2-g|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}
{{仮題|添文=1| 能勢惣左衞門|名代}}
玉虫十左衞門
{{left/s|1em}}
其方元家來に出奔致候神︀谷轉事、虛無僧︀友鵞の儀、不屆有{{レ}}之者︀に付、捕渡之儀筒
井伊賀守へ申越候間、召捕候。然る處他の引合も有{{レ}}之候に付、寺社︀奉行に而及{{二}}
吟味{{一}}候處、其方家政不{{レ}}正、其外不{{二}}容易{{一}}之儀共相聞候。依{{レ}}之於{{二}}評定所に{{一}}遂{{二}}吟味
御詮議{{一}}候處、家老仙石左京儀其方家政を取亂し、身不相應の奢侈超過し、殊に其
身之罪を爲{{レ}}可{{二}}取隱{{一}}、奸計を以、主人の爲筋申立候家老共を讒訴の趣に吟味、爲{{レ}}誤
死罪其外の仕置申付、且又宇野勘助等左京に令{{二}}同意{{一}}不埒不屆の取計致候始末及{{二}}
白狀{{一}}候に付、夫々御仕置被{{二}}仰付{{一}}候。政事向之儀は、第一之儀に候處、家政取亂候
を其心得も無{{レ}}之段、不調法に被{{二}}思召{{一}}候。依{{レ}}之急度可{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}候得共、若輩之儀
にても候間、格別の思召を以、高五萬八千八十石餘の內、城地其儘被{{二}}差置{{一}}、二萬八
千八十石餘被{{二}}召上{{一}}、三萬石高と被{{二}}成下{{一}}、且又閉門被{{二}}仰付{{一}}候。
{{left/e}}
右於{{二}}伯耆守宅{{一}}、老中列座伯耆守申渡、大目附初鹿野河內守・御目附大澤主馬・羽︀太庄
左衞門相越候。
松平周防守{{仮題|投錨=松平家處分|見出=傍|節=u-5a-2-h|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}
{{仮題|添文=1| 千羽︀彈正少弼|名代}}
{{left/s|1em}}
其方儀、仙石道之助元家來河野瀨兵衞、竝同家來生駒主計外三人仕置き等の儀、
道之助家來共より松平主稅を以承合候、道之助家老差出書面事實相違の儀有{{レ}}之、
{{仮題|頁=203}}
竝片々の吟味に而如何共不{{二}}心附{{一}}、瀨兵衞其外之者︀共、仕置等、夫々及{{二}}挨拶{{一}}、其上
道之助養祖︀父播磨守致{{二}}病死{{一}}忌中に相成候に付、仕置等申付候日間問合の節︀も、他
に洩候間敷、寶曆夏評定所一座之伺添書寫爲{{二}}書取{{一}}相添へ內々主稅に差遣候故、同
人より道之助家來へ相達候次第に至候段、重々御役相勤候節︀之儀、別而不埒に被{{二}}
思召{{一}}、隱居被{{二}}仰付{{一}}候、急度愼可{{二}}罷在{{一}}候。
但西丸下、上屋敷被{{二}}召上{{一}}、中屋敷・下屋敷の內可{{レ}}有{{二}}住居{{一}}旨、書付相渡。
松平左近將監
{{仮題|添文=1| 本多主稅|名代}}
深澤彌七郞
父周防守、勤役中、不埒の儀有{{レ}}之候に付、隱居被{{二}}仰付{{一}}、急度愼可{{二}}罷在{{一}}旨、被{{二}}仰付{{一}}
候。家督無{{二}}相違{{一}}其方へ被{{レ}}下、追而所務可{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}候。
{{left/s|1em}}
於{{二}}同人宅{{一}}列座、同所同人申{{二}}渡之{{一}}。
大目附初鹿野河內守相越す。
{{left/e}}
左近將監、差控相伺候に付、御目通差控可{{レ}}被{{レ}}立旨相達す。
申渡之覺
{{仮題|添文=1| 松平主稅|寄合}}
{{仮題|添文=1| 能勢惣左衞門|名代}}
其方儀、仙石道之助元家來河野瀨兵衞、竝家來生駒主計外三人、不屆の儀有{{レ}}之由
を以、科の次第相認め、河野瀨兵衞を引廻しの上獄門又は打首、主計外三人は切腹
或は永座敷牢に申付、可{{レ}}然御仕置等の儀は、兄松平周防守より承合吳候樣、道之
助家來岩田靜馬、外一人より賴請候節︀、書付共周防守へ爲{{レ}}致{{二}}內見{{一}}候處、瀨兵衞は
輕死罪、其餘に輕方被{{二}}申聞{{一}}候を、其餘取附を以て、主計外三人剃髮の上、圍場へ
入置可{{レ}}然旨及{{二}}挨拶{{一}}、且右之者︀共仕置等三奉行の中へ問合可{{レ}}申哉之段、道之助家
來押返し申聞候處、乍{{二}}內々{{一}}も周防守より指圖の儀に付、相違無{{レ}}之、外へ問合に不
{{レ}}及之段强て申聞、其上、道之助忌中に相成に付仕置申付候同苗の儀、尙又道之助
家來共承合候節︀、周防守へ申聞同人より寶曆度評定所へ、一應伺濟の書面書取相
{{仮題|頁=204}}
添差越候を、其儘道之助家來へ差遣し、殊に左京は間柄に候共、道之助家政向に
可{{レ}}携筋は無{{レ}}之、旁〻以不埓の至りに候。依て隱居被{{二}}仰付{{一}}。急度愼可{{二}}罷在{{一}}候也。
{{仮題|添文=1| 松平軍次郞|主稅總領}}
{{仮題|添文=1| 玉虫十左衞門|名代}}
父主稅不埒の儀有{{レ}}之候に付、隱居被{{二}}仰付{{一}}、急度愼可{{二}}能在{{一}}旨被{{二}}仰付{{一}}、家督無{{二}}相違{{一}}
其方へ被{{レ}}下候追て知行引替可{{レ}}被{{レ}}下候。
{{仮題|添文=1| 曾我豐後守|御勘定奉行}}
{{仮題|添文=1| 大久保彌左衞門|名代}}
其方儀、但州銀山附地役人渡邊角太夫別宅に罷在候仙石道之助家來、河野瀨兵衞
を、同家來共蹈込捕押引連れ候儀に付、西村貞太郞より取計方相伺候節︀、道之助
家來より右之在所家來共心得違之旨申立候迚、遠路多人數呼下及{{二}}吟味{{一}}候ては、
可{{レ}}致{{二}}難︀儀{{一}}と一己の存寄を以、御料所地內へ蹈込候次第等は相除き、角太夫方へ
瀨兵衞を差越候故、貞太郞承合致{{二}}吟味{{一}}候姿に調置、一件落著︀之上、瀨兵衞を道之
助へ可{{二}}引渡{{一}}哉の段、伺書取認可{{二}}相伺{{一}}の旨、貞太郞指圖致し候事實相違の書面を
以、松平周防守へ相伺、道之助方へ瀨兵衞を相引渡之段、全後暗き取計方、殊に最
初、貞太郞ゟ右伺書差越し候砌、內藤隼人正連名宛內狀をも添差越候上は、月番
取扱之品に候共、同人え一覽不{{レ}}爲{{レ}}致始末、不束の至に候。依御役御免︀。差控被{{二}}仰
付{{一}}者︀也。
{{left/e}}
右於{{二}}河內守宅{{一}}、若年寄中列座、河內守申{{二}}渡之{{一}}。御目附曲淵勝二郞・本多左內相越す。
{{仮題|添文=1| 筒井伊賀守|町奉行}}
{{left/s|1em}}
其方儀、{{仮題|投錨=町奉行處分せらる|見出=傍|節=u-5a-2-i|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}仙石道之助元家來に而出奔致候神︀谷轉事虛無僧︀友鵞、不屆有{{レ}}之者︀に付、
捕渡之儀道之助方ゟ申越候間、組之者︀へ申付爲{{レ}}捕候、友鵞儀は、品々引合も有{{レ}}之、
道之助方へ難︀{{二}}引渡{{一}}候處、篤と相糺候心得も無{{レ}}之、一途に引渡方に存込罷在候段、
不行屆の事に候。依{{レ}}之御目通差控被{{二}}仰付{{一}}候。
{{left/e}}
右新番所前溜伯耆守申{{二}}渡之{{一}}。
鳥居丹波守{{nop}}
{{仮題|頁=205}}
{{left/s|1em}}
松平左近將監上屋敷、四五日之內に爲{{二}}引拂{{一}}、御普請奉行へ可{{レ}}被{{二}}相渡{{一}}候。場所柄
の儀に付、引拂迄之內、其方萬事心附候樣可{{レ}}致候。
阿部能登守
中川修理大夫
仙石道之助事未だ若輩之事に付、{{仮題|投錨=仙石家家政取締を仰附く|見出=傍|節=u-5a-2-j|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}家政取締方等之儀、中川修理大夫・阿部能登守申
合萬端心附候樣可{{レ}}致候事。
十二月九日
上 五萬石餘を永樂錢と思ひしも丸に無の字となりかゝるなり{{仮題|投錨=狂歌|見出=傍|節=u-5a-2-k|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}
仙石左京 あら{{r|口惜|くや}}し五萬石像を皆喰ひて腹が左京と思や仙石
同 長生を又仙石と欲ばれど左京數へてわづかなりける
神︀谷轉 身にかへて神︀谷大事と思ひなば嘸轉寢の夢に見るらん
山本耕兵衞 山本もかういふ事を思ひなば何しに江戶へ出て耕兵衞
杉原官兵衞 我儘の杉原ばかり心ねはあさ官兵衞と思はれにけり
靑木彈右衞門 正しゝき面してゐるや彈右衞門もう彈左衞門と變名をせよ
苗字なし斧七 苗字をば假に付けても爭はゞ斧七ぶんの利を以て出す
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
今川狀{{仮題|投錨=今川狀の作替へ|見出=傍|節=u-5a-2-l|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}
出石老臣主君何某變死の騷動
{{left/s|1em}}
一、天道を知らずして、左京つひに本意を得ざる事
一、轉虛無僧︀をこのみ、無役の浪人くるしむ事
一、表裏の輩、公命を待たずして、出奔せしむる事
一、神︀谷捕れ寺社︀に訴へせしめ、堅固につゞまる事
一、大家の親類︀、公用の沙汰として預り、迷惑致す事
一、石但の山庄、左京以下徒黨して利欲をはかる事
一、參府の衆人當惑せしめ、後悔︀いたす事
{{left/s|2em}}
右此騷動、罪は死罪に極るべし。窮命大そう苦し。無事ふちのめし、くるしが
{{仮題|頁=206}}
らせる間、專可{{レ}}被{{二}}責問專一{{一}}也。
{{left/e}}
川柳{{nop}}
{{仮題|投錨=川柳|見出=傍|節=u-5a-2-m|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}
{{Interval|width=12em|margin-right=4em|array=
美しき蔦も次第に落葉哉 尺八に吹倒さるゝ一家老
困る家中も槍もぶら{{く}} 間違が出來て輪違ひ骨を折り
輪違の印から見て思ひ出し 竹に雀は仙石樣の手本よ
藥草を拔いて山椒を植付る 二步二朱一朱と百で馬を買ひ
}}
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
十二月九日 仙石道之助家來{{仮題|投錨=左京等一味處分|見出=傍|節=u-5a-2-n|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}{{nop}}
{{Interval|width=12em|margin-right=2em|sep-char=▲|array=
▲2: 獄門▲{{仮題|添文=1| 仙石左京{{仮題|行内塊=1|四十九| }}|同人家老}}▲br
▲2: 死罪▲{{仮題|添文=1| 宇野甚助{{仮題|行内塊=1|四十八| }}|用人}}▲br
▲2: 同▲{{仮題|添文=1| 岩田靜馬{{仮題|行内塊=1|四十五| }}|年寄}}▲br
▲2: 遠島▲{{仮題|添文=1| 仙石小太郞{{仮題|行内塊=1|二十一| }} |年寄見習左京忰}}▲br
▲2: 同▲{{仮題|添文=1| 杉原官兵衞{{仮題|行内塊=1|七十八| }}|年寄}}▲br
▲2: 重追放▲{{仮題|添文=1| 靑木彈右衞門{{仮題|行内塊=1|六十| }}}}▲br
▲2: 中追放 左京父隱居是{{仮題|行内塊=1|一本左內とあり、|是なるべし。}}▲{{仮題|添文=1| 大森登{{仮題|行内塊=1|廿九| }}|元年寄}}▲br
▲2: 同▲{{仮題|添文=1| 岩田丹太夫{{仮題|行内塊=1|五十一| }}|{{仮題|行内塊=1|size=100%|旗奉行郡奉|行勘定奉行}}兼帶}}▲br
▲2: 同▲{{仮題|添文=1| 山本耕兵衞{{仮題|行内塊=1|三十八| }}|勘定奉行}}▲br
▲2: 同▲{{仮題|添文=1| 惠崎又左衞門{{仮題|行内塊=1|五十八| }}|物頭町奉行兼帶}}▲br
▲2: 輕追放▲{{仮題|添文=1| 德永半左衞門|郡奉行}}▲br
▲2: ▲{{仮題|行内塊=1|主人方にて、相應|の咎可{{二}}申付{{一}}候}}{{仮題|添文=1| 早川保助{{仮題|行内塊=1|五十三| }}|無役}}▲br
▲2: ▲{{仮題|行内塊=1|仙石道之助家來|河野丹次郞移遣}}{{仮題|添文=1| 鷹取已伯{{仮題|行内塊=1|六十四| }}|醫師}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 友鵞四十三 |{{仮題|行内塊=1|上總國三黑村普化|宗松見寺看住、}}}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 愛璿{{仮題|行内塊=1|四十五| }}|一月寺役僧︀}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 西村門平{{仮題|行内塊=1|六十| }}|屋敷番}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 會田甚太郞{{仮題|行内塊=1|三十六| }}|無役}}▲br
}}
{{仮題|頁=207}}
{{Interval|width=12em|margin-right=2em|sep-char=▲|array=
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 增田七郞{{仮題|行内塊=1|三十六| }}|同}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 石原新吾{{仮題|行内塊=1|五十三| }}| }}▲br
▲2: 無{{レ}}構▲{{仮題|添文=1| 仙石左兵衞{{仮題|行内塊=1|四十六| }}|中老服部彌兵衞代兼年寄}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 長岡右仲{{仮題|行内塊=1|三十七| }}|中老}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 生駒主計{{仮題|行内塊=1|四十六| }}|元年寄元年寄}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 荒木玄蕃{{仮題|行内塊=1|三十四| }}|同}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 酒勾淸兵衞{{仮題|行内塊=1|六十七| }}|同}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 麻見四郞兵衞{{仮題|行内塊=1|六十五| }}|免︀狀役喜之助父隱居}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 久保吉九郞{{仮題|行内塊=1|五十五| }}|勘定奉行}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 瀨戶鷗助{{仮題|行内塊=1|四十六| }}|近習番年寄孫右衞門忰}}▲br
}}
{{nop}}
{{仮題|投錨=〇年寄孫右衞門忰一本無シ靑木ト混ゼシナラン|見出=傍|節=|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}
{{Interval|width=12em|margin-right=2em|sep-char=▲|array=
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 靑木葛太夫{{仮題|行内塊=1|三十二| }}|近習番年寄孫右衞門忰}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 岡部角太郞{{仮題|行内塊=1|十九| }}|馬廻り}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 原川三右衞門{{仮題|行内塊=1|四十七| }}|同<sup>イ</sup>草}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 谷津生人{{仮題|行内塊=1|十九| }}|同}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 吾妻與兵衞{{仮題|行内塊=1|五十八| }}|同}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 渡邊誠助{{仮題|行内塊=1|三十二| }}|同}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 土岐雄之丞{{仮題|行内塊=1|五十五| }} |馬廻辰次郞父隱居}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 酒勾薰{{仮題|行内塊=1|三十九| }} |久無役太郞父隱居}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 西岡斧七{{仮題|行内塊=1|八十八| }} |臺所小頭}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 杉立以成{{仮題|行内塊=1|三十六| }}|目見醫師}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 平井平八郞{{仮題|行内塊=1|廿一| }}|荒木玄蕃召仕治太夫忰}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 高橋久左衞門{{仮題|行内塊=1|五十二| }}|三浦甚太郞家來}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 太田東左衞門{{仮題|行内塊=1|六十七| }} |中奧御小性仙石能登守家來}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 內田竹左衞門{{仮題|行内塊=1|五十七| }}|同}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 中村龍助{{仮題|行内塊=1|六十九| }} |仙石彌三郞家來}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 橫田彌吉{{仮題|行内塊=1|廿九| }} |{{仮題|行内塊=1|御小性本多對馬守組|仙石七之助家來}}}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 村井浦助{{仮題|行内塊=1|廿四| }} |同人組仙石勝太郞家來}}▲br
▲2: ▲{{仮題|添文=1| 藤兵衞{{仮題|行内塊=1|一本藤藏|六十八}} |但州出石城下八十町名主}}▲br
}}
{{nop}}
{{仮題|頁=208}}
申口不分明に付揚り屋へ遣す {{仮題|添文=1|山田八左衞門|年寄}}
右於{{二}}評定所{{一}}、脇坂中務大輔・榊原主計頭・內藤隼人正・神︀尾豊後守・村瀨四平郞立會、中
務大輔申渡。
同十日夕、於{{二}}三浦家{{一}}高橋久左衞門へ申渡左之通、
其方事懇意の由にて、神︀谷轉と申者︀、昨年一月寺へ入宗の受人に相立候儀に付、度々
御奉行所へ御呼出に相成尤右一件、御構無{{レ}}之旨にて相濟候得共、最初御呼出御尋之
節︀、申口等甚不都︀合の儀有{{レ}}之上、同人事に付無{{二}}餘儀{{一}}次第と申にも不{{二}}相聞{{一}}、右之始
末兼而屆も無{{レ}}之、旁〻不埓之事に候。依{{レ}}之差控被{{二}}仰付{{一}}候、愼可{{二}}罷在{{一}}也。七日の間
差控にて相濟。
十二月九日鈴ケ森拾札の寫
{{仮題|添文=1| 仙石左京 |武家家來| 當四十九歲|}}{{仮題|投錨=左京獄門の捨札|見出=傍|節=u-5a-2-p|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}
此者︀蒙{{二}}吟味{{一}}候處、先代主人美濃守病氣差重り、跡相續嫡子無{{レ}}之、火急に出府之砌、
纔に十歲の忰小太郞を愛子之由に而召連、旣に右隱居播磨守、其外一家中在所之疑
惑を受、主家へ對し不{{レ}}顧{{レ}}憚筋に有{{レ}}之、年寄生駒主計、勝手懸り手餘る由に而、相懸
り有{{レ}}之度と申聞候を、同人一人に而差支へ候に付、右懸り相願にて、格別增人有{{レ}}之
候而者︀、區々可{{二}}相成{{一}}抔申候に其儘承置ながら差問候場に臨み、已後取締候由にて、
年寄役取放之上、滅知致し、其以後、此者︀共四人にて、勝手方取放候段、隱居播磨守
指圖に候とも、幼年の主人、家政向專取扱候身分、右次第不都︀合の儀に而、是を巧候
存念に相聞、其上百姓共、小鳥作物を荒し候趣を以、提飼︀相願候に付、飼︀置候由は難︀{{レ}}
立{{二}}申譯{{一}}にて、勝手向省略申、宅へ鷹差置野合に於て提飼︀致し、又は忰緣女引移の次
第等超過の儀共、其外更に如何の取計有{{レ}}之候處、右主計外三人ゟ隱居播磨守へ上書
致し、尋受候節︀、更に無{{二}}跡形{{一}}趣に相陳じ、却て前書宇野甚助に相談之上、年寄共へ
申談、不束之上書致し候旨、播磨守へ申聞、減高・蟄居申付、右體不屆有{{レ}}之候故、元同
{{仮題|頁=209}}
家來河野瀨兵衞儀、主人同姓之此者︀等取計、品々申立候を讒訴の趣に申なし、御料
所地內を、足輕差遣し召捕、右に引合候趣を以、主計其外之者︀共答之儀、一旦事濟之
儀、病氣に而精︀神︀及{{二}}虛耗{{一}}候播磨守讒聞爲{{レ}}致、再吟味に及び、剩へ瀨兵衞申立候儀
者︀、於{{二}}奉行所{{一}}吟味之上、此者︀申譯無{{レ}}之恐入候旨申立候かと多端讒訴の趣吟味詰さ
せ、其已前、播磨守・定常靑院等、瀨兵衞より內意承傳候者︀、如何之収計等播磨守へ心
附申遣候を、不行屆に而、他之同家來年寄杉原官兵衞ゟ申談爲{{二}}差出{{一}}、右體事實反覆
之儀を、却而瀨兵衞者︀死刑難︀{{レ}}逃由抔相詰、外年寄共より右之趣を以、了簡申立させ、
瀨兵衞は仕置に相決、加{{レ}}之主計外三人は同姓とも、瀨兵衞書付差出候と申合候儀無
{{レ}}之旨申立候を、倶に相巧、讒訴致し候體に書面取綴り、主人を欺き、重き御役人之內
意相覗、瀨兵衞は死罪、主計外二人は、切腹より一等輕き心得にて、剃髮の上、穢多
町續き明屋敷へ厨を修理入置候始末、主家へ對し深望無{{レ}}之由は申立候得共、其身不
忠之露顯を厭ひ、主人爲筋を申立候者︀を、重科に陷入候等、無{{レ}}紛不屆至極に付獄門
に行ふもの也。
友鵞儀、{{仮題|投錨=一月寺の謝辭|見出=傍|節=u-5a-2-q|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}願の通り、御吟味被{{二}}成下{{一}}、宗掟聢と相立、其上邪正明に相成、自ら諸︀士の忠
烈を勵し候に至り、武門の助と相成候意味を不{{レ}}失、一宗面目不{{レ}}過{{レ}}之、偏に御仁德の
至り、殊更厚御慈悲之御沙汰被{{二}}成下{{一}}、言語に不{{レ}}及處、深難︀{{レ}}有仕合奉{{レ}}存候。右御禮
參上仕候。
未十月十日 {{仮題|添文=1| 愛璿 |一月寺役僧︀}}
天保七申三月十五日、{{仮題|投錨=關係諸︀侯伯の交迭|見出=傍|節=u-5a-2-r|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊7|錨}}松平左近將監殿、奧州棚倉へ所替被{{二}}仰付{{一}}、{{仮題|分注=1|是迄棚倉城には井上河內守殿なりしが此度上
州館︀林へ所替となり、館︀林の城
主、石州濱田へ入代りとなる。}}
脇坂中務大夫殿には、昨年仙石一件御仕置後間もなく、西丸御老中格、從四位侍從
に命ぜらる。
{{仮題|ここまで=浮世の有様/2/分冊7}}
{{仮題|ここから=浮世の有様/2/分冊8}}
{{仮題|頁=209}}
{{仮題|細目=1}}
ちよんがれ
これ{{く}}皆さん聞いても吳んない、{{仮題|投錨=ちよんがれ|見出=傍|節=u-5a-2-s|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊8|錨}}おらが隣の其又隣の仙石樣は、御國の家老が謀
叛を巧んで、一家・一門申し合せて主人を殺︀して、子息を主人に替玉食はして、其身
{{仮題|頁=210}}
は榮耀の錦の襖に、蒔畫の御膳で、二汁・五菜や、三汁・五菜の御料理、其外朝から晩迄、
酒や肴でどんちやんどんちやん、五萬石をば{{r|〆|しめ}}この笠著︀て飛んだりはねたり、面白
可笑しく暮らそと思うた巧みの品が、一味の中から轉が夜拔けを早くも聞きつけ、
こいつは堪らぬ、肝心要の大變所か、定めて{{r|彼奴|あいつ}}はお江戶に出かけて返り忠をばし
やうと思つて、逃げたと思ふに、卑怯な奴だい、急いでさがせと、夜の目も寢ないで、
お江戶へ出て來て、八町堀へお金で賴んで捜して貰うて、橫山町にて御上意なんど
で捕らんとしたらば、其時轉はちつとも騷がず、公儀の御手からお捕りなさるなら
繩目に逢はうが、仙石家より御賴みで捕るなら了簡有るとて、尺八なんどをひねく
り廻して、怒りの氣色で、與力や同心大に{{r|怯|ひる}}んですてきな奴だと{{r|欺|だま}}して捕らんと、
公儀の御手から御捕りなさるに、騷ぐな轉と呼ばはりかくれば、そんなら拙者︀はお
町に出かけて、一番理屈を云はねばならない、お町へ出懸けて、一から十迄、左京が
惡事を殘らず語れば、御奉行様にもびつくり驚天、聞捨ならん{{仮題|編注=2|そ|本ノマヽ}}にならねい、幕だと
思ふ所へ、井上樣より、虛無僧︀なんどはおいらが係りだ、何しに{{r|其方|そつち}}でおせんなさ
つたと、尻が來てからこいつは一番、あやまり證文、南無三寶と御寺社︀へ渡して、お
町は引き込む、井上樣では、色々詮議を、致した所が、親類︀內では御都︀合惡いと、脇
坂なんどへ渡してやつたら、{{仮題|投錨=〔原註〕御老中になりたしとて、脇坂より防州へ頻︀に賂をなせし事有りしと云へる時あり|見出=傍|節=|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊8|錨}}段々糺して宜い事聞いたぞ、おいらが周防にお金を取
られて、ねつから今迄御役も來ないでつまらぬ所だ、一番りきんで周防に泡をば、
吹かせて拙者︀が御役にならんと、嚴しき詮議で、一味の奴迄殘らず呼び寄せ、方々
に御預け、大名物入り留守居駈け出し、お金の相談、座敷を拵へ警固の人やら、每日
每日お町へ呼出し、駕籠から馬から大變な騷ぎで有ます、所が仙石樣では藝州樣か
ら、警固の人數が大勢來りて、御門々々を固めて仕舞つて、出るにも出られず、這入
もならない、ちやんと固めて家中の面々、大に困つて、左京が御蔭で、なんにも知ら
ないおいらも難︀儀で、味噌や醬油に困りきるとて、左京が首をば微塵に碎いて、燒
いて粉にして食うてやつても、足りない男だ憎︀つくい奴だと、てんでに罵り、周防
樣にも引込み屆けて、十日も廿日も引つ込んでゐれども、御尋なんどもねつからな
ければ、南無三御役は是迄なりけり、今更主稅を大に怨んで、叱つてみるやらきめ
{{仮題|頁=211}}
てみるやら、後の祭りでねつからつまらぬ、御役が上つて平手になつたら、御金や
著︀物や樽や肴を持ち込む所は少しも有るまい、淋しい暮しにならうと思うて、俄に
留守居が方々駈け付け、きしめ{{く}}を賴んで廻れど、今更仕方も渚︀の千鳥、啼くよ
り外は仕樣も無いとて、ちよん{{く}}、幕。
{{left/s|3em}}
{{Interval|width=30em|margin-right=1em|array=
千石も田のみすく雲しつきのな^當世 br
あきに臨時の轉めされし^神︀谷 br
たより聞く雁をも友と鷺が鳴て^一月 br
あづかり物の荷厄介なり{{仮題|行内塊=1|是は松平備中守樣|友鵞預なり}}^駿臺 br
筒井つゝ井筒にかけまくり尺八^南坊 br
ちから業にも重い玉づさ{{仮題|行内塊=1|松平主稅樣事|}}^平松 br
ひだり京道の助けをしるべとし^老功 br
出る石緩し城がかたぶそく^但府 br
權兵衞は種をまかねば丸となし^祖︀父 br
坂のわきより花のよこ枝^汐留 br
春心伊達なうはさも今日ぞ見る^千大 br
昔のかたを聞くも恨めし^防蔦 br
かたばみの劒とけんとす御後室^{{仮題|行内塊=1|是は酒井樣より入與の御方にて|御後室仙石左京密通の事なり}}^隱婦 br
七五三打懸て神︀や守らん^轉見 br
美濃紙はものが當りて破れ障子^鶴︀毒 br
御先代美濃守さまの評判 br
おんいへも永樂錢とおもひしに br
}}
{{left/e}}
{{Interval|width=10em|margin-right=1em|sep-char=▲|BR=empty|array=
▲傳 相<br/>
<span style="display: inline-block; width: 4.7em; height: 4.7em; border-radius: 50%; border: solid 3px; text-align:center;"><span style="vertical-align:middle;text-align:left;display:inline-block;"><span style="display:block;"> 永 </span><span style="display:block;">寶 □ 通</span><span style="display:block;"> 樂 </span></span></span><br/>
老 家<br/>
▲2:<br/>
{{仮題|行内塊=1|五年以前一人前百|石より五百石干石}}<br/>
{{resize|150%|一文がうよく}}<br/>
{{仮題|行内塊=1|萬一成就する時は大名也。| }}<br/>
}}
抑〻此藥は一月寺こむそうの吿に依り、左京が拷問の痛みに謀叛は日々尻われ、一味
{{仮題|頁=212}}
くだけ露顯騒動、主稅は疾病、周防は頭痛、其外家中御蔭預け、大名物入り、金瘡丹
目附の虎眼、留守居忙がしく、眩暈・立ぐらみ・底豆によし、佞奸の者︀にて其內腹がわ
かつてよし。
吟味調所 {{仮題|添文=1| 龍野氏 |江戶芝三田}}<span style="letter-spacing:-0.6em">○○ </span>
此度善人に紛らはしき類︀あまた御座候間、能々吟味の上裁評仕候、
右次所
{{left/s|4em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=2em|sep-char=▲|array=
▲{{仮題|添文=1| 神︀谷轉|忠}}▲{{仮題|添文=1| 荒木玄蕃|惡}}▲{{仮題|添文=1| 酒勾淸兵衞|忠}}
▲{{仮題|添文=1| 杉原官兵衞|惡}}▲{{仮題|添文=1| 仙石左京|大惡}}▲{{仮題|添文=1| 靑木彈左衞門|惡}}
▲{{仮題|添文=1| 仙石小太郞|同}}▲{{仮題|添文=1| 大塚︀甚太夫|同}}▲{{仮題|添文=1| 西村門平|同}}
▲{{仮題|添文=1| 高野直助|同}}▲{{仮題|添文=1| 神︀谷七五三|同}}▲{{仮題|添文=1| 早川保助|同}}
▲{{仮題|添文=1| 鷹取已伯|同}}▲{{仮題|添文=1| 西岡斧七|同}}▲{{仮題|添文=1| 仙石主計|同}}
▲{{仮題|添文=1| 岩田靜馬|同}}▲{{仮題|添文=1| 山本新兵衞|同}}▲{{仮題|添文=1| 久保眞吉郞|同}}
▲{{仮題|添文=1| 麻見四郞兵衞|同}}▲{{仮題|添文=1| 渡邊越中|同}}
}}
{{left/e}}
{{left/s|1em}}
右之內取次の儀は、何れとも善惡相分り兼申候。追て吟味の上引札を以て申上
候。以上、
{{Interval|width=10em|margin-right=6em|sep-char=▲|array=
▲{{仮題|行内塊=1|高千石|年寄}}^岩田靜馬▲{{仮題|行内塊=1|高四百|石年筒}}^靑木彈右衞門▲{{仮題|行内塊=1|高三百|五十石}}^杉原官兵衞▲{{仮題|行内塊=1|用人| }}^大塚︀甚太夫
▲{{仮題|行内塊=1|同| }}^宇野甚助▲{{仮題|行内塊=1|勘定|奉行}}^山本耕兵衞▲{{仮題|行内塊=1|近習番| }}^早川保助▲{{仮題|行内塊=1|近習番| }}^西村門平
▲{{仮題|行内塊=1|旗奉行|郡奉行|勘定奉行}}^岩田丹太夫▲{{仮題|行内塊=1|郡奉行| }}^德永半右衞門▲{{仮題|行内塊=1|町奉行| }}^惠崎又左衞門▲{{仮題|行内塊=1|醫師| }}^鷹取已伯
}}
右十二人は傳馬町揚り屋入に相成申候。
{{Interval|width=10em|margin-right=6em|sep-char=▲|array=
▲ ^荒木玄蕃▲ ^仙石主計▲ ^酒勾淸兵衞▲{{仮題|行内塊=1|臺所|小頭}}^{{仮題|添文=1| 西岡斧七||{{仮題|行内塊=1|備前預り中|侍分御取扱}}}}
}}
右四人は忠臣之由にて、別て大切の御取り計ひ方の由。
{{Interval|width=10em|margin-right=6em|sep-char=▲|array=
▲ ^仙石左京▲ ^同 小太郞
}}
右二人は未だ備前へ御預け中、大逆臣小口に相成、
{{Interval|width=10em|margin-right=6em|sep-char=▲|array=
▲{{仮題|行内塊=1|高二百五|十石年寄}}^山田八右衞門▲{{仮題|行内塊=1|高百五十|石年寄}}大森登
}}
右二人は松平美濃守へ御預け中。
{{left/e}}
東西々々御城下平一面に岩田御靜り下されませう、此度江戶寺社︀御屋敷に於て、晴︀
{{仮題|頁=213}}
{{仮題|投錨=相撲番附に擬す|見出=傍|節=u-5a-2-u|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊8|錨}}
{| border="1" style="border:1px;border-collapse:collapse;"
|-
| style="width:2em;" rowspan="3" | {{resize|200%|御免︀大相撲}} || style="width:12em;" |
{{resize|200%|大關}} 仙石左京<br/>
{{resize|200%|關脇}} 岩田靜馬<br/>
{{resize|200%|小結}} 宇野甚助<br/>
| style="width:12em;" |
前頭 山本幸三郞<br/>
同 杉原勘平<br/>
同 鷹取已伯<br/>
同 靑木彈右衞門<br/>
同 岩田丹太夫<br/>
同 大塚︀甚太夫<br/>
同 山本耕兵衞<br/>
同 西村文兵衞<br/>
| style="width:12em;" |
{{Interval|width=1em|margin-right=2em|BR=empty|array=
{{resize|150%|世話人}}
6:土肥折之進<br/>
綱太<br/>
油義<br/>
島藤<br/>
宿利<br/>
}}
|-
| {{resize|200%|行司}} {{仮題|行内塊=1|size=100%|松平周防守|脇坂中務大夫|井上河內守}} || {{resize|150%|呼出}} {{仮題|行内塊=1|size=100%|松平主稅| |渡邊角太夫}} ||
{{Interval|width=1em|margin-right=2em|sep-char=@|BR=empty|style=line-height:1.2em;|array=
@{{resize|150%|勸進頭取}}
@6:仙石道之助<br/>
仙石左京<br/>
同 小太郞<br/>
奧女中<br/>
}}
|-
| {{resize|200%|大關}} 荒木玄蕃<br/>
{{resize|200%|關脇}} 仙石主計<br/>
{{resize|200%|小結}} 神︀谷轉<br/>
|
前頭 河野瀨兵衞<br/>
同 酒勾淸兵衞<br/>
同 磯野六郞二<br/>
同 仙石馬之助<br/>
同 酒勾薰<br/>
同 原六郞右衞門<br/>
同 麻見四郞兵衞<br/>
同 渡邊淸助<br/>
| style="padding-left:2em;" |
京島良右衞門<br/>
下鄕治右衞門<br/>
安宅彥左衞門<br/>
佐々木太郞衞門<br/>
|}
天五日より訴訟興行仕る、其沙汰三人衆中宜しくと有{{レ}}之、利口より賑々しく御城下
へ御入來下され候段、肝心要不{{レ}}及{{レ}}申、左京の頭取訴訟の面々、如何計り迷惑至極の
色をなし奉ります。訴訟古實といつぱ、天保元寅年秋稻作不出來に付、見分扱ひ願上
候、其時山本耕兵衞を始めとして、宇野甚助の鷹の目を見開き、不屆至極の願ひ出で、
一合一勺も引く事ならずときめ付けたり。其後片屋に、河野瀨兵衞竝三人衆を力
として、相手の面々追々御江戶へ召し呼ばれますれば、轉をせごめ浪人浮世の戲男
とは天地黑白の相違なり。まつた此外主計古實御座候得共、何を申すも不便の瀨兵
衡、長口上は却て左京吟味の妨げ、{{r|新手|あらて}}荒木を入れ、後は玄蕃にとらせ御覽に入れ升。
見物の向に四家品々
ありがたき道之助はある物をふみ迷ふべき左り京道
仙石米。仙石と云ふ人は一に家老を蹈ん張つて、二には憎︀くい惡巧み、三に左京が
指圖にて、四つ世つぎもない樣に、五つ出石の騷動は、六つ無體に計らひて、七つなく
やら殺︀すやら、八つやたらに預けられ、九つ殺︀した御吟味を、十でとつくり濟めば好
{{仮題|頁=214}}
い。此度御役申せば、濱田御老中豐後・伊賀御役人、仙石樣は百年目。左京は金を撒き
散らし、主稅に任する所を、上より龍野が舞下り、惡しき奴原かい摑みて、鹽留の海︀
へさらり{{く}}。
五萬石投出させんと主稅持つどつこい周防は旨く行くまい
{{仮題|細目=1}}
魚盡し連歌{{仮題|投錨=漁盡し連歌|見出=傍|節=u-5a-2-v|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊8|錨}}{{nop}}
{{left/s|3em}}
{{Interval|width=36em|style=line-height:3em;|array=
身の上の毒共知らず喰うた鰒黑髮切つて今は尼鯛^{{仮題|行内塊=1|亡靈|後室}} br
大望は元より思ひ立ちの魚身方を賴み送るほう{{ぐ}}^{{仮題|行内塊=1|仙京權|右衞門}} br
道ならぬ望は終にかながしら深編笠の心ある鯖^{{仮題|行内塊=1|神︀轉}} br
江戶前と思の外に捕るゝもちま〔{{仮題|分注=1|は脫|カ}}〕したる賣つゝいが^{{仮題|行内塊=1|八堀|大困}} br
御預の身はちら{{く}}の木葉鰈兼て覺悟の命ほしがれ^{{仮題|行内塊=1|道堂|末孫}} br
兄弟のわりなき中も興鮫拙なかりける家の大鱚^{{仮題|行内塊=1|松川|濱田}} br
對決の場は口論にいひ鰹あとの手段に思ひ白魚^{{仮題|行内塊=1|仙京|神︀轉}} br
御尋の筋殘らず皆鰯心にさわぐことのよし餘^{{仮題|行内塊=1|吟味|龍野}} br
直な御代横にはいかぬ車海︀老主の報いの首は飛魚^{{仮題|行内塊=1|龍野|御叱}} br
此上は家の贔屓を賴み鱒權兵衞が功も少し立鯛^  br
五萬石丸で無の字と極め鱈永樂錢で買へぬ{{r|鱅|このしろ}}^{{仮題|行内塊=1|家敎|出石}} br
}}
{{left/e}}
千秋{{仮題|投錨=萬歲|見出=傍|節=u-5a-2-w|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊8|錨}}
やくはらひ
やはら見せたいな{{く}}、斯かる見せたきよくの世に、御家の騷動隱れなき、此度御役
を申さうなら、石州濱田御老中、伊賀も豐後も御役人、一身は仙石金は萬兩、左京が主
稅一ぱいに、まきちらしたる其折柄に、天より龍野が天降り、彼の奴原をひつ摑み、
周防が袖にひつ包み、西の海︀へと思へども、汐留へさらり、御役あがりませ、やくあ
がりませう。
仙石家の騷動を詠める 讀人知らず{{nop}}
{{仮題|頁=215}}
{{left/s|3em}}
横道のすかたん家老無分別戰國めける家の騷動
積み積んで左京が惡事道之助千石船も沈みやはせん
權兵衞が蒔きし種をば心なき家の烏がほぜくりにけり
文も武も道之助にはならぬなり治れる世に亂れぬる家
家の變に千鳥の香爐啼きもせで{{r|彼方此方|あちらこちら}}に權兵衞ぞなく
家の鼠千石の米を喰ひ盡し永樂錢と募る欲心
指を折つて增の出世を松平主稅も脫けて嘸悔︀むらん
蘇芳染の幟に目立つ千兩は富の札賣る濱田屋が店
{{left/e}}
{{left/s|1em}}
右の如き戲れし事を書き付けぬるは、餘り浮きたる業にはあれども、當時の風說
にして實事を知るに足れる事共其中に在るが故なり。又河野瀨兵衞、出石を追
放せられ、江戶に出でて、主家の緣家へ出だしゝといふ十七箇條の書付、生野銀山
渡邊角太夫へ內緣ある故に、之に便り、同人妾宅にかくまはれ、出石より捕手入
り込み召捕れし始末等、同國村岡の長臣澤山儀兵衞も、生野に由緖ある人にて、
則彼地へ到り、渡邊角太夫より委しく聞き取りて、予に語りし事有りと雖も、餘
りにくだ{{く}}しければ、之を記すに及ばず。こは天保四巳年の冬、飢僅なりとて、
米價尊き最中の事なりし。
{{left/e}}
仙石家の騒動巷說紛々として、{{仮題|投錨=騒動の批評|見出=傍|節=u-5a-2-x|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊8|錨}}江府より所々へ申し來れるも、一樣なる事無し。其
中にて尤も慥なるを問ひ定めて、之を寫し取り、尙又實を詳かにせんと思へるにぞ、
其國の人にも能く之を問ひ極めて、其事を書き集めしにぞ、終に一の卷とはなりぬ。
此一件に於けるや、左京が惡事、大逆無道なる事は、三歲の小兒と雖も、一度其爲せ
る所の業を聞きては、其不忠・不義なる事を知りて、憎︀む所なれば、辯を待たずして
明なり。{{仮題|投錨=松平周防守|見出=傍|節=u-5a-2-y|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊8|錨}}然りと雖も、斯る惡心の根ざしぬる本源は、播磨守・越前守等の不明・不德よ
り起れり。されども、上に松平主稅の緣なく、防州の如き欲深き小人なくば、左京
も爭か斯く迄に其臍を固むる事を能くせんや。之に依て之を思へば、惡事の張本・
逆心の後楯となりて、斯かる大變を引出せし者︀は、防州なりと云ふべし。殊に多く
の賂を貪り取りし中にも、世間にてもよく知れる所の仙石家の重寶、太閤秀吉公よ
{{仮題|頁=216}}
り拜領せし天下稀なる、蜀江錦の陣羽︀織を所望し、其儘にては之を用ひ難︀しと思へ
る心なるにや、天下の重寶をむざ{{く}}と切散らし、之にて紙入などを拵らへしとい
ふ。{{仮題|投錨=神︀谷轉|見出=傍|節=u-5a-2-z|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊8|錨}}淺ましき心底、言語道斷なる業と云ふべし。又神︀谷轉と云へる臆病未練︀の狼
狽者︀あり。世間にて此者︀を指して、專ら忠臣なりと稱す。大に笑ふべき事なり。彼
眞實忠臣にして、少しく武道の辨別あらば、左京を殺︀すに何の難︀き事あらんや。彼
一人をだに殺︀害に及ばゝ、其餘の同類︀何十人ありぬればとて、爭か其惡を施す事能
はんや。假令其身事を遂ぐる事克はずして左京が爲めに其命を亡ぼすとも、忠義
の志は貫きて、士の道に於て露計り恥ぢざる事なるに、其事もあらで、己が河野瀨
兵衞へ內通せしことの露顯せしと悟れるや否や。其害に遇はんと大に{{r|戰|ふる}}ひ慄れ、
直に出奔して、一月寺に逃隱れ、公儀へ召捕へらるゝに至りて、己が臆病なる事を
押し隱し、故主の不明・不德を訴へしかば、終に仙石家其本領を召し放されて、三萬
石の新知とはなりぬ。憎︀むべき業にあらずや。世間にて專ら噂する如くに、播磨
守・越前守の兩人共、左京が爲に毒殺︀せられしに事極らば、仙石家も是れ迄病死と僞
り、公儀を欺き奉りて、本領を安堵せし罪科逃れ難︀ければ、彼家は沒收し、左京は磔
となるべき事なるに、其事に至らざりしは、全く御仁慈の御計ひと云ふべし。斯か
る未練︀の不忠者︀をさへ、{{仮題|投錨=河野瀨兵衞|見出=傍|節=u-5a-2-A|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊8|錨}}世間にては專ら忠臣なりと稱す。其忠如何なる所にかあ
る、笑ふべき事なり。又河野瀬兵衞と云へる者︀有り。轉とは少しく異なる所あれ
ども、之も其爲す所拙きが故に、忽ち出石を追放せらるゝに至る。其後左京が惡事
十七箇條を書き記し、江戶へ到りて仙石の分家、其餘緣類︀方へも之を訴へしかども、
何れも之を取用ふる事無かりしにぞ、生野銀山の地役人、渡邊角太夫といへるは、
瀨兵衞內緣ある者︀故、之に便りてかくまはれしに、同人が江戶に出でて、分家其外
へ訴へし事、忽ち左京が耳へ入りしかば、此者︀を其儘になし置かば、身に災ひあら
ん事を恐れ、直に捕手を銀山へ遣して、法外なる事をなし、瀨兵衞を召捕連れ歸り
て入牢せしむるにぞ、生野御代官西村貞太郞殿より、其狼藉せし始末を、御勘定奉
行曾我豐後守へ訴へられしに、同人之を私し、防州の非道なる指圖に依つて、瀨兵
衞は首を刎ねらるゝに至る。是れ同人が不幸にはあれども、元來其爲せる業の拙
{{仮題|頁=217}}
きが故に、此に至れると云ふべし。又荒木玄蕃・酒勾淸兵衞・仙石主計、此等は先祖︀
より由緖ある家柄と云ひ、殊に當時執政の大任を蒙れる身に在りながら、左京が惡
事を糺す事克はず、却て之に取り挫がれ、如何に命の惜しければとて、坊主にせら
れ、穢多村の隣に押し籠められ、全く己等が不器︀量によつて斯かる大變を引出せし
に非ずや。此故に、終には公邊迄も勞し奉る樣になりぬ。然るに、其御仁慈を蒙り、
事落著︀に及びしとて、今更坊主天意に附髮し、再び家老職となりて、如何なる事を
なすや。何の面目有りてか、世間の人々に其面を合せるや、尙此上にも其恥を吹聽
せんと思へるにや。五萬八千石餘の諸︀侯にして、其藩中一人も人なし。彼家の弓
矢も之にて思ひやられぬ。假令彼家一人の人なしと云ふとも、其分家あり。又歷
歷の緣家も少なからざる事なるに、其中にて一人にても、少しく心を用ふる人あら
ば、斯かる大變には至るまじき事なるに、先祖︀武功ありし家に傷つけて、後世に至
りぬる共、再び此恥を雪ぐ事なり難︀し。公邊をも恐れ奉るべき事なり。此度の騷
動一件に就いて、{{仮題|投錨=一月寺|見出=傍|節=u-5a-2-B|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊8|錨}}一月寺の腹よくすわりし故、轉も仙石家へ引渡さるゝ事無き樣に
なりぬ。若し同寺腹をすゑて願ひ出づる事無くば、瀨兵衞と同じく、轉も首を刎ね
らるゝ事なるべし。さある時には、道之助殿にも危き身の上なりしに、之を全うせ
し事は、一月寺の助力に在る者︀なり。之に依つて、一月寺は大に名を擧げしかども、
仙石家の拙きは云ふに及ばす。彼家に繫れる歷々の事さへ思ひ遣られぬる樣には
なりぬ。{{nop}}
{{仮題|ここまで=浮世の有様/2/分冊8}}
{{仮題|ここから=浮世の有様/2/分冊9}}
{{仮題|頁=217}}
{{仮題|投錨=天保六年長崎唐人騷動|見出=中|節=u-5a-3|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
同年十二月於{{二}}長崎{{一}}唐人騷動見聞略意{{仮題|分注=1|齋藤町大和屋林藏及長崎|より申來書付の寫なり}}
一、當春よりの在留船頭、唐人殊漁村と申す者︀、此間病死致し、{{仮題|投錨=唐人葬式|見出=傍|節=u-5a-3-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}葬送の儀願出、任{{レ}}例御
免︀被{{二}}仰付{{一}}、當月十三日未刻、葬送有{{レ}}之、船の船頭始め、其外役々唐人竝下々の唐人
共迄、都︀合百三十人餘、檀寺{{仮題|分注=1|南|京}}興福︀寺まで送り願出候處、是亦御免︀に相成、出{{仮題|編注=2|服|本ノマヽ}}致し
尤も、當節︀唐人他出罷成不{{レ}}申旨、嚴しく御取締有{{レ}}之候に付、途中にて間違ひ無{{レ}}之樣、
地下役人竝大勢附添ひ道中木刀・十手・早繩を持ち、右葬送の式は、凡眞先に屋臺樣
の物拵、其內に位牌竝色々送物有{{レ}}之候を、四人にて荷ひ、又同樣屋臺に、鷄・猪︀其外
{{仮題|頁=218}}
供物山海︀の珍物盛立て荷ひ、夫より旗或は太鼓・銅羅等の鳴物有{{レ}}之、其次に下々の
唐人共。大勢引續棺參る。其棺凡そ一間半計りの棺にして、上は紅縮緬にて卷き、
立花毛氈其外色々の切れにて飾立、凡三十人餘にて荷ひ、其次に、泣き唐人と申者︀一
兩人、是は身近き親類︀、或は召遣ひの者︀にて、白衣服にて帽子も布白にて包み候を
著︀し、頻︀に愁傷淚を流し參る。夫より船頭、其外役唐人共、列を正し、隨分愁傷の體
日本も同樣に御座候。市中の見物夥しく有{{レ}}之、旣に{{r|本石灰町|もとしつくひまち}}迄參候處、先立下官
の唐人共凡五十人計町々に散亂可{{レ}}致模樣に付、附添の役人衆色々制候得共、一向聞
入不{{レ}}申、{{仮題|投錨=亂妨|見出=傍|節=u-5a-3-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}理不盡に散亂致し候に付、無{{二}}是非{{一}}役人衆、木太刀にて頭を一人打割り、四
五人は取押へ、繩懸申候。右唐人共、是を見て、逃げ歸り候振にて、棺の次に附添候船
頭唐人共を致{{二}}打擲{{一}}、種々惡言致しゝ故、船頭共思ひ{{く}}に逃出し、內一人は氣細な
る船頭にて、暫時絕入候儀有{{レ}}之、是は同町役場へ引上げ、致{{二}}介抱{{一}}候。其後丸山角
筑後屋と申遊女家へ連行き、致{{二}}養生{{一}}度願に付、醫師等召連同所へ參り外船主唐人
は、大德寺{{仮題|分注=1|天|台}}へ逃行き翌十四日迄宿止いたし申候。
{{left/s|1em}}
此船頭共を右之如く打擲抔せし譯は、此節︀の御取締筋且本方商賣等に障り候故、
船頭共の願と心得違にて、打擲等致し候。右之騷動にて、葬送式は、漸く四五人附
添ひ式相濟申との{{仮題|編注=1|成成|衍カ}}事に候。
{{left/e}}
夫より右の下唐人共、唐人屋敷へ歸りて、名役・通事役詰所、或は御檢使等御出座の
詰所へ、石を投げ、又は其座に在合火鉢抔を投懸、襖・障子の類︀打碎、剩へ表門を少々
打破り、法外の亂行、言語道斷に相見え申候。門番詰合役人衆、刀を拔、切り懸かり
候處、唐人共恐れ、門內へ逃入申候。兼ねて御手配有{{レ}}之候肥前大村様・筑前黑田樣
へ、御奉行所より取固方被{{二}}仰付{{一}}、卽刻兩御藏屋敷より御駈付に相成、黑田樣御人數、
大將分四五人、侍衆大勢、足輕五百人、大村家より三百人計り、熊手・鳶口・木刀・槍數十
筋鞘をはづして、鐵炮には火繩を挾み、唐人屋敷への前後左右、幕打ち廻し、頭分の
侍衆、床机に懸り、旗・物・纏押立て、其嚴重なる事難︀{{レ}}申計、夜に入り、高燈籠・大篝
火、夥しき行粧に有{{レ}}之、楯板の樣なる物、筵にて拵へ用ひ、{{仮題|分注=1|此楯は筵四つ折にて、竹に結付け、拵る。唐人共は石を投る事
奇々妙々なり。
防ぎの爲なり。}}其御奉行所よりは、御檢使數頭、地下役人衆不{{レ}}殘出張、十三日夜通し唐
{{仮題|頁=219}}
人屋敷近邊は、白晝の如く輝申候。然る所唐人共相恐候や、其後は館︀內へ籠り、狼
藉無{{レ}}之故、御取固めに相成候迄にて候。前以て御召捕に相成候唐人五人、十三日夜
於{{二}}御奉行所{{一}}大村家へ御預けに相成申候。{{仮題|分注=1|但此節︀御取り締りに付、大村へ被{{二}}仰付{{一}}、召捕候唐人|御預けに相成候樣にて、同村城下に牢獄用意有{{レ}}之候。}}
十四日に相成御奉行所より被{{二}}仰出{{一}}候には、前日の始末、此度入津の砌、嚴しく門外
不{{二}}相成{{一}}旨被{{二}}仰渡{{一}}候て、受書等も有{{レ}}之趣意、不{{二}}相用{{一}}、別て唐人屋敷表門、御公儀の
御門に候處、打破候段、不{{二}}容易{{一}}不埒の次第に有{{レ}}之、右樣亂行相働候段、定めて發起
の當人可{{レ}}有{{レ}}之故、其頭人差出可{{レ}}申、自然當人不{{二}}相分{{一}}に於ては、館︀內へ踏込總人數
不{{レ}}殘召捕方可{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}趣にて、早朝より諸︀役人衆種々利害有{{レ}}之候得共、何分發頭人
向を不{{二}}申出{{一}}、又恐入候趣意も相見え不{{レ}}申、竹槍など拔候由相聞え候に付、直に黑田
家一勢一手にて、召捕方被{{二}}仰付{{一}}、未刻頃館︀內へ打入に相成、先表門より筑前の家士、
當地官役毛谷主水殿、一聲叫び一番に乘入、續て凡四百人り計打入、又裏門より凡
三百餘雙方一同鬨を作る。銘々得物々々を、提其外御奉行所より御檢使數頭、御徒
目附・御小人目附を始め、地下役人刀指の面々總勢千餘人計り、山も崩るゝ如き勢に
て乘入に相成候。
{{left/s|1em}}
但筑前の總大將中老職何某殿は、表門に床几に懸り、足輕大勢にて、一備御控有
{{レ}}之、大村勢は小島と申所、山の手に列を正し、御陣取控有{{レ}}之、裝束は大將分金入
の野袴・羅紗の羽︀織・胸當・兜・頭巾、總て火事裝束なり。侍分は火事裝束、陣笠・踏
込、足輕は、印付の半纏・白木綿後鉢卷・同襷・金紋付の陣笠・手槍・木刀・鳶口等思ひ
思ひに提ぐる。
{{left/e}}
右の勢にて、{{仮題|投錨=唐人の臆病|見出=傍|節=u-5a-3-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}一同御打入に相成候處、兼ての我儘にも似氣無く、大に恐怖し、己が部
屋部屋に逃入、戶を締め一人も出で逢ひ候者︀無{{レ}}之、依之右の大勢打入候や否や、鳶
口・熊手等を以て、部屋々々の雨戶・蔀に至る迄、用捨なく打碎き、屋根には竹梯子を
懸け、夫より二階の戶を打ち碎き、駈入々々唐人共を取つて押へ、繩を懸け生け捕
り、其內手向ひ致候唐人は、木刀を以て頭を打ち破り、腕・首の用捨なく打居ゑ、生捕
に相成候。凡一千人計りの人數にて、雨戶・部を打崩し候故、其音凄じく鬨聲は山に
響︀き、誠に軍陣の如く、目覺しき事共難︀{{レ}}盡{{二}}筆紙{{一}}。扨唐人共の內にても、別て未練︀の
{{仮題|頁=220}}
者︀は、腰を拔かし、這ひ廻り候て、逃る族も有{{レ}}之、遊女・禿の類︀は、凡そ百四五十人計
り有{{レ}}之、一驚を喰ひ候て、泣き叫び逃迷ふ有樣、不便にも亦をかし。是等は追々、役人
より、表門へ送り出しに相成候故、怪我等も無{{レ}}之、夜に入り人別改候て、遊女町へ不
{{レ}}殘御出に相成申候。然るに唐人共、家の隅・押込・床下・天井の上等へ隱れ、或は關帝
堂・觀音堂等に逃隱居候故、隅々隈々御探し相成り候に付、餘程隙取漸暮く頃迄に、
上陸の唐人不{{レ}}殘召捕に相成り申候。尤も船頭其外重役の者︀は、召捕に不{{レ}}及、下官
の向き、三百四五十人計り繩付に相成る。此內疵付、凡十八人計と申す事に御座候。
卽刻御奉行所へ御引出に相成り、夫より黑田勢は引取被{{二}}仰付{{一}}。夜五つ時頃、引き取
りに相成る。其行粧高張數百張燈し連れ一番手より、五番手迄引列、美々しき事共
目を驚し、御藏屋敷へ引取に相成り候上、御門內にて、又々凱歌を唱へ、休息に相成
る。夜に入り、御奉行所には、御奉行竝に御目附御立合にて、召捕の唐人共御召出
御調に相成、丑刻頃右の內、七十一人大村へ御預けに相成、四人は、當地牢屋へ御遣
し、其餘は館︀內へ御歸しに相成る。前文の如く、大村の家士、受取の駕籠に乘せ、侍
衆大勢、馬上にて附添、人足等數萬人、誠に目を驚し申候。右當地牢屋三四人は、十
五日に御返しに相成り申候。右濟口如何相成り候哉、跡二船は荷役出來不{{レ}}申に付、
港內に繫り居、大騷動に出合ひ不{{レ}}申樣、端船{{仮題|分注=1|唐名さ|んはん}}御取立に相成居申候。右の通りに
有{{レ}}之、兩日の內、市中老若、諸︀見物幾萬人と申す儀不{{二}}相分{{一}}、餘り珍事なる儀に付、見
聞{{r|粗|あら}}まし凡の所相認置申候。誠に前代未聞の珍事不{{レ}}怪、御威勢奉{{二}}恐入{{一}}候。乍{{レ}}倂
向後、唐人共恐入候上は、穩に相成、商賣繁榮の基に相成可{{レ}}申哉と奉{{レ}}存候。穴賢。
唐通事共へ
去十三日於{{二}}唐館︀{{一}}及{{二}}亂妨{{一}}候者︀、{{仮題|投錨=處分|見出=傍|節=u-5a-3-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}可{{二}}申上{{一}}樣、總代共へ爲{{二}}申渡{{一}}候處、彼是申延し、時刻
移候のみ有{{レ}}之候間、無{{二}}餘儀{{一}}人數繰入召捕へ、及{{二}}亂妨{{一}}候者︀、名前申立て候樣申し付
け候處、通事共には、平常工社︀とも引合無{{レ}}之に付、不便に候間、總代の者︀呼出、可{{レ}}爲{{二}}
申立{{一}}候旨、申聞候に付、任{{二}}其意{{一}}候處、總代共にも難︀澁申立て不{{二}}申聞{{一}}候。通事共に
も、工社︀を一向不{{レ}}存儀も有{{レ}}之まじく、名指申立て候得ば後難︀も可{{レ}}有{{レ}}之哉に危ぶみ、
品能申立候事と相聞え、不埒に候。急度も可{{レ}}令{{二}}沙汰{{一}}候得共、此節︀柄の儀に付、先不
{{仮題|頁=221}}
{{レ}}及{{二}}沙汰{{一}}候。別紙の趣、唐船主共へ申し渡し候に付、得{{二}}其意{{一}}通辯行屆候樣、誠實に
可{{二}}取計{{一}}候。右の通申し渡し候間、得{{二}}其意{{一}}通事共へ可{{二}}申渡{{一}}候。
船主總代へ
去十三日、於{{二}}唐館︀{{一}}及{{二}}亂妨{{一}}候唐人共、捕押可{{二}}差出{{一}}旨申渡候處、彼是と申延、時刻移候
のみに有{{レ}}之候に付、人數繰入唐人共召捕へ、此度致{{二}}亂妨{{一}}候者︀、小者︀總代共名指し
可{{二}}申立{{一}}樣申渡し候處、難︀澁申立不{{二}}申聞{{一}}候間、先大村牢內へ差遣候。右の中には、
定めて亂妨不{{レ}}致者︀も可{{レ}}有{{レ}}之哉、且入館︀申付候內にも、可{{レ}}有{{レ}}之哉、最初名前不{{二}}申立{{一}}
候故、右時宜に至り、其儘に捨置候は、第一不明にて、御制度に拘不{{二}}容易{{一}}候間、入館︀
爲{{レ}}致候者︀の內より、此度及{{二}}亂妨{{一}}候者︀相糺、當人可{{二}}差出{{一}}候。入牢申付候者︀の內にも、
不埒無{{レ}}之者︀は、名前取調べ可{{二}}申立{{一}}候。然る上は、出牢をも可{{二}}申付{{一}}候。倂館︀內の惡
者︀、猶不{{二}}差出{{一}}者︀不{{レ}}得{{レ}}止事可{{レ}}及{{二}}其沙汰{{一}}候。
右之通申渡候間得{{二}}其意{{一}}、唐商共に通事を以て可{{二}}申渡{{一}}候。
{{仮題|添文=1| 沈粒穀︀ |未四番船}}
{{仮題|添文=1| 揚西亭 |未五番船}}
其方共船々先達て入津の節︀、今度改て被{{二}}仰出{{一}}候御趣意の趣申渡候處、乘組一同以{{二}}
連印{{一}}眞の物差出以後は御國法固く相守り、從前により被{{二}}仰出{{一}}候掟違背仕まじき旨
申出で、商賣の儀相願候に付、承屆け差免︀候處、此度不法の始末、不{{レ}}成{{二}}一通{{一}}、諸︀番所
へ石礫打、剩へ唐館︀表門扉打ち破及{{二}}亂妨{{一}}候段、重々不屆至極に候。依{{レ}}之商賣差留
候條、荷物速に積戾り可{{レ}}申候。右の通申渡候條、得{{二}}其意{{一}}、唐商共へ可{{二}}申渡{{一}}候。
未十二月
{{仮題|投錨=仙石騷動|見出=中|節=u-5a-4|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
十月廿四日
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=36em|array=
仙石一件に拘り候に付、二の丸御留守居被{{二}}仰付{{一}}^{{仮題|添文=1| 田中龍之助|奧御右筆頭}} br
同一件に付西の丸新御番被{{二}}仰付{{一}}^{{仮題|添文=1| 神︀原孫之丞|奧御右筆}} br
}}
龍神︀もいたちに吸はれ骨と皮
田中龍之助・神︀原孫之丞一件は、先頃脇坂中務大輔より、仙石家口書等書上に相成
{{仮題|頁=222}}
申候處、{{仮題|投錨=口書を取繕ひ讀む|見出=傍|節=u-5a-4-a|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}右文中に、周防守名前澤山有{{レ}}之、如何と存候て、田中龍之助指圖を以、神︀
原孫之丞へ申含候に付、右周防守名前竝差合等の文言、所々省き飛讀に被{{レ}}致候て
實敷と、孫之丞へ申合候に付、右文中色々致{{二}}差略{{一}}御老中御前にて讀上候て、當日
の所、相濟候得共、追て兩人申し合せの趣、露顯に及び、俄に左樣御役替へに相成
り候由、元來孫之丞事は、龍之助指圖を以ての事とは乍{{レ}}申、前後心得も可{{レ}}有{{レ}}之の
所、不行屆の事に候、然る所當人は組頭指圖にて、斯樣相成申候ては、迷惑と申事
にて、引込立腹被{{レ}}致候由、駿河臺近隣の者︀咄なり。
{{left/s|2em}}
仙石は永樂錢と思ひしに丸に無の字と云ふ沙汰もあり
永樂がつぶれて百文錢が出來
好い時節︀今年は大根の當り年 <sup>伯耆</sup>
落葉散る次第淋しき蔦の紋 <sup>周防</sup>
{{left/e}}{{left/e}}
仙石內亂{{仮題|投錨=仙石騒動の總督|見出=傍|節=u-5a-4-b|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
文政十年亥六月十四日、河野瀨兵衞蟄居被{{二}}仰付{{一}}、其後御追放にて、三都︀竝兩丹・作州
徘徊は差留被{{二}}仰付{{一}}。天保四年巳六月頃迄、姉増生野銀山地役人渡邊角太夫方へ罷
在、同六月出府仕、常眞院樣、竝御同性樣方へ上書致し、八月時分生野銀山へ罷歸、
同所子供の素讀の世話致居候處、不{{レ}}輕吟味筋有{{レ}}之由に付、十二月中旬頃より、下目
附被{{二}}差出{{一}}、所の吟味有{{レ}}之候處、右銀山に慥に罷り在り候樣相聞え、橫目附良八、十六
日出立、銀山近邊聞合候處、罷在候に相違無{{レ}}之候得共、御領所地內の儀、容易に難︀{{二}}
召捕{{一}}、時分を考へ出石表へ申通候處、直に御郡組忠次・門平・喜平・準太夫罷り越し、森
垣山口邊に手分隱居候處、良八より廿五日右兩所に通達致し、各。用意相調へ、兼て
駕籠用意致し置、人足の姿に{{r|瘦|やつ}}し、來山御円番へは、御館︀入非筒屋動助方にて、飛脚
の者︀病氣罷り在り候に付、爲{{レ}}迎罷通候樣相斷り、角太夫外宅にて、踏み込召捕候處、
何者︀なれば理不盡に狼藉致し候哉と、大音にて罵りければ、隣家櫛橋丈助父子直樣
罷越し、色々申聞け候得共、元ゟ聞き入れ不{{レ}}申、無二無三に駕籠に打乘せ、繩にて駕
籠にからみ付、夜五つ時過、銀山御締無{{レ}}之內、早足にて、御門へ病人の由相斷り罷り
通り、森垣村角兵衞・源吉と申者︀方へ連歸り、手錠・腰繩にて罷り在り候處、銀山より
{{仮題|頁=223}}
角太夫父子罷り越し、瀨兵衞儀可{{二}}相渡{{一}}旨段々及{{二}}掛合{{一}}候得共、小役の者︀共相渡不
{{レ}}申處、御代官貞太郞樣ゟ、御差押へ、無{{レ}}據右旅宿に於て警固罷在候處、出石表より、
餘り手間取り候故、追々小役被{{二}}差向{{一}}候處、右の次第に付、追々注進有{{レ}}之、山本耕兵
衞・永井喜右衞門罷り越し、御陣屋へ、段々及{{二}}掛合{{一}}候處、召連引取模樣に相成不{{レ}}申、
早々山本耕兵衞罷り歸り、直に入府、大晦日暮時に出立有{{レ}}之、警固役小林集平、生
野表へ警固として被{{二}}仰付{{一}}、同刻能り越し、右の一件雙方より、關東伺に相成候處、翌
午年二月六日、瀨兵衞儀、御代官西村貞太郞樣に引渡候樣被{{二}}仰出{{一}}、御引き渡しに相
成候に付、御郡奉行岩田丹太夫、警固役小林集平引渡相濟み。
口上覺
河野瀨兵衞儀、{{仮題|投錨=往復の文書|見出=傍|節=u-5a-4-c|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}當御役所へ御引渡申すべき旨、江戶表において曾我豐後守樣へ被{{二}}
仰渡{{一}}候につき、御引渡申候、何分右瀨兵衞儀、道之助方にて輕からざる吟味筋御座
候に付、御役所御吟味相濟み候はゞ、何卒道之助方へ御渡被{{二}}成下{{一}}候樣、精︀々奉{{二}}願
上{{一}}候。以上。
二月十五日 {{仮題|添文=1| 岩田丹太夫|仙石道之助內}}
同四月十五日、瀨兵衞此方へ御引渡に付、永井喜右衞門・小林集平罷り越し受取り、
直に夫々警固の者︀附添ひ、同夜中、裏町揚り屋入に相成る。
仙石左京隱居願御差し留め被{{二}}仰出{{一}}候寫{{nop}}{{仮題|投錨=仙石左京隱居願差留めらる|見出=傍|節=u-5a-4-d|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
天保六年未五月廿六日四つ時、御使者︀岩田靜馬・靑木彈右衞門{{nop}}
御自分、近年多病、其上去冬以來、久々疝癪氣急に被{{レ}}致、全快候程も無{{二}}覺束{{一}}、仍て先頃
隱居願の處、無{{二}}餘儀{{一}}事には、被{{二}}思召{{一}}候得共、先以御幼君の御儀、御政事の儀、御自
分へ多分御任せ被{{レ}}置候儀、誠に御勝手向、積年御むつかしく被{{レ}}爲{{レ}}在候處、段々格別
の心配を以、夫々被{{二}}申談{{一}}指圖等も行屆くか、當節︀の御差支等も無{{レ}}之段、全く精︀忠の
至に被{{二}}思召{{一}}候。右に付きても、御加恩等の思召、數度被{{レ}}爲{{レ}}在候得共、御自分氣質
且家柄等にては、容易に御受被{{レ}}致まじくやと、是又御心配に常々被{{二}}思召{{一}}候。御心
外無{{二}}其儀{{一}}被{{レ}}爲{{レ}}過、甚以御不快被{{レ}}爲{{レ}}在候。第一、追々御成長被{{レ}}爲{{レ}}遊候に付、最早
來秋は、御乘出被{{レ}}遊候御儀被{{レ}}爲、引續き御入部後迄の所、不{{レ}}被{{二}}相勤{{一}}候ては、不{{二}}相
{{仮題|頁=224}}
成{{一}}儀、且又去々春四家の面々、上書の一件に付ては、御自分心配は不{{レ}}及{{レ}}申儀、上御厚
配不{{二}}御一方{{一}}儀、追々御落著︀に者︀相成候得共、無{{二}}御殘{{一}}御事濟と申候も未相成兼候儀、
大家代々重役等も被{{二}}仰付{{一}}候面々迄も過半絕{{レ}}家。寔以御手薄の儀、當節︀御自分事、
被{{レ}}致{{二}}隱居{{一}}候ては、御外聞にも相拘り候儀、甚だ以御大切の儀、病氣無{{二}}餘儀{{一}}事とは
乍{{レ}}申、此處吳々も御不快に被{{二}}思召{{一}}候。誠に年來誠忠被{{二}}相盡{{一}}候事故、氣樂に被{{レ}}致
保養候樣被{{レ}}遊度思召候得共、何分御入部迄の所、格別に御大切成御時節︀、此上は被
{{レ}}致{{二}}隱居{{一}}候心得にて、幾日出仕無{{レ}}之候うて引き込み等は不{{レ}}及{{二}}申達{{一}}、野合等も被{{二}}罷
出{{一}}、常々心の儘に被{{レ}}致{{二}}保養{{一}}、隱居同樣の心得にて、快和の節︀は、折々出仕萬端御政
事向厚申談被{{レ}}致候樣、御願に思召候。此上隱居の儀、幾度被{{二}}相願{{一}}候ても、御取上不
{{レ}}被{{レ}}遊候。且又御自分、未格別老年と申すにても無{{レ}}之、病氣間も無{{レ}}之儀旁〻以當御
時節︀の所、厚被{{二}}勘辨{{一}}被{{二}}押張{{一}}精︀忠無{{レ}}之候て者︀不{{二}}相叶{{一}}、常々保養專一の儀、被{{二}}思召{{一}}
候。依{{レ}}之願書御差し下げ被{{レ}}遊、此旨申達候樣從{{二}}江戶表{{一}}被{{二}}仰付越{{一}}候事。
{{仮題|細目=1}}
天保六癸未八月十日、{{仮題|投錨=寺社︀奉行の糺明|見出=傍|節=u-5a-4-e|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}寺社︀奉行脇坂中務大輔樣・井上河內守樣より、
御呼出の名前
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
仙石左京 荒木玄蕃 仙石主計 酒勾淸兵衞 岩田靜馬
大塚︀甚太夫 宇野甚助 久保吉九郞 麻見四郞兵衞 西村門平
鷹取已伯 渡邊淸助 西岡斧七
}}
右は飛脚東海︀道木曾路兩方に出、十七日著︀。
十九日發足の面々。
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
仙石左京 岩田靜馬 宇野甚助 麻見四郞兵衞 鷹取已伯
西岡斧七
}}
十九日夕發足の面々西丹波地
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
仙石主計 荒木玄蕃 酒勾淸兵衞
}}
廿七日御用向にて發足。 小林橫藏
廿九日發足。 岩田丹太夫
{{nop}}
{{仮題|頁=225}}
九月朔日、就{{二}}御用向{{一}}、急出府被{{二}}仰付{{一}}其夜發足。 井上鎌藏
{{left/e}}
五日御呼出面々
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
仙石左京 岩田靜馬 宇野甚助 大塚︀甚太夫 久保吉九郞
西村門平 鷹取已伯 麻見四郞兵衞 早川保助 生駒主計
荒木玄蕃 酒勾淸兵衞 西岡斧七
}}
{{left/s|1em}}
右の內、仙石左京・生駒主計・荒木立蕃・酒勾淸兵衞・西岡斧七其夜御役宅へ被{{レ}}留。
翌六日松平伊豫守樣へ御預け。
{{left/e}}{{left/e}}
六日御役宅へ罷出候面々
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
岩田靜馬 靑木彈右衞門 杉原官兵衞 宇野甚助 山本耕兵衞
久保吉九郞 鷹取已伯 早川保助 麻見四郞兵衞 西村門平
}}
{{left/s|1em}}
右の內、岩田靜馬・杉原官兵衞・山本耕兵衞三人、被{{二}}差留{{一}}、翌々八日、松平伊豫守
樣へ御預け。
{{left/e}}{{left/e}}
七日罷出候面々
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
靑木彈右衞門 大塚︀甚太夫 宇野甚助 久保吉九郞 西村門平
鷹取已伯 早川保助 麻見四郞兵衞
}}
{{left/s|1em}}
右の內、靑木彈右衞門・宇野甚助・兩人、松平伊豫守樣へ御預け。
{{left/e}}{{left/e}}
十二日御呼出面々
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
大塚︀甚太夫 久保吉九郞 西村門平 麻見四郞兵衞 早川保助
渡邊淸助 鷹取已伯
}}
{{left/s|1em}}
右の內、大塚︀・西村・鷹取・早川四人、卽日揚り屋入被{{二}}仰付{{一}}。
{{left/e}}{{left/e}}
十三日御呼出の面々
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
久保吉九郞 麻見四郞兵衞 渡邊淸助 2:右夜四つ時、過歸邸。 br
岩田靜馬 靑木彈右衞門 杉原官兵衞 山本耕兵衞
}}
{{left/s|1em}}
右四人、御預けの所、今日揚り屋入。
{{left/e}}{{left/e}}
十四日御呼出の面々
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
岩田丹太夫 久保吉九郞 麻見四郞兵衞 渡邊淸助
}}
{{left/e}}
{{仮題|頁=226}}
十九日御呼出の面々
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
仙石左兵衞 岩田丹太夫 久保吉九郞 靑木蕃太夫 岡部角太郞
麻見四郞兵衞 渡邊淸助
}}
{{left/s|1em}}
右の內、岩田丹太夫卽日揚り屋入被{{二}}仰付{{一}}。
{{left/e}}{{left/e}}
二十日御呼出の面々
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
仙石左兵衞 久保吉九郞 靑木蕃太夫 岡部角太郞 麻見四郞兵衞
渡邊淸助
}}
{{left/s|1em}}
今日宇野甚助揚り屋入被{{二}}仰付{{一}}。
{{left/e}}{{left/e}}
廿一日御呼出の面々
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
仙石左兵衞 久保吉九郞
}}
{{left/e}}
廿四日御呼出の面々
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
仙石左兵衞 久保吉九郞 靑木蕃太夫 岡部角太夫 麻見四郞兵衞
渡邊淸助
}}
{{left/e}}
廿六日御呼出の面々、
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
久保吉九郞 麻見四郞兵衞 渡邊淸助
}}
{{left/e}}
十月朔日御呼出
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
仙石小太郞 山田八右衞門 仙石左兵衞 惠崎又左衞門 德永半左衞門
久保吉九郞 大森登 渡邊淸助 麻見四郞兵衞
}}
{{left/s|1em}}
右の內、仙石小太郞・大森登兩人、松平伊豫守樣御預け、惠崎又左衞門・德永半左
衞門、兩人揚り屋入被{{二}}仰付{{一}}。
{{left/e}}{{left/e}}
四日御呼出の面々、
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
仙石左兵衞 山田八左衞門 久保吉九郞 麻見四郞兵衞 渡邊淸助
石原新吾 會田岡太郞 增田七郞
}}
{{left/s|1em}}
右の內山田八左衞門、翌五日、松平美濃守樣へ御預け。石原新吾・會田岡太郞・
增田七郞三人、當日附添の者︀へ御預け。
{{left/e}}{{left/e}}
十一日御呼出の面々{{nop}}
{{仮題|頁=227}}
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
仙石左兵衞 瀨戶鷗介 久保吉九郞 靑木蕃太夫 草川三右衞門
岡部角太郞 谷津生人 吾妻與兵衞 杉立以成 土岐雄之丞
渡邊淸助 酒勾薰 石原新吾 會田岡太郞 增田七郞
}}
{{left/e}}
十三日御呼出の面々
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
仙石左兵衞 久保吉九郞 麻見四郞兵衞 石原新吾 會田岡太郞
增田七郞
}}
{{left/e}}
十九日御呼出の面々
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|array=
仙石左兵衞 長岡右仲 久保吉九郞 石原新吾 會田岡太郞
增田七郞
}}
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
四家の面々上書{{仮題|投錨=四人上書して左京等の不法を訴ふ|見出=傍|節=u-5a-4-f|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}{{nop}}
{{left/s|4em}}
私共儀、當時身分奉{{二}}恐入{{一}}候得共、世祿の臣下の儀に候へば、上御爲筋より
奉{{レ}}存候に付、不{{レ}}得{{レ}}止事奉{{二}}言上{{一}}候
{{left/e}}
一、殿樣御幼年、追々御成長、御明君にも被{{レ}}爲{{レ}}成候樣、御人選にて、重き御役人出府、
御輔佐可{{レ}}被{{二}}仰付{{一}}候處、嚴しく御儉約の殿樣、上々樣方、被{{レ}}遊{{二}}御難︀澁{{一}}、旣に先年大殿
樣御幼年の砌は、御年寄二人詰めにて、萬事御手先の儀共申合、每夜御年寄御用人
打込み、一人づつ泊り等被{{二}}仰付{{一}}、御他行の節︀も、上御目障に不{{二}}相成{{一}}樣、御用心の爲、
出石ゟ詰候外樣三人宛、御出先々へ罷り越し、御歸宅の節︀も、御後ゟ不{{二}}相知{{一}}候樣罷
歸、御異變の節︀の御用心に御座候。然る處、當時甚だ御手薄にて、度々の御他出も
被{{レ}}遊、御幼年御他行の儀は、元來御陰氣不{{レ}}被{{レ}}爲{{レ}}成、且は世間の樣子にも、被{{レ}}遊{{二}}御
馴{{一}}、第一御養生の一筋にも被{{レ}}爲{{レ}}成候。然る處、當時は御近火の節︀、俄に御立退も御
座候事に御大切の御儀に奉{{レ}}察候。
一、仙石左京・岩田靜馬兩人、分限不相應、萬石以上同樣の奢り、世間一統眼前の儀に
御座候。右箇條數多の儀に付、文略仕候。
一、去戌年造酒淸兵衞・源太左衞門御役御免︀の一條、源太左衞門、弘道館︀御締役の砌
ゟ、櫻井良三と不和、竝源太左衞門短慮の性質、右兩樣を見込み、重役向ゟ、上下御
{{仮題|頁=228}}
役人・諸︀生等迄に手を廻し、尻押仕り、源太左衞門願書差出の上、悉く謀計を以、俄に
御役御免︀、一段入組候儀に付、文略仕候。
一、去亥年、御勝手方一統御免︀の一條、是又主計一人へ御任せ被{{レ}}置候意味合、謀計前
條同斷の事。
一、江戶詰の面々聊の不束を大層に取拵へ、是又前方より巧み置く謀計の事。
一、自分懇意隨身の者︀、勝手次第に昇進爲{{レ}}仕、賄賂專らにて、隨身の者︀多く取拵へ、
此所深き巧みも有之事か、依{{レ}}之當御時節︀、御家中九分通りは、甚困窮に候へ共、音
信贈︀答の儀、御觸出無{{二}}御座{{一}}候事。
一、去亥子年江戶詰の面々、聊の儀に付、嚴しく被{{二}}仰付{{一}}御座候得共、靜馬など其儘
に被{{二}}差置{{一}}候者︀に無{{二}}御座{{一}}候。江戶詰一人の節︀は、日々の樣、他行仕り、御用人にて
も、如何しく存、無{{レ}}據心添仕候處、一向取用無{{二}}御座{{一}}候由。元ゟ詰中身持等も不{{レ}}宜、併
御門外の儀は如何有{{レ}}之候共、御門限正く、他行少々候得ば、强て御構被{{レ}}遊候儀には
無{{二}}御座{{一}}候得共、御屋敷內にて、色々惡說專ら取沙汰御座候得共、穩便仕候事。
一、重役にて申述候は、當時昇進望候者︀、專ら賄賂致し候者︀、昇進相成候由申聞候樣。
尤證人も御座候。旣に古語にも、爲{{レ}}官擇{{レ}}人者︀治り、爲{{レ}}人擇{{レ}}官者︀亂るとも御座候。
御政務に關はる人、右樣の儀、御家中へ敎候て御政道相立ち、上御爲に相成候儀哉。
右等にて可{{レ}}被{{レ}}遊{{二}}御察{{一}}候事。
一、左京・靜馬・貢三人、格外懇に仕、萬事馴合ひ色々手を盡し、上を御欺き申上候段、
內存の所難︀{{レ}}計御大切奉{{レ}}存候事。
一、貢事大欲の者︀に付、左京方ゟ妻子共に至迄、賄賂音信仕候。右欲心に迷ひ、御側
以來格別の御懇意忘却仕、左京へ與し、上を欺申上候事。
一、舊年、甚助京都︀にて、角力勸進元竝富仕り損失。右故か京都︀にて、角力取七八人、
藝者︀等召連れ、度々往來仕候を、當所袴座村、上下共見懸候由、然る處彼是莫大の損
金にて難︀{{二}}罷歸{{一}}、病氣の樣、色々惡說等も御座候。依{{レ}}之鷹取夫婦、御用達江原村茂右
衞門上京、漸く罷歸候處、歸後、極月廿八九日頃迄、左京・靜馬度々罷り越し候處、年
頭出勤罷出候。元來甚助儀は、左京大望相談相手股肱の者︀に御座候故、京都︀・大坂竝
{{仮題|頁=229}}
病氣の樣、左京ゟ如何奉{{二}}申上{{一}}居候や、何れ追々上御難︀澁の基、推察仕候。右の樣御
疑も被{{レ}}遊候はゞ、御政事を始め、總ての模樣共、人物御選の上、御役人內へ御尋可
{{レ}}被{{レ}}遊候。尤も當時の權威に恐れ、容易には申上まじく、强て御尋被{{レ}}遊候はゞ、眞直
に可{{レ}}奉{{二}}申上{{一}}と奉{{レ}}存候。前條の樣、御取用被{{レ}}遊候はゞ、御道筋御取計ひ可{{レ}}奉{{二}}申上{{一}}
候。萬々一御用も被{{レ}}爲{{レ}}在候はゞ、御沙汰不{{レ}}被{{レ}}遊、直樣御下げ被{{二}}成下{{一}}候樣奉{{レ}}願候。
當時の御用部屋內へ、御內談被{{レ}}爲{{レ}}在候節︀は、白地には難︀{{二}}申上{{一}}候へども、御家御不
爲、御家中騒動にも相成り可{{レ}}申と深察仕候に付、吳々も、御用部屋へは決て爲{{二}}御見{{一}}
不{{レ}}被{{レ}}遊、直に御差下げ可{{レ}}被{{二}}成下{{一}}奉{{レ}}存候。誠に乍{{レ}}不{{レ}}及上御大切と奉{{レ}}存申上候儀、
聊私の儀には無{{二}}御座{{一}}候間、左樣被{{二}}思召{{一}}可{{レ}}被{{二}}成下{{一}}候。以上。
辰正月十六日 {{仮題|行内塊=1|size=100%|line-height=2em|仙石主計|荒木玄蕃|酒勾淸兵衞|原市郞右衞門}}
乙未正月廿六日、被{{二}}仰渡{{一}}書{{仮題|投錨=左京を讒せりとして四人を處分す|見出=傍|節=u-5a-4-g|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}{{nop}}
荒木玄蕃
其方儀、{{仮題|投錨=荒木玄蕃|見出=傍|節=u-5a-4-h|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}去辰正月十六日、大殿樣へ、重役竝役人共不正・不直の樣、仙石主計・酒勾淸兵
衞・原市郞右衞門等申合、徒黨連印にて、致{{二}}上書{{一}}候處、右は全く讒訴の段、御察覽被
{{レ}}成不屆至極被{{二}}思召{{一}}、早速御呼出御糺明も可{{レ}}有{{レ}}之處、さ候時御重科の沙汰にも相成、
舊家家柄の儀、不便に被{{二}}思召{{一}}、格別の厚御仁政にて、思召被{{レ}}爲{{レ}}在候を以、隱居・逼塞、
忰信太郞へ家督申付置候處、去る六月元家來、當時浪人河野瀨兵衞構場所をも不{{レ}}憚、
江戶表へ罷出、同姓共へ右上書同樣、其外自考、竝風說等取交、文意相巧及{{二}}讒害訴
訟{{一}}、猶又同人姉壻、生野地役人渡邊角太夫ゟ不{{二}}容易{{一}}向へ瀨兵衞同樣申立、無{{二}}餘儀{{一}}
公邊御沙汰に相成、右に付無{{二}}御據{{一}}、去午年正月十六日、西御殿へ御呼出、大殿樣於{{二}}
御前{{一}}先般上書の趣、一々及{{二}}尋問{{一}}候處、聊譯立候答無{{レ}}之、不束至極恐入候樣、或麁忽
の儀申上恐入候段、又は此上御慈悲筋相願候旨のみにて、一言の申譯無{{レ}}之、全上を欺
候大膽不敵・不忠不義の至、誠に重役竝役人共の內及{{二}}讒訴{{一}}候始末、武士道不似合の
{{仮題|頁=230}}
儀、重々不屆至極に付、切腹可{{二}}申付{{一}}處、先祖︀共、代々忠勤を存じ出し、旁〻此上廣大の
仁惠を以、死罪一等を下し、剃髮の上、圍場へ差遣候。急度相愼可{{二}}能在{{一}}者︀也。
未正月廿六日
{{仮題|細目=1}}
{{left/s|2em}}
八月九日、寺社︀御奉行所ゟ、御留守居御呼出、今般御吟味筋有{{レ}}之、人別書を以御
呼出被{{二}}仰付{{一}}候。其頃山本耕兵衞、江戶表罷在、則手續書相認、帳面數通拵立、請
向御役所へ配り候手續書之寫。
{{left/e}}
手續書
一、隱居播磨守在命中、居屋敷內へ、度々投書有{{レ}}之、其後去る天保三辰年、仙石主計・
荒木玄蕃・酒勾淸兵衞・原市郞右衞門連印にて、當時在勤重役の內、竝役人共之內、家
政不直の趣、書面を以申立、右主計始め、四人の者︀共播磨守へ不束の儀有{{レ}}之、無役
に罷在り候處、申合せ右の次第、誠に度々有{{レ}}之由投書し同事申立、元ゟ讒訴の始末
に付、播磨守不屆至極に存じ、急度糺明も可{{レ}}有{{レ}}之處、さ候時は、重科の沙汰にも相
成候に付、格別の慈悲を以て、隱居・逼寒等申付置候處、去る巳年六月、元家來當時浪
人河野瀨兵衞と申者︀、江戶表へ罷出、不屆有{{レ}}之候に付、去る午正月十六日、右主計始
め四人の者︀共、播磨守前に於て、年寄仙石小太郞・靑木彈右衞門・大森登・杉原官兵衞、
用人齋藤岩雄、右の面々ゟ、先達て差出し候書面を以て、一々及{{二}}尋問{{一}}候處、聊一言
の申譯も無{{レ}}之、絕{{二}}言語{{一}}候儀共にて御座候
{{left/s|3em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@{{仮題|添文=1| 仙石左京|家老}}@{{仮題|添文=1| 岩田靜馬|年寄}}@{{仮題|添文=1| 山村貢|同}}
}}
右之面々は主計等四人之者︀申立之名掛りに付、尋問に不{{レ}}携候。
一、主計・玄蕃・淸兵衞・市郞右衞門・轉其外共手續書左之通に御座候。
仙石主計{{仮題|投錨=仙石主計|見出=傍|節=u-5a-4-i|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}{{nop}}
{{left/e}}
右先年勝手方引受、相勤居候處、追々難︀澁相成、進退致方無{{レ}}之、家中扶助米不{{レ}}殘賣
拂、江戶差立金は勿論、渡米も無{{レ}}之次第、尙又收納米、靑田の內、人別に七步方相渡、
聊之融通も出來不{{レ}}申、思慮分別に不{{レ}}能、仕方無{{レ}}之に付、領分中用達、其外他領近在
の身元相應の者︀相賴み、收納米は勿論、萬事其者︀共へ相任せ置き、何事も勝手に取
{{仮題|頁=231}}
計候樣可{{レ}}爲{{レ}}致段、右の趣に無{{レ}}之候にては、勝手方一日の取續も難︀{{二}}相成{{一}}旨、强ひて
申立候に付、無{{二}}餘儀{{一}}任其意候處、間も無{{レ}}之、右の面々破談に相成、實にひしと手詰
の場合に押移り、片時も難︀{{二}}相勤{{一}}候段、頻︀に役儀赦免︀の儀願立、不束の始末に付、急度
申付方も有{{レ}}之候得共、家柄の者︀に付、格別の憐悲を以て、九箇年以前、願之通役儀赦
免︀申付け置候。去る天保三辰年、荒木玄蕃・酒勾淸兵衞・原市郞右衞門等申合、連印
書付を以て、當時勝手懸り重役を始め役人共の內、不正の趣種々讒言相拵、文意相巧
み、書付を以隱居播磨守へ害訴申立、其次第實に法外の儀、重々不屆に付、夫々急度
可{{レ}}懸{{二}}吟味{{一}}處、さ候時は、格別の嚴科にも不{{二}}申付{{一}}候ては不{{二}}相成{{一}}、不{{二}}容易{{一}}儀に付、尙
又格別の仁惠にて、存念有{{レ}}之旨を以、隱居・逼塞、忰へ家督申付置候處、不{{二}}一方{{一}}仁惠
をも不{{レ}}顧、次第に惡計を廻らし、不屆增長致候段、申合居候者︀の內、及{{二}}內達{{一}}候。其委
細は末に申上候。右根元と申す者︀、道之助家來、當時浪人河野瀨兵衞と申す者︀、發頭
にて、右の通申合せ相巧み、讒訴申立候處、存念不相立故、瀨兵衞江戶表へ罷出、
神︀谷轉と申合、道之助同姓の內へ種々取巧み、讒訴申立候。右の次第に付、難︀{{二}}捨置{{一}}、
先達て差出し候書面を以て、主計始め一々及{{二}}尋問{{一}}候處、全く取巧み跡形も無{{レ}}之儀、
先非を悔︀恐入、憐悲の程願出、武士道不似合の始末、不屆至極に付、仕置申付候。
荒木玄蕃{{仮題|投錨=荒木玄蕃|見出=傍|節=u-5a-4-j|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
右、先年江戶詰中、身持不行跡、多分の金子散財、定府內藩の者︀相賴、他借仕、自分名
前は不{{レ}}出、大勢之者︀借用主に致し、追々金高相成、返濟及{{二}}不埒{{一}}、出訴にも相成次第、
其外家格の法度を背き、夜中外出は勝手の儀第一、其砌上野御靈屋御普請御手傳蒙
{{レ}}仰、右上納金國方當時勝手掛り之者︀共ゟ、手詰難︀澁の中、色々才覺を以、差立候處、
右を取込自分遊興に遣捨て、今に其儘打過候次第、言語道斷之條、重役不似合不束
に付、急度申付方も有{{レ}}之候得共、家柄の者︀に付、格別之御憐愍を以、役儀赦免︀申付置
候處、前書の通、主計・淸兵衞・市郞右衞門等申合、同樣の始末、武士道不似合不屆至極
に付、仕置申付候。
酒勾淸兵衞{{仮題|投錨=酒匂淸兵衞|見出=傍|節=u-5a-4-k|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
右、先年同役の內へ、不和之儀有{{レ}}之、勤柄不似合不束の儀共に付、役儀赦免︀申付、置
{{仮題|頁=232}}
候處、前條の通、主計・玄蕃・市郞右衞門等申合、同樣之次第、武士道不似合不屆至極
に付、仕置申付候。
原市郞右衞門{{仮題|投錨=原市郞右衞門|見出=傍|節=u-5a-4-l|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
右、先年江戶詰の節︀、玄蕃同樣不屆の儀有之に付、役儀赦免︀申付置候處、前書之通、
主計・玄蕃・淸兵衞等申合同樣の始末、武士道不似合不屆至極に付、仕置申付候。
河野瀨兵衞{{仮題|投錨=河野瀨兵衞|見出=傍|節=u-5a-4-m|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
右元來姦佞の性質にて、常に人氣を騷立候儀相好候者︀に御座候處、先年勝手方融通
筋借用之儀申立、前書之通主計引受之砌、勝手向取亂能在候儀に付、借財方爲{{二}}取計{{一}}、
京・大坂等へも差出候處、聊之儀も出來不{{レ}}申候上、不屆之儀共多分有{{レ}}之候に付、九ケ
年以前、隱居・蟄居等申付置候處、其後重々惡計を巧み、蟄居中、不屆增長致し候に付、
急度申付方も有{{レ}}之候得共、憐愍を以、離散申付、尤無分別者︀に付、不屆之儀仕出し、
恐入候儀も可{{レ}}有{{レ}}之哉と存候に付、江戶・京都︀・但馬・丹後美作徘徊差留申付置候處、去
去巳之六月御府內へ罷出、神︀谷轉と申合、道之助同姓へ書付を以て致{{二}}讒訴{{一}}、勝手掛
り重役の面々、其餘役人共之讒訴を種々取拵へ、色々相巧み申立候次第、不屆至極
之始末、依而住居相尋候得共、其內江戶表へも不{{二}}罷出{{一}}、但馬國徘徊致候趣、相聞候に
付、及{{二}}吟味{{一}}候處、生野銀山地役人渡邊角太夫、別住居へ差置候旨、右は構場所の儀、
重々不屆之至、不輕吟味有之者︀に付、生野御代官西村貞太郞樣へ懸合候處、御召捕
之上、御下知を以、去る午四月十五日、道之助へ御引渡に相成候に付、一々及{{二}}吟味詰{{一}}
候處、申答候は、道之助同姓へ差出候願書共、何も證跡は無{{レ}}之、唯々推察・風說・自分
考等を以書出候段、一箇條も申譯不{{二}}相立{{一}}、深く取巧及{{二}}讒訴{{一}}候段相顯、不義不道・大
惡之次第、絕{{二}}言詞{{一}}候御儀に御座候。則吟味詰の上、御屆申上仕置申付候。
神︀谷轉{{仮題|投錨=神︀谷轉|見出=傍|節=u-5a-4-n|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
右兄は、神︀谷七五三と申候。同藩中淸水孫太夫と申候に養子に罷越し、故美濃守側
勤罷在候處、不束の儀有{{レ}}之、外樣勤に相成候處、自分の非は不{{レ}}顧、時々重役共、不
正の申付と遺恨に申成居候。第一養父母へ事方不{{レ}}宜。右故孫太夫よりも及{{二}}離綠{{一}}、
兄七五三方へ同居罷在り候。且又道之助同姓仙石彌三郞方へ、櫻井一太郞と申者︀
{{仮題|頁=233}}
用立居候處、此者︀前々ゟ轉と入魂にて、同人吹擧を以右轉、彌三郞方へ相勤罷在候
處、前顯の通り去々巳年、瀨兵衞と申合、轉重立て引受、同姓共へ及{{二}}讒訴{{一}}、兄七五三
をも勸込內意爲{{レ}}致、不屆至極の儀共に付、轉竝に兄七五三共糺明仕度、轉も彌三郞
方へ引戾し申遣候處、其儘出奔行衞相知不{{レ}}申候に付、全く法外の讒訴申立候故、吟
味に相成候ては、申譯無{{レ}}之故、武士道不似合未練︀の始末、不義大罪者︀右にても相分
り候儀に御座候。右の通不{{レ}}容{{二}}吟味{{一}}の者︀に御座候。
{{left/s|3em}}
{{Interval|width=8em|margin-right=1em|sep-char=@|array=
@{{仮題|添文=1| 磯野六郞次|主計弟}}@{{仮題|添文=1| 土岐午之助|同斷}}@{{仮題|添文=1| 酒勾薰 |淸兵衞忰}}@{{仮題|添文=1| 原敏︀郞 |市郞右衞門忰}}
@{{仮題|添文=1| 土岐雄之進 |伯父甥從弟續}}@{{仮題|添文=1| 斧七 |小頭}}
}}
{{left/e}}
右の面々、主計始め惡黨の者︀共へ同意罷成、尤雄之進儀は、不忠・不義の至と奉{{レ}}存候
得共、主計等ゟ始めて申聞候砌、同意不{{二}}相成{{一}}、及{{二}}異議{{一}}候はゞ差違候段、嚴しく誓言
仕り候に付、無{{二}}餘儀{{一}}同意の體に罷在候得共、次第に惡意增長候に付、難︀{{二}}捨置{{一}}旨に
て及{{二}}內達{{一}}、猶同人申達候は、主計始め同意の者︀、時を得候へば、早速當時重役の內、
竝役人共の內、切腹可{{レ}}爲{{レ}}致と相巧罷在候由、斧七是又改心仕り、及{{二}}內逹{{一}}、此者︀輕き
身分に御座候處、瀨兵衞方へ數年立入、主計・玄蕃等へも出入り候者︀に御座候。主計
始め蟄居、或は逼塞等にて、門外不{{二}}相成{{一}}儀故、書通往返、竝瀨兵衞、生野渡邊角太夫
方に罷在り候節︀も、何角申合之使、斧七仕候て、惡計取巧み、不屆の次第、右二人ゟ
も委細に申達仕候。但し市郞右衞門儀は、去る午二月病死仕候に付、忰敏︀郞へ申渡
仕候。
仙石主計
其方儀、去る辰正月十六日、大殿樣へ重役竝御役人共の內、不正不屆の趣、荒木玄蕃・
酒勾淸兵衞・原市郞右衞門等申合、徒黨連印にて上書致し候處、御察覽被{{レ}}遊、不屆至
極に被{{二}}思召{{一}}、早速御呼出し御糺明も可{{レ}}有{{レ}}之處、さ候時は、重科の御沙汰にも相成、
舊家家柄の儀、不便被{{二}}思召{{一}}、格別厚御仁惠にて、思召被{{レ}}爲{{レ}}在候趣を以、隱居逼塞、忰
富太郞へ家督被{{二}}仰付置{{一}}候處、去る巳六月、元家來、當時浪人河野瀨兵衞、御構場所
をも不{{レ}}憚、江戶表へ罷出御同姓樣方へ、右上書同樣、其外自考・風說等取交、文意相
巧及{{二}}讒訴害訟{{一}}、尙又同人姉增生野地役人渡邊角太夫ゟ、不{{二}}容易{{一}}御向きへ瀨兵衞同
{{仮題|頁=234}}
樣申立。無{{二}}餘儀{{一}}公邊御沙汰に相成、右に付無{{レ}}據去る午年正月十六日、大殿樣於{{二}}御
前{{一}}、上書の趣、一々及尋問候處、聊譯立候答無之、不束至極恐入候趣、或麁忽之儀申
上、恐入候段、又は此上御慈悲筋奉{{レ}}願候のみにて、一言の申譯無{{レ}}之、全く上を欺く大
膽、不忠・不義の至、殊に重役竝御役人共の內、及{{二}}讒訴{{一}}候始末、武士道不似合の儀、重
重不屆至極に付切腹可{{レ}}被{{レ}}爲{{二}}仰付{{一}}處、先祖︀共代々忠勤を思召被{{レ}}出、此上廣大の御仁
惠を以、死罪一等を下し、剃髮の上、圍場へ差遣候。急度相愼可{{二}}罷在{{一}}候事。
未三月
一、荒木玄蕃・酒勾淸兵衞申渡、同樣文略仕候。
一、瀨兵衞、當未六月七日仕置申渡、左之通に御座候。
河野瀨兵衞
其方儀、不屆の儀有{{レ}}之、去る辰六月十一日、離散申付置候處、其後御構場をも不{{レ}}憚、勝
手に徘徊致し、剩へ江戶表へ罷出、重御方々樣へ巧を以種々書出し候に付、及{{二}}吟味{{一}}
候處、一々證據筋無{{レ}}之、詰る所自分一己の考へ、推察或は風說等取交書出し、奉{{二}}恐
入{{一}}候旨及{{二}}白狀{{一}}、畢竟上を欺く巧みを以、在役の面々を仕落し、己致{{二}}歸參{{一}}、諸︀諸︀取行
可{{レ}}申との企、旣主計・玄蕃・淸兵衞・市郞右衞門へ、去る文政四巳年ゟ申合候段、及{{二}}白
狀{{一}}、全徒黨の張本、大膽の始末、不義の大罪、重々不屆の至に付、於{{二}}成敗場{{一}}打首申付
者︀なり。
未六月
右之通に御座候。
右の通、帳面に仕立、御役人向へ配り候由。
{{仮題|細目=1}}
{{left/s|2em}}
天保四癸巳年、河野瀨兵衞、江戶表へ罷出で常信院樣、竝御同姓樣方へ差出候
書面、左之通。
{{left/e}}
箇條書
{{left/s|1em}}
{{仮題|箇条=一}}、從{{二}}御先祖︀樣{{一}}御家傳之箱と申、前以御城有{{レ}}之候。御大老職之者︀、內見仕廻置可{{レ}}申
古格之處、不在其職其向御役人ゟ出させ、自分宅に取寄暫留置、其後御朱印御土
{{仮題|頁=235}}
藏へ入置、內々御品は如何成行候哉の事。
{{仮題|箇条=一}}、御城內、自分居屋敷ぶ、御堀へ板を渡し、町方醫師宅へ、子供・下女遊行爲{{レ}}仕、三
つ門御〆り相立不{{レ}}申、第一公邊憚り御座候哉之事。
{{仮題|箇条=一}}、先年御勝手方相勤候砌、御家中町在へ五萬兩の御用金申付、大坂ゟ三萬兩計御借
財仕、其後自他共御返金御斷切に仕上、御勝手向一と方も御筋立相見え不{{レ}}申、自
分萬石以上の暮仕、岩田靜馬・山村貢始め、其向御役人、格別之奢仕候事。
{{仮題|箇条=一}}、御家中面々扶持申付、小役人・御徒士以下之向にては、三度の食事も仕兼、在町へ
不時之御用金申付、御用金之儀は御公務・御家督・御火災等、譯立候節︀被{{二}}仰付{{一}}候儀
に御座候。然る處、左京・靜馬、馬・鷹其上京都︀ゟ妾を取寄せ、度々入替の上、困窮之
時節︀、不似合に御座候事。
{{仮題|箇条=一}}、堺ゟ十匁筒鐵炮十挺、都︀て兵具類︀・{{仮題|編注=2|前|手カ}}新規に申付、具足等申付、自分差料大小、百
兩・百五十兩以上之品三四通申付、家器︀儀、都︀て右に准じ候事。
{{仮題|箇条=一}}、美濃守樣御在國之砌、御招請仕、自分妾抔差出、三味線等にて御遊興申上、都︀て
茶屋同樣の取計、君臣之失禮、上を蔑に仕候事。
{{仮題|箇条=一}}、江戶表之儀は、上御勤先至て御大切之御場所柄、御屋敷抔大破、奉{{レ}}始{{二}}御幼君樣{{一}}、
上々樣方御手許之儀、其外御飮食・御衣服等、格別之儀仕、御幼君樣日々御手習御
淸書さへ難︀{{レ}}被{{レ}}遊位之儀仕、御側內ゟ內々紙差上候と申程之由、自分宅綺羅を盡
し、萬石以上之暮仕候事。
{{仮題|箇条=一}}、江戶表御奧樣ゟ、格別之御難︀澁にて、御立行難︀、被{{レ}}遊{{二}}御迷惑{{一}}之趣、御隱居樣へ被{{二}}
仰進{{一}}候處、左京御呼出逸︀々御尋之處、江戶御暮御勘定奉行共、心得違之趣に御受
仕、夫ゟ御勘定奉行呼下げ著︀の砌、兼々途中迄人出置候て、無{{二}}餘儀{{一}}其者︀へ罪を爲
{{レ}}負候趣、立腹不{{レ}}仕樣取計置、著︀之上、役所にて、御役人共夫れ{{ぐ}}立會吟味仕、御
勘定奉行へ不念に仕、四五日愼被{{二}}仰付{{一}}、然る處愼中、內々左京・靜馬ゟ、日々酒肴を
贈︀り、實に不屆筋有{{レ}}之者︀へ、重役之者︀ゟ送り物仕間敷、只自分身逃れ相賴、上を欺
き候御儀之事。
{{仮題|箇条=一}}、江戶表交代之御侍、於{{二}}途中{{一}}御傳言申含直し、故障仕候事。{{nop}}
{{仮題|頁=236}}
{{仮題|箇条=一}}、御城に有{{レ}}之御刀、其向御役人ゟ取出、町方へ拵付候處、露顯仕候に付、御側頭取へ
相願、美濃守樣御成之節︀、御土產に取計、不屆至極の事。
{{仮題|箇条=一}}、御城に有{{レ}}之候槍の穗其向御役人へ取出し、自分打限に申付候事。
{{仮題|箇条=一}}、御勝手方內借金引當として、御家中內ゟ差出置候井上眞改之脇差、自分差料に
仕候事。
{{仮題|箇条=一}}、御勝手方內借金引當として、御家中內より差出候具足二領紛失之事。
{{仮題|箇条=一}}、自分的場にて、御物頭初、御家中射術見分申付、家內下女等迄、內々見物爲{{レ}}仕、諸︀
藝檢分の儀は、上御名代として、年々於{{二}}御殿{{一}}仕候儀、自分威光を振ひ、不屆至極
之事。
{{仮題|箇条=一}}、忰前髮祝︀ひ、禮家師範相招、烏帽子大紋にて、大禮を行候事。
{{仮題|箇条=一}}、忰具足著︀用初、禮家師範・軍師範相招、烏帽子大紋にて、大禮を行ひ、親類︀中相招、
時節︀柄不相當、其上にても、是迄不{{レ}}被{{レ}}遊大禮奢增長の事。
{{仮題|箇条=一}}、忰婚姻の筋、途中出迎、下女駕籠六挺、長持等に福︀面を飾り、傘鉾を付、大手御門
ゟ謠込せ、先年兩御姬樣、京都︀へ御入輿之節︀之五層倍の儀仕、奢之最上、御郡中目
前に御座候事。
{{仮題|箇条=一}}、美濃守樣御忌日、左京・靜馬在方に罷出、御用達振舞、魚・鳥取揃仕、重職にて猶更
不屆至極之事。
{{仮題|箇条=一}}、他所浪人之鷹匠、暫留置、野合に召連、御城內も勝手仕候由、陪臣之野合に、鷹合
不{{二}}容易{{一}}之事。
{{仮題|箇条=一}}、大坂ゟ吟味之上、功者︀の馬之に取召抱候。時節︀柄不{{レ}}憚事。
{{仮題|箇条=一}}、御勝手方次第に御逼迫之處、先年造酒在勤中、銀札出高多に付、工夫仕、取〆燒
捨被{{二}}仰付{{一}}候處、當時新銀札莫大に差出、當座凌に仕、御隱居樣へは、追々御取直
にも至り候哉に御欺き申、銀札の儀者︀、行年御大切に及候儀に御座候事。
{{仮題|箇条=一}}、忰緣談之儀、江戶表懇意之向へ賴遣、當時御老中樣方之內承合、相應之儀無{{レ}}之時
は、御老中樣御同姓御末家內ゟ承り出候樣申遣し、松平周防守樣御同姓松平主稅
樣ゟ緣談仕、左京方ゟ前後入用差出候由、右位迄仕、是非御老中樣方親類︀に仕度
{{仮題|頁=237}}
と存立候處、意味合有{{レ}}之候儀、先づ美濃守樣御逝去之砌、內存間違候處、追々乍{{レ}}恐
御隱居樣御逝去と申時分、何ぞ大金御座候哉、江戶・出石共御家中御役人・小役之
者︀迄、皆々左京へ隨順罷在候得共、御先手・御物頭・御馬廻りの面々、外樣の者︀、誰
も歸服不{{レ}}仕候に付、萬一之儀御座候得ば、總家中二つ三つにも相分れ、御親類︀樣
方か、又は公儀へ願差出候樣罷成り可{{レ}}申、何か內外篤と下墨︀候得ば、甚以不{{二}}安慮{{一}}、
奉{{二}}恐入{{一}}候に付、此段相認候事。
{{仮題|箇条=一}}、先年美濃守樣御大病急使參り候節︀、七八歲之忰召連罷出、一向合點行不{{レ}}申に付、
年寄酒勾淸兵衞、明る日出立にて、左京を乘越罷出、御同姓樣方へ左京內存念分
り不{{レ}}申、都︀て御心得可{{レ}}被{{レ}}下旨御願申、其內出石御妾腹之道之助樣、御參府、御願
濟に候得共、其砌よりの大望、今以胸中難︀去候哉に內察仕候。當節︀御大切に奉{{レ}}存
候事、右箇條の趣、荒木玄蕃・仙石主計・酒勾淸兵衞御呼び出し、其席へ私儀御召戾
にて罷出、{{仮題|投錨=逸︀々ハ一々ノ意|見出=傍|節=u-5a-4-o|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}御隱居樣御陰聞被{{レ}}遊候はゞ、逸︀々明白仕、其上左京始め不屆筋證據に罷
成候品差出可{{レ}}奉{{レ}}入{{二}}御覽{{一}}候。私共不{{二}}能出{{一}}候ては、印の品相知れ不{{レ}}申、何分玄蕃
始め御隱居樣御目通へ被{{レ}}爲{{二}}召出{{一}}、御尋問被{{レ}}爲{{レ}}在候はゞ、明白仕候得共、當時の年
寄・御用人中にては、左京內意に付、決て相分り不{{レ}}申候。且又玄蕃始め私共迄、蟄居・
隱居・御追放被{{二}}仰付{{一}}候へ共、何之御咎と申箇條無{{二}}御座{{一}}、唯思召有{{レ}}之と申儀にて、
不忠不義之儀、毛頭無{{二}}御座{{一}}候。不法に思召と計之儀、此上糺明さへ被{{二}}仰付{{一}}候得
ば、雙方善惡明白仕候儀に御座候。以上。
{{仮題|箇条=一}}、河野瀨兵衞、生野銀山渡邊角太夫別宅に罷在候處、巳十月十六日、横目附良八、生
野表へ參り間合せ、慥の儀承り、御郡組準太夫・忠治・伊作・喜作・門兵衞右五人にて、
森垣・山口邊に手分、隱居良八ゟ廿五日通達し、駕籠用意、御門は御出入井筒屋勘
助方にて、飛脚之者︀病氣罷在候に付、爲{{レ}}迎罷越候趣、相斷候事。
申三月十六日、御用召にて將軍樣御直に被{{二}}仰付{{一}}候。
脇坂中務大輔{{仮題|投錨=脇坂中務大夫の昇任|見出=傍|節=u-5a-4-p|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
{{left/e}}
仙石道之助家政向取捌正道に取計尤に候。依{{レ}}之被{{レ}}任{{二}}待從{{一}}西御丸御老中樣・大納言
樣御用掛、御本丸御老中勤被{{二}}仰付{{一}}候。{{nop}}
{{仮題|頁=238}}
{{仮題|細目=1}}
○慶長年中、虛無僧︀本寺へ被{{二}}仰渡{{一}}候御控書之寫{{仮題|投錨=虛無僧︀の掟|見出=傍|節=u-5a-4-q|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
日本國の虛無僧︀の儀は、勇士浪人一時の隱家に爲、守護不入の宗門なり。依て天下
の家臣、諸︀士の席上に可{{二}}定置{{一}}條、可{{レ}}得{{二}}其意{{一}}事。
{{left/s|1em}}
{{仮題|箇条=一}}、本寺より宗法出{{レ}}之置、其段無{{二}}油斷{{一}}相守可{{レ}}申候。若相背者︀於{{レ}}有{{レ}}之は、末寺ゟ相
改、虛無僧︀は寺ゟ急度以{{二}}宗法{{一}}可{{レ}}行事。
{{仮題|箇条=一}}、虛無僧︀渡世の儀は、諸︀國所々巡行專とする由、其段差免︀可{{レ}}申事。
{{仮題|箇条=一}}、虛無僧︀一圓修行の由に、諸︀國に國法を申立て、虛無僧︀へ麁末・慮外等、又は托鉢に
障りむづかしき儀、出來候はゞ、仔細相改、寺へ可{{二}}申達{{一}}候。於{{二}}本寺{{一}}不{{二}}相濟{{一}}候儀
は、早速江戶奉行所へ可{{二}}吿來{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}、虛無僧︀托鉢に罷出で或は道中往來之節︀、又は於{{二}}何方{{一}}も、天蓋を取、諸︀人に面體を
合せ申間敷事。
{{仮題|箇条=一}}、虛無僧︀托鉢之砌、脇差竝武具類︀一切爲{{レ}}持間敷候。總ていかつ箇間敷形を致申間
敷候。尤九寸五分以下之刃物、懷劒にして差免︀可{{レ}}申事。
{{仮題|箇条=一}}、虛無僧︀は兼て武士の道、敵持尋{{二}}込國々{{一}}儀も依{{レ}}有{{レ}}之、所々芝居或は渡船等迄往
來自由差免︀可{{レ}}申事。
{{仮題|箇条=一}}、虛無僧︀改として、諸︀國へ番僧︀を廻し、宗法行跡を改可{{レ}}申、若{{r|似僞|にせ}}虛無僧︀於{{レ}}有{{レ}}之
者︀、急度相改め宗法可{{レ}}行、若賄賂を受於{{二}}見逃{{一}}は、番僧︀取上可{{レ}}爲{{二}}重罪{{一}}、總而猥に無
{{レ}}之樣可{{レ}}仕事。
{{仮題|箇条=一}}、虛無僧︀之外尺八吹申間敷、若有{{レ}}之於は、急度差咎可{{レ}}申。尤樂に吹申度望者︀は、本
寺ゟ尺八之免︀し出可{{レ}}申。勿論武士之外、下賤之者︀、尺八吹申間敷候。尤虛無僧︀爲
{{レ}}致間敷事。
{{仮題|箇条=一}}、虛無僧︀罷出敵討致度者︀於{{レ}}有{{レ}}之は、其段委細相改差免︀可{{レ}}申勿論、大勢集り討間敷
候。尤同行二人差免︀可{{レ}}申。倂諸︀士之外一切不{{二}}差免︀{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}、虛無僧︀之儀者︀、一方之御手當に候人にて、諸︀國往來操三尺づつ檢地離れ、虛無僧︀
知行米として相渡、依{{レ}}之何國にても托鉢に障り、六ケ敷儀出來候はゞ、早速江戶
{{仮題|頁=239}}
奉行所へ可{{二}}吿來{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}、法眷の輩士官之{{r|著︀合|つきあひ}}大名は格別、旗本以下平生熟議可{{レ}}爲{{二}}同輩{{一}}事。
{{仮題|箇条=一}}、住所を放、他國諸︀城下托鉢修行之刻、鳴物停止に候はゞ、宗門傳授も旁〻海︀治の外
吹申間敷事。
{{仮題|箇条=一}}、虛無僧︀托鉢の刻定寸紛位が尺八には手寄、笹の竹物吹申間數事。
{{仮題|箇条=一}}、虛無僧︀之儀に下之家臣、諸︀士の席に定置上は、常々宗門之正道を不{{レ}}決事。
{{仮題|箇条=一}}、何時にても還俗可{{レ}}申候間、面々僧︀形を學、內心武士之志を學、兼て武者︀修行之宗
門と可{{二}}相心得{{一}}者︀也。倂國々往來自由皆免︀し巡行可{{レ}}爲{{二}}肝要{{一}}之條、可{{レ}}得{{二}}其意{{一}}事、
依而定如{{レ}}件。
右十七箇條。{{仮題|投錨=〔原註〕十七ケ條トアレドモ本書本文ノ如クニシテ二ケ條不足|見出=傍|節=|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
上意の趣相渡之間、奉{{二}}拜見{{一}}、虛無僧︀會合之節︀、能々爲{{レ}}聞可{{レ}}被{{二}}相守{{一}}者︀也。
本多上野介
慶長十九年甲寅正月 板倉伊賀守
本田佐渡守
虛無僧︀本寺へ
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
○乙未十二奇{{仮題|投錨=乙未十二奇|見出=傍|節=u-5a-4-s|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
{{Interval|width=10em|margin-right=1em|array=
音羽︀屋猫天下一。 出石騷動轉千辛。 孝女手柄討{{二}}親敵{{一}}。 <sup>奧方</sup> br
橫死尋{{二}}家臣{{一}}。 辱{{レ}}士被{{レ}}殺︀{{二}}茶漬店{{一}}。 救{{レ}}娘逢{{レ}}害武士仁。 <sup>水道</sup> br
大鱸變{{二}}金子{{一}}。 猩々小僧︀亂{{二}}人倫{{一}}。 大工手練︀害{{二}}勇士{{一}}。 <sup>吉原</sup> br
假宅多{{二}}浪人{{一}}。 地震風邪賑{{二}}藥店{{一}}。 百文流行如{{二}}鬼神︀{{一}}。
}}
{{仮題|細目=1}}
十月廿九日御役御免︀の節︀
{{left/s|3em}}
今日の日の夢ばかりなる退役に甲斐なく立たん名こそ惜しけれ
川柳句{{仮題|投錨=時評|見出=傍|節=u-5a-4-t|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
五右衞門は草葉の影で舌を出し{{仮題|投錨=川柳|見出=傍|節=u-5a-4-u|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
{{nop}}
{{仮題|頁=240}}
池田には米の高いにおほ伊丹仙石つぶす左京をこしらへ
仙石を取つて捨んと主稅めが周防旨くもさてはいくまい
隣から覗いて見ては思ひ出し
永樂をつぶして百文錢が出來
周防糟こぼれた後をはく伯耆
周防著︀て仙石脊負ふ主稅持ち道輪違ひに出石行くらん
權兵衞が種を蒔いたを甚內がほじくり見れば芋の種
{{left/e}}
{{left/s|1em}}
此度百文錢・鐵錢新規吹立被{{二}}仰付{{一}}候に付ては、角錢に紛しく、永樂騷動新錢座に
て吹直し被{{二}}仰出{{一}}、家中之者︀共追々御呼出わちがひなく可{{二}}指出{{一}}、永樂錢は利發に
付、可{{レ}}然取捌被{{二}}仰付{{一}}候事。
{{left/e}}
{{仮題|投錨=川柳|見出=傍|節=u-5a-4-v|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
{{Interval|width=16em|margin-right=4em|sep-char=@|array=
@伯耆 本庄の大根今年は當り年@伊豆 顏見せに出てこよかしや三つ扇子
@土井 氷るとも無理にも廻せ水車@周防 落葉して淋しくなりぬ蔦のもん
@筒井 室咲の梅︀も寒さに沈むやら@脇坂 しほ留めて洗ひ上げたる周防染
@同 輪違が出來て再び名が高し@水越 澤瀉の露におもたし秋の末
@大久保 藤蔓は肌あらはして冬木立@田中 土龍奧から黏に追出され
@ 苗字程殘れば{{r|能|いゝ}}が丸になし@ 永樂は天保錢でかげも無し
}}
{{仮題|細目=1}}
○天保七申年大小 小の分
十・十二不敵な八つの六ぬす三この左京めをなんとしま正
○仙石といふ人あり。{{仮題|投錨=大黑舞の換歌|見出=傍|節=u-5a-4-w|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
{{left/s|1em}}
{{Interval|width=12em|margin-right=2em|array=
一に主稅を抱き込んで、 二に女房の緣引いて、 三に左京に繕はれ、
四つ養子の周防だん、 五つ一月寺{{resize|75%|から}}事が知れ、 六つ謀叛が顯はれて、
七つ中務に責められて、 八つ屋敷へ預けられ、 九つ虛無僧︀一人もの、
十でとう{{く}}御國受け、 仙石ないを{{r|見|みな}}さいなあ。
}}
おまへは濱田の城主さん、汐留にもまれてお色が眞靑な、こちやかまやせんかま
やせん。
{{left/e}}
{{仮題|頁=241}}
大惡 趣意證據。
{{left/s|1em}}
普化宗曰、{{仮題|投錨=大學作り換へ|見出=傍|節=u-5a-4-x|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}大惡者︀徒黨之醫者︀、而諸︀藥人{{レ}}毒之物也。於{{レ}}今可{{レ}}知{{二}}主人喰{{レ}}毒之仔細{{一}}。
獨賴{{二}}斧七之存{{一}}、而本望遂{{レ}}之。役所必因{{レ}}是而收焉。庶{{二}}于其不{{一レ}}騷矣。大惡之道、在
{{レ}}改{{二}}麵毒{{一}}、在{{レ}}蔑{{レ}}上、在{{レ}}止{{二}}死罪{{一}}。
弟に力のあるはいらぬもの兄を投げたり家をなげたり。{{仮題|投錨=狂歌|見出=傍|節=u-5a-4-y|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
○番組{{仮題|投錨=能の番組に擬す|見出=傍|節=u-5a-4-z|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}
{{Interval|width=14em|margin-right=4em|sep-char=@|array=
@高下 {{仮題|行内塊=1|玄蕃・淸兵衞・四郞兵衞・|主計・市郞右衞門・左仲・}}@遠島 {{仮題|行内塊=1|甚太夫・暴助・門平・|丹太夫、彈石衞門・}}@磔 {{仮題|行内塊=1|左京・靜馬・已白・官|兵衞・甚助・耕兵衞・}}高慢天狗
@<sup>鹽留。</sup> 小田原 {{仮題|行内塊=1|主計・大隅・|隼人・飛驒・}}@騷動 {{仮題|行内塊=1|主稅・豐後・伊豆・亂美|濃・肥後・伊豆豐前、}}@祝︀言 {{仮題|行内塊=1|老中|耄野}}@狂言 {{仮題|行内塊=1|笑つぼ友鵞、|周防落し鹽留、}}
}}
以上。
{{left/e}}
{{仮題|細目=1}}
公儀御腰物方西山織部{{仮題|分注=1|二十|四}}と申す人、{{仮題|投錨=官物を私す|見出=傍|節=u-5a-4-A|副題=|パス名=浮世の有様/2/分冊9|錨}}御道具を賣り拂ひ、質物に入れなど致しゝ事露
顯致し、十月廿四日、俄評定にて、西山は揚り屋入り、其外二人、同道、人へ御預け、西
山事其外の罪惡も御座候由、質入は僅か廿五兩なり。外二人と云へるは、御腰物方
御指懸り、長谷川鍬次{{仮題|分注=1|三十|四}}吉田虎治郞{{仮題|分注=1|三|十}}右於{{二}}評定所{{一}}、村上大和守・筒井伊賀守・大澤主
馬立ち合ひ、大和守申し渡す。
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{{resize|200%|浮世の有樣}}{{resize|150%|卷之五 前<sup>終</sup>}}{{nop}}
{{仮題|ここまで=浮世の有様/2/分冊9}}
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テキサス州プロスパー市の人口統計データ
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2024-04-26T00:12:47Z
111.237.86.83
ページの作成:「以下は、2024年の国勢調査による、テキサス州プロスパー市の人口統計データである。 * 総人口: 31,507人 ;人種別人口構成 * 白人: 23,055人(73.2%) * アフリカ系: 2,418人(7.7%) * ネイティブ・アメリカン<ref>アラスカ原住民系を含む。</ref>: 69人(0.2%) * アジア系: 3,087人(9.8%) * 南洋系<ref>ハワイ原住民系を含む。</ref>: 27人(0.1%) * その他の人種: 478人…」
wikitext
text/x-wiki
以下は、2024年の国勢調査による、テキサス州プロスパー市の人口統計データである。
* 総人口: 31,507人
;人種別人口構成
* 白人: 23,055人(73.2%)
* アフリカ系: 2,418人(7.7%)
* ネイティブ・アメリカン<ref>アラスカ原住民系を含む。</ref>: 69人(0.2%)
* アジア系: 3,087人(9.8%)
* 南洋系<ref>ハワイ原住民系を含む。</ref>: 27人(0.1%)
* その他の人種: 478人(1.5%)
* 混血: 2,373人(7.5%)
* ヒスパニック・ラテン系: 3,164人(10.0%)
== 註 ==
<references />
== 出典 ==
* [https://data.census.gov/ Census Data]. U.S. Census Bureau. 2024年.
[[Category:テキサス州の都市の人口統計データ|ふろすはあ]]
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